母成峠後、米沢以降の大鳥と伝習隊。続きです。
大鳥ルートは、米沢→綱木→檜原→大塩→塩川→慶徳→木曾→陣ケ峰・泥浮峠→長窪→小田村・塩川→大塩→檜原→秋元原→土湯村→鳥渡村→福島→桑折→白石→仙台。
米沢を抜けた重傷者と浅田君ルートは下の肌色ルートです。
8月25日 大鳥は負傷者以外の兵を連れ、檜原に戻る。米沢からの道は、通行できないよう大樹を切り倒し道が塞がれていた。檜原で会津藩神戸の周旋で兵糧を整え、若松の動静を聞く。とにかく若松城の近くまで行けば敵の動静も分かるだろうと議定。
8月26日檜原を発し、塩川(喜多方)へ。途中の大塩で桑名兵に遭う。彼らも米沢の方へ行くとのこと。大鳥は若松の模様を探る。
「若松の方に砲声殷々と聞こえたり」 新政府軍は市中に入り込み東山滝沢にも充満。城内への砲撃の様子を事細かく記す。
8月27日 塩川滞陣。大鳥は
「城下の砲声は間断なく、耳に轟き心神を悩ましたり」とずっと若松城を懸念している。
一方、浅田らは米沢街に到着。昨夜米櫃に糞尿を為した者があった。米沢の法に基づき処罰で96人を獄に入れると言われた。浅田は、自分が罪を受けるので他の兵は国境に出せと主張。これは米沢が薩長に下ったから邪魔な旧幕を処分したかったのだろうと浅田は推測。藤原を去った伝習隊士官杉山・高木が米沢兵を訓練しており、彼らの周旋で事なきを得る。綱木で会津人がさらし首になっているのを見たのもあり、
「真に悪む可きの姦賊たり」と米沢の仕打ちに浅田は激怒。
8月28日塩川。田島からきた横地秀次郎が大鳥に合流。横地は途中村民に囲まれ殺されかけた。
「村民共、兵士の(若松)城内より出るものを見れば、不義者なりとて取り囲み処々にて猥りに殺害せしものありたるが、此輩も城より逃出でたる者ならんと見かけて粗暴の振舞を為したるものならん、一理なきにあらざれど、余り残酷なる所業なり」と大鳥は記す。(それは城から逃げた不義者の成敗ではなく、会津村人による落ち武者狩りなのでは、という気も)
大鳥は白石へ行く織田隊州、三宅大学と談じて印鑑を取り交わした。
浅田は米沢を抜け仙台領湯の川関門へ。浅田の叔父、高橋護がたまたま居、彼の周旋があったおかげで関門を通通貨できた。高橋がいなければ斬首されていた所だった。
8月29日越後口の官軍が、津川から山三郷の柴崎へ進軍してきたことで、この方面へ出張を依頼される。翌9月1日、友成将監の青龍隊は塩川に残し、伝習第一・第二大隊約二百と慶徳を経て木曽へ。木曾で長岡兵の隊長と軍議。
9月2日長岡兵と共に木曾発。陣ケ峰・泥浮峠の戦い。敵が高所で地形が悪く、大鳥らは退いて地理を見定め、そのまま帰陣。士官の山本・布施が途中の村で敵に斬首され、大鳥は
「憫然の至り、涕泣に堪えざるなり」9月3日大鳥らは長窪(木曾から8q程、極めて高山の上)に滞陣。敵斥候を発見するが、地形悪いため見送り。山にはすでに雪。寒気おびただしく難渋。
この日浅田らは白石城に入る。初めて傷の治療を受けられる。浅田は眼が見えなくなる。浅田は海軍松島に至るのを聞き喜ぶ。
9月4日長窪の戦い。敵三小隊と二時間ほどの戦闘で勝ち、弾薬を分捕り。しかし兵糧人足逃げて困疲。さらに木曾隣村の舘原で敵追撃あるが戦争にならず。慶徳を経て小田村に帰陣。
8月22日に会津が衝鋒隊に援兵を要請しており、今井、天野ら衝鋒隊中隊を率いて木曾口に着。
9月5日小田村滞陣。大鳥は高久で戦争ある事を聞く。弾薬に火が移り破裂の由。これは衝鋒隊の戦闘だった。衝鋒隊は、高久・如来堂で戦い、深い霧で敵が近づくのを知らず壁を破られ、塩川に退く。南口は大内峠が破れ火焔。敵軍は関山村まで至る。
9月6日この頃、古屋・今井ら衝鋒隊と大鳥ら伝習隊が合流。
今井信郎「北国戦争概略衝鋒隊之記」のこの時の様子。
「将軍山の敗より会藩、伝習隊を疑ひ、互いに不快を生じ、議論合わず。今日の大挙を快となさず、弾薬兵糧運漕の人夫を断り壱人を送らず。粮米已に尽く。我総督(古屋)会藩に書簡を送つて和解を進むれども猶頑論にて和せず。且我にも疑いを入る。ここに於て諸隊憤然会藩と死生を共にするの志なし」母成峠敗北で会津は伝習隊を疑い互いに不快。伝習隊が泥浮長窪で戦っても会津は喜ばず、弾薬兵糧も送らず。食糧は尽きる。伝習隊衝鋒隊は会津と死生共にする気が失せる。大鳥古屋はこれを患い、若松城を救うには一端福島に出て各藩の隊を合わせるしかないと議決、とのこと。
母成峠敗戦で会津が伝習隊を疑った事について。
・大鳥は奥羽列藩同盟の後で会津執政に練兵を建策していても、同盟成立で会津首脳陣は気分緩んでおり、大鳥の増兵についての提言は受け入れられなかった。
・大鳥は農民を虐げると人心を損なうから放火は固く禁じていたのに、某会津藩士が兵を率いて船生村を半ば焼払ったので、その役を免じた。その他、塩原、三斗小屋など会津に焼かれた宿場や村は数知れず。
・母成峠戦の前日、8月20日に大鳥が反対した二本松襲撃に伝習隊を向かわせた。二本松への行軍中に、進軍する新政府軍と山入村で遭遇戦い。ここで会津兵、仙台、二本松兵は伝習隊を置き去りにして逃げ、伝習隊は大打撃を受ける。浅田も重傷を負い、部下にモッコで運び出され一命をとりとめた。その翌朝の母成峠戦は、伝習隊兵士は会津らに対して憤慨しており、士気は皆無。ただでさえ寡兵で劣勢。その状態では勝てる戦いも勝てない。
・8月21日の母成峠戦では、会津の放火に反感を持った領民が、進んで新政府軍を道案内した。その挙句に、会津農兵が戦闘中本営に火をつけた。
上の状況で、誰が勝てるのか。伝習隊は会津から補給を受けているとはいえ。会津兵に足を引っ張られ続けています。そもそも会津の領民統治のまずさ、衆民の会津統治者への不信感が、母成峠の戦いの敗因の根底にあるのではないかと考えられます。会津には申し訳ないですが、伝習隊の言い分はかなりあるでしょう。まして伝習隊の歩兵は武士ではなく、会津に恩も義理もない無頼の徒。この惨状で責められれば「会藩と死生を共にするの志」など皆無になるのは、当たり前ではないかと思えます。
その状況でもなお、会津を救おうと足掻く大鳥。見捨てる気持ちにならなかったのがむしろ不思議です。柿沢勇記や山川大蔵など会津藩士との交流も影響したのかもしれません。
9月7日小田村。慶徳へ本多・大川兵出張。3,4日前に越後口も南口も破れ、上も下も大騒ぎ。弾薬は尽き、兵糧も行き届かず。負傷しても療養する場所もない。兵は奮戦して力戦する気もない。大鳥、大嘆息。
なお、大川正次郎奥州南口戦争記
「衝鋒隊古屋作左衛門兵を師ひて同所(小田村)に至るに遭ふ是より先徳川の海軍江戸を脱走し軍艦数艘乗込榎本釜次郎始め同盟二千人仙臺に至るの報告あり」とあるので、この時点で仙台の榎本海軍の情報がもたらされていた可能性あり。しかし福島に出た時点でも、なおも若松援護しようとしてたのは確かです。
9月8日官軍は米沢城下へ進軍、檜原から敵侵入ある由。袋の中の鼠の如く、前後左右挟撃される恐れあり。古屋作久左衛門と談義する。大鳥は「この状況で決戦しても見込みはない。二本松を回復して仙台援助の道を開く方がいい。ただ、この地を引き払えば籠城中の皆が力を落とす。城を見捨てていくのは本意に背く」と。古屋「挟み撃ちになれば離散して全滅犬死になる。思い切って福島に出て、仙台、庄内他の兵と合わせ二本松を抜けば、会津城の囲みを解く一策になる。直ちに決心しろ」と意見。大鳥はこれに承諾。
今井の北国戦争概略衝鋒隊之記も
「古屋大鳥これを患へ、この上は一朝に猪苗代を回復なすとも久しく守る能わず。只に兵を亡するのみ。然りとて徒に亡を待つは無策。一と先福島に出て諸隊を合せ、若松を救はんと翻然議を決し」そこで慶徳出張の兵を引き上げ、檜原にいる瀧川にもこれを通達する。会津の北方隊長の上田にその旨を通知。夕方、餅を分けて出発。
ここで谷口四郎兵衛日記によると、山口次郎こと、斎藤一ら新選組14名は別れて、若松方面に残ることになった模様。齋藤が大鳥に、会津を見捨てるのは誠の義にあらずと言ったとしばしば言及されますが。上の通り、大鳥は会津を見捨てるどころか、二本松を抜く現実的な手段を見出す為に福島に転陣しようとしていました。谷口日記が、9月20日松島でこの日を振り返った記述
「廿日松島二着陣第一ヲ以第二大鳥圭介エ合兵ス、又松山唐津臣三藩土方二属新撰組ト成。…今既二(新選組の)隊伍果ントスルニ拠テ新規隊伍ヲ建本新撰組ハ将軍山敗軍ノ後死多ク、山口次郎始十四人残塩川二大鳥圭介逢合ノトキ共二仙台行ヲ論スル二山口次郎ノ曰吾等会津見未諸国戦ヨリ遂ニ今盟士多ク戦死僅拾四人残左レバ是ヲ後起サン志アレドモ一トタビ会津来リタレバ今落城セントスルを見テ志ヲ捨テ去誠義二アラスト」 上のパートでは「塩川」(小田村に近い)「仙台行ヲ論スル」とあるので、この日のことでしょう。
この谷口日記の記述は、20日松島に付いた際、新選組の数が減って隊伍が組めず、土方が他藩の藩士を新選組に入れなければならなかった理由の説明です。新選組の数が少ないのは、山口次郎(斎藤一)ら14人が、いったん会津に来て落城しようとするのを見て去るのは誠義ではないと言って離脱したからだ、とのこと。この時、齋藤一が「誠義にあらず」と述べたのが何故かあちこちで強調されていますが。日記の記述を読めば、斎藤が大鳥一人に直接当てつけがましく言ったわけではないことは明白です。
大鳥を含む、会津、伝習隊、衝鋒隊他が、会津を助ける為に仙台・庄内と力を合わせる目的で仙台行きを議論していた、その中で齋藤達は会津に残るのにそう述べた、という流れです。「誠義」が會津と一緒に潔く自滅することにあるか、場所を移してあらゆる可能性を講じて現実的に會津を救う手段を求めるか、その姿勢の違いがあっただけです。大鳥ら伝習隊と衝鋒隊は後者でした。
なお上の今井の記録の通り、ある会津藩士は伝習隊と衝鋒隊を疑い、互いに不快で議論が合わない状況でした。会津藩寄りの新選組一行が会津と一緒に残ったのもその辺りがあったと考えられます。大鳥もこの状況で強いて新選組に福島行きを誘いはしないでしょう。
あと「誠義にあらず」と齋藤が土方に言ったと解説する人もいるようですが。この時点で庄内に向かっていた土方は、米沢を抜けられず、西会津方面には来ないまま仙台へ直行。よって土方はこの場にはいませんでした。なお土方は「荘内の藩論を聞き公らに通ずべし」とのことでししたが、荘内の援兵不備の連絡も、仙台合流時まで土方からはありませんでした。
繰り返しますが。「誠義」は立場により違います。斎藤ら残った新選組にとっては、会津との心中がそれだったのでしょう。大鳥にとっては犬死ではなく、まず兵を生かし戦える状態にした上で現実的に会津を援ける事こそが、義でした。この時点で、大鳥たちが會津を見捨てたなどと捉える人はいないでしょう。
9月9日古屋らと共に小田村出発。大塩から暗夜険路、難苦を極めて檜原へ。22時裏磐梯木地小屋着。
9月10日朝6時発。秋元原へ。道に迷う。
「十回余も渓流を渡り、九月の初旬なれども寒気冬の如く、高山にては半腹にても雪降り、夕方には流れを渡ればズボン抔も凍て堅くなりたり」と、ズボンも凍る寒さと腰までの雪の中、裏磐梯秋元原超え。母成木地小屋、沼尻嶺上り、温泉場抜け、雪を掬って渇きを癒し、石に躓き木の根に倒れ指を傷つけ、昼夜兼行。土湯村に至る。酒屋あり酒を一二杯。湯治していた官軍の怪我人が逃げる。
9月11日土湯発。鳥渡村宿。ここは元は公領で村人は親切。純義隊来着。瀧川・鈴木も到着して安堵。
9月12日鳥渡発、福島着。大鳥から小笠原侯、竹中春山の本陣で二本松進撃を伝えた所、仙台も国論変じ、荘内も国論定まらず、兵隊をここに置くのも難しいとの事。目算が違い一同愕然。ならばいっそ米沢兵を攻撃して遺恨を晴らそうと、兵一同騒ぐ。
とにかく今晩は瀬之上駅で進退を決そうと、大鳥は小笠原竹中と別れる。午後大雨で兵隊は雨具を持っておらず憐れ。桑折の関門で泊。ここも公領なので村人は親切で、久しぶりに酒肴あり。
9月13日桑折で再び大鳥は小笠原、竹中、古屋と議論。奥羽は一藩も恃みにならない状況。ここで暴挙で無駄死にしても益はない。仙台の海軍と力を合わせるほかないと、議論で決める。
9月14日大鳥伝習隊は桑折から白石へ。浅田、大鳥らと白石で再会。本多瀧川大川と互いに無事を祝う。
大鳥はそのまま急駕籠で仙台へ。途中、仙台の福島に飛び出していく額兵隊と、それを止める仙台侯親子にすれ違う。松平、松岡、人見、春日ら知人に邂逅、悲喜交えて話し合う。
9月15日大鳥、ブリュネ、カズヌーフら仏人教師と会い、手を握って涙を流す。
榎本と相談。奥羽の形勢がこうも変わったので、仙台に滞留するのも意味がない。蝦夷に行き天朝に嘆願し脱走者でかの地を開拓するというのに同意。衆議一致で、蝦夷行きを決める。
上のように、大鳥と伝習隊は、9月15日に榎本と議論するまで、仙台庄内など奥羽の他藩と共に会津若松を救う道を模索していました。しかし、米沢は離反、仙台も庄内も恭順姿勢と判明し、むしろ旧幕は排斥される方向性。ここに至ってようやく、蝦夷行きを決めます。
この時点でまだ若松城は籠城を続けていましたので、籠城者からは見捨てられたと思われたかもしれません(若松降服は9月21日)。この段階では奥羽列藩からの援護は全く見込めず、武器弾薬糧食の補給も不可能であり、さらに同盟者から攻撃を受けかねない以上は、継戦は全く非現実的でした。
参考:塩谷敏郎「戊辰ノ変夢ノ桟奥羽日記」大鳥は常に籠城中の若松に連絡を行い励まそうとしていました。
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢ノ桟奥羽日記」は、大鳥が何度も若松城に使者を送り形勢を伝えていたことを記録しています。
9月2日夕方、早雲勇男が塩川村の大鳥圭介の陣から使者として若松に。米沢勢と二大隊が援兵として塩川村へ着陣。大鳥氏は隊を引卒して越後口へ応援として出兵する旨。
9月5日、午後四時に乙女金吾が越後口の大鳥圭介の陣から来て、城外の形勢を話す。南口大内峠破れ敵は関山村まで乱入した由。
9月8日、工藤衛守が上州檜枝岐より入城する。松平太郎ら旧幕府の陸軍隊を二大隊引卒して脱艦に乗り組み、仙台石巻荒浜ヘ上陸の由。後日に確報あるだろうという説。
9月10日、大鳥圭介の陣から松田六郎が使者として来る。場外の形勢、米沢勢は二、三百人も塩川に到着したがさしたる事もせず見回るだけ。大鳥が出陣の労を謝したが挨拶もない。援兵なら城中の危急を傍観するはずもないと疑問生じている。また、仙台に軍監五六艘、仙台石巻着。船将は榎本和泉守だそうだと。適宜様相を伝えるので、早晩応援賀来ることを待つのみ
9月17日、早朝から砲聲夥多しい。午後六時、大鳥圭介陣ヨリ報知有り。上杉(米沢)勢は16日朝に我等が陣所ヘ攻撃、飯寺村在陣の朱雀隊へも同様に攻撃。格別の奮発はなく、空弾を発するとも。詳細不明だが米沢上杉家が背叛した上は、頼みの綱は果てた。ここで戦死する時節にもなく、これから仙台表へ趣き松平太郎榎本和泉守ニ参会し、機謀を受て会津若松の援兵を計る予定。各士においても堅固に篭城を遂げ、我等が良報を待ちたまえと、懇切の口上。各士は上杉家の様姿を聞て驚愕、また、大鳥氏の戦中での祥細な報知が大量であり賞感する。
塩谷氏は御料兵の会計官の立場から、会津若松籠された方です。塩谷氏の記述の日付は南柯紀行と5〜10日ほど時差があります。塩谷氏まで知らせが届くのに時間がかかったのかもしれません。
米沢について、大鳥らは直接記していませんでしたが、米沢は援兵を派遣しながら裏切って大鳥ら伝習隊及び朱雀隊を攻撃したことが示されます(ただし空砲とも)。これでは任侠の兵たちから裏切りへの怒りが噴出し、米沢と一戦、となってもおかしくありません。大鳥は抑えるのに相当苦労したと思われます。
また塩谷氏によると、上杉(米沢)酒井(庄内)の応援次第、城中からも打て出て勝敗を決そうと思っていたが、それらが敵方となり進軍してくる上は、最早これまで。この上は篭城続けるのも詮なく、一同は銘々粉骨細身して打て出て花々敷戦死しようと、勇気盛んになる。それを見て「働もすれば討死しようとするのは会津の風土だ」と、塩谷氏は旧幕陸軍の立場から客観的に記しています。
齋藤一もその会津の風土だったのでしょう。一方、大鳥は討死の風土は全く持っていませんでした。
そして会津若松城は、9月21日降伏を決し、開城しました。
まとめ
以上のように、大鳥達が会津を援けようと、餓えと弾薬欠乏と寒さと裏切りの中で、ぎりぎりまで足掻いた苦闘は、はっきりと記録で確認できます。大鳥、浅田、大川、北原など当事者たちは、檜原の流離い辛苦を、戦そのものよりも余程詳細に記しています。離脱や降服すれば楽になるのに、苦しく困窮しながらも継戦した。会津を救いたい思いはそれだけ大きかったでしょう。
しかし、会津における大鳥には誤解が付きまとっているようです。
大鳥と伝習隊は、会津を見捨てて無邪気に榎本海軍に合流したなどという人もいますが。以上のように、事実は決して違います。
母成の撤退、檜原から米沢援兵依頼、小田村塩川での福島行きの決定、仙台における蝦夷行きの決定など、大鳥は会津を含めた周りと議論し、周囲の意見を取り入れ最善の方向を決めています。
また、「大鳥圭介は会津藩の農民が年貢に取り立てられ戦には無理矢理参戦させられ戦意に乏しいのを熟知してなかった。一兵卒の胸の内を無視したから負けた」などと述べる人もいましたが。あまりにも的外れです。大鳥は会津農兵は節制が無いため、藩の会計官吏を武官にして練兵する事を提案していました。また上述の通り大鳥は常に兵の不満を知り書き記し、宥めるのに苦心していました。
大鳥は「南柯紀行」の題を、元は「大義日記」としていました。
「将士兵卒のしばしば遭遇するア嶇艱難の趣を詳に寫し、笑うべき耻ずべき事をも修飾なく、其儘と拾ひあつめ、事跡或いは忌憚に触るヽと雖、絶て斟酌せず記し載せたり」と大鳥は前文で書きました。そこには彼らが、恭順した旧主にも背を向けて、何を思い戦ったのかを書き留めて残しておきたいという意図があったでしょう。
その想いを代弁するなどという大それたことができるとも思いませんが。少なくとも彼らが記した内容は、明らかにしておきたいと思いました。
新選組や会津は人気があり商売道具にされてきました。エンタメ作品としてより売れるように、正当化し悲劇性を強め陶酔しやすくする創作加工が行われています。その加工の一つとして、新選組会津以外の人物や組織を根拠なく貶める方向性があることは、創作作品やライターの記述に多々伺えます。大鳥と伝習隊の苦闘の事実がないがしろにされ、上のように誤解されるのも、そうした傾向から生じたのでしょう。
母成峠以降の大鳥と伝習隊の苦難は、南柯紀行と北戦日誌をはじめとした各資料に明瞭です。会津より冷遇され置き去りにされ補給を絶たれ裏切られながらも、どんな想いでどれほど会津の為に死力尽くし戦ったか。
会津の悲劇ドラマや新選組娯楽メディアのために、彼らの実像が歪められて広められるのは、いい加減、何とかならないものかと思います。