同じ事柄でも、書く人により印象が異なる。
というのを如実に表すのが、壬生の使者や栃木における、大鳥圭介と浅田麟之輔の描写です。
慶応4年4月11日の脱走後、報恩寺、竪川を経て市川参集後、前軍と別れ、大鳥は中後軍を率います。中軍は間道から12日松戸、13日小金、山崎泊。14日船形泊、ここで後からきた瀧川・宮氏と合流。15日筵打・仁連へ。
そして4月16日日武井村の戦い、17日小山の戦いで、伝習第二大隊・貫義隊・草風隊などの旧幕府軍は四連戦、全て勝利します。
四月十六・十七日の戦い概略は以下の通り。
1) 4月16日:朝、小山の戦い。草風隊・貫義隊・凌霜隊vs平川和太郎支隊(彦根藩、笠間藩、壬生藩)と遭遇戦
2) 4月16日:午後 結城・武井村の戦い。大鳥中後軍vs長州の祖式金八郎(館林、須坂、岡田)支隊
3) 4月17日:午前、小山の戦い。大鳥中軍vs香川敬三本隊(宇都宮・彦根・岩田村・岡田+平川支隊)
4) 4月17日:午後、小山の戦い。大鳥中軍vs祖式金八郎支隊
上の内、1)は別動隊の草風隊・貫義隊・凌霜隊。大鳥・伝習第二大隊が直接戦ったのは2)、3)、4)の三戦です。
既存小説キャラ設定を信じている人は、大鳥のビギナーズラックなど宣いますが。決してそうではありません。この頃は装備も欠損なく、数の上でも優勢だったという面もありましたが。大鳥らは伝習隊の撒兵を運用し、兵術の手腕を新政府に見せつけました。
周辺地名配置は以下 Google Earthにプロット。
戦闘の推移詳細は過去記事「維新期の兵式 その4 武井村・小山の戦い」 の通り。
現地の様相などは以下のツリーをご参照下さい。
https://twitter.com/irisiomaru/status/1520423669855830017?s=20&t=TVpH9uPqRmsN59T40ZG1fA
小山陣屋跡地

小山の西側の思川

これで新政府総督府は「賊猖獗」と戦慄。大急ぎで救援隊を編成し、第一次救援隊(土佐因州松本吹上等)大久保忠告兵と第二次救援隊(長州薩摩大垣)、第三次救援隊(薩摩大垣)、第四次救援隊(土佐 因州)の援兵を宇都宮に送ります。
小山の戦いの新政府側は彦根、笠間、館林、宇都宮、結城、壬生、岩村田など藩の兵。その内壬生は、蘭学が盛んで、大鳥の江川塾時代の知己も藩士に何人かいました。
小山の連戦の後、四月十七日夜に飯塚村に宿陣。疲弊した一日。日光を目指すため、次には壬生を通るルートとなる予定です。壬生兵は小山での戦闘ですでに新政府軍の一員となっていました。このままでは壬生と激突必至となります。
「小金、宇都宮には敵兵多く屯し、壬生藩の心腹も図り難く、我兵隊は前にも記せるが如く疲労窮るゆえ、若し不意に事あるときは如何せんと苦心限りなし。去れども幸にして無事なるゆ暁方に至り少しく眠ることを得たり」
壬生藩はどういうつもりなのか、自軍も疲れているしどうしようと、大鳥は苦心し眠れない夜を過ごします。
翌朝十八日、大鳥らは、壬生の心積もりを問うため、壬生に使者を送りました。
この使者の一連の流れは、大鳥の南柯紀行、浅田の北戦日誌の双方に書かれていますが。その対比が面白い。 浅田の目、つまり外から見た大鳥と、大鳥本人の内面が、別人であるかのように異なります。
まず大鳥の南柯紀行。
「十八日朝、早起、壬生城へ向う心得にて出発の用意をなし、已に先方の者繰出しせし所へ、壬生藩より士両人使節に来り述ぶるには、幣藩にも官軍の人数入城致し居り、乍去御隊へ向て失敬の義之れありては不相済、彼是困却の至りに有之候間、何卒城下御通行の義は御見合被下度、尤も道案内の者差上候間、当宿より栃木駅のほう御通行の義願度と、丁寧に申伝えしゆえ基より我曹交戦は好むところにあらざれば、即使節の言に随い、駅内より左に折れ河流を渡り田間の細路を経て行進せしに、途中に怪敷者三四十人居たるよしにて先方の兵隊二十発計も発砲し、追かけたれども格別の事もなく、其儘にて行き過ぎ、其後兵糧を農家にて遣い、終に栃木駅に出て小休す」
壬生城へ向かうつもりで出発用意。あらかじめ使者を送り出していたところ、壬生から二名の使節がきた。使節が言うには「壬生藩にも官軍が入城しているのだが、貴隊への失礼があってはすまされず、困り果てている。どうか城下の通行は見合わせて下さい。道案内を差し上げますので、壬生宿から栃木駅のほうを通行してくださいと」丁寧に申し伝えられた。元々自分たちは交戦は好まないので、使節の言の通り、駅から左に折れて川を渡って田んぼの間の細道を経て行軍した。途中に怪しいものが3,40名いて兵隊が発砲して追いかけたが、格別のこともなく行き過ぎ、途中農家で兵糧をもらい、栃木駅に出た。
と、お互いがお互いの立場を慮り、壬生が間道への案内人を出したことで何ごともなく間道を通過できた模様です。
対して、浅田君の記録である北戦日誌。
四月十八日暁七つ半時、壬生城へ使を遺る。其辞に曰く、
「昨十七日、小山驛に於て彦藩及其他の六藩、我輩の日光廟に詣る途を遮り、加之東照宮の旗章に發砲す。是何等の暴挙ぞ。我等敢て戰争を好まず。然りと雖も、事卒爾に出て止を得ず終に一丸を發つて、盡く賊を走らす。聞く其兵壬生城に據ると。夫れ貴藩は幕府恩顧の一名家にして、其祖彦右衛門元忠は、烈祖會津征伐の時、伏水城に據て無雙の勇戰を遂げられしは、普く世人の知る所也。今幕府傾危の秋に至て、君家の仇たる奸雄の徒を佐け、正く幕臣たる孤獨の吾儔を撃つ、是れ何の道理ぞ。抑吾等、兵器を携え日光廟に抵るは、全く錦旗に抗するに非ず、只神廟を護衛せん為め也。貴藩、若し先非を悔ひ我輩を助る時は幸甚し。又錦旗に拘泥して奸雄を佐るに至らば、士道に於て、止むを得ず即時に問罪の師を發し、孤城を屠ん事、今夕に在り。敵す可ならば、塹を深うし塁を高うして、以て吾軍の抵るを待て。舊幕を佐るの意あらば、速に賊を攘ひ、以て其首を捧げ来れ。乞有無の報告を待つ」と。
明け方朝5時、大鳥の使者が壬生藩へ。「小山駅で彦根他の藩が、我々が日光へ詣でる道を遮って東照宮の旗に発砲した、何の暴挙だ。我等は戦争を好まないといえど、やむを得ず弾を放って賊(新政府軍)を敗走させた。それらは壬生城を拠点にしていると聞いた。貴藩は幕府恩顧の名家だ。祖彦右衛門元忠は会津征伐で勇戦遂げたのは広く世人が知るところ。今幕府の危急の時に、君家の仇を援けて、幕臣の我々を討つとは何の道理だ。我々が兵器を携えて日光に拠るのは錦旗に抗うためではなく、徳川の廟を護衛する為だ。もし貴藩が先の非を詫び、我が軍を助けるなら幸いだが。敵を助けるのならば、士道において已むをえすその罪を問い、今夕にも壬生城を屠るだろう。敵になるなら塹壕を深く掘り、堡塁を高くして、わが軍を待て。旧幕を助ける意思があるなら、速やかに敵を追い払い、その首を捧げ持ってこい。報告を待つ」
と大鳥隊から壬生へ送った使者の言。ものすごく居丈高です。というかほとんど脅迫です。
これに対して壬生から使者がやってきました。
辰の刻に至て、壬生城の老臣来り、謝て曰く、小山驛の戰争、吾藩士曽て幕府の兵なる事を知らず、愆て神纛へ放發するに至る。然れ共、其罪遁るるに道なし。依て昨日出師の隊長を為て自刃令め、今其首を掲て来て、軍門に謝すと。
則ち是を大鳥氏に告ぐ。大鳥曰く「是れ偽也。豈将士の首級ならん乎。戰死を遂たる兵卒の首也。雖然、彼既に此語を吐く。我輩元来途中の戦を好まず、宜く對て而して後に彼が状を窺ん」と。
則ち謁見して敵の多寡を問ふ。使答て曰「薩長の兵百五十人餘、十七日の敗兵八百人、許城外に陣す。幕兵来らば、彼等必ず抗撃せん。然る時は前に葵旗在り。後口に錦旗在り。我藩中間に在て、甚だ困窮す。若し進軍せんとならば、間道に行ん事を乞ふ」と。
大鳥曰「餘の兵は免ず共可也、薩長は九世の仇たり。進撃為すんば有可らず。抑公等、言を工みにして両端を量り、勢ひ微なるを殲さんとす。悪む可し。両端に心は士の愧る所。我輩豈斯の如き不義の士を頼んや。疾に軍を進めて、其城郭を屠ん。直ちに帰て備を為せ」
午前八時ごろに、壬生から老臣が来ました。小山戦争では、壬生藩は相手が幕府兵であることを知らず、神旗にも誤って発砲してしまいました。その罪から逃れる道はありません。よって昨日戦場に出た隊長を自刃させたので、その首を持ってきました、と壬生の臣。
これを大鳥さんに告げると「これは偽物だ、将の首ではない、戦死者の兵卒の首だ。ただ彼らは既に謝罪の語を述べている。我々は元々、途中の戦を好まない。会って壬生の状況を伺おう」と。大鳥は壬生の使いに会い、敵の人数を尋ねた。壬生の使いは「薩長の兵百五十人あまり、十七日の敗兵八百人ほどが、城外に陣しています。寡兵で来れば、彼らは必ず攻撃してくるでしょう。前に徳川の葵の旗、後ろに錦旗があり、その間に挟まれて困窮しています。もし進軍するなら間道を行くようお願いします」 という。
大鳥「他の兵は許すとしても、薩長は九世の仇だ。進撃しないわけにはいかない。公等は言葉を巧みにして双方を量り、勢いが少ない方を倒そうとしている。憎むべきことだ。両方に心があるのは士にもとる所。そのような不義の士を頼みにはしない。早急に軍を進めてその城郭を屠ろう。直ちに却って備えをせよ」
間に挟まれた苦しい立場で、何とか穏便に済ませたい壬生。大鳥からの使者が要求した通り、昨日小山の隊長の首を持ってきました。大鳥は使者に対し、薩長は九世の仇だ、新政府軍を城に入れた壬生を屠るから帰って備えろと、などと応えています。ただ、薩長の中にも大鳥さんが世話になった人、大鳥さんの教え子なども沢山いますので、大鳥さんがこれをことさら言うのは違和感あります。薩長憎しは旧幕臣や会津など他の方々の総意でしょう。参謀や他の方々の発言が、浅田君の中で大鳥さんに集約されて記述されているような気がします。
使曰「真に困窮せり。我導引して隘道に抵らん。且金穀を贈て軍費を助けん」と齋す所の一函を開きて、若干の金を出して曰く「軽微ながら吾主君の贈る所。宜く収めん事を乞ふ」と云。
大鳥曰「我輩は波獄に據る水藩の徒と同じからず。小藩を劫し人民を掠るの不義をせん乎。今、天涯據る処なきの一孤客と雖共、尚舊幕府の臣下たり。豈微小の金穀を闕可き、夫れ我儔の日光廟に據ん事を欲するや。一つには神廟を護衛し、二には君家の無辜を訟へ、三には君側の悪を攘ひ、以て四海の富嶽の易きに置んと欲す。今、敢て小事に関係し、道路區々として遅滞せんも益なし。公ら、斯迄迷惑せんとならば、隘道を進まん。米穀は受け可く、金は受可らず。又携来る首級、見るに及ばず。善悪共に君家の為に死する者、是即ち忠士なり。吾等、豈軍門に梟するに忍んや」
使大に喜び、隘道の導を為す。土人に命て粮を炊か令め、能く周旋したり。
使者は「誠に困ります。私が間道へ案内します。また金と穀物をお送りして、軍費を助けましょう」といいながら、箱を開いて若干の金を見せ「軽微ですが主君からの贈るところです。納めてください」と申し出た。
対して大鳥さん「我々は水戸の徒(天狗党か)と同じではない。小藩を脅して人民から略奪するような不義はしない。今は天涯拠るところのない孤軍だが、なお旧幕府の臣下だ。わずかな金や食料を受け取って日光に拠ろうとは思わない。日光に行く理由は、一つは神廟の護衛、二つ目は徳川の無辜を訴え、三つ目は君側の賊を追い出し以て世の中を安定させることだ。今小事に関わって遅滞するのも益はない。公らがそこまで迷惑するというなら、間道を進もう。米は受け取るが金は受け取らない。また首は見るに及ばない。善悪ともに、君家のために死ぬ者は忠士だ。軍門にさらし首するのは忍びない」
遣いは大いに喜んで、軍を間道に案内した。また、地元民に兵糧を炊かせてよく周旋した。
この使者への大鳥さんの台詞に、脱走の表向きの目的がまとめられています。江戸から持ち出せた資金はさほど多くはなく、壬生からの金の供与申し出はありがたいのでしょうが。小藩から金を巻き上げるようなことはしないという姿勢。日光に行けば何とかなると思っていたのかもしれません。兵糧はありがたく受け取ります。
あと首は見るに及ばず。さらし首にするのは忍びない。見たくないのでしょう。首を要求したのは大鳥さんではなく他の人ではという気がします。
傍見者必ず曰はむ。此時直ちに壬生を屠り、敵を放逐せば、愉快ならむと。然れ共、本文大鳥氏の説の如く、元来一小城に関係して日光の道路敵の為に絶るるに至る時は、我黨は死地に陥て、一人も存ずる者有可からず。一時も疾く嶮に拠居し、會津城に通じて大事を計んとす。故如何とならば、此時奥羽は未だ敵地にして、會藩と雖共有無の挙動知れ難し。故に我等、疾に其基本を固ふし、而して後上野の二州を下し、時機を窺て都下を回復せんの意有る故に、今彼が因循を咎ずして、暫く其意に任せ、隘道に進む也。
此日、巳の刻、壬生使を導者として、飯塚邑を發し、隘道狭路を経て、午前野州栃木の街に據る。人戸千五六百、富商最多し。足利領に属す。暫く休憩、粮を喫し、未過整列軍を進て行く事一里半、合戦場の驛に抵る時、未だ晩ならずと雖も、兵卒の戰労有るが故に、此所に宿る衆、初て汚穢の衣裳を濯ぎ、銃を洗ひて、各睡に就く。
傍観者は、ただちに壬生を屠って敵を駆逐すれば愉快だったのにと、必ず言うだろう。しかし大鳥氏の説のごとく、一小城に関係して日光の道路が敵の為に絶えると、我軍は死地にあって一人も生き残らないだろう。一時も早く日光の険に拠って、会津に通じて大事を計ることが必要だ。まだ奥羽は敵地で、会津も挙動が計り知れない。我々はまず足場を固めて、上野の二州を下して、時期を見て江戸を回復する意思がある。そのために、壬生の因循を咎めず、間道を進んだのだ。
この日午前10時に、壬生の使いを案内として飯塚を出発、狭い間道を経て、午前中に栃木街に入る。足利領で1500軒もあり商人多い。ここでしばらく休憩し飯を食って通過し、6kmほど行くと合戦場の駅に至る。まだ日は暮れてなかったが、兵隊が疲れているのでここに宿をとる。汚れた衣服をすすいで銃を洗い就寝した。
旧幕の面々は壬生を屠りたかったようですが。大鳥さんが言う通り、とにかく早く日光に行くことを優先させます。この後、秋月土方の前軍が小山の敗兵の籠る宇都宮を陥落させたので、そちらへ行くことになりましたが。この十八日時点では、目的地はとにかく日光です。上述の通り、日光から上州を下して、江戸を回復させるのが彼らの目的でした。その目的のために、栃木の町に出て、合戦場で宿泊しました。
なお、合戦場は名前は戦場ですが、旧幕軍の行程上はただの宿泊地です。
よく解説などで大鳥が宇都宮を目的としたと書かれることがありますが。大鳥自身と伝習第二大隊など中軍が宇都宮を目指したわけではありません。秋月土方の前軍が宇都宮を落としてしまったために、大鳥の予定が狂ってしまったのでした。
浅田君はこの日のことはあっさり書いていましたが。
大鳥南柯紀行における栃木。
当駅は人家多く甚だ繫昌の市中にて戸田長州の陣屋あり、陣屋の人々兵隊の群がり至るを見て大に動揺せる様子あり。長州はかねての知人なれば殊更気の毒に思い、使節を陣屋に遣わし、今、日光山拝礼の為め、当地通行するなり。兵士に至るまで決して粗暴の挙動をなさしめず、必ずご安堵あるべしと伝えしかば、大に安心の趣にて丁寧の謝辞あり。少休の後出発し、其隣駅(失名)に至りしところ伝習隊の者の由にて栃木にて酒数樽無法に奪来りたることを聞き大に驚き、すなわち本日の宿泊合戦場に着き、右の酒屋を呼び出し其代金十六七両を払遣わし、不法の所業ありしことを謝したれば、其者感涙を流して辞し去れり。
栃木の戸田長州さんは大鳥の知人。陣屋の人々は兵隊が沢山来て大騒ぎに。大鳥は戸田氏に申し訳なく思い使節を送り、日光拝礼の為に通行するだけで、兵隊には乱暴させません、ご安心ください、とお伝えした。丁寧に礼があった。しかしその後隣駅に至ったところ、栃木で伝習隊の者が酒樽を数個、無法に奪ったと聞かされる。吃驚して、合戦場に着いてからその酒屋を呼んで、酒の代金16,7両を払い、不法を詫びた。酒屋は感涙して去ったと。
大鳥さん、戦以外でも本当に苦労しています。南柯紀行の真骨頂は、戦闘以外の、戦闘を継続させるための苦労の記述にこそあります。なお大鳥さんは歩兵の乱暴には後からも困りました。宇都宮では焼け出された無辜の民に乱暴狼藉略奪を働いた歩兵2,3名を処刑した上、「歩兵が乱暴働いたら撃ち殺して良し」というお触れを出しました…。
というわけで、浅田君の筆による高飛車な大鳥さんと、ご自身の記録では心砕いて藩や兵隊に周旋する苦労性の大鳥さん。二人の筆では全く別人に見えます。 しかし行いは全く同じで、双方の結果に矛盾は無いのが面白い。
浅田の大鳥さんを見る目が偏っていたのか、大鳥さんは外面は威圧的に振る舞いつつ内心がこれだったのか。
北戦日誌の大鳥は、旧幕府軍にとってこうあってほしいと加工された理想的な総督キャラ。南柯紀行の大鳥は、理想とかそんなんしらんがなという素で生の大鳥、という気がします。
北戦日誌は、衆議における柿澤勇記や他の旧幕諸将の発言も、それを総括する大鳥の言動としてまとめている可能性もあるかと思います。
いずれにせよ、 資料の比較対照により物事の多面的、立体的な見方が得られます。また、一方で一つの資料だけで物事や人を決めつけることは危ういのだということに思い至ります。
壬生城跡。

城址公園は現在歴史民俗資料館や藩校学習館跡となっています。

下野に珍しい近代城郭。4月18日は旧幕軍に攻め込まれるのを回避しましたが。この後4月22日夜に大川隊に攻め込まれ、焼かれかけます。

合戦場の駅で合戦はなく(ややこしい名前)、リフレッシュした翌日、中後軍は4月19日鹿沼へ向かいます。その途中、宇都宮方面に烟と炎が上がっているのを見ます。鹿沼について、前軍が宇都宮を攻撃したという話を地元民に聞く。大鳥さん「虚実も測り難く」マジかいな、という感じ。
ちなみに鹿沼は上図の通り、宇都宮の真西に位置しています。当初大鳥さんたちは宇都宮に行く気はなく、まっすぐ日光を目指していたことが、ここからも伺えます。
翌日20日に宇都宮に入り、新政府軍総督府からの救援隊が、続々壬生に入っていることを聞きます。また大鳥さん江川塾同僚の壬生藩士友平慎三郎が、今のうちに壬生城を襲えと策を立ててきました。よって21日、壬生への夜襲を決意することになります。
壬生の危機は続く。