2023年07月24日

「視感の工業上に緊要なる説」


上郡の郷土史家、大鳥圭介塾長猪尾守之氏が閑谷学校研究2023年5月号に、「大鳥圭介親子の見と幹」を寄稿しておられます。
その中で、「百聞は一見に如かず、百見は一幹に如かず」を表す大鳥さんの言葉として、明治十年内外工業新報十四号 の「視感」の記事が紹介されていました。

この工業新報記事の原題は「視感の工業上に緊要なる説」です。記名記事ではないので一見、誰が書いたのかは不明ですが。内容を見ると、当時米英の技術者と深く付き合った大鳥さんにしか書けないだろうと思われる記述もあり、大鳥さん文章で間違いないだろうと考えられます。
内容は以下の通り。

目撃耳聞は人間知識を増長する一大事要の者たり。然れども眼に所見耳に所聞、些も心を用いひざれば其銘記保存する者一者もなくて、而て目撃耳聞の功知識を増長するに及ばずて止む。故に目撃耳聞は心を用ふるを以て肝要とす。只目撃と耳聞の間多少の差異なきに非ず。目に所見は感覚力強くて、耳に所聞之におよばず。感覚力強ければ記憶力亦随て強し。古人言はずや、百聞は一見に如かずと。故に目に所見之を心に記し所、記一も失ふなくんば其知識を増長するや、耳所聞に優ること大なり。其目に見其心に記するを名けて視感(*)と云ふ。

視感の工業上に緊要なること殊に多しとす。我工業の欧米人民に優る能はざる所以の者は、開明の度数未だ彼の地位に至らざるに因るべしと雖、亦或は我國人の視感彼に及ばざる所あるが為なりと謂ふも敢て誣言には非ざるべし。彼の視感を活用するや実に大なり。

試に瑣々の視感よりて鴻大無比の成果を得し適例二三を掲挙すれば、蒸気器械の発明は蒸気の壓力を茶罐の間に視覚したるに原き流電気(ガルバに)即電信の発明を死蛙の顫搖(フルヘル)を摩軋電気試験の際に視覚せしに因り、石鹼泡球上の上るを視覚して軽気球を工夫せり。水車風車等の如きも皆是視感の結果なり。此類千種万般復た枚挙に遑あらず。

是れ欧米各国人民の視感を重んずる所以にして而て我邦人民に於て未曾を見ざる所なり。我人民は欧米諸国の人民に比し敢て才力劣れるに非ず、議論低きに非ざれども、視感に至りては遥かに乏しきが如し、豈慨歎すべきことならずや。

聞く英佛其他開明の國に於ては、幼童を教育するに、其視感を研磨増長するを以て先務とし、市街又は製造場の如き列品多き處に時々誘い行き、終日徘徊して家に帰り、其見る所を質問し、視感の鋭鈍を試み、記憶する者は之を賞し、失忘する者は之を懲し、以て能く其視感を鼓舞震発せしむと。欧米人民の視感を重んずる亦以て見るべし。

故に我邦人亦能く視感の切要たるを察し目を古今内外の事物に注ぎ、深く工夫を凝し、忍耐勉励せば、その工業上に於て利益を生ずる論を俟たざるなり。凡そ耳に鼓する者、耳是を聞くに非ず、心之を聞くなり。目に触るる者、目之を視るに非ず、心之を見るなり。故に之を要するに目撃耳聞の人間知識を増長すると否とは、只心を用いふる如何に在るのみ。工業家たる者、豈思はざるべけんや。

(*オプセルツエーション? とルビ)


文意は以下の通り。
目と耳は知識を増やす要だが、目で見て耳に聞いても心を用いなければ記憶できず、知識を増やすことはできない。百聞は一見に如かずの言葉通り、目で見るのは感覚力が強く、耳で聞くのは目に及ばない。感覚力が強ければ記憶力も強くなる。目で見て心に記すことを「視感」という。これが工業でも緊要であることが多い。

我が国の工業が欧米より優れていないのは、開明の程度がまだだというのもあるが、我が国の「視感」が彼の国に及ばないからというのも全くの誤りではなかろう。欧米人が視感を活用するのが大きい。

少しの視感から鴻大無比の成果を為した例として、以下の通り。
・やかんの沸騰から蒸気の圧力を利用する蒸気機関を発明
・死んだ蛙が摩擦で震えることから電力や電信を発明
・石鹼の泡が上に上るのを見て気球を工夫
・ 水車や風車も同じ

この類は枚挙に暇ない。日本人は欧米人に比べて才や力が劣っているのではない、議論の力が低いのでもない。しかし視感が遥かに乏しい。これは嘆くべきことだ。
英仏他では、幼児教育でこの視感を鍛えることを重視している。市街地や工場に時々赴き、家に帰ってから見たことを質問して視感の具合を試した。よく記憶した子は褒め、忘れた子はしかることで、視感を育てた。
日本人も視感が大切なことを察して、古今内外の事物を観察し、深く工夫を凝らして勉励すれば、工業で必ず利益を生む。目で見て耳で聞くことで知識を増やせるかどうかは、心を用いるか次第だ。

視感とは、目で見た事象を記憶する集中力や観察力、そして世の役に立たせる応用を閃かせる洞察力で、それらを「心」としているのかと理解しました。
そして観察力、洞察力を得るのには、基本的な自然科学の素養も大きく関わってきます。物理や道理が頭に入っていれば、モノを見る解像度が違う。同じ山を見ても、ただ景色を眺めるのと、気候の特色、植生の特徴、土壌の性質、地層の違い、斜面防御や舗装の工法を知って視るのとでは、得られる認識の深さが各段に異なる。その山に何が起きていて今後何が必要でどうすればより持続的に保全発展できるか、そうした視座があって初めて気づく。

素養を幼少期から鍛えて「心」を用いていれば、日本人の工業力も秀でていくだろうと大鳥圭介の言葉。

「このような大鳥圭介の激励に応えて明治の工業家は多くの発明をした」と猪尾氏は述べます。
タカジアスターゼやアドレナリンの発見者高峰譲吉はじめ。いのぐちポンプの発明者井口在屋、黒色インキや日露戦争を勝利に導いた下瀬火薬の発明者下瀬雅允、紡績機械開発し大阪発動機(後のダイハツ)を指導した安永義章など、大鳥が校長だった工部大学校出身の発明者、開発者は枚挙にいとまありません。

映えやイイネ獲得を狙った光景を目にすることが多い昨今。それらを見て羨ましくはなりますが、観察し発見し洞察し発展させる深みを得ることは然程ない。
視感を有するというのは、深い視座に基づき発展させ後に残すものを感じる在り方かと思います。刹那ではない、確固とした、後々続く粮と潤いが得られる。

工業上の発見や発明のみならず、事業の計画設計、インフラ建設や維持管理に必要な知見としても同様に、視感、つまりしっかり目で見て心に刻み込んで知見をフル動員して考えて次を構築していくことが重要なのだと感じます。

周辺の見聞きをするものも、現在はPCやスマホのツール、GPSベースのGIS地図に頼り、DXやAIが傍らで進化している。物事の現象から何か新しい事を発見をするにも、素養を鍛えて周辺に何があるのかをまず理解するまでが大変ですが。新しく役に立つ事業を行うにおいて、視感が基本であることは、同じなのではと思います。
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2022年05月09日

飯塚〜鹿沼にて、壬生の使者


同じ事柄でも、書く人により印象が異なる。
というのを如実に表すのが、壬生の使者や栃木における、大鳥圭介と浅田麟之輔の描写です。

慶応4年4月11日の脱走後、報恩寺、竪川を経て市川参集後、前軍と別れ、大鳥は中後軍を率います。中軍は間道から12日松戸、13日小金、山崎泊。14日船形泊、ここで後からきた瀧川・宮氏と合流。15日筵打・仁連へ。
そして4月16日日武井村の戦い、17日小山の戦いで、伝習第二大隊・貫義隊・草風隊などの旧幕府軍は四連戦、全て勝利します。

四月十六・十七日の戦い概略は以下の通り。
1) 4月16日:朝、小山の戦い。草風隊・貫義隊・凌霜隊vs平川和太郎支隊(彦根藩、笠間藩、壬生藩)と遭遇戦
2) 4月16日:午後 結城・武井村の戦い。大鳥中後軍vs長州の祖式金八郎(館林、須坂、岡田)支隊
3) 4月17日:午前、小山の戦い。大鳥中軍vs香川敬三本隊(宇都宮・彦根・岩田村・岡田+平川支隊)
4) 4月17日:午後、小山の戦い。大鳥中軍vs祖式金八郎支隊

上の内、1)は別動隊の草風隊・貫義隊・凌霜隊。大鳥・伝習第二大隊が直接戦ったのは2)、3)、4)の三戦です。
既存小説キャラ設定を信じている人は、大鳥のビギナーズラックなど宣いますが。決してそうではありません。この頃は装備も欠損なく、数の上でも優勢だったという面もありましたが。大鳥らは伝習隊の撒兵を運用し、兵術の手腕を新政府に見せつけました。

周辺地名配置は以下 Google Earthにプロット。
102.JPG

戦闘の推移詳細は過去記事「維新期の兵式 その4 武井村・小山の戦い」 の通り。

現地の様相などは以下のツリーをご参照下さい。
https://twitter.com/irisiomaru/status/1520423669855830017?s=20&t=TVpH9uPqRmsN59T40ZG1fA

小山陣屋跡地
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小山の西側の思川
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これで新政府総督府は「賊猖獗」と戦慄。大急ぎで救援隊を編成し、第一次救援隊(土佐因州松本吹上等)大久保忠告兵と第二次救援隊(長州薩摩大垣)、第三次救援隊(薩摩大垣)、第四次救援隊(土佐 因州)の援兵を宇都宮に送ります。

小山の戦いの新政府側は彦根、笠間、館林、宇都宮、結城、壬生、岩村田など藩の兵。その内壬生は、蘭学が盛んで、大鳥の江川塾時代の知己も藩士に何人かいました。

小山の連戦の後、四月十七日夜に飯塚村に宿陣。疲弊した一日。日光を目指すため、次には壬生を通るルートとなる予定です。壬生兵は小山での戦闘ですでに新政府軍の一員となっていました。このままでは壬生と激突必至となります。

「小金、宇都宮には敵兵多く屯し、壬生藩の心腹も図り難く、我兵隊は前にも記せるが如く疲労窮るゆえ、若し不意に事あるときは如何せんと苦心限りなし。去れども幸にして無事なるゆ暁方に至り少しく眠ることを得たり」

壬生藩はどういうつもりなのか、自軍も疲れているしどうしようと、大鳥は苦心し眠れない夜を過ごします。
翌朝十八日、大鳥らは、壬生の心積もりを問うため、壬生に使者を送りました。
この使者の一連の流れは、大鳥の南柯紀行、浅田の北戦日誌の双方に書かれていますが。その対比が面白い。 浅田の目、つまり外から見た大鳥と、大鳥本人の内面が、別人であるかのように異なります。

まず大鳥の南柯紀行。
「十八日朝、早起、壬生城へ向う心得にて出発の用意をなし、已に先方の者繰出しせし所へ、壬生藩より士両人使節に来り述ぶるには、幣藩にも官軍の人数入城致し居り、乍去御隊へ向て失敬の義之れありては不相済、彼是困却の至りに有之候間、何卒城下御通行の義は御見合被下度、尤も道案内の者差上候間、当宿より栃木駅のほう御通行の義願度と、丁寧に申伝えしゆえ基より我曹交戦は好むところにあらざれば、即使節の言に随い、駅内より左に折れ河流を渡り田間の細路を経て行進せしに、途中に怪敷者三四十人居たるよしにて先方の兵隊二十発計も発砲し、追かけたれども格別の事もなく、其儘にて行き過ぎ、其後兵糧を農家にて遣い、終に栃木駅に出て小休す」


壬生城へ向かうつもりで出発用意。あらかじめ使者を送り出していたところ、壬生から二名の使節がきた。使節が言うには「壬生藩にも官軍が入城しているのだが、貴隊への失礼があってはすまされず、困り果てている。どうか城下の通行は見合わせて下さい。道案内を差し上げますので、壬生宿から栃木駅のほうを通行してくださいと」丁寧に申し伝えられた。元々自分たちは交戦は好まないので、使節の言の通り、駅から左に折れて川を渡って田んぼの間の細道を経て行軍した。途中に怪しいものが3,40名いて兵隊が発砲して追いかけたが、格別のこともなく行き過ぎ、途中農家で兵糧をもらい、栃木駅に出た。

と、お互いがお互いの立場を慮り、壬生が間道への案内人を出したことで何ごともなく間道を通過できた模様です。

対して、浅田君の記録である北戦日誌。

四月十八日暁七つ半時、壬生城へ使を遺る。其辞に曰く、
「昨十七日、小山驛に於て彦藩及其他の六藩、我輩の日光廟に詣る途を遮り、加之東照宮の旗章に發砲す。是何等の暴挙ぞ。我等敢て戰争を好まず。然りと雖も、事卒爾に出て止を得ず終に一丸を發つて、盡く賊を走らす。聞く其兵壬生城に據ると。夫れ貴藩は幕府恩顧の一名家にして、其祖彦右衛門元忠は、烈祖會津征伐の時、伏水城に據て無雙の勇戰を遂げられしは、普く世人の知る所也。今幕府傾危の秋に至て、君家の仇たる奸雄の徒を佐け、正く幕臣たる孤獨の吾儔を撃つ、是れ何の道理ぞ。抑吾等、兵器を携え日光廟に抵るは、全く錦旗に抗するに非ず、只神廟を護衛せん為め也。貴藩、若し先非を悔ひ我輩を助る時は幸甚し。又錦旗に拘泥して奸雄を佐るに至らば、士道に於て、止むを得ず即時に問罪の師を發し、孤城を屠ん事、今夕に在り。敵す可ならば、塹を深うし塁を高うして、以て吾軍の抵るを待て。舊幕を佐るの意あらば、速に賊を攘ひ、以て其首を捧げ来れ。乞有無の報告を待つ」と。


明け方朝5時、大鳥の使者が壬生藩へ。「小山駅で彦根他の藩が、我々が日光へ詣でる道を遮って東照宮の旗に発砲した、何の暴挙だ。我等は戦争を好まないといえど、やむを得ず弾を放って賊(新政府軍)を敗走させた。それらは壬生城を拠点にしていると聞いた。貴藩は幕府恩顧の名家だ。祖彦右衛門元忠は会津征伐で勇戦遂げたのは広く世人が知るところ。今幕府の危急の時に、君家の仇を援けて、幕臣の我々を討つとは何の道理だ。我々が兵器を携えて日光に拠るのは錦旗に抗うためではなく、徳川の廟を護衛する為だ。もし貴藩が先の非を詫び、我が軍を助けるなら幸いだが。敵を助けるのならば、士道において已むをえすその罪を問い、今夕にも壬生城を屠るだろう。敵になるなら塹壕を深く掘り、堡塁を高くして、わが軍を待て。旧幕を助ける意思があるなら、速やかに敵を追い払い、その首を捧げ持ってこい。報告を待つ」

と大鳥隊から壬生へ送った使者の言。ものすごく居丈高です。というかほとんど脅迫です。
これに対して壬生から使者がやってきました。

辰の刻に至て、壬生城の老臣来り、謝て曰く、小山驛の戰争、吾藩士曽て幕府の兵なる事を知らず、愆て神纛へ放發するに至る。然れ共、其罪遁るるに道なし。依て昨日出師の隊長を為て自刃令め、今其首を掲て来て、軍門に謝すと。
則ち是を大鳥氏に告ぐ。大鳥曰く「是れ偽也。豈将士の首級ならん乎。戰死を遂たる兵卒の首也。雖然、彼既に此語を吐く。我輩元来途中の戦を好まず、宜く對て而して後に彼が状を窺ん」と。
則ち謁見して敵の多寡を問ふ。使答て曰「薩長の兵百五十人餘、十七日の敗兵八百人、許城外に陣す。幕兵来らば、彼等必ず抗撃せん。然る時は前に葵旗在り。後口に錦旗在り。我藩中間に在て、甚だ困窮す。若し進軍せんとならば、間道に行ん事を乞ふ」と。
大鳥曰「餘の兵は免ず共可也、薩長は九世の仇たり。進撃為すんば有可らず。抑公等、言を工みにして両端を量り、勢ひ微なるを殲さんとす。悪む可し。両端に心は士の愧る所。我輩豈斯の如き不義の士を頼んや。疾に軍を進めて、其城郭を屠ん。直ちに帰て備を為せ」


午前八時ごろに、壬生から老臣が来ました。小山戦争では、壬生藩は相手が幕府兵であることを知らず、神旗にも誤って発砲してしまいました。その罪から逃れる道はありません。よって昨日戦場に出た隊長を自刃させたので、その首を持ってきました、と壬生の臣。
これを大鳥さんに告げると「これは偽物だ、将の首ではない、戦死者の兵卒の首だ。ただ彼らは既に謝罪の語を述べている。我々は元々、途中の戦を好まない。会って壬生の状況を伺おう」と。大鳥は壬生の使いに会い、敵の人数を尋ねた。壬生の使いは「薩長の兵百五十人あまり、十七日の敗兵八百人ほどが、城外に陣しています。寡兵で来れば、彼らは必ず攻撃してくるでしょう。前に徳川の葵の旗、後ろに錦旗があり、その間に挟まれて困窮しています。もし進軍するなら間道を行くようお願いします」 という。
大鳥「他の兵は許すとしても、薩長は九世の仇だ。進撃しないわけにはいかない。公等は言葉を巧みにして双方を量り、勢いが少ない方を倒そうとしている。憎むべきことだ。両方に心があるのは士にもとる所。そのような不義の士を頼みにはしない。早急に軍を進めてその城郭を屠ろう。直ちに却って備えをせよ」

間に挟まれた苦しい立場で、何とか穏便に済ませたい壬生。大鳥からの使者が要求した通り、昨日小山の隊長の首を持ってきました。大鳥は使者に対し、薩長は九世の仇だ、新政府軍を城に入れた壬生を屠るから帰って備えろと、などと応えています。ただ、薩長の中にも大鳥さんが世話になった人、大鳥さんの教え子なども沢山いますので、大鳥さんがこれをことさら言うのは違和感あります。薩長憎しは旧幕臣や会津など他の方々の総意でしょう。参謀や他の方々の発言が、浅田君の中で大鳥さんに集約されて記述されているような気がします。

使曰「真に困窮せり。我導引して隘道に抵らん。且金穀を贈て軍費を助けん」と齋す所の一函を開きて、若干の金を出して曰く「軽微ながら吾主君の贈る所。宜く収めん事を乞ふ」と云。
大鳥曰「我輩は波獄に據る水藩の徒と同じからず。小藩を劫し人民を掠るの不義をせん乎。今、天涯據る処なきの一孤客と雖共、尚舊幕府の臣下たり。豈微小の金穀を闕可き、夫れ我儔の日光廟に據ん事を欲するや。一つには神廟を護衛し、二には君家の無辜を訟へ、三には君側の悪を攘ひ、以て四海の富嶽の易きに置んと欲す。今、敢て小事に関係し、道路區々として遅滞せんも益なし。公ら、斯迄迷惑せんとならば、隘道を進まん。米穀は受け可く、金は受可らず。又携来る首級、見るに及ばず。善悪共に君家の為に死する者、是即ち忠士なり。吾等、豈軍門に梟するに忍んや」
使大に喜び、隘道の導を為す。土人に命て粮を炊か令め、能く周旋したり。


使者は「誠に困ります。私が間道へ案内します。また金と穀物をお送りして、軍費を助けましょう」といいながら、箱を開いて若干の金を見せ「軽微ですが主君からの贈るところです。納めてください」と申し出た。
対して大鳥さん「我々は水戸の徒(天狗党か)と同じではない。小藩を脅して人民から略奪するような不義はしない。今は天涯拠るところのない孤軍だが、なお旧幕府の臣下だ。わずかな金や食料を受け取って日光に拠ろうとは思わない。日光に行く理由は、一つは神廟の護衛、二つ目は徳川の無辜を訴え、三つ目は君側の賊を追い出し以て世の中を安定させることだ。今小事に関わって遅滞するのも益はない。公らがそこまで迷惑するというなら、間道を進もう。米は受け取るが金は受け取らない。また首は見るに及ばない。善悪ともに、君家のために死ぬ者は忠士だ。軍門にさらし首するのは忍びない」
遣いは大いに喜んで、軍を間道に案内した。また、地元民に兵糧を炊かせてよく周旋した。

この使者への大鳥さんの台詞に、脱走の表向きの目的がまとめられています。江戸から持ち出せた資金はさほど多くはなく、壬生からの金の供与申し出はありがたいのでしょうが。小藩から金を巻き上げるようなことはしないという姿勢。日光に行けば何とかなると思っていたのかもしれません。兵糧はありがたく受け取ります。
あと首は見るに及ばず。さらし首にするのは忍びない。見たくないのでしょう。首を要求したのは大鳥さんではなく他の人ではという気がします。

傍見者必ず曰はむ。此時直ちに壬生を屠り、敵を放逐せば、愉快ならむと。然れ共、本文大鳥氏の説の如く、元来一小城に関係して日光の道路敵の為に絶るるに至る時は、我黨は死地に陥て、一人も存ずる者有可からず。一時も疾く嶮に拠居し、會津城に通じて大事を計んとす。故如何とならば、此時奥羽は未だ敵地にして、會藩と雖共有無の挙動知れ難し。故に我等、疾に其基本を固ふし、而して後上野の二州を下し、時機を窺て都下を回復せんの意有る故に、今彼が因循を咎ずして、暫く其意に任せ、隘道に進む也。
此日、巳の刻、壬生使を導者として、飯塚邑を發し、隘道狭路を経て、午前野州栃木の街に據る。人戸千五六百、富商最多し。足利領に属す。暫く休憩、粮を喫し、未過整列軍を進て行く事一里半、合戦場の驛に抵る時、未だ晩ならずと雖も、兵卒の戰労有るが故に、此所に宿る衆、初て汚穢の衣裳を濯ぎ、銃を洗ひて、各睡に就く。


傍観者は、ただちに壬生を屠って敵を駆逐すれば愉快だったのにと、必ず言うだろう。しかし大鳥氏の説のごとく、一小城に関係して日光の道路が敵の為に絶えると、我軍は死地にあって一人も生き残らないだろう。一時も早く日光の険に拠って、会津に通じて大事を計ることが必要だ。まだ奥羽は敵地で、会津も挙動が計り知れない。我々はまず足場を固めて、上野の二州を下して、時期を見て江戸を回復する意思がある。そのために、壬生の因循を咎めず、間道を進んだのだ。
この日午前10時に、壬生の使いを案内として飯塚を出発、狭い間道を経て、午前中に栃木街に入る。足利領で1500軒もあり商人多い。ここでしばらく休憩し飯を食って通過し、6kmほど行くと合戦場の駅に至る。まだ日は暮れてなかったが、兵隊が疲れているのでここに宿をとる。汚れた衣服をすすいで銃を洗い就寝した。

旧幕の面々は壬生を屠りたかったようですが。大鳥さんが言う通り、とにかく早く日光に行くことを優先させます。この後、秋月土方の前軍が小山の敗兵の籠る宇都宮を陥落させたので、そちらへ行くことになりましたが。この十八日時点では、目的地はとにかく日光です。上述の通り、日光から上州を下して、江戸を回復させるのが彼らの目的でした。その目的のために、栃木の町に出て、合戦場で宿泊しました。
なお、合戦場は名前は戦場ですが、旧幕軍の行程上はただの宿泊地です。

よく解説などで大鳥が宇都宮を目的としたと書かれることがありますが。大鳥自身と伝習第二大隊など中軍が宇都宮を目指したわけではありません。秋月土方の前軍が宇都宮を落としてしまったために、大鳥の予定が狂ってしまったのでした。

浅田君はこの日のことはあっさり書いていましたが。
大鳥南柯紀行における栃木。

当駅は人家多く甚だ繫昌の市中にて戸田長州の陣屋あり、陣屋の人々兵隊の群がり至るを見て大に動揺せる様子あり。長州はかねての知人なれば殊更気の毒に思い、使節を陣屋に遣わし、今、日光山拝礼の為め、当地通行するなり。兵士に至るまで決して粗暴の挙動をなさしめず、必ずご安堵あるべしと伝えしかば、大に安心の趣にて丁寧の謝辞あり。少休の後出発し、其隣駅(失名)に至りしところ伝習隊の者の由にて栃木にて酒数樽無法に奪来りたることを聞き大に驚き、すなわち本日の宿泊合戦場に着き、右の酒屋を呼び出し其代金十六七両を払遣わし、不法の所業ありしことを謝したれば、其者感涙を流して辞し去れり。


栃木の戸田長州さんは大鳥の知人。陣屋の人々は兵隊が沢山来て大騒ぎに。大鳥は戸田氏に申し訳なく思い使節を送り、日光拝礼の為に通行するだけで、兵隊には乱暴させません、ご安心ください、とお伝えした。丁寧に礼があった。しかしその後隣駅に至ったところ、栃木で伝習隊の者が酒樽を数個、無法に奪ったと聞かされる。吃驚して、合戦場に着いてからその酒屋を呼んで、酒の代金16,7両を払い、不法を詫びた。酒屋は感涙して去ったと。

大鳥さん、戦以外でも本当に苦労しています。南柯紀行の真骨頂は、戦闘以外の、戦闘を継続させるための苦労の記述にこそあります。なお大鳥さんは歩兵の乱暴には後からも困りました。宇都宮では焼け出された無辜の民に乱暴狼藉略奪を働いた歩兵2,3名を処刑した上、「歩兵が乱暴働いたら撃ち殺して良し」というお触れを出しました…。

というわけで、浅田君の筆による高飛車な大鳥さんと、ご自身の記録では心砕いて藩や兵隊に周旋する苦労性の大鳥さん。二人の筆では全く別人に見えます。 しかし行いは全く同じで、双方の結果に矛盾は無いのが面白い。

浅田の大鳥さんを見る目が偏っていたのか、大鳥さんは外面は威圧的に振る舞いつつ内心がこれだったのか。
北戦日誌の大鳥は、旧幕府軍にとってこうあってほしいと加工された理想的な総督キャラ。南柯紀行の大鳥は、理想とかそんなんしらんがなという素で生の大鳥、という気がします。
北戦日誌は、衆議における柿澤勇記や他の旧幕諸将の発言も、それを総括する大鳥の言動としてまとめている可能性もあるかと思います。
いずれにせよ、 資料の比較対照により物事の多面的、立体的な見方が得られます。また、一方で一つの資料だけで物事や人を決めつけることは危ういのだということに思い至ります。

壬生城跡。
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城址公園は現在歴史民俗資料館や藩校学習館跡となっています。
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下野に珍しい近代城郭。4月18日は旧幕軍に攻め込まれるのを回避しましたが。この後4月22日夜に大川隊に攻め込まれ、焼かれかけます。
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合戦場の駅で合戦はなく(ややこしい名前)、リフレッシュした翌日、中後軍は4月19日鹿沼へ向かいます。その途中、宇都宮方面に烟と炎が上がっているのを見ます。鹿沼について、前軍が宇都宮を攻撃したという話を地元民に聞く。大鳥さん「虚実も測り難く」マジかいな、という感じ。

ちなみに鹿沼は上図の通り、宇都宮の真西に位置しています。当初大鳥さんたちは宇都宮に行く気はなく、まっすぐ日光を目指していたことが、ここからも伺えます。

翌日20日に宇都宮に入り、新政府軍総督府からの救援隊が、続々壬生に入っていることを聞きます。また大鳥さん江川塾同僚の壬生藩士友平慎三郎が、今のうちに壬生城を襲えと策を立ててきました。よって21日、壬生への夜襲を決意することになります。

壬生の危機は続く。
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2020年12月12日

サイト移転


「大鳥圭介と伝習隊 天下大変」サイトを移転しました。新しいURLは以下になります。
http://irisio.sakura.ne.jp/top.htm

暗号化通信規格であるTLS 1.0/1.1が脆弱性の問題で主要ブラウザで非対応になることに伴い、以前から使用していたレンタルサーバ(使えるねっと)のサービスが終了してしまったことによります。同じ会社の新サーバへの移行もありえたのですが。元々使いづらかったので、この際違うサーバへ引っ越しすることにしました。

単純な個人サイトでも面倒ですが。ビジネスベースのシステムで規格のアップデートに常に迫られ維持管理されているSEの方々には本当に頭が下がります。

サイトの内容も2003年時点のカビの生えたHTMLの作りのままで、今になっても置いておくのも恥ずかしいのですが。ありがたいことに資料や年表などは参考にして下さっている方もいるようだったので、最低限参照できる形として残しておきたいと思いました。

そして「けいすけじゃ」です。「けいすけじゃ」はいつでもどこでも誰でも見れる形にしておかねば。

改めて見直すと、シャスポー銃の所で伝習隊が用いていたとするなど古い認識の記述も残っており、アワアワしています。
リンク切れなど大量に残っておりますが、徐々に対応していければと思います。

近頃のWordpressなどを用いたブログは、最初に目次、目的、内容要約があり、最後にもまとめで締め、読者が趣旨をはっきり理解しやすいテンプレートになっていて、素晴らしいです。
このブログも更新の際は、漫然とテキストを打つのではなく、伝わりやすい構成を意識したいと思います。

Seesaaブログは、今後もサービスを続けてくださることを祈るばかりです。

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2020年10月22日

母成峠、檜原西会津の流離 その2


母成峠後、米沢以降の大鳥と伝習隊。続きです。
大鳥ルートは、米沢→綱木→檜原→大塩→塩川→慶徳→木曾→陣ケ峰・泥浮峠→長窪→小田村・塩川→大塩→檜原→秋元原→土湯村→鳥渡村→福島→桑折→白石→仙台。

米沢を抜けた重傷者と浅田君ルートは下の肌色ルートです。
yonezaawa.JPG

8月25日
大鳥は負傷者以外の兵を連れ、檜原に戻る。米沢からの道は、通行できないよう大樹を切り倒し道が塞がれていた。檜原で会津藩神戸の周旋で兵糧を整え、若松の動静を聞く。とにかく若松城の近くまで行けば敵の動静も分かるだろうと議定。

8月26日
檜原を発し、塩川(喜多方)へ。途中の大塩で桑名兵に遭う。彼らも米沢の方へ行くとのこと。大鳥は若松の模様を探る。「若松の方に砲声殷々と聞こえたり」 新政府軍は市中に入り込み東山滝沢にも充満。城内への砲撃の様子を事細かく記す。

8月27日
塩川滞陣。大鳥は「城下の砲声は間断なく、耳に轟き心神を悩ましたり」とずっと若松城を懸念している。
一方、浅田らは米沢街に到着。昨夜米櫃に糞尿を為した者があった。米沢の法に基づき処罰で96人を獄に入れると言われた。浅田は、自分が罪を受けるので他の兵は国境に出せと主張。これは米沢が薩長に下ったから邪魔な旧幕を処分したかったのだろうと浅田は推測。藤原を去った伝習隊士官杉山・高木が米沢兵を訓練しており、彼らの周旋で事なきを得る。綱木で会津人がさらし首になっているのを見たのもあり、「真に悪む可きの姦賊たり」と米沢の仕打ちに浅田は激怒。

8月28日
塩川。田島からきた横地秀次郎が大鳥に合流。横地は途中村民に囲まれ殺されかけた。「村民共、兵士の(若松)城内より出るものを見れば、不義者なりとて取り囲み処々にて猥りに殺害せしものありたるが、此輩も城より逃出でたる者ならんと見かけて粗暴の振舞を為したるものならん、一理なきにあらざれど、余り残酷なる所業なり」と大鳥は記す。(それは城から逃げた不義者の成敗ではなく、会津村人による落ち武者狩りなのでは、という気も)
大鳥は白石へ行く織田隊州、三宅大学と談じて印鑑を取り交わした。

浅田は米沢を抜け仙台領湯の川関門へ。浅田の叔父、高橋護がたまたま居、彼の周旋があったおかげで関門を通通貨できた。高橋がいなければ斬首されていた所だった。

8月29日
越後口の官軍が、津川から山三郷の柴崎へ進軍してきたことで、この方面へ出張を依頼される。翌9月1日、友成将監の青龍隊は塩川に残し、伝習第一・第二大隊約二百と慶徳を経て木曽へ。木曾で長岡兵の隊長と軍議。

9月2日
長岡兵と共に木曾発。陣ケ峰・泥浮峠の戦い。敵が高所で地形が悪く、大鳥らは退いて地理を見定め、そのまま帰陣。士官の山本・布施が途中の村で敵に斬首され、大鳥は「憫然の至り、涕泣に堪えざるなり」

9月3日
大鳥らは長窪(木曾から8q程、極めて高山の上)に滞陣。敵斥候を発見するが、地形悪いため見送り。山にはすでに雪。寒気おびただしく難渋。
この日浅田らは白石城に入る。初めて傷の治療を受けられる。浅田は眼が見えなくなる。浅田は海軍松島に至るのを聞き喜ぶ。

9月4日
長窪の戦い。敵三小隊と二時間ほどの戦闘で勝ち、弾薬を分捕り。しかし兵糧人足逃げて困疲。さらに木曾隣村の舘原で敵追撃あるが戦争にならず。慶徳を経て小田村に帰陣。
8月22日に会津が衝鋒隊に援兵を要請しており、今井、天野ら衝鋒隊中隊を率いて木曾口に着。

9月5日
小田村滞陣。大鳥は高久で戦争ある事を聞く。弾薬に火が移り破裂の由。これは衝鋒隊の戦闘だった。衝鋒隊は、高久・如来堂で戦い、深い霧で敵が近づくのを知らず壁を破られ、塩川に退く。南口は大内峠が破れ火焔。敵軍は関山村まで至る。

9月6日
この頃、古屋・今井ら衝鋒隊と大鳥ら伝習隊が合流。
今井信郎「北国戦争概略衝鋒隊之記」のこの時の様子。
「将軍山の敗より会藩、伝習隊を疑ひ、互いに不快を生じ、議論合わず。今日の大挙を快となさず、弾薬兵糧運漕の人夫を断り壱人を送らず。粮米已に尽く。我総督(古屋)会藩に書簡を送つて和解を進むれども猶頑論にて和せず。且我にも疑いを入る。ここに於て諸隊憤然会藩と死生を共にするの志なし」
母成峠敗北で会津は伝習隊を疑い互いに不快。伝習隊が泥浮長窪で戦っても会津は喜ばず、弾薬兵糧も送らず。食糧は尽きる。伝習隊衝鋒隊は会津と死生共にする気が失せる。大鳥古屋はこれを患い、若松城を救うには一端福島に出て各藩の隊を合わせるしかないと議決、とのこと。

母成峠敗戦で会津が伝習隊を疑った事について。
・大鳥は奥羽列藩同盟の後で会津執政に練兵を建策していても、同盟成立で会津首脳陣は気分緩んでおり、大鳥の増兵についての提言は受け入れられなかった。
・大鳥は農民を虐げると人心を損なうから放火は固く禁じていたのに、某会津藩士が兵を率いて船生村を半ば焼払ったので、その役を免じた。その他、塩原、三斗小屋など会津に焼かれた宿場や村は数知れず。
・母成峠戦の前日、8月20日に大鳥が反対した二本松襲撃に伝習隊を向かわせた。二本松への行軍中に、進軍する新政府軍と山入村で遭遇戦い。ここで会津兵、仙台、二本松兵は伝習隊を置き去りにして逃げ、伝習隊は大打撃を受ける。浅田も重傷を負い、部下にモッコで運び出され一命をとりとめた。その翌朝の母成峠戦は、伝習隊兵士は会津らに対して憤慨しており、士気は皆無。ただでさえ寡兵で劣勢。その状態では勝てる戦いも勝てない。
・8月21日の母成峠戦では、会津の放火に反感を持った領民が、進んで新政府軍を道案内した。その挙句に、会津農兵が戦闘中本営に火をつけた。

上の状況で、誰が勝てるのか。伝習隊は会津から補給を受けているとはいえ。会津兵に足を引っ張られ続けています。そもそも会津の領民統治のまずさ、衆民の会津統治者への不信感が、母成峠の戦いの敗因の根底にあるのではないかと考えられます。会津には申し訳ないですが、伝習隊の言い分はかなりあるでしょう。まして伝習隊の歩兵は武士ではなく、会津に恩も義理もない無頼の徒。この惨状で責められれば「会藩と死生を共にするの志」など皆無になるのは、当たり前ではないかと思えます。
その状況でもなお、会津を救おうと足掻く大鳥。見捨てる気持ちにならなかったのがむしろ不思議です。柿沢勇記や山川大蔵など会津藩士との交流も影響したのかもしれません。

9月7日
小田村。慶徳へ本多・大川兵出張。3,4日前に越後口も南口も破れ、上も下も大騒ぎ。弾薬は尽き、兵糧も行き届かず。負傷しても療養する場所もない。兵は奮戦して力戦する気もない。大鳥、大嘆息。

なお、大川正次郎奥州南口戦争記「衝鋒隊古屋作左衛門兵を師ひて同所(小田村)に至るに遭ふ是より先徳川の海軍江戸を脱走し軍艦数艘乗込榎本釜次郎始め同盟二千人仙臺に至るの報告あり」とあるので、この時点で仙台の榎本海軍の情報がもたらされていた可能性あり。しかし福島に出た時点でも、なおも若松援護しようとしてたのは確かです。

9月8日
官軍は米沢城下へ進軍、檜原から敵侵入ある由。袋の中の鼠の如く、前後左右挟撃される恐れあり。古屋作久左衛門と談義する。大鳥は「この状況で決戦しても見込みはない。二本松を回復して仙台援助の道を開く方がいい。ただ、この地を引き払えば籠城中の皆が力を落とす。城を見捨てていくのは本意に背く」と。古屋「挟み撃ちになれば離散して全滅犬死になる。思い切って福島に出て、仙台、庄内他の兵と合わせ二本松を抜けば、会津城の囲みを解く一策になる。直ちに決心しろ」と意見。大鳥はこれに承諾。
今井の北国戦争概略衝鋒隊之記も「古屋大鳥これを患へ、この上は一朝に猪苗代を回復なすとも久しく守る能わず。只に兵を亡するのみ。然りとて徒に亡を待つは無策。一と先福島に出て諸隊を合せ、若松を救はんと翻然議を決し」
そこで慶徳出張の兵を引き上げ、檜原にいる瀧川にもこれを通達する。会津の北方隊長の上田にその旨を通知。夕方、餅を分けて出発。

ここで谷口四郎兵衛日記によると、山口次郎こと、斎藤一ら新選組14名は別れて、若松方面に残ることになった模様。齋藤が大鳥に、会津を見捨てるのは誠の義にあらずと言ったとしばしば言及されますが。上の通り、大鳥は会津を見捨てるどころか、二本松を抜く現実的な手段を見出す為に福島に転陣しようとしていました。谷口日記が、9月20日松島でこの日を振り返った記述
「廿日松島二着陣第一ヲ以第二大鳥圭介エ合兵ス、又松山唐津臣三藩土方二属新撰組ト成。…今既二(新選組の)隊伍果ントスルニ拠テ新規隊伍ヲ建本新撰組ハ将軍山敗軍ノ後死多ク、山口次郎始十四人残塩川二大鳥圭介逢合ノトキ共二仙台行ヲ論スル二山口次郎ノ曰吾等会津見未諸国戦ヨリ遂ニ今盟士多ク戦死僅拾四人残左レバ是ヲ後起サン志アレドモ一トタビ会津来リタレバ今落城セントスルを見テ志ヲ捨テ去誠義二アラスト」
上のパートでは「塩川」(小田村に近い)「仙台行ヲ論スル」とあるので、この日のことでしょう。
この谷口日記の記述は、20日松島に付いた際、新選組の数が減って隊伍が組めず、土方が他藩の藩士を新選組に入れなければならなかった理由の説明です。新選組の数が少ないのは、山口次郎(斎藤一)ら14人が、いったん会津に来て落城しようとするのを見て去るのは誠義ではないと言って離脱したからだ、とのこと。この時、齋藤一が「誠義にあらず」と述べたのが何故かあちこちで強調されていますが。日記の記述を読めば、斎藤が大鳥一人に直接当てつけがましく言ったわけではないことは明白です。
大鳥を含む、会津、伝習隊、衝鋒隊他が、会津を助ける為に仙台・庄内と力を合わせる目的で仙台行きを議論していた、その中で齋藤達は会津に残るのにそう述べた、という流れです。「誠義」が會津と一緒に潔く自滅することにあるか、場所を移してあらゆる可能性を講じて現実的に會津を救う手段を求めるか、その姿勢の違いがあっただけです。大鳥ら伝習隊と衝鋒隊は後者でした。

なお上の今井の記録の通り、ある会津藩士は伝習隊と衝鋒隊を疑い、互いに不快で議論が合わない状況でした。会津藩寄りの新選組一行が会津と一緒に残ったのもその辺りがあったと考えられます。大鳥もこの状況で強いて新選組に福島行きを誘いはしないでしょう。
あと「誠義にあらず」と齋藤が土方に言ったと解説する人もいるようですが。この時点で庄内に向かっていた土方は、米沢を抜けられず、西会津方面には来ないまま仙台へ直行。よって土方はこの場にはいませんでした。なお土方は「荘内の藩論を聞き公らに通ずべし」とのことでししたが、荘内の援兵不備の連絡も、仙台合流時まで土方からはありませんでした。
繰り返しますが。「誠義」は立場により違います。斎藤ら残った新選組にとっては、会津との心中がそれだったのでしょう。大鳥にとっては犬死ではなく、まず兵を生かし戦える状態にした上で現実的に会津を援ける事こそが、義でした。この時点で、大鳥たちが會津を見捨てたなどと捉える人はいないでしょう。

9月9日
古屋らと共に小田村出発。大塩から暗夜険路、難苦を極めて檜原へ。22時裏磐梯木地小屋着。

9月10日
朝6時発。秋元原へ。道に迷う。「十回余も渓流を渡り、九月の初旬なれども寒気冬の如く、高山にては半腹にても雪降り、夕方には流れを渡ればズボン抔も凍て堅くなりたり」と、ズボンも凍る寒さと腰までの雪の中、裏磐梯秋元原超え。母成木地小屋、沼尻嶺上り、温泉場抜け、雪を掬って渇きを癒し、石に躓き木の根に倒れ指を傷つけ、昼夜兼行。土湯村に至る。酒屋あり酒を一二杯。湯治していた官軍の怪我人が逃げる。

9月11日
土湯発。鳥渡村宿。ここは元は公領で村人は親切。純義隊来着。瀧川・鈴木も到着して安堵。

9月12日
鳥渡発、福島着。大鳥から小笠原侯、竹中春山の本陣で二本松進撃を伝えた所、仙台も国論変じ、荘内も国論定まらず、兵隊をここに置くのも難しいとの事。目算が違い一同愕然。ならばいっそ米沢兵を攻撃して遺恨を晴らそうと、兵一同騒ぐ。
とにかく今晩は瀬之上駅で進退を決そうと、大鳥は小笠原竹中と別れる。午後大雨で兵隊は雨具を持っておらず憐れ。桑折の関門で泊。ここも公領なので村人は親切で、久しぶりに酒肴あり。

9月13日
桑折で再び大鳥は小笠原、竹中、古屋と議論。奥羽は一藩も恃みにならない状況。ここで暴挙で無駄死にしても益はない。仙台の海軍と力を合わせるほかないと、議論で決める。

9月14日
大鳥伝習隊は桑折から白石へ。浅田、大鳥らと白石で再会。本多瀧川大川と互いに無事を祝う。
大鳥はそのまま急駕籠で仙台へ。途中、仙台の福島に飛び出していく額兵隊と、それを止める仙台侯親子にすれ違う。松平、松岡、人見、春日ら知人に邂逅、悲喜交えて話し合う。

9月15日
大鳥、ブリュネ、カズヌーフら仏人教師と会い、手を握って涙を流す。
榎本と相談。奥羽の形勢がこうも変わったので、仙台に滞留するのも意味がない。蝦夷に行き天朝に嘆願し脱走者でかの地を開拓するというのに同意。衆議一致で、蝦夷行きを決める。

上のように、大鳥と伝習隊は、9月15日に榎本と議論するまで、仙台庄内など奥羽の他藩と共に会津若松を救う道を模索していました。しかし、米沢は離反、仙台も庄内も恭順姿勢と判明し、むしろ旧幕は排斥される方向性。ここに至ってようやく、蝦夷行きを決めます。
この時点でまだ若松城は籠城を続けていましたので、籠城者からは見捨てられたと思われたかもしれません(若松降服は9月21日)。この段階では奥羽列藩からの援護は全く見込めず、武器弾薬糧食の補給も不可能であり、さらに同盟者から攻撃を受けかねない以上は、継戦は全く非現実的でした。

参考:塩谷敏郎「戊辰ノ変夢ノ桟奥羽日記」

大鳥は常に籠城中の若松に連絡を行い励まそうとしていました。
塩谷敏郎「戊辰ノ変夢ノ桟奥羽日記」は、大鳥が何度も若松城に使者を送り形勢を伝えていたことを記録しています。

9月2日夕方、早雲勇男が塩川村の大鳥圭介の陣から使者として若松に。米沢勢と二大隊が援兵として塩川村へ着陣。大鳥氏は隊を引卒して越後口へ応援として出兵する旨。
9月5日、午後四時に乙女金吾が越後口の大鳥圭介の陣から来て、城外の形勢を話す。南口大内峠破れ敵は関山村まで乱入した由。

9月8日、工藤衛守が上州檜枝岐より入城する。松平太郎ら旧幕府の陸軍隊を二大隊引卒して脱艦に乗り組み、仙台石巻荒浜ヘ上陸の由。後日に確報あるだろうという説。

9月10日、大鳥圭介の陣から松田六郎が使者として来る。場外の形勢、米沢勢は二、三百人も塩川に到着したがさしたる事もせず見回るだけ。大鳥が出陣の労を謝したが挨拶もない。援兵なら城中の危急を傍観するはずもないと疑問生じている。また、仙台に軍監五六艘、仙台石巻着。船将は榎本和泉守だそうだと。適宜様相を伝えるので、早晩応援賀来ることを待つのみ

9月17日、早朝から砲聲夥多しい。午後六時、大鳥圭介陣ヨリ報知有り。上杉(米沢)勢は16日朝に我等が陣所ヘ攻撃、飯寺村在陣の朱雀隊へも同様に攻撃。格別の奮発はなく、空弾を発するとも。詳細不明だが米沢上杉家が背叛した上は、頼みの綱は果てた。ここで戦死する時節にもなく、これから仙台表へ趣き松平太郎榎本和泉守ニ参会し、機謀を受て会津若松の援兵を計る予定。各士においても堅固に篭城を遂げ、我等が良報を待ちたまえと、懇切の口上。各士は上杉家の様姿を聞て驚愕、また、大鳥氏の戦中での祥細な報知が大量であり賞感する。

塩谷氏は御料兵の会計官の立場から、会津若松籠された方です。塩谷氏の記述の日付は南柯紀行と5〜10日ほど時差があります。塩谷氏まで知らせが届くのに時間がかかったのかもしれません。
米沢について、大鳥らは直接記していませんでしたが、米沢は援兵を派遣しながら裏切って大鳥ら伝習隊及び朱雀隊を攻撃したことが示されます(ただし空砲とも)。これでは任侠の兵たちから裏切りへの怒りが噴出し、米沢と一戦、となってもおかしくありません。大鳥は抑えるのに相当苦労したと思われます。

また塩谷氏によると、上杉(米沢)酒井(庄内)の応援次第、城中からも打て出て勝敗を決そうと思っていたが、それらが敵方となり進軍してくる上は、最早これまで。この上は篭城続けるのも詮なく、一同は銘々粉骨細身して打て出て花々敷戦死しようと、勇気盛んになる。それを見て「働もすれば討死しようとするのは会津の風土だ」と、塩谷氏は旧幕陸軍の立場から客観的に記しています。
齋藤一もその会津の風土だったのでしょう。一方、大鳥は討死の風土は全く持っていませんでした。

そして会津若松城は、9月21日降伏を決し、開城しました。


まとめ

以上のように、大鳥達が会津を援けようと、餓えと弾薬欠乏と寒さと裏切りの中で、ぎりぎりまで足掻いた苦闘は、はっきりと記録で確認できます。大鳥、浅田、大川、北原など当事者たちは、檜原の流離い辛苦を、戦そのものよりも余程詳細に記しています。離脱や降服すれば楽になるのに、苦しく困窮しながらも継戦した。会津を救いたい思いはそれだけ大きかったでしょう。

しかし、会津における大鳥には誤解が付きまとっているようです。
大鳥と伝習隊は、会津を見捨てて無邪気に榎本海軍に合流したなどという人もいますが。以上のように、事実は決して違います。
母成の撤退、檜原から米沢援兵依頼、小田村塩川での福島行きの決定、仙台における蝦夷行きの決定など、大鳥は会津を含めた周りと議論し、周囲の意見を取り入れ最善の方向を決めています。

また、「大鳥圭介は会津藩の農民が年貢に取り立てられ戦には無理矢理参戦させられ戦意に乏しいのを熟知してなかった。一兵卒の胸の内を無視したから負けた」などと述べる人もいましたが。あまりにも的外れです。大鳥は会津農兵は節制が無いため、藩の会計官吏を武官にして練兵する事を提案していました。また上述の通り大鳥は常に兵の不満を知り書き記し、宥めるのに苦心していました。

大鳥は「南柯紀行」の題を、元は「大義日記」としていました。
「将士兵卒のしばしば遭遇するア嶇艱難の趣を詳に寫し、笑うべき耻ずべき事をも修飾なく、其儘と拾ひあつめ、事跡或いは忌憚に触るヽと雖、絶て斟酌せず記し載せたり」
と大鳥は前文で書きました。そこには彼らが、恭順した旧主にも背を向けて、何を思い戦ったのかを書き留めて残しておきたいという意図があったでしょう。
その想いを代弁するなどという大それたことができるとも思いませんが。少なくとも彼らが記した内容は、明らかにしておきたいと思いました。

新選組や会津は人気があり商売道具にされてきました。エンタメ作品としてより売れるように、正当化し悲劇性を強め陶酔しやすくする創作加工が行われています。その加工の一つとして、新選組会津以外の人物や組織を根拠なく貶める方向性があることは、創作作品やライターの記述に多々伺えます。大鳥と伝習隊の苦闘の事実がないがしろにされ、上のように誤解されるのも、そうした傾向から生じたのでしょう。
母成峠以降の大鳥と伝習隊の苦難は、南柯紀行と北戦日誌をはじめとした各資料に明瞭です。会津より冷遇され置き去りにされ補給を絶たれ裏切られながらも、どんな想いでどれほど会津の為に死力尽くし戦ったか。

会津の悲劇ドラマや新選組娯楽メディアのために、彼らの実像が歪められて広められるのは、いい加減、何とかならないものかと思います。

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2020年10月18日

母成峠、檜原西会津の流離 その1


母成峠の戦い以降。大鳥と伝習隊が、会津を見捨てたとか、無邪気に榎本艦隊に合流したとか、特に新選組を題材にしたメディアが絡む度に、何かと誤解が広められているように思います

資料からから伺える実際の所は、以下の通りです。
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・ 8月21日の母成峠敗戦以降も、大鳥は伝習隊や各隊とともに、弾薬も糧食もない中でも、1か月近く、会津の為に戦い続けた。流浪する山中でも経戦し、籠城する若松城を救うための手段を講じ続けていた。

・ 塩川において、米沢背信でこのままでは背後を絶たれ全滅になるという9月7−8日頃の段階で、ようやく仙台の榎本艦隊に合流する案が出た。それまで大鳥と伝習隊は籠城している会津若松を支援して戦闘を続けていたが、この時は弾薬兵糧も尽きていた。榎本艦隊との合流判断は、会津を見捨てるためではなく、海軍と連携して会津を援助しようとしていたため。

・ 斎藤一が大鳥に「一トタビ会津来リタレバ今落城セントスルを見テ志ヲ捨テ去誠義二アラスト」と離脱したのは、斎藤はこの時会津を離れるより会津若松城の落城に殉じようと塩川に残ったため。大鳥・伝習隊・衝鋒隊らは、現実的に会津を支援できる兵力を求めるために福島・仙台に向かった。しかし9月15日に仙台に到着して、各藩の恭順に従い情勢が変わり会津回復は不可と判明し、その後一同で評議して北海道行きを決めた。

・大鳥は常に会津若松を救いたいという心であった。見捨てようなどと言った記録も、見捨てる意図があったことを示す資料も無い。会津で他の隊に箱館に行こうと誘った言動を示す記述も無い。

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何故上のように言いきれるかですが。大鳥の南柯紀行をはじめ、各記録を当たっていきます。

まず、地名を以下。Google Earth Proで作成。ルートは赤色が大鳥、桃色が本多大川ら伝習第二大隊。
hibara.JPG
(クリックで大きくなります)

大鳥圭介の南柯紀行、浅田惟季の北戦日誌をベースに、各資料から日光口の藤原から会津への転陣以降を時系列に追います。日付は全て慶応四年。

7月26日頃
大内にて。小森数馬より「岩城平落城已来三春変心二本松へ官軍迫り甚だ危うき様子に聞えり、乍去今石筵口へ出給えと云う」
会津の小森数馬より、兵隊を若松で慰撫させようとした大鳥に、二本松に官軍迫ってきたので兵を石筵(母成峠)に出してほしいと依頼する。

7月29日
猪苗代出張につき、伝習兵は不満。大鳥が説得してようやく承諾。二本松落城の報あり。瀧川、鈴木ら伝習士官は田島で新兵取り立て、林正十郎が小銃製造を周旋。

8月1日*
若松経由、猪苗代本陣へ。2日会津・木地小屋へ転陣 。
*南柯紀行は7月と記されているが、山崎版で8月と注釈あり。

なお永倉新八「新撰組顛末記」で藤原の場面で「総督ともあろうものがけしからぬ、射ってしまえと騒ぎたてたのでさすもの大鳥圭介も色を失って会津をさして逃げていった」などと、会津行きの事が口述されていますが。藤原で大鳥軍は快勝し、伝習隊浅田は戦勝を祝して大鳥に敬礼し、会津侯から褒美も頂いている。その上で上の通り、会津に要請され母成峠に転陣した。よって、この言い様は明らかに不当です。永倉も晩年で記憶がまだらに変化していたのかもしれません。

8月3日
母成峠視察。広漠で守るに難。大鳥は、兵数二千は欲しいと推算するが、会兵は五百しかいない。

8月6日
会津若松で会津侯執政と、兵員不足と兵の増強の必要について議論。
元々大鳥は、会津兵について「多くは農兵にて節制なき」「会計俗吏多分に有之、之を減員して兵に用いたし」と、戦意ない農兵より、会津は元々会計官や官僚が多いのでこれを兵に転用して兵増強すべきではと、前々から言い続けていた。しかし会津は俗吏の権限が強く因循、その策も行われないまま今日に至り、大鳥はため息。

8月中旬
猪苗代本陣で大鳥は会津執政の田中源之進・内藤介右衛門と攻守につき協議。会津側は二本松への進撃を主張。大鳥は、精兵が十分いればそれも良いが、今は兵員不足。守兵に余裕がない。軽率に襲撃して敗北してつけ入られては国境が危ういと大鳥主張。田中は襲撃をなおも主張。

8月15日頃
第一大隊、二本松藩士、土方と新選組、二本松夜襲へ。しか途中迷い、本宮で放火して遁走。
(大鳥は8月5日で記しているが、北戦日誌、三春藩記、山内豊範家記等では8月15日。あるいは本宮出兵は2回あったかも)

8月20日
山入村の戦い。会津より大鳥に、二本松襲撃につき再度第二大隊出陣を要請。大鳥不在のまま木地小屋から伝習第二大隊出発。二本松行き途中の山入村で新政府軍と遭遇戦。会津・仙台・二本松兵が逃げ、伝習隊は置き去りにされ損害大。浅田重傷。「余、益々三藩の兵の恃むに足らざるを知れり」と大鳥。帰路を絶たれて潜伏しながらも無事帰ってきた本多、大川らの手を取って、大鳥は悲喜こもごもに泣いた。

母成峠の戦いに臨む大鳥の様相は、浅田の北戦日誌に詳しい。
「大鳥氏、必ず今日の敗有らん事を知る故に、痛心し、檄を會城に馳せ、國力を盡て敵に當らん事を乞ひ、或は自身馬を馳て尚云々の策を献ると雖共、會藩因循して、終に此挙に至る。之を知て而て坐ながら禍を招くは愚也と評せられん哉。然りと雖共、此地會津國境、最専務の要地にして、若し吾軍是處を退かば、若松城忽ち兵燹に罹り、吾輩據る所
無し。一日を保たば一日の危急を援ひ、國民塗炭の苦みを免れ令るが故に、断然、死を決して退かざる也。豈、佐久間威政が蜒鱒」の一戰に檄を失したる如きと同日の論ならん乎。後世猥りに誹謗する勿れ。
此夜、大鳥圭介来て、予が創を訪ふ。予謂て曰、敵軍大挙、新に我れに捷つ、其鋒最鋭し。加之、吾兵半ば殲て、各恐怖の心有り。且敵兵、必晨に此營を襲ん。然る時は吾兵は疲弊して、戰ふ可らず。大事に及ばんこと必せり。乞ふ、速に兵を猪苗代に退けて、守戰の策を為せ。大鳥氏、諾して去る。」


声に出して読みたい浅田君の名文。
大鳥は母成峠は必ず敗れるだろうと知る故に、心を痛め、檄を若松に飛ばして国力を挙げて敵に当たる事を請い、自分で馬を馳せて建策した。しかし会津が因循で聞き入れられなかった。これで座しながら災いを招くのは愚かと言われるか。その通りかもしれないが、母成は会津国境の最要地。ここで軍を引いたら若松城は兵火にかかり、我らが依る所がなくなる。大鳥たちが一日を保てば、一日の会津の危急を救い、国民はそれだけ塗炭の苦しみを免れるのだ。よって、断然、死を覚悟しても引かなかったのだ。
大鳥は浅田を見舞いにきた。浅田は、敵軍大挙して我に勝る、その勢力はこれまでの中で最も鋭い。しかもわが軍は山入村で半ば壊滅して恐怖の心がある。敵は必ず明日陣を襲う。わが兵は疲弊して戦いどころではない。お願いです、猪苗代本陣に兵を退けて、そこで守戦の策を為してください、と浅田はと頼む。大鳥は承諾して去った。
そして大鳥は、兵員欠乏、大砲熟練の者もない苦悩の中、絶望的な母成峠の布陣へ。読むほうが泣きます。
後世みだりに誹謗するなかれ。

8月21日
母成峠の戦い。前日の山入村での大損害で、伝習隊は会津仙台二本松に憤慨し、士気皆無。木地小屋に戻ろうとする伝習兵を、明朝必ず敵襲あると、大鳥は何とか留めおいて布陣。大鳥は胸壁や布陣配置を見て回るが、そのような状況でまともに戦闘が可能なはずもない。
戦闘始まり敵大砲が撃ち込まれる。会津住民の教導を受けた敵の迂回隊が背後を突いてくる。伝習第二大隊は左山手、正面に新選組を含む伝習第一大隊。大川正次郎「奥州南口戦争記」によると伝習第二大隊は夕方5時まで戦うが「正面」の方が敗れ回り込まれて軍が帰路を失う羽目に。
大鳥は本営で奮戦するが、「何者の所業にや」後ろの会津農兵が本営に放火。繰り返します。会津農兵が放火。本営は大混乱。
「この口が敗れなば会津の滅亡旦夕にあり、今一度奮発」と大鳥は叫ぶが、兵逃げ去り、会津の田中・小森・北原雅長と共に最後の兵に。今ここに骸を並べて死ぬのも甲斐は無い、撤退して防戦の策を立て直すと大鳥は彼らに言って、しんがりで離脱する。
既に敵は後方に回っていた。木地小屋方面に撤退。敵は追ってきてしきりに狙撃してくる。そこから8q程、味方の兵がいると思い近寄ったらこれが敵兵。狙撃され、草むら林間の中走る。田中・小森・北原ともはぐれる。沼尻方面はすでに敵が充満。大鳥は道なき道を、急流の川を渡り暗夜空腹深山超え。木地小屋沿道焼失を見る。老婆から米の鍋もらい「余喜びに堪えず」とおむすびを作る。

この日、重傷の浅田は須川野から大寺へ運ばれた。

一方皆様が気にされる土方歳三氏ですが。谷口四郎兵衛日記より。
「土方、雉子小屋(木地小屋)脇胸壁出張防戦す。大島(寅雄)須加埜(酸川野)より戸板に乗早退城下行。此時雉子小屋に死なんとするを山口次郎来の後に残り中島登持たる七発山口持発する中大島走ると云。須加埜(酸川野)村に兵を集土方率して一戦、敗れて猪苗代に行く」
土方の母成峠出陣はよくわからない。菊池明氏は「若松記草稿」で「将軍山に新撰組山口次郎士官並びに歩兵合わせて百二十余引率出張」の記述から土方は母成峠には出ていないと推測されている。一方北原雅長の七年史には「勝岩の下方には土方歳三等防戦す」とある。当事者の北原さんが書いているので母成峠にもいたのでしょうが。いずれにせよ土方は母成峠が陥落してから木地小屋に到着した模様。そして木地小屋戦闘撤退、酸川野に兵を集め再戦敗退。
この木地小屋ですが。大鳥と伝習第二大隊が母成から撤退してきた際すでに敵が充満していた。ということは母成峠の「正面」にいた伝習第一と新選組らが敗れ、木地小屋で土方とともに再戦し、再び敗れるまで、大鳥と伝習第二大隊は母成峠で奮戦していたわけです。
土方氏は宇都宮で負傷敗退、復帰戦の本宮は放火遁走なのでノーカウントとしても、少なくとも土方は三連敗。母成峠にいたなら四連敗。常勝将軍とやらの土方の装飾は、敗戦パートを他者に押し付けて作った創作です。

8月22日
大鳥は山中、秋元ヶ原方面へ。谷間に滑り落ち、手足をくじいて苦楚百端至らざる無し。炭小屋を経て深樹谷川水中三里。大島原で村人から玉蜀黍を買う。大島原を経て途中で丹羽丹波に会う。秋元原(現在の秋元湖)に至り、第二大隊歩兵、会津田中小森、北原と再開して無事を喜ぶ。なお北原も渓水に足を浸し熊笹の中行き岩を攀じ、大変だった。北原は磁石を持っていた。
大鳥らは猪苗代の動静を探ろうとして漆窪村まで行くが、敵兵が占領しておりとても通行叶わない。よって磐梯山を北回りして若松を目指すことに。途中井深隊と合流。磐梯山の裏方面の木地小屋(母成峠と酸川野の間の木地小屋とは別。ややこしい)で一泊。湯に入れる。

重傷の浅田は会津病院に着。大鳥、本多らは戦死したとも伝わってくる。病院を出て七日町に。米沢行を準備して駕籠を雇う。

8月23日
雨。大鳥は茣蓙をかぶり山道を行く。赤土泥滑る。大塩村で濁酒をいただく。
大塩から喜多方方面へ向かう途中、林、本多、大川、瀧川と合流。
伝習第二大隊は母成峠からの撤退、高森より北の山を回って秋元原→猪苗代→若松→大塩のルート。伝習第二大隊撤退時は、すでに土方隊を破った敵が木地小屋方面を占めていたので、北の山を回った。伝習隊本多たちは、大鳥より早く秋元原を抜けて、まだ新政府軍が猪苗代に出ない内に、22日に猪苗代を抜けて若松に行けた。そこから喜多方へ北上し、大塩で大鳥と合流。
なお、伝習第一大隊・新選組は新政府軍が来る前に木地小屋・須川野に抜けているので、第二大隊より撤退はは結構早かった模様。
大鳥は戦死したと触れられており、士官兵士は皆力を落としていた所、生きていたので「夢の心地だ」と言われた。大鳥も皆の手を握って感泣した。

桑名侯・土方が来る。庄内の本間友三郎や長岡侯の奥方も。大塩村に戻る。
「若松の危急なる事を知り、何卒之を援はむとすれども兵士壊乱離散」兵隊を集めるのを第一にし、残兵がいるであろう檜原へ戻ることに。大鳥は牧野主計に馬を借りる。

ここで大岡昇平も感動した大鳥名文です。
「城下の砲響炎焔耳を貫き肝胆も砕くる計り、前を望めば万山千峰愁色を帯び弾薬なく食糧無く」
城下は砲声耳に響き、炎焔が目を覚し、肝胆砕けそうだ。前を望めば万山千峰愁色を帯び、食糧も無く弾薬も無く、涙が流れると。肝臓が砕けそうなほど、大鳥は若松城を気にして心を痛めます。
夕方檜原着。病人に毛布貸す。「その窮迫、筆紙の尽くす所に非ず」

8月24日
檜原。早朝から諸隊長と議論。
大鳥「今若松の危急を捨てて救わざるは不義なり。然れども兵隊の心も斯く迷乱しては迚も用をなさず。又弾薬もなければこの儘戦地に向かうとも何の為す事かあらん」
大鳥は若松を救わないのは不義だが、兵隊は迷乱、弾薬も無し。、弾薬無ければ戦地に向かっても何もできない。よって米沢へ行き弾薬兵糧を借りてはどうかと衆議。自棄にならず常に現実的な策を求める大鳥。その策で行こうと来まる。

なおこの前日23日、土方は先に庄内へ藩論を確かめに行くことなり出発していた。土方は大鳥に兵の周旋を頼む。
「昨日土方歳三も来り曰ふには、余は是より荘内に行き藩論を聞きその決議を定めて之を公らに通ずべし、その間余が兵隊の周旋を頼むとのことなり【余は兵隊を棄てて他に行くとも後に残りしもの進退に困る事憫然なれば、君の隊は米沢迄は同行すべしとて土方に分かれたり】」
上の【】内は新人物往来社版の南柯紀行にはなく、山崎版南柯紀行にのみある記述です。大鳥と土方の直接の意思疎通の記録はほとんどなく、希少なやり取り。
解釈に迷ったのですが。花充様(@hana76781232)のお陰で以下のどちらかの解釈かと理解されました。
・土方「自分が兵隊を棄て他に行けば後に残った隊が進退に困るのが可哀そうだ」大鳥「なら私が土方の隊と米沢までは同行しましょう」
・大鳥「土方が兵を棄て他に行く場合、後に残された隊が進退に困るのは可哀そうなので土方の隊とは米沢迄は同行しましょう」
まず土方が、大鳥に兵(新選組)を頼んだ。そして大鳥が「米沢までは残された土方の隊と同行しましょう」と言って別れたことは、読み取れる。

なおこの場面。心無い解説で、大鳥が新選組を配下欲しがった、などと書かれているのを目にしたことがあるのですが。
むしろ大鳥は困惑気味に「米沢までなら…」と言ったように見えます。
母成峠の布陣の際に大鳥は「勝岩の下の方にては第一大隊、新選組合併の人員にて防ぎたりしが、余心もとなく思い、少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の兵も宜しからず、余種々之を指揮し置き」と記しています。また、構成員は変わっているでしょうが箱館の七重浜では「新選組躊躇して進まず」、寒川では「番兵怠慢」など、新選組の評価が高いとは言えません。この記述からも、大鳥は、自分が訓練したわけではない新選組を、わざわざ配下に欲しがるとは思い辛いです。また大川正次郎は奥州南口戦争記で母成峠は「左の山手は傳習第二大隊、正面(新選組)に備へて防戦ふ」「正面の胸壁を破らる」と正面の新選組が敗れたことを二度記しています。大川ら伝習第二大隊から見れば、母成峠で新選組は早々に敗れ去り、そのせいで自分たち伝習第二大隊の退路が敵に断たれています。大鳥が新選組を頼りにして欲しがる状況だったとは、全く考えられません。

松本良順も庄内へ。庄内藩の本間友三郎へ若松の形勢次第では庄内へ行くかもしれないので、その節は宜しくと大鳥は伝言を頼みます。

そして一行は檜原から険路を昇り、米沢の関門へ。
この時米沢の藩論はすでに恭順。諸隊の通行は禁じられました。とにかく綱木で米沢の重役と話をすると押し通り、四つの関門を抜けます。
綱木の重役に米沢の藩論を問うけれども、条理立たず。とにかく会津領へ帰れと一点張り。会津応援については米沢側は聞く耳も持たない。米沢兵は桑名侯にも無礼を働いた。大鳥は米沢の変心を察知。歩兵が一戦に及ばんと立腹する。それも会津藩の為にならないと、大鳥は鎮める。
浅田君は「若し我輩時運を得て再度葵旆を翻に至る事有らば、此賊の肉を食はずんば有可らず」と、口語訳をためらうほど米沢に大激怒。
既に夕方なので、大鳥は談判して何とか綱木に一泊。数日前までは米沢も軍議で大鳥を神の如くたのみにしていたのに、今は仇敵扱い。
大鳥は負傷者だけは米沢から白石に送ることを約束させた。浅田に隊の重傷者97人を託する。浅田たち負傷者は涕泣して大鳥たちと別れ、米沢へ向かう。大鳥らは兵を連れ、山路、檜原へ戻ることに。

長くなりました。続きます。
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2020年05月08日

韮山反射炉関係資料その3

「韮山反射炉関係資料集」続きです。

第2巻下

情報盛り沢山でした。大鳥関係の要点は以下の通り

・大鳥は自分で「圭助」表記も。
・大鳥の江川鉄砲方出役は安政五年(1858)十二月から。
・母の病気看病の為に、安政六年三月中に故郷へ出発、駆け足で4月2日に江戸戻り。
・万延元年九月に病で辞職。翌、文久元年三月に回復し、翻訳係がいなくて困った江川に呼び戻された。
・文久二年正月(1862)に、尼崎家来から阿波藩家来に身分変更。この時、尼崎藩へ鉄砲方五人連名で、大鳥の江川出役はこれまで通りとするよう阿波藩に示談してくれと念押し。
・文久四年(1864)正月に、海陸軍之書取調掛出役。江川ではなく幕府からの雇いに。

現在の芝新銭座周辺の写真。港区立エコプラザ。小型風力発電機が立っています。
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この通りに江川の長屋跡があり、福沢近藤両翁学塾跡の碑があります。
例の、福沢諭吉が幕府から派遣の洋行中にちょろまか…入手した教材を活用し、上野戦争中に悠々と経済学の講義を行っていた、有名なエピソードの場所です。大鳥さんが住んでいた場所で、例の講義が行われいていたと思うと、微妙な気分です。

浜離宮方面。
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以下、メモです。

〇 御鉄砲方御用留 安政五年一月〜文久三年十二月

・ 安政五年正月、御鉄砲方手附矢田部郷雲が病死。譲次郎が跡目を相続。
矢田部郷雲は「家来・鉄砲方付蘭書翻訳御用勤方」と安政2年7月〜江川家家来で、講武所教授方出役。
(この方の死が大鳥の江川家招聘のきっかけ。郷運の没後、肥田金之助が坪井芳州の塾(大木塾)塾長の大鳥なら郷雲の招いても恥ずかしくはないと勧めたのが、経緯でした。)

・ 安政五年以降の出役者、給料リスト。安政6年から大鳥圭介の名前が現れる。

・ 八王子千人同心に砲術訓練の為に手附・手代派遣の記録、西洋人発明工夫の地雷火試験を芝新銭座で大小砲修練場で行う伺い書など色々。

・ 午安政5年(1858)松平遠江守家来大鳥圭助 其方御鉄砲方附蘭書翻訳御用出役と、上巻とほぼ同じ文章。名前は圭助表記。

・ 未安政六年三月「蘭書翻訳御用出役大鳥圭介母看病願に付申上候書付」
「蘭書翻訳御用出役大鳥圭介義、在所摂津尼崎二罷在候母大病之由申越、然ル所老人之儀にも有之、甚心配仕候間、不取敢罷越看病仕度、往還共日数五十日之間御用御免相願候旨申出、無余儀次第二付承届候様仕度、尤遠江守方えも相願聞済相成、其段同人方よりも頼越候儀二御座候」

大鳥さんがこの時期に一度故郷に帰省していることは、大鳥圭介伝にも記されていますが。その理由が、母大病で看病のためと。江川に取り立てられて3カ月で、50日の休暇を取り帰省とは。一度帰省させてもらうことが、江川出仕の条件だったのかもしれません。(なお、母お節が死没したのは大鳥が獄中にある時。一方、父直輔の方が早く元治元年に死没。長男は双方、死に目に会えなかった)

そして4月25日「蘭書翻訳御用出役松平遠江守家大鳥圭介帰府御届書」で
「右圭介儀、在所摂州尼崎表二負罷在候老母病気二付、看病之儀願出、伺之上承届、当三月中出立罷越処、母病気追々快方罷成候間、彼ノ地出立、去る二日帰府仕候」
3月中に出発して駆け足で4月2日に江戸に戻っていた模様。江戸-大阪で片道通常半月かかるのですが。このスピード帰省。江川の仕事が積んでいたためか。看病している時間があったのか、健脚とはいえ、もう少しゆっくりしても。

病欠や看病での暇願いは、他の手附の方々からもしばしば出ています。文久三年には中浜万次郎も母病気で百日の暇を得ていました。

・ 大砲附属品リスト。洗銃箒、撞薬杖、装薬匙、抜弾杖、刺包針、捩鑽、薬包桶、火管盆、手狭、照門、中照門、爆槌、火門枕など。小道具の名称が色々。取り扱い品に石炭油とか硝石なども。

・申(万延元年 1860)閏三月に芝新銭座大小砲調練場で新規地を雨宮新平が見分。

・ 申(万延元年)九月「蘭書翻訳御用出役松平遠江守家来大鳥圭介病気二付右出役御免相願候書付」
何と「私鉄砲方付蘭書翻訳御用出役(略)大鳥圭助病気二付、右出役御免之義願出申候、依之此段奉願候」 と。今度は大鳥さんが病気になり、江川へ辞職願いが。何の病かは不明。役を辞しているので深刻だった模様。
そして 十月四日同じ尼崎藩の松平遠江守家来高木彦右衛門より「大鳥圭助、右病気に付、蘭書翻訳御用出役差免候様可仕候、尤御勘定奉行可談候。右之通安藤対馬様より被仰渡奉畏候、依之如何相心得可然哉、此段奉伺候、以上」
老中の安藤対馬守信正、大物の名前まで出てきました。そして同日
「御下知振 書面安藤対馬守指図之趣は、江川太郎左衛門え申達候間、同人申談可被取計候」として、後藤一兵衛、森田岡太郎、菊池大助の三名から、「引渡方差支無之様御取計可被成候」と大鳥の身分引渡しにつき書簡が。そして十月四日に「大鳥圭介引渡候御届書」と印付きで、尼崎藩に身分が引き渡されました。

なお「私」「圭助」と書いています。大鳥さんは自分で「圭助」表記。謄写者の記し間違いかもしれませんが。他の方による文書でもこの頃は大体「圭助」が多いです。

・申十二月。ヒュースケン殺害に際し、フランス人の神奈川表宿寺護衛に、御鉄砲方同心十五人教授三人を差し出した。

・ 翌年、酉(文久元年、1861)三月。
江川太郎左衛門から大鳥圭助へ「私御鉄砲方附蘭書翻訳御用出役之もの奉願候書付」として。
「右圭助義、去ル午年十二月中私御鉄砲方…備後守様え伺上被仰渡、尤遠江守家来えは備後守殿御宅二おゐて御達有之由二て、圭助私方え引渡相成相勤罷在候処、同人不計発病急二全快之程、無覚束趣を以、去申九月中出役御免の儀願出、事実無余義其段申上、銅十月中願之通御免被仰付候、然ル処、蘭書翻訳仕もの無御座候ては、時々御用差支相成候二付、相応之もの相選出格之儀申上候心得二て、昨今の穿鑿中、圭助病気追々快方、当節に候えは全本復仕、何等差支之儀も無御座、同人再度出役被仰付候得は、別て御用便宜敷奉存、遠江守方え及懸合、同人方におゐても呼称之筋無之旨申越候間、可相成御儀御座候はば、圭助義最前之通り私御鉄砲方附蘭書翻訳御用出役被仰付」

病気につき、大鳥は前年十月に一度尼崎侯遠江守へ引き渡された。江川家は代わりの蘭書翻訳担当者を探していたが、穿鑿(せんさく)していると圭介の病状は追々良くなってきて、ほぼ全快していることが分かった。よって再度出役を依頼したところ、遠江守にも掛け合い、大鳥本人も特に問題ないので、前と同じく月割の御手当金で出役してもらうということ。

なお大鳥、この時は備後守のお宅に滞在していた模様。尼崎家来はみな、備後守居候だった由。上巻にいきなり備後守が出てきた理由が判明。

これに関連して、3月21日に、松岡正平、中沢与四郎、中村清八、柏木総藏、上村井善平の五人連盟で松平遠江守様御内宛に「太守様御方故障之筋も不被為在候得ば、再出役之儀被申立」と大鳥をもう一回こちらに寄越してくださいという依頼が出されていた。
大鳥さんがいなくなり、他に翻訳する人がみつからないままで周囲が不便だった模様。
なお、前年の安政6年から築城典刑、砲火新論と立て続けに大著を翻訳している。根を詰めすぎたのかも。
また、翌文久元年5月に長女ひなが生まれている。みちさんは、結婚していきなり夫が病に倒れて身重だった。最初から本当に苦労かけ通しでした。

・戌(文久二年 1862)正月 「大鳥圭助身分二付奉伺候書付」
「右圭介義、松平阿波守方より再三達て之所望難黙止譲遣、尤阿波守家来相成候共、兼て圭助え被仰付置候私御鉄砲方蘭書翻訳御用は、是迄之通為相勤差支無之様、阿波守方え申談、其段遠江守よりは勿論、阿波守方よりも其筋え御届差出候積之旨…」

と、大鳥さんより江川太郎左衛門へ、身分が尼崎から徳島阿波守家来になったというお知らせ。所属が変わってもこれまで通り鉄砲方蘭書翻訳は継続し、その任務に差支えありませんよ、という由。
なお、阿波守から再三所望されて、無視するのも難しく、と。徳島藩の家臣になるのはやはり気が進まなかった模様。

これを受けて、正月二十六日、松岡正平、中村清八、柏木総藏、上村井善平、あと根本慎蔵から五人の連名で、松平遠江守様御内市川伊左衛門へ書簡。
「御家来大鳥圭介殿儀、松平隠岐守殿(阿波守?)より達て之御懇望二付御譲り被成由二て(略) 尤阿波守殿御家来相成候共、公辺御用出役之儀は是迄之通相勤候と之義、精々御示談御座候様いたし度奉存候」
大鳥が尼崎から徳島の家来になることについて、江川の御用はこれまで通り勤めてもらうよう、徳島と精々示談してくれと念押しの依頼。阿波藩勤めになって大鳥さんが去ると、余程困るらしい。

これに対して正月三十一日、松平阿波守内岡田弘蔵からお手紙。
「安藤対馬守様御勝手え差候松平遠江守様家来大鳥圭介儀、兼て阿波守より所望二およひ御座候処(略)尤右出役御用之儀は是迄之通被仰付置候得は、何等之御差支二も相成間敷と存奉候」
安藤対馬守に届け出した、うちの殿様所望の大鳥ですが、江川の出役御用はこれまで通り行って問題ないですよとのお知らせ。あと松平遠江守内山下隆蔵からも同様にお知らせ。
これで江川も安心。兼務で大変になるのは大鳥さんですが。

・ その後文久三年も大鳥さんに江川から御手当5両5人扶持。蘭書翻訳御用出役は一人だけの模様。文久三年には山田熊蔵が富士見御宝蔵番格、望月大象、芝誠一、安井畑蔵、鈴藤裕次郎、松岡磐吉が御軍艦組諸組与力格と、それぞれ幕臣に。

・戌(文久二年1862)十一月「大小砲製作場御用手伝鳥居丹波守家来友平栄他壱人身分之儀二付奉願候書付」榊原鏡次郎から。
鳥居丹波守家来 目付格 下屋敷奉行 大筒奉行 兼帯砲術師範役 友平栄
「右栄儀、若年之頃より文武之心掛厚く、その慷慨之志も有之、外寇之義相患候より砲術之利器修行を奮発…」
江川に入門して7年奮発、丹波守も喜んで昇進と経歴を述べ、身分について伺い。かなり優秀な方だった模様。

・亥(文久四年1864)松平阿波守家来角田所左衛門から、ライフル加農砲ボートホウィッスル砲の注文。

・ 亥(文久四年)八月十九日に、講武所から、高畑五郎 大鳥圭介「鉄砲方え出役相勤候由、出役名目何と相唱候哉御承知致し度」と、役職名について照会あり。
翌日に江川から「御鉄砲方附蘭書翻訳掛り勤方出役」と回答。

・ 芝新銭座の江川太郎左衛門長屋や調練場の図面が。当時の配置が明らかです。


〇 鉄砲方御用留三番 年々用(文久四年一月〜)

・ 子(文久四年1864)正月
大鳥圭介、「右は海陸軍之書取調掛出役被仰付候二付ては、勤候内是迄被下候御手当は被召上、改て一ケ年拾五人扶持金十両被下候旨、井上河内守殿被仰渡候」
と、海陸軍之書取調掛出役に。上の講武所からの照会は、この伏線だった。
お手当は、この年から江川ではなく陸軍所から支払われることに。なお二月までのお扶持は江川からすでに受け取っているので、三月からその差を返納する事、とのこと。
これにて大鳥さんの所属が幕府機関に移り、江川の御手当支給リストには載らなくなります。他の面々も幕府庸いになり、人数は少なくなっていきます。
大鳥さんは江川への出入りはこの後も続けていた模様。


・丑(慶応元年1865)八月十六日 「和泉守殿松平太郎を以御下ケ江川太郎左衛門同心彈薬代渡」
おお榎本松平コンビの名前が。辰年以来、稽古日にても雨天その他休日もあり、勘弁いたし、尚見込みはあると聞いていますという旨。 「武揚より」「講武所より」呼び出しがあって、雨宮新平が書付をもって根本慎蔵へ申聞いたことと。稽古日や玉薬の調達についての伝達のようです。榎本和泉守は鉄砲伝習関係での願書がいくつか。

・ 午(安政五年1858)十二月十七日「蕃書翻訳御用出役新規」大鳥圭介
午十二月というのは江川鉄砲方附蘭書翻訳御用と同じ時期なので、江川と蕃書調所、同時に出役したのかと一瞬思いましたが。蕃書調所のことではなく、蕃書=蘭書で、区別していないだけのように思います。

・ 丑(慶応元年1865)講武所 火術伝習之義二付奉願候書付
横浜で「仏国火術伝習」が開始され、「翻訳書のみ二ては何分差合仕兼嘆息罷在候折柄」と、自分たちも現場でフランスお雇い教師から伝習を受けたいと御鉄砲方から連名で講武所へ出されていました。思う所は皆同じ。


__________

以上、主に大鳥の関連のメモでした。江川出役が結果的に幕府への登竜門となりました。江川家がなければ大鳥さんの幕臣採用はなかったかもしれません。(そうすると代わりに阿波藩家臣から新政府側に採用されて、結果的に戊辰戦争がもっと早く終わっていたかもしれませんが)

江川家の位置づけや、肥田浜五郎、中浜万次郎、松岡正平磐吉親子、矢田部郷雲、雨宮新平など、幕末明治で活躍した江川家の関係者の記録が多く、正確な履歴や江川における職務内容を調べるのにも、大変有用な資料かと思います。講武所や咸臨丸、蟠龍丸、鵬翔丸など軍艦への人員派遣もあり、海軍関係を調べておられる方にもお役立ちでしょう。他、銃砲学や近代軍事黎明期に示唆の多い記録やデータも含まれていると思われます。

大工人足の給金、資材の価格、青銅砲・鉄製銃砲鋳造、銃砲の関連物品、ライフリング技術、巣や破裂の対処、金属や炉や建築材料、組織体制、かかる費用などの論文の元データになる記述が沢山あり、関連の専門家の方にとって発見が多い資料であると思います。

また、関連資料として、韮山反射炉の修理保存報告書を以下に公開して下さっています。
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/16/16905/12701_1_%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E9%9F%AE%E5%B1%B1%E5%8F%8D%E5%B0%84%E7%82%89.pdf

次の三巻は来年発行とのことで、楽しみです。

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2020年05月05日

韮山反射炉関係資料その2


韮山反射炉関係資料集第2巻。

資料解説の中で、江川家の位置づけ、鉄砲方とは何かと、その変遷をわかりやすくまとめて下さっています。

鉄砲方は江戸時代当初から存在する幕府の銃砲開発の機関です。元々の韮山代官だった江川家が、天保14年から兼務で担うことになりました。それに伴い代官所とは別組織として鉄砲方が組成され、銃砲開発機関のような役割を担います。鉄砲方の技術者職人らは、当初江川家の家臣や手代(代官の役人)として採用されていましたが、やがて幕府の家臣としての身分になります。中浜万次郎、高浜喜平(秋帆)など。結果的に江川家が鉄砲方手代の採用を通して、幕臣人材を輩出したことになります。

資料解説によると、大筒役佐々木勘三郎が開発した鉄砲場試作田の検地をせず収益を得ていた為、天保六年に島流しされた。この鉄砲場近辺の村々を所領としていた代官の江川英龍がこのことを勘定所に報告したことから発覚したもの。江川家は元々長崎の高島秋帆に入門し西洋砲術を研究し天保13年(1842)に韮山塾を開いていました。天保14年に佐々木と同じ鉄砲役を務めることに。英龍は嘉永6年(1853)ペリー来航後、海防掛に命じられ、江戸湾の台場築造計画に当たります。同年反射炉建造も命じられました。

安政二年に英龍逝去、十二歳の英敏が後継に。鉄砲方の手附・ 手代が登用され、安政三年から芝新銭座に大小砲調練場、付属施設、長屋など使用されます。安政五年、大鳥圭介が登用され、江川の長屋に住むことになりました。また幕府による築地の講武所で西洋砲術訓練が開始。その師範として高島らが出役。文久二年(1862)に英敏逝去、10歳の英武が後を継ぎます。軍制改革、三兵編成、反射炉も滝野川に設置され、外国人教官からの伝習が始まり、慶応二年、鉄砲方が廃止。全て幕府直営になり田村氏、井上氏と共に江川家含めて全員御役目御免に。講武所も陸軍所となり、英武は陸軍所教授方に、江川の農兵は撤兵隊に移行されました。

解説の中で、安政五年(1858)、文久三年(1863)、元治元年(1864)時点それぞれで、江川の鉄砲方所属の手附・手代(役人)のリストを、役職・格式・手当金と共にまとめて掲載して下さっています。

安政五年が最も多く、以下の方々。
田村(朝夷)弘蔵(箱館奉行与力)、高島喜平(秋帆)、岩島源八郎、山田熊蔵、市川来吉、森田貞吉、望月大象、長澤鋼吉、芝弘吉(誠一)、石井修三、八田篤蔵、佐藤清五郎、中浜万次郎、山田山蔵、赤村小源次、安井畑蔵、安井晴之助、鈴藤勇次郎、田那村松郎、西脇寅之助、長沢房五郎、斎藤四郎之介、松岡磐吉、中村銓三郎、甲斐直次郎、矢田部郷運、松岡正平(磐吉父)、長沢与四郎、中村清八、八田運平、柏木総藏、斎藤左馬之助、雨宮新平

文久三年(1863)五月の鉄砲方手附・手代リストに初めて大鳥圭介の名前が。鉄砲方における役職名は「鉄砲方附蘭書翻譯御用出役(松平阿波守家来より)」、御手当金15両+御扶持方5人扶持という手当。
同じ表で、中浜万次郎が役職は手附、格式は御普請役格、持高20俵2人扶持+御手当金20両。市川来吉は役職は手代教授方、格式は御普請役格で講武所砲術教授方出役、手当は高金25両5人扶持。(「高」は幕臣扱い)

なお大鳥圭介は、鉄砲方手代の定員に入っておらず、「蘭書翻訳方御用」として、江川の私費による必要人材確保の為の別途採用だったとの由です。

第二巻は主に芝新銭座の御用留などの文書が翻刻されています。

江川塾芝新銭座は、現在の福沢近藤両翁学塾跡から浜離宮にかけての場所になります。新銭座にある江川太郎左衛門の屋敷、鉄砲教練場、長屋などの図面も、第二巻に収録されています。
また現在の場所については、大山格氏が詳細に記述してくださっています。
https://ameblo.jp/itaru-ohyama/entry-12054467577.html

地図で浜松町・大門の北側の以下の辺り。
[ここに地図が表示されます]



第二巻上

〇 御鉄砲方御用留(天保十四年五月〜安政五年十二月)

江戸の芝新銭座江川家で作成された文書。受発信文書で業務日誌の性格を持つ。芝の大小砲操練所の情報など。
天保十五年に備打小筒百挺、腰差鉄砲六十五挺、ヤーゲル筒二十挺、加えて家来稽古の為さらにヤーゲル筒二十挺、ミユスケツト(マスケット)二挺、ドンメカラグト五挺、シュンドロス入並び雨除共一つを購入するよう長崎奉行所へ依頼。また伊豆に行くのに歩卒筒24挺、百目カノン・五十目ダライバス・三貫目ハンドモルチール・三貫目ホーウイツスル各一挺などの、大小砲調達にかかる記録。
口径を貫目で示したり、銃砲の呼称の変遷がわかる。ハールドル、ドンメカラグトなど、耳慣れない呼称も。

なお一貫目 = 3.75kg = 8.267 ポンド。3貫目で24ポンド。

そして 「申渡 江川太郎左衛門 松平遠江守家来大鳥圭介 その方御鉄砲方附蘭書翻訳御用出役被 仰付候間、壱ケ年御手当金二十五両・五人扶持、月割を以請取之可被相渡候。右は太■備後守殿え伺之上申渡」 より、以下判明。

・ 上の日付は午の年、つまり安政五年十二月十七日が、大鳥の江川家出役の正式な日付

・ 江川家出役の安政5年時点で、大鳥さんはすでに尼崎藩家来であり、まだ徳島阿波藩家来ではなかった。

・ 御手当は「月割」。わざわざそう付記されている辺り。大鳥さんはお金を持っていなかったので、そういう要望だったのでしょう。(江川から長屋をあてがわれてからも、客用の食器も買えなかった人)

・ 御手当について、なぜ備後守が出てくるかですが。下巻にありますが、松平遠江守家来は備後守の館に滞在していることが関係しているようです。


〇 御鉄砲方御用留 年々用(嘉永七年七月〜慶応三年十一月)

・芝新銭座の手代たちの住居や手当に関する記録。松岡親子や柏木総藏、肥田浜五郎、芝弘吉、雨宮新平ほか、同心たちの面々も。

・「大筒鋳立御用手伝之者」として友平栄の名前あり。(彼の息子友平慎三郎とともに、大鳥の知己。戊辰戦争の際、慎三郎は壬生の大砲奉行になっている。宇都宮安塚戦の際には、慎三郎が大鳥に壬生進撃を勧めた。罠であるとも疑われたが江川家での繋がりがあったので、大鳥は壬生攻めを決めた)

・ 鉄砲方の心得。今の公務員倫理規定のようなもの。
意見は腹蔵なく申すこと。酒宴遊具で猥りに集まらないこと。急な物見遊山、夜行は控えること。同心(部下)を私権で使わないこと。出稽古の際、神社仏閣、茶屋、小屋など他の場所に立ち寄らないこと。同心からの音信・贈り物の授受はしないこと。衣食住とも質素を守る事。

・松岡磐吉は、安政未六年十一月に「第一往々妻子扶助にも差支候」など給料値上げ交渉を行っている。その直後に米国派遣乗組が申し渡された。そして翌申万延元年、柴弘吉や中浜万次郎らと共に「亜墨利加数千里航海無滞御用相格別骨折」として、銀五十枚の御褒美。あと下巻で軍艦操練所教授方出役になり十両から二十両にアップしていました。能ある人は報われる。

・ 亥文久三年、松平阿波守内角田所左衛門から、阿波と淡路は海岸の国柄で、淡路の由良港も大阪要所の海門であり厳重な装備が必要。よって鉄砲ライフル砲鋳造の場所を借用し、ライフルカノン八挺、ボートホウィッスル二十挺鋳造したいとの書簡。これが前に触れた文久四年の「松平阿波家来大鳥圭介」の韮山派遣に関係していると推測できます。

・子文久4年(1864)正月、大鳥圭介「右は海陸軍之書取調掛出役被 仰付候二付ては、勤候内是迄被下候御手当は被召上、改て一ケ年十五人扶持・金拾両被下候旨、井上河内守殿被仰渡候」
大鳥さんが海陸軍之書取調掛兼務となったことより、給料の支給者は、江川から幕府になりました。まだ正式な幕臣ではないですが。地方公務員から国家公務員になった感。1863年に江川から5人扶持+15両 →幕府から15人扶持10両。一人扶持=1.75両とすると、23.75両から36.25両。約1.5倍給料アップ。(そして後に幕臣登用され最終的に2000両まで駆け上がる。)

・関口水車場、湯島鋳立場への移管に伴い、中村清八や雨宮新平ら手附を差し出す記録。

〇 御鉄砲方御用留 年々用(安政二年一月〜元治元年十二月)

・安政二年五月、大森町においての船打教練名前書付に、鳥居丹波守(壬生)家来として友平栄・友平慎三郎親子の名前が。

・ 手代・手附の皆様のお手当リスト原本

・ 辰安政三年(1856)五月1842年以降の野戦砲、騎兵、歩兵、海岸砲、攻城砲、城用砲の教練書を勘定所に買うように依頼。こうして調達した洋書の内いくつかを、後日大鳥さんが訳したのでしょう。

・ 安政三年五月、柴弘吉と松岡磐吉が蒸気船運用其他伝習御用で、江戸出立し長崎へ赴いた工程。七月に肥田浜五郎、安井畑蔵が同じく長崎までの工程も。両方、大阪までほぼ2週間かけて陸路、大阪から船で長崎、というルート。

・安政四年、中浜万次郎「和解航海書」について。米国ヌヨルカのイ・シ・ブランタによる航海学の和訳。磁石、砂時計、縄車、錐銅など附属している。緯度経度の天体からの求め方、測量方法、船具、帆縄取り扱い、オクタント器(八分儀)用法、羅針盤説明など。それだけではなく、この御用留を通して中浜万次郎が頻出。(大鳥が中浜万次郎に英語を習ったというのは、正式な講座というよりは、江川の同僚として空いた時間に教えてもらっていた感じ)

・ 未安政六年六月からの給料リストに大鳥さんの名前が現れる。御鉄砲方十八人で合計三百五十両。それと別に中浜、松岡金三十両、大鳥圭助金二十五両。

・ 大黒屋が現れた!
安政六年十一月から元治元年まで、米屋の大黒屋佐助へ預け正米を渡した記録。例えば安政6年、鉄砲方教示方8人と、蘭書翻訳御用一人(大鳥か)の分の扶持米用に51石3斗7升を預け。
年貢米を収蔵して武家に禄を支給していたのが蔵前の幕府の浅草御米蔵ですが。大黒屋も、江川の手附について同じような役割を担っていたのでしょうか。
また、大鳥が投獄されていた時に、妻のみちさんが差し入れするときに使った名前が、出入りの米屋、旅籠町の大黒屋治助と大黒屋多助でした。差し入れの時みちさんは江川家に身を寄せていたので、関連はありそうです。名前が違うのは、代替わりしたのかもしれません。


長くなりましたので、一端ここで切ります。
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2020年05月01日

韮山反射炉関係資料その1

江川太郎左衛門と韮山反射炉。

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韮山反射炉は、2015年に世界遺産登録されました。
「韮山反射炉関係資料」は、明治日本の産業革命遺産関連史料として、H25-26史跡等総合活用支援推進事業、H27-28歴史活き活き!史跡など総合活用整備事業の補助金を活用してまとめられました。江川文庫の反射炉関連史料の内、日記、御用留(幕府機関とのコレポン)、評議留(経費支出関係)、廻状留(村々への発信)などが翻刻されています。反射炉のビジターセンターに見本が置かれており、確認可能です。 素晴らしい史料です。原本のままでは参照も難しく網羅するのも時間かかりすぎる原文を、翻刻で分かりやすく事実を追える形にして下さった事に感謝です。

一巻上下セットで、第3巻までの内、現在第2巻まで刊行されています。
お問い合わせは、伊豆の国市文化財課まで。
https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/


反射炉は、燃焼室で石炭など燃料を燃焼させて熱で金属溶解する炉。韮山は主に鋳造による鉄製・青銅製の大砲製造の為の炉です。モニュメントとして煙突が有名ですが、本体はその下の炉。煉瓦の無かった時代、炉内数千度の温度に耐える耐火材料も注目です。
韮山は水車動力で砲身にライフリングする錐台の設備を備えています。

韮山代官江川太郎左衛門英龍は海防建議を多々行い、洋式砲術を研究し、農兵を訓練し御料兵としました江川英龍は安政2年(1855)病没、年若い英敏が後を継ぎます。。矢田部郷雲始め優秀なブレインを揃えました。集まった洋学者には後に幕臣に採用され、戊辰戦争を経て明治政府で活躍した面々が含まれます。宇都宮三郎、大鳥圭介が代表的です。
結果的に適塾、松下村塾と並ぶ、人材輩出ポンプのような役割をも果たしたといえるでしょう。

反射炉は安政東海大地震による被害を受けながらも、佐賀藩の田代孫三郎、杉谷擁助らから技術支援を受け、鉄製十八ポンド砲鋳造に成功。以降、破裂など問題を試行錯誤しながら、幕府の命の応じ、文久2年、カノン砲、ボートホイッスル砲(榴弾砲)、前装式ライフル歩兵銃などの製造を計画します。幕府だけではなく徳島藩からも注文を受けていました。文久3年生麦事件など外圧が深刻化し、大型ボムカノン砲の鋳造が始まります。

大鳥が江川塾に教授として招聘され、韮山を訪れたのは、この頃でした。

元治元年(1864)、小栗忠順の上申により大砲鋳造は滝野川に移管され、大砲鋳造は幕府直営事業として集積されることになり、韮山反射炉は廃止されます。

以下は第一巻をざっと見たメモです。

第一巻上

・反射炉御用留年々用(嘉永六年十一月〜元治元年六月)

幕府、諸機関、江戸の芝新銭座江川塾などとのやり取り。幕府から鉄砲方江川に出された指示や阿波藩からの注文が詳細に追える。小栗豊後守忠順はじめ、芝の松岡正平、根本慎蔵、柏木総蔵、中村清八、齋藤友輔などお馴染みの名前が頻出。
文久2年3月「銑鉄御渡方之儀申上候書付」として、諸道具製造と玉鋳造用の銑鉄3359貫目を江戸から手繰する旨、木村太郎兵衛、安井晴之助と共に宇都宮三郎の名前が。

・ 反射炉御取建御用留 (嘉永六年十二月〜明治六年三月)

砲製造が陸軍奉行並小栗上野介の管轄になり、湯島鋳立場・関口水車場が執り行うことに。江川の御用が免じられ、人材や資材も幕府に引き渡される文書のやり取り。反射炉は廃止の想定が、阿波からの注文もあり引き続き操業は行う流れ。

・ 廻状留(安政三年十二月〜慶応三年五月)

反射炉の地元資材や器具、建造や輸送の人足など調達にかかる名主、組頭とのやり取り。

第一巻下

反射炉評議留:
・ 評議留(万延元年閏三月〜五月)
・ 野戦評議留 壱番 (文久三年正月〜九月)、弐番(文久三年九月〜慶應二年四月)


普請(建築)や鋳造場、大砲・鉄砲製造、部材にかかる物品積算と大工人足の人件費など。当時の武器開発にかかる費用や物価の研究に大変有用かと。
特に鋳物師宮浦松五郎がすさまじく仕事している。賃金でライフルカノン並びにホートホウイツスル筒128挺、歯車、砲頭、水車請などの鋳放賃とか。

・反射炉御取建中日記(嘉永六年十二月〜文久二年八月)

山田熊蔵、市川来吉、梅沢貞助、松岡正平、安井晴之助ほか、大工、鋳物師、反射炉関係者の往来。嘉永7年神津島から異国船九艘見えた連絡など。

・ 日記 (万延元年閏三月〜六月)

反射炉作業にかかる出席者の記録と作業日報のようなもの
八十ポンド砲、二十四ポンド砲、十八ポンド砲の反射炉鋳造の計画について、
担当者。大山兼五郎。高島八郎、内藤八十八郎、石川政之進、長田伊三郎、小池謙三郎ら。壬生の友平栄も立会人に。

・ 日記(文久三年正月〜十二月)

正月に野戦筒百挺反射炉で鋳造する下知あり。鋳造方並びに銅錫分析として、
講武所勤番砲術教授方木村太郎兵衛、御鉄砲方手代講武所砲術教授方安井晴之助も。
そして番所調所出役水野大炊家来宇都宮鉱之進(宇都宮三郎)が、金属素材の分析に為に4月末まで滞在。
上の人々に加えて江川家滞在。小田切_之助、前田源之丞も加わる。9月には加賀藩士佐野鼎も。
宿泊記録。煉瓦作ったり。江川太郎左衛門(英敏)も時々見回り。9月頃から点火記録。ライフル御筒も錐出し。

・日記(文久四年・元治元年正月〜十二月)

上の続き。石川百平、別府信次郎、佐藤嘉三郎、金子半之進、平田与左衛門、木村十一郎、小林晋蔵、小川茂右衛門、日高圭三郎、など加わっている。南部藩から新渡戸十次郎も。
青銅野戦砲鋳造、六十ポンド鉄製砲鋳造等。野戦砲点火したり。阿州から銅三千五百貫目到着したり。ホート砲鑽開したり。水上明神祭で職人が休日願いなど。

三月二十一日雨「松平阿波守家来大鳥圭介出席致し候事」と、芝新銭座江川塾で講師をしていた大鳥さんが韮山に。
これから毎日「大鳥圭介出席之事」と。28日は午の刻引取とか、ほぼ毎日出席が別途記されています。
ライフリングや、野戦砲点火や、夜の鋳込や、水車小屋の出来合い見立てや、歯車の外形を確認したりしていたでしょう。
四月十二日に「松平阿波守家来大鳥圭助、出府之事」と。江戸から呼び出しがあったのか。あるいは予定を伸ばしたのか。実際の出発は四月二十六日「大鳥圭介出立帰府之事」に。

この日記は文久四年。
大鳥圭介が韮山に赴いた記録が、上郡の生家、活き活き交流ふるさと館に所蔵されています。
五月二十四日、圭介⇒生家への書簡。「三月中旬ゟ就公辺御用豆州韮山と申処へ参り四月末迄逗留帰宅」
ということはこの大鳥さんの書簡は、文久4年、韮山から江戸に戻ってから記したことになります。

大鳥さんの韮山滞在中にいた面々は以下の通り。
飯田常治郎、飯田孫三郎、石川政之進、石川百平、大井田源八郎、大山兼五郎、小川茂右衛門、小野益太郎、木村太郎兵衛、木村十一郎、小林晋蔵、佐藤嘉三郎、鈴木半之丞、高島八郎、内藤八十八郎、日高圭三郎、平田与左衛門、別府信次郎、前田源之丞、宮島藤十郎、安井晴之助。
江川英敏も時々見回り。木村太郎兵衛が沼津に行っていました。

しかしこの年に幕府指示で江川の砲鋳造事業は終了し幕府直営に。しかし徳島藩からの依頼の阿州砲の鋳直しなどは継続します。
大鳥さんは阿波藩家来とわざわざ記されていることから、江川の製造チーム一員というよりは、徳島藩発注の砲製造についての発注者側から確認のための派遣だったのかも。

・日記 慶應元年正月〜十二月

上の続き。ライフル筋入道具出来とか。江川太郎左衛門が農兵を連れて砲術指揮とか。ライフル五挺ホート七挺附属品まで皆仕上げ、引渡など。烈風で建物破損なども。

・ 日記 御鉄砲方 慶応二年正月〜十二月

上の続き。人員が少なくなってきている。開成所の竹原平次郎が反射炉見学とか。阿州侯から野戦砲三挺廃棄とか小道具依頼とか、石炭運送が多い。燃料大事。


ひとまず一巻上下はここまで。本丸の江川邸の江川文庫史料も情報てんこ盛りというか、溺れている状態でして。また後日。

世界遺産は国別なので、年々委員会に登録できる数が限られ、国ごとの駆け引きになります。政治意図が大きく、観光客獲得目的になりがちなので、他の候補との熾烈な競争があります。本邦が産業革命遺産として 八つの地域をグループで複数史跡設備を登録したのは、苦肉にせようまいアプローチだったなあと。諸設備で史料研究関連予算が付き、こうした有用な成果が世に出されるという点では大変ありがたいです。
ただ、公的資金を使うことにかかる関連業務が激増し、職員の方々の大変なご苦労が伺えました。素晴らしい資料集を刊行してくださり、感謝です。

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2015年02月22日

近況など


ずいぶんと日が開いてしまいました。

「広報かみごおり」にて、平成21年5月のから平成25年3月の4年間にわたって、時系列に各月連載させいただいた大鳥圭介伝記「真摯の人」を、以下のページに纏めていただいています。

http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7651

また上の続きとして、各回でテーマを決めてエッセイ形式で大鳥圭介関係の資料や人物を記した「鵬程万里」を、以下の「広報かみごおり」で隔月連載を続けております。

http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=6372

ここ2,3年、資料の見直しや公的機関の展示、小説の発刊など、大鳥圭介の再評価が特に進んでいるように思います。嬉しい事です。

今はアフリカを中心に出張が続いています。現在は赤道直下、ケニアです。資料を読む時間も持てないでいるのですが。落ちつけばまた更新を続けたいと思っています。

ラベル:上郡町 大鳥圭介
posted by 入潮 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

Twitter121228-130119



irisiomaru ネパール1日12時間計画停電か。昨年の今頃は、電気無く燃料なくバッテリー切れて、毛布を被って懐中電灯でポメラで仕事していた。現場の方に申し訳ないが、灯り有り炬燵有り24時間電気有る中で年を越せる今年は、独りでも幸せだと思わねばなるまい。 at 12/28 00:46

irisiomaru @wobaba お犬様も人肌のぬくもりをお求めになられるほど寒い…。ガスが入るようになっていると良いのですが。現場年越組どころかまさにそこを終生の居としておられるのですから。日々真にお疲れ様です。 at 12/28 23:56

irisiomaru @beads_amuse おそらく1月中はいられるかと。できれば3日以外で、7日の仕事初め前だと、動きやすいです。 at 12/29 23:57

irisiomaru @skr_setsun 内容は存じ上げませんが。上郡には私よりずっとお詳しい方もおられますし、星氏も気合を入れて望んでくださるのではないかと思います。 at 12/30 20:47

irisiomaru あけましておめでとうございます。昨年はブータン地方電化初のキャパシタ利用太陽光電化終了や、ネパール680kW太陽光完工など、様々な方のご助力のおかげで何とか形になり前進できました。今年も少しでも人様のお役に立てる技術を身に着けていきたく思います。まずは五体満足安全第一。 at 01/02 17:33

irisiomaru 炬燵でぬくぬくしている合間にも、各国の現場は動いている。苛烈な日光の中で権利主張ばかり激しい労働者を舵取りし、明日の国の基礎のインフラを造っている皆様、真にごお疲れ様であります。 at 01/02 17:39

irisiomaru 白虎隊ですか。女子供を劣悪な武器で戦場で死なせ自害させ、エンターテイメントで持て囃す。その感覚は理解できん。その少し前、大鳥圭介は利根の渡しで訓練生が脱走について来ようとし、まだ若いから死地に来るなと引き返させようとした。結局着いてきて死なせて悔いた。それが普通の感覚と思うが。 at 01/02 17:50

irisiomaru タッチの差で石井孝明氏が同じことを仰ってて、同じように感じている方は沢山いるのだと安心した。 at 01/02 18:14

irisiomaru 幕末明治と現代で価値観が隔絶しているとは思わない。四書五経が根底にある当時の人間と、娯楽ゲームで育った現代人の精神性は無論異なるだろうが。善悪の規範はさほど異らない。彼らは異星人ではない。女子供は死なせるべきでないというのは、日本武尊の時代から同じだと思う。 at 01/02 19:12

irisiomaru 一億総玉砕まで掲げなければならなかった大戦末期なら、白虎隊美化もわかるけど。あくまで異常期に異常事象を看板にするだけの話。現代はデフレにエネルギー供給に課題は色々あるけど、そこまで異常期じゃない。 at 01/02 19:24

irisiomaru といいつつ、事実、赤穂浪士にせよ白虎隊にせよ義経にせよ、ずっと大衆の紅涙を絞り続けている。それは不条理を打破できず生きる人間が、不条理な死に何らかのカタルシスを感じるからなのだろうか。中島みゆきの歌でとことん落ち込んですっきりする感覚のような。 at 01/02 19:33

irisiomaru @ak_hr 2000年以上、他民族による文化の破壊なく、価値観が継承され続けたことは僥倖だと思います。断絶があった他国は、価値観の継承のために宗教を必要としましたが。日本は娯楽文化が宗教の役割を一緒に担ってきたのでしょうね。 at 01/02 19:40

irisiomaru とすると、カタルシスの正体は「自分より大きな不幸や不条理を見る事による、自分の境遇の諦めと心情の慰め」か。あまりヘルシーではない。幸せが遠のきそうだ。どん底まで落ちたら、そこでぐだぐだせず、後は上を見ましょう。 at 01/02 19:54

irisiomaru @tukaohtsu 私も噴出しました。値段より、それを確保する場所の地価のほうが高そうだと(笑) at 01/03 12:51

irisiomaru マギ読んでいます。これはワクワク。王道少年漫画は久しぶり。黄牙のおばあちゃんが良い。この決断、ベースの王道に異色の過程を盛り込むのが力量。 at 01/03 21:35

irisiomaru マギ、深い。というか深いと見せかけて単純明快に持っていくストーリーがお見事。はた迷惑なボスと優秀な部下というトリオが大変好み。 at 01/03 22:01


irisiomaru RTした「本が本当に売れない時代」 http://t.co/BdzrKho1
電車でも本を読んでいるのは年配の一握りの方で、多くはスマホ操作している。ネット情報は広いが表層的。社会の視座を得る深い記述はやはり本にしかない。出版者・書店の不況が日本人の知の減退に繋がりかねない。 at 01/05 13:36

irisiomaru マギが面白いのは社会を作る視座が根底にある事だと思う。創作を面白くするのは実社会を創る側の智識。ファンタジーほど現実性が必要と思った。 at 01/05 13:48

irisiomaru @machi_town 了解です。ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。ご活躍のお話お伺いできること楽しみにしています。 at 01/05 13:53

irisiomaru 銭湯でチラ聞きしたテレビニュースで、現政権の国債発行して公共事業を行う政策が、ハイパーインフレを招く恐れあると言っていた。デフレ、供給>需要、貿易赤でも経常収支黒字の日本の何処に年率1万%超える「ハイパー」インフレの可能性があるのか、ど教えて欲しい。 at 01/08 23:47

irisiomaru 日本はもっと公共投資していい。唯でさえ地震水害軟弱地盤の日本は土木に相当金がかかる。例えば日本の高速道路基礎は寸胴だが欧州のは随分細い。なのに日本の公共投資/GNP比率はフランスやカナダ等より低い。公共事業削減で空港も港湾もインフラ整備できず、アジアのハブを中国韓国に奪われた。 at 01/08 23:56

irisiomaru 欧米は軒並み公共投資比率上げて内需確保してる。かつての世界の工場英国の今の公共投資額は2000年の3倍(米国は2倍、日本は半額!)。金融サービス利益と20%消費税で雇用と内需確保し国を保ってる。震災復興と安全インフラが希求される現日本、建設国債で公共投資せずにどうするのだろう。 at 01/09 00:02

irisiomaru この辺り、大石久和「国土と日本人」に詳しくデータが掲載されている。全然キャッチーでない官僚臭いタイトルで損してる中公新書の本だが、非常にお勧め。明治からの日本の国土整備の背景や哲学が述べられ、幕末明治ファンの方も世界観・歴史観が深まると思う。 at 01/09 00:07

irisiomaru @matsukar 新聞や雑誌や新書は電子でいいというか、どんどん電子でやって欲しいです。専門書も自炊してPDF化する時代ですが。本当に自分が食っていく為の深い知識や重要な情報は、WEBや電子書籍には、一部の公共機関以外まだないですし、これからもそうかと。 at 01/09 00:11

irisiomaru 日本無償支援によるネパール680kW太陽光、ネパール側への引渡し式。 http://t.co/XtobwKPQ at 01/12 23:56

irisiomaru @matsukar ここで新しい収益方法を開拓しないのは、印刷業者や書店経営者の怠惰なのでしょう。デジカメ普及と現像屋生き残り等と同様。作家さんも電子出版での収益体制を築くのは大変ですが自力で行ってる方もおられるし。いかに環境変化に対して頭を絞るかで、明暗分かれそう。 at 01/13 00:00

irisiomaru 日本の古本屋、Amazonマーケットプレイスの検索等で、少数の古本屋は却って収益伸ばした処もあるでしょう。ロングテール部分の発掘が誰もに簡単にできるようになったので。(Amazonは配達料金差額のほうが業者利益になるのでしょうが) at 01/13 00:07

irisiomaru 「いかに人が今生きているのかと、いかに生きるべきなのかとの間には、非常に大きな隔たりがある。為すべきことを重んじるあまり、今為されていることを軽ずる者は、自らの存続より破滅を招く(君主論)」マキャベリ、善いこと云う。正に電力行政に必要な言葉。 at 01/13 00:16

irisiomaru RT、英国のNational Archive は、PDF化されているのは一部で、そうでない史料も膨大にある。原典を調べようとすると、遅くとも2週間以上前からのアポ取りが必要で時間かかるので、調査計画は綿密に。 at 01/13 05:09

irisiomaru 「技術への愛が尋常じゃないホンダのエンジニア達の名言」 http://t.co/DafInKny「他社の話なんて聞きたくない。なぜ自分たちがこうなりたいと、絶対価値を言えないのか」「1秒縮めるのにライダーに命を懸けさせるな。1秒を生むのは、お前たち技術屋の仕事だ」 …惚れる。 at 01/16 23:13

irisiomaru 「会津藩某其藩兵を以て請ひて榎本等を征討し前罪を償はんとの説を主張す。惟純曰会津藩元来尊王佐幕同心一体の人なり、今我藩兵を以て彼らを討たんとす、人情の忍ぶ能はざる所にあらずや」降伏後会津、自藩の罪を減じる為に、箱館の榎本討伐の為出兵させて欲しいと新政府に請う議論があったのか…。 at 01/16 23:22

irisiomaru 前言は会津藩士から幕臣に登用された林惟純の談。箱館にには会津遊撃隊はじめ会津藩士も多々いたわけだが。自藩の減罪を官軍に乞うのに、同士討ち、骨肉争いを自ら企てるとは呆れ果てる。惟純が議論を止めさせたので会津は後世に汚点を残さずすんだが。戊辰の会津礼賛には違和感が大きくなる一方。 at 01/16 23:32

irisiomaru @itaru_ohyama 徳川は、恭順しながら幕臣の脱走人を止められなかった、尻拭いする責任があるでしょうし。戦闘に至る前に脱走人を慰撫する役割を想定してたので、徳川の側からの追討は仕方ないと思えますけれども。会津は弁護する気が起きません…。 at 01/16 23:35

irisiomaru 国会図書館のデータベース発展が凄まじいことに。
http://t.co/oMAMGTn7
例えば科学技術分野。世界の1,000校以上大学大学院の1861年以降の博士修士論文2,300,000件以上の書誌情報とか。一つ一つの概要を見るだけで、膨大すぎる情報の集積に魂が抜ける。 at 01/19 10:50

irisiomaru 朝日・読売の明治創刊からの記事検索とか。物故者人名録とか。45万首国歌大観とか。米連邦議会資料全文DBとか。近代1195冊含む「日本近代文学館」も明治総合雑誌「太陽」含み、苦労してマイクロリーダー網羅し欠落分捜し歩いたのが何だったのかという充実具合。 at 01/19 10:56
posted by 入潮 at 23:39| Comment(1) | TrackBack(0) | Twitter | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする