2005年01月13日

北の零年

北の零年。1月15日公開予定の映画。
大河ドラマにもラストサムライにも、食指が動かなかった不感症野郎ですが、これには反応します。

舞台は明治4年。テーマは北海道開拓。
この組み合わせを見た瞬間に、ナヌ!?黒田! と思ったのですが。今のところは、配役の中にその名前はない模様。

維新後に、北海道開拓を言い渡された稲田家と洲本の民の物語です。
もともと、淡路島の洲本稲田氏は、徳島藩(阿波藩)の傘下にあった。豊臣秀吉のもとで、蜂須賀小六とその子分の植元が功があり、徳川の天下になって、蜂須賀氏が阿波藩に封され、稲田氏はその陪臣として、洲本を治めることになった。

洲本は、藩士の証の白足袋も履けない、陪臣の浅葱色の足袋しか履けないことから、徳島藩士から、浅葱者と罵られてきた。稲田氏が洲本稲田藩として独立し、藩主の下にれっきとして藩士として仕えることは、長年の洲本侍の夢だった。温暖肥沃な土地を持ち、徳島藩の1/3に並する実質石高を上げていることも誇りだった。

こうした洲本の願望により、洲本侍は徳島藩士とは確執が深かった。これが、幕末になり、阿波藩は佐幕側、飯田氏は尊皇攘夷派と分かれる一因ともなった。維新が成った暁には、洲本侍は藩として独立する事を、尊皇攘夷派から内諾を得ていたとも云われる。
禁門の変、鳥羽伏見、東北の戦いを通じて、稲田侍は他藩に先んじて石高を省みない兵を派遣し、その勇猛さを知れ渡らせていた。

そして、戊辰戦争後。稲田侍たちは、徳島阿波藩からの分離独立を信じて、新政府に運動を開始する。これに対して徳島の過激藩士が激怒。稲田許すまじとの声が大勢を占める。徳島は佐幕派であり、新政府から減封などの冷遇を受け零落の一途をたどっていた。徳島の武士の生活不安、社会への不安が、その根底に込められていた。

明治3年5月13日、徳島藩士たちが、洲本の稲田家と藩士の屋敷を襲撃、焼き討ち、殺傷した。
結果、洲本側では即死15名、自決2名など、多数の死傷者を出す。洲本の者達は、徳島の暴虐に対し、一切、無抵抗を貫いた。手を出せば私闘であると見なされるという、稲田侍の一致した覚悟があった。自決したのは、この屈辱に耐え切れなかった者たちだった。

新政府は暴行に及んだ徳島藩に対して厳罰を言い渡した。藩の取り潰しは免れたが、斬首10名(嘆願により切腹に変更)、島流し27名に及んだ。
この一連の事件を、稲田騒動、あるいは、庚午事変という。維新の世の歪、翻弄される人間の悲しさを象徴したような事件だった。

そして、政府の咎めはむしろ、洲本に与えられた。稲田の家臣に対しては、開拓が始められたばかりの北海道への移住が言い渡された。飯田侍と開拓民、その家族たちは、静内にて開拓に従事。稲田の分藩・独立運動をもてあました新政府の判断だった。洲本の移住民達は、絶望的な極寒と飢餓の中を生き抜くことになるが、それでも、稲田の者たちは、自分達の土地、国が持てるなら、とこれを承諾した。

入植した洲本の人々を待つ運命は、凄惨の一言。鍬も入らないような茨だらけの荒野を、猫の額ほどの土地を切り開くにも1年がかり。作物も取れず、過酷な自然に疲労困憊、常に飢えの恐怖と戦う。そのうちに廃藩置県で、洲本藩として北海道に自分たちの国を作ろうという夢すらも打ち砕かれる。また、彼等への援助物資と、入植者たちの家族を積載した船は、難破して沈没。さらに、入植者たちの財産や衣類を一時的に集めて保管しておいた倉庫は家事で喪失。一同、財産を失い、一文無しになる…

というのが、洲本の北海道開拓の背景ですが。
そういう時代背景のもとに、洲本からの北海道開拓民を描くことによって、人間の強さに焦点を当てたのが、この映画らしい。


この事件のころ、圭介らはもちろん、牢獄の中でした。徳島の洲本襲撃は大事件となったらしく、事件の経緯と徳島藩への処罰に関しては、太政官日誌に詳しく掲載されています。死罪、島流し、禁固処分の者たちも、太政官日誌に、名前が連ねられています。
圭介たちは、獄中で、この太政官日誌を購入し、回し読みしていました。

圭介、江川塾時代、阿波徳島藩に出仕し、江戸で、藩詰めの藩士たちに、砲術と兵学を教えていた時期があります。

この事件で、阿波藩士は、砲を四門、持ち出していました。
お咎めの際、江戸詰めの阿波藩士も、切腹しています。

戦が終わっても、世の中はひずんだままで、また、自分の教えたことが、不毛な結果を招いてしまった…などと。太政官日誌を見て、圭介、感じたことは深かったのではないかと、思いました。
もしかしたら、圭介の教え子も、処罰を受けた者の中に含まれていたのではないか、と。

まぁそんな感じで、映画にはまず圭介は出てこないですが、ささやかなうすい繋がりで、どきどきしております。

あと、個人的に、映画ではエドウィン・ダンが楽しみです。日本に骨をうずめた、泥と穀物の中で生きたお雇い外国人。地元と一体に生きた人、ということで。


さて、もうひとつ、この映画に吸い寄せられた原因に、個人的なことがありまして。
自分、稲田家のお膝元、淡路島の洲本の出身なのですが。…いや、最近まで稲田家という名前すら知らなかった物知らずな体たらくなんですが。

北海道をバイクで旅していたとき、この映画の舞台となる静内のほうにも訪れておりました。
そのとき、ミーハーにも、義経関係の追っかけをしておりまして、北海道に点在する、義経伝説のある場所を辿ってました。

日高にある静内もそのひとつで、「義経神社」という、そのものズバリの名前の、小さな神社がありまして。
お邪魔してみると、神主さんが大変よい方で、遠方からの珍客と見てくださって、お神酒をご馳走になったり、郷土史について語ってださったりしました。

静内の開拓について、「この辺りは、淡路衆といって、南から移住してきた人間の集落なのですよ。淡路島って知ってますか?」と仰ったので、知っているもなにも、そこの出身です、というと、集落の方のリストを見せてくださいました。

そして、名前でしか見たことのなかった、係累の方の名をその中に発見しまして。
そのまま、居場所をお伺いして、何の連絡もなしに、その方のお宅をお邪魔しました。

おりしも、ちょうど収穫祭のころでした。
ただ自分が、淡路の出身の、同じ家の者だと名乗っただけで、「本家のお嬢さんが来た」と大騒ぎしてくださいまして、随分ともてなしてくださいました。煤だらけのジャケットに泥だらけのジーンズという、とても人様にお会いできる格好ではなかったのですけれども。

自分の祖母の従姉に当たる方がいまして、その方自身は静内で生まれ育ったそうですが。その方の祖母は洲本から移住してきた方ということ。見ぬ淡路の光景、暖かい春のことをずっと聞いて育ったそうです。一度淡路を見たかった、とぽそりと仰ったのが忘れられません。淡路出身の自分に対する、リップサービスなのかもしれないのですが。それでも、100年以上、世代を渡る郷愁もあるのだと、ちょっと愕然とした思いでした。

今は淡路は、過疎の上でハゲ山の目立つ、あまり活気のない場所なのですが。
小さいころは、淡路に居ることが、嫌でしょうがなくて、島から外に出たくてたまらなかったのですけれども
島にほとんど寄り付かなくなってしまった今、島がとても、懐かしく感じられたりする。瀬戸内海の青は優しい色だったなぁとか、牛乳が濃くておいしかったなぁとか。
まぁ、故郷とは遠きにありて想うもの、というヤツなんですけど。

そういうわけで、この映画、なんか、自分のルーツそのままかもしれんと、思ってしまったのでありました。

さて、この映画で参考にもされている、この稲田事件・静内移住をテーマとした小説に、「お登勢」があります。一人の少女と藩士の恋がテーマかと思ったら、時代の流れに錨を指したように動じない強靭なお登勢の生き方を描くことで、維新に翻弄された藩と北海道開拓初期を通した、人間の苦難を込めきった小説でした。架空の人物を実際の事件に絶妙に絡めていて、その時代ならではの人間の強さ弱さが表され、時代小説とはこういうものをいうのかと、かなり胸にきました。

徳島藩の説明に、「開明な藩主により軍備をいち早く洋式化させた」とありますが。…その洋式化導入したのは圭介なんだよー! ぐらいの接点でした。
あと、黒田は、藩閥の汚職政治家の親分、ぐらいの書き方しかされていなかったのは、哀しかったです。

それはおいといて。
事件以降の、生き残るために死に物狂いになる開拓者たちの章が、心に残りました。作物もろくにできず、常に飢え死にの恐怖が背中に迫っている状況で、彼らは、野生の馬を捕まえ、飼いならし、後の開拓と防衛軍備のために開拓使に販売する事で収入を得ることを考えつきます。
新冠でオグリキャップを見たのを思い出しました。あの時代の彼らの生き残るためのアイデアと苦闘が、今の、日本に冠する産業に繋がっているわけで。

たとえば会津も、藩士は選択の上、斗南へ開拓民として移住しましたが。どうも、悲劇で終わっている印象があります。いや、悲劇にしたがっているのは、一部の小説家・歴史家の方々なのかもしれませんが、メディアの方向性として、そういうのがあるように感じられてしまうのです。斗南=会津の悲劇、という連想的イメージで。判官びいきにすると、とりあえず、売れる、というのはあるのでしょうけれども。

洋式牧場を開設したり、湿地を洋式農法で開墾したりして、土地の産業を生み出し、その後の青森県の基礎地を作った広沢安任など、開拓を成功させ、野にあって日本の下地を作っていった人もいるわけで。このあたりにもっとスポットライトが当てられてもいいのではないかと思うのです。確かに悲劇は悲劇ですし、それを悼み悔いることも大切ですが、それを悲劇で終わらせることが一番の悲劇ではないのかなぁ、と。

住める土地、生活の場があるというその当たり前のことを作り上げるために、先人が行った死に物狂いの苦難は、重く、崇高だと、いまさら思い知るのも何ですが。開拓にせよ、国づくりにせよ、一から物事を始めねばならなかった人たちの苦難や努力って、すさまじいものがある。それって、人間として、生物としての本質に向かい合うことができて、なんだか羨ましかったりする。常に、どうなるか分からない、失敗するかもしれない、死ぬかもしれない不安と恐怖が、背中にある状態って、ある意味、生物として、健全だと思うのです。その中でこそ、人間として、ものを作ろうとする衝動が、非常に強く働く。そこに進歩がある。ドラマは破壊ではなく創造の中にこそ強くあると思ってます。

で、「お登勢」。何に目を見張ったかといえば。
馬の買上を開拓使に導入することを請け負ってくれる、開拓民から見れば生活と命と未来の恩人、希望の星、酸鼻極まりないこの小説の、救世主となる男。

北垣国道!

開拓使の薩摩閥役人にも朝廷にも媚びを売らず、自分の実力と見識で必要とされている人間ゆえの自信に溢れた姿が描かれていて、カッコいいです。

北垣さん、最初は地方の一役人だったのが、榎本の開発ビジョンに打たれて、地方行政を志すようになった、というのがどこかにあった気が。
北垣さんが開拓使行政官として、どれぐらいの功績があったのかはまだ良く把握していないのですけれども。

まさか、開拓使時代の北垣さんに、小説でお目にかかれるとは思わなかった。作者の船尾さん、マニアやな。

という感じで、諦めていても微妙に何に遭遇するのか分からないのが、発掘の醍醐味です。
posted by 入潮 at 12:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月15日

奇談の人 宇都宮三郎

宇都宮三郎。

おなじみ、幕府開成所・陸軍所時代の圭介の同僚、工部省での右腕。
「奇談が多い」とのことで、いくつか紹介させていただいていたのですが、先日、S子さんからいただいた資料が、また抱腹絶倒の雪崩状態だったので、お借りした土俵に胡坐かかせていただきます。
以下、出典は主に、「医学・洋学・本草学の研究-吉川芳秋著作集-」。S子さん、いつもありがとう…。

● 天保5年10月15日、名古屋の石高百石、御本丸番神谷半右衛門の三男、幼名銀次郎。生まれは良い。脱藩の後鉱之進義綱と名乗り、明治の三郎と改名。専門を表すように金属づいた名前から、いきなり、三男だから三郎。名より実を取る宇都宮らしいというか。

● 丸に十の大きな五ツ紋の羽織を着ていたが、洗濯にも出さず、汚れたら新しいものと着替えて脱ぎ捨てた。人々は喜んでこれを貰い受けた。単なる面倒くさがりか。研究者という人種は生活をおろそかにするものだけど。

● 開成所時代。給料の新しい天保銭を貰い、風呂敷に包んで歩いていたが、重くなって、焼酎屋の老夫婦の店先にこれを捨て、驚く夫婦を尻目に立ち去った。また、出勤時、両国橋の欄干の橋から橋へお金を並べた。帰りにはみな無くなっていた。宇都宮、これを知って笑って帰った。この辺のエピソードは、他人とは価値観が違うんだということを強調しているみたいです。

● 安政5年、大砲の試薬製造に7ヶ月を要する。地金の分析に成功。日本初の定量分析を行う。緻密で根気の要る作業が得意みたいです。当時は薬品もないから、苦労したのではないかと。

● 漢書はあまり読まなかった。孫子・呉氏について質問された時、よく知らなかったので「将帥学というもので一種特別」と適当なことを言ってお茶を濁した。いくら皆が知っている学問だからといって、自分もそれに追従したりせず、いらないことはやらない、という辺りが、三郎…。

● やせぎすで病弱なのに、柔術の達人。桂川と二人で両国橋に差し掛かったところ、4,5人の無頼漢が襲いかかった。宇都宮の当身で残らず川の中に放り込まれた。転心流の組打は免許皆伝。「夜闘的書」を印刷配布した。…なぜ、夜闘…。当時洋学者は目の敵にされていたとはいえ、そんなに、狼藉者が多かったのだろうか。

● 平素運動をしなければと、天井から枕をつるしてそれを蹴り上げて、天上を破ったという。

● その割りに、パンを自製、パンと水で2年ほども生活した。
…長州征伐時、脊椎の最終骨を病んだというが、このせいで、ビタミン不足の脚気かなにかに陥ったんじゃ。

● 紀州の水野家で蒸気船を買ったところ、片方へ傾く。宇都宮は造船のことは何も知らないが、物理の重心のことは知っていたから、船の一方を削らせた。それが理にかなって船は平に浮かんだ。…強度とかは大丈夫だったんだろうか。普通、荷重積むほうを考えるよなぁ…。

● 長さ一尺ばかりの棒を猿が昇降するしかけのおもちゃを、自ら作って、出産前の、親友岡本紀本の姉にあげた。

● 大隈さんへの屁、騒乱時の桂川邸の糞投げの他に、まだあった糞尿ネタ。明治25年ごろ、名古屋搾固肥料株式会社に、小便に薬品を加え糞便を粉末にして俵に入れて売り出すことを指導。しかし、一般農家には受け入れられず、茶畑で投売り同然にされて採算がとれなかったという。製法は簡単で、臭気も少なかったというから、PR手段さえ良ければ、売れていたのでは。

● ある人が内閣が変わったということを大事件かのごとくに話をしていたら、宇都宮「内閣が変わっても、化学には何等の関係もない」…ほ、惚れる。

● 日本初の保険会社、明治生命。加入者第一号が宇都宮。ところが、病気重態になったとき、会社に負担させてはいけないと、保険の解約を申し込んだ。保険を紹介した福沢諭吉は、「一旦言い出したら後には引かない男だから三郎には黙っておけ」と、本人が知らぬところで三郎の保険金を諭吉が続けてかけた。保険会社は死後、その保険金を遺族に支払った。

● 死後のために自分で考案した、遺体保存棺。一度病で、使うときが来たかと思ったが、その時は幸い一命を取りとめたので、書庫として使用。で、再び病気が重なって、死期が迫るに及んで再びこれを製作。死後、その中に埋葬された。
棺を本棚に使うという神経もまた素敵ながら、死に瀕した際に、自分の体を使って実験したいと、実験器具(棺)を作らせるモチベーションも天晴だ。朦朧としながら注文はつける。文化的・非科学的なタブーを、ことさらに、からかっているところがありますよな、宇都宮さん。

で、宇都宮は、30年は(遺体が)持つと豪語していたらしい。死後50年後、その棺を発掘して化学的に検証しようと、東京科学博物館の朝比奈博士が提唱したが、遺族が反対したので、棺が掘り起こされることはなかった。宇都宮さんは、掘り起こして欲しかったんだろうなぁ…。というか、嫌がる遺族を想像して楽しんでいたのかも。
火葬場の改良とか、どうも、人様が敬遠してそうなところに、好き好んで手をつけているところもこの人。

ちなみに、木材防腐に関しては一言あった方。当時電柱は、木柱だったのですが、これを防腐処理して、寿命を延ばし、配電のコストを削減させたのは、インフラ整備にじかに現れた功績だった。

● 病気になっても医者がいくら勧めても寝ない。寝るということは横になって起きていることである。起きているということは横になって寝ているということだ、一向に違いない、というようなことを言っていた。何かの図面を引く時には何十日間も一睡もしないでやったが、これが出来上がるとまた何十日寝た、という話の持ち主。…そりゃ人間としてどうだろう、というか、誇張は入っているとは思いますが。数日徹夜、寝食忘れ、ということは、よくあったんじゃないかと。


結論:やっぱり、宇宙人ですね、この人。
なんだか、常人より高次のレベルの思考回路と価値観をもっているように思えます。

宇都宮と圭介の功績ですが、一緒に仕事していただけあって、分野は非常に似ています。というか、同じのも多いです。酒の防腐や肥料は宇都宮オリジナルですが。製糖法とか、石油の洋式蒸留窯の導入とか、氷の製法とか、ソーダやセメントの製法とかは、圭介が計画、調査してきて、三郎が実用化したという感じで。アメリカでは一緒に工場を回ってたので、アイデアの出所は同じものも多いでしょう。圭介、局長の事務管理作業に忙殺されていたようですが、自分の手でやりたかったのも多いのだろうなぁ、と。今だと、コンサルタントやメーカー、研究所などに、委託、外注で処理している業務を、彼らは全て自分達で直営で、あの人数で行っていたわけですから、相当激務だったと思います。

現場好き出張連続の圭介の留守を、無表情にアイアイサーとか引き受けてて、セメントやら製糖法やら自分の研究開発に没頭。事務作業などは最低限でそこそこに放置。帰ってきた圭介の机の上は未処理の事務書類が山積み。むしろ、実験項目を増やして予算が足りなくなって、圭介の仕事を増やしていそう。赤字マークだらけの官営工場の損益表に頭を痛める圭介を他所に、報告書の図面をやっぱり無表情に嬉々として書く宇都宮。良いよな、お前は好きなことをやってて、と心の中で愚痴る圭介。でも圭介はそんな三郎が好きなので、できるだけ三郎に、余計な事務作業が流れ込まないようにするのです。そんな圭介を過労に追い込むのが、宇都宮の愛。「付き合いますよ」と蕎麦をとる宇都宮。ランプの灯りの元、二人で床に座り込んで、出前のかけそばを啜る。今夜も不夜城な、工部省。

いや、まったくの妄想ですが。こんな感じの工部省工作局。楽しそう。
そして、良いコンビです。工作局ヘッド。
こんなところに、就職いかがですか。キツイキタナイ家庭崩壊過労死の、4Kが待ち構えていますが、人生のネタには事欠きません。
posted by 入潮 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月16日

弟子達

ひよさんが、後藤象二郎が、圭介に英学を習ったとサイトをご紹介してくださっていました。ほんとに、いくつかのサイトで見られます。
文久3年とありましたが。圭介は江川塾在席、幕府でアルバイト中。ウィキペディアには、後藤は開成所で洋学を学んだとあるので、圭介がここの教授をしていたころなのでしょうか。
ちなみに、後藤は明治4年9月まで、工部省大輔でした。

(最近、凄まじい勢いでウィキペディアが充実している…。ウィキペディアはフリーの百科事典。参加型で、ユーザーが編集に加わることも可能。まだ圭介の項目はない。うぉ…)

そして、同じくウィキペディアから、井上馨もまた江川塾にいたとのこと。
また、デジタルライブラリより、「明治元勲井上侯実伝」には、「佐藤一斎の門に就いて学び、砲術は江川太郎左衛門を師とす」とあります。
圭介は、太郎左衛門坦庵(英龍)の時代には江川塾いなかったから違うかなー、と思ったのですが。

江川坦庵のほうは安政2年(1855)に死亡、息子の英敏は13歳(江川邸のWPでは16歳となっている)で、このとき、芝新銭座に塾を賜った。(それまでは伊豆の韮山)。8年後の文久2年(1862)に死亡。このとき弟の10歳の英武が継いだ。

江川太郎左衛門坦庵は、死亡後に、彼が生前に建白していたことが実行に移され、これが時勢に適合してきたので、坦庵の名前が知られてきた。そして、家臣の柏木総蔵らが、英敏を助け、江川塾を盛り上げた、とのことです。
つまり、よく見る「江川太郎左衛門に師事」というのは、誰しも坦庵を思い浮かべるが、これは必ずしも坦庵を指さず、むしろその死後に名が有名になったので、「江川太郎左衛門」というと、英敏を示すことも多いということ。

で、圭介が江川塾の講師となった時期ですが。
坦庵死後の、安政4年(1857)。25歳のとき。坦庵の厚遇を受けていた矢田部良吉の父卿雲が、翻訳をして生徒を教導していたところ、彼が病死。この補欠に、前橋藩から江川塾の教師をしていた肥田金之助が、坪井塾の圭介を勧めたということ。このとき、江川塾には20人ほどの教師がいました。圭介は坦庵と一度も会った事はないが、柏木総蔵から詳しく話を聞いていたであろうということ。

「相当の手当てなども与えておりましたから、表面は主従の関係であったけれども、その裏面においては、江川家においても、賓客の礼をもって之を優遇しておりました」とのこと。「当時大鳥の翻訳を傍で筆記するに、語、自ずから一編の文章を為すとて、皆驚いた」という教師ぶりだったそうです。

で、圭介は、「脱走まで江川塾の教師をしていた」と英武の話にあるので、あの幕府での過密スケジュールでさらに江川塾にも顔出しをつづけていたらしい。

以上は、英武の話なので、大体正しいかと。
あと「江川の塾は兵学を専攻したる故か生徒が少なかりしも、氏(大鳥)が得意とせし築城学について、『築城典型』なる一冊を出版するに及び、諸藩の青年は氏の薀蓄深さに敬服して門に入る者一時に増加したり」と、圭介、看板男だったみたいです。ただ、これを言ったのは安藤なので多少誇張が入っていると思いますが。

あ、英武さん、「坦庵贈位のことについても、余(英武)は別段進んで希望したわけでもなかったですが、大鳥男が黒田伯と連名で上申するから承諾してもらいたいとのことであった」なんてことも語ってました。

……け、圭介が、黒田と、思い出の江川塾創設者の、贈位を…!


さて、話を戻します。井上馨が江川塾に学んだのは安政5年(1858)なので、圭介、既に江川塾にいました。築城典型出版前なのであまりメジャーではなかったのかもしれませんが。そんな感じで、少なくとも、圭介に師事していた可能性はあるということで。圭介側の記録にはないので、実際にはそんなに付き合いはなかったかもしれません。
ちなみに、井上馨。明治11年7月〜12年9月に、工部卿に就いてます。圭介の上司…。あとは日清戦争後の交代。

そんなわけで、現在判明している、圭介の著名人の弟子達とその関係。

● 黒田清隆(箱館戦争陸海軍参謀、降伏会見で呼び出し、箱館戦功賞典取調役、差入の植木屋候補、坊主になって助命運動、赦免後2週間で開拓使任命、等)

● 大山巌 (薩摩大砲二番隊。宇都宮、母成峠の戦いで対峙。日清戦争では第2軍司令官)

● 伊東祐磨(海軍中将、海軍大将伊東祐亨の兄)

● 野津道貫 (薩摩小銃六番隊、宇都宮、母成峠で対峙。日清戦争時は第1軍司令官)

● 木戸孝允(死刑主張、岩倉具視視察団で洋行時再会)(時期が合わない可能性あり。)

● 井上馨(工部卿で上司、日清戦争後の公使交代)

● 後藤象二郎(接点はないが工部大輔、板垣退助の親友)

…薩長土の豪華メンバー。これらに打ち負かされるわ、投獄されるわ、死刑を主張されるわ、助命されるわ、職を与えられるわ、上司になられるわ、文官武官で共同戦線だわ。
今更、って感じですが、こうやって並べてみると、まさに、人生、被下克上。因果応報、自縄自爆を背負っています。

このうち、圭介側の記録に見られるのが、黒田、大山、伊東、木戸でした。
あとほか。圭介に英学、砲学などを学んだことが名指しで出ている方がたには。

● 三宅弁治。庄内藩。鶴岡市の初代町長。

● 重田新次郎。庄内藩医で新庄・越後で転戦し教育界につくした。慶応三年に圭介に洋学・兵学で師事。

● 岩田平吉。弘前藩士。圭介とは最も懇親だったとのこと。西洋砲術師として有名。弘前で塾を開く。津軽そばの生みの親。

など。江川塾、開成所、陸軍所などを伝うと、ほかにもいろいろ、出てくるのではないのだろうか。
ほじくればほじくるほど、なにかあるような気がしてなりません。安心できません。


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Re: 弟子たち ひよ - 01/16(日) 10:57 PC No.738 [削除]

うおう。また分りやすい記事をありがとうございます、入潮さん!
圭介の弟子達のくだりもですが、江川塾の事情も大変ためになります。
英武さんの話も・・・圭介目当てで入塾者が増えただなんて、美味しすぎますv

本当にいつも「おお!」というようなお話をありがとうございます。
下の記事の「やせぎすで病弱なのに柔術の達人」な宇都宮さんもツボでした。宇都宮さんは、もし捕らえられても、ニュルリと人にあらざる形で脱出しそうです。←柔術ってそんなもんじゃない。

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魅惑の江川塾コミュニティ 入潮 - 01/16(日) 17:15 PC No.739 [削除]

実は江川塾のことはあまり整理して頭の中に入っていませんでした。前まで、圭介は伊豆の韮山にいたんだと思ってました。ひよさんが後藤象二郎を上げてくださったおかげで、整理するきっかけになりました。ありがとうございますー。

英敏・英武兄弟が良いです。名ばかりが先行し知名度のうなぎ登りな江川塾を、立て続けに若くして継いだ二人。特に、英武君は、心細かったと思います。「心配するな、おれがついているから」とか言って不安を和らげる圭介とか。頭の中には、故郷においてきた弟の顔があったりして。だから幕府で忙しくなっても、江川塾から離れられなかったんですよ、あぁ。

「ニュルリ」に撃沈。ひよさんの語的センス最高。
宇都宮さんは、なんというか。洋学者とか日本人とかいう枠組みではどうも捉えきれません。
「高度知的生命体」とか言わないと、定義できない気がします。
あ、宇都宮さんも江川塾にたむろしてましたっけ。25歳ごろから、というので、数えだとおそらく安政5年、1858年ごろ。というと、圭介が来たあとだから、ここで重なってた可能性はあります。
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2005年01月21日

薩摩交際

ちょっとだけ。糸口が在りました。圭介と吉田さんの関係。
なんで外債発行時に、吉田さんがあそこまで大鳥に拘ったのだろう、という疑問ですが。

まず、この方。寺島宗則。
薩摩藩士。代々島津家に仕える家柄。藤原鎌足の血を引くらしい。天保3年生まれ。圭介と同年。沈毅寛容。
外交畑で知られていますが、川本幸民とともに、電信機の実用試験を行い、電信の父とも呼ばれています。斉彬侯のブレーンの一人。
版籍奉還を建議、政権を幕府から朝廷に移すための外交工作を行ったりしてます。維新の元勲の一人。
明治では外務卿、文部卿を経て枢密院入りしています。

で、この方と圭介の関係。

「斉彬侯が藩の青年に蘭学を習わせ、川本幸民、寺島宗則、八木玄悦等に蘭書の翻訳をさせて新事実を調べさせ。然るに、圭介はこの寺島等と交際して居たから、寺島が圭介に手伝ってくれとのことで、薩州侯の屋敷に出入りすることになった」(大鳥圭介伝)

交際……。もとい。
圭介が寺島の下請けで洋書を翻訳し、これを目に通した斉彬から、圭介が厚遇を受けた、とのこと。
薩摩と圭介を結びつけたっぽい人です。(斉彬蕎麦エピソードはまことにオイシイですが)

で、この寺島さん。1846年(弘化3年)に江戸へ出て蘭学を学ぶ。1856年(安政3年)幕府蕃書調所の教授に。1862年(文久元年)幕府遣欧使節に訳官として随行。

そして。
1865年(慶応元年)に、薩摩藩士一行19名とともに羽島を発し英国に密航留学。

……この、密航留学生の中に、吉田清成がいました。(森有礼も)

てことで、寺島を通じて、吉田に圭介情報が流れていたことは十分に考えられるわけで。
ちなみに、海外においても、この薩摩留学生ネットワークは、相当強固なものがあったようです。日本、故郷の情報は、当地の新聞は全く当てにならん、知己の家族などからのじかの声が一番正しいと、吉田は知り合いへの手紙で言っています。故郷からのみなの手紙を留学生内に回覧したりして、吉田さんは、留学生の情報中枢のような位置にいたようです。

で、圭介が1960年に翻訳したものに、当時のエンサイクロペディアである「萬國綜覽」があります。これを、その2年後に渡米した寺島さんが持っていないはずはなく。これが、帰国した寺島の手を通じて、薩摩藩留学生たちに与えられた可能性もある……。

まだ、確定的ではありませんけれども。吉田が圭介を、英国密留学生だった頃には既に、少なくとも名前は知っていた可能性は、だいぶ高いじゃないかと。

あー、圭介、薩摩と仲いいなぁ…(哀)。

さて。決算地獄と報告書提出のダブルアタックを受けていて、半死半生です。
メイルのお返事、滞っております。大変申し訳ないです…。ブータン出発までにはきっと…。



今ふと思ったけど、「けいすけじゃ」で薩摩藩邸で一緒に酒を飲んでたいかついにーちゃんって、もしや寺島。
同年で、片や雄藩の英才、片や貧乏アルバイト。なかなかおいしい。技術系外交官、ってところもそそられます。
あー、今まで書簡集、スルーしっぱなしだった。うぅ。
川本も要チェック。

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2005年01月25日

東京城残影 東京城残影 東京城残影

「東京城残影」1999年で比較的新しい小説です。
しんみりと、しっとりと、ようございました…。あー…。
英雄とか時代の激流とか、派手なのもいいですけれども、こういう、どこででもありえた、という話が、のがツボなのでございます。

もともと、圭介が、失った命を慰めるためにも北海道に理想郷を作りたいと、舞台の主人公を誘い、主人公が時代と向き合う切っ掛けとなるという役割、という設定の舞台 があったようで。(http://www.asahi-net.or.jp/~fa9m-kwt/kangeki/01_10inochimoyurutoki.htm)。それにたまげて、その原作を読んでみたいと、手をだしたのでございました。

舞台とは設定が違いますが、読んだ感じでは、原作のほうが、複雑さと人間味とリアリティがあって、大変良いです。

以下、思いっきりネタバレ含みます。

内容は、箱館戦争後、青森の高竜寺に収監され、釈放されたばかりの、架空の伝習隊士、信一郎の話。本当の主役は、その妻と、出入り商人だったおやっさん。信一郎の父親は直参の旗本で五百石取りというから非常な家柄。小川町の歩兵屯所に歩兵頭並、箱館でも歩兵頭並、という設定。…立場的には、(本多+大川)/2 という感じでしょうか。この話の主人公としてはちょっと地位が高すぎるかなぁと。指図役か小隊長ぐらいで、浅田君ぐらいの役どころだと、もうちょっとしっくりきたのですが。

最初、この設定のせいで、モロ「本多さんやん…」と思ってしまって、主人公に本多さんを重ねて読み勧めていました、ら…。も…、悶えてしまったことです。この、切々と語られる現実の切なさ、哀しさ、世知辛さ、やるせなさは何なんですか…。

朝令暮改の制度の連続に、不満と不信感を溜める庶民。それでも「明治と書いて、治まるめぇ(明)と読む」と、したたかに笑いながら生きていく。
江戸から明治への過渡期、近代の黎明期、時代と時代の狭間に揺れる、人々。それが、男と女の人生の哀しさ侘しさを通じて、描かれています。

脱走兵たちが戦などにうつつを抜かしている間に、残された妻、子、老いた親達が、どのような目にあっていたか。家禄を奪われ、そもそもの収入の当てもなく。生死も分からぬ当主を他所に、どう生きていかねばならなかったのか。

一番のポイントは「ありえる」ことなのでした。どこにでも、誰にでも。そこに住んでいたような、説得力とリアリティ。物語自体は、地味に男女の関係の話が綴られているだけなのですが。登場人物を通して、その時代の中で生きてきた人間のもがきと逞しさが、そして、人間綺麗なままでは生きていけないという現実が、ひしひしと伝わってくるのです。生きて戻ってきた信一郎の境遇と零落振りと、その妻の人生に、「ぐはぁぁ…」と呻かずにはいられません。「箱館で死んだほうがよかった」と思い知る彼のやさぐれ具合が、どの隊士にもありえる姿だけに、胸に突き刺さってきます。生きることが本当の戦なのだと。戦後、明治陸軍に身を投じた連中の、身の上が慮られてなりません。ていうか、み、みちさんが心配でたまらなくなりました。あぁぁああ…。

でも、この話の良いところは、それでも、ハッピーエンドだというところなのです。

時代の流れを読んで、ランプやシャツなど舶来ものを扱う開化屋を経営するおやっさんの茂平。この話の本当の主人公だと思うのですが。茂平の生き方がまた、泣かせやがります。良い人過ぎんか?と思わせておいて、それが実は、己の業と罪から来る後ろめたさから来ているのだったりするあたりが、むんむんと漂う人間臭さで。
動機はどうであれ、茂平の献身によって、車引きの親方となった信一郎は、帳簿の数字を見ながら、世の中の流れを理解する。禄の上に惰眠を貪っていた武士の実態と世の中が垣間見える瞬間。

そして、物語が良い後味で終わっている一端に、大鳥の役どころがあったりします。

出番は少ないです。全体を通してもほんの4,5ページ程度の出番で、台詞もほとんどありません。最初と最後にちょろっと出てくるだけです。んでも、「浪士石油を掘る」並に、大鳥がツボに来ました。
大鳥自身が、というよりは、大鳥周囲の環境や立場が、ツボといったところでしょうか。それがこの物語に大きな救いをもたらしているのです。

もともと、大鳥たちの脱走は、徹底抗戦の意図ではなく、榎本とともに、徳川の処遇への睨みとすることが目的だった。国府台に篭り、徳川に対して薩長が約束を果たすか、その監視を行うものだった。それが、他隊や会津、桑名などと合流してしまい、戦火に身を曝す羽目になった、という位置づけ。会合で、「さらわれるように上座へ」などと、オイシイ表現が。

それはともかくとして、薩長の世には下るまじと、俸禄もなく、食い詰め、手段も選べず零落する一方の徳川武士を絵に描いたような信一郎が、茂平のおかげで語学を始めていたのですが、大鳥らの釈放で、将来へ具体的な希望を抱く。

「恥を覚悟で、二君に仕える決心をした」と大鳥。それ、薩摩・尼崎・阿波・幕府の次の、五君目じゃ…というつっこみはおいといて。

大鳥たちの任官にあたって、二君に仕える、変節漢、という悪印象は、特に貧困にあえぐ没落士族ほど、確かにあったのかもしれません。
けれども、「どうだ、御一新とか偉そうなこと抜かしやがって。てめぇらの力だけじゃ結局できてねぇじゃないか。薩長も結局徳川に頼むんだ」と、出獄してきた榎本や大鳥らを、頼もしく思ってくれ、胸をすく思いをした人たちも、いたのだなぁ、と。

そして、何より、彼らの釈放と仕官が、憎き薩長の元に頭を垂れて職を乞うことはできん、薩長の作った世の中など受け入れられないとする旧幕臣たちが、意地やプライドを捨て、世の中を見つめなおす踏ん切りを、与えている、とう役どころに、じーんと来る思い。

特に榎本ら生粋の徳川家臣にとって、新政府への出仕は、降伏と同じか、それ以上に、覚悟の必要なことだったように思えるのですが、大鳥が、渋る榎本に仕官を勧めたのも、こういう旧幕臣達の気持ちを分かっていたからなのかもしれません。

旧幕臣たちにとって、薩長へ私恨を抱え、没落しきった生活の中で、薩長もなりふりかまわずに徳川の頭脳を必要とした。それに対してスカッとした思いは「私」のもの。薩長も徳川もなく、ひとつの国を作っていかねばならないという決意は「公」のもの。大鳥はその「公人」としての姿でしか書かれておらず、主役である、「私」に生きる人間達の、時代背景を作る舞台道具みたいなものですが。このような描かれ方をしている舞台道具は、大いに嬉しくあります。

あと、大鳥が、始終、「隊長」と呼ばれていたことも何気に嬉しかったです。榎本総裁、大鳥隊長、の二つ並び。伝習隊にとって、大鳥は、奉行ではあるけれども、不意に隊長だといいなぁ。

信一郎の祝儀に出てきた大鳥が、場の主役を奪ってしまうところもなんだか、おやぁ、という感じでしたが。
信一郎が、大鳥に従って、北海道へ開拓へ行く。このラストがまた…痺れました。

そして、物語が、決して、徳川武士たちの視点からのみ描かれているわけではないのが良いのです。
薩長も新政府の官員達、ヘッドも、政令が定まらず、民の不満や鬱積を、何とか宥めようと、金不足、人材不足の中で苦労している。また、薩長側に与した藩の侍たちも、薩長の武士すら、能力が無ければ、失業、零落、、極貧の憂き目を見ている。威張り散らした藩士たちも、佐幕も新政府も同じに、車を引き、鍬鋤を手に泥に塗れて給金をもらい生活する。

さらに、勝さんの書かれ方がポイント。此処まで位置づけがカッコいい勝は見たことがない。主人公からは蛇蝎のように嫌われているのですが。こう、読者に与える印象が、ニクくてたまらんのです。時代を見据えた、嫌われ者のご意見番。

「明治から江戸へ渡る橋」。その言葉を発したのは渋沢、というのもまたツボで。これって事実なのかしら。渋沢は、まさしく御大尽。旧幕にありながら能力をもって、大蔵省に招かれた。
この表現は、この物語を象徴していました。薩長も徳川も、武士も商人もなく、みな、隔てなく、時代の流れに、戸惑い、流れに乗れない者は置き去りにされ、うまく流れを渡れた者が、次の世で生き場所を見つけられる

あぁ、これだ、と。
自分、こういうのに弱いのですよ。人間の弱さとか汚さとか散々見せられた後に、それも世の辛さのせいであって誰が悪いのでもない、その中で強く強かに生きていこうとする姿がある。泥の中の蓮のように希望がある、お決まりの流れ。壬生義士伝などもそうですが。

作者の方は昭和8年生まれ。発刊当時で65歳の方。このしみじみしたリアリティは、この年輪を経た渋みから、かもされるものなのでしょうか。

勧善懲悪ではない、というのもこの話の良いところ。没落士族も、商魂逞しい商人も、薩長の官員も、みな事情と生活を背負って、人を愛しながら生きている。

突き詰めると、人間ってみんなワルモノだから、悪い者はいないと思うのですよな…

現実味のある話は好きですが、これが現実であってくれと祈りに似た気持ちを抱かずにいられない話でして、かなりクルものがございました…。

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早速 ひよ - 01/27(木) 06:17 PC No.745 [削除]

本屋に走ります!
『浪士石油を掘る』並の萌えって・・・!それだけで興奮なのです。

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Re: 東京城残影 成田みのる - 02/03(木) 22:08 PC No.746 [削除]

早速手に入れました〜v
現在の通勤のお供ですvそして最初の方にちらっと出た圭介に萌えvvv
頭に血が上りましたよ〜。ストーリーは今から展開するので最期まで楽しんで読みたいと思っています。

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人間萌え 入潮 - 02/06(日) 02:57 PC No.747 [削除]

>ひよさん

すみません、これは、大鳥スキーとしても、外しすぎているかもしれません。余計な期待を与えてしまっただけで終わってしまったかもしれません…。「浪士〜」と違って、大鳥のキャラクター性はほぼ皆無で。なんというか、キャラクター萌えではなくて、人間萌え。時代萌え。背景萌え。でも、ひよさんならきっと楽しんでくださると信じてもいいですか。

>成田さん

お仕事とご家庭の両立、ご苦労様です(敬礼)。すでに人間的な生活と、それによって育てられる人間性を放棄している自分には、成田さんのお姿は、光り輝いて見えます。
通勤のお供。あまりに人間密度が濃すぎて、人間不信になりそうな、人が人ではなくモノに見えてきそうな、殺伐とした空間にあって、本は安らぎです。ほんとに出番は激少なので、だましてんじゃねぇ、と怒られてしまいそうなのですが…。大鳥さんの存在を喜ぶ元隊士君の姿を喜んでいただけると嬉しいです。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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