2005年02月06日

スマートな人

相変わらず良い仕事をしてくれております、アジア歴史センター。
このヒューマンインターフェイスの良さは、括目して見よ、って感じです。
いや、超遅貧弱回線の今は、むしろ見れなくて苦痛でもがけるのですが。

現在、岩倉具視使節団の特集が組まれております。
圭介に直接関連のある記事は今のところないのですが。ここの用語集が大変有難いです。明治初期の独特な政治用語を解説してくれています。

というか、いまだに自分、日本史は中学生以下のレベルだからなんですが。明治初期を調べていると、地位役職名、部署名、肩書きなどが、何の説明も無く用いられているので、字面だけで把握するだけで、しっくりと理解できないことが多いのですが。(「出仕」の意味も、理解するまでしばらくかかった…)
ちゃんと日本史を学んだ方には自明の理なのかと思うのですが。素人というか無教養者には苦しいものがありまして。
そこにこの用語集は、助かっております。

圭介の洋行時の身分だった「理事官」の定義も。
「使節に同行した専門調査官。政府の各省から派遣され、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国で分野別に実地調査をおこなった」
そ、そうか、専門調査官だったのか。かっちょいい響きだ。ちゃんと役務を持っていたらしい。
理事官というのは、てっきり、ただの業務調整、平たく言うと雑用係だと思っていました。失礼しました…。
…ていうか、圭介、大蔵省の仕事、ちゃんとしてたのだろうか。給料ダブルで貰っているはずだから、開拓使の仕事並には大蔵省の仕事もあってしかるべきなのだが。…まぁ圭介は、どっちが開拓使、どっちが大蔵、なんてことは頭になかったのだろう。

さて、欧洲滞在中の使節にあてて日本政府から送った公信の第54号・第55号に、明治6年5月5日に発生した皇居の火災により、皇居、太政官とも残らず焼失し、太政官の諸記録は大使事務書類、往復文書、応接書ともことごとく焼けてしまった、という記述がありました…。

かなり復元不可能になってしまった重要文書もあったんだろうなぁ、とふと思い。
それって、欧州でハチ合わせした、外債発行団との交換文書とか、あったりしないんですかと、思わず目をむいてしまいました。

今のように電子化・複製は不可能だったので、東京大空襲などの火災でも失われてしまった資料も、多々あるのだろうなぁ、と。
そいや、圭介が駿河台の屋敷に残していったという、書簡や手紙類は、どうなったんだろう。新政府に屋敷ごと徴集されて処分されてしまったのだろうか。大鳥活字もこのときに失われたのだろうけれども。
圭介の屋敷の正確な位置って、いまだによく分からないんですよな。屋敷拝領の文書は残っているので、特定できてもよさそうなのですが。せめて、昔は誰の家だったか、ということが分かれば、その後の経緯なども調べられて、糸口になるかもしれない。

そんな感じで、今我々が手にできる文書というのは、本当に幸運な偶然を経て残された、ほんの一部である、ということを実感したのでした。
今は手間とコストさえかければいくらでもデジタル化できるのですが。今度はそのコストと残す価値との兼ね合いになっているわけですな…。
逆になんぼでも複製可能になるので、電子化した時点で、希少価値を失っているような気もしますが。
ラベル:クララ 吉田清成
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2005年02月17日

残されない文書

相変わらず良い仕事をしてくれております、アジア歴史センター。
このヒューマンインターフェイスの良さは、括目して見よ、って感じです。
いや、超遅貧弱回線の今は、むしろ見れなくて苦痛でもがけるのですが。

現在、岩倉具視使節団の特集が組まれております。
圭介に直接関連のある記事は今のところないのですが。ここの用語集が大変有難いです。明治初期の独特な政治用語を解説してくれています。

というか、いまだに自分、日本史は中学生以下のレベルだからなんですが。明治初期を調べていると、地位役職名、部署名、肩書きなどが、何の説明も無く用いられているので、字面だけで把握するだけで、しっくりと理解できないことが多いのですが。(「出仕」の意味も、理解するまでしばらくかかった…)
ちゃんと日本史を学んだ方には自明の理なのかと思うのですが。素人というか無教養者には苦しいものがありまして。
そこにこの用語集は、助かっております。

圭介の洋行時の身分だった「理事官」の定義も。
「使節に同行した専門調査官。政府の各省から派遣され、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国で分野別に実地調査をおこなった」
そ、そうか、専門調査官だったのか。かっちょいい響きだ。ちゃんと役務を持っていたらしい。
理事官というのは、てっきり、ただの業務調整、平たく言うと雑用係だと思っていました。失礼しました…。
…ていうか、圭介、大蔵省の仕事、ちゃんとしてたのだろうか。給料ダブルで貰っているはずだから、開拓使の仕事並には大蔵省の仕事もあってしかるべきなのだが。…まぁ圭介は、どっちが開拓使、どっちが大蔵、なんてことは頭になかったのだろう。

さて、欧洲滞在中の使節にあてて日本政府から送った公信の第54号・第55号に、明治6年5月5日に発生した皇居の火災により、皇居、太政官とも残らず焼失し、太政官の諸記録は大使事務書類、往復文書、応接書ともことごとく焼けてしまった、という記述がありました…。

かなり復元不可能になってしまった重要文書もあったんだろうなぁ、とふと思い。
それって、欧州でハチ合わせした、外債発行団との交換文書とか、あったりしないんですかと、思わず目をむいてしまいました。

今のように電子化・複製は不可能だったので、東京大空襲などの火災でも失われてしまった資料も、多々あるのだろうなぁ、と。
そいや、圭介が駿河台の屋敷に残していったという、書簡や手紙類は、どうなったんだろう。新政府に屋敷ごと徴集されて処分されてしまったのだろうか。大鳥活字もこのときに失われたのだろうけれども。
圭介の屋敷の正確な位置って、いまだによく分からないんですよな。屋敷拝領の文書は残っているので、特定できてもよさそうなのですが。せめて、昔は誰の家だったか、ということが分かれば、その後の経緯なども調べられて、糸口になるかもしれない。

そんな感じで、今我々が手にできる文書というのは、本当に幸運な偶然を経て残された、ほんの一部である、ということを実感したのでした。
今は手間とコストさえかければいくらでもデジタル化できるのですが。今度はそのコストと残す価値との兼ね合いになっているわけですな…。
逆になんぼでも複製可能になるので、電子化した時点で、希少価値を失っているような気もしますが。
ラベル:史料 図書館
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2005年02月18日

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。今年も何卒、よろしくお願い申し上げます。

…とうとう理性だけでなく時間のネジまではじけ飛んだか、という感じですが。
正月でした。ここでは。ブータン暦は太陽太陰暦で、どこに閏がくるのか全く予想できない上に、不意に日付が跳んだり、重なったりする、心臓に悪いものです。11日の次が11日だったり、13日だったりする。西暦にあわせたカレンダー上の祭日も、その前の週までいつが祝日かわからなかったりするので、仕事に支障がでまくりです。
まぁでもそのおかげで、日本で味わえなかった分、正月気分で、飲み食いできました。出張中はブータンの休日だろうが日本の祭日だろうが、構わず働いているのですが、夜中まで延々、ということはなく、お招きを受けるのも多いので、人間らしい生活パターンです。
暮らしていると何かとネタがたまっていきます。圭介でなくて申し訳ない。また性懲りもなくブータンレポート。

● 気圧
気圧が低い。低い温度で水が沸騰してしまう。つまり、料理が煮えない(油は沸点が高いからOK)。米に常に芯が残る。炊飯器はあるが、まともな米を食いたいと思ったら炊飯器が使えない。圧力鍋は必須。
人にもモノにも影響がある。下界から運んできたポテトチップスや袋の密封物がパンパンになって嵩張る。時に破裂して使いものにならない。敏感な人は来る度に軽い高山病にかかっていて、眠さや頭痛を訴えている。

● 気温
寒い。山には雪がかぶっている。緯度が低いので、昼間太陽が出ると暑いぐらいだが、朝晩が非常に冷え込む。で、10日ほどで、急激に寒気が去っていった。と思うと、いきなり放射冷却で20度以上も冷える。暦だけではなく季節の移り変わりも、単位が何か違う。

● 電気
まともな電化製品がない。常にヒューズやアダプタを探し回る。皆が取り合うので、ストックしておくと必ずなくなる。だれでも日曜電気技師になれる。くる度に、オフィスのセットアップに電気パーツのやりくりで1日が暮れる。
環境対策のため、暖房用の薪が手に入りにくくなったので、電気ヒーターを皆使う。ヒーターは激しく電力を食う。皆一斉に使うので、結果、電力が足りなくなり、電圧が下がる。そうすると、電圧変化に弱い蛍光灯が点かなくなる。手動スタート、即ち、放電の点灯管を直接ガチャガチャと手で動かす羽目になる。危険。あるいは暗い中我慢するか。白熱灯は、消費電力は大きいが電圧変化には強いのでそれなりに点せたりする。ここは240Vだが、計ってみると160Vまで下がっていたりする。日本の100Vの電化製品にトランスをかまして使うほうが、よほど安定して使えたりする。
風呂の湯も、電気ヒーターで暖める。タンクも容量も小さいので、バケツ一杯ぐらいしか湯が使えない。シャワーが必ず途中で水になる。風呂場も寒いので、湯で温まるより、濡れた分、冷めるほうが早い。風呂に入ると毎回凍える。石を焼いて水を温める石風呂というのが田舎の家にはあるが、それは激しく薪を消費するので、だんだん行われなくなっている。
ここの電気は皆水力発電なので、環境にやさしいというが、全てのエネルギー源を電気で賄うには、暖房にしろ煮炊きにしろ、あまりに受け入れ側の設備が届いていない。昨日もヒューズが飛んだが、問題はヒューズすらついていないアダプタが氾濫している。いつか大火事がおきる気がする。人間の快適さは、基本的に、おびただしい環境犠牲の上に成り立っている。

● 肉
No Meat Month というのがある。肉無月とでもいうべきか。正月からの1ヶ月が該当する。この月は、肉を買ってはいけない。よく分からないが、食うのはOK。つまり殺生をしてはならない、ということか。
干し肉を食べるのはOK。インドから輸入してきた肉もOK、という、よく分からない戒律。
この時期は干し肉が主。ヤクの肉などだが、硬い。最初は歯が折れるかと思うぐらい。これをチューインガムのように、くちゃくちゃとひたすら噛む。時々、普通の肉があるが、真っ黒になるまで揚げてあるか、免疫抵抗力を試されているのかと思うほどに臭い。
肉無月は年に3ヶ月もある。古くからある習慣かと思ったら、施行されたのはたった3年前から。肉屋も商売上がったりだ、と思うが、実は皆、必要以上に買いだめするので、肉屋の売り上げとしては変わらず、むしろ儲かるらしい。それで年に3ヶ月も休みが得られるのだから、肉屋としては有難いことこの上ない。

● タバコ
つい最近、国内で一切のタバコの販売を禁止して、話題になった。
実際、役人はみんな吸っている。公共の場所では駄目だが、食堂などでは皆おおっぴら。役人は、外国人コンサルタントとの付き合いが多く、外国人がタバコを持ち込んでくるので、不自由はしていない。タバコ禁止を決めた側が実は一番吸っていたりする。関税は200% (つまり価格が3倍)になるのだが…。

● 酒
ビール。レッドパンダという、保護動物の名を借りた地ビールがある。これが、思いっきり濁っていて、底に沈殿している。ビンの最後まで飲もうとすると、沈殿で口の中がもわもわする。
酵母が生きている。どころではない。瓶の中でガンガン発酵進行中。瓶ごとに味が違う。時々、発酵しすぎて、栓を抜いた瞬間に瓶の中が全て泡になって飛び散る危険物。栓を抜く前に、皆総出でジョッキを構える羽目になる。かと思うと、全く発酵してないんじゃないのか、という薄くて泡の出ない瓶、逆に発酵しきって酢になっていて飲めたものではない瓶まである。生産年月日に、2004/12/41 とか、ありえないのが平気である。一応、工場出荷品。いったいどういう品質管理なんだろうかと思う。慣れるとこれが味だと思うようになり、栓をあけるのが楽しみになる。

あと、アラ、という、米と穀物から作った焼酎がある。これは熱くして、バターと卵を入れて飲む。すさまじく強い玉子酒みたいなもの。風邪を引いていたら、治る以前にまず、べろべろに酔っ払って、風邪も何も分からなくなる。家庭で作られるもので、売られているのは見たことがない。家庭によって味も色も濃度も濁り具合も違う。ブータンに来るととたんに更新率が落ちるのはこの酒のせい。

● GHP
ブータンは国王自ら、Gross National Happiness(国民総幸福量)という、GNP(国民総生産)に変わる指標を打ち出した。国王は開明で、自己矛盾ながらも民主化を推進。
国王は良いとして、国王の周囲が問題。一夫多妻制が認められているが、多妻の場合姉妹でないとならないという制約がある。現国王は4人姉妹を妻として迎えている。この外戚の一族がたいそうな権力を持っている。ホテル、建設、観光地など主要な産業を握っている。だけならいいのだが、ある主要な川の砂取り場を独占し、重量単位で販売するのに、砂に水をかけて重量を増やして売っているというせこいことを。おかげで建設用の砂は、国内産のほうが高くなり、インドから買わなければならなくなっているとか。そんな調子で独占寡占、投資もやりたい放題。知り合いの役人は、あれは"Group" National Happiness つまり、一族のための国の幸福だ、なんてことを平気で言っている。

ブータン。最後の秘境、開発のモデル、なんてことが言われていて、基本的にはそのはずなんですが、いろんなところに突っ込み所満載です。
ラベル:ブータン
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2005年02月27日

お内裏様とお雛様

お内裏様とおひな様、どっちが右なのか、ブータンの人に聞かれたのだけれども、答えられませんでした。
調べていてふと彷彿した、大名家の上杉氏と結婚して、出戻ってきた、ひな。
後に彼女が結婚した奥田象三氏は、いったい、何者なんだろうかと、ずっと思っていたのですが。

「工部省達全書」をパラパラとめくっていたら、明治15年4月の「工部大学校課並諸規則改正」というのがありまして。ここの教師名、「博物場」という役職に、いました。奥田象三氏。…偶然、同名の人間だった、ということは、あるかもしれないのですけれども。でも、圭介のお膝元に居たこの方。全く無関連だったとも考えにくい。

で、この「博物場」。「校中緒場に於て要用なる緒器模型を法に従い序を正し整地して生徒に縦覧せしめ、書図上に於て知り易かざる物を指示して解得せしむ」とあります。機械や電信や蒸気機関や化学、鉱山などの各分野で必要となる機器の模型を作って、生徒のために並べておいたところのようです。

また、圭介が就任したばかりの明治8年6月には「局中の器物の排列は逐次増加すべしと雖も、まず生徒機工場に於て造為する所の緒模型を以って列品の基礎とし、又、之を他に求め、漸に集めて以って整頓すべし」とされていたところ、明治15年には「場中別に室を設け本邦の製造物を陳列して博覧に供ふ。但し場中陳列品の目録は既に刊行せり、就て見るべし」とあります。最初は並べるものもほとんどなく、まず生徒が作った模型を並べ、段々増やしていきましょう、としていたところ、7年後には、工部大学校内だけでなく、日本中から製品を並べて見せ、目録まで作られていたようです。

ここで思い浮かぶのが、圭介の内国勧業博覧会審査委員・部長としての実績。出典品の解説書などを作成して、原理や仕組みを分かり易く説明し、導入技術や発明を一般に広めていた圭介。多分、博覧会からも大分、流用してきていたのではないだろうか…。
てことで、この「博物場」。筆頭になって模型を集めてきて、時には作って、解説書を書いている校長先生の姿が、目に浮かぶのですが。

そこの役職についていた、奥田氏。
博物場を充実させた彼もまた好奇心旺盛で、コツコツと物事を煮詰める作業が好きな感じがします。そして、新しい物好きの校長のお気に入りだったに違いない。それはもう、バツイチの娘を紹介してしまうほどの。
あ、ひなが工部美術学校に入っていたことがきっかけで知り合っていた、というのもアリでしょうけど。

で、元大名家の華族の華やかな美形の夫の下を飛び出した後、結局、親父の紹介の、どこか親父似の、地味な男の下に落ち着いてしまった、娘。

…いや、奥田氏の性格は思いっきり願望なんですが。ミーハーで、顔も家柄もいい男とくっついて、出戻りしてきた我儘娘は、実はとってもファザコンでした、なんて、オイシイではありませんか。


さて、余談その1。工部大学校時間配分。

6:00-7:30 習学
7:30-8:00 朝餐
8:00-12:00 授業
12:00-1:00 午餐及び休息
1:00-4:00 授業
4:00-5:00 体操
5:00-6:00 夕餐
6:00-9:00 習学
9:00-10:00 休息

体操が、毎日1時間取ってあるのは、なんと言うか。やっぱり、体操を日本に導入し、極狭の牢内でも体操し、老後も運動好きといわれていた圭介が、関わっているのだろうか。
あと、習学というのは、自習時間、ということなのだろうか。休息、という時間も取ってあることだし。
この時間、皆本当に勉強していたとすると、1日に12時間程、机についていたことになります。よく勉強したなぁ、当時の人たち。

余談その2。
明治8年6月、圭介が工学権頭に就任したばかりの頃、教授陣は、ダイアー氏を頭に、全てお雇い外国人でした。けれども、明治15年には教授陣36人中29人が日本人。この教授や助手たちには、工部大を卒業した人も、中野初子を筆頭に多数。

こうして、金の掛かるお雇い外国人のクビを切りつつ、予算をセーブしていったからか、明治10年に、大学校の私費生の月謝が、10円から7円に下げられていました。

これらの発案が圭介から行われたのかどうかはわかりませんが、少なくとも、校長職及び、管轄部の局長だったわけで、意思決定の責任者ではあったことは間違いない。
出すところには出し、締めるところで締める、合理主義の圭介らしい実績だと思いました。


で、結局、お内裏様とお雛さま。どっちがどっちかは、わかりませんでした…。
一説によると関西と関東と違うとか。うーん。

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Re: お内裏様とお雛様。 セイコ - 02/27(日) 18:27 PC No.760 [削除]

お久しぶりです、丗子です。

お雛様とお内裏様の配置。現在では、京雛とその他で右左が違うって話を聞いたことがありますけど・・・。
もともとは、向かって右がお内裏様、左がお雛様だったのですが、明治維新以後、明治帝と皇后の並び位置が、西洋を真似て逆になった(帝が左で、后が右)ので、お雛様も逆になってしまったそうです。ただ、京雛だけは昔ながらの伝統的な配置を今でも守り続けているとか。そう言えば、この間、三重県で見た旧家のお雛様も伝統的配置でしたよ。
まあ、そんなよーなことを「な●でも鑑定団」と「名探偵●ナン」で解説してました。
知識の半分はテレビから吸収のテレビっ子世代です(だから上っ面知識のみの確証無し)。知ったかぶりでごめんなさい・・・。

今でも技術革新のスピードって門外漢から見ると、ポカーンとしてしまうほど速いものですが、政府の鼻息も荒く、技術者にも強いナショナリズムがあったこの頃の7年って、ものすごい勢いで発達していったんでしょうね。・・・勿論、そうした勢いの密度が全国一律ではなかったでしょうが(笑)。
怒涛の勢いで周りの全てが動いていく中、興奮するだけじゃなくて合理的かつ堅実な見通しを維持するのってかなりの精神力が必要な気がします(私なら単に「すげー!すげー!」と言って終わりそう・・・)(比べるまでもない)。
圭介、地味な所がむしろカッコいいぜ!ちょっと親ばか入ってそうなところも可愛いぜ!(誰)

ところで、この度HN改名いたしました。一発で読めない難読字からカタカナに変わっただけですけど、今後は「セイコ」で宜しくお願いします。
すいません、ちょこちょこ変えちゃって・・・実はこれまで、ほぼ一年周期で変えてたのですが、これから数年はこれで落ち着くつもりです(謝)。


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流れの速さ 入潮 - 02/28(月) 03:28 PC No.762 [削除]

いやーん、お久しぶりでございます〜。いつも素敵情報、ありがとうございますっ。
相変らず、一般教養の皆無、無粋っぷりを晒し続けております…
明治天皇の結婚式。右は元々偉いほう、殿方のポジションという位置づけがあたのですが、一般民衆の結婚式も、皇后を右においた陛下の真似をして、以降、男女の右左が入れ替わった、というの聞いたことがありましたが。これがひな祭りにも適用されていたのですね。

旧家のおひな様とは。ここでそれがするりと喚起されるところが、おさすがでございます。自分なら配置も何も気配りなく、見過ごしてしまっていたでしょう…。ありがとうございました〜。

よく黒船以降、明治維新、明治初期は、日本の革命期だと言われますが。実は現在は、その明治維新を越えるほどの激動の只中に居るのではないか、ということを、うちの上司が言っていて、はっとしたことがありました。この時代に生まれられたことが嬉しいと。圭介らもそう思っていたのかなぁ、と。
確かに、政治にしても技術にしても、めまぐるしい。CPUの速度やメモリの容量は、エキスポネンシャルに発展中ですし。携帯電話やインターネットの出現で、個人の情報に対する自由度は、圧倒的に広まった。ただ、その只中に居るとなかなか気がつかない。それを認識せずその流れをなんとなく受け入れて乗っている現代人って、実は凄まじい許容性があるのではないかと思うのですが。実はその速さを認識するほうが難しかったりして。
只、流れがあるということをちゃんと認識しないと、自分の位置が見えなくなってしまいそうで怖かったりします。

西洋の技術は、ギルド(同業者組合)に閉じていた職人が、科学知識を持つ学術人と偶発的に接点を持つ事により進み、成果に実業家が飛びついた、いわば偶然の産物だった側面があったりしますが。日本はそれを国が上から教育として推し進めた。それはダイアー氏の方針からでもありますが、それを受け入れる土壌、職人を学術界に迎え入れる許容性、言ってみればなりふり構わなさが、良かったのかなぁと思ったりします。

圭介は馬鹿親認定です。自分では厳しいと思っているところがミソですが。
突拍子もないことをしでかすところで自分に似ている娘が。可愛くてしょうがないのです。
そして、娘が、ちょっと自分に似ているかもしれない(決め付け)奥田氏とくっついた事が、嬉しくてしょうがないのです。今度奥田氏に、ひな嬢のどこが良かったのか、じっくりインタビューしてみたいと思います。(どうやって)

丗子さんからセイコさん。古風な平安美女から、あでやか才女な雰囲気になりましたな。と、乏しい語的センスを暴露しつつ。いつもセイコさんの溢れる教養に、溺れさせていただいております。これからもどうかよろしく、導いてやってくださいませ〜。

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右と左の社会的地位。 葛生冴 - 02/28(月) 15:29 PC No.764 [削除]

向かって右、すなわち着座する側からみて左側が男の席だったのは、左大臣のほうが右大臣より上位であるのと同じ論理ではないでしょうか。
と思ってちょいと調べてみました。

律令制以降の大臣職は、太政大臣>左大臣>右大臣、です。ところが律令制の元である漢の国では、「左遷」の言葉に象徴されるように、左は右より下位とされていたそうです。これが日本に来て逆転してしまったのは、一説には次のような理由によるとか。

>「天子南面」という言葉が示す通り、古来より日本では南に向いたときに日の出の方角(東=左手)が上座、反対に日没の方角(西=右手)が下座とされてきた。皇太子を「ひつぎのみこ(日継御子)」と呼び『春宮』或いは『東宮』と書くのはこの現れである。方位で言えば春は東。ちなみに北は冬で南は夏、西は秋。そして西には死の国があると信じられていた。

これを受けて、やはり日本の雛人形はずっと古代律令制に則って(何せ左近の桜・右近の橘が下段にありますしね)男雛が向かって右に飾られてきたようです。ところが近代になって、西洋の結婚式が輸入されると、男女の位置が逆だった。左右の地位は、国際的にはやはり右上位が優勢なようで、中世ヨーロッパでは家に入る時は必ず右足から入らねば悪魔が付いて入って来るという迷信が横行していて、貴族の家では門前に客人が右足からはいるかどうかだけをチェックする召使いが居たとか。そんなわけで、お雛さまも自然と国際基準に合わせるようになった。…と、いう顛末らしいです。
個人的にはそこまで伝統を妥協せずとも…と思いますが。ちなみに私は昨日、雛壇を飾り付けていて、「左近の桜だから…」と男雛を向かって右側に飾ったら、後で母親に直されました(笑)

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右と左で頭がグルグルしてきた・・・(アホ)。 セイコ - 02/28(月) 19:20 PC No.766 [削除]

入潮さんよりお先に、横レス失礼致します。某所のチャットではお世話になりました(ですよね?)。

古来より日本では左>右、漢では右>左。
ちょっと疑問に思ったのですが、高校の世界史で「中国の律令制は隋・唐時代に完成し、奈良時代日本に伝わった」と習ったと思うんですが、つまり左大臣・右大臣などの職制を取り決めた日本の律令制は、漢時代のそれというより遣隋使や遣唐使などが活躍した隋・唐時代の中国のものを真似たということですよね。隋・唐時代以降の中国職官制度では、だいたい左>右なようですし、特に日本に来て左右が逆転したというわけではないように思うのですが、どうなんでしょう・・・?
中国でも時代によって、左優位だったり右優位だったりで、制度と言葉の面でも様々に矛盾抱えていそうですけどね(笑)。

そう言えば、現代において出入り口から見て左(着座する側にとって右)が上座っていうのは、明治以降に成立した常識ってことなんでしょうか。でも、入学式や卒業式の来賓は大抵右側に座っている気がしますけど、あれは伝統的配置のままなんでしょうか・・・(ぐるぐる)。

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いやいやいや…。 葛生冴 - 02/28(月) 22:12 PC No.767 [削除]

私もネットでばさばさっと調べただけなので詳しい事はどうにも…。あのあと更に調べたところでは、確かに古代中国(漢以前)は左が偉かったみたいですね。歴史は弱点なので学生時代の記憶はありませんが(笑)
お雛様の配置が入れ替わっちゃったのには、昭和天皇のご成婚のときの配置が旧来のものと逆で天皇が向かって左側にいて、それを見た東京の人形組合が、雛人形の配置を変えた、なんて話もあるようです。ぜんぶ他人様の受売りです(爆)

いえいえこちらこそお世話になりました(ハイそうです)。って他所の御宅でご主人を差し置いて何をやっているのかしら>すみません入潮さん

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右と左の文化 入潮 - 03/01(火) 12:25 PC No.772 [削除]

すすす、すみません、お二方様。素朴な疑問に、ここまで深く調べていただいて、感服の至りです。
葛生さま、家族の温かみとか重みがにじみ出る日常のおすそ分け、ありがとうございました〜。
セイコさんの、文化をばしっと分析する姿勢、おさすがでございます。

左と右、順番でいうと、日本語、中国語ともに、「左右」。英語では「right and left」というように右が先。
で、英語では「right」に正しいという意味があるのと対照的に、「left」には「不誠実・陰険」といった意味もあったりする。
イスラムの、左は不浄の手とされていたり。これは、単に用を足したときに、左手でそこを洗うので、衛生的な観点からそうされているだけという話もありますが。アラビア語で“右”を意味する単語は、幸運・吉兆・成功など“善的”な意味がある。アラブの人々は“右”を“善”と考え、左を“悪”と考える思考と行動の様式。浴室や便所には左足から入り,着物や履物をぬぐときは左を先、と。この当たり、キリストもそうですが、二元論の文化では、きっちり善悪を何かに投影して分けたがるのが、右と左の分け方に効いてきている。

右と左の文化というのは、それだけでひとつの文化論ができてしまうぐらいのものなんでしょうな…
とか思っていたら、そのものずばり、「右の文化と左の文化」という本がありました。

自分は「清濁併せ呑む」という言葉を生んだ日本が好きな自分は、どっちでもいいやん…と思う節操無しです。
そういう、右と左の重みも、東西で違う、というのが面白く、それをなんとなく受け入れてきた日本の感受性と許容性こそが、日本文化の真髄なのかなぁと思ったりします。ひな祭りは象徴的。いいネタになりました。ありがとうございます〜。

あ、このような場でよろしければ、いかようにも、コミュニケーションスペースとして、用いてやってくださると、ありがたいことこの上なしでございます。
と、人様にすがりながら、ネットアクセスの空白が多くて、ムラだらけな状態が恥ずかしいので、助かっております…。
ラベル:工部大学校
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2005年02月28日

第1回内国勧業博覧会

「明治十年内国勧業博覧会審査評語」を見てたら。
…いた。早矢仕有的。

「花紋石鹸」を出展し、「品位佳好工人専修の功を観るに足る」と標を得ていました。

ちなみに、このときの「化学上の製造物」の審査部長。町田久成、大鳥圭介、宇都宮三郎の三人が顔を並べています。

思わぬところに接点があるなぁと、ちょいと嬉しかったです。

さらに五代友厚の名も出展者に。龍紋インヂゴで「列品中殊に精製の青藍品位良好、内国藍??製造設立の創始なり。後来需用開進の秋に会せば、その隆盛期すべし」とありました。

彼らは、自社開発や輸入してきた商品で、国民に真新しいものを出展し、その知名度を上げ、品物を流通させようという意図があったと思われます。

圭介、審査部門の、色々なところに顔を出しています。このほかにも「冶金術上の製物」「鉱石鉱物建築石材及び鉱業の産物」「農業、樹木栽培養術及び樹林の産物」「焼窯術上の製品」「紙白冊」「造家並びに居家需用の什器」 「鉄器利器金属の工物」「植物、動物、及び鉱物の雑製品」「馬車荷車及び其属品」「教育の器具」等など。数多い部門の審査部長になっています。何れも産業に深い知識を買われてのものかと。

あと、「玻璃及び玻璃器」「衣服宝玉及び装飾」なんておしゃれなものも。圭介、美術品って分かったのだろうか。一応工部美術学校の校長先生、「美術」という日本語を作った人でもあるのだけれども。

さらに、「医術上の用具」「土木建築海図地図及び精写の絵図」部門という、幕臣時代以前のの経験を、ここにも生かしています。「陸海軍の砲銃狩猟器具」なんてのも。陸軍ということは口にしなかった圭介ですが、武器に関する薀蓄は語りたかったのだろうか。「あれ、戦の話はしないんじゃなかったんですかー」「機器は別だ」とか、部下におちょくられて開き直ってたりして。

あと、町田久成、河上寛、大島高任、矢田掘鴻などもちょこちょこ顔を出していますが。一番、手当たり次第に広い分野で審査しているのは、この町田と圭介でした。

町田久成。薩摩藩士。家老のお家柄というから相当良い家の出。森有礼、吉田清成、寺島宗則らと共に、密留学を果たしています…。圭介の人間関係ってホンマ、なんつうか…。この人がちょっと変わっているのは、皆が舶来主義に走る中、彼は日本国内の文化財・美術保存を唱えて、博物館の設立を建言。これを実現させ、上野博物館(今の東京国際博物館)の初代館長となる。圭介が博物館史に顔を出してきてたと、T村様が仰ってたと思うのですが、この方との関連と、内国勧業博覧会に由来するものなのでしょうか。

で、審査部長ズ。自分のとこの工作局の出典物にも評を与えたりしてますが。いいのか?
開拓使からもかなり多い。北海道の物産品を国内・国外へ流通させ、北海道開発の動力とする政策からだろう。物産局という組織があったし。「大鳥さぁ、蝦夷の未来の為でござんで、よか評価くいやい〜」とか言って来る人、いたのだろうか。もとい。けっこう内輪っぽい。

そもそも部門が、同じ名前の部門でも、官出展と民間出展に別れて審査されていました。民間が育ってなくて、官が率先して出展しなければならなかった状況で、民間と官のレベルがかけ離れている状態だから、しょうがないのでしょうか。出展品も、開発に金を掛けられる官業のほうがずっと複雑で精巧なものが多かったです。

で、第2回、第3回、と会を経るごとに民間の出展品のレベルが上がっていき、民間が育っていったことが如実に分かるところに、この内国勧業博覧会の意味は大きかったのかと。国は、自分の国がちゃんと一人で食っていけるよう、税収なり貿易なりで金儲けできていないと、国として一人前とは言えないわけですが。博覧会は、経済の刺激、内需の拡大、貿易赤字の軽減にも繋がり、日本が本当に「国」として一人立ちできる動力の一つになったのだと評価できると考えられます。ちゃんとデータ見たわけではないですが。

民間を育てないと国はいずれ、ダメになります。競争と効率化が社会の基盤である会社とそこの社員を育て、国の基礎となる税収がそれについてくるので。官業にはそれが欠けている。ただ、最初の段階では官が経費のかかる導入開発を行うしかなかったわけで。つまり、民間が乳飲み子で、自分で歩いて行けないうちは、親の政府が先に立つ。今も、途上国では、公共事業や航空・鉄道・電話・電力など、委託できる民間がないから、政府直営で行っているところは多かったりします。それも、国に金を貸す側(世界銀行など)からは、民営化・民間への委託が推進されています。

それで、日本が払い下げでどんどん、官業を民間化していったのは、日本政府として取り組んだ殖産興業の、一つのマイルストーンでした。まぁ、官業が効率悪く赤字だらけで重荷になってきたので、これを切り捨てて民間に任せた、というネガティブな起点でもあったのですが。逆に、政府という親離れを、民間が行う事ができるまで、産業と経済が進んだ、ということでした。民営化されても、皇居造営をはじめ、大型発注を民間に行う、かなりの保護政策を行ってましたが。それで政商・財閥ができた。このときにできた財閥が今も商社や大型メーカーとして、今も日本にお金を流しこみ続けてくれているわけなのですが。

そうすると、工部省は役割を終えたということで、解体されていく。工部省の終焉は、日本の産業が黎明期から拡大期へと移る、一つの象徴だったのでしょう。
そこで役割を終えたところで、サクッと教育家、外交方面へ移っていく圭介のあり方が、面白いなぁ、と。工部省の終わりと同時に、圭介、分野を180度転換させてますよな…。国内産業の育成に一区切りがついたところで、国は国外へ目を向けていく。そこに必要とされるニーズ、東アジアの地理政治文化に、圭介は手を付けていった。その辺を見ていても、面白い生き方だと思います。

てことで、ちとそれましたが。
この第1回内国博覧会の審査官長、一番偉い人は、前島密。…脱走前の圭介に「君のように先見の明のある人が脱走などとんでもない」と諌めに行ったら、圭介に「賊徒」呼ばわりされ、命令された部下(勝手に本多だったらいいなぁと思っている)につまみ出された方ですが。仲直りはしたのかなぁ…。

てことで、結構楽しげなメンバーが揃っていました。第一回内国勧業博覧会審査員&出展者ズ。
名古屋万博に行ってみたくなりました。


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追記 入潮 - 02/28(月) 03:39 PC No.763 [削除]

あ、「龍紋」「花紋」というのは、どうも、賞のランクだったみたいです。
他に、「鳳紋」「風紋」「褒状」というのがありました。出品名の前に、どれもついています。
順番はよくわからないのですが、並べ方を見ると、「龍紋」「褒状」「鳳紋」「花紋」「風紋」の順、あたりではないかなぁと。
審査規則みたいなのもちゃんと見てみないといけませんな…
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第1回内国勧業博覧会

「明治十年内国勧業博覧会審査評語」を見てたら。
…いた。早矢仕有的。

「花紋石鹸」を出展し、「品位佳好工人専修の功を観るに足る」と標を得ていました。

ちなみに、このときの「化学上の製造物」の審査部長。町田久成、大鳥圭介、宇都宮三郎の三人が顔を並べています。

思わぬところに接点があるなぁと、ちょいと嬉しかったです。

さらに五代友厚の名も出展者に。龍紋インヂゴで「列品中殊に精製の青藍品位良好、内国藍??製造設立の創始なり。後来需用開進の秋に会せば、その隆盛期すべし」とありました。

彼らは、自社開発や輸入してきた商品で、国民に真新しいものを出展し、その知名度を上げ、品物を流通させようという意図があったと思われます。

圭介、審査部門の、色々なところに顔を出しています。このほかにも「冶金術上の製物」「鉱石鉱物建築石材及び鉱業の産物」「農業、樹木栽培養術及び樹林の産物」「焼窯術上の製品」「紙白冊」「造家並びに居家需用の什器」 「鉄器利器金属の工物」「植物、動物、及び鉱物の雑製品」「馬車荷車及び其属品」「教育の器具」等など。数多い部門の審査部長になっています。何れも産業に深い知識を買われてのものかと。

あと、「玻璃及び玻璃器」「衣服宝玉及び装飾」なんておしゃれなものも。圭介、美術品って分かったのだろうか。一応工部美術学校の校長先生、「美術」という日本語を作った人でもあるのだけれども。

さらに、「医術上の用具」「土木建築海図地図及び精写の絵図」部門という、幕臣時代以前のの経験を、ここにも生かしています。「陸海軍の砲銃狩猟器具」なんてのも。陸軍ということは口にしなかった圭介ですが、武器に関する薀蓄は語りたかったのだろうか。「あれ、戦の話はしないんじゃなかったんですかー」「機器は別だ」とか、部下におちょくられて開き直ってたりして。

あと、町田久成、河上寛、大島高任、矢田掘鴻などもちょこちょこ顔を出していますが。一番、手当たり次第に広い分野で審査しているのは、この町田と圭介でした。

町田久成。薩摩藩士。家老のお家柄というから相当良い家の出。森有礼、吉田清成、寺島宗則らと共に、密留学を果たしています…。圭介の人間関係ってホンマ、なんつうか…。この人がちょっと変わっているのは、皆が舶来主義に走る中、彼は日本国内の文化財・美術保存を唱えて、博物館の設立を建言。これを実現させ、上野博物館(今の東京国際博物館)の初代館長となる。圭介が博物館史に顔を出してきてたと、T村様が仰ってたと思うのですが、この方との関連と、内国勧業博覧会に由来するものなのでしょうか。

で、審査部長ズ。自分のとこの工作局の出典物にも評を与えたりしてますが。いいのか?
開拓使からもかなり多い。北海道の物産品を国内・国外へ流通させ、北海道開発の動力とする政策からだろう。物産局という組織があったし。「大鳥さぁ、蝦夷の未来の為でござんで、よか評価くいやい〜」とか言って来る人、いたのだろうか。もとい。けっこう内輪っぽい。

そもそも部門が、同じ名前の部門でも、官出展と民間出展に別れて審査されていました。民間が育ってなくて、官が率先して出展しなければならなかった状況で、民間と官のレベルがかけ離れている状態だから、しょうがないのでしょうか。出展品も、開発に金を掛けられる官業のほうがずっと複雑で精巧なものが多かったです。

で、第2回、第3回、と会を経るごとに民間の出展品のレベルが上がっていき、民間が育っていったことが如実に分かるところに、この内国勧業博覧会の意味は大きかったのかと。国は、自分の国がちゃんと一人で食っていけるよう、税収なり貿易なりで金儲けできていないと、国として一人前とは言えないわけですが。博覧会は、経済の刺激、内需の拡大、貿易赤字の軽減にも繋がり、日本が本当に「国」として一人立ちできる動力の一つになったのだと評価できると考えられます。ちゃんとデータ見たわけではないですが。

民間を育てないと国はいずれ、ダメになります。競争と効率化が社会の基盤である会社とそこの社員を育て、国の基礎となる税収がそれについてくるので。官業にはそれが欠けている。ただ、最初の段階では官が経費のかかる導入開発を行うしかなかったわけで。つまり、民間が乳飲み子で、自分で歩いて行けないうちは、親の政府が先に立つ。今も、途上国では、公共事業や航空・鉄道・電話・電力など、委託できる民間がないから、政府直営で行っているところは多かったりします。それも、国に金を貸す側(世界銀行など)からは、民営化・民間への委託が推進されています。

それで、日本が払い下げでどんどん、官業を民間化していったのは、日本政府として取り組んだ殖産興業の、一つのマイルストーンでした。まぁ、官業が効率悪く赤字だらけで重荷になってきたので、これを切り捨てて民間に任せた、というネガティブな起点でもあったのですが。逆に、政府という親離れを、民間が行う事ができるまで、産業と経済が進んだ、ということでした。民営化されても、皇居造営をはじめ、大型発注を民間に行う、かなりの保護政策を行ってましたが。それで政商・財閥ができた。このときにできた財閥が今も商社や大型メーカーとして、今も日本にお金を流しこみ続けてくれているわけなのですが。

そうすると、工部省は役割を終えたということで、解体されていく。工部省の終焉は、日本の産業が黎明期から拡大期へと移る、一つの象徴だったのでしょう。
そこで役割を終えたところで、サクッと教育家、外交方面へ移っていく圭介のあり方が、面白いなぁ、と。工部省の終わりと同時に、圭介、分野を180度転換させてますよな…。国内産業の育成に一区切りがついたところで、国は国外へ目を向けていく。そこに必要とされるニーズ、東アジアの地理政治文化に、圭介は手を付けていった。その辺を見ていても、面白い生き方だと思います。

てことで、ちとそれましたが。
この第1回内国博覧会の審査官長、一番偉い人は、前島密。…脱走前の圭介に「君のように先見の明のある人が脱走などとんでもない」と諌めに行ったら、圭介に「賊徒」呼ばわりされ、命令された部下(勝手に本多だったらいいなぁと思っている)につまみ出された方ですが。仲直りはしたのかなぁ…。

てことで、結構楽しげなメンバーが揃っていました。第一回内国勧業博覧会審査員&出展者ズ。
名古屋万博に行ってみたくなりました。


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追記 入潮 - 02/28(月) 03:39 PC No.763 [削除]

あ、「龍紋」「花紋」というのは、どうも、賞のランクだったみたいです。
他に、「鳳紋」「風紋」「褒状」というのがありました。出品名の前に、どれもついています。
順番はよくわからないのですが、並べ方を見ると、「龍紋」「褒状」「鳳紋」「花紋」「風紋」の順、あたりではないかなぁと。
審査規則みたいなのもちゃんと見てみないといけませんな…
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