2005年03月01日

古本

寝ようと思ったら…。

せ、「堰堤築法新按」が売りに出されている…。
古本サイトですが。
……。

じゅうに、まん、ちょい。
土木の文化遺産が。
や、安い。(この辺の感覚が)

…でも、圭介の著作をはした金で私物化するっつーのも。
手に届かないところにあるから尊くて、手に届いてしまうと価値が薄れてしまうように思う天邪鬼としては。

……大葛藤。

…とか、ここで垂れ流しつつ。
誰か買ってくれたら諦めもつくんだけどなー、と、自分に対して姑息なことを考えている当たりが、人生を言い訳で塗り固める嫌な奴です。

あぁしかし…。むぅ…。

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Re: 古本 入潮 - 03/01(火) 03:47 PC No.771 [削除]

(眠れなかった)

…てか、考えて見れば、南柯紀行だって、著作じゃないか。
いや、現代の出版と、明治の出版では、やっぱり重みが…。

といっても、デジタルライブラリからいつでもプリントアウトできるじゃないか。現代で、しかもタダで出版されているのと同じじゃないか。

いやだから、ダム技術が経験的にしか適用されていない当時に出回った、実物である、というその事自体が価値なんだって…

…と、どうでもいいことで、悶々としております。

あー、今になって、古美術品を蒐集する方の気持ちがようやく分かった…

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物と質 入潮 - 03/04(金) 01:41 PC No.776 [削除]

3日ほど悩みまくりましたが。(…)

自分にとっての大鳥は、幕末明治という時代に生きた歴史的人物だから、価値があるのではない。
大鳥だから価値があるのだ。

つまり、古さや希少価値、あるいはその時代そのものという、歴史的価値を感じているわけではなく、その思想、行動、価値観、経験という、人物特有のものに、価値を感じているわけで。

歴史的価値のある本という「物」的なものにではなく、その本に示された内容、ノウハウ、ものの考え方等、「質」的なものに対してのほうが、よほど萌える。

であるので、既にデジタルライブラリや各図書館という、質、中身そのものに触れられる手段を持っている今としては、「物」を手に入れる意味はない。

てことで、買うのやめます。

ぜぇぜぇ。

……あぁ、でも、やっぱり…。

いくらエラソーなことをほざいても、こう、人の物欲というのは、理屈では抑えられないものがあるというのは、事実でありまして。

……うぁあ…(悩みがぶり返した)
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「小栗上野介」

以前、圭介が「実歴史談」で、小栗さんのことをチラっと名前だけ出してまして。「其の先見の明ありしと感服…此事は別にお話申しませう」とか、勿体ぶったことを言ってましたので。
語ってくれ。是非語ってくれッッ…。と、鼻息荒くして悶えておりましたら。

ほ、本当に語ってくれてました、圭介。
名家談叢にて。その名も題名スバリ、「小栗上野介」。

ワタクシ大歓喜。いや、圭介、小栗さんの事大好きだったんだろうなぁと思っていたのです。自分を出世させてくれた張本人、というワケだけではなく。根本のところで、圭介にとって、この人なら着いていきたいと、思わせるものを、小栗さんは持っていただろうと、勝手に踏んでいたのです。
造船所や陸軍創設のエピソードもさることながら、赤穂浪士の物語で、吉良上野介の悪役ぶりが広まり「上野介」の名を受ける者がいないという中、「だったらおれが受ける」と自ら名乗り挙げた。その度量の深さと肝っ玉もまた、かっちょいい。

で、「小栗上野介」。
結論から言って、圭介と小栗さん、めっちゃ仲がよかったです。ていうか。

やはり圭介が追っかけてました。
しかも、夜のお付合いでした。
ポイントは金でした。
さらに、圭介、少々薄情でした…。

一言一言、いちいち突っ込まずにいられませんでした。
こんなオイシイ文書が隠れていたなんて…と、痙攣することしきりでございました。

まず圭介。「小栗上野介と云ふ人は、幕末の人では余程勇気のあつた人で」「温厚篤実と云ふ性には乏しかりしが、怜悧明敏にして気力の盛んなることは、幕末中には殆ど他に比類少なき人物であろうと思う」と、いきなりベタボメです。
圭介が人を褒めるのって、まず実績を述べて、それを評価するやり方が多いのですが。圭介がここまで無条件に褒めているのは、山川氏ぐらいなんじゃないかと。それも山川浩は山王峠の四面楚歌中に出会った、地獄で仏だったわけで。

で、「今日より考へると、略ゝ今の大隈伯に似た人であつた」と、圭介、大隈さんもまた尊敬していたことがちゃっかりわかりました。てか、大隈さん、先頭に立ってガシガシ進めていく人というイメージではなかったので、ちょっと意外かも。

で、「私と小栗とは長き間の朋友ではなかったが」とか、ちょっと謙遜しつつも「幕末3,4年間は懇意を交び、小栗も駿河台に居り私も駿河台に居て近傍でもある」と、ご近所さんだったことを嬉しそうに主張。
駿河台というと、滝川もそうで、小栗さんと行き来があったとのことですが(K崎様を拝む)。小栗さんを挟んで和気藹々の駿河台コミュニティ、良かですなぁ〜、とか思っていたら。

「夜中など往来して国事を談じた」

と。…そうですか、夜のお付合いでしたか。
もとい。お互い忙しい身。小栗さんは幕府の財政改革の重鎮、圭介も教練ありーの、出世してからは役所仕事がありーの、とても昼間は動ける状態ではなかったでしょう。必然的に、二人ゆっくりと会える時間は、夜。
しかし、圭介、身を守る手段ないんだから、いくらご近所さまとはいえ、夜、一人(とは限らんが)フラフラ出歩くなよう。

で、「小栗が幕末になしたる事業は、往々人の意表に出ること多かりしが」と。圭介、自分、変わった事する人が好きと、強調しているよな。

「小栗が当時幕府の勘定奉行にして、すなわち今日の大蔵大臣に相当する役を務めていたが、其時西洋より軍艦を買い入れ、或は将軍の上洛など幕府財政の困難中よりも百方工夫して之を弁じたるは、余程の苦心した事ならんと思う」

幕府の財政難、貯蓄の欠乏の苦境を述べ、それをやりくりしていった小栗さんの手腕を評価しています。すなわち、高禄の者たち、旗本たちの禄高を半減した。これは、元々旗本に禄を与えるのは、国家の有事の日の時に兵隊を出させるためだが、今日の旗本家臣や領地の百姓に軍隊を組織させても、世の中が進んで役に立たんから金を出せ、との理屈。その金で、小栗が自分で兵制改革を行った。

この、小栗さんの、旗本らに金を出させた手腕と、ものを見る現実性に、圭介、ベタぼれしてたみたいです。小栗さんを褒めるのに、とにかく金が良く出てくる。しかも具体的に。苦心して金のやりくりをしたところを一番評価しているみたいです。

で、その陸軍ですが。フランス公使ロッシュに託して、フランス人教師を雇い入れた時、「お前は其の世話をしたり、又自分でも仏式の操練を覚えたら宜かろうと言はれた。私もそれは固より自分の希望するところなるに依り承諾して、今日の大尉ぐらいの役になった」と、小栗さんから、象牙の塔から現場に導かれたことを述べる(この辺やっぱり圭介伝とちと違う)。 小栗さん、圭介をお前呼ばわり。圭介、誘われて嬉しそう。

で、「財政困難の中に其の経費を工夫して兵員を訓練しなければならなぬということを主張したのは、全くの小栗の見識であつたと思う」とか、再度、金で感心。政府で抱え込む貧乏の苦しさ、それを打開する難しさを、身を持って味わった圭介ならではのお言葉ですか。

それから、もちろん軍艦製造に関しても。圭介は陸軍畑だったわけですが、造船所の必要性、自前の軍艦の製造と修繕の重要さを強調した小栗さんの見識を、細かに述べています。「前例のない新事業を起し」と新しいことを始めたのも圭介のツボ。そして、「凡て事業を起こすのに付、先立つものは金で、それを困難なる経済の中より種々工夫して、1艘十萬円二十萬円の軍艦を買い入れたり、仏蘭西より教師を雇い入れたりしたのは、非常の苦心であつたらうと思ふ」と、やっぱり、財政難における金の工面の苦労を称えている…。

小栗さんの人柄に関しては。「前にも話したとおり温厚篤実というより寧ろ剽悍なる人で、議論もナカナカ盛であった」と、繰り返し頼もしさを強調。

付き合い方に関しては、「武芸はよくできたが、西洋書は自ら原書を読むほどには読めなかった。それ故に、洋学者より経済上の事や海陸軍の事や世界の形勢を聞いて、始終注意しておった。私共が話に行くと、いつも世界の形勢などを問われるから、自分の知っていることだけは話したが、非常に記憶の強い人であった」

洋書を自分では読めない、というのは、むしろマイナス要素ではない。意思決定をする方というのは、最も効率よく様々な情報を集めて、最善の回答をすばやく見つける必要がある。外国語をいちいち読み解くのは、今ですら時間と手間がかかり効率の悪い事、ということで。このあたりも、小栗さんの役目と責任の大きさが窺えます。で、記憶が強いということは、小栗さん、圭介の話は真剣に聞いてくれていたようです。

で、無念ながら、小栗さんの施策は、鳥羽伏見の敗戦、江戸開城という流れの中で功を奏することならず。慶応4年3月。おそらく江戸城明け渡しの気運も流れ、脱走の足音も近づいてきたころ。

「或夜、私が小栗を訪ふたところが」また、夜…。もとい、この時、小栗さんは、領地へ引っ込んで、鉄砲の2,3百挺も持って行って農兵でも養おうと思う、と、進退を語ります。圭介、「真に気の毒」といいながら、江戸に居ては反対者が勢力を得て、危険なので、国へ退いて、一時危害を避けたほうがいいだろう、と告げて、小栗さんと別れました。

この後、江戸城は明渡し。小栗さんは自身の領地に引きこもったところ、官軍の糾弾を浴び、養子の又一氏もろとも、斬罪。圭介は脱走の後にこのことを聞きました。この時の心情に関しては、圭介は何も語っていません。惜しいとも、敵が憎いとも。その沈黙が、圭介の衝撃の強さを、余計に物語っているような気がしてなりませんでした。

ただ、小栗の死後に、その墓がどうなっているかということを気にしていたと、圭介は述べていました。
これを語っていた時点での昨年の夏、というから、明治30年ごろ、圭介が晩年になってからと思われるのですが。とすると、30年前の話をしていたわけで。

圭介が前橋に行ったころ、群馬県知事の中村氏と面会し、小栗の死後の跡について訪ねたところ、墓標も立派に立っていて、縁の方が菩提寺の住職になり、香華も手向けていて、立派に供養されているということ。「それならは申し分ない、と言って、其地には行かず、安心して帰りました」で、言葉を閉じてました。

…墓参りぐらいしてこいよぅ。それだけ尊敬心を綴った後に、その終わり方はないだろー。…とも思いましたが。
まぁ、この当たり、自分の墓も「大鳥係累、以下略」で済ませるような人ですから、かえって、圭介らしいのかもしれません。

てことで、大変、味わいの深い文書でありました。ほんの5頁ほどで、特に歴史的に真新しい記述は無いのですけれども。あっさりとした口調、むしろちょっと薄情なぐらいな終わり方なのに、いっそう、一人をしみじみと懐古する、しっとりした愛惜具合が感じられ、誠においしゅうございました。満足。

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はわ! ひよ - 03/02(水) 21:00 PC No.773 [削除]

はわ!圭介、本当に小栗さんのことを語っていたのですね。
しかもかなりのラブっぷりのようで。夜のお付き合いって、意味深ですね(笑)。
好きのポイントが「お金」というあたりが、また現実主義の圭介らしいですね。「なんとなく好き」ではなく、「こうだから好き」という形がはっきり見えるあたりがらしいかと。
また、「ちょっぴり薄情」なところも、圭介らしくて素敵vなどと思ってしまうのは、私だけでしょうか。薄情な装いの裏にこそ深い思いがありそうだと、ついつい深読みしてしまいます。ヲタクです(笑)。
私信ですが、メールを送らせて戴きましたので、お手隙のときにでもご確認くださいませ。

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薄情な人 入潮 - 03/03(木) 13:01 PC No.774 [削除]

小栗さん語り。兵制改革の話あたりで出してくるのだろうかとか思ってましたが、まさか、小栗さんフォーカスで、そのものをテーマに語っているとは思いませんでした。
圭介、理性で納得してから、感情が芽生える人。
自分が苦労したことを、さらに苦労してやってのける人に、惚れるみたいです。金がミソ、というのも、理想に生きる人じゃなくて、現実で足掻いた人の行き着くところなんだと思います。ドリーム。
ご近所さんというところもツボで。職だけではなく、もしかして小栗さんに家も世話してもらったのかしら、とか思うと、どきどきします。いや、単なる偶然、大名引き上げでスカスカになった屋敷の埋め合わせに、引っ越してきただけなのかもしれないですが。
圭介、中島さんとか柿沢とか榎本さんとか黒田とかの例を見てても、人の死に関してはほとんど自分の感情言わないんですよな。勝さんには「あの法螺吹き将軍も世を去ったか」みたいなことを言っていましたが。
言わないところに深い思いがあるようで、憎たらしいです。つまり、妄想し放題。(え)
情のない人間というのは絶えて無くてに簡単に表すかどうかの違いかと思うのですが。圭介は普段から詩という分かりにくい表現手段で、自なりの情を伝えているんで、薄情ぶってても、「スカしてるんじゃねー」とか思ってしまいます。
メイル、ありがとうございます。気にかけてくださり、ご配慮が心に染みます。ひよさんが圭介スキーでいてくださることに、毎回、パワーを与えていただいております…
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2005年03月07日

明治と今と

のへのへと、生きております。
どうも、気圧が700mb前後、下界より30%ぐらい低いようですので、それだけ酸素利用効率が落ちている。これが、日ごろの眠さと、睡眠時間増加の原因となっていると、身内で一致しております。…というのは、格好の怠惰の言い訳ですが。怠け心を、誰のせいでもない、空気のせいだ、とできると、こんなにいいことはない。

んで、空気は薄くても、やることは溜まります。
今の自分の役どころとしてはは、お雇い外国人の下働きみたいなものだったりしまして。
この能力と年では、ライマンやディのように、そのスペシャリティや経験を買われて、乞われて来ているというわけでは到底なく、てか、比べるほうがおこがましいのですが。(日本の技術者は、経験で評価されるのですが、年齢ってのは言い訳にならないんだけんども…。ダイアーにしてもアトキンソンにしても、日本に招かれてきたのは、20代後半なワケだから。あのころは完全に売り手市場だったというのはあるのですけど)

ここのところ、人手が足らないので、ぺーぺーの自分も、政府の組織改革や制度の提案などもさせてもらってたりします。貿易産業省、農業省、大蔵省などの局長クラスの方々と協議する機会も多いです。

みなさん、まともな方ばかりです。おっしゃることが、全く、まともです。現状をどう良くしていくか、どう動かしていくか、どう金を工面するか、本気になって考えています。「まともである」ということは、現状を考え抜き、改善点を検討しきった結果に到達できる、苦悩の末の到達点なのだと思います。でないといい子ぶりっ子の観念論に陥るしかないわけでして。

この国は、九州より小さな面積の、日本のひとつの県にも人口が及ばない国ではあるのですが。その分、一人の存在が強い気がします。
「この国が悪くなったらお前のせい、良くするのがお前の仕事」ということを、常に突き詰められて追い立てられている人たちの責任感といったら、いっそ迫力があります。

なので、そういう方々と、これから何を方針とし、フレームワークとするか、どんな具体的組織や政策が必要か話し合っていると、世の中のつながりとか、ものを動かす方法など、むしろ教えてもらうばかりで、根本的なことが今まで何も見えてなかったんだなぁと、恥じ入るばかりです。

課題認識。問題解決。意思決定。その流れの中で、特に最後の意思決定ということを行う側の人間は、強靭にならざるを得ない。何かを意思決定するということは、その結果に対して責任を持つということですので。局長レベルになると、自分の決定が、本当に、国の実態、国の人たちの生活にダイレクトに響いてくる。そのことを知っている。そういう人の言葉は、具体的で現実的で、人を動かす力があります。

日本の場合は、この責任の部分を、大久保さんのような、省のトップが、引き受けてくれた。責任は俺が持つ、お前らは必要だと思ったことをやれと、技術者たちに太鼓判を押してくれた。だから、技術者たちは、誰もやった事がないという恐怖を押しのけながら、新しいことに手をつけて、存分に動けた。いい構造を持っていたと思います。

どの組織でもそうですが、特に、大蔵省というのは、何か違う感じがします。自分たちが直接何かを生み出しているわけではないけれども、国のお金を動かす決定権があるという力はすごい。その人たちの意志力は、なんと言うか、別次元の力を感じます。国というのは、いくら奇麗事を言っても、金儲けできて初めて成り立つというのが、よくわかります。

それでよく、彼らの姿が、初期の明治政府の人たちと、重なってしまうわけなのですが。

明治政府では、士族、特に元幕府の下級士族が中心となって、東大や札幌農学校、工部大学校を経て、こぞって省庁入りしていった。これは、武士として育てられ徳川、あるいは天朝への忠誠を、美意識の頂点として植え付けられた彼らの、倫理の行き場が必要だった。そこに、国を建設する場である「官」があった。食っていかなければならない、という現実ももちろんありますが。実際、鉄道、建築、土木、都市計画、鉱業、工場など、国の土台となる産業に、目的意識を持った人材が集中した。

官僚は、民間に比べ、非常に高給取りで、生活も保障されていわけですが。ただお上が自分たちの身可愛さに、給料を上げていたのではない。国づくりに必死だった当時、人材を官に集中させるための動機付けを、少ない税収から自らの肉を裂くようにして、官員に給料として与えていたわけです。
で、金のかかるお雇い外国人も、明治8年を境に首切りを行い、自分の国の技術者を代替していった。そこが偉い。お雇い外国人は、あくまで一時的な処方として、日本は、自分の国の成長と自立の為に、厖大な対価を支払いながら、その知見を吸収していった。

藩閥というのも確かにありましたが、その危険さを誰よりも懸念していたのは、大久保さんや木戸さんをはじめとした、その藩の頭たちだった。省庁の力のバランスも、藩の力関係を考慮して行われた。藩閥批判というのは、平和な世に馴れた民衆が、娯楽としてお上を攻撃する材料だった、という一面もあるような気がする。

一方、地租改正で、国民に重税を課して血を流させ、これに外債という借金をして、自らの発展の財源をとし、自力で金を確保していった。そうして、明治政府は、富国強兵、殖産興業に突き進んだ。
そういうパワーと、なりふり構わない目的意識の強さ、統一感があってこそ、今の日本がある。
それは、今の援助依存型の途上国の実情を見るといっそう、彼らの頼もしさ、ありがたさが実感できたりします。

今の途上国の問題の一つは、官の給料の低さだと感じられます。まず、そもそも、国の基礎となる税制がしっかりしていない。会社と官が癒着して民間から税をとれない。よって、財源がない。資金がない。公務員の低給料は、その弊害の一つですが。肝心の、実務者、技術官僚たちの給料が、月に20〜50ドルでは、官であり続けるモチベーションがない。だから、彼らは、公務員・官僚としての仕事はそこそこに、アフターファイブの副業に精を出す。あるいは、外国コンサルタントのプロジェクトの日当目当てに集る。賄賂が横行する。で、民間を育成する適正な競争と取引が進まない。

そういう状況で、技術移転、人材育成にやっきになっているのは、援助側だけだったりして。せっかく、相手政府に必要な技術ノウハウを提供しても、肝心の受けての人間が、その技術を持って、官僚を辞めて、別の儲かる国で自分で会社を開いてしまったりする。実力のある人材を、官に留めておけない。そういうのを見ると、途上国はだから途上国なんだ…と思ったりするのですが。こういう構造を持っている限り、いくら、医療機器や小学校をタダであげても、ダメなものはダメなわけで。まず、税制改革をして、民間を育てて、産業を成り立たせて、という当たり前のことを行わねばならない。

ブータンの場合、この国の人たちは、無償援助など、タダでもらえるところはもらってやれ、というようなガメツサはなく、いらないものははっきりといらない、と言う。いるものは、借金してでもやる。そういう、目的意識の持ち方が強い気がします。また、官僚たちも、技術やノウハウに非常に貪欲です。今は我々が行っている仕事でも、これから自分たちが独自でやるのだ、という意識を持っていて、熱心に受け止めてくれています。それは、国王が明確な指針を与えてくれているから、官僚はそれにのっかかるだけ、という、民主主義とはまた別のものが、この国の健全さを支えている、という面白い側面があったりします。

ただ、明治時代の日本は、殖産興業、富国強兵に邁進できましたが、今の世界は、その流れに逆行する要素を、抱えています。

それは、「環境」。


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(続) 明治と今と 入潮 - 03/08(火) 02:57 PC No.779 [削除]

環境保護というのは、基本的に、ハンディです。それを守ろうとすると、金とコストばかりかかる。そこからは何も、金を生まない。50年とか100年とか長い目から見れば確かに環境を守る事が経済的にもプラスに働くというのはあるのですが、その日その年の金が必要な者にとっては、環境というのは、重荷にしかならない。

一方、援助側というのは、当たり前ですが、非常に環境保護を気にする。それが既に倫理になっているからです。調査のお金を出している日本側と話をするときは、大体、話題の半分ぐらいは、ずーっと環境の話です。

例えば、電化するための電線を引くためには、電線の周りの森林の樹を刈っていかなければなりません。これが、環境影響に繋がる。なので、環境に悪いのではないかどうか、ちゃんと調査をせねばならないことになっています。この調査に、金と時間が掛かる。1日も早く電気が欲しいのに「環境に悪いかもしれない」といわれるとそれだけで2年も3年も待たされる、政府はその分、電気料金という形の収益を取りっぱぐれる。

これを、相手政府の現場担当者と協議をすると、嫌な顔をされる。当たり前です。
歩くと4日かかる、切り立った崖の上にポツンと立つ家をさして「我々はアレを電化せねばならない。そのために、環境調査をせねばならない。あの山全ての野生動物の数を数えて、樹を一本一本数えて、草を分類して、昆虫を同定して…。馬鹿を言え!」というのが、本音となります。この、「樹を一本一本数えて…」ですが、雨季などは、雨のようにヒルが降ってきて、泥でズルズルで一歩滑ると谷底にまっさかさまなところを、ひたすら歩き回る。生きるのに精一杯です。獣や樹の数どころではなくなります…。

そして、住民にとっては、暗闇のおらが家に、電気がくるかどうか。期待しているところ、電線を張るのに木が切り倒されると「環境に良くない」から、おまえのところにはやらん、とお上に言われた。自分がそこに住んでいたら、どうするか。一匹、レッドパンダのような天然記念物が見つかると、もうそこは手をつけてはならない、ということになる。レッドパンダのせいで、夢にまで見て楽しみにしていた電灯もテレビも、パー。住民はどうするか。政府に抗議するか。もし自分がそこの住民だったら。レッドパンダをこっそり殺してしまうかもしれません。

それで、実際のところは、電気がくることにより、煮炊きのエネルギーを電気で賄えるようになり、薪を集めずに住むという点がある。樹を切らなくてすむようになる分、見えないところで環境への負担は減少する。煮炊きや暖房のために樹を刈っていくのは、慢性的なハゲを進行させているようなもので。実際、人口の集中している首都の周辺は、一度森林がツルッパゲになりました。電線を延ばすためにバリカンで一筋刈ることにより、だいぶ全体のハゲが防げたりするのですが。目立つトラ刈りは、本質的なハゲより悪く言われるようです。実質的に本当にどうなのかは、そういう調査をまだ行っていないので、データがなく、数字で示すことができないのですが。それがあったとしても、本質より、表面の「見える」ところを、恵まれた「いい人」は気にします。

国が金儲け機関とすれば、環境とははっきり言って、負債です。それを守るためには、少なくとも現状、何も金になるものは生まず、守ろうと思ったら金と労力を支払い続けなければならないものですから。キャッシュフローから言えば、好き好んで借金を背負っていることにしかならない。将来の貴重な資産を守っているのだ、なんて耳に快いことは、現在そこに住んでいる人の本音とはかけ離れている、遠いハイソな方々の奇麗事にすぎません。日本が慈善国家が成り立っているのは、それ以前に世界の工場として、十分に金稼ぎをしているからなんですな…。ブータンも水力発電という無限の宝箱があって、インドといういくらでも買ってくれる消費者がいるから、相当恵まれている国なのですが。それでも、現実はこんな感じです。

そういうふうに、倫理がその時代や場所のリアリティに合っていない場合があったりする。そして、経済的に成り立たなければ、いくら良い事を言っても、実現できないというのが現実。
その状況で、クリアしなければいけない条項を真剣に考えて、時間とお金の許す範囲で何とかしようとするのが、彼らの「まともさ」なのです。現実を考えず奇麗事で言葉を飾ることは、まともなことではなく思われきます。で、そういった感覚は、現場の最前線で国を考えている人にはありません。

話がそれましたが。そういった、「環境」という逆行要素を抱えていても、十分に機能できるだけ、今の日本は贅沢になっている、という面があります。

それで、わが国の現在のお上を見た場合、ブータンの人たちほどの目的意識は感じないのが正直なところではあったりします。政治家の方々が選挙で口にすることは、環境にしても、公共事業にしても、福利厚生にしても、どこかで聞いたことのある耳に優しいことを、テープレコーダーのように編集して繰り返されているような気がしたりします。反論が生まれない代わりに感銘もあまりなかったりする。どうすれば選挙に勝てるか、ということが目的化しているゆえの、目的意識の弱さが見え隠れしてる気がしてしまうんですよな…。

頭のものすごくいい人、行動力のある人は、たしかに居ます。能力も情報収集力も教養も、今の時代の人間のほうが、明治の人たちよりずっと上だと思います。

ただ、責任というか、背負っているものが違う気がするのです。今の人たちは、自分がしくじっても自分ごときが世界に及ぼす影響は高が知れていると思っていると思っているように思う。自分の一挙一動が、ダイレクトに国の人間たちの生活や人生に響いてくる、という切羽詰りようが、あまり感じられない。

まぁ日本は幸い、それで勤まります。マスメディアによって情報による倫理が画一化されているので、よほど奇異なことをやらないかぎり無難に過ごせますし。なにより、資金が民間にあり、民間が保護や補助なしでも動ける社会が出来上がっている。それにより、皆にお金が回って、なんだかんだ言いつつ、弊害もありながら、基本的には幸せな国なっているのではないかなぁと思います。

だからこそいっそう、明治のアノ人たちからは、生きることが面白くて仕方がない、という脈動が感じられたりします。なんだかんだ言いつつ、リアルで世界を作っている人の存在力はすごい。
ただ、その面白さを、明治の人たちのものだけにしておくのは、もったいないなぁと思ったりして。
その、自分が世界を作るのだ、という目的意識さえあれば、いつでも、あの明治の人たちの視点をえられるのではないかと、ブータンの人たちを見ていて思いました。

どんなフィクションよりファンタジーより小説より、この世界そのものが、一番面白いです。
そこに自分の力が活きて、自分が世界の変化に立ち会っていることを、感じれば。
シナリオを書くのも、その通りに進まずにアドリブで必死にやりくりするのも全部自分なわけでして。
だから、どんな英雄物語より、自分の生きているこの世界が、味わい深い。

いまさら野暮ったいことですが、やっぱり、人の存在の仕方はそれぞれで、人の数だけクリエイトされる世界の数がある気がします。それは、仕事の範囲の広さとかではなくて、どれだけ自分の居場所に当事者意識を持って、深く食い込みのさばるか、ではないかと思います。たとえば子育ては母が主力のひとつの国つくりですし、世界つくりなんだと思います。そこに自分が居なければ家庭という世の中は動かないという誇り。自分の行為を、どう自分が認識しているかで。今は仕事も家事も、「当たり前のこと」としてしか捉えられることがないことがほとんどなので、もったいないことだと思います。実際、携帯電話にしてもインターネットにしても、個人が世界に接点を持って、自分の居場所で行動し深められるポテンシャルは、すさまじく大きくなっているのだと思うのですけれども。要は、自分の周りの世界をどう捉えるかなのですよね。見る目を持とうとするかどうかなのだと思います。

でもやっぱり、娯楽が発達しマスコミの力が大きく、派手なヒロイックなドラマばかり持て囃されると、そっちばかりに目がいく。そうすると、そうでない自分がつまらなく思える。やっぱりちょっと不幸なのかもしれません。贅沢な不幸ですが。


とかなんとか、偉そうなことほざきつつ、今の自分は、駄目駄目言われバカヤローと日本人からもブータン人からも怒鳴られているのが現実なんですけれども。ホント。毎日が勉強です。泣きそうになりながら、素人が、門前の小僧よろしく、経済学のページをよっこらしょと開いて、消費者余剰やら内部収益やらに苦しんでいます。余談ながら、経済学というのは、真理ではなく、物事を、他人に説明するため、推し進める動力とするためのツールなのだと思います。技術と経済は表裏一体。技術もそこにあるだけでは役に立たない。経済的に良くなる、金儲けができる、ということを説明して初めて、技術というのは生きるようになります。「これをやるとアナタのトクになります」というのは、世界を動かすための説得力です。経済学部の人たちは、世の中を読み解くいい勉強をしているのだと、初めて知りました。

国を動かすようなプロジェクトには、経済の理解が必須なのですが。明治の人たちは、経済用語を知らなくても、みんなその事業によるコストが、どういった収益を生むのか、きちんと考えていたのでした。琵琶湖疎水なんて、利子を考慮しながら、B/C(便益費用)評価をきちんと行っているので、吃驚しました。

で、バカヤローと言われるのは気持ちが良いです。言ってくれる人たちはそれだけ真剣に本気に、良い世界を作ろうとしているし、こちらに作らせようとしてくれているわけですから。
で、発展と開発の現場で、日本の明治の彼らの思考と行いが、日本人としての自分の柱になっていることを自覚する。いい先達を持ったのだなぁと、ひしひしと感じています。

自分はなんら特別なものはないですが、この仕事をしていると、偶々、彼らの「面白さ」に、重なりやすい、彼らの思考と行動をラップさせやすい立場で、彼らの行いを、我が物として感じやすい。それはやっぱり、幸せなことだなぁと感じています。

と、まとまりなく、とりとめもなく。有害なまでの文字列となってしまいましたが。
幕末明治の世に、我々日本人の根にする土壌を重ねてきてくださって、ありがとうございますと、ただ、お礼を言いたかった、いまさらながらのファンレターでした。
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2005年03月08日

メモのためのメモ

ここのところ、ドサ周りでした。約一週間で、インド(カルカッタ→デリー)→シンガポール→フィリピン、という行程。暑いところと寒いところが目まぐるしいので、ちっとダレてきた体にも、活入りました。
てか、東京、寒いよ…。何で雪降ってるのよ…。
大寒を経ての、ほのかな暖かさなら、あー、もうすぐ春だなぁ、とも感じられるでしょうけれども、常夏、熱帯のうだるような暑さの後では、ちょっとした北風も、身が凍てつくように感じます。

さて、夜行明けそのままに、国会図書館に突入。

カード登録式の新システム導入で、ずいぶんと使いやすくなっていました。一度に3冊まで借りられるし、何より、蔵書が出てくるまでの時間が圧倒的に短縮されている。これまで、1冊頼むのに30分待つ、何てこともザラだったのに。利用性向上に拍手です。土曜日は毎週開けてくれているし、開館時間も長くなったし。…いや、他の図書館と比べるとそれでも全然、閉鎖的なのですが。以前と比べると、もう、涙が出るぐらい、ありがたいことでして…。

結果、そのまま○万円、コピー代につぎ込んで、大変、懐寒い阿呆な幸せを味わうことができました…。
探せば別の図書館から借りる事もできて、安価なコピーで済ませることも可能なのでしょうけれども。つい。

てことで、獲得物含め、身の回りに溜まった資料から、今後、まとめていきたいもの。
とりあえず、メモです。何を書きたいのか自分でも忘れていきそうなので…。

○ 圭介と洋学者コミュニティ

○ ライマン書簡400通余に見る、お雇い外国人と開拓使の軋轢と、頭の痛い次官殿

○ 舶来事物事典における、圭介の詰めのない人生

○ 品川弥次郎意見書に窺える圭介のコンサルタント志向

○ 加越州鉄道意見書に見る圭介の官僚らしくなさと、自業自得癖

○ 北垣さんとラブラブ釜の北海道巡歴日記

○ つれなさ爆発、小栗日記

○ ついであつかいされた「代表的五十人」

○ 批判批評延々50ページ「主戦派幕臣の軌跡」

○「適塾」の研究、完全スルーされた半生

○ 圭介とライマンを使う、スーパー几帳面男山尾の伊藤への書簡集

○ 激マニアック「洋学史事典」

○ 意外に圭介寄りだった、会津藩史の必修項目「七年史」

○ 寺島宗則資料集における、元薩摩留学生たちの奇妙な仲

すでに皆様があげてくださっていたり、いまさらの観があるのも多いかと思いますが。
言わずにはいられない、私にも言わせてー、ということで。
ぼちぼち、垂れ流していきます。目標、1日1ツッコミ。せっかくしばらくはネット環境にいられるのだもの。(とでも宣言しないと、怠惰気を起こして作業をしない)

メイルのお返事も、これから、させていただきます。ありがとうございました。そしてすみませんでした。…MSN、今まで重すぎて開けませんでした。た、大変申し訳ございませんでした…。

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お帰りなさいませー!!!! 方村有菓 - 03/09(水) 03:30 PC No.781 [削除]

お帰りなさいませ…!
ご帰国早々素敵資料を提示してくださって,悶えながら拝見しております。
北垣&釜ラブラブ北海道巡歴日記にトキメキが隠せません。
山尾書簡集…『明治鉱業史料集』のアレでしょうか?『伊藤博文関係文書』は見たのですが,これは未だに未見です…。ぜひぜひレポを…!(違いましたら申し訳ないです)
『洋学史事典』も気になります。マニアックと聞いて,土木人物事典同様,期待が膨らみます。

やはり入潮さんがいらっしゃらないと,どうも横道にそれてしまって圭介資料開拓がおろそかになってしまいます。

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道 入潮 - 03/10(木) 01:23 PC No.782 [削除]

お帰りといってくださる方がいらっしゃるというのは、ありがたいことです…
て、この資料群で、萌えあがってくださる方村さんにこそ、大興奮。
誰が興味持ってくれるんだろう…とか一種自暴自棄的な路線だったですのに。いいんですか、いいんですか?

山尾書簡は、仰るとおりのものかと。伊藤博文関係文書に全て収められてしまっているかもしれないのですが。てか、ここでサラリと「明治鉱業史料集」が出てくるところに、方村さんの恐るべきさを感じずにはいられません。既にワタクシ、導いていただいております。なんなんですか、あの、方村さん収集資料群はーー。帰国したらあのようなすばらしい財宝が待っているとは思いませんでした。って、ここで言うなという感じですが。叫ばずにはいられなかったです。今の(自分の)旬は明治初期かなー、とか思っていましたが。土木に関してはすっかり先を切り開いて邁進してくださって。もはやお背中がまぶしいです。方村さんの場合、横道にそれるというか、あらゆる方向に見通しよく車線をがばーっ、と開いてくださっている感じです。そして道の先に見えるものといったらももう。魅惑の泥沼。方村さんには、己の信じた道をひたすらに突き進んでいただきたいと思います。着いていきます。
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2005年03月13日

育英黌

メモのためのメモ」にいれていなかったので、忘れないうちに。

明治24年3月19日の新聞「日本」似掲載された「育英黌」(東京農大の前身)の開校につき、生徒募集の広告。
このときの文部大臣が榎本武揚。釜さんが提唱し、私立の学校として、「育英黌」が設立されたのですが。

「近来社会の風潮、漸く実学を重んずるを知り、青年子弟の頗る生産的の業務に意を傾る者多きに至り、徒来浮矜膚賤の流弊汚習、漸く将に其の後を欽めんとす、是学術上の一進歩というべし。然るにその■望に適せしむるの校舎猶その乏を告るものの如し」

「本黌これに感する所あり、主として農商の二科を設け、実際応用の学術を教授し、苟も本黌に於て卒業する者は直に実業に就を得るのみならず、各其志を遂る上に於て最も有益なる新智を■達せしめん事を期せり」

と、まず、生産的の業務、すなわち、実学を志したいものが漸く増えてきた、応用科学の充実が必要となってきた、としています。これ、圭介が事あるごとにずっと、工部大学校のころから言ってきたことですな。工部大学校が東大に吸収されて、実学よりも、科学理論に重きを置かれるようになったことを受けて、釜さんが言い出した、とかの流れだったら、嬉しい。

これ、釜さんの起案した言葉なんだろうか。少なくとも、この原稿を書いた人は、何らかの釜さんの文書を参考にはしている気がする。

「普通科を加うるものは陸軍士官学校海軍兵学校に入り、他日軍人とならんと欲するものを養成するを主とし、式を振興し他日国家の干城たらしめんことを期し」「併て高等中学校高等商業学校及専門の諸学校に入校せんとする者の為に広くその便を謀るにあり」

ということで、軍人になる人や他の商業学校へ進む人のための教育も行う、としているのが、富国強兵に突っ走っている背景らしいです。なんというか、何でも来いというよりは、軍隊にも人材を輩出させるほうが、世の中的に通りが良かった、ということなんだろうか。

で、突っ込みたかったのは、教授陣。

管理長(理事長):子爵榎本武揚、教頭:荒川重秀、幹事:牧野肇

教師:岩崎行親、濱田健次郎、伴野乙弥、若山由五郎、上野清、奥野肇、諏訪鹿三、他

講師:石橋絢彦、小田川全之、渡瀬寅次郎、田辺朔朗、妻木■黄、中村宗次郎、眞野文二、三好晋六郎、杉山正治、

補助: 赤松則良、河野栄次郎、吉田義高、田辺太一、武村謹吾、中村六三郎、中村正直、成瀬隆蔵、矢吹秀一、山本俶儀、福田重固、江原素六、荒井郁之助、天野可春、天野富太郎、平山成信
(以上、いろは順)


…なんですかー、この超豪華メンバーはッ!!
荒井さんに、赤松さんは言わずもがな。江原素六は沼津兵学校の創設メンバーだし。福田重固は寺島宗則の元で電信作業を実地でやっていた人。福沢諭吉といっしょに渡欧経験のある、逓信省電信局次長。弟は高島秋帆の養嗣子でやっぱり沼津兵学校で英語の先生。中村六三郎は幕府の海軍伝習所出身で、三菱商船学校の校長。

しかもしかも、田辺の太一つぁんと朔朗君が、肩を並べて教壇に立っていたかと思うと、雄たけびを上げずにはいられません。

ほか、なんか聞いた事のある人たちがいっぱい、いっぱい。どうも、ほとんどなんか、旧幕臣みたいですが。
あーもう、釜さん、自分の人脈駆使しまくり。
「他日国家の干城」じゃなくて、釜さん、自分のコミュニティの干城なんじゃ。
……新政府の内閣、居心地悪そうですものね…。

圭介は、このころ、のほほーんと、平凡な清国駐在特命全権公使やってるんですね。日本にいたら、やっぱり参加していたのかしら。「実学」大好きだし。工手学校の開校式にはのこのこやってきて公演してたし。

東京農業大学こと、育英黌。こんなにオイシイものだとは思いませんでした。飯田橋を拝みます。もう一度碑文見に行こう…。

で、そんなワタシは、育英会への借金をまだ返していません。あぁ、嫌な事を思い出した…。


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イギャー! 方村有菓 - 03/13(日) 23:47 i No.790 [削除]

関係者が豪華すぎて悶え死ぬかと思いました。旧幕臣有名理工学者のオンパレードですかこれは…!朔郎に石橋絢彦に荒井さんに太一に……
美味しすぎる情報をありがとうございます。興奮しながら拝見させて頂きました。


妻木■黄は建築家の妻木頼黄だと思います。工部大学校ゆかりの方です。彼の伝記で旧幕臣出身の圭介に親近感をよせるシーンが印象に残ってます。建築関係ならSのさんがお詳しいかと…(お名前出してごめんなさい)

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Re: 育英黌 しの - 03/14(月) 19:35 PC No.791 [削除]

お久しぶりです。
妻木の説明など要らないであろうに、つい名前を見て、のこのこやってきてしまいました…。

方村さんのおっしゃるとうり、妻木■黄は建築家の妻木頼黄だと思います。
旗本出身で工部大学校造家家学科で学びながら、夜は英語講師をしていた人です。
ちなみに妻木が英語を学んだのは東京外語学校なのですが、このころ工部省電信寮で電信術を習得しているので、この時もう圭介と係わりがあってもおかしくないかなと思っています。
そのあと慶応義塾にも入熟しているので諭吉とも…。

妻木はともかく、他の講師陣も凄いですね。
やっぱり旧幕臣が多い所為か、なにげに沼津兵学校や付属小学校出身者が目につきますね。
小田川全之、渡瀬寅次郎、田辺朔朗、眞野文二は付属小学校出身だし。
石橋絢彦、成瀬隆蔵は沼津兵学校出身ですよね。

そうそう、小田川全之さんも工部大学校出身の、土木の人ですよ。
名前が出てくるのは、実業家としての方が多いですが…。

楽しい話題をありがとうございました。

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あ。 入潮 - 03/14(月) 19:56 PC No.792 [削除]

これに反応してくださるところが、おさすがでございます。てか、方村さんと、Sのさんの、日々マニア突っ走りの加速度度合いには、もう、お背中を遠くより見つめるより他はありません。妻木頼黄氏も、工部大卒業生まで行き着きませんでした…。辰野金吾のライバルなんてそんなオイシイ。伝記は早速、Amazonダッシュでした。
あまりのへのへとしているのも申し訳ないので、ネットを駆けずって、まとめてみる。

石橋絢彦:旧幕臣家。工部大学校土木科卒。留学後、工部省灯台局勤務。工手学校(現工学院)校長、工学会誌他に執筆。『回天艦長甲賀源吾伝』を執筆。

妻木頼黄:旧幕臣家。工部大学校造家科中退で、コーネル大学建築学科に編入。東京府土木課勤務、シャルロッテンブルグ工科大学に入学、帰国後内務省・大蔵省で官庁設計。日本建築学会副会長。

小田川全之:旧幕臣。M16に工部大土木科卒。群馬県・東京府御用掛として土木事業二十時。足尾銅山で鉱毒予防工事担当。「安全専一」の先駆。足尾鉄道株式会社を創立。

天野富太郎:旧幕臣。沼津兵学校卒業。フランス留学を経て陸大教官。工科大学の講師も兼任天野可春の孫。

諏訪鹿三: 高松士族。札幌農学校卒。第2期生で、新渡戸稲造・内村鑑三と同窓。シカゴの万博からベニヤ板を日本に持ち帰った。

岩崎行親:香川県出身。諏訪と札幌農学校で同窓。鹿児島尋常中学校校長、第七高等学校(現鹿児島大学)初代館長。『和英大辞典』の編者のひとり。

渡瀬寅次郎:沼津出身。札幌農学校出身。実業家。二十一世紀梨の命名者。東京・渋谷の宮益坂にて種苗業「東京興農園」を営み、農業専門誌を発刊。

荒川重秀:札幌農学校出身。第1期生主席卒業。カナダ留学生。信省の官船局長までやった後、芸能界入りというよく分からない経歴。社会学・演劇家。

上野清:昌平黌出身。明治5年「上野塾」を開く。教育家・数学教授。数学著書60冊余。東京数学院(現東京高等学校)を創設。

濱田健次郎:大阪商業会議所書記長。東京学園高等学校の創設者。大阪湾築港計画実測図を記す。

見事に、旧幕臣と、工部大学校・沼津兵学校・札幌農業学校出身者で埋められておりました。
圭介コミュニティの影も色濃いんじゃないか…とか、言ってしまっても良いですか。
明治政府から何も言われんかったんだろうか。
あと、改めてみると、工部大卒業生の、明治の土台への食い込みっぷりは、すさまじいですな…。奉職義務があったというのも大きかったかと思いますし、目的に特化した教育だったから、貢献が大きくなければ困るんですけれども。

…とまで書いたところで、新たなしのさんのマニアパワー炸裂を発見。
もうワタクシ、出る幕ありませんでした。すみません。ありがとうございました…

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余談ですが。 入潮 - 03/15(火) 01:13 PC No.793 [削除]

廃藩置県前を「新政府」あるいは「維新政府」、その後を「明治政府」と呼ぶのが、どうも、慣習的らしい、ということを、今、知りました。
…って、全く周知の事実でしょうか…。
てことで、「新政府の内閣」って、何だそりゃ、って感じで。
こういう、基本のところが全然できてないあたり、付け焼刃丸出しで、我ながら、めり込みました。うふふふ…
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2005年03月15日

やさしい史料

最近復権も行われてきたといいつつ。頼もしいサイト様の出現に歓喜しつつ。ネット徘徊するとやはり主流は変わらずというか、人の認識を変えるということは容易いことではないと、力不足にめりこみつつ。というかそもそも偉そうなことが言えることもやっていない無力さにたそがれつつ。

そんな時に優しいのが、明治の文献。

「明治歴史」 坪谷善四郎著。明治26年刊。

明治維新前から、戊辰戦争を通して、刊行前、第4回帝国議会頃までが、ざーっと、触れられています。
戊辰戦争は、一貫して、官軍側の視点で書かれています。旧幕軍は「賊」、「敵将」という表記。
出番はそんなにあるわけではないのですが、これまた、記述が圭介に優しかった。

「大鳥圭助は進んで宇都宮を攻む」あたりは、おや?と思い。
「大鳥圭介福田道直等、頻りに官軍と戦ふて勝敗あり」から、負けを強調しているんじゃないだろうな…と警戒していたのは、もう昔のこと。

「下妻藩主井上辰若丸、大鳥等の為に攻められ、守を棄て走り、賊勢、甚だ猖獗なり」
と、勢いあります。「猖獗」という字を用いている当たり、「復古記」からの引用かなーと思いきや。
ちなみに猖獗。はびこって勢いが盛んであること。盗賊とか雑草とかに使われる。いい言葉です。で。

「大鳥、能く兵を用ふ、操縦自在、戦鋒頗る鋭し」

と。自在に兵を操り、攻撃力はすこぶる高いと。官軍側からの評価はやはり高い。会津篭城戦のときも。

「大鳥圭助其率いる所の兵を将て外より援けんと欲したるも、亦なすべからずをみて仙台に走る」
会津を最後まで見捨てまいとした努力も指摘してくれてました。

あと、箱館戦争にて。
「五月十五日先ず降る時に、大鳥圭助等千代岡に在り、官軍降を勧む、従わず、因りて進んで激しく攻む」
旧幕側からはここで注目されるのは中島さんですが。官軍の眼からは粘ってたのは、圭介だったようで。降服を狙っていたという消極的な書き方は一切されておらず、最後まで戦い抜いてから、榎本の下、衆の命を請うために降った、という書き方でした。

ちょっと気になったのは、釜さんが「榎本鎌次郎」と当て字をされていたこと。なんか、釜が鎌になっただけでずいぶん雰囲気変わりますな…。

これが史料かというとそれはそれでどうでしょう、という感じではありますが。
少なくとも、当時生きている人間たちのことを書いているものだし、情報も限られているからいっそう、事実に近いところにはあるのではないかなぁと。

もひとつ。明治戦記、明治16年。岡田霞船編。

「大鳥圭介」について。
「其性剛強博学非凡」「屡々官軍をなやまし」「宇都宮城を抜き、官軍、為めに破るる事数十度に及び」
数十度は言いすぎにしても。てか、宇都宮以降は敗戦続きではなかったか。「諸藩大鳥の指揮に驚くといふ」

こちらも、賛辞の連続でした。なんだか、有能な指揮官みたいでした…。

というわけで、明治の文書は圭介に暖かいことが実感できます。あぁ、居心地良い…。

江戸開城当時の江戸は、朝令暮改な新政府への反感で、旧幕府人気が盛り返して、発刊禁止新聞が乱立したという時勢でもあり、そういった体制への逆行的反抗心が、明治中期まで引きずられているのが、影響しているのだとは思いますが。
官軍側の歴史からこそがいい評価なのは、ありがたい反面、やっぱりどこか不憫に思ったりします。

で、圭介、「南柯紀行」発表前のほうが、評判よかったんじゃぁ…とか思ったりして。
南柯紀行の初出は、明治30年ごろだし。
あのオチだらけの文章は、大鳥の性格や心情や全体的な情勢分析をせず、局所だけ抜き出すと、良い貶め材料でもあるわけなので、そこから、本人が世を去ってからは特に、評価や解釈が分岐していったのではないかなぁ…。で、燃えよ剣でトドメさされた、という感じか。

とすると、良くも悪くも、死後まで、自分で自分の首を絞めているわけで。その辺も圭介。それが圭介。

そのうち、疲れたときに、大鳥に優しい文書リストとか、作ってみたいと思います。自己慰安のために。
手軽なフィクションより手の届きにくい史料に慰められるというのも、圭介の変なところです。
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2005年03月17日

布団仲間

ぐあぁ。眠い。眠い…
付き合い作業で徹夜です。

相手政府の人間にやってもらった仕事をチェックしてみたら、データが間違いだらけで、プログラムが全然回らない。修正作業で気が遠くなる…。

人にやってもらうのは、それに係わる技術を習得してもらうために行っているのですが。仕様上の作業を満たすだけなら、自分たちでやったほうが、よっぽど早かったりします。
今ではどんな調査も、技術移転というのはお題目のひとつになってしまってますが。
人に教えるというのは何でもそうかと思うのですが。相手が、主体性と責任感と必要性を理解していないと、やっても時間の無駄。家庭教師などと同じで、親がいくらやる気があって授業料を払う気があっても、肝心の子供に、自分が勉強して理解しないといけないという自覚がないと、いくらやっても無駄。親は家庭教師代を払ったら子供の成績が良くなると思っている。

じゃあ子供にモチベーションを与えるのが肝心だ、ということになるのですが。

技術移転というのは、作業の結果として付随してくるものでして。その調査が、本質的には日本の都合で行っている以上、欲張ってそれを目的に掲げるのは、どうにもナンセンスだったりする。大体相手も忙しい。そのプロジェクトだけに集中しているわけではない。当たり前だけれども日常の仕事を抱えている。本気でやろうと思ったら作業の片手間にできるものじゃない。ライマンなんて12人の助手を自分の専属でつけろ、と無茶を要求してたぐらいだ。それを聞き入れた開拓使は本気だった。ODAを計画する側は、技術移転して相手を育てました、なんていうと良い自慢の種になるんでしょうけれども。実際、実地でやろうとするとすさまじい手間と労力と時間がかかる。相手の都合もある。効果的な技術移転をやりたいなら、調査のついでに、アレもコレもと、聞こえの良いアクセサリーみたいな扱いで取り上げるんじゃなくて、受け入れ側も自分とこも、体制を整えてから、それを目的に特化して予算を確保して、本気でやるべきなんですよな。そして、工場なりインフラなり、受け入れ側の名前で、ちゃんと形のあるモノを作らせる必要がある。結果に責任を持たせないと人間成長しない。

そうすると明治政府はなんて本気度が高かったのかと思います。身銭で全部やっていたし、集中度合いも驚異的だった。モノは自分で作ったし、作ったモノに対する責任感は皆が持っていたし、批判も自らのものとして受けた。あの時代のお雇い外国人って、本当に良い商売だ。

ライマンは1日10時間、土曜も働いて、勤勉だと褒められてましたが、今の日本の、途上国で働くエンジニアは、明治のお雇い外国人とは比べ物にならないぐらい働いていると思います。文字通りセブンイレブンの1日16時間土日なしで働いてる人とか、2年間テント暮らしでゲリラに脅され虎に襲われながら密林に道路を通した人とか。毎秒600Lというほとんど鉄砲水の中をトンネル掘り続けた人とか。農民のトラクターで断崖絶壁を降りながら水力発電の測量し続けた人とか。母親は脳梗塞で危篤、妻は看病で倒れて入院、4人の小さい子供は妻の実家に置き去りで、それでも現地にとどまりながら、辞表を胸に入れて精神安定剤としながら徹夜で現地人を指揮しながら設計してた人とか。道路をさえぎって、進軍してくるポルポトの戦車を、「邪魔だ、後で来い」と止めながら平板測量やり続けた人とか。もちょっと評価されていいんじゃないかと思います。日本のオヤジ、凄いですよ。
そんな方々に、現地で使った車のドライバー名と稼動日数を控え損ねた領収書は認めないと付き返し、「ずさんな会計処理だ」と虐めるのが、今の世の中の正義です。

…すんません。ただの愚痴です。会計の透明性は大事です。人を育てることに喜びを感じてこその技術者です。

さて。人材育成といえば、適塾。(強引な)
名家談叢で圭介が述べていた、適塾から江戸へ出る時の、同伴者のお二方。

「大坂を出発し、村上代三郎、三木芳策と同伴して、江戸に来たりしも別に手便る人もなく、又世話をして呉れる人もなく」

金がなくて、1枚の羽織を3人で使いまわし、1人が外出している間、残り二人は裸で破れ布団を被っていたという、圭介と2人。誰だろうと思っていたのですが、うち一人、「村上代三郎」についてちょっとだけ分かりました。出典は主にこちら。

http://www.nogami.gr.jp/katudo/48_maku/48_syosai.pdf

村上代三郎。1829年生まれで、天保14年、1844年から在籍(1840年から在籍という資料もある)、ということは、圭介が12歳のころから適塾にいついていることに。圭介の入塾は1852年だから、12年先輩で、既に在塾9年目。なんか長老みたいな立場の人だったいたいです。
適塾の姓名録の記録は1844年に始まって、その4番目に名前が載っているそうです。

さて、この村上代三郎氏。兵庫県杜町藤田で私塾を営み、漢方医学を教えるの村上良八の子息。大三郎と書かれることのほうが多いようです。

大三郎は圭介と共に江戸を出て、伊東玄朴のもとで三年学び、その後、韮山の江川太郎左衛門と親交があったとのこと。幕末以降は故郷で隠棲、偉業・私塾を起こし、眼科を得意とした模様。彼の弟子に、江藤新平がいたとのこと。

ここに出てくるのが、川本幸民。圭介が薩摩屋敷に出入りしていたころに、薩摩藩お抱え洋学者として名を馳せていた方。彼は兵庫県出身の三田藩士で、18歳のころに、村上良八の元で医学を学んだそうです。川本が塾を去ったころに、村上大三郎が生まれています。

幸民さんですが。大三郎の父親の塾で学んだあと江戸に出てきて、江坪井信道の下で学び、緒方洪庵と青木周弼と共に、信道門下の三哲と呼ばれるようになったそうです。厳格な人かと思ったら、大酒飲みで、酔った勢いでの上司と喧嘩して刃傷沙汰にまで及び、切腹間際の謹慎、という事件も。

三田の藩主九鬼隆国が亡くなって代替わりし、幸民さんが薩摩藩に招聘された際、手切れ金だということか、こつこつ蓄えていた三百両という大金を、前年の旱魃の救済に役立てて欲しいと、藩にぽんと寄付した、という逸話もあります。
で、食塩や佐藤、電信、レンガ、ガラス、火薬、樟脳など、薩摩の輸出製品の開発に着手し、薩摩の富国強兵への貢献は高かったということ。

この幸民さんですが。圭介と薩摩との接点は、大三郎経由で、この当たりにあるのではないかなぁと思ったり。大三郎と幸民さんは、父親から紹介されて知己である可能性は高いでしょうし、江戸に出てきて金がなくて困っている彼に、幸民さんが薩摩の下請け仕事を頼んだ、そこに圭介がかんできた…あたりが、薩摩との最初の接点としては、一番ありえそうだなぁ、と。

いや、斉彬候蕎麦エピソードは非常にオイシイので、あれが事実であってほしいと心の底から思っているのですが。後に圭介が、「候には会っていない」と述べて、塾で出てきたうわさだろう、ということになってますが、圭介が当時の大名とバイトという立場差を慮って、会ってはいないといっただけかもしれないし…という希望しつつ。
圭介と布団を共にした方(…)の正体が分かって良かったです。
こう、いつの時代も、圭介のまわりは気の置けない仲間がいるようで、ほんわかとさせてもらってます。

……あぁ、また、エラーが見つかった。
目の前で、上司にもらったホワイトデーのお返し、「滋養強壮ユンケルローヤルDニンジン・黄精流エキスローヤルゼリー配合」が、存在を自己主張しています。
ラベル:適塾 大鳥圭介
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2005年03月22日

山油編 その1

「山油編」

よく考えたら、まだ語ってなかった。
あまりに有名な大鳥4部作の一つ。
え、有名じゃないですか? …ごめんなさい。有名ということにしてください。大鳥スキーの間では。(強引)
今まで、語るとあまりに長くなって大変なので、後回しにしてました。
でも最近大鳥に興味を持ってくださった方のプログで、専門分野では評価高いらしい、と仰ってくださっていたのを拝見してしまいまして、がぜん、やる気が出ました。現金。

で、「山油編」。明治7年開拓使報文として提出。明治13年開拓使より刊行(それまで開拓使が自分のとこで握ってた)。大鳥が、明治5年〜7年、英国・米国滞在中に、ありとあらゆる産業視察工場見物を行い、1ヶ月で100の工場を見て回ったという狂気の沙汰、殺人的スケジュールをこなしたりしながら集めた情報と技術ノウハウを詰めんだ報告書が、開拓使報文ですが。その内、石油開発に関わる報告書。「石炭編」「阿膠編」「木酢編」と共に開拓使報文4部作の一つ。

わが国で、石油に初めて系統的に触れた技術書です。それまでの井戸堀りは、場所決めも、外国人の甘言があったり、根拠もなく多分にギャンブル的だったりしていました。それまで赤子のようだった石油事業に、技術的根拠を提供し、成長のきっかけを与えた、という点に、この書の価値があります。

内容は、序文も目次も何もない、いきなり本文から始まる素っ気無さですが。
大きく分けて、「井戸を開く方法」「石油を精製する方法」の二部門から成ります。
まず当時「くそうづ」「草臭油」と呼ばれていた石油の定義、性状、化学的性質、井戸の堀開き方法、当時の原油産出事情、産出油の輸送方法、オイルシェールについて、油層の深さと石油の有無の判定方法、油層を水の層から遮断する方法、油井の出油の減少と増産方法、掘削機械の原理と構造(図入り!)、石油の蒸留・精製方法とそのコスト、など、学術的な点から、非常に実用的な点までの紹介。

面白いのは、出る油の量が少なくなった地層に爆弾を仕掛て爆破させて地層を破壊することにより、石油を増産させた例を紹介したりもしてます。(これは今も、地層で核を爆破させて石油を増産するというアイデアがあるそうです。まだ行われた例はないと思いますが…)

「お雇い外国人ライマンとむかし日本の石油開発」「明治期における石油精製技術の発展」等の論文が、が、この山油編を詳しく取り上げてくれています。
、この「お雇い外国人〜」の論文ですが。これがまた、圭介と石油とのかかわりを一通り網羅し、石坂周造やライマンはじめ周辺人物との関係まで詳細に書き上げてくれています。いえ、そうでなくても、石油の黎明期の日本事情を時代背景と共に整理してくれている、秀作なのです。

内務省・工部省に移ったあと、自分の足で、油田候補地の加賀・越州の山中の道なき道、断崖絶壁を歩き回って、予備調査を行ったことも紹介してくれています。(その行程ったら、南柯紀行の会津流離いを彷彿とさせるほどに激しい。この調査を受けて、ライマンが本格調査を行いましたが、このときにライマンが落馬して怪我をして、圭介、すんごい心の篭った見舞いのレターを書いているんですな…)

ちなみに釜さんも、開拓使で石油調査をしていたのにも触れてくれています。これがまた、「当時の日本の水準から見てずば抜けて高く、それが単に科学者の目以上に経営者としての見識のあるのが目立つ」と言ってくれてます。くふ。結局、釜さんの石油調査は、ケプロンとの対立で、全然先には進まなかったのですが。…石炭といい、釜さんと圭介、タッグを組んで開発に当たっていたら、日本の鉱物史は違ったものになっていたのだろうなぁと、浅はかながら、本気で思います。

さて、この論文。圭介に及ぶに当たり「当時『日本の頭脳』と呼ばれた大鳥」で始まりながら、「山油編」の内容を、詳細に言及しています。大鳥について、「当代一の『石油通』の有能な官吏」「冷徹な官僚」なんて表現もしてくださっています。この論文の著者の方。(財)石油開発情報センターの、当時理事長の方ですが。彼が目にされた『山油編』の前付には、大村一蔵氏(戦時中の帝国石油副総裁)が「本編は、本邦最初の石油関係著書なると同時に、世界石油鉱業初期時代の状況を記述せるものにして、すこぶる興味深く、かつ最も記念すべきものなり」と記していたそうです。これを序文に変えてくれと言いたい。著者も「全文を通じてきわめて質の高いもの」と評価してくださっています。

で、ライマンがこの論文の主人公なので、開拓使との喧嘩、森有礼に恋の競争で破れた事にも触れられながら。圭介、「明治8年にライマンと開拓使との確執に心を痛めながら内務省に移り」とあります。 ちなみに、正しくは、一端工部省四等出仕、工学寮頭と製作寮頭を拝命してから、さらに内務省と兼務、という、くそ忙しい状況だったのですが…

さらに、圭介の「信越羽巡歴報告」にも触れ、石坂と米人ダンが行った、油が少し出ていたからというだけで行った掘削について、圭介が「いやしくも地質学を多少でも若干なりとも知っているものであれば、ただそれだけで坑井を掘るような迂闊なことをしてはいけない」と記述していたのにも触れています。

そして、開拓使との契約をほとんど喧嘩別れで終えたライマンを、圭介が内務省に招いた事に関して、圭介が「手を差し伸べた」とし、このとき、黒田が大久保さんに「ライマンは我儘で不遜、後に不都合に絶対になる」と手紙を書いて妨害したエピソードまで触れてくれています。ぷぷ…。

その後、工作局の工場である赤羽分局で、現場で圭介が指揮し、井戸の掘削機械と、蒸留装置を試作しました。技術に基づいた、石油の開削方法と、洋式の製油方法を導入したわけです。新潟の試掘は、原油が期待したほどは出てくれなくて、(ライマンも貯留量はたいしたことがないと言っていたが、天皇の行幸があって、強行する羽目になった)つぎ込んだ金に見合わず、失敗、と評価されてしまいましたが。この流れを分かりやすく説明してくれています。この辺のヘコみ具合も圭介。もとい。その技術は、後にも生かされる、石油開発技術の嚆矢となったわけです。

民間人では石坂周造が会社を立ち上げてがんばっていたのですが、科学的に掘らず、ヤマ師のようなことばかりしていたのが災いしてか、失敗の連続で資金に行き詰まってます。まぁ科学的に行ったはずの工部省も失敗していますし、今もどんなに科学的になっても、石油開発は、今もぎゃンプル的な要素はあるのですが。

そういうわけで、石油業界では、石油産業が金ばかりかかる黎明期を経て、利益のでる発展期に移る過程で、「山油編」は、他の技術者や事業者がバイブルの如く参照にしたという点で、その寄与は大きかったと、評価されているのです。

個人的に、この山油編。「堰堤築法新按」の訳と並んで、圭介の2大偉業だと思うのですが。
なにせ、掘削の実施で、石油があまり出てくれなかったためか、あまりメジャーではなく。業界の一部の人間の知る人ぞ知る状態なわけで。このあたりのマイナー具合、専門家にしか評価されなさ具合が、やっぱり圭介なんだなぁ、と思います…。


なお、余談ながら、山油編。ワタクシが大鳥に興味を持つきっかけとなった書でもあります。
技術士の試験勉強をしていた時に出会いました。当時専門は、資源工学だったので、石油石炭鉱山関係で、ちょこっとだけ、技術史(ややこしいな…)にも触れたのですが。

自分が大学時代に、シミュレーション交えながら必死こいて理解していた、石油の背斜構造と移動説を、明治の最初に日本に持ち込んでいた奴がいた、と早合点してしまったのが、大鳥圭介という名前を知った一番最初だったのです。
その後「燃えよ剣」を読んでも、そのままスルーしててまったく繋がらなかったのですが。あとから大鳥を調べて開拓使報文にヒットして、アラびっくり、という感じでした。

背斜構造と移動説というのは、単純にしますと。
元々石油は、地下に埋もれた微生物などが、酸素がある条件だと普通に分解されて二酸化炭素になって終わりですが、酸素がない条件では、還元(酸素が取れて、炭素と水素の化合物になる)していって、油っぽいものになったものという説に基づきます(いろいろ説がある)。

地下の地層というのは、色々性質があって、層によっては、スカスカで隙間だらけのもあれば、空気も水も通さないようなギュウギュウに詰まったものもある。

で、微生物とかの有機物の残骸からできた油っぽいものが、地層の、空間の多い、詰まっていない岩の、砂粒と砂粒の間に、ちょびっとずつある状態。この油の軽い部分(ケロジェンという)が、地下の圧力と温度が高い状態の中では、長い年月をかけて、浮いていって、ちょっとずつ、地層の上のほうに動いていく。で、スカスカの層の上に、固いギュウギュウの層が上にのっかかっていると、油の浮上が、そこでストップする。

その後、地層が、∩の形に曲がっている場合(背斜構造)だと、固い岩に蓋をされた下側にまた動いていって、上のほうに油が溜まっていく。これが、油田になったという説です。この溜まったところに、井戸をズドンと通すと、地下のほうが圧力が高いので、地上に吹き出てくる、という仕組みです。

なので、石油開発をするには、まず地層の形を見る必要がありまして。そこに地質学者が登場するわけです。今は衛星などからの電波探査や地震波などで、地上でも海の底でも地層の形を推定する事ができますが、昔は、崖や急斜面など草木に覆われていないところの地層を探して見て、地図上で幾何計算をやったりして、地上の見えるところから地層の形を推定するしかなかったわけでした。
ライマンも圭介も、このために、山野を這い回ってます。

ただ、よくよく見てみると、結局、圭介、背斜構造はライマンの受け取りで理解していても、移動論までいってなかったようです。ライマンはSuddleという用語を使ってて、鞍部という訳が当てはめられていますが、単に∩状だと地表に近くなるから掘り当てやすくなる、ぐらいに考えていたようです。あと、圭介は「信越羽〜」で船底部という、∪形にも注目してましたので、その底にも石油はあったと考えてのたかもしれません。これは移動説を理解していたら、そういう考えには至らなかったでしょう。ライマン自身も、移動論は否定していたようです。

てことで、圭介が移動説の導入者だというのは、単なる自分の早とちりで、誤解でした。いや、圭介への惚れ込みが大本が誤解だった、というのは、ちと哀しいコトなんですが。そ、それで圭介の価値がどうこうなるってわけじゃないのさっ。
ただ、以前に、移動論を圭介が知っていた、みたいな事を言ってしまったことがあるので、訂正させてください…。

で、この誤解の元になった記述、オイルフィールドエンジニアリングの参考文献に載っていた、岩塩ドーム説(∩の上にのっかかる固い詰まった岩は、岩塩が理想的で、ドーム状になっている岩塩の下には油田が存在する可能性が高い、とする説) の関係で、圭介の名前を見たような記憶があるのですが。どれだったか、出てこない…。調べなおそうにも量が膨大で。うー。よりによって人生のマイルストーン(大げさ)の場所を忘れてしまうとは。

……って、自分以外の方には全くどうでもいいようなことを、つらつらと。すみません…。

_________

あ。まてよ。
ケロジェンの密度が水よりも重かったら、下に移動しているわけで。そうすると、∪部に集積すると考えてもおかしくないのか。ビチューメン(タールやアスファルトみたいなの)やヘビーオイルは水より重いし、圭介ビチューメンのことも知っていたし。
ただ、ビチューメンになってしまったら粘度が高くて移動しにくいので、現在は∪部での集積はほとんど考えられていませんが。

別にライマンだけが圭介の石油の先生じゃないし、明治5年より以前にも、背斜説の論文はいくつも発表されているので、アメリカの油田を駆け回っていた圭介が他に情報源を持っていたことも、やっぱりありうるわけで。じゃあやっぱりもしかしたら、完全な勘違いでもなかったかも…。

さらにどうでもいいほうに話が飛んで。ライマンが提出し、明治10年に出版された「日本油田地質測量書」。刊行は工部省なのに、提出先は大久保内務卿。途中で石油開発の担当が内務省から工部省へ移ったからだろうけれども。この当たり、担当の適当さが窺えますのう…。

この測量書の中で、ライマンが圭介を呼んだ言葉。訳では「客歳長官」。圭介の内務省での微妙な立場が分かる感じです。てか、寮頭程度だと、「長官」はまだ早いだろう、ライマン。原文は何だろう。Guest SecretaryかGuest DGか。また、Guest General とか書いちゃったんだろうか。で訳者がどうやって訳そうか悩んじゃったんだろうか。

…すんません、いい加減ほっとけよ、ということに、グダグダ邁進中…。

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2005年03月23日

山油編その2

さて、本題。
…まだやるのか? と呆れてやってください。
だってまだ肝心の中身に触れてないではありませんか。他人の論文より、本人の書いたものに触れなくて、どうするんですか。
……ごめんなさい。自己満足邁進中です。以下、大鳥なら何でも来いだ、大鳥という単語だけで満腹だ、すべてが許せる、という方のみ、御覧いただければと思います。

てことで「山油編」。圭介の可愛さ爆発です。石油より貴方が私のエネルギー。
いつもに増して、私の理性が吹っ飛んでおります。スーパーテンション。読んでくださる天使のような寛容な方は、95%ぐらいは割り引いて御覧いただければと思います。

まず、冒頭。語源を紹介しております。英語で「ペトロリュウム」という油は、ラテン語で「ペトラ」は岩、「オレウム」は油、ということを説明。で、訳して「山油」という。この「山油」という訳語は、既に圭介が国内で使われているのを知っていてそれを用いたのか、それとも圭介の造語なのかは分かりません。他、石炭油、石脳油などと呼ばれていて、釜さんはそちらを使っていました。(「石油」という語が一般的になったのは、石坂周造が設立した「石油会社」が倒産し、これに華族や有名士族が出資していたために大騒ぎになり、この「石油」という語が大衆に一気に広まった、という説があります。何とも皮肉。)

で、「山油は炭素と水素の化合するものにして、その両質の分量は各国において異なるのみならず、同州中に産するものにても、一様ならず。但し、何れにも酸素を含むことなし」と、性質についても把握しています。石油が炭化水素であるということは、圭介は正確に理解していたようです。そして、ボウメーという粘度を測る指標を用いて、「三十五度以下のものを重き山油といい、三十五度以上のものを軽き山油という」と分類しています。石油の化学的性状が日本語で述べられるのって、これが始めてなのではなかったのだろうかと。
それから、エジプトで紀元前1700年に産出した記録や、合衆国中での産出場の分布についても触れ、さらに、山油の用法の歴史にも触れています。律儀。

で、「1858年の『ヅレイキ』という人、『ペンシルウェニヤ』州にて創地て油の井戸を掘り平地の下に入る事六十九尺にて、日々四百『ガロン』の油を得たり」 と、石油開発史上重要な、初めての地下井戸掘削による石油生産を果たした、ペンシルヴァニアのドレイク井についても、言及しています。

この当たり、ただの報告書にも、最初から歴史上の流れを追って記述するところが、圭介の几帳面なところであり、また、石油を日本にも広めるんだ、という意気込みが感じられるところです。

ただ、「合衆国の人民を潤す油の利、今は年々一億万ドルに至る」…一億万、って何だ? 一億ドルとして、10兆円。それは言いすぎではないか、圭介。それだけ大きいということが言いたかったのでしょうか。かわいいなぁ。1万ドルだとすると約10億円だから少ないぐらいですが。

それから、オイルクリークの井戸で、油とガスが一緒に噴出して、器械や家屋を焼いて、人命を損じた事故にも触れてます。採掘の危険性に話題が移るのかな、と思わせて。「自然に油を噴出しその勢い空中に飛散し、日光に映し美色の虹生じ、実に可恐又可驚姿なり」と、480尺、地下160mぐらいのフィリップス井では、美しさと壮大さを賞賛しています。それでいいのか。
さらに、毎日四千樽を産出、1865年10月には一日に30万樽を噴出したという出来事に述べつつ。読者の興味をひきつけています。

で、ハイライト。アメリカの、ピッツバーグの油田を見て回った圭介の道程。日記風に述べています。1873年8月中旬ごろ。
「余『ピッチビルグ』を出立して蒸気車に乗り」から始まり、ピッツバーグから45里、180kmほど、川沿いに走って、車窓より眺めると…と、紀行風になります。そこで、川に漏れる油、油田の兆候を見たときの圭介。水に油が浮いている様。

「鉄道の左側に流るる川の水面に、日光に映し光輝を放ち」

…輝いているのは君だ、圭介。

水にこぼれた油をそんな風に評する人間は初めてみた。かと思うと、その後、「恰も肉を洗いし水の如し」…いきなりたとえが庶民臭い。いつもですがこの人、詩才があるのかないのか、わからなくなります。

で、油井のやぐらが林立しているのを見て、油田が近いのを知り、まもなくパーカーズシティに到着。オイルシティ、オイルクリーク、フランクリンなど、有名なところは沢山あるが、最近は出油量も減っているので、ピッツバーグの友人より、この地の有名人に紹介状を頼んで、今まさに隆盛しているここまで来たとのこと。単独っぽいですよ、圭介。ピッツバーグの友人って誰だろう…。吉田さんの一団から解き放たれた瞬間、好き勝手に動き回っている気がします。

「内窓より川の両岸を望むに、地勢丘岡多く、松柏繁茂し、林間丘上水邊共に、塔の形の細きとの並列し、恰も東京の火の見櫓を見るが如し」 なんて、松や柏の林、採掘用の櫓を火の見櫓のようだと、ちょっと故郷にあるものを彷彿しています。

その後、圭介は、旅館に宿泊し、夕方に手紙を持って、紹介されたカーンズ君を訪れます。彼は、「誠に快活厚情の人」で、案内を頼んだら直ちに承諾してくれたとのこと。
翌朝、カーンズと共に馬で、西の丘陵を超え、谷を渡り、往復40里、160kmに渡って旅しました。「途中、油井の櫓、丘上谷間水辺に林立し、実に可驚景色なり」 と、その興奮を述べています。

このカーンズ氏。遠くからいきなり紹介状だけ持ってきた得体の知れない日本人を、怪しみもせず、「厚情」で、早速、馬を与えて丸1日160kmという凄まじい距離を案内してくれた人。何者なんだろう。圭介の熱意にほだされてしまったのだろうか。にしても、1日160km。馬での旅行だと限界で150kmといわれてますが。自分、馬で50kmも走ったら、腰と内股が痛くてかなわんですが。時速20kmとしても8時間、それに油田視察時間が入っているから、もっとか。圭介はいまさら驚きませんが、付き合うカーンズ氏もよくやる。いくら慣れているとはいえ、この時代の人間はもう…。

で、圭介のコメント。元々油脈があっても、そこに井戸を掘っても直接油を産することはあまりない。井戸を掘っても金を労して空しく終わることも多い。大体、近くの流水に油分が見えれば、その近傍や、川中の島に井戸を掘ったりする。油脈の脈筋をたどって、地勢を見立てて掘ると損失は少ないという。
で、着目したいのは「油地方の地質は小石に砂利が混ざったものと、『スレート石』『シェール』と砂利を次第に相混じったもので、多く油を含むのは、第三層の砂石である」とあること。「小石に砂利」の混ざった層というのは、石油の移動できるスカスカの層で、「スレート」「シェール」は石油の移動できない、ギュウギュウに詰まった層です。これに蓋をされて石油が溜まるわけです。この原理の部分を圭介は述べておらず、経験的なことのみ記しているので、どこまで移動説を圭介が理解していたかは分かりません。地層の形についてはここでは述べていません。

それから、「近年地質学の幕が開け、熟練した人は、井戸の内より堀上げられた土質を見て、油の有無を判断している。しかし、いまだ、地面の表面だけを見て、井戸を掘るべきかどうかを判断することはできない。ただ、経験をつんで、地勢を見ることが大切である。近年、学問と経験をあわせて油脈を発見することにより、第三層の砂石は東北より西南に至ることを知り、井戸を掘る道しるべとなった。前年は井戸の20掘って当たるのは1あるか、という程度だったが、近頃は、8個掘った内5個当たるという」と、石油開発における地質学・測量の重要性と、地質学の応用による成功確率の高さについて、説いています。このあたりは後の圭介のポリシーになっているようで、後の報告書にも、地質的な見地から分析をする重要性を説いています。

それから「井戸の堀開き法」。ここから話が、ハウツーモノっぽくなっていきます。
「油井戸を掘るのと、我が国で井戸を掘るのと、主意は同様である。ただ、種々の器械を用いてその法が、巧みであるだけである」と、油井堀りという未知の概念に対して、水の井戸と同じですよと、敷居を低くしています。
蒸気器械の位置、馬力、櫓の建て方、器械部屋の建て方など、サイズと形状も細かに述べています。井戸に打ち込んで岩を砕くための錐の設置の仕方、筒の打ち込みかた、石屑の取り除き方、錐・錐の柄「ヂャー」・沈竿等・昇降捻、錐綱、吸竿、などの器具 (これは別に詳細に図示されている)の使用の仕方、ポンプの用途、などの紹介をしています。
これが、圭介、自分で触ってやってみたという体験談なのか、と思うほどに、詳しいです。
まず、櫓の立て方一つにしても、サイズ、割り材の配置の仕方など、図面にこそしてないですが丸太の長さ、板の厚さなど、これを見て作れるように書いています。櫓も「床の上に十六尺ばかり上がって、横貫の上に板を渡して屋根を作り、雨避けとし、また冬は四方に板を張って寒風を防ぐ」とか、痒いところに手が届く親切ぶり。
文句があるとしたら、インチと尺を混同して書かないでくれ、ぐらいなのですが。このころはまだ、度量衡も統一されていないから仕方がない。


このころの井戸堀は、鋼製のビット(錐)を、ワイヤーロープで交互に引き上げたり落としたりするのを繰り返し、井戸の底を鋭く打撃する動作を繰り返して掘り進む方式を用いていました。ドレーク井では、この動力に蒸気機関を用いていました。圭介が紹介しているのは、更にこの前に筒を打ち込んで、井戸の壁が崩壊するのを防いでいる方式だと思われます。

櫓を組み立てて、天秤を設置して、蒸気機関を設置した後。

「支度が整った後、水を釜に入れて、蒸気を発する用意をして、第一の作業は、銕(てつ)の外筒を大地に打ち込む仕掛けである。大地の嵒(いわ)の厚みは地勢によって同じではない、六尺から七十五尺にいたる。通例は二十尺から五十尺の間にあるものが多い。この銕筒は井戸を掘るときに定規となり、かつ、井戸の中に土砂が落入るのを防ぐ。通常、この筒は、銕で鋳造し、その径は六インチ〜八インチである。その厚みは1インチほど、長さ九尺或いは十尺とする」

と、後からこれを参照する人が自分で作ることを想定しているかのように、サイズにしても仕組みにしても、親切に書いています。

「綱を杵の上の鉤に繋ぎ、櫓の輪の上に渡し、男輪(打ち込み用の錐の軸にしたり、井戸内の器具を引き上げるプーリのことか) に引き下げてこれを蒔きつけて用意する。革帯で器械と帯輪を繋ぎ合わせ、綱で帯輪と男輪を繋ぎ合わせ、これに蒸気器械を連結する。一人が、男輪のの後に立ち、杵に繋いだ綱を取って、男輪の軸に巻きつけ両手で硬くこれを握り、杵を適宜高く揚げ、これを筒の上に落とし、これを幾度も反復して、筒を討ち入る、このようにして己に一本の筒を打ち込み、終わればその上に第二、第三の筒を置き、強い銕紐でその続き目を固め、以前のように打ちいれる。もしこのときに、厚い岩石などに当たって、筒を妨げるときは、心錐(鋼製の尖った錐)を入れ、筒の径三分の二の孔を穿ち、砂ポンプで石屑を揚げて。後筒を撃ちいれれば、岩の角が砕けて、筒内の空隙に落ちる。もしこの方法でも岩石を除く事が不可能であった場合は、器具と櫓を他所へ写して、新規に筒を打ち込むしかない」

…というような調子で、非常ーに細かいです。手元にある大学時代の石油工学の教科書より細かい。こっちを見るほうがしくみよくわかるぐらいで。

こんな感じで、油のある井戸の見分け方、ガスを用いた油があるかどうかの試験の仕方、噴出してくる油の汲み方、ポンプを用いた油の汲み方、種袋を使って水と油を分離する方法など、事細かに述べています。
油井からの出油量が減っていく事に触れ、この原因として、パラフィン障害という、パラフィン(重質の脂肪族炭化水素)の析出によって井戸が閉塞する現象、この対策としての蒸気注入法などをあげています。どうしてもダメだったら、地下でダイナマイトを爆発させるという豪快な手法についても紹介しています。これは、石油は砂岩の中の小さい隙間に捉われれているのですが、爆発させて岩に無数の亀裂を入れることにより、捉われた油を開放させる方法。これ着いてもニトログリセリンの調合、井戸への詰め方、成功例について述べています。ほんとに良く調べた、という感じです。

ただ興奮して書いているのではなく、事故も良く起きるので、熟練し他人もよく思慮をめぐらして、
「前年より掘り開いた井戸の中の岩石の質を記録して、砂ポンプで揚げた砂の見本を緻密に検査して、新規の事がある場合は逐一記録しておく事が重要である」
というように、安全も喚起しています。

油田より生じるガス(天然ガス)についても述べています。爆発の危険も述べながら、このガスを集めて、ストップコック、チェックウアルフ(チェックバルブ)を通して、逆流を防いで、その処理の方法を述べたりしてるのですが。
このガス、排煙も少ないし、ちゃんと集めてパイプの作り方を改良すれば、明りに用いれば、すんごい便利だろうなぁ、ということも述べています。当時は、パイプラインがないので油田で燃やすしかないのですが。

「山油のガスは、その光、明瞭にして閃動せず、石炭ガスの光に似ている。暗夜を照らし、冬は蒸気室を暖を暖めるにもこれを用いる。その費用としては、ただ管とその他の小道具を備えるだけである。夜中管の端でガスを燃やす時は、その光焔、天に映し、市街を照らし、数里を隔ててこれを望む事が可能である。夜に入り、オイルシティおよびその近傍の地よりこれを望むときは、天然無儘、燈の光、東西南北、相映して、白貴のごとし」

…圭介、油田のガスの光が綺麗だったのは分かった。よく分かったが。…趣旨がズレている。

そんな感じで、そこかしこに突っ込み所だらけ。もう、書いていくとキリがないです。
この後、山油の輸送方法に触れ、輸送量、コスト、各地方の油の産出量、輸出量など、数値として示しています。さらに、千五百尺、約450mの深さの井戸を掘った際の事業費を上げています。普通こういうプロジェクトコストは秘密にされるのに、よく調べあげた、という感じです。…この調子でキラキラさせた圭介に聞かれきたら、そこには企業秘密もなにもないような気がしますが。ちなみにこの例では、しめて、1万680ドル。10億円強といったところでしょうか。これより浅い井戸の場合は、鉄管や縄具などが短くすむので、4〜5000ドル程度でもできるだろうと注釈を入れています。

また、どうやって調べたのか日本への輸出量、輸出高なども、細かに調査して書いています。これは特に、日本の貿易赤字を懸念したものかと思われます。

……ここまでで、半分です。これ以降は、「山油精製法」ということで、後半部となります。この内容については、すでに、前述の「明治期における石油精製技術の発展」(「技術と文明」2003年7月)の論文に詳しく触れられているので、省きます。…というか、この調子で書き綴ったら、いつまでたっても終わらない。も、もちろん当の論文のほうは、こんな不真面目な語りではなく、きちんとした技術的バックグラウンドを持って、系統的に示されています。

あと、付属の図編。山油編部分は9枚ぐらいの図面集ですが。これがまた、几帳面で正確で、機構や仕組みをよく紹介しているわかりやすい図面なのです。職人芸。どうやってこの図を描いたのか。圭介自身がスケッチしたのか、他に参考文献があってそれを写したのか、それとも全くの他人が書いたのか、カーンズ君からもらったものなのか(しつこい)は、分からないのですが。
説明やタイトルの手書きの字。これは、筆跡が一定しておりまして、最初、誰の字か分からなかったのですが。「流落日記」で、圭介の楷書の書体を目にして、それと同じ筆跡だということに思い当たりました。少なくとも、字は圭介のものだという可能性が高いと思っております。

…で、もしこれが圭介の字だとしたら。綺麗なんですよ、丁寧で読みやすいんですよ。圭介の楷書。…そんなに読みやすい字をかけるんなら、普段の知人への手紙も、もっと気合入れて書いてくれ!と言いたい…。

それで図面なのですが。
「油井ヲ掘リ油ヲ引揚ル図」「湧井図」「『ポムプ』ヲ以テ油ヲ引揚ル図」などの全体図のほか、器具などの説明も。「油井ヲ掘ル二用フル緒器械ノ図」「油井ノ『ポムプ』に詰メ箱並二吸竿を附ケタル図」「昇降捻」「ヂヤー」「外筒」「況竿」「錐ノ柄」「沙を引揚ル『ポムプ』」「一番錐」「二番錐」などなど、形状の違いを細かに記しています。

これがまた、仕組みが分かるように描かれていて、これを参考にしてくれ、といわんばかりの、実用的な図なのです。

全体を通してみると、まだ日本語としてできていない語が多かったのでしょう、日本語表記するのも訳に苦労したのが窺えます。「昇降捻」とか。引っ掛け口があって、二本繋がっていて、ネジ状のところで回転させて、井戸内で上がり降りさせるものだと思うのですが。ポンプにつける筒も「螺旋を持って接合す」とか書いてあるので、ネジという単語がまだ行き渡ってないのが新鮮に思いました。

そんな感じで、分かった風にエラソーに書いてしまってますが、実際、分からないところは、恥ずかしながら、多々あったりします。ごめんなさい。単語自体が、大体で想像するしかないものも多かったり。あと、やっぱり現場で見てみないと、しっくりとは来ないところがありました。

というか、現場に私を連れて行ってくれ、説明してくれ、と。そう思わせるような文章です。後から掘削技術の本を見て、あぁ、と合点がいったもありましたが。とにかく圭介、見たまま、夢中になって、これを知らしめようと、書いている感じです。櫓にまとわりつきながら、長さを測ったり、機構を読み解いたり、ちょこまか動き回り聞き回っている圭介の姿が、目に浮かびます。カーンズ君も一生懸命教えてくれたことでしょう。これは、この分量、帰国するなりいきなり開拓使に提出するか?と思いましたが。…勇んで出すはずです。

書いている自分が一番楽しんでいるだろう!

そんなわけで、「山油編」。キラキラした圭介に、どうにも、当てられっぱなしでした。わかった。楽しいのはよくわかったから。そう紙面に向かって呆れたくなるような語り口調でした。本文は、9割は、素っ気無い、見たまま聞いたままの記述、或いは分析、或いは意見です。けれども、その行間と、ところどころに散りばめられた、圭介の高揚と楽しさが、見えぬ波動となって伝わってきて、しかたがなかったのでした。錯覚かもしれませんが。

ただ、やはり、何度か読み込まないと、頭の中に入ってきません。興味のないと、ただのよくわからん用語と、数字の羅列にすぎません。自分も最初一見したときはそうで、実は、二、三度、挫折してます。けれども、その気になって読んでみると、用語はちゃんと出てくるときに定義されているし、文章自体は平易を心掛けられているので、頭の中に仕組みが入っていると、夢中になって読めてしまいます。
そんな風に、興味のない人にはそれで終わり。けれど一度やる気のある人には、価値をちゃんと与えてくれる。それどころか一緒に、圭介が見聞きした生の姿と、そのと圭介自身の高揚を味合わせてくれる。圭介が隣にいるような気になってくる。それがなんとも、圭介っぽい、文章と図面でございました。

そんなわけで、いろんな意味で、この「山油編」は、圭介の代表作だと思います。

最後に、「山油編」はじめ、圭介の開拓使四部作。国会図書館サイトのデジタルライブラリで閲覧可能。自宅にいながらにして、圭介のナマ文ナマ字(多分)に浸ることができるのです。ブラボー、ネットワークソサイエティ。
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2005年03月24日

特許と大鳥

山油編で思いっきり、趣味に走ったので、なんだか毎日が充実しています。
で、次は、石炭編…といくと、いい加減くどいので、別のところへ。といってもやっぱり分野的にくどいですが。

「日本科学技術史大系」全25巻。幕末から1960年ごろまでの科学・技術・工学・理学・教育・政治などの分野にまたがり、歴史的に意義のある著述と解説が系統的に収録されています。それぞれの巻に収録されている目録と参考文献が圧巻。大系の名に相応しく、原典から科学史・技術史の流れを追えます。
工部省、開拓使、農商務省、工部大学校、東大などの設立から沿革までも相当詳しいです。資料としての利用価値は相当高いです。

これに、ちらほら、圭介の名前が出現します。「工業新報」「鉱業新報」の緒言や、札幌や東京府の都市計画への係わりが紹介されていたり。あと、珍しいところでは、「気象」のところで、圭介訳の「地球儀用法」が目次まで掲載されていたりします。

で、この「1巻通史」の「特許、度量衡、統計の諸制度」の章に、圭介の特許制度における意見が収録され、それに解説がついていました。「本邦諸芸術の秘伝は容易に他人に洩らすべからず説 大鳥圭介」。出典は明治17年9月20日の講演で、「万年会報告」所収です。

元々、専売特許は、明治4年に技術導入者に特許を与えるということで「専売略規則」が一度布告されたのですが、導入が早すぎたのか、この規則は1年を経ずして廃止されてしまいました。
この後、第1回の内国勧業博覧会で、臥雲辰到という方が、自らの発明品のガラ紡機を出展し、鳳紋を受賞しましたが、このおかげで、模造品がわんさと現れてしまいました。臥雲氏が競争に苦しみ、発明者が利益を得ることができなかった、という出来事がありました。

この後、専売特許条例は、明治18年の7月1日に施行されました。これが元老院に上梓された18年の3月に、圭介が、元老院の全部付託修正委員となり、内容を吟味して意見を出しています。

ちなみに、元老院は、左院に変わり、明治8年に設置された、立法機関。政治の一線を退いた人の閑職、のような説明がされていることがありますが。結構細かく、法制度について審議されていたようです。圭介、もともと、左院の議官だったのですよね。1日だけ。でも圭介は、立法側、法制度を作る側ではなく、自分で動かす側、行政側のほうに向いているような気がします。圭介が制度を作るとしたら、自分が利用したいから作るんでしょう。

で、圭介の意見ですが。まず、「専売特許と申す法則ありて、誰にても古来世間になき珍事を見出せば、その旨をその筋の役所へ申し立て、吟味の上、愈、世に利益あるに相違なきことなれば、十五年または二十年の間を限りて、自分ひとり専売の権を官許され、莫大の利潤を得、又、他人へ相談づくにて譲渡せば、それ相応の謝金を受くるを常例とす」
と、専売特許の一般的な概念について述べてます。圭介は元々、内国勧業博覧会の教訓からか、特許という概念自体には賛成だったようです。

「新発明新工夫は、多年勉強辛苦の報酬にて、大金を獲る元手なれば、中々容易に人に打ち明け物語るべきことにあらざる」
と、発明を、利益とする姿勢に対しても、肯定的です。これは、発明には投資が行われている、それを回収し、利益を得るのは必要なことだと、圭介、技術に対して夢を見ていません。現実的な目を持っています。

「一新事を行わんとする者ありて、之をその筋の学者に質問するか、或いは、試験を依頼するに、もしその事が自己一身の学問研究と申すものならば、その先生も別段謝礼を求めず、予て為し置きたる試験のことも申し聞かせて、敢て多分の謝礼をとらざれ度も、若しその事件が同人の一業にして、金儲の種となるわけならば、必ず相当の謝礼を申し受けるか、或いは、開業後の利益幾分を分配するという約定の取替えせなき上は、決してその試験をも引き受けずかねて工夫せしことも伝授することなきものなり」

と、学問上の研究と、利益を求めた商売とで、分けて取り扱う事を述べています。学術上の研究開発は利益を求めず、関連する技術知識も、提供されるべきこと。逆に利益目的であれば、それに関連した知識に対しては適当な報酬が支払われるべきである事、ということで。啓蒙・普及目的と、利益目的に分けて考えるというのは、教育と実業の現場両方を知っている側らしい意見。ちなみに、現在は学術目的でも特許は適用されていて、研究開発の重要なモチベーションになっていますが。申請するための諸費用や、維持するための更新費用が馬鹿にならなくて、儲けのない特許が、金の面から排除されるようになっています。

圭介自身、特許に値するような事をいくつもやっているわけですが、公の金を用いて、調査なり開発なりを行ったわけで、その成果はやはり全て、公に帰しています。圭介が、自分の調査開発を、自分自身の利益としたことは、彼の技術者人生を通してみても、一度も見られませんでした。そういう立場の人間にしては、圭介、民間に対する理解と現実感のある官僚だったのだと思います。渋沢栄一などの事業家や、西村などの政商との付き合いも深かったからもあると思いますが。校長職というと、象牙の塔の典型の人みたいな感じがしますが、ちゃんと地に足がついている人です。

さらに、解説では、圭介は、伝統に支えられた勘と熟練の技は、保護すべきだという考えを持っていたと述べられていました。技術内容の公開が、産業を滅亡に導いてしまうような口伝、つまり、その伝統技術独特のノウハウの部分は、秘匿すべきだということです。これは、漆器の塗装法のように、外人が知りたがるものに対し、技術の流出に歯止めをかけるのは、日本が外国に対して、独自性を保ち、産業としての優位性を持つために必要だ、という観点からです。

圭介は、技術を、このような長い年月の中で徐々に工夫改良を重ねられてきた伝統技術と、偶発的な何かの拍子に思いついたような発明の、二つに分けて、特に前者の保護を重視したようです。

圭介は、西洋の技術導入と開発の最前線にい続けたわけですが、この辺りに見られるように、彼は、日本が独自に持つ実の部分はちゃんと重視し、根拠の薄い舶来嗜好とは一線を隔して、日本文化の良いものは残そうとした姿勢が窺えます。基本的に圭介、和魂を失ったことはないんですよな。

さて、面白いのは、圭介釈放後の洋行中、宇都宮三郎との、英国・米国滞在中のエピソード。
「先年、小生が、英国並びに米国滞在中、宇都宮三郎子と相伴い、英国蘇国の、都鄙緒工場を巡覧し、毎日、三、四、五箇所を回り、一ヶ月半の間に、百数十所を経歴し、大抵の諸国上は見尽くしたり」

…あんたら、どういう体力しているんですか。1日3〜5箇所、一ヵ月半で100数十箇所の工場を、都会田舎問わず、片っ端から見尽くした。ただのんべんだらりと見て回ったわけではなくて、いちいち仕組みを理解してメモを取って、結果を纏めて、必要とあれば報告して…という作業も着いて回ったでしょう。圭介と三郎。お互いに、あれも見たい、これも見たいと、エスカレートしあってた感じです。結果、しらみつぶし。このときに見聞きした知識が、工作局時代に生かされるわけなのでしょうけれども。…このあたりの徹底的さ。

余談ながら、圭介、釈放された事は、三郎と同じ英国にいた林董も知らなかったぐらいだから、三郎も、異郷で会ってみてびっくり、という感じだったでしょう。箱館政府ができたとき、三郎、病の身をおして、京都まで駕籠で駆けつけて、自分を箱館にやって開拓に当たらせてくれと太政官に直訴したぐらいだから、その再会の喜びはひとしおだったはず。でも三郎のことだから、顔は無表情で、「なんだ、生きていたのか」とかボソボソ言って終わってたような気もします。三郎、宇宙人みたいな風情でいますが、本当は熱い血が流れているんですよ。

さて、圭介によると。このとき工場に、秘伝があったりなかったりで、10中7,8は何らかのノウハウがあったといいます。通常、この秘伝というのは、話をするにしても一室に閉じこもって、部屋の入口には鍵をかけて、親友といえども決して見せないというものなのですが。「吾輩が巡回せしときは、大抵残らず其縦覧を許せしのみならず、其秘術手順のあらかたも、説明しくれたり」と。なんでも見せてくれただけではなく、手順まで細かく説明してくれたそうです。この二人が帰国ご、工部小工作局でがっぷり組んで、現場指導に入るわけです。

圭介はこのとき、外国人は誠に公明無私で、志ある人には秘密になどしないのだと感動してたようです。ところがそうではなく、遙か東の国の人間にどうせ何を見せたところで何も分かるまいよ、もし分かったとして製造されたとしても、本国の商業に差支えがあるものとは到底思えないと、見くびられてたいただけであったと、後から気がついたとのこと。

その6年後、宇都宮が今度は一人で欧州の工場を見て回った時。駐在公使の紹介で赴いたにもかかわらず、今度は以前とは打って変わって、何くれと都合悪いと言われたそっけないもので、大した説明も受けることができなかった、とのこと。

これは、6年の間に、日本が西洋に習って、石鹸やらマッチやらを作り、革加工を行い、製油業を行い、種々の産業を始めたことが、新聞で外国にまで伝わっていていた。それで、日本人は真似事が上手な国民だから、もはや簡単に秘術をみせるわけにはいかんと考えたものだろうと、圭介、述べてます。

その石鹸やらマッチやらを紹介したり、製作所で製油の技術導入をしていたのは圭介なので、ちょっと手前味噌なことを言っている観はありますが。…断られるぐらいまで、自分の国が成長したというのが嬉しかったみたい。

ただ、その6年前と後の違いは、日本の状況が違ってきたせいだけというわけでもない気もしますが。役立ち技術と見ると箍が外れたようにキラキラして人に懐いてくる圭介みたいなのがいればともかく、一見何を考えているのか分からない奇人然とした三郎一人だと、おのずと、工場の受け入れ側の対応も異なってくるような気もします。三郎、研究者としてはこれほど適した人間はいないと思いますが、技術移転の受け側としては、三郎、ちょっと向いてない気が…。

ともかく、これを受けて、圭介は、日本国内においても、外国人の見学者などに対しては、親切に案内して、工事の手順も詳細に教えるべきことであるが、秘伝中の秘伝に関しては、よほど良く隠して、伝授する事は無いように気をつけるようにすべきだ、という、やはり至極まともな結論で、意見を閉じています。


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Re: 特許と圭介 入潮 - 03/24(木) 12:51 PC No.809 [削除]

う、また字数制限超えた…

で。特許法のその後なのですが、特許局が明治21年に調査を行ったところ、特許により利益を確保した者は少なく、あまり役に立たないものしか出願されていなかったようです。また、あまり特許法じたいが信用されず、秘密主義で研究を行っていたところも多かったという、結構ツライ評価が行われていました。

こ、これは特に、圭介のせいだ、というわけではないと思うのですが。圭介は意見を言っただけだし…と。しなくてもいいところで弁護せねばならないような気になってしまうのが、また、ツライところです。

なお、当時の特許法は、むしろ、外国との不平等条約改正に関して、特許・意匠登録などの工場所有権など与えることををエサして、改正のカードとするような道具に使われた役どころがあったようです。

一応解説では「(大鳥の意見は)技術の公開と、それに対する代償としての特許制度という高橋是清などの意見と正反対であるが、高橋の意見が特許制度についてややもすれば法の精神的な面を強調して殖産政策と結びついた理想論に流れたのに対し、大鳥の意見は現実的である」と、ポジティブに評価をしてくださっていました。

特許というのは、産業発展がまだ浅く、技術が輸入超過にある時代は、保護されない傾向にあります。途上国の海賊版の隆盛具合はすさまじいものがあります。発明者やノウハウそのものの保護より、まず、製品を安く流通させることに重きが置かれます。けれども、国内産業が育ち、技術レベルが上がってくると、いきなり、この特許が重要視されるようになってくる。WTOに中国が加盟したときはどうなるかと思いましたが、未だあまり海賊版の現状は変わっていませんよな。HONGDAとか、SONNYとか。取り締まりきれていないのか、わざと放置しているのか…。

その中で、技術を公開流布させることが、殖産興業の政策には先ず必要だった時代背景があり。そのために、発明品を保護することによって発明者の利益を守る、という必要性が、法的な根拠となってきますが。それだけではなく、技術的に真に価値のあるところを保護するべきだ、すなわち、ノウハウを保護するべきだという圭介のアイデアは、当時世界的に見ても斬新だったようです。本当の価値は、品物にではなく、技術そのものにある。これは、常に現場にあり続けた人間ならではの、技術の発展、時代の変遷の中で本当に必要な者を見極めた、現実的な意見だったといえるのではないかと思います。

てことで、技術官僚としての圭介の有能さが大変嬉しいエピソードでありました。やっぱりオチもあるのが圭介ですが。
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2005年03月26日

加越の鉄道計画と圭介


8月22日の雑記で言及しておりました「加越地方巡歴復命書並意見書」。ありかをご教授くださったしのさんのお陰で、手に入れることができました。
「工部省記録鉄道部」23巻に収録されています。これは、明治3年閏10月に工部省が創設されてからの太政官と受発信した公文書の集成。鉄道寮・鉄道局のものを収録しています。(出版されているのは鉄道部のみの模様。工学寮や工作局はないのか…)

明治5年5月に品川-横浜間の鉄道が開業して以来、日本の各地で鉄道敷設の計画が立ち上がりました。鉄道インフラには莫大な資金がかかりますが、お上は貧乏です。西南戦争で膨大な出費をしてしまって、すさまじいインフレ。政府は緊縮財政を余儀なくされ、大きな事業になかなか財布の紐を解かない。そこで、あるところに金を出させようという発想は、今もむかしも同じ。当時金を持っていたのは、明治9年に秩禄処分(俸禄の買い上げ、つまり、武士のリストラ)で多額の公債(=退職金)を手にした元大名などの華族。債券(金)は手にしたものの、それは一時的なもので使ったらおしまい。彼らもそれを元手にして運用しなければならない。そこで、彼ら元大名の投資が、利益の見通せる事業に呼び込まれました。鉄道はその花形。

明治14年、加賀地方の華族、前田利嗣、松平慶永ら14名が発起人・株主となり、「東北鉄道会社」が設立されました。東京知事の松田道之より、「運輸を開き殖産を謀るは目今の急務にして、また、その工事は未曾有の大事業に候えば、特殊のご詮議を以って請願の要旨お許し相成候よういたしたく」と、その設立と事業の保護願いが、農商務卿の河野敏鎌と工部卿の山尾宛に提出されています。…なんで東京府知事の松田が、北陸の鉄道会社の保護願いをしているのかは分かりませんが。その当たりは士族華族のコネ社会。

これが認められ、鉄道会社設立となり、その規則が工部省との協議されました。その過程で、明治15年5月19日、「加越地方巡視鉄道建設適否検査の命を蒙り」と、圭介に、鉄道建設のフィージビリティスタディ(事業化できるかの妥当性を検討する調査)を行うよう、工部省から命が下ります。この調査の報告書および意見書が、「加越地方巡歴復命書並二意見書」です。山尾の後任の工部卿、佐々木高行に提出しています。

なぜ工作局長の圭介に命が下ったのかは謎なのですが。工部大学校は順調、工作局の払い下げも進み、余暇で行っていた堰提築法新按の訳も終わって、圭介、暇になったのだろうか。

ここから、地名が頻出しますので、できれば、滋賀〜北陸地方の地図をご用意いただけると、分かりやすいかと思います。

まず、序文として、その行程を述べています。

圭介の行程は、5月24日東京発、28日に近江の塩津着。29日に敦賀に至って、ここから調査開始です。
それから、明治13年に開かれた、長さ120mほどの柳瀬トンネルを視察しています。これは、鉄道の区間が山がちで、途中にトンネルを掘削する必要が生じることが予想されるので、そのためのものだと思われます。
そして、山河の地形を調べ、鉄道敷設の難易度を推測し、敦賀から金崎丸という鉄道局の船で港湾を調査しています。その後、越前加賀、能登、越中地方などを見て回り、6月17日に越後の国境へ来て、親不知子不知の山を越えて高田へ。そして、6月22日に東京に戻っています。約1ヶ月の調査行。一部鉄道を使っていますが、本当に良く歩いています、この人。

で、「歴游の日数、甚だ短蹙にして、点検素より精細を能わず。いわんや、圭介のごとき陋学浅識、悪ぞよく将来の得失を洞察するを得む」 …日数が少なくその調査を詳細にすることはできなかった。ましてや圭介のごとき「陋学浅識」の輩が、どうして良い洞察をすることができようか、などと。また、「ただ鄙見齟齬多く、誤謬の罪を獲むを恐るるのみ。しかれども、閣下、もし采擢する所あり、あるいは、該事参考の一助と為さば、望外の大幸なり」なんて、また、めっちゃ、謙虚なこと言ってます、この人。

圭介、ものすごい謙遜をしています。鉄道は門外漢だという意識からでしょうか。でも、この後読むと、中身、この時期の事業化調査にしては、かなーり詳細に書いてます。この意見書を取り上げた井上勝も、圭介の意見をほぼ全採用しています。基本的に圭介、幌内炭鉱や、明治9年の石油の予備調査を見ても、この類の開発調査、かなり得意で、楽しんでやっていると思います。

で、本文。

越前敦賀は、北陸一の良港で、船の停泊も甚だ多く、東西の物産が行きかう。特に北海道の物資がこの港に入ってきて、近州をへて京阪地方に輸送されるものが少なくない。東西の鉄道を延ばしてこの地に到達させるのは、特に意味のあることである。敦賀港は三面山高く、湾内の水深は深く、良港であると、まずは圭介、事業の位置づけを述べています。琵琶湖〜敦賀の法は既に明治2年から計画されており、これが、「人生の便益を謀るものというべし」であり、この鉄道が完成しようとしている当時「これ、加越国民のこれに感動して其の地方にもまた一線を布き、以って交通の利を求む」と、加賀・越州の動機を述べています。国の計画ではなく、民間から立ち上がった、ということに重点をおいているわけです。インフラの必要性は言うまでもないのですが、計画自体に対して、圭介は自分なりに必要性に納得して、調査に当たっています。

鉄道敷設計画は、以下の通りのルートです。圭介はこのルートを追って調査し、技術的に困難なところを色々代替案を出したりして、検討しています。

本線:
敦賀―(木の芽峠―板取―今庄)―武生―福井―坂井港―大聖寺・加賀―小松―金沢(能登半島入り口)―津幡―高岡―伏木港―富山

支線(能登半島部):
金沢―七尾

敦賀から福井に到るためには、どうしても一度内陸に入らねばならず、ここで一度山越えするルートとなります。あと、能登半島の下側を入る以外は、全体的に、日本海沿いとなります。
敦賀から富山まで60里、240kmほどの距離となります。但し高岡から富山までは、重要なルートではありますが、河川の船便があるので、省いていいだろう、としています。

圭介は、ルートのそれぞれの区間に分けて、技術的に検討を重ねています。この計画で一番問題になるのは、以下の二つ。

1) 木の芽峠の山脈越え
2) 越中地方の河川

1) についての問題について、圭介は相当の検討を重ねています。これは、敦賀と武生の間に横たわる山越えで、圭介の測定で標高600mの峠を越えねばなりません。当時の汽車は馬力が限られているので、急勾配を取る事ができず、坂や山はできるだけ避けなければなりませんでした。
ちなみに、圭介、晴雨計の針を読む事で、標高を測定しています。よって、「詳細なるあたわず、しかれどもその概略を知る一助となるべし」と、わざわざ注釈しています。律儀。なお、木の芽峠は約620m。いい数字出しています、圭介。

このルートは厳しくて、道路も通じていません。
現在、この木の芽峠を越える鉄道がどうなっているのかと思ったら、約28kmを、ズドンとトンネルで貫いていました。北陸トンネル。すげえや。

柳瀬トンネルはこの地方に作られたわけで、これを鉄道計画の参照としています。
板取→椿坂を経るルート、海側に出て新道から迂回するルートなどを検討しているわけですが。

細かくは、敦賀→葉原村→新保村→木の芽峠→板取、というルートになりますが、この菜原村と新保村が1300mぐらいしか離れていないのに、標高差が400尺、130mほどあり、勾配が10%近くとなってしまう。これは当時の鉄道には、相当困難な急坂。ここから木の芽峠までは更に勾配がきつくなり、山が厚くて、トンネルも通せない。圭介は、南の方から渓谷に沿って峻嶺に登り、地形を見渡しています。

ここで圭介、測量師の話を聞き、ここに板取から新保までの途中にある桜谷というところから、新保までトンネルを通すと、1km 近くになるということ。当時の技術から言うと相当難しい距離です。
ちなみに、この測量師は、渓谷や嶺を歩き回っただけで、ちゃんとした測量を行ったわけではないから、この距離も正確なものではない、と注釈してます。…だから、細かいってば。
圭介、正確さや自分に自信のあることとそうでないこと、自分の考えとそうでない一般認識を、ちゃんと分けているわたりが、偉いというか、技術者的だと思います。

更に、トンネルの外の道も、谷間が狭くて、線路を曲がりくねらせて作る必要があり、これがまた簡単ではない。最大の患いは、トンネルと菜原村を繋ぐルートで、この道が急すぎて、鉄道が降りられない。
西側の別ルートを検討してもこちらも非常に険阻で、工費が莫大になる。「故に、この線路は殆ど望みなし」と圭介、容赦がありません。

圭介、さらに別ルートを検討しようと、このあたりの峻険な峠を、測量師を連れて何度も上り下りしています。「敦賀湾は西に当たり、一目の下に在りて、光景書の如し」なんて景色に感動している場合ではないですよ。
更に別ルート、海岸側を川野村に出て、四郎から真東へ、武生に入る道も考えてますが、これも、やはり固い地質の山脈があって、掘削が容易ではないから難しいだろうと述べつつ。「圭介、いまだその地を践まざれば、利害を述ぶる難しといえど、その海岸に近き故に、他の二道に比すれば、冬日積雪の妨げ少なく、里程も短き一利あり」と推測しています。どうでも良いですが、こういう報告書で、みんな、一人称が自分の名前なんですな。井上勝もそうですが。なんだか、一瞬ほのぼのしてしまいます。「愚按にては、この一線、他に比すれば、大に期望すべきものの如し、ゆえに、測量師諸子に頼り、その測量を嘱したれば、他日の報告を待て、直論ずるところあるべし」と、このルートをもっと検討する事に、望みを託しています。

さて、ここから先は、殆ど平地ですので、勾配やトンネルなどの問題は出てきません。ただ、海の近くということは河口部ということで、幅の広い大きな川に、どうやって線路を渡すべきか、橋のかけ方が問題になってきます。例えば福井の九頭竜川。川幅約200m。川幅は大きいけれども、堤の高さが高いので、費用は掛かるが、技術的には架橋の問題は無いだろうとしています。このあたり、橋梁工事の技術も、妥当性を判断できる当たり、圭介の知識の広さをうかがわせます。築城典刊などの幕臣時代の土木関係書や、堰提築法新按の翻訳の賜物でしょうか。圭介、自分の知識を、教科書知識に留めず、常にちゃんと実地に使っているところが、机上の研究者ではなく、実地の技術者なのです。

で、この福井の坂井港。ここで内務省土木局が、昨年から波除の突堤建設の工事をしていることに言及しています。工費十七万円。その効果がまだ出ていないうちに、冬季に波濤のために大分破損してしまったとのこと。圭介が巡歴中に修理していたのですが、この修理が終わると大分堅牢になって波を減衰させるだろう。ただ、流水の方向を考えると、堆積がその内側に起こって、砂州ができて域、次第に航路が狭くなってしまうのではないかと懸念しています。こういう内務省の事業の欠点を工部省の報告書で言っても良いのか、と思ってしまいますが。圭介、そんな微妙な政治配慮をするような人ではないです。ていうか、分かっていてわざとやっているような気もします。

で、この坂井港について。さっきの敦賀とは、海路で結ぶと30里弱、120km程度。なので、ここに車両搭載可能な汽船を入れて二つの港を繋げて、鉄道を連結すれば、、鉄道で、敦賀―福井間を無理して山越えする必要はなくなる、と述べています。ただし、冬季の天候が悪く、波が荒いので、その間は運航停止になることが「遺憾の至りなり」としています。

こういうように、駄目なことを、ダメだとすぐに結論付けなくて、いろんなオルターナティブを提案しているところが、えらいです。てか、技術者としては、問題があって、別の可能性を検討するところに、やりがいを見出すんですよな。で、いい案なのだけれどもそれぞれ欠点がある、それを克服できないのがどうにも悔しそう。

…あぁ、やっぱり長くなった。一端切ります。眠い…。
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2005年03月31日

開拓使お雇い外国人

うーおぉぉ、眠い…。そろそろ電池切れです。4日連続で3時間睡眠だと、だいぶきつい。
せっかくネットアクセスできるところに居るのだから、今のうちに更新しとかねば…とか思いつつ。
なかなか思うようにいきません。何でこんなに書きたいことがあるんだろう。

新規掲示板ですが、細く薄く多く、簡単に…と思っていたのですが、当初の目論みが挫折しております。やっぱり自分に簡潔に纏めるという能力は徹底的に欠けているということを自覚するだけでした。こんなのじゃ適塾にいれてもらえない。いや、物理的にだけ入れますけど。

あと、できるだけ史実ベースから派生したものを…とか思ってましたが、そちらもやっぱり破綻しております。黒田が絡むと理性がなくなります。困ったものです。
でも一応、モンロー君の聞いたビッグバード将軍の噂は、時期は違ったりしますけれども、多少は、事実に基づいています。ほ、本当ですってば。お願い、信じて。

開拓使をはじめると、どうしても冗長になります。開拓使お雇い外国人ズ。あんたら、面白すぎ。喧嘩に明け暮れて、開発の青写真を散乱させて、台風のごとく去っていった、という感じで。
工部大学校の行儀の良い人たちと同じ職種だとは思えない。何が違うのだろう。国か、 役所の体質か、 役所のトップか、単にメンバーの組み合わせか…。
以下、偏見交じりの人物紹介。井黒氏の影響多し。大本は「北海道を開拓したアメリカ人」

● ケプロン
開拓使お雇い外国人の親玉。開拓使顧問であり、開発計画の全体を統括した。マサチューセッツ出身。札幌大通り公園に黒田とランデブーで立っている。
もと、紡績工場の監督責任者、農場経営に乗り出すも恐慌で失業、インディアン担当の連邦官吏を経て、アメリカ農務省の局長に。波乱の前半生。黒田の渡米、グラント大統領との謁見時、その場で開拓使の顧問として紹介され、電光石火で赴任が決まった。
黒田の助言者、というか、保護者。黒田の純真さを見抜いていて、よってたって黒田をたぶらかそうとする悪者たちから、彼をしっかり守らねばと思い込んでいたとしか思えない言動。
とにかく仲間や配下との人間関係に恵まれなかった。選りすぐってきたはずの部下たちには悉く離反されている。
さらに、開発の資本の導入方法をめぐって、榎本(黒田をたぶらかす悪者の一人)と激しく対立。会談で徹底的に榎本排除を行った。
また、予算が知らされない事、どんぶり勘定、効率の悪さを批判。開拓使の多すぎる役人を「ペスト」と呼んだ。
年俸1万ドルを貰いながら、北海道開拓の父とか、近代化の力とか、色々修辞をもらっているわりに、仕事時間の半分以上、人間関係の諍いに費やしていたような感じ。
帰国後、西南戦争で黒田のために大量の武器弾薬を調達したり、開拓使開発の缶詰の販売に手を貸したりし、黒田との親密な付き合いは続いた。晩年は「この上なく勤勉で倹約家で向上心があり精密な技術をもつ」日本を大きく評価して語っていた。


● アンチセル
地質・鉱山担当。ケプロンと共に来日。学歴はケプロンよりはるかに良く、ケプロンから独立したがっていた。北海道の気候認識について、ケプロンと対立。豊かで爽やかで農業に全く支障はないとしたケプロンに対し、彼は、札幌は亜寒帯と見なして、飢餓に見舞われる危険があるとした。底からケプロン屯関係が急激に悪化。その後、年俸の4000ドルから8000ドルへの増額を要求し受け入れられなければ帰国すると言い出した。ケプロン激怒。
榎本と鉱山開発でチームを組むも、三者会談でケプロンに排除されてしまい、開拓使仮学校の教頭として閑職に追いやられた。
開拓使を離れた後は、大蔵少紙幣寮に2年間雇用され、紙幣の印刷に用いるインクを開発した。

● エルドリッジ
フィラデルフィア出身。ジョージタウン大学で解剖学の講師だった。秘書・外科医として来日。開拓使との契約書で、「開拓使が望む場合はエルドリッジが医学校を担当する」という文を、「エルドリッジが望む場合は彼が医学校を担当する」と自分で変更したことを、ケプロンに咎められたことから、ケプロンを逆恨みして、彼の陰口を叩いた。これにケプロンが過剰に反応し激怒。
函館医学校の教師として、多くの医師を育てる。絵が得意であったため、医学の講義に使用する図などは画家の手をわずらわすことなく自分で描いていた。後、横浜に移り住み、診療所を開いて、医療の発展に貢献。

● ウォーフィールド
測量技師。ケプロンと共に来日。道路工事の監督の見事さでケプロンを感動させた。しかし、酒乱で、北海道で調査中、犬の遠吠えがうるさいのを理由に発砲、六匹のアイヌの狩猟犬を殺してしまった。また、その後も泥酔して暴れ、宿屋の器具を壊し、止めに入った開拓使役人をナイフで怪我させる事件を起こした。開拓使からクビになってしまう。

以上の方々が第1陣。来日してから1年たたずに、チームの結束が瓦解している感じでした…

ご存じライマンや、モンロー君、ダンやワッソン、ロックウェル、ホイーラーにクラーク先生など、第2陣以降の方々に関しては、またの機会に。烈しいのは、ライマンぐらいですが、モンロー君も侮れません。
ラベル:黒田清隆 開拓使
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