2005年04月01日

本日開拓使お雇い外国人 その2

本日より、「大鳥圭介と伝習隊」は、「黒田清隆と開拓使」に生まれ変わります。今後とも末永くご愛顧賜ります事お願い申上げます…
あたりを、流行のエイプリルフールのトップページ文句に書こうかとチラっと思いましたが、嘘のままで終わらせる自信がないので、やめときます。
そんな感じで、開拓使お雇い外国人第2弾。

● ライマン
鉱山地質技師。大分語っているので略。…とすると楽だけれどもやっぱり語る。うちでは、圭介をマイ・ディア・ジェネラルと呼んで追っかけまわした人扱いしかしていなくて、大変申し訳ございません。

エンジニアとしては非常に優秀で、明治期の資源開発、地質調査、測量の人材育成に大変大きな功のあったかた。後の三池・三井・幌内などの炭鉱開発、琵琶湖疎水などの大型インフラ事業には、彼に育てられた日本人技師たちが活躍した。
この時代には珍しい無神論主義、合理主義者で菜食主義者。日本語を学び日本語で講義を行うまで上達していた。
大変正義感が強い。強すぎるのが問題。起こした数知れないトラブルは、400通を超える手紙文書として残っている。
開拓使も人材不足なのに、12人の地質調査助手を、自分の専属にしろと我侭を言い、彼らに別の役人から仕事の指示が下りるのを嫌い、極端に自分の指揮権に拘った。製図のために専門の事務所を宛がわせては、豚小屋のようだと怒った。開拓使仮学校の女生徒を見初め、結婚したいと言い出しては校則を変えろと主張した。予算や制度などにも遠慮なく口を出した。倫理的には正しいのかもしれないが、内政干渉を内政干渉だと思わず、正義を押し付けているところが問題。公私混同も激しい。後半半分はひたすら開拓使役人と喧嘩し、収まりがつかなくて出てきた黒田とも遣り合っていた。最初は共同戦線を張って協調していたケプロンとも、後に反目。執拗なほど、官業の排除と民間の導入に拘った。その当たりも開拓使の方針と合わなかった。

反面、技術者コミュニティでは非常に良い関係を持っていた。大鳥は言わずもがな、荒井を朋友と呼び、弟子たちを非常にチャーミングだと可愛がっていた。ただ荒井には「ライマン氏は不平が多く、大変閉口した」などとこっそり言われている。

技術者としての評価は別れ、彼のアウトプットはその後の開発に何の役にも立たず、報告書や地質図の区分はは幼稚だったという酷評もあれば、短い時間で慧眼をもって纏め上げたと活躍を評価されもしている。概ね、地質学の学会関係には評判がよく、北海道史など現実に開発に当たった側の視点からは評価が低い。つまり、学術的な評価は高いが、実地の現実のニーズに必ずしもそぐったものではなかった。いずれにせよ人材育成には功績が大きかったのは確か。なんだかんだ言いながらライマンの我侭を聞き続けたた開拓使の受け入れ体制も評価してあげても良いと思う。
今も、途上国の開発現場に、たまに、こういう人を、見かけたりするけれども、正直、こんな開発コンサルが入ってきたら、問答無用で相手政府から締め出されると思う。
開拓使と喧嘩別れした後は、内務省、後、工部省に移り、彼の技術に惚れこんでいた大鳥の下で、油田開発調査に当たった。後年は日本について50本近い論考を発表。
いろんな意味で大変見所のある人。

● モンロー
どうしても君付けで呼んでしまう。若干22歳で、アンセチルの助手として来日し、仮学校の講師として勤めた
アンセチルとケプロンとの対立が激しくなり、ライマンが鉱山担当として赴任し、ライマンの旗色がよくなるや否や、ライマンの助手に収まった。榎本の事は相当評価し、「ことのほか感じの良い人物」と述べているが、経済、資本については「あまりにも常軌を逸した考えを持っている、実現したら大変なことになる」と思った。
現地調査は、開拓使の計らいで助手、召使、人夫を引きつれ、ベッドと豪華な食事、未開地では滅多にできない贅沢な生活を楽しんだ。その後、ライマンのゴーイングマイウェイに不満たらたら、彼を「強情な老婆のように自分の意見を固執し、性急な性格、恣意的に権力を行使する」とした。また、ライマンのほうも、彼を「イニシアティブを取るのが好きな性格で生意気、極端なまでに利己的」と見なしていた。ライマンが山内徳之助ら日本人助手と自分を同格扱いしたのに大層プライドを傷つけられた。ライマンが彼と二手に分かれて、現地調査を行おうと言ったとき、「ライマン最大の親切だ」といって喜んだ。そんな上司と部下関係。

その後開拓使を離れ、開成学校で、地質学・冶金学の教師となった。教授の肩書きと権限を手に居いれ、自分の利益と勉学のために、学校の予算で鉱物・化石・標本など大量に注文した。帰国後はすっかり日本を忘れて、コロンビア大学の教授の道を歩んだ。日本のために働いたのではなく、日本を自分のキャリアの踏み台と見なして終わったといわれても、文句はいえない。
でも、この人の生き方が一番賢く、アメリカのためにはなったのではないかと思う。


● エドウィン・ダン
南部ヴァージニア出身。大学中退後、牧畜業をはじめた。ケプロンの息子が日本に送る家畜を買いに来たのがきっかけで、興味半分で日本に。
東京の開拓使官園で農業・畜産に携わる。泥や穀物にまみれて天皇陛下の前に出たあたりが好感度大。
開拓史の計画の成功を個人的にも願うようになり、北海道の農業・畜産・酪農の推進に専念。牧畜に機械を導入する利点を知れ渡らせた。新冠のサラブレッドの馬が重傷だと聞いた時、20時間をかけて暴風雨の中馬を走らせ駆けつけたというエピソードを持つ。新冠の牧畜に検診し、政府の資金援助が極めて重要と強調して、開拓民を助けた。
開拓使役人の娘、増子つるを見初め、結婚。「この地球上で日本の女性ほど利他的で自己犠牲的な愛らしいものはない」と日本女性を称えた。北海道に住み着き、ケプロンやライマン、モンローの知らない、北海道の厳しい冬も、幾度も経験した。生活は質素で、年俸は3000ドルほどだったが、北海道を調査するにも、ライマンやモンローと違い、アイヌ人一人を同行させるだけの身軽で簡素な旅だった。

そんな温厚篤実な彼も、ケプロンに対しては「少しも寛容の徳を備えない人物」と、酷評。北海道の冬の厳しさを知らず、北海道の豊かさを称え、役に立たない機材の購入を続けるケプロンを「無能」「尊大」とみなしていた。また、クラークの札幌農学校の方針にも批判的だった。ダンは、農閑期の冬季だけ机にむかう小規模で現実的な農業専門学校で十分と考えていた。予算不足を嘆き開拓民の窮状を訴える中、巨大な資金に支えられた高等教育機関の札幌農学校が誕生。思うところは大きかった。

その後、9年にわたり北海道の牧畜・酪農に身をささげる。帰国してから外交官として日本に赴任、さらにインターナショナル石油の工場支配人となり、大鳥・ライマンが調査した新潟の油田の開発を推進した。また、長崎の三菱造船所(元工作局)に迎えられて、港湾の沈没船引き上げ事業の指導を行った。その後、日本に骨をうずめた。
お雇い外国人の中では地位も給料も低かった彼だが、最も日本になじんで、日本の為になった人ではないだろうか。自分が当時の納税者だったら、この人にだったら金を払ってもいい。

● ウィリアム・スミス・クラーク
"Boys, be ambitious"の言葉で有名。正直、この人が何でここまでメジャーになっているのかわからない。聖書を用いた教育を行い、内村鑑三、新渡戸稲造といった、後に有名になる文学者をキリスト経に導いたので、キリスト教徒の過大評価の声が大きかっただけなんじゃないかと思う。例の言葉は、クラークの創作ではなく、当時、出身地のニューイングランド地方でよく使われた言い回しだったという説もあるそうな。教育と啓蒙分野では評価が高いが、現場の苦労をほとんど知らずに終わっている。とても幸せな人。

マサチューセッツのアマースト大学出身。南北戦争に参加。マサチューセッツ農科大学の学長で、森有礼の書生を受け入れたのがきっかけ。駐米公使吉田清成から札幌に設立される農学校の教頭になる兼ね合いがあった。黒田と意気投合。黒田を「貧しい家に生まれ育ち、義勇兵としての訓練しか受けていなかったにもかかわらず、日本で最も有能な政治家・将軍の一人」と評価していた。農学校教頭で、任期はたった八ヶ月。しかも、マサチューセッツ農科大学の休暇中という扱いだった。このときの校長は、調所広丈。
日本が大層気に入り、帰国後も日本についてきわめて好意的な公演を行った。が「半年ぐらいなら思い出も美しいままでいられていいよな」と、開拓使の官僚主義に悩まされた同僚のお雇い外国人にいわれている。どうも、彼自身が偉大だったというより、彼の世話を受けた一部の人間の語りがよかっただけ、という気がする…。ファンの方、ごめんなさい。
その後、学長位についたマサチューセッツ農科大学は放漫財政として批判された。鉱山経営をして一旗当てるも破産、出資者と争いながら、晩年は美しい日本の思い出を胸に失意の内に暮らす。


というわけで、お雇い外国人ズ。

別に問題ばかり起こしているというわけではなく。というか、問題を起こした人が有名になっているだけだと思うのですが。
…これに大金をつぎ込んでいた日本政府が可哀想になってきた。いや、それだけの成果も確かにあるのですが。それでも、黒田が導入を夢見たアメリカのお雇い外国人たちによるフロンティア・スピリッツによる開拓というのは、成功したとは言い切れないという評価がある。それは、開拓使経営費総額が、同じ時期の内務省・工部省の総額に匹敵するほど巨額であったにもかかわらず、開拓史が廃止されたとき、北海道の大部分は依然として未開、戸数は1869年から1881年の12年で四倍弱に増えたに留まった、という現実による。実際、開拓の主力は、失業士族による屯田兵によるものとなった。彼らは細かく統制されており、これらはアメリカ式開拓とは程遠いものだった、とのこと。
その中で評価できるのは、やはり、鉱山開発、酪農、牧畜、道路、測量などに掛かる、技術導入。開拓使で育てられた人材が、各省庁に輩出され、夫々の開発計画を担った。

何が効果の障害になったかというと、連中の内輪もめも大きいでしょうが。やはり、受け入れ体制の行き届かなさかと。異文化コミュニケーションという一昔前の流行語をあげるまでもなく、言葉と宗教が違えば、そもそも、意思疎通なんぞできんもんです。外国のコンサルタントを、金を出しただけ、最大限に活用して、彼らの知識を吸い出すためには、まず、自分のところの受け入れ態勢をしっかり整える必要があるわけです。金を出せばよくなる、というものではない。具体的には、語学力と技術力を持ち、国の開発計画を理解し、お雇い外国人の業務範囲をきっちりと規定し、お雇い外国人に国の方針を理解させ、両国の方針をすり合せできるだけの能力のある人を、受け入れ側にそろえる必要がある。それができる人材が限られていた。

外国人折衝の雄、榎本さんは、受け入れ側の人間のトップとしては、不適だった。彼は、コンサルタントなど必要とせず自分で何でもやってしまう人だった。というか、人間的にお雇い外国人をとうに超えていたので。彼にとってお雇い外国人は、パートナーでありこそすれ、教えを請う側ではなった。ところがお雇い外国人側に、所詮途上国の人間という侮りがあった。あるいは、榎本に、高い給料で雇われた自分たちの存在価値を奪ってしまう人間だという無意識な恐れもあっただろう。実際、榎本は、お雇い外国人を単なる作業員にしてしまった。だから、それを是としない、政治・方針決定の助言者でもあるというプライドの高い、ケプロンやライマンなどとは、徹底的に合わなかった。逆に、ディやダンなど、技術者肌の、作業好きな人間には結構馴染んだ。

一方、荒井や大鳥、それに山内堤雲といった、洋学の素養の高い旧幕臣は、幕府というひとつの政府での官僚経験もあり、役人と専門技術を持つお雇い外国人の間の調整役としては理想的だった。なにより、お雇い外国人の強烈な個性を置いておいて、彼らの技術そのものをリスペクトできる器用さと素直さを、彼らは持っていた。測量調査を担当したデイは荒井について「その働き実に賞賛するに堪えたり」「余が行わんとする策を助け、これを施すなど全て甘心誠実をもってし、わが事業を賛成せり」と大絶賛している。
彼らが潤滑剤となり、技術移転と日本人の人材育成が進んだと評価できる。


…という感じで。お雇い外国人の献身による日本の発展、なんて字面はいいですが。見れば見るほど、現実って大変だなぁ…とほろりときます。お雇い外国人側も、高い給料を取っておきながら、自分らの内輪もめを、雇い主の相手政府に持ち込んでくるのは、不甲斐ないとも思います。売り手市場だったから良いですが、買い手市場の今だったら、多分仕事はなくなっている。その彼らの給料のために、時には省庁の予算の1/3がつぎ込まれたこともあったのですが。その費用対効果って、言っては悪いですが、かなり低そうだ。それでも、身を切って金を出し、技術の導入と本邦の人材育成に邁進し続けた明治政府って、本当に本気だったのだなぁと思いました。直接的・即効的な効果はなくても、結果的に、持続的な価値の高い、自国の発展に本当に必要なものを育てていたわけですから。こういっては語弊もあるかもしれませんが、今の援助慣れしてしまった途上国に、ここまで本気を見せている国は、まず見当たりません。この明治期の発展の姿は、今の日本が他国に示せる、自慢できる点だと、本気で思います。そんな感じで、もうちょっとこういうところに光が当てられてもいいのにと、いつもの結論で終わります。
…お雇い外国人のハプニングを面白おかしく不謹慎に書き連ねといて、いまさら白々しいんですが。許してください。

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2005年04月02日

おそろしいもののかたち

ずっと一緒に仕事をしてきたブータンの技術官僚の方ですが。
この度、退職しまして、独立して、とある事業を営むことになったと、連絡をくださいました。
非常に真面目で優秀で、見所のある方で、末はかなりの重鎮になるのだろうと期待されていた方でした。
実は、この方に圭介を重ね合わせて、暑苦しい視線をこっそり送っていたのですが。

個人としてはめでたいことで、前途を祝福すべきことなのですが、本当は、日本政府からブータン政府への援助の形で技術移転を行っていた視点から見ると、決して喜ばしいことでもなかったりして。

というのは、ODAというのは、タテマエ上、政府から政府、あくまで公に対する援助ですので、その成果は、あくまで公の機関に帰するべきものである、という考え方があったりするわけです。

ただ、相手の国全体で言えば、民間に優秀な人材が注がれた、ということで、別にいいんじゃないのかなーと思います。

さて、この方の新しい事業の紹介と宣伝が、部内で回覧されていたのですが。その文書に、上司からのコメントとして、「大変真面目で、日本の明治・大正時代の技術者のような良さがある方です」と評されていました。
その上司は、特に歴史に対して興味のある方というわけではなかったのですが。
それがとっても嬉しかったりしました。

どうも、あまりに、日本って、明治って、すごかったんですよー、ということを酒の席で垂れ流していた奴がいたもので、いつの間にか洗脳されてしまっていたようです。

いや、現地調査中って、チームで、職場も滞在先も、三食食うのも同じなものだから、家族のような感じで、逃げられないのです。で、夕食になると、親父様たちばかりなものだから、よほど切羽詰っていない限りは、どうしても酒が入る。そうすると、普段の箍が外れる…

幸い、今のところ、どうもマニアで、酒を飲ませれば何時間でも明治についてしゃべる奴、というぐらいの認識ぐらいでとどまっていますが。酒が入ると、カミングアウトできないようなことでも、口を着いて出てくるから、アルコールというのは怖いもんです…。
それはともかく。
仕事一辺倒な親父様に、ちょっと別の視点を持ってもらえたことがわかって、こんな奴でも、いて良かったと思えた瞬間でした。


電車の中で、週が明けたら会社にいかなければならない、「ずっと週末だったら良いのに」というあたりまえの会話を聞いて、なるほど、そういうものかと思いました。
仕事ってつまらないものかなぁ、と。少なくとも自分の時間の大半を割くものであるし、役に立つ、生産的なことをしているわけなので、そこに楽しさを見出さないって、寂しいことではないのかなぁと。確かに人間関係とかいろんな要素はありますが。

よく「日本の経済は駄目だ」「日本の政府はなっていない」とかいうことが、やっぱり電車で酔っ払っている親父様がたの会話から聞こえてきますけれども、

あまりに周りを評価しなさすぎではないか、と思うのです。
確かに消費者金融のはびこりようを見ていると不安にもなりますが、単に、景気とか消費者物価指数だとかリストラだとかと組み合わせて、だめという結論にしてしまっているだけではないかという気がする。

日本はよくやっているほうだと思います。貿易黒字は続けているし、アメリカの債権を買い支えしてやっているだけの余裕もあれば、額は減ったとはいえ国際援助も第一人者であり続け、津波復興も真っ先に乗り出し、環境保護も真剣になって進めている。

で、何が悪いのかと考えますと。
もともと世の中の構造自体が、不幸なことになってしまっているというのはあるのではないか。あまりに大きく、複雑になってしまって、自分が何をしても影響はない、自分がいなくてもおなじ、と感じてしまう。自分の無力さだけが募っていく。その中で、どこかで中学生が人を殺したとか、ハリウッドのスターが何億稼いだとか、情報だけどんどん流れ込まされ、その無力さは強まる一方で。そして、架空のファンタジーに慰めというか逃避を見出す。そうすると、世の中との接点がリアルなものでなくなって、自分という存在の濃度が希薄になっていく。

「恐ろしいものの形をノートに描いてみなさい。そこに描けないものが君たちを殺すだろう」

という、文句が、中島みゆきの歌「吹雪」にあります。それが、預言者の言葉のようで、聞くたびにぞっとしているのですが。その、おそろしい、形のないもの、というのが、この無力感というか、自分はいてもいなくてもおなじ、という感覚なのではないかなぁと。

「どこから来たかと聞くのは年老いた者たち。どこにも残らぬ島なら 名前はいえない 誰もいえない。 初めから無かったことになるのだろう」

という文句に続くのですが。「年老いたものたち」、この国を作ってきた人たちは、国の名前も知っているし、それを作ってきたゆえの自分たちの存在もしっかりしている。けれども、それを受け継ぐ人たちのアイデンティティが、複雑化した世界の中で、どんどん希薄になっていく。生産的なことを厭い、ゲームやアイドルや娯楽にばかり慰めを見出して、自らの無力感ばかり募らせていく。そうして、日本という名前にたいする誇りを失い、無への方向性を強めていく。それが本当に、「恐ろしいもの」であるという警鐘ではないかと、思ったりしました。

ただ、そんなに個人が無力な社会でもないと思うのです。実際、「個力を強めるべし」というのは、どの会社でも言っている。
ひとつの会社を例にとっても、別に、経営陣にいたり、会社の収益に繋がったり、責任の大きい直接業務だけが偉いのではないと思うのですよね。
たとえば事務の方でも、うちで面倒をみていただいているYさんという方は「社長はいくら変えても良いから、あいつは変えさせるな」とか言われている。それは彼女が、まるで母親のように、お茶からしステム管理まで自分の責任としてきちんと動いてくださっているからで。「社長がいなくても仕事はできるが、Yさんがいないと仕事にならん」とか言われている。そういう、サポート役にもプロフェッショナルがいる。そういう方は、仕事の流れを常に分かろうとしていて、組織が変わったり、新しいシステムが導入されると、自分の仕事、自分の責任とばかりに、まっ先に勉強してくださって、周囲に還元しようとしてくださっている。

で、そういう方って、周りの駄目だ、社会がなっていない、日本はだめだ、なんていうことは、決して言わないです。社会を善くするのは自分次第だ、自分は少しでもよくすることに役立っている、という自信を、心のどこかに持っているようであるのです。

逆に、言っては悪いですが、「こいつ使えねぇ…」と思う上司ほど、会社が悪い、社会が悪い、ということを口にしてます。本当に役に立っている人は、周りのせいにはしないです。社会が悪いのは自分のせいだと思っている。そして良くする為には何をするか良いかを考えて行動に移している。

自分を棚に上げた社会攻撃って、格好悪いというか、薄っぺらいんですよな。日本はだめだ、という人が、日本を駄目にしている。批評家というのは、たいそう、役に立たない人種だと思います。
自分と、自分の周りを、毎日、すこしずつ、マシに、よくなるようにしていく。それが、世界を良くすることに繋がる。そういうものだと思います。

で、自分の上司が、年賀状に、ネパールの情勢やアフガニスタン・イラクの後片付けに触れて、「やることだらけです。この時代に生まれたことを感謝しています」と書いていました。その方は、世の中とはどう動いているのか、どうすれば動くのか、政府や民間は何を考えているのか。仕事の実地で、それを教えてくださっている人です。この人の下につけていることが、今の僥倖だと思っているぐらいなのでして。そういうように、見るものを見て、果たすべき役割を果たそうとしている人は、格好良い。

うちの会社もリストラ進行中ですが、やめていく方は、会社のせいにも、社会のせいにもしないで、「自分の力が足らなくて、会社に迷惑をかけた」といって去っていく。胸が締め付けられます。そういう方にこそ残ってもらいたかった。

世界を善くしたい。日本を善くしたい。周りを善くしたい。そのために自分に何ができるか。自分のできる範囲に何があるか。何から始めればいいか。今日、何をやったか。

自分も、今この国この時代に生まれてよかったと思える生き方をしたいです。社会が悪いのではない。景気が悪いのではない。日本が悪いのではない。悪いのは自分だ。そう思い、良くしていくことを考え実行すること。
要するに、仕事を一生懸命しましょ、ってことなんですけども。
まず、自分が悪いと思うこと。それが、無力感を払拭する鍵なのではないかなと思います。
それが、幕末や明治の人たちが、この国を作ってよかったと思ってもらえることに、繋がるのではないかなと思います。

であるので、幕末・明治の人たちがキャラクター化されて、美化・超人化・英雄化され、自分たちの手の届かない人たち扱いされるだけなのは、なんとももったいないと感じる。彼らはカッコよさのエンターテイメントのために生み出された架空ファンタジーのキャラではなくて、確かにこの世の中、今自分たちが住んでいるここを作ってくれた人であるわけで。彼らが何を考えたか、何を作ったか。彼らの伝えるメッセージは、身の回りにごまんとある。そこに、今日何をするか。些細にでもマシにしていく為に何をすれば良いか。そのヒントが内包されている。
娯楽としてはキャラクターや小説のパロディも良いけれども、娯楽だけに閉じ込めておくのは、寂しいのではないかと思ったりします。

彼らをキャラクター化・ファンタジー化するだけで終わらせているのは、一時的に楽しいことではありますが、一方で、彼らと自分たちの存在を剥離させ、「おそろしいもの」を育てているだけなのではないかと、思ったりします。

…とかエラそうなことをのたまいながら、頭の中は不毛な妄想ばかりで、彼らにどつき張り倒されることばっかりしか考えていませんが。いやもう、ほったらかしていた裏サイトが検索エンジンに引っかかっていたときはどうしようかと。恥ずかしくって、未だに墓参りもできません。ハハハー。
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2005年04月03日

明治工業史

土曜日の夜も会社に篭って、徹夜しながら何をやっていたかというと、半分以上、メイルを書いていたような気がする…。公私混同というか。時間の使い方に、仕事と私事の区別がありません。困ったものです。逆に、圭介萌えしている時間も、思いっきり広げ伸ばしてみたら、仕事だ!と言張れてしまいますので、始末に追えません。

で、徹夜明けのまま、千代田区立図書館へ。会社に近いでたまに利用させていただいてるのですが、ここ、皇居にもっとも近いだけあって、古今の江戸の地図がすさまじく充実しております。圭介の、「武蔵国並東京古今沿革図識」までおいてくれています。
あと、官報や各省庁の沿革報告も多くいれてくれているので、重宝しています。ただ、コピー機が1台しかないのと、閲覧席が腰掛けしかないので、大量の資料を閉架から引き出して貰ったときなどは、路頭に迷います。
買い物籠二つ分満杯の重量物を抱えていたのを、あまりに見かねた職員さんが、ハンディキャップの方用の机を占領させてくださいました。フレキシブルな行政サービス、ありがとうございます。

で、今回、そんな羽目になった理由。
「明治工業史」。全11巻。11冊ぐらいならもてるかなー、と、高を括って一括で申し込んだら。
見た瞬間、その分量にのけぞりました。1巻分が、1000ページ平気で超えているんですよ。
編纂委員長。その名も田辺朔朗。張り切りすぎですよ、朔朗…。

で、2時間ぐらいでさくっ、と見て終わろうと思っていたので、余裕こいて午後に出て行きましたら。
ページをめくれば、あるわあるわあるわ、圭介関連分野。石油、石炭、工部大学校、内国官業博覧会、都市区画委員会、写真術……
。いや、実際に圭介の名前がダイレクトにでてくるところは少ないですが。それ、それ圭介関連〜、というのが多すぎまして。

分厚いページをめくるたびに、いつもなら、圭介、圭介はどこじゃぁ!と血眼になって字を追うのですが、もう「お願い、これ以上出てこないで…」と願うばかりでした。コピーをコピーをする時間がない。
そういうわけで、本日は半分以上、しおりを入れるだけで終わってしまいました。うぅ。

てことで、とりあえず我的収穫を1点。「鉱業編」、第五章第二節「石油の運搬」より。

もともと、油の運搬は大変だった。石油を樽に満たして人夫が担いで運搬するか、馬、小車に乗せるかしかなかった。で、明治11年10月の明治天皇の北越行幸のとき、愛国石油会社の瀧澤安之助という方が、鑿井模型を天覧に供した。その後、同行していた井上馨工部卿が愛国石油の採掘場を視察したとき。たまたま、原油樽を背負って坂道を往来する、60人ほどの人夫とであった。人夫が恐縮狼狽して道を譲ろうとした。それで、彼らが滑って転倒して、大騒ぎになった。

井上卿は、こんな回りくどい方法で原油を運搬しているのか、他に方法は無いのか、と、瀧澤安之助に尋ねた。瀧澤は、米国では鉄管で送油するけれども、その鉄管を得るのが困難であるのだと答えた。
で、井上卿。

「大に同情し、当時の工作局長大鳥圭介に宛て、鉄管に関して配慮すべき旨の書面を送りたり。仍って、同社は鈴木七郎を上京せしめ、赤羽根工作局に大鳥局長を訪問せしめ、鉄管代金五ヵ年賦償却の条件を以って払い下げをうけ、萩平鉱場より山麓まで十九町余の間に敷設せり」

井上さん、この惨状に、圭介に、原油輸送パイプラインの鉄管について調べろ(というか作れ)という指示を出したらしい。で、愛国石油の瀧澤さんは、社員を派遣して、大鳥を訪ねて、鉄管を作ってもらって、5年で償却する条件で払い下げてもらい、1.9kmの距離を敷設した、ということ。

なお、11年11月起工、12年11月に竣工ということで、約1年の工期。鉄管は直径一インチ半、流量毎時十八石、というので、直径3.6cm、毎秒0.9lで送っていたということになります。今のパイプラインを思うと大変小さいですが。建設費が、材料費を除いて四千円。4000万円ぐらい。たぶん材料費は大分高かったのではないかと。技術的には、鉄板をローラーで丸くして溶接するのが難しいのでしょうが、工作局だったら難なくできたのではないかと。

てことで、圭介、本邦における初の石油パイプラインの導入にも、一役かっていたみたいです。
てか、この一件から、圭介、北越の天皇行幸には、同行はしていなかったようで。

ライマンを激怒させた工部省の油井無断掘削ですが。
天皇行幸で、天皇が掘削に関心を示したために、工部省のトップから示達が来て、ライマン弟子共々、ライマンのしらぬところで掘ってしまった、というのがその流れですが。
圭介も、なんか、とんだとばっちりがきただけだったのか。知っていて黙っていたのか。吉田さんに、「これから油田掘削するんですよ、貿易赤字の解消につながるといいなぁ」なんて可愛い、もとい、楽天的な手紙を送ってたりしましたし。
国のトップ決めのプロジェクトって、現場の担当者が意思決定に全く関われない、というのは、得てしてあるものなのですが。

……もしかして、圭介、本当に、何も知らされず、単に上から命令が来たから掘っただけなのか?

なんか、もう一度、ちゃんと考え直さなければならなくなってきた気がします。圭介、ヒドイ男じゃなかったかもですよ。
でも、圭介、単に、「掘りたかっただけ」というのが、一番正しい、というか、真理に近い気がします。吉田さんへのお手紙とか見ていると。


さて、以下は、込み入りすぎなので、スルーしてくださればと思います。
(いや、それ以前にこの手のポストに需用を求めるほうが間違っているかと…)

この瀧澤安之助氏。今まで注目していなかったのですが、この明治工業史にちょろちょろ出てきています。
このパイプラインに留まらず、綱掘鑿井殻出てきています。明治10年、石坂酒造が掘削に失敗した、越後の尼瀬の掘削用機械を、越後の深沢村に移して、自分でもトライしてみました。ただ、これも「其の方法も亦幼稚なりし」ということで、成功しなかったけれども、11年10月には多少の油は得られた。それで、12年5月に火災事故を起こしたり、元々地層の浅いところの貯留量が少なく,深く掘らねばならなかったけれども技術が追いつかない、ということで、13年に会社を解散させた、ということです。パイプラインはこの時の油を運んだのですかね。

で、瀧澤氏、更に滋賀県の中島氏から出資を受けて、郷津会社を組織、深沢村の機械を尼瀬に移しなおして、再び掘削を試す。掘削に必要な鉄管が得られずに挫折しています。

一方、工部省の事業は、地質調査の残金を用いて、赤羽局で作成した掘削機械を用いて掘削試験。広瀬貞五郎、杉浦譲三、田賀平兵衛らが担当。これは、機械が不完全で失敗。この後、広瀬が、これで挫折するのは遺憾だいうことで、機械を譲り受けて採掘を続けた。が、16年に残念ながら、廃坑。

で、23年に、日本石油会社の山口権三郎が、ニューヨークのピーヤス会社より、掘削機械一式と鉄管を、購入。で、広瀬がこの機械を設置しました。これが、貯留量の豊富な油層にあたり、一日9000Lを産出することになりました。これが、機械式掘削の日本での初の成功。更に、これを模擬した機械を作成して、尼瀬村に適用し、成功させています。

ということで、この、瀧澤と広瀬が、日本の石油開発の、黎明期と発展期を繋ぐ、キーパーソンかもしれないです。石坂周造が掘削を始めた尼瀬の貯留層には、瀧澤、広瀬の両方が関わっていますし、広瀬は圭介管轄の工作局の元で掘削技術を学び、また、瀧澤は工作局と協力して事業を進めていた。民間と官業で育った人材が結びついて、結果に繋げたという事が、興味深いです。

…工作局で開発した機械は、結局失敗だったわけですが。

だから、機械そのものが、あるいは掘削そのものが成功していれば、もっとメジャーになって注目を受けていたかもしれないのに。
人材経由とか、そういう回りくどい繋がりが成果になっているから、分かりにくいんですよ。
いや、単に、私が無理やり何らかの成果を見出そうとしているだけに過ぎないのか。
もうなんだか、分からなくなってきました…。
いいんですよ、そこに圭介の影が、うすーー…くでも、感じられれば。
いや、こうなったら、薄いほど、萌え。(だいぶヤケ)
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2005年04月04日

海を越えた手紙

明治前期財政経済史料集成。これに、「在欧吉田少輔往復書簡」が収録されています。

この中の、明治6年1月21日付、東京から、太平洋郵船便を用いた、井上馨→吉田清成の公信。
内容は、為替やら外債発行の条件やら報告へのコメントやら、至極、業務的なものですが。

これに、一緒に送った物として「記」ということで、添付がつけられていました。

「大鳥圭介殿へ 大鳥富士太郎 壱封」

圭介、富士太郎から、井上さん、吉田さん経由で、手紙を貰っていました。

このとき、富士太郎、8歳。
ちゃんと字が書けたのかな。みちさんの教育の賜物かしらん。

物心ついた頃から家に居なかった親父への、少年の手紙。
まともに一緒に暮らしたのは、1ヶ月半だけ。
いったいどんな内容だったのか。不器用っぽい親子。
なんだか、想像して、にやけが止まりませんでした。幸せ。
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2005年04月06日

大鳥の変名

圭介の変名。

圭介、ずーーっと一生、大鳥圭介だと思っていたのですが。
実は幼名が慶太郎だったりフェイントがあったりしました。
で、なんか、色々と、出てきてます、圭介の変名。単に馴染まなかったのか、飽きっぽくてすぐに忘れちゃったのか。
以下、見つかったものを少々。

1)「大鳥九萬生圭」1857年、25歳ごろ
圭介訳本、地球儀用法の序文にて。文中に出てきて、なんじゃ?と思ったら、署名にも、「九萬生圭」と出てきた。
九萬生、って何だろう。「圭」で終わっているのも謎。圭ちゃんって呼ばれていたの…?
ちなみに、「圭」は時計の計と語源が同じで、物事を計る、という意味らしい。圭介らしい…。

2) 「鵬圭介」1860年、27歳ごろ
大鳥が鵬になっている。「万国綜覧」の訳者名。あと、この頃の手紙にも、「鵬」を用いているのがあったような。
鵬を意識した名前なのだろうか。大きくなるぞっ、と、意欲に燃えていた時期?

3) 「神仙逸士」 1860年、27歳ごろ
2)と同じく、「万国綜覧」訳者名に乗せられていた。芝新銭座にいたから、神仙。
「神仙」は雅楽の十二調子の音の一つ。逸士は、世をのがれて暮らしている人、隠者。
むー…。 圭介、弟子に苛められて、世を逃れたくでもなったのかしらん。
とにかく、すぐ飽きたのか、何かの洒落に過ぎなかったのか。「万国綜覧」以外では見かけない名前でした。

4) 杣槎 時期不明
箱館戦争始末記の解説。如楓または杣槎と号した、らしい…。こう称したのはまだ見たことがないのだけれども、書画家のWPにも出てくるので、おそらくそういうのがあるのだろう。
ちなみに、杣(そま):木を植え育てて木材をとる山、または山から木を切り出す人、きこり。
槎(さが):木の枝がごつごつしてからみあっているさま。
木がわさわさ。確かに生命力がありそうですが。んーむ…。

5) 扶揺堂 慶応4年閏4月20日、東西新聞
「文武兼備の人」ということで紹介されていますが、「芝新銭座に一個の塾をたて、扶揺堂と号して厚く書生を導きし」とあります。ちなみに「扶揺」はつむじ風、大風のこと。荘子逍遥にある言葉。
「大鳳一日同風起 扶揺真上九万里」(大鳳、一日にして、ともに起つ。扶揺、まさに上る九万里)は、李白の詩。大鳳は鵬。
1)の「九萬生」ともかかわりがあるのだろうか。あるんだろう…。

あと、検索してみたら、こんなのも。
桂林にて李育文「威廷長空霧帳開 我今同友探幽来 蒼鷹亦有大鵬志 展翼扶揺遨九垓 」
「友と連れだって天鷹山に登れば、蒼い山は鵬が翼を広げた如く、九つの陸を覆い被さる如く」 とのことですが。ここでも九という数字が出てきてますな。

圭介、自分の「大鳥」を、いろんなところにかけるの、好きですな…。てか、この当たり、洋学派のクセに漢詩に拘るところが、どうも、ニクイです。

さて、ついでに、上の「箱館戦争始末記」、栗賀大介氏、1973年刊。釜さん、荒井さん(多分)、あと工部省時代の丸っこい圭介が、切り柄風になっている、結構素敵な表紙です。
この中で紹介されていた、圭介と荒井さんの詩。

圭介:「箱館の野べにつもりし白雪と 見まがふまでにさける卯の花」
荒井さん:「卯の花のちるをし見ても過にける 昔の人をおもふけふかな」

……なんか、この和歌。「卯の花」で、しりとりじゃないけれども、どうも対応してませんか…?
「さける」と「ちる」、「箱館」と「過にける」…ぬぅ。
圭介のほうは、獄中日記に載っている詩なので「秋田の道にて卯の花のさかりを見て」と注釈がついていますが。作ったのは、護送される途中の秋田でも、書いたのは獄中だろう。荒井さんのほうの詩は、いつのものかは分からないのですが。

この時期、圭介と荒井さんは、別々の部屋だったはず。でも、壁の下側に隙間があったから、手紙のやり取りとかはできたはず。
も、もしかしてアナタたち。獄中で。
……歌合とか、してたんですか?

なんか、鼻血吹きそうになりました。
最近、血圧上がることが多いです。
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2005年04月08日

免疫抵抗力と生命力 免疫抵抗力と生命力 免疫抵抗力と生命力 

また忙しくなってきました…。徹夜明けぶっとうしの仕事は堪える。
最近、終電には毎日帰る余裕があったのですが、また、泊り込み体制に入りそう。まぁ、年中、やることは無限にあり、いつ締め切りがあるかの話で、次の提出日が近づいてきたというだけのことですが。まだ忙しい、と口にできるぐらいの余裕はあります。でも、そろそろ徹夜も持たなくなってきた。ていうか、白髪が増えた。

愚生の生活や体のことなぞ、誰も興味がないかとは存じますけれども。ちょっと面白いなと思うことがありました。

明らかに長すぎる、1日16時間以上のPC時間が災いして、肩こりが酷くて、マッサージ行き着けになっていたのですが。
新しい方に診てもらいますと。「体が柔らかすぎるから、肩が凝りが酷くなるのだ」という、聞いたことのない説明をいただきました。

昔陸上やっていて、ひたすら柔軟体操をやっていたことがあった関係で、体はやわらかいほうなんですが。やわらかいと、凝りにくい一方、一旦凝ると、なかなか回復しないんだそうです。それは、伸ばそうとするストレッチが、元々筋肉や筋が柔らかいので、ちょっと伸ばしても、伸ばしたという効力になってこないんだそうで。多少肩や肩甲骨周りを曲げ伸ばしするだけだと駄目なんだそうです。

で、ストレッチの方法を教えてもらいました。相撲取りのように四股を踏んで、膝と対角線に手を当てて、手に力を込めて膝で押し返し、その反発力で、肩の筋を伸ばす。確かに効きます。

……職場で机の周りでやってたら、何事かと思われますが。

さて、体が柔らかいと、疲れにくい、免疫抵抗力がある、などの傾向があるようです。どういう関連かはよく分かりませんが。
話は免疫に変わりまして。

免疫抵抗力は、あるほうだと密かに思ってます。途上国で腹下したことは、コォンというタバコのような刺激物を間違って飲み込んだときぐらいで。あ、帯状疱疹が一回出ましたが。風邪は記憶にある限り、20年ぐらいまともにひいたことはなかったり。子供のころは酷いアトピーでしたが、いつの間にか治ってました。どうしようもない運動オンチですが、生命力はあった。

むかしは、食べる前に手を洗わない、キタナイ子供でした。学校でも「食事の前に手を洗わないと病気になる」ということで、手洗い敢行されてたのですが。どうも反抗期で、手を洗ってバイキンを取り除いてばかりいたら、バイキンに負ける体になる、と思い込んで、あえて、汚い手で物を食ってバイキンに挑んでました。うがいなぞ、したこともありませんでした。

さて、アレルギーの要因を、食品添加物など、不自然な食品が定着したことによる「推定有害説」というのはよく言われていますが、これに、免疫異常の流行が、日本人の行き過ぎた清潔志向のためとする考えも、加わってきたようです。清潔にしすぎて、体の中にバイキンが入ってこないので、それに対抗する体の作用である免疫力が低下して、ちょっとしたことでもアレルギーや、風邪などの体調異常に繋がる、という考え方です。守られすぎてしまって、環境に対する日本人の防御力が低下しているということで。花粉症の増加などもその一例と思いますが。
「『きれい好き』が免疫力を落とす」(藤田紘一郎)という文庫が本屋に並んでいたときは、子供心に直感的に感じていたことが、結構正しかったのではないかと、ひとり満悦しました。
不健康なほうが、結果的に健康になるってこともあるものだと。人間、甘やかすものではないです。

そういうことで、今も、子供のころから、大して変わっていません。床に落ちたものでも平気で食います。顔も洗わずにバタンキューで寝て、そのまま翌朝、起きた五分後に電車には乗っているという生活で、己の免疫力を研鑽する日々でございます。(それはだらしがないだけ、と言う)

しかし白髪はなー。免疫高めても老化はどうもならんなぁ…。まぁいいや、いじわる婆ァになるのは、小さいころからの夢だ。

で、圭介も、体が柔らかくて、免疫力が高い気がします。いや、同化で自己満足、っつーのは、ハタからみてると気色悪いですが。すんません。

山の子だし。崖から落ちても大した怪我もしていないし。めったに体調崩さないし。戦場を走り回って殿になって銃弾打ちかけられても服にかするだけとか。寄生虫に巣食われても平気な顔をしているし。圭介が、寄生虫がいると免疫力が高まるという考え方を知っていた可能性はあまりないと思いますが。
あの得体の知れない生命力は、その辺から感じるのかなぁと思いました。

……いつか寄生虫に挑戦してみたいと思います。圭介の生命力を目指すために。
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2005年04月09日

徳島と日光と北海道 

「葛西松崎家由来記」という史料が、とあるページに紹介されていました。

相当思い入れ深く、緻密に、徳島藩の松崎家の史料が綴られたものでして、かなりの大作です。
こんなオタク場で引用させていただいて良いのか、気が引けるものを感じますが。

この、松崎家を継ぎ、徳島藩名家の上田家の部下となった方、松崎一男氏の記述に、この方が、徳島藩士として、新政府軍板垣の指揮の下で、日光・今市の戦闘に参加し、東北を転戦したとありました。
戦闘の戦いは、勇敢で、板垣はその人物を惜しんで、戦後も東京に留めようと再三説得したという話があるそうです。その日光今市戦。

「敵は幕府の歩兵奉行大鳥圭介なるも同人は徳島藩にて30人扶持を給され藩の教授たりし人なり」

ということで、松崎一男氏が、直接圭介の教えを受けていたかどうかはわからないのですが。
かつて、圭介、自分が扶持を受け、兵法、砲術を授けた藩の侍と、今度は自らの敵として戦わねばならなかった皮肉が、ここにもありました。

にしても、圭介、30人扶持。尼崎藩に身売りされて、給料は7人扶持から4倍。その代償としては、つらい…。

ちなみに、上田家には、徳島藩士の洋式部隊である銃士隊を率いた上田友泰が居ます。彼らは奥羽の戦線に新政府軍として参加。明治3年6月には、洲本の分離独立運動に激怒し、洲本の稲田氏を襲撃した稲田騒動を起こしました。これが洲本侍の、北海道移住の悲劇の引き金になった。(うぅ、北の零年、まだ見に行くようにならない…)

松崎が銃士隊の上田友泰に所属していて、この銃士隊が日光今市戦に参戦していたかどうかはまだ調べきれていないのですが、おそらく可能性は高いかと。

で、この、銃士隊の名簿に、阿部興人氏が居ます。ひよさんのくださった情報掲示板のご投稿によると、日光東照宮保存に関連すると思われる、圭介や榎本ら16名が署名した書簡のあて先の方なのですが。(ひよさん、ありがとうございますー!)

彼は、この稲田騒動で、終身禁固を食らってましたが、その後、北海道の開拓に実業として従事、農業開発、セメント、発電などの分野で活躍しています。
彼の頭には、北海道で苦難に喘いだ洲本侍のことが、頭にあったのだろうか。

…で、阿部も、同じ徳島藩上田氏の傘下なので、日光戦闘に、松崎とともに板垣側で参加していた可能性は、高いのではないかと。そして、それが、保存運動に繋がったのだろうかと思ったりする。
まだ関連は確証できてないですが。この方、圭介が教授した洋式兵法で、日光で敵対し、洲本の侍を襲撃し、その罰として禁固、北海道開拓に悲劇に陥った洲本侍を哀れみ北海道開拓実業に従事、圭介とともに、圭介と対峙した日光の保存に乗り出した…ということもありえるわけで。

なんというか、そのめぐり合わせを、何かと、考え込んでしまいます。
徳島の郷土史料も、調べてみたいなぁ…。
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2005年04月11日

榎本と大鳥、邂逅の有無は。

モンロー君の続きを書こうとして、ふと気になった、釜さんのロシア出立日と、大鳥の帰国日。
どっちも、明治7年3月なんですよな…
最初釜さんの出立が、海軍中将の任命である1月だと思ってたので、ほぼ入れ違いだと思っていました。
ロシアへ旅立つ榎本と、アメリカから帰国した大鳥が、果たして、会っている可能性はあるのか。
榎本と大鳥が、開拓使について打ち合わせを直接できたかどうか、というのが非常に気にかかっているのです…。榎本さん、大鳥が陸軍省に移動になったとき「開拓使は大鳥の使い方を知らん、残念じゃ」みたいな手紙を、ヤマウチ君宛に送ってましたし。

で、「榎本武揚書簡集」にあった釜さんの帰国日は、3月10日。微妙。大鳥の帰国3月というのは、公文書館 の公文録の「開拓使五等出仕大鳥圭介米国ヨリ帰朝届」が「明治七年三月・着発忌服」に含まれていることからの推定ですが。

この文書見れば、帰国日が明らかになるのだけれども。
むぅ、こうなったら、公文書館。昼休みにタクシーで乗り付けていくか…。と思ったら、昼休みは閲覧申し込み受付してくれてないし。あぁもどかしい。

ちなみに圭介の日記は、6年10月14日以降の冊は今のところ見つかっていないとのこと。これも惜しむべし。

ところで、公文書館。また、ニクいこと始めましたな…。
一部のデータが「閲覧」で、ソフトをプラグインすれば、画像で閲覧できるようになっていた。おそらくアジア歴史センターとのリンクなのですが、アジア歴史センターにない資料も「閲覧」に入っていた…。

で、圭介関係で「閲覧」がついていたのは、「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ二」「技監大鳥圭介加越地方ヲ巡視シ復命書ヲ進達ス」「任枢密顧問官 特命全権公使 大鳥圭介」の3点。
け、圭介の、あの、スーパー謙虚職務逸脱技術者魂コンサルタント志向滲み出るあの鉄道調査報告書(でも実らなかった)が、インターネット上で、生文字を見れるのですか!?と思わず勇んでしまったら。

「リンクデータはただいま整備中です」
とすげなかった…。糠喜びさせんでくれ。うぅ。

って、よくみたら、「進達ス」だから、単なる提出状かもしれん。でも、見たい。早く整備を終わらせてくれぇ…。(単なるサーバか回線上の不調か?特命全権公使の任命書は見れるしなぁ…)

あ、圭介。ボストンにて、9月22日。「家内より壱封」
…み、みちさんの手紙ィィ!? (大興奮)
……の、残ってないのか。残ってないよな……(号泣)

_____________


帰国日は、3月10日→出発日は3月10日、の間違いでした…

榎本→山内の書簡は、明治8年2月28日「大鳥君、開拓使を全く離れたること、開拓使の為に残念と存じ候。しかしこれは、同氏の意に出でたるには決してこれ有るまじく、開拓使も同氏を未だ能く用ゆるを知らざるならん」
とのことでした。
…榎本さんにまで、開拓使に「使われる」扱いされとるの、圭介よ…。

しかし、開拓使=黒田と読み変えると、大変笑えます…。
「同氏」の上にいたことのある榎本さんは、「同氏」の用い方を大変よくご存じだったかと思うと。…。(呼吸困難)
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2005年04月15日

失態

はー…。
ちと、というか、だいぶ、沈んでました。もう浮上しました。
下手したら給料○年分じゃすまないような損害を会社に与えるような失態を演じかけてしまい、辞表の文面を考える羽目にまでメリこんでました。
結果的に事なきを得ました。いろんな方に助けていただきました。良い勉強になりました。

切腹したい武士の気持ちが分かった。責任取るよりずっと楽だから。
万円の損害を与えたら、万円以上、自分の力で稼いで会社にお金を入れればいい。
けれどそれをやるには能力的にも体力的にも大変だし、何より、「あいつはあの失態をした」というレッテルと共に生きていかなければならない。それよりは、辞めるか死ぬかして逃げられるならよっぽど楽だ。

失敗すると本当に疲れます。自分が悪いのですが。
いつもなら、圭介ならこの状況で笑っている、と自分を奮い立たせたけれども、今回はそれすらも浮かびませんでした。
たかが金のことなんですが。それによって被害を蒙る方が多々出ると思うと。指名停止が出ると社運にかかわってくる。
これが人命にかかわっていたと思ったら、立ち直れません…

で、やめた後の算段まで立てていました。
もう、会社の寮にいられないから、国会図書館から15分の半蔵門沿線の安い1961年造のアパートに引越し。1年間は国会図書館と公文書館に篭って、大学の社会人コースで論文をかく。

それから、北海道であともう半年ぐらいはバイクで放浪して、カムイコタンでアイヌの踊りを覚えて、北方資料室に3ヶ月篭る。それからテントで全国1000箇所の温泉に入りながら旅、途中、戊辰戦争で圭介が歩いた跡を歩いて辿ってみて、白神山地で山篭りして、四国八十八箇所霊場巡りをする。

その後3年かけてシルクロードと中東とアフリカと南米をバックパッカーやって滞在国を3桁まで増やして、その先は塾講師かNGOをやりながら旅行記とかの物書きして、金が尽きたら、ミャンマーで出家する。

中国にわたるのは新鑑真号。カイバル峠は徒歩で越える。ガンジス川で死体と一緒に流されながら人生とは何かを考えてみる。ペトラの遺跡で脱水症状になってみる。イスタンブールでは腹いっぱい鯖サンドを食いながらイスラム教徒の前でビールを飲んで顰蹙を買う。サウジのデザートラリーで車ごとひっくり返ってみる。

……てな感じで、希望とやる気に満ちあふれた人生十ヵ年計画ができてしまいました。

ああ、本気で辞表を書きたくなってきた。なんでこんなにやりたいことがあるんだろう。

いや、やっぱり、今の仕事があるからだろう。結局、今の仕事がいちばんやりたいことで。やりたいことをやっているから、他にやりたいことが生まれてくる。逆にやりたい事が無いと、中々やりたいことが見つからない。そんな感じで。

で、そんな仕事ばかりの人生で何が楽しいの? というのが一般論でしょうが。
楽しいんだよチクショウ。
望まない仕事で1億稼ぐより、適当な仕事でプライベートで遊ぶより、100カ国を役立たずのまま放浪するより、村に食料送ったり小学校やら病院やら建てて感謝してもらうより。
薄給で過労死寸前でも、融通の利かない会社や自分の国の役人、相手政府とガンガンやりあって計算して設計して計画立てて金の都合をつけて、実際の国全体に効力に及ぼせるものを作って、ちょっとでも微力でも、実質的な力に結びつけることをやっているほうが、いい。

人間として大事なものを失ってもいますが。
健康で文化的な生活とか。
よき伴侶とすごす将来とか。
子を育てる幸せとか。
家族との縁とか。

いくらこれで良いのだと納得していても、人間としては誤っていると思います。やっぱり、やりたいことやっている人生よりも、家族のもとで、パートナーとともに次世代を育てる人生のほうが、れっきとした本筋なんだと思います。

だから、こういう人生だと、死ぬときは孤独死ですな。ただ、アパートの一室で腐乱死体になって周囲に迷惑かけるのも恥ずかしいので、サクッと山中で、誰にも知られず、迷惑かけずに、土に返るほうがいいなぁ。
ていうか、獣に食べられるのがいい。今までさんざん、獣も植物も、手前の口で食い散らかしてきたのだから、最後は食われるというのが、巡りという点からは、一番しっくりくる。あるいはバイオガスのタンクの中に捨ててもらって、発電して、エネルギーになって、二酸化炭素と水になる。リサイクル万歳。10 kWhぐらいにはなるだろう。一般家庭1日分の消費量にしかならんか。人間も、死んだらただの、バイオマス。

なんか逃避的になってしまった。単に疲れると、そんな風に思考があっちこっちに行くだけです。
別にブルーに入っているのでも、世を儚んでいるのでも、「結婚しないの?」といわれて「しないのはなくてで、きないんだ」と自棄になっているわけでもなく(いや、最後のかなりあるか)、素でこんな奴なんです。嫌な気分になってしまったら、ごめんなさい。世の中にはこんな数奇なことを考えている生き物がいるんだなぁと、あざ笑ってやって下さい。

そんな感じで。
すぐに逃げたくなる根性なしとしては、自分で失態を演じてみて、改めて、死に逃げず降伏という責任を取る道を選び、また、世の評と恥を知り、嘲られる事を覚悟しながらも、出仕して自らの力を世に役立たせた、彼らのその強さに、打ちのめされずにはいられませんでした。

祝福のような元気をいただきます。
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2005年04月16日

ニューヨークの手紙の日付

ニューヨークの領事館から圭介が送った、圭介→黒田の書簡。

この手紙に、アメリカの都市のように区画を碁盤の目として整備すると便利でよい、という内容が書かれていますが。

「日本科学技術史大系」に、「開拓使から外遊した大鳥圭介は、欧米新開地の都市計画を調査して、これを北海道の新設都市に応用せんとし、詳らかにその洋式を報告しゐるものがある。其は縦横碁盤割の町割を指すので、その後の都市計画に頗る影響を与へたことと思はれる。但し札幌の場合は、その形式殆ど符節を合した如くではあるが、当初よりかうした外人の計画になったものではない」
とありました。

上の手紙に、前信ありとあったので、この手紙だけではなく、他にも「詳らかに」しているのがあるのだろうか。
てことで、北海道の都市が碁盤の目に整備されているのは、圭介の意見が実を結んだ例でしょうか。札幌の都市区画の計画は、島義勇から岩村通俊の両判官によるものようですが。

で、手紙本体が収められていた札幌市立図書館の封筒には、「M5・12・4」とあったので、明治5年12月に送られたものだと信じて疑っていませんでした。

また、ライマンが契約を終え、日本に到着したのが明治5年12月と、推測されています。(ライマン雑記)

それで、ライマンの契約を担当したのは領事館の弁理公使森有礼ですから、この前後にニューヨークにいて、その前に資源産業分野の調査をしていた圭介が、ライマンの契約に関与した可能性はあるだろうなぁ、と思っていたのですが。

圭介の日記が欠けているのか、「われ徒死せず」の記述では、明治5年11月17日から翌年1月までの期間が飛んでいます。5年11月17日の時点では、圭介、ロンドン大学で化学の講義を受けています。で、翌年1月には本業である外債発行の目処がついてきています。

あと、明治5年12月5日に岩倉使節団が念願のビクトリア女王謁見を果たしています。圭介がこれに同席したわけではないですが、この時期、近隣の日本人は大わらわで、周辺業務も相当なものだったはず。そこに一人だけ抜け出していきなり1ヶ月だけニューヨークに飛び込んで、10日以下の滞在で、手紙を出してきた、とも、あまり考えづらい。この頃、ロンドン-ニューヨーク間は約10日間かかります。

で、圭介が、帰国の途に着く吉田らと一緒に、ニューヨークに戻ってきたのが、明治6年6月。それから少なくとも10月までは、アメリカですごしています。その後の日記がないとのことなのですが、おそらく帰国の途に着いた1月までは、アメリカにいた可能性は高いのではないかと。

とすると、上の、圭介→黒田の手紙は、明治5年ではなく、明治6年の12月4日の可能性が高いと思われます。手紙本体には、12月4日としか書かれていないし。明治5年だと、物理的に無理ではないですが、時期的にはちょっと不自然ですので。

明治5年とされていたのは、圭介の帰国日について、井黒弥太郎氏がその著書で明治6年中あるいは明治7年初としていたので、明治6年12月に圭介がニューヨークにいる可能性はないと推測されたことによるのではないかと思いました。
申奏録に、明治7年3月28日大鳥圭助米国より帰朝、とありましたな…。
…てことは、圭介と釜さん(3月10日出発)、完全に、行き違いじゃないか〜〜…。引継ぎはされなかったのだな。会いたかっただろうに。黒田を責めたに違いない。

てか、榎本が帰国する11年まで、彼ら二人、顔をあわせる機会はなかったのか。文通はあったのかな。ロンドンから6年8月に、圭介、釜さんに写真を送っていますが。あ、荒井さんからはアメリカにいたときに2回ほど手紙をうけとっていました。

まぁ、そんな感じで、時期的に、圭介が、ライマンの契約に立ち会った可能性が、少なくなってくるのですが。
一応、明治5年4月から5月頭までは、東海岸にいたので、この時期にもしかしたら接点が…というぐらいです。
このとき、吉田さん、外債発行の是非を巡って、森さんと凄まじい文通に興じていたので、圭介、結構ヒマだったかもしれません。留学生の受け入れ先の手配などしていたりしましたが。その間にライマンと面識ができたという可能性は、少ないですが、ゼロではないんじゃないかと…ぐらいで。

やっぱり、圭介とライマンの初対面は日本でだったのかもしれませんが、そうすると、ジェネラル大鳥がどこから出てきたのかが、謎。むー。在日外国人からの伝、主にホイットニー氏、というのもありでしょうけど。

ところで、その吉田さんですが。激しいです。あんなに熱い方だとは思わなかった。最初は、本多晋のせいで、金を借りに来たくせに銀行家を自分の宿に呼びつけ、圭介を「ずるい奴じゃずるい奴じゃ」といじめる、剛腹親父だと思っていました。それから「吉田清成書簡集」で、圭介ととっても親しい品の良いモダンな若き紳士だという印象に変わりました。そして、さらに、「明治前期財政経済資料集成」の森有礼との文通を見て、また印象が一転しました。すんげぇ攻撃的な人でした。イケイケです。容赦がないです。この人の笑い声は、ヌハハハハ! に違いないと思いました。多分圭介、タジタジだったと思います。

詳しくはまたの機会に。あぁもう、書きたいことが多すぎて…。いや、それを書いたところで誰が喜ぶか、ってのばかりですが。当分自己満足ネタに溺れます。
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2005年04月19日

日本鉱業会誌緒言

ははははー。酔っ払ってます。11時20分に仕事終えてそのまま飲み屋に駆け込んで、20分で3合ぐらいかっ食らって、終電に飛び込みました。お酒は十四代。蔵出し。めっちゃおいしかった…。もっとゆっくり呑みたかった。なんとも、お酒に失礼な飲み方をしてしまったものです。

以下、酔っ払いのたわ言ですので、どこまでまともなことが書けるか分からないのですが。いや、人の事跡を語るときはせめてしらふになってからにしろよと思いつつ。すみません、ハイテンションのままに、書かせてください。

「日本科学技術史大系」に掲載されていた「技術の啓蒙」というい節で、「日本鉱業会誌」が紹介されていました。これの創刊号の緒言に、圭介が執筆しているのが紹介されています。

まず、日本鉱業会誌は、明治18年3月、日本で最初の鉱業に関する専門誌として、日本鉱業会の機関紙として創刊されました。また、当時、「工業叢誌」が工学全般を取り扱った、工業初の専門誌でしたが、これに続く工業の専門分野としては最初のものであるという位置づけでした。鉱業に続き、電気、造船、機械、化学などの各専門分野が、この後、それぞれの専門誌を発刊していく事になります。

なみに「工業叢誌」はご存じ、大鳥、荒井らが中心となって発刊、高峰譲吉、杉山輯吉、山尾庸三なども運営に参加しています。(今思うと超豪華な顔ぶれだな…)

で、この「日本鉱業会誌」ですが、「わが国近代鉱業技術の生成・発展過程の中で、まことに大きな役割を果たした、その最たるものは、近代技術の啓蒙である」と、その技術の重要性、概念の普及における役割の大きさが強調されています。「実に日本の採鉱・冶金に関する科学と技術の啓蒙は、日本鉱業会を一つの中核として展開されたといおえるほどである」と、「科学技術史大系」の解説。

当時、工学の専門家も少数で、知識交換の範囲も狭いという状況で、各専門分野に先立って刊行された「日本鉱業会誌」は、最も啓蒙性に富み、近代技術の発展に大きな役割を果たした、とされています。特徴的なのは、「会員全体が熱心に日本の鉱業を進歩発展させようという意気込み」で、「斯界の大家・学者を悉く網羅」して、「質疑応答委員」を儲けて、専門学術の交流と進歩につとめた、とのこと。

つまり、学者学閥に閉じたものではなく、最初から実業家たちも巻き込んで、質疑応答などもしやすくして、学業と実業の風通しをよくした、とのこと。これが、初期に生まれた専門学会としては、画期的なことだったと思われます。

で、ここで、大鳥の緒言が紹介されています。まず、大鳥自身の紹介として、「大鳥は緒方洪庵門下の蘭学者から身を起こして、工部省工作局長、工部大学校校長、清国公使などの要職を歴任した明治の政治家」とあります。…兵学者・戊辰戦争関係の経歴、全てスルーしてくれました。さすが、科学技術史大系。やってくれます…。だから、もう、戊辰戦争抜きにしても、明治の科学技術史にはちゃんと存在感がある人なんだってば。しつこいですが、何度でも強調させてください。
で、日本鉱業会設立の意義を論じた文としてはほかにもあるけれども、「大鳥の文が一番啓蒙的資質に富み、興味深い」といわれてます。興味もたれてます。

この大鳥が記した、日本鉱業会誌。自分がへたくそな解説などつけて脚色するよりも、全部、原文そのまま載せたい…。
ですが、それだと、原文見てください、で終わりで、「楽するな馬鹿者」と故人にどやされてしまいそうですので、蛇足まみれ覚悟でまいります。

「諺に曰く、合すれば即ち立、離るれば即仆る。世間百般の事業、共同協和にあらざれば、遠大の功績を見るべからず」と、工業の連合性をまず、説いています。独立でできるものではない、世間の様々な事業が組み合わさって初めて功を奏するものであるということ。これ、外でも圭介、よく言っている、彼の持論です。時代は複雑なほうへ向かっている、ということで。

「近年、本邦の工業、大に衰凋、その経営、殊に至難の時に会す。何を持って至難と謂う。曰く、百事小より大に遷り、疎より精に入り、従来の形勢一変の秋に当たればなり。鉱業の如きは、その変動の感、特に著しきものとす」

こういう学会色の強い雑誌で、いきなり、「経営」という言葉が出てくるところが圭介。常に現場の視点からものを言う人です。すべて、規模が小さいものから大きなものへ、粗雑なものから精密なものへ、世の中は日々移っている。鉱業はとくにそれらの変化に敏感である、というところでしょうか。

で、鉱山は昔から開かれていますが、「大なるものは、官設に係り、地方私立のものは、大抵冒険投機者流のところ企にて、計画疎漏、永遠の利を図るものなし。所謂、山師の名に負ざさるものは、十中八九に居る。而して、維新後、廟堂の保護あり、公私の鉱山制式漸く弊を改め、便を加え、その利、復往時の類に非ずと雖も、成績委靡幾んど見るに足るものなし」

なんか、自分の経験が思いっきりにじみ出ています。鉱山はだいたい、官業で大掛かりなものは取り組んでいるが、地方の一般の手によるものは、大体が、賭け事のようなもので、計画は粗雑で、なかなか利益が出ない。ほとんどが山師だと。圭介、信越羽州を調査した時も、似たようなことを言ってました。というか、その調査から出てきた言葉だろうか。で、維新後は、政府が保護して、公私に渡って鉱山の開発しシステムを改めてきて、その利益は昔と比類無いぐらいにはなったけれども、成績というとやはり取るに足らない程度で芳しくない、とのこと。…自分の、油田掘削の失敗を棚に上げて、というよりは、その失敗があったからこその言葉でしょうか。収益性を見続けていた技術官僚ならではの、厳しい言葉です。

ところで、ライマンは烈しく官業を批判して、民間の手に寄るべきだという意見の持ち主でしたが、この言を見たところ、圭介は聞く耳持ってなかったみたいです…。当時の日本だと、やはり大掛かりなことは、鉄道にしても工場にしても、官業か、あるいは官主導でしか、確実にはできない。それは、大久保さんはじめ、一致した意見だったようで、それが最も現実的だったということでしょうか。実際、民間が育っていないうちは、最初は政府の直営、それから段々と、官業を民営化していくというのが、真っ当な流れではあります。でないと、金のあるところ、つまり、外資のいいカモにされるだけ、と。

で、それでも、やっぱり成績が望むほど出ていない。そこで、「自他の学識を交換し、各地の利源を開闢し、同心協力迭ひに輔翼し、以てこの業を隆興せんと欲す。余も亦たかつて、此に志すること久し」と、知識を交換して、利益の上がるような開発を行えるよう、協力しましょう、と。何より圭介自身が、官業を舵取りしつつ、技術導入しつつで現場で試行錯誤してきたわけで。有用な技術は咽喉から手がでる程欲しい思いをしてきた人なだけに、そうした、産官民を通した知識の交換というのは「その功徳最大なるべし」ということで、それを鼓舞せずにはいられない、という自身の立場を明らかにしています。

で、その後が圭介の視点の注目したいところなのですが。
当時から150年前、木匠、石工、鍛冶細工など、紡績、製革、開鉱に至るまで、欧米でも資金は欠乏、営業は微々たるもので、近親者で細々と事業を行い、親方自ら鑿槌を振るい、子供まで働かせて、僅か数人程度の規模だった。けれども、1760年ごろ(当時より130年ほど前)ぐらいから、産業革命が始まる。つまり、ローバックが石炭で製鉄をはじめ、ブリンデリーが運河を開いて交通の便を向上させ、ウェットウードは陶器を廉価で製作する技術を発明。そして、ハーグリーブスの水力による紡績の発明、更に、ワットの蒸気機関の「大改良」があって、各種の工業が興り、「面目を一新」した。そして財をなし、巨額の資金を元に、工場を立ち上げた。僅か数人の手でも器械による製造で、国家の一大生産業を成し遂げたことを説明。

つまり、技術の発明と進歩が、加速的に、産業を育成させた。それはほんの短い期間に恐るべきスピードで行われたことを、実感させています。150年前は、自分らとそんなに変わらなかった、と。技術がそれを変えたのだ、と。

ただこれにも弊害はあり、財産を手にした工場主は権勢を振るい、職工を虐待して過酷に使役し、賃金が少ないままに過労死していく状態を指摘し、労働組合によってこの悪弊を矯正した、という歴史事項にも触れています。これが当時の百年前の事。
圭介、炭鉱調査をしたときに、労働条件のことにまで詳しく踏み込んで、報告していました。現場の最も顕著な問題にも取り組んで、その弊害が生じる前に、予防線を張っていたわけです。実際、女工哀史などに代表される例は生じてしまったわけですが…。

そういうわけで「今、我邦にても百般の工業、形勢一変の時に際せり」と、技術革新のまさにその波に乗ろうとしている時代の変化を読んで、「衆力相扶け同心相結ぶときは、天下何事か成らざるを憂へんや」と、知識人の団結と交流を、喚起しているわけですが。
ここで圭介。

「採鉱に地質に冶金に金石に事苟も鉱業に関するものは、細大漏らすなく、これを考究し、その薀枠を摘し、これを会誌に載せ、もって会員に分ち、かつ、広くその質疑に応ぜんとす。しかして漸を逐て実験場を設立し、亦、鉱主の依頼に応じて各地の状況に適する採鉱冶金の良法を攻め、その計画に従事せんと欲す」

「鉱山の主の依頼に応じて」と、広く民間、現場から技術の需用を求め、また、還元していく、そのあり方を最初から提唱しているのが、先見の明があると思います。秘密結社的な隠匿や、専売のための技術の囲い込みは、排しているわけで。圭介、特許に関しては、それが公、学究で行われた事に関しては一般に流布すべきものとし、開発に私的な資金がつぎ込まれたものに関しては私の利益とする、というスタンスを持っていますが。この当たりも、学会のあり方を位置づけたものとしては、国としての発展を最も現実的に考えたものではないでしょうか。


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日本鉱業会誌緒言 続き+蛇足ウネウネ 入潮 - 04/20(水) 12:27 PC No.841 [削除]

ということで、日本鉱業会設立において、大鳥がどういう役割を果たしていたかは、よく分からないのですが。創刊号の緒言によせたということで、大鳥のその役どころの大きさも、伺い知れるかと思います。この頃大鳥は、元老院議員兼学習院大学学長。工部省の終焉と共に技術者としての第一線を退いて、結構余裕のある頃だったのかもしれません。それまで、官業の立場から鉱業に関わってきた人ならではの、国としてのあり方を見据えた現実的な意見が、緒言には反映されていました。この頃は、学会が、深く国の方針と結びついていたのだと思います。それは、大鳥のような官業の最前線の出身者が学会の創設に加わり、学会を支えたというのもあるでしょう。というか、まだ大学卒業生が独自で学会を支えるほど育ってはなく、官業出身者がそこに食い込まざるを得なかった、というのはあると思います。

そもそも当時、明治20年ごろまでは、鉱業関係でまともな日本語の文献といえば、大鳥の山油編、石炭編ぐらいしかなかったわけで。大鳥としても、技術の導入のみならず、「普及」をする必要性はひしひしと感じていたのではないでしょうか。

どの国でもそうですが、科学技術の発展の要素は、二つあると思います。
一つは、自国語での高等知識の教科書があるかどうか。
もう一つは、知識・技術を、民間と共有できていて、事業に生かせているかどうか。

その国の社会科学・技術のレベルというのは、専門高等教育における自国の言葉の訳本の数に、一番顕著に現れてきます。自国語の教科書があるというのは、それだけ、その国の人間が、語学というバリアなしに、高等知識へのアクセスができるわけですので。実際、今の途上国でも、大学レベルの高等科学の教科書は、英語や、過去の宗主国の言語でしか、出回ってないのが現状です。その国の言葉になかなか翻訳されない。なので、語学に秀でた人間はどんどん新しい知識に手を出せますが、そうでない人間はそこで終わってしまう。知識階層が二極化してしまうわけです。日本や中国、韓国が成長できたのは、自国語で教科書を用意したから、といっても過言ではない。あるいはシンガポールのように、国全体が英語化してしまうかで。特に日本が、一億総中産階級化できたのは、この、専門知識の自国語の供給というのを行ってきたから、というのはあるでしょう。これは今も同じで、インターネットだって、日本語でほとんど事足りる。これが日本人の情報アクセス性を、凄まじく高めた。英語オンリーだと、今の姿はなかったでしょう。

その当たりで、常に海外の有用な技術を翻訳・報告し、日本語で解説し続けた大鳥らのような人間が、今の、自国語重視の方向性を作ってきたのであり、それが、日本の技術発展にどれだけ役割が大きかったかは、計り知れないわけだと思います。

もう一つの、技術を民間に普及し、実業として発展させるきっかけとなる場を作った、という点でも、やはり、役割は大きかったのではないかと思われます。技術は、象牙の塔に囲われたままだと、技術にならないわけです。モノをつくり、金を稼いでこその、技術。
大鳥は、官業を基点としつつ、「殖産興業」の名の下に、技術をどうすれば最も国の発展に繋がるか、という視点で、具体的に考え続けた人の一人であるわけで。
現在、産官学のパートナーシップは、新しい概念のように言われていますが、もともとの基点は、連携どころか、それがまさしく一体となって進めなければならなかった。だから、学会知識技術を実業に供給し、実業から需要を吸い取るという、考えてみれば当たり前のことが、ちゃんと行われていた。

それが途中から「学」が聖域のようになって分離していき、それがまた戻ってきた、という流れではないかと思います。といっても、未だに「学」は分離しているなぁ、というのは、学会などに参加すると、いつも思いますが。何億もかけて水素燃料電池の効率を1%上げるより、現場は、コストをとにかく下げて、今使えるものを欲しがっているんだ、という視点もあることを、なかなか分かってくれない。効率は多少どうでも良いから、錆びにくく、濡れに強く、壊れにくいものが欲しい、という至極現実的な要望は、「即物的だ」と、低レベルにみなされてしまう。むしろ実用化、有用さというのは、低レベルなローテクなところに属するのだということを、なかなか感じてくれず、先端技術ばかり持て囃す。…この辺愚痴入ってます。ごめんなさい。

とにかく、学者研究者は、金さえあれば、放っておいても研究します。
本当にその技術が、生かされて国としての発展に寄与するかどうかは、知識技術が一般に普及する為のコーディネーションが要になってきます。技術を使って、製品を生んで、生活を便利にして、国に税金を入れて、国の財布を確かなものにする。その担い手は、基本的に、学者ではなく、実業者たちなのですから。

「学」というのはある程度余裕がないとできないものですが、明治は、当時の少ない人材リソースを使って、産官学が一体となって、最大限の効果を上げるような体制を、自然と作っていたのだと思いました。
そのあたりで、大鳥は、渋沢や五代、西村ら実業界の人間との結びつきも強く、産官学を、時に連結させ、時に潤滑する、梯子渡しの役割を担っていたのではないかと考えられます。

それで、日本初の工学系専門誌である「工業叢誌」のほうは、結局、資金不足で、運営が立ち行かなかったわけではあるのですが…。
そのあたりは、見ているところが20年早かったのだ、という弁護が為されているところではありますが、こういった、鉱業をはじめとした、工業の中でも専門に分派した中で、実業と結びついて、発展が見られた、というところには、意味があるのではないかと思いました。

そんなわけで、大鳥は、自分の技術や研究に邁進し科学者として名を残そうとした人ではなく、当時の時代に必要とされた技術、知識の普及に尽くした、科学の提供者、促進者、潤滑剤、だと思います。だから、大鳥自身の名が知られているわけではない。

よく大鳥は、政治家、という肩書きで表記されていますが、それも、どうも、違和感がある気がします。大鳥自身が政治を行おうとしたことは、一度もないと気がするのです。外交家時代を含めて。自ら進んで、権力、政策、支配にかかる意思決定はほとんど行っていない。政治の主導者ではなく、コーディネータであったのではないか。その材料を提供しているか、実行者ではありましたが、主体者ではなかったのではないか、という気がします。いや、自分自身、人が人と統治する仕組みというのはあまり理解していないので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが。

そして、大鳥が、表に出ず、裏方に徹し続けていたのは、一つの償いなのだろうか、と思ったりするのは、夢見すぎというものでしょうか。

どちらにしても、政治家でなし、科学者でなし、研究者でなし、エンジニアでなし、あらゆる縁の下の力持ち。なんつーか。役割の大きさの割りに、非常に定義のしにくい人だと思います。

…すっかり、酔いが冷めてしまいました。お陰で、面白みの無い文になってしまった…。いや別にこういうのにまでウケを狙う必要は無いのかと思いますが、圭介主体だと、ちゃんとオチをつけなければならない気になってしまうのは、職業病というものなのかもしれません。…だから、何の職業。

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2005年04月20日

楽しい蝦夷地

はー。疲れました。締め切りが近づくと何かと疲れが溜まります。
ゆっくりとネット徘徊できるのが楽しみで家に帰ってくるという日々ですが。
好きなサイトさんが、閉鎖予告されていたり、休止されたりで、なんだか、徘徊も、寂しいです。
次への躍進のための閉鎖だったり休止だったりされているところもあるので、応援すべきではあるのですが。
こういうときこそしっかりどかーんと、餞というほどのことができなくても、なにかしゃんとするべきなのですが。
あー、やっぱり寂しいなぁ…という気持ちが先に来てしまいます。

そんな時には一発、能天気そうな詩。
獄中日記より。

周島里程八百強 珍花奇獣自然昌
葡萄累々堪為酒 野草青々可牧羊
何啻海浜鱗介富 殊蔵山壑銕銅良
先人未解新開法 枉向寒田種稲梁


島の周囲は八百里。珍花、奇獣、自然は盛ん。
葡萄は重なり合い酒を為すに堪え。野草は青々、羊を牧すべし。
ただに海浜は、鱗と貝殻に富み、殊に山谷は良き鉄と銅の蔵なり。
先人は未だ新しき開法を解さず、いたずらに寒田の稲梁に向かう。

…てな感じでしょうか。書き下し文に自信はありません。国語能力は中学生並というのでまず情けなくも免責しつつ。

ずいぶん楽しげな詩です。
前半は特に、希望に満ち満ちている感じです。
島は大きく、自然は豊か。葡萄酒も作れて、草は青々と羊の放牧を待っている。海辺には豊富な魚介類、山は鉄も銅も資源が豊富。
そんな蝦夷の島の価値と新しい開発方法を知らないのか、先人はいたずらに本土の習慣を持ち込んで、土地に適さない稲ばかり作っている。
そんな感じで。

この頃から、蝦夷の金属地下資源や、羊の牧畜、酒、魚介類などの産業に目をつけていたのがうかがい知れます。本当に圭介、開発をやりに、蝦夷にいったのだなぁ、と感じさせます。

これ、蝦夷に着いたときや、少なくとも蝦夷に居るときの詩だったら、もう、意気揚々、やる気マンマン、さぁ、開発するぞ!といいわんばかりなのですが。

……獄中なんですよね、この詩、作っているの…。

ふんどし洗ったり、昼夜横行する鼠に悩まされたり、蚊帳を作ったりして過ごしていた、明治2年8月、牢屋に入って二ヶ月ほどの、詩。
丁度、獄中の自分の立場が身に染みてきた頃で。
籠の中の鳥はどこへも行けないことを実感している頃に。
「偶得蝦夷七律」

蝦夷はあんなに新しい産業の可能性に満ちているのに、古いやり方に拘っている先人をからかっているだけの詩、とも見えないこともないですけれども。

どうも、時期柄を考えてみると、凄まじい自嘲が込められている気がしてなりません。

最後の行、おれをこんなところに置いておかずに、おれに開拓をやらせろ、といいたい、というよりは。
そんな状況でも、所詮おれはこんなところに居る…という感じで。
圭介の主体者意識を考えると、只のからかいではない気がするのです。

一見、希望に満ち溢れているだけに、よく考えてみると、その影の部分が濃すぎる。

…あ、だめだ、盛り上がろうとしたのに、暗くなってしまった。
まぁ、こんな時もあります。


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キャッチフレーズ 入潮 - 04/21(木) 22:04 PC No.843 [削除]

ふと思ったけど、この漢詩、蝦夷入植のキャッチフレーズみたいだなぁ。
開拓者募集! とか題字についていても、そのままで全く違和感がない。
特に2,3行目。酒に羊に海の幸に鉱山…。
君も蝦夷で一旗上げてみないか?という感じで。
圭介、開拓使の広報に頼まれでもしたのだろうか、ってぐらいだ。

自分、漢詩に慣れ親しんでいるわけでもないですが。
こんな即物的でリアリティあふれる内容を、「たまたま得て」漢詩にするのって、やっぱり圭介だけだと思う…。
情緒があるのかどうなのか。
自嘲する自分すらネタにして笑っている気までしてきます。
ラベル:大鳥圭介 開拓使
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2005年04月21日

南柯紀行予告編

(雨の音)ザァァ…。

――その男の一歩目は

(幼女の声) 「おひなさま、かたずけちゃ、やだぁ」
(婦人) 「あなた…」

(男、横顔)「徒に死にはしない。進退を見極めて、いずれ、戻ってくる」

――泥道から

(水を踏む足音) パシャン
(報恩寺、立ちながら居眠りする見張りの隊士)「………。先生…?」

――始まった。

(城に劈く砲撃。退却する軍)
(両脚を打ち抜かれ、戸板で運ばれる男)「総督を、どうか…」
(峻険な山道、暗夜、泥まみれの飢えた男)
「何故だ、何故、総督は、我々をかような目にあわせる。何故一思いに死なせてくれぬのだ!」

――策謀。

(赤熊を被り笑む男)「くく。袋のネズミじゃ」
(部下)「袋が少々、厄介な場所にあります」
(日光東照宮、浮かぶ)
「なぁに。…燻り出してやるまでのことじゃき」
(背後に、僧侶、頷く)

――恭順と、裏切り。

(轟音。母成峠、逃げる農兵。一面の炎)
(隊士)「火の手が!」
(士官)「背後だと!味方の陣ではないのか!?…ぐぁ!」(右肩を打ち抜かれる)
「退け、退けーーっ」
(士官)「死んだ…?総督が…」

――幕末と明治。武士と軍人。封建と近代。その狭間に生きた、男たち。

「ははは、また、負けてしまったよ」

―― それぞれのあり方。

(目を血走らせ激昂した士官)「あいつの元になど、止まっていられるか!」
(髪の跳ねた隊長、煤だらけの顔)「うらァ!次だ、次ィ!」
(穏やかな声)「…私には、分かっています」

――彼らが見た、一抹の夢。

(ザァァン、と波濤。海をゆく、開陽丸)
(男、拳を握り締めて)「北へ。北方の防備と、新天地の開拓。武士たちに新たな役割を」
(拳に添えられる手)

――空には、北辰が、輝く。

(兵の声)「薩摩砲兵!」
「来たか…」

(轟く砲声、黒煙、飛散する土塁)
(スローモーション)
(少年)「父上!私も後を…!」
(藪の中、己の喉に銃を突きつけた老人)
「よもやこれまで…」(銃声)

――最後まで

(五稜郭一室、白刃を掴み血を流す隊士)
「来てくれ!誰か、総裁、総裁がーーっ!」

――選び続けたのは

「降伏しよう」

――生きる、道。

(静寂。月光の指す牢獄)

「誰が正しくて、誰が間違っているのか。弁ずることではない。ただ、人の評に任せるだけだ」

(会議、洋装の男の発言)「死罪以外に何がある!」
(坊主頭、机をバンと叩き)「あん人らは、国の宝でごわす!」

(卯の花と雪原の交差、ちり紙と薄墨)
「捨てる身であればこその、敷島の道だな…」

―― そこからが始まり。

(青い空、開放される扉)
(少年の声)「父さま!」

―― 本当の忠義とは。

(軍人)「どうか、貴殿の力を陸軍に」
(輪になって座す男たち)「新政府になど、いまさら膝を屈することはできぬ!」

―― 償いとは。

(クローズアップされる開拓使の印章)

「これが、私の、…戦いだ」
(印章を握りしめる手)

――「南柯紀行」

(暗闇。雷の音。雨)

――Comming Soon.


…嘘です、うそです。夢です。ごめんなさいィィ。

やっぱり、絵になるのは戊辰戦争中なんだな。娯楽的に。
明治については、黙々と地味に仕事しているのを、ハタから眺めてても面白くない。
一方、明治圭介は、本人の仕事内容や書き記したもの、考え方など、見えないところを追いかけるのが、良いです。人間形成的、ってことで。
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2005年04月23日

毎日圭介


「神戸又新日報」。明治17年4月に創刊された神戸の地元新聞。
神戸市文書館 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/top.html にて。その見出しのみ紹介されているのですが。

この、明治35年1月22日から、ほぼ毎日。「吾県の精華 大鳥圭介」というのが顔を出しているではありませんか。
しかも、3月16日、第50回まで、続いている…。
この「吾県の精華」というのは、県の著名人を紹介していくコーナーのようですが。
ま、毎日毎日、新聞に、2ヶ月弱にわたって、大鳥圭介の名前が…!様々な姿が…!

なにより、明治35年といえば、圭介、存命中。
大鳥圭介伝の記述が、蘭三郎氏をして「なにやら物語りめいていて確かなものに欠ける感じ」と言わしめているのは、圭介伝が、圭介死後に出版されたもので、その口述なども、圭介の校正を経てないのが一因だろうと思ったりするのですが。

たしかに、圭介伝より、「老雄懐旧談」や「実歴史談」のほうが、生き生きしている感じがするのですよな。分量は圭介伝が一番ですけど。やはり同時代で、少なくとも本人が眼にしている文章だということで。

てことで、リアルタイムの大鳥圭介記事。しかも50回。

「けいすけじゃ」以来の衝撃かもしれん。
いや、そこまで期待はしてはいけないと思いつつ。

神戸市文書館。早速もう新幹線に飛び乗りたい自分。
公の機関に違わず、日祭日休館……。
あぁぁ、提案書が。報告書が。研修生の準備が。…すべてを捨て去りたい。何で自分は、自分の身すら自由にならないしがない会社員なんだ。

こ、神戸市の皆様…。

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あった… 入潮 - 04/23(土) 03:16 PC No.848 [削除]

すみません。
国会図書館にあるようです。ハハハハハ。

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もいっちょ。 入潮 - 04/23(土) 18:55 PC No.849 [削除]

後、神戸市立中央図書館の郷土資料にも、あるようです。神戸又新日報。
こちらですと、土日も利用可能な模様。
関西の皆さま、是非。
(だから明治の新聞を求めて土日をつぶすほどの大鳥スキーが世の中にどれほど…)

…てことで、凄かった。何度鼻血吹くかと思った。
純平じぃちゃんのラブっぷりとか、イタズラ餓鬼大将ぶりとか。
さすが同時代文書。…もう、脳溢血起こすかと。

午後までどうしても職場を抜けられなかったので、時間がなく、一部しかチェックできなかったのですが。

……世の中、宝って、あるものです。
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2005年04月24日

神戸又新日報

……だめだ。仕事に身が入らない。
ということで、先に読んで語ってしまいます。「神戸又新日報」の「吾県の精華」。
時間の関係で、入手できたのは20数号分ぐらいなのですが。

50号あるだけあり、1号目、上郡石戸での取材に始まり、圭介の足跡を最初から追っているのですが。凄かった。なにがって。

…10号に至って、まだ、中島意庵先生。ようやく大阪へ足を向けた、という進捗具合。
10号分、延々と、圭介の幼少時代について語っているんですよ…!

戦中に関しては、ほとんどが南柯紀行からの抜粋で、ちょこちょこと解説がついているぐらいなので、特筆することはなさそうな感じですが。

ようやく49号目で仙台。最も知られているだろう箱館は、この49号で、「長くなったから、略」。
そして、50号目で、後の人生のハイライト。でもその中でなぜか、みちさんとの馴れ初めが書かれていた。素敵すぎる構成。

これ、あまりにも、あっけない終わり方だったので、もしかして人気なくて打ち切り?とか思ってどきどきしたのですが。

元々50号構成だったのではないかと思います。それで、あまりに記者、前半人生に熱が入りすぎて、後の箱館部分が入りきらなくなってしまったんじゃないだろうか。地元新聞だし。圭介の人生で、兵庫とかかわりがあるのは、幼少時代だけで、あとはたまに墓参りしただけでしたから。

取り上げられ方なのですが、大体、1面6段構成で、1回分は、内の1段にまとめられています。掲載されているのは、すべて、1面目です。圭介、1面記事。

で、肝心の中身ですが。
「大鳥圭介伝」前、というだけあって、特に、上郡部分、圭介伝にも含まれて居ない美味しい情報が満載でした。圭介伝の山崎有信氏、この新聞記事をだいぶ参考にしたのではないだろうか、と思うような記述も。「自然のまがきを縫って」とか「草高僅かに百石」とか、同じような表現も見受けられました。この記者、筑川氏という方らしいですが、文体も違うので、多分山崎氏と同じ方、ということはないと思うのですが。

まず、圭介の紹介のしかた。第1回の始まり。

「兵庫県は面積が広いだけに人物に富んで居る。この済々たる多士の中、最も名声の響いているのは大鳥圭介である。日本全国津々浦々に至るまで、大鳥圭介という名は田夫野人にまで知られている。彼は、播州一国のの大鳥圭介ではない。況や、岩木谷山中の大鳥圭介ではないとは勿論である。彼は、天下の大鳥圭介である」

熱い。アツイですよ、筑川さん。こ、こんなにいきなり、「大鳥圭介」の連呼に出会えるとは、1Rでノックダウンさせる気ですか。しかも、天下の大鳥圭介、2回連呼しています。

「天下の大鳥圭介は、いかなる地に生まれ、いかなる境遇に感化され、いかなる遺伝と教育を受け、いかなる経路を踏んだか、これを聞かぬまでは思うに諸君の好奇心は満足せられまい」

応!よく分かっているではないか。やってくれ、存分に語ってくれ、筑川さん。(←アンタ筑川さんの何?)

「記者がこれを語るも、この県にかくの如き人物が出たというその高慢心を慰むる種となるのぢゃ」
筑川さん、良い人過ぎる…! 「ぢゃ」のお茶目さに、また、打ちのめされます。

で、筑川氏。上郡を経て、圭介の故郷岩木村石戸(記事では石堂)に取材を行っています。「記者は親しく彼の生地に往いて見聞したが、諸君はいかなる地と想像せらるるか」。筑川さんも、行ってみてびっくりだったようです。上郡のロケーションを説明ですが、これは圭介伝と同じ記述ですが。上郡にて、「この辺で大鳥圭介の家と聞けば誰でも知っていて教えてくれる。生まれた村の名を聞くよりも、家を聞くほうが近道である」と、現在の状況からは考えられないメジャーぶり(…)

上郡からは岩木の山中に入り、その辺境度合いを強調してくれています。上郡から岩木に行く為には、千種川を渡らねばならないのですが、当時橋はなかったようで、船渡しがいました。渡守は親子ふたり。「父は五十ばかり、雨に打たれ風に晒され日に照らされて鍛え上げられた頑丈な骨組みで、赤く黒光に光っている、その額には世知辛い浮世の味を嘗めてきたその経験が深く刻まれてある」 と、渡守について、なんとも良い表現をしております。ここまでで、1号分。長い頬髯がキュートな圭介肖像まで、つけてくれています。

その後、船を下りてから、近いと思ったら、まだまだ先があることにびっくり。子供の渡し守が圭介実家の場所を丁寧に教えてくれるのですが。「これは、記者の洋服扮装を郡役所のお役人様と見て取った故ではなく、大鳥圭介を尊敬し、むしろ崇拝するゆえであっただろう。大鳥圭介なる名は、この谷一面の老幼男女の精神界を支配して、あたかも生神様の如く、鎮守の氏神よりも霊験は顕著である」
い、生き神様! …たしかに白髭コロボックル仕様老人圭介は、そんな感じです。神棚に祭って、豆腐と濁酒をお供えしておきたいです。

それから、岩木の概要を紹介。よほど辺鄙さを強調したいらしくて「千種川を浮世の境として」とか言って、岩木を別世界のようにでも見てしまったようです。ただ、「田も畑も少なければ耕作一方で生計は営めぬ、紙漉きと炭焼きは、副業というよりも、むしろ本業となっている」と、土地の貧しさ、寒村であることに触れ。一方で、「文明の風は未だこの地の旧慣を吹き破らぬから、女や子供の敬礼していくのはしおらしい」と、都会の人間が田舎の人情に懐かしみを感じるのは、いつの時代も同じなようです。「野心もなければ希望もなく、むしろ、十分の快楽を享受して、ここに一生を送っている」と、明治の人間も、今の自分も、旅に出ると同じ事を感じるものだと思いました。

で、圭介伝にないエピソードも。
鍋倉という地が、岩木から4kmほど奥にあり、そこに、神戸の外国人の領事が狩猟に来た。日が暮れて宿がないから、農家で米三升と炭1俵を3円で買ったのだが、米を自分で食わず、猟犬にくれてやった。3円という大金を払ったのにその扱い。地元民は、これは山賊ではないかと疑って、山を降りて村長に急報。村長は驚いて10数人を引き連れてみると、これが西洋人のしかも領事。これが彼らが外国人を見た初めての姿だった、と。
…つまりそれだけ、圭介が生まれたのが辺境だった、と強調したかったらしい。ここまでで2号。

3号目でようやく、筑川氏、圭介宅へ。当主は貝次郎。圭介弟鉄次郎の長男です。貝次郎は東京の圭介宅で、養蚕を習いに、しばらく過ごしたことがあります。残念ながら、圭介と一緒に竹馬に乗り、凧揚げし、独楽を回した幼馴染は、一人も存命していなかった。圭介と同じ年で、前に済んでいた爺さんは、去年亡くなったとのことでした。ただ鉄次郎の手習い弟子だった雌鳥氏には話を聞くことができたとのこと。
あとは圭介の先祖について。これも圭介伝に含まれています。ここまでで3号。

そんな感じで、1号ずつ語っていると、とてもとても終わりません。
それから、圭介のじいちゃん、純平の紹介に入ります。このじいちゃんの強調し具合が激しいです。
「彼の今日あるに至ったのは、一に老父の力によるのだ」と、圭介の発達過程における純平の役割の大きさを強調。代々村の手習い師匠として尊敬されていて、姫路まで音に響いた博学で、文書も詩も歌も作り、手跡も見事。「大鳥圭介が郷里へ墓参に帰ったときに、その文章詩歌筆跡などを見て、『祖父(じい)も山の中には過ぎた学者であったわい』と語ったこともあるそうだ」だそうです。圭介、純平のこと、「じい」って呼んでたんですね…。いや、萌えどころがずれました。老年になり文事で活躍する圭介が、感に入るほどの人。身内びいきもあったのかもしれませんが。それだけの人だったようです。

純平の遺草は、残念ながら残っていないとの事。雌鳥家に、習字の手本が一冊あり、その末尾に、純平の作った文章が写されているので、これを紹介していました。「尋常一様の寺子屋師匠よりは数段立ち勝っていたことは明らかである」と、筑川氏。筆跡に関しては「その書は恰も痩せた一本松が峰の上に激しい風に抵抗して尚、その本領を守っているような風で、遒頸飄逸の中に風韻と気骨を備えている」なんて、凄いほめ方をしています。筑川さん、貴方も詩人ですな。

「彼は酒を嗜んで、その性質豪放磊落で、炭焼きや薪割を相手に脈を診たり薬を盛ったりして狭い天地に跼蹐していることを好まぬ」と、純平じいちゃんの気質。で、養子で圭介父になる直輔に家を譲って、出教授へ。ただ、年を取ると故郷が恋しくなり、石戸へ帰ってきて、孫や近所の子供に教えていた。

ここで、孫圭介の可愛がりぶりよう。「敏捷で記憶が善いので、祖父は其の愛を彼一身に集めて、暫くも其の傍を話さぬぐらいであった」

その圭介は、家では読書を好み、祖父や父母に良く仕えたという。しかし、一旦、外へ出れば、「腕白で乱暴で背の低い一寸法師」だったそうです。一寸法師…! 「己よりも年の多い背の高い子供らに混じって其の大将となって采配を振るっていた。之はお医者様、お師匠様の子だという門閥の観念が子供らの頭にも幾分響いて、彼が大将と仰がれる資格を作ったには相違ないが、しかし、子供の中では一番利巧で学問もあり、才智もあり、自然に人を統御する質が具わっていたことが大原因である」 圭介、小さな体で、餓鬼大将、しかも知識派の大将だったようです。嗚呼。

「いかに彼が聡明でも鋭敏でも才気があっても、世界とはかけ離れたこの狭い谷の中におって、広い社会を見なかったならば、其の能力を十分に発達して、天下の活舞台で之を奏演する機会を得なかったであろう。多分、先祖や祖父や父と等しく、この谷の村学究に終わって中の山の累代の墳墓の中に、先祖と並んでこの無名の英雄の石碑は、子孫が『先代に圭介という人があって学問ができたそうな』ぐらいの追懐を成すにとどまって、果ては雨に削られ苔に閉ざされて、それさえ思い出されずに未来永劫浮かぶ瀬無くして果てたであろう」

ノッてますな、筑川さん。それほどまでに、強調したいのが。この純平が、圭介を、山の向こうの開けた世界、姫路へ連れ出したこと。純平が「姫路の町学校の教授に雇われて赴任することとなったが、老人夫婦のみにては寂しく覚ゆるから、日ごろ鍾愛する彼を連れて行き、一は老の慰みとして、一は姫路において学問をさせようと欲してである」
…鍾愛。慰み。身内といえ。…筑川氏は一体、我々に何をしろというのだ。いや、何も求めてないでしょうが。

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神戸又新日報、続き 入潮 - 04/24(日) 02:37 PC No.851 [削除]

この次が名文。岩木という閉ざされた世界から、姫路という、新天地に出てきた、少年圭介10歳の感動。
「狭い小さい汚い岩木谷の家を出て、姫路に来たが、好奇心と求知心とに満ち充ちているまだ十歳の少年には、見るもの聞くもの、一として感動を与えぬものはない。白鷺城の堀を巡らして、其の間に白い天守閣の雲にたなびいている、学校の大きく生徒の多いこと岩木谷の餓鬼大将も、ここへ来ては省みられもしないこと、これらの刺激は、彼を興奮して子供ながらも彼は山中の埋木となって朽ちざらん事を決心したに相違ない」

で、圭介、純平じいちゃんのもとにくっついて、姫路で2年を過ごしたそうです。そりゃもう、刺激的な毎日だったでしょう。けれどもじいちゃんの仕事期間が終わってしまったので、やむを得ず故郷へ。「見聞は広まり学問は進歩したが、持って生まれた性質は相変わらずで、再び餓鬼大将となった」そうです。広い世界を見てしまってから、小さな谷へ戻ってしまった。その鬱憤が溜まってきたのでしょうか。この腕白ぶりがまた、エスカレート。

柿を落とす、大根をこぐ、ニンジンを抜く、玉蜀黍を盗むなど、手に余ったとの事。
けれども、「『おっかさんに言いますぞ』というと「伯母さん御免だ、言っちゃいけぬゝ」と謝る所に、しおらしい点があった」…筑川さん、後世の読者(一部)を、悶え殺す気ですか?

でも、この謝罪は一時の方便で、イタズラは少しも改まらず、お医者様の子であるから告げ口するわけにも行かず、近所でももてあまされていたそうな。で、圭介の妹、おかつちゃん。圭介の4才下。「今猶壮健で存命しているが、小柄な品の良い容貌で、言語動作が頗る温順」な方だそうです。このおかつちゃん、いつでも圭介の後に就いて遊びに行くのだけれども「彼はとかく妹を邪魔者にして時々之を振り蒔く、そうすると妹は泣いて帰って兄の悪戯を母に話す、それから母は彼を叱責する、彼と妹とは睨み合う。是は、度々ある例だった」
どの兄妹も同じよな〜。と思いながらも、大変ほほえましい。兄に撒かれてしまったのを恨んで、かあさんに兄の悪戯の告げ口をする妹。可愛い。

あと、圭介、祭りの獅子舞がものすごく好きだったのだけれども、ある9月の祭日、一週間前から、当日に雨が降らないことを祈るぐらいだったのに、弟鉄次郎を妊娠していた母が、祭りの前夜に産気づいてしまって、祭りどころではなくなってしまった。鉄次郎は無事生まれ、皆大喜びで騒いでいるのに、圭介一人「赤ん坊など生まんでもいい」などと陰言を行って、引きこもって不機嫌の顔をしていた、なんてことも。この辺、とっても子供らしい。そんな少年。

川遊び、山遊び、すべて子供のする遊びで、彼のやらぬものはなかった。谷に深く入っていって、枯れ枝を落として両束にして、天秤にかけて担いできたこともある遠く、浄願寺(岩木七村の入り口に在る寺で、この寺の老母と圭介の祖母が姉妹だった)とか、上郡まで遊びに行くのも度々だったとのこと。上郡の庄屋の竹内という家に、圭介と同年輩の遊び仲間が居たこと、なんて、ちらちらと美味しい情報もこめられておりました。

上郡まで8kmある山道。圭介少年、そんな遠路を、しょっちゅういったりきたりして、この頃から、あの山中行軍や石油調査で見せた健脚を、鍛えていたようです。「浅黄の羽織を着て、千種川の渡場を渡って度々お出でになるのを見ました」と、上郡の老人が証言してたそうです。

こ、ここまでで第8号。これから、閑谷学校へ入るわけですが。この幼年期に、8号費やすこの記者。すごかった。
後は大体、圭介伝や南柯紀行に触れられていることですので、新しい情報には乏しいのですが。もう少しネタがありますが、そろそろ力尽きたのでまた後日。

本日手に入れていない残りも、後日複写をかけてきたので、入手次第、語らせていただきたいと思います〜。

というか、こんな素敵記事、図書館の書庫の中で埃を被らせておくのは、本当にもったいない。もっとアクセス性が高まらんかと、切に願います。全部テキスト化してネットに上げたいぐらいで。

明治の記事なので、既に著作権は消滅しているのですが、問題は、記事が苗字だけとはいえ記名ありなので、著作権を受け継いでいる子孫の方が居るかどうかを確認せねばならないことと、それをクリアした上で、国会図書館の決済を経た承諾を経ねばならないこと。かなり手続きがきつそうですが。トライしてみたいと思います。
そんなモチベーションを抱かせてくれる、パワーにあふれた記事でした。

というか、圭介伝や南柯紀行は、書籍として、普通の図書館でも見れるのですが、先にあげた、圭介の手、声の反映された同時代文書で、これこそを史料としてみてほしい、というものって、大抵、非常に手が届きにくいし、数が少ないので一度に利用されると史料が痛むことを心配しなければならないのばかりで。
いや、それに手を伸ばしてくださる方もそんなに居ないだろうから、杞憂というものなのでしょうけれども。
できるだけ、著作権の枠の中で、電子化・公表できるものは、していきたいなぁと思います。


さて、どうでもいいのですが、これを探すのに、掲載年月日を控えて来るのを忘れてしまっておりました。マイクロフィルムがあるものはそれでしか閲覧ができない。たしか、明治30年代だった…ぐらいしか覚えておらず。2ヶ月にリール1本で、一度に3リールまでしか貸し出しできない。1回貸し出しに15分かかる国会図書館ですから、片っ端から探している時間もない。

ということで、係員さんに「インターネットにアクセスできる端末、ないでしょうか…?」と恐る恐る聞く。「ないです」とのすげないお答えでしたが、「調べ物ですか?」と融通を利かせてくださって、事務用の端末を使わせていただきました。

…事務員さんが横30センチで見ている前で、自分のサイトを開くのは、かなり勇気が要りました。何より、ぶちきれている自分の文章が、恥ずかしかったです。
国会図書館に行くと、いつも飛んだ羞恥プレイを味わえます。いや自分が悪いんですけど。
ラベル:大鳥圭介
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2005年04月26日

神戸又新日報 第50回最終回

えっと、まだ、興奮冷めやりません、神戸又新日報。
いや、一寸法師餓鬼大将とか、鎮守の氏神より霊験あらかたとか、祖父の愛を一身に受けて片時も傍を離さないとか、そういう爆弾記述はもうないと思うのですが。いやあれ以上あったらいくら血管に弾力があっても、圧力高まりすぎて破れます。もうちょっとテンション下げてまいります。

で、いきなりですが最終回。
獄中。この記事の頃は「日々の出来事は詳しく書きとめて入獄記といって彼の家に今尚存してある」と、まだ、獄中日記は発表前だったのでしょうか。

「獄中に居ては苦労の事も無かったが、彼の気に掛かるのは、牢外にある彼の妻と子である」と、藤原帯陣中に人を遣わして安否を問わせたことを上げてます。自分も相当不思議だったのですが。みちさんがどう、三人の子供を抱えて(生まれたばかりの菊ちゃんは養女にだされて…) やりくりをしていたのか。

そもそも、みちさんが圭介と結婚したのは、圭介が江川塾で漸く頭角を現し始めた頃。阿波藩に招聘されて、また、蕃書調所に出仕もしてますが、これはバイト扱いで、身分は所詮農民上がりの下級藩士。これ雲州藩士の娘が嫁いでくるのはどういう縁なんだろうとは不思議に思っていたことでした。

大体、武士の結婚というのは、禄高や家柄で相当細かいつりあいが配慮されて、同じような格式の家の男女がくっつくもので、しかも、親戚養子養女関係が入り乱れた、そうとうタイトな繋がりのなかで行われるものなのですが。圭介とみちさんを繋ぐ縁の糸が見えなかったのですよな。

そこに、やってくださいました、筑川さん。圭介とみちさんの馴れ初めに関して触れた、圭介→故郷の書簡を、紹介してくださっていました。

「扨、昨年より色々申上候私妻縁の儀、岩木氏の娘可致儀申上置候得共、昨冬に至り少々故障の筋合有之候間、右の口は相断り、矢張り当江川内の人の世話にて、京極佐渡守様(此は讃岐丸亀の城主)御家中吉田善八郎養女相談に相成申候。同人事は当年二十一歳にて人物は至極宜しき様子、且血筋家柄の所も聞合申候所、申分無之様子に御座候間先達て決定いたし、今月十日に結納差出し来二月引受申度存念時候」

墓には雲州藩士矢島大三の娘、とありましたが、讃岐丸亀の藩士、吉田善八郎氏の養女となっていたようです。
元々圭介、故郷の岩木の娘さんとの縁談があったようですが、どうも不都合があったようで駄目だったそうで。振られたんじゃないだろうな…。で、みちさんは、江川塾に勤めていた人のご紹介だった、ということのようです。で、21歳、人物は大変良い。家柄もつりあいよし、ということで、申し分なく、決定いたしました、とのこと。

みちさんとの馴れ初めが此処まで詳しくでてきたのも、はじめでです。嬉しい。
…当たりまえ過ぎて下らん、なんてことはチラッと思っても、口にだしてはいけません。

讃岐丸亀というと5万石の外様小藩。おそらく、みちさんは、江戸詰めの藩士に一緒についてきていた娘さんだったのではないかと。で、みちさんの親は当時の圭介の禄高のつりあいを考えるとやはり下級藩士で。

それで、普通、武家の娘は、結婚後も実家との結びつきは非常に強く、相互扶助の社会的な役割を、親族関係の結びつきを強める事で得ていた面がある。困窮した武士の頼みの綱は親戚、だったわけですが。みちさんのばあい、江戸詰め藩士の娘だと、大政奉還後は親も地元に帰ってしまい、みちさん側の親族にはろくに頼れる人も居なかった、というのが一番ありえるのではないかと。それで、成り上がりの圭介のほうも親族は寒村だし、圭介側の親戚にもあてになるような人は居ない。荒井宗道や江川塾に身を寄せていたとはいえ、生活費まで全て面倒を見てもらうわけにも行かないだろうに、どうやって圭介の居ない間の生計を立てていたのか不思議だったのですが。圭介。

「妻子の生計は、親戚友人の助力により辛くも凌がせたが、家族のために故郷の弟鉄次郎の許へ、三十両の借用を申し込んだ事もある」…とのこと。

友人というのは、江川塾や開成所の、洋学者時代の交流かと思うので、そこそこいいツテはあったのでしょうけれども、彼らも重に幕臣で、徳川の封が1/10にも減らされて、その微禄覚悟で共に駿府へ行くか、無職になって江戸に投げ出されて残るかの選択肢しかなかったわけで。この時期、困窮していたのは誰も同じ。

それで、疫病流行っていた岩木村に。30両もの大金を…。しかもこの頃、圭介投獄中、明治2年9月に母親おしかが、明治3年には妹おかつの夫福本譲平氏が亡くなっているので、鉄次郎、出すにしても相当苦しい思いだったでしょうに。そんな弟に借金。そして獄中から出てみれば、母と義弟は亡くなり、故郷は流行り病と困窮で悲惨な状況。そりゃ、圭介、故郷に頭が上がらないはずです。売りに出しても100円にならない家に、90円出して石垣の修理しちゃうはずです。

ちなみに、この頃の武士の借金、たとえ身内が相手でも、利子は14%が最低ラインだったそうです。……消費者金融並やがな。下手すれば十一だからサラ金より性質が悪い。それで利子を返すためにまた借金をして、雪だるま式に…。(「武士の家計簿」は大変参考になりますー)

家禄を削られ、地租改正でリストラされた武士たち没落は、政府だけが悪いのではなくて、要するにそれまで資産の運用なんて考えた事も無かった経済観念の欠如によるところが大きいわけで、ある意味自業自得なんですが。そこを不満として佐賀の乱や西南戦争に繋げられていったのは、なんとも、辛いものがあります。結局、武士の精神より明日の生活なわけです。そういうのを見ているから、圭介は「衣食足りて初めて礼を知る」なんて現実味溢れる事を仰るわけです。で衣食を足らせるために工業育成に献身するのですな…。

圭介の出仕。天朝に仕えるとか、それが本当の償いだとか、そういう精神的なところもあったのかもしれませんが。
何より、食っていくためと、借金返すためと、養女に出してしまった菊ちゃんをひきとるのと、親兄弟への供養のために、即座に何でもいいから金を稼がねばならなかったその差し迫った現実が、大きくモノを言ったんじゃないかなぁ……。
てことで当時、誰も圭介を責められる人は居なかったと思います。

それで釈放後1ヵ月半でまた欧米に出て行って、更に借金作って帰ってきて、給料半減、時に給料奉納してしまうんだな、この夫は。

で、後に華族に叙されるまで栄達した圭介。若い頃の苦労が見に染み付いていたのか。大鳥家書生の話では「質朴で節倹で、マッチ一本も無駄につかわぬ」方だったそうです…。

なお、「名誉を得んとするよりも落とさぬことに注意せよ」と訓戒するなど、一応、ちゃんと、偉い人っぽいことも仰ってます。

てことで、生き神様の英雄華族様の半生を描く、一面紙を堂々と飾る50回連載の締めくくりは。
…現実の生活の苦労をを忍ばせてやまない、大変、心に染みてくる、感動のストーリーでありました。感動の方向が違いますが。
やっぱり圭介です。これが圭介です。さすが筑川氏。ワタクシのツボを良くご存じでいてくださってます。(←知らんて)
いや、少なくとも、この方、圭介のオチ人生の呼吸は、しっかりと噛み砕いておられた方だったということに、間違いは無いと確信いたしました。
ラベル:大鳥圭介
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2005年04月28日

GWとイスラム詩人

所要で、2日間、関西のほうへお邪魔することになりました。
いつも、直前になってから予定が決まる奴です。だから交通機関のアレンジに四苦八苦する…。
別にGWだから動くわけではない。私が動くのが偶々GWだったんだ(何様だ)。くー。

てことで、東京→伊丹→岡山→東京、という変な行程になりました。

それでですが…2日夜、3日昼頃あたり、お暇な方で、姫路、三ノ宮あたりで、駄弁りに付き合ってやってもいい、と言ってくださる方っていらっしゃるでしょうか…。
いまさらGW三箇日に予定の入っていない方を求めるなとか、そもそも誰もお声かけくれなかったら寂しいとかありますが。はは。

一人だったら、おとなしく兵庫県立図書館で郷土資料を漁るか、淡路に渡って稲田事件関係を探索するかしよう。洲本の資料館、休日開いていたかなぁ。
てか、結局、北の零年、実損ねました。もうほとんど映画館でやっていない…。うぅ。

ところでいきなり全く関係ないですが、オマルハイヤームは圭介と似ていると思います。
いや、圭介が、日本のオマルハイヤームというべきか。
セルジュク・トルコの、医者、数学・天文学・法学・文学者、そして詩人。最も早い近代人。
ルバイヤートの作者。酒好き厭世観がたまらんです。
超現実主義者なゆえに詩で現実逃避する。圭介は詩でも現実主義だからその辺は違いますが。でも詩に「世の中そんなものさ、けっ」というのを不意に込めるのは、共通していると思います。
ラベル:大鳥圭介
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