2005年05月05日

関西訪問1

今回の関西行き。相次ぐ計算手戻りでGWも休みとは縁遠く、2日間の休みを取るための調整が追いつかず、徹夜明けのまま出かけるという有様でした。けれども、その甲斐あって、大変愉しませていただきました。お相手してくださった方、本当にありがとうございます。忘れないうちに、箇条書きでとりあえずメモ。

1) 前哨戦

GWに東京にいらっしゃったSのさんと、S子さんに混ぜていただいて、お食事。Sのさんの特濃資料を拝見しつつ、S子さんの考察をお伺いしつつ。ずうずうしく資料コピーをお願いしつつ。発散のひと時。S子さん、寄生虫ネタで盛り上がってしまってごめんなさい。

青山士の手の美しさについてとうとうと語ってくださったSのさんは、相変わらず、他の追従を許さぬマニアっぷりでした。
あと、S子さんの勤務先にアノ愉快な人たちがかかわっていた、というか、創業エピソードそのものだったのに、大衝撃。S子さん、貴重文書の写ったパンフレットをしっかりゲットしておられました。…客になります宣言をしてまいりました。

2) 上郡

4回目ぐらいか? 今回は、少々目的がありまして。それなりに進展いたしました。おいおい、ご報告させていただきたいと思います。

● N先生ご訪問
「大鳥圭介とその時代」の著者でいらっしゃるN先生をご訪問。地元のK様のお計らいで、当日に電話をしてそのまま押しかけてしまいました。K様には並々ならぬお世話を賜りました。

自分如きが御前に出て、一体何を、先生の時間に見合うものを供せるか、という感じでしたが。ぎっしりと詰まった大変濃密な会話をいただきました。言葉一つ一つに、あふれ来る情報と考察。先生は法学ご専攻で、憲法や法成立の観点から、古今の膨大な文献を紐解きながら、幕末・明治を俯瞰されただけあって、時代背景と圭介の位置づけを関連させて語れる方は、この方の右に出る方はいないのではないだろうかと思います。政治と法学と歴史の莫大なバックグラウンド知識を持って研究された方の重みはなんとも違うもので、大変刺激的でした。
書庫を拝見したり、素敵資料を拝見させていただいたり、他の研究者の方や大学関係者をご紹介くださったり。
こちらも何か返せるものがないと恥ずかしくてしょうがないものですが、陸軍省借金ネタ(K村さんありがとうっ)や流落日記など、インターネット時代ならではでアクセスできる情報ソースがあって、助かりました。
あと、先生所蔵の大鳥書額や書軸を拝見させていただきました。故人の言葉ですが、大変圭介らしい言葉だと思いました。書額は以下の二つ。

「水飲思源」(水を飲みて源を思う)
今飲んでいる水は,その水源からとうとうと流れてきたもので。水が飲めるようになるためには、調査し、ダムを設計し、建設し、貯水し、溜めた水をパイプで引っ張り、ときにはポンプで圧力を上げねばならないわけですが。圭介の経歴から、水、という当たり前のものにこめられた、人々の苦労や活躍まで思いやられるような言葉でした。

「江漢心濯之」(江漢、[揚子江や漢川など大河]により心を濯ぐ)
人は河とともに流れ河とともに生きてきた。時に歴史の主流にその身をおき、時に傍流で眺めて、さまざまな感情を漢詩に詠んだ圭介の言葉。中国の大河を見ながら、馳せた思いは、どこを飛び交ったのだろうと、想像せずにはいられませんでした。

あと、書軸は、「行百里者半九十」(百里を行く者九十を半ばとす)という、大変圭介らしい言葉のほか、露土戦争、日露戦争のことに触れていると思われるものを所蔵されてました。
ちなみに、圭介の書額・書軸は、「たくさんあるから安い」…だそうです。

ところで、全国に散らばる圭介の書簡の話になったとき、圭介、「大村から借金しとったんじゃー!」とおっしゃったN先生の、朗らかで楽しそうでお茶目なお顔が忘れられません。
恐れ多くも思いました。……圭介ファンって、萌えどころ、同じか。
にしても、圭介、大村益次郎先輩からも借金。坪井塾時代も相当貧乏だったとの事ですが。あぁ…。

N先生、たいそう気の難しい、偉い方だとお伺いしていたので、戦々恐々としながらのご訪問だったのですが。
お話好きで朗らかな、とてもはきはきした方でした。膨大な知識もさることながら、分からないことははっきりと分からないとおっしゃるところに、かえって、プロの研究者でいらっしゃる方の意識の高さをを感じました。既に80を越えたお年で、この先はもう研究著作などを行うことはない、とのことで、それが残念でしたが、仕事をやり終えてきた方ならではの悠々自適さがありました。


● M家ご訪問

大鳥の係累かも知れない、という方の家をご訪問いたしました。その家に伝わる明治時代の戸籍謄本や、お葬式の香典記名帳などに、大鳥生家のある岩木・石戸の大鳥姓の方の名前が見られます。今まで見た家系図などからは、その方の名前はわからなかったのですが。
地元で、ゆかりのある人は、大鳥という存在を、深く意識しているのだなぁと実感できて、なんだか嬉しいことでありました。
にしても、普通に明治の書簡や帳面が、個人の家に残されている上郡という町もすごい。代々受け継いだものとを大切に取っておいておられるその繋がりが、良いものだなぁと思いました。
大変、品の良い、落ち着いた雰囲気のご夫婦でいらっしゃいました。

● 資料

K様のご好意で、収集された資料を拝見させていただきました。未見の地元新聞、冊子など、以下の通り。

・ 大鳥圭介畧傳
直接晩年の圭介にお会いしている、地元の方の圭介紹介冊子。手書き。ほとんどが圭介伝からの抜き出しですが、著者の私観なども含まれ、明治3年、獄中から母へ宛てた手紙が収録されるなど、血圧急上昇文書。
手紙では、圭介が妻子を、大築保太郎(尚志)に託して金子を持たせたこととか新事実判明。また、母親には一度も怪我をしたことがないとか、戦はそんなに恐ろしいものではないとか、あまりに楽天的で、突っ込みどころ満載文書。
ただ、著者の父が圭介とともに宇都宮へ行ったときに圭介が膝に怪我をしたことを述べたこともあり、圭介が母に心配をかけまいとしたのだろうと書いてあったり。圭介を実に知る人らしく、深いところまで洞察してくれています。

あと、伊藤仁太郎「西郷南州」からの抜粋で、宇都宮戦後。
「官軍のほうでは明日の作戦に就いて軍議を開くこととなったが、いづれも今朝来の戦況を繰り返して語るうちにも、大鳥の戦略神のごときを褒めぬものはない。薩摩の将野津七左衛門は微笑を浮かべながら、『大鳥どんの書物(築城典刊砲科新論を指す)で学んだものが、大鳥どんに向かうのじゃもの、敗くるのは当然でごわす、勝ち居ったのが不思議じゃごわへんか、ハッハ…』」

…相変わらず薩摩人アイドルっぷり。負けても評価されとるよ、圭介。デジタルライブラリにある西郷評伝でも同じ場面が収録されていますが、作者も違うし、中身も微妙に違います。薩摩内で語り継がれてきたことなのか…。
この伊藤氏の西郷さん本、国会図書館にマイクロがあるようなのでまたチェックしてきますー。

その他、鈴子さんの性質とか、年齢対比表とか、手書き配布冊子にしては侮れぬ情報満載でございました。

ほか、校歌とか町歌とかのノリで圭介のテーマソングを作っちゃった日本詩人連盟の方とか、日本全国の碑文を捜し求めて評しているマニアの方による、生誕碑や銅像、有年の天皇陛下駐駐蹕碑などの記述など、魂くすぐる情報に出会えました。

・ 書額の写真
圭介の生家に昔保存されていたという書額の写真を拝見いたしました。圭介実家の書額。圭介が実家に送ったもの、あるいは実家で書いたものの可能性が高い。そんな書額には何が書かれているかと思ったら。

「百敗不屈」

圭介。百回も負けてない(泣)。
というか、誤解されるところなんですけれdも、圭介の指揮した戦闘は、数えてみると、いちおう、4〜5割ぐらいで勝ってはいるんです。言われるほど連戦連敗というわけでもないんです。負け将軍の印象が強いのは、他でもない、圭介自身が自分の負けを強調している謙虚な冗談の言葉から、印象づけられるものであって。それも、面と向かっていわれれば、「いやー、負けばっかりだったよー」というおかしみも伝わりますが、文にしてしまうとそれがすべてであるかのように強調されてしまうわけで。
あぁ、でも、あまりに圭介らしい言葉に、膝がガクガクになりました。

● 大鳥生家

えぇと、関心を持ってくださっている方もいらっしゃることかと思うのですが。
気になっていた所有権のことも話が進み、今のところ、村と町のほうで、話がもたれているようです。ただ、やはり、町の方針と、合併という大きな事業を抱えている状況で、町のほうでもやりたくてもなかなか進められない時期であるとのこと。外部者としては、待つしかない、という結論でした。

あと、生家に住んでいたことのある方の記された、大鳥家間取り図を見せていただき、図と現物を、照合しました。臥龍梅の位置が判明。ただ圭介、その梅の由来を余り家族に説明していなかったようで。臥龍梅については、「中国から持ち帰り」と書かれていました。

それと、大鳥生家の隣の建物、何かなぁと思っていたら、養蚕場でした。圭介、貝次郎を東京に呼んで養蚕の勉強させていましたが、それがちゃんと立ち行っていたのだなぁ、と。ほか、蔵や漬物小屋とかあったようです


という感じで、今回地元のK様には大変お世話になりました。地元ならではの深い話をお伺いし、身が引き締まる思いでございました。所詮外部者の勝手な望みも、そこで生きる地元の方には切実な現実の問題であることを、いまさらながらに感じ入る次第でございました。

(続く)
タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月09日

関西訪問その2

関西訪問その2 投稿者:入潮 投稿日:05/09(月) 00:36 PC No.860 [返信] [削除]
GW記録、続きです。

3) 姫路

翌3日。ブログで素敵圭介日記を披露されているAさまと、お友達Tさまにお邪魔し、姫路城・好古園を徘徊させていただくことになりました。

Aさまは、サッカーや着物、サウンド系と幅広いご趣味を展開されている方なのですが、大河から圭介に、なぜか転がっていかれた、不思議な、いや、誠に頼もしい経歴のお方です。Aさまブログは、圭介へのはまり込みの道程を、余すことなく、臨場感豊かに記してくださってます。幕末は勿論、圭介だけではなく、幕末、新撰組他、唐津藩、大奥といった幅広いところまで注目され、圭介が脱走時に寄った「小倉庵」の正体まで突き詰めてくださった、探究心豊かな方でいらっしゃいます。いつかコンタクトさせていただこうと思っていた矢先のことでした。

それで、姫路に移設された新撰組の亀山本徳寺を見学されるAさま、Tさまのご予定に、あつかましくも加えていただいたのでした。

Aさま、Tさまともに、サウンドのジャンルで活動されているだけあって、ヴィジュアル系の華やかな方々で、見ているだけで目の保養です。こんなまぶしい方々に、四谷怪談から抜け出してきたような自分が、端に加えていただいても良いのか?とわが身を消え入らせたくなりました。が、結果、Aさまのお口からつむぎだされる圭介萌え話に、めろめろで、観光客で賑わう姫路城下に、遠慮なく奇声を響き渡らせて参りました。

大河ファンのAさま、Tさまに、圭介話しかできないのは申し訳ないことでした…
食わず嫌いせずにちゃんとテレビ見ておけばよかった…とこういう時に、世間様からの取り残され具合を後悔いたします。

姫路城は元は、1333年に播磨の守護をしていた赤松則村が砦を築いたことに始まったとのこと。上郡の赤松円心と関係あるのかしらん。 で、小野寺氏、黒田氏が続けて守ったとの事。築城は、16世紀の黒田重隆、黒田職隆の時代とするという説もあるそうで。…えらいヒットな名前ですな。そう、黒田(という苗字の人が作ったかもしれない城)のお膝もとに、いたいけな圭介が…。その組み合わせに、徒にひっそりときめかせてみました。寒。
有名な天守閣は、羽柴秀吉が、西国攻略のために、1581年に完成。いや、天守閣が有名というのは、又新日報で知ったにすぎない体たらくですが。「白鷺城の堀をめぐらしてその間に白い天守閣の雲にたなびいている、大廈高楼が甍を連ねて居る、村の祭り日よりも人通りが多く立派な着物を着ている中、十歳の少年に見るもの聞くもの一として感動を与えぬものはない」という姫路のお城。幼少の圭介とオーバーラップして、心ときめかせて参りました。

城の構造や、石垣の広がりや固め方、材質など、もっと築城を勉強しとけばよかったと思いましたです。姫路城のように3Dで立体的な構造物を、高さという概念が地図にない時代に、どういうふうに設計していったのか、CADにおんぶ抱っこな土木設計ばかりしていると、かえって不思議に思えました。

好古園のほうは、純平じいちゃんが招かれてお勤めしていた好古堂の跡に建てられた庭園。好古堂は、岡山藩士の藩校。城の文字通りお膝元にあるわけですし、城詰めの藩士の子弟が学んでいたことでしょう。そんな中に圭介、大学や論語を素読していたとのことですから、そんな血筋のよい方々に、ちびっこい田舎者が紛れ込んでいたわけで。「お前何じゃー?」「じぃちゃんの孫じゃー!」とか言いながら。ちび慶太郎萌え声も、迸り出ようというものです。

そういう欲望にまみれたダーティな心が漱がれてしまうぐらいに、好古園、大変素晴らしゅうございました。庭園だと侮れません。大きさもさることながら、計算しつくされた日本美というのでしょうか。楓を基調にさまざまな木々が植えられ、奥行きがあって、見とれてしまいました。人を寄せ付けない自然も美しいものですが、人間が人間の癒しにするために整えた自然というのは、やっぱり胸に染みてやさしいです。新緑の季節で緑だけでも変化があって楽しかったのですが、秋に行くとまた豪華だろうなぁ、と。

で、最も大きい「御屋敷の庭」というのが造営されたのは元和4(1618)年、本多忠政時代というのですが。本多忠○、どうも何かと出くわしてしまうので、何か関係があるのではないかといつもびくびくします。調べきれない自分も至らないのですが。

しかし、既に、入園の頃には、次の新幹線の時刻が迫っておりました。午前中だけで回ろうというのが、明らかに無謀だったです。好古園のほうは、慌しく駆け足で見てから、AさまTさまと、中でお別れすることになりました。

Tさまに方向修正をしていただくこと仕切り。一言一言が、びしっ、と決まっていて、格好良い方でした。
Aさまはくるくると頭の回転が、気味良く早く、人を飽きさせるということを知らない方だと思いました。突っ込みの刃は鋭く、関西人のユーモアと謙虚さという美徳を余す事無く兼ね備えた方だと思いました。
頭がトロくてごめんなさい、と謝りたいぐらいで。大変楽しい時間を過ごさせていただきましたです。


4) 岡山

新幹線で姫路より岡山へ移動。新幹線20分、在来線1時間半・しかも1時間に1本、というJRのあこぎなスケジューリングに膝を屈して、時間の砂は黄金の砂、という格言を取り出すまでもなく、特急料金を払って岡山へ。
相変わらず、外見可憐中身豪快なK村さまに、打ちのめされてまいりました。
まずは地元チェーンのカレー屋さん。アジアンな雰囲気の店内、豪快に切った野菜と、甘みの染み出たルーが一品でございました。そして、地元の顔なK村さんを拝見することができました。

ランチの後は、駅前へ移動。路面電車がいいです。町をゆっくり眺められる感じで。乗っている人も、初めての人も同じ町の友達、という近さがある気がしました。何度か廃止の声も上がってたそうですが、今は新型車両も入って、やる気満々なようです。こういうのは、採算だけで決められて欲しくないインフラですよな。町の事業としてがんばって欲しいです。よそ者の我侭なんですけれども。

で、そのまま、カフェで喋りまくること。午後1時から、空港バスでお別れする6時まで、ひたすら口を閉ざす間もなかったというのはどういうこと。
K村さんの分野の広さ深さは、わかってはいましたが、面と向かうとまた、迫力が違いました。
華奢なお体に、明治人の伝記、文献、ビデオを詰めた、ずっしりとしたカバンを背負わせてしまって、申し訳なかったです。そのカバンはミラクルワールド。Sのさんの手もドラえもんのポケットですが、K村さんのカバンは、ディープな世界に招いてくれる、どこでもドアです。

一方で、趣味をちゃんと人生に絡めて、ポジティブな方向性を持って考えられている姿には脱帽で。自分、学生の頃は、そのような建設的な姿勢は思いもしなかったので、感じ入ってしまったことです。学生って本当に可能性に彩られた生き物なんだなぁと、いまさらながら羨ましくなってしまいました。

とかなんとか、真面目な話などもしながらも、白い鎖骨に目が行ってしょうがなかったというのは、変態扱いされるから、秘密です。
貴重資料とビデオ、ありがとうございました…! あらゆるメディアから余すことなく情報を取り入れて噛み砕いてその魅力を抽出ドリップするK村さんの力量に、完全ノックダウンでございました。これで当分、満腹、飢えるということを知らず、満員電車の中もわびしい一人アパートも、満たされて過ごすことができます。


という感じで、久しぶりに仕事を離れ、オフを満喫できました。仕事のメイルボックスの中がすごいことになっていますが。
疲れたけれども、たまっていたドロっとした疲れを、良い具合に発散して、ポジティブなエネルギーを充填してまいりました。早速明日からというか、今から急ぎの分を片付けねばならない体たらくなのですが。
なんか、遊ばせて貰ったから、ちゃんとやんなきゃなぁという感じで。結局、末期的な仕事好き人間なわけです。いや、今回、仕事でたまったマイレージを使ったわけだから、職権乱用なのですが。これでもう充実したので、満足です。

そして、さらにまだ飽き足らず。

5) 四ツ谷

皆様の評判に耐え切れず、K生さまに、一緒に飲んでもらいました。
ざるです、ざる。豪快な呑みっぷりに惚れ惚れです。しかもこの方、蒸留酒専門ですし。
いや、もちろん呑みだけではありません。呑んでよし語ってよし見目麗し。毛穴まで満喫させていただきました。姉御なのにフェミニンなのです。

お会いした瞬間に、この方には何を話しても大丈夫だ、という妙な確信が沸きましたs。まるで小学生の頃からツルんできた同胞のように、ひたすら仕事の愚痴に明け暮れていたような気がします。職務領域は全く違うのですが、同じような客を相手にしていることもあるでのでしょうか。よもやあそこまで、某機構ネタで盛り上がれるとは思いませんでした。もう守秘義務に違反しているんじゃないかってぐらい。もごもご。内輪でごめんなさい。
それぐらい、波長が共振したということで。何せ、圭介のことを、ほとんどしゃべっていない(笑)
どのぐらい夢中になったかというと、用意していた資料を渡し損ねたぐらい。考えられません。
場所は、以前から指を加えて通り過ぎるだけのアイリッシュパブで、親父系の自分には敷居が高かったのですが。K生産のおかげで追い出されるまで満喫させていただきました。その上河岸を変えて、また繰り出した。この女どもどうよ?という感じで、良い具合にへろへろに出来上がりましたです。K生さんは平然としておられましたが。ええ。

そんな感じで、いつも職場にカビになってじめじめと張り付いている自分としては、いろんな方にお相手していただけて、大変幸せなGWでした。世の中には10連休をとろうか、という人々も居る中で、2日を開けるのに相当無理して詰めねばならなかったわけですが、やり方次第でどうにでもなるものです。気分転換以上に、遊ぶという目標があると,良い具合に仕事を詰められる。

そして、家に帰ってきたらチャットがある、というのが、また、良い充足し具合で。本当にお相手してくださった皆様、ありがとうございました。

楓といえば楓の記のほうもネタばかりたまっているし。いただいた資料も語りたいことがこんもり。あぁ、やりたいことが多すぎる。幸せ再認識な1週間でございました。…最後の土日のしわ寄せで、明けまでにやっておかねばならない仕事がまだ片付いていないというのは、言わずもがな。

--------------------------------------------------------------------------------

一言だけ…。 葛生 - 05/10(火) 18:56 PC No.864 [削除]

ざるじゃないです。

や、こちらこそ楽しゅうございました。圭介話もしたかったです。資料も見たかったです。でも楽しかった…某機構ネタ(爆)
またお構いくださいますとない尻尾を千切れんばかりに振って(どうやって)悦びますvv
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月11日

母上への手紙From獄中


「大鳥圭介畧傳」。昭和15年の、手書きの冊子。表紙には家紋がたどたどしく書かれていて、手作り感あふれる感じです。が、著者武地誠一氏は、圭介地元のご出身だけあって、出立から葬式まで、圭介伝の抜粋に加え、著者やその縁者が直接見聞きした同時代談や考察や印象が独自で、価値が高いです。逸事と小話、同時代の著名人の年齢表、そして地元ならではの凄まじく細かい家系図、親族系統図が付録についていたりして、かなり侮れません。お宝度高し。

全部ご紹介したいのは山々なのですが、体力がありませんので、ひとまず、これに含まれていた手紙について。
圭介→母上の、4月13日付け、戦中を「一昨年」としていることから、明治3年と推測される、獄中よりの書簡。これがあまりに、圭介らしいというか、表も裏もありすぎて、読み応えパンパンにはちきれそうな文書でした。
「君家快復の儀一念に志し候処、天運不利、ついに今日に至り閉蟄のみと相成候事、時勢とは申乍ら遺憾不少、臣子の心底、御憐察被下候」

君家回復、つまり、将軍の身の上の保証と、それに連なる幕臣の生活の確保を図った。ただ目的と結果だけ書いてある。この言葉が、圭介がところどころで口にしている脱走の目的を顕著にしているのではないかと思いました。負けたのも、「時勢」と一言で、その最も大きな抗いがたいものを上げながら、遺憾少なからずと、達観し切れていない、やりきれない想いが伝わってきます。しょっぱなから、重い言葉です。…が、しんみりしたのはここまででした。

「江戸並に関東其他にては、我らの事を、徳川氏無双の忠臣と申唱へ、絵草子に画き、あるいは狂言に作り、又は、軍書の購釈にして子供までも流涕して慕居候由に承り候」

…獄中から自慢するなー。
と突っ込みたいのですが。釜さんのように、「どうだすごいだろう!」と愉しませようとしている陽性の感覚ではなく、逆賊の息子を持ってしまった心労募る母に、せめてもの慰めで重い心を軽くせねば、という無理が感じられてしまったりします。

「是れ元来我等私意にあらざることを洞察致し候故也、志かし今日と成り彼是強いて弁じ候ては却って罪科を重ね天朝へ対し恐れ入り候次第も御座候間、逐一には難申述候、拝顔の節には素志審に弁解可致候」

このあたり、「誰正誰邪強不弁」の詩と共通するところがある感じです。起こったこと起こしたことの結果に対する因果は甘んじて受けましょう、ぐだぐだ言うのも却って罪が大きい、という感じで。ただ、母親には、息子は別に私利私欲で動いていたわけではないんです、ということだけ、言いたかったのでしょうか。直接顔をあわせたら、きっちりと話いたします、ということで。

「一昨年春までは小子禄三千石頂戴いたし候間、家来なども多く召抱申候へ共、争乱と成り候上は、悉く之を減じ、脱走の節は大築保太郎と申す懇意の人へ妻子の事頼置、金子も可なりに渡し、下総佐倉の荒井鉄之助と申宅へ預置候て、小生は奥州へ参申し」

家来も結構いたけれど、戦になってみんな辞めました。脱走、と自分で言ってますな、圭介。この辺正直で。で、脱走のときは、大築保太郎、尚志さんに、みちさんと子供たちを預けたのだそうです。これは初耳。大築さんは、圭介と同じ洋学者出身、佐倉藩士で高島流の砲術を学び、蕃書調所で翻訳活動し、同じ日に幕臣に取り立てられてて 富士見御宝蔵番格歩兵指図役、陸軍士官になっている同僚です。途中で病気になり、脱走には参加していません。手紙のやり取りもあり、圭介が病を心配していたりします。圭介ら脱走後は、大築は慶喜に就いて沼津へ。圭介が妻子を託しただけあって、相当親密な間柄だったようです。

で、佐倉で厄介になっていた荒井鉄之助(宗道)も佐倉藩士の洋学者。みちさんはこの人の家に身を寄せます。この辺りまでは、既に圭介がアレンジしていたことのようです。佐倉でどうやって生活をしていたのだろうと不思議でしたが、かなりの蓄えを残していっていたんですね、圭介。

「只今の処は、たとへ小生、今暫時閉蟄致居候ども、強て心配は無之候。多分、来五月中迄には御免に可相成候間御免に相成候得ば又如何様にも可致工夫有之、猶又一花咲かせ可申見込に御座候。母上様其外各様へ御心配をかけ候段はいかにも恐入候へ共、英名を海内に流し外国迄も大鳥といふ名を響かせ候は、又可妙の義に御座候。後の世迄も名を残し候も、不容易の義と存知候」

今は牢屋に掘り込まれていても、来月には釈放になって、あとは如何様にでも、また、一花さかせられましょう。御心配を描けたのは申し訳ないけれども、また大鳥の英名を、国内、国外にまでも響かせてみせ、後世まで名前を残すのも可能でしょう、と。

一見、何様じゃー、という感じです。表面だけ見てみたら、なんて図太い奴だと。こいつに二君に仕えず、節を守る武士のあり方など到底理解できない奴だと。傲慢で自信満々で自分の能力の高さを疑いもしない鼻持ちならない奴だと、決め付けられてもしょうがない文です。というか、この書簡、今まで自称研究者の目に晒されてなかったことがよかったと、僭越ながら、胸をなでおろしてしまいました。

…それだけ、母親を安心させたいのだ、ということなのだと思えます。確かに、圭介のかあちゃん、武家の女じゃないし。このぐらい俗っぽいほうが、話が通じやすいのかもしれません。


5月には釈放って、どこから出てきた話なんだろう。獄中日記のほうにそれを裏付ける記述は無し。むしろ手紙の宛先に探索が及んでしまって焦っているぐらいだし。圭介が知る由はないでしょうが、岩倉具視視察団が出るのは4年11月なわけで。この頃はまだまだ木戸さんたちが、気炎を吐いて死刑主張している頃でしょう。

しかも、圭介、この同じ時期に。

妻児避乱已三遷 辛苦飄蓬亦可憐
人世栄枯元似夢 痴心莫復説当年

(妻と子は戦乱を避け、すでに三度、住処を変えた
風に吹かれる根無し草のような辛さ苦しさが憐れまれる
人の世の栄枯というものは夢に似ている
痴れた心で、もはやまた、この年を説くことはない)

だとか、

欲見瓶花時秉燭 驚吾孤影痩於梅
(瓶の花を見たいと思って燭を手に取る。 自らの孤影が、痩せた梅に似ているのに驚いたことだ)

などと。
こう、なんというか、自らの無力さに打ちのめされているような、人生を諦めきっているような、哀愁、とかいう容易い言葉では片付けられない、いっそ仙人のような風情を漂わせている漢詩を作っているクセに。
確かにぶどう酒の造り方を調べたり、箱館砲台謹慎の人たちが駿河に引き渡されることになったといううわさを聞いたり、憂し、だけではない毎日ではあったようですが。

…強がり、見え見えです。
なんというか、比べるだに、上の、一見傲慢大王な文章が、白々しくてしょうがなくなります。
そして、この次の文がまた、空いた口がふさがらなくなるほどに、突っ込みどころ満載。


「一昨年春より昨年夏迄の間、山を攀じ河を渡り、千辛萬苦、大小戦争都合二十七八度、大小砲の弾丸の中に在て軍勢を指揮いたし候え共、運命強く一度も疵を受け不申候」

さすがに、山中さすらい、水浸しになりながら渡河した経験は辛かったらしい。戦闘は、27,8回といってます。カウントすると30回ぐらいあったと思うのですが。で、砲弾、銃弾の中で軍勢を指揮したけれども。

…運が強くて、一度も負傷したことがなかった、ですと?

「宇都宮の足の傷は痛まなかったかい?」(By A様)

あと、会津で川の崖から滑り落ちて脚を捻挫したりしてましたな。まぁそれから1日数十キロ歩いていたぐらいだから大したことなかったのでしょうけれども。

ここ、著者も変に思ったらしくて、但し書きしています。著者の父上が、明治22,3年のときに、圭介と一緒に列車で宇都宮まで来たことがあるらしい。で、宇都宮で圭介が外を眺めて、「此辺は乃公が戦争したところだ、足脚に負傷したのもここだ」という直話を聞いたらしい。これは、母親に心配をかけまいとして書いたのか、あるいはもはや戦争も済んだのだし疵というほどの怪我でもなかったのか、と著者が付記していました。
余談ですが、圭介の一人称で「乃公(おれ)」って珍しいですね。いつも記録だと「余」など、手紙だと「小生」「老生」のほかは、「私」なのに。ちなみに「僕」というのはほとんど見たことがない。

で、怪我。20年経っても覚えていて人に話をしているのに、怪我というほどの怪我でもない、というのもなんだかなぁ、と思います。自分の運の強さを自慢したかった、というより、運の強い人間だからということを言って安心させたかったのでしょう。親が離れているとき、多少何か鼻水が出るようなことがあっても、「いや、自分風邪引いたこと無いから」とか、よほど深刻で無かったらいちいち言うのも心配かけるので、ひっくるめて、一切無事、ということにしてしまう感覚で。親に頼らない(頼れない)人はそんな感じです。

「着物羽織等には数箇所も玉疵有之危なき事には度々出会い申候、実に戦場之義は芝居の様に面白き事も有之、又残念の義もあり、中々筆紙に難尽ものに御座候。しかし太平の時考え候程恐敷ものには無之候」

…また、一見、能天気ぶったことを書いてますよ、圭介。
着物や陣羽織に玉の穴が開いて危なかったことは度々あった。戦場は芝居のように面白いこと、残念なこともあり、中々紙にかけるものではない。けれども、平和なときに考えるほどに恐ろしいものではない。

弾のことを玉、と書いているのは、もしやわざとか…?というのは良いとして。

この、「太平の時考え候程恐敷ものには無之候」ですが、これこそが、戦場の現場に居続けた人間の言葉なのではないかと思うのです。行ったことのない人間があれこれ考えて恐ろしく思うものでも、現場に出てみて、どんなに大変でキツイ思い、いっそ死にたいと思う経験を経ても、それだからこそ、「いや、実は大したこと無いんだよ」と言えてしまうのは、あるものです。自分が経た

自分も親に心配かけると面倒なので、ミャンマーのマハーミヤ(大ジャングル)で機材を運んだときなども「高速道路を車で行くほうがよほど危険で死亡率も高い」と説明しています。実際、マラリアやデング熱の蚊と格闘、砂埃と熱さの中、真夜中までへとへとになりながら運んだ道程だったのですが、過ぎてみると、普通に行けてしまうものなんだな、という感覚がある。
最近、テロで10数人が亡くなったショッピングセンターなどもしょっちゅう出入りしていたりしていましたが。別に普段そこにいると、普通の日常で。何かあっても、地震や隕石と同じ天災のような感覚なわけです。

イスラエルやゴラン高原やボスニア・ヘルツェゴビナやクルド人エリアなども、馬鹿なミーハー気分で徘徊してきたりして。外から見ていると、あんなところに?と眉をしかめられるようなところほど、人間、逞しくしぶとくしたたかに生きているもので。その中に入ってみると、それなりに危険なことは危険であるけれども、事故に遭わないように気をつけることは気をつける、というだけで、そこにいる人にとってはそこが生活の日常であり、冒険でもなんでもないわけです。爆破された塀やガラスの破片で道路に絵を作って子供は遊んでいる。家の壁の銃弾の穴をセメントで縫って塞いで、ついでに水玉の色に塗っていく。戦時中というのも結構そんなもので。むしろ非常のときほど、日常を持とうとする力が強い。いや、戦争そのものを体験したことがあるわけではないので、とんだ履き違えかもしれませんけれども。

そういう感覚では、この、楽天的で図太い言葉が、むしろいっそう、圭介が最前線で体を張り続けた人間であることを証明しているように思えるのです。逆に、経験をしていない人ほど物事を特殊化したがる。

贔屓の引き倒しで、主観だらけな認識になってしまっているとも思うのですが。
彼を机上の空論家と決め付けている人ほど、現実を知らない現場と無縁の机上の人間なのではないかと、圭介を見れば見るほど、思えてしまっています。自分の経験と重ね合わせて判断することをせず、単に圭介の学歴から来る表面的な先入観だけで、決め付けているわけですから。一回、戦地の最前線で銃弾に撃ちまくられるか、山中で遭難して飢えて凍えながら流離うかしてみると、認識も変わるんではないかと思ったりしますが。

確かに戦争を始める前は、経験なしで、それゆえの遠慮もありましたが。軍事、技術に係わらず、どんな分野でも、圭介ほど現場に居続けた人間は居ないわけですし、それゆえの現実的なものの見方というのは、幕末明治問わず、そこここで出会えると思うのです。箱館で机上の人呼ばわりされるのは、そりゃ違うだろう、と思います。

そういうわけで、この表面的な能天気さ、「いや、大したものじゃないよ」といえる感覚は、現場で苦渋をなめ続けた人間ならではの、達観であり、結論なのだろうと思いました。

で、次。最後。
「最早小生も四十に近く相成候間、忠孝の外軽浮の義は致し不申候。御母上様も御心配被下間敷候。子供を仕込能き人に仕立て候様相楽しみ居申候。呉々も一昨年来の世の成行は御領弁被成がたき義も数多可在之候得共、その意味は中々筆端の所尽にあらず、拜aの節微衷可申述と存居候、御憐察被下度候」

自分も四十に近くなったので、忠孝に外れた、浮ついたことはもういたしません。ご心配なさらないでください。これからは、子供を良い人間に育てることを楽しみにしております。一昨年のことは、弁解するのが難しいことも多いのですが、筆で書ききれることでもなく、お会いしたときは、本心をお話したいと思います。どうか、憐れみ察してください。

…この辺、本心なのだろうなぁ、と思います。
「(大鳥の)英名を海内、外国までも響かせ候」という威勢のよさに、すでに矛盾してますがな。

再び獄中日記より。

「夙識死灰再燃難」
(死の灰が再び燃え上がることの難しさを、夙に思い知ることだ)

だとか

「今よりは 世をすつる身の ひたすらに たどりても見ん 志きしまの道」
(世を捨てる身であるからこそ、ひたすら、敷島の道(歌道)にもたどってみようというものだ)

だとか。この手紙のちょっと前に詠んでいるものですが。
もう世捨て人気取ってる人ですが。

彼が本当に、生きて牢を出て、世を捨てて子育てに尽くすつもりでいたのか。
死を覚悟していたのか。それとも、やっぱり楽天的に、また一旗上げられるさ、と考えていたのか。

獄中では色々と考えることがありすぎて、その答えは、一概にいえるものではないのでしょう。
ただ、よく言われるところの、本多晋の証言、「死なないと思っていた」という言葉の裏には、様々な覚悟や諦めや悔悟や、もしかすると恐れなどがあって、それを図太さと洒落で覆い隠していたのにすぎないのだと、思えてなりません。

そういうわけで、貴方の息子は、こんなにすごいんですよ、大丈夫ですよー、だから安心してください。
そんな気負いが、節々に感じられる、かーさんの前で無理している男の子(という年に非ず)の文章でした。
もっと若い頃、江戸に出てきたばかりの頃の手紙でも、「女のことだから騒ぎ立てるので、無難に収めておいてくれ」と、父親に書いていました。かなり母親には遠慮というか、心配性に対して腫れ物に触るようなところがあったようです。

あと、母親相手だからでしょうか。いつもの角ばった文章に比べて、ひらがなが多くて、やわらかい文だった気がします。そんなところにも、不器用で親思いの息子の様子が、表れているような気がしました。


ところで。

この手紙が明治3年4月。
この手紙を宛てた母上、お節さんの享年。明治2年9月。

……届いてない。

精一杯。あんなにがんばって無理して虚勢を張ったのに。
…ぜんぜん、届いてなかったよ、圭介…。

「拜a」してちゃんと経緯を話す、といっているのに…。
半年以上、母親の訃報が、獄中には届いていなかったということだった。

この頃上郡は疫病が流行り、妹婿の医者福本譲平氏も亡くなっている。家族縁者は困窮の只中。そんな中、弟鉄次郎に、妻子のために30両の借金を申し込んでいた圭介。

それで、釈放されてみたら、借金だらけだわ、会津をさすらっている一番辛い時期に、知らない間に生まれた娘は養女に出されているわ、母親や義弟は亡くなっているわで…。


そんな彼の詩。

雲外家山路半千 干戈久欠尺書傳
不知老母能無恙 一別音容已十年

この想いの元に、母の現状を知る術も無く、ただひたすらに、安心させようと、書をしたためた。

なんというか。
獄中の彼は、化学書や戦記を読んだり、語学の講釈をしたり、詩作に興じたりと、余裕な点ばかりあらわされてきましたが。
こういう、当たり前の普通の辛さ哀しさを抱えていたのだと、打ちひしがれました。

そんなわけで。表面的にちょっとなぞると、何なんだ、コイツは、というような手紙ではあるのですが。
こう、裏を読んでいくと、喉をかきむしりたくなるような事実だとか、深読みすると部屋の暗がりで膝をかかえたくなるような感情ばかりが伺えてきてしまって、どうにもならん感じでした。
深読みすればするほどに、ノックダウンされるところが、圭介だなぁと思いました。
ただ、これも、読みなんだか幻想なんだか、よく分からんところではありますが。いつもの如く。
タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月15日

弓道部の生徒

http://www.med.hirosaki-u.ac.jp/~sasakin/nao-h/nao09-yotsuya5-8-22.htm

弘前大学に勤めておられた、衛生がご専門の、佐々木直亮氏のホームページ。

この方、慶應義塾大学卒業で、弓道部に所属しておられました。
それで、部活時代、昭和18年の日記を上げておられたのが、上のページです。

この日記に、大鳥先生が登場。「蘭ちゃん知らなきゃもぐりだよ」と歌われた、蘭三郎氏です。

「先生の足が道場へ向かっている間は弓術部は安定である。しかしそれをおしたてていかなければならないのは部員である」

とか、大変部員から慕われていたのが伺えます。

「大鳥先生がすこし遅れて来て、巡査に不審尋問されたので遅れたとか、大むくれであった」とか

「昨日からの約束により寒稽古一番乗りの競争である。天現寺から一番にのってきて道場をみれば真っ暗。これはしめたと思い近づくと、こはいかに大鳥先生のあの笑い声が”エツヘツヘ」

なんて、なんとも、かわいらしい様子の蘭ちゃん先生。

「妙高登山大鳥先生に捧げるの歌」があるそうで。弓道部員で登山したときに、体があまり自由でない大鳥先生が一生懸命に自分の力でのぼりとおしたのが、部員たちの心を打ったと卒業文集にありましたが、歌にまでなっていたようで。

取材を行った司馬遼太郎氏に「フェアリーのような」と言わしめた蘭三郎氏。
医学雑誌で圭介の記事を発表され、ご自身も、伝記を書くと準備されておられた方。
残念ながら、蘭三郎氏の手による伝記は日の目を見ることは無かったですが、この意思を、直接ではないにせよ福本氏が受け継いで「われ徒死せず」完成したわけで。

こういう繋がりが、なんとなく嬉しい、ネットサーフでした。
タグ:大鳥蘭三郎
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月17日

公開公文書

おなじみ、アジア歴史センター。
がんばってくれています。グッド・ジョブ。

今回更新分もまた、豪華。公文書館資料はじめ、外交史料館資料を一挙公開。…外交史料館というのがあるのを初めて知った、というのはおいておいて。
G門(港湾・土木)、H門(東方文化事業)あたりはじっくりと眺めたいところであります。

圭介関係は、東学党の乱、韓国内政改革関係が充実しておりました。
あと、朝鮮の視察員が、工部省の官営工場を見学に来たという件、吉田さん書簡集で見かけて気になっていたのですが。

「明治十四年朝鮮国視察員朴正陽来航関係」で、「朝鮮視察官之内 金●元 随員孫鵬九儀予而御好意ヲ以テ硝子製造術研究之為メ品川ナル製造所之通学罷在候処此程一時退宿ニ付其寄宿中食費等償還之儀本人より申入候処不及其儀旨御答之趣ニ付其侭引取候」

と、朝鮮の視察員が品川の硝子工場を見学、学習していたのですが、宿を引き払うとき、本人余理、食費などを返す旨申し入れありましたが、それには及ばないと答え、そのまま引き取りました、と。

…また、細かい報告を。
目録には一部しか載っていないですが。中には圭介の字と思しき、読みにくい、というか全然読めない(失礼)のも。
この件に関しては、後の圭介の行動に繋がっているかもしれないと勝手に感じていたりするので、いずれじっくりと調べてみたいと思っています。今は体力が尽きてます…

あと、明治24年。大鳥清国駐在特命全権公使からの電報。

「在清大鳥公使電報天津ニ軍艦ヲ碇泊セシムヘキノ件」

を、外務大臣の榎本さんが、内閣に回覧していました。

「在清大鳥公使ヨリ別紙電報到達ニ付内閣各位ニテ御回覧ニ供候也」
明治二十四年十月二日 外務大臣子爵榎本武揚 内閣総理大臣伯爵松方正義殿

北京発十月五日午後四時五十分 着十月五日午後十時三十分
「天津港ニ一砲船ヲ碇泊セシムヘキ必要アリ詳細ハ郵便」 榎本 大鳥

などなど。れっきとした公文書の電報でそっけない文ばかりなのですけれども。
かつての戦友を送り出した側と、本国から支えてもらっている側の胸中を思うと、そのつながりが、頼もしくも、ほんのりと切ないものでありました。

にしても、アジア歴史センターの今回の更新分、昭和初期の防衛研究所図書館資料が重点的なのですが。
これはもしや、付近の情勢の必要性から、史料的根拠の提示を急いだだのだろうか、とかんぐってみたりして…。
こういった動きは大変頼もしいものであります。
教科書問題にせよ、領土問題にせよ、日本の軍国主義の邪推にせよ、アレルギー的に反応していてもしょうがない。相手は自分のところの、政治不安、経済不安定、貧富差拡大の内憂から目をそらさせるために、ある事無い事都合よくあげつらっているだけ、というのは、誰もがわかっていることで。

史料からしっかりと読み取れる、当時の合法性、正当性を明らかにして、客観性を示しながら、今後の外交に役立てていってほしいなぁと思います。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月22日

多聞櫓文書

「多聞櫓文書」。
明治政府が江戸幕府から引き継いだ、幕府の記録類。
未整理のまま江戸城内の多聞櫓等に保管されていることから「多聞櫓文書」と命名された。多くは、元治・慶応の、幕末を中心とした一枚もの文書類らしいです。
これに、幕臣の履歴書である「明細短冊」、年中行事や儀礼的書簡を集めた「来翰」、「由緒書」や「養子願」といった相続関係の文書屋敷関係文書など、幕臣ファンには、垂涎モノの文書が、約45000点。

そんな超高カロリー燃料を、出版もせずに、隠し持っておくんじゃないッ、公文書館!

…と、思わず、沸いてしまったことです。
いや、別に隠されていたわけではないのですが。ずっと前から、サイトには掲載されていて、「旧内閣文庫所蔵の古典籍・古文書」にちょろっとありましたし。
ただ、デジタルアーカイブになって初めて本格的に紹介された気がする。
これまで、参考文献目録とかでも、あまり目にしたこと無かったですし。

公文書ってのは、利用されることを目的としているわけではなく、保管すること自体が目的化されているフシはありますよな。そういうのが見直されてきたということでしょうか。
…と、自分の注意の及ばなさと発掘能力の無さをおいといて、偉そうに、言ってみる。

で、この多聞櫓文書。明細短冊には、圭介や釜さんの履歴書があったり。屋敷拝領願願があったり、大築保太郎と一緒に、身分についてなにか云々されていたり。気になる文書が満載です
あと、慶応元年2月に、松平阿波守斎裕より「私家来大島圭介富士見御宝蔵番格歩兵差図役勤方被仰付候ニ付御礼一札」なんて気になるのが。

この目録だけではなんとも分かりませんが、題名は、取り立ててくれてありがとう、という感じで。
宛名は、本多美濃守、水野和泉守、牧野備前守他。
本多美濃守って、姫路城主ですよな。本多忠民、老中職。…あの本多さんとの繋がりは…多分違うんだろうけど(調べろよ)
圭介、幕府じゃ、組織が大きいから、役人その1という感じだし。尼崎候にはなんだかもてあまされてたっぽいですが。

阿波藩だと、覚えもめでたかったのかしら。だとしたら嬉しいな。や、単に形式的に藩主の名前が出されただけで、阿波藩、佐幕派ですし、ただの藩と幕府の社交礼儀かもしれませんが。

字面だけ見ると、圭介、阿波松平候に、「私の家来」なんて呼ばれちゃってますんで。

「ずいぶん無理を言って、尼崎候から貰い受けたが。お前は一藩の手に囲っておける人間とは違うからな」
「殿…」

なんて会話があったら、うれしいなぁ、という気色悪い願望も、うじゃらと沸かせてしまうというものではないですか。
…そして北関東で、圭介、自分が教授した徳島藩士と、鉾を交える羽目になるのです。

もう、これで、公文書館、平日オンリー、閲覧依頼は昼休み時間除く、というそっけなさですから、生殺しです。
こうなったら、画像公開、ほんの1部だけではなく、アジア歴史センターのように気前よく全公開してくれないか、ずうずうしく首を長くして待たせてもらいます。ちくしょー。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月23日

二院制議会謹言その1

どうも疲れが抜けません。一度徹夜すると駄目です。体力というか、回復力が落ちているんだな…。続いているとしょうがないんですけど。

今日は久しぶりに試験でした。試験中って、どうして、他の考えが沸いてきて、それも、自分としてはすっごいいいアイデアだ!と思ったりして、横に書きとめてみて、後から冷めてみると大したことない、というのが多いんでしょうかね。ネタとか。ネタとか。それで時間が足りなくなって慌てる。
しかも問題用紙に浮かんだことをメモ。持って帰れると思ってたら、おいていかなきゃなりませんでした。
採点のバイトさんに見つかって、失笑させられることができれば幸いです。うわーん。…恥ずかしいよぅ。
てか、試験受けている場合じゃない仕事のテンパリ様だったのですが。試験ぐらいを口実にしないと会社を離れられないと思った。まぁ、気分転換になりました。自分のことだけに集中できるって、久しぶりだった気がします。…結果が来るということさえ忘れれば。

さて。私のことはどうでもいい。圭介です圭介。
最近、長文を一気に書く気力が無いので、細切れに行きます。

文久4年(元治元年)の二院制の建議について。とあるサイトさんのご紹介に掲載されていて、そんなことも圭介、幕臣になる前にやっていたのか、出典はどこだろうと探していたのですが。先日、国会図書館の幕末の憲政史料として、「甲子雑録第3巻第12抄」に、手書きのマイクロフィルムが保管されていたのを見ることができました。写本が繰り返されたもののようで、マイクロになっていたのは、現代人っぽい字でした。

「大鳥圭助謹言」と題され、約20ページに渡るものでした、
幕臣に取立てされる前。幕府のバイトに過ぎなかった圭介が、そんな建言をして、「幕末ノ議会意見書集」に収録されるというのは、何があったのだろう、と思っていましたら。

最後に、写本した方の但し書きが付いていて、出所が分かったのが嬉しかったでした。

「右書は安州候御家来二而出役之由大鳥圭助秘策之由二候へ共、棚橋眞蔵甲子十一月横浜港江為御用罷越候節大鳥氏内密拝借用、君上江入御覧候を橋村氏江書写被仰付候節、神田内々被見写取候を猶又内密写取候ハ、十二月初之九日、午之下刻未之中刻迄二認候故、若見る人有ハ落字書損を補ひ給へと願ふ」

安州、徳島阿波藩の家来にして、出仕中の大鳥圭介の秘策。これを、棚橋眞蔵という人が、横浜に来たときに、圭介に内緒で借りて(この解釈であっているのかしら?)、君上(将軍?松平候?) にご覧に入れたところ、橋村さんが書き写しておくように仰せ付けられたとの事。
これが、神田で内々に回覧されて、これがさらにまた内緒で書き写されて、12月9日の午後2時ごろまでに書き写した。もし見る人は、誤字脱字を補ってください。

…ってことかしらん。意訳の細部は自信がないです。

圭介の秘策ですって。それが圭介に内緒でこっそり写し取られて見て回されてたんですって。(多分…)
この頃まだ、阿波藩の家来で。前の雑記にも垂れ流しましたが、幕臣取立てまで、松平候の家来だったわけですから、この時点で、圭介、徳島藩士でありながら、幕府の開成所で教授と翻訳のバイトしていて、さらに江川塾で講師もやってたんですね。…このころから激しい掛け持ち癖があったのか。大蔵+開拓使、工部+内務省、工部省でも工学寮と製作寮から始まって、しまいに大書記官と技監の事務監理方・技術方トップの掛け持ちやってた人。仕事引き寄せフェロモンを漂わせる男。その匂いの名は、「貧乏臭い」と言う。
…もとい。

肝心のその中身ですが。
…また今度。すみません。一文で終わってしまいました…(だめな奴)。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月30日

せめてもの足掻き

なにぃ。大鳥発電所で、新技術・新工法の採用として、鉄筋コンクリートでペンストック(水圧鉄管)が作られているだと。
ペンストックは普通鉄管で、発電所設備の結構大きな割合のコストがそこに割かれるというのに。
水力発電の圧力に耐える鉄管は、材料も高いし、輸送も大変で、山奥まで運ぶのは相当な苦労で道路上の制限もあって頭を悩ませます。一方、鉄筋コンクリートでできて、それが他の発電所にも流用可能だったら、管が現場製造可能だから、輸送がずっと楽で、コストも下げられるではないか。

やるな、大鳥。新技術のさきがけを、大鳥が成し遂げた。素晴らしいじゃないか、大鳥。

……と、虚しくなるのが分かっていながら、書かずにはいられない。


いえ、今度、奥只見ダム(360MW+増設200MW)に研修生を連れて行くのですが。
その下流に大鳥ダム(95MW+87MW)がありまして。そっちのほうに行きたいと思っていて職権乱用で、奥只見ダムとセットで見学できないかなー、と、担当機関様に申し入れさせていただきましたら。電話にての会話。

「大鳥ですか、あれ、だめですよー」
「え、大鳥、だめなんですか?」
「奥地すぎてねー、まだ雪で道が通れないんですわ。奥只見まではシルバーラインがあるから行けるんですけどね」
「そうですか、大鳥、山奥過ぎますか…。5月末でも、まだ、雪に埋もれてますか」
「ええ。そういうわけで、大鳥はだめなんですよ」
「では大鳥は、諦めるしかないですね…」

…と、「大鳥だめ」という会話をした反動です。

だからさ。昼間研修生の世話と講義、夜仕事、というほとんど会社張り付きな生活で。研修生来る前にレポートをあげようとしても、データが出なくて、後に後にずれ込むのが、悪いんですが。
たまに帰っても、ネットをフラフラ漂うのが精一杯で、テキストを打ち込む体力が残っていない、その鬱憤なんですってば、

すみません。そんな感じで、メイルも1ヶ月近く止めたままになっています。人様にいただいているご縁を、一体何だと思っているのだ、って感じです。本当にごめんなさい…。次の出張に出られたら、ゆっくり書かせていただきます…。
面白くない話ですみません。こんな灰色の仕事にも潤いを見出そうとする健気さを、あざ笑って下さい。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

せめてもの足掻き

なにぃ。大鳥発電所で、新技術・新工法の採用として、鉄筋コンクリートでペンストック(水圧鉄管)が作られているだと。
ペンストックは普通鉄管で、発電所設備の結構大きな割合のコストがそこに割かれるというのに。
水力発電の圧力に耐える鉄管は、材料も高いし、輸送も大変で、山奥まで運ぶのは相当な苦労で道路上の制限もあって頭を悩ませます。一方、鉄筋コンクリートでできて、それが他の発電所にも流用可能だったら、管が現場製造可能だから、輸送がずっと楽で、コストも下げられるではないか。

やるな、大鳥。新技術のさきがけを、大鳥が成し遂げた。素晴らしいじゃないか、大鳥。

……と、虚しくなるのが分かっていながら、書かずにはいられない。


いえ、今度、奥只見ダム(360MW+増設200MW)に研修生を連れて行くのですが。
その下流に大鳥ダム(95MW+87MW)がありまして。そっちのほうに行きたいと思っていて職権乱用で、奥只見ダムとセットで見学できないかなー、と、担当機関様に申し入れさせていただきましたら。電話にての会話。

「大鳥ですか、あれ、だめですよー」
「え、大鳥、だめなんですか?」
「奥地すぎてねー、まだ雪で道が通れないんですわ。奥只見まではシルバーラインがあるから行けるんですけどね」
「そうですか、大鳥、山奥過ぎますか…。5月末でも、まだ、雪に埋もれてますか」
「ええ。そういうわけで、大鳥はだめなんですよ」
「では大鳥は、諦めるしかないですね…」

…と、「大鳥だめ」という会話をした反動です。

だからさ。昼間研修生の世話と講義、夜仕事、というほとんど会社張り付きな生活で。研修生来る前にレポートをあげようとしても、データが出なくて、後に後にずれ込むのが、悪いんですが。
たまに帰っても、ネットをフラフラ漂うのが精一杯で、テキストを打ち込む体力が残っていない、その鬱憤なんですってば、

すみません。そんな感じで、メイルも1ヶ月近く止めたままになっています。人様にいただいているご縁を、一体何だと思っているのだ、って感じです。本当にごめんなさい…。次の出張に出られたら、ゆっくり書かせていただきます…。
面白くない話ですみません。こんな灰色の仕事にも潤いを見出そうとする健気さを、あざ笑って下さい。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。