2005年08月03日

焼かれた屋敷?

あ、ウィキペディア、圭介の項目できてるじゃーん、と思いきや。
「大鳥活字」について。

「戊辰戦争のとき、大鳥が幕府方についたため彼の屋敷が焼かれたためなくなり」

………駿河台の屋敷、焼かれたですと?

圭介、江川塾と幕府陸軍調所出仕の兼任の時、即ち、塾生(薩摩藩留学生含む)相手に江川塾で講師やってたり、蕃所調所や陸軍所でバイトしてたりした時、「私は始終日記を書き、また幕府より下されし公文もそれぞれ所有せしが、戊辰の変にて皆失亡したれば今記憶せず」(名家談叢)と、くそ忙しい日常の暇を割いて、日記を書いて公文書も保管していたのに。残ってないのか、と悶えていたのに。ほかに、翻訳作業中の仕事とかもたくさんあったはずで、糾問所で質問されていたのに。

み、みんな焼けてしまってたんですか…。
なんて勿体無い…。

初めて本気で薩長憎し!と思った瞬間でした。貴重な萌えネ…もとい、文化遺産を…!

ソースとなっていると思わしき参考文献は未チェックだったので、ゲットしにいきます。


[2] 葛生 2005/08/03(Wed)-13:04 (No.35)
「焼かれた大鳥活字」のソースですが、たぶん2000年の柏書房のほうだと思います。
1996年の西野氏の本はチェックしましたけど、そんな記述はありませんでした。
…探しに行かなきゃ!

(そーか、圭介の日記はないんですね…がくり。)

[3] しの 2005/08/03(Wed)-14:37 (No.36)
2000年の柏書房のほうの、その参考項目をチェックしましたが、そっちにもそんな記述はありませんでした…。
(逆に1996年のほうだとばかり思ってた…。)

日記…。焼かれたなんて間違いだと良いのに…。

[4] 葛生 2005/08/03(Wed)-22:55 (No.37)
これかな…。

「大鳥活字は戊辰の硝煙の裡に佚し、本木は自力では高品質の活字を作りだせぬままに (中略) すなわち幕末和文鋳造活字の系譜はここで一旦断ち切られるのである。」
(1996年、府川充男「小括――幕末和文鋳造活字の展相」)

この筆者は、幾つかの文章を読む限り、比喩的・詩的な書き方をすることがままあるので、私はこれを「戊辰戦争のドサクサに紛れて所在が判らなくなった」と解釈してました。
…少なくとも「家が焼かれた」とかな記述はないです。よって、「圭介の家やら日記やらが焼かれた」という根拠にはならないかと。(希望は常に大きく!)

この論文はあくまで、幕末期の活字の系譜を刊行物の版面から整理しているものなので、圭介の説明も一切なし。
ただ、この方、ひょんなことから大鳥活字に深入りしてしまったと告白してる方なんですが、大鳥活字による刊行物を列挙した揚句、「幕末期に於る和文鋳造活字による印刷物随一の威容と評して異論あるまい」とか言ってくれてます。そして大鳥活字に疑問を呈する連中に向って、しつこく反駁してくれてます。実は大鳥スキーなんじゃないかと疑ってるんですけどね。(文体からいって結構ご年配の方ではないかと推察)

[5] しの 2005/08/04(Thu)-00:42 (No.38)
「固より運良く大鳥活字の実物が発見されるというような僥倖でもない限り、大鳥活字の料材を最終的に確証することはできない。」
(府川充男「和文活字の「傍流」」(印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』所収)

と、語っているので、焼けたとは確証がないのでは無いでしょうか?少なくともこの筆者はそう思っているのではないかと。
作者は16ページに渡って、大鳥活字を語ってしまう大鳥スキーですよ(←言い切った)。
作者さんは、確か昭和26年生れのはずですよ。

[6] 入潮 2005/08/04(Thu)-02:54 (No.39)
お二方、ありがとうございます〜。
よく見たら、双方とも、入手してました。著者名まで覚えていなかったから、一致しなかった…。今手元に無いですし、掘り起こすのも大変なので、助かりました。かたじけないです。

圭介、専門分野では評価高いというか、好かれてますよねぇ。一般受けしないけれども、マニア受けする男。

それにしても、脱走前日記。江川塾の留学生との日々が…。調所の洋学者たちとのお付き合いが…。小栗さんへの夜の通いが…。あぁ、桂川さんの前で乱酔しちゃったり、 長州の人とも仲良くしているのが記されていたかと思うと、もういても立ってもいられません。

屋敷が焼かれた、というのは、まだ今のところ確実ではない、ということで。薩長の方、早とちりで恨んでごめんなさい。
明細短冊に住所があるから、それで、各年の地図や土地登記帳などで、判別できませんかね…。
でも、今の今まで見つかっていないというのは、これから見つかる可能性も低いですよなぁ。
江戸城の資料・公文書保護に走り回った江藤さんの手も、まず駿河台までは及ばなかったでしょうし。

あるいは実はみちさんが持って逃げていて、身を寄せていた佐倉の荒井宗道宅の土蔵の中に眠っているとかは…ないですよなぁ…。書物って重いしなぁ…。

今残っている資料というのは、ほんの一部で、あらゆる僥倖の積み重ねなんですよな。圭介の洋行日記も、一部欠けていますし。南柯紀行も元は人の手を経た写本でしたし。
こう考えると、小栗日記なども、残っていたのって、奇跡ですよなぁ…。
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2005年08月04日

仙台戊辰戦史

嬉しい。ようやくカビキラーと芳香剤が買えた。

いや、ブータン・インド・モンゴルから帰国して以来ずっと、風呂場がカビ臭かったので…。
梅雨時の不在時に、勢い良く繁殖していたようです。

何とかしたかったのだけれども、いかんせん土日も出ずっぱりで、家には洗濯と寝に戻るだけだから、スーパーやドラッグストアに行く暇もなし。24時間オープンなんて気の利いたところもなければ、あったとしても買い物している体力もなし。

それで、家の風呂を使いたくないから会社の近くの銭湯ですませているので、さらに生命力旺盛な菌類どもは、この世の春を、いや、夏を謳歌しやがるという、悪循環。

…男だったら、早く嫁をもらえ、と言われるところだ。私だったらそう言う。

婿にするならそんなに悪くないほうだと思う。家は開けっ放しだけど。健康はなんら問題もなし。酒も普通のコンディションならそんなに飲まないし。給料はそんなに高くないけど出て行く金が少ないから相対的に稼ぎは良い。浮気をするアテもないし。勘当されてるから婿養子でもぜんぜんオッケーで、舅姑も小姑も無し。

……言えば言うほど不幸な気がしてくるのは何故だろう。


そ、それで、1時間ほど会社を抜け出して、買い物して、本屋に行ってきました。
ふつーのことなのに、ぜんぜんふつーじゃないことをしたように感じているあたりが、病んでます。
食事もPCの前で弁当かコンビニ食料だからな…

で、本屋にて、立ち読み。「仙台戊辰戦史」8月発刊の新しい本を手に取る。星亮一、三修社。
星亮一、筆が早いなぁ。年に何冊出しているんだろう。

こちらに、榎本に会いに、二本松から駕籠を飛ばして仙台にやってきて、額兵隊の蜂起に出くわした圭介について、南柯紀行の抜き出しと共に触れられていました。3ページほど。
大鳥に同情的というか、妙に情の移った表現がてんこ盛りでした。

「会津に加担し旧幕府伝習歩兵を率いて、身を粉にして戦った」

とかあたり、嬉しい表現。

「榎本にしても大鳥にしても根は純朴だった。会津に同情し、そこから抜け出せなくなり、とことん戦う羽目になった」

なんて、既存の会津史観に真っ向から反対した見方ですよな。

にしても、身を粉にして、とか、抜け出せなくなり、とか、とことん戦う羽目に、とか。
…よく南柯紀行の雰囲気を読んで下さってますな…。

もし大鳥が薩長の出身だったら「当然大臣の器だっただろう」とかも。
薩長政府に出仕して出世したので嫌われこそすれ、あれでまだ物足りないぞ、という姿勢。

で、締めくくり。
「大鳥もまた勇者の一人だった」

……星さんに何が起きているのだろう。いや、前から大鳥に弁護的なとこもを見せて下さっていましたが。ほかの会津史家を憚っていたのか、ここまでは言い切ってなかったですよな…。
インターネットの口さがないひねくれ者連中に当てられて、気合を入れなおしたのだろうか。ご自身でホームページを開いて読者の声のコーナーを持っていたりするぐらいですし。

20年前と違うのは、これだけ情報ネットワークが発達して、古書や一次資料が、史家のみに手にできる特権的なものではなくなった。それで、一般人が、自宅にいながらにして史料にも触れられるようになって、これまでの歴史作家の作品と事実との矛盾が、明らかにされてきた。

例の会津贔屓作家の作品も、アマゾンなどで、レビューを見ていると、作者に完全に同調していて「おいおい…」と脱力するようなのがある一方で。

「本当に注目すべきなのは、21世紀に入って数年が経過した今になっても、このような形でしか幕末の政治史をとらえられない、という事実の方である」

と、グッサリと言い切る方がいらしたりして。読者層が侮れなくなってきた、というのをひしひしと感じているのでしょうか…

(この方、敗者の美学、愚直ということを、「『戊辰戦争での敗北』という、それ自体どうにもならない事実を前に、『実は負けていないんだ』というパラダイムシフトを起こすためのマジックワード」だなんて、素敵な表現をされていて、拍手してしまいました)

なんにせよ、大鳥スキーとしては、嬉しい追い風です。
一般向け書籍で、平易な言葉で、ここまで言ってくださっているのは、とってもありがたい。

けれども、それと同時に、どことなく物足りなさを感じたりしてしまうのは、何故だろう。肩透かしを食らったような。
むしろ、けちょんけちょんにされているほうが、もっと盛り上がれるのにー…とか思ってしまうあたり、困ったものです。

いずれにせよ、会津というだけで抱いていた苦手意識を、改めねばならない時がきたのかもしれません。
嬉しくも、ちょっと寂しい微妙な心理…。

[2] 青桐 2005/08/05(Fri)-21:32 (No.42)
入潮さん、こんにちは(^^)。大鳥に対する会津史観ですが、会津には、けちょんけちょんのモトになったのではないかと勝手に想像している「会津戊辰戦史」(山川健次郎監修)よりも早く出版された「会津史」という史書があるのですけど、そこでは「大鳥圭介は、如風と號し、性正毅豪膽(=豪胆)韜略(とうりゃく=兵法の書)に通じ、善く兵を用い、幕府八萬の旗下中、稀に見る處の人物なり」と評されております。昭和3年の発刊ですよ♪(会津戊辰戦史よりもマイナーな書物ですが、下巻の158ページに記述があります。よろしかったら、探してみてくださいませね。会津も捨てたもんじゃないですよ〜:笑)

[3] 青桐 2005/08/05(Fri)-21:41 (No.43)
あ、ごめんなさい。如風じゃなくて如楓でした。すみません〜。

[4] 入潮 2005/08/07(Sun)-02:28 (No.44)
青桐さまっ。いつも見てます。そしてすばらしい調査結果に横隔膜から雄たけびを迸らせています。愛してます。
え、えっと、「会津史」、未チェックでした。素敵スーパー史料のご提示、いつもありがとうございますっっ! もう、伏し拝み奉るより他はありません。

「会津戊辰戦史」は2番目か3番目に見た史料らしい史料で、それで最初にうけたダメージが大きく強烈で、目に付いてしまう現代の会津作家が方々もあれでいらっしゃいますので、ロクに他を当たりもせず、会津の史料はみんなそうなんじゃないかという、偏狭で浅はかな認識を抱いてしまっておりました…。
実際、大鳥、結果だけ見てみれば、会津に対して何もプラスになることしていないですし…。藤原防衛も、却って白河に敵兵力を集中させてあっちを苦労させただけ、という見方もできますし。

一つだけの史料から判断するのは危ういですし、綱淵謙錠氏のように一つ一つ丁寧に膨大な量の史料を読み解かれて、冷静な目で事実を編み上げて、一つの物語を織り成していらっしゃった方もいる。その方からはっとする認識をいただくことも多いのに。…って。これ、一番最初に青桐さんに教えていただいたことじゃないですか…。何を堂々巡りしているのやら。わが身が情けないです。

「如楓」の訂正もわざわざありがとうございます…。仰っていただかなければ気づきませんでした(ダメ)
青桐さんの、言葉表現に関する凛とした姿勢には、いつも背筋が伸びる思いです
平気で常用漢字に直したりカタカナ→ひらがな変換して打ってたり、それ以前に誤字脱字だらけな自分としては、いやぁぁ、見ないでくださいぃぃ、と泣きたい感じです…。
青桐さんの言葉に篭る力は、はその普段の精神から来ているのだろうなぁ…と思いながら、拝見してます。
今後ともご指導いただけると嬉しいです〜。
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2005年08月07日

古今史談

やーまーかーわー……。
もしやオマエか。大元は、オマエかーー……

と。夜中にけたたましく笑い転げてしまいました。

「古今史談」大町桂月(芳衛)著、公文書院刊、明治44年。
1869年生まれ。ちょうど戊辰戦争が終わった歳に生まれた方による編纂です。

会津関係資料。食わず嫌いではいかんと、今度は片っ端から漁ってみようかと思いました。

それで、床に積みあがっていたのから、手にしてみたうちの一つ。

特に会津に特化したものではなう、ヤマトタケルから明治の武勲、日露戦争まで、広く日本史を、戦争史から取り上げた当時の歴史書で、そこに「会津落城」が大きな章として含まれております。

オンタイムの文書ではなく、明治後期ですから、戊辰戦争から2世代ぐらい経過した年代のものです。
それだけに、明治の価値観を持って、戊辰や明治の歴史が語られているから、面白い。

たとえば、日露の勝利で世界で、ようやく日本が強国であると列強に認められたくだりですが。

「嗚呼我が国は、文明を以ってするも、世界第二流とは下らず、武は世界第一流なり。而して明治の文化も、全く太平の雨露にのみうるほひたるにあらず。明治38年間、ほとんど間隙なく我が国民は血をみたるなり。人生は戦闘なり。戦ふ能ざるものは、屈するの他のし。伸びむと欲さば、大に戦ふの覚悟あらざるべからざるなり。吾人は、平和のために戦争を謳歌するものなり」

と述べているのですが、このあたり、当時の戦争観が込められているのだと思います。
戦争は国が、当時列強にはさまれた中で国として維持していくために不可避だったものであり、「欧米の識者、その武強の原因をたづねて、之を武士道に帰するに至れり」とその覚悟ができる土台として、歴史=戦争史と位置づけている印象です。

で、その観点から編纂された歴史書であるので、なにせ武人に焦点が当てられています。幕末では高杉晋作フィーバしてます。「あまりに豪放なり、過激なり。…晋作をして明治以降にあらしめば、無論征韓論を唱へしならむ。而して西郷とこ呼応せば、面白き活劇起こりならしむ。」…なんて言っちゃっているぐらいです。明治でも、西南戦争、台湾出兵、日清・日露と、戦争のことしか述べていません。

で、この中に、「会津落城」という章があります。戊辰戦争が会津の視点で語られています。
こんな戦争ありきなイケイケ好戦的歴史観から述べる戊辰戦争なので、大鳥、出てくるとしたら、一体どんな描かれかたをしているのやらと、戦々恐々でした。というか、そもそも無視されているだろうと思いながら頁をめくってました。
まずこの著者、山川スキーでした。 鬼佐川と並べて、「智将」を連発しています。官軍側の視点なのに、山川大活躍。会津が佐川を越後口へ、山川を日光口へ向かわせて守備をしていたときのこと。
山川の紹介の際に、大鳥がちょろっと出てきます。

「官軍二手に別れ、薩、長、土佐、大垣の兵は、暮成路をとり、薩の別隊と、大村の兵とは、中山路をとる。中山路の官軍は、たやすく進むことを得たりしが、暮成路の官軍は、大に苦戦せり。それもその筈なり。此処には、幕府麾下の残蒐(?)の巨魁大鳥圭介も加はり居りたればなり」

巨魁ですって。体は小さいのに。いや、そうじゃなくて。
暮成は官軍大苦戦した。それもそのはずだ。そこには大鳥が加わっていたのだ。そんな感じです。大鳥の名声響き渡っていた感じですよ。迷声じゃないですよ。

「されど圭介、数奇なること、李将軍に同じ。さすがの圭介も、終に守を失へり。」

…一瞬、南北戦争のリー将軍かと思って、びびりました。
李将軍といえば、「史記」の李広将軍のこと。

李広将軍は口数は少ないが、誠実、剛勇は天下に知られた。桃李の花は美しいから人々が見に来て、自然に木下には小道ができるように、李将軍に魅せられて人々は集まり手本とする。士卒には愛情深かった。匈奴と戦い連戦連勝するも、あるとき敵の大群只中に百騎のみで取り残され、生き残るために、馬から下りて鞍をはずして囮を装って、敵を引き上げさせた、という方。あるときは生け捕りになったり、そのせいで裁判にかけられたり、平民に下ろされたり、また天子に召されたり、大小七十数回の戦争を経た。それでも最終的に認められることのなく、最後には自害した不遇の人。隴西の太守であったころ、羌族を降伏させて800人殺したことをずっと胸に持ち痛み続けていたとな…。

リー将軍よりスケールでかいかも。そんな人に譬えてもらっちゃってますよ…。

「会津の名将、知恵山川曰く、敗北のときは、英剛のものは、死を急ぎ、柔軟なるものは、度を失ふが常なり。われ大鳥を見て、さまでの人とも思わざりしが、戦敗るるも、平気にて、山川君、また負けたりと打ち笑ひ、徐に後事を議す。余、此人あるによりて、戦やぶれて、いつも士気を快復することを得たりと。」

なんか、思いっきり聞いたことのある証言ですよ…。違うヒトの口からですが。

「さまでの人とも思わざりし」なんて。山川氏を「性質怜悧」「君候の鑑裁」と褒めちぎって「百事打合大に力を得たり」なんて喜んでいた圭介。片思いだったみたい…。

もとい。圭介の五尺足らずの体格と、竹刀も持ったことの無いような腕だったら、一見、見くびられて当たり前ですわな。特に相手が、武の張って修養第一の会津武士が相手ですと。

山川君も最初「大鳥を見て」と一見さんのときは、それほどまでの人とは思わなかった。名声が一人歩きしていて、実物がそれに伴っていないように思えたのだろう。あの大鳥先生か…と、どんなもんだろうと期待しながら会ってみたら、見た目にがっくり来て、「何だコイツ大したことねー…」と思ったみたい。山川君、オレサマだし。
けれども、負けたときに初めて大鳥の真価を見た、って所でしょうか。負けても狼狽もせず、泰然と平常心で、また負けたよと笑ってて、それでゆったりと落ち着いて、後のことをどうするべきか話し合ってくる。この人があるお陰で、戦に破れても、いつも士気を回復することができた、と。
これ、兵の士気が、という第三者的視点だけではなくて、自分の士気を回復することができた、とも読み取れます。

負けても笑っていた、図太い奴…などという呆れの意味合いのようには、感じ取れませんよな。
カリスマで人を圧倒するようなタイプではなかったけれども、付き合っているうちに、なんかじっくりと味が出てきて、いつの間にか引き込まれていた、という感じで。

ただ、豪傑とか褒められているより、よほど味があって嬉しい感じです。ラブです。(こら)

で、作者も圭介に対して。

「其人は雄なるも、運非なり。到る処、連敗して、常に海老のごとくに退却すること、今日のクロバトキンと、その軌を同くせり。憐れむべきなり」

さすが、圭介を李将軍のごとしと言い切った人です。今度はクロバトキンを出してきました。
…って、今はじめて名前をしって、急いでネットで収集している体たらくなのですが。てへ。

とりあえずまとめてみますと。クロバトキン。日露戦争で、日本軍に負けてばかりだった将軍。実は遅滞戦術で、十分な戦力を残した主力を背景に、消耗少なく軍をすぐに交替させ、国力の微弱な日本側を軍事的体力を消耗させ、最終的に奪回を図ろうとしていた人。大山巌っちが激しく警戒してた方。局地の戦闘は適当にいなして、有利なハルビンに兵力を集めようとしていた、戦闘で勝つことではなく、戦略で勝つことを狙っていた方。
これが当たっていれば、日本軍は全滅に近い敗北をしていただろうと言われているようです。

またそんな方に例えてもらって。圭介…。
そもそも、人は英雄の柄だけれども、運はそうではなかった、と。連敗なのは、実力はあるのに運が伴っていなかった、という見方です。(運も実力のうち、というのは置いておいて…)

で、海老のごとくな退却、って、どういう比喩なのか。
…最後に鯛じゃなくて蛸に釣られてしまうんだな…。ぼそぼそ。

そして、最後は「憐れ」で締めくくっているあたりが。…憐憫を受けてしまいましたよ、圭介…。

そんな感じで。こんな戦争万歳文書においても、大鳥のプレゼンスは高かったでした。

ところで、山川の発言。

負けて笑っていた、というのは、あちこちそこら中で、引用されまくってている、安藤太郎の「負けて泰然として馬に乗り、ニコニコして逃げてくる。『また負けたよ、ハッハッ』と笑いながら平気の平だった」がまず出てきますが。

なんかおかしいと思ってたんですよ。いくらヘボン塾で同窓だったとはいえ、海軍畑で品川参加で圭介と戦場を共にしたことのない安藤が、なんで圭介の戦語りについて、そんなに第一人者的に扱われているのか、と。箱館ではあんた、城でぐらいしか大鳥と会ってないんじゃないのか、と。

なので、もしや安藤、この山川の発言を、あちこちで引用していただけなんじゃ……。
いや、だって、日光口で共同戦線を張っていた山川が言ったというほうが、ずっとしっくりきて、リアリティありますもの。

というわけで、大鳥負けて笑ってた認識の出所は、実は山川大蔵だったのではないか、という新説が浮かんでまいりました。新説ちゅーほどのもんか、というのはおいておいて。

これが、面白おかしく安藤に捻じ曲げられて、圭介伝発言に到った、と…。
あるいは圭介特有の自虐ネタに昇華されて、圭介自身から安藤に伝えられていたこと、というのは、思いっきりありえると思いますけど。

まあ、そもそもこの史料自体、この山川発言について、何処を根拠にしているのかはそれだけでは分からないから、100%これが事実、と言い切ることも難しいのですが。この本が発刊されたのは、山川没年が明治31年で、その後ですし。戦争当事者たちからすでに二世代近くを経てますし。
それでも。

…圭介伝より、こっちが先だしなー。
安藤の発言を収録した大鳥圭介伝の初出は、大正4年。5年後です。

ちなみに、こちらは、発刊が明治44年3月なので、圭介、まだ生きています。かろうじて、同時代文書。まず本人校閲は、していないと思いますけど。

そんな感じで。

今度から居酒屋に入ったら、肴には、トリとタコのほかに、エビにも目が行くようになると思います。(それが結論か)
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2005年08月08日

鵬雛

【鵬雛】

ほうすう。三国志のホウ(广+龍)士元。 おおとりのひな。転じて、やがては大人物となる少年、若者。

おおとりひな。

…鵬圭介君(地球儀用法と万国総覧の表記)。洒落か。シャレなのか…ッ!?

ゆきちゃんは、こっそり圭介が、「次は子龍、いや、龍子」…とか考えていたら、通常のネーミングセンスを持っていたみちさんが、圭介にまかせておけんと、無理やり常識的な名をつけたに違いない。

ひなちゃん。イケ面の上杉家の元大名をフって、家に戻ってくるぐらいだから、大人物に育ったには違いないのかもしれない。


……すみません。ノンストップ状態なんで、疲れてます。今日はもう、ばたんきゅー、させてください…。
タグ:大鳥圭介
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2005年08月11日

「通俗日本外史」「戊辰戦史」返信 「通俗日本外史」「戊辰戦史」

ふー。だいぶ疲れてきました。
修羅場に入って、ちょうど1ヶ月ぐらいですかね…。1週間ぐらいなら勢いで乗り切れるのですが。長丁場だと息切れします。「よく体持つねー」とよく言われますが。「元気だけがとりえです」と健気ぶる気力もなく、「そろそろ落として、どっかにいなくなりたいです…」と死んだ魚のような胡乱な目で返すようになってしまいました。
後輩の飲み会も誘いをぶっちぎってしまった。若い気力を吸い取って癒されたかったのに…

疲れているのは作業にではなくて人間関係なのですが。
データ処理も報告書記述も、論理的と科学的思考しか要求されないから、ある意味楽なんですよな。体力勝負でできる。
人間相手は、ものすごい力をいただくこともあれば、その逆もあって、なにかとしんどいです。

どうも、自分、倣岸不遜な人に馬鹿野郎と蔑まれながら奴隷のようにこき使われるより、人に仕事を頼む方が、よほど疲れるという性質みたいです。もちろん頼む人にもよるのですが。ものすごく気疲れします。
管理職にはぜんぜん向いてないんですな…

そういう状況だと、資料漁りやめてさっさと寝たら? というのが普通の感覚なのですが。
もはや圭介が癒し。鬱の泥沼に浮いた、一片のワラを掴むように。圭介が希望。

…だめだ。自分のイタさを自虐ネタとして垂れ流すと、大抵はすっきりするのに、なんか白々しい…

とか何とか言いながら。テンション上げるためにやります。

デジタルライブラリで、片っ端から「戊辰」「会津」「箱館」とキーワードにして、戊辰戦争の大鳥について、漁ってみました。

明治に編纂された歴史書、歴史教科書関係が、結構たくさん引っかかりましたです。
これがなんというか、明治の文書には大鳥に優しいのがある、とは思っていたのですが。「がある」というのは、適当ではなかった気がします。

大抵、江戸明け渡しや、会津や箱館の描写をするときに、ぽろぽろと大鳥がでてきまして。ピンポイントであり、戦況をどうこうするほどの影響力を持ったり主流の意思決定をしたりしたわけではないのですが。
…これで本当にいいのですか?というぐらい、当たる史料全てで、優しい表現をもらっていました。

手当たり次第に行ってみます。とりあえず年代順。

●「通俗日本外史」/青木輔清著、同盟分舎、明治20年12月

通俗近世国史略の続編、とサブタイトルがついています。
通俗、といいながら、見たことのある表現が多かったりして、かなり史料を調べこんで書いている感じです。官軍側の視点が主です。読みやすくするためにか、文の装飾は結構あります。

「大鳥圭介は軍略あり。兵を指揮する、肱の指を使ふが如く、操縦(しんたい)意の如くならざることなし。且其兵率ゆるの所の兵も多くは、嘗て錬兵を仏蘭西人に受る者なれば、部下も精鋭にして、到る所官軍を窘(くるし)む」

兵を指揮するのに、我が手指を動かす如くに自在である、と…。伝習隊も精鋭で、官軍を苦しめた、と。
それに、日光の後の、板垣らとの戦闘についても。

「大鳥圭介は日光近傍にありてしばしば兵を出し、土州の兵之と今市に戦て、互いに勝敗あり」

と、連敗、なんて書き方はしていません。板垣のほうも、実際は引き分けや勝ち負けがあって、痛みわけ、という感じでした。

● 「戊辰戦史」 川崎三郎、博文館、明治27年

「戊辰戦史」とピンポイントアタックするほどですので、かなり詳しいです。大山柏氏も、参考にされたのではないだろうか。目次も、宇都宮の戦闘だけで3章、日光は4章分を割く、力の込め具合。惜しむらくは、秋田の戦で終わり、つまり、奥羽で幕を閉じていて、箱館までは触れてくれてないことでしょうか。というか、未完なのかもしれない。マイクロの方も、同じところまでしかないようですし。

まず、大鳥の紹介のところで。「大鳥、韜略に通じ、機略群を抜く」
小山の戦いにて。「東軍勢甚だ猛鋭、官軍被庇大に敗れて逃る」「大鳥、善く兵を用ひ、散開、隊次を以て戦い、官軍を苦ふ」

雀宮の大川の活躍についても、名前は出てこないのだけれども、詳しく描写されています。

あ、これ、賊軍ではなく、「東軍」という表記を使っています。東軍、という呼称が出てきたのは、会津戊辰戦史からだと思ってましたが、明治も後半に差し掛かると、結構普通に使われていたのでしょうか。
やっぱり官軍側から見た賊軍、という視点ではあるのですが。

さて、今市なんですが。小佐越、棚倉の戦い。「東軍勢鋭に土軍支えず」「東軍剽悍にして善く戦う」と東軍の活躍。一方、官軍は「土軍連り戦い、連に破れ、軍気大に疲る」という土佐軍の有様でして、日光から増援として彦根からきた新兵を、殿にして逃げたぐらいで。

で、弾薬が乏しい、と使者が来たとき「板垣其使者を叱して曰く『一軍、既に勝算を定め、一包の弾薬を装ひて進む。而して今にして之を乞ふ、吾れ其何の意をなるを知らずや』と。以って使者を斥く」と、弾薬調達の使者に八つ当たり…。結局、板垣、弾薬は送るのですが。

それで、軍艦の安岡氏が、「今日の苦戦未だ嘗て有らざる所、而して地形の不利最も太甚だし」と告げる。それでもここが崩れると盛り返すことができないと安岡がいうので、安岡自身にそこを攻めさせる。東軍を防ぎきりはしたのだけれども、諸将は板垣に「今日の敗、地形の不利、之を為すなり」とぶーぶー文句。板垣、これに対して「痛く之を叱し」て、兵士たるもの、一号令の下に応じ、進むべきは進んで、引くべきは引く、というもんだ、と説教を始め、「生死之を度外に措き、以って勝敗を決せざるべからず」
生死など度外において、勝敗を決するべきだ。当時としては当たり前の台詞だと思うのですが…。圭介は多分絶対言わないよな。

で、板垣、「いたずらに客気に誇り、武勇を衒うの斃、余の深く憂ふる所。今日の戦は、豈諸子が好経験にてあらずや」って。…地形悪いのに、行かせたの誰だよ…。

それで、板垣部下の片岡健吉という人が「敵、固より兵寡く、然れども守戦に至ては、即ち、謀慮匝緻、却て侮り易からざるものあり」なんてコメントしてます。敵は少ないけれども守りに入ると侮れない。圭介、守って映える男。攻めるのは苦手。敵も認めてます。

それで諸将が板垣に、「我兵既に鞋を履かざる五昼夜、士卒悉く病み、幾らも戦ふ能ざらんとす」という状況に陥って「防御力尽き兵士皆泥土に仆れれて眠るに到る、一度軍を退くに若かざる也」と、もうやめようよ、帰ろうよ、と進言するのですが、板垣、「大に憤り之を斥け」て、既にここを守ると誓って決めている、其れなのに退軍を説くのは何事だ!と、怒ってます。そんな窮状に陥っていたんですか、土佐軍…

どうも、見ようによっては、使者や諸将に八つ当たりしているようにも見える…
女王様、ヒステリー…?いえ、基本的に、ちゃんと偉い人っぽく書かれているのですが。

結局、増援が着たので、それに助けられて形勢を盛り返した、ということです。

さらに、5月4日、街道に兵を散布して、篝火を炊いて、東軍を罠にはめようと誘ったのだけれども、この計略がバレていて、あっさり無視されてしまった。で「東軍の将沼間慎次郎松浦已三郎等、板垣を見て、深く其疑計に陥りたるを哄せしと云ふ」

…沼間、板垣を笑ってたのか…。その沼間を板垣は…。

そんな感じで。どうもここで板垣は大苦戦していたというか、部下に当り散らして増援に救われた、という記述ですが。なんかだんだん、板垣が気の毒になってきた。

それで「大鳥圭助、山川大内蔵等豫しめ力を蓄へ鋭を養ひ必ず今市を抜かんと期す。其兵凡そ千豫人、剽悍猛鋭、土軍為に辟易す」と。
その後、圭介ら、今市を攻略するのはやめて、藤原に篭ることになり、一方、土佐軍は白河へ向かうことになる。かわって、当代最強火器アームストロングを引っさげた虎の子の佐賀藩がその、大鳥・山川の守る藤原の攻めに入ってくる。

このとき、板垣は佐賀藩に、今市の戦「甚だ進むに利あらず」と説いて、「君、宜しく固く守りて持て白河口の官軍鞭を掲ぐるの日を待ち、之と共にするべし。いやしくも然らずして徒に軽率躍進せしが、即ち、卒に敵の術中に陥り、悔て他日に敗さん」と忠告してます…。
板垣、大鳥の軍をめっちゃ評価してますやん…

けれども、佐賀藩はこれきかず、藤原に攻め込んでしまい、「果たして大に敗れ、敵の急追する所となり、アームストロングを奪はるに到れり」という結果に。

そうなると。「大鳥は道普請してくるから撃破するのは簡単だった」
という板垣の圭介評って、単なる負け惜しみか?と思えてくるのですが…
まぁ、これに続く「沼間の用兵は神出鬼没、端倪すべからず」への対比なのでしょうが。
よっぽど板垣、圭介が嫌いだったんだな…
沼間は戦闘指揮官で、大鳥は司令官だから、そもそも道普請が仕事なのに。苦戦したのは部下が優れていたからであって、アイツが凄かったというわけではない、とでも云いたかったのだろうか。

そんな感じで。これを読む限り、今までの日光・今市の連敗評や、しょっちゅう引用されるところの板垣の大鳥評は何なのだ?という感じなんですが…。

基本的に「東軍」という表記ではありますが、官軍から、賊軍をどう見ていたか、という視点で記録が進んでいます。青木さん(著者)、これらのソースは一体…。これを史料だ、と言い切ってもいいですか?問題ないですか?本当?

にしても、南柯紀行と読み比べると、圭介の情けなさと、官軍の情けなさの対比が、笑えて笑えて…。

……あぁ、圭介評だけ抜き出してさっくり終わろうと思ってたのに、あまりに板垣が面白いものだから、夜が明けてしまった…。また体力を回復しそこなう。どうするんだよ明日…。
でもお陰で、癒されました。板垣に。

あと、付録として「小栗忠順小伝」「小栗道子小伝」がついていて、小栗さんの功績と最後についてつぶさに触れられていたのも嬉しい。圭介と小栗さん、奥さんのお名前一緒だったのね…と、またムダに萌えてみました。
まだ2冊。まだまだあります。また、追加します。
そんなことしているから疲れるんだよ。でも心はリフレッシュ。板垣、青木さん、ありがとう。
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2005年08月12日

とりあえずメモ

今すぐに書きたいネタ。

・ デジタルライブラリの収穫物あと7件
・ K生さまにコメント・監修していただいた"Leading Men of Japan"の訳
・ 明治板垣大鳥のアヤしい怪談もとい会談
・ 大鳥の二院制建言(何時からほったらかして…)
・ 工部技監時代の信越加州鉄道フィージビリティスタディ調査(同上)
・ 大岡昇平氏掴みはがっぷり圭介評(さらに同上)
・ 工部省後期のコンサル志向ジワジワの意見書
・「工部省とその時代」編者鈴木淳氏による、内務省・工部省で官民を問わず殖産興業で走り回った大鳥。
・「明治政府は大鳥を使い切ることができなかった」と言い切った都政関係の大学教授
・ 大鳥のテーマソングを作ってしまった日本詩人連盟会員
・ 東洋学芸雑誌の大鳥晩年論文

だめだ、大鳥関係で頭にあるだけで、こんだけ出てくる…

後、ヤマオさんとかムツさんとかモリさんとかヨシダとか入れると…なんだか一生あっても足らない気がしてきます。

そんなアタイは、今日も不夜城。
ようやく自分の原稿が終わった。これから英訳和訳エディティング査読印刷……
何百ページあるんだ、ウフフフ。

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2005年08月14日

いぬわし

http://hiroshima.cool.ne.jp/toriton/news0001/news_262.html

ちょっとだけ和みました。
うふふ…。

こんなところに癒される自分がツライ。

ちなみに、大鳥発電所と奥只見発電所は、長さ8kmの、高さ1mぐらいの極小トンネルで結ばれています。
スクーターでのみ通行可能。徒歩だと頭が支える。

大鳥発電所は、冬季は完全に雪の中に埋もれて閉ざされるから、シルバーラインの走っている奥只見からの非常用通路としてなのですが。

…地下の暗闇のごく狭の中を、8km延々、スクーター。

発電所の管理員の方も、大変です…。
(普段はリモートコントロールで、無人だったと)
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2005年08月17日

宮城地震

盆も土日も、昼も夜も無縁で、会社に閉じこもっていているからこその、幸いってあるもんだ。

……と、不謹慎にも、思ってしまいました。

次に思ったこと。

……うちの会社、また儲かるかな…
(災害復旧とかいうと、地震、台風、火山、土砂災害など、天災があるごとに仕事が来る、という、因果な商売)
えーと。
学生時代は仙台でしたので。
震源地は何度もバイクで走りにいったことがありました。

住んでいたアパートは、自分の親の年ぐらいのぼろで。
青葉山の裏手の山と、下界の国道の中間点の山腹をむりやり切り開いたところで。
構造線の真上でした。
……だから家賃が安かった。宮城県沖地震が2、3年以内にくるといわれていて、被災区の赤色指定だった。

もし今頃あそこにいたら。というか、あそこに住んでいたころにその地震が来ていたら。
と、結局わが身を振り返って思ってしまいます。

ちなみにそのアパートは、今は取り壊されてありません。
だから、そこに住んでいた人がどうなっているのだろう、と心配はしなくてすむのですが。

残っている連中、大丈夫かなぁ…

ところで、GPSの基準点が5cmずれたのが分かる、って。
すげぇよ、国土地理院。普通、こんな直後に分からないよ。この後に及んで、自分たちの測量技術を、こっそり自慢していないか…?

……と考えてしまうあたりが、とことん不謹慎な奴です。

えっと、その。
皆様のご無事をお祈りいたします…。
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2005年08月18日

板垣と大鳥

泊り込み、5日ぐらい続いただろうか。よくもったものだ。ぱんつが。いや、着替えはもっていたけれど。2日分ぐらい。
……。

ようやく1/4が印刷に出せた。あとはこれから英文。700ページの校正。
しかも次のプロジェクトの公示が出てしまった。入札準備しなきゃ…。

暗い先行きばかり考えていてもしょうがないので、明るいことに目を向けます。

板垣。

何でや。えっと。

既にご存知の方も多いかと思うので、いまさらな観もあるのですが。「戊辰戦記」でちょっと我的に盛り上がり、せっかくなので、いつか叫ぼうと思っていたネタを行きます。

「戊辰の役の将、板垣退助と会談」明治9年11月2日、郵便報知。

戊辰戦争の将同士の、圭介と板垣が、役所では顔合わせすることもあったけれども、まともにちゃんと話する機会はなかった。報知新聞の主筆、栗本鋤雲がこれを聞きつけ、上野の精養軒に会談をセッティングした、という記事です。

栗本さん。それ、思いっきり、余計なお世話なんじゃ…。という気がするのは、気のせい?

だって、板垣と大鳥、性格的に、仲悪そうなんで。

まず、圭介は板垣のこと、何にも語り残していませんし(自分の知る限りですが)。
圭介、他人を褒めるときは思いっきり褒めてますけど(榎本さん、山川、宇都宮、小栗さん、etc...)、圭介が他人を名指しで悪く言っているのは、あまり見たことがない(吉田さん相手に、手紙でちょっと愚痴ってたことはあった)。そのくせ、いつも、腹に何かしら抱えているようで、世間への問題意識は強くて、なんかしらの論説にちらちらとその辺が、でてくる。自由民権運動に関しても、あれは西洋の上っ面の真似事で、中身が伴っていない、日本の風土に馴染むかどうか疑問、みたいなことを言っていた。(うろ覚え。すぐにソースが出なくてすみません。工業新報か何かの雑誌の緒言だったと…)
合理性、現実性より、理念に走りがちな板垣に、シンパシーとは逆のものを感じてたっぽい。

一方で、板垣は板垣でアレだし。圭介伝でも、圭介のことは何も言わず、自分の戦争がいかなるものであったかを描写しただけ。人の伝記なのに。なんかナルシっぽかった。
土佐藩主の山内容堂の側用役から、藩の要職を歴任した生粋の武士。伝習隊の兵の亡骸に刺青が入っているのを見て、「自分の兵がこれと戦って死ぬのは割に合わない」と思ったというから、身分意識の強い人だったのではないか。成り上がりの圭介に対する印象があまりよいとも思えない。

一方で板垣は、西洋兵学をの下積みがあるわけではなく、己の勘を重視しており、天才と呼ばれた。

そして、人には、おれは大鳥は大したことはない、大鳥の部下が優秀で、伝習隊が優秀で、だから苦戦したのだ、というようなスタンスで語っている。

清廉潔白、正直者、という評価である割に、だからいっそうというべきか。どうも板垣、大鳥に関しては、ねちっこい。今市近辺の連戦は、大鳥の連敗だった、戦の指揮は苦手だった、という書き方を今ではされているけれども、当時の新聞や記録を見る限り、世間の評価は、互いに勝ち負けあり、五分五分、というものだったようだし。物量作戦で臨めた負けず嫌いな板垣が、面白いはずもない。

そんな感じで、どうも、この二人、水と油、っぽい。
…というのは、うがった見方でしょうか…。

うがってても夢見てても、とりあえずこの見方を前提に行きます。

栗本さんは旧幕臣、箱館奉行組頭で、外国奉行で、勘定奉行。横須賀造船所設立にも活躍。小栗さんと並び称される方。このとき54歳の働き盛り。新聞社のカンバンを背負う記者としては、ネタがあれば飛びつきたいところ。

この方の頼みだと、圭介、イヤだと思っても、断れなかっただろう。

で、記事の内容は。

…すみません。がんばろうと思ったのですが、前書きで力尽きました。もう完全に体力が失せてます。イリシオ死すともネタは死なず。また明日…。

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2005年08月20日

嫌韓流

なんでこの修羅場も極まっているときに、買ってしまってるんだ、自分…

「嫌韓流」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/488380478X/qid%3D1124525516/249-2535113-8861120

いまさらという感じではありますけれども。
よくぞやってくれたよ…。頼もしいよ、マイナー出版界。もう大好き。
そうしてどんどん、マスメディアに歯向かってくれ…。

それにしても幽遊白書にキャラを似せているのは、ワザとなのか。


なお、自分、「冬のソナタ」を、韓国語に翻訳した「北の国から」だと思っていました。
今も、とりあえず、なんとなく、そうではないらしい、ということしか、分かっていません。
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2005年08月25日

水戸にて

疲れた…
何に疲れたかって、パスポートをなくしたことに…。

結果的に無事に発見できたのですが。そのために、この修羅場も極まっている時に、2日間費やしました。

パスポートは紛失すると、再発行に約3週間かかる。9月3日から出張ですから、再発行していると間に合わない。
出張の日程は契約で決められているし、自分一人ではなくて他の団員とのチーム行動ですし、今回がプロジェクトの最後の渡航となり、シメの仕事だったので、欠席すると、先方にも団にも客にも、多大な迷惑がかかる…ということで、相当焦りました。

何とか緊急発行できませんか?とパスポートセンターに縋りつきましたが、「人道目的(家族の事故など)でないとダメです。それより大事な仕事に関わるならいっそう、保管はちゃんとしておくべきではないですか?」と、至極、ごもっともな説教をいただきました…。法治国家万歳。

結局、会社の引き出しの、下にありました…。開け閉めしているときに、こぼれて下に落ちてしまっていたらしい。我ながら、よく発見できたと思います。
徹夜で捜索して、会社とアパートも3往復ぐらいして、家捜しもしつくして、もう無い、ダメだ、と性も根も尽き果てて、あきらめた瞬間に。
ふっと、もしかしたらと思い当たって、引き出しを外して、床を探したら出てきました。

なんというか、人間、やることやりつくしたら、ちゃんと神さまが道を開いてくれるんだ…と思いましたです。めでたいヤツです。

そもそも、モノのぎゅうぎゅうに詰まった引き出しに入れておくのが悪い、っちゅーねん。

で、パスポートの残存期間が6ヶ月残っていないと、次に行くタイやフィリピンは入国できない。失効日は来年2月2日…。切れているじゃないか。
ということで、結局パスポートは取り直しでした。
これが、近くでの申請だと2週間かかるのですが、県庁所在地の水戸まで出向くと6日間で取れるとのこと。それだと出張間に合う。ということで、水戸まで行ってまいりました。

パスポートセンターのある県庁と、県立図書館が並びで、旧城址に立てられていました。お堀の緑がまぶしい。で、お堀を渡ろうとすると。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/photos/hitomi-kanban.jpg

人見さん〜!
まさかここで、そのお名前に出会えるとは。茨城県令でしたものね。観光などで狙い撃ちで来たわけではなく、不意打ちだからこそ、嬉しかったです。

人見さんも利根川・江戸川運河の開削に功績のある方。戊辰戦争の遊撃隊としてのみ焦点が当てられることの多い方ですが、この方も、人生の本番は、明治のものつくりにこそある方だと思います。政治、実業からインフラ創設を推し進めた方。

明治12年茨城県大書記官、明治13年県令に就任。このとき、同じ年に惜しいかな、加波山事件の責任を取らされて免職。それでも、創立協議会で事業を推進し続け、明治20年に、利根運河会社を設立の社長に就任。その後も、サッポロビールなどの会社の設立にかかわり、実業家として活躍したとのこと。

運河は大量消費地東京への、関東平野からの水運のため。(当時、工部省による鉄道整備が発足していたのに対し、水利・運河派の内務省の流れに乗せられた、という感じはします。)
ちなみに、明治19年の県令は安田定則。内務大臣の山縣宛に運河開削の上申書を提出していました。

総工費は明治23年で40.1万円。後に追加費用で17万円追加。竣工式は明治23年6月。関東平野から江戸へ、3日かかっていた行程を、1日に短縮させました。が、後に常磐線鉄道開設と道路の整備に伴い、大正に入って、洪水などの水害でダメージを受けると共に、次代のインフラに役を譲ることになりました。結果だけ見ると二重投資で便益低かったんじゃ…と思わないでもないですが。運輸は国の動脈。鉄道整備までの中継ぎとして、富国の牽引力になったことは確かでしょう。

いかん、話が人見さんから、運河自体に逸れてしまった…
その、人見さんの勤務時代に植えられた枝垂桜についてですが。
初めての茨城県庁が建てられた記念に門が建てられ、そこに植えられたとのこと。この門には当時珍しいガス灯も取り付けられていたとのこと。
この桜が、毎日、人見さんたちをお迎えしていたのだなぁと。春には花を咲かせて、季節を醸していたのだなぁと。なんだか和んでしまいました。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/photos/hitomi-tree.jpg

こちらがその桜。

桜が樹齢百数十年を超えるというのは、なかなかお目にかかれない。
時を経た生き物というのは、それだけで、霊的というか、なんだかおいそれとしておけない、聖なるものを持っているもので。この桜も、支柱に支えられながら、よっこらしょ、と枝を張っている感じですが、にそういう雰囲気を持っている感じでした。

長く生きた樹って、大好きなのです。屋久島の縄文杉とか万代杉とか。前に立つと、魂が抜けそうになる。

あと、パスポートセンターのある三の丸庁舎も、中抜けの建物で、明治の文明開化時代に土台が立てられたものなのかなぁ、と。だいぶ改装を経ているようですが、これも歴史的な建造物っぽくて、匂いが嬉しかったです。
建物にしても樹にしても人にしても、長い年月を経ているものは、それだけ存在の積み重ねが感じられて、なんだか力をもらいます。

時間があれば、県立図書館にも行きたかった。途中の古本屋にも、茨城県の郷土史関連がずらり。「結城町史」とか気になりまくりなのも。ゆっくり紐解きたかったのですが、打ち合わせの為に東京までとんぼ返りせねばならず。
ゆっくりと純粋に観光で来れるようになるのは何時のことやら、と思いながら、パスポートのお陰で、思わぬ僥倖に会い、気分転換ができました。

そして目の前には、その分の時間の皺寄せが…。400ページぐらいだろうと踏んでいた残りの英文校正編集が、700ページを超えていた。そして次のプロジェクトの入札準備。あと一週間でどうしろっちゅーねん。

[2] しの 2005/08/25(Thu)-22:16 (No.56)
…不意打ち。
人見さんの名前もですが、この記事の中に安田定則さんの名前を見つけてカウンターアタックを食らいました!!
開拓使のイメージが強すぎて他の所に居る雰囲気がないんですけど、ちゃんと色々やってるんだな〜、と嬉しくなりました。
ありがとうございます。

あと、パスポートが見つかっておめでとうございました。(いえ、取り直しされたのは判ってるのですが、紛失によるよけいな書類がいらなかっただけでも…。)

出張、お身体に充分お気をつけてください。

[3] 入潮 2005/08/27(Sat)-14:53 (No.57)
安田さん。自分もずっと黒田の腰元に、鈴木大亮と一緒にいる人だと思っていました。確かに、払い下げと開拓使の解体後は、行き場がないと勿体無い人ですよね。
茨城県、初代の県令は山岡鉄舟だったということもびっくり。

常磐の押さえ、徳川御三家だった水戸の土地柄、最初は旧幕臣で抑えてたということなのでしょうか。

知事が、その県の出身者ではなくて、中央からの任命というのは、地方分権が進んでいない特色なんですかね…

パスポートに関して、ありがとうございます。時間との勝負でした。常になんだか綱渡りしているようなヤツです。

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2005年08月27日

転々堂主人

『競勢酔虎伝』

競勢酔虎伝は徳川贔屓の江戸市民目当てに売出された、幕府方勇士の銘々伝記シーズ。
名前は政府にはばかって変えてある。
大島圭介は鵬貞之亮という名になっている。文を書いた轉々堂主人も、旧幕臣の高畠藍泉である。

…のだそうで。
昭和30年の慶應義塾図書館展示会で、展示されていたらしい。
見たい。見たいぞ…。ユキチ大、そんなのを隠し持っているなんて…!
圭介、牢獄の中で自分のことを閉じ込められた舶来の虎、とか言ってましたけど。酔虎伝。しかも名前を変えられて。どんな表現のされ方だったのだろう。


さて、轉々堂の主人って、あれですよな。
大鳥のことを。

「策略を帷幕の中に運らし勝つことを千里の外に決するは、子房が功なりと故語にもいへる如くなる」とか

「器量すぐれし元帥の命に従ふ兵士の面々、進退手足のごとくにして、神出鬼没の駆引に累々寄せ手をなやませしは戦利の羽をのす北海に大鵬の名の高かるも名詮自性というべきのみ」とか。

大鳥=鵬とし、圭介を子房、張良にたとえ、圭介の指揮者としての功名をノリノリで開拓使の記録で語っていた、正体不明のおやっさんですよな。何者かと思っていたのですが。
(張良、っつーと、自分、肖像画が美女のようであったと司馬遷に言われた病弱な軍師、ぐらいの認識しかないんですが…)

どうやら、この方、高畠藍泉。明治最初の文壇小説家と呼ばれている方のようで。
ネットをあさってみると。昭和二年の『日本文学講座』第十一巻「三、柳亭種彦(高畠藍泉)と其一派」にこうあるそうな。

「幕府の小吏にして、演劇を好み、花柳に沈醉し、所謂務め嫌ひにして遊蕩怠惰いふべからず。」

と、仕事怠惰で芸術に耽溺する方だそうで。一方で。

「戊辰の役佐幕の士東北に脱して官軍に抗戰せんと欲すれども銃器に乏し、時に君憤然と起て名を政と改め、陸軍奉行松平太郎君と謀り、單身四方に馳て御用達なる者を説諭し、巨萬の金額を募集する」

と、戦役で立ち上がって、軍資金調達を行った。この松平さんとあつめた金って、もしかして日光で圭介にもたらされたアレなのかしら。それとも東北というから、会津以降かも。いや、藤原でもたらされた夏服に関わっていた可能性も…。

「毫も暴言剛強の氣を顯はさず、却て渠をして落涙せしめ、銃砲を凾館へ廻漕せしが、諸道の脱兵潰るゝと聞て大に落膽し、再び畫工と成て諸方を遊歴」

だそうで。箱館に、武器の調達までしてくれていたそうです。そして、敗戦でそのまま、文壇世界へ飛び込む。明治五年に日々新聞創立の際、日報社に入て編輯に従事したとのこと。

その後、明治八年に『平仮名絵入新聞』を創刊して編集長、翌九年には『読売新聞』へ移り、『小学雑誌』創刊。さらに十年には『読売新聞』を退社、『東京毎夕新聞』を創刊。これは経営がうまく行かなかったとのこと。さらに翌十一年に下阪、『大阪新聞』に入社。七月には帰京し『東京曙新聞』に入社…など。明治十三年には『読売新聞』の印刷長に。十五年は『東京絵入新聞』『歌舞伎新報』などの諸紙に寄稿した。

メディアを渡り歩いた大物っぽい。一方で、この時代にあって政治色には染まらず、芸能芸術に注力したようで、沼間や福地とはまた毛色が違うっぽい方ですよな。

「君近頃近世古物を愛すの癖あるを以て、假名垣魯文翁戲れに元祿古器の精なり」

と、古物品蒐集癖などもある趣味人のようで。

「因に轉々堂の号は氏が轉々として住居を轉じたことからの戲號であつたとのことである」

ひとところに落ち着かない人だったそうです。

そんな方に、圭介、滔滔と讃えてもらって。訴えかける何かを持っていたのかしら…。こっちが照れる。というか、なにかのダシに使われたのじゃないのかと、不安になる。

開拓使だしな…。大鳥を讃えておけば、長官の機嫌が取れて、北海道での文壇活動が有利になった、とかだったりしてな、という腐れ的妄想、してもいいですか。

いずれにしても、戊辰戦争時代に、軍資金援助や武器調達を行い、戦後も記録や文壇で、圭介を褒め称えていた。そんな転々堂主人。圭介との間柄が、またちょっと気になる感じでございました。
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2005年08月28日

日記がまだ

http://www.jh3hgi.net/kik/minpoh/mp200508/minpoh05-08.htm

上郡民報。今月号に、「大鳥圭介とその時代」を著された、西山昌夫先生が、平成10年に学習院史料館で調査されたときのレポートを掲載してました。「その時代」の著作後の時のものなのですが。

学習院が抱え込んでいる大鳥資料について、ご紹介くださっています。
ここにあげてくださっているもの。『シャム紀行』『イギリス・アメリカ滞在記録』はいいとして。

『台湾・澎湖島』『東北・茨城旅行』ってなんですかー!?
東北、茨城旅行。南柯紀行とは別ですよな…。何時のものなのだろう。しかも・

「文章記載に併せて風景のデッサンを描くに、巧みに鉛筆やぺンを走らせている。」

…大鳥の絵…。
油絵が、流されてしまった、というのはありましたが。山油編等に掲載されている挿絵が大鳥の手によるものなのか分からないとかあるのですが。…大鳥の絵だと確証のできるのがここに……。

「日記について自分で製本しないで既製の博物館日記帳を使用して、明治32年より36年、39年、40年より43年のそれぞれ版用に簡明に明確に、鉛筆で記述している。」

晩年の日記もあるんですかーーっ。
てか、どこかの博物館から業務用のものをもらってきて、日記帳にしているところが、圭介じぃちゃん…。さすが、マッチ一本も無駄に使わない方…。

西山先生、ご紹介くださってありがとうございます。これで、より、学習院にロックオンした標準が、動かぬものとなりましたです…。
タグ:大鳥圭介
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明治過去張

「明治過去帳」
以前から、ちょくちょく参照しておりましたが。色々、マイナー人物についても収録してくれているので、大変使いでがあります。誰だろう、この人?というのを調べるときに、手元においておきたい一冊です。

もちろん、マイナー人物だけではなく、メジャー人物も、その経歴は、履歴書かこれは?と思うぐらいに、事細かにあげてくださっています。いつ何をやっていたのだろう…?というのを調べるときも、重宝しますです。
あと、榎本さんの項目、長々としている肩書きから、まず「電気学会会長」からはじめるあたりが素敵です。

圭介のほうは、給料やら褒章額やらまで、書き連ねてあげなくっても…というぐらいで。
あと、これを見て、六三の死因を知って、かなりめり込んだことがありました。今はネット上にもあげられている情報なので、そんなにショックではなくなりましたけれども。

で、今回、こちらを元にしてわかった、圭介関係者の特記事項。橋本綱惟と荒井宗道の2名。

橋本綱惟は、橋本綱三郎。圭介が江川塾に招かれたときに、押しかけ女房、じゃなかった、圭介に学びに、江川の宿舎に一緒に住み込んできた方です。ご存知橋本左内の弟。左内さんの死後、どうなったのか。圭介との関連は見られなかった方なのですが

天保11年2月5日生。圭介より8年下。…本多さんや黒田と同じ年ですか。圭介、この年代生まれの人に縁がありますなぁ…。
で「亡兄を承け江川太郎左衛門に航海術を修め」とあります。左内さん生前から江川塾に居たと思うのですが…あれは、けいすけじゃ設定? あるいは圭介伝が間違っているのか、こちらの表記ミスなのか。

で、綱三郎、ちゃんと勉強していていました。航海術とは意外でした。
けれども、「文久2年22歳、医業に従い藩の医学校教授となり」とあります。圭介と違って、ちゃんと親から医業を継いだようです。左内さんがいないからには、綱三郎が継嗣ですものな…。ちなみに、綱三郎の息子、綱方が、綱三郎の死後、左内さんを継いだらしい。
文久2年というと、ゆきちゃんが生まれた年ですな。綱三郎は圭介といつまで住んでたのだろう。

「明治2年5月軍務官御雇申付けられ、4年9月25日陸軍軍医療出仕に」ということで、これ以降、陸軍軍医の道を歩みます。その後、佐賀の乱では神戸に出張、征台の役では役蕃地陸軍病院長、西南戦争では征討軍団病院長、ということで、戦のたびに病院長として出役していました。

それからですが。「11年6月23日、有馬温泉の瀧より墜落して死す」

……。これに並んで「大阪表に病卒すともいふ」とあります。どちらなんだ…。
お墓は東京湯島麟ショウ(示へんに羊)院とのこと。

最期はちょっとコメントできない感じなのですが。
戦役あるところ、綱三郎の病院あり、という感じで。圭介、陸軍に居たら、綱三郎と関わりあったのかもしれないんですな…。
最期は、大阪鎮台病院長陸軍一等軍医で、正従六位勲四等でした。


もう一方。荒井宗道氏。戦役中と、圭介が投獄されるまで、みちさんが身を寄せていた、圭介の同僚、佐倉藩の洋学者の方です。

明治4年に佐々木綱親らと陸軍兵学校少教授に。7年に七等出仕、士官学校教官に。10年少佐、15年参謀本部翻訳課長、16年12月に六等出仕、19年3月に非職。34年10月15日病死。最終的には退役陸軍歩兵少佐 従六位勲五等、というステイタスでした。

宗道さん、陸軍畑で生きてきたというのは、意外でした。教官、翻訳担当ということですが。学者人生だというイメージがありましたです。

西周さんはじめ、大築保太郎など沼津組もそうですが、佐幕派、旧幕臣で、新政府の陸海軍に出仕している人、かなり多いんですよな。沢太郎左衛門にしてもそうですし。
榎本、大鳥ばかりが、生き残った、新政府に仕えた、出世した、と小説や論評などであげつらわれるのは、どうにも違和感が大きくてたまりません。いまさらですが。

てか、最近認識も変わってきたといいつつ、やはり図書館などに行くと、一昔前に発行された小説が目に付きます。どうしても一般向けに分かりやすくストーリー作りされたものの方が、一般認識になりやすいのですよね。

そいやちょっと外れますが。
今日手にとってみた中で、沢さん主役の小説「開陽丸北へ」では、大鳥、母成峠で真っ先に逃げてしまって以来土方と険悪である、という書き方をされていました。
……真っ先に逃げたのは会津農兵で、大鳥は最後の最後まで、直接弾丸浴びせられながら逃げる羽目になるまで踏みとどまって、その後も母成敗戦は自分の責任だと悔恨し続けていたのだが。
…という弁護心を沸きたてますから、小説は読み甲斐があります…。

や、いちいちケチつけていてもしょうがないんですが。一度発刊されたものは引っ込みつかず、それを読む方も次々と生まれるのですよね。いっそ、小説を片っ端から掲げて、「ここが違うぞ大鳥圭介」というテーマで、実名を挙げて切りまくってみようか。

…それも非生産的つーか、虚しいつーか、まず自分の底の浅さがつつかれそうで怖くてできない、小心なワタクシ。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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