2005年09月02日

古写真

3連泊で、貫徹明けのまま終電間際まで仕事して。
なんで酒飲んでいるんだ、自分…

とりあえず荷造りにだけ、帰宅しました。
今から洗濯して、明日朝までに乾燥させて、その間に提案書の草稿を完成ささねば。

だからなんで酒飲んだの自分。
あぁフラフラ。

さて。
「幕末明治の古写真 激動の時代を生きた人々」

出版が、学習院大学史料館なんで、こいつぁ!と思い、速攻で取り寄せました。

…凄かった。
ひたすら、圭介の葬式の写真だった…

当時の町や界隈の様子が分かってよかったのですが。
なんというか。

紹介文は、「大鳥圭介伝」と「われ徒死せず」からの抜き出しなので、真新しいのは無かったですが。
掲載された古写真、日記・著作原稿などは、平成6年・7年と、つい最近に寄贈されたとのことでした。

文献自体は、国会図書館の「近現代日本政治関係人物文献目録」にアップデートされてました。

http://refsys.ndl.go.jp/hito.nsf/

これ、結構更新速度が速くて、侮れません。いい仕事してくださってます。国会図書館。

今すべき事は、他人の仕事に感心することじゃなくて、手前の仕事をちょっとでも進めることなんだが、自分
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2005年09月06日

マツタケ

死ぬほどマツタケ食べてみたい、ということは、日本人なら一度は思うことかと思いますが。
本当にマツタケ食べすぎて、死にかけた人間は、そういないと思います。

ブータンはただいま、マツタケ収穫期です。アカマツの原生林に覆われたブータン西部は、マツタケの宝庫です。
けれども、ブータン人は、マツタケを尊んで食べる習慣がありません。かぐわしい秋の香りも「泥臭い」の一言で片付けられます。

結果、輸入業者ぐらいにしか需用がありません。国内価格は、キロ1000〜3000円ぐらいです。
てことで、地元の物価を考えると高価ではありますが、我々のような貪欲な日本人は、飛びついて買い求めることになります。

で、数キロ買い占めて、宿に持ち込み、料理してもらいました。


http://members2.tsukaeru.net/irisio/photos/matutake.jpg

ホイル焼き、蒸し焼き、グリル、オムレツ、吸い物、マツタケご飯、と、考え付く限りのマツタケオンパレードで、もういい、ってぐらいにたらふく食わせていただきました。

赤米マツタケご飯は、こちらのご飯は、鍋でグラグラ炊いた後、上澄みの汁をどばーと捨てるので、その汁に旨味分が流れ込んでしまって、香りはイマイチでした。炊飯器のほうが良かったかも。こちらの炊飯器は、気圧が低いので圧力が足らないままに沸騰してしまって、米に芯が残るから、あまりご飯が美味しくないのですが。

それで腹いっぱい食べ終わった後。
どうも、息が苦しい。横隔膜が腫れあがった感じして、ひどい風邪をひいたように、咳が出る。
それで、気道が閉じてしまって、鼻詰まり+ひどい喘息のような状態に陥ってしまいました。
ゼイゼイいいながら涙がボタボタ出てくる。
口でしか息ができないのに、息が吸いきれない感じ。

どうも、大量のマツタケ摂取による、マツタケアレルギーが出たようです…
マツタケ以外は既に十分食べ馴れたもので、それまでに食べてなかったもので、その時に食べたのは、マツタケしかなかったものなので。

アレルギーといっても、症状はジンマシンだけではないということを初めて知りました。
そのままだと窒息しそうだったので、海老反りになって気道を確保しなければならなかったり。苦しかった。

一晩寝たら、さくっと直りましたが…。

まさか、マツタケにやられるとは。人間、何が災いするかわかりません。マツタケ食べ過ぎて死にそうになりました、とか言うと殴られそうです。まぁ、卵とか蕎麦のアレルギーなどと違って、日本に居る限り、マツタケをアレルギーが出るほどに食べられる機会というのはまずないでしょうから、別に普段の生活に支障は全くないですが。

本当にアレルギーの原因が、マツタケだったのかどうか、確かめるために、もう一度マツタケを食べて追実験したい、というと、容赦なく却下されました。ちぇ。

まぁマツタケというのは、本当は皆、心底美味しいと思っているわけではなくて、秋の味覚の代表で、希少なもの、ということで、無条件にありがたがる精神的風潮が、体に染み付いているだけ、というのもあったりするのではないかと思ったりもします。見た目と食感だけだと、エリンギなどとそう変わらないわけですよな…

まだ、横隔膜がおかしいです。
性懲りも無くもって帰りたいと思うのですが、岐路に3カ国立ち寄りのドサ周り行程なので、途中に腐るよなぁ、と。…マツタケの腐臭ってどんなのだろう。ちょっと試してみたいお年頃。
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2005年09月16日

出家

あー、出家したい。

前々から、いつか出家しようと思っていましたが、ここのところ、その出家願望がピークに達しつつあります。
そろそろ、便利で都合のいい人間を演じるのも、疲れてきました。
必要とされるということは、なんだかんだ言って、快楽ですが。
それがあって当たり前、空気のようになり、気づくと他人とあまりに業務量が不均衡になっている。

人間、所詮、道具です。
動けなくなったら、ガラクタと呼ばれ、役に立たなくなったらそれで終わり。
皆、都合で動いてますから。
あとは省みられず、忘れ去られるだけ。

この仕事をしていると、どうにもそう思うことが多いです。
そういう風に心が荒んでくると、特に出家欲が高まります。

まぁ、結局、仕事の量を自分で制限して、精神の状態を健やかに保つのも仕事のうちなわけで。自分に仕事を集中させる自分が悪い。仕事をしないようにもっていくのも、仕事のうち。力量のうち。
辛くなったり、やさぐれたり、他人を厭んだり、鬱になったり、とかいうのは、結局、自分が未熟だということに過ぎないわけです。

それでも人間弱いので、突発的に全てがどうでも良くなり、自分の魂を高めるためだけに生きたい、と思うことがあります。

それで、出家ですが。

場所はミャンマーです。最初に外国人向けのメディテーションセンターに通いながら、ミャンマー語とパーリ語(仏教聖典の言語)を勉強して、それから本格的に頭を剃って出家して、シャン州の山岳地帯の僧院に入る。

ミャンマーのテラバータ仏教は、なんというか、理想的なのです。

軍事政権があまり政治が上手じゃなくて、他民族なわけだから、政府がむりやり中央集権をやろうとしても、うまくいかない。地方の人たちは、あまりお上を信用していない。

それで、経済封鎖は喰らっているし、80年代に大学閉鎖があって知識層の暗黒化があって、政府に人材がいない状態で、公務員の給料も低い。インフラ開発は進まないし、電源は完全に不足しているし、国が国として成り立っているのが不思議な状態ではあるのですが。

なのに、不思議なことに、なんとなく、うまくいっている。

それには、テラバーダ仏教の存在が大きいと思うのです。

テラバーダ仏教は上座部仏教、あるいは小乗仏教と呼ばれています。
大乗仏教、つまり、日本とかの仏教とは全く別物です。
(そもそも、極楽があるとか、墓を作るとか、その時点で仏教としてはおかしい、という話もある。魂は輪廻し、昇華する、というのが仏教の基本なので。大乗仏教とテラバータ仏教は同じ仏教とは思えない)

その教えは、弱者に優しいです。富める者は貧しい者に与えよ、というのはどの宗教にもありますが、富者は貧者に分けさせていただくことによって、徳を貰う。富者は貧者に、「善い事をさせていただいてありがとう」と礼を言わなければならない。僧侶への寄付に対しても同じです。寄付を「させていただく」ことによって、徳を積める。
この辺りの感覚が好きなのです。
キリスト教は「してあげる」という基本的な感じがありますが、そういうのとは違う。(イスラムも、どっちかというとテラバーダ仏教の感覚に近い。)

ミャンマーのテラバーダ仏教は、宗教的な人々の支え、という以上に、この「させていただく」観が、うまく社会を支えている気がします。

タイやラオスなどは、出家は、一生に一度なり三度なり、一週間とか、1ヶ月とか、男児たるもの、せねばならないと見なされています。カウンターパート(プロジェクトのパートナーとなる政府の役人)が、ある日いきなりしばらく見なくなったら、いきなり頭も眉も剃ってて、げっそりやつれてて、や○ざのようになってて大変怖い思いをしたこともありました。出家するとだいたい人相が悪くなる…。

で、ミャンマーの場合、男女どちらでも出家できます。尼僧も多いです。タイやラオスなど他国では、女性は不浄なものとして、出家できないところも多いのですが。

一時的な出家もありますが、永久出家する人も多いです。出家のきっかけは、失業とか、家族の死とか、不幸があった場合などに多いです。普通、失業などすると、働かない人間ということで、周囲の目は暖かくないですが、ミャンマーでは、「試練を受けている人」「更に自分を高める人」ということで、尊敬されたりします。

僧侶になると、朝夜明け前から、壷を持って托鉢。このときに、一般人からお布施や食べ物を分けてもらいます。これが僧侶の食事。昼12時までしか食べ物を口にできません。

僧侶は、その実態は、何も生産せず、社会に養っている存在なのですが、社会的な地位は大変高い。

なにかあったら僧侶になればいい。僧侶になればやっていけるし、徳も高まるし、家族も安心する。

そういった感覚が、不安定な社会にあって、社会の基盤を支えている気がします。
テラバーダ仏教にある、「させていただく」感覚とか、「何かあったら出家」という感覚が、社会の根底に根付いて、うまく貧者救済、失業対策、社会保障、という、本来なら政府がせねばならない役割が、宗教により果たされている。

ミャンマーは、失業率も高いですし、25%以上という凄まじいインフレで、クーデターがしょっちゅうで政権も安定してなくて、役人には賄賂が横行してますが、不思議と、地方はゆったりと落ち着いて、人々は真面目で、のほほんとしている。それは、このテラバータ仏教に支えられた社会、というのがあるのではなないのかなと思っています。
賄賂に腹を立てていると、ミャンマー人の秘書などは、「仕事を助けてもらってありがとう、と思うと腹も立たないわよ。その人たちのお陰で仕事できるから、お礼だと思うのよ」 と、何気なく言ってくれたりします。その辺の心の持ち方は、学ばされます。


(ちなみに軍事政権が悪いと言っているわけではないです。平和馴れした方々には、軍事政権というだけで鼻白む方が多いですが。他民族や、周辺諸国の脅威などで、国内が統一されていないと、軍が政権を持つのは、不可避な時期があったりします。未だに共産系や反政府の少数民族がいるので、パワーで纏めるしかない、というのが今の現実です。ただ、軍事政権が表面にでている国を、ワルモノの欲しいイイ国たちが、ワルモノに仕立て上げている。一方、ベトナムとかインドネシアとかも、本質は軍事政権なわけで。軍事政権にもそれなりの正当性はあると思います。民主主義がいつも正しいとは限らない。ミャンマーの軍事政権が、うまく国内をまとめて、緩やかに民主化していくことを祈ります)


さて、僧侶は地方のコミュニティを纏めています。
人々は、あまり貯金をするという習慣がない。1年間に稼いだお金に余剰がでると、寄付してしまう。そんなわけで、僧院は金を持っています。で、彼らはそれを、道路や井戸や橋を作ったりして、人々に還元している。
人々も、銀行は信用しないけれども僧侶は信頼しているので、安心してお金を託せる。つまり、宗教が金融やインフラ整備まで担っていたりします。

よって、地方において、僧侶の権限は大変大きい。やれる幅が広い。
ただ、僧侶は技術力はないですから、資本はあっても、建築に苦労したりする。僧院を立てたり道路を作ったり、というのは、村レベルでは結構できますが、例えば、水供給や発電となると、そうはいかない。

さて、シャン州は、雨が豊かな山地です。地元のおっちゃんが自分で電気と土木を勉強して、周辺の村々に、水力発電を入れています。中国から中古の発電機を買ってきたり、使い古した水車をコピーして作ったり、サンドバッグで堰を作ったり、家で焼いたレンガで水路を造ったり。だから驚くほど安くできるのですが。その工夫は、ほんとに関心します。それで、そのエンジニアのおっちゃんは、地元では、電気の神様だと呼ばれていたりする。

で、このおっちゃんは、どんどん水力を広めたいのだけれども、金がない。大体村人が3年間お金をためてそれを集めると、オラが村に電気が来るぐらいのものなのだけれど、貯金をする習慣がないから、お金を集めるのに苦労する。

そこで、僧侶が、こういうおっちゃんたちと協力して、資本を運用して、電化資金とすると、未だに10%もないミャンマーの電化率は、だいぶ向上するんじゃないのかなぁと。

それを、自分が僧侶になって、やりたいなぁ…などと思ってたりするのです。


……結局、仕事から逃げようとして、仕事に関連したところに行こうとするのよな。
単に、やってられん、と思うことから、逃避してたら、こうなった、ってことで。
ミャンマー人の10倍以上の給料貰っているんなら、多少のことは辛抱しやがれ、って感じです。

そもそも、出家したら、ネットアクセスできないじゃないか。
それが最大のネック。
その程度の志か。…その程度なんです。ごめんなさい。中途半端な人間です。
まぁ、掲示板にグチグチ書き連ねるぐらいは、余裕のある、暇な奴です。

……そんことしてるよりも、六方越えとか矢不来直後とかの圭介の心境を思い起こすほうが、何を下らんことでウジウジしとるんだ、と吹っ切れます。
他人の命を救おうとして、逃げたの、一思いに潔く死なせてくれない武士道の分からない因循だの、あとから好き勝手言われるわけなので。

出家よりも強力な、圭介癒しパワー。
…だから結局、どうしたいんだよ、自分。
いや、出家は圭介でも癒しきれなくなったら、ってことで。
それには圭介を語りつくしてから、って事で。
ところが、圭介は簡単に語りつくせる存在でもない。

…つまり、出家は当分先、ってことで。ハハハ。
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しごと

なんか、ぐちぐちしてて、すみません。

圭介もきっと、やってられんと思うことが多い人だと思うのですよ。
やりたくもないけれども、他にやる人間がいないから、抱え込んで独りでのめり込んでいる人だと思います。

皆で妓楼に繰り出しているのを尻目にしつつ。自分は「後から行くわ〜」と笑って返しつつ。ひっそり自室に戻って筆を握る。
「お奉行は机上仕事だけは得意」とか、仙台から加わった、会津の苦労も知らん連中にあげつらわれたしながら。

部屋でひとりで予算書とにらめっこして、赤字赤字に頭を抱えて、松前の松岡四郎次郎からの送金リクエストに対しても「豪商に何度も金策を願って、色々榎本対馬会計奉行と話し合ったけれども、そっちに回す予算がない、申し訳ない。なんとか今あるのでやりくりしてくれ」と、身も蓋も無い返信を書く。余計に落ち込む。別の日には、函館地元の町会所の人間と協議があって、税金を上げねばならないことで弾劾されることを予期して、さらに重く沈んでため息吐いている。
そんな日を過ごしているらしい。(犀川会資料・大鳥→松岡文書、道立文書館所蔵文書「奉行衆ヨリ御用状亀田五稜郭内大鳥圭介へ被差越候ニ付、右町会所へ相達申候但シ夜八ツ時過出ス」)

それで、半ば意地になって酒も飲まず、ふっと手を止めて、こういうときに、みちだったらお茶の一つも出してくれるのに…と、家族のことを思い起こして、ちょっと泣きそうになっている。

市内を肩で風を切って歩き回って治安維持し、教練で兵士を鍛え、戦場でハデに活躍したりして、兵の信奉を集める、華々しい部下がいる一方で。

そういう、金勘定して、予算と資源の配分考えて、商人やら郷士やら町の住人と折衝して、めんどくさい、精神的に疲れることばっかりな、縁の下の力持ち。誰も評価しないけれども、誰かがやらないと物事進まない。そんなことばかりに目が行き、手を付ける。周りは算盤も持ったことのない連中ばかり。誰もやらない、誰もできないから、自分独りが背負いこんで、泥沼にはまり込んでいる。

箱館じゃそんな羽目にばかり陥っていたんじゃないかなぁ、と。工部省とかでも似たような感じがしますが。

で、そんな圭介を、こっそり本多さんあたりが見守っていて、圭介が疲れて机に突っ伏してフテ寝してたら毛布をかけてくれたりしてたらいい。
榎本さんがふとすれ違った時に「いつもすまんな」とか声をかけてくれて、圭介がその一言に救われてくれてたりするといい。
そんな妄想にも安らぎを見出す今日この頃。


てな感じで、帰国しました。
プロジェクトの最後の渡航だったもので、説明のために各国ドサ周り。
タイ→ブータン→インド→フィリピンの行程でございました。

インドはいつ行っても、思考停止します。炎天下裸足で真っ黒になって、新聞やら雑貨やら車の渋滞の中を売り歩く餓鬼んちょや、自分の手足を切り落として哀れみを買う乞食がいる一方で、クーラーのきいた自動車、豪奢なホテルに身を置く自分の身分。その口では貧困削減を唱えている。考えていると現実がやりきれなくなる。

一方、フィリピンのマニラは、快楽の都市。どこへ行っても陽気なフィリピーナが暖かく迎えてくれる。タイと違ってあまりチップも要求してこず、優しくされるのが大好き、な感じの女の子たち。スポーツ選手や学歴りっぱな才媛も、なぜか飲み屋で媚を売っている。日本人街は親父のためのカラオケとバーとマッサージ屋のオンパレード。
空港にもマッサージ得意のフィリピーナがひしめいている。また、日本人好みの、きっつい指圧をしてくれるんだ…。

久しぶりにJALを使ったら「お持ち帰り」なカップルの日本親父どもばっかりでした。…彼らの家族はどうなっているのだろうかと、いらん想像をせずにいられない。気持ちはわかるけど。ワシもマッサージガールを一人テイクアウェイしたい。ただ、せめて機内でオイタはやめようよ。フライトアテンダントのお姉ちゃんたちがかわいそうだ。


…えっと、健やかになるために。
今後、午後11時以降は仕事しないと決めました。電車作業も自宅残業もやらない。通勤時は本や資料を読む。
ちゃんと家に帰って、圭介語りする。書きたいネタを放出する。楓の記も更新する。
そして、来週は旅に出るのだ。

仕事を制限して自分のコンディションを整えるのも、仕事のうち。ポジティブシンキング。
仕事がイヤ、なんてのは、イヤになってる自分が青いだけ。金を貰うというのは、そんなに簡単なことではないのだ。

……といいつつ、会社を空ける前にせねばならんことを指折り数えただけで、既に気が遠くなる。
結局、休もうが働いてようが、作業量は変わらない。根本的に要領よくやる(=人に仕事を押し付ける)ことを、そろそろ覚えよう。一番下っ端だから難しいし、おこがましいと思ってたけど。自分が潰れたら何にもならん。圭介の真似してたら(いや、できるもんでもないけど)、体はともかく、精神的にもちまへん…。
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2005年09月17日

北行き

うー。眠い。
11時以降は仕事しないと誓った次の日に、既に徹夜しているってどういうこと。
…夕方呑んでた自分が悪いんです。
出張から戻るといきなり内部監査だから準備しろだとか、中間決算だから会計シメろだとか。
んや、それも今日から消えるから、その前に仕上げてしまわねばならなかったからなのですが。

てことで、函館+札幌いってきます…。

目当ては、函館は、市立函館図書館、称名寺、函館山の官軍進攻ルート。
札幌は、札幌文書館、北方資料室、大鳥川。

函館は、黒田の寒川上陸組のルートをGPSに入れて追うために、地図を作っていました。そういうことをするから徹夜になる。

…で、黒田。あんた、そこ、崖やんけ。いや、寒川のあたりは浜になっていて、登れない事もなさそうですが。北の火葬場から回ると、モロ崖で。船で行くしかなさそうな感じです。そんなルートで突っ込んでくれるな。

あるいは、碧血碑の裏手から登って往復するか…。
そもそも道がないから、怒られるかもしれない。その時は、素直に登山道から、馬の背に回ろう。

箱館背後衝きのためだけに、えらく力が入っています。
あと、バイク借りて、二股や木古内辺りも走りたい…

そんな感じなんですが。
18日〜20日の函館の夜、どなたか近郊のお方で、この期間もし暇をもてあましておられたりしましたら、遊んでやっていただけませんか…?
直前で、しかもピンポイントでニッチの狭いやつなんですが…。

あと、札幌。
こちらは、22日お夕食に、Hよさんがいらしてくださいます。
札幌近郊の方で、もし、Hよさんにお会いしたいという方がいらっしゃいましたら、ご一緒してください。是非お声かけを…!

Hよさんですよ、Hよさんが。大鳥エンジェルのHよさんが。
…思いっきりダシにしてます。ごめんなさい、Hよさん。

行き当たりばったりな奴なので、細部の計画などもまったく決めていませんが、ご縁いただけるでしたら、どうかメイル(毎日確認予定)にてご連絡などいただけると嬉しいです…。

さて。…資料整理しよう…

[2] ひよ URL 2005/09/17(Sat)-17:38 (No.67)
こんにちは。ようこそ蝦夷の地へ!出発直前までお仕事お忙しかったようですが、この旅でまた英気を養ってくださいませ。
22日夜〜24日の間はお世話になります(ニヤリ)。ダシにもならないと思いますが、アシにはなりますので、共に熱い昼夜を過ごさせてくださいませ。お会いできるのを楽しみにしておりますv

[3] 入潮 2005/09/19(Mon)-00:26 (No.68)
んふふふふ〜。ひよさんの波濤の圭介萌えに浸れるかと思うと、今から眠れません。
仕事の鬱積も、ここで晴らすためにあったかと思うと、溜めがいがありました。メリハリあっての人生。
これを独り占めするとバチがあたってしまいそうなので、夕食会ということを呈してみました。
てか、宣伝ありがとうございます…。自分、集客性皆無なので、思いっきりひよさんのプリティーカリスマに、おんぶだっこさせていただきます。
ひよさんとのアツイ日々が待ち遠しいです。こちらは暑苦しくも寝させない気マンマンです。栄養ドリンクと共にお待ちしております。
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2005年09月19日

箱館浸り

中秋の名月がぽっかりとでかくてびっくりした。地平線際の月って、あんなに大きくなるのな。
海か砂漠か空港でぐらいしかお目にかかれないです。

てことで箱館。じゃなかった、函館。飛んできました。
雨が降っていたのと、徹夜疲れが残っていたのとで、あまり起きる気がしなくてウダウダ寝ていたら、動き出すのが午後からになってしまった。
ホテルにチェックインして、地図を見てから、元千代ヶ岱のすぐ隣だということに気がつきました。
函館。当たり前かしれませんが、そこら中に縁のものだらけで、町を過ぎるごとにビビります。

本日の行動。

中島親子追悼碑→五稜郭→称名寺→実行寺→高龍寺→湯の川温泉。

函館市立図書館が、改装中で閉館中、というのが、大変痛かったです。ここにしかない資料がたくさんある。岩崎季三郎の「奥羽並蝦夷地出張始末」が目的の一つだったのですが。また開館したら、来よう…

まず、中島親子追悼碑。税務署の前のロータリーの中で、静かな場所のなかに、しんみりとした情緒がありました。愛されているんだなぁ、と思いましたです。

で、五稜郭。観光バスが並び、みやげ物屋が盛況。函館のドル箱は、夜景じゃなくて、ここらしい。
カップルと、トシさんラブなお嬢さんたちで賑わってました。なんか、黒くてピンクでした。(黒=土方の軍服、ピンク=お嬢さん方の服の色)。一人でポツンと歩いているのが寂しかったです。無意味に、保塁を一周したりして、疲れました。
や、でも、裏手はやっぱり静かで。ここに圭介がよじ登って、顔を黒くして声を張り上げて砲撃指揮していたんだなぁ、とか、この辺の石垣、泥まみれな圭介が、積み上げ補強の指揮していたんだなぁ、とか、この松林の間を圭介も歩き回って、青い匂いを嗅いで息抜きしていたんだなぁ、とか。しんみりと浸ることができましたです。

函館博物館五稜郭分館は時間がなかったので、翌日回し。特別展で、「幕臣たちの明治維新」という題で、敗残者となりながらも明治を生き抜いた人々に焦点を当ててくださってます。戦に散った美しさ、潔さばかりがもてはやされた中で、こういうのに注目あたるようにしてくださっているのは、嬉しい。いい時期に来ました。

で、称名寺。
今回函館に来た目的その1。こちらについては、書きたい事がテンコ盛りなので、また後ほど。
我的には大きな成果がありました。
むふふふ…、とニヤケ笑いがとまらない時間を過ごさせていただきました…。明日も行ってきますー。

実行寺、高龍寺は、函館戦争だけではなく、日清・日露戦争や色々な船の殉難の追悼碑があって、函館という町の重みを抱え込んでいる感じでした。

湯の川温泉は、温泉街で完全に観光地でした。都市に近く、空港から近くて便利なのでお客さんの入りは上々のようでした。明らかに都心からきたおばちゃんが、2時間ぐらいマッサージチェアに陣取っていた…
泉質は、ナトリウム・カルシウム・塩化物泉で、とろとろしたお湯でした。PHが中性のわりに、なかなか上質。お肌ツルツル系でした。圭介も入ったのかなー。更にオデコつるつるになってたのかなー。
あと、ラベンダーの湯というのがあって、赤201号+青4号ぐらいの明らかに着色料を溶かし込んだ湯が、皮膚が染まりそうで、なんかコワかったです。

明日は、亀田八幡宮、函館博物館分館、碧血碑、函館山アタック。…どこまでできるだろう。今日怠けていた分、体力勝負。

函館の方。五稜郭や街中や山中を、ヨレヨレになった南柯紀行を片手に、ブツブツ言いながら目を血走らせて流離っている人間を見かけたら、気味悪がらずに声をかけてやってください……
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2005年09月20日

箱館浸り2

酔っ払って寝て、今起き上がりました。
やばい。後半記憶がない。何をしゃべっていたのか覚えていない…。やっちまったよ、うぁああ…。

濃い一日でした。足が疲れた。今日一日で15kmぐらい歩いたかも。
本日の行程。

亀田八幡宮→函館博物館五稜郭分室→五稜郭タワー→碧血碑→函館山→寒川アタック(挫折)→谷地頭温泉→称名寺→色々→小夜

● 亀田八幡宮
江戸後期から存在しているだけあり、社は小さいながらも時代の重みがありました。長く生きている建物って存在感がある。
見通しがよくてびっくりした。もっと鬱蒼としてたのを想像してました。全然、痴漢がでそうな雰囲気ではなかったです。ちぇ。(何を想像)
戊辰戦を彷彿させるものは特にないなぁ、と思いながら見ていたら、樹齢のいってそうな大樹に、めっこり穴が開いていました。やっぱり銃痕なんだろうか。楓の緑が優しくて、ヒーリング波動を放っていました。

● 函館博物館五稜郭分室

資料数こそ少なかったですが、さすが。展示物が濃い。参考文献などでも、みたことがないのが多い。で、ガラスの向こうに鎮座しているのが口惜しい。頼むから手に取らせてくれぇぇとわめきたかった。

・千代ヶ岱御場所御陣営 …千代ヶ岱の見取り図

・美耶古能波奈誌…宮古湾海戦記録。みやこのはなし。誰がいつ書いたのかぐらい解説しといてくれよぅ。

・彰義隊改役寺澤親之丞箱館戦争記…聞いた事はあるのだけれど、どこに収録されているんだろう。読みたい。

・遊撃隊起終録…玉置弥五郎衛門著。これも知らない。桔梗・七重浜陣地、矢不来・茂辺地の様子が詳しいらしい。読みたい〜。

・ 明治名誉一覧…大ヒット。何がって、板垣。皆が黒羅紗の軍服やらコートやらなのに、一人だけブラウスに水色上着、斜めに見下ろして、ツンツンおすまし顔。風と木の詩の世界。これだ、これが板垣だ…!と、悶えました。

・大鳥圭介…「号は楓といいます」…圭介、いつから楓ちゃんに…?
実質半年しか在籍していなかった開拓使の経歴にはちゃんと触れられていたのに、8年間奉職した工部省経歴は一切スルーしていたのは、存分に抗議させていただきたい。楓ちゃんはオッケーですけど。

● 五稜郭タワー

黒くてピンクだった。以上。

● 碧血碑。

蚊の凄まじいこと。十円玉大の蚊がウヨウヨ。たかる、とかいう生優しいものではない。まさしく襲来。顔をぺしぺし叩くと、そのたびに蚊が潰れる。顔も首も手も、露出しているところは全部喰われまくって、ボコボコになりました。こんな顔じゃひよさんの前に出られない。

そして、数十人の観光団体と鉢合わせ。殺虫スプレーを吹き散らしながらやってきて、蚊に対して騒ぐわめく
建てた方々の心境を偲ぶどころではアリマセンでした。

あ、碧血碑の字、どうも圭介の字っぽくない気がしましたです。あんな男らしい、力の入った字じゃないので。なので、これ、圭介だ、という確信はなかったです。
でも、圭介、気分によって筆跡変えるから、やっぱりよくわかりません。

あと、建立は「榎本武揚、大鳥圭介らの協賛を得て」という表記になっておりました。なるほど。彼らが建てた、という書かれ方には、ちょいと違和感があったのです。

榎本は6年に蝦夷地調査を行っていますが、建立された8年には既にシベリアでしたし。圭介は、7年7月〜10月、北海道に来てポロナイ炭鉱調査に明け暮れていましたが、8年は工部省の仕事で忙殺されている。確かに資金を出したりはしたかもしれませんが、下手したら彼ら、碧血碑、見てないのかも…。圭介は10月に東京に帰る途中に、建立予定場所には寄っているのかもしれませんけれど。

ちなみに、官軍の黒田奇襲部隊は、碧血碑の真西、箱館山の馬の背を越えた寒川という地点から上陸して、山越えしてました。丁度この奇襲ルートを遮る形で、碧血碑があるのです。

位置図は、http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/kashimir/kashimir1.htm こちらの4.箱館山 参照。

で、碧血碑の裏手から登って、官軍ルートとは逆に、寒川のほうに抜けようと企てたのですが。
藪が深い、勾配がキツイ、昨日の雨の後で泥でズルズル滑る、蚊は襲ってくる。
100mぐらい根性出して登ったのですが、途中でどうにも斜面がきつくなって、足が掛からず、10mぐらい滑り落ちたところで、断念しました。キズだらけ。ヒルには喰われるし。ドロドロになった。……挫折。
ちと甘く見ていました。水圧鉄管ルートよりも厳しかった。次は、草薙用の釜、じゃない、鎌をもって、軍手とロープ完備で来よう。

ヒルに噛まれた内股が、痣になっている…。なんでこんなところに入り込んでいるんだ。ブータンやミャンマーのヒルより意地汚い奴だった。腫れは大したことないですが。直径5cmぐらい。ミャンマーのにやられると15cmはボコッと膨らむから、それに比べればまだマシでした…

● 箱館山

碧血碑裏側越えを諦めて、南側の立待岬側に回り、函館山南西部から登る。無線中継基地を越えて馬の背(函館山では牛の背というらしい)へ。ここに上がってからも、寒川に下りようと試みました。が、やっぱり藪と、斜面のキツさに、少しも行かない間に、ギブアップ。落ちるって。アレは。
了介、よくあそこから攻めようと思ったもんだ。いや、思うのは誰でもできるけど、よく実行させたもんだ。あの斜面を、陸戦砲を担いであげたということが信じられない。人間の身体能力を超えている。さすが薩摩人。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/photos/samukawa1.jpg

あとからタクシーの運ちゃんに聞いたところ、寒川に降りる崖は、マムシがひしめいているのだそうな。
なんでも、第2次世界大戦時に、アメリカ兵がそこから攻めてくるのを警戒して、マムシを離したところ、それが増殖して今に至る。それで、寒川に下りる道は全て閉鎖した、とのこと。…無理やり降りなくてよかった。
よいこの皆さん、立ち入り禁止地域は入っちゃだめですよ…。
にしても、考えることはいつの時代も同じなのね。

函館のタクシー、なんだかみんな良心的で、進んでガイドを買って出てくださるので、乗り甲斐があります。

アタックルート、諦めたのは悔しかったですが、とりあえず、了介の執念と、守ろうとした滝川と新撰組の苦労は身を持ってよく理解できたので、良しとします。いや、了介が寒川上陸組に加わっていた、という確証があるわけではないのですが…。了介が提案したというだけで。でも攻めたのに薩摩兵がいたのは確か。

それから、馬の背をてくてく、北側に回って、観音の道というところから降りました。単に車道をショートカットした道だった。函館山は33の観音様がおわしてまして、各々に和歌が認められているのが、和みました。オリエンテーリング気分で徘徊できました。観音様の2/3ぐらいは見たかな。

てことで、行軍ルート。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/photos/mthakodate.gif

縦断をあきらめたのが悔しかったので、無意味に横断した形にしました。疲れた。ヒル入るしマムシは溢れているし。観光地のくせに侮れません。函館山。(いや、観光ルートから外れるのが悪いと…)

ちゃんと登山道を歩いている限りは、箱館山の急斜面に対して、かなり緩やかにつくっていて、歩きやすかったです。地元の小学生も遠足にくるそうな。

● 谷地頭温泉

服も体も、汗と泥でドロドロになり、そのままではとても人様にお会いできる状態ではない臭さだったので、風呂へ。せっかく実行寺(称名寺の隣)まで出たのですが、碧血碑の近く、谷地頭温泉にまで戻りました。

海辺の温泉らしく、ナトリウム-塩化物泉。なめると、海水のようにしょっぱい。乾くと皮膚がぴりぴりします。酸化鉄が豊富で、湯は茶色。かなり良い湯でした。露天風呂は五稜郭を意識しているのか星型。ポイント高かったです。湯の川温泉よりずっと良かった。
碧血碑に来られた方、すぐ近くなので寄ってみてはいかがでしょうか。市営なので値段も安く、イチオシです。
ただ、敬老の日サービスで、65歳以上と小学生は無料、という企画中。イモ洗いのごとくにおばちゃんたちがひしめいて、風呂で揉まれてきました…

● 称名寺

新撰組と土方の供養費があるのでそちら方面で有名なお寺。こちらに高田屋嘉兵衛の顕彰碑、高田屋家のお墓もあります。高田屋家墓は、函館を切り開いた一族のお墓にしては、大変質素で、それゆえに実在感がありました。

あと、殉難碑や大戦中の函館大空襲の慰霊碑も。日本人だけではなく、アメリカ人も弔われていたのが印象的でした。十字架が刻まれていました。
"Sleeting on a foreign shore. Rest, soldiers, rest!"(異国の岸辺に眠る。安らかに、戦士よ、安らかに!)この日本人の宗教心、寛容さというか、拘らなさ、「同じ人間じゃないか、弔おうよ」という感覚が、好きです。

さて、昨日、こちらの御住職様を訪問させていただいたとき、本日のお誘いをいただいてしまいまして。ちょっと余りにも幸せな経験をしてしまいました。なんか、もう、生きていて良かった。今ここで書くと運が薄れそうなので、また後から纏めます。
御住職様の素敵さに関して、じっくりと語らせてください…。

てか、結局呑んでしまって、後半記憶がない…うぉぉ。

あぁ、顔が痒い…。(蚊に刺された痕)
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札幌お食事会

札幌開拓使お食事会。
・・・とか言ってみます。別に開拓使はあまり気にしないでください。
でも、圭介は気にしなくても耳にする羽目になると思います。いやおうがなく圭介話に雪崩れ込むと思うので。
だってひよさんと私ですもの。
圭介ファンでない方もぜひ、こんな人種がいるんだ・・・とあきれ返りにきてやってくださいませ。歯止めをかけてくださる方がいらっしゃらないと、もうどうなるか分からない。
も、もとい。他の人物の話も、みんな楽しいです。

日時: 9月22日(木) 19:30〜
予算: 3,000円前後
場所: 直前に掲示板、または、ご連絡いただいた方のアドレスまで、ご連絡いたします。

平日で申し訳ないのですが、翌日から連休ということで・・・。お仕事帰りなどでお時間ある方、ぜひ、お声かけしてやってくださいませ。
時間遅れてのご参加なども、大歓迎です。
それで、浮浪者のごとく居場所を転々としている自分に代わって、ひよさんが連絡受け係をお引き受けくださいました。
て、ひよさんの日記のほうに触れてくださっているので、二度手間になってごめんなさい。

お問い合わせ、ご参加のご連絡は、
入潮のアドレス・a href="mailto:iirisiomaru@hotmail.com">iirisiomaru@hotmail.com)まで。・・・といいつつ、前日まででしたらOKですが、反応は鈍くなります。
確実なのは、 ひよさんのアドレス( h-upper@cside.com) までお送りいただけるとありがたいです。すみません、ひよさん。

ご連絡の際、
 1.お名前、 2.メールアドレス (こちら必須でお願いしますー)
携帯電話をお持ちの方は、
 3.電話番号、 4.携帯用メールアドレス
について、お知らせくださいませ。

もしご連絡がございませんでしたら。その際は私が一晩中ひよさんを独占します。
それが危険だと思し召される勇者は、どうか立ち上がってください。
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箱館浸り3

本日も疲れました。快い疲れ。

函館3日目は、以下のルートでした。

二股→中山峠→稲倉→館町→江差・開陽丸青少年センター→乙部温泉→松前城→知内温泉→木古内→泉沢→茂辺地→四稜郭→函館協会区→元町公園

レンタルバイクを予定していたのですが、辺りをつけていた3軒とも、すべてサービス停止してしまったらしい。やはりバイクは問題が多いのだろうか。
それで引き下がるのも悔しいので、オーソドックスにレンタカーにしてみました。
けれども自分、四輪の車は、5年ぐらい乗っていないペーパーな上に、右車線のところでしか運転したことがない。大変不安でした。レンタカー会社の担当の方は、もっと不安だったと思います。車間距離を確認させてください、というと、車の構造、一から教えてくれた。

天気が良くてドライブ日和。田んぼは収穫前の黄金、雲はうっすら白い。・・・そんな風景を楽しむ余裕もない危険なペーパードライバーが、道南を駆けずり回ってました。平日でよかった。

● 二股
二股山の登山道の近く、大野川の橋をはさんで、古戦場として、碑がありました。橋より手前に、土方の名前が。橋の向こう側に、新政府軍の根拠地としての碑と、ここで亡くなった新政府の方のお墓が。毎年お盆になると本州から手向けにくるそうな。
この古戦場跡ということで、胸壁の跡が残っているという話だったので、奥のほうに藪を突っ切って言ってみました。・・・やっぱり、泥まみれになって、蚊に刺されまくって終わりでした・・・。

● 中山峠・稲倉・館町
こちらは、峠超えルートを超えて江差を攻めた松岡四郎次郎ルート。で、峠を越えた鶉ダムのところに、碧血碑があります。これは、建立者は函館にあるものとは別で、新政府軍・箱館軍分け隔てなく弔っているようでした。箱館戦争の平定前の戦では、彼らが一、寒さと疲労で苦労したんじゃないかと思う。松岡さんはそのまま江差奉行として赴任。圭介に補強のための予算を要求して、「箱館でも金足りない。現地で何とかして。ごめんよ」といわれていた人。箱館軍でもトップクラスの苦労をした人、という印象がある。

● 開陽丸青少年センター
企画はいい。実行力もいい。予算の出所もいい。展示も参加型でレベル高い。・・・問題は場所。
素晴らしいのだけれども、いかんせん離れている。一方で、それだけで観光客を呼んで街づくりができるほどのネームバリューもない。
開陽丸を通じた歴史の紹介と、沈没船の引き上げの、二つのテーマに分けたのもいいのだけれど、両方ともちょっとコンセプトが中途半端に思いました。引き上げは、せっかく開陽丸の水中発掘・保存に、それだけで論文セットができるぐらいの研究をやっているのだから、今のサブマージの需要とか、引き上げ・保存技術の他への応用例とか、そこまで見せてくれたら、もっと面白かったかな、と。
ウワサの人形は、心なし、釜さんのお肌のカサツキが気になりました。生活に疲れたおばちゃんのようだった。
あと、ここで「中島三郎文書」が売られていました。中島さんの書簡や詩句のほか、千代ヶ岱の軍中日誌などがあり、かなりなヨダレものでした。子孫の方が編纂されたらしい。国会図書館にあるようなので、またチェックしに行こう。

● 乙部温泉
圭介が、2月〜3月の極寒期に、ブリュネさんたちと一緒に、知内、松前、厚沢部、江差、乙部・・・と巡視していたときに、ブリュネさんが湿瘡(しもやけ?凍傷?)を患って、10日ほど療養に滞在したのが、この乙部温泉。
旅館の隣に「いこいの湯」という公衆浴場がくっついていて、これが大変快適でした。サウナも露天風呂もある。露天風呂は開放感があって、よかった。裏山から丸見えというのはおいといて。
ナトリウム-硫酸塩・塩化物泉、芒礬泉とも呼ばれる、泉質としては大変良いとされるお湯です。・・・圭介、良いお湯をブリュネさんに選んだなぁ。ちなみに、この辺り、江差、湯ノ岱、俄虫、鳥山、熊石、と温泉の宝庫です。
ブリュネさんの入っていたお湯。やっぱり圭介も最初の1日は一緒だったんだろうか。いきなり入ってきた圭介に、風呂はプライベートなものと思っていて慌てるブリュネさん、とか。いや、銭湯はもう慣れているか・・・。
いろんな意味でとっても熱くなれた温泉でした。大変良かったです。江差に来た際、ぜひ足を伸ばしてみることをお勧めです。

もうそろそろ、バスの時間がきました。ひとまずこんなところで、続きはまたのちほど書き散らしたいと思います。
これから、夜行で札幌まで向かいますー。到着の朝の時間が早いから、行き場がなくて途方に暮れそうな感じ・・・。

[2] 鐘ヶ江蓮 2005/09/21(Wed)-00:37 (No.73)
こんばんは、鐘ヶ江です。
素敵な函館レポを有難うございます!
函館山アッタク、胸を躍らせて拝読しました。なんてまぶしい行動力。雪にめげて二股を諦めた自分が恥ずかしい…。
温泉は次に行ったら入りたいなと思っていたので、参考にさせて頂きたいです。
秘密の称名寺のお話も、お伺いできる日を楽しみにしております。

ところで『美耶古能波奈誌』、安藤太郎じゃなかったでしょうか。どっかで聞いたような記憶がかすかにあるのですが…。旧幕府か何かに載ってませんでしたっけ?
しかしいい加減あやふやなことを人様に言ってはいけないよな、と探したら、こんなのがヒットしました。
http://www.donan.info/modules/pukiwiki/303.html
結局誰か分かりませんが、道立図書館にあるみたいです。

『遊撃隊起終録』私も読みたいですー!一部は『函館戦争資料集』に入っているのでお目に触れていると思うのですが、全文は函館図書館で現物にあたるしかないっぽいです。閉館していたのが惜しまれますね…。

では、札幌でも良い休暇を過ごされますようにvv

[3] 入潮 2005/09/27(Tue)-22:11 (No.77)
すす、すみません、幸せに浮かれている間に、お返事が大変遅くなってしまい、ひたすらに申し訳ございません。

箱館山アタックは、蚊とヒルと藪と熊笹と泥で、ボロボロでございました…。何で自分、こんな思いしてまで…と、わが身の愚かさを振り返るとともに、先人の労力苦労をわが身のものとして感じられたということをせめてもの自己満足にしたのみ、という次第でございます。

『美耶古能波奈誌』、情報ありがとうございましたー! そうでした、安藤太郎でした。思いっきり、箱館戦争資料集の北州新話の解説で触れられていました。それをさらりと出してくださるのが、おさすがでございます〜。鐘ヶ江さんの情報のおかげさまで、ひよさんが入手してくださいました…。皆様の恩義にすがって生きている感じです。
『遊撃隊起終録』も、そうでした、思いっきり、箱館戦争資料集に入ってましたです…。大恥。須藤氏にお会いする前に目を通していたはずなのに。活字になっていないと、頭の中で同一判定ができないって、どういうことよ…。己の至らなさを思い知った次第です。ご指摘ありがとうございました〜…
箱館戦争資料集、箱館のみ抜き出しが多くて。苟生日記など、全文読みたい…と思うのが多くて、じらしに震えてしまいます。

ご住職様は、歴史家の名声や功績とは別次元のところで、ただ、自らが住んだ場所、生きた場所がどのような過程を経てきたのか、当たり前の日常を語るように、当たり前の歴史を語るすべをご存知な方でした。なんだか大変新鮮だったです。人に語り継ぐ力をお持ちの方というか。変に学問とか研究とかにしてしまうと、生きている何かがなくなってしまう。その生きた何かを持ちの方に出会えた、ということで、なんだか得がたい物に触れさせていただいたなぁ…という感慨をいただいてきましたです。

当たり前ですが、生きた人がいてこその歴史なのだなぁ、と思いました。

いろいろご情報ありがとうございました〜。それを出すということができるというのも、日ごろの行いと意識あっての賜物ですよな。鐘ヶ江さんの記憶強さ、それを下支えする真摯さには、いつも脱帽、見習わねばならんと、指をくわえる一方でございます…

次は函館市立図書館開館後…!と、欲望はとどまることを知りませんです。
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2005年09月22日

道立文書館

本日夜。告辞が当日の朝ですみません。
札幌夜の饗宴。飛び込み参加大歓迎です。

本日9月22日19時30分 地下鉄東西線バスセンター前駅8番出口(地上)

ということで。南柯紀行(新人物往来社版)(写真: http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4404026277/249-2535113-8861120)を片手に持っているので、それを目印にしていただければと思います。

恐ろしがらず、どうか、奇妙な波動に打たれにきてやってください。


道立文書館。昨日はそれだけでした。
濃かった。あんな濃いの、憲政資料室以来だった。
……だって、全て原文、膨大な量を見せてくれるんですもの…。
夜行バスでふらふらしていた頭も、いっきにしゃっきり、さらに何か変なモノまで芽生えました。

主に圭介渡航時の文書を中心に当たりました。
……あった、あったよ。黒田。大鳥。
ここか、ここに埋もれていたのか…!

黒田→大鳥への電報。それに対する大鳥の、馬鹿に詳細にすげなさ爆発の返事。

圭介への辞令撤回事件、圭介給料問題、圭介のお買い物、圭介の自慢、圭介の金せびり。
公文書の原本に対して、何度噴き出して、唾と鼻水を吹きかけそうになったことか。

大鳥→黒田の手紙も何通かありました。なかには、じ、直筆もありました。
圭介の手紙は相変らずでした。便箋半分にちぎってました。欄外にも90度ひっくり返してみっちり書いてました。後ろに行くほど字が小さくなってました。さらに、追伸が、本文より長かったでした。いっつもそうみたいですよ、圭介…

で、圭介の手紙は、必ず写し取られて、写しが添付、あるいは写しのみ収録されていました…

荒井さんや松平太郎さん文書も結構ありました。太郎さん、開拓使で何をやっていたんだろう、と疑問だったんですが、結構明らかになりました。ライマンぶち切れ意見書とかも面白かったです。

細部については、後ほど、みっちりとツッコミかけていきたいと思います。
時間がなくて明治6年、7年の2年間しか見てなかったですけど、大満足どころか、詰め込みすぎて、いろんな穴から垂れ流れそうです。

では、これから北方資料室で、ライマンフィーバーしてきます。
まだやるのか、という感じですが。毎日が極楽。
…ライマンの英語、読めんのだけどな…。クセが強すぎて。

鐘ヶ江さん、コメントありがとうございました(嬉)。
また後ほど、お返事させてくださいませ〜。

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2005年09月23日

札幌二日目

ふーふふふふ。
昨夜は川の字でした。

ひよさんのみならず、ポロチカのちほさんの連れ込みに、大成功。

札幌開拓使ビアケラーで、開拓使に煮られた鳥とか、開拓使のタコとかを堪能したあと、ひよさんとふたりで、有無を言わさず、タクシーに乗せこみました。
一晩たっぷりと、寝顔を堪能させていただきました、生きていて良かった。

話してたのは、伊藤がいかにキュートか、山県がいかに不憫か、ということばかりだったような気がします。

昨日一日は、北方資料室でした。
ライマン、ライマン、ライマン、モンロー、ライマン、って感じでした。あぁ、ライマン。貴方、苦情多すぎ。手紙多すぎ。

それでは、本日は層雲峡。ひよさんと密室ドライブを堪能しながら、大鳥川を目指して、北海道のアルプスを、テンション高く練り歩いてまいりますー。
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2005年09月25日

北海道遊び倒し

あー、遊んだ遊んだ、遊び倒した。
こんなに遊び尽くしてしまって、もう社会復帰できないんじゃないかと、不安です。
しっかり充電しました。大満足。温泉と渓流と峡谷と圭介と妄想で、満腹しすぎて、溢れかえって、いろんなものが粘膜から流れながら、シューシュー煙吹いている感じです。

やっぱり、当たり前ですが、一人より二人三人ですな…。一人だとブツブツ呟きニマニマする気色悪い人になって、後から自己満足が寂しくなる空しい時間が必ずありますが。二人以上というのは、より飯もうまいし、温泉も幸せだし、語り・聞き・萌えが、螺旋を描いて急上昇するかんじで、留まるところを知りません。

とりあえず、ルートだけ。地名だけ挙げてもしょうもないですけど。あとからツッコミするための整理ということで。

9/24
・雨。
・朝、ちほさんとお別れ。ほんわかさとぬくもりをありがとう。幸せでした。
・豊平川→江別・榎本公園→岩見沢→幌向川→幾春別川→幌内町→三笠鉄道村→旭川→層雲峡→流星の滝・銀河の滝→ライマンの滝→ケプロン川→層雲峡温泉

9/25
・快晴。
・大雪ダム→荒井川(天幕沢川)→石狩川→沼巡り→大鳥川(ヤンペタップ川)→大雪高原温泉→三国峠・糠平湖・士幌町・日勝峠・夕張市→千歳

温泉三昧でした。まだ体が硫黄臭い。幸せのにほい。
ひよさんの尻の形は大変よろしかったです。「尻って言うな」「じゃあ臀部」「尻でいい」と、許可をいただきました。

昨日・本日は、完全にひよさんドライブを堪能させていただきました。
函館江差のレンタカーで練習した運転テクは、全く信用されていなかったです。「疲れたらいつでも……」「運転は私がしますから(ビシ)」「(しくしくしく)」
それで隣でカックンカックン寝ていたので、申し訳ないったらありゃしませんでした。

…と思っていたら、その後、車の中密室空間をいいことに、頭の中の妄想を、徹底的に暴かれてしまいました。ひよさんの巨大サンドポンプの如くの吸引力に、すっかり脳味噌を引きずり出されました。

さらに、雄大な自然の中で、ちょっとオコサマの前ではできない下ネタが繰り広げられていました。
飛行機出発寸前まで、ひたすら妄想を垂れ流し続け合っていたような気がします。

濃密すぎて、何がおきていたのか、整理しきれてません。何かがぐるぐる渦巻いています。一人アパートの部屋に戻ってみると、あれは幻想だったのだろうか、異世界にトリップしていたのだろうかと、どうも、夢見心地です。ただ、自分の体の硫黄臭さが、あれは現実だったのだと語っています。

そんな感じで、心地よく疲れました。さらに余韻の夢に浸ってきます…
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2005年09月28日

箱館浸りその3-2

インドネシアでまた、鳥インフルエンザが流行っていますな…

それはおいておいて、なんか、あまりにあの日々が濃い、というか、異次元過ぎて、現実に戻れるかどうか不安でした。…と思っていたら、差し迫った現実を指折り数えると、だいぶ切羽詰っているらしいということに気づき、早速追い立てられてます。切り替えは重要ですな。

てことで、蝦夷地日記。続き、いきます。9月21日分。
以下、「御住職によると」というのは、称名寺の御住職、須藤氏にお伺いした話を彷彿としております。
自分で調べず人任せ。てか、人から直接聞いた話というのは、文字で見るよりも、頭の底まで染み渡っていく感じで、心に残ります。

● 松前城

乙部温泉でゆっくりしていたら、既に日は西へ傾いてしまった。ナビの案内のみを頼りに、渡島半島をひたすら南下。城は藩屋敷と共に、市街を抜けた丘の上に位置。城下町ならではの入り組んだ町並みです。車間距離を全くつかんでないペーパードライバーに、一車線をじーさんばーさんがわらわら行き来する市内を抜けるのは、かなりのスリルでございました。

松前城は最後の和式築城として有名。安政元年築。松前は新しい街かと思いきや、歴史は1300年代から。鎌倉時代から既に本州からの移住があったらしい。和人による蝦夷地支配の象徴的な地。
ここの藩が特殊だったのは、蝦夷地の通商において、対外国だけではなく、対内地において、その商取引の関税を自由にかける権利を有していた事。あと、交易権を商人に与えて運上金を得るという場所請負制度。であるので、松前は、鰊、鰹、昆布、といった海産物取引を行う商人から得られる利益で、相当な権勢を蓄えていた。けれども、箱館の開港で、箱館に蝦夷の玄関の地位を奪われ、衰退し始めた。

幕末明治を通じて、松前による蝦夷地支配を回復するよう求めていたようですが。元々、支配権自体が特権だったので、それも都合のいい話なんじゃないか、という気がする。

箱館戦争で旧幕軍にあっさり陥とされてますが、特権回復が欲しければ、独力で平定するぐらい気概を見せるぐらいのことは必要だったんじゃないか、という気もする。諸国の技術、資本が行き来する土地柄で、ロシアに対する北方警備という役目あっての特権だったのだから、内乱平定ぐらい自力でやれ、ということで。実際は、どうも追い立てられていたイメージしかなかったもんなー。もちろん、箱館戦争後期にも藩兵は多々出兵してましたし、勇猛な藩士の方もいらっしゃいましたが。

(そいや官軍上陸時の戦いで、松前藩藩医の嫡子、杉村玄英が死亡。その後明治3年、玄英の姉よねに、入り婿したのが、永倉新八だそうで。永倉は杉村義衛として第2の人生を歩む。玄英が生きていれば永倉の婿入りもなかったわけですな…)

商人からの利潤におんぶ抱っこする形に終始し、蝦夷地内部の開発と防備を怠っていたと見られてしまっても仕方がないような。アイヌの反乱も多かった。その当たり、開拓使にとっては、反面教師になる面は多かったのではないかなーと。ちょっと辛口を思ってしまう藩でありました。

で、箱館戦争の松前というと、土方隊の松前攻めばかりがクローズアップされていますが、圭介もちゃんと訪れています。平定後、2月〜3月の極寒期に、ブリュネさんとカズヌーヴ、ブーフイエと一緒に、海岸砲台の視察を行っていました。雪に埋もれながら。

圭介日記を読み返してみると、松前戦のほか、鶉村、稲倉の戦い、江差の様子も詳しいです。圭介、自分がいない戦線や場所の状況もしっかり把握して、経緯を緻密に描写しているあたり、さすがというか。この時期に限らずですが、記録や日記は、自分の目で見たこと、自分の直接の周りのことしか書いていない文章の人も多くて、解説がないと、読解力のない自分にはつらい…。いや、自分の無能さを著者に責任転嫁するな、って感じですが。やっぱり圭介は、全体をちゃんと理解して記憶して、まとめて説明しようとしているあたり、責任のある立場を自覚していた、頭のいい人の文章なんだなぁという気がします。この辺り、誰かに読ませようと思って書いた、というよりは、性格と能力なんだろうなぁと。抜群に読みやすいし、情報量がある。引用が多いというか、必須なぐらいに用いられているのもうなずける。あ、読みやすさでいえば大野右仲さんの文とかはかなり好きです。

● 知内温泉

渡島半島の海岸部から内陸に入り、国道から少々外れたところにある温泉。車道から近い割りに、秘湯情緒たっぷり。まさに鄙びた一軒宿、という感じ。温泉の宝庫であるこの一帯の中でも、一箇所で源泉が5つという、全国でも類を見ない湯のバラエティ豊富さ。といっても湯船は露天風呂、岩風呂、室内風呂の3種類でした。露天風呂は混浴で、誰もいなかったのでそのままゆっくり陣取っていたら、あとから外でおっちゃんたちが4、5人、こっそり待っていた。ごめんよ。

ナトリウム-塩化物-炭酸水素塩泉なのですが、定量分析をしたのが昭和4年の北海道庁、というところに歴史を感じた。

で、いろんな湯に浸かって、こちらはすっかり極楽気分だったのですが。ここを通過した圭介。

「尻内峠下にかかりしに、此道八里もありて、積雪一面に深く我等初めは馬に跨りて出でて二里も行きたれば、積雪表面は凍れども、底下は已に融けたれば、馬足深く陥りて一歩も進むこと能わず、皆馬より下りて歩し、馬は別当に渡して牽かしめしに、登るに随て雪愈深くなり、馬脚立つ能わず、只雪を蹴て飛び、恰も雪中を泳ぐが如し、如是して行くこと凡二里にも及びたれば、馬皆疲労して、呼吸逼迫、倒れて立つ能わず、暫時休息せしめて後、人足三四名も掛り、馬腹の下に木を挿みて、之を担い起し、又飛行せしめ、漸く一の渡と唱うる小村に着せしかば、此にて飼を与え、之を救えり、是より西は雪次第に薄なりたれば、馬も少し気を得て、夕方に福島に至れり」

知内峠を越えるのに、馬に乗っていたけれど、積雪の表面が凍り、底が融けていたので、馬の脚が是を踏み抜いて一歩も動けなくなった。みんな馬から下りて歩き、馬は別当が引いていくのだけれど、登るにつれてだんだん雪が深くなり、馬は立つこともできず、ただ雪を蹴るだけ。雪の中を泳ぐようだった。そんなこんなで8kmほどいくと、馬は疲れきり、呼吸は逼迫して倒れてたつこともできない。人足3,4人がかりで馬の腹に木を挿んで担ぎ起して空中を行かせて、一の渡という小村で飼葉を与えて休息させた。

つらい。けれども。
…圭介、自分の苦難を書くときは何でこんなにイキイキしてるんだ?

いや、つらそう、大変そう、というのは伝わってくるんですが。その中にも「こんなに苦労したんだよオレ!」という自虐的楽しさというか、ネタにして笑っているように見えるのが、圭介です。

あと、馬に対してよく見ているというか。見捨てない。文句も言わない。むしろそんな目にあわせてごめん、ぐらいの勢いで。圭介、馬には結構、愛情深いですよな。

で、この後、知内峠の地形のよさ、陣地の有利さにはちゃんと信頼を置いている。見るところは見ています、圭介。(てか、そっちが仕事)

● 福島〜知内〜木古内〜茂辺地〜泉沢

知内峠を越えると、そこはひたすら海岸線。福島の青函トンネル記念館にも後ろ髪を引かれつつ。しばらくは、海岸線と峠越えドライブ。知内峠からいったん海岸にでると、内陸方面へ平野が広がっていて、ここを防戦するのは相当難儀だろうなぁ、という地形でした。

木古内に「佐女川神社」というのがありました。天保2年1月15にちに神社守の夢枕に「ご神体を清めよ」とお告げがあり、神社守はただちに小川の氷を打ち砕き、身を切るような冷水で自身を清めた。海岸に臨むと、河口に大鮫が波に打たれ、その背中の上に白衣をまとった女性が現れた。鮫は川の上流の沼に姿を消した。その年から豊漁、豊作が続き、村は潤った、とのこと。

言い伝えとしては、そんなに特別なものでもないのですが。
それを聞いた圭介が、この清浄な地を戦に巻き込むのか、という複雑な思いを抱く、というのは、絵になるなぁ、とか、勝手に思ってきました。

この海岸線、何もないだろうとは思いつつ。
山や森がせり出したりして、あ、この辺だと射線が隠れそう、籠もれそう、と思ったら、そこが木古内であったり、矢不来であったり、茂辺地であったりしました。当たり前かもしれませんが、戦うべきところで戦っているなぁ、と。

ただ、それも、後から見た視点の話で、当時当地にいた人は、艦砲射撃直撃のところでも、そこで踏ん張ると言い張ったりしているんですよな。

松前から、福島を回らず木古内に直接出る道があって、そこから前後分断されたのは圭介指揮の海岸線のほうでした。挟撃食らっているのに、よく第1次木古内戦、持ちこたえたと思います。最終的に第2次で陥ちましたけど。その陥落ばかり強調されているのが悲しい。

で、二股、松前、福島、知内、木古内、茂辺地、泉沢と、駆け足で見てきて、思ったというか、再確認したのだけれども。
二股は、それなりの士官とそれなりの歩兵がいれて、それなりの装備があれば、誰が将でも守れたのではないかな、と。
峡谷で視界は利かないし、地盤はいいし、川沿いだから耐久型の陣地も作りやすい。

そして、二股には、吉沢勇四郎という、当代きっての胸壁・保塁作りのプロフェッショナル工兵隊と、箱館でも最も戦歴数の多い伝習隊・衝鋒隊がつぎ込まれていた。むしろ二股は優遇されていたのではないか、という気がする。(吉沢は「斯氏築城典刑」の訳者。脱走時から行軍、後、明治陸軍工兵大佐。工兵の先駆け)

一方、海岸線は、部隊の錬度が低い隊が多いし、構成からいっても不利だったのではないかと。吉沢の腕はむしろ、艦砲射撃の襲ってくる海岸側で必要だったのではないかと思う。そこは、圭介が、自分で陣地構築指揮もカバーしていたように読み取れます。なんせ、陸軍には艦砲射撃の経験者、いなかったわけなので。

それで、木古内の第1次は、地形をかろうじて利用しての奇襲とゲリラ戦で勝っていたわけで。陣地も非常に動的で、多数の部隊にリアルタイムで指示を出さねばならなかったので、指揮は難しかったと思えるのですが。大鳥、ちゃんといい仕事していたわけです。(てか、大鳥、意外にゲリラ戦得意だよな…。小山とか藤原とか)

一方ご住職と二股・木古内戦についてお話していたとき、ご住職が「大鳥はどうも何を考えているのかわからん、やる気がないのに一生懸命だ」というようなことをおっしゃってまして。
よく南柯紀行を見てみると。

「元来五稜郭の軍議にては、松前の兵隊を悉く尻内に引き揚げ、諸隊を大野、五稜郭並びに箱館に集合することに決し」

とありました。…最初から、大鳥、海岸線防衛、あまりやる気なかったんじゃないのよさ。
圭介自身は、隊の配置(額兵隊・彰義隊、福島の遊撃隊など)を見ても、縦深防御で、被害少なく少しずつ退却、最終的に大野・五稜郭・箱館に兵を集めるつもりだった。
ちゃんと圭介、説明しとけよー。…いや、説明していたけれど、言うこと聞いてくれなかった。

「14日木古内二股の両戦大利を得たる報を聞き、少年壮勇の者血気に募り退陣を好まず、議論蜂起、かれこれ五稜郭と往復中、遂に松前にて交戦となり、多くの壮士を亡い酸鼻に堪えざるなり」

……(涙)。なまじ、第1次の二股、木古内で、内地も海岸線も勝ってしまったから、逸ってしまって、余計に被害が大きくなった、と。

大鳥の「やる気のなさ」というのは、勝つ気のなさ、というか、「ダメだろ」という、大局に対する諦め。一方、「一生懸命さ」というのは、その中での最善の結果を残すことへの足掻き。
大鳥は、戦の趨勢より大事なものを見ていた、と思えるんですよな…。

「陸軍は尻内嶺いて十分防ぐべしと、木古内の兵海陸より打たるるときは地理宜しからず、防戦覚束なし、其時に及び我兵戦を断絶せらるるにいたるよりは寧ろ矢不来に帰り、兵衆を集め、一線を為すに若かず」

矢不来に留まったのは、二股の退路を絶たれるというのがあるからで。寧ろこうなると二股の存在は重荷だったのかもしれない。

この辺り、二股の勝利と木古内の敗退の対比は、あまりに鮮やかなので、よく小説にしても論評にしてもあげつらわれるところではあるのですが。むしろ大鳥が率いていたからこそ、海岸線の被害を、死者70名余で止めることが可能だったのではないかと思える。(大鳥は決してそういう書き方はしないけど) …でないと全滅も十分ありえた。

そういう、戦線を一つ一つ追って、本人が何を考えていたのかを紐解いてみると、大鳥は、非常に現実的な考え方を持っていたと感じられる。理念にも理屈にも走らない。何が最良の結果となるか、それが意思決定の柱になっている。刹那の勝敗よりも、生き残りと次への持続。それは、実戦経験を自分の感覚としているからできることで。現地を見てみても、こういう感覚は、強くなる一方なんですよな…。

その思考法も、一つ一つ辿ると、教科書人間には到底ない、実質的なものを持っていると思うのです。

こういうのは、今まで虐げられてきた側の身びいきってもんに過ぎないのだろうけれども…

箱館戦当時、大鳥ほど戦線の最前線に身を置き続け、実戦的な考え方を有していた指揮官は稀有である。

という思いが強くなる一方で、どうにも困ってます。
なお、実戦経験数で大鳥と肩を並べるとしたら、古屋・今井らと、せいぜい新政府で板垣、大山ぐらいかと。(後、長征とか鳥羽伏見以前を加えるともう少し出てくるかな…)

それで「戦下手」「負けばかり」というのは、大鳥が自分で自分をキャラクタライズして演出しているだけなのではないか。自分で自分の無能という像を作り上げているに過ぎないのではないか。

既存の小説や評論の認識である、「机上の戦略家」というプロトタイプに真っ向から向かう形なのだけれども。いや、こういう、世間様の認識に、石を投げるようなことは、言いたくないんです、ほんと。小心者なんで。でも自分に嘘はつけないというか、一度思ってしまうとなし崩し、という感じで。

(一方で、実戦指揮官の象徴的のように言われている土方は、鳥羽伏見は別として、宇都宮離脱後、福島・松前まで、戦らしい近代戦には参加していないので、むしろ、伝習隊・衝鋒隊の面々より、ずっと経験は少ないのではないか。そして、勝ちといっても、地形や武器、慣れた将兵による有利さが強いのではないかという印象になってきた。宇都宮にしても松前にしても二股にしても、別に土方がいなくても勝てたのではないか。勝ち舞台を与えられていたにすぎないわけなのではないだろうか、という感じがしてきた…。あ、もうだめ。)

別に大鳥の価値は戦争にあるとは全然思っていないですし、戦では無能なら無能で、それはそれで魅力のひとつだとすら思えるわけでして。別に自分としては、大鳥が有能でなくても一向にかまわんのです。いっそ無能なほうが萌え、ぐらいの勢いで。けれども、どうも、大鳥の足跡を直接辿ると、従来言われている像に、違和感を感じて仕方がないわけでして。

そういうわけで、現在の見方に対する抵抗感、大鳥の経歴だけを見て、勝手に机上の戦略家と決め付けられ、学者人間呼ばわりされているだけなのではないかという疑問は、大きくなる一方なのでございました。

大鳥自身、市川鴻之台で、自分は戦場に出たことはない、と自分で言ってますが。その謙遜を真に受けられているだけなのではないか。確かに、市川では大鳥は実戦経験なしでしたが。箱館まで常に大鳥は最前線に在り続けたのは、彼の足跡を追えば一目瞭然だ。

大鳥を机上の人間とみなす人が、一番、現場を歩いてない、個々の戦闘分析もしていない、思考追跡もしていない、定量評価もしていない、イメージだけで決め付けている机上人間なのじゃないのかよー…と思うのは。

身びいきですか、身びいきですな、ごめんなさい…
でもなー(しつこい)

(いったん切る…)

[2] 入潮 2005/09/29(Thu)-02:19 (No.79)
続き。

● 四稜郭

七重浜を抜けるころにはすっかり夜。対岸は箱館の夜景。
それで打ち止めだったのですが、ついでに、心残りだった四稜郭へ行ってみることにしました。
四稜郭、道が複雑で、行ける自信がまったくなかったのですが、レンタカーのカーナビ君が思ったより有能だったので、お任せっきりで。返却時間は迫ってましたが、延長すればいいや、と。

行ってみると普通の公園でした。夜だったので、無人。市民のいこいの広場、という感じで。
よく、突貫工事で作られて、陥ちる時は数時間、と揶揄されているところではあります。けれども、タテカンでは「長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した」と、ちゃんと説明してくれていました。

なお、ご住職のお話では、四稜郭の位置づけとしては、五稜郭が落城した際の拠点となる場所だったとのこと。そして、本来、五稜郭は、四稜郭の位置に建てるのが良かった、とのことでした。

たしかに、五稜郭は、海から3kmしか離れていなくて、艦砲射撃を直接受けてしまう。
実際、五稜郭、甲鉄艦からの艦砲射撃の直撃食らっているし。アームストロング砲の射程は4kmあるんすよな…
設計時はそんなのに射程の長い砲は考慮されていなかった、というのはあるのかもしれませんが。

五稜郭自体、司馬遼太郎に「インチキくさい自称要塞」とか「ハッタリ設計」とかヒドイことを言われてましたが。
武田斐三郎は、築城の候補地として、大野市ノ渡、桔梗奥ノ台、上山奥ノ台の、内陸の3箇所を建言していた。なのだけれど、幕府上層部から、五稜郭は奉行所を兼任することが条件なので市街地から近いほうが便利、ということで、今の位置に決められてしまった、とのこと。

なお、ご住職によると、四つの稜を有する四稜郭の砦は、ここのほかに10箇所ほどあったそうです。

ということは、圭介らは既に当時、五稜郭の位置では守りきることができないということを予期し、できる予算の範囲で四稜郭造営を行っていた、ということなんですかな。

ちなみに、圭介。五稜郭についても。

「五稜郭の築造いまだ全備せず、有事のときは防御の用に供しがたきを以て、昨冬依頼之を修理することに取懸りしが、積雪中にて土地凍冱堅きこと鉄の如くなれば、之を堀開くこと甚だ難し、去れども工兵士官並びに兵卒の日夜勉力に由て、周囲に楊柳を以て柵壁を作り、堤上より土の崩潰するを防ぎ、大砲を据付け、又濠外にも堤を築き、表裏の両門にも幾重にも胸壁を築き、頗る金を費やし力を尽くして三月の初めに至り落成せり」

これを見ると、誰が五稜郭とその周辺の防備を整えるのに責任を持っていたのか、すぐわかる、という言葉なんじゃないかなぁと。すこぶる、金を費やし、力を尽くし、って辺りがもう。自分で図面とスコップ持って走り回ってた人でないと、この文章はかけないよなぁ…。
あと、建造物は、あるだけだと役に立たなくて、役に立たせるためのリハビリとメンテナンスが最も重要、というのは、現場の人なら誰もが言うことで、それを圭介はちゃんとやっていた、ということですが。こういうことには、函館のどこにも注目されていないのが残念です。観光産業は話題優先なんだなぁ…。
そんなわけで。

「五稜郭を設計した武田斐三郎は、大鳥の訳した築城典刑を教科書とした。その大鳥が五稜郭のリハビリを行い、居城として箱館戦争を戦い抜いた。」

ぐらいは触れてくれてもバチはあたらないんじゃないかと、…大鳥ファンとしてはいいたい。だめですか。おこがましいですか。ずうずうしいですか。

さて、レンタカーは、午後7時20分までが時間だったところ、7時21分に返却しました。芸術的なタイミングだった…。


● 函館市内、元町公園他

さらに、深夜バスの発車まで時間があったので、函館市内へ行ってみることにしました。
市内といっても、今、五稜郭の周辺が副都心として賑やかですが。そこではなく、幕末、明治を通して都心であった、弁天町、弥生町、大町、元町の辺り。

特に元町公園のあたりは、五稜郭ができる前、箱館奉行所があり、その直ぐ元町公園の下に、諸術調所跡があり、行政の中心地だったとのこと。なお、諸術調所。江戸の蕃書調書が書物輸入、翻訳のメッカなら、諸術調所は、技術の直接導入場所として舎密、航海術、測量、金属分析などを行っていた。武田斐三郎のほか、山尾、井上勝も学んだとのこと。案内板を見てびびった。

あと、元町公園内、開拓使函館支庁書籍庫とか。け、圭介の報告書とかも入っていたんですかっ。

御住職によると、函館に保管されていた文書の多くは、明治40年、函館市街の半分が焼けてしまったという大火によって失われてしまったということ。大変残念です。
なお、この大火で、称名寺、高龍寺なども焼けてしまって、当時の場所(現弥生町、弥生小学校のある辺り)から移転し、今の位置となったとのこと。つまり、箱館戦争当時は、新撰組が立ち寄っていた称名寺、高松先生の箱館病院分館だった高龍寺は、今観光客の方々が訪問するところとは別の場所、街中のほうにあった、ということだそうです。

そんな感じで、今えらそーにしゃべってますが、この辺り、夜の徘徊をするのも、教会が多いせいか、カップルが多くて、独り身の寂しさがよりいっそう沁みてしまった感じで、実際はツラかったです……

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2005年09月30日

道立文書館その2

深夜バス。23時50分函館発、21日5時半札幌着。
適度に疲れていたので、バスの中では熟睡でした。朝到着すると無理やり起されますけど、もっと寝させてくれ…ってかんじで。

早朝、地下鉄も動いていない時間で、暇だったので、無意味に50分歩いて、宿へ荷物だけ置きに行く。
あとは、駅前にインターネットカフェのひとつもあるだろうと高をくくっていたら、まったく見当たらない。喫茶店すら全部閉まっていた…。札幌は朝8時からの町でした。1時間以上、やっぱり無意味にさすらってしまった。

かろうじて開いていたスターバックスに入り込んで寝ていたら、コンタクトレンズが目の裏側に入り込んで、出てこなくなってしまった…。白目には神経がないから、コンタクトが黒目に引っかからないと、ある、ということすらわからないんですな。なくしたと思って、朝からスターバックスの床を這いずり回る、奇妙な女となっておりました…

で、道庁の道立文書館。本日のターゲットは此処オンリー。
相変わらず、道庁前の池には、鴨が悠然としてました。ひよことか鶏とかのマスコットにキャラ化されることのあるトリですが、自分は、鴨が一番近いかなと思います。もちろん、ネギは背負ってます。あんなに使いやすい、都合のいい人物はいないもの。

なんで平日なのにあんなに観光客がいるの、というぐらいに、日本人・外国人ツーリストに埋め尽くされていました。その雑踏を抜けて、脇の閲覧室へ。

この文書館には、箱館奉行所、開拓使文書など、北海道関係の公文書、私文書・記録等が収集されていまして。その中で、大鳥の、箱館戦争・開拓使関係文書を見たいと思ってたのでした。特に、「簿書 外国人に関する件」には、箱館時代の圭介の仕事ぶりが収められているようでしたので、これは見ずはおれん、と。

文書館の閲覧室。「閲覧者以外は立ち入り禁止、観光客の入室はご遠慮ください」と物々しい但し書きがドアに貼り付けられていて、本当に入ってもいいのか?と、ドアの前でしばし、ひるみます。

……高い敷居の向こうは、黒田大鳥パラダイスでした。

職員さんに目録の使い方を教えていただいて、関係資料を出していただいたのですが。びびったのは、全て、原文でした…。請求するほどに、机を埋め尽くさんばかりに、書庫から出してくださる。触っていいのか、めくっていいのか、と慄きました。その怖さったら、国会図書館憲政資料室以来でございました…。

時々「衆議院○○会議が何時より開催されますので関係の方は〜」というアナウンスが流れるので、そこがお役所だということを思い出すのですが。

まずトライしたのが、開拓使公文録。開拓使の受発信記録です。会計課や外事部、各省庁交換文書など、部課別・種類別に、年ごとに綴じられていました。

で、これに含まれている、大鳥関係。明治5〜7年の欧米渡航中の、大鳥⇔開拓使交換文書が、時にオリジナル、時に手書きの写しで、多々見つかりました。
内、黒田関係のも多く、膨大な文書群の中から、時折、開拓使とその次官と、大鳥の微妙な関係が伺えて、楽しくてしょうがない文書が散見されました…。

明治6年・7年のものしか当たれなかったのですが、それだけでももう、脳味噌はちきれるかと思った。
黒田が圭介に金を送っているし、圭介は見聞記録を思いっきり自慢してるし、圭介の辞令は行き違い・差し戻しになってるし、圭介の給料をどうするか問題になっているし、圭介の手紙は必ず写し取られているし、なのに黒田→大鳥の手紙は電報以外一切写しが残ってないし、圭介が大蔵省から借金して云々しているし、圭介からの電報は大蔵省経由だし……。

見つかる関係文書、何かしらありまして、ツッコミするなというのが無理な状態でございました…。
ちなみに、目録が作成されているだけで、公文録が活字化し何かの形に集成されたことはない、とのこと。確かに膨大な数がありますもんな…。
それだけに、これまでに研究者の目に触れてない、触れられていても取り上げられていないのも多く、まさに未発掘の宝の山を目にした思いでございました。
……多くは崩し字のままなんで、読めないんですけれども…。

とりあえず、手に取ったものから、ツッこんでいきます。これ以降、萌え視点で語りますんで、その辺は差し引いていただけると幸いです。
まず、一番最初にでくわしたのがコレ。

● 米国滞留大鳥圭介帰朝二付電報ノ件

明治6年11月17日。帰朝というから、そのお知らせか何かかなー、にしては、ちょっと時期が早いなぁ、(圭介の帰朝は明治7年3月) と思っていたら。

「米国約組我領事館在留大鳥圭介へ帰朝ノ儀に付、別紙ノ通電機通信致度候条、可然御取計有之度、右賃銭ノ儀ハ御報知次第御回可致此段及御依(カ)頼候也」

と、開拓使から電信寮へ、物々しく。米国領事館在留中の大鳥の帰朝について、電報を送りたいから取り計らいを頼む。料金については通知があり次第処理するから、と。えらく急ぎの様子です。そもそも、当時、一文字送るのも決して安くない電報。

「黒田ヨリ大鳥へ電信、ニーヨーク日本領事館」とある別紙。
一体どんな内容だったのか。嫌が応にも期待は高まりました。

その中身。

「大鳥へ 速二太平洋ヨリ帰レ」

……悶絶。

開拓使の原稿用紙(オリジナル)に、思わず思いっきり、ツバを吹き付けてしまうところでした。
太平洋より、というのをわざわざ書いてあるのがなんとも。大西洋経由だと、また、スエズありの、インドありの、中国ありの、だと、圭介の興味の向かいどころは果てしないから、そのせいで、島だけの太平洋経由で、ということなのでしょうか。

吉田さんたちが米国を出立したのが7月上旬で、帰朝が9月頃。吉田さんたちが帰国してきたのに、いつまでたっても帰ってこない圭介に、業を煮やして、出された電報なのでしょうか…。
吉田から渡航の様子(含大鳥の言動)を聞いて、いてもたってもいられず、さっさと帰って来いー!と。何をフラフラしとるんじー!という感じで…。

更に破壊力を増したのが、これに対する、圭介の回答。

「滞在中諸雑費見込
一. 四千二百弗 1ヵ年の旅館、汽車、馬車代。但し一ヶ月三百五十弗宛
一. 八百円 印度海帰路入用
一. 千五百円 書籍絵図其外御用時々買上入用
一. 五百円 不時用立金

〆 七千円
一.四千八百二十弗三十二セント 御預り金 残り二千二百円御回シ被下度事」

……挨拶も、何もなく、いきなり、カネ…。預かった金より2200円足らんから、よこしてくれ、と。おもむろにその明細を出してます。

そして、これに立て続けに続く文がまた。

「来春、
一.英国へ再度石炭鉄山麦酒製造検査ノ事
一.露西亜国獣皮革方等検査ノ事
一.来戊年六月末迄に帰朝ノ事
一.英国ヨリ酉正月回漕荷物ノ事
蒸気船スコットランド二托シ候品萬々一今二横浜へ着不致候得ハ吉田少輔へ御相談ノ上横浜七十三番マルコム社へ御懸合被成候事、尤受合書類ハ都テ私手許二有之候事。尤私方ヘモ速二御通し被下候ハハ、直二英国へ懸合可申事
一.酉八月英国ヨリ回漕荷物ノ事、前然様有ノ候ハハ受取書速二御遣シ被下度事
一.北海道開拓模様魯人挙動等被仰遣候事
一.本邦全国ノ動静伺度候事
一.先便申上候品物太平洋船便ニテ御遣シ被下度事」

もう一回英国へ行って石炭、鉄鉱山、ビール工場調査するだとか、ロシアの皮の製法を調査するだとか。
ザクッ、と気勢を殺ごうとしているのか。

そして、圭介。
11月に「速二帰レ」と電報で送ってくる上司命令に対して。
問答無用で、「来年6月末までに帰る」ってどういうこと…! 半年以上先。全然「速やか」じゃない。

…この時期、ケプロン・榎本の対立が激化して、その板ばさみになっている黒田。この帰朝命令は、黒田なりのSOSメッセージだったかもしれないのに。にべなさすぎる、圭介…。

やっぱり圭介、しおらしく、自分たちの命を救い、官職に取り立ててくれた上司の言うことを聞くようなタマではなかったですな。わかってましたけど。

てか、圭介、なんか、ムカついてますよな。この返事。
「おれの邪魔すんな」という意思が、端々から汲み取られる気がするのは、気のせいですか。

そのつれなさのに比べ、横浜へ送った荷物(ポンプのこと?にしては遅いけど)の取り扱いに関しては、えらく丁寧だ。まだ着いてないなら吉田さんへ相談の上マルコムへ掛け合い、自分のところに回してくれたら書類ハ全部手もとにあるので時期に英国へ掛け合うだとか。(しかしここで吉田さんの名前を出すのは、逆効果じゃ…とか思うのは余計なお世話だろうか)

あとは、開拓の様子と、ロシア人の挙動と、日本全国の情勢を知らせてくれ、と依頼してますが。今のように電話やメイルで一本、というわけではないですからな。新聞も最速で2ヶ月遅れだし。情報は知りたいと思うもの。
…でも、これがまたいっそう、「おれは帰らんぞ」という意思を強調させているように感じるのは、錯覚ですか。

この後で、「英文略ス」とありましたので、おそらくこの内容は、圭介が英語で送って、開拓使の誰かが訳した文かと思うのですが。多分電報に電報で返したのかと。日→米より、米→日のほうが通信費は多分安いから、いっぱい書いちゃったのか。…これ、もし手紙での返事だったら、犯罪的なそっけなさだと思う。

そんな感じで、あまりにツッコミどころ満載で、早速、息切れする羽目になりました…
恐るべし。道立文書館。
思わず、フライングして、翌日にお会いするはずのひよさんに、夜電話で畳み掛けてしまった。

てことで、続きます。

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