2005年12月02日

惚れた理由

眠いです。普段の二倍以上、1日8時間以上寝ているのに、なんでこんなに眠いのだろう。
相変らず、山岳の空気の薄さのせいにしているのですが。時折真面目に朝4時頃まで働いても、翌日そんなに睡眠不足になるわけではない。単に怠惰に甘んじているのがバレバレです。

朝は霜がびっしり下りて真っ白になるほど寒いし、夜も寒いからあっためたアラ(地元の焼酎)を呑んで体を温めないとやっていられないし。そうすると夜は呑むから寝る。朝は寒いから寝る、ということで、睡眠時間激増です。そのくせ昼間は、いつも快晴で、シャツ一枚でいられるほどポカポカ陽気なので、やっぱり眠い。
こののんびりさに慣れてしまうと、帰国したときが怖い。あぁ帰りたくない。正月もここで過ごしたいぐらいだ。ネットさえ繋がれば。

さて、SSを書きながら、若かりし圭介の二院制設立の建言を読み返していて、ちょっと気が付いたこと。

この建言、Log7の05/23と06/23で、前半だけ触れてほったらかしにしていますが。
「甲子雑録」大鳥圭介謹言の要旨は以下の通り。

1) 今まで鎖国していた国が開国した例として、トルコとタイ、同じ立場の国を紹介。

2) 外国との貿易の方法。必要の物産・器械品を輸入するにも、ニーズを調べて国内産業を保護すること、保護貿易の必要性。密輸出・輸入を制限する必要がある。

3) 上を可能にするには全国の武備拡充が不可欠。政務改革は、従来の制度の長短得失を取捨し、軍政を整え、賄賂を禁じ、外国通商の法を整えこれに信義を持って当たること。

4) 開国すれば砲台・大砲は無用、という人もいるが、それは逆で、軍備がないと外国と対等ではない。他国の不法不埒に備え、特に海岸の防御、武備を厳重にし、軍艦を製造し、砲台を建造する必要があること。

5) 幕府が陸海軍、軍艦・大砲の防備を調える財源としては、諸侯に、一万石に付き金五両や十両など、年々の拠出金割り当てること。

6) 幕府で委任される人物は、貴賎に関わらず正直明智の人を国事の相談者とし、上下両等の評議館(議会)を設置し、上院は在府諸侯、下院は旗本御家人他、諸侯の推薦する人物も出席し、幕府要路の際は衆議し議題を書き下して、両院に諮ること。

7) 防備を調え国力をつける3,4年の間、外国との貿易を休止できないか議論すること(これは難しいと知りつつ、と注意書きあり)

等など。貿易から軍備から議会制度から人材登用制度から、ぎっしり盛り沢山の建言です。

(時々、後年の意見書などには見られない、「攘夷相唱へ候誠二無謀無知之失策」「賄賂姦邪の道を塞ぎ」などの過激な言葉も混じるのが、若さゆえかと思えてほほえましい)

これにたいして、log6 の3/11でふれた圭介の実歴史談、「小栗上野介」。

「其時西洋より軍艦を買い入れ、或は将軍の上洛など幕府財政の困難中よりも百方工夫して之を弁じたるは、余程の苦心した事ならんと思う。当時幕府にも貯蓄金、所謂金も一や二は残って居たか知らぬが、貯蓄金は欠乏しておった」

これをどう小栗さんが解決したかというと

「江戸町人或いは御用達に申し付けて、幕府に年来の高恩を報ゆるために出金して呉れとのことを説諭し、又旗本の千石以上の者は、悉皆其高を半減にした。其趣意は、元来旗本に禄を給するは、国家有事の日に当たり自分の兵士を出して軍隊を組織し、以て国難に当るの方法に出でたるに他ならず。併し今日の旗本や其家臣又は領地の百姓を以て軍隊を組織するも、決して物の用に立つべきものではない。故に仮に旗本の半高、即ち千石取なれば百円とか百五十円とかを献納させ、其金を以て兵制改革を行ふた」

ということで、旗本の給料を半分に減らして、石高に応じて割り当て金を納めさせて、その金で軍備を整えた
と、圭介は小栗さんを大変評価してますが。
…圭介。そのアイデアの出所、自分の建言じゃないか。(3番と5番)

「我国の陸軍を根本的に改革したるは即ち小栗の計略に出て、佛国より三兵の教師を雇入れたるに拠るのである。幕末の末に当り財政困難の中に其の経費を工夫して兵員を訓練しなければならなぬということを主張したのは、全くの小栗の見識であつたと思う」

という、小栗の財政難のなかでの資金拠出、軍備の実現に対して賞賛している。。

「それから、横須賀の造船所を開いたのも小栗の功である。…小栗の考には我国ではどうしても海軍を設けなければならぬ。海軍を開くには唯外国から軍艦を買い入れていてはならぬから、是非自国で製造しなければならぬ。それには造船所や船梁がなければならぬ」

これについては、圭介、軍艦を(買い入れではなく)建造する必要があると建言にありますが(4番)、小栗さんはさらにその考えを具体化して、ナポレオンに依頼してフランスから設計者を招いて、造船所を作らせた。


……もしかして、圭介、小栗さんをあれだけ褒めちぎっていたのは。
自分の考えを実現させた人、実行に移した人だからなのか。

「洋学者より経済上の事や海陸軍の事や世界の形勢を聞いて、始終注意しておった。私共が話に行くと、いつも世界の形勢などを問われるから、自分の知っていることだけは話した」

とあるのは、これを回りくどく述べたかったのかもしれない。いや、夫々をばらばらに見ていたら、全然わかりませんけれども。甲子雑録と実歴史談の二つを照らし合わせてみると、おやぁ?と思うところがちらほら。

それで、圭介、小栗さんを讃えるとき、小栗の功績と自分とのかかわりは、とは一切言わないのですよな。そのあたり、謙虚ではあるのでしょうが。

圭介、小栗さんのことは相当尊敬していたようですが。惚れ込むのも妄信的にではなくて。どうにも、現金というかなんというか。
言うのは誰にでもできるが、実行に移し形にするのは生半可なことではない。その難しさを知っているがゆえの人物評価。

自分の合理的建設的実理性の価値観にそぐい、それに対する実行力があるかどうかを冷徹に見極めてから、惚れる。そのあたりのかわいくなさが、圭介なんだと思います。なんというか、趣味が分かりやすい。一目ぼれとかは一切ない人なんだろなぁ…

その意味で、圭介が人生で惚れてたように見受けられる方々。
緒方洪庵、島津斉彬、小栗忠順、陸奥宗光、李鴻章…
あと、番外で、純平じーちゃん(笑)。

そんな感じで、たまに出てきては、相変らず腐っています。ははは。
ラベル:小栗忠順
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2005年12月03日

今井信郎 その1

エマ(唐辛子)と赤米を主食とする生活が続いております。
唐辛子を辛味ではなく野菜としてバクバク食べるわけですが。
入れるのはある程度慣れましたが、出すのがつらいです。尻が痛い…。
辛いというのは、舌ではなく、下で味わうものだと。下品でごめんなさい。

ひたすらムシに悩まされています。足首、腰、首周りなどの間接や背中などは、麻疹にでもなったかと思うぐらいに噛まれまくってます。カサブタだらけ。寝ている間に引っかきまくるので、体中傷だらけです。
犬猫がわんさと家の中にまで入り込んでいるので、ノミ・ダニ・南京虫の類が、いくら警戒していても入り込んでくるのですな…。しかもカピカピに肌が乾燥しているので、刺されてなくても痒い。肌にまともな部分がない。まともなを生活している人間の肌じゃない。

まぁ、こんな環境でも、たっぷり眠れるという点で、大変恵まれています。

さて。こんな前フリで出ていただくのも大変申し訳ないのですが。

今井信朗。古屋作左衛門の右腕。衝鋒隊頭並、前からかなり気になっている人物です。直参の幕臣、箱館では海陸軍裁判局、陸軍添役。
南柯紀行と一緒に収録されている「北国戦争概略衝鋒隊之記」「蝦夷之夢」の作者。

基本的に淡々と、起こった事柄を記していく記録者ですが、戦に入るといきなり必要以上に具体的になる。時々、意に沿わぬ退却のときなどは筆が荒くなる。あと、人の死に関しては描写が細かくなる。等など、戦の中で生きる人の匂い。
実際、衝鋒隊旗揚げのときから、と、ひたすら戦の只中にあった人です。数えると、圭介より戦闘数が多い、稀有な人物だろう…

寡黙でニヒルで、普段口数が少ない分を筆に込める男、という気がします。格好いい男はちゃんと格好よく描写してくれるのが嬉しいところ。峠下の滝川・大川ダブルリバーの活躍が良し。二股ではやはりダブルリバーと一緒に暴れている。この方の描く大川の男っぷりは必見。

やさぐれると毒舌が始まる。特に会津や奥州の藩からは、ツライ目に遭っているから、筆もよく滑っている。
同じ毒舌家でも、沼間は誰が相手でもデフォルトでけたたましく毒舌諤諤という気がしますが、今井は普段は静かに溜めるだけ溜めて、言うべきところでぐっさりと毒舌の槍、という気がします。唯のイメージです。すんません。
歴戦の友、古屋のあんちゃんを信頼する一方、渋沢成一郎とは仲が悪い。

意外に前衛的インテリで、記録には古屋の影響か、武器や船の説明にカタカナ続出。「蝦夷之夢」には軍律を記しています。半隊司令以上は銃を持つな、とか、敵の首は取るな、とかあたりの内容が興味深いです。指揮官が銃を持っていたら自分の射撃に熱中してしまうからだろうか、とか。首を取るのに拘るとパフォーマンスが悪くなるからだろう、とか、色々理由が想像できる。

この方の伝記、というか記録に、「坂本竜馬を斬った男」があります。サブタイトルが「幕臣今井信朗の生涯」。新人物往来社の書籍。坂本龍馬とか土方歳三とかを、華やかにタイトルに掲げている書籍には、ちょいと退いてしまう悪い癖がありまして。そのせいで、今まで手に取り損ねておりました。ただ、とある方に、今井が大鳥を「南京カボチャのように小さい」と評したことの出典をお尋ねいただきまして。思い当たって手に取ってみたのでした。
そして、調べてみたら、こんなにおいしかったのか、と驚きおののいた次第でございます。ご質問くださって有難うございました…。著者の方も、知名度高い坂本の名前を題をつけずに、そのまま「今井信朗」を高々と掲げて下さったら、もっと早く飛びついていたのに…。(無茶を言う)

著者は、信朗のお孫さんでいらっしゃる今井幸彦氏。今井信郎が、世間一般にとっては忘れ去られる名も無き存在のところ、世間で関心がもたれるのは、坂本龍馬の暗殺事件との結びつきにおいてである、としながら、そのせいで今井が上は剣豪から下は国賊・売名奴まで、毀誉褒貶の人物だとしています。けれども。

「本質的には、この不幸な事件は、彼信朗の生涯を通観した場合、ほんの一エピソードにしか過ぎない。彼の真髄は、風雪吹きすさぶ北越・蝦夷の各地を転戦、万に一つの勝味も実りもない賭に、その日その日の命と夢の全てを託し続けた戊辰の役と、夢破れ屈辱と挫折の深手を負いつつ大小を捨てて田園に隠れ、ついには神への道を説くキリスト者に変容していくその後半生の過程にこそ求められるべきだと思う」

の言葉に、血を引く方としての言葉が集約されている気がします。
幸彦氏の筆がまた、快活で、情感と意思に溢れていて、それでいて客観性を失わない、大変好みな文章でございました。素人とご謙遜されていましたが、歴史で食べている方特有の一般への妙な受け狙いを感じさせるものよりずっと、正確性を期そうという意思が強く、誠実な文章で、また、身内ならではの濃い引用資料がふんだんで、大変読み応えがありました。

で、今井ですが。
1841年、江戸湯島天神下で生まれ、武芸一点張り、直心影流を18歳から学んで、3年でで免許皆伝、それで幕府講武所の師範というから相当な剣豪。得意手の「片手打ち」は、面の上から相手の頭蓋骨を割って即死させてしまったため、禁じ手とされていたという。殺人剣の持ち主。幕末の剣豪伝はたくさんあるようですが、その中でも相当上に食い込むのではないかと。入門当時から「甚だ粗暴」で、皆相手になるのを嫌がってたとのこと。
「免許とか目録とか言う人たちを切るのは素人を切るよりはるかに容易、剣術なぞは倣わないほうが安全」とか言い切ってる。
横浜で神奈川奉行所の配下として、密輸取締りをしていたのですが、一回に一月の手当てを浪費して、一文無しになり、風呂にも入れなかったので海水浴していた、ということ。この調子が箱館までずっと続きます。型破り、野人的で、水滸伝の魯智深があだ名だったらしい。

この横浜で、同じ奉行所で関税の仕事をしていた古屋と出会うわけですが。この本で紹介されている古屋との関係が、またイイのです。そこかしこで強調されています。古屋と横浜でのめぐり会いが「結婚にも劣らぬ重大な影響を今後に与える」など言われています。
「年からいっても信朗より八歳長上であり、世の裏表も知り尽くした古屋ほど、当時の気負いに気負いに気負い、怖い者知らずの信郎にとって、よき兄貴分は他になかったであろう」はともかく。「二人は横浜で互いに一目惚れというか、忽ち意気投合してしまったらしい」なんて子孫公認。

余談ながら、古屋が訳した「歩兵操典」について、印刷のための木版は、関東大震災にも焼け残ったのに、木版を軒先においておいたばかりに、その後復興に際して、近所の人たちが建付の材料に使ってしまって、終に分からなくなってしまった、とのこと…。…こういう役に立ち方もあるんですかね…。
圭介の金属活字は、きっと鉄砲の弾に戻されたことでしょう…

それから慶応3年5月に江戸に呼び戻された今井は、京都見廻組に命じられます。旅費が支給されなくて半年ぐらい赴任が後になったらしい。すでに結婚していて、妻のいわ、長女のりゆうを伴って京都へ。この時27歳。七十俵六人扶持。着任後見廻組与力頭に。警部か警視正クラスとのこと。
見廻組は幕府の京都守護警察組織で、月々200人ほど。統括は京都守護職の松平容保。

それで坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件につながるわけですが、これに関しては、自分自身の回想もなく家族に何も伝えず何も書いていない。報知新聞には「もっぱら見張りと家人らの取り静めが役目で直接手を下してはいない」と語ったとのこと。家伝では一番手で斬ったことになっている。それで、著者は、土佐側の各資料と家伝から、現場検証や考察を行い、比較さていますが、様々な矛盾が生じて、かえって謎が増えてしまった感じでした。

それで、鳥羽伏見の戦いへ突入し、戊辰戦争の幕が明けます。
ここから伝習隊との付き合いも始まるわけですが。
長くなってしまったのでとりあえず切ります。
圭介との関連をさくっと述べて終わろうと思ったのに。いつもシンプルに終わらせるということが出来ない奴。
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2005年12月05日

今井信郎 その2

鳥羽伏見の戦い。さっき、一蓮托生の伝習隊との付き合い、とかぶっちゃけましたが、早とちりでした。すみません。一蓮托生だったのは幕府歩兵隊、詳しくは歩兵第十一連隊・歩兵第十二連隊のほうです。

佐々木只三郎に率いられた今井ら見廻組は、大目付滝川具知(滝川パパ)の護衛として上京。。滝川具知は大目付で使者・談判が仕事で、軍律の枠外にあったけれも、なぜか鳥羽方面の軍司令官扱いだった。ということで、見廻組は鳥羽方面。一方、伝習大隊は、歩兵第七連隊と共に、滝川パパの居た鳥羽方面ではなく、3日の時点で竹中重固と伏見方面に布陣した。で、それ以降彼らが共闘していたかどうかは、手元のPDFからは良く分かりませんでした。大体、幕軍は所属が詳しくなく「幕兵」の一言で片付けられていることが多い。激戦地橋本あたりで一緒になっていたような気はするけれども。…帰ったらちゃんと見てみよう。

で、鳥羽伏見の最初の砲火は、滝川パパが、強制上洛の最後通告を発したことに対する薩摩砲撃なので、この見廻組が浴びたことになります。見廻組は警察組織なので、その兵装は和装。銃は持っていないので白兵突撃しかないのでしたが、敵砲火を集中的に浴びた幕軍の時間稼ぎが評価されてします…。この時から今井は戦闘中常に銃弾の只中に在り続けることになります。

それで、惨敗を喫して、1月7日、幕軍側は敗残兵として散り散りになるのですが。この時の今井、家伝によると。

「敗け戦の後、ドブの中で二日ほど過ごしたが、取り残されてしまったので官軍の錦布切れを奪って付け、一度は京都のほうに戻って官軍の炊き出しをタラフク食ったりしたことも」

「南へ下る道中、畑の中で馬が一等千両箱を二つ積んだままピョンピョンしているのを見つけた。それでこの馬ごと頂戴して、紀州へ騎りつけてみると、徳川の敗残兵がウヨウヨウロウロしている。そこへ千両箱のおみやげとなった」

……あんた本当に直参か。只では負けない男。敵の旗を奪って敵に成りすまして敵の炊き出しを腹いっぱい食った男。千両箱を(中身が入っていたとは書いてないが)ネコババして敗軍に届けた男。最高だ。惚れそうだ。

なお、この鳥羽伏見の戦いの幕軍側に、善戦して、敵からも評価されている、幕軍歩兵第十二連隊があります。その隊長、窪田鎮章。彼は先の神奈川奉行で、今井の上司、今井夫婦の仲人でもありました。窪田は鳥羽で被弾落馬、瀕死の際に、今井とすれ違っています。で、この敗残の連隊が江戸に戻ってから、集団脱走するのですが、この鎮撫に出かけたのが今井・古屋。そして、連隊の歩兵は、後の衝鋒隊の一部となります。なんとも因縁。

戦いの後、今井も江戸に戻って、しばらく腐ってます。古屋、内田庄司、永井蠖伸斎、天野新太郎、楠山兼三郎など、後の衝鋒隊の面々と、この時から上野でクダを巻いていたらしい。彰義隊からの誘いもあったけれども、意見が合わなかったから合流しなかったとのこと。
今井にとって平穏だったのはこの一月のみでした。

ちなみに、内田庄司は、71人中67人が死傷した凄まじい損耗率の衝鋒隊士官の中で、無傷生存した奇跡の男。戦後は工部省出仕、土木測量、建築専門とするエンジニアに。横浜の街づくりなどに功績があります。内田の次弟量太郎は伝習隊士官として大鳥軍に加わっていて、箱館で戦死。さらに弟万次郎含めて、内田三兄弟の詳しい経歴は、鐘ヶ江さんが記してくださってます。スゴイ。(無断引用ごめんなさいー)

三番町の歩兵第十一・第十二連隊が勝海舟を射殺しかけながら脱走。これをしかけたのは、元火消しの刺青持ちの藤吉。古屋・今井らは、勝の内諾を得て、2月9日に追跡に入る。この暴徒鎮撫のやりかたが面白い。以下の通り。

・脱走した地方を治める真岡代官は強硬な人間で、暴徒の無条件降伏を主張した。この真岡代官から古屋が金千両を借りて、暴徒に現金をちらつかせた。
・今井が幕軍の陣笠を多数取り寄せて、暴徒の頭に被せたところ、叛徒は「制服の魔術」にかかってか、急におとなしくなった
・弁説さわやか、もっぱら説得役の、天野。信州・奥羽諸藩を巻き込んで反薩長同盟をばないかと、暴徒に持ちかけ、言いくるめた。挙句に、自分の出身の忍藩に、暴徒を謹慎させた。
・責任者の処分として、悪質な雑兵を斬首し、それを藤吉に仕立てた。藤吉はその後梶原雄之助を名乗り、その後五稜郭まで衝鋒隊幹部として隊を共にする。

…あんた等ノリノリです。
ほんとに、衝鋒隊の面々も個性的で面白いです。いずれ別途纏めたいと思います。

で、江戸に戻り、改めて勝海舟から上信地方の暴徒鎮圧を命じられ、兵四百+砲四門+軍資金を貰って、3月1日、江戸を出発します。要するに、おまえ等物騒だからとっとと出て行ってくれと、彼らを来る江戸開城の厄介者扱いした勝の意思を受けた形。軍資金は立退き料。この時の兵に、鎮撫した暴徒が加わります。この時、今井の弟省三や、内田の弟万次郎も加わっています。ちなみに、この時まだ、幕府軍という扱いでしかなく、「衝鋒隊」という名が付くのは、ずっと後のことになります。

時間がなくてなかなか一気に纏めきれないので、とりあえずここまで。…全然進まないぞー。


    [2] ひよ 2005/12/06(Tue)-20:43 (No.112)
    今井さん・・・というか、衝鋒隊の面々も濃いんですね。今まで「箱館まで来た隊」という認識くらいしかなかったので、何を聞いても新鮮です。あと滝川パパもそういう動きをしていたんですね。へぇ!
    それにしても圭介を「南京かぼちゃのように小さい」って・・・そんな表現をされる圭介が愛しいです(笑。結局圭介)。
    ところで、2日ほど前にメールをお送りしたのですが、届きましたでしょうか?返信は不要なのですが、届いているかどうかだけちょっと気になったもので。お手すきに時にでもご確認いただけると幸いです。

    [3] 鐘ヶ江蓮 2005/12/07(Wed)-00:04 (No.113)
    今井信郎、堪能させて頂いております。
    入潮さんの鵠を射た描写にうっとりです。衝鋒隊も魅力的だな〜とはずっと思いつつ、手をつかねていたのですが、引きずり込まれそうな勢いです。
    敵の炊き出しをタラフク、は素敵ですよね。
    何度読んでも机に突っ伏してしまいます。今井さんってば!!

    んで、せかっく名前を呼んで頂いたのでちょっとだけ異見を出させて頂きますと、伝習隊の内田量太郎は、『坂本竜馬を斬った男』では内田庄司(荘司とも。こっちが本当っぽい)の次弟とされていますけれども、あの二人は親子のはずです。万次郎も荘司の息子で次男。『梁田戦績史』における万次郎の証言なので、縁浅からぬとはいえ他人の筆よりこちらを優先させていいんじゃないかと、私は思っております。

    では、続きも楽しみにしていますv
    お仕事も、お体お気をつけて頑張って下さいませ。

      [4] 入潮 2005/12/08(Thu)-02:26 (No.114) New!
      ◆ ひよさん

      衝鋒隊はかなりディープです。負けっぷりも勝ちっぷりも激しい。壊滅してもいつの間にか復活している生命力。戦闘の合間には、胸壁の上に胡坐かいて、敵とお互いの給料の状態を、のんきに語り合ったりしてる適当さもいいです。
      今井さんも口さがなくて、好き勝手に人を表現してくれるのが大変ヨイです。カボチャを見るたびに、圭介がたとえられた野菜!と沸いてしまいそうです。馬鹿。

      メイルに関してですが、いつも反応が遅くなっていましてごめんなさい。ありがたく読ませていただきました。感涙。

      ◆ 鐘ヶ江さま

      うわぁん、鐘ヶ江さん、だから、大好き(ひし)。教えてくださって本当に有難うございます。「梁田戦跡史」は は「戊辰戦役史」などでも、原典として頻出していたので、読みたいなぁと思っていたところでした。そこまで已に手を及ばしておられましたとは、その調査の深さ、ご自身のものにしておられる姿勢に、にいつもながら惚れ惚れです。

      内田父は、箱館で会計奉行支配になってたので、衝鋒隊の他の士官と同列に扱えはしないのかもしれませんでした。もともと文官畑の人だったようなので、戦後もあるべき道に戻ったという感じでしょうか。糧食にも軍資金にも欠乏しつづけた北越・会津では、相当苦労されたんだろうなぁ…と。そしてそこで鍛えた腕を、やはり資金難の箱館で発揮、という感じでしょうか。そして、箱館で息子の死に直面して、戦争に対して思うところ大きかったのではなかろうか、とか思うと、しんみりしてしまいます。
      鐘ヶ江さんには今更のことを、恥ずかしげもなく垂れ流すと思いますが、又何かございましたら、ご教示いただけると嬉しいですー。

ラベル:今井信郎 衝鋒隊
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2005年12月09日

今井信郎 その?

ちょっとフライング。言わずにいられなかったもの。

附録「衝鋒隊戦史」。「幕末実戦史」のほうに附録として収録されているものです。講談調で、史料の中では読みやすいほう。約90ページの長きに渡って、衝鋒隊の旗揚げから箱館降伏まで詳細に綴られています。中田氏が編纂したものですが、基本の筆は今井に拠っているらしい。その他、別人の筆の文章や官軍資料らしいのが含まれていたりします。

降伏会談場所が一本木関門になっていたり、土方の役職が箱館奉行になっていたり、おや?と思う筆の滑りも多く、いろんな歴史家の方々を悩ませてきたものらしいのですが。そのせいか、この分量にかかわらず、他の文献で引用されているのは少ない気がする。ただ、戦の記述一つ一つは緻密で、選べばそれなりに参考になる描写も多いのではないかと。

で、それに含まれていた、5月11日箱館決戦の一文。

「大川正二郎は、馬に跨て桔梗野に奮闘せしが、乗馬斃るに及んで徒歩となつて万死の間を往来し、本隊の退却に際しては殿戦甚だ努め、悠々と亀田川へ引上げたる振舞は、実に勇敢機敏にして、鬼神をも欺くばかりなりと、敵も味方も賞賛の辞を惜まざりき」

…大川、カッチョエー。退却も悠々と。
峠下とか二股とか七重浜夜襲とか。今井は色々大川の描写をしてくれてますが、これはひときわオットコマエです。

てか、「鬼神をも欺く」って。
また誰か騙したのですか、大川。←人聞き悪い。
だって大川、しょっちゅう逃げマネとか隠れ狙撃とかかましているし。
多分、今井と大川、感覚が似ているんだろうなぁ…

圭介、大川道のほうに最初はいたようですが(箱館戦、地名にも人名にも「大川」があるのでややこしい…。「大川で大川と大川を守ろうとした」とか出てきそうだ…)。
それから西に東にあちこち走り回っていて、桔梗野にもいた。それで圭介、大川と「共に夜八時頃帰郭せり」とあったので、大川落馬時には大川と一緒にいたのだろうか。
あ、今井、圭介にも結構好意的、同情的な描写をしてくれています。それは追々。

あと、五稜郭降伏直前。

「弾薬は漸く欠乏を告げ、糧食尽きて戦士の饑を凌ぐに足らざれば、夜間窃かに城郭を出て、諸所に官兵の死屍を求め、携ふる所の弾薬を棄て、銃に込め、糧食を掠めて饑を凌ぎ、斃馬を裂て食に供する等、想像以上の困難を嘗めたる」

…そんな烈しいことになっていたんですか。
諸兵の戦気がくじけたのは、糧食尽きたのもあったと。文字通り腹が減っては戦はできぬ。
んでも、夜に抜け出して、敵の死体を漁って携帯糧食を掠めるわ、弾薬盗んで自分の鉄砲に込めるわ、倒れた馬を切って食うわ…

……今井。完全に惚れたよ。
その生き汚さこそが、美しい。


    [2] 入潮 2005/12/10(Sat)-13:16 (No.117) New!
    あ。
    「幕末実戦史」中の「衝鋒隊戦史」ですが。この原本となったらしい今井の自筆による手記が1万5千字なのに比して、中田氏が編纂したこちらは5万字超えとのこと。つまりその差は、中田氏の勝手な筆によるものなのか、「現存せる隊士の言」から聞いた根拠のあることなのか、また別に今井息子の健彦氏から中田氏が得た今井の日誌があってそれを元にしたものなのかは、良く分からない。
    98年再版「南柯紀行」では、解説者の菊池氏は「基礎資料として認める事はできない」と冷たい。
    てことで、上の、大川かっちょえー、今井ほれたー、とかのたまっているものの根拠は、結構あやふやだったりする。
    ただ、他と照らし合わせても、どっちも思いっきり「らしく」て、ありうるなぁ、という感覚はある。だから飛びついてしまったわけですが。

    中田さんは、圭介の諸行無常観が篭った「南柯紀行」という題を、「幕末実戦史」という情緒もそっけもない名前にしてしまった困った人で、しかも、「幕末実戦史」は大鳥家から絶版にしろと言われてしまったものらしい…。

    ただ、特に五稜郭落城時には、今井の原本にない記述が多いのだそうだけれども、「現存の隊士」も落城時はひときわ語ることはあったゆえのことなのではないかと。中田氏も筆で食っているジャーナリストの手前、事実無根なことは書かないと思うし、誤謬が多いのも「歴史家」とは別の姿勢があるゆえのことだと思う。他との整合性をとるのを大事に歴史研究として暖めておくよりも、自分が耳に目にした体験談、筆記物を世に出すことを優先させたからではないかな、と。人の記憶ってあいまいなものだし。

    なので、定量的なことや精度が要求されることはあまり当てにならないかもしれませんが、定性的なことは結構本質をついている記述も多いのではないかと思う。
    少なくとも、大衆迎合タイプの解説本や小説よりはずっと当てになるのではないかと。

    てことで、他資料との整合性が取れるものは、切り捨てるのではなくて「衝鋒隊戦史」出典、という前提で、オイシイのは愛でていきたいと思います。だって「出典があやふや」という理由で全部切り捨てるには、リアリティがありすぎて面白いのが多いのだもの。自分の仕事だったら使わないほうがいいということになるのだろうなぁ、と思うけれども。この辺は、シロートの適当さと得手勝手さ。
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2005年12月10日

菜香亭、日光鬼怒川、堰堤築法新按

いくつかネットダイブしてみました。
グーグル、久しぶりに圭介ワードを入れてみたら、ヒット数が以前の4倍以上になっていた。原因はともあれ、目当てを探しにくくなった。多けりゃいいってもんでもなぁ…。(何様)
オプション検索で「キーワードを含めない」があり、これでスクリーニングできるというのは便利です。

てことで、本日見つけたマイヒッツ。

「山口市菜香亭」
http://www.c-able.ne.jp/~saikou/shisetsu/hengaku.htm

こちらの料亭の大広間に、明治を初めとした著名人の扁額が飾られているとのこと。
木戸孝允、伊藤博文、井上馨、山県有朋、三浦梧楼、杉孫七郎、山田顕義ら、そうそうたる長州の面々のなかに、なぜか圭介がちょこんと居る。いや、圭介(の扁額)はどこにでも居るのですが。

この大広間が5000円弱とかいうので借りられるということ。か、貸切OKなんですか。畳に寝転がってジタバタゴロゴロしながら愛でてもOKなんですか。…たぶんケイタリングが主で、部屋だけ借りるというのは余りない気がするのですが。

……山口か。マイレージ、今年で切れるのがあるんだよな…。K江さんにもお会いしたい…。


「日光連山山歩き」掲示板
http://bbs.avi.jp/52648/

日光地方の山歩きを愛好される方々の掲示板。ここにちょっとだけ圭介関連の投稿が。圭介ルートを「稲荷川を渡り律院の前を通り、鳴沢の西の丘道を霧降滝西側に出た。滝の西方、七、八百mから滝の上の沢に降り、ダラダラ山坂道を大山に登る。山肌を縫うようにして登り、約1kmで大笹の高原に達する。」としてから、圭介の南柯紀行を取りあげてくださっています。「感動的な文章」と言ってくださっている…。
確かにいろんな意味で、圭介の文章は感動します。笑え、泣け、何でこんな人がへたれ扱いを受けているのか不条理さに咽べる…。


「鬼怒川/川治・湯の里だより」
http://prw.kyodo.co.jp/prwfile/release/M000486/200511303157/press/nl2.html

栃木県藤原町の鬼怒川・川治温泉観光協会が発行しているニュースレター。
ここに、「 第3回みんなでクリスマス」という、本日12月10日(土)のウエスタン村のイベントが紹介されています。

「戊辰戦争時に兵火から日光を救った板垣退助や大鳥圭介らに感謝して、『よさこい踊り』の披露など、多彩な出し物が登場します」

け、圭介。板垣と一緒に感謝されてるの…。
圭介、日光を救った、って言ってもらっているの。…弾薬が無くなって持久戦できないし、怪我人多いし、徳川上司から迷惑者扱いされたから、仕方なく、むべなく、やるせなく、出て行った圭介。とうとう、感謝される日が来たようですよ。よさこい踊りで感謝。あぁ、私も踊りたい。気が狂うまで。

…これ、ちゃんと踊ってくださった方いるのでしょうか。だれも居なかった、なんてそんな悲しいことにはなってないでしょうか。そんな風に心配になってしまう失礼なわたくし。


さて、話は変わって、堰堤築法新按の原書をネット上で紹介して下さっているページがありました。

“Construction of Mill Dams”で、1871年にアメリカ・オハイオ州スプリングフィールドのジェームズ・レッフェル社(James Leffel and Co.)から初版が刊行されたもの。圭介は翻訳文中で同社の所在地をマサチューセッツ州スプリングフィールドと記しているけれども、これは明らかに誤記とのこと。

原典。そうだよな。会社名と発行年と、キーワードが大体分かっているから、それで検索かければ、普通見つかるよな。なんで思いつかなかったんだろう。去年ボストンやハーバードくんだりまで出かけて行ってるのに…。あの時はライマンにしか興味が無かった。くー、なんか先を越された気分だ。

米国議会図書館にあるのは、1874年とある。これだと、明治7年。圭介が手に取るのに間に合うのか。

それにしても、議会図書館、前頁検索機能提供しているのか…。やりすぎ。って、今はもう普通なのか。

日本には、京都工芸繊維大学にあるらしい。こちらは1881年版。良く売れて再版を繰り返したのだろうか。その購入者の一人が圭介なのだな。

あと、1972年にも再版されているようだ。こちらはネットで買えた。45$だったので、思わずオーダーしてしまった…。本当に来るのか。圭介原本。あぁあ、楽しみ…。

えっと、何でこんなにコーフンしているのかというと、築城典刑はじめとした圭介の訳本の、原典に相当する本って、まだ見たことがなかったのです。オランダ語は読めないし。圭介の、英文翻訳のやり方を知りたいと、ずっと思っていたもので。
さらに、挿絵も、圭介が何を参考にして描いたのか、コピーも無い時代、どう原典からひっぱったのか、やり方が気になっていたのです。

あー、早く来ないかなー。ワクワク。


……えっと。行動が示すとおり、帰ってきております。
以上は、来週末締め切りの報告書あと60ページを書きたくないがための、現実逃避行為でもあります。
ああ、ヤサグレの日々が始まる。
でもいいの。今この瞬間は、幸せ…。

ラベル:大鳥圭介
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2005年12月11日

七重浜夜襲

七重浜夜襲。箱館決戦直前の、窮鼠猫を噛む的な夜襲。3回ほど行われたというのを漠然と掴んでいただけで、よく理解していませんでした。

それで、10/14の「児玉大将伝」に、圭介が夜襲、同士討ちを仕掛けた、とのたまってしまっていますが。
これについて、大川方面と七重浜の夜襲は二方面で行われ、敵の同士討ちが行われたのは衝鋒隊が攻めた大川方面で、大鳥が居た七重浜ではない、との旨、「タカエフ」のあろあさんにご指摘いただきました。助かります。どうもありがとうございます〜!
「麦叢録」に「大鳥、暗に乗じ敵陣に打入」とかあるから、てっきり圭介直下指揮かと思いこんで、やってしまいました。…ちゃんと前後確認していないで書くから、間違う。いつも申し訳ないです…。
又何かあったら、教えて正してやってくださると大変ありがたいです〜。

てか、七重浜戦。いい機会だから、今まであやふやだったところを整理してみよう。
とりあえず手元にある南柯紀行から。

● 圭介「南柯紀行」
(1) 5月6日 七重浜村、大鳥、彰義隊、新選組、伝数対。百姓が篝火炊いて赤々。

(2) 5月8日 春日隊、遊撃隊。七里浜を野州、放火して帰営。「兼て放火することは甚だ悪き趣を申置きたれども、之を用いず哀れむべきことなり」

(3) 5月11日 榎本、大鳥、伝習隊、彰義隊:本道。衝鋒隊、見国隊、松岡隊:山手。赤川に帰陣。味方、見国隊・彰義隊に死者多し。地形が隠蔽されていたことによる。

● 今井「蝦夷錦」
(1) 5月2日6時、大鳥、本多、彰義隊、遊撃隊、新選組、伝習隊、七重浜→有川。火を放って帰る。5月4日、朝、海軍戦う。

(2) 5月6日夜、風雪に乗じ、大鳥、伝習隊、陸軍隊、遊撃隊200人を率いて七重浜に襲撃。火を放って殺傷甚だ多し。
この日、古屋佐久左衛門・衝鋒隊・額兵隊と大川襲撃。敵備え惰り、番兵が昏睡。敵、同士討ち。帰路は猛火風雪。

(3) 5月8日、榎本、大鳥、古屋、本多、今井、大川、衝鋒隊、彰義隊、一聯隊、見国隊、砲兵、工兵800名、七重村進撃。
大鳥、令を発し3隊に。衝鋒隊は右翼、山。伝習隊は左翼、広野、その他は正面、見国隊先鋒。
伝習隊、雲霞のごとき敵の側方より撃ち掛かる。一手は山上より坂落しに降り来たり衝鋒隊と戦う。(衝鋒隊と伝習隊は15〜6丁隔たる)「終に勝ち難きを知り、大川正二郎、令を伝え、かつ戦いかつ退き、所々に留って戦う七、八度」。
衝鋒隊は山によって草の中から狙撃しつつ、亀田の方へ退き、伝習隊を援護し、敵を赤川の塁に誘う。

● 今井「北国戦争概略衝鋒隊之記」
(2) 5月8日、風雨、衝鋒隊、額兵隊、大川村の敵営を焼く。闇夜、敵兵同士討ち。伝習・彰義隊は七重浜を襲って官営を焼く。

(3) 5月9日朝6時、見国隊、伝習隊、衝鋒隊、彰義隊、額兵隊、500人余。大川村で戦う。本道破れて伝習隊が殿。南軍が勝ちに乗じて進むが、三方から包囲。

● 小杉「麦叢録」
(1) 5月3日、夜8時、大鳥小隊を率い大塚先進、暗に乗じ敵陣に打入、敵狼狽散々に敗走。

(2) 5月5日夜、古屋、星、200人余を率い、風雪に乗じて、敵大川村の陣を夜襲。敵、備えを怠り、宿陣して安臥。自軍は暗号を用いて四方に散じ、敵同士打ちを為すこと2時間。

(3) 5月8日暁、榎本、大鳥、敵本営の七重村へ進む。


……3人が3人とも、日付違うし。というか、今井本人も自分の著作二つで、違ってるし。
明らかに日付を間違っているのは圭介です。11日は箱館決戦、というのは間違いないだろうので。
…しょうがないよ圭介。連日夜戦、徹夜続きで、日付感覚もなくなっていただろうし…。木古内からこっち、戦闘はありの、会議はありの、100km以上を連日馬で往復しーので。体力の限界で、挙句押入れで前後不覚、と。
野戦参加者は皆、寝不足と疲労でよく覚えてないのだろう。とすると小杉のが一番信憑性がある…

少なくとも、第1回目の夜襲は5月2日か3日、第2回目が5日か6日、第3回目が5月8日、と考えて間違いなさそうな感じです。

あれ?圭介夜襲で、5/2または3日の第1回目夜襲では、敵陣で赤々と篝火。一方小杉の言では、「(大鳥の隊が)暗に乗じ敵陣に打入、敵狼狽散々に敗走」。児玉の夜襲・同士討ちの記録は5月2日。時期的にはやはりこの第1回目夜襲なのか?
一方衝鋒隊の仕掛けた同士討ちは5/5または6日。描写的にはこれが児玉伝の夜襲に相当するのだが……やっぱりまた、わからなくなってきた…。うー。

それにしても、圭介が第2回夜襲で、放火しちゃいかんというのに火をつけられてしまったのを嘆いている一方、今井はこれについて「火を放って殺傷甚だ多し」と褒め(?)ている当たり。二人の性格の差がよく出ている気がします。

こんな感じで、1日の差がえらい誤解になったりしてしまうので、怖くて何も出来ませんな…
いや、間違えた方が教えてもらえて、コミュニケーションいただけて、しかも勉強になるから、今後も間違えは恐れずに、ばしばし行こう。(そして開き直る)

[2] 入潮 2005/12/11(Sun)-23:19 (No.120)
もいっちょ、付け加え。

● 石川忠恕「説夢録」
(1) 5月3日、彰義隊・新撰組・遊撃隊、七重浜夜襲。勝て敵を走らせ四斤砲弾薬を奪ひ七十余人を虜にす。
(5月7日、斉藤順三郎内通、台場の数砲の火門に釘を打ち込む。斬首。)

(2) 5月8日、兵200、大川村の敵陣を襲う。敵大に狼狽、暗夜彼我を弁ぜず同士討すること二時間余。同夜、七重浜を襲う。敵の死傷者数十人、火を村落に放って帰る。

(3) 9日払暁、七重村敵本営を襲撃。赤川村より、右手の山と左の下道桔梗野に別れる。神山に退く。見国隊二関源治死亡。(二関は11日死亡?)

● 丸毛恒「北州新話」
(1)、5月2日夜、大鳥、本多、新撰組(森)、彰義隊(菅沼・大塚・丸毛)先鋒、伝習歩兵隊(大川)、遊撃隊第二陣で七重浜。首を斬ること八級。敵狼狽壊走、有川に火を放って、夜明け前に帰る。

(2) 6日風雨に乗じて、大鳥、本多、伝習歩兵隊(大川)、陸軍隊(春日)、遊撃隊(沢)等200人、七重浜夜襲。このとき榎本、自ら酒樽を開いて一杯を兵に与えて軍を送る。敵敗走。我兵火を放つ。また、古屋、星が200人を率いて大雨のなか大川村に夜襲。敵、怠って寝ているところ夜襲、我兵は暗号を使って狙撃、敵同士打ち2時間。味方一人も損せず。

(3) 8日未明、七重浜の敵巣窟を付く。榎本、大鳥、本多、古屋、彰義隊、伝習歩兵隊(大川)、見国隊、砲兵(関広)、衝鋒隊、一聯隊(松岡)、等800名。吉田次郎・丸毛従う。敵は夜襲を覚っていた。死者80名余。一聯隊、衝鋒隊は上山に退いて守る。衝鋒隊は亀田の壁を守る。この頃から兵の遁走生じる。

他の3人と、また日付違うし…。


どっちにしても、大鳥、本多、大川は皆勤賞。てか、圭介、休めよ。他の二人が休めないだろう。今井は一回目は居なかったようで。
(一方、土方は何で一回も出てないんだろう…。)

そいやこの七重浜の戦闘のとき(いつかは不明)、人見寧が、胴巻の白い羽二重を裂いて、辞世の七言絶句と姓名を記して、それを指揮旗として奮闘。落馬して負傷したとき、旗を亡くした。
この旗を拾っていたのが、長州品川弥二郎。その後、明治9年、人見さんが勧業寮7等出仕のとき、7年間ドイツに居てから帰ってきた品川さんに会う。このとき品川さん、「君に千金を持って譲る物あり、君かならず購はざるを得ず」、君、買わざるを得ないものだよー、といって、人見さんを晩飯に招いた。そして「われ戦線にあって、君馬と共に倒れたるを見て、既に戦死したるものと思ひ、この遺物を君の親かまたは縁故ある人に記念のために贈与せん考えなりし」と、人見さんに渡した。
人見さん「感謝するに言葉無かりし、同氏は長州人には希なる高義の士にて祟むべき人物」と感激。
この旗、人見家に保存したらしいですが。その七言絶句、なんて書いてあったのだろう。
てことで、やじさん、おちゃめ〜。いいですねぇ、こういうの。

どうでもいいけど、このエピソード、「七」が良く出てきますな…
あと、9年だと圭介もこのとき、勧業寮に出仕していたから、もしかしてその時人見さんと同僚だったの?それで、やじさんに「大鳥は自分で仕事する人にて、局長には不向き」とか言われてたの…。

……で、人見さん、品川さんに金は払ったんでしょうか。
美しい話に対して、即物的な事が気になるワタクシ。

あと、美談のなかでちゃっかり長州の悪口を言っているあたりが、人見さんかも、とか思ったり。
さらに、人見さん、苗字が珍しいから良く覚えられるけれども、もし人見さんの名前が「鈴木次郎」とかで、全国に何万人いるんだ?ってものだったら(全国の鈴木次郎さんゴメンナサイ)、果たしてこの美談は成立したのだろうか、とか、思ってみたり。
素直に感動しない奴。


    [3] 鐘ヶ江蓮 2005/12/12(Mon)-01:14 (No.121)
    お帰りなさいませーvv
    ご無事でお帰りうれしいです。
    帰ったら帰ったで大変そうですが、どうぞお風邪など召されませんように。

    人見の辞世の七絶というと、これ↓ではないでしょうか。『人見寧履歴』だったか、前夜の宴で読んだと見かけた覚えがあるのですが、今日はWikipediaから拾ってきました。
    幾万官兵海陸来
    孤軍場戦骸成堆
    百籌運尽至今日
    好成五稜郭下苦
    ……最後の「苦」は「苔」の間違いじゃないかと思うのですが。
    品川は本当に千金とってたら高義でも何でもないですよね! 阿漕にも程がある。人見が厭味もこめて書いてたらそれはそれで素敵ですが。

    そして菜香亭。行かれる際は是非お声がけ下さい。もう是非(しつこい)

      [4] 入潮 2005/12/13(Tue)-02:45 (No.124)
      鐘ヶ江さん、すすすみません。いつもありがとうございますー!何度でも言います。もう大好き。
      人見寧履歴書。「之より先、我七重浜へ出戦に望み」と日付を特定せずあったので、七重浜夜襲で頭が一杯だった自分は、そのまま夜襲のときと勘違いしてしまっていました。辞世の句を読むにはまだ早いよなー、人見さん、とか外したことを思っていたのですが。
      決戦前夜の「武蔵野楼において決別の大宴会を催し…長嘯放歌の実に壮快たり」で読まれた詩だと考えたほうが自然ですよね…。11日の決戦、七重浜方向もありましたし。何よりその方が、話的に素敵だ。
      そしてその七言絶句、思いっきり注釈に載っておりました。最後は仰るとおり「苔」のほうが意味が通じますね。苔になる。良い生き方だ…。私も何かの養分となりたい。人見さんがかなり好きになりました。

      これだけ切ない詩を拾ったら、そりゃ、捨て置けませんわ、やじさん…。そして売る(違)。

      菜香亭。どうせなら忘年会をそこで。 …とか企画したら、参加してくださる方はどのぐらいいるだろう…。
      さすが山口市です。素敵な施設を持っている。扁額だけでも見に、おしかけたいと思いますー。その際は、どどうかお付合いを…!
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2005年12月16日

12月

うー、肩がこり過ぎて頭が痛い。
明日はバリウム飲むってのに。その後で報告書提出と説明。
なんか、バリウム飲んだら下剤も一緒に飲まされるらしい。その下剤がまた強力で、トイレからしばらく離れられなくなるらしい。
…客先で、ハラぐるぐるさせながら、徹夜明けで説明か…。ツライな。あー。

相変らずこんな奴ですみません。しばらく帰宅してません。家に帰ってもそのまま残業徹夜とかやってますので、まったく体力が回復しません。むしろ忘年会シーズンで終電混みまくりで、よけいに疲れる。酔っ払いがな。隣から芳しいニオイが漂ってきたり。最高。
てか、帰国してから洗濯していない。もう下着が切れた。手前も泥酔野郎のことは言えない汚い存在だ。あー。

1週間ちょっとで200ページある英文報告書をまとめるスケジュールなぞ誰が組んだんだよ。自分の配分50ページぐらい。自分の原稿を書くのはそんなに苦にならないのですが。責任者という名の奴隷なので、他人の文章も全て校正して報告書内で整合性を取って手直しせねばならない。これが苦痛だ…。

手前の仕事だけしていればいいってのは、楽でいいよな。自分の過失、能力不足ならいくらでも痛めつけてくれてかまわない、むしろ本望だけれども。他人の仕事にケチを付けなければならないというのが何より苦痛だ。それなので何人もの仕事を取りまとめて統合して形付けねばならんというのは、いつもながら大変疲れる。世の人間が出世して管理職になりたがる理由がまったく分からない。

街中はクリスマスソング。デコレーションはジングルベル。
アタイは仏教徒だ。葬式のときと12月だけ。
去年は孤独を分かち合いながら一緒にK-1の筋肉を見てくれたマイベストフレンドも、今年はできちゃった結婚で幸せの只中。あー。

働く女性がカッコいいなど誰の幻想だ。ステイタスを持って誇れるほどに余力があるのは、緒方貞子氏ら一部の職場環境に恵まれたスーパーウーマンだけだ。大部分は都合よく使われ、若さばかりが失われていき、病み衰え、そのうち切り捨てられ、手元にはなにも残らない。なまじプライドが高かったりするからその未来にもなかなか気づかない。これほど見苦しい存在は無い。

明日までにあと10ページ書いて50ページ校正……
手前の健康気にしてバリウム飲んでいる場合じゃない。成果、成果を…。あー。

そんな感じでやさぐれピーク中。机に貼り付けた出家欲ゲージはいい具合に上昇中。
週があけたら少しは楽になるはずですので、メイルなど、も、もう少々お時間ください…


てか、世間様に物申したいことが増えてきた。いや単に圭介関連ですが。それを行なえる状況でないというのが、いちばん精神衛生上悪い。…そのうち友達総喪失覚悟でヤリます。フハハ。


    [2] ままこっち URL 2005/12/19(Mon)-00:59 (No.126)
    入潮さんはじめまして。はじめて書き込みます。
    いつも拝見しています。お仕事大変なのに、ケースケこと大鳥圭介への傾倒ぶりと、史実記事のUP、感服しています。
    私はまだ鳥歴半年程度と入門レベルですが、入潮さんの記事を参考にいろいろな本を読んだり探したりしています。大変助かります。
    私もハードワークな会社で働いていますが、さすがに徹夜はないです・・・代休取れず2週間連続出勤、等はたまにありますが。あまり無理されず、体調には気をつけてください。ホントに消耗する一方ですから・・・

      [3] 入潮 2005/12/20(Tue)-01:44 (No.127)
      はじめまして。タカエフ様より拝見させていただいておりました。このような辺境荒野へのお越し、ありがとうございます。いつかご挨拶させていただきたいと思っておりましたところに、そ、そしてこのようなポストへのレス、かたじけないです。
      土方ファンの方に大鳥を正面から見ていただけるのが何よりも嬉しいことですので、ままこっちさんの存在を大変心強く頼もしく、僭越ながら感じさせていただいております。自分のようなものがはしっこでブツクサ呟いていても大した効果はないですが、ままこっちさんのように影響力のある方に取り上げていただけると話は違うと、画面に拍手喝采しておりました。
      ケースケというと、なんだかアイドルとかマスコットのようですね。照れる…(何故)
      そしてお優しいお言葉、染み入ります…。ままこっちさんのプロフィールを拝見するだに、責任の大きい大変なお仕事をされながら、ご家庭と両立されていらっしゃるようで。自分ひとりの面倒も見かねているのが恥ずかしくなります。その上でお好きなことに精をだされていらっしゃるままこっちさんを拝見すると、このままではいかんとエネルギーをいただきます。ありがとうございましたー(敬礼)!
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2005年12月20日

断食希望

報告書提出終了。
また厳しかった。徹夜が何回あったか、数える気にもならん。また老けた。皺が増えた。この年になると直ぐに体に現れる。体温調節も相変らずおかしいし。抜け毛も酷い。髪の毛の量がだいぶ減った。すいた髪型が流行していてよかった。

原因は分かりきっていて、徹夜と人間関係。1日3時間でも寝られると、まだ体調を保てるのだけれども。寝ないと疲労が精神にも来る。人の非効率さや及ばなさが許せなくなるし、許せない自分の至らなさがイヤになる。

「はたらきマン」で「何でこんなにちぎれるまで働いているんだろう…」みたいなシーンのがあったけれども、それが毎日続いている感じだ…。立ち読みでごめんなさい。

てことで、断食修行を行おうか思案中。
もはや息抜きでは到底間に合わない。毒抜きしたい。
いろんな毒を溜めてます。まぁ、生きてたらしょうがないんですけど。
生きることは汚染されることだ。汚れるというのは強くなるためには必要なことだけれども、行き過ぎて毒になると心身が痛む。そろそろ解毒したい。

それで、断食ですが、最近いろんなのが流行っていて、1泊2日で出来るプチ断食、というのがあるそうな。
体質改善とかは、相当な気概と苦労と時間と持続がなければできんとは思うけれども。
1日断食とかでもそれなりに効果はでるらしい。空腹で血糖値足りなくて頭を朦朧とさせながら、脂肪やら腸壁から、溜め込んだ老廃物をそぎ落とす。

いいなぁ、断食。なんかとってもいい響きだ。こう、自分を虐めて高次の存在に持っていくという作用が好きだ。イスラムの断食は、昼間はそれを理由にだらけて効率悪いし、夜はひたすらくっちゃべりながら食っているから、むしろ仕事の邪魔になる堕落的なイメージがあるのだけれども。仏教的な断食苦行はいいなぁと思う、マゾヒスティックなアタシ。

家庭でも出来る断食。
http://plaza.rakuten.co.jp/ysato/diary/

でも、温泉のある断食宿での断食がいいよなぁ。疲れている同類が一杯いそうだ。
ていうかここのサイトマスター氏、人生ものすごく楽しんでそうだ…。
人を癒すことが仕事なんて、そんな良い職業あるだろうか。
人を痛めることが、一番自分が痛むもんなぁ…

問題は2日、仕事の空きがとれるかどうかだ。今年、北海道で遊んでいたのを除くと、仕事しなかった日は、5日あるかないか。週休二日とか、9時-18時勤務とか、贅沢は言わないから、せめて、電車の中では仕事じゃなくて本を読んで、日が変わる頃には帰宅できて、自宅残業はなしで風呂入って洗濯して、ネット回ってメイル書いて掲示板ポストして、3時ごろには就寝できる、多少人間らしい生活をしたいところ…。

まぁ自分に仕事を集めるのが悪いわけで。できんものはできん、と開き直って、疲れないように自分のコンディションを保つのも仕事の内。
結局自分の自律心が足りんというだけなわけです。自分のコントロールが出来なくてイヤになるというのは、仕事に対して失礼だ。

とりあえず出すもの出したから、健やかになります。
そして、更に溜め込んでいるものを出すのだー。

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2005年12月21日

「心苦雑記」と今市 その2

ちょっとずつポストしようと思ったけれど、書いてしまったので一気に行きます。
また迷惑を顧みない長さになってしまった。読んでくださる方、ごめんなさい。下のポストからごらんになってください…

えっと、続き。矢野原さんの「歩兵総督大島恵助軍議因循之事と存ずる、随分名高き人と思ひ外の人なり。(此人内心敵方に通じ居たる由、差図役始め緒隊大不服なり)」ですが。

仰っているのは、「軍議因循之事」つまり、大鳥の軍議の内容が凌霜隊や他隊にとって好ましくなかったわけで、大鳥の戦術がまずかったとか戦で臆病だったとかが言われているわけではないようだ。

まず、矢野原さんは大鳥と直接の接点はなく、せいぜい遠くから見ているだけだろう、というのがある。伝習隊と凌霜隊は距離感があるし。
「戦場は業よりも肝の大いなるが肝要第一也、平日業に達たりとも胆の小たるものは用に立たず」と、技より肝が肝心、とおっしゃる矢野さん。実際の戦場での大鳥をみていたら、印象も変わっていたのではないかと思います。なんせ圭介の胆は有名。司令官自ら弾丸の雨に曝されること数知れず。弾痕の穴のあいた陣羽織は語り継がれている。

この「軍議」ですが、いつ行なわれたものなのかは、直接は不明。これを見るために、今市戦の一連の流れを追ってみます

● まず、閏4月19日の栗原・棚倉戦。前日に貫義隊の斥候が土佐の待ち構えに遭う。その翌日土佐・彦根兵5小隊が今市を発して栗原・棚倉へ進撃。大鳥軍は、会津の田中隊につけた和銃装備の猟師隊を駆使して、官軍を頭上から奇襲。同時に川向こうから大砲で攻撃。大鳥軍側は一部渡河するが、官軍の援軍・砲隊が到着、猛烈な射撃にあって、進入は断念。一方大川は「敵大桑村より襲来り、我軍を討たんとす…敵周章不利して遁逃す。追撃て大桑に至る、分捕許多有之」と快勝具合を記す(奥州南口記)。死傷者は両者同程度。板垣は七分の負け、と認めている。大鳥は酒を配って労を讃える。

● 次。閏4月21日の今市第1次戦。
大鳥は、小佐越で緒隊長と軍議。会津、貫義隊、御料兵らと、今市攻撃に。
山川についた貫義隊と、沼間・滝川隊で、挟撃して同時攻撃するはずだったのだけれども、山川隊が先に到着して後方の沼間らが着かないまま先に攻撃してしまい、貫義隊が敗走。タイミングを逸して、同時攻撃できず、敵から沼間らも各個撃破を受ける形となった。官軍、北村砲隊、予備隊の土佐一番、十二番隊増援が次々到着し、沼間らは増援を要請するも、大鳥の手勢に動かせる隊が無かったので、沼間らは不本意に撤退。一方で、日光方面の警戒にいった大川の二小隊が、あぶれて遊軍となってしまっていた。

これで、よほど沼間に怒られたのか、大鳥は主力攻撃方面が三小隊しかいなかったことについて、兵力分割の反省を素直に記している。なのだけれど、これは単に、山川隊・沼間隊の連携が取れずタイミングが合わなかったのが悪かったんじゃないかと。(ちなみに木古内では同じ戦術を用いて成功させている) あと、山川君は貫義隊については「用ゆるに足らず」と文句を言っていた。圭介は小佐越にいて出陣していない。
なお、この時、板垣は不在でした。賊軍撃退はしたものの、出足をくじかれた形になった。今市の防御陣地を堅固にする。

● 5月1日、藤原本営で今市奪取のための軍議。そのまま日光口戦闘。大谷川大氾濫、橋が流され渡る手段がない。一端狭隘な藤原から出て、出撃のために南側の小百まで進軍した。高百村まで出た浅田が霧に隠れて大砲を持って狙撃、吉沢鎌五郎は洪水で溢れる大谷川の浅瀬を渡河して敵陣突入、占領。併し、このとき日光から敵200の増援到着。浅田は攻撃をやめて敵の営舎を焼き、砲を壊して去っていった。デストロイヤー浅田。

この後、今市の板垣はさらに胸壁を固め各方面に保塁を作りまくり、敵襲に備えてさらに要塞化。土佐側、「我兵既に鞋を履かざる五昼夜、士卒悉く病み、幾らも戦ふ能ざらんとす」という状況に陥って「防御力尽き兵士皆泥土に仆れれて眠るに到る、一度軍を退くに若かざる也」と、慣れぬ土地、冷気立ち込める大雨の気候に、南国土佐の兵は苦しんで、皆病気になり、泥の中に倒れて眠る。軍を引くしかない、というところまで追い詰められていた。(明治27年「戊辰戦史」 川崎三郎)
けれども官軍は、土佐本国から新たに2小隊・砲兵分隊の増援が江戸に到着、ただちに今市に派遣、6日到着するという報を得る。連日雨天。

●5月6日、再度軍議。大鳥軍、再び今市を攻撃する、今市第2次戦。
大鳥圭介が総軍を束ねて総力戦に。会津の田中、原ら青龍隊が城取隊。大川・滝川が先頭に立って土佐保塁まで肉薄。午前中は善戦したが、午後にって日光から彦根隊が到着。板垣は兵を迂回させて大鳥軍を包囲。大鳥は直接側面から攻撃を受けて、手勢14人を持って戦い、3人倒すが、大鳥の傍にいた二人が戦死、林間へ入ってかろうじて離脱。味方が来たと思って頼ったら、これが敵で愕然、直接狙撃しまくられる中を、12kmほど逃げまわった、という一幕も。疲労困憊。大鳥、「此等の苦難は我家に居て暖衣飽食する徒の察し及ぶ所にあらず」との名言を吐く。

最終的に今市第2次戦で土佐側は勝利し、大鳥軍は死者20名余、戦傷約百という損害。8小隊編成の伝習第二大隊を4小隊編成にまで縮小しなければならなくなった。それで大鳥軍は今市攻略をあきらめ、藤原に引っ込むことになる。


…という感じの今市戦なのですが。
上野彰義隊が平定されて、官軍は後方が自由になり、今市戦に対して、持久戦に持ち込んだ。平野内での補給だから十分に行き届いている。彦根兵の増強もあり、今市は時間を追うにつれどんどん堅牢になっていく。これに対して、会津は多方面に防備を抱え、大鳥側は、持久すればするほど補給に困難があり、人的補給もできない。後になるほど不利になる。

これらを考え合わせると、くだんの矢野原さんの大鳥評、「敵方に通居たる」「軍議因循」というのは、第2次今市戦の前の軍議ではないかと。沼間が怒って大鳥が兵力分割を反省した第1次今市戦かとも思ったのですが、矢野原さんが言及している会津の原氏、田中氏ら城取隊がでたのが、第2次今市戦でしたし。
それで、「因循」「敵方に通居たる」というのは、これら要塞化した今市の情報を事前に察知し、自らの兵力を推し量り、攻撃には消極的になった大鳥の姿勢を指すのではないか、と。地元民は協力的で、敵さんの情報も刻々もたらされていたわけだし。

「あと一歩。敵は疲れておる、今こそ攻め時だ」
「いや、現在、敵には今市南方方面からの増援が来るという情報がある。しかも胸壁を固め今市の陣地を強化してる。今、大谷川を越えて再び平野部に出ても、勝算は乏しいし、今市を獲るのは難しい」
「何を因循、臆病な!」

…ってな感じだったのではなかろうか。
で、大鳥はオレについて来い!タイプではなくて、自分の意思を押し通さない、衆議に従う民主主義者だし、会津に食わせてもらっている客将で立場弱いし。
大鳥は今市第2次戦に消極的だったけれども、いわば下請けコンサルタントみたいなもんで。現実的な案は述べるけれども客先の会津の意向には逆らえないから、しぶしぶ出撃を承諾したのではないか。で、要塞化している今市に入り込み過ぎないように、軍の手綱を引っ張っていたんではないだろうか。

それで、兵の被害を減じるために前線まで出て、大鳥が直接敵から雨霰と弾丸討ちかけられ、ひたすら逃げ惑う、という羽目にまで陥った…。そんな前線の只中に司令官が来るなよー。もとい。

大鳥が、負けを覚悟で出る、というのは一度や二度ではない。むしろ大鳥の戦の特徴として、「こりゃ駄目だ」とあらかじめ自分が思う負け戦ほど、自分が前線に出て、殿まで踏ん張っている、という傾向がある。そして最後には直接弾丸を撃ちかけられている…。宇都宮攻防、母成、木古内、そして箱館決戦などがこのパターンです。この今市第2次戦も、同様だったのではないかと。

ただ、母成や木古内のように、事前に「ムリだ」と予測している表記は、南柯紀行には見られませんでした。これはむしろ、「暖衣飽食の輩の察すところにあらず」を強調させて本文のメリハリをつけたいがために、わざと事前の敗北予測を省いたのではないかと思える…。この辺、大鳥の憎たらしいところ。

つまり、軍備や兵力・地形の分析や情報収集で、事前に負けることが分かっているから、その被害を少しでも少なくするために、大鳥が自分で前に出てくる。勝てると思う戦なら自分が出る必要はない。負け戦でムリして勝つ気もない。勝ちに拘って被害を大きくするのはイヤだ、と。

それで、逸る会津の田中らを大鳥が抑えようとしていた。とすると、矢野原さんの仰るこの軍議の「因循」が、むしろ大鳥の現実的な戦術眼を証明しているのではないかと思うわけです。机上の戦略家どころではなく。
…まぁ、結果論といえばそうなんですけれどもねー。

で、この時の大鳥に対する山川大蔵の評。既出ですが。

「山川曰く、『敗北のときは、英剛のものは、死を急ぎ、柔軟なるものは、度を失ふが常なり。われ大鳥を見て、さまでの人とも思わざりしが、戦敗るるも、平気にて、山川君、また負けたりと打ち笑ひ、徐に後事を議す。余、此人あるによりて、戦やぶれて、いつも士気を快復することを得たり』と。」(明治44年「古今史談」大町桂月)

大鳥、負けて笑っている。そして、おもむろに、次をどうすべきかと、議論を始める。
これもまた、大鳥が今市第2次攻撃の失敗を予期していたことを裏付けるのではないでしょうか。勝つと思って意気揚々に攻めてたら、負けたら普通、落ち込むでしょうし。圭介、負けても何も感じない図太い人では決してない。「さすがに敗戦の苦は実に実に辛い物と思つた。殊に敗戦の苦は、命令の行われない事である。士気は沮喪すると同時に、大将の指揮が悪かった為、恁う敗戦したのだと思ふにつけて、大将の命令を聞かなくなる。」と、後年、本心を吐露しています。(明治42年「死生の境」) 負けを覚悟の上、という心構えがないと、なかなか笑えるものではない。

そして、大鳥のほうが今市攻めを辞めて藤原の天険に篭ったので、土佐は白河へ転戦します。「土州兵の俄然方向を転じたるは、野州より会津に至る間道嶮悪に加ふるに、東軍屈強にして、容易に会津城下に侵入するを得ざるを慮りたるに由ると云ふ」と、土佐は藤原の地形、守る隊の強さから、藤原からの会津進入をあきらめます。(会津戊辰戦史)

ここにやってきたのが、官軍の奥の手、恐怖のアームストロング砲を引っさげた技能者集団、佐賀藩。
守りに入ると強い大鳥に悩まされた板垣は、この佐賀藩に、今市の戦「甚だ進むに利あらず」と説く。「君、宜しく固く守りて持て白河口の官軍鞭を掲ぐるの日を待ち、之と共にするべし。いやしくも然らずして徒に軽率躍進せしが、即ち、卒に敵の術中に陥り、悔て他日に敗さん」(藤原に進軍せず)堅く守って、白河が陥ちるのを待って、これを連携するべきだ。そうでなく軽率に(藤原に)進軍すると、たちまち敵の術中にはまって、敗北するだろう、と忠告した。(板垣君伝)
それで、佐賀藩はこれを守らず藤原に進撃、大鳥は得意のゲリラ戦で、地形と地元猟師隊を最大限に利用して、藤原を守り抜くわけです。

…あ、余談ですが、矢野原さん。五十里・藤原の状況を「五十里の川歩行渡り、此冷水にて一統大難儀、また此辺霜降余程寒し、故に銘々、足こごえて困り入る」「此辺山多く悪敷所、食物不自由」と、圭介への文句の直前に、藤原という場所についても不満たらたらだった。ひょっとしたら単なる拠点場所、食糧難への不平の余波だったのかもしれない。
藤原での食糧事情には圭介も難儀していた。食い物の恨みは大きい。


…そういうわけで、この辺、見れば見るほど、連戦連敗とか、戦は苦手、とかいう大鳥評に、相当違和感が大きくなります。人の評価というのは、資料を照らし合わせ、またその評価が行なわれた資料の特性や条件を推し量り、原典の著者が対象者をどのぐらい知っているかという点まで考慮して為されてほしいなーと思うのですが。…よほど思い入れがないとそこまで出来ない、脇役にそこまでやってられるか、というのが実情でしょうか。皆、ご自分のヒーローを讃えるのに忙しい、と。(それはワタシも同じ)

どうも、大衆向け評論やら、国民放送の時代考証やらで飯を食っている方々には、そういった考察もせずにストーリー作りに都合のいい極端な表現ばかり抜き出して、物語を分かりやすく組み立てて商売道具にしているフシがあって、短絡的な方がいるように思います。
或いは、他の表記を知っていて故意に無視しているのか。だとするとそれは歴史云々以上に、モラルの問題だろう。
時代を精一杯生ききった先人を、仮にも公に、貶めてイメージ付けようというのだから、慎重になってほしいと思うのは間違ってるでしょうか。

…うぃす。単なる大鳥びいきの日和見です。大きく出てしまってごめんなさい。

話は「心苦雑記」から大分外れてしまいましたが。そんな感じで、言いたいこと言って、すっきり爽快。
勿論、これが正しい見方だ!なんてことを主張するわけではなくて、単に、適当に漁った結果、自分はこう思いますー、というだけなのですけれども。
自分、最初、こういう弁護がやりたくてサイトを開いたんだと、今になって初心に帰りました。

なのに、どうも当たる史料で大鳥の評判がそんなに悪くないというか、むしろ、ええ!?というぐらい良いのが多かったから、そっちにばかり走ってしまってた、というのが現状。
だって、やっぱり、貶されるよりほめられてるほうが、ファンとしては嬉しいじゃないですかー。
で、夫々当時の資料を紐解いてみると、ほめられているほうが実は圧倒的に多くて、貶されるにしても情状酌量の余地ありあり、というのが大鳥なのだと思います。

そういうわけで、どんな大鳥評でも、持ってきてください。ワタクシ、力及ぶ限り、弁護を行わせていただきます。

……どうも近頃、気が大きくなってますよ、この人。

(だってひよさんがサイト閉じるって仰るんだもん。半身を失う気分。ここで踏ん張らなくってどうするんですか。うっうっ…)


    [2] 葛生 2005/12/21(Wed)-09:19 (No.131)
    > 大鳥の戦の特徴として、「こりゃ駄目だ」とあらかじめ自分が思う負け戦ほど、自分が前線に出て、殿まで踏ん張っている、という傾向がある。

    お?…おおっ?! そ、そういえば…。――と、目から鱗でした。いえ、そう言いきるほど圭介の戦ぶりってちゃんとチェック入れてないですけども。(汗)
    もっと言ってーもっと言ってー!という感じです。(笑) ひよさんの件は私も偉大なる道標を失う気がしてよろめいてますので、入潮さんには是非とも踏ん張っていただきたいと…!いや、踏ん張っていただかねば!
    すごく面倒ですし難しいけれど、仰るとおり史資料には時代背景がありますから、時代考証というのは本当はそこまで踏み込まなきゃならないんですよね。プロにこそその姿勢は欲しいのですが、実際にはそういう真剣な方はどうやら学術世界にのみ棲息なさっておいでのようで。
    某公共放送に危機感を募らせているのは私だけではないとお見受けし心強くなりましたことです。多謝。

      [3] 入潮 2005/12/21(Wed)-23:33 (No.132)
      戦闘チェック。推移とか、実際に戦闘にいた人とか、その行動とか、勝敗とか、死傷者とか。一つ一つ行なってみると。あれ?勝ってるじゃないか、とか、何で圭介こんなとこにいるのよー!とか、いろんな発見があり、楽しいです。なお、南柯紀行のみはいけません。あれは、勝っているはずなのに恰も負けているかのような印象を与える表記がありますので…。色々クロスチェックは必要です。

      時代考証とかいう偉そうな名前のついた作業をしても、一般人受けしないのですよなぁ。状況を整理し一つ一つ記述を照らし合わせて、具体的定量的に分析する地道な作業を、他人が端から追っても、何も面白くない。一般人は派手なドラマが好き。定性的抽象的なことが簡潔明瞭に述べられていればよい。そしてカッコイイ人とカッコ悪いのが居れば、ストーリーはオッケー。それが大部分のニーズ。で、そういうのを対象に書き物の数を売って儲けなければいけない人たちは、そのニーズにこたえなければならない。そのあたり、ビジネスベースではしょうがないのだろうと思います。

      ただ、特定個人・団体の金儲けのために、好きな人物が不当に貶められ虚像が広められるのを、静かに微笑んで眺めていられるほど、アタクシ人間できていません。ハハハ。
      …もっと穏やかに生きたいものです。

      自分は自分の見た眼で圭介語りをして、時々「違うわい」とお叱りを受けるのみ、ということで。

      いい仕事をされている方々はたくさんいらっしゃるのですけれども、そういう方々はメディアではあまりお目にかかれないようで。事実を知りたいと思ったら、見るものは新聞や雑誌やテレビではない、というのは、どの分野でも同じですかね…。まして娯楽作品は、分かりやすく楽しいものにするための、相当な他人の恣意の入ったものになるのが普通。娯楽で事実は掴めないというのは、寂しいですが、事実だと思います。

      問題意識を感じてくださる葛生さんにこそ、救われる思いがしますー。
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「心苦雑記」と今市

今井さんと衝鋒隊とか、北海道旅行記とか、死生の境とか、圭介建言とか意見書とか、いろいろ手をつけてほったらかしにしているのがあるのですが。
ひとまずまた、こちらに寄り道。

「心苦雑記」。郡上藩脱走藩士からなる凌霜隊、矢野原与七による戊辰戦争記録。
北関東、総野から始まり、宇都宮、前橋、藤原、塩原、大内、横川を転戦、会津若松城に入城して篭城、会津の開城と共に官軍に降伏するまでの、隊士の記録です。伝習隊とは、野州と宇都宮、藤原で行程が重なっています。

その名の示すとおり、戦中における苦難と辛さを、つらつらと綴った記録。著者は六石取りという微禄の祐筆だったので、飾り気もなく、率直で素直とに、具体的に、戦中の出来事、感じたことを認めて下さっています。溢れるまでのリアリティ。記録という以上に、戦争文学と呼んでもいいかもしれない。

もちろん記録としても詳細。一隊士だったので包括的に戦略や趨勢を眺めている視点はないですが、それだけ一士卒が地に足を着け泥沼の中であがきながら、戦闘、流離い、篭城、降伏をを経た現実味ある記録として、読み応えがあります。

戊辰戦争期で39歳、降伏後は禁固、裁判所の書記として勤めてから、62歳で退官。禁固時に記録していた草稿を仕上げるのに余生を費やした。そんな文人人生だけあって、記録の中身は情緒情感たっぷり。完成度も希に見る高さだと思います。

「心苦雑記」名前の指し示すとおり、ひたすらに辛い。一つ一つの記述がもはや恨みつらみの域にまで及んでいる。たまに酒を飲んだり温泉に入ったりして慰められているけれども、辛い。
圭介の記録も辛いけれども、文中に、ひっきりなしに、白いインクで小さく「(笑)」と入っているので (ありますよね?)、どこか突き放して笑える辛さです。だって本人が自分をネタにして書きながら内心笑っているのが見えるんだもの。けれども、矢野さんの分は、本当に辛いんだ、もうイヤだ、というのが溢れていて、読んでいて辛い。喘いでしまう。

彼自身は幸いほとんど無傷だったのですが、大砲で手首を打たれてササラのようになって、鉄砲で自害した人とか、五臓を打ち抜かれて血反吐を吐いて味方に脇腹を切って弾を出してもらいながら死亡した人とか、8月23日の戦いから一ヶ月放置されていた死骸20体とかが、具体的に事細かに描写されていて…、もう、読むのが辛い辛い…。

でもそのなかに、人間しぶとく悲しく強いなぁ、というのが伺えるエピソードがところどころあって、泣かせます。
行く所行く所地形は厳しい、川越えは冷水で大難儀、本陣は水不足で近所の生大根を食べて渇きを癒したとか。筵をかぶって土間で寝起きして乞食の体、太平の世のありがたさを知ったとか。
逃げながら敵に捕まって、何者と尋ねられ「人足」と答え、そのまま敵の荷物の運送をしながら逃げたとか。
篭城中は煙草が無くて困って、火縄を煙草として用いてしのいだ。そして雪隠が詰まって糞にも困った、これには道端屯所のあちこちに溢れて足の踏み場も無かった、この臭いが夥しくて、手負いでいきなりくると2,3日は食事ができないという情けない有様だった、兵糧の黒飯がイヤだったから隊ごと会津の日向隊の傘下に変えてくれと陳情した…とか、そんな感じがいろんな箇所に。人間味が溢れています。

あと、敵の探索と思しき者が4人、僧侶農民の格好をしてやってきた。脱走歩兵で、白河の戦闘で負けて逃げてきたという。不審だったのでこの4人、宿の裏で首をはねた。誠に無残。味方でも確かな証拠がないとこういうことになる、と自分に弁解しつつ、翌朝骸を見てみると、一人に彫り物がしてあった。
……刺青ってことは、伝習隊兵士じゃないかー。白河攻めに参加していた伝習第一大隊の兵士だな。
「朝、予見物して落涙す」
板垣にも「自分の侍の命がこいつ等と引き換えとは割に合わない」とか言われていた伝習歩兵。矢野原さん、泣いてくれてありがとう…

そんな矢野原さん。なぜか、六方沢越えについてはほとんど触れていない。これだけ苦難筆の達者な人なら、さぞ悲惨に描写してくれようものを。餓鬼道行軍には参加しなかったのかしら。「草風隊、貫義隊は日光六ほふ越え、栗原より田島え引き上げ」とあるだけでした。その筆であの惨状を余す事無く書き綴って欲しかった。残念。

そんな矢野原さんですが、上に対しては不満ぶちまけ。槍玉はまず自分の上司の小山田氏。塩原を焼き払ったことに対しては「如何之地を焼き払ふは余り臆したる事也、且つ諸民の難渋いわんかたなし、小山田氏、黒河内の失策ならんと、御領分ならまだしも其とても難渋す。まして他領にて諸民の恨み如何ばかりならん」と。また、大内峠の敗戦で、「大内峠破れしは、是へ人数配らざる総督の小山田氏の不策也、此人跡を構わず真先に進みたるゆへ…跡の押勢にも構わず先に進むは勇のよふに見ゆれ共、不策也」と不満ひっきりなし。
…小山田氏、よく存じ上げませんで、こういう表記ばかり抜き出すのも申し訳ないですが。プロレタリアート的な視点のある矢野原さんからの表記だから、上の階級にあるものとして批判を受けるのも責務、ということで許してください。

城下の戦いで共闘した会津別伝習隊である諏訪隊に対しても、深手の味方を助けなかったことを「此地引退く時、其儘捨てごろしにす、諏訪隊も数多居ながら誠に臆したること、浮世に恥ずべき事共也」と、大変手厳しい。
諏訪隊は、箱館、木古内の勇気は伝えられているんですけれどもなー。この当たりも見る人、状況によって、評価も異なる、ということで。

それで、この方の圭介評。今市戦にて。

「貫義隊之長林房之助は英勇にて敵を討事数多なれ共、何分破ること能わず、会之田中、原、城討取隊も格別骨折り打ち破らんとすれども是又破れず、是といふも、歩兵総督大島恵助軍議因循之事と存ずる、随分名高き人と思ひ外の人なり。(此人内心敵方に通じ居たる由、差図役始め緒隊大不服なり)」

貫義隊の林房之助や会津の田中氏、原氏も、敵を打ち破ろうと骨折ったのに、打ち破ることができなかった。これというのも、大鳥が軍議で因循だったせいだと思う。随分名高い人なのに思いの外の人だ。この人、内心、敵方に通じているのではないかと、差図役をはじめ、緒隊は非常に不服だった、ということ。

来た来たー、という感じです。

でも、外の人も散々にこき下ろされているのが連なっていたせいか、通して読むと、史料内ではあまりインパクトがない。大鳥も苦難ぶちまけの標的にされたなぁという感じ。

ただ、評論などでこの表現だけ抜き出されたら、読者に与える印象は強いです。敵に通じている、って、おいおいー!とか、大鳥に対して諸隊長が大いに不服だった、やっぱり!とか。

こういうのには喜んで飛びつかれるのか、これが結構いろんなところで引用されていて、これをもって大鳥が「机上の戦略家」呼ばわりされていることがあります。
ということで弁護してみます。

(実はこの表現、昔、会津篭城者の話ということで、会津戊辰戦史内の評と勝手に勘違いしてしまっていて、会津への苦手意識が強かった…。
んでも、会津戊辰戦史からしょっちゅう引用される「大鳥は当時名のある兵学者なりしも、実戦は勿論機動演習の経験すらも無ければ、万事手抜かり多かりき。就中、弾薬の準備甚だ手薄かりしかば、用兵自由ならざりしは、彼にとり如何ばかりか心外なりしならん」は、単に大鳥が南柯紀行で記した謙遜と失敗談をそのまま引用して、焼きなおしただけだった。なお、「機動演習の経験すらもない」というのは筆の滑りかなー。横浜で散々やっているはずなので。あと「大鳥は脱走軍の総督なれども、我が藩兵に対して命令権あらざれば、南口の東軍は不統一の感ありき。山川が陣将として南口に出陣するや、?外の任を受け、我が藩兵を統率し、又我藩士の脱走軍にある江上太郎、内田衛守、牧原文吾の輩、動もすれば大鳥を凌ぐの言動あり。因りて改めて大鳥を推して総督とし、山川は副総督として大鳥を佐く。これに於て我が南口の軍容整然たり」があるのですが。これも恣意的に使えば十分貶め材料になるでしょうけれども。武張った屈強の会津藩士が、成り上がり学者の大鳥の下に付くのを是としないのはむべなるかな、だし、また大鳥も会津に食わせてもらわないといけないから遠慮する。仕方ないだろう、という気がする。(衝鋒隊の悪口雑言を見れば、大鳥がいかにおとなしいことか…) それにどちらかというとこの文、大鳥を、助けてあげなきゃ、という感じで同情的にきこえる。一方で自分ところの藩士を「輩」呼ばわりしているし…。北原雅長にしても山川にしても、大鳥と直接付き合った会津藩士は、結構大鳥に同情的、好意的になっていると思う。そして会津戊辰戦史といい七年史といい、この辺野州や母成の会津記録の結構な部分が、南柯紀行がベースにされている気がする…。す、すいません会津に喧嘩売っているわけでは決してないですごめんなさいごめんなさい…)

あ、引用文ですが、勝手に漢字は常用漢字に変えたり、句読点を付加したり、片仮名→平仮名の変更をしたりしてます。許してください…
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2005年12月25日

弁護用史料

いえー。図書館ハシゴをしてきました。東京都横断検索、便利便利。
朝からのまず食わずでひたすらコピーをとっていたので、最後はふらふら。コピー代に6000円ぐらい使った。馬鹿。でも満足。
今回は主に、「維新日誌」と「維新日乗纂輯」、あと新選組関連でございました。

獲得物は以下の通り。
自分の頭にもろくに入れていないのに、資料名だけ並べてもしょうがないのですが。それは追々語っていくということで。いつもそればっかりです。ハイ。

● 明治戊辰局外中立顛末 (日本史籍教會編)

松平太郎さんの書簡がいくつか。薩摩屋敷焼き討ちのときも事後処理していたのね。松平さん、武闘派というよりは、デスクワークに卓越しているイメージがあります。

● 薩摩藩出軍戦状 (日本史籍教會編)

戊辰戦争中の、薩摩のコレポン文書集。各隊ごとに、参加した戦闘が記されていて、隊ごとにまとめられている。宇都宮や木古内など、敵側がどのように賊軍を見ていたのか、よくわかります。薩摩だから、文章が男臭いです。そして敵ヨイショ度は、他藩の5割り増しな感じです。

● 苟生日記 杉浦清介 (維新日誌収録)

御徒目付から砲兵差差図役勤方、横浜大田村のフランス伝習の際に、シャノワン、ブリュネ、フォルタンらに数学、測量、築城、指導、運用などを習っている。箱館では外国掛の事務方だった方の日記。

天気と人間の記述が詳しい。悪口雑言限りなし。多感な43歳。通して読めば、当時の悪口のレパートリーが大分学べる。「凶険自恣」「窃二毒を以テ当テ」「追従軽薄」「愚頑」「自大傲慢」「不遜?喝」「真ニツマラヌ人」「無状笑フベシ」「荒唐可笑」…。榎本艦隊と脱走してからは「箱館戦争史料集」に収録されているのですが、脱走前の前半部のほうが悪口が冴えている。「悪ムベシ」と「愛スベシ」。好き嫌いのメリハリがとっても激しい。松平太郎、米田桂次郎、勝安房、戸田肥後守、松岡四郎次郎、安藤太郎、土方年蔵、荒井郁之助。…見たことある名前の方々、ことごとく毒筆の嵐に曝されて行く。だんだん「荒は荒唐」とか、名前すら1文字で省略されていく。でもだいたい、この人の好き嫌いに根拠はあまりないみたいです。一方で人見さんとか伊庭さんとか本山さんとか、遊撃隊の面々は愛されている模様。
福地源一郎とも話していて、どんな舌戦になるかとおもいきや。「傍ラ閑話、話頭頗ル慷慨悦フベシ」…気が合っているようでよかった。

圭介はどういう罵りを受けているのかと思いきや。脱走時。
「大鳥圭介等會行之云々話、此間頗ル快ナルヲ覚フ」
とあるのみ。すこぶる快い。そ、それでいいの? 箱館ではなぜか出てこない。接点は多くてもおかしくないのに。触れられないと、却って怖い。

● 谷口四郎兵衛日記 (幕末史研究 No.27)

伝習第一大隊所属者の日記。宮氏の動向が意外に詳しかったり、浅田君の切腹未遂が含まれていたり。
今まで手を出していなかったのが、勿体無かった…。秋月登之助と伝習第一大隊、土方らの動向を知るには詳しくて良いかと思います。
手書き原稿用紙の写しがそのまま収録されていたので、びっくりした。大鳥と大島(寅雄)がややこしい。

あと、ひぃぃな日光・六方越記その1。日光でのお食事と、その後残された傷兵の悲劇。先ほどご紹介させていただきました亜樹様が、すでに余すところなく記してくださっていますが。直接目にするとやっぱり辛い。

文章のつながりが不明瞭で読みにくいところもあるけれども、「心苦雑記」に劣らぬリアリティがあります。素で書いているから、痛い…

仙台で、伝習隊の人が、大鳥の下はもうイヤだー、ということで新選組に入った、ということの根拠がこの史料かと思って、確かめたかったのですが。…どうも単に、新選組が死傷多く、山口次郎の一党が会津に残留したので、隊としての編成をしなおした、というだけのように見受けられるような気がしないでもないのですが…

(P78-79「廿日松島二着陣第一ヲ以第二大鳥圭介エ合兵ス、又松山唐津臣三藩土方二属新撰組ト成。是ハ已に隊伍果てントスルニ拠テ新規隊伍ヲ建本新撰組ハ将軍山敗軍ノ後死多ク、山口次郎始十四人残塩川二、大鳥圭介逢合ノトキ共二仙台行ヲ論スル二…今落城セントスルを見テ志ヲ捨テ去、誠義二アラスト」、P.80「是二(新撰組の)隊伍絶タリ拠テ土方仙台二テ同士絶へ残ルヲ属シテ是二又隊伍ヲ起ス。第一大■隊士官隊外シ、集整シテ土方附属士官ト成、専練列規則ヲ調」)。

単に、新選組に死傷者多く、会津に留まるが出て土方の下がいなくなった、それで第一大隊の士官を外して土方のところへ編成した、と読めるのですが。
もっと確たる部分があるのでしたら、素で見落としているので、教えてください…。

なお、第一大隊は秋月の下にあり、大鳥ら第二大隊とは宇都宮で一度合流したぐらいで、藤原の再編以降も大鳥とはずっと別行動。第一大隊の兵士が、直接大鳥の下で戦ったことは、あまりない。

あと、どうもなんか、土方が圭介をほめているところがあるような気がしないでもないのですが、気のせいでしょうか…

7月23日ごろ、土方が戦線復帰、伝習第一大隊が須賀川に官軍が駐屯している報を受けたとき。
P.58「土方曰、今吾陣前近ク敵アリ、襲時防戦スルトキハ勝利ニシテ三分ヲ損ス、早ク不計■害ナリ、今敵看スル幸二シ襲ウテ三分ノ利有、尤多軍二易ナシ、分隊以来大鳥初陣利ヲ呼(?)テ諮ス、尤初戦二軍(?)大利タレハ、賞スヘキト」

漢字の読解に自信がありません。島と鳥、名前間違いか思ったけど、やっぱり「島」じゃなくて「鳥」に見えるんだよなー…

敵軍が目前にある。襲われて防戦するのは三分を損することだけれども、襲うほうには三分の利がある。今の敵の報を先に得られたのは幸いだ。大鳥は初戦以来利を呼ぶよう謀っている、その後も利を得ているのは賞賛するべき事だ。……と、読める気がするのですが。

コレハナンデスカ。防戦するのは難しいものだけれど、謀って防戦している大鳥はエライ、というユニアンスに聞こえない気もしない感じなのですが。私の目、とうとうおかしくなったのでしょうか…。


● 幕末史研究 No.35 土方歳三特集

えっと、冊子じたいは、土方ファンの方には大変実入りがあるのではないかと。
目次に、箱館の写真の特集がありまして。箱館メンバーの写真を取った写真師、田本建造という方の紹介がされていました。追悼新聞に、凍傷で足を切断するも、露西亜領事ゴスケウィッチから写真機を譲り受け、これを娯楽としたのだそうで。自分絵ガラスの破片を研磨したり、複鏡を製作したり、工夫を注いだ。それで、榎本軍が箱館を占領したときに、「榎本大鳥以下脱走書士の来たりて撮影を求むる者、門前常に市をなすの盛況を呈す」という有様。
それで、箱館戦争写真集に掲載されている写真の数々が取られたわけですが。
圭介の箱館時代の写真、見当たらないよなぁ、と。圭介、田本さんのところに押しかけていったはいいけれど、自分の写真を撮ってもらうのを忘れて、田本さんの写真機の工夫に見入っていたのだろうか。
…と思っていたら、注釈に、「奠都五十年史」という本に、「箱館戦争五稜郭の戦」と題した陸軍奉行大鳥圭介が大砲に肘をかけた集合記念写真がある」とのこと。なにぃ!…蘭ちゃんが「祖父圭介の自伝」に乗せていた、大砲と圭介の写真じゃないよなー。あれは慶応年間となっていたし。圭介の箱館時代の写真。あるのか…


● 野奥戦争日記 (維新日誌収録)

ひぃぃな日光記その2。アレな描写を、違う資料で重ねて再び見てしまうと、さらに立体的できつい。スプラッタはOKだけどカリバニズムは苦手なのよー…。

えっと、イケイケムードの漂う、脱走軍兵士の日記。著者不明とのことですが「小川町屯所脱走致シ」から始まっていて、待ち合わせ場所から母成敗走まで、圭介とほとんど同じルートで綴っているので、小川町伝習隊の兵士ではないかと。
松平太郎さん、日光のほかにも、小佐越に衣服・食料を届けるのを周旋してくれてたんですね。この時もってきてくれたのは横地秀次郎ですが、その背後にいたらしい。
あと、浅田君が藤原の戦で、歩兵頭並に昇進していた。

「大鳥圭介行方不明ノ事」と見出しをつけて、将軍山へ出兵した伝習第二大隊、敗戦の際。
「大鳥圭介其他役々十一人、今以不帰、去レハ敵方へ生捕二成モ難計、役々兵士二至迄、是ニハ大二力ヲ落シ候、戦者一人無之、米沢海道へ落行」

圭介他11人、行方不明。敵に生け捕られたかもしれないがそれも分からず。士官も兵士も力を落とし着きってしまった。この状態で戦が出来る者は一人もおらず、米沢道へ落ち伸びた…。
圭介、部下に兵士に、愛されているじゃないか…! 「他11人」のせいだ、なんて言わないで…。
それで、生きていたことが分かり「夢の心地せり」とか部下に言われて、互いに手を握って男泣きする。
…大鳥が部下に信頼されていないなどとのたまった研究家はダレデスカ。

それにしても、圭介が生け捕られたかもしれないとの心配。薩摩や土佐に圭介が生け捕られ…。ブツブツ。

● 伊地知正治日記 (維新日誌収録)

板橋宿から宇都宮、今市、白河などの薩摩の行軍記録。官軍側の被害や援軍の様子がよく分かるので、旧幕・会津側の資料と比較対象には良いかも。
「賊、猖獗」が何度出てくるんだろう。そんな疫病扱いしてくれなくても…。鳥インフルエンザ。
面白みやネタはないけれども、記録としてよくまとまっています。クレバーな文章で読みやすい。

● 慶應兵謀秘録 源恵親 (維新日誌収録)

歩兵第七連隊米田桂次郎附属、大砲護衛の方の記録。復古記によく引用されている。これも読みやすい。歩兵第七連隊は伝習第二大隊と行軍を共にしていることが多いので、外部記録として参考になる。
壬生藩士で降伏してきて、壬生を攻めるなら今、と言ってきた友平新三郎。その父友平栄が、「大鳥氏と西洋術之学友」とか述べているあたり、伝習隊・大鳥とも近かったようで。(友平栄は圭介と江川塾で同僚)
「伝習第二大隊参謀森三之丞者戦死に拠て、伝習歩兵心くじけ」と、柿沢の死に消沈したのは圭介だけではなかった。

ほか、六方越の描写が細かいのが嬉しい。「懸る山中にも目を喜ばしむる地も有り、仙境遥台に入るかと怪しまれける」と、疲労の局地でヤシオツツジをみて 桃源郷だぁ、と感動したのは圭介だけではない。
今市の戦いも詳しい。藤原の戦いを共にした後は、須賀川方面で戦い、山川大蔵と篭城、後降伏。
周辺状況も把握しながら詳細に記して下さっているので、あとからじっくり読み込んでいきたい資料です。

● 近世事情 山田俊蔵、大角豊治郎 (維新日誌収録、発発刊は明治6〜9年)

「圭介善ク兵ヲ用ヒ、操縦自在臂ノ指ヲ使フガ如ク、部下精鋭、沸人二就テ伝習スルモノ多ケレバ、向フ所官軍ヲ窘ム、官軍或ハ圭介ヲ稱シ、隠然一敵国トナス」

圭介は用兵を善くし、その操縦の自在なことったら、肘が指ヲ使うがごとくだ。部下は精鋭、フランス人について伝習を受けた者が多いので向かうところ官軍を苦しめる。官軍は圭介を称え、表には現さないがはっきりと、彼自身を一敵国のように見ている。
……のだそうだ。相変らず敵に絶賛な圭介。宇都宮攻めのときの描写だから、何かの間違いなんですかねー…

● 太政官日誌 (維新日誌収録)

こちらは、太政官の本体は、大きくてスカスカなのですけれども、維新日誌のほうはギュウギュウに詰まっていて一気に探しやすいから、ついでにコピー、というだけ。

● 小野権之丞日記 (維新日乗纂輯)

会津藩士で上野戦争後に東北に脱走、箱館へ。杉浦清介と同様に事務方の人。滝川っちにの挙動に目を尖らせて、我々に滝川のモテぶりを教えてくださった人。
結構すごい量がある。全部目を通すのには時間がかかりそう。

● 酒井孫八郎日記 (維新日乗纂輯)

桑名藩家老。松平定敬が箱館に脱した際、同地に密行して藩主を諌めた。後、桑名藩大参事。
自分のところの藩士の処遇の関係か、時々、土方のところに出入りしていた。

● 聞きがき新選組 新人物往来社

郷土評と関連史料。「史料」として上げられているのを、新選組関連ではよく目にしますが。
大鳥無能説や小説がどこを根拠にしているのか、根っこがわかった気がします。(安藤太郎証言とか、板垣評とか、心苦雑記の不満とか、沼間怒りとか、確かに他にもあるけれども、それらはこれに比べると二次的で、全部弁護と情状酌量の余地はある)

「箱館戦争実記」。
木古内・二股撤退後、七重浜の夜襲の前。敵は疲労かなにかで沈黙中。五稜郭の会議。榎本さんが夜襲をしかけようと持ちかける。土方の宮古湾の肉弾攻撃は実に痛快だった。今度は大鳥さんの腕をみたい。そう榎本に畳み掛けられた大鳥。「はッ、はあ、拙者にですか、ははあ」 と大鳥、しり込み風。土方はこれに冷笑して「いや大鳥さん、あんたはいつも鉄砲玉に目鼻があるかないかを考えておられるようだ。アハ…、まず大鳥さん、鉄砲玉はすなわち向こう見ずの親玉ですぞ」と皮肉を言う。そしていつでもこの土方歳三が代理しますと快活そのものに言い放つ。榎本は土方に戦闘の第二段を放ってもらうと決める。

…パラ見してここに当たった時点で、萎えつつ爆笑するという器用な体験をさせていただきました。

土方は宮古湾では、ほとんど動いてない。指揮の声を飛ばしていただけで、土方自身は回天上にいた。肉弾攻撃ってなんでしょうか。

それから七重浜。3回連夜の夜襲について、大鳥、今井、丸毛、小杉、石川忠恕、玉置弥五左衛門、荒井宣行、どの人間の言・記録を見ても、土方が参加したというのは1回も見当たらない。一方、先頭きって3回ともに泥沼化したゲリラ戦を指揮していたのは大鳥(と本多・大川・今井ら)だ。それからずっと昼夜兼行で戦いどうしで、最後降伏談義の瞬間は疲労のために押入れの中で前後不覚。

郷土ファンタジーとは素晴らしい。こんな捏造で、地元の英雄を飾り立てることに、躊躇いが無い。そうやって貶められた人にも、郷土があるんですが、その辺には、その豊かな想像力は働かないらしい。
……とか思ったら、ちゃんと、冒頭に「史話の中篇から題材を採って、物語ものを試作しました」とあるではないですか…。ヤラレタよ。お茶目さん。

それで「実記」なんてたいそうな日本語を持ってきていていただいているために、これが「史実」として見られて、小説や評論のソースになっている現状か。…しょっぱいなぁ。

あ。圭介、鉄砲に目鼻があるように、鉄砲と会話していてもおかしくないと思います。新しい機構の銃とかあったら、よろこんで弄繰り回して解体していそう。


● 会津戊辰戦争史料集

「会津藩大砲隊戊辰戦記」: 江戸でフランス陸軍式訓練を受け、日光口、白河、御霊櫃峠を戦い、開場後も南会津で戦い続けた、臼井大砲隊隊員、藤沢正啓の記録。宇都宮、日光口で大鳥にとっての外部記録。

「辰之日記草稿」:会津藩士、兵糧調達担当の渡辺多門成光の従軍日記。秋月登之助について伝習第一大隊。秋月スキーっぽい。大鳥隊に対しては、「将軍山へ着陣し、昨日の戦体を問ふに、数剋奮戦するといえども終に裏切られ、仙兵早く挽取、大鳥の兵卒中に包まれ、兼て鍛錬の手立を以て戦ふと雖も、飽くまで苦戦」とか「大鳥隊は昨日の戦疲且手負いも多かりければ、何れも小勢にて多くの口々至極に手薄残念と云うも余あり」と、母成の敗北に責のある大鳥らに対して同情的でした。
兵糧方が何を考えていてどんな手続きを踏んでいたのか分かり、参考になります。


● 日本近代史辞典 東西経済新報社

これは特に目当てというわけではなかったのですが。工部省、工部大学校、学習院 、官業事業、内国勧業博覧会など、圭介関連事項が、分かりやすく事典としてまとまっていたので。あと、巻末の統計資料は後々重宝しそう。明治初期からの歳入、支出、人口、教育、死亡者数など。あの混乱期によくまとめられたものだ。明治初期の日本のセンサスのほうが、今のブータンとかミャンマーとかよりずっと整っていた気がする。


……そんな感じで。
別に、大鳥ヨイショ資料を探したわけではありません。その逆で、「弁護しなきゃ!」というネタがありそうなのを探しにいったわけです。だってこのレパートリーみて下さい。大鳥が攻撃受けてそうな事を期待しているのが瞭然ではないですか。…結果はいい具合に裏切られました。…一つは弁護以前の問題でしたが。

そして、整理していたら、ついつい読み込んでしまって、結局徹夜してしまった…
これがアタシのクリスマスイブの過ごし方。手にしたいとずっと思っていた資料に囲まれて、とっても幸せ。

…幸せなんだってば。本人がそう思っているんだから。そういうことにしておいてください。
私が出家してなりたいのは教会シスターじゃない。テラバータ仏教の尼なんだ。

……いえばいうほど墓穴を掘っている気がしてきたので、おとなしく寝ます。
仕事は午後から行こう…。

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2005年12月27日

慶応か箱館か

えーと。
箱館大鳥。居てもたっても居られなくて、昼休みに、歯医者が重なっていたのを良いことに、タクシー飛ばして、国会図書館に行ってきました。職場から1メーター、地下鉄一駅な国会図書館。でも普段はなんであんなに遠い…。

見てきました。「奠都五十年史」。マイクロフィッシュでした。
最初「利用中」となっていたから、誰じゃ一体ィィ!と奇声を放っていたら、20分後何事もなかったかのように出てきました。単に画像が破損していて、修復用に別の場所に保管してあったらしい。

で。箱館圭介。

……やっぱり、蘭ちゃん写真じゃないかー。
えっと、日本医事新報に掲載されていた、蘭三郎氏の「祖父圭介の自伝について」の写真で、「慶応年間撮影」とあるものです。

「奠都五十年史」のほうには、解説に、「明治元年十月廿五日、榎本武揚等の拠りしころにて。二年五月十八日蹈る。 上は五稜郭にて。下は右より大鳥圭助、篠原太郎、安達敬三郎なり」と。撮影の日付まで特定して、はっきりくっきり堂々と自信満々に書いてますな…。圭介らの五稜郭入城は、10月26日らしいですが。

隣と比べても相当ちっこい童顔のが、大砲にもたれていて、「どっから紛れ込んだ小僧」って感じのやつ。ウィキペディアにあります。月代、和服、髭は無し。…これが箱館、40男だったら、かなり問題だぞ…。

この一緒に写っている人たちが、箱館降伏人記録か何かに記載されていたら、箱館の写真だという可能性も上がるのですが。今のところは見当たらない。

写真の画質が、他の箱館人を撮った田本さんのものとは違う気がするし(なんとなくだし、保存状態によっても異なるのでなんともいえませんが)、圭介の年、様子からいっても、この写真は差図役あたりで横浜の太田村陣屋か、せいぜい小川町の様相なんじゃないかと思えるのですが。

伝習隊、ほとんど髷はなかったとのことですから(「陸軍歴史」)、圭介が箱館まで髷を残しているのも、まず、考えにくい。どちらかというと率先して嬉々として髷ぶちきってそうな感じですし。

ただ、発刊時期を考えると、蘭ちゃんの「祖父圭介〜」は昭和14年。一方こちらの「奠都五十年史」は大正6年刊。
…いったい、この写真が撮られたのは、慶応か箱館か。どっちが本当なんだ…。(たぶん前者)

それから、横浜太田村陣屋の調練の団体写真がありまして、伝習兵の軍服ずらり。良かったです。仏式ではなくて、窪田泉太郎の英国式のものですけど。

あと、江藤さんが白皙の青年面しているのがあって、びびった。いまいち、写真なのか肖像画なのか区別が付かなかったのですが。

あと、「日清韓戦争記 : 明治偉功」というのに、圭介肖像があるとあったので、見てきました。牧金之助編。明治27年。
当時の絵本でした。圭介、白髭爺じゃなくて、壮年男盛りの体育会系みたいな感じでした。なんか、肉がぷりぷりしていた


それから、夜、後輩に引きずられて、新宿のスポーツセンターに行ってきました。
泳いで、サウナで汗を絞り流して。1 km泳いだらもうフラフラ。
ほんとに体力衰えてしまった。昔は2km休みなしで、のんべんだらりとひたすら泳いでいたのに。…過ぎた過去を偲ぶのは、見苦しい。
調子に乗ってバタフライで漕いでたら、腕が上がらなくなってしまった。いかに筋肉が衰退しているかということですな…
でも、宿痾と化していた肩こりが、大分楽になった。

なんだか、最近、人間らしい生活をしています、この人。

ラベル:大鳥圭介
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2005年12月31日

史談会速記録 林董の箱館降伏談

「史談会速記録」。いろんな文献で引用されていたのですが、まだ触れておらずそのままになっていたので、拾って参りました。そうしたら、明治中期〜大正まで、40数冊あって、びっくりした。
大体、新選組関係の一部の評が、ここぞとばかりにいろんなところで、数箇所の数行抜き出されているのが目に付いていたので、ちょっと及び腰だった…

でも、やっぱり、何で今まで見逃していたんだァ、と身をよじるほど、おいしいのが含まれていましたです。なん厖大な量がありますし、口語だから読みやすいし。
そういうわけで、自分も、大鳥圭介・伝習隊関係で一部のみ抜き出すといたします。(…)

明治42年11月16日、林董。
董、いつもそうですが、この人、お前は何者だ、というぐらいの生意気さを醸してくださってます。いや、この方、偉人の列に冠する方ですし、このときはもう老境に入っておられるのですが。戊辰戦中はまだ10代で、その時自分はこんなに生意気だった、ということをいつも強調されているので。圭介のオチと同じく、計算して振舞っているスマートさがあるから、好きです。なんか世間はまじめにやってたけれど、自分こんなにテキトーだったよ、という感じ。圭介伝ではまともなことを言っていたから、至極形式ばった重存なことも弄せるのだけれど、あえて聴衆にツッコミどころを・えてくれている。頭のいい人です。「死生の境」や「今は昔の記」でも同じような感じでした。

で、中身。
董が帰国したのは上野戦争も終わってから。榎本艦隊品川脱走のとき。
「私もその自分は壮年(少年の間違い)でありまして、何か騒ぐことが面白かつたので、榎本に頼んで開陽丸へ乗せて貰つた」
と、榎本が親戚だったからという伝で、面白そうだったから乗せてもらった、というノリ。

そして、艦隊が6月から8月までぶらぶらしていたのは、榎本が徳川の処置について。
「幾分か若し公平な御処置にならなければ此の海軍を以て何とかするといふ嚇かず量簡であつたかもしれませぬ、それ等のことハ私は今申し上げる通り少しも興かり知らぬことであります」
あと、宮古湾のときも、「山内(堤雲)も暇を願つて出て行つた、私も跡に残つて居つては詰まらぬから行ふと思つて従軍を願たが許されなかつたから、私かに蟠龍に乗つて館長に頼て連て往て貰つた」とか。
5月7日に回天にいたけれども、回天の蒸気機関が砲撃を受けて、死傷者が出た、このときに、董、頭と股に軽症を負ったのだけれども。「病院に入りましたが、何分窮屈だから、逃出して本陣の方に居りました」

自分の行動理由は「面白い」か「つまらない」か。ジュブナイルな彼。

反面、p国公私パークスは、後年外交官になった董と懇意になったのだけれども、「日本をどうしやうといふ考でなくて、詰り日本の利益を謀つて行つたと思はれる点が多い」。
また、ブリュネたちフランス士官に関しても「仏蘭西はそれ(英国)に反対して居つたと見える、それでブリュー子以下も内命を受けて、内命ともいわぬけれども、少なくとも黙許だけを受けて脱走に加わった」と、人の行動理由のハラは探るのな。

そんな感じで、人の行動原理に対して、信義とか情とかを絡めず、政治的にどう、外交的にこう、自分に対してはなんとなく面白いかそうでないか、という、リアリスティックな語りをしてくれています。圭介とはまた、一味ちがうんですよな。生意気エンターテイメント。

嵐にあって開陽に曳航された美嘉保が沈んだときは、「三嘉保は蔵船の如きものでありました、大砲弾薬電信器械などが積み込んであつたのを、あすこで潰して仕舞つた、大打撃でありましたが、開陽は自身の船が助かるのが仕合せと思ふ位で」

さらに、箱館で鋳造した金についても。普通二分金は、金4:銀6だったのが、世が乱れるにつれて金2:銀8になった。それで箱館では金1:銀9にして拵えた、とか。その地金は、買い入れたのもあったが、松前藩から分捕ったのもあった、とか。それで「三嘉保丸と開陽丸の沈没のために勢力を失ったことの多大なること」と悔やんでいる。非常に物的です。もっと飾ってやれよ、という感じです。

箱館決戦のとき。「箱館の住民も此節は日々の戦に馴れて、弾丸の来ないような山の中腹に行つて、競馬か何か見ているように見ている」などと、のんきな様を形容してましたら。「私は現に髪結がびん壷を下げて来る者が打たれ、又た女が子供を背負ながら打れて谷に落ちるのを見ました」って。見てないで避難させてやってください。

董、日英同盟の立役者、というだけではなく、工部省の書記官として事務を統括してましたから、相当現実を見る目はシビアなものを持っていたのではないかと思います。最終的に伯爵になっているから、戊辰戦争旧幕側参加者としては、筆頭で榎本よりも出世頭なんだよな。

あと、荒井さんの椅子、回天について。(Log4、5/15参照)「回天といふ船は、元英吉利のイーグルという船で(多分ドイツから売られた)、セバストポールの戦さに出た古船で、私も函館戦争のときは之に乗て居ましたが、鉄砲玉の中つた痕へ手を入れて見ますと、モウ木が朽つて居て、手で捉める様な船であります」 …荒井さんの愛着です。そんなに言わないであげてください。
あと、松岡磐吉のエピソード、甲鉄艦攻めの時。蟠龍にて。「松岡は館長部屋へ這い入つて、顔を洗つてシャツ抔を着替えて悠然として居る。今日は死ぬ積りだから、館長として見苦しくない様に、シャれて居ますと戯を言つて居た」
とか。細かいエピソードが嬉しいです。

それから気になったのが。箱館決戦。「前夜、黒田清隆氏が将いて、裏面の断崖絶壁を攀じ登つた兵が、山中に潜伏して居たのが、俄かに発火を始めたので、見物一同皆々吃驚しました」だそうですが。
黒田、寒川上陸・断崖よじ登り、いたのか…。案を出しただけじゃなかったのか。

あ、でも、「此の断崖絶壁を登ってくる敵は無いだらうといふ油断から、其の兵は何処へか往つて此処に居なかつた、それが為に竟に箱館は落ちて仕舞つて」と言っている。
これに関して。よく創作とかであげつらわれていることがありますが。油断していたのではなくて、陸軍はちゃんと寒川からの攻撃は予想していました。南柯紀行にて「敵の陸軍一大隊斗り、舟にて箱館山の寒川と唱うる処に上陸せる由、兼て此患あることを察し兵を備えおきたれども」とあります。
それで、ここが攻め破られたのを、圭介は「番兵怠慢、深霧中より敵の登るを知らず」と、警備の隊がどこかは濁しておりましたが、今井は「このあたりを守りし新選組一挙に追い崩さる」とバラしてしまってるんだなー…(蝦夷錦)。ぼそぼそ。

あと、中島三郎助さん。董も中島さんのことは滔々と語っています。木戸さんも中島さんとは懇意で、木戸さんが中島さんと傍に居て話を聞いていると、気分が晴れ晴れするような人だったと語っていたとか。木戸さんの清涼剤とは、またひとかどのものです。
で、箱館が獲られたときの中島さん。

「其時降参説を唱えたのは、中島である。是迄蓋したらモウ沢山だ、此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やつて居たら、どんなみつともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門に降伏して、皇裁を仰ぎ、外の者の為に謝罪するが宜しいといふ軟派の節を取つたのは中島三郎助である」

これは初耳…。それで中島さん「私は本より津軽陣屋を死に場所として居るから、それで宜しい、恭順説は私の為の論で無い、私以外の者の為の論だ」と。
…格好良いです。格好よすぎてちょっと卑怯です。圭介はこの中島さんに絆されたのかもしれない。中島さんが格好よすぎるから、だれか格好悪くならんといかんなぁ、と思ったのかもしれない。てか、圭介なら思うだろう。…このごに及ぶと、武士道に殉じる美しさを求めるほうが、簡単だとおもうのですよ。責任ある立場の人ならいっそう。そうでなく、いまさら恭順、という格好悪い事があえてできる、泥をかぶることが出来る人のほうが稀有だと思います。
これを見て、圭介、あえて、兵撤収のために、千代ヶ岱に出たのだという思いが強くなりました。圭介も同調したかっただろう。だからこそ後にあんなに語り残しているわけで。あえてそれをせず、兵を撤収させた所に、圭介の真価があるのだと思います。

さて、伝習隊隊長ズが出てくる。「大鳥の率ひて居つた伝習隊の中に、瀧川充太郎、大川正次郎といふ二人があつた。これは明治十年西南の戦争に陸軍のほうで出て、瀧川ハ人吉で戦死し、大川ハ後に金沢に病死しましたが、大川は西南から帰つて会た時、箱館の戦の時は自費であつたから、苦しかつたが、今度ハ官費だから、沐浴出来る位で、楽だったと申しました」
……ご、五稜郭、フロなかったのか?
…いや、多分、忙しすぎて風呂に入る暇なかった、ということなのだろう。亀田川から水道は引いていたようだし。
まぁ、伝習隊・衝鋒隊の人たち、臭いのは、北関東・北越・会津で慣れているでしょう……
圭介はちゃんとフロに入っていたのだろうか。寝る暇もなかったから、多分、汚いままで駆けずり回っていたのだろう。気温が低くてよかった。

あれ、大鳥圭介、出してません。いや、董話のなかには時々でてきていましたが、特に取り上げる真新しいことではなかったので。…あ、最後のシメは、大鳥が自分のこしらえた牢獄に入れられた、というヤツでした。いろんなところでいろんな人に愛用されているネタ。

さて。一人突っ込むのに、どれだけかけているのだろう。一人一人丁寧にやっていたら、到底終わらないことに、今気が付いた。

あと、人見さんの東北・箱館談話で仙台のお別れ話とか、山崎有信さんの圭介伝にも書ききれていない圭介大好き話・隠しネタとか、意外に真面目だった本多晋の彰義隊話とか、七年史の北原雅長さんの圭介母成話とか、圭介が脱走前に小田原工作に出かけていたことのウラが取れたとか、日光源亮師の東照宮を救う苦労とか、色々あるのですが。一人一人やっていると、いつまでかかるのだろう。
ぼちぼち、やっていきたいと思いますー。…といいながらほったらかしているのがどれぐらいあるのかは、聞かないお約束。

…てことで寝ます。会社のPCのWindowsのシステムがいかれて、再インストールする羽目になった。何でよりによってこの時期。現場だともっと困るし、切羽詰った仕事がないから、良いといえばいいのだけれども。運がよいのか悪いのか…。年末休みを利用して、更新しようと思っていたのにー。
posted by 入潮 at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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