いえー。図書館ハシゴをしてきました。東京都横断検索、便利便利。
朝からのまず食わずでひたすらコピーをとっていたので、最後はふらふら。コピー代に6000円ぐらい使った。馬鹿。でも満足。
今回は主に、「維新日誌」と「維新日乗纂輯」、あと新選組関連でございました。
獲得物は以下の通り。
自分の頭にもろくに入れていないのに、資料名だけ並べてもしょうがないのですが。それは追々語っていくということで。いつもそればっかりです。ハイ。
● 明治戊辰局外中立顛末 (日本史籍教會編)
松平太郎さんの書簡がいくつか。薩摩屋敷焼き討ちのときも事後処理していたのね。松平さん、武闘派というよりは、デスクワークに卓越しているイメージがあります。
● 薩摩藩出軍戦状 (日本史籍教會編)
戊辰戦争中の、薩摩のコレポン文書集。各隊ごとに、参加した戦闘が記されていて、隊ごとにまとめられている。宇都宮や木古内など、敵側がどのように賊軍を見ていたのか、よくわかります。薩摩だから、文章が男臭いです。そして敵ヨイショ度は、他藩の5割り増しな感じです。
● 苟生日記 杉浦清介 (維新日誌収録)
御徒目付から砲兵差差図役勤方、横浜大田村のフランス伝習の際に、シャノワン、ブリュネ、フォルタンらに数学、測量、築城、指導、運用などを習っている。箱館では外国掛の事務方だった方の日記。
天気と人間の記述が詳しい。悪口雑言限りなし。多感な43歳。通して読めば、当時の悪口のレパートリーが大分学べる。「凶険自恣」「窃二毒を以テ当テ」「追従軽薄」「愚頑」「自大傲慢」「不遜?喝」「真ニツマラヌ人」「無状笑フベシ」「荒唐可笑」…。榎本艦隊と脱走してからは「箱館戦争史料集」に収録されているのですが、脱走前の前半部のほうが悪口が冴えている。「悪ムベシ」と「愛スベシ」。好き嫌いのメリハリがとっても激しい。松平太郎、米田桂次郎、勝安房、戸田肥後守、松岡四郎次郎、安藤太郎、土方年蔵、荒井郁之助。…見たことある名前の方々、ことごとく毒筆の嵐に曝されて行く。だんだん「荒は荒唐」とか、名前すら1文字で省略されていく。でもだいたい、この人の好き嫌いに根拠はあまりないみたいです。一方で人見さんとか伊庭さんとか本山さんとか、遊撃隊の面々は愛されている模様。
福地源一郎とも話していて、どんな舌戦になるかとおもいきや。「傍ラ閑話、話頭頗ル慷慨悦フベシ」…気が合っているようでよかった。
圭介はどういう罵りを受けているのかと思いきや。脱走時。
「大鳥圭介等會行之云々話、此間頗ル快ナルヲ覚フ」
とあるのみ。すこぶる快い。そ、それでいいの? 箱館ではなぜか出てこない。接点は多くてもおかしくないのに。触れられないと、却って怖い。
● 谷口四郎兵衛日記 (幕末史研究 No.27)
伝習第一大隊所属者の日記。宮氏の動向が意外に詳しかったり、浅田君の切腹未遂が含まれていたり。
今まで手を出していなかったのが、勿体無かった…。秋月登之助と伝習第一大隊、土方らの動向を知るには詳しくて良いかと思います。
手書き原稿用紙の写しがそのまま収録されていたので、びっくりした。大鳥と大島(寅雄)がややこしい。
あと、ひぃぃな日光・六方越記その1。日光でのお食事と、その後残された傷兵の悲劇。先ほどご紹介させていただきました亜樹様が、すでに余すところなく記してくださっていますが。直接目にするとやっぱり辛い。
文章のつながりが不明瞭で読みにくいところもあるけれども、「心苦雑記」に劣らぬリアリティがあります。素で書いているから、痛い…
仙台で、伝習隊の人が、大鳥の下はもうイヤだー、ということで新選組に入った、ということの根拠がこの史料かと思って、確かめたかったのですが。…どうも単に、新選組が死傷多く、山口次郎の一党が会津に残留したので、隊としての編成をしなおした、というだけのように見受けられるような気がしないでもないのですが…
(P78-79「廿日松島二着陣第一ヲ以第二大鳥圭介エ合兵ス、又松山唐津臣三藩土方二属新撰組ト成。是ハ已に隊伍果てントスルニ拠テ新規隊伍ヲ建本新撰組ハ将軍山敗軍ノ後死多ク、山口次郎始十四人残塩川二、大鳥圭介逢合ノトキ共二仙台行ヲ論スル二…今落城セントスルを見テ志ヲ捨テ去、誠義二アラスト」、P.80「是二(新撰組の)隊伍絶タリ拠テ土方仙台二テ同士絶へ残ルヲ属シテ是二又隊伍ヲ起ス。第一大■隊士官隊外シ、集整シテ土方附属士官ト成、専練列規則ヲ調」)。
単に、新選組に死傷者多く、会津に留まるが出て土方の下がいなくなった、それで第一大隊の士官を外して土方のところへ編成した、と読めるのですが。
もっと確たる部分があるのでしたら、素で見落としているので、教えてください…。
なお、第一大隊は秋月の下にあり、大鳥ら第二大隊とは宇都宮で一度合流したぐらいで、藤原の再編以降も大鳥とはずっと別行動。第一大隊の兵士が、直接大鳥の下で戦ったことは、あまりない。
あと、どうもなんか、土方が圭介をほめているところがあるような気がしないでもないのですが、気のせいでしょうか…
7月23日ごろ、土方が戦線復帰、伝習第一大隊が須賀川に官軍が駐屯している報を受けたとき。
P.58「土方曰、今吾陣前近ク敵アリ、襲時防戦スルトキハ勝利ニシテ三分ヲ損ス、早ク不計■害ナリ、今敵看スル幸二シ襲ウテ三分ノ利有、尤多軍二易ナシ、分隊以来大鳥初陣利ヲ呼(?)テ諮ス、尤初戦二軍(?)大利タレハ、賞スヘキト」
漢字の読解に自信がありません。島と鳥、名前間違いか思ったけど、やっぱり「島」じゃなくて「鳥」に見えるんだよなー…
敵軍が目前にある。襲われて防戦するのは三分を損することだけれども、襲うほうには三分の利がある。今の敵の報を先に得られたのは幸いだ。大鳥は初戦以来利を呼ぶよう謀っている、その後も利を得ているのは賞賛するべき事だ。……と、読める気がするのですが。
コレハナンデスカ。防戦するのは難しいものだけれど、謀って防戦している大鳥はエライ、というユニアンスに聞こえない気もしない感じなのですが。私の目、とうとうおかしくなったのでしょうか…。
● 幕末史研究 No.35 土方歳三特集
えっと、冊子じたいは、土方ファンの方には大変実入りがあるのではないかと。
目次に、箱館の写真の特集がありまして。箱館メンバーの写真を取った写真師、田本建造という方の紹介がされていました。追悼新聞に、凍傷で足を切断するも、露西亜領事ゴスケウィッチから写真機を譲り受け、これを娯楽としたのだそうで。自分絵ガラスの破片を研磨したり、複鏡を製作したり、工夫を注いだ。それで、榎本軍が箱館を占領したときに、「榎本大鳥以下脱走書士の来たりて撮影を求むる者、門前常に市をなすの盛況を呈す」という有様。
それで、箱館戦争写真集に掲載されている写真の数々が取られたわけですが。
圭介の箱館時代の写真、見当たらないよなぁ、と。圭介、田本さんのところに押しかけていったはいいけれど、自分の写真を撮ってもらうのを忘れて、田本さんの写真機の工夫に見入っていたのだろうか。
…と思っていたら、注釈に、「奠都五十年史」という本に、「箱館戦争五稜郭の戦」と題した陸軍奉行大鳥圭介が大砲に肘をかけた集合記念写真がある」とのこと。なにぃ!…蘭ちゃんが「祖父圭介の自伝」に乗せていた、大砲と圭介の写真じゃないよなー。あれは慶応年間となっていたし。圭介の箱館時代の写真。あるのか…
● 野奥戦争日記 (維新日誌収録)
ひぃぃな日光記その2。アレな描写を、違う資料で重ねて再び見てしまうと、さらに立体的できつい。スプラッタはOKだけどカリバニズムは苦手なのよー…。
えっと、イケイケムードの漂う、脱走軍兵士の日記。著者不明とのことですが「小川町屯所脱走致シ」から始まっていて、待ち合わせ場所から母成敗走まで、圭介とほとんど同じルートで綴っているので、小川町伝習隊の兵士ではないかと。
松平太郎さん、日光のほかにも、小佐越に衣服・食料を届けるのを周旋してくれてたんですね。この時もってきてくれたのは横地秀次郎ですが、その背後にいたらしい。
あと、浅田君が藤原の戦で、歩兵頭並に昇進していた。
「大鳥圭介行方不明ノ事」と見出しをつけて、将軍山へ出兵した伝習第二大隊、敗戦の際。
「大鳥圭介其他役々十一人、今以不帰、去レハ敵方へ生捕二成モ難計、役々兵士二至迄、是ニハ大二力ヲ落シ候、戦者一人無之、米沢海道へ落行」
圭介他11人、行方不明。敵に生け捕られたかもしれないがそれも分からず。士官も兵士も力を落とし着きってしまった。この状態で戦が出来る者は一人もおらず、米沢道へ落ち伸びた…。
圭介、部下に兵士に、愛されているじゃないか…! 「他11人」のせいだ、なんて言わないで…。
それで、生きていたことが分かり「夢の心地せり」とか部下に言われて、互いに手を握って男泣きする。
…大鳥が部下に信頼されていないなどとのたまった研究家はダレデスカ。
それにしても、圭介が生け捕られたかもしれないとの心配。薩摩や土佐に圭介が生け捕られ…。ブツブツ。
● 伊地知正治日記 (維新日誌収録)
板橋宿から宇都宮、今市、白河などの薩摩の行軍記録。官軍側の被害や援軍の様子がよく分かるので、旧幕・会津側の資料と比較対象には良いかも。
「賊、猖獗」が何度出てくるんだろう。そんな疫病扱いしてくれなくても…。鳥インフルエンザ。
面白みやネタはないけれども、記録としてよくまとまっています。クレバーな文章で読みやすい。
● 慶應兵謀秘録 源恵親 (維新日誌収録)
歩兵第七連隊米田桂次郎附属、大砲護衛の方の記録。復古記によく引用されている。これも読みやすい。歩兵第七連隊は伝習第二大隊と行軍を共にしていることが多いので、外部記録として参考になる。
壬生藩士で降伏してきて、壬生を攻めるなら今、と言ってきた友平新三郎。その父友平栄が、「大鳥氏と西洋術之学友」とか述べているあたり、伝習隊・大鳥とも近かったようで。(友平栄は圭介と江川塾で同僚)
「伝習第二大隊参謀森三之丞者戦死に拠て、伝習歩兵心くじけ」と、柿沢の死に消沈したのは圭介だけではなかった。
ほか、六方越の描写が細かいのが嬉しい。「懸る山中にも目を喜ばしむる地も有り、仙境遥台に入るかと怪しまれける」と、疲労の局地でヤシオツツジをみて 桃源郷だぁ、と感動したのは圭介だけではない。
今市の戦いも詳しい。藤原の戦いを共にした後は、須賀川方面で戦い、山川大蔵と篭城、後降伏。
周辺状況も把握しながら詳細に記して下さっているので、あとからじっくり読み込んでいきたい資料です。
● 近世事情 山田俊蔵、大角豊治郎 (維新日誌収録、発発刊は明治6〜9年)
「圭介善ク兵ヲ用ヒ、操縦自在臂ノ指ヲ使フガ如ク、部下精鋭、沸人二就テ伝習スルモノ多ケレバ、向フ所官軍ヲ窘ム、官軍或ハ圭介ヲ稱シ、隠然一敵国トナス」
圭介は用兵を善くし、その操縦の自在なことったら、肘が指ヲ使うがごとくだ。部下は精鋭、フランス人について伝習を受けた者が多いので向かうところ官軍を苦しめる。官軍は圭介を称え、表には現さないがはっきりと、彼自身を一敵国のように見ている。
……のだそうだ。相変らず敵に絶賛な圭介。宇都宮攻めのときの描写だから、何かの間違いなんですかねー…
● 太政官日誌 (維新日誌収録)
こちらは、太政官の本体は、大きくてスカスカなのですけれども、維新日誌のほうはギュウギュウに詰まっていて一気に探しやすいから、ついでにコピー、というだけ。
● 小野権之丞日記 (維新日乗纂輯)
会津藩士で上野戦争後に東北に脱走、箱館へ。杉浦清介と同様に事務方の人。滝川っちにの挙動に目を尖らせて、我々に滝川のモテぶりを教えてくださった人。
結構すごい量がある。全部目を通すのには時間がかかりそう。
● 酒井孫八郎日記 (維新日乗纂輯)
桑名藩家老。松平定敬が箱館に脱した際、同地に密行して藩主を諌めた。後、桑名藩大参事。
自分のところの藩士の処遇の関係か、時々、土方のところに出入りしていた。
● 聞きがき新選組 新人物往来社
郷土評と関連史料。「史料」として上げられているのを、新選組関連ではよく目にしますが。
大鳥無能説や小説がどこを根拠にしているのか、根っこがわかった気がします。(安藤太郎証言とか、板垣評とか、心苦雑記の不満とか、沼間怒りとか、確かに他にもあるけれども、それらはこれに比べると二次的で、全部弁護と情状酌量の余地はある)
「箱館戦争実記」。
木古内・二股撤退後、七重浜の夜襲の前。敵は疲労かなにかで沈黙中。五稜郭の会議。榎本さんが夜襲をしかけようと持ちかける。土方の宮古湾の肉弾攻撃は実に痛快だった。今度は大鳥さんの腕をみたい。そう榎本に畳み掛けられた大鳥。「はッ、はあ、拙者にですか、ははあ」 と大鳥、しり込み風。土方はこれに冷笑して「いや大鳥さん、あんたはいつも鉄砲玉に目鼻があるかないかを考えておられるようだ。アハ…、まず大鳥さん、鉄砲玉はすなわち向こう見ずの親玉ですぞ」と皮肉を言う。そしていつでもこの土方歳三が代理しますと快活そのものに言い放つ。榎本は土方に戦闘の第二段を放ってもらうと決める。
…パラ見してここに当たった時点で、萎えつつ爆笑するという器用な体験をさせていただきました。
土方は宮古湾では、ほとんど動いてない。指揮の声を飛ばしていただけで、土方自身は回天上にいた。肉弾攻撃ってなんでしょうか。
それから七重浜。3回連夜の夜襲について、大鳥、今井、丸毛、小杉、石川忠恕、玉置弥五左衛門、荒井宣行、どの人間の言・記録を見ても、土方が参加したというのは1回も見当たらない。一方、先頭きって3回ともに泥沼化したゲリラ戦を指揮していたのは大鳥(と本多・大川・今井ら)だ。それからずっと昼夜兼行で戦いどうしで、最後降伏談義の瞬間は疲労のために押入れの中で前後不覚。
郷土ファンタジーとは素晴らしい。こんな捏造で、地元の英雄を飾り立てることに、躊躇いが無い。そうやって貶められた人にも、郷土があるんですが、その辺には、その豊かな想像力は働かないらしい。
……とか思ったら、ちゃんと、冒頭に「史話の中篇から題材を採って、物語ものを試作しました」とあるではないですか…。ヤラレタよ。お茶目さん。
それで「実記」なんてたいそうな日本語を持ってきていていただいているために、これが「史実」として見られて、小説や評論のソースになっている現状か。…しょっぱいなぁ。
あ。圭介、鉄砲に目鼻があるように、鉄砲と会話していてもおかしくないと思います。新しい機構の銃とかあったら、よろこんで弄繰り回して解体していそう。
● 会津戊辰戦争史料集
「会津藩大砲隊戊辰戦記」: 江戸でフランス陸軍式訓練を受け、日光口、白河、御霊櫃峠を戦い、開場後も南会津で戦い続けた、臼井大砲隊隊員、藤沢正啓の記録。宇都宮、日光口で大鳥にとっての外部記録。
「辰之日記草稿」:会津藩士、兵糧調達担当の渡辺多門成光の従軍日記。秋月登之助について伝習第一大隊。秋月スキーっぽい。大鳥隊に対しては、「将軍山へ着陣し、昨日の戦体を問ふに、数剋奮戦するといえども終に裏切られ、仙兵早く挽取、大鳥の兵卒中に包まれ、兼て鍛錬の手立を以て戦ふと雖も、飽くまで苦戦」とか「大鳥隊は昨日の戦疲且手負いも多かりければ、何れも小勢にて多くの口々至極に手薄残念と云うも余あり」と、母成の敗北に責のある大鳥らに対して同情的でした。
兵糧方が何を考えていてどんな手続きを踏んでいたのか分かり、参考になります。
● 日本近代史辞典 東西経済新報社
これは特に目当てというわけではなかったのですが。工部省、工部大学校、学習院 、官業事業、内国勧業博覧会など、圭介関連事項が、分かりやすく事典としてまとまっていたので。あと、巻末の統計資料は後々重宝しそう。明治初期からの歳入、支出、人口、教育、死亡者数など。あの混乱期によくまとめられたものだ。明治初期の日本のセンサスのほうが、今のブータンとかミャンマーとかよりずっと整っていた気がする。
……そんな感じで。
別に、大鳥ヨイショ資料を探したわけではありません。その逆で、「弁護しなきゃ!」というネタがありそうなのを探しにいったわけです。だってこのレパートリーみて下さい。大鳥が攻撃受けてそうな事を期待しているのが瞭然ではないですか。…結果はいい具合に裏切られました。…一つは弁護以前の問題でしたが。
そして、整理していたら、ついつい読み込んでしまって、結局徹夜してしまった…
これがアタシのクリスマスイブの過ごし方。手にしたいとずっと思っていた資料に囲まれて、とっても幸せ。
…幸せなんだってば。本人がそう思っているんだから。そういうことにしておいてください。
私が出家してなりたいのは教会シスターじゃない。テラバータ仏教の尼なんだ。
……いえばいうほど墓穴を掘っている気がしてきたので、おとなしく寝ます。
仕事は午後から行こう…。