2006年01月04日

1/3NHK夜9時から

「おらが村」さんから「見なさい」という指令が下ったので、見ました。
役者さんや土方のファンの方、ドラマで感動された方は、ご不快を催すかと思いますので、以下、見ないでください。お願い。

● よかった点。

・身長。

・チマチマ模型を作る。器用そう。

・机の下から出られなくなる。

・釜さん大好きな圭介。

・動じない榎本。

・江戸っ子な榎本。

・床の上で胡坐な榎本。

・ミステリアスな笑みの榎本。

・ほっぺたたぷたぷさせてほしい榎本。

・駒が将棋。皆同じこと考えるのね。

・永井のおっちゃん。渋。スゴイ貫禄と存在感。目が離せなかった。一番人物が際立っていたんじゃないだろうか。

・鉄っちゃんかわいー。

・黒田。名前だけでも黒田連呼。

・守りは得意な大鳥。攻めは苦手。守って映える男。

・榎本さんにすまん、と謝ってくれた土方。

・朝陽撃沈。セットは予算不足が伺えて、工夫に涙。

・模型壊したのが箱館山からだった。了介意識?(単にでかくて目に付くからだろう)

・机が重たくて一度ではひっくり返らなかった。大変ほほえましい。

・あとは、えーと…

・役者さんは全般的によかったです。小道具も。

○ ちょっと待ってくれ、な点。
フィクションとは分かってますし、個人的好みが入りすぎてますが。あえて。
もう一度申しますが。ドラマをお気に召された方、どうか以下は見ないで下さい。毒垂れ流します。

・まげ。

・松平さんは?市は?伝習隊は?

・朝陽出すなら荒井さん出してくれ。

・大野君は、安富は、登は、石井君は、いましたか。

・あの容保公は、会津ファンの方にとってはどうなんでしょう。あんなに軽くていいんでしょうか。勝機はないなどと思っても口にしていいんですか。会津藩士、死に甲斐がない。

・模型。手間掛かりすぎ。派手すぎ。大鳥はそんなに暇じゃない。てか、あれじゃ模型作るのが仕事みたいじゃないか。

・模型。せっかく作ったのに勿体無い。(どっちやねん)

・ていうか、まだ戦い、続くんですけど。思いっきり無視ですか。

・降伏話が実際に机に上げられたのは、5/16千代ヶ岱陥落、榎本の切腹未遂以降。机の下にはその前からあったろうけど。

・官軍の進攻開始は午前3時、有川。

・そのころ圭介らはすでに夜明け前から陣地について、走り回っていた。

・土方の市中からの税金反対は、小説ネタ。収入源について議論している時、代替案もナシに正義の味方ヅラする奴が本当にいたら、自分だったら決してお近づきになりたくない。フィクションだからいいんですけど。

・島田が知恵足りなさすぎ。

・どうせなら人見さんに武蔵楼で辞世の句を詠んで旗に書いて欲しかった。

・了介、そこにいない。寒川攻めを率いていた。

・なんで射程のない前装式の大砲で寒川を上がってくるんだ。こういう時こそ後装式だろう。(力説)

・だから、陸戦用前装式の砲だと、山上から箱館街まで、砲撃は届かないってば。

・というか、火薬の詰め方が甘い。

・箱館山進攻は圭介がしっかり予想していた。

・で、新選組が箱館山山頂付近に配備されていた。その後方に伝習士官隊。

・箱館山を破られたのは新選組が敵を発見できなかったから。(そう大鳥と今井信郎が書いている)

・土方、勝ち続けもなにも。福島松前は敵は旧装備で海軍支援あり。二股は天嶮で土方は後ろに控えていてほとんど何もしてない。七重浜夜襲にも出ず。その他の戦では何をしているのでしょう。てゆーか見つからない。誰か教えてください。

・圭介、夜明け前から桔梗野―大野―七重浜防衛ラインを走り回ってて、すぐ隣で春日さんが討死に、弾丸が飛んできて自分の陣羽織も弾痕空く中、「下がりなさい」と部下に叱られて、部下に前に出て庇われて、それでも聞き分けなく自分で大砲撃って尽瘁して、五稜郭に戻ったのは日暮れてからなんですが。

・圭介は戦好きの男では、ない。断じて、ない。

・それを榎本にだけは言って欲しくなかった。

・圭介、むしろ自分の奉行の地位は、嫌っていると思いますが。自分で前線出張るし。踏査するし。五稜郭の修繕やるし。手前で手前の地位を喧伝する、肩書き重視、というのとは誰よりも遠そうな人間だと思いますが。私見ですが。はい。

・一票、あー、一票ね。下衆な勘繰りを全国放送できるその神経を疑います。フィクションって素敵。

・それで人の人格貶めといて、取ってつけたように最後はイイヤツですか。却って白けました。まぁ、その辺飲み込んでも頭下げられる男気を見せているのかも知れんけど、その目的が結局土方持ち上げだからな…

・土方の死は過程であって終結ではない。(土方ドラマでそれを言うなって感じですが)

・言ってもしょうがないですが。自分で仕掛けた地雷で吹っ飛んだ貝塚さんと細谷さん。宴会中に甲鉄300ポンド直撃うけた古谷さん。使者の行き来以外はひたすら24ポンドカノン砲ぶっ放していた五稜郭砲兵。中島父子と柴田老人の死闘。水なく飯も炊けず乾き死ぬ思いで奮闘していた弁天台場新選組。千代ヶ岱から必死で残兵を脱出させた圭介…。みんなどうでも良かったですか。時間限られてましたか。そうですか。

・そんな感じで、私的には、時代考証、バッド・ジョブ。

・あれで給料もらえるんですか。

・いっそ、変な考証なぞつけず、完全に最初から「この物語はフィクションです。実際の人物には関係ありません」と但し書きしておいてほしかった。役者さんもセット小道具さんも、皆真面目なのに。

・そりゃ史実に忠実に沿うことが重要、とも思いませんが。

・分かってやっているのなら大変失礼致しました。

・あと、フィクションのほうも何がやりたいのか分からなかったのですが。

・土方ファンの土方ファンによる土方ファンのためのエンターテイメント?

・そこまで作り上げてあげないと、土方のキャラって立たないんでしょうか。実際の土方では不十分だといっている気がして、土方自身にもすごく失礼ではないのかという気がするのですが。

・それで「故郷の英雄大鳥圭介が出演」と宣伝するのはかなり無理があるのではないかと。上郡町さん。

・中島三郎助父子で作り直せと仰った亜樹様。同じことを私も思いました。

・どんなフィクションのキャラクターよりも、生きた人間そのもののほうがカッコイイ、という価値観は、極少数派なのだと思った。

・大人げなくってごめんなさい。

・テレビ見るの2年ぶりなもんで。

・あ、私も土方、好きなんですよ。本当。妙な作り上げに違和感あるだけで。


ほとんど言いがかりというか、いちゃもんというか、どうでもええやろそんなこと、という次元です。わざとやってます。すみません。だから見ないでっていったのにー。
…見ないで、というぐらいなら、そもそも書くな、という感じですね。こういう捻くれた見方をする人間もいるのだ、ってことで。ごめんなさい。


    [2] ままこっち URL 2006/01/04(Wed)-19:10 (No.142) New!
    ああー入潮さん。よくぞ仰っていただきました。私はご承知のとおり「土方スキー」ですが、その私もさすがに「・・・(絶句)」なドラマでした。
    私も元日の夜先行放送で見終わった後の、あのやり場のない憤りと落胆は筆舌に尽くし難かったです。あまりの悔しさに夜もろくに眠れませんでした。ブログにはやんわりと書いていますが、私にとっては「どうしてこんなことになってしまったのか」の一言に尽きる作品でした。
    誰のための続編だったのか。主演俳優のためだったんじゃないのかな。と今では思っています。いや、そう思うことで自分を慰め、ますます史実追いかけの道を歩む私でございます。。でも釜次郎を演じた片岡さんの演技はとても良く、新選組や箱館戦争のことを全く知らずにあのドラマを見たら、間違いなく片岡ファンになっていたようにも思います。キャストは少なくとも大野右仲は出して欲しかったです。時代考証については・・・でお願いします(爆)

      [3] 入潮 2006/01/05(Thu)-01:48 (No.143) New!
      コメントどうもありがとうございます〜。
      事前から追跡しておられたままこっちさんのコメントは、土方ファンの方々の注目の的でしょうから、率直な感想を述べるにも、お気使いが感じられ、頭が下がります。
      元々、大河のファンの方々のコールが実現した番組ですので、ターゲットはその層の方々で。俳優の姿を見たい方と、あとは「燃えよ剣」に代表される土方の英雄像が見たい方が大勢でしょうから、メディアの方向性としてはあれでいいのだろうなぁと。ピュアなエンターテイメントとしてみれば、かなり楽しめるものだと思います。
      ただ、娯楽以上のリアリティを追及するから、違和感が生じたのではないかなぁ、と。歴史フィクションは「見てきたような嘘」を作るのが仕事ではないかと思うのですが、土方についてはちょっと嘘っぽさが出すぎじゃないかな、もうちょっと等身大でもいいんじゃないのかな、と感じたのでした。それで物足りない、と騒ぐのも余り意味のあることではない。
      つまり、キャラ・娯楽を求めればオッケーで、人物・実際を求めてしまえばアウト、というのことなのかなーと思ったりします。

      ままこっちさんにとっても、それだけ、土方さんが、ファンタジーではなく、リアルな存在になっておられるいるのではないかな、と思いました。その姿勢を貫くのは大変なことかと存じますが、続けて下さるのはとっても心強いです。

      土方氏の最後の姿を伝えた大野さん、石井さんを、土方テーマで無視してどうするんだ、と思いました。(登はいたのでしょうか…) 新選組は5人だけ、という台詞は、辛かったですね…


    こんにちは。はじめまして!

    当時の歴史に詳しい方が見ると、そういう見方になるんだなーと、大変興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。

    でも、あのドラマの感想としては、私は違和感を感じた部分が少しだけありました。

    あのドラマは歴史番組ではなく、あくまで創作物です。
    つまり、あのドラマが描こうとしたものは、「歴史上の人物である五稜郭の人たちが、そして実在した土方歳三が、どう戦い死んでいったか」
    ではなく、「大河の山本土方がどう最期の一日を生き、死んだか」ではないかと思います。

    だからあくまで、大河の「新選組!」の歳三の最期の一日としてどうだったか、という視点で見てあげないと、ちょっと(製作側が)かわいそ
    うな気がしました。

    もうひとつ、私が感じたのは、あそこで描かれていたメインテーマは、「考え方や生き方、性格、意見が違い、はじめはいがみ合っている人々
    が、率直に話し合うことで影響し合い、化学反応し合い、やがては分かり合って手を取り合うことができる」ことと、そのすばらしさ。
    あとはかっちゃんととしという2人の人間の関係から生まれた、友情と一言で表現しきれない大きなもの、かな。

    少なくともこの2つのテーマを、箱館戦争(?)という背景(あくまで背景。舞台の後ろに描いてある絵にすぎない)の中で、描きたかったの
    ではないかと思いました。

    そのテーマはよく描かれていて、私は感動しました。

    でも、お気持ちはよくわかります。
    例えば私は医療関係者なので、医療ドラマはほとんど観ていられません(ER以外)。テーマによほど心惹かれれば細かいところはさほど気にな
    らないものの、たいていはチャンネル変えたくなります。
    感動の幅を狭めてるような気もしますが、仕方ないんです!!(笑)

    ちなみに、新選組や五稜郭関係で最高!と思えるドラマは何ですか?


      はじめまして。ご来訪ありがとうございます。そこに、あのような罵詈雑言で、大変申し訳ないです。
      自分の数々の心無い暴言に対して憤りを感じる方の心情を、Satieさんが全て代弁してくださったことではないかと思いました。まずは的確な
      ご指摘について、御礼申し上げます。

      えっと、言い訳させていただきますと、自分は前知識皆無で、テーマが何かも存じ上げずに見た一視聴者でございます。正直、山本氏がどうい
      う方かも存じ上げてなかったという体たらくの、現代にまず有り得ない非教養人です。ただ、脚本家の方は「大河を見ていない人がしまった、
      と後悔するようなものを作りたい」という旨のことを仰っていたようなので、大河を見ていない方は見るな、という寂しいものでもないでしょ
      う。

      それで、感想が前述の暴言だったわけですが。でもやっぱり、NHKとしてあれで良いのか、と思ったわけです。
      それで、番組を生むメディアとしてのそもそものNHKの方針は何だろうと思って、WPを覗いてましたところ。…「視聴者のニーズにお答えしま
      す」一色でした…。で、今回はファンのコールにしっかりと答えた。NHKの方針としては正しいのでしょう。まさに、よくやった!でしょう。
      はい。

      でも、かろうじて、自分が期待した言葉がありました。「公共放送としての使命・役割を果たす」です。もはや風化した看板かもしれません
      が、一応それにしがみつかせていただきます。(辛い…)

      えっと、国の公共とは、国民の福利となるなら市場原理から外れても、国民全体に資するものを提供するサービスのことと自分は理解していま
      す。しゃちほこばってますが、語彙の限界なんで許してください。
      で、NHKの考えることはよく分からないですが、公共という観点のメディアサービスとは、情報の供給によって、国民の知的教養度を上げると
      か、判断力を育てるとか、日本人が日本人としての誇りを持つとか、日本の良さ悪さを知ることによって内を知り外を知る国際人を育てると
      か、そういう、お為ごかしってあるものじゃないでしょうか。

      それで、製作者側に時代考証というプロフェッショナルが付いているのは、歴史という点から公共放送の使命に適わせるためと考えて、支障は
      ないでしょう。完全な創作物なら、極端な話、考証者など要らないわけですし。
      それで、Satieさんにご教示いただいたメインテーマを満たしつつ、自分が日本人でよかったとか、もっと我々の祖先を知ろうとか思わせるや
      りかたはあったと思うのです。時代劇にそういうものを求めるほうが間違っているのかもしれませんが。それでも、時代考証担当者が良い仕事
      をしていれば、実在性・現実性を確保し自分の国の土台になる部分へ関心をもたせながら、土方ファンの方のためのエンターテイメントが両立
      出来たのではないかなと。その点で、ちょっと煌びやかな作り上げが過ぎて、キャラ志向の娯楽で終わってしまったなぁ、という印象が自分に
      ありました。

      元のドラマを存じ上げないまま申すのもなんですが、Satieさまの仰る通り、原ドラマのファンのニーズに答えたという点では、製作者の皆様
      は申し分ない仕事をしたと言えることかと存じます。
      ただ、公共放送としてどうか、という点では、時代考証担当がそこをサポートし、先人を大切にしつつ歴史というものへの認識を底上げさせる
      仕事をしていただきたかったという勝手な期待が、原ドラマの先入観のない一視聴者としてありました。その観点からは、かなりの底の浅さを
      感じてしまったわけです。プロなら、一人ヨイショしてキャラ・ストーリー作りをしなくても、実際に生きたリアルな先人像と娯楽を結び付か
      けてほしいと。それでこそ立体感のある物語ではないのか、と。

      それで、自分のマイナー具合は重々承知でして、あの悪口の数々は、所詮マスメディアなんだから、一視聴者なぞがお為ごかしほざいてもどう
      しようもなく、ニーズの多いほうが正義なんだよ、というひねくれ具合から生じたものでございました。無論、エンターテイメントに満足して
      おられる方に、「あれはよくないんだ」などと押し付ける気もさらさらございませんで。ただ、隅っこでブツクサ言って、もしかしたら共感し
      てくださる方と愚痴れられるかなー、と思っただけのシロモノです。心の狭い人間もいるよと、笑ってお捨て置きいただけますと幸いです。

      ドラマについてですが、生きた人間の生の記録以上のドラマはないという認識でございます。創作を求めておられる方に現実はイイよ!という
      のも履き違え甚だしいことですが。私にとって最高のドラマは、やっぱり箱館戦争に携わった方々全ての実際でして。その柱で一番太いのが、
      大鳥圭介とその記録「南柯紀行」です。(恥ずかし…)
      ……Satieさん、南柯紀行、善いです。こう。機会がございましたら是非…! (履き違いついでに宣伝)


    ご丁寧なお返事ありがとうございます。
    「南柯紀行」、読んでみます。
    「生きた人間の生の記録以上のドラマはない」というお考え、私も賛成です。
    実は私もどちらかというと、そちらの方が好きかもしれません。

    でも、常に心強くいられない人間には、心を癒すための、現実とはちがう「物語」が必要、という面もあると思います。
    あのドラマに、「実際の箱館戦争」や「実像としての大鳥圭介」とは異なる次元で、癒された人もいるということです。

    この世の中は、実際に残っている証拠が描く「事実」が重要視され、権威をもつ世の中です。

    なので、虚構の物語であるドラマが放送されて、心を癒された人々が絶賛しているからといって、決して気に病む必要はないと思いますよ。


      再度のお返事、わざわざありがとう存じます。
      やったぁ、ワタクシ、Good Job! という感じです。<読んでみます
      いえその、無理にとは申しませんので。「語り」のコンテンツのほうに、南柯紀行のポイントをまとめておりますので、宜しければご参考にし
      ていただけたりなどしましたら、嬉しいです…と厚かましくも言ってみる。
      いえ、自分の書き物を宣伝するのは気が退けるというぐらいの恥はあるのですけれども、それ以上に引き込みたいという図々しさが勝ちまし
      た。はい。

      物語に癒されるというのは、まったく同感です。自分もファンタジーは大好きです。
      ただ、完全な創作ならそれで良いのですが、現実に生きた方をモデルにした場合、そこに現実を照らし合わせるひねくれ者が、どうしても生じ
      てしまう、ということで。どちらがどちらを否定するわけではなく、お互いに価値観を認め合えればと思います。

      「事実」に関しては、自分はちょっと違う感覚です。
      世で最も力があるのはマスコミ・メディアで、彼らが供給するのは、えてして、一般に分かりやすい加工を加えた像です。ニュースでも供給さ
      れるのは最も極端な像ですし、物語には誇張やメリハリが加えられます。
      事実というのは、そういった加工のもたらす霞の向こうにあるもので、それを認識しているのはむしろマイノリティのであるのではないかと自
      分は感じています。
      エンターテイメントはそれとして楽しみつつ、事実やリアリティを求める作業もバランスよく行なっていければと思います。
      お心使い、どうもありがとうございました。

posted by 入潮 at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月07日

土方歳三の実像と箱館戦争


土方歳三。現状、この方については、調べるほどにハテナマークが増えて、結局、余り理解できてないという体たらく状態です。
史実の土方さんのファンでいらっしゃる方をご不快にしてしまうとは思いますが、疑問点を呈して認識をはっきりさせたく、また誤解や無知があれば史料をご教示いただきたいという意図ですので、御寛恕いただけますと幸いです。

NHKのドラマにつき、なぜあのドラマをみて、素直にエンターテイメントとして受け取ることが出来ず、後味が悪かったのかのですが。

あんなものが、「箱館戦争」として、世に流されたのが不本意だったから。

勿論、ドラマも、娯楽と思ったら十分楽しめます。榎本さんや永井尚志の存在感も良かったです。鉄も可愛かった。圭介の俳優さんの表現力も大変よかった。ただ、それは単に実物のイメージと比較して、ピッタリ来たか、純粋に見ていて楽しかった、というだけのことで。それ以上のものでもない。

逆にどうもモヤモヤしたものが残りまして、純粋に楽しめなかった。いや、圭介の描かれ方とかそれ以上に、白けたものがあった。それは。

一人のヒーローが死にました、はい終わり。
……というものではない、箱館戦争は。

てことでした。
あれは、大河ドラマの土方を求める土方ファンの方々ために、土方をテーマにした創作物だ、というのは重々承知です。自分が求めることも、フィギュアスケート見ながら、「スピードスケートってのはあんなんじゃないんだよ」とかいうぐらいのハキ違えだと思います。

それで、暴言ついでに、ここのところ、感じておきながらずっと言い出せなかったことを、言ってしまいます。
これはもう、特定のドラマがどうこうというわけではなく、業界全体、小説や漫画や読本系、果てはネット界隈までを含めた全てに関してなんですが。

土方の実像について。

調べるほどに自分、分からなくなっていいます。土方が何をしていたのかわからない。具体的な行動とか、仕事の内容があまり見えてこない。
戦闘にしても、「土方督ス」と、川汲、福島、二股など、分隊行動における司令役を務めていたのは明確です。ただ、その分隊の行動が「土方隊」と表現されて、分隊の功績イコール土方の功績、となっています。逸れはそれでおかしくないのですが、その中で土方が具体的にそこで何をやっていたのかというのが、よく見えない。

勿論、新選組関係者の筆にとって、土方は大変カッコイイです。十分、惚れるに値する人物です。
二股にて。「又寡ヲ以大敵ニ当リ動カサルハ是土方君ノ力也」(戊辰戦争見聞略記)
大野さんは、二股の土方について、「努力せば総督必ず重賞を賜らん」とか「吾れ総督に白して重賞を与へん」とか、「総督の法令厳整にしてよく士卒の心を得たる」とか、一生懸命その存在感を主張しています。(函館戦記) まぁ、伝習隊大川瀧川を仲裁したのは大野さんで、土方はコメントつけているだけでしたが。

特に死したときの慟哭は胸に来ます。
「安富才介ニ遭フ。彼曰ク、奉行土方君、馬ヲ跨柵ノ側ニ在リ、敵ノ狙撃スル処ト為テ死スト告グ、吾悲嘆。砲台ニアル新選組其長死スヲ聞キ赤子ノ慈母ヲ失フカ如ク悲嘆シテ止マス、アア惜シムヘキ将」(戊辰戦争見聞略記)

そこまで言ってもらったら、隊長冥利に尽きるというものでしょう。
石井は桑名藩士で、蝦夷に同行するために新選組に編入されましたが、しっかりと「新選組」の一員でした。箱館戦争史料集部分だけ読んでいたら、彼が桑名藩士だったというのは一見分かりません。

大野さんの「箱館戦記」や、石井勇次郎の「戊辰戦争概略記」をじっくり読むと、土方への賞賛文句だけではなくて、土方の位置づけが見えてくると思います。土方は新参者の彼らをしっかりと取り込んで新選組の一員にしていたのが伺える。石井さん、ご自身を土方配下の「新選組」の一部と見ています。土方は箱館において、新選組という強固な集団をきっちりと作っていた。その役割は戦闘のための小隊。あとは治安維持もあったのでしょうか。

(ちなみに、石井の筆でも、5月11日「直二海涯ノ諸守ヲ厳二ス」と、寒川上陸の警戒について、触れてました)

ただ、死んだ人間は誰も悪く言わないもの。これらの惜しみの言は、戦死したからこその、いわば墓を飾るような言であり、美しくするのが部下のつとめ、という健気な意思もまた、感じられるところです。。

それで、新選組研究家の仕事って、何十ページもある資料から、ほんの1、2行を抜き出して、それがさも戦争の全てであるかのように組み立てているフシがある。全体の資料の構成から、その重み付けがいかなるものかという評価を行なっていないのは、あまり公平な作業ではないでしょう。

一方で、これはけなそうとしているとかではなくて、史料を手にとった率直な感想なのですが。新選組、直卒の輪から外れると、いきなり温度が下がってしまうのも土方ではないかと感じてます。

とりあえず自分が見たところ、大鳥や今井や丸毛利恒、小杉雅之心、小野権之丞、人見寧や林董といった、主な箱館戦争の記録者の記録、語り部には、土方は、名前の記録、以上の扱いが見つからない。せいぜいが、死亡したときに贐として「良将」との言葉が記されている程度です。重職にあった者の扱いにしては、大鳥や中島といった人物の扱いに比べて、かなり物足りない。

たとえば、今井の衝鋒隊戦史。同じ二股でも、大川と滝川の勇猛さをこれでもか、と称えている、歴戦50戦を誇る今井。土方に対しては二股でほとんど描写せず、ようやく退却になって、「古屋作久左衛門、土方歳三等を擁護して夜八時頃より徐々に退却」と触れているのみです。

一方で木古内の大鳥に関しては「木古内の前面最も悪戦を交えしが大鳥の奇襲功を奏して、官兵は脆くも一時壊走」とか、「大鳥、天野らの兵は再び胸壁に引き返して必死に防戦せしも、奈何せん胸壁は築造未だ幾何も経ざれば耐久力弱く、加ふるに官艦より打出す海軍砲の威力は猛攻を極め」(以上「衝鋒隊戦史」)とか、圭介の行動に関しては非常に具体的で、かつ、圧倒的に不利な中での努力をちゃんと書いてくれている。小杉も同じで。二股で土方の名前は全然言及してないのですが、木古内では「本営より大鳥圭介、本多幸七郎、星恂太郎等兵を率ゐ馳来り、奇兵を以て山谷より挟み打立しにより敵進む能はず、樹林の中に入防がんとせしを急に撃て之を破る」とか、劣勢になって「夜大鳥圭介馳せ来たり惣軍を五稜城附近に引揚べきを令す、衆肯ぜず、大鳥口を極め諸将を説諭し、終に木古内を発し」(以上、麦叢録)とか。やっぱり大鳥の行動は具体的に描いてくれている一方、二股は、伝習隊の活躍は之でもか、というぐらいに描いてくれていますが、土方について言及無しです。

嘘だと思われましたら、上に挙げた史料で確認してください。

戦争だけでなく、非戦時の行動、行政についても、まだ全く調査不足状態ではあるのですが、北海道文書館や、事務方の日記、書簡などの資料に、土方の名前は見つけることは、ほとんどできない。(桑名藩家老の酒井孫八郎日記には数点出てくる。新選組に編入された桑名藩士の処遇についてと思われる) 新選組研究者の言では、単に役職の名前だけで、重要な役割を果たしていたという評価になってますけれども、どうもそういう評価も具体的な根拠がない。

重鎮といわれる役職にあるならば、それなりに仕事をした跡が見つかっていいものだと思う。そりゃ、火事や戦争で失われた文書も多いでしょうし、今我々が手に出来る文書にないから、その人の功績を「ない」等と言ってしまうのは、余りに乱暴でばかばかしいことですが。
あるものを「あった」というのは簡単ですが、ないものを「ない」と言い切る事はできません。

ただ、足跡というのは即ち、記録であり、書簡であるわけなので。この時代、電話も通信も無く、情報のやり取りは口頭以外は全て手紙で行なわれていた。なにかしていたら何かしらどこかに残っているし、辿るとどこかに糸口がみえてくるものだ、というのが今までなけなしの史料に触れてきて自分が持っている実感です。なのですが、土方がなんらかの仕事をしていた記録がどうも見当たらない。北海道文書館の箱館奉行所文書には、榎本、松平、荒井、大鳥は勿論、松岡四郎次郎、小杉、人見といった地方の奉行格の文書も見当たり、仕事内容に察しがつけられるのですが、土方の場合はその影にどうもひっかかってくれない。かろうじて大鳥が、松前の概況を松平太郎に伝えた際、回覧で陸軍奉行並土方にも見せておいてくれ、という言伝がありましたが。一方で、家伝とか子孫の言とか、創作だか事実だか願望だかはっきりしないのばかり目に付くので、どうにも像がぼやけて伝説めいてしまっている。

箱館政権の役職紹介の記述で、羅列のなかに「陸軍奉行並」職が出てこない資料も多かったりする。箱館奉行などと役職を間違えていいるものもある。他の役職、海軍奉行、陸軍奉行の荒井・大鳥はもちろん、江差奉行の松岡四郎次郎、松前奉行の人見寧の役職も、間違えたり、スルーしている人もほとんど居ないですが。
たとえば、実際に12月15日に決定した役職を言及している資料で、土方の役職の表記。

「蝦夷の夢」衝鋒隊今井信郎:記載無し
「衝鋒隊戦史」衝鋒隊今井信郎:「箱館奉行」
「麦叢録」江差奉行並小杉雅之進:記載無し
「北州新話」丸毛利恒:「土方歳三を同く(陸軍奉行)並に」
「蝦夷錦」額兵隊荒井宣行:同(陸軍奉行)並、箱館市中取締陸海軍裁判役頭取ヲ兼ヌ
「戊辰戦争見聞略記」桑名藩→新選組、石井勇次郎:「陸軍奉行並裁判為頭取箱館市中取締兼」
「新開調記」民間人:記載無し(総裁選の票数はあり)
「人見寧履歴書」:奉行職としては記載無し「各軍隊長」として、春日、古屋、星らと共に土方の名が羅列。

此処に挙げた、各役職就任の記載のある資料のなかで、「陸軍奉行並」として土方が記載されているのは3つ。箱館市中取締と陸海軍裁判役頭取という副職(?)に触れているのは2つ。石井は土方直属の新選組だから当然としても。ちょっと寂しい感じです。まして筆まめ記録男の今井や小杉が、スルーまたは間違っているというのはどういうことなのだろう。

こうなると、土方が「陸軍奉行並」という役職についていたことも、身近な人や記録に拘る人以外にはあまり認識されてなかったということではないかと思える。ただ、新選組という、箱館では小規模な二個小隊を直属にしていた、という認識。奉行という管理統治に携わる役職よりは、新選組という、自分が自由になる小隊組織の編成を固めてたのじゃないでしょうか。もちろん、土方は、河汲、福島・松前、二股でそれぞれ、その方面を督する司令官になっていましたが。大鳥と軍を二分する存在、というような認識は、各資料からは残念ながら得られない。委託されてその方面の数隊を率いている、という印象です。

記録者の人間たちが、陸軍奉行として一目置いて総司令官扱いをしているのは大鳥です。「大鳥自ら馳せ来たり」「この時大鳥は本営へ戻る」など、大鳥の行動は結構頻繁に各種記録でお目にかかれます。

また、実際に全ての戦況を把握して軍の方針、戦術を決めているのも、現場においての指揮を担っているのも、残されている書き物からは、大鳥だと判断できます。箱館では南柯紀行以上に軍全体・戦況を把握している資料はありません。まぁ、自分の目で見た限りで、贔屓を言っているだけかもしれませんけど。

一方、土方は、敵、官軍側資料に至っては、名前すらめったに見受けられなくなる。福島攻めのときに、賊軍陸軍指揮官の名前として出てくるぐらいです。

つまり、内輪身内から離れた瞬間に、土方の存在感は、どうも薄れてしまう。
土方の死についても、むろん多くの資料が触れていますが、上で触れた部下の新選組以外の人たちの史料は、せいぜい覚書程度に1行触れているのみ。
一方、中島三郎助に触れていない資料はないといってよく、皆かなりの分量を割いて、中島のおやっさんの最期と、信念の強烈さを称えている。

もちろん、名前すら残されず朽ちていく人は沢山いたわけで。そういった、資料の中の人物の比較でいくと、土方の位置付けは、陸軍奉行並だとか将軍だとか、仰々しいのではなくて、戦闘の場の隊長さんその1、という感じに受け取れるのです。

それで、今自分が持っているなけなしの史料からは、土方の行なっていた事というのは、2個小隊、学校2クラス分程度の組織をまとめて、分化した役割の一つを果たし、分隊行動の際は、その方面の数隊を管轄する、という程度のものとしか判断できない。
3千人からの軍事組織を統括して、箱館の町を統治して、防備戦略を練り、城壁を陣地を構築して、税金を算段して収入源を確保して、予算を作って、兵糧を確保して、兵の配分をして、開発計画を練って…というな、政権の中核部分や、陸軍の実務に関わるようなことはしているような印象ではないし、そういう表記が記録のなかに今のところ見当たらない。

戦が本当に得意だったのかどうかも、実はよく分からない。士卒の心を掴んで鼓舞していたのは、新選組の部下の言から伺えるのですですが、戦の能力そのものを定量的に判断できるだけのサンプル数がない。谷口四郎兵衛日記では、会津の戦で4連敗している。勝った戦闘は、宇都宮といい二股といい、兵力も地形も有利なものばかり。
それに、確認できる土方の戦闘数は10そこそこ。数で言えば、大鳥の1/3、今井の1/5です。しかも、戦闘する土方を記録している人も身内以外はあまりいないですし、その身内も具体的な描写ではない。会津で伝習第一大隊を率いていたときも、出陣した、という記述はあっても、それ以上何をしていたか具体的にわかるものがどうも見つからない。

箱館戦争なのですが。
川汲は、斥候同士が出会い頭に打ち合って相手が驚いて逃げただけで、戦闘と呼べるものでもなし。
福島や松前は、寒くて雪に苦労はしたでしょうけれども、味方は最新鋭、額兵隊はスペンサー持ちだし、少なくとも皆ミニエーは揃っていて、洋式教練は受けている。背後では猛者の衝鋒隊が、最初は援護役としておとなしくしていたけれども、しまいに物足りなくなって吾等も前に出せとうるさい。海軍は海から援護してくれる。相手の松前兵は和装、前装式滑空砲で、射程も命中率も比べ物にならない。そりゃ、勝てます。実戦経験のない額兵隊や、上野戦争で敗退した彰義隊、陸軍隊の実戦訓練のような要素もあったのではないのでしょうか。あれで勝てなければ、どんな戦でもムリ。

二股は「異論1」でもぼそぼそ触れましたが、大鳥の両腕たる、敵味方が賛辞を惜しまない歴戦の勇者大川・滝川コンビと伝習歩兵・士官両隊に、最多戦闘数を誇る強運の剣豪今井と衝鋒隊、当代きっての工兵吉沢勇次郎。
大野さんは一生懸命「こうしたら総督は褒めてくれるぞ」と総督の存在を強調してますが、今井は、擁護する、などと一言言っているぐらいだから、土方を将として崇めているというよりは、そっけなくニヒルな笑みを浮かべているだけの印象です。

七重浜の連夜夜襲にも名前は全く見られないし、5月11日の箱館決戦も、夜明け前から布陣していた主力に比べると、寒川が落ちるまで五稜郭待機だったのだから、どちらかというと予備兵力な扱いだった。

たしかに、「記録がない」=「功績がない」ではないのですが。それでも記録あるところの人と比較することにより実体を推し量るしかないわけで。
そうすると、実物大の土方というのは、隊の身内の人気者ではあるが、重鎮とみなされていたとは見えない。奉行並という役職がついて、軍務のほうは、分隊行動が必要になるとその方面の司令官にはなるけれども、どうも、上(大鳥)が人材手当てをしてくれて、戦略、陣地配置まで面倒みている。一方、政務のほうもインテリ洋モノ系の幹部に囲まれて性が合わないのか、中枢の仕事にはあまりかかわっていない。普段は小さな組織内で、箱館の町の治安維持のために闊歩しながら、早く戦来ないかなぁなんて燻っている。その組織の中では大変人気者の隊長その1、ぐらいの人。タレント的で、いれば士気は高まるし戦闘も盛り上がるけれど、戦略や戦術といった難しい事は、上がやることで、余り自分は関与しない。(大鳥が、土方に何かを相談しているという記述は、見たことがない) しかし戦に関して理に適ったことは自分も勉強しようか、とは思っている。
戦闘になると、退くなら斬るぞと脅すおっかない人で(実際退却すると斬る、というのは、結構いろんな人が行ってますが。薩摩の人とか今井さんとか)、本当に斬ったら悔いて墓を立てる自己満足、あるいは弱さのある人。月夜の白牡丹を俳句に詠んだり、一輪咲いても梅は梅と、梅一輪が必死で生きる健気さを詠ったりする、チャーミングな人。

…そうした感じが、今のところ、自分が受け取っている、実物大の土方さんの感じです。
それで、自分はそういう土方を好ましく思います。
戦好きで勇猛で人気者の隊長さん。政務だの、方針だの、予算だの、ややこしいことは頭の良い連中に任せて自分は口を挿まないけれども、自分とこの部下はきっちり面倒見て、組織はきっちり締める。他の隊長やら奉行たちやらは、なんか頭の言い人たちばっかりで、毛色の違う自分はあまり口出ししないけれど、内輪なりに、部下からはたいそう慕われている。むしろ、雲の上の人ではなくて隊に身近だから、あんなに部下が懐いているという感じ。

新選組の土方さん、箱館戦争でそれなりに表面は時勢に合わせて変った、それでも芯は京都と同じ者を引き継いでいる新選組。箱館戦争の主力歴戦の衝鋒隊・伝習隊。それから遊撃隊、額兵隊、彰義隊、陸軍隊、杜稜隊、見国隊、その中の、京都で会津で鳴らした気骨の入った新選組の隊長さん。それでいいのではないでしょうか。
実際、戦前の創作作品では、アナクロの入った融通のきかない好戦的な隊長、という感じが多いです。

新選組に関しても、近藤さんファンには申し訳ないですが、箱館の新選組に、京都の新選組を土方は求めていないと思うのです。土方がいつまでも過去ばかり見ていてたり、自己陶酔していて、新撰組が維持できますか。石井さんや大野さんが、あそこまで土方を信奉しますか。皆現実的で忙しいです。ナルシストにかまっている暇ありませんし、土方も自分のことばかり構っている暇もないでしょう。なにより、箱館面子も、連中の目指すことも、魅力的で面白そうではありませんか。その中で自分の出来る役割を果たす。あのみょうちくりんで頭良いくせに夢見たり憔悴するまで働いたりしている連中を護るために、一肌脱いでキッチリ強い部隊を作ってやろうじゃないか、と。完全に私見ですが、そんな感じだと思うのです。土方も変わるし、新選組も変わるし、自分なりに変わる状況に追いつこうとしているから、部下もそこまでついていくってものではないでしょうか。

そういう、ありえる感じの人間じゃダメなんでしょうか。
常勝将軍だ軍神だというチンドン屋めいた肩書きを貼り付けて、箱館政権の皆から一目置かれていて、インテリ連中からも愛されて畏怖されて、敵の大将の中枢を衝く起死回生の作戦をほとんど一人で任されて、その人死んだらもう戦争全ておしまい、みたいに、虚構でもてはやされないと、表せない人なんでしょうか。そういう煌びやかな創作で飾らないとダメな人なのでしょうか。

それらの像の根本となった「燃えよ剣」自体は、私も好きです。司馬遼太郎は偉大な人だと思います。けれどもそれは、他人の功績や言動を土方の名前にしたり、子孫の方の伝聞なのか願望なのか良くわからないエピソードがそのまま入ったり、比較対象として他者を貶めてキャラクターを際立たせたりして生まれたもので。そういうふうに生み出された虚構を、いつまで業界が、吾も彼もと引きずっていないとならないんですか。それで本当に、大人のエンターテイメントと言えるのですか。(無論、武揚伝など、例外もありますけども)

あのドラマばかりをつらつら言うのももはや気が引けますが、ドラマからは、自分の感触として、箱館戦争がぜんぜん見えてきませんでした。土方を飾り立てるために、箱館戦争のパーツが切り貼りされて、趣味の悪い獄彩色のアクセサリーにされてしまった、という印象でした。

というか。
アクセサリーで飾らないとダメな人扱いをしてませんか。業界でこぞって。

都合いい所から虚構を膨らませて、あることないことリアリティを忖度せずにでっち上げて、自己満足・自己陶酔的なキャラクター作って、何が実像が分からなくしながら、お手軽なヒーロー君にしてしてしまい、メディアが金儲けして、地元が観光資源にしているほうが、精一杯生きてきた人間に対して、何より土方自身に失礼なんじゃないのかと思うのですが。有り得ない仮定ですが、自分が土方の立場だったら、あそこまで崇め奉らないといけないのかと情けなくなると思うのですが。

あと、ただの持ち上げなら、罪はないですが。
そのために、他の人物について、都合よい捏造やら邪推やらで、像を歪めているのがどうかと思うのです、

幕末、明治というのは、生きた人間の息吹が今に伝わる時代、という意味で、一種特別なのではないかと。書簡や日記、記録も図書館に行けば沢山生の言葉を手にすることができます。また、我々のじーさんぐらいの世代の方は、彼らを直接知っている。つながりが感じられる時代です。戦国や室町は、半ばファンタジーと化しているかと思いますが。
それで、子供の頃に伝え聞いていた尊敬するひいひいじーさまとか、近所にスゴイ人がいたんやでー、とか言われていた方が、テレビ番組で一人を持ち上げるために、ある事ない事笑いものに作られていて、「創作だからひっこんでろ」といわれても、はいそうですか、と納得できる寛容な方は、あまりいないと思うのです。そういう、地元やご子孫の方々の感情も考慮されてもいいのではないか、と思うのです。(まぁ、論評でも小説でも誰もそんなこと慮ってないというのが現実ですが)

それで、そもそもドラマの目的が、前の大河ドラマの続編として、主人公の死場を描くことなら、そこに意を唱えるのは過剰要求であり、ハキチガエであり、言いがかりではありますが。
そこから派生して、箱館戦争ってあんなもんか、と思われたくないので、あえて言います。


―― 箱館戦争とは何ぞや。

幕臣たち、佐幕派藩士たちの思いの昇華場所であり、一つの時代の終焉場所、そして次の時代のスタート地点ではないのか。

開拓の夢を見たハイカラ連中も。薩長には最後まで膝を屈しなかった意地っ張りも。単に食い扶持少ねぇよと不満でいきり立った連中も。お為ごかしはどうでもいい、明日の給料よこせ、という生活感あふれる輩も。
一緒になって、封権と、アナクロと、パイオニア精神の夢を、花散らせた。

そして、封建と近代のハザマ、時代の転換点ゆえに、玉石混合の価値観がひしめいた。日本の培ってきた和の精神は西洋の技術に屈したし、逆に戦の中で大鳥のような合理主義者も武士道の美しさによろめいた。
中島父子の死にあんなに心打たれるのは、武士道という日本人の根幹たる美学に殉じた以上に、命捨てても護るものを護りたい意思の強さと精神力に、美しさと憧憬を感じるからだろう。

その果てに、屈辱の想いを経て、葛藤に引きちぎられそうになりながら、国つくり人つくりこそが自分たちの償いだと、あるいは官途に付き、あるいは民草になって世の土台になった人間がいる。
まだ歪みは終わらず、不平士族は荻の乱や西南戦争の途を辿ることになるし、新しい世に背を向け続けた人間もいた。死者を弔うために仏門に入った人間もいた。
けれども、泥まみれ血まみれになって、それがあって、新政府も旧幕もなく、明治の世、日本の土台を作りはじめた人がいる、そのマイルストーンの一つだ。今自分らの生きている日本という国の、出発点の、紛れもない一つだ。死んだ方も生ききった方も、その苦しみは変化する世での次の遷移への陣痛だ。

それが旧幕軍にとっての箱館戦争ではないのか。戊辰戦争ではないのか。

その我々の土台となる軌跡を、単なる一キャラクターの紙芝居絵背景に貶められたのが、悔しいのです。
そして、等身大で十分魅力的な隊長さんを、わけの分からない虚構で飾り立ててもてはやしている業界そのものについて、疑問なのです。

あのドラマはそれが顕著だというだけでした。別にあれだけに不満なわけではない。
ただ、お子様向け特撮じゃあるまいし。一人のヒーローが死んで、カッコよかった、ハイ終わり、なんて単純お綺麗な戦争で終わらせたら、血反吐吐きながら苦闘していた連中が、それこそ地下で泣きます。

天下のNHKなら、曇りない眼で事実をしっかりがっぷり掴みきった上で、日本人の誇りと心の琴線に響くエンターテイメントやってくれ。仮にも受信料と税金で、モノつくりしてるんだろうが。

ということが言いたかった。

時間限られてましたか。
制作費限られてましたか。
尺の都合ですか。
ニーズは満たしてたからオッケーですか。

わかりました。もう言いません。すいません。


…まぁ、あれで、箱館戦争ってどんなんだろう、と興味を持ってくださり、ついでに大鳥さんってちょっといいかも、って思ってくださったら、こちらは万々歳です。
その程度の適当さではあります。


自分は、土方に関しては、大鳥目当てに突っ込んでる資料から二次的に見ているだけなので、単に眼に入っていないだけのまま、えらそうにほざいているだけかもしれません。敵の評価とか、会津人の目とか、味方の賞賛とか、こんなのあるんですよー!というのがありましたら、ぜひ、このかわいそうな奴に教えてやってください。皮肉とかじゃなくて、心底お願いしたいのです。

大鳥を調べていて何が辛いのかというと。
世間様の土方像、大鳥像と、自分の認識が剥離していく一方であることです。どうも、道に背いていく一方になってしまうような気がして、なんか自分が人でなしに思えてくることです。どうせだからそのままついでに切り開きますけど。自分も土方を貶めたいわけでは断じてありません。大体大鳥は、比較対象で他人様を貶めなきゃいけない人物では断じてない。単に本当のところはどうなのか?というのが知りたいだけ。ですそれでメディアに背くのは、凄まじい労力が必要です。等身大の姿が、メディアの姿そのままだったらどんなに楽なことか、と思います。

また僻地未電化地域に入るもので、ネットアクセスの都合上、時間はかかってしまうのですが。苦情やご批判には、真摯にご対応させていただきます。ご教示ご指摘は、拝み奉り謹んでいただく所存です。




    [3] 葛生 2006/01/07(Sat)-15:45 (No.148)
    根本が京都新撰組とその副長ファン(ただし燃え剣は苦手)の立場から、深くお礼もうしあげます。
    素晴らしい分析、どうも有難うございました。感激しつつ拝聴しました。
    自分が言いたくて言い出せずにいたことが沢山含まれていました。――本当はその人のファンこそが異論の端にならなきゃ駄目なんですよね…。怖くてできないんですが(笑)

    [4] ままこっち URL 2006/01/07(Sat)-21:02 (No.149)
    こんにちは!
    大河続編の件はもう「なかったことにしよう」と忘れる努力をしています(汗)
    土方スキーの私ですが、やはり入潮さんのように「ヒーローな彼」が好きなのではないので、全くもって同感です。彼がヒーローに描かれてしまうのは、入潮さんもご指摘のように「北征以降の彼を記述している史料が意外に少ない」からなのかもしれません。プラス、最後の最後で戦死した、のが「滅びの美学」とか言われてしまうほどカッコイイ(日本人、そういうの好きでしょう)のと、極めつけは「あの写真(というかルックス)」。それで余計に小説や創作物で持ち上げられやすいのかな、と思います。ご本人は空の上で「いや、俺ぁそんなにカッコよくねぇよ」と照れているかもしれませんね(笑)
    でも私は「実際に存在していた土方歳三」に関心があるので、今後も調べていきたいと思っています。

      [5] 入潮 2006/01/09(Mon)-08:03 (No.150)
      ● 葛生様

      土方については、自分も怖くて、今まで言い出せなかったでした。そして、怖い以上に、難しいんですよね。あること、見つけたことを根拠にするならいくらでもできますが、「ない」ということを根拠にする論なぞ、どこにあるか、と。
      普通に業界で行なわれている推測と誇張に突っ込みをしたかったわけなのですが、それを推測だとするための論拠が「ない」ということなので、それもあやふやなわけです。しかもそんなこと、わざわざ言いたくもないのです。まったく苦しいところです…。
      …土方ファンとしての姿勢から受け入れてくださっても、同時に大鳥コアファンでいらっしゃる葛生さんですから、あまり安心できません(笑)

      ● ままこっち様

      滅びの美学ならまず中島三郎助にだろう、とか思ってしまった私は、ファンの方々から総スカンな感じでズレた奴です。まぁ何に焦点を当てるか、というだけの話ですが。ただ、箱館戦争で亡くなった方々はそれこそ千人規模なわけで。それで役職で死んだのは土方だけだった、などとよく言われているのに対しては、勘弁してくれ…と思ってしまいます。終わりがよかった人は、周囲が美化してくれるから目立つのですけれども、自分はどう死んだかよりどう生きたかのプロセスを重視したいなぁと思っています。
      写真に関しては、なんか、Dr.マシリトに似とるなー、ぐらいだった、現代女子にあるべからぬ美的感覚の持ち主です。箱館は、美男と呼ばれる方が一杯。隊長クラスでも星、二関、天野、春日、伊庭…美男でないほうが少ないんじゃないかというぐらいで嬉しいところです。ただ、自分は外見重視の評価は、苦手です。
      特に土方氏の場合、実体が創作の姿に霞んで追いかけにくいところがあるので、難しいと思いますが、その難しさに挑戦されるのは素敵だと思います。ままこっちさんのほうでも何か発見されましたら、是非教えてやってください〜。
posted by 入潮 at 02:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウェブでの著作権

あけましておめでとうございます。

コンテンツ追加したら、えらく時間がかかってしまって、ご挨拶もできんかった。
史料打ち込みは時間がかかるものですが。なんであんなに長くなるかな。正月から徹夜を繰り返すとは。
ウェブは字数制限しなくていいから、ついつい、書き込んでしまうんだよなぁ…

えっと、年末は、東京にいらしたしのさんにお会いし、鐘ヶ江さん、初対面のQ太郎さんと、濃密な時間を過ごさせていただきました。しのさん相変らず笑みがミステリアスで、マニアックだった。鐘ヶ江さん、やっぱり天使でした。ほっぺた触りたかったので、抱きつきました。Q太郎さん、知的で深みのあるお姉さまでした。コアな歴史ファンの方でした。自分が圭介しか喋れないのが恥ずかしかった。
仕事でダラダラPC直していたので、ほんの短時間しかお会いできませんでしたが。やっぱり人っていいなぁと思いました。ありがとうございました…。

そして、大晦日に、同じく、皇居探索されるというあろあさんに便乗させていただきました。新選組のみならず工部大学校、建築、城、徳川方面などにも深く広く触手を伸ばしておられて、その教養にうっとりでございました。大河から入って圭介ファンになられたという稀有な方。あろあさんの存在そのものに、毎回、勇気付けられます。

そんな感じで、年を越して。抱負がましきことも垂れておきたいと思いつつ。

ちょっと前に入口ページの但し書きを変えたのですが。
前頁リンクフリーはともかく、コピーペーストまでフリーを明言しているページは、なかなかないだろう。

もともと、ウェブで著作権を主張する意味がよくわからなかったのですよな。

著作権というのは、著作者の利益を保護するためのもので。
出版物や音楽など、それなりに手間や資金をかけ、世に公表し、作成者がそれにより得られる利益を守ろう、という考えから生まれたものです。あとは、著作者の名誉を守るため。こちらは著作人格権という名前がついています。

で、著作権(財産権、つまり複製や譲渡などの権利のほう)は、利益を保護するための法律だから、非営利の場合は、効力がないと考えるほうが妥当なんですな。あと、公表が前提だから、私物化している場合も、無効。
私物のばあい、それを見た人に「複製しないで」と、頼むのは個人の勝手ですが、著作財産権では保護されません。

ウェブの場合、そもそも、特別に設定しない限り、そのページを開いた瞬間に、ページ全部、自動的に、自分のPCのキャッシュという領域にコピーされます。オフラインでも一度開いたページを見れる、というのはそれがあるからで。
このキャッシュについては、著作権法上でも議論があり、各国により扱いが異なるようですが。HTMLの中身そのものも、ソースも、一瞬で自分のPCに保存複製できますし、中身もCtrl+C、Ctrl+Vか右クリックで、瞬間にコピー・ペーストが出来る。

複製権というのは、複製にそれなりに労力と資金がかかり、それを投資として、それでも利益が見込める場合に、元の作成者の権利を保護しなければならないときに用いられるもので。現実的には、ウェブで複製を禁止するなんてことは、ナンセンスなので、複製権を主張することに、紙の出版物ほどに意味はどこまであるのか。

右クリック禁止などされているサイトもたまにありますが、クリック禁止JAVAをご存じで、何でツールバーとかプリントスクリーンとかをご存じないのだろうか、と思います。

現実的に出来るから、禁止する事はナンセンスだ、といっているのではないです。人殺しや窃盗など、できるけれどもやってはいけない、倫理上いけない、ということは山ほどある。
ただ、それは外の人が迷惑するからであって。困る人がいるから、倫理的な問題になるし、法で厳重に規制される。

多くの人はコピーペーストはやめてくれと思うだろうから、それも倫理的によくないことだし、著作権という法で守られること。ただ、自分は別に迷惑でないので、いくらでもコピーペーストしてくれと思います。むしろこんな辺境サイトで何を呟いても一般への流布性は皆無なので、一般に接点のある方が自分ごときの言葉を複製してくださるのなら、いくらでもお願いします、と思います。

もちろん、まねされるのが嫌だ、という方の気持ちも分かりますので、その方々の、無断複製禁止、という主張もよくわかります。それで、自分のところは別に禁止でもなんでもないです、ということが言いたかっただけです。

ただ、言葉や表現を使おうと思い、自分の記述物に取り入れた時点で、その人の言葉になりますから、そこからいかなる問題が派生しても、その人の責任において処理してください、ということで。自分が流した文章や解釈が間違っていて、それを知らずコピーして使って、外の人から文句が来ても、私知りません、ってことで、許してください。引用元をはっきり書いていただいたら、こちらにも責任あることになりますけれども。

人間だれも、大部分の自分の言葉ってのは、誰かから貰ったものなんですよね。ただ自分で組み立てなおしているだけであって。だから、自分で組んだ元は人様からいただいた言葉が、他人様のお役に立つのでしたら、還元したい、という感じです。

自分の頭も古くて、人さまの認識とかなり違っているとは思うのですが。

基本的に、ウェブはインフラ(社会資本)、つまり、社会の共有物です。図書館みたいなもの。
で、ウェブページは、パスワードで保護されていない限り、一般に公表されているものです。図書館にある本と同じ。
検索避けをしているのは、単に、目録を作っていないだけのこと。図書館の棚には並べられていて、誰もが手に取れる状態であることに変わりはありません。
サーチエンジンやウェブリングの登録などは、利用者が手に取りやすいように、そういうジャンルに並べてある、ということかと。

なので、ウェブサーバに上げてある限りは、誰が見ても文句を言う筋合いはないですし、その内容についての苦情や批判が来ても、受け止めるべき事です。公表物とはそういうものです。

サイトを、自分の家とか城とかと表現し、私的な空間とするのは、こういったウェブの観念からいくと、ちょっとそれは違和感があったります。自分が作ったものですが、サーバにアップした時点で、自分の手からは離れ、誰が触れても良いという状態になっています。改変されないだけ。どう称するのもその方の勝手ですが、私物ではないのです。

で、表紙に「18禁です」とか、「こういう特殊嗜好のものです」、とか明記するのは、良いことだと思います。本を開くかどうかの判断を読者に与えることなので。ただ、抑止力にはなりますが、強制力にはならない。どんな人にでも中身を見られる可能性がある、というのは、ウェブを公開する以上、覚悟しておかないといけないことです。二次創作サイトの場合、原作者が、歴史ジャンルサイトの場合、それこそ、子孫や係累の方も、ご覧になる可能性がある。トップページの注意書きは、その可能性を下げるためのもので、ゼロにはならないし、Webに上げている時点で言い訳にもならない。

一般に見られたくないなら、鍵を掛けて、知っている人にだけ鍵を渡しておく(パスワード制にする)か、イントラネットなどにして囲い込む必要がある。鍵をかけるなら、公表したことになりません。(この場合は私的な物であるので、著作財産権は働きません)
URLのクイズ制も、一般に見られたくない場合は有効でしょうけれども、入りにくくするだけで、中身のページの公共性は変わらないです。つまり、公開している状態であることに変わりはない。

…いやその、原作者や子孫の方に見られて悪いページは作るな、と言っているのではなくて、見られるという可能性はどうあっても発生するものだから、そういう心構えで謙虚さを忘れずに、怖がりながら楽しみましょう、ってことで。私も日々かなり怖いです。はい。

ついでにリンクについて。リンクはトップページに張らねばならない、というものでもないです。別に読者は、1頁目から読まねばならない義理はない。どのページから読んでも、それは読者の自由。ならば引用先は、読者が読んで一番便利なところに張らせていただくのが、親切、というものです。注意書きを読むのも読まないのも、読者の自由。

リンクフリーでない、というのは、ウェブの性質からいえば、ありえません。
自分で勝手に周囲にお願いするのはありですが。それは単なる我儘で、法的にそれが保証される根拠はないです。

営利に関わらないところでは、著作人格権の同一性保持権(勝手に改変されない)とか、なりすましの禁止とかありますが、それは著作者の名誉保持のためのものであって。個人サイトの場合、ウェブで自分の名誉を確立しよう、と思っておられる方も少ないのではないでしょうか。ある程度プライドを持って書いているから掲示板などでの議論も白熱するものなのですが。

食い扶持とはなれて、やりたいことをやっているだけで。自分はただ、やりたい事やっている上に、自己満足だけじゃなくて、それを見た人に楽しいと思っていただけるとラッキーだな、とそんな感じです。

そして、他人のを勝手に変えてはいけないとか、他人の名前を自分のものとして発表しちゃいけないとか、そういうのはわざわざ口に言うまでもないモラルの問題であって、ウェブではわざわざ権利の名前で主張するようなことだろうか、と。モラルを超えたことが起こるのは、大抵利害が絡む時ですが、ウェブページで利益を求めている人も、法人や組織や商業サイトでない限りは、まずないでしょう。

そういうわけで、こと趣味のサイトなら、"All rights reserved"とか(c)マークとかに、あまり意味は感じられないのですな。
というか、そんなのを一行一文字追加しただけで、権利ってのは守れるようなものでもないと思いますし。組織・法人などは別ですが。守られようと思ったら、裁判やらなにやら、面倒な手続きが必要になる。モラルに訴えかけるのが一番簡単。わざわざ権利なんて大そうなものを持ち出すまでもない。

で、公共性の話に戻りますが。
掲示板や日記、ブログなども同じことで。単にポストが簡単であるだけで、性質はウェブとなんら変わりません。
自分の勝手な日記ということで、私的なことも色々書いている方がおられますが、一般の目に曝されるという事実は変わりないです。多くのブログは検索に引っかかりますし。

なので、圭介について、新選組研究家の勝手な評や抜き出しを、さも史実のように論って圭介を嘲笑しておられましたら、心の狭い圭介ファンが憤然と苦情を書き込みにいっても、しょうがないわけです(笑)

閑話休題。そういうわけで、著作権。そういう面倒くさいモノなら、とっとと放棄したほうがいいや、と。
わざわざ口にするほどのことでもないのですけれども。別に自分の文章を、自分以外が使うな、などという気はさらさらないですし。ましてや圭介使って商売する気もありえないですし。
むしろ、圭介について、自分ごときの言葉をコピーしていただけて、広めていただけるなら、そんなあり難いことはない。

そういうわけで、このサイトは、どのページにリンクしていただいても、どのフレーズをコピーしていただいても、それはもう、喜んでどうぞ、というか。こんなので宜しければ、伏してお願いし奉ります、ってもんです。

創作物も別にかまわんです。というか、あんなものをご自身の言葉にしてくださる方もいらっしゃらないとは思いますが。
創作といいつつ、あれも資料から得られた認識を繋ぎ合わせして妄想のふりかけしているだけですし。ただ、作り上げた部分は作り上げにすぎないんで、そのあたりの判断はお願いします、ってことで。創作は創作にすぎません。そんなに酷い嘘はついてないつもりですが。なかには、いけしゃあしゃあとやってる場合もありますので。はい。

資料の引用コピーペースト部分については、自分の行っているのは著作権でいう「引用」の範囲内であるよう心掛けている積もりなので、大丈夫だとは思いますが。繋ぎ合わせてそれだけ、というとまずいかもしれない。
ただ、これも、分別の問題ですよね。
抜き出しの場合は、楽したければどうぞ、という感じで。ただ、自分が史料から抜き出しをする時は、自分が後から読みやすいように、句読点や送り仮名をつけたり、漢字はなるべくそのまま使っていますが略字があるときはそちらを使ったりしていますから、自分が打った文は分かります。で、その部分のコピーペーストしてアップしておられるのを見つけたら、「あ、楽しやがったな、こいつ」と私が思うだけです(笑)…いやいや、便利にしていただけるならありがたいです。

以上は、自分がサイトを広げている上での方針であって、誰に示唆するものでもないです。
お気を悪くされましたら、申し訳ございません。
また、これらはこのサイトでのみ通用する事で、この人がこんなこと言ってたよ、と牽強付会しながら他人の作品の成りすましやコピーペースト、ってのも、ご勘弁ください。まずないと思いますが…。

そういうわけで、 長々とまたやってしまいましたが。
今まで、コンテンツのほうは殆どほったらかしで、日記ベースで、とりあえず、資料みつけたら速報、というノリで、大して言葉も選ばず、クロスチェックもせず、勢いのままに垂れ流していた。いつのまにか、自己満足に終始していました。同時に、自分が一般に向けて流すものに対する公共性や、責任というものを、軽視していました。

今年はもうすこし、一般の方の目に触れて堪えられる形に、公共性という点を考えて、サイトを整理していきたいなぁと思っています。

同好の方、御友達だと、なんだかんだと許してくださいますが、一般の方の目というのは、怖いんですよね。
ちゃんと言葉を選んで、それにより不快さを被らせることなく、事実を確認して、わかりやすく、論点をはっきりさせて、呈さないといけない。

それで、年明けて最初の更新が、まず一般の方を考えていない、クソ長いものになってしまっていますので、もう抱負もなにもあったものではないですが。

だからこそ、あれを読んで編集して、一般の方に見ていただけるような作業を行ってくださるのなら、もう、崇め奉るってもんです。
色々ごたくを並べましたが、蓋を開けてみると、結局他力本願の現れでございました。はい。

…新年から嫌われそうなこと2連発。嗚呼。
posted by 入潮 at 07:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

函館市立中央図書館 「一年の夢」「奥羽州並蝦夷地出張報告」「名義団録」「函館戦争記」他

寒いです。函館です。
今年は豪雪で困っているというのはどこもそんな感じでしょうけれども、完全に根雪になっていて、町中白一色で吃驚した。気温が低いから直ぐに凍るんですよな。凍った道の歩き方を忘れていて、バスから降りた瞬間に、滑ってずっこけた。

といっても、140年前の気温だったら多分このぐらいか、さらにもっと寒かったんだろうなぁと。あの人たち、こんなに寒い中で、凍った土に鍬立て城砦作っていたのねと。いや、それを言ったら強制連行されて−30℃のなかで水路や宮殿造ってた方々もいらっしゃったわけですが。とにかく寒いのです。はい。

今回のお目当ては、改築していて、開館オープンした函館市立中央図書館。ここがどれだけの文書を隠し持っているかは、計り知れないものがあったのですが。
年末に、ネット上の縁作で「函館戦争」やら「戊辰」やらをキーワードにしてみて検索すると、度胆抜かれました。何じゃそらァ!という、血管千切れそうなお宝ばかりで。10日から出張だったのですが、そのまま、年明けの土日に無理やりねじ込んで、飛行機取ってしまいました。

で、市立中央図書館。
…すごい。あんなに設備の整っている図書館も珍しいです。雰囲気は明るくてコミュニティスペースとしての役割も果たしているし、収容人数も相当なもの。
で、2Fのレファレンス、郷土資料コーナですが。研究個室なるものがあって、吹き抜けの1F見渡せる眺めの良い個室に、広い机一つとAC電源がある。PC広げながら資料が存分に見れる。

資料自体ですが、日記や記録のオリジナルやら写本やらがわんさ。貴重資料のほうは勿論、コピーは不可能なのですが、デジカメ撮影は全ページでもOKという太っ腹。
デジカメで資料を撮っていると、ピントがずれてないか不安だとか、意外なほどに電池を食うのが問題だったりとか、人様の目が気になったりするのですが、ここなら充電しつつ、PCにアップしてピントを確認しつつ撮影ができ、しかも個人空間でやりほうだい、という、大変ありがたい環境でした。

朝6時の飛行機だったので、前日徹夜。その前の日も2時間睡眠だったので、結構フラフラでした。が、資料の山のもたらしてくれる興奮は、それを補って余りあるものがありました。ときどきマイクロスリープが襲ってきて、意識が飛んでましたが。古文書によだれをたらしていなかったことを祈る。

というわけで、お宝たち。とりあえず、まだ中身をじっくり見るまでは全然行っていないのですが、ぱっと見のご紹介を、いきますー。

● 1日目

○ 一年の夢_蝦夷土産 (喰代和三郎)
幕将長鯨丸艦長之著者による。鷲の木から軍門に降るまで。びっくりぐらい字が綺麗。半分ぐらいしか読めない自分が恥ずかしく申し訳なくなる。海軍の方なので、艦の動向に詳しいのは勿論、一連隊の稲倉山侵攻など、ちゃんと海の見えない陸軍のほうも書いてくださっています。というか、海軍と陸軍の連携が詳しい。これ、解読されたら、新しい陸海の視点が見えてくるんじゃないかなぁ…。木古内で圭介がなんかガンガン甲鉄に虐められているみたいなんだけれど、読めない。もどかしい…

○ 奥羽州並蝦夷地出張報告 (岩崎季三郎)
「日蘭交流史」の「ジュール・ブリュネと大鳥圭介」で、片山宏氏が、四稜郭を作ったのは大鳥ではなくブリュネではないか、と書いた根拠としていた日記。(別にどっちが作ってもいいというか、一人じゃ城砦は作れんて…)
えっと、和紙の和綴じで、すべて崩し字。官軍側の徳山藩士の記録です。地名の大川が沢山出てくる。フリヨ子さんについて言及されている。5月11日の箱館決戦に参加していて、その状況の模様が詳しい様子。官軍側知府事の命令書なども収録されている。解読…。

○ 五稜郭及函館戦争
活字。箱館戦争を軍事的に分析した資料。
後でもう一度出てきますので、そのときに詳細をいきます。

○ 五稜郭史 (片上楽天、1921年、懐旧館)
活字。製本された小型の冊子で、ふくろうの絵が描かれています。記録というよりは、いろんな記録から抜き出したエピソード集。どこから持ってきた、という初耳ネタも。
中島さんのところは「家重代の短刀と、長子恒太郎、次子房次郎の両人が交互に認めたる陣中日記を記念として幼児の保育その他の後事を託すべき遺書を認め、従僕鍔平に齎し、故国の夫人が許へ送る」とか。中島さんがカノン砲三重発ぶっ放した後に切り込みし戦死したのは、現箱館重砲兵大隊門前錬兵場の西端隅である、だとか。中島さんが千代ヶ岱陣屋を預かった2月からすでに「此処は予が死処也」といっていたとか。息子三男、当時2歳の興曾八は、「温厚篤実で文武両道、工学博士になって斯界の権威、さらに海軍機関中将にまでなり、謙徳に富み、部下を愛すること慈母の赤子に於けるが如く、人に接して些の胸壁を設けず、という名将高士」だそうだ。この父にしてこの子あり。…男に慈母という表現って、当時、結構普通に使われるのか?
木戸さんの死罪の極論を主張して、ことさら薩摩と対立して煽って、薩摩を動かして助命へ持っていった、という意図は、「奇計的中」として、ここでも触れられていました。
あと、圭介が南柯紀行を書いたときの筆は「羊羹筆」と呼ばれていたらしい。(差し入れの羊羹のなかに忍ばせてあったと)

○ 在布哇受洗之始末 (安藤太郎、教文館、1896年3月)
活字。小冊子。超現実主義者で世を斜に構えてみている安藤太郎が、いかにハワイで洗礼を受けるに至ったのか、その過程。面白いです。さすが安藤、生意気光線がまばゆいです。これは、中身が大変面白いので、そのうちゆっくり語りたいと思います。…にしても、今井さんといい、この頃の人たち、ミイラ取りがミイラになるように、洗礼受けているのね…。

○ 書簡書画
和田惟一という方が保存していた「榎釜次郎、大鳥圭介、山内徳三郎 書簡」ということで、軸に貼って所蔵されていました。和田氏がどういった方なのかは不明。
圭介の名前は見当たらないのですが「有感時事」とか「獄中偶成」とか圭介の見たことのある字が。そして見たことのない漢詩が。そしてまた見たことのない筆跡で…。
山内君は、非常に細かい字をちまちま書いています。大変几帳面な字。…見た目の感想しかいえなくてすみません。
あと、圭介の「艦砕砲裂吾事終」の詩の写真が。


○ 函館見聞略記 (たむら某、1869年)
「明治2年函館戦役の顛末を記す」とあります。手書き、和紙。名前がローマ字で書いてある。「苔館砲台止戦顛末記」と最初にあり、千代ヶ岱戦が漢文で書かれている。その後は4月からの官軍侵攻について。
海軍で艦を失ってその後千代ヶ岱に篭って戦っていた人…のような気がする。書きぶりからいくと。これもちゃんと活字にして欲しいというか。その価値がありそうな感じです。

○ 函館記事 ―名義団録 (鈴木金次郎著、浅田麟之輔写、1869年)
「鈴木金次郎記 乙葉写」と表紙にあります。この乙葉というのが、浅田君です。

「徳川幕府陸軍伝習歩兵隊差図役頭取鈴木金次郎なる者の手記を、同僚則不肖乙葉林八其当時は浅田麟之輔が函館の病院に於いて、重傷の療治中に借り受て複写したる者なり」

と、始まりの頁に、朱書きで書かれていました。鈴木金次郎は、下の大川の名簿によると、伝習第二大隊六番小隊の嚮導役です。
「乙葉林八従兄 北総 松(?)元胤雄」 という方が序文を綴じています。
従兄弟が序文を書いておられるとは。浅田君、ちゃんと親族と、仲良かったのね…。いやなんとなく、浅田君、義父の宗伯さん(浅田飴の考案者、名漢方医)とうまくいっているのかどうか心配だったもので。だって、医者の息子が脱走して、稀代の泥沼消耗戦の悪戦を「愉快な戦」とか言ってみたり、銃弾受けて流血して、痛みがないからといってそのまま戦に出て、途中から歩けなくなって籠で運ばれたり。宗伯さんが鶏冠立てて怒りそうなことばかりしているんですもの。

浅田君、相当几帳面で、単に写本したのではなく、名前の間違いや、それは状況が違う、というところを、いちいち朱書で注釈入れています。今井八郎が死んだと書いているのを、それは違う、俘虜となったのだ、と朱書きしてあったり。時々、本文よりも注釈のほうが長かったりする。最初から自分で書けよ、と思います。
あったことを淡々と書いている感じです。ネタはとくに見られません(何を期待しとるか)
浅田君の字も読みやすいです。カクカクした、マメな人、という感じでした。楷書で書いてくれているのがありがたい。といっても、序文があったり、明治2年9月時点の朱書きがあったりしたから、浅田君の写本の、さらに写本、という可能性も捨てきれないのですが。いずれにしても、じっくり読みたいとおもいますー。
あと、なぜか安藤の宮古の話が附録で付いていました。

 
○ 函館戦争記 (大川正次郎)
…最初のページに手書きで、崩し字の朱書きで、なんとなく、「大川正次郎手書之書、平岡氏ヨリ借受ル」とある気がするのですが。とりあえずくずし字用例辞典で確認してみて、多分大丈夫だと思うのですが。
大川手書きィ!?
ということで、勇みました。震えました。鼻血出るかと思いました。
だって、中身。楷書で、チマチマとすんごい小さな字で。めっちゃ綺麗なんですよ。それもどっちかというと可愛い系の字。貴方、日ペンの美子ちゃん、やってたんですか?ってぐらいの。
2分冊になっていまして、1のほうは東大史料編纂所の「奥州南口戦争記」と中身は大体同じ。多少送り仮名とか漢字が違う程度で、写本の段階で変わったものと思われる。
で、2のほうが箱館戦争について。

なんですがっ。
まず、1。

「慶応四戊辰夏四月十一日江戸発向之節 伝習第二大隊 人名表」「蝦夷地諸官員」
ということで、伝習第二大隊、そして箱館における伝習歩兵隊、伝習士官隊の士官名簿と、隊の構成表がありました…!歩兵は流石に全部は名前はなくて、「歩兵五捨六人」とかいうように、人数だけなのですが。脱走時の全士官の名前が。そして、あとから追いかけてきた「生徒」たちまで。そして、「此外隊中エ加ハル者」として、滝川、沼間や武蔵楼橘、岩藤音二郎や陸路千之助たちの名前が。
蝦夷の陸軍構成も。一聯隊、杜凌隊、衝鋒隊、大彰義隊、小彰義隊、遊撃隊、会遊撃隊、新選組、器械方、工兵隊、海軍まで。

…大川、よくやった!! いや、あちこちの資料から分かっている分だけでも作りたいなぁ、と思っていたのですが。これで、脱走時の隊の構成、士官がわかりました。後でまとめてアップしたいと思いますー。

更に、手負戦士人名、ということで、死傷者リストが。これには歩兵の名前までちゃんと入っています。ちゃんと森三之丞(柿沢)もいるのですが。集計したあとに、つけたしで書かれていました。柿沢、会津との間で立場が微妙だったのかしら。

にしても、北関東・東北で戦死は士官34人、歩兵91人。手負は士官34人、歩兵は89人。30-40%が士官だ…。人数比を考えると士官の損耗費がすごい。蝦夷ではもう少し率は下がりますが。目立つ格好で前にいるから打たれやすいというものでしょうけれども。古今東西、ちょっと考えられないぐらいですよな。
で、なぜか一番最後の頁に、書きかけのを裏返して閉じてあったのですが。伝習歩兵隊の名簿。
名簿では、
伝習歩兵隊
頭並介 浅田麟之助、
改役頭取 岩藤音二郎、
頭取 山口朴朗…

とあるのに対し、裏返しのほうは、
伝習歩兵隊
改役頭取 岩藤音二郎、
頭取 山口朴朗

とある。…大川、箱館で、浅田君を忘れて書き直していたんだ…! しかも、書き損じた紙を、勿体無かったのか、ひっくり返して最後の余白分として綴じてある。そんな変なところだけ、上司の真似してケチしなくてもー。
いや、入院療養中だから最初は飛ばしていたけれど、やっぱり隊長としてちゃんと含めておかなければ、ということなのでしょうか。なんというか、ちょっとした関係性が見えて楽しかったです。

で、巻二のほうなのですが。箱館戦争部分なのですが。
…上の「函館記事」と、内容一緒やん…。 いや、やっぱり微妙なところで違いが結構ありますが。大枠は大体同じ。まだ一部を見ただけで、全文を照らし合わせたわけではないのですが。どちらかがどちらかを写したんだな。謹慎中の暇なときに。どちらがオリジナルかというと、浅田君が療養中に写したというから、鈴木のほうなのだろうか。うーん。
名簿に比べると字は多少雑な気もしますが、それでも綺麗です。今度から大川を見たら、「美子ちゃん」と呼んでしまいそうです。


○ 大鳥圭介と西洋式胸壁四稜郭について (片山宏、1998年、回廊第3号)

○ 英学者の脱走軍工兵隊長吉澤勇四郎と箱館戦争 大鳥圭介との関わりを中心に(1999年、回廊第4号)

○ フランス学者の小菅辰之助と箱館戦争 榎本脱走軍工兵隊もうひとりの隊長 (片山宏、1999年、回廊第5号)

えーと、この素敵な題名の論説については。…何というか、ツッコミどころだらけなので、これも後日に回します。いや、いい仕事してくださっているんですけれども、その解釈が…。

ま、まだまだあるのですが、とりあえずこんなところで力尽きます。明日飛行機乗り遅れそうだ。
てことで、いつになるか分かりませんが、また次回。

    [2] 空 2006/01/10(Tue)-12:50 (No.152)
    またお邪魔します〜
    函館、とても寒そうですね。
    去年の5月に行った時でさえ、肌が空気で切れるのでは
    ないかと思うくらいの寒さだったのに
    今や真冬まっただ中。お体気をつけてくださいね。

    こんな図書館もあるんですね。感心しました。
    ぜひ私も立ち寄ってみたい。。。
    こんだけ素敵資料があるんですから興奮するのも
    無理はないですよね!!
    しかも大川手書きの書!?
    なんだかすごい物見つけちゃいましたね…!
    その可愛らしい字を私も見てみたい〜〜〜
    そして書き損じも見てみたい〜(笑)
    詳細もありがとうございます。
    伝習隊の編成表、アップ楽しみにしてます♪


    余談ですが、
    「140年前の気温だったら多分このぐらいか」
    とあってちょっと気になってネットで調べてみましたところ

    >旭川の最低気温は明治時代には−30℃〜−35℃前後、最低は−41℃であった。 −41℃を記録した1902(明治35)年1月25日は、青森県八甲田山で行軍隊の 雪中訓練で多数の兵隊が凍死した年月と一致している。
    しかし、最近の旭川における年最低気温は上昇し、−30℃以下の極低温は 出現せず、−20℃〜−25℃前後となっている。この上昇傾向は何によるのか?

    と、とあるサイト様にこうありました。
    場所は函館でないにしろ、相当寒かった事が伺えますよね。
    そんな中訓練しなくても、、、とおもいましたが;
    箱館戦争で溺死などは目にしますが
    「凍死」って見ないような気がします。。。
    まだ勉強不足なので、見逃している部分もあるとは思いますが。。。
    う〜ん、昔の人は暖房機具がなくても
    過ごしていたんだから凄い、ですね。

      [3] 入潮 2006/01/13(Fri)-01:41 (No.156)
      書き込みありがとうございます。
      今回は寒いし、雪と氷で歩くのも難儀だったので、すぐにタクシーを使ってしまった無精者です…

      手書きの書。いや、未だに違うよ、という声が聞こえてきそうで怖いというか、それならそれでむしろ安心な感じであるのですが。ひきつけ起しそうになった自分ってかなり変だと思ったのですが、空さんが、自分も見たいと仰ってくださって、嬉しいです。ほっとしました。

      わざわざ気候について、お調べくださったんですね。ありがとうございます〜。
      旭川は内陸なので、年毎の気温変動も大きいかと思うのですが、函館でもやっぱり、今より5℃程度低かったと思えばいいかもしれません。旧暦5月頭の夜襲のときに、「風雪に乗じ」と吹雪だったようですし。
      たしかに、凍死は見たことがないですね…。歩兵の木綿服など、かなり寒そうなのですが。野営もしていますし。苦労がしのばれます。
      新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は、本当に読むのが苦しかったです。夏に読んでも凍死しそうだった…

      暖房は、練炭の火鉢と、薪でしょうか。二千以上の兵のための薪の調達も大変そうです。
      雪中行軍でひえぇ、と思ったのは、松岡四郎二郎と一連隊の稲倉山・鶉村攻めの時と、圭介の視察踏査です…。温泉に張り付かなければならなくなったブリュネさんの病気は、酷いしもやけか、下手したら凍傷だったのじゃないかと…。
posted by 入潮 at 03:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月13日

函館市立中央図書館2 函館戦争日記、碧血碑建築始末、他

函館市立図書館漁り。次いきますー。

● 函館戦争日記 (岩橋 新吾(教章))

手書。表紙には原本、とあるが、「明治45年製本改造」と中表紙にある。
明治2年4月8日から日記が始まっている。淡々と戦の推移と死傷者名を綴る。
注目は、五稜郭の砲台配置。海陽、神速、千代田形などの海軍士官が、五稜郭守備砲兵として、第一番砲から第十番砲まで配置されているリストがある。「此砲毎ク二十四斤砲加農砲ナリ。発砲スル如ノ榴弾都ヲ百四十四弾、同霧弾七発、四斤砲十一発」と、五稜郭砲装備についても触れている。
出五稜郭、波岡路上、発弘前、河口路上、とそれぞれ、漢詩を作り、和歌も多数収録している。
名簿「戊辰役函館戦争人名書」がある。浅田が頭並、本多が伝習歩兵隊長になっている。内田万次郎の肩書きが「少年」ってどうなの。

● 碧血碑建築始末 附観会津十六士自尽図引

碧血碑建立の顛末を記した記録。「本年九月有志ノ徒一社を結ビ、徳川会津其他戦没セル人ノ為メニ一碑ヲ函館港第一大区五小区尻澤邊町二百二十五番地二建テ題シテ碧血碑と云フ。社中総代理トシテ近松末松三郎、宮路助三郎等其事ヲ督ス」とあります。建立のために会社を設立したとのこと。また、建立の土地は、開拓使庁から寄付を受けたとのことです。官軍を慮ってとか、口を大きくして供養も出来なかったといわれていますが、会社が認められたり土地をもらったりと、結構政府側に理解はあったようですな。
後、建築費の計算書がありました。石代・石工代、海陸運送賃、金具類、傭人費、雑費などで占めて三千百五十九円七十三銭七厘二亡。当時の物価を考えると、かなりのお金がかかっています。1円1万円として、現代の感覚で3千万円か…。


● 明治太平記 村井静馬編 1875年 延寿堂

いくつかの異本のある当時の小説ですが。絵本としても楽しめます。
滝川スキーです。駒井正二郎と滝川の戦闘シーンがある。滝川は何故か薙刀。「賊将滝川甚だ激しく先此日ハ力戦して官軍の目を駭かさんと、精兵数百を率へ壁を踰へて突く」ヒーローです。
木古内で兵を退却させようとする圭介は「周兵故なく此を棄て退くを肯かず。されども大鳥思慮ある由、人に辞を尽し利害を演て只管陣中を走回り諸隊長を説諭せりし」
他、有川や七重浜夜襲も詳しいのが嬉しい。小説といえど、よく調べて書かれている感じです。時々誇張もあり。

● 五稜郭及函館戦争 著者不明

衝鋒隊戦史や大鳥圭介伝の著者、山崎有信氏が東京の古書展覧会で入手したもの。「五稜郭、弁天砲台の要害及び箱館戦争を軍事上より研究したものである」と注釈があります。山崎さん直筆の緒言が突いています。中身は山崎さんが赤字で訂正を入れている場所がちらほら。
後ほどまとめますが、山崎さん、本職は弁護士ですのに、戊辰戦争関係ではかなりいい仕事をされています。

中身は活字。箱館重砲兵隊副官が識を書いている。箱館戦争の戦術を軍事的に分析した資料。各戦闘は、地図で、小隊・艦の戦闘配置の図を現しているのが嬉しい。五稜郭平面図、断面図も。軍事分析をした資料としてはかなり質が高くて貴重だと思う。
大野口の戦いで「大鳥圭介銃声ヲ聞キ峠上ヨリ急進シ人見等二合シ官軍ヲ撃ツ。官兵苦戦退て城山鄭の営に拠る」とか、木古内で「官軍払暁木古内ノ賊営ヲ襲フ。大鳥等渓谷二伏兵ヲ置キ官軍ヲ包囲ス、官軍苦戦攻撃」など、矢不来や七重浜など、圭介の行動が結構ある。
さらに、箱館決戦のときの配置が詳しいのが嬉しいです。これによると、官軍の第一部隊〜第三部隊の七重浜地区・桔梗野地区・大川村地区が山田市之丞、「奇兵」とある箱館地区が黒田了介になっているので、やっぱり了介、寒川奇襲のほうに居た、ということでほぼ確定だな…
あと、権現山地区は本多、亀田地区が大川、七重浜地区が圭介、箱館地区が滝川、弁天台場が永井様となっていました。決戦の守備、伝習隊が牛耳ってる。単に著者が伝習隊びいきだったのかもしれない。

こ、これでようやく1日目。さらに、2日目、それで飽き足らず、昼の飛行機に乗る直前まで3日目午前中と居座ってました。まだ続きます…。


さて、ここまで触れておいて、今更、という感じではあるのですが。
こうやって、古文書のオリジナルをご紹介することに対する躊躇いは、やはりあります。以前の「流落日記」のときの反省もあります。こうして所在や存在を明らかにすることにより、資料へのアクセスが多くなり、同時にその破損の確率も上がっていく。また、自分ごときがミーハー的に心なしに触れるのも、資料に対して失礼ではないか、という恐れもあります。実際、自分がページをめくるたびにこの資料が傷んでいくのだ、という実感があります。

ただ、やはり、眠っている資料を、倉庫の中で埃を被らせて眠らせておくままだと、それは、「ない」ことと同じことなのではないかと。せっかく故人が記録として書き留めたものは、やはり、何らかの形で活用され、彼らが生きた軌跡が世に現れたほうが良いと思うのです。

そしてやはり、その資料にご自身の時間と労力を注ぎ込むことの出来る研究者の方に触れてほしいと思うのです。こういったものが「ある」という情報そのものが、資料の一般化への動力にならないかなぁと。一旦活字になると、古文書に触れる必要もかなり少なくなりますし、アクセスが増えるとマイクロフィルムも作成されやすくなるかと。「箱館戦争史料集」は解説者の方々、とても良い仕事をしてくださってますが、あれに収録されたのは、数ある資料で、価値が高いと判断されたほんの一部にすぎないわけで。でもやはり、埋もれたままのものというのはあると思うのです。

大川の伝習第二大隊名簿や死傷者名簿は、一般の方にとっては、「ふーん」ですが、あの頃との直接の接点を求めようとされている方にとっては、大変ありがたいものになるのではないかと。
そうでなくても、単に一人一人の名前を眺めているだけでも、あぁ、この人たちたち生きていたんだなぁ、という実感が沸いてきます。この人たちにも、親がいて子供がいて。中には祝言あげたばっかりの人もいたんだろうなぁと。大川が無傷だったというのは、奇跡的というか驚異的というか、今井と二人、強運(悪運)コンビだなぁとか。自分としては、この実感を大事にしたいですし、この実感が、歴史をただのエンターテイメント以上のものに膨張させるのではないかなぁと。

以前の繰り返しになるのですが、オリジナルの資料に触れようとする場合は、まず「守る」ということ、つまりその資料を今より悪い状態には決してしない心がけをすること。手を洗う、ページを入れ替えない、折り曲げない、書き込みをしない、指輪などアクセサリーをつけない、筆記には鉛筆を使う、水気は大敵、など。当たり前のことなんですが。
そして、「生かす」ということ。その資料から得たもの、自分の発見や考察、評価を何らかの形で世に明らかにするという責任があるということ。
この二つを、心がけていただければなぁと思います。

自分なぞがのたまうのも、何も効力も拘束力もないことですし、資料持ちながら、眠気でカックンカックンしていた人間の言うこっちゃないんですが…。げふげふ。


    [2] 鐘ヶ江蓮 2006/01/13(Fri)-11:26 (No.157)
    怒涛のような情報、有難うございます。
    古文書のオリジナルをご紹介することに対する躊躇い…入潮さんのおかげでお宝を知ることが出来るのはひたすら有難いですが、そのお気持ちもわかってどきどきびくびくしました。お言葉に添えるようにありたいな、と思います…。

    …で、「大川正次郎手書之書、平岡氏ヨリ借受ル」って!
    わ、わー、大川正次郎所蔵、の活字をどこかで見て、そう言われてみればそう見えてしまったのが情けないです。
    あれが大川の直筆だったらなんて嬉しい!! 私も大川を美子ちゃんと呼びたいです。もっともあんな綺麗な字を書くのだとしたら、「奥州南口戦争記」の誤字っぷりは不思議ですが。でも写本の写本で野口さんのせいなら…(人のせいにするのもどうかとは思いますが)。字が小さいのは、謹慎中にちり紙を倹約して書いたとかいう話もありましたし、そんな都合でかもしれませんよね。
    ついでに先日「函館戦争記」に安藤の宮古あたりの話が〜とか言ってたのも、「函館記事」との取り違えだったでしょうか。相変わらずうかつですみません。

    名簿のアップも早速ありがとうございます。改めて眺めると見覚えのある名前がちらほらあって楽しいです。
    吉沢鎌五郎、「守一伝」は沼間の会津行に着いて行った下士官であるとしていて面白いなと思ってたんですけど、この名簿がネックなんですよねー。差図役並なら下士官ではなく士官のはずだし、ここは大川をとるべきでしょうか。
    あと2番隊差図役の鈴木さんは、復古記北戦(巳太郎)、東大版北戦(巳五郎)、奥州南口(巳之助)とこれが全部違う表記で、なんなんだろうと思います。

    あ、岩橋 新吾「函館戦争日記」の「内田万次郎の肩書きが『少年』」はすごい字面ですが、衝鋒隊内部でのポジションが「少年無役」だったのが省略されたのではないでしょうか。

    今も出張中でらっしゃいますでしょうか。
    お体お気をつけて頑張って下さい。ご無事のお帰りお待ちしておりますv

    [3] 空 2006/01/13(Fri)-11:54 (No.158)
    こんにちは〜。
    寝不足、大丈夫ですか??
    私も気になる事があると、「寝る」と言う事を
    忘れてしまいがちです^^;

    伝習隊の編成表、早速アップされていましたね!
    お仕事早いです。すごい。
    しかも見やすいです♪♪
    私と同じ名字の人もいて嬉しかったり…(笑)
    参考にさせていただきます…!

    旭川と函館、書き込んでおいて、しばらくして
    だいぶ位置が違う事に気付きました;
    すみません、無知で。。。
    それでもいまより5度ちがうというのも凄いですね。
    1度下がるだけでも大分違うと聞きました。

    >ブリュネさんの病気
    あ、これ、どこかで見ました。。。
    なんの資料だったでしょうか;思い出せない。。。
    そこには「しもやけ」とあったような気がします。

    好きな人物の手書き、すごく嬉しいですよねv
    適塾行った時に見た大鳥さんの書や、
    日野へ行った時の土方さんの手紙など展示されていましたが
    嬉しすぎて顔がどうしてもにやけてしまうんです。
    手書きでなくても、古書屋で見つけた古い本の中に
    「大鳥圭介」と書いてあるだけでも興奮します。。。
    私も実はこんな自分がおかしいのでは、と思っていましたが
    皆そうなんですよ、きっと(笑)

    >あぁ、この人たちたち生きていたんだなぁ、という実感…

    すごくその気持ち、わかります。。。!
    なんというのでしょうか、生きて戦ってきた人達の名前が
    文字だけなんだけど、色々と考えてしまうというか。
    当時の息吹きっていったら大袈裟でしょうか。。。
    「必死に生きて、戦って、死んで」
    大川が残していなかったら、こうして私たちに知られるはずもない人たちですし、
    そういった名前が発見できたのはその人達の供養にもなりそうな気がします。

    資料を見る上での心掛け、
    >指輪などアクセサリーをつけない
    知りませんでした。。。 
    そうですよね、アクセサリーで本をやぶってしまったりする可能性もある訳です。
    知りませんでした。とことん無知です;
    今から肝に命じておきます。

    毎度の事ながら入潮さんには感服です。
    はっきりいって、憧れです。。。
    これからも入潮さんらしさ、楽しみにしています。

    追伸:以前お送りしたメールの件ですが、少しなのですがお伝えしたい事ができました。
    またメールを送っても良いでしょうか??
    よろしくお願いいたします。

      [4] 入潮 2006/01/15(Sun)-00:47 (No.159)
      ● 鐘ヶ江さま

      いやもう、鐘ヶ江さんのような方がいて下さるから、収穫をご紹介したい、という気になってしまうというものです…。鐘ヶ江さんのようにモラル高い真摯な姿勢を、見習いたいと思います。

      大川の几帳面さ、美子ちゃんぶりは、戦闘の鮮やかさとあいまって、どこまでも器用で如才ないニクイ男、というイメージが高まる一方です。いや、「借受ル」として更に写本されたものだ、という可能性も捨てきれないのではあるのですが…

      東大史料編纂所の「奥州南口戦争記」は、維新史料編纂会の原稿用紙に書かれていて「本会作成」の判が押されているので、東大版が編纂のために作成した写本なのだと思います。誤字。たしかに、「函館」と「奥州南口」、ちらりと確認しただけで、「正月」が「二月」、「雄水」が「碓氷」、「諸川」は「緒川」…、探すとたくさんでてきそうです。その割りに、函館戦争記のほうで「報恩寺二至ル二逢」となっているところ、奥州南口戦争記のほうが「報恩寺二至リ大鳥圭介ノ至ルニ逢」とあったり。写本の段階で書き足したのか…。

      写本は筆写する過程で結構色々な写し間違いが入るので、油断できません。けれども、色々比べて見ると、写し取る人の癖などもわかって面白いですよね。

      宮古の話ですが、すみません、大川の「函館戦争記」、鈴木金二郎の「函館記事」、両方に附録としてついていました。紛らわしい書き方をしてしまって申し訳ないです。
      だれが誰のものを書き写しているか。写本ネットワークというか。関係性を推測するだけで楽しいです。

      そして二番小隊差図役鈴木さん、すでにそこまで比較されているとは、お流石です…。みたろうさんとお呼びするのでしょうか。姓が鈴木の方は沢山いらっしゃるので、名前で呼ばれていたと思うのですけれども…。ひとまず原典に近いほうを信じるしかないのでしょうね。

      内田万次郎少年ですが、岩崎氏、今井弟の省三君、田村銀之助、森川富次郎、加藤国三などは、「総裁附少年」となっていて、万次郎だけがちょっとはずれて「少年」でした。「少年無役」が直ぐに出てくるのもお流石です。あと、山内六三郎(堤雲)が「無勤」というのもかわいそうだと思いました…。
      鐘ヶ江さんの真実を追究するのに妥協しない労力を惜しまない姿勢には、いつも学ばされますです。


      ● 空さま

      寝ないと、そのときは良いのですが、翌日が辛くてパフォーマンスが落ちるので、全く考え物です。好きなことをしていると良いのですが、空さんも体調にはどうかご留意をば〜。

      名前を見ているだけで飽きないというか。知っている人と同じ名前だったりすると、偶然ですけれども親近感が沸いて、この人どういう方だったのだろう、と興味が尽きません。あと「櫻橘」とか「小杏」とか「計鬼蔵」とか、つい眺めいってしまうというお名前の方も時々。

      南柯紀行には、「ブリュ子此頃湿瘡を患いたれば、十日余も乙部温泉に浴し」とあります。
      これがしもやけと解釈されていたのでしょうか。あと、書簡でブリュネさんの病状に触れたものがあったと思います。

      手書きのものを見ると、その実在感が伝わってきます。それまでキャラクターとしかみてものが、いきなり現実に生きた人間だったんだ、という実感がわいたりします。
      供養、という考えは思い浮かびませんでした。140年たった今その方々の存在を知ることができるのが、どれほどのことなのかは分かりませんが、自分が生きた証があり、それを受け取る人がいてくれるというのは、自分ならやはり嬉しいことだと思います。
      だからこそ、名誉、不名誉の一つ一つに触れる時には、慎重になりたいと思います。…といいつつ、ミーハー心で飛びついては検討なしに垂れ流して間違ってしまって、皆様のお教えをいただいて恐れ入る、というのがいつものことという有様なのですけれども。
      古文書に触れるのは自分もためらいが大きく、怖いのですが、触れる以上はなんらかの生産性を求めて、ポジティブな形を呈し、故人にありがとうと思っていただけるような形に出来れば最高だなぁと思っております。
      空さんも、日を追うごとに濃く深い形で触れていっておられるので、拝見するにつけ、喝采を挙げております。空さんのイラストからも、生きた人間の躍動感が感じられるのは、そういった空さんの姿勢があってこそのことかと存じます。

      メイルですが、ご連絡いただけるのは大変嬉しいです。どうぞお願いいたします〜。
      ただ、不定期に現場入りいたしますので、その際は、お返事が多少遅くなりますこと、申し訳ないのですが、ご寛恕いただけますと幸いです。

ラベル:箱館戦争 碧血碑
posted by 入潮 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月15日

函館市立中央図書館3 訳本「築城典刑」「野戦要務」

すみません。伝習隊第二大隊脱走時名簿ですが、「此他隊中エ加ハル者」で、伝習第一大隊の面々で、会津藩士で加わっていた方、一人「會」の字をつけ損ねていました。朱書きが消えかかっていたので、見逃していました…

「森 健介」→「會 森 健介」です。

ごごめんなさい。そんな感じで、相変らず間違いだらけな人生で、ご迷惑お掛けいたしております…
でも懲りずに函館漁り、次いきます。

大鳥訳本2点。
これまで博物館や公文書館の展示で、遠くから眺めるしか出来なかったのですが。こちらでは手にとってじっくりねっとり、一頁一頁、捲ることが出来ました。

● 築城典刑

「大鳥圭介鋳造活字版 築城典刑 五冊
和蘭 吉母波百児 著、日本 大鳥圭介 訳
元治元年 陸軍所出版
小銃弾を以て曲尺規格ノ活字鋳替」

と注釈があります。
ガラスケースの中で図だけが展示されているのは見た事がありましたが、手にとって5冊中身を見たのは初めてでした。

大鳥が講義で用いていたのだけれども、あまりに生徒たちが写本を書いたり手に入れるのに苦労しているから、活字でちゃんと印刷しようと大鳥が思い立ったというもの。洋学者時代大鳥の代表作。

中を見て、正直驚きました。
今まで、五稜郭四稜郭の設計教科書、ぐらいの感覚でしかいなかったのですが。

・野戦、防御陣の構築、保塁の作り方、地形の見立て、保塁場所の選択方法、測量方法
・道路・橋梁・浅瀬などを破壊する方法、および、修復する方法
・水・木材・樹木・地雷の活用
・橋梁・浅瀬・堰堤・保塁・道路・林・村落・市街等における守備方法、及び、攻撃方法
・様々な地形における奇襲の仕方・奇襲から防御する方法
・永久築城の方法、目的、善悪
・城攻の方法、砲弾の活用方法、補給を断つ方法
・実戦想定の兵訓練のカリキュラム

などなど。主に、永久築城と、野戦用の保塁の二つに分かれるのですが。
その中身は、戦術の立案にかかる、ハウ・ツー実用書でした。
城や保塁の設計方法も無論含まれているのですが、むしろ、どうやって作り、どう守り、どう攻める、という、マニュアル部分に重きを置いています。保塁一つにしても、工事用具が手に入らない場合を想定したり、現場に即した記述です。

「鹿柴」「脚鉤」「拒馬」など、今に残っていない造語も結構沢山。訳には相当苦労したのだろうなぁと窺わせるものがありましたけれども、説明を読めば納得。

中身は結構えげつないです。
樹木や草木を用いた柵、落とし穴、通路のフェイント、様々な地雷と導火線、罠を潜り抜ける敵兵の掃射方法、隠蔽の方法。いかに良地を探して陣取り、相手を落としいれ、自分の身を守るか。そのためには家屋の破壊も森林を焼くのも厭わない。
しっかりと、図入り。

いやほんと、これらを熟知し頭にいれている人、敵だったら本気で相手したくない、と思いました。巻によって主題が違うのですが、二巻などは「貴方も愉快なゲリラ戦プロフェッショナルへ」、三巻は村、町、橋や道路あらゆる構造物を破壊するための「文明の破壊者への道」って感じでした。四巻は築城設計書、五巻は兵隊訓練マニュアル。
勿論、攻撃法を知り尽くしている者が防御法も編み出せる、ということで、防御や修復の方法もしっかりと。
そして、これはたしかに、訳しているだけだと勿体無い。「やってみたい」と思わせるものだと思いました。


● 野戦要務

官版、慶応元年五月、陸軍所。識には「文久三年癸亥夏黄梅月 九萬生大鳥圭介」とあります。まだ「九萬生」を使っていたんだな…

「和蘭砲兵第六レジメントコロ子ルノ著セル野戦要務紀元千八百五十六年ノ刊行二テ其説頗精詳ヲ加フヲ参照シ其功要ナル條件一二ヲ抜抄シ以テ此二並録ス」

とある通り、ただそのまま約したのではなく、重要なところを抜き出しています。中身をちゃんと理解していないと出来ない作業です。

で、こちら。更に、野営、野戦に特化したマニュアルです。

「有事ノ日二当テ我全軍或ハ全軍ノ一部敵ト対陣シ或ハ接戦ヲ為ストキノ勢二基キテ所定ノ者ナリ」

と、すでに戦場にある隊が、敵と対陣、或いは詰め寄って戦闘する際の手引き書。兵法書でも実地の極みというべきでしょうか。緒言には以下の通り。

「司令官ハ其爵位ノ貴賎ヲ論ゼス、而メ兵卒ハ其員数ノ多寡二拘ハラズ、又前衛探索野衛斥候等ノ如ク名称各異ナリト雖、皆戦場二出ツルニ方テハ其所行必一定不変ノ法則アリト思フ勿レ。夫レ戦闘紛乱ノトキニ臨テハ、預メ所定ノ規矩二合シ難キ事亦多シ。此時二当テハ唯我思慮オ智ヲ以テ應変ノ処置ヲ為サズムハアル可ラズ、是レ上下共二須ク銘記スヘキ事ナリ」

マニュアルを書いておきながら、戦場には一定不変ノ法則などない。規定に合わせられないことが多い。そこに置いては各自の思慮知識に基づいて臨機応変に行なわざるを得ない、と、マニュアルそのものの役割を否定するようなことをいきなり書いています。
ただ、知識があれば、不幸にあっても、勲功を立てることができる。これは無事の日に有事の形勢を熟考し、その職務を掌握する方法を知っていれば、その利を得ることが可能ろうということで。
臨機応変に対応するにも、その勘の土台となる知識の重要性について触れています。まぁ、どの分野もそうではあるのですが。ことに圭介の気に入りそうな緒言です。

英軍だけが布テントを使う、という原著の記述のところで、圭介が「圭按スルニ」と、クリミア戦争のセバストーポリ戦では英国だけではなくフランス、トルコの三国とも布テントを使っていたそうです、と自分で注釈を入れている。
圭介、自分のこと「圭」と称していたのか。

前衛の役割を述べている項目。前衛は本軍の通行する道路、地形を探索し、敵の遠近動静を知らせるためのものですが。
「第八十七章 勉励心力ヲ尽クシテ疲労スル事ナキハ前衛司令官ノ最切要ナル任ナリ」
疲れないことが最も重要だと。ちょっと笑ってしまった。圭介…。

そういうのはいいとして、中身は、露営のしかた、歩哨や斥候の使い方、警備の方法、斥候の隠れ方とか戻る際は違う道から戻ると良いとか、哨兵(見張り)の位置・シフト・位置の決め方や無駄な発砲の戒め、野営の方法や警戒方法、前衛、後衛の役割と行動、そして戦闘方法。補給や砲の運搬方法、さらに、野営用のテントというか仮設営の仕方、竈の作り方まで。

これで今日から貴方もゲリラ。
そんな感じで、これから野戦戦闘に乗り出そうという将兵にとって拠り所となるような指南書。戦中、見張りから司令官まで貴方の懐に必携の一冊、という感じです。実際、そういう現場での用途を目処に入れていたのか、手のひらサイズで小さいです。
そういえば桑名の老之丞が、北越の稲葉城の土蔵の書庫で見つけ、懐に入れた、というのが、この野戦要務でしたな。

そんな感じで、訳本ナマ2冊だけ見たわけですが。これだけでも、その対象の選択に、大鳥の実務現場志向が見える気がします。堰堤築法新案のときもそうでしたが。圭介、単に手当たり次第に訳しているのではなく、相当な量の本を読み込んで、実用的・お役立ちのものを選び取って、主要な部分を翻訳してきているわけです。築城典刑は福沢諭吉も訳を試みていますが。

なんか、圭介がゲリラ戦得意、というのがよく分かりましたです。この土台、基礎知識があって初めて、小山や藤原、木古内の陣地構築や臨機応変な隊指揮ができたのだなぁ、と思いました。
もちろん、大川や浅田など、器用で機転の利く勇猛な部下の存在も大きいのだと思いますけれども。彼らを動かすのも、相応のバックグラウンドが必要なわけで。大鳥の場合、部下の功績と自分の功績が剥離していることはあまりないですよな。指揮系統がきちんと見えますもの。大鳥不在の場合の戦闘、というのはいくつかありますが。
「兵を用いること肘が指を使う如く」というのも、もしかしてあまり誇張でもないんじゃないかと思ったりします。

それで、戦略の基本とか大本営の方針の立て方とか、教科書的なことばかりつらつらと訳していたのなら、大鳥が机上の戦略家呼ばわりされても仕方がないところですけれども。
また暴言を言ってしまうのですが、これら、現在の幕末研究家で、中身を真面目に読んで理解して、大鳥を評している人、いるのだろうか…。これらを読んでたら、机上人間なんて言葉はまず出てこないと思うのですが。勘というのは経験知識に基づいて初めて働くものなわけで。その知識の供給源でありこそすれ、これを空論ということ自体が、中身を見ていない先入観の決め付けで、それこそ空っぽの論に過ぎない気がします。

世の中役に立つことをし、クリエイティブである人間ほど、きっちりと基礎を身に着けているわけです。抽象画に秀でる方ほど写実画を学んでいるわけですし、スポーツでも天才ほど基礎を重要視している。これが学問の世界になった瞬間に、なぜか基礎を身に着けている人間が軽視される。不思議です。基礎学問をすっ飛ばす天才ほど世の中もてはやされますが。自分の受けている感じでは、基礎学問を身につけている人ほど、基礎知識を重要視します。逆に基礎がなく現場を知らない人間ほど基礎知識を軽視する。

自分、最初は、大鳥は、戦が苦手だといっても、別に大鳥は戦の人ではないからそれでいいんだ!という弁護を行なう積もりだったわけで。それで戦苦手、に対する反証は、様々な資料で見てきましたが、これら訳本でどうも確信的になりました。

翻訳という作業は、他者への説明のほかに、自分の脳味噌に焼き付けて自分の知識にする作業でもあるのですが。大鳥は原本を理解し、得た知識を自らのものとし、現場でキッチリと応用して見せた。
けれども、現代だけではなく、当時の人間にも、大鳥の経歴だけをみて、決め付けが行なわれていたのではないかな。会津藩士や他隊の人間にはそういう言が見受けられる。けれども、少なくとも大鳥の直率にあった人が大鳥を学者呼ばわりするのは見たことがないです。
…だめだ、なんか、盲目的になってきた。浅田君化する自分。

「江川の塾は兵学を専攻していたためか生徒が少なかったが、大鳥さんが得意としていた築城学について築城典型という一冊を出版すると、諸藩の青年は氏の薀蓄深さに敬服して門に入る者は一時に増加した」という安藤の言ですが。薀蓄ではなくて、この実用性があってこそ、江川の門下生を集めることができたのではないかと。
そして、江川で育った弟子に、宇都宮で、母成で、箱館で、こてんぱんにされてしまうのが大鳥ですが…

そんなわけで、大鳥を机上人間扱いする人がいたら、心の中で「オマエがな」と口の端を吊り上げることにします。いやその、結局自分もそうなんですけど。自分の目で見たものでしか判断しないですから。
オマエがな合戦。


    [2] あろあ URL 2006/01/15(Sun)-20:31 (No.161)
    「オマエがな合戦」に大笑い(笑)!
    わたしも「そーよそーよ星人」なので(信用している人の言を無条件に支持する、自分の意思を持たない人)、これからも入潮さんのご意見に「そーよそーよ!」と同調していく予定です、ご了承下さいv

    『野戦要務』、わたしも以前手に取ってはいたのですが、すっかり忘れてました…! 最悪!
    こういう史料を活かせない奴は、見る資格ないですね(汗)反省。
    入潮さんが紹介してくださったことで、再度読んでみようという気になりました。ありがとうございます。
    そして築城典刑が、まさかこんな実戦向け書物だったとは、と驚きです。
    そんな本を出版して教えておきながら、実戦では放火を禁じ、余計な殺傷・破壊を諫めながら戦っていたんですね…。

    [3] 葛生 2006/01/16(Mon)-01:48 (No.162)
    翻訳における基礎知識のお話。身につまされるというか、普段それがなくて四苦八苦してるので、うんうん、と深く頷いてしまいました。ただ語学ができるだけでは、本は書けないし、訳も作れない。読んで理解することと、翻訳することとは全く別の作業です。訳すためには、全部自分で一回噛み砕かなければならない。実用的な内容であればあるほど、その傾向は増します。仕事してて、いったい何処まで知識を深めればまともな、自分で納得のいくレベルの仕事ができるんだろう…と気が遠くなります。
    圭介の場合、訳本が版を重ね、明治の陸軍にも採用された、という点に限っても、そのレベルの高さは推して知るべしだろう、と。
    そう思ってはいましたがこんなに詳しい内容だったんですね。読みたい…!(←マニアというほどではないが戦術大好き) 近々函館へ行く用があるのでその折にでも、と思いつつも、マイクロなどならともかく実物となると、手を触れるのが躊躇われます…。実際手にするまでは用心してても、手に取った瞬間に我を忘れてしまいそうで怖い。

    にしても、最近某長編小説を読み直した所為か、圭介に大軍を与えて指揮させてみたい、とちょっと思ってしまいました。(圭介の性格はあえて無視で) 
    もしかしたら、明治陸軍も同じこと考えてスカウトに行ったのか。
    あ、関係ないですけど先日古本屋で見かけた『大山元帥云云』という古めかしい本(明治か大正か?)に、大山が「江川塾で高島秋帆に習った」ってなっててちょっと吃驚しました。確かに江川と高島は縁が深いですが…。

    140年前の函館の気温の一例は、慶応2年の箱館奉行の日記によれば、12月28日(旧暦)でマイナス10℃、「甚寒」かったそうです。暖かい日は1月に9℃まで上がることも。とすると今とあんまり変わらない…? でも、年によって差もあるでしょうし。旧暦5月で「風雪」だとすると、明治2年は寒い年だったという可能性もあります。(慶応4年は4月18日に桜が満開になってます)
    幕府任命の奉行が江戸から寒暖計を持参してるのだから、明治1〜2年の冬の気温を記録している人が他にあってもよさそうなんですけどね。

    伝習隊名簿、ふと、宮氏がいない…?と思いました。

      [4] 入潮 2006/01/16(Mon)-21:49 (No.163)
      ● あろあさま

      何を仰いますかー。あろあさんに間違いご指摘していただいたおかげで、こちらも七重浜について確認できました。読んでくださる方の厳しい目があるからこそ、怖いなりに向こう見ずにもなれるというものです。今後もどうぞよろしくです。

      手にとって、中身を確認してみて初めて、そうだったのか、という発見も多いです。
      別に本物を見る必要はないですから、コピーでいいからどこかに置いておいてほしいなと思います。マイクロは見るのに時間がかかるし、読んでいると酔う…

      そして、あろあさん、良くぞそこを突っ込んでくださいました〜!<実戦では放火を禁じ
      あんな「破壊者への道」を教え広めておきながら、自分は「放火は甚だ悪しき趣」、「民家破壊は死罪」、などというのですから。封建の終わりによくこのヒューマニストがいたもんだと思います。高松凌雲もそうですけど。土佐や松前と比べてみると、そのやり方の違いが良く分かります。まぁ、藤原を初め、大鳥の側も放火していなかったわけではないのですが。…ただ、民草の生活基盤を破壊すると、戦そのときは多少有利になっても、後からどんな目に遭うか分からない、最終的に自分の不利益になる、ということを知っていたからこその計算もあったのではないか、とか思ったりして。さらに盲目。

      ● 葛生さま

      経験の滲み出るコメント、ありがとうございます〜。
      翻訳に限らずいかなる分野でも、現場の人間ほど基礎知識を大切にする傾向があると思います。
      仰るとおり、翻訳は、その分野のバックグラウンド知識があって、自分のことばで再構成して語れるぐらいでないと、できる作業ではないですよなー。語学力だけあっても使えない。まず文できっちり説明できる国語力と、一つでも特化した分野の基礎・専門知識があって初めて、語学は役立つものとして生きるのではないかと思います。英語を目的化する教科や、アフタースクールの隆盛には疑問です。小学生にはまず国語と算数と理科の充実が先だろう、と思います。
      自分とこは、土木や電力の報告書を書いて飯食っている会社ですが、皆泣きながら自分で訳しています。完璧な英語より、ヘタクソな英語でも技術的に正しい物を出すほうが、お客様にとっては受け容れられるだろう、と。で、エディターに英語を見てもらっても、技術を理解していないままに英語を直されるので、毎回、意味が変わって帰ってくる。そのチェックに、頭を抱えている現状だったりします。
      だから、訳本は数有れど、それが受け容れられ正しいものとして用いられている、ということそのものが、最初から自分で書くよりもいっそう、難しいことではないかなと思ったりします。

      少なくとも机上の学者やら負け将軍やらの評判があったのなら、明治陸軍も、あそこまで執拗に誘いをかけませんわな…。小説家や研究家は、何を見てものを言っているのか、と思います。「燃えよ剣」…。

      温度に関して、具体的な例をありがとうございます。当時の寒暖計の値が、どのぐらい信用あって今と互換性があるのか分からないですが。地球的な気温動向から見ても、今よりは寒かったと漠然と言ってしまっていいんでしょうね。

      ぐーさんですが(勝手に宮氏をそう呼んでしまう)、脱走後舟形村で滝川と一緒に中・後軍に合流するけれども、宇都宮攻防の際に負傷して、会津西街道のほうから若松へ送られたのではないかと。その後も、第一大隊と行軍を共にしている様子が「谷口四郎兵衛日記」にあります。秋月らと同じ第一大隊附属扱い。で、第二大隊と行動を共にした第一大隊(ややこしい)としては、大川は含まなかったのではないかと。
posted by 入潮 at 14:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月19日

函館市立中央図書館4 箱館毎日新聞

箱館毎日新聞。
明治44年4月から大正3年9月に、数百回に分けて、山崎有信氏が箱館戦争史料を連載してくださっています。
その収集ベースの下書きなども見ましたが。全てこの方、資料をひとつひとつ、手書きで書き写しされているんですよな…。その苦労一つ一つが、この連載に繋がっているのだと思います。
勿論、今のように、デジカメもコピー機もない時代。東京と函館の間を行ったり来たり。一つの資料を世に出すにも、大変な時間と労力が必要だったと思います。
さらに、資料の入手経緯や、著者の経歴も、分かる範囲で明らかにしてくださっているので、大変ありがたいです。

でも、山崎さん、肩書きは弁護士。本職が何でいらっしゃるのか、よく分からない方ですよな…。
山崎さんの資料収集にかかる情熱というか根気というかエネルギーは、いずれまたご紹介させていただきます。

で、今回の収穫の一部は、以下の通り。

● 脱艦日記 著者不明。

鷲の木上陸から。松前攻めのとき、援護にきた蟠龍と、敵福山からの砲戦が詳しい。
また、宮古戦にて、なぜか敵のガトリング砲の撃ち方が詳しい。
4/7、函館在留の外国商人自国軍艦へ立ち退くべき旨「ミニーストルより達しあり。市中の老婦女を非難させる」ことを布告。出火消防のために街港の水桶に喞筒を設けるとか。あと五稜郭で働いていた支那人は、アメリカ船中で殺人罪を犯し、代わりに苦役をさせていたとか、けっこう、アドミ関連事項が豊富。
あと、二股で、敵勢力が盛んなのを見て、ホルタンがセキナイ台場へ引き揚げることを言ったが、土方は是を用いず勝利を得た、という記述が。暴れているのはやっぱり伝習隊。
5/12の伊庭の死に様が書かれている。
5/16の千代ヶ岱、「返り忠のものあり門を開て導くと云ふ」。千代ヶ岱で裏切り者が出て、敵を導きいれる者がいた、というのは初耳だ。
全般的に船の装備や砲弾の記述が詳しいので、著者、海軍出身かと思うのですが。よくわからないー。武器オタクっぽい香りがする。圭介と話が合いそうだ。

● 「東走始末」「函館の役」高松凌雲

箱館病院代表、赤十字先駆けの高松凌雲から見た、箱館戦争。
凌雲さん、榎本、松平から病院の頭取となることを依頼されるけれども、最初は辞し、他に適任者がいないからやむを得ず院長を引き受けたということ。この際、諸隊の患者が、またはその隊そのものが我侭を言っては病院の事務に支障がでるから、病院はその権限を一任されるという書付を得るということが条件だ、としたそうな。しっかりしていらっしゃいます…。

松前戦では多少怪我人が運ばれてきたけれども、あとは宮古戦まではヒマだったとか。病院が手狭だったから大工を雇い入れて改築したとか。宮古戦で15人、4/19の松前戦で46人の負傷者が運ばれて大忙し、高龍寺分院としたとか。戦況と連動した病院の過程がよくわかります。

榎本対馬さんが、凌雲さんを士分の負傷者と共に室蘭へ送ると命じたとき、高松さん、室蘭に行っても糧食薬品は直ぐに尽きる、あとは捕虜になるだけだ。この病院は自分の城だ。病者と生死を共にするのみである。室蘭に逃げるぐらいなら病院を去って銃を取って一死あるのみ、と答えた。
凌雲さん、清廉でプライドが高く、天才っ気があって、気の強い方、という印象です。

5/11の決戦の日、小野権之丞(滝川の挙動を認めた日記著者)が、分院に行き、ロシア領事を訪れたときに官軍に捕らえられ、八幡神社の鳥居に縛られ鞭打たれ、顔面を怪我した。けれども、アイヌに助けられ、アツシを着て市人にまぎれて逃げ、夕方無事戻ってきたのだそうな。
函館病院も、いろんなドラマがあります。

戦後の阿州藩の謹慎の様子も詳しい。戸は障子だけで服は薄く寒くて仕方なかったとか、食事は打出し飯と味噌汁、沢庵、梅干だけだとか、正月に鮭は出たが餅はなかったとか、夜中は鼠の襲来で残飯を投げたら群がるのが面白かったとか、一回も沐浴できなかったとか、こっそり厩の馬用たらいに湯をもってきてもらって2回だけ行水したとか、この時にリュウマチを煩って一生悩まされた、これ全く阿州藩の賜物だ、だとか。凌雲さんも、状況の不満と人の悪口を言い始めると、止まらない人ですな。

函館病院の治療歴という、貴重なデータも。

死傷者合計1340人。380人銃創金創。内97人死亡。
958人病気、34人死亡。
合計1061人快復。 函館病院外における治療は不明にして、含んでいない。

半分野戦病院と化していたとはいえ、10月〜5月、半年あまりので一つの病院で担当した治療としては、すごい数なのでは。年に数人しか相手にしない船医ばかり見ていた外国人が驚いたというのも分かる。


● 南部宮古岬列戦 西村兼文

著者は京都西本願寺の侍臣の方。「壬生寺境内に新選組を設置するや、兼文其隊士と親交厚く、ゆえに其隊士の姓名を詳にし…之を索め其の都度時事を筆記して新選組始末記と云ふ。其の中に南部宮古の役を記載したる箇所あり」と序文。

それで「土方歳三は常野奥羽の各所に於て勇戦衆を驚かす」で始まっているので、やっと来たか、土方正当資料…!と沸きました。中身は宮古海戦から5/11までで。

宮古湾の案の出所は榎本。榎本が攻撃策を求めると土方が進み出て、回天にアメリカの国旗を立てて不意打ちすべし、といい、不肖歳三なりといえども一命をここに捨てて甲鉄に切り込むべし、と宣言。
最初から回天一隻で当たるような感じ。回天の切り込み一番手は野村利三郎。野村は七人と切りあって槍で刺し殺されたことになっている…。
土方の今日の働きは「京師以来の大烈戦」、その後の戦も全て「土方は先鋒を勤め勇を鼓したり」というのは抽象的だけれども良いとして。「5月16日、五稜郭の烈戦後、土方歳三民家の屋根に上り、官兵の陳列を遥見し居たる際、一声の銃丸飛び来たり、胸より尻に打ち貫きたれば、さしも剛強勇壮たる土方も堪り得ず真逆さまに屋根より転び落ちて一元もなく死したり」。
あ、箱館まで土方に随従し百戦の中に軍労を尽くした人の名前のなかに、山口次郎が。

えーと…。どうも、数ある資料と著しい齟齬が見られる気がするのですが。何が本当で何が作り上げられたものなのか分からない感じで。どうも、当時の新選組好きな方の創作話、という感じでしょうか。
もしかしてこれが「史料」として、新選組研究の材料にされたり小説のソースになったりしているのでしょうか。
…これ、山崎さん、も困ったのじゃないだろうか。
と思っていたら、原本は「回天」が「開陽」だったらしい。山崎さん、しっかり但し書きで、著者は「壮年の頃より世上の奇事を好」む方で、「事実誤の箇所往々あり、従来掲げ来りしものと対象せば直に判明すべきに付、一々訂正せず」とされていました。匙を投げたっぽい。…お疲れ様です。
辛口ですみません。期待した分落胆が大きかった…。決してこういうのを選んでご紹介しているわけではないのですよう。えぇと、当時から新選組・土方ファンはいらっしゃった、ということで。はい。


● 一季の物語 大塚霍之丞

元見廻組、彰義隊。
アイヌのメノコの話を初めとして、日常的な話題も結構含まれている。「五稜郭内に金銀座を設けて、頻に是を鋳る」と、脱走金鋳造の話も。
明治2年の1月、正月に正賀して、2日から訓練をしたとか。17日に兵隊ことごとく整列して、上(神)山の亀田八幡宮を参拝して神酒を全軍に振舞ったとか、この時外国人らはその多勢にして勇敢なることに驚嘆したとか。此処にいたって守備兵を増したとか、幕政の際に支那の海賊40人を捕らえていたが是を工兵の人足として使ったとか。
あと、大塚は、矢不来・茂辺地に参戦していて、敵陸軍が蟻の大群に見えたとか、様子がリアルで詳しい。
5/15に丸毛牛之助(利恒)画松前津軽の捕虜11人を敵軍門の長州の澤要助に引き渡したとか、16日の敵の艦砲射撃が挙げしく、酒を飲んでいた兵卒に弾丸が当たり、首が屋上に飛んで体は依然として杯の前にあったとか
苅屋何某が誤って地雷を踏んで爆死、細谷安太郎と貝塚道次郎が重傷を受けたとか。これ、山崎さんが大鳥圭介伝で取り上げていた話です。出典どこだろうと思っていたのですが。山崎さん、結構な部分をこの「一季の物語」から引用していました。

あと、榎本さんが、今井信郎に少年は恭順するように説かせた。すごい人選だ。でも田村銀之助は「卿等我等少年を侮りて辱しむるや、今日に至り何ぞ志を屈せんや」と聞かず、今井は言下に嘆称した、というエピソードも。今井さん相手に食って掛かった少年銀。困る今井さん。絵になります。

で、士官は笑って士を待ったが、歩卒は筏を組んで五稜郭を脱出した。これを見て榎本は嘆息し、ここではじめて、衆人を助け自分ひとりを投する決心をした、とのこと。
…大塚、榎本の切腹を止めようとして指で白刃を止めて深い傷を追った人なのに、切腹について一言も触れていないのはなぜだ…。謙虚なのか何なのか。

で、降伏の議のとき、「彼の軍艦何某、榎本に謂て曰く、今日開陽あらば今ここに会見すること又難からん。榎本笑て曰く、向に甲鉄を獲ば又如何と、互に談笑して去る」という会話があったとのこと。榎本さん、この時は冗談だっただろうけれども、開陽あったときは本当に勝つ気だったんだな、と思いました。
で、開城の際は金銀は全て分配したとのこと。
降伏全将兵1008名。大塚は称名寺に謹慎し、22日に青森の蓮華寺に金庫。6月11日に弘前の最勝院、7月8日に眞教寺へ。
大塚、総裁付だったためか、かなりの榎本好きで、開拓使時代榎本が所有した土地の管理なども行なっている人です。

巻末には諸官員名簿も。隊ごとに士官が書かれているのですが、大川名簿ほど詳しくはないです。伝習歩兵隊はだいたい一致しているのに、伝習士官隊は激しく違う…。「大野左仲」はご愛嬌。

503話のコピーを取り損ねてしまった…。くぅー。


● 感旧私史 丸毛利恒

こちら、参照・抜き出しをされている方が結構多いので、旧幕府など、他の出版物に掲載されていたんでしょうか。前から読みたかったのですが、こちらで初見。
丸毛は「北州新話」の著者。毎日新聞記者も勤めた丸毛なので、筆まめ人本領発揮という感じ。分量が多かったので、コピー取りながらだんだん恨めしくなってきた。時々ふっと、マイナー伝習隊員が現れるので侮れない。私史というだけあり、私的な見方で視野は広くはないですが、一つ一つの記述は南柯紀行よりはるかに詳細。箱館戦争でこれ以上に詳しい資料はめったにないと思います。後日談の視点で、太政官日誌などと比べながら書いているので、日付もかなり正確なのではないかと。
あと、大塚と同じ彰義隊でコミュニケーションが多かったせいか、「一季の物語」と重複している記述もけっこうあり
他の資料にない真新しい記述を抜き出すだけで、かなり長くなるので、別途ポストしようと思いますー。



さて、これら函館毎日新聞の連載部分を抜粋してコピーしたものを、函館市立図書館が所蔵しています。
以下、所蔵されている箱館戦争関連資料のリスト。函館市立図書館で検索するとすぐ出てくるのですが。自分用メモということで。

◇ 「函館戦史料 1−8」 明治44年3月3日〜9月29日連載

譚叢 宮本小一
夢の世島千誌 屋代淳之丞
浮世成行枕夢物語 屋代淳之丞
諸所要地の戌兵、諸隊戦闘の勝敗、佛国教師人名、諸隊人員の概略、諸候方 中島鍋次郎
雨窓記聞 小杉雅之進
函館戦争日記 岩橋新吾
日記 野田大蔵
胸中記 野田大蔵
死生の境 野田豁通
幕末裡面史 寺澤正明

◇ 「函館戦史料 9-13」 明治44年9月30日〜大正2年4月2日連載

函館戦争 中牟田倉之助
五稜郭築造苦心談 武田栄一
蝦夷日記 著者不詳
津軽藩と函館の役 中村良之進
説夢録 石川忠恕
天極記 著者不詳

◇ 「函館戦史料 14-17」 大正2年8月28日〜大正3年6月26日連載

感旧私史 丸毛利恒
南柯紀行抜粋 大鳥圭介
東走始末 高松凌雲
函館の役 高松凌雲
日本軍人の伎倆進歩と戦捷 高松凌雲
函館余音 山崎有信
一世一夢 寺澤正明

◇ 「函館戦史料 18-21」 大正3年4月19日〜9月16日連載

一季の物語 大塚霍之丞
北洲新話 丸毛樵峰
南部宮古岬烈戦附諸隊士始末概略の事 西村兼文
脱艦日記 著者不詳
美加保丸の難破談 山田昌邦
美家古廼波奈誌 安藤太郎
幕府の軍艦蟠龍丸の記 横井時庸
慶喜公より松平太郎宛て書並に榎本氏の函館における宣誓書 山崎有信
黒田清隆の同情 山崎有信
函館戦争日誌 戸川残花
幕府の軍艦開陽丸の終始 未完 沢太郎左衛門


かなり見逃しているなぁ…。「函館戦争」中牟田倉之助とか、「胸中記」「日記」野田大蔵とか、「天極記」とか、「幕府の軍艦蟠龍丸の記」とか、見たかった。今度いつ取りに行けるか…。

「旧幕府」などに掲載されたのも多いと思いますが、箱館戦争、という視点からは、この連載ほど固まって揃っている資料はないのではないかと。これに「南柯紀行」(今井・小杉含む)と「箱館戦争史料集」があれば、いい感じで活字は網羅できそうです。勿論、活字になったことのない資料も多いのですけれども。

新選組研究家やファンの方も、戊辰や箱館新選組を語るのなら、新選組関係だけではなく、このあたりの資料を当たられると、フィクション像に揺らがされない、実体としての土方像、新選組像が見えてくるのではないかと思うのですが。
…… い、いやその、嫌味とかじゃなくて、ほんとに、本気で。
だって、新選組の内輪史料だけでなく、官軍・旧幕軍・新聞世評などの諸資料の比較をベースにして、当時代における位置づけまで検討した箱館の土方・新選組語りって、プロの方、ファンの方問わず、寡聞にして、見たことないんですもの。(また暴言を…)
もし既にそういうのがございましたら、単に見逃しているだけですので、どうかご教示賜りたく。げほげほ。
あ、会津の渋い土方資料、ご馳走様でしたー(虚空へ)! ちゃんと探せばあるんですよなぁ。


    [2] ままこっち URL 2006/01/19(Thu)-23:23 (No.165)
    入潮さんこんにちは。まだ出張中でしょうか?
    東京はまだ急激に寒くなっています。。
    ところで。独自に歴史研究をされている「あさくらゆう」さんをご存知でしょうか?あさくらさんが、ケースケの未公開日記を見つけられたそうです。何でも、南柯紀行で抜けている部分だそうです。そのうち、解読&公開していただけると思いますので、楽しみに待ちたいですね!
    お忙しい中メール返信ありがとうございました♪体調気をつけてください(私は胃をやられました・・・)

    [3] 葛生 2006/01/20(Fri)-14:11 (No.166)
    宮氏の件、有難うございました。
    ついでと言っちゃ何ですが、「小川町の1大隊を幕府第6連隊に編入」という情報、ソースは何処なのでしょうか…。陸軍関連資料を適当に見て歩いているんですが見当たりません。図々しいですが、ご教授くだされば幸いです…。

    西村兼文翁についてですが、新撰組研究でもこの方の書いたものは信頼性が非常に危い、ということで現在は一致しているはずです。
    この方の記した『新撰組始末記』という記録にしか記載されていない事件も多く、無視はできないのですが、明らかな事実関係の違い(故意か単なる勘違いかは議論が分かれる)がみられるということで、参考資料程度の扱いになっていたような…。数年前の記憶ですが。
    それと「新撰組研究家」には、函館の出来事はあくまで「おまけ」でしかないのじゃないかという気がします。新撰組は近藤の死で終わり、という認識で土方を見るから、どうしてもああいう人物像になっちゃうんじゃないかしら。恥ずかしながら、大河で嵌りなおすまで私も函館に新撰組がいたことを知りませんでしたから。(土方が行ったことは漠然と知ってました)

    山崎さん、私もちらっと調べましたが謎な方ですよね…。旧幕の方なんでしょうか。ご紹介、お待ちしてます。お忙しいでしょうからお時間のある折にでも。

      [4] 入潮 2006/01/20(Fri)-20:44 (No.168)
      ● ままこっちさま

      南柯紀行で抜けている部分というと、「流落日記」でしょうか。それ以外のものでしたら、本当に新発見ですね。教えてくださって、ありがとうございますー。ままこっちさんの情報収集アンテナ感度には驚かされます。よ、よろしければソースもご教示いただけるととってもありがたいです。

      ただ、現在の新選組研究家の方々には、価値観が一面的なところがあり、ちょっと警戒してしまいます。新選組にとって発見があると価値が大きいとされ、それ以外ですと、どうも視点が違うなぁと。
      大鳥は実際、新選組や土方との関係性は薄いですし、後年もそれらについて羅列的記録以外は何も残していないですし、流落日記も土方・新選組に関する記述は皆無ですので、その遺品を新選組研究家の方々にフィルターを通して云々されるのは辛いなぁ、と感じてしまいます。まぁ、思い過ごしならよいのですが。

      大鳥は、きちんと大鳥自身を主体として見てくださる方か、戊辰・箱館戦争を含めた時代そのものを俯瞰して取り組まれている方にこそ見出していただきたいなぁ、と思うのです。新選組研究家の方々は、対象はいくらでも他にあるでしょうので、大鳥については、そっとしておいてほしい、などと思ってしまいます。
      勿論、素晴らしい研究をされている方もいらっしゃいますし、自分もかなりな偏見を抱いてしまっているのですけれども。

      ● 葛生さま

      「小川町1大隊」ですが、自分が拠ったのは、大山柏の「戊辰戦役史」でした。幕府重歩兵の記述で、第六大隊600名が、「元来小川町伝習大隊を慶応4年1月9日改称」とあります。この時期から色々と改変はあるようです。この改称された小川町伝習大隊が、大鳥直下の伝習第二大隊(小川町伝習大隊)とは別かどうかは悩ましいところです。大山の表では第二大隊が別にありますので、「小川町屯所の1大隊」が分離独立したのではないかと思います。書き方が紛らわしくてすみませんー。大山氏は出典を「陸歴」としているので、原典は勝海舟の「陸軍歴史」かと思います。

      「新撰組始末記」についてのご情報、ありがとうございました。そうだろうなぁ…などと思っていましたが、自分、新撰組の事は全く至っていない状態ですので、新撰組全般をご存知の方からご教示いただけると心強いです。
      確かに箱館は、京都主体の新撰組フォーカスですと「事後」扱いなのでしょうけれども、近年、あるいは燃えよ剣以降の土方ブームにより北関東・会津・箱館へ研究家が語る比重は増しているのかな、と。それで、そこでも土台ある資料語りがあってもいいのになぁ、と思いました。会津は幾つかありますが、箱館は寡聞にしてお目にかかっていないのが寂しいところです。創作は沢山ありますが。

      山崎さん、ご出身は小倉藩の方で、旧幕臣でも藩士でもなく農民だったそうです。興味で幕末史を調べ、彰義隊史を記述するにつけ大鳥に興味を持ったとの事でした(史談会速記録)。まさに苦労人という感じで、大鳥には共感が大きかったのかなぁと思います。

    [5] 秋好 2006/01/22(Sun)-16:55 (No.170) New!
    入潮さま

    はじめまして。秋好と申します。
    西村氏の始末記の話題が出てましたので、失礼いたします。
    西村兼文「新撰組始末記」については、宮地正人著「歴史のなかの新選組」(2004年岩波書店)が詳しいです。
    このなかで、
    「なにはともあれ、西村兼文の『新撰組始末記』には、明治20年代の確立された天皇主義史観から、近藤勇と新撰組を天皇に敵対した賊徒、逆徒として非難攻撃する一面的な姿勢が露骨に出ており、西村が直接見聞したこと以外の叙述については、必ず幕末期の各種史料から裏づけの材料を見出す必要がある。」
    とあります。
    その西村氏が、なぜ「南部宮古岬列戦」では虚構を用いてまで新選組と土方の雄姿を書き綴ったか、その点はちょっと不思議な気がしますね。意図があるのか、心境の変化か。人から聞いた話をただ綴ったのみなのか。

    あと、新選組に関しては、この宮地氏の「歴史のなかの新選組」と松浦玲著「新選組」(2003年岩波新書)は、何をおいても読むべき本とおすすめします。
    両著の指摘により、ファンの間でも虚構と史実の決別や史料批判を求める流れが多少なりとも出来たと思われます。
    ただ、ここでも土方や会津〜箱館に関しては、触れるにとどまっていますので、それはこれからに期待、というところでしょうね。

      [6] 入潮 2006/01/23(Mon)-03:29 (No.171) New!
      ● 秋好 様

      ご教示、深謝いたします。新撰組に触れさせていただきますと、これまで接点のなかった方からもお声をいただけて、嬉しく存じます。一方で、ファンの方々の心情を害した表現もあったことと存じます。自分の不明と、偏った表現、心無い言に恥じ入るばかりです。お詫び申し上げます。

      「新撰組始末記」に関しては有名な話であったようで、検索しても多数の見解が得られました。調べもせずに綴った軽率さをお許しください。
      ご指摘の通り、反体制派への攻撃と旧体制派への賛美が同じ人間の筆に寄っているというのは、興味深い点と感じました。同じ方でも時勢の変化により、思想の拠点が異なったのかもしれません。中国など強烈な愛国者がある事件を境に批判者に転じてしまう例がしばしばあるような感じで。原本を確認できる状況にないままに申すのも憚られるところで、頓珍漢なことを申しておりましたら申し訳ございません。

      文献のご提示、ありがとうございました。ありがたく、参考にさせていただきたいと存じます。

      戊辰戦争の北関東〜箱館部分においては、新撰組も京都とは性格や構造が相当異なっており、組織としては別物と言っても良いという声もお伺いするところです。ゆえに研究対象としては力が入れられていない現状なのかと感じております。

      自分としては、可能な限り当事者の直接の記録に当たり、自身の目で見つめたいと、分不相応ながら考えております。ただ、自分の視点は、大鳥を主体とした非常に偏ったものとなっており、これまでに触れてきた資料から、新撰組は、戊辰戦争における多数の隊の内の1〜2個小隊としての存在と捉えております。資料から伺える新撰組と大鳥との関係性は薄く、触れさせていただく機会はあまりない状態です。新撰組ファンの方々の評価に堪えるものではないことと存じ、恐れ入るより他はありません。あらかじめの無礼をお許しください。
      一方で、新撰組は熱心に研究対象にされている方も多いので、その方々の今後の成果と発見に期待したいと存じます。

ラベル:箱館戦争
posted by 入潮 at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月20日

顔面病気とブータン医療事情

顔面がお岩さんになってしまった。
朝起きたら何故か左目が開きにくい。目脂がとれないのかな、と思っていたら、まぶたが腫れ上がっていました。
まぁ、人間生きていると、いろんな怨念を引きずるものなんで、今更ですが。
…恨みフリーな人生を送りたい。

ともかく、バクテリアでも入ったか、虫刺されかなんだろうと。別に痛みもかゆみも少なく、単に片目を開けているのが辛いだけの状態だったので、放置しようと思ったのですが。上司命令で病院行きを言い渡されました。余りに酷い顔だったのか。そいや頭蓋骨折ったとき、整形しないといけなかったのをそのまま放置してた。顔が悪くなる一方だ。病院嫌いなので、かなり抵抗したのですが。秘書に問答無用で車に乗せられてしまいました。

せっかくなので、ブータンの医療事情。

病院は全て公立。ブータンは、社会福祉を謳っている国だけあり、医療費は薬代含め、全て無料です。これは外国人に対しても同じ。福祉に対しては、途上国でHIPC(Heavily Indebted Poor Country、重債務貧困国。債務削減、つまり借金チャラが必要とされる)の対象候補国とは思えない大判振る舞いです。水力発電の豊富な電力を、慢性電力不足のインドに売っている、国自体が殿様商売をして収入源があることの賜物です。

ブータンに近代的医療が整ったのはいつなのかは不明ですが、そんなに昔のことではなく、漢方や土着療法に頼っていた期間が長かった。秘書の親父さんがブータン初のDr.持ちの医者だったとのこと。
建物や医療機器に、援助が結構入っています。日本からは2000年に母子保健・基礎医療機材整備計画を無償援助で行なっています。JOCV(海外青年協力隊)も多い。(質はどうであれ)

ちなみに、日本からの援助は、だいたい毎年、無償資金協力(日本がお金を出してインフラ等を作る)のが10億、技術協力(専門家を派遣して人材育成を行なう)が5-8億ぐらい。これまでの累計で合計300億円ぐらい。まぁ金額でモノを測るのも無粋なんですけど。出した金額で寄与度を測るのはあほらしいことで。で、プロジェクトを実施するにも日本人は人件費が高いし機材も高価なので、ほかに比べて日本のプロジェクトが費用対効果が低いのは許してください。過労死寸前までサービス残業するのも日本人ならではですんで。閑話休題。

で、医療費がタダなものですから、みな、ちょっと何かあると詰め寄せる。しかし病院のキャパシティは一定なので、人があぶれて散々待たされることになる。混み具合が凄まじい。芋洗いの如く。椅子の数も到底足りていない。大体1回病院に行って診察してもらうのに、朝早く出かけて、丸一日かかるらしい。
子供は泣く、おばちゃんは喋る、憩いの場と化している。とりあえずここにくれば両手の指で数えられない知り合いに合えるから、待たされる間も暇はしないらしい。ただ、怪我で見てもらって、ここで風邪やらインフルエンザやらを貰って帰ってくる人が多いとのこと。そりゃそうだわな…。
病院の内部は思ったより清潔で、消毒薬の臭いが立ち込めているのですが。白衣を着ている人はほとんどいなくて、看護婦さんも普段の民族衣装のキラのまま。

それでも、そうすると医師は何人いても足らないし、一人の診断や治療に十分な時間もかけられないし、本当に治療が必要な人間が十分な手当てを受けられない場合もある。国の医療費負担は増す一方。
5%でも3%でも、累進課税的にでも、自己負担させれば良いのに、と思います。公平さが行き過ぎた福祉は、かえって公平性を損ねていると思うのですよな。

統計を見ると、1998年から4年間で、病院の数は28→29と変わらずだけれども、医者数は145→166と増えている。人口当たりの医者数は、6000〜7000人に一人とコンスタントに保とうとしているようです。(日本は約500人に一人とな)

で、自分のほうなんですが。お医者様は、懐中電灯を当ててまぶたの裏を覗き込んだだけで「アレルギー」と診断してくれました。何に当たったのか分かりませんが、多分そうなんでしょう。
処方してくれた薬を後から調べてみたら、思いっきり副腎皮質ホルモンだった…。アトピーで昔酷い目にあったことのある類のものでした。(アレルギーの薬というのは、アレルギーを生じさせる機構を停止させるだけで、根本的な治療にはなっていないわけで。薬の効き目が切れて、アレルゲン(アレルギーの原因となる物質)が体の中にまだあると、また現れる。それで薬がないと余計に酷い状態になって、薬への依存が進む。副作用もでてくる。ステロイド薬禍というのは有名ですが。アレルギーの薬など利用しないにこしたことはなく、アレルゲンに近寄らないようにするしかないわけです

まぁ、アレルギーと聞けただけでも安心です。変な細菌やらカビやらが繁殖していたらどうしようかと思った。食べるものも全く入れ替わっていて、唐辛子などの刺激物ばっかり食っているから、何が出てきても不思議ではない。現地の医療機関には、ラオスで以前帯状疱疹が出て、ご厄介になりましたが。自分の体がどうなっているのか知りたい、それが分からないのが不安だ。どれぐらい悪いのかというのは結構どうでもいい、というのはあったりします。
それで、医療が無ければ生きていけない体になるのもいやだ、などと、勝手なこをと考えております。


なお、待ち時間ですが、自分は、秘書のコネと、お雇い外国人の名刺を最大限に利用し、1時間程度で終わらせることができました。実体はともかく肩書きだけは政府のコンサルタントなんで、外国人特権フル濫用です。それで薬代も診療代もタダです。1時間ほどで恙無く終了しました。せっかく処方してもらった薬はそのままゴミ箱行きです。あーあ。こうして、貧困の国から富める者が搾取していくのな。まぁ元はうちとこからの税金のインプットも多少あることなので、許してください。

ちなみに今回のワタクシの仕事内容は、社会開発、貧困対策です。

…自分の偽善が嫌になる。



    [2] 葛生 2006/01/22(Sun)-01:07 (No.169) New!
    伝習隊情報有難うございました。
    …アレルギー、大丈夫でしょうか…。私もアレルギー持ち&受け付けない薬などありますので他人事とも思えず。海外で凄まじい発疹ができた時には何か変な病気ちゃうやろなと青ざめましたです。英国にもNHSという(悪名高き)医療の無料制度がありまして、6ヶ月以上滞在なら外国人でも適用されるんですが、待ち時間の異常な長さと手が足らないための環境の劣悪さが有名だったので試したことはありません。病気はひたすら寝て直しました。
    高い保険料払っても満足に診てもらえない(私の友人は保険が効かない病でして)のと、タダだけど緊急手術を一ヶ月待たされたりする(英国実例)のと、どっちがいいんでしょうねぇ。

    さて、頂戴した情報ですが。『陸軍歴史』で慶応4年1月9日、なら、たぶん手持ちで特定できてると思います。ただ、その書き方がちょっと微妙でして。
    「辰正月九日改め 歩兵」という書き出しで、三番町の上坂・江戸在留組の人数と伝習隊の人数が並べて書かれています。で、「七百人 小川町伝習兵」と書かれた隣の、やや下げ位置に少し小ぶりの活字で、「六百人 組合御抱/替市兵 合せて六百人、第六聯隊と称す」と書かれているのです。
    それより少し前のものと見られる歩兵隊の人員表(第一連隊や第十一連隊の人数が揃っていること、大坂で徴募されたという第十二連隊が存在しないことから、戊辰開幕前のものではないかと推察)には、伝習第二大隊は600人となっているので、600人を異動した人数が残りが700人、というわけじゃないだろうと思うのですよね…。
    もっとも、これらの記録において小川町駐屯=伝習第二大隊、かどうかは確実じゃないので、他にも小川町に駐屯していた部隊があったのかもしれないのですが。
    『戊辰役戦史』は恥ずかしながら未見ですので、今度確かめてみます。あとは「幕府陸軍」「徳川陸軍」で検索かけて探してみたら何か引っ掛かるかな…(願望)

    とにもかくにもお大事に。無事のご帰還、お祈りします。

      [3] 入潮 2006/01/23(Mon)-12:17 (No.172) New!
      どんなセクターもそうですが、医療は、特に公憤と私憤が混同されやすくて、政府内の計画の場でも議論の多いところなので、一概にどうだということはできないのでしょうね…。
      金のある人だけが救われるシステムというのは結構簡単なわけで。施設、機器、人材などの供給リソースと、需要のバランスがうまく取れ、かつ公平に福利が配分されるように、今後の計画設計がなされることを願ってやみません。医療や貧困といった、一人一人への細やかな配慮が必要な分野ほど、実は一人一人の要望をかなえようとしたら何もできず、全体の福利のために切り捨てねばならないことが多く、ドライにならなければならない、というのは事実だと思います。
      …専門外だから好き勝手にモノをいってみる。

      この仕事をしていると、病気になるほうが、体調管理ができていないということで悪い、と思うようになりました。実際、一番の社会貢献は、自分が怪我病気にならないことなのですよな…。

      出張先で手元に「陸軍歴史」も他の資料もなく、何で読んだのかあやふやなのですが、たしか、二個大隊=一個連隊、一個連隊につき一屯所所属、という構成があったと記憶しております。
      また、慶応年間の連隊構成は、始まったばかりなので、時期によって流動的で、確固とした所属駐屯所や大隊・連隊構成を掴むのも難しいことかと思います。一屯所に数個大隊、という時期もありえたのではないかと。
      そこを明確化しようとされるのは、すごいです。調査結果に期待させてください。
      もはや自分は怠けモノですので、大枠を見て流れを掴むだけで満足し、詳細については真実を探求される皆様の労力の成果を楽しみにさせていただくといたします。こういう奴でごめんなさい。

      あ、アレルギーは、何事もなかったかのように、去ってくれました。その後、酷い肩こりに悩まされております。悪霊はなかなか離れてくれないようです。憎まれっ子は世に蔓延るを地で行なっております。
      ご、ご心配ありがとうございます〜。
ラベル:ブータン
posted by 入潮 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。