2006年02月07日

「流落日記」の件

「流落日記」の件では、ずいぶんと影響が波及してしまったようで、事を荒立ててしまい、大変申し訳ございません。
掲示板が消えたのは、1ヶ月に1度、サーバアクセスをせねば消えてしまうという条件を失念しておりまして、アクセス難のままに、ほったらかしにしてしまっておりました、愚生の怠慢の致すところであります。 この件とは全く関連はございません。よりによってなんでこのタイミングになるかな…。

とにかく、この件では、大変ご迷惑をお掛けしております。這いつくばって謝罪しどうしになるより、仕方がございません。
ただ、弁明をさせていただくといたしますと、件の研究家の方の大本の表現は、「世に知られてない史料」という表記でした。自分のお伺いした「新発見」という言葉により、自分が事を大げさにとってしまいまして、この言葉が独り歩きしてしまっていることと存じます。検索でも該当し、「書の日本史」を初めとした諸文献の参考文献としてすでに何度か参照されている形であったとはいえ、「世に知られていない」という表現は適当であったことと存じます。騒ぎ立ててしまって、申し訳ない気持ちで一杯です。

また、史料批判精神に富まれる研究家の方を、「新選組研究家」とひとくくりにしてしまっており、この点に関しても、非常なご迷惑をお掛けしてしまいました。自分の偏狭な視点を、反省いたします。

これらは全て、自分の不徳と勘違いの致すところであります。事を荒立ててしまい、本当に申し訳ございませんでした。謝罪し通すより他はございません。


さて、ここブータンですが、寒いです。乾いているので雪こそ降らないのですが、毎朝氷点下で、霜がびっしりていて、世界が真っ白です。で、暖房器具が電気ヒーター以外ほとんどない上、建物は立て付けが悪く、平気で壁が3cmぐらいの隙間が空いているので、暖房効率などあったものではないです。歯の根がかみ合うことがない。伝統的建築様式を守るのもいいけれども、もうちょっと全体の効率を考えてほしい…。少なくともこの隙間風減らすだけで、薪炭消費量が減り、森林保全に繋がると思います。

この状況で、風呂はバケツ2杯程度の湯しか利用できないので、余計に冷えます。いや、湯を使えるだけ贅沢というものなのですが。
アラというホームメイド焼酎で酒で体をあっためるしかないです。てことで、現在も酔っ払いです。ごめんなさい。

で、宿が山の上で、職場が下界にあるのですが、しょっちゅう道が凍っていて、通勤路がガードレールもない一車線未満の山道の車です。道が凍っていてツルツル車が滑るので、いつ崖下に墜落しないか、不思議なほどです。
こちらの更新が止まりましたら、崖下で土座衛門になっているなー、と思し召しください。
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函館市立中央図書館5 箱館戦争 片山宏氏論文

函館市立中央図書館5 箱館戦争土木 投稿者:入潮 2006/01/26(Thu) 02:28:13

前の掲示板で投稿済みでしたが、キャッシュを取れてなくて過去ログに含めることができませんでしたので、再度投稿いたします。

函館の地方研究雑誌である「回廊」という雑誌で、片山宏氏が、大鳥と工兵たち、四稜郭を中心とした建造物について、3点、触れておられましたので、ご紹介させてください。


● 「 大鳥圭介と西洋式胸壁『四稜郭』について」

四稜郭の設計者が、「箱館戦争の大立者大鳥圭介である」とする説について、異を唱えたもの。
…なのだけれども、いまいち論旨として何を仰りたいのか、よく理解できてなかったりします。ごめんなさい。

この片山氏。以前ご紹介させていただいたこともあるのですが、「ジュール・ブリュネと大鳥圭介」という「日蘭交流史」の論文で、大鳥四稜郭築城説に異を唱えておられた方です。

建造物というのは、極端な話、築造者は、計画・設計・資金調達・材料調達・工事など、いろんな局面で様々な人間が担当として関わっており、その流れの中で主要な役割果たした人間を一人に特定することにどのぐらい意味があるのか、よくわからないなぁ、と思っておりました。

それで、わざわざ大鳥築城説を否定されようとしてらっしゃいましたので、大鳥嫌いなのかと思っていたら、こちらの記事では。

「大鳥は幕末期の本邦有数的和蘭学者かつ西洋流築城分野における当代最精鋭的テクノロジストである」

…逆でした。いきなりこれです。インテリとかエリートとか机上の人間とか、百科事典経歴しか見ていないのか?と思ってしまうような安易な決め付けではありません。大鳥の実績から、テクノロジスト(科学技術者)という、日本人にはあまりなじみのない英語をわざわざカタカナにして引っ張ってきて、大鳥を定義してくださっております。
そして、これはほんの始まりでした。

「大鳥は、幕末の一時期における西洋築城学の泰斗であった。事実、幕臣時代に薩摩藩の委嘱を受け、江戸芝の同藩邸構内に洋式小型砲台『田町台場』を設計し、工事完成検査には検分役の幕府老中と立会いの薩摩藩主に対して状況報告をするなど、実務にも精通しており、空理空論の人物ではない」

ここまで来ると、もう、斜めに眺めていたのが、背筋を正して食い入るように見つめる姿勢に変わってしまっています。「実務精通」に、薩摩の台場の、阿部老中と島津侯視察をもってくるところ、そうとう隅々まで大鳥圭介伝を読み込んでおられます。

「この『戊辰己巳の役』歴戦の将星は、徳川王国建設の旗幟を掲げる脱走佐幕軍首脳の一人として、蝦夷地完全占拠の勢いを駆り、一気に起立の『蝦夷島仮政権』に参画し、国家の陸軍大臣に当る陸軍奉行に公選された」

そんな感じで、ご自身の言葉で語り続けてくださっています、片山さん。大鳥の代名詞を、「歴戦の将星」とな。
そう。入札時点でも大鳥ほどに戦地をはいずり、戦闘の現場にあり、平時も武器弾薬食料兵力補充に走り回り続けた人間は稀。それは、北関東から会津、蝦夷を経た大鳥の戦闘数を数えるだけでも明らか。そんな大鳥の道程をきちんと見てくださった方がここにいらっしゃいました。
そして、片山氏。まだまだ止まらず、さらに加速します。

「本領発揮の軍事技術分野では、本拠・五稜郭の防衛施設強化工事の監理・施工を筆頭に、蝦夷島占領支配地域全般の守備体制構築のための計画立案、策定、巡回視察、実地指導を行い、蝦夷地全般防御主務者の重責を担った。」

本領というか、単に、貧乏だったから見入りの良い時代のニーズ分野で生計稼ぎし続けていたら、いつのまにか深入りして第一人者になってしまっていた、という、巻き込まれ型だけれどもな。
そして、五稜郭はいいとして、施設強化、施工、監理、計画立案、策定。…なんだか、土木関係者の使う業界用語が頻出です。片山氏もその関連の方なのかもしれない。ただ現場の方ではなくて、行政方面の管理者という感じもします。勝手に推測しています。ごめんなさい。
えっと、これは南柯紀行で触れている五稜郭の増強工事が由来かと。片山氏、南柯紀行も、戦闘だけでなく、一つ一つの記述に目を見張らせてくださっています。

「実戦遂行分野では、箱府を始め、南蝦夷地を戦城とする大小緩急様々な戦闘場面において、飛丸雨注のバトル・フィールドを縦横に馳駆し、実兵の指揮に任じた。江戸を脱走後の大鳥は、諸々の実戦で連敗を重ねはしたが、豪毅・練達の野戦指揮官であり、箱館戦争決戦当日には箱府防衛ラインの西郊外・桔梗大野地区で総司令官役を務めて激戦している」

……神様、ありがとうございます…。
創作小説を真に受けた、あるいは業界利益の恣意に基づかれた既存の大鳥キャラクター像に惑わされない、各種戊辰箱館戦争資料から大鳥自身をまっすぐに眺めておられた方が、此処にいらっしゃいました…。

いや、かつての自分なら、「こ、こんなにほめられてますよ、それでいいんですか!?」と不安になりながら慌てふためいておりました。けれども、結局、自分が一番、既存のキャラに惑わされ、故人の像を損ねていたわけです。

今なら胸を張って言えます。
戊辰戦争、箱館戦争の多数の手による各種資料より、大鳥は、戦略構築、戦術・作戦の立案のみならず、その身を激戦区に置き、攻撃と維持と撤退のあらゆる局面を指揮し、戦争の上流から下流まで自分の責任として背負い、会議室と現場の双方を掌握した人間である。それが、自分の目で資料を読んで受けた認識です。

正直、この認識になるまでかなり時間がかかりましたし、そこまで言ってしまって良いものか、単なる贔屓の引き倒しではないかという恐れもありました。勿論大鳥の至らないところも目につき、瑣末な箇所で全体像を損ねていました。
けれども、自分が資料からようやく形作った認識を、こうもご自身の言葉で語ってくださっていた方が、ここにいらっしゃった。それが何より嬉しい。

それで、ここまで褒めちぎった大鳥が、四稜郭を築造した、という見解について。

これの出所は「実証に貢献するような良質の資・史料等が欠如しているうえに、史家による専門的な研究も長年に亘り遅延状態を呈し、特定の個人名は不詳のまま現在に至っている」とし、大鳥が築城典刑を翻訳・出版し、その要点がそのまま四稜郭に具現されている、としたことを大鳥の四稜郭築造説の根拠とする過去の研究が、「強引に当てはめた転倒解釈である」と批判を加えています。

で、この説を否定する根拠として、片山氏は岩崎季三郎の「奥羽州並蝦夷地出張報告」「此山上台場は賊の根拠五稜郭の要衝にて、頗る堅固なり。仏人フリヨネーと申して徳川雇入之教師築く所にて、新五稜郭と称し、五稜郭を去る事さらに十二三丁も有之申候」という記述を挙げられています。それで、この説は「些少な一史料の再吟味でその存立も危ういほどの脆弱さを露呈する」とまで言っておられます。

岩崎季三郎は、5月11日箱館決戦で四稜郭攻撃に参加した徳山藩士。
えーっと。…官軍で、自藩の権益確保というか自衛のために、なけなしに参加したぐらいの徳山藩士だと、どこまで箱館事情に通じていたかも怪しいし、大鳥よりはフランス人お雇外国人のほうが覚えめでたいと思うし、特に大鳥の名前がここで出てこなくて、ブリュネの名前になっていたからって、何も大鳥の四稜郭造営関与を否定するものでもないと思うのですが…。

それでも、片山さん、大鳥四稜郭造営を否定する向きに筆を邁進させておられます。
「学問的蓄積と史料批判精神に富む研究者を、こうも容易に誘引する大鳥圭介築造関与説は、箱館戦争史研究に一層の魅了や迫力を付加する新発見のように映える」
さらに別の回の別テーマの記事に及んで「長年育んだ箱館戦争四稜郭説話の壮麗な夢も俄に色褪せ鼻白む向きもあるだろう」とな。

いやその、別に四稜郭をだれが築造したか、大鳥ではないか、という推測は、一般的には「ふーん。で?」ぐらいのもので、「魅了」される人も、「壮麗な夢」と感じる人も、そんなにいらっしゃらないのではなかろうかと思うのですが…。
いや、ワタクシ自身は、魅了され至福に浸れますし、壮麗痛快な夢だと思って止みませんが。はい。

どうも、この方の論の後ろにある動機が、よくわからんなぁ、と思っていましたが。
…ここまで書いて、思い至りました。

あれだ、片山さん。大鳥が好き過ぎなんだ。
それで、四稜郭の造営も大鳥の功績だという説に、私と同じロマンを感じて、信じたかったのだけれども、自分でその反証となりえる記述を見つけてしまったから、自分で必要以上に否定してしまっているんだ。きっとそうだ。

…間違っておりましたら、大変失礼申し上げました。
でも、尋常じゃない大鳥注視者、というのは、間違ってないと思います。

それで、なんとなく素直になれないんだ。わかる、分かるぞ、片山さん。大鳥注目マニアって、なんでか知らないけど、そうなるんだ。
結局自分も、「そ、そんなにすごくない、プルプル」、とかやっているほうが、楽でいいです。
だって、素で誉めちぎるのって、なんか恥ずかしいし、間違ってたらどうしようと不安だし、何より、大鳥自身がそういうことはあんまり望んでいないような気がするんですもの。

…ということ自体が最大の性質の悪い妄言か。困ったもんだ。世の中何が正しいのか分かりません。はい。
拡大解釈や誇大妄想やそもそもの思い違い的外れには、誠心誠意、お詫び申し上げる所存です。


● 「英学者の脱走軍工兵隊長 吉澤勇四郎と箱館戦争―大鳥圭介とのかかわりを中心に―」

また、気になる主題です。
こちらにも、大鳥の四稜郭築城説の否定を延々と述べておられました。その一部は上に含めましたが。
えっと、吉澤勇四郎。
何度か既にこちらでもご紹介させていただいておりますが、工兵のためのテキストブック、英国の「斯氏築城典刑」の翻訳者。南柯紀行では、鴻之台結集時。小管辰之助とともに、 幕人として、何を連ねています。箱館では、やはり小菅とともに、工兵頭並に就任。 大鳥が藤原で防衛している際、会津に軍議に赴いたところ、奥羽同盟成立で安心し切っている人間たちを「因循姑息」とぶーたれながら七日町の旅館に宿泊していた時、「工兵方吉沢勇四郎先頃より大平口に出て要砦を建築せしが此頃若松へ帰来りし由にて、同亭に宿し、白河の動静を聞き、共に大息し、事の危きを察せり」と、一緒にため息をついています。二股では、大川・滝川コンビと伝習歩兵・士官両隊、今井と衝鋒隊と共に、守っています。16個築いたという胸壁造営はこの方の為したところが大きいのではないかと推測されます。

で、吉沢。「大鳥圭介に相似した立場、経歴を持つ歴戦の脱走軍士官」「箱館戦争に参加した佐幕脱走者の上級諸士のうち、解明派の旧幕臣たちには、…蘭後、仏語、英語を含む当時の欧風開化に必要とされた諸外国後に堪能な貴顕紳士」の一人として「当時としては優れて突出した新知識の持ち主」として紹介されています。
「著者が現在までに採取しえた個人情報の量は『僅少』の言葉にも値しないほどに乏しい」ということですが、それでも、自分の知りえなかった点を数点、紹介してくださっています。

吉沢の訳書には、前掲のほか英国陸軍ストレイト歩兵少佐著の「城堡建築術」、米国陸軍弁トン砲兵大尉の弾薬製造・取扱教科書である「火攻奏式」もあるとのこと。「もはや軍事的先進国とは見做し難い『阿蘭陀国』渡りの『築城書』やオランダ学者大鳥圭介ひとりの専売ではなかった実態である」と、次世代学者の登場に注目しておられます。たしかに、圭介からみれば、吉澤の世代は隔世の感があるのかもしれません。圭介も若いモンにちゃんとついていってますけれども。

この吉沢なのですが。5月12日に副隊長各の松村五郎が五稜郭場内で、官軍の艦砲射撃を浴びて戦死した。この時期の工兵隊の消息は不明である、としながらも、「5月13日早朝、意表をつき『新五稜郭』の名と共に単独の投稿者として、備前岡山藩の史料に唐突に現れ、それきり所記録の上から消え去っている」と述べています。

その資料。備前岡山藩軍事局監軍、杉山岩三郎「箱館戦争始末書上」を抜き出され、「十三日朝三時、同所(権現台場)台場へ賊工兵の頭吉澤勇四郎と申者、降伏罷出早速召捕一応吟味の上、川村会議所へ差出申候」と、吉澤がおそらく一人で降伏を申し出て召し捕られ、川村会議所というところへ送られた、という記述を抜き出されています。

「江戸を脱走後、市川駅で偶然大鳥圭介に出会った日から、脱走佐幕軍工兵隊長役で東北各地を転戦、箱館まで同行し工兵隊長に公選の、信望あるテクノロジストは、自分が率いる工兵部隊を、乱戦中に見失った失意の隊長なのか、それとも、自ら進んで百名を越すであろう部下たちを見捨てた敵前逃亡者に過ぎないのか」という、ショッキングな疑問を呈しておられました。

ただ、丸毛利恒の「感旧私史」には、「此役工兵頭並吉沢勇四郎は路を失ひ止むを得ず官軍に降りしに、其将校たるを以って斬首せられたり」とありました。
吉沢さん、道に迷って、投降して、地位が高かったから斬首された、とおっしゃるのですか…。
大川日記の「蝦夷地諸官員」には確かに「討死」、岩橋教章「函館戦争日記」にも、「工兵隊長人員七十口余」として吉澤勇四郎の名前に死亡マークがつけられています。

そして「蘭学者大鳥圭介の明治維新以降に於る社会的な貢献を辿れば、英学者吉澤勇四郎の失跡は、明治国家の一損失のようにも思われ、その謎の解明が待たれるのである」と締めくくっておられますが。大鳥が軍人ではなく「蘭学者」と評されたのが嬉しい。…そうじゃなくて、吉沢さんが生きていたら…と有為の人材を惜しむ声は、大変共感させていただくところでありました。

それにしても、やっぱり片山さん、この時期の工兵、というか、土木に関わりにある人物への興味が高くいらっしゃる…。

後もう一つ、「フランス学者の小菅辰之助と箱館戦争―榎本脱走軍工兵隊のもうひとりの隊長」にも触れたかったのですが、本日は力尽きましたので、これまで…。
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函館市立中央図書館6 感旧私史その1

函館市立中央図書館6 感旧私史 投稿者:入潮 投稿日:2006/01/27(Fri) 11:00:37
  丸毛利恒「感旧私史」。
前回少しご紹介させていただきましたが、鳥羽伏見前の大阪の様子、彰義隊の成立や、箱館戦争の詳細経緯、その後の謹慎の実情などが大変詳しく、丸毛の筆まめ人生の本領がここに集約されている感じです。主に彰義隊幹部として生きた経歴です。他、当時の教育や価値観念、民俗などの様子を伺わせ、読んでいて楽しいです。

私史というだけあって、自伝風に始まっています。血統の説明が大変詳しい。自分の説明をするのに自分の先祖をできるだけ詳しく、というのは、儒教の教え故でしょうか。自分はひいじいさんの名前すら知らない先祖不幸者現代人です。もとい。

以下、あまり他の資料や現在の著作などで目にしたことのなかった記述について、メモとして挙げていきます。あ、自分、全く調べは及んでませんので、単に自分が見たことがない、というだけです。有名な話だったらごめんなさい。


丸毛は1852年生。箱館戦当時18歳。若い。生家は400石の大草氏。安政5年に丸毛氏の養子に。一刀流小野派の剣術、高麗八篠流の馬術、養奠竜の柔術等を学び、昌平黌にも通学。講武所で槍剣砲の三術を学ぶ、という当代きってのきらきらなエリートコースを歩んでいる。元治2年6月に試験に及第して外国奉行支配別手組支配役、7月講武所奉行支配。オランダ公使館の宿直をして賊の二人を斬っている。慶応元年に大阪出張、征長の役のときに家茂病死の際、「二三藩姦士の為す所に出づ」と、後伝習第一大隊の陸路千之助を同志として、長州他藩士相手に謀をしていたらしいが、未遂に終わる。慶応3年奥詰銃隊。鳥羽伏見の際は大阪城にいたが参戦はせず、城中にあった。敗戦の報を聞いて守城論を主張するが至らず、敗兵と共に和歌山へ、大崎浦から蜜柑船を雇って江戸に戻る。

4月8日に単身日光に端って義を唱えようとしたが、途中の道路を官兵が守っていて難しい。知り合いの今泉濱太郎に途中であい、大塚霍之丞を訪れて、天野八郎に面会して、彰義隊に身を投じた。彰義隊で、甲州に攻めようという話あったが果たさず。彰義隊組頭になる。山岡鉄太郎や松平太郎が解隊を勧めたが聞き入れなかった。
5月、一本木の戦い(江戸)の前に差図役頭取に昇進。四ツ谷大久保へ行く途中、大砲を持っていこうとしたが、重くて引けなかったので、火門を砕いて砲身を井戸の中に投げ入れた、なんてことも。井戸に鉄をいれないでください。もったいない…。なお、大塚は風邪で一本木戦には参加しなかったとのこと。

上野敗戦後、7/13に官兵が天野八郎の家に押し入って八郎を生け捕ったとき、八郎は肥満してすぐにつかまった一方、大塚は「短小にして軽捷」で、垣根を飛び越えて隣の多田薬師の縁の下に入って逃げ、1日そこに潜んだ。猫が唸ってきて、大変困ったのだそうな。彰義隊の吹田鯛六が春日左衛門と共に、松平太郎の密意を受けて海路奥州に脱出しようとしていたとのこと。これは実現しませんでしたが、松平さん、いろいろあちこちで、謀ってますな。

それで7/22になって、榎本艦隊の長鯨丸に彰義隊200余名が乗り込むことになります。丸毛は彰義隊が決起してから、自分が逆賊となったので、家族に塁が及ぶのを恐れて、家には戻っていなかったとのこと。賊徒の家族ということで駿州にも移住できず、池尻村に引っ越していた。家族は丸下が死んだと凶報を誤聞し、毎月6日に弔っていた。「凶報とは何ぞ」と丸毛は憮然としています。よくあった話なんだろうな…。自分が死んだとい噂は結構楽しいです。自分もミャンマーで死んだことにされたことがありました。撤回連絡だけで1日つぶれたけれど、何もしてないのに祝ってくれました。そんなときにしか大事にされない。閑話休題。

榎本艦隊の直面した暴風雨の様子も詳しい。「巨頭艙を超へて室中瀧を為す、飢て果物を取て食はんとすれば即ち器皿粉砕し、疲れて枕衾を引き眠らんと欲すれば即ち両足天に朝す。人々皆酔死せしものの如く。…蒸気の墨汁は屎尿に和して枕頭に流れ、其臭穢苦楚実に名状すべからず」
酔い死ぬばかりの状況の中、石炭に混じって真っ黒になったのが蒸気機関用の水が居室に流れてきて、尿と混じって枕、頭へ。…ご苦労様でございました。

松島にて、丸毛は靱負から牛之助に名を改める。彼、5つぐらい名前をもっていますな…。「蓋し祖先の名を興し死せんを欲せしを以てなり」。そして、彰義隊六番小隊に。ブリュネ・カズヌーフについて錬兵訓練を行なう。春日や、人見の部下の遊撃隊の知己森田らと、ここで親交を暖めあう。21日に伝習歩兵隊が仙台から東名に。古屋さんの肩書きが「衝鋒隊長元彰義隊長頭並」ってそうなの?衝鋒隊(そのときは名前はついていなかった)が彰義隊に加入するという話もあったけれども成り立たなかった、というのはあったと思いますが。

あと、榎本さんが輪王寺宮に拝謁、宮が最後まで共にしようとしたのを説得した榎本さんがかっちょいい。「幸に(蝦夷開拓の)勅許を蒙らば臣等は永く絶境にて耕桑魚介と伍し、若し勅許なきに於ては臣等一同北海の藻屑と相成果て候」蝦夷開拓が許されるとは確信しておらず、許されなければ玉砕ぐらいの覚悟はあったわけです。そんな自分らについてきては、宮まで逆賊となってしまう、と。

そして蝦夷地へ。峠下の戦いの時点で伝習士官隊・歩兵隊の料隊が「伝習士歩両隊」という言い方がされてます。
その後、松前攻に参加。松前戦の様子は非常に詳しい。松前の大隊を破るけれども、丸毛に「専断に分隊せしを以て予を非難する者あり」とのこと。天野八郎と渋沢の彰義隊分裂も詳細に書かれている。渋沢が頭取の織田、大塚ら4名の職を奪い五稜郭に送還させた。皆がその専横を怒って服しなかった。これを松平太郎が、今は敵前なのだからひとまず渋沢に従って、その後で四人罷免については云々する、と仲裁した。丸毛はこれを聞いて不服。この時丸毛は腫れ物に苦しんで、医者に酒と鮭を禁じられたりしていた。丸毛、ここで刀を抜いての騒ぎになる。結局、織田らはひとまず復職して進軍することで落着。渋沢とは隊を分かつこととなった。

で、渋沢らの紛議の判決を榎本に請わんと五稜郭に戻る。結局、織田ら4名は復職して終わるのですが。この際に丸毛は、「軍艦」本多幸七郎に会い、函館関門通行の鑑札を受けている。この時、伝習歩兵隊の金次郎が、市中で金を奪ったのを罰せられ、晒し首になっていた。「以て其法令の減なるを知るべし」…辛い。兵の市中への乱暴に関しては、厳重に取り締まられていたようです。

総裁選は、「半隊長以上をして総裁、副総裁等を投票せしむ」とあり。差図役並までを士官、差図役下役以下を下士官に分類している。嚮導役は投票者に含まれなかったのか。半隊以上統率士官で、数が足りるのだろうか。あと丸毛、自分が誰に投票したのかを書いている。稀有な人だ。浅田君はここで歩兵頭並になっていた。頭並助、という資料もあり。名簿を見ても「会津より傷」というのがあったり。引きずっていたものと思われるのですが、大川・滝川・春日らと同列というのは、それなりに期待もあったのでしょう。
丸毛は組頭から差図役になり、三番小隊長に。給料は「下士以下月々僅か金一円、其士官以上は皆無給なりき」って本当?妓楼に行ったりしているのにー。

正月は餅を各隊に分けて新年を賀す。五稜郭に陸軍週番所を置き、各隊から改役、頭取、差図役下役、差図役下役並のうち一人を、7日ずつ宿直。宮氏岩太郎、彰義隊の大塚霍之丞、額兵隊の海貞爾が、週番所の専任になっている。午前6時起床、人員検査(点呼?)、7時朝飯、8時錬兵で歩兵頭か週番改役がこれを担当、10時会議、12時昼飯、4時夕飯、8時点呼、9時就寝、という生活パターン。毎時、遠楼から喇叭で時間を知らせていた。会議には諸隊長または将校、正副総裁か陸軍奉行らの内一人ずつ出席して、隊の日務を通義していた。毎日となると出席もおっくうそうだ。
週番当直所の事務は頗る忙しかったので、丸毛は差図役頭取改役に昇進して週番当直所書記役になった。でも丸毛は後方事務屋にはあきたらず、この後何度も、戦闘現場に出たい!と主張している。
1月17日に歩兵隊と大川が、大野を守る。

ここでお涙話一つ。
街の妓楼で、娼妓が丸毛の服を見つめていきなり泣く。その服は丸毛が松前から分捕ったものだった。娼妓は松前軍吏の娘だったが、賊軍に襲撃されて着の身のままに家族散り散りに。娘は浅ましい身の上にならざるを得なかった。丸毛の服は、娘が自分で裁縫し染めたもので、娘の家の家紋が縫ってあった、と泣く。丸毛、その身を哀れみ、自分も亡国の身で父母はどうしているだろうかと思郷の念を起こす。その後3回も逢ったが、戦争になりその後彼女はどうなっただろうか、と丸毛は追憶。

宮古湾は、丸毛はいなかったはずなのにまた詳しい。土方が怪我人に含まれていた。
3/25、伝習歩兵隊と彰義隊が任地を交代。歩兵隊は五稜郭に戻る。4/7、外国人らは軍艦に避難、市民も弾丸の届かないところへ避難。木古内、二股も、出動士官名を細かに明記してくれているのが嬉しい。伝習隊員沢山。この激戦の最中も、後方の丸毛は結構暢気な日々を認めている。

4/11の木古内戦。大鳥・本多が彰義隊・歩兵隊を率い防衛。4/12、再び木古内で大鳥が歩兵隊・彰義隊で夜撃ち、挟撃。快勝。この後米国艦がやってきて、コンシュル(領事)から牛肉、鶏肉、鶏卵等を乞われる。生牛二頭を送ったとのこと。榎本さんが密かに「無形に備へ以て通ぜしむる所あり」だそうで。何を約束したのだろう。…とか言うと、余計な詮索を始める人が出そうだ。あと夜中に数十人ある村に泊まった者がいると、丸毛は榎本に急に呼ばれた。捜索に出かけると、そこに西洋馬具があった。桑名以下諸侯のものであると思われた。それを榎本に報告すると、「総裁笑って止み又同公らのことを言はず」。この馬具はちゃっかり丸毛が貰った。

さらに、丸毛はこの時期、疥癬を患って1週間の暇乞いをし、湯の川温泉で療養した。この時、野牛が荒れて村内を駆けめぐった事件が起こった。丸毛は兵隊7,8名と共に牛を射殺し、ただちに解体して村人に分けた。「美肉に飽きたり、又一快事にてありき」。前線では死戦が始まっている。また、4/17官軍5艦の来襲、江差を回復しようとした松前の遊撃隊、陸軍隊が散々に敗戦していたとき、丸毛は上山で東照宮の祭日、参拝して酒を飲み興を尽くしていたとな。いい身分だ。丸毛自身は前線に出られなくて悔しかったらしい。

4/18松前陥落。茂辺地へ後退。前線にいた大鳥は軍議のために五稜郭へ帰る。4/19朝霧中から木古内より敵陸軍・艦砲襲撃。知内と茂辺地の兵で挟撃をして敵を破るが、夜に大鳥が馬を飛ばしてくる。前線と本営を走り回っています。で、大鳥、木古内は地理悪いので、矢不来・茂辺地に退くことを説く。衆は頷かず。ここでも大激論だったらしく「大鳥、口を極め諸将を諭す」。みんなこれ書いてますよな。ただ大鳥日記は「衆人も異議無しのこと」…それでいいのか。

4/22、大鳥は地の利を察し矢不来の要地に拠る。4/24、敵五艦が箱館湾進入、回天・蟠龍・千代田で防戦。368発の砲弾を費やす。丸毛はこの海戦を、牧野・津田と共に八幡山の頂で酒を飲みながら観覧していたそうな。「一大無比の奇観なりき」君ってヤツは。4/25矢不来から斥候を出し当別村の敵兵を伺い、敵の哨兵を破る。二股の功についても、「固より諸士の奮戦に出ると云ふと雖もそも亦総督土方歳三の功と言はざる可からざるを得ざるなり」…なんか随分、微妙な言い方しているなぁ。

4/29、官軍大挙上陸。最初は善戦するも、敵艦襲来。味方の千代田が陽動しようとするが敵は惑わされず。甲鉄が陸へ向かって恐怖の70ポンド霰弾を悪夢と共に降らせる。薩摩艦春日から数隻で陸兵を数百一度に上陸。「我が兵尤も苦戦力めたり」で、榎本が単騎馳せ有川に来て、「大に怒り刀を抜き兵を叱し返戦数時、飛弾雨の如く、榎本は帽を弾せられ僅に免る、其烈闘知るべきなり」。

あと、「此役工兵頭並吉沢勇四郎は路を失ひ止むを得ず官軍に降りしに、其将校たるを以って斬首せられたり」…吉沢さん、投降して斬首されたとのことですが。前回挙げた片山氏論文がご紹介していた備前岡山藩資料では、5月13日に権現台場で降伏し捕らえられた、とのことなんですよな…。

丸毛はこの時五稜郭で補給に奔走していたとのこと。弾薬の消費がおびただしく、器械局の人たちは昼夜弾薬を製造し、作った端から無くなっていく。ここで、俳優や娼妓を呼んでバトロン(散弾)を造らせた。俳優・娼妓は皆柔腕繊手なのでバトロン製造には適しているんだそうな。考えたの誰だ…。

丸毛はずっと五稜郭当直で戦に参加していなかったので、5/2の七重浜夜襲は榎本に直訴してまで参加した。丸毛、待ちに待った前線で、大変嬉しかったのか、暗号を呼びながら斬り合う様が非常に詳しい。この夜、ブリュネら数人、「告げずして箱館の寓所より同国(フランス)軍艦に遁れる。蓋し矢不来の敗より軍気漸く振はざるを見て此卑怯の行いありしない。然れども我兵以て意と為さず」 ブリュネら退去を「卑怯の行い」としていますが、意に介した人はなかったという。皆納得済みのことだったのでしょうか。

夜襲の夜、丸毛は武蔵野楼に登り酒を飲んでいた。市民は皆避難していて、妓楼も僅かに数個の畳を残すのみ、という状態。例のドラマのような贅沢暢気な状態では決してなかった。客が閨に入るときは、板の上に薄物を敷いてその上に布団をかけていたとの事、火事場にいる心地だったとのこと。そうすると大塚が、週番で問題が起こっていると呼びにきた。妓楼に繋いであった馬に飛び乗ったら、馬丁が「二公(榎本松平?藩主?)の乗りたまへる馬なり」と止めにきた。丸毛はこれを叱責して「此馬は我同盟三千有志の共有物なり」と強引に乗っていってしまった。徒歩で帰った大塚は大笑い。週番の問題が何であったのかはよく分からず。

5/8は再度夜襲。深入りしすぎて敵軍中で狙撃か生け捕りか、という羽目にまで陥った。共に戦った深津は死骸になっていた。深津の遺体を引いては逃げられないので髷だけ切って落ち延びた。
5/11、蟠龍が朝陽を撃沈したとき、英艦がただちに溺者を救った。館長中牟田倉之助は重傷。死傷者数十人。蟠龍は後に開拓使が修理して雷電艦として用いたということまで触れている。
一本木は松平と土方が同時に出兵したとある。人見勝太郎がここで負傷したことになっている。(人見の負傷は七重浜?それとも七重浜で落馬してからさらにこちらに来て重傷を負ったのだろうか)
七重浜・上山・桔梗野・亀田防衛ラインは「陸軍奉行大鳥圭介諸隊を督し兵を分ちて上の山、亀田の両塁を戊らしめ防戦尤も力む」であった。うぃ。

5/12の甲鉄砲撃。衝鋒隊古屋は指三本もぎ取られ重傷、梶原・浅井は跳ね飛ばされて一度死し、また蘇生した。重傷の伊庭八郎は「一弾城に触る毎に絶境して曰く、何物の惰兵か、我事を誤ると、眼光炬の如く終に創に堪えず忿悶して死せり」。病院にいた伝習士官隊差図役並の板根杢之助が、官軍から命じられ五稜郭に和議を持ちかけてきた。聞き入れられず。

5/16、榎本の自刃。大塚は何故か触れていませんでしたが、丸毛は語る語る。止めた大塚の「何ぞたまる可き左手三本を切り流血淋漓たり」。
榎本が狂言自殺などと言いやがるやつばらメ、とっくりと読むがいい!と言いたい。いやもう、筆男の本領発揮、情感臨場感たっぷりに綴ってくださってます。

五稜郭内の地雷は、ここでも記述あり。この件について触れたのは、丸毛と大塚でした。

そして開城。降伏の際には、会計局から諸士に金が分け与えられた。兵卒金三円、下役以下隊士金五円、差図役並以上改役まで金八円、頭並以上金十円。官軍に引き渡した兵器リストも。元込め銃138挺、ピストル48挺、というのは、降伏者1000人以上いたのに、少なすぎないか…。
あと、五稜郭内に牛を17,8頭飼っていて、軍馬十数頭と一緒に引き渡したとのこと。

こうして士卒は謹慎生活に入ります。この様子がまた、戦中に勝る劣らず、詳しい。とりあえず、いったん切ります。
丸毛。…書きすぎだよー。と人のせい。
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函館市立中央図書館6 感旧私史その2

函館市立中央図書館6 感旧私史その2 投稿者:入潮 投稿日:2006/01/30(Mon) 02:11:59
 
続きです。丸毛君謹慎日記から。

謹慎は榎本対馬と共に、青森の蓮華寺。同室は、安藤太郎、林董三郎、榎本勇之助(一連隊頭取、釜次郎兄)、室田秀雄、友野栄之助、牛出勝魔と丸毛の七名。…えらく濃いぞ、その部屋。どういう人選なんだろう。

6/11から青森から弘前に護送。岩木山をみて「旅情凄然たり」、眞教院に禁固。同室は牧野主計、大塚霍之丞、寺沢槻太郎、木下福次郎、荒井遼太郎、秋元寅之助、友野栄之助、牛出勝魔。(牧野さんも後に開拓使勤務)
10/27から箱館の弁天台場に謹慎。担当の弘前藩の待遇は「甚だ深切ならず」。月に煙草二弾、ちり紙40枚、半紙10枚しかくれない。自分の金で買うときは暴利を貪られる。食べ物は朝汁、惣菜一品、晩に香の物のみ。半年の間に衣服は白金巾の筒袖1枚だけ、10月になって木綿布子一枚を給付されただけ。あとは布団一枚と木枕一個。足袋や草鞋の支給はなく、多くは裸足で雪の中を徒歩で歩かねばならなかった。これに比べて諸藩の預けになった人は皆待遇がよかった、とぶちくさと。…高松凌雲さんも、阿波藩に不平ぶうぶうでリウマチを患ったぐらいですので、そういうわけでもなかったと思うのですけれども。

ちなみに11/4における弁天台場謹慎者は以下の通り。

「一番長屋 松岡四郎次郎、
二番長屋 星恂太郎
三番長屋 大川正次郎、瀧川充太郎
四番長屋 榎本対馬、富津勢吉
五番長屋 梶原雄之助
六番長屋 瀧?三郎
病院取扱 畠山五郎七郎
右九名の者、長屋局中人数取扱方申付候間、各申合取敢取締無之様可致事」

大川と滝川が、何故か並んで同じ長屋に詰め込まれて取締役をやっているのが面白い。腐れ縁だなぁ。丸毛はこの三番長屋に入っている。
で、冬も近づいた11月。「名にし負う深雪降る函館山」の、殊に海面に面した台場なので、雪風が肌を衝いて寒気が身を裂くよりも激しい。炭火もろくろくに無い。一飯二椀なのだが汁物は冷水のごとくだ。その汁物も早い者勝ち。手が遅ければ常に空腹を堪える羽目になる。「戦闘に修羅の巷の思を為し、今亦地獄、否、獄吏に餓鬼道の苦患を受く。斯れば出獄まで一人の報復せしものとてはなかりき」…いやはや、なんと言いますか。ご苦労様でござます…。

夜寝るときは、一人に三布蒲団一枚ずつで寒くて仕方が無いので、蒲団二枚を袋のように縫い合わせて、二人でその中にもぐって臥し、僅かに寒さを凌いだ。湯は月に1度づつだがこれも潮水を汲んだものだった。そういう様なので、病み臥す者多く、病院に入っても平癒する者はなかった。丸毛自身は疥癬を患っただけですんだ、とのこと。

月に一度ずつ、潮水を沸かした湯を使っただけの男たちが、ぺら蒲団を縫い合わせて二人ずつくぐもった。それは大変そうだ。臭いが。冬だからまだいいのか。
辰ノ口も似たようなものだったのだろう。獄中日記。「残暑の節、畳一畳の上に2人ずつ並んで臥することは、ずいぶん難渋であった。しかし、相手次第で、その相手がよろしき人物であったときは、さほど苦しいとも思わなかった」…なにが「よろしき」だったのか疑問だったのだけれど、多分「臭いが」なんじゃないかな…

い、いやその、病んでも治療できるような状況ではなかったとのこと。ご愁傷様です…。

あとは読書、洋書、数学、習字、碁、ひたすら喋るなどで、日々を過ごす。3月になると、各々芝原に出て、事前草(オオバコ?)、土筆、嫁菜の類を摘み取って、火薬庫の銅を剥いで鍋として、毎朝渡される生味噌を残しておいて加えて調理して、最上の佳味とした、との事。結構楽しそうだ・・・などとは思ってはならないのだけれども。「辛苦艱惨の状に至りては到底筆紙の能く及ぶ処にあらざるなり」とのことで。

M3年4/8には鼻紙料一人一両ずつ、藩主より送られる。鼻紙ってどういう名目なんだろう。あと、箱館奉行の下吏だった人が入ってきたと思ったらスパイだった、糞寒いところにご苦労千万のこと、と皆一笑したとか。
あと、元彰義隊の浅井岩次郎、胆略ある人間で、敗戦時に逃れて函館に潜伏していたところ、贋金を作った罪で捉えられて斬首された。
生活費に困ったので皆が所持していた二分金を、世話役の前田に数百金札と両替することを頼んだところ、一百金にしかならなかった。箱館二分金は五稜郭の贋金で朝廷に没収されているからだ、とのことで、皆が「欺かれしを怒れり」。箱館政府の自業自得というか。貧乏はつらい。

で、この日から、謹慎中の一同が賄いとなったとのこと。昨日までの「ポンポチ」米の餓鬼道と違い、三度の飯に魚肉を添えるようになった。また、藩主(静岡?)から酒五樽と卵数千個を貰い、一同感旧に咽ぶ。ただ仙台預けの見国・額兵隊の皆はそのような慰労がなかったので、世話役前田に申し出て、彼らにも分与した。一方で仙台の因循に皆で怒っていたとのこと。まぁ仙台も新政府との関係上、おおっぴらに援助もできる状態ではなかったし、恭順した藩に背を向けて出て行った連中のことだから、旧幕と同じ扱いができるわけにもいかなかったのでしょう…。

そして、4月12日、戦争終結から約11ヶ月で、大岡利三郎、松下源四郎らが次々に放免を申し渡されました。残った人も散歩するのを許されたり、妓楼に行ったり。此時、娼妓らが集まって、皆で命永らえたのを涙を流して喜び、金十両を収めてくれと行ってきた。よほど感激したのか、「卑しき婦女子」にも「人の性は善なり」なんて言ってます。尚、戦中の負傷者には、娼妓に看護を受けていた人も多いとのこと。

で、15日。丸毛もとうとう箱館を離れ、静岡へ向かいます。船はもともと幕軍のもので、朝廷に収めた長鯨丸。一方、共に謹慎していた星ら仙台藩の面々は、「しほしほとして吾々を羨やみ名残を惜しめる様、其離情の切なるは李獲河梁の別れ」という。丸毛は星恂太郎、影田恭巌、横尾治兵、大塚霍之丞、木村文三ら諸士とはもっとも懇親の知己だった。互いに握手、記念の詩を交換して分かれた。夜12時、箱館抜錨。大塚も静岡へ行くのだけれど取調べがあるので江戸へ寄る、とのこと。

それから秋田、越後、寺泊、柏崎、柿崎、黒井駅、関山駅、関川宿、善光寺、矢代駅、上田、和田峠、金沢、富士川を経て、静岡へ。
黒井駅では高田藩脱藩だった神木隊の人たちが出迎えてきて、悲喜交々交わったとのこと。

5月3日。静岡へ帰藩。府中城へ赴き、三人扶持で遠州相良在住を命じられる。この駿河に付いた旧幕臣の扶持の変化が凄まじい。元五千石以上:十人扶持、三千石以上:九人扶持、千石以上:八人扶持、五百石以上:七人扶持、百石以上:六人扶持、百石以下全て五人扶持。…旗本もサンピン侍も、御目見以上も以下も、皆揃って、食うのがやっと、ですな…。
あと、元布衣以上で一党勤番組、元目見以上を二等勤番組、目見以下を三頭勤番組、という職制。
丸毛は元二百五十石だったから二等、六人扶持となるところを、脱籍してたのでこの扱いだったとのこと。
また、靱負、牛之助は、官名につくにはふさわしくないので(賊扱いだから?)、改名するようにといわれた。丸毛、笑って、牛とでも馬とでも読んでくれ、よし、今の世には反復因循という名の悪魔が多い、幸い一生を得たのだからこれよりこの悪魔を打破しよう、「破魔雄」と名のろう、と苦笑いして去っていった。…丸毛、いまいちユーモアセンスがあるのかどうかわからない人。

そして、無事、家族と再会。養父母は、自分が賊徒となってしまったので、他人も親戚も嫌疑を恐れて世話する者もなかった。丸毛の実母の兄の元の池尻村へ身を寄せていた。荒物店を営んだが、慣れぬ商売の上養父母は二人とも老いて世に疎く、人に騙されて、頗る散財してしまった。家財を売って何とか食を繋ぐ。丸毛は晒し首になったとも箱館で死んだとも聞かされていた。伝習士官隊の「丸毛三郎」が戦死していて、これと間違えられていたとか。ここにも、没落士族の典型的な姿が伺えました。

6月1日に東京へ。四ツ谷坂で、寺沢、堀内と共に家を借りた。駿河の不毛の地を開墾しようと議した。
それから、4年正月、意を決して浅草東本願寺の宋恩寺の客となった。出家? なのだけれども、窮迫してしまい、仕事に就いてその急を遁れようとした。静岡藩士で顕職にあったのは多かったけれども、皆、丸毛が賊徒だったのを忌憚して、仕事を紹介してくれる者はいなかった。官吏は皆、薩長土肥の四藩の者で占められている。
ただ、神奈川県で県兵を募っていると聞いてこれに応じようとした。横山らは、何で自分の身を軽んずるのだ、榎本らはまだ獄中にあるではないか、と止める。けれども、丸毛は食い扶持のためと聞かず。4年4月8日に十二石の砲兵となった。

そして、明治4年7月14日。廃藩置県の令が出る。ここに至って、天下の大勢が定まる。つまり、封権の象徴であった藩というものがなくなり、中央集権の政府が出来上がった。
つまり、侍たちはみな、藩、そして藩主という仕えるべきものから解き放たれて、日本というひとつの国に向かい合うことになったわけです。

「予も又、翻然として悟る所あり。此より益々以て微力を朝廷に尽さん事を勉めり」

廃藩置県というものは、単に行政単位が変わりましたよ、という政令ではなくて、武士が武士の縛りから開放され、新しい日本国としての世に、否応がなく放り込まれた、その精神、生活共の変遷であったのだ。それが丸毛の回想から伝わってきました。

新政府に出仕してその禄を食み、栄達した人間たちを、二臣に仕えた、節がない、と貶す声は、福沢の瘠我慢の説を持ち出さずとも耳にするところですが。その声は、時代を顧慮しないノスタルジーに過ぎないのではないか。戊辰戦争やその前の幕末時代のみを切り取って、そこだけに価値を置いた狭隘な視野だと感じられてなりません。

戦に身を費やした戦士が、次の時代へ目を向ける、いわば生まれ変わりを与えられた喜びは、次の丸毛の声からも感じられるところです。

「十年其身を死生の間に処せしもの幾数回、而して万死に一生を得、今日太平、聖天子の一兵卒と為る。嗚呼亦幸栄なる哉、嗚呼亦幸栄なる哉」

ああもう、丸毛。よく生き残ってくれた。よくここまで書いてくれた…。
なんか、もう、しみじみと感じてしまいました。
何かあれば前線に走って名誉のために死にたがる、浅田君と張り合うような特攻流血男が、生き残ってよかった、幸せだ、と言ったその言葉。

ほんとに当たり前のことなんですが、死んだら皆そこで終わりなんです。生き残るほうがずっと難しくて、大変なんです。でもやっぱり、生き残ってよかったです。生き残って下さった方々によってこそ、我々の土台がある。
なんか、丸毛の記録を見て、大鳥があれだけ、当時の価値観に齟齬して生き残り第一の方針で居てくれて、本当によかったと思いました。そのときは命汚さなど、唾棄すべき惰弱だったのだろうけれども。後から見ればそれこそが正しい勇気だったのだと。生き残り、生まれ変わった者の筆を通じて、宋感じられました。
勿論、死者への手向けも必要なことですし、死してこそ残るものがある、というものですが。お叱りを覚悟で言い切ってしまうと、死者には自然、語り部がつくから、語られるし、飾られるものなのですよな。生き残った方こそ、むしろ光が当てられづらい。

そして、生き残った人の、生きた軌跡、人生そのものを見つめて我々とのつながりを確認してからこそ、戊辰戦争というものに対して筆を置けるのだと思います。

そして、巻末の箱館脱走役員名簿。
これもまた記録男の名にし負わんばかりの仕事です。(私が勝手に名付けているだけですが)
丸毛の名簿に特有なのは、生き残った人物は、「割註に維新後の改名及び任官をも掲ぐ」と、作成当時の官名が記されていること。ただ、民間はほとんど及んでいないから、官員録でも参照しながら作成したのだろうか。医師というのもいますけれど。
圭介が技監、林董が工部大書記官となっているから、明治14末〜15年の作成だと思います。

明治陸軍入りした人たちは、工兵は小菅辰之助(智淵)が工兵中佐、筒井於兎之助(義情)が陸軍少佐と、関廣右衛門が陸軍大佐と、左官にまでなっていますが、他は本多・大川、黒澤正介の大尉が最高位か…と思ったら、彰義隊の斉藤昇が(徳明)が陸軍大佐に。誰だ…? 器械方、工兵方の技術者集団のほうが、新政府には居なくて需要が高かったせいか、出世が早いようです。

丸毛君は大蔵六等属。大塚霍之丞も、賀久治という名で工部七等属に。
今井信郎弟の今井省三が「工部学士」となってますが、省三君、工部大学校生だったのか。そいや今井が戦後、教育熱心パパになっていたっけ。…今度工部大の卒業生名簿見てみよう。
横地秀三郎(安信)という江差勤務だった方が、判事になっているけれども。彼は藤原で伝習隊夏服や小銃の補充をしていたあの横地秀次郎と関係があるのだろうか。
山内堤雲、工部大書記官になっていたっけ。開拓使から異動してきたのはどこかで確認したけれども。
小杉雅之進は農商務省の準奏任御用掛。
浅田君は官名がないから、民間人として生きたのだろうか。あと「隊外士官」となっているから、やはり箱館では戦闘現場には出てなかったようで。

この名簿は「伝習士官隊、遊撃隊、彰義隊等の如きは隊士と雖も、往々旗下の士多し(所謂目見以上なるもの)、又伝習歩兵隊、衝鋒隊、一連隊等の如きは従前の歩兵を以て成り立ちしものなれば、或は士官と雖も歩兵より戦功を以て昇りしものあり」ということで、ここに掲載の士官は、元歩兵の人も多いとのこと。
これ、結構重要な但し書きです。伝習士官隊・歩兵隊は、伝習第一大隊・第二大隊からの直接の繰上げではなくて、歩兵からの昇進組の士官を主に歩兵隊に割り振ったらしい。その頭取の大川も、旗本ではなかった(多分。今のところ旗本家録に見当たらないので)のが象徴的。元旗本・侍は、成り上がり歩兵と一緒にされるのを嫌ったのだろうか。で、圭介、直卒していたのは歩兵隊のほうが多かったな…。

「以上人名は予が手記と記憶とに係れば、極めて違脱誤謬等多かるべし。他日旧友に就て善本を得ることあらば校正すべきなり」 とありますが。特に士官のその後の人生を追う道しるべとしては、かなり重要な役割を担っているのではないかと。全く何もないところからより、この名簿から始めるほうが、ずっとピンポイントに近いところで当たれると思います。
それにやはり、人名そのものも、これほど包括的に書かれているのもそんなに少ない思います。旧幕府の宮氏のや、大川本、岩橋本などと照らし合わせれば、かなりのモノになるのではないかと。

そんな感じで、ポストが全く納まりきらなかったほどにおいしいところてんこ盛り史料でした、感旧私史。
丸毛の筆力を見せ付けられました。いや、ほんと、残してくだすってありがとうございます、と地に這ってお礼を言いたいです。
まとめるのが大変だ、とか言う勝手な文句は、えっと、はい。脇においといて。

以前に皆様にご教示いただいた内容も多かったですが、整理のために、あえて再掲させていただきましたー。

posted by 入潮 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブータン:薄い空気

掲示板、復旧しました。ご迷惑おかけしました。
回線が重過ぎて、FTPが動かないので、復旧はあきらめていたのですが、WebアップロードのJAVAでパーミッションの変更ができることに気がついた。便利になったなぁ。

過去ログですが、本体のバックアップをしていなかったので、キャッシュから拾って再投稿したりしています。なので、日時が今で、実投稿日時をその下にコピーしていますが、許してください。
また、上げ切れていない記事がまだあるかもしれません。お気づきがございましたら、教えていただけるとありがたいです。
バックアップは必要だなー…。HTMLはローカルで作るからまずなくすということはないけれど、CGIはつい忘れそうになる。

えーと、沈んでおります。現場は今回少なかったのですが、データ整理が大詰めで、なかなか波の上に浮上できません。回線も重いから巡回もままならず。ウェブメイルのほうもチェックできておりません。いつもながら申し訳ないです…
ちょっと滞在が伸びました。現地の会社に委託していた調査の成果が遅れて、膨大な量のデータ整理が集中。データのみでエクセルで50MB超えてるってどういうこと。このまま処理しきれないままに報告書の締め切りに突入します。というか報告書のためのデータが、まだ揃っていない。肩こりで吐きそう。

そんな感じで、またしばらく音沙汰がなくなると思います。現れたら、切羽詰って逃避しにきたと嘲ってやってください。

空気が薄いから、踏ん張りが利かないのですよなー。気圧が700-750mb、下界より30%ぐらい低い。つまり、酸素濃度が低い分、いろんなところで支障が出る。というか睡眠時間が増える。起きていても眠い。パフォーマンスが落ちる。深く眠れないという人も多い。空気は薄くても仕事の密度は変わらない、というか、濃くなる一方なので、なかなか思うようにいきません。標高は日本の車道で一番高い、たしか信州の乗鞍スカイラインと同じぐらい。あそこでは、酸素が薄くて225ccのセローのエンジンがすっかり元気なくて、坂が登れないんじゃないかという弱りようだった。そりゃ人間も弱ります。…はい、怠惰の言い訳です。

データ収集してくれている委託先の人は、1日4時間睡眠で、家に帰ってもおらず、床を指差して「これが私の大きなベッドだ」とか言ってくれてます。彼の仕事が遅れているのでこっちのしわ寄せもキツイのですが。誰を責めるわけにもいかず。日本人以上にブータン人を働かせる日本人は、うちらぐらいだろーと。過労死の種を振りまいております。技術を広めるのはいいけれども、そんな悪習まで広めるな。
民間が泣いているのはどこも同じ。でも働き者は大好きです。自分より過労気味の人間が居ると思うととても慰められる。

そんな感じで函館中央図書館資料もまだ突っ込みきれていないままに放ったらかしです。いつも中途半端にして次の話題にフラついているのな。あー。
タグ:ブータン
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2006年02月10日

「けいすけじゃ」

えーと、「けいすけじゃ」コンテンツを復旧しました。
事情があって、取り下げておりました。「けいすけじゃ」掲載から、取り下げまでの経緯は以下の通りです。

1) 「上郡民報」に大鳥圭介の伝記漫画が掲載されていたことを、約2年前、ネット情報として知った。

2) 「上郡民報」を発行している自分が「山本新聞社」様にご質問したところ、、バックナンバーがあるとのことなので、直接お訪ねしコピーさせていただいた。また、山本新聞社様が所蔵されていない号については、上郡公民館図書室を再訪し、コピーを入手した。

3)「けいすけじゃ」については「出版してほしい」「まとめて配布販売する予定はないか」という声が高かった。その声を山本新聞社様にお伝えした。

4) 山本新聞社では、出版は難しいとのことであった。そこで、山本新聞社様に、電子化してインターネットに乗せていただくことがを可能かどうか、ご検討いただけないか、打診した。

5) 山本新聞社様から、「容量や技術的な問題がある。しかし、自分が電子化を行ない、ウェブページに掲載しても良い。著作権上の問題は無い」とのご回答をいただいた。

6) 以上から「けいすけじゃ」の掲載をさせていただいた。この際、著作権上の問題は無い、ということを、自分が「著作者の了解を得ているものである」と思い違いをしてしまっていた。(2004年2月8日)

7) 昨年末12月20日頃、同様にウェブページに「けいすけじゃ」を掲載しておられる「おらが村」さまより、著作者の半沢祐人様が掲載についてご存知なかった、という旨をご教示いただいた。同時に、半沢様より誤字脱字箇所についてのご指摘があった点を、ご教示いただいた。顔面蒼白。大慌てで「けいすけじゃ」を取り下げた。

8) 半沢様に連絡を取り、上記の経緯をご説明し、お詫び申し上げた。誤字脱字箇所を修正した上でならば掲載は問題はない、早期に復活させてほしい、という旨をお知らせいただいた。


以上より、著作者でいらっしゃる半沢様のご了承をいただかない内に、半沢さまの著作物を掲載していたという、著作権上問題である過失となってしまっておりました。
所定の必要となる手続きを踏まなかった上、礼儀もわきまえていなかった所業で、お詫びのしようもございません。申し訳ございませんでした。軽率な行為で、お恥ずかしい限りです。

また、上記の経緯をご了承の上、掲載をご快諾くださり、半沢さまにはお礼の申しようもありません。
今後このようなことのないよう、法遵守は意識して、手続きを怠らずに運営させていただきたいと思います。

半沢様にご指摘いただいた修正点は、送り仮名や「言われる」→「思われる」としたところ、「!」を追加、などで、話の大枠に変更はありません。

改めて読んでみると、いろんな発見や細かい芸に気がついて、大変楽しかったです。

アンモニアネタは諭吉自伝だったとか。
ちゃんと回想にいながら成長しているお勝と鉄次郎とか。
足が速い圭介とか。
薩摩藩邸でここぞとばかりにひたすら飲み食いしている圭介とか。
圭介が集めた歩兵で「で、大将、あっしらに何をさせようってんですかい?」の不敵な面構えのにーちゃんが、降伏直前までいて最後に開き直っていたとか。
長身で、ずいぶんほがらかだった本多さんとか。
「戦闘は一段落月つきもうした」「そうか、こっちは今が戦さの真最中だ!用なら早く言ってくれ」の稜雲先生が非常に格好いい、とか。
なにげに木戸さんの後ろにいた岩倉具視がそっくりだったとか。
山崎さんを最後に持ってくるところがニクすぎる、とか。

そういったのを置いておいても、非常にしっかりと調べて、土台を形作って描いておられるなぁという感じで、改めてしみじみとした嬉しさが沸き起こってきました。一つ一つのエピソードも詳細で、人間味に溢れており、誇張もなく真正面から、大鳥圭介という人間の等身大の魅力を描き出した、愛情に溢れた作品だと思います。著者の半沢様、考証を担当された西山昌夫先生(「大鳥圭介とその時代」の著者)の、長年積み上げたお仕事の賜物と思います。

製作の当初は冊子に収まる程度のものであった予定とのことでしたが、大鳥圭介の人生に触れるにつれ、それでは収まらなくなり、5年の長きにわたった連載となったという逸話も、「上郡民報」にご紹介されておりました。

そういう感じで、自分如きのサイトにこの作品を掲載させていただくのも、恐れ多さ極まりのないことで、躊躇いまだ大きいです。
ただ、メディアでは誤解され歪められがちな大鳥の、真実に近づいた像を広めるのに、漫画という媒体は、非常に有効で、自分如きがテキストで長文垂れ流すより、よほど力のあることですので、恥を忍んで、再掲とさせていただいた次第です。

半沢様、山本新聞社様には、改めて、御礼申し上げます。

掲載に当たっては、画像処理を行なって、前回見難かったドットの飛びなどを除去しましたので、見やすくなっていると思います。ただ、最初のコピーの関係で、ゆがみやページの切れなどがあるのは、ご容赦ください。いずれ、上郡を再訪させていただいた際、切れているページは再度コピーをさせていただいて、掲載しなおそうと思っています。

PDFから吐き出して、フォトショップでチョコチョコ修正、解像度を変えては容量を調節する。…その日16時間かけて結局パァになった仕事のデータ整理より、ずっと有意義な作業でした。
タグ:大鳥圭介
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2006年02月13日

拠点とアウトライン

上郡民報のコラム記事。

http://www.jh3hgi.net/kik/minpoh/minpousha/column.htm

兵庫県の上郡総合庁舎が移転するそうで。その後の建物を利用して、福祉と文化の充実の拠点としたいということ。その一画として。

「赤松氏族関係や大鳥圭介などの資料や足跡を展示するフロアーもこの際に実現したい」

だそうでして。

実現すれば、大鳥家ご親戚の小林家に伝わる書、書軸なども展示される可能性があるとのこと。小林家の方は、大鳥圭介書簡集にも出ていました。

これは、しみじみ嬉しいですねぇ…。ここにいけば大鳥に触れられる、という拠点があればいいなぁ、と思っていたのです。維持管理も大変かと思いますし、収入源にもならず、上郡町民の方々のご負担になるかもしれないのですが。地元が立ち上がってくださると、それほど心強いことはありません。

生家は、位置づけとしてはプライベートなものと公共物との間で、今はむしろ、余り訪れないほうがいいのではないかと思う状態ですし。

故人の事跡を伝えるのは、拠点があると心強いことで。ここにいけばこの人のこれがある、わかる、という柱は、やはり必要だと思います。それだけで実在感がぐんと上がる。戦跡や資料館、図書館などに散らばっていますが、それはあくまで他のテーマを通したもので。大鳥がテーマの資料展示というのは、メッセージ性も相当違ってくることでしょう。

情報普及度に関しては、ウィキペディアも項目が立ち上がって、一般の方が大鳥情報に触れやすい状態にはなっているかとは思います。ただ、あれも、業界情報というか。数十種類の資料そのものを読み込んで、大鳥自身に焦点を当てながら練られた認識ではないと感じてしまう。研究家が、大鳥圭介伝の分かりやすい表面的な言をそのまま引用したのが載っている感じだなぁ、と。

い、いや、それも十分公平で妥当な視点ですし、そこにあるのはむしろ人間らしい評価ですし、そもそもあるだけ嬉しいというものですし、あれはあれで良いと思います。去年の自分なら躍り上がって喜んでいたと思いますし。

ただ、やはり、資料を重ねに重ね合わせて、ついでじゃなくて人物そのものを凝縮してからはじめて得られるものが、基準となってほしい。それを元に、人物のアウトラインが描きだされたらいいなぁ、と思ったりするわけです。

一般人がぱっとみて、「あー。こういう人生、こういう性格の人なのね」と把握できるイメージが、アウトラインなわけですが。一気に平易に伝えねばならない分、それだけに、深いところから言葉を抽出して選ぶ必要がある。難しい作業です。
一面ばかりを掘り下げても、流布性に乏しいから、仕方がないわけで。

それで大鳥の場合、どうも、各種資料から抽出されるアウトラインは、既存の業界認識によるアウトラインとはかなりずれている。なんせ歪められた認識のほうが、ヒールを必要とする界隈にとって都合がいい。なので、そっちのほうが広がっている。

まぁ、一番誤解されているところの、大鳥が戦が上手いか下手か、というのは、結構、些細などうでもいいことなんでしょう。大鳥の本領はそこにあるわけではない。科学技術者、人材育成者として、大鳥がこの世に残し我々に伝えてくれたものの価値に比べれば、何十回かの戦闘における彼の評価など、たかがしれたものです。

ただ、戦下手、ばかりが強調されていてそのほかの特徴が全くかすんでしまって、伝えられるべきところが伝えられていないのは、むべならんなぁ、と。大鳥の強調すべきところは、幕末洋学者時代と、開拓使・工部省時代にこそあると、自分は思っていますからー。

だったら御託並べてないで自分がやれよ、という感じではありますが。自分の認識は、まだ、そのアウトラインを作成するまでにはまったく及んでいない。未だに揺らぎ続けていますし熟成もされていない。もう数年はかかるかなぁ、と。
それに、今のところ、自分の認識は、その業界からあまりに剥離してしまっている。百科事典は、異端の論を述べるようなところではないだろう、と思いますし。

業界の認識で強調されている「戦下手」とか「机上の戦略家」とかですが、その辺が一面的に呈されることには、かなり疑問を持ってしまってますし。確かにそういう面もあるのですが、反証も資料そのものの中に山と見られているもので。二面的というか、多面的で、かつ多層なのが、大鳥の柱なんじゃないかという気がする。一生懸命生きた人間というのは皆そうでしょうけれども。
そうすると「〜という声もあるが、〜という評価もある」と分かりにくい表現になってしまう。で、単純明快を好む大衆情報にはありがたくなくなってくる。

何が正しいか、というと、メディア偏重の世の中。メディアによって齎される情報が、流布性があって、大衆に響き渡るので、結局、一番強い。そして、強い情報が正しいものとなってしまう。で、その「正しい」情報が百科事典には来てしかるべきなわけで。大抵は大衆的に正しいのと、実像として正しいのが、一致しているから良いのですけれども。大鳥の場合はそうではない。

その状態を変えるのは大変なことだけれども、このまま、辺境から電波発信を続ける間に、じょじょに情勢が変わればいいなぁ、と思います。業界認識に対して一々「違う!」と声を荒立てても仕方がない。事実根拠を示してじわじわと浸透させていかなければ、何も変わらない。変えられるかどうかは、ソースの妥当さと、原典を今の言葉で繋ぎ合わせて構成しなおす論理力がキーでしょうか。

…普通に投稿する、とかより、よっぽど大それた身の程知らずなことを、のたまってますね、自分。

いや、幕末の資料サイト様のブログなどでも、大鳥の見直しやイメージの打破を要望する声を上げてくださっているのを目にできたりして、心強い限りです。ネットっていいなぁ。そういう声が増えただけ、正月のドラマは、反作用的に、良いことをしてくれたのかもしれない。

自分にとっては、大鳥はすごいんだぞー、ときちっと言うことは、「それでも地球は廻っている」と言うのと同じぐらい大事なことです。こんなのと同じにしてごめんなさいガリレオさん。嗚呼痛い奴。

と、とにかく、そうやって大鳥の人生そのものを見つめて得られる大鳥の基準、アウトラインを持っている方は、今のところごく小数ながらもいらっしゃると思うのです。西山先生や福本先生など。(諸先生方も、大鳥は戦は下手だと仰っているのは共通ですが…)
そうした方々が、アウトラインの供給源として、地元拠点から発信していただければ、そんなに嬉しく、心強いことはありません。


……すみません。眠くて思考力が地を這っています。
夜行の飛行機の中で仕事して、そのまま朝出社して、終電帰りで、荷物受け取るまでもなく次の日も会社で泊り込み、という感じ。終わりが見えない…
逃避です。はい。
タグ:大鳥圭介
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2006年02月17日

オタク文化論

前に向かって倒れたい。涙は後ろへ流したい。

「倒れる」と打とうとすると、「殪れる」とか「斃れる」とか出てくる職場PCは問題です。だって出張先で更新作業を行なうわけで。出張に、重いPCを2台も手荷物持っていく気はしないんですもの。

夜行便の徹夜明けで、1ヶ月の出張戻りで職場に現れたとき、迎えてくれた後輩君の最初の言葉は、「入潮さん、疲れてますね。メイド喫茶行きましょう。秋葉原!」でした。
「あたしそんなにオタクっぽいか?」と聞くと「全身のオーラが行きたいと云ってます」と返されました。隠しようがないらしい。
別に机にゲームイラスト飾ってあるわけじゃないのに。南柯紀行は棚にこっそりありますが。
…いいなぁ、行きたいなぁ。メイド喫茶。可愛い女の子を見て癒されたい。人間の尊厳というものを思い出してみたい、仕事奴隷な日常。昨日も徹夜でした。締め切りは済んでますがデータは穴だらけです。

そんな感じで、久しぶりに自分がオタクということを思い出しました。思い出したというか、本来は、根も幹も葉っぱもオタクです。オタクの消費動向とマーケット価値を明らかにした野村総研さんの調査。(http://www.nri.co.jp/news/2005/051006_1.html)これで、ここで5つに分類されたオタクタイプの内、4つに確実に当てはまるオタクです。

MSNなどが喜んでオタク記事を載せているせいか、今はオタクという言葉のイメージが大分変わってきましたな。昔は、協調性や社会性のない、閉じた趣味の不潔さのある人種、という感じで用いられていました。しかし今は、二次元文化に対して感受性が高く、時代のツールに敏感、操作力と適応性があり、創造意識が高く、コミュニケーションに秀でた一大消費者層、という感じです。

いや自分、本気で、オタク文化は、武士道に通じる日本古来の高尚な精神素養の表れだと思っています。

「萌え」とは、いとしきもの、うつくししきものを、ゆかしい、あはれと感じる豊かな情緒。
また、ちいさきもの、かわらしいものを愛らしいと思うのは、惻隠の情に基づいています。

「萌え」を表現する手段として、文章や絵画があります。それは、精緻表現を追求し、情感に訴える。茶道や華道などと同じ精神的土壌から涵養された「道」でありましょう。ジャパニメーションの質の高さと世界への流布度は、おしんやエヴァンゲリオンの例を挙げるまでもなく、その源流にあるオタク文化洗練度の高さを示すものだと思います。

また、オタクは一般人に対して、引け目を持っています。自分たちの知識や志向の深さが、一般には容易に到達しえず、理解されがたいことを知っているからです。そして、謙遜するのです。ゆえに、自らをいたずらに誇ったり、傲慢であったりはしません。謙虚で、謙譲の美徳を備えています。そして、同類、同好の士に対しては大変やさしく、許容性を持って受け入れます。時にその隠匿的な姿勢や仲間内に閉じる傾向が、内輪、秘密結社的なイメージを与えることもあるでしょう。けれどそれは、オタクの謙虚さとシャイな心のなせることで、決して侮蔑を受けるような性質ではないのです。

メイドもオタク情緒を表す典型のひとつです。
メイド文化は、自分が主人として奉仕される心地よさを味わいたい傲慢さから生じたものでは決してありません。
メイドという、挺身し奉仕するかよわき乙女。それを可憐に感じさせていただく心。弱き者、健気なものを大切に思う精神。やはりこれも惻隠の情の表れなのです。
メイドは、決して服従させるものなどではない。むしろオタクにとっては、崇め奉る対象なのです。

更にオタクは、自らの生産するものに対して経済的利益も効率も追求しません。心の安らかさを生む作品を、無償のままに供給し続けています。それによる利益や経済性などとは無縁です。むしろ自分の財産と労力をつぎ込んでいます。文化の対象への奉仕と献身と愛こそが、動力です。同人誌で儲けようなどと思っているオタクはいません。

多くのウェブサイトでは、オタクの調査・創作・創造精神により、価値ある情報と、エンターテイメント作品が提供されています。だれもそれにより儲けようなどと考えておりません。なのに、時に、世界を揺るがすほどの利便さえ供給されます。
検索システムもリナックスも、オタクの無償の奉仕精神ゆえの産物です。

世の中、所詮、金とモノが力。仕事に追い立てられ、効率と能力と生産性ばかり要求され、体力がそぎ落とされ精神が乾ききる。世知辛い競争が日常化しております。けれども、その中で、オタク性は、うつくしきものをいつくしみ、精神に潤いを与える。人間らしさを保つには必須な素養とさえいえるのです。
真の利益は、経済性とは別のものから、もたらされます。

明治は、士族となった武士たちが、自らの忠誠と勤勉を、それまでの藩や将軍ではなく、一丸となって、天朝国家へ尽くしました。彼らは、豊かな素養をもって、政治、産業、教育等あらゆる分野で民間をリードし、献身的に国づくりを行ないました。これが、日本的価値観を守りつつ自由民権運動を為しえ、同時に、人材育成を行なって科学技術の発展を可能にし、民力を底上げしました。それゆえに、日本は、アジアで唯一植民地化を免れ(緩衝材として残されていたタイを除く)、たった30年で300年の鎖国によるビハインドを快復し、驚異的成長を為しえたのです。

そして現代は、オタクたちが、武士に代わる存在です。オタクこそが、その無償の奉仕心と美意識をもって、日本人らしさを保ちながら、技術立国としての立場を存続させ、日本に持続的発展と幸福をもたらす中心的な役割を果たすでしょう。そう、自分は考えております。

…ちょっと褒めすぎ、やりすぎか。
いや、催眠です。

ほぅら〜、オタクってすごいのよー。

調子に乗りました。すみません。
で、せっかくそういう、時代がオタクを認めてくれる方向にあって、オタクメッカの日本国内にいるのに、オタクに興じている体力というか、情緒的余裕がない…。
文化どころか健康的な生活すら放棄してます。泊り込みが続いているし、家に帰ってもそのまま消耗し果ててバタンキュー。空港から送ったスーツケースを、未だに開いていない。中で汚れた洗濯物が醗酵していそうで、開くのが怖い。
一昔前の汚いオタクそのままなワタクシ。なのに楽しいオタク作業はまったくできないでいる。何か間違っている。
3月まではこの調子が続きそう。せっかく国内にいるのに図書館にもいけず、ご挨拶メイルすらかいていない。干からびそうだ。
posted by 入潮 at 02:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

佐倉藩士 木村隆吉

とりあえず、メモ。

 『佐倉市史研究』第10号(平成7年)
 内田儀久「戊辰戦争に参加した佐倉藩士の碑について―小柴小次郎と木村隆吉を追って―」

というのがあるらしい。
木村隆吉は、南柯紀行で、一行目、寅吉と一緒に一番最初に名前が出てくる人物。大鳥が江戸を脱走した際に同行していたけれども、その後どうなったのか分からないなぁ、そもそも大鳥との付き合いはどんなだったのだろう、と首をかしげていたのでした。

国会図書館には見当たらない。佐倉市図書館にならあると思うのだけれども、検索には引っかからない。
大変読みたいのだけれども。

佐倉の洋学者たちって圭介と相当縁が深いのですよねー。蕃所調所や開成所時代、洋式軍隊士官時代の同僚。荒井宗道、大築尚志。みちさんが身を寄せていたのは、この荒井さんのところでした。で、みちさんたちが「預けられた先は土浮であったと、『佐倉地方文化抄』に千葉光弥氏が書いてあった」と気になるネット情報も。

佐倉藩の面々は大体、おとなしく恭順していたかと思うのですが。木村さんは圭介に「元佐倉臣」と書かれているので、脱藩した方なのかしら。松戸までは名前が見られるのだけれども、その後がよく分からない。彰義隊に参加して戦死、という話もあり。大鳥脱走軍にいてから彰義隊、というのも、時期的によくわからない行動だ。

この辺に圭介脱走動機の別の視点もありそうな気もしているのだけれどなー。

佐倉まで出かけてみるか。しかしその1日が取れない…。あーうー。
ど、どなたか、佐倉市のお近くの方、興味あったりしませんか。…ほうら、興味がわいてくる、沸いてくる…(催眠)

メイド喫茶は、報告書の締め切りがあるので、泣く泣く、無念断腸、慷慨悲憤の思いで、断りました。奴隷人生、待っているのは、メイドじゃなくて、過労死の冥土。いろんな意味で面白くない。

寝ます。嗚呼。

    [2] ままこっち URL 2006/02/19(Sun)-01:57 (No.9)
    入潮さん
    ご出張、激務大変お疲れ様です。洗濯物は早めに処理しちゃいましょう(自分にも言っている)
    オタク5パターン、私も見てみましたが3つくらい当てはまりそうでした・・・面白いので拙宅でも紹介してみたいと思います。
    ところで。佐倉、ですが成田の隣なので出張帰りにちょこっと寄る、とかダメですか?次回の出張の張り合いになるかも。(ならないか)
    佐倉は実家から結構近いんですけれど、しばらく行くチャンスはなさそうです。歴博もオススメなので、時間の取れる時に行ったほうがいいかもしれませんね。

      [3] 入潮 2006/02/20(Mon)-01:54 (No.11)
      ままこっちさんこそ、お忙しい毎日の中、ご来訪ありがとうございますー。
      どうですか、武士道とオタクの精神文化論。結構イケていると6割ぐらい本気で思っているのですが。
      もとい。オタクも市民権を得てきました。ままこっちさんもオタク度ありとお伺いし、心強い限りです。オタクにあらずんば人にあらず、オタクこそ大和魂、な世の中になればいいと思います。

      出張帰り。ナイスアイデアですー。佐倉は腰を入れて調べると、主戦派と恭順派を繋ぐ、良いアウトプットになりそうだなぁと思っています。明治の基盤は幕末洋学者にあると思いますし。
      今のプロジェクトの行程だと、けたたましいインド人のひしめく夜行便から、成田に着くのは夕方遅くでへろへろになっているというのが哀しいところでして。成田に早い時間に戻り、そのまま会社行きの羽目にならずにすむ出張を目指して、是非突撃してみたいと思いますー。
posted by 入潮 at 02:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

箱館病院書簡

いつもながら徹夜と終電帰りを繰り返す生活は、心身を削ります。老けます。

眠いけれども、精神を潤すために、1つだけ。
箱館戦争時の、大鳥→高松書簡。

「拝啓 愈御多祥奉敬賀候。然士官隊付属之醫師色々薬品払底二て困入候二付、何卒以御周旋別紙記出候薬種御渡し被下候様御取計奉願候。右相願度早々頓首
正月二十一日」


うちの(伝習)士官隊の付属のお医者さんが、薬とか色々尽きてしまって困り入っております。別紙に薬の種類を記しました。どうかこれらをご調達の上、御渡し下さいませんしょうか。

…という感じの内容。句読点は手前で勝手につけております。

宛先は「箱館病院 高松凌雲様」、差出人は「亀田 大鳥圭介」となっています。

正月、というのは、言うまでもなく明治2年1月のこと。時期的に海岸線・内陸測量調査に出かける直前ぐらいだと思うのですが。

……なんで圭介が、士官隊の薬を、高松さんに申込みしているんだ…。
貴方、忙しい人なんじゃないんですか。しかもご丁寧に薬のリスト化までしてあげて。

伝習士官隊には付属の医師がいたとのこと。外の隊にもいたのだろうか。
にしても、そもそも、1月だとまだ戦もなく、やっても訓練だけだろうに。薬が尽きて困っているなんて、なんでそんなことになっているんだろうか。

その付属の医師が。直接箱館病院に申し込めばいいのに、なんでわざわざ陸軍奉行の圭介が、院長の高松さんに、しかも頭を低くしてお願いしているんだろう。

滝川・宮氏チーム、宮古湾海戦のあととか、もうちょっと後の時期に、箱館病院の小野さんに顰蹙かってましたが。(あ、宮氏は確定しているわけではないか…)。もしかしてそれより前に、士官隊って、なんぞ教練中にでも、調子に乗りすぎたりして悪さしたりして、病院の人たちから医薬品差し止めされてしまうような羽目になってしまっていたのだろうか。そして圭介が、部下の尻拭いをするために頭下げる羽目になっていたのだろうか。

だって別にその頃は、病院は、薬品不足に喘いでいるときでも、忙しいときでもないわけだし。隊から申し出があったら、院長がでてこなくても担当の人でいくらでも対応できそうなもので。

なんか、短い手紙ですが、何があったのかその背景を勘ぐってると、どうも頬が緩んでしまいます。

そんな感じで、圭介のこういう細かい仕事の跡は、結構いろんなところでちらほら見つかって楽しいです。
実在感が積み重なります。
でも、もうちょっとこう、ふんぞり返っていろよ、と思います。いつまでたっても仕事終わらないぞ。細かい事が目に付いてしまう人なんだろうなぁ…。

…人が忙しそうにしているところを見ると、ちょっとだけ幸せになる、歪んだ根性の土曜日の夜。
明日も仕事。図書館ぐらい行きたい。人間らしい生活は何処。…いや、土日休めるようにしっかり仕事を詰めない自分が悪いだけなんだって。仕事しなきゃなんないのは、結局、怠惰の証だ。

posted by 入潮 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月21日

函館中央図書館その7 函館遺文、函館戦記絵本

まだ終わっておりません。函館市中央図書館資料。
まだやるのか、という呆れの視線も心地よいマゾヒスト。

● 函館遺文

箱館病院の往復書簡を集成したもの。下の、大鳥→高松の、薬都合のお願い書簡も、こちらの遺文集に含まれていたものです。函館図書館にあるのは、筆写したもので、原本は別にあったと思います。んでも、圭介が序文を書いて、朱印を押しています。明治四十二年十一月。

「遺文一巻今一読不勝感慨因書當時一詩乞高松醫伯教正」

この書簡を一読したところ、感慨に絶えず、当時の一詩を呈させていただくとのこと。
それで「砲裂摧艦吾事終 幡然衆代殺茲躬」の、有名な(ということに自分が勝手にしている)詩を掲載しています。

この詩ですが、「大鳥圭介伝」の名士談話で、高松さんが挙げておられます。「当時往復したる書面の余の手許にあるものに対し、一昨年十二月大鳥男は左の題詩を認めたり」ということ。
その実物(の写本)があるということで、なんだか、彼等のつながりをしみじみと感じてしまいました。

榎本→古屋書簡や、病院事務にかかる連絡事が納められています。降伏時事、弁天台場や薩摩、池田と、五稜郭間で行った病院側の周旋の際の連絡が含まれているのは、箱館戦争史を直接追う方にとっては貴重なものでないかと。

圭介じいちゃんは、これを見て、当時を回顧したのだなぁと。じいちゃんになるまでろくに思い起こす閑もなかっただろうので、ひとしおで。

●「戊辰の役 函館戦記」 明治15年、錦壽堂木作梓 作

戊辰戦争の絵本です。婦女を含めた庶民対象なのか、ひらがなが多く、漢字にもすべてかなのルビが振られています。六円五十銭とあるので、当時としては相当高価かと。今でいうと2,3万円ぐらいの感覚。表紙はカラーです。当時、カラー印刷技術なんてないだろうから、版で一色ず塗っていたんだろうな。高いはずだ。
あと、「隅田古雄編外」と但し書きあり。それに、「梁田驛 晃靖国國居竹光」と、所有者かなにかの名前が入っています。

大鳥が何回も描かれています。髭があったりなかったり。洋服です。刀を振りかざして、馬に乗って、日章旗をバックに勇ましく戦闘で攻め入っています。「総督、下がりなさいッ!」という声が聞こえてきそうです。

特筆すべきは、ここまで出すか、というぐらいに人物が多岐なこと。榎本、荒井、松平のおなじみの面々は勿論。
大岡用二郎、小杉雅之進、高松凌雲、小野権之丞、相馬主計、川村録四郎、人見勝太郎、永井玄蕃、松岡四郎次郎、などなど。大塚じゃなくてなぜか斉藤辰吉が、榎本切腹を止めています。

小杉の絵はよく見てましたが、小杉自身が描かれたのを見るのは初めてだった。写真を撮る人が写真に残らないのと同じく、絵描きって描いてもらえないから損だよなぁ。ファンが。あ、小杉の画才は箱館軍随一だと思いますー。

難を言えば、写真の残っている方、悉く似ていない…。箱館戦争の旧幕側ファンの絵師が、想像で綴りまくった、という感じです。
こういうのを見ると、当時の旧幕側の人気の高さもわかります。問題なく世間に流布していたようですし。敗者びいきな方は、勝者の世に辛く当たるものですが、新政府も結構寛容じゃなかったのでは、と思います。


戊辰戦争は勝者の歴史で語られて、敗者はないがしろにされていた、というのは、会津や新選組研究でよく耳にするのですが。むしろ、敗者の記録は、明治の当時から随分と大切にされてきたのではないかと思う。

勝者側の編纂のはずの「復古外記」なんて、過半が敗者側史料だし。「維新日乗纂輯」や「維新日誌」に収録されているものも、太政官日誌部分以外は旧幕・佐幕側の記録が多いし。「史談会速記録」も大半がそちら側の体験談だった。「旧幕府」にしても「同方会」にしても、一世代を経ているといえ、同時代人たちが自分たちの事跡をキッチリ残そうとした、その努力が伺えてあまりある。勿論、勝者の側にも個人の記録や藩史は多いですが。旧幕・佐幕側のほうがより歴史を大切に保存してきたという印象です。

また、こういうとお叱りを受けてしまうというものなのですけれども、ひとつひとつ資料を丁寧に当たってきた方が「史料が少ない」と仰るのは、寡聞にして耳にしない気がするなぁ…。
いかに少なくても、いろんな史料を複合的、統合的に見ていれば、認識も膨らんで、なんぞモノが言えるようになるわけですし。何より、当人たちの言葉は重くて、メッセージ性に溢れている。それを受け取ると、少ない、なんてことは、故人の存在性を損ねてしまいそうで、言えなくなる。
「史料がない」と言ってしまうと、史料に残されるほど大した人間じゃないと、その対象を無邪気に貶めてしまっていそうな気がするんですよな。

本当にファンなら、たとえ2文字3文字でも、十分萌えを膨張させられるというものです。「太平洋ヨリ速二帰レ」の一言にどれだけ抱腹絶倒したことか。閑話休題。

結局、「史料が少ない」というのは、「資料を見ていない」ということと、同じことで。自分の怠惰を故人のせいにしている、とかいうと言い過ぎなんですけれども。自分の足で廻って見つけていないから、物足りなく感じてしまうのではないかと思ったりする。

ふつうに調べはじめたら、見れば見るほど読みたいモノが増えていく一方で、無い、少ない、などと言っているヒマなんてなくなるものじゃないかと思うんですけれどもなー。そして図書館のコピー代に頭を抱える羽目になる。

いやもう、オマエ何様だ、って感じです。ごめんなさい。自分が一体何を見たんじゃ、って感じです。ただ、少ない、という前に、ちょっと気合入れて調べてみたら、見えるものもかわってくるのではないかなぁと思ったのでした。

そして、手に入る限りのありとあらゆる資料を見尽くして、それでもなお自分の望む情報が形にならないもどかしい想いを経られた方の言葉は、相応の重みがあるなぁと。ある旧幕臣を調べておられる方が「歴史は書き物を残した人間、残された人間ににやさしい」というようなことを仰っていました。筆に残らぬ歴史もあるものだと、感じ入ってしまったものです。

またやっちまいましたが。いや、自分なぞ、当初は何も調べないままに、伝習隊の資料が少ないなどと、のたまっていたから、えらそーなことはまったく言えんです。お恥ずかしい限りでございます。
しかも人気ある方に対して、「無い、見当たらない」を繰り返した挙句、掲載のあるなしをピックアップしたりしてかましてますので、失礼の権化というものでございます。はい。
posted by 入潮 at 02:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

トリノの求道者

えーと。何かと干からびそうになってますが、まだまだ元気です。
いやー、フィギュア、面白かったです。とか、たまには一般人めいたことを言ってみる。

夜明けまでの自宅残業が続いていて、余りに眠くなったのでテレビをつけてみたら。これが面白くて、つい連日して、見入ってしまいました。自分、スポーツに全く関心の向かない流行脱落者なのですが。昔、バレエをやっていたので、フィギュアには目が惹きつけられると離れません。
データ出さなきゃいけないのに、エグシビションも朝まで釘付けになってしまった。体力が持たないー。


荒川さん、アジア女性初のフィギュア金メダル。嬉しいです。国民の英雄がまた一人誕生しましたなぁ。日本がここまでやった、という日本の存在性が高まりました。ありがとうございます。

ちゃんと見たのは今回がずいぶんと久しぶりだったのですが、自分としては、村主さんの存在が大変印象的でした。

この世の艱難を一身に背負いつくしたような表情。なんであんな顔をするのか最初疑問でした。演技が始まってからも辛そうなので、この人、一体何が楽しくて滑っているのだろう、と不安になりました。
ところが、演技が佳境に入るうちに、だんだん恍惚とした表情に変わっていって、この方は、何か内側に、計り知れない精神世界を持っているではないかと思えました。

筋肉の目立たない細い体つきや、薄い顔など、もとから禁欲的な印象を与える方ですが。
ショートプログラムの、あの顔でこの曲か、というギャップのある選曲とステップとか、フリーの最後の高速スピンのアグレッシブな終わり方とか。何かと驚かされる方です。

4位になったときの「結果を受け止めるのが大変だった」というコメントも、自分の中の暗闇にある、一転の蝋燭の焔を見つめているような感じを受けました。自分に厳しい、とかいうレベルでは無い気がする、

氷上のアクトレスという異名があるそうですが。私は彼女を、氷上の求道者と呼んでみたいです。
年齢も他の選手に比べれば高めですが、今後も挑戦を続けられるとのこと。これからも己の存在性を高めていってほしいです。

フィギュアの他で面白かったのは、カーリング。カナダとノルウェーの女子3位決定戦で、ノルウェーのベテラン、41歳のナルビエ選手。眼がすごかった。シュートのとき「喝ァッ!」という気合が伝わってくるようでした。投げ終わったあとには、やわらかいおばちゃんになってしまうギャップが、またいい。


それにしても、スポーツ記事をいくつか当たりましたが。品性がないのがあるなぁ…

コーエンの転倒を取り上げて「四年間が台無し」などと身もフタも無い見出しを附けたり。安藤さんのアイドルとしての商品価値を云々していたり。

自分の価値を判断するのは、選手の方々自身であって、マスコミじゃないだろう、と思いますし。
ほめられるより、貶されるほうが、心への影響は大きい、というのは当たり前のことで、マスコミのあり方が、選手の方々の心身の状態に大きく響くでしょう。
であるのに、言葉に最も気をつけてもらいたい業種の人間が、言葉の影響をいちばん軽視している気がするなぁ。ああいう記事を見ると、メディア報道に不信感を感じてしまう。

暖衣飽食の輩が、一生懸命やっている人間を手前の勝手な価値感で云々して、しかもそれをメシの種にしている、という図式は、スポーツに限らずメディアではよく見られることで。自分の言葉が世間の意思を作るのだという誇りが感じられない。それはずいぶんと怖いことだし、恥ずかしいことなのじゃないかなぁと思います。

視聴者である我々も、単に情報をオモシロければ良し、とするのでは、足りない。メディアを冷静に評価する視点が求められているのではないかなー、と思います。

表現の自由には、その表現され公開された内容に対しての反応に責任を持つという義務が伴うものでしょう。

マスコミのあり方が多くの選手の方のプレッシャーやダメージに繋がっている、というのは周知の事実で。マスコミによりエンターテイメントを我々が受けている以上、情報の享受者が、マスコミが品性を維持できるように働きかけをする。情報を受ける我々一人一人の質を高めること。それが、選手の方々への本当の応援に繋がるのではないかなぁと思ったりします。

さて。トリノ、トリノ、と聞くたびに、「トリがなんだって?」と思ってしまう自分は、矢張り一般人には戻れません。
タグ:村主章枝
posted by 入潮 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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