2006年04月01日

「大鳥圭介史料集」

「大鳥圭介史料集」(上・下)発刊
ISBN: 4404026277へ8
上下巻計1832p、サイズ(cm): 21 x 15
価格:上下セット19,040円(税込)
表紙は墨絵風のヤシオツツジ。内容は以下の通り。
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「大鳥圭介南柯紀行」:幕末戊辰史必携。文意明瞭。著者の情緒と価値観が集約された大鳥資料のバイブル。昭和16年山崎有信版(全ルビ付)の復刻。

「流落日記」:箱館降伏から投獄までの護送記録。南柯紀行と獄中日記の間を保管。長らく憲政資料室に眠っていた日記の、初の総活字化。

「死生の境」:晩年の大鳥が回顧する、戦場と牢獄の現実。死と隣り合わせの現実を生き抜いた男の実体験と心境。

「祖父圭介の自伝に就いて」:大鳥家の筆箱に眠っていた自伝草稿を、孫大鳥欄三郎氏が語る。主戦派として知られた幕臣の、父親、そして人間としての素顔。

「名家談叢実歴史談」:若き大鳥の自己研鑽の日々。洋学者として、軍人として、幕府陸軍黎明期の土台を描く。陸軍史にとって欠かすことのできない記録。

「老勇懐旧談」:自らも陣羽織を翻して戦場を駆けた老雄が、箱館戦役の群像を語る。同時代を生きた英雄たちと降伏劇を、独特の視点で披露。

「小栗上野介」:幕政を支え、日本の近代化への道を切り開いた俊勇・小栗忠順への想いを大鳥が綴る。共に陸軍近代化を実現した小栗との心の交流。

「甲子雑録大鳥圭助謹言」:横井小楠より5年先に、二院制を唱えていた男がいた。全ての目が欧米に向かっていた時代、独自の視点で日本と同じ立場のトルコや暹羅を見つめ、行く末を考え抜いた、若き洋学者の画期的幕末開化論。

「洋行日記」:外債発行、1ヶ月で100の工場を視察した道中。岩倉使節団との接点と伊藤博文らとの交流。日本殖産興業導入期における世界の産業動向を明らかにした、技術産業史貴重史料。

「開拓使四部作 (山油編、石炭編、木酢編、阿膠編)」:本邦初の石油・石炭開発技術書。洋行視察の成果を凝縮し、当時欧米の資源産業の実体を明らかにした報告書。資源開発史に欠かすことの出来ない、技術官僚大鳥の代表作。

「大鳥圭介意見書」:当代トップの技術官僚による、士族授産、富国済民の建策。官営技術コンサルタントサービスの提案、技術倫理の先駆けとなる概念が示された明治の前衛的文書。

「ポロナイ石炭山報告」:榎本武揚、ライマンが発見、調査を行なった幌内炭鉱の事業化調査を大鳥が担当。豊かな知見による開拓使、そして後の日本資源史への貢献。

「信越羽巡歴報告」:当時の信越地方をつぶさに足で歩いた大鳥によ石油・金属・産業調査報告。当時日本の地方産業の実態を知る好史料。日本の石油開発黎明期に光を当てる。

「大鳥圭介書簡集」:吉田清成、陸奥宗光、榎本武揚、黒田清隆らとの交流を明らかに。また、地元産業と関わり、地場産業育成にも取り組んだ大鳥の足跡を伺う。

「蔵輝論」:日清の関係・国際情勢を解説した外交政策考察。日中問題の先駆的図書。

「東洋学芸雑誌『廉恥』『国民の外交』」: 東京学士会院講演の「大鳥圭介伝」未収録分を一挙掲載。

附録: 解説「大鳥圭介講演」「大鳥圭介訳本」

各種公演のほか、「築城典刑」、「野戦要務」、「地球儀用法」、「萬国総攬」、「堰堤築法新案」など各種訳本も、その時代における役割を勘案すると、外すことはできない。残念ながら紙面の都合で掲載は省略されたが、解説として紹介されている。

一冊ぎっしり、生身の大鳥圭介。
幕末明治という激動の時代を、技術、産業、軍事、文化の深い側面から捉える、歴史ファン・研究家共に、必携の一冊!

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……どうですか。こんな感じのエイプリルフール。
ワタクシ的厳選大鳥。全て、生身大鳥の筆か語りが入っています。

そこで怒ってくれなきゃイヤン。

1行紹介のアオリって難しいなぁ。
久しぶりに本気でジョークを考えました。幸せでした。

どうですか、出版社さん。4月馬鹿を真面目に受け取っていただけないでしょうか。
採算はまず取れませんが、私が10部ぐらいは買います。ていうかむしろ働きます。タダで。
3割4分2厘ぐらいは本気です。

著作権かまわずPDFでいいというなら今すぐにでもウェブで…もごもご。


えっと、しばらく書き込みできない状態でした。年度末作業と報告書シメとPCシステムぶっ壊れと出張と呑んだくれで。ご足労下さった方々、申し訳ないです。

4月に入ったら少しはマシになると思うので、更新も再開したいと思います。雑記のほうもたまりまくっているネタをぼちぼち放出していきます。こちらはウソじゃないです。多分。


    [2] しの 2006/04/01(Sat)-04:24 (No.25)
    …だまされました。

    でも『開拓使四部作』あたりで、ありえねぇ…。と思ったところで日にちに思い当たりました。
    出して欲しいな〜「大鳥圭介史料集」
    怒らないから、出して!!(心の叫び)

    『ついでに「大鳥圭介書簡集」に、未出版分の長男富士太郎氏等との手紙を掲載』

    って、なってるともっと嬉しい…。

    [3] ままこっち URL 2006/04/01(Sat)-11:01 (No.26)
    もうっ入潮さんっ!!
    最後まで読まずに密林書店で探しちゃったじゃないですかぁぁぁー!まさに四月馬鹿(寂)
    もし出版されたら、私も買います。是非出して欲しいです。

    [4] 豆野 2006/04/01(Sat)-19:07 (No.27)
    ひ、ひどい・・・!!(号泣)
    まさか、このサイト様でこんなベタなジョークがあるなんて〜!!!(血涙)
    本当に本気にして、PCの前で万歳した私の熱エネルギーをどうすれば(ガックリ)。書き込み出来る立場ではないのですが思わず。失礼いたしました(ああ・・・←涙で前が見えません;)

    [5] 真崎 2006/04/02(Sun)-01:27 (No.28)
    本気にしました…本当にこの内容がこのページと値段でで収まるのか!?とか思いつつこれなら安いよ!買うよ!と真剣に思いました(笑)


      [6] 入潮 2006/04/03(Mon)-04:07 (No.29)
      …む。「暹羅紀行」と「長城游記」を忘れた。どちらも、日タイ関係、日中(清)関係史に残る珍書なのに。

      もとい。皆様、怒ってくださってありがとうございます。
      いやもう、「ふーん」とそのまま素通りされてしまって無反応なままだったらどうしようかと思っていました。反応してくださって嬉しいです。少なくともこうしたものを待ち望んでくださる方が存在しているという事で。どうですか、出版社さん(しつこい)

      ● しのさん
      その「ありねぇ」感覚が、おさすがです。四部作〜信越羽辺りは、これをもってくるのは自分だけだろうと、むしろ寒い感じで打ってました。
      自分も出版社さん〜、なんてのたまっていますが。出して、という他力本願ではなく、自分が出す、という意志力と実行力と経済力と余裕がないと、実現できるものではないのだろうなぁ、…とまで思ってしまう辺り、かなり病が進行しております。
      富士太郎との手紙。ご指摘おさすがです。上郡町の書簡集の清からの手紙は、圭介の国際情勢に対する考え方が含まれているので、これも価値が高いですよなー。それ以外に残っているのってあるのだろうか。欧米にいる圭介に、大蔵省常便で送ってこられた、8歳富士太郎の手紙が気になっております。現存してないかなぁ…。

      ● ままこっちさん
      まともに受け止めてくださって、涕が出るほどありがたいです。Amazonの書籍情報項目をパチクった甲斐がありました。
      Amazonの新刊情報網は広がる一方ですので、大変ありがたいです。で、南柯紀行のISBNをコピーするために検索したのですが、その後しつこく、その関連文書として富樫倫太郎を私に薦めてくるのは、何かの罰なのでしょうか。

      ● 豆野さま
      すっ。すみません。そのエネルギーを、ぜひ、創作と、大鳥布教に今後向けてください。豆野さまのやる気を見せていただきますと、当方のモチベーションも上昇気流に乗ります。
      でも本当に、そのようにこうした史料集の存在を望むという声を上げていただくのが、一番のパワーに繋がると思います。
      …といって悪びれないヤツ。

      ● 真崎さま
      これを安いといってくださった真崎様が、菩薩に見えます。
      P数が大鳥圭介伝の約3倍で、値段がほぼ同じというのは、バーゲンしすぎたかもしれません。数字は、遊んでます。(1832年と1904年)
      手許にあるものは、著作権に問題のない範囲で、史料集としてアップできればいいなぁとは思っています。けれども、本当に史料集出版の可能性があるなら、その障害になりやしないかとまで思ってしまう病人です。

    [7] Q太郎 2006/04/03(Mon)-10:51 (No.30)
    「やべっ、こないだ横井小楠遺稿集予約しちゃったよ。今年はあと七年史も出るみたいだしなぁ」と思ってたら…
    「なんだ、エイプリルフールかぁ、よかったぁ(←?)」
    でも、出たら買いますよ。
    たとえその時点で鎌倉時代に振れちゃってたとしても。

    [8] 葛生 2006/04/03(Mon)-13:58 (No.31)
    (蝦夷地に圭介の残り香を追う)旅に出ていて反応が遅れました。
    つい先ほど帰宅してPCを立上げ、「うっそマジで!? やった!」と拳を握り締めました、が、出版業界の片隅に小指の先を浸していた経験で中身を読まずに収録タイトルだけざーっと流し見て…、「――いやでもこれはちょっとマニアックすぎなんじゃ…」と思いました。勘は衰えてなかったらしいと喜ぶべきか悲しむべきか。(笑)
    自費出版って幾らくらいかかるもんなんでしょうね。多少でしたらカンパいたしますが…(でもこないだまで作って売ってた雑誌がフルカラーとはいえ68ページであの印刷代だから……遠い目…)

    [9] あろあ 2006/04/04(Tue)-12:33 (No.32)
    お、ついに入潮さんがヤル気を出したか!? と、間違った方向に騙されましたよ…!!
    怒!!
    ウソです。怒らないので出して下さい(笑)。
    上下巻でここまで濃厚なのは難しいにしても、もっと冊数分けて出せば、自費出版できそうですよ〜。
    版元(?)(所蔵図書館?)の了解があれば、できませんかねえ?
    でも実は、入潮さんに一番出して欲しいのは、入り口になるような「伝記風小説」だったりします(笑)。
    一次史料をこよなく愛する入潮さんにヒドイこと言ってますが(笑)、「小説」となると、創作の才能も必要になるので、そのへん入潮さんならピッタリなんだけどな〜どうかな〜〜(笑)。
    で、「面白かった〜v」と思った人が、巻末の「参考資料一覧」に当たる→史実大鳥スキー増える(´∀`) …という寸法です。
    いや、無理は申しません、このサイトの存在だけでホントは十分満足なのです。
    でもいつか、定年退職(…するのかな? 入潮さんは死ぬまで飛び回ってそうです)後の余暇にでも、出版してくださるのを楽しみにしています。
    もちろん今すぐでも全然オッケーですが!(笑)

      [10] 入潮 2006/04/06(Thu)-12:26 (No.33)
      ○ Q太郎様

      無視と怒りは予想の内でしたが、安心、というのは、このリハクの目を持ってしても見抜けなかったです。
      横井小楠遺稿集…それはかなり惹かれます。横井さんの文章は当代きっての頭の良さを伺わせるので、ぜひチェックさせていただきます。この出版を敢行されるとは、さすがマツノさん。教えてくださってありがとうございます。

      そして七年史。古本屋市場で7〜10万円と高騰している貴重本も、復刻ですか。めでたいです。いくらになるのだろう。全部そろえようと思うと、4冊分だから、相当なものですね…。

      自分は相当ピンポイントなので楽なものですが、Q太郎さんのように時代の幅顔広くいらっしゃると、求める文献も膨大なものになりそうで、大変ですね。しかも、一般向けでない史料は大変高い…。

      ○葛生さま

      四部作とか報告書・復命書関連が入った途端にウソ臭くなる、というのは、我ながら羅列していて思いましたが、それも寂しいことです。
      大鳥に限らず、専門性の高い報告書類や建言は、取り上げられないままに眠っていることが多いです。解説する人がいないから。専門家を執筆なり解説なりに加えると金がかかる。
      なので、せいぜい、明治工業史とか日本科学技術史体系とかに入っているのを、ひっそりと抜き出すぐらいにしかならない。だから評価が低い、というより、生じえない。
      榎本には加茂儀一氏のように、文理の壁を越えた多岐にわたる才覚をお持ちの解説者が語り部がいてくれましたが、大鳥にはそういう、多方面分野に語れる方がいないのが、辛いところです。ダヴィンチを語るにはダヴィンチが必要なんですなー。……大鳥をもダヴィンチと言い切る痛い奴。

      でも、世の中、信じられないぐらいマニアックなのがありますから、捨てたものではないです。洋学史事典とか、土木人物事典とか。

      出版物は数千部単位でないと相手にされないので、マニアと図書館ぐらいしか需要がない、小部数の販売しか見込めないのは、辛いところです。出版業界に詳しいわけでは全くありませんが、本気でこのクラスの出版になると、1千万円ではきかないのでしょうなぁ。部数にも寄るのでしょうが。個人の手に負える額ではない。
      新選組とか土方とかと関連させればそれなりに売れるのかもしれませんが、新選組ファンの方が大枚はたいて求められるような記述は無いですし。せっかく出すなら、中途半端に阿世をしないで、歴史価値を重視してほしい。

      タイプして編集してウェブ上にPDFで上げるのは、いつでもできますが。それだと、研究の参考文献にしてもらえるほどには信頼性、信憑性を供給できないんですよな。校正を経た出版物にしないと意味がない。

      いっそ上郡町に持ちかけさせていただこうか…。「歴史の街」との方向性を打ち出しておられますし。町史編纂室とか、今はどうなっているのだろう。
      でも町が動くのは、町との関連事項でないと難しいしなぁ。マニアのために町民の方の税金を投入してもらうわけにもいかんでしょう。

      …すんません。一人思考が暴走しております。
      葛生さんったら!←?

      ○ あろあさま

      そう来ますか。ヤラれました。あまり持ち上げないで下さい。図に乗ります。
      今すぐということでしたら、まず手っ取り早く、寿退社をめざしますか。…だめだ、定年退職のほうがはるかに近い。あとありうるのは病気休職か。病名:オートリインフルエンザ。

      もとい。あの工部省内務省の激務の最中に土木遺産になるような訳本を出版した大鳥を考えれば、仕事が忙しい、ということなど、まったく大したいい訳にもならんのだなぁ、と思います。

      小説だったら、著作権・所蔵者権かまわなくていいから、楽でいいですな…。と、勘違い野郎になってみる。

      歴史小説の場合、完成度が高いほど、創作より、事実をしっかり噛み砕いて練り上げたものであるのではないかと思います。「事実は小説よりも萌なり」です。
      司馬遼太郎作品が、あんなにでっち上げ(失礼)が多いのに、リアリティにあふれているのは、手に入るあらゆる資料を読みつくし、関連史蹟の雰囲気を肌で知り、関係者へ話を聞くのに足で廻っているからであって。そこから、言い伝えも他者の行為も繋ぎ合わせて、デフォルメして、再構成しているからなんですよなー。でないとただの願望まみれのキャラクター群像モノになってしまう。事実を追って素直に考察、解説を加えればいい史料集より、ある意味詐欺も行なわなければならない小説のほうが、よほど難しいのではないかと思ったりします。
タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 02:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月07日

続新選組史料集

「続新選組史料集」
谷口四郎兵衛日記の活字と、石井勇次郎の箱館戦後の記述、石坂周造の筆、それとそれらの解説が見かったので、ひとまず買ってみました。

ごめんなさい。今回、感想はかなりネガティブです。いつもの暴言癖かと、笑ってお過ごしいただけると幸いです。

余り人様のお仕事にケチを付けるのは、本意ではないですし、自分にいったいどれほどの仕事ができるのかと考えると恥じ入るより他はありません。けれども消費者としては、費用対効果の低さに対しては、文句を言ってもいいよなぁ、と思いました。

史料集の価値は、史料そのものに対してもそうですが、むしろ解説と注釈にこそあると自分は思っています。
史料自身は、時間さえあれば、こういうオタク風情でもそれなりに集めることはできます。コレクター的楽しみもある。史料集にすると、図書館や関連施設を廻る手間が省ける、ぐらいのもので。

けれども、解説や注釈は、その史料集、その書籍でしかお目にかかれない。

戦後生まれの多くの現代人にとっては、どうしても古文の文語は読みにくい。読んでいるうちに慣れますが、最初の取っ掛かりを得るまでのハードルが高い。
解説は、史料そのものを語るだけではなく、史料が、また史料の著者がその時代の中でどういった位置づけにあるかを説明するもので、そのことによりハードルを下げ、史料を読みやすくするものなのではないかと思います。史料から、その史料の持つ背景世界への扉を開き、その案内者となる役割を担うものではないのだろうかと。それで、史料の一部に瑣末にこだわった解説より、まず、史料の位置づけ、ひいては、史料に描かれる対象の時代に役割、他の事象との関連性、時代に及ぼした影響、存在意義などを考察するのが、最初なのではないだろうか。これを、過大・過少評価ではなく、客観的に行なうのが、解説者としての腕の見せ所なのではないかな、と。(過大評価は却って興ざめなので)。そのことにより、史料の著者や史料に描かれた人物が、鮮やかに活きる。
自分の場合、多少高価でも史料集を買おうと思うのは、そこに価値を見出すからです。

その点、菊池氏の解説はお流石で、こちらが知りたいことをびしばしと、簡明完結にまとめてくださっている。注釈も的確で、良かったです。(石坂周造の経歴で、石油事業について全く触れていないのは、マニア的にはいただけないですが。笑)
あと、廣瀬早苗さんの解説も良かった。地元流山に愛着を持って噛み砕いておられて、史料の郷土史との繋がりや位置づけを伺わせるなぁ、と思っていたら、流山市立博物館の方だったんですね。

ただ、残念ながら、そのほかの方の各解説には、釈然としないものを感じてしまいました。全員の方がそうというわけではないのですが。

主観でひとくくりにしてしまうのも申し訳ないですが。
一言で言うと、各史料の著者に対する敬意の念が感じられない。

背景世界への扉どころか、史料そのものの解説すら十分ではない。史料の背景が見えないのです。新選組との関連さえあればよい、という感じ。史料が、単に新選組のプレゼンスを高めるための道具扱いされている。解説が、各種資料に見える新選組キャラクター紹介、というぐらいのものになっている。新選組をより多く、よく書いていれば価値が高い、という扱い。

そもそも新選組のための史料集なので、それで良い。新選組以外の著者情報は雑音にすぎない、という考え方があるのかもしれません。

たとえば、竹中重固のような幕政末期の重要人物の、位置づけの紹介が不足。幕府での位や立場や、会津で一時期伝習第一大隊の総督の役割を担ったこととか。戊辰戦争のなかでの竹中の役どころはいくらでも語れると思う。
それなのに、土方が戦線復帰した時期についてばかりを延々述べて他の史料にピントをずらしている。土方好きなのは分かるけれども、その書簡の書かれた当時の戊辰戦の局面とか、そこにおける書簡の位置づけの紹介がまず先なのではないか、と疑問に思う感じで。

丸毛の解説は義務程度の経歴紹介だけで、最初から旧幕府に重点を当て、権威のある旧幕府に取り上げられた新選組のプレゼンスをひたすらアピールしている、という感じ。確かに繋がりではあるのですが、そんなに虎の威を借りなくても、と思う書き方でした。
一方、「感旧私史」「北州新話」を残し、戊辰戦争・彰義隊史の丸毛の戊辰史の功績や存在感に対しては、解説に不足を感じざるを得ない。記録者に対する感謝の念が感じられない。仮にも赤の他人が解説を書くのなら、その著者の他の文献ぐらい網羅してから紹介するのが、著者に対する礼儀なのだと思うのだけれども。

あと、「〜とされる」「〜と言われる」という伝聞形が多用されているのも、辛い。
「誰が言っているの?」「どの史料で言われているの?」という疑問符ばかり頭の中に沸く。誤りを述べているとは思いませんけれども。何を根拠にそれを述べているのか明確にしていただけないと、その記述を事実と認識して記憶に残そうという気が起きない。
言い切りができず伝聞として表す文章は、書かないほうがマシだと思うのです。思い込みや願望に過ぎない場合が多いし、混乱を招くだけだと。推測のほうがまだ正直で、いい。
「〜と言われる」の出てくる数ほど、その解説が怪しくなっていきます。創作であるまいし、自分の言に対して信憑性を持たせたいのなら、根拠を記すのはモノ書きの義務だと思う。

史料部分の注釈も、注釈をつけるべき基本的なところに注釈が無くて、そうでないところにこと細かく付いている。大枠を固めた上でのディテールなら興味深いのですが。枠がないからマニア以上の印象を受けない。
注釈自体の間違いも多い。史料のなかには、素人目にも、日本語になっていないとか、本当にこの漢字でいいのか、とか疑問に思うところが散見される。元々の著者が本当にそう書いているのか、活字化の段階で混入したのか判断がつかない。せめて「ママ」ぐらいつけてほしい、と思うところが、スルーされている。そうすると、本当に解説者が、史料を読み込んでいるのか、という疑問がわいてくる。新選組にとって都合の良い数行の注目しかしていないんじゃないか、とすら思える。

なので、史料部分も読んでいて苦痛でした。史料に罪は全くないのに。歴史分野問わず、ある程度文献を読み書きしている方なら、編纂の基本的な姿勢についての疑問が感じられてしまうのではないだろうか。
自分がもし研究者だったら、この史料集自身へ出典を求めることはできないだろうなぁ、と思ってしまう。良い史料も多いのですが、結局はその原典を探して確認しないとならないことになると思う。

さらに、一冊としてのまとまりが感じられないのも、難です。各解説者の見ているところがどうもバラバラで、個性以上の隔たりがある。郷土愛、観光史観志向からマニア視点まで。なので、著者略歴を載せるだけではなく、主管の編者が、前書きなりあとがきなりで、夫々の史料の客観的説明と歴史的位置付けを示して、主題に繋ぎ合わせてくれたらよかったと思う。そういう基本的なことを行なわず想いだけ後書きで綴られると、せっかくの叙情文も、ただの独りよがりに見えてしまう。
今の構成だと、主管者が全ての原稿に目を通しているのかどうかすら疑問です。

解説、注釈をスルーして、史料収集の手間を省いたコレクション本、と考えればいいのかもしれません。
…そういうわけで、図書館コピーで十分だった、というのが、正直な感想でした。

前の「新選組史料集」のほうも、史料の著者や史料の所在・遍歴にはほとんど触れず、ひたすら幹部の動向がどうわかるとか、土方の死亡場所が明らかになるとかいう価値基準で史料を云々していて、何なんだろう、と思っていたのですが、それから改善はあまり見られませんでした。誰も批評しなかったのだろうか…
無論全ての解説がそうだ、というわけでは決してないのですが。

「箱館戦争史料集」などと比べると、解説や構成の質的な差は歴然としている気がします。箱館戦争史料集のほうは、一冊の書籍としての一貫性、まとまりがあって、良かったです。何より、解説者の方々の解題が、夫々の史料の特質や役割を余すところ無く伝え、関連事項の紹介や他史料との比較を行なうことで、時代の他の事象への扉を開いている。背景世界への興味をさらに増す、史料を読むよい案内人としての役割を果たして下さっています。

新選組の史料集の質は、ポジティブに解釈すれば、ターゲットを新選組ファンに絞り、ファンの目を意識して構成した結果なのかもしれません。それも一つのエンターテイメントでしょう。
確かに、新選組こそ全て、土方良ければ全て良し、という方には、価値があるのだと思います。
そういった価値観を否定する気は全くございません。

ただ、それだと、史料集に史料としての役割を求める読者、研究者のニーズは満たせないのではないか。
もともとそんなところは購買層として狙っていないと言われるとそこまでですが。それだと、新選組研究という枠じたいが、非常に閉じたものになる。新選組研究は歴史研究とはいえない、という一部の歴史ファンの方の評価を、強めてしまう一方なのではないでしょうか。本当の新選組ファンなら、それこそ回避したい方向性なのではないかな、と、門外漢がおこがましくも思ったりします。

新選組の、時代における位置づけは、色々と描きようがあると思います。幕政末期の身分の風通しを作った一つの要素であるのは言わずもがな。佐幕、新政府問わず、社会の下層のボトムアップの浮力であるのも確かでしょう。昭和に入ってから小説的にもてはやされたという観は否定できませんが。

こうした史料集こそが、社会との関連、歴史における位置づけを明確にする、この上ない媒体でありましょうに。そこでこの、新選組ファンによる新選組ファンのための、といった閉鎖性では、いつまでたっても、実在性が低いままではないか。宮地正人氏の指摘された「新選組研究は現状として時代小説的な空想や虚構から決別できているとはいい難い」という現状が変わることはないのではないかという気がします。

まぁ、一般的には、虚構だろうが事実だろうがカッコよければ何でも良い、という価値観が主流なのかな、と。(せっかく史料に触れてもお気に入り人物の形容詞しか求めていないとかを見てしまうとな…) そういった層をターゲットにして売上部数を確保する必要があるのなら、今の方向性が変わる事は難しいように思えます。売れるというのは何より大きな動力。

ただ、ブームの中でも、松浦玲氏の新書のように、新選組の歴史の中の位置づけを客観的に明確にした文句の付け所のない書籍もあるので、決して捨てたものではないとは思います。

(松浦玲氏の「新選組」、宮地正人氏の「歴史の中の新選組」は、先日の雑記のコメントで、秋好様にご紹介いただいたものでした。「何を置いても読むべき」との言、ごもっともだと思いました。良い御本の紹介、ありがとうございました。)


そんな感じで、またエラそうに批判めいたことをしでかしてしまって申し訳ないです。
その、別に自分、アンチ新選組だというわけではありません。実際、アンチになるほどに新選組の事はよく存じ上げていないのでして。ろくに新選組を知らない癖に、なにをのたまうか、という感じです。なのでいっそう、虚構ではないデフォルトの部分をまず知っておきたかった、というのがあります。
ただ、ブログなどで拝見した新選組ファンの方々の喜びに反して、自分の印象がどうにも微妙だったものでして。何より、続新選組史料集のみならず、以前から怒涛のように出されていた新選組関連の新刊書籍に対して言いたいことが溜まっていた、というのもありました。 もっと慎ましくいきたかったのですが、書いているうちにヒートアップしてしまった。至らない人間です。

史料に新選組を求める方の書いた物に、新選組以外の人物や時代背景を求めるほうがそもそもの間違いだ、イヤなら見るな、というお叱りがあるだろうことは、重々承知しております。
解説者の方々に失礼な表現が多々ありましたが、一消費者としての勝手な意見としてお受け止めいただけると幸いです。ご叱責はお待ちしております。人の悪口を言う人間が批難を受けるのは当然ですので。


てな感じで。決して、エイプリルフールででっち上げた、大鳥史料集は実現しても全く売れそうにない一方で、新選組の史料集は売れていて、価格も抑えられていいよね、なんていう、ハキちがえた妬みは全く……、悪いかよチクショウ。

勿論、史料自身に罪は無く、大鳥・伝習隊的に大変おいしいのもございますので、追々ツッコミ掛けていきたいと思います。大鳥ファンによる大鳥ファンのための閉鎖的な視点で。便益をひねり出して積み上げて、モトをとった気になるのも自分次第。ははは。


    [2] 伊藤哲也 Eメール 2006/05/27(Sat)-03:24 (No.67)
    こんにちは、お久しぶりの富岡志郎です。続・史料集ですが、新選組結成から箱館降伏までを時代順に書かれていますね。引用文の中に誤字があるということですが、解説文を読んでみてください。直訳でそのままの文字で表現している!と書いてあります(例:伊藤甲子太郎)旧字体があれば、そのまま旧字で表現。今までは旧漢字とかは現在、使用している漢字をもちいてきたようで。単行本ならよいのですが、史料集です。
     竹中の人物紹介を行ったら、そちらが主流になるのでやめました(長い経歴はご存知かと)竹中・土方間の文書にある歳三戦線復帰に関することを他史料を活かして詳細に説明することが主旨では?竹中の文書は、土方が戦線復帰したことへのキーワードなのだから。
     「ママ」をつけるとなると殆どの所がそうなる。ルビをつけてしまったことから「ママ」は断念。
     「〜とされる」「〜と言われる」という伝聞形ですが、100%断言出来ない場合や直接に史料を閲覧しても使用しているようです>私。。。言い切ってしまえば良いのですが読者をだます気にはならない。もしも、間違っていたら?それが頭に浮かぶのですよ。
     それと、大鳥たちと仙台にともに出て蝦夷地に渡った人物が戦争中に書き残した文書もあります。大鳥へ武具を
    渡す云々という文書もありましたが(古文書中なので読めばわかります)大鳥的においしいのって何だろう?

    [3] 伊藤哲也 Eメール 2006/05/27(Sat)-04:04 (No.68)
    こんにちは、お久しぶりの富岡志郎です。続・史料集 それと、大鳥たちと仙台にともに出て蝦夷地に渡った人物が戦争中に書き残した文書もあります。大鳥へ武具を
    渡す云々という文書もありましたが(古文書中なので読めばわかります)大鳥的においしいのって何だろう?
     と書きましたとおり文中の大鳥を追ってください。

      [4] 入潮 2006/06/05(Mon)-12:16 (No.76)
      このような隅にまでご足労いただいて、かたじけないです。数々の暴言で、失礼いたしております。また、ご投稿に気付くのが遅れ、遅くなりましたこと、お詫びいたします。

      諱・号以外の人名や地名に関しては、本人や地元ですら漢字の不統一は茶飯事であるので、読者が見て明らかに分かるものなら異字は全く問題はないと思います。自分もそれについて言及したわけではございません。
      一般名詞としての漢字で、意味が通らないと感じられたものがあったこと。あるいは、似た人名の方が錯綜し、取り違えで混乱を招くだろう箇所が見受けられること。この2点についてでした。例えば「大鳥」と「大島(寅雄)」が明らかに違うと見られる箇所が、見た限りで2箇所ある資料がありました(「幕末史研究」掲載の原文?のままでしたが)。そういった読み進めるに当たってクリティカルになる部分は、何らかの注釈が欲しかったな、というのが一読者の勝手なワガママです。

      ご提示の部分については、一人の人物の10日やそこらの行動のズレが、それが戊辰戦争の戦局に変化を生じせしめたかや、重大な意思決定のキーとなったなど、歴史的影響力がある行動として焦点を当てるなら納得ですが。一軍の総裁に任のある人物の一般的紹介を犠牲にして数ページを割くほどに重要なものなのだろうかという疑問がまず浮かんだのでした。その人物には、史料を当たる方なら紹介するまでも無いという前提があったのかもしれませんが。
      確かに、該当人物が好きな方にとっては1分1秒の無意識な行動すら重要というのはとてもよく理解できます。私も大鳥の一分一秒の行動が大事です…もとい。「新選組史」を見るか、「歴史」を見るかの、価値観でしょう。そこにニーズがあるのも確かです。それで商業ベースでフィージブルになるわけで。それに異を唱えるわけではございません。重箱の隅つつきに写りましたら大変失礼いたしました。

      ただ、自分が申したかったのは、「史料集」と銘打つからには、新選組が「新選組史」の中だけではなく歴史との関連を強調する役目があるのではないかということを勝手ながらに期待した、とうことでした。新選組内部の各事象と、広域な歴史とのリンケージを明確にすることにより、新選組のアクチュアリティを高める役割が史料集には求められているのではないかと思ったのでした。
      新選組に始まり新選組に終わる歴史ですと、その閉鎖性は、新選組を歴史から「浮いた」印象を与える。端的に言うと、「歴史と人間」を、アニメや漫画におけるような「設定とキャラクター」と同程度の認識にしてしまっているのではないかと感じられています。それがあってゆえの今の人気だということは理解しておりますが。そのあたりは一般向けの書で十分なのではないか。一方で、その土台となる実在性を高め、調査研究土台となるためのはずの史料集が、それとは方向が違うエンターテイメント効果で終わってしまっているのではないかという雑感でございました。
      それも史料集というものの役割を勝手に期待して支出した、一消費者の戯言に過ぎません。新選組史料に新選組枠外のものを期待するほうが間違っていたといわれるとそれまでです。どうか泰然と御捨て置きいただければ幸いです。

      伝聞形についてですが、自分の仕事では、提出する報告書に「〜と言われる」という根拠や由来をはっきりさせない定性的説明文が一頁に3つ以上あると、その場で客から、付き返されます。学術論文でも同様にまず赤がつきます。調査研究においてトレーサビリティのない文章は信用に値しません。「〜という史料に…と書かれている」、「〜という根拠により私は…と推察する」という明確な書き方が好ましく思います。
      「〜と言われる」と、あたかも一般論であるかのように記述されると、根拠が不確かなままに、読者の多くはそれを一般的に認知されている事実だと受け取り、世間的な認識が増強されるので、なおよろしくないのではないかと感じます。無論、伝聞内容が明確な事実なら問題ありませんが、残念ながら、創作の受け取りや明らかな誤謬についての記述に多くこの伝聞形が見られ、これまでに自分は何度も、無責任な伝聞形の記述に、悲しい思いをしてきました。

      以上、身の程知らずにも散々失礼を申しましたが、自分が一読者の立場から受けた概観に過ぎず、伊藤様個人にもの申すものではございませんことをお含み置きの上、御寛恕を冀う次第です。

      >大鳥的においしいのって
      武具などお伺いすると、鎧直垂なぞを端的に想像してしまいますが。大鳥的に補給が最も嬉しいのは、標準化されて弾薬に融通の利きやすい、青草で未燃炭素掃除ができてしまう、頑丈でシンプル実用的なミニエー銃かなぁと思います。実際のところ何だったのでしょうか。
      本土からの武器弾薬供与は、高畠藍泉らが行なっていましたが、探すと他に結構あるのかもしれません。

      色々とご教示、ありがとうございました。

    [5] 伊藤哲也 Eメール 2006/06/10(Sat)-18:56 (No.77)
    こんにちは。読者が「当て字」全てに気がつくとは私も思っていません。ですが、編集部からのおたっしですから。
    「谷口四郎兵衛日記」で31人会編のも原本でなく、今回は直接の原本が新潟にある写本を使用したそうですが。誤って書き写したのをまた書き写せば、誤述、誤記はそのまま。(注釈をつければよかったのかもしれませんが、そうすると、注釈まみれになります。2次史料や資料だと誤記は少ないのですか。
     何故に新選組主体か。編集部から指摘があったとおり新選組に該当しないところ、関係ない記述は削除するように解読者、解説者たちは言われているのです。主旨から反するからでしょう。
     「新選組に始まり新選組に終わる」でないと駄目でして正式には「浪士組に始まり箱館新選組に終わる」というのがあてはまってくることでしょう。ただ、この言葉をネット上で他にも見かけました。誰かが批判の意で述べているかですね。
     次に書かれているのは、学術論文ではないのでなるべく避けるように言われています。「000」という所に書かれているという記述ですね。名の知れた著名な方々でも史料名を変えて書籍に掲載している人もおられます。私が単行本に書いたものを無断転載した人の数知れぬこと。なかには、それで自分が見つけたんだということを述べてた人もおられます。こういう無責任な伝聞を行う人は、今回の
    史料集にはおりません。
     大鳥率いる部隊がミニエーかスナイドルか。一般的な史料だとミニエー、土方が大鳥にスナイドルを実際に送ったか記録がないのです。「送る」という記録でなく「送った」という記録です。武器の給与については、近年明らかになったこともあるのですが、枚数の関係上掲載できませんでした。 色々と裏話はあるのですよ。
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2006年04月13日

遠縁の親戚と息子

「黒田」:稲の植え付け前の田。(大辞泉)

稲植えをする前の、水を張った、黒々とした田んぼのこと。ちなみに、水を張る前の、雑草を焼いて灰が白く見える田んぼを「白田」、稲付けをして青い稲が茂ってくると、「青田」となるわけです。
これから生命を育もうという、ポテンシャルに満ちた、力強い存在です。

さて、黒田といえば、黒田清輝。

1866年生、1924年没。ご存知、薩摩出身の洋画家。人体研究の見地から、解剖学と裸体デッサンを絵画の基礎として取り入れた方。シャイな明治後期の当時は、裸体描画に対する反発も大きく反響を呼んだ。
代表作に「昔がたり」「智・感・情 」「湖畔」などがあります。日清戦争に従軍、第4回内国勧業博覧会審査員、東京勧業博覧会審査員と、パリ万国博覧会出品監査。(*1)

清輝の叔父で養父の清綱は、戊辰戦争では山陰道鎮撫総督府の参謀。凱旋後鹿児島藩参政。東京府大参事、文部少輔、元老院議官、枢密院顧問官を歴任した方。明治・大正天皇の和歌の師でもあった。1887(明治20)年に子爵。

さて、清輝は、1884年2月〜1893年6月まで、9年以上留学していました。
もともと、法律を志向しており、フランスの法制度を学びにフランスへ留学した。絵は趣味にしていたが、パリ在住日本人画家から勧められて画家になることを決意。

この方、詳細な日記を認めていて、ありがたいことに、こちら(http://www.tobunken.go.jp/kuroda/)で、膨大な量の日記・手紙が読めます。当時の方にめずらしく、非常にセンシティブな文章です。

法律から画家へ転向しようとしたときも悩みまくったらしく、いっそ哲学的なほどにつらつらと考えぬいています。
「志ス所畫ニ在ルナレバ法律ハ斷然打チ棄てゝ一心ニ畫ヲ學ブニ如カズ 又志ハ畫ニ在レドモ精神上ノ學力ナキ故ニ一時法律ヲ學ブト云フガ如キハ最モ誤ナリ」

と、法律を切り捨てたときの思い切り様が激しい。

「さへ渡る月影見れハ久方の雲井に夏はあらしとそ思ふ」
という和歌も。異郷の冴え渡った月を見て、「夏はあらし」と思う。と台風直撃をよく食らっていた故郷を、夏の懐かしさとして思い浮かべるあたりの感性もいい感じだ。

さて、この方の日記。留学生活中と、帰国後の日記に、どうも富士太郎っぽい人が出てくる。富士太郎は、清輝と年1つ違い。

1892年10月14日。パリの元老院にて。
「夜食も亦風呂屋で 醜婦樓及びソルボンヌの前通りの赤茶屋とかなんとか云ふ處で飲む 此の茶屋近頃の大流行にて引張なども大抵、此處ニ集り來るとの事也 祖山、大鳥及植木屋和助等來る。大鳥氏ニハ今夜が初メテの面會也」
パリで、祖山、植木屋(*2)和助と一緒に、大鳥という人が来る。初対面。

4月3日 清輝から父親への手紙。
「久米、寺尾、大鳥諸氏已ニ田舎の方へ被差越候故巴里ハ殊の外淋しく相成候」
と、仲良くなったらしく、友達の久米、寺尾、大鳥たちが田舎のほうへいったら、「パリはことのほか寂しい」と書いている。


11月3日「大鳥と長田と三人で出てゝ川邊をぶら付乍らぼつぼつ歩く 今夜のセイヌ川の景色ナントモ云ハん方なし」
大鳥、長田と一緒にセーヌ川の景色を、なんともいいようがない、とその情緒を楽しむ。

それから少し年月が経過して。帰国後。

同1892年11月14日「大鳥も食事ニ來て居た」

同1913年5月2日 「 歸途外務省ニ寄リ、大鳥君ニ面會ス」

同5月3日「午後二時上記山本ノ爲、外務省ニ大鳥君ヲ訪問セリ」

同12月18日「露國大使ヨリ午餐ニ招カル。二時半頃歸宅、直ニ仕事ニ從事ス。是第十一囘也。夜梶山氏來レリ。露大使、同席者新任大使夫妻 本野大使夫妻及大鳥男ナリ 」


前半の留学中と、後半の帰国後が、同じ大鳥富士太郎か、というのは、ちょっとまだ自信がないのですが。
後半「外務省」「大鳥男」といっている大鳥は、富士太郎で間違いはないと思う。

問題は富士太郎がフランスへ行っていた時期。外交史事典か何かに、欧州へはどこか行っていたのが載っていた記憶があるのだけれど、それがフランスだったかどうかは断言できないし、富士太郎がその時期にパリがいたかどうかのウラは取れていません。

うー、図書館に行ってきちんと調べたい…。今週末もオフィス張り付きだチクショウ。桜を見ることすら適いませんでした。


さて、さらに黒田といえば、やはり、黒田清子さん。お名前を拝見するたびに、ちょっとどきどきするお年頃です。Wikiにちょっと驚きなことが書いてあった。有名な話なんだ…。
幸せなご家庭を営まれていることをお祈りいたします。

そして、清子さんの旦那様の慶樹氏、おじい様に、「慶太郎」(*3)という方がいる。偶然の一致ですな。
この黒田慶太郎氏、「綿花紳士」と呼ばれた上海の財界ジェントルマンだそうな。(http://www.k3.dion.ne.jp/~a-246ra/keizukingendai29.htm)

……そういう感じで。タイトルバック、プリーズ。…はい。そういう感じです。

まだわかんないので、間違ってたらごめんなさい、ってことで。
しばらく動けないから、誰か調べてくれないかな、ってそんな図々しい期待は、やだなぁ、ははは。
__________________________

全く歴史的必然性のない萌え視点からのみの注釈。

*:大鳥圭介は第1回、第2回、第5回内国勧業博覧会の審査部長(第5回は審査長)。その後、パリ博や東京博にもほのかな形で関わっている。うっすらとした関係がないでもない感じである。

*2: 大鳥らが投獄中、楼内の様子を知り尽くしていたが如くの綿密で気の行き届いた差し入れを行なってたのが、「植木屋」。その正体は黒田清隆であるという説を、入潮が勝手に立てている。

*3: 大鳥の幼名が、大鳥慶太郎。
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2006年04月23日

国会図書館の役割と独立行政法人化

ようやく峠を越えられた、という感じです。まだいきなり目の前にチョモランマが隆起してくる可能性もあるのですが。一体、昨年度の3月が何日まで続くのだろう、という感じです。
更新する、といいつつほったらかしていてすみませんでした。メイルも2ヶ月以上、お返事できていません。いつも謝り通しでいい加減誠意がない、というものなのですが。大変申し訳ございません…。

昨日は呑んで、職場に戻って仕事して、2時間仮眠して、仕事して、朝、客先に出すものを出して。
なんか、自分を労わってあげたくなったので、そのまま国会図書館に行きました。ひたすら論文コピーをチマチマ取っていたので、国会図書館の本館と新館を30往復ぐらいした。…余計に体を酷使した。疲れた。そして更に会社近くの大学図書館まで足を伸ばして、コピー三昧していました。
今日こそ早く帰って寝ようと思ったのに、結局またその後終電まで仕事してしまった。

さて、国会図書館。時間を経るたびに、機能が拡充していっている気がします。

今日は結構混んでいたと思うのだけれども、複写に要する時間が格段に短かった…。いつも30分以上かかるのに、毎回10分以内ででてきたし。

そして、オンライン複写! 閉架の資料を持ち出さずに、そのまま複写依頼をかけられます。論文など、号や頁がはっきりしていて、検索で引っかかれば、手に取るまでもなく直に複写してもらえるので、時間がかなり節約できる。同時に3件までですが、他の資料を当たっている間に複写してくれるので、大変助かります。

それ以外に、図書館に足を運ばなくてすむ郵送複写サービスは、本当にありがたい。図書館まで足を運ばなくても、検索に引っかかる限りはその場で申し込めて、送ってくれる。

何より、幕末明治ファンが泣いて喜べるデジタルライブラリ(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)。ひよさんがご紹介くださっているので、既に何度も利用されている方が多いとは思うのですが。

いやはや、国会図書館。 本当に良い仕事をしてくださいました。

6万7000冊の追加。所蔵の明治書籍の2/3の電子化・オンライン閲覧化が終了。これまでの2倍に一気に倍増。
なにより、PDFとしてダウンロードが可能になった! これまでは一枚一枚印刷して、スキャンしなければならなかったのに。一気に利便性が増して、かつ、Acrobatが使えるので、相当読みやすくなりました。
出張前に大量にダウンロードして、夜な夜な読みふけることもできる。嬉しい。

デジタルライブラリ保存用に、HDD一つ買おうか、とか思ってしまった。
(今までも持っている資料はPDF化を進めていて、もはやCD2枚に収まりきらなかったりして。10〜20ページのコピーで約1MB、書籍1冊だと10〜50MBぐらいいくので、容量がばかにならないのだなー)

電子化するメリットとして、まず、どこへでもラップトップがあれば持ち運べる、というのがあります。そして、何より、すぐにほしい資料を探せる、ということ。紙資料だと、何かの出典を探すにしても、よほど整理していないと、「どこへやったっけ〜」と分からなくなって、探すのに相当時間がかかるのですが。いや、ちゃんと整理せず、床の上に積み上げておくのが悪いのですが。PCの中にあれば、ファイル名で検索して、数秒で探し当てることができます。

PDFですが、デジタルライブラリを活用されるのでしたら、フリーのReaderではなくて、Acrobat Standardなど、ページ編集可能なものを購入されるのがオススメです。もちろんReaderでも不足はないのですが、Acrobatがあると、ページの連結が一瞬にしてできるので、整理しやすさが全然異なってきます。

そんなわけで、ダウンロードさえしておけば、いつでも好きなときに呼び出せるし、なければ拾いに行けば良い。自分のPCが国会図書館になったようなものです。

ただ、1回に10ページしかPDF化できない、というのが難。サーバ負荷対策なのかしら。
それに、雑誌や新聞までは流石にまだ網羅していないのが残念ですが。それでもこれだけ拡充してくれたのは喝采モノ。

大鳥資料に関しては、倍増どころか。「大鳥圭介」で検索したら、これまで11件だったのが、37件と3倍以上に増えています。これに、「戊辰」とか「函館(箱館)」とか「会津」とか、関連ワードから探したら、もう計り知れないことになります。
あと、明治の中田版「幕末実戦史」が入っているのもびっくり。

(「幕末実戦史」については、誤字や誤謬の多さに色々批判がありますが、写本がちょっと適当だったわけで、基本的な流れを追うにはそれなりに使っていいとと思う。そりゃ、大鳥の漢詩を鑑賞してその価値観を論じたいとか、大岡正平のように、自分のフィリピン山野の敗戦の記憶と大鳥の経験を重ねて、檜原の万山千峰が大鳥の目に「愁色を帯びていた」かどうかが知りたい!とか、コアなことを考えるなら別ですが。…あ、こだわるなら、山崎版「大鳥圭介南柯紀行」が一番だと思います)

そして、「死生の境」まである。かっちょ良くて可愛くて正直で漫談家で、何処まで天然で何処まで計算なのかわからない圭介に、悶えてください。

他に、まだまだ出てきた同時代人の大鳥評。とりあえず、「ポケット近世歴史」「日清韓三国英名伝」「六英八将伝_」「世界軍人伝」あたりを見てください。大鳥が聞いたらひきつけを起すんじゃないかという文句が並んでいます。私は呼吸困難を起しました。

大鳥ネタだけではなくて、まともにデータを集めたいときも、掌中官員録、各省の沿革報告、法令集、各省の布告全書、工部省沿革報告、工部大学校学課並諸規則と、調査研究のベースとなる一次資料が満載。…やっぱり趣味に走ったセレクションになっていってすみません。

さらに、「近代日本人の肖像」(http://www.ndl.go.jp/portrait/contents/list.html)で事典式に紹介されている各近代人の項目から、デジタルライブラリにある関連資料へ直接飛べるのも嬉しい。

そんな、どんどん至れり尽くせりになっていく、国会図書館。これだけやってくれるなら、いくら税金をつぎ込んでくれてかまわないと思ってしまうのですが。

ショッキングな話が、自民党で進んでいるようです。
国会図書館の、独立行政法人化。

http://www.jimin.jp/jimin/gyo/katsudou/h18/180210.pdf (自由民主党行政改革推進本部)

…ちょっと待ってくれよぅと、泣きそうになりました。

国会図書館の本来の機能と価値を推し量らないままに、公務員削減の手を国会図書館にまで伸ばして、独立行政法人化をイメージだけで論じている。業務スリム化とか、目標管理制度とか、管理職の割合を本省と同じにするとか、資産の売却とか、全く根拠も具体性も感じられない、時代のトレンドにのっかかった上辺の案が、もっともらしく並べ立てられていて、愕然としました。

これを書いた人、国会図書館を利用したことがないのではないかとか思ってしまった。

http://slashdot.jp/articles/06/02/03/0131255.shtml
http://tosa-toad.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_43ee.html

こちらのブログさんでも喧々諤々、論じておられまして、自分の意見は、これらに集われる方々に全く同感です。

つまりは、国内の著作権を持つすべての著書が、一箇所にあり、一般人がそれに触れられるという価値は、なにをおいても変えがたい。過去と現在を繋ぎ、知識を受け継がせることにより、後世の人間が受ける恩恵は計り知れない。これを損ねることは、日本の国力を損ねるのと同等である、という考えです。

(あと、国会の議事資料を提供する機能があるゆえの「国会図書館」から、国民のための図書館機能を分離して「国立図書館」を作る、という考えも賛成。二つの方向性は全く異なると思うので。国会のための図書館は、性質としては公文書館のほうが近い気がする。ある国の国会資料を作らされて、何で私がとひぃひぃ泣きながらやったことがあるけれども、あれは徹底した守秘義務の観念と、厖大な資料から抽出するデータの信憑性を確保する特殊技能が必要だと思うのよー)

個々の大学やインフラ事業を行う公団などとは次元が違うものを、公務員削減と効率化いう浅はかな社会の要求に応じるために、同一視している。
効率を犠牲にしても守らなければならないものが世にはあるだろう。国会図書館の知識提供サービスは、まさしくそれだと思っています。

目標管理とか言われると、職員一人あたりの利用者の数の増加とか、納入機器の業者叩きによる予算の削減とか、安易な目標設定がされそうで不安だ。

憲政資料室や古典籍資料室のように、利用者の大部分にとっては需用はないけれども一部の人間には計り知れない価値があるところのレファレンスが、まず先に手が入れられそうな感じで、怖い。

たしかに、国会図書館を見ていると、余剰人数の多さとか、過剰投資なんじゃないかとかは、感じないでもないです。利用者にシステムの使い方を教えるために、殆どの時間をじーーっと立って過ごしているお嬢さんとか。資料や複写到着の利用者番号を知らせるボードに巨大プラズマディスプレイを採用していたりとか。常に5割以上空いてありあまってしまっている検索端末機とか。

でも、一般開放された場としては、他ならぬ日本の最高の知識集積所ですから、このぐらいは余裕として残しておいてほしい、というのが、利用者としての勝手な観です。確かに1000に近いという投入人数は過剰気味な気はしないでもないですが。出版物を網羅するコレクションの構築、永久的保存の義務、あらゆる出版物に対する国民のアクセスの保障、そして出版物の散逸を防止、といった責任を考えると、職員の方々には余裕を持った仕事をして欲しい。

あと、アメリカの議会図書館などは、厖大な量の全文献の全文検索化を進行中ですし。日本語はアルファベットより格段に情報量が多くなるので、検索化にはハンディがありますが。その分、システムの利便性と信頼性と余裕で対抗してほしいなぁ、と。

無論、独立行政法人化で、改善される部分もあるかもしれません。1回3冊の縛りとか、まだツライし。複写の料金が一般図書館並に下がるならそれほどありがたいことはない。国会図書館の本来の機能と価値を尊重して、そこをさらに向上させながら、利便化を勧めてくれるのなら、独立行政法人化も良いのですが。
ただ、国会図書館の場合、効率化の名の下に犠牲にされる価値が、計り知れなくなる気がしてならないのです。
国会図書館の場合、世間的にムダ、不要と思われているものこそが、本当に必要な価値だったりしますし。
それに、国の有形無形の財産を守る人たちですから、利益と効率を目指す民営の人間より、国の本当の便益とは何かを追求するエリートに運営して欲しい。

知識へのアクセス性の向上と情報入手の効率化は、国のトップクラスの人間の底上げにより、国力の強化に繋げる最たる近道だと思うのです。情報化が更に進む今後は、いっそう、そうなるでしょう。情報を手に入れるために費やす労力を、思索と考察と実証と応用のために用いることができる。表面的でなく、情報に深みを持つことはそのまま人間の質の向上につながります。

知識も技術も、情報に支えられ、競争に使われる。国民の情報アクセスへの効率性の向上は、そのまま、国としての競争力の増大に繋がるわけで。日本人が今の贅沢な暮らしを満喫できているのは(何だかんだいって贅沢です、皆)、技術立国として、経済大国として、先人から受け継がれ、今の人間が切磋琢磨して開発しているものが、世界に範を垂れるだけのものがあるからこそです。

その最も大きな知識のための共有資産が、国会図書館という存在だと思います。

目先のちっこい効率を上げて、国全体の大きな利益を損ねるようなことだけは、しないでくれ、と思います。

…いやその、国会図書館の、それだけの眼を見張るようなシステムを、大鳥オタク所業にしか用いていない自分が言うのも、説得力という言葉を考えろ、って感じで、穴に入りたいものなのですけれど。
えっと、まともな研究を行っていらしている学生さんや研究者の方々に、あの、その、考えていただければなー、なんて。もじもじ。
posted by 入潮 at 04:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

工部大学校体操教師

工部大学校の体育の先生は、元、沼津兵学校の体操教師でした。

……これで萌えて椅子から立ち上がれる方は、立派に歴史ファンから逸脱した、大鳥・伝習隊ファンです。お仲間です。同志です。

えーと。この沼津兵学校の体操教師の方。工部大学校教授陣にはめずらしい、日本人です。「工部大学校の体育」(体育学研究41号、1996)という論文で紹介されていました。文部省系統の学校(東大を初めとした帝大など)とは違った体育システムが構想され、実施されていた例として、工部大学校を取りあげて下さっています。項羽大学校の体育は、文部省系学校と違った意義を持ち、一つのユニークな「実験」であった。その元には、「歩兵操練」の建言に示されていたように、陸軍との繋がりがあったこと、ということを指摘しています。

工学寮・工部大学校の学生たち。毎日午後4時から5時までの1時間、「体操」が日課として組み込まれていました。
「実験や製図に疲れた頭の方向転換を行って、鬱を払って気分爽やかとなる良い機会で、上級生と下級生の交流のきっかけを作る便宜があった」と中山が述べています。
ただ、学生が皆喜んでやっていた、というわけでもないらしい。「当時の生徒は概して体操嫌い、何かと口実を作って欠席をした。体操時間になったら急に病人がでるのも珍しくなかった」曽禰君が暴露してました。…曽禰君、貴方も?

工学寮の体育の最初は、陸軍の新兵に教えるのと同じ、柔軟体操や歩兵小隊の行進と同じだったらしい。それが、虎ノ門に校舎が移転してからは、器械体操が加わり、その後フットボールやクリケットなどイギリスの外国人教師からもたらされた競技が加わった、とのこと。(工学寮は工部大学校の前身で、明治6年旧川越藩松平大和守の屋敷を用いていたが、虎ノ門に校舎が新築され、移転した)

えっと「工部大学校と体育」という文献で、下逸郎という方について述べられていました。
この下さん、本多さんと、沼津兵学校の任期が重なっていました。

で、この体操教師を担当された下逸郎氏。もと幕府の馬医であった家系。1854年生まれだとのことで、本多さんより14も年下でした。本多さんが沼津にいた明治3年時点で、下さんは16歳と年若いですが、沼津兵学校の「体操方」に属していたとのこと。1878年、明治11年に工部大学校に移って、工部大学校が東京大学工科大学に合併されるに及んで、工科大学の雇いとなっています。

そんなかんじで、本多さんと同僚というには年が離れていますし、大鳥校長とどのぐらいの接点があったのかは分からないのですが。ほのかな繋がりが伺えて、嬉しかったのでした。

自分の子供ぐらい年齢が離れている体操教師。沼津の元部下たちの様子を聞いてみたいのだけれども、聞くに聞けないでいて、声をかけようか迷っている校長先生、なんて図がありましたら、ちょっとツボですな。


そんな感じで、昨日の収穫物についても、ぼちぼち触れていければと思います。
それにしても、研究紀要って面白いなぁ…。
学術論文雑誌だと、それなりに権威のある人の検閲が入るから、テーマが学界の重点項目に縛られたり、格調高さを求めるあまり結論が無難になったりする傾向があるのだけれども。
各大学が定期的に発行している紀要だと、研究者が自分の好きなことをやったのを纏めているのがあって、よりマニアックなのにお目にかかれる。
企業の百年史や五十年史なども、こだわりがあって深いし。まだまだ一杯、お宝が埋もれていそうな気がしますですよ。

で、最近、ヤバイぐらいに工部大学校にハマリまくっています。
私がハートを貫かれてしまったのは、しだりんです。

ジョー(高峰譲吉)もたぶろー君(田辺朔朗)も、たっちー(辰野金吾)も、それこそ伝記が何冊もかけてしまうぐらいに業績はすばらしくて、じっくり煮詰めて追いかけたい魅力的な方々なのですが。
今のところ、マイ・ヒーローは、しだりん(志田林三郎)。第一期生、電気科。工部大学校第一の秀才。彼が予言した電話、ファックス、テレビなどの電気事業は、全て実現化されて一般になくてはならないほどに浸透したという先見の明がスゴイ。
農商務省で、後藤象二郎と榎本・前島組の板ばさみになって、政治的に疲れ果てて、過労死したとも囁かれているほどの苦労人、という辺りにも、やられました。

大鳥史料についての解説のほうを充実させようとしていた矢先だったのですが。そのまま本道から逸れそう。
工部大学校資料とどちらを優先させようかなぁ。
開拓使も強烈で迷いましたが。そのうち、工部大学校オムニバスなぞやり始めると思うので、笑ってやってください。


といいつつ、長らくほったらかしていた本体の更新。といっても、お知らせするほどのことはしていないです。
「伝習隊」のほうは、本多さんと滝川君を若干追加。滝川っちのほうは、既に他の方々が触れておられる部分なので、新しい情報ではないと思います。ただ、資料確認できたものは、後追いでも、自分の目で追っていければなぁと。

「語り」のほうは、「技術者としての大鳥」で、明治の大鳥の官僚実績の部分を追加。分量が増えた…。ここの場所こそをちゃんと強調しておきたいと思ったのですが。普通は読んでてもふーん、で流されるつまんない部分ではあります。そこを掘り起こすのがトレジャーハンター。価値は自分にしかなくってもいいのさ。

あと、「軍人としての〜」は削除しました。サイト立ち上げの初期の頃に書いたものですが、今はあまりに認識がかけ離れてしまいましたので。同時代の資料を見ていると、初期の頃に呈していたものは、浅はかすぎたなぁ、と。
今自分が持っている認識については、今後、「業界への異論」のほうに、まとめていきたいと思います。

触れたいところが一杯で、踊り狂える幸せな今日。すぐに仕事の波に浚われていって忘れていくのが不幸、いや、至らなさ。いつも口ばっかりですみません。口で言ってやった気になっている、というのが一番宜しくない。


    [2] あろあ 2006/04/24(Mon)-03:20 (No.38)
    こんばんは!先日は楽しいひとときをありがとうございましたv
    弱いくせにたくさん呑んじゃってあまり何をお話したか覚えてないというのがツライです(笑)。
    でも帰ってからも荒井さんのことで頭がいっぱいでした。入潮さん、酔った私にいったい何を吹き込んだんですか…?(笑)

    それにしても、入潮さんが工部大学校ブームだなんて、嬉しくて卒倒しそうです!
    いまだに『旧工部大学校史料』すら目にしていない嘘ん子工部大ファン(というか曾禰君ファン)ですが、もう私は何もしなくてもいいなという気がしてきました(笑)。
    ちなみに下逸郎さん、私が読んだ『旧幕臣の明治維新』では明治元年現在18歳となっていました。
    んで、本多幸七郎さんは28歳と書かれてました。あれれ。(まあ、こちらは史料じゃないですし…笑)

    ではでは。工部大では、あやや(石橋絢彦)にも興味津々のあろあでしたv
    (「工部大学校オムニバス」、超楽しみにしています!)

    [3] 豆野 2006/04/24(Mon)-07:06 (No.39)
    おはようございます。
    最初の一行で立ち上がりました!(でも思わず日付を確認しました←コラコラ;)
    「な、名前は・・・!?」とドキドキして、ちょっと気落ち(笑)
    いや、でも「ほのかな繋がり」で充分です。どこのどなたか知りませんが、沼津から工部大学校に−と転属させてくれた方に感謝したいです。萌えを有難うございます!ってv(そんな事言われても)
    入潮さまにも、これからも貴重な情報を宜しくお願いいたしますv
    校長の大鳥氏も楽しみですv

    [4] しの 2006/04/24(Mon)-23:57 (No.40)
    『工部大学校オムニバス』是非是非!!
    いまだにどこから手を付けようか迷ってしまう工部大学校生達、とりあえず気球に行っとこうと井口在屋が気になっています。
    でも、なにげに同じようなオタク臭を漂わせている石橋絢彦も気になるところです。

    『工部大学校オムニバス』ワクワクして待ってますので、よろしくお願いいたします。

      [5] 入潮 2006/04/26(Wed)-02:55 (No.43)
      ● あろあさま

      先日はいきなりで、押しかけてしまってスミマセンでした。上京されると聞いて居ても立ってもいられず。
      持っていたPCに、決して人に見せてはならないモノを開いていた形跡があります。<荒井さん
      更に、酔った勢いにスゴイ約束をしてしまったような気がしますが、自分の記憶もあやふやなので、それはあろあさんが覚えて下さっていた場合には有効、ということにいたしましょう。

      あろあさんが曾禰君好き。経歴を辿っていくと、なんだかとっても理解できてしまいました。あろあさんペーパーの、天然コンドル先生と、呆れ顔の曾禰君でイメージが膨張しました。ありがとうございます。
      あろあさんがなにもしてくださらないなんて、私の気が萎えます。ひとりではなにもできないさびしんぼさん。もとい。是非ご一緒してやってくださいませ。

      『旧幕臣の明治維新』はまだノーチェックでした。下逸郎氏を挙げているなんて、かなり深いですなー。教えてくださってありがとうございますー。てか、読み込んでおられますな、あろあさん。下さんも、石橋君語りによって判明した方ですが。下家の記録「要事記録」には嘉永6年(1854年)6月15日生まれ、とあるそうです。論文に引用されている数字のほうが間違えているという可能性もありますし。明治3年、16歳で教官というのは若すぎるので、年齢的には明治元年18歳、というほうがよほどしっくりくる気がします。原典はご子孫の方が所持されているようなので、直接確認するのは難しそうですよな…。
      本多さんの年齢ですが、1840か1841年生とのことで、自分ではまだ史料上では未確認で、聞き伝でした。すみません。

      あやや。つっつけばつつくほど面白げな人です。戊辰戦に参加した旧幕臣を凄く尊敬していそうなのに、自分のところの校長のことは殆ど語っていないのは、なぜなのでしょうか…。いや、自分が知らないだけかもですが。

      ● 豆野さま

      流石にそんなウマい話はありませんでした。
      けれども、その「沼津から工部大学校にと転属させてくれた方」が本多さんだったら、どうしましょう…なんて妄想してみる辺りは、往生際が悪いです。

      豆野さんも何か発見されましたら、是非教えてやってくださいませ。ワタクシなぞが垂れ流すものより、自身で直接当たられ見つけたモノのほうが、萌え度合いは相当大きくなると思いますー。

      ● しのさま

      井口のありやん。すみません、荏原製作所のモトになった、ぐらいしか分からないです。相変らずしのさん、マニアックなところを突いてこられますな…。いのぐちポンプが明治村に飾ってあるそうで。現代の世界に冠する日本企業のオリジンがここにも、ということで。何か分かったら、取り上げたいと思います。四期生なので、もうちょっと先、ということで…
      気球ですが、志田が、直接圭介から製作を依頼され、志田がチームを組んで高峰に参加してもらった、という流れのようでした。志田は殆どが士族の工部大にめずらしく、平民出身なので、圭介に共感するところがあったりしないかなー、なんて期待してしまいますが。早くに世を去ってしまい、なかなか語り残しに出会えないので、つらいところです。

      石橋…。確かに、彼の幕末語りには、学術的に歴史を研究、とか、自分が証言者になる、とかいう志より、好きだからやっている、というマニアックさが最初に見えている気がします。
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2006年04月25日

工部大学校概要

工部大学校オムニバス。早速いきます。

工部大学校はもともと、工学寮という、工部省の一機関でした。
工部省は、工業を勧奨して近代産業の保護育成を目的として、明治3年に立ち上げられた省。工部省は、鉱山寮、製鉄寮、造船寮、灯台寮、電信寮など「寮」という各部門に分かれていました。工学寮は、明治6年に工学を開明し、のエキスパートを育てる高等教育機関として設立。当時、工部省にはそれまでは、それぞれの工部省の寮が修技生という形で必要な人材を小規模に育てていました。しかし、工学を発展させるためには一括した高等教育機関を設けるべきとの林董が提唱。山尾が設立を建議し、工学寮が発足しました。

工学寮は後に工作局の管轄下に入り、英語名(The Imperial College of Engineering) にあわせるために,
明治10年に「工部大学校」と改称。明治18年の工部省廃止にともなって、文部省の管轄に組み込まれ、東京帝国大学に吸収合併され、東京帝国大学工科大学となりました。

以後、工学寮・工部大学校を含めて、「工部大」と総称することにします。

工部大の学期は六年間。最初の二年を普通学期、次の二年を専門学期、最後の二年を専門実習学期としました。
同時代の理工系高等教育機関には、東京帝国大学がありました。東大のほうは学術理論に重きを置く一方、工部大学校には実地教育が重点視されました。数学や物理などは基礎学問は東大生のほうが優れていたけれども、工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界の先覚者を輩出しました。ただし、工部大の官費生は、7年の奉職義務がありました。つまり、工部省にお金を出してもらって学んだ学生は、工部省に就職して最低7年間は工部省で働かねばならない、という就職の制限がありました。

工部大学校の教授陣、実験施設は工学の研究発展のために充実し、グラスゴーの怪物、ケルビン卿をして「世界の工学に中心は日本に移った」と言わしめました。当時、世界で最も充実した工学の教育機関が、極東の後進国日本に産まれたといえます。

実際、卒業生それぞれにスポットを当ててみると、工学、産業のいたるところに、業績がひしめかせています。工部大出身者は、明治の日本の殖産興業の中心人材でした。彼らなくして技術と産業の黎明期・成長期は語れません。

沿革の概略は以下の通り。

明治6年 工学寮発足
明治6年9月 第1期生入学試験の公示。
明治7年3月 宿舎を川越藩邸大和屋敷から虎ノ門へ順次移転
明治8年6月 工学寮頭(校長)に大鳥就任
明治9年11月 工部美術学校併設
明治10年1月 官制改革によって工学寮は工部大学校に名称変更。工作局の管轄下になる。
明治10年5月 陸軍省依頼により、西南戦争投入のための気球を実験的に製作。
明治11年7月 天皇の親臨を仰いで開校式。
明治12年11月 待望の第一回卒業式。卒業生23名。内11名が英国留学した。
明治15年8月 工部大学校が工作局から工部省本省の直轄に。工部技監大鳥が校長を兼ねる。
明治16年6月、12月 経費節減のため工部美術学校廃止。
明治16年 第1期生留学生が帰国、念願の日本人教授の導入。
明治17年3月 藤岡市助、12月には辰野金吾が教授に。
明治17年5月 海軍の要請で造船学科設立。
明治18年4月 工部省の官業整理。規則改正。
明治18年12月 工部省廃止。工部大学校は東京大学工芸学部と合併し、文部省の管轄下に。東京帝国大学工科大学となる。学長古市公威、教頭心得に志田林三郎。

入学者は合計493名。内卒業者が211名。明治18年、工科大学になった際の在校生が153名。111名が退校となっていて、単位習得が出来なかったり家庭の事情などで、1/3が卒業できませんでした。

第一期の各科の首席卒業者は、官費留学の特典がついていました。これは、お雇い外国人に代わる教師育成という明確な目的がありました。このため、第二期生以下にはこの特典はナシ。
ちなみに、明治12年時点で、お雇い外国人の給料が、工部省予算の2/3というとんでもない割合を占めていました。

栄光の官費留学生は、以下の通り。
南清(土木学)、三好晋六郎(造船学)、志田林三郎(電信学)、近藤貴蔵( 鉱山学 )、高峰譲吉(化学)、栗本廉(地質学)、高山直質(機械学)、荒川新一郎(紡績学)、辰野金吾(造家学)、石橋絢彦(燈台学)、小花冬吉(冶金学)

無論、留学生以外も、外国人教授を補佐する助教授や、工部省の各部局の技術者として活躍をしています。

工学寮/工部大学校は、土木、機械、電信(電気工学)、造家(建築)、鉱山、化学、冶金、造船の8科に分かれていました。(冶金、造船が出来たのは後になってからで、明治6年時点では6科目)。卒業者人数では鉱山と土木が最も多く、機械がそれに次いでいました。

以下、第一期生から順に、ご紹介していきます。
まだ史料を直接当たりきれておらず、ネット情報なども含んでいるので、誤謬など見つけられましたら、ご指摘くださいませー。
主な参照は、「旧工部大学校史料、同附録」、「日本工業の黎明」、「工部省沿革報告」、「工部省とその時代」、「土木人物事典」、「東京大学百年史」、「工学院大学百年史」と、Amazonで購入できる各人物の伝記より。「去華就実(http://www.miyajima-soy.co.jp/index.htm)」や「学問のアーケオロジー(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/)」Wikiなどのサイト様にもお世話になっています。

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工部大学校オムニバスその1-1 志田林三郎、南清

● 志田林三郎 (しだりんざぶろう)
電信科、一期生。1855年12月25日生。しだりん。工部大学校エース。悲運に早世した苦労人。電子立国日本の出発点。

佐賀県出身。父は武士ではなく、塾の先生。林三郎が生まれてすぐ病死。母フミがまんじゅう売りをしながら、林三郎をミス・ナカという姉二人と共に育てた。饅頭神童。石炭運搬労働者相手に饅頭を売って母を助けたが、その際に計算がすばやく、決して代金を間違えず、大人たちがこぞって奪うように饅頭を買って、饅頭少年の計算能力を試したという。
漢方医に見出されて、階級の隔てのなかった佐賀藩の学校、東原庠舎で学ぶ。その後特例的に見出されて藩校の弘道館へ。佐賀藩科学技術振興の申し子扱いだった。石丸安世(後、工部省電信頭)が開いていた経綸舎でも学んでいる。石丸の影響を受け、16歳で上京。

工学寮一期生の電信科は慶応義塾から来た川口と二人のみだった。入学試験は高峰に後れを取ったが、その後、理学一位、数学で一位、英語三位、図学(製図)二位、総合でトップ。特に高等数学が得意で、同級生に教える立場だった。電気工学教師エアトンの信頼篤く、助手も勤めた。
5年生のとき、「プロジェクト気球」のチームリーダーとして、気球の設計を担当した。
卒業論文は「電信の歴史・電気電信の進歩に関する研究」200ページを越える理路整然とした圧巻論文で、卒業時点で、ぶっちぎりの首席。

第一期生留学組11名の中では、皆が士族出身の中で、唯一平民。留学中はケルビン卿に師事する。ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)は熱力学の開拓者。トムソンの原理、ジュール・トムソン効果の発見者。絶対温度の単位(K)になっている。10歳で大学入学、22歳で教授、事業家としても秀で、怪物と呼ばれた。その卿をして、志田は「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生」と言わしめた。「ケルビン卿は志田を愛した」という言葉はあちこちで見つかる。

また、グラスゴー市中央郵便局で無償で働き、これが後の郵便通信事業、行政の糧となった。
ただ従順に学んでいたから教授に好かれたわけではない。当時、英国の電気学の権威であったオスボルン博士が、Philosophical Magazine (http://www.tandf.co.uk/journals/titles/14786435.html) に掲載した論文を見て、志田は不審を感じた。そして自分の考えを、同じ論文に投稿した。オズボルン博士は「たかが日本の書生のくせに」と一喝するが、志田は怯まずにまた反論して、周囲を驚かせた。そんな気の強いところも見せる。更に志田は同じ雑誌に自記電流計に関する論文を掲載した。

グラスゴー大学に在籍したのは1年だったが、志田の研究成果に対して、自国学生を差し置いて、年に一度トップの学生に与えられクレランド金賞を授与された。名前も聞いたことのない東洋の端っこの小国から来た志田は、実力を持って英国人の鼻を明かした。その存在はよほど印象的だったらしく、志田の死後100年経ったあと、グラスゴー大学入学式で時の学長フレーザー博士が、学長挨拶のなかで志田について述べていたとのこと。
(今で言うと、つい最近まで内戦の最中にあったソマリアやルワンダのように、いったん荒れ果てた小国から、留学生が国費でやってきて、東大や旧帝大に入って、西澤潤一のように、教授としても実業家としても日本で1,2を争う功績を積んでいる今にもノーベル賞を取りそうな超人の下で研究して、教授が出会った中で最高の生徒と愛されて、しかも一介の学生なのに他の著名な教授に論文で喧嘩を売って、学生首位にも輝いていて、1年で自分の国のために去っていってしまった、みたいな感じか。そんなヤル気のある人間を見たら、絶対その国は伸びてくる、と恐れ戦くよなー。)

明治16年4月に帰国。27歳にして工部大学校初の日本人教授となり、さらに工部省准奏任御用掛を兼ねて、電信局勤務。月報は五十円。大学教授と技術官僚の兼務で、多忙を極めた。高峰と同様に、工業新報の協力者としても活躍。
逓信省電務局電気試験所(現在の電子技術総合研究所)の初代所長。時代は、ようやく官営の電信と、電灯のための直流による配電が始まったばかり。志田が電気産業振興のために切り開いた貢献は計り知れない。

郵便事業が農商務省、電信事業が工部省、という管轄違いに苦しみ、電信行政に不満を持った。しかし、明治18年、内閣創設に際して、電信・灯台を工部省から、駅逓と管船を農商務省から受け継いだ逓信省が発足。時の逓信大臣が榎本武揚となり、志田は榎本から厚遇された。明治20年31歳で逓信省公務局次長。同年、東京電信学校校長。32歳で電気学会を創設。榎本武揚を会長に守り立てる。明治21年本邦第一号の工学博士でもある。明治22年、逓信省初代逓信工務局長。常に、教授と校長とテクノクラートを兼ねていた。その傍らで電気技術の研究開発も怠らず、電話機や電話交換機、地磁気、電流自記機、直流発電機、アーク灯、蓄電池、電気通信技術に関する研究を進め、多くの論文を記し、工学会、電気技術学会のほか、英国専門雑誌にも寄稿して評判になった。常に日本の電気技術開発の最前線にあった。

電気学会第1回通常会に係る演説は、電気史、工学史の伝説となった、圧巻・不滅の金字塔。淡々とした語りで、「将来可能となる10余のエレクトロニクス技術予測」として今日の社会を予言した。即ち、高速多重通信、長距離無線通信、海外放送受信、長距離電力輸送、鉄道電気・電気船舶・電気飛行船、光通信、録音・録画・ビデオ、地磁気や電気変動による地震予知や作物の収穫予測。これらは全て、夢でも希望でもなく、志田の電気、熱、磁気の原理の理解、電気技術の経験と知見と実績に裏付けられた、論理的な予測だった。その多くは実現し、我々はその恩恵を享受してあまりある。余りにも身近で普通になってしまったために、我々はその技術の価値を評価できないでいる。

さて、電話事業に関して、官業か民営かの方針で、政府内が分かれた。志田は官業の方針を取った。榎本は民営派だった。さらに、逓信大臣が官営論者の後藤象二郎となり、志田は二人の軋轢に苦しんだ。結局政府は、志田のとった官営を採用。その後、1985年のNTT発足まで、電信電話は官営を続けることとなった。しかし、郵便制度創設者の前島が後藤に反発して辞職。前島派と後藤に見られていた志田は、このあおりを食らって非職を言い渡される。志田の部下はストライキを計画して反発したが、事前に発覚して失敗。
さらに、国会議事堂が失火事件を起し、この原因が電気とされ、一般人の電灯事業に不安が増大した。志田は東奔西走し、一般人の電気への無知からくる誤解払拭と電気の啓蒙・普及に努めて心を砕いた。

この過労と膨大な責任と、政治の軋轢が、志田の死期を早めたとされる。明治24年8月、志田は36歳という若さで世を去った。痛恨の早世。過労で体を弱め静養していたその最中も、大勢の関係者が、故障や停電のために詰め掛けて志田の指示や助言を求めたという。結核ではないかといわれているが、実際は過労死だろうという声が多数。同期の辰野金吾は「出世も早かったが死ぬのも早かった」と遺骸の前で涙してつぶやいた。特旨により、従五位。辰野金吾や電信科後輩の浅野応輔らが、遺族を擁護したとのこと。
ケルビン卿は志田の死を悲嘆した。志田の死後に、ケルビン卿の別の日本人弟子から、志田とその妻そっくりの等身大の人形がケルビン卿に送られた

写真や肖像では、切れ目のすっきりしたお醤油顔。機械科の同期今田清之進曰く「いたって淡白な人格者」。また、後輩の岩田武夫に「頗る蒲柳」と言われており、もともと体は強いほうではなかった。酒、煙草はやらず、葡萄酒を少々たしなむ程度。囲碁と読書とトランプが楽しみ。留学中に森有礼と囲碁を打っていた。漢文に親しみ、雅号は「別阜逸人」。

志田を知る者は、皆が皆、口をそろえてその早世を悔やみ、また、電気工学の祖、科学技術の先覚者たる功績の大きさに比して世にほとんど知られていない事実を残念がっている。1993年に郵政省は志田の没後100年を記念して「志田林三郎賞」を創設し、情報通信の分野で先端的・独創的な成果を挙げた個人を表彰することとした。

「先見の人 志田林三郎の生涯」(ニューメディア)は、佐賀大教授による、しだりんに捧げる賛歌。著者からしだりんに対する愛が満ち溢れていた。負けてはならんと思った。大鳥も大事だけど、この人もまず、語り伝えねば、という使命感に打ち震えた。


● 南清(みなみきよし)
土木科、一期生。1856年生。

活躍分野は主に鉄道。会津若松出身。日新館で漢籍を学ぶ。明治2年に東京へ上京。神田孝平、箕作佳吉の塾に入り、後に慶応義塾で英語を学び、さらに開成学校(大学南校)で学び、入学前の72年に工部省測量司の技術二等見習生になって、数学と実地測量を鍛えている。入学時点で既に相当な学力と技術があったようだ。

明治12年9月、お雇い教師が、海軍の雇いのキャプテンが死亡した際、その葬式に教師全員が出席して、授業がいきなり休講にされた。一方で、天皇が東北地方巡幸される際、見送りのために授業休講を生徒が要望したところ、受け入れられなかった。これに反発してた工部大生が全員、授業をボイコットする、ストライキた事件が発生(西館楼集合の事件)。南がダイアー教頭に向けた英文の起草文を書いた。ストライキを煽った首謀者の一人とされて、二期生の電信科岩田、鉱山科仙石らと共に、4週間の謹慎を喰らう。(謹慎メンバーは他におり、証言者によって一致していない)。このとき、皆から酒に刺身にと差し入れを受けて、豪奢な日を送った。

77年に、6年生の実習として、杉山輯吉と共に、京都-大津間の線路工事に従事。琵琶湖附近の工事で、お雇い外国人の設計のした線路の曲線が不適切だと指摘。実地試験の結果、南が正しいと分かり、井上勝に大変気に入られた。

グラスゴー留学組。マクレラン鉄工所で鋼橋の組み立てや、クライド築港工事に従事。カレトニアン鉄道会社の技士長グラハムに従って、ブランタイヤ支線の工事に従事し、実地で修行した。さらにグラスゴー大学を中退して、15年、スペインへ渡り、鉱山で鉄道、給水などの工事に携わった。ロンドン土木師会院委員に選ばれている。

明治16年帰国、直ちに工部省鉄道局に奉職。17年7月工部省権少技長、正七位。19年5月鉄道局三等技師、従六位。新橋-上野間、東京-前橋間の市外・市中の線路のほか、高碕-上田間の鉄道工事を担当。東海道の沼津-熱田の160里の測量を担当。碓氷峠を開拓。姫路以西、備後の道百里の設計と尾道以西、馬関にいたるまで、線路実測に従事。東海道線の沼津-天竜川間の工事を担当。「東海道鉄道」「天龍川鉄橋質疑ノ答」として工学会誌に寄稿。3年には野に下って、山陽鉄道会社技師長に。民間における経営手腕も発揮した。日清戦争では尾道-広島間の軍事輸送も担当した。

鉄道に捧げた人生は、47歳で没。「進取の気象に富む」人とのこと。顔はふっくらしているが、眼光が怖い。
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工部大学校オムニバスその1-2 高嶺譲吉、荒川新一郎、高山直質、三好晋六郎

● 高峰譲吉
化学科、一期生。ジョー。1854年11月3日生。ご存知、世界のジョー。発明に開発に事業に秀で、日米友好にまで尽くした万能人。

工部大出身者では最も著名。消化酵素のタカジアスターゼやホルモンのアドレナリンの発見者。日本でより世界の舞台で名が通っている。世界のタカミネ。伝記も多い。高峰譲吉顕彰会(http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/takamine/index.html)では小学校児童や高校合唱部による賛歌まで聴ける。国立科学博物館では生誕150年記念典が開催された。(http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2004/takamine/index.html)

加賀藩医高峰精一の長男として越中、富山県高岡に産まれる。高禄の家系で工部大学校生では珍しく貧乏をしなかった人。加賀藩校明倫堂で学び、藩命により長崎へ3年間留学。1870年に大阪医学校に入る、東京に出てから舎密局で化学講義を受け、化学を志すことにした。工部省の修技生(工学寮発足前にあった各寮の技術者養成所)。

その後、主席で工部大学校に合格。在学中は、しだりんの追撃で成績は追い越され、首席は逃したが、英語ではトップ。志田と共に「プロジェクト気球」の委員。志田に協力して陸軍省の実験のために、気球の最も重要な気密仕上げを担当した。

明治16年帰国後、農商務省官僚に。米国万博出張の際、明治18年、発明家であった彼は、特許制度に関心を持ち、高橋是清に認められて、明治19年専売特許局次長に任命される。在職中、醸造、和紙、製藍等の研究を幅広く行なう。明治23年、麹を使った醸造法の改良で特許を得た。これがアメリカのアルコール会社に採用され、清酒醸造方法の指導を懇請された。当時日本人で、外国の大会社から招かれるというのは稀有なことだった。この関係でアメリカに移住、33歳で結婚。嫁はアメリカ人キャロライン・ヒッチ。大変ラブラブで周囲を困惑させた。ただ、酒造の材料にとうもろこしを使用したことから、モルト業者の大反対にあって、会社は解散せざるを得なくなってしまった。

事業者としても優秀で幾多の会社を設立している。ベンチャービジネスの元祖。渋沢栄一らと「東京人造肥料会社」設立。1913年帰国の際、国民の科学研究所の必要性を強く訴え、「理化学研究所」を設立した。また、製薬会社である「三共株式会社」初代社長。さらに、「亜細亜アルミナム」社設立。アルミニウム精錬の為の電力開発のために、自らの足で黒部の未踏の峡谷を踏査し、ダム水力の発電開発調査を行っている。生涯精力的。そのほか、功績は数知れず。

日本協会をニューヨークに設立し、日米の親善に尽くした。セントルイス万博に明治政府が出展したパビリオンを移築し、これに大鳥が「松楓殿」と命名した。桜の苗木をハドソン河畔に植えて、サクラ・パークを作ったり。帰国しようとしたら渋沢に「君は米国にいて世界のタカミネとして日本のプレゼンスを高めてくれ」といわれてしまった。大鳥の論説「国民の外交」には、高峰を脳裏に描いたのではないかという表現がある。大正11年勲三等瑞宝章。67歳でニューヨークで没。


● 荒川新一郎
機械科、一期生。

南、志田、高峰と共に、第一期生秀才4人メンバーの一人。寄宿舎の各部屋は、成績順に二階の端の部屋から決められていったので、高峰、志田、南、荒川はいつも一緒の部屋だったのだそうな。(どこかで聞いたことのあるやり方だ。校長が決めたんじゃないだろうな…)
英国留学組。紡績を学ぶ。1885年工務局勤務。

● 高山 直質
機械科、一期生。

入学は補欠だった。しかし、卒業時には志田に次いで次席。
在学中は不気味なほどに不動の二位。数学、物理、図学、英語、全ての分野で二位だった。わざとやっていた真の天才だったら面白い。
「高山、おまえまさか」「ちょうどディクショナリーオブエンジニアリング、欲しかったんだ。しだりん、エンサイクロペディア・ブリタニカもらえてよかったね」なんて会話を想像してみる。(物理、数学、英語、図学など、科目ごとに一位、二位と試験順位がつけられ、学業に関連した賞品がもらえた。ディクショナリーオブエンジニアリングは二位賞品の工学辞書。エンサイクロペディア・ブリタニカは一等賞品の巨大百科事典)

機械科より、グラスゴー留学組。グラスゴーでは志田、南と一緒に住んでいた。物理の試験では、一位志田、二位高山、七位南と、日本組がグラスゴーを席巻した。ここでもやっぱり二位…。

本業は鉄鋼技術研究。1881年に英国におけるボイラー保険事業の意義について「蒸気缶破裂予防要件」として報告している。「工業新報」にも、高峰と同じく、欧米の論文の翻訳を掲載。ボイラーについて保険、安全の概念をもたらした。工学会誌の追悼文に「意ヲ汽缶保険ト魚猟ニ注グ」とある。釣りが趣味?
明治15年(17年の説もあり)に帰朝し、母校の機械科の教授に。しかし、その翌年に夭逝。生きていたらどのような業績を挙げてくれたことかと悔やまれる。


● 三好晋六郎
機械科、一期生。1857年生。旧幕旗本三好家の六男。江戸裏猿楽町に生まれる。維新後は徳川に従って駿府へ。父が心を砕いて教育を施し、藩校で英学・漢学を修める。明治5年、勧工寮修技生に。

機械科次席で、やはりグラスゴー留学組。造船を学ぶ。機械科より2名の留学生があったのは、蒸気機関を主とした機械学のほかに、造船の需要が高かったためか。実際、海軍からの要請により、明治17年、機械科のほかに造船科が設立されている。グラスゴーのロベルトネビヤ造船場に入り、英国海軍の造船着手の際に、造船製図を実地で学ぶ。その後グラスゴー大学で学び、造船学科の優等賞典を受ける。
帰国後、工部大学校助教授として、ウェストとともに母校の教壇に立ち、造船を教える。後、明治19年に東京帝国大学工科大学の教授。工手学校(現、工学院大学)の設立にかかわり、明治20年から校長を兼ねた。榎本武揚の設立した育英黌の講師にもなっている。

性格は従順、謹直。粗暴を嫌い、常に文書を読み、絵図を見るのを無上の喜びとした。

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工部大学校オムニバスその1-3 辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊、杉山輯吉、石橋絢彦

● 辰野金吾
造家科、一期生。1854年8月22日生。唐津出身。

唐津藩家禄十六石の姫松倉右衛門が父。弟の辰野宗安の養子となる。その際、実母に「必ず辛抱してみせる。私が江戸に行ったら必ず槍を立て帰ってくる」と誓った。
耐恒寮(唐津の洋学校)で、大学南校からきた東太郎と名乗っていた同じ年の高橋是清に学ぶ。東京に出てからは、英国人モーリス夫妻のボーイをして英語力を磨いた。

工部大学校の入学試験では点数が足らずに一度不合格、4ヶ月後の再試験でかろうじて合格。32人中最下位だったのだが、在学中に猛勉強して、卒業時には造家学科首位にまで昇った。造家科のコンドル教師は、科の学生をそれぞれ評価している。「英語は片山ほどではなく、理論は今一歩で、将来への提言はクリアではないが、プラクティカルな面は優れている」と評された。
晴れて官費留学生の11人の内の一人になり、ロンドン大学で学ぶ。キューピット建築会社で実地研究を行なう。明治17年帰国。コンドルの後継者として、工部大学校教授に。工部権少技長を兼務。東京大学工科大学学長。明治35年、47歳で辞職して野に下る。東京と大阪の東西二箇所に事務所を開き、200以上の建造物を手がけた。国家的プロジェクトを担当。東京駅の設計は有名。日本銀行本館は国の重要文化財に指定されている。
65歳で亡くなる前まで「次は帝国議会議事堂を造る」と意気込んでいたらしい。仰々しく重厚な作風。
なお、日銀本館建設の際、師だった高橋が社員として働いており、立場が逆転していた。

性格は怒りっぽかった。抜群の秀才というタイプではなかったが、並外れた強い意志を持っていたという。 「辰野堅固」と呼ばれたほど謹厳実直な性格絵に描いたような明治の気骨人間。
息子には「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語った。弟子にも厳しく、弟子からは「おやじ」と親愛の情を込めて呼ばれてきた。相撲が強く、刀剣収集が趣味だった。


● 曾禰達蔵 (そねたつぞう)
造家科、一期生。1853年生。辰野が光なら曾禰は影。民間から日本の建築を支え、合理と機能で次世代を導いた。

江戸城下丸の内の唐津藩邸で生まれた。幕末維新の数多い事件の目撃者。
歴史家になりたかったのに、生活のために建築家になった人。何かと辰野と比較して語られることが多い。辰野の影にあった感じのする、ナンバーツー的存在。
1852年生。10歳から唐津半藩主小笠原行の小姓を勤めた。 戊辰戦争では彰義隊と行動を共にした。小笠原長行は恭順を拒み、輪王寺宮と共に白石へ、奥羽越列藩同盟の参謀に。長行が榎本艦隊に合流して箱館へ向かう際、曾禰は長行から生きよと命じられ、断腸の思いで故郷へ戻る。その後、唐津洋学校で、辰野と共に耐恒寮で高橋是清に英語を学ぶ。高橋が東京に戻った時、曾禰は同行して、高橋家に住み込んだ。翻訳などのアルバイトで食いつなぐ。

1873年に工学寮入学した際には21歳と、第一期生の中でも年長だった。歴史の勉強をしたかったが、実家が困窮したために、生きるために官費で勉強ができる工学寮を選んだ。
建築科教師のコンドル先生と、同じ年だったりする。
英語に精通していて、余暇には電信科の川口武一郎と英語の哲学書を回し読みしていた。体育は嫌いだったようだ。
コンドル先生からは、造家科の中でもっとも高い評価を受けている。「論文は細心の配慮を持って作成され、実用性と芸術性を兼ね備え、日本における新様式を提案している。その結論は賞賛に値する。また日本の建築の起源に関する考察も優れている。ただ、英語の文法はややあいまいな箇所があった」。ただ、図版に関しては、poor と badが並んで、酷評されてしまった。コンドルの評価では、記述は良いが、デザインが良くなかった、というところだろうか。

卒業後、辰野が教授、曾禰は助教授として工部大学校の教職に就いた。そのとき造家科の学生は2名しかいない不人気ぶりだった。曾禰は「建築学は当時頗る不人気なものであって、往々富国強兵、もしくは利用厚生に縁遠き、否、妨害ある学科と嫌われ、財を散するのみの贅沢な学術と言われた」などと、辛いことを述べている。でも、現代は、技術史の中で最も一般に関心が持たれているのは、建築史だよなぁ、と思ったり。伝記も多いですし。アートとしての側面があって、目に見て理解しやすいからというのはあるだろう。

その後、海軍兵学校の技師に。旧海軍兵学校生徒館などを手がける。退官してから明治23年より三菱社員。辰野、片山、妻木(五期生、中途退学)らが次々と国家事業的建築を手がけたのに対し、曾禰の活躍の場は常に民間の事業だった。当時重宝されていた華美、威厳、威圧といったものを嫌い、気品と堅実、実用性を求めた。、慶応大図書館、日本郵船ビル、東京海上ビルなどが代表作。

性格は、謙虚で内省的。「庇護される人」などといわれている。人望はあったがリーダーとなることはあえて避けるような性格だったそうな。建築家らしく、工部大学校の校舎や宿舎についても詳細に語り残している。


● 片山東熊 (かたやまとうくま)
造家科、一期生。1854年生。

長州藩士の家系。片山文左の四男。12歳から奇兵隊に入隊。戊辰戦争に参戦し、実の兄(後陸軍中佐)と共に長州征伐や奥羽戦争に参加している。戦後、造兵寮官吏に登用されるが、職務の小ささに嫌気が差し、大器晩成を志して辞職。英国人に英語を学び、明治5年8月に勧工寮の修技生になる。翌年10月に工学寮に入学。

卒業後、明治12年工部省営繕局に勤務。14年に有栖川宮建築掛。宮廷関係の建築造営がメインのお仕事となり、王室ご用達建築家に。1882年にに有栖川親王と一緒に欧州へ視察。外務省御用係などをへて、1886年より宮内省に勤務。他に、1890年日本赤十字病院を設計。これは明治村に移築されている。1909年に東宮御所(後、赤坂離宮、現迎賓館)を建設するが、落成報告をした際、明治天皇に「贅沢すぎ」といわれてしまい、壮麗な建物につ主人となるはずだった皇太子殿下はそこに住まわれなかった。それがショックで寝込んでしまったとか。94年奈良博物館、95年京都博物館などを設計。1916年に明治天皇葬祭場の建設。
兄の湯浅則和が、1871年の山城屋事件(山県有朋ら長州系陸軍官僚が公金を山城屋に貸し付けた汚職事件)で山県を庇って辞職。このために片山は山県の引き立てをうけたとか。(Wikiより)
勲一等旭日大綬章を授与されている。

造家学科第1期生にはもう2人、佐立七次郎と宮伝次郎がいましたが、宮伝は卒業の前年に死去しています。


● 杉山輯吉 (すぎやましゅうきち)
土木科、一期生。

1855年生。静岡出身。菊間藩から沼津海軍兵学校の貢進生を経て、工学寮へ。
「土木人物事典」では、大鳥と同じく「工業人」という肩書きを与えられていた。

工学会誌の運営に参画、編集委員を勤め、自らも数多くの寄稿を行なった。元々、工学会は、第一期生卒業生によって、学究と交流のために結成されたものだった。しかし、主力の幹事高峰と、主記の石橋がグラスゴーに留学してしまったので、補欠選挙によって彼が幹事に選ばれた。「異常の努力」によって工学会誌を発行し「杉山氏の活躍は実に目覚しき」と、工学会の会計だった曾禰が褒めている。実際、会誌の投稿は杉山が最も多く、杉山の名前で埋め尽くされている年もある。「鉄道之害付鉄道建築規則」、「釜石鉄道ノ記」、「鉄道建築費ヲ諭ス」、「日本鉄道延線論」「水車用水路ノ計画」「碓氷馬車鉄道」 など、鉄道関係が多い。合計200以上の論文を発表して、記事数は同時代トップ。なお、これら「工学会誌」は、恐ろしいことに、創刊から全てPDFで読める。(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/index.html)

工部大卒業後は、工部省鉱山局勤務、82年〜85年は長野県に勤務し道路開削委員に。その後、藤田組や日本土木会社など民間会社に勤め、大阪駅や呉軍港の改築に携わった。92年には外遊し、極東ロシア、朝鮮・中国を視察している。96年には台湾総督府で民生局技師に。元祖グローバル土木技師。


● 石橋絢彦(いしばしあやひこ)
土木科、一期生。1852年12月27年生。あやや(あろあさん命名)。
輝く名前の君は灯台。君の灯りが時代を導く。

父は中井国出身。代々久留米藩主に伝えた家系。江戸に生まれる。中井藩医杉本忠達に読書を、柔術を学ぶ。慶応2年4月11日、福田八郎右衛門の撤兵隊の江戸脱走に加わり、老幼隊に入る。撤兵隊が木更津に敗れた際、危機に陥って、官軍の点検を逃れて江戸に戻る。それから横浜の兄敬之助を訪れて、その指導に従い、東漸寺で英学を学ぶ。沼津兵学校生徒となる。(片山と仲が悪かったら面白い)。
「旧工部大学校史料」で誰よりも長く味のある語りを残している。言いたい放題で、山尾と井上勝不仲説を暴露してしまった。山尾スキーなのは言いとして、井上勝に何か恨みでもあったのか。井上勝は工部大学校生を重く用いなかったと言っているが、南清のように、勝に気に入られた例もある。

製図の消しゴムに用いたパンを貰っては飢えを凌いでいたという大食漢。

留学中はイギリスの灯台局で工事に従事。技師長のジェイムズ・ニコラス・ダグラスから灯台建設技術を学び、アメリカ、フランスの灯台や機器製作工場を視察して、明治16年に帰国。直ちに工部省灯台局に勤務し、灯台建設に携わった。北海道灯台の増設、91年には航路標識管理所所長兼技師長。神奈川県に一時期転任して、横浜港の北水堤工事監督も担当した。日清戦争では海軍省へ軍事用灯台建設を進言。大本営付となって、対馬や五島など、日本の防衛線の灯台建設を行なう。また、台湾総督府か要請されて、台湾灯台建設部技師となり、灯台建設のための調査を行なった。1904年には日露戦争のために陸軍から依頼され、韓国で浮標、灯台設置に当たる。いろんな部署からの時代の要請に答えて、灯火のために飛び回った。

工手学校(のち工学院大学)の4代目学長。逓信省航路標識管理所所長。榎本武揚の育英黌に講師として参加。
工学会にも多くの論文を寄せる。「英仏運河ノ計画」「巴理府給水法計画」「モルタル試験」「パナマ運河ノ勁敵」「軟土ヲ凍固シテ之ヲ堀削スル法」灯台の人かと思ったら、運河とか給水とか建設素材とかけっこう幅広く手がけている。横浜に架けた吉田橋は、日本初の鉄筋コンクリート橋建設としても有名。工学の中でも分野に拘らず、いろんな範疇に手を出している。メインは灯台と港湾で、特に灯台学の権威。

明治24年の「ポルトランドセメント試験法」のほか、明治30年〜33年にかけて、「鉄橋図譜」「 堀割盛土土坪表」「応力論」「隧道編 」「水理学」「治河法」「築港要論」 「石灰及膠泥ノ説」 「セメント篇 」等、多くの著作を記した。また、明治37年「工業要具編」、明治44年には「工業字解.建築部」を編集している。著作の数では工部大卒業生ぴか一。

意気勇猛。「身幹短小力微にしてその技に克つ能わず」これを恥じ竹中清兵衛に柔術を学ぶ。侮りに怒って刀を抜き格闘したことも多数。「回天艦長 甲賀源吾伝」を残すなど、箱館戦争についての語り部でもある。同方会誌では新選組の池田屋事件についても触れていた。歴史家になりたかった曾禰より、彼が歴史語り部になってしまった。ていうか戦争マニア? 彼が戊辰戦の語り部になったのは、自らが関わりきれなかった悔恨が大きいのだろうなぁ、と。土木より、幕末史で彼の名を知っている人のほうが多いかもしれない。

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と、とりあえずこんなところで。
朝になっちまった。(昼休みに修正していたら、1ポストに収まりきらなくなった)
一期生、貴方たち、活躍しすぎ…(悲鳴)
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2006年04月26日

工部大学校校長先生のお部屋

すでにもう第一期生で息切れしています。これから第二期生、三期生…と続けて、さらにお雇い教師たちやスタッフたちにも手を出すとすると、とんでもないことになることに、いまさらながら気づきました。昨日触れた一期生だけでも、見れば見るほど書き足したい事が増えていく。

そして、まだアレで、一期生全部は終わっていません。まだ、機械科に今田清之進と宮崎航次、造家科の佐立七次郎、鉱山科に近藤貴蔵(留学からの帰路香港で客死)と麻生政包、化学科に森省吉、中村定吉、深堀芳樹、岸眞次郎、鳥居烋夫、冶金科に小花冬吉と栗本廉、といらっしゃいます。また、夫々がそれぞれ活躍しているもんだから。悲鳴。

で、造家科一期生曾禰君。彼がまた正直に、細かに語り残しています。(「旧工部大学校史料附録」)
入学試験の様子。英語書き取り試験で監督がエアトン先生だったとか。このとき、試験員の休憩所に独り椅子に日本人が座っていた。通訳ぐらいの小官吏と思って、彼の傍に行って何かを尋ねたところ、かなり横柄な態度で答えられた。彼は、工部省の工学助、林董だった、とか。その時の感想が「成程と首肯れた」って一体。

さて、曾禰君は建設専攻だけあって、工部大学校ゴシック式レンガ造り二階建ての建築を事細かに語っています。宿舎は四人部屋でベッドは6つあって、各部屋はベランダで繋がっていて、並んで勉強できる机があって、食堂があって炊事場があって喫煙室があって湯呑所があって、浴槽は蒸気を噴出して暖めるもので、一度に25〜6人は入れる大きなものだった、…等など、細かい設定ができて嬉しい。

それで、工部大学校は、衣食住、官費で全てまかなわれている。授業料もタダ。ノートや筆記用具、製図道具まで申請するだけ手配してもらえるという至れり尽くせり。

いままで破れた袴、粗末な羽織で、汚い下宿にいたり他人の家に厄介になっていたりしていた者が大多数だった。なのに、いきなり一朝、官費生になり、上等の羅紗の制服を支給してもらい、昼はビフテキやシチューが出てくる洋食で、夜は当時高価だった毛布を二枚もかけ、トイレの便器まで英国からの輸入品で、館内もバイブラジエータを導入した蒸気暖房方法で部屋を暖めていて、きわめてハイカラだったとかいう贅沢具合。

しかも、夏期2ヶ月の休暇の時には、下宿料を与えて郊外で自由に生活させて、工場や鉱山、鉄道などにも官費で出張させた。「恰も、手を執り体を押して、愛児を歩ますに似たる態度」であったとのこと。
(途上国で本気で人材育成をやろうと思うと、ここまでしないと人が集まらない、というのは古今東西同じなのだな。今も、防衛大学校が似たようなものか…)
いかに、工部省が教育熱心で、わが国の将来の工業の発達の為に、多大な期待を寄せていたかを知るべし、とのこと。それに対して曾禰は「私は思ひ之に至るごとに、国家に対し身の不甲斐なきを慙愧する」と真面目に述べています。あれだけの活躍をしておいて、謙虚だ。

そんな感じで学生たちの恵まれた待遇を思う存分述べたあと、曾禰。工部大学校が所属した工作局に関して。

「工作局は現在の東京倶楽部の西南部の空き地に当たり、木造平屋建の粗末なものであったと思ふ。大鳥圭介氏は此の小建物内に工作局長として大学を綜理されたのである」

……。校長先生。えらい待遇違いますな。
さすがの私も、校長は、煉瓦造りのハイカラ工部大学校の、奥の豪奢な一室に陣取っていたと思っていましたよ。
それが、木造の平屋の、小さな粗末な建物で。そこから深川やら赤羽やら兵庫やら長崎やらの分局を束ねながら、校長職をこなしていた…。そんな暴露をありがとう、曾禰。

限られた工部省予算。子供たちには贅沢をさせながら、自分は粗末な小さな建物でセコセコお仕事。予算不足と官営工場赤字に頭を抱える校長先生。「大鳥は自身で仕事する人にて局長には不向き」とか、長州人には揶揄されながら。

あまりに大鳥らしくて、涙ながらに肩を震わせました。
そいや倹素会も、このちょっと後の話でしたっけ…。
posted by 入潮 at 04:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月27日

プロジェクトの終わり

昨日は徹夜で印刷。本日、最終報告書を出しまして。ブータンのプロジェクトが終わりました。まだ残務や必要書類の提出がちょこちょこありますが。
これでようやく、過労死と隣り合わせの灰色の日々から開放されます。

カウンターパート(プロジェクトの相手の国の主体者)に、報告書PDFを送った旨と、終了の報告のメイルを書きていたら、じんわり込み上げてきて、画面が見えなくなってしまった。年を取ると、涙腺が緩くなるもんだ…。
奴隷のようにいい様にこき使ってくれ、日本に居ても1日に10-30通ぐらいの英文メイルで喧嘩を続けてきた連中ですが。彼らともこれで終わりかと思うと、寂しいです。
なんか、色々と教えてもらいました。技術者らしい仕事はあまりしませんでしたが。経済や組織や、何より、大きな事業を進める、物事を現実化させるのに何が必要か、ということを学ばせてもらいました。国作り最前線にある人間の真剣さに、何度、適当で、無知で、力不足な自分が恥ずかしくなって、消えたい、辞めたい、逃げたいと思ったか知れません。「辞表」という名のファイルをデスクトップにおいて、それを精神安定にしながらデータ処理したこともありました。自分の作るものが人の生活に響くという周りの人たちの真剣さに、力を一杯もらって、学ばされました。圭介みたいな人もいました。どっちが援助されたのか分かりません。

といいつつ、所詮は援助機関の下請け下働きで、報告書を作っただけなので、我々の名前など数年もして担当者が入れ替わったら、あっさりと忘れ去られてしまうものです。けれども、誰それの仕事という名札が残ってなくても、これをもとに事業が進んで、あの断崖絶壁の暗闇の奥地に、電気の光が点くことに繋がると思ったら、なんというか、しみじみ満足してしまう。

技術者の仕事は空気のようなもので、意思決定した人、政治的に推進した人ばかりが名前になっていくものなのですが。技術者という人種は、別にそんな事はどうでもいい。ただ、自分のやったことが、結果として何かの役に立てたら、それで良い。それに尽きるのだと思います。


そんな感じで、燃え尽き症候群になりそうなワタクシ。
でも、工部大学校という次の萌えが待っています。
次の案件の提案書が、3つぐらい列を為している気がしないでもないのですが、とりあえず見ざる聞かざる日光猿。

GWも前半は出社だけどな。バイクも直したし。
バイクですが、1年ぐらいほったらかしにしていたら、キャブレターが詰まって、どころか、腐っていました。ガソリンがエクソシストの嘔吐物みたいな色になっていた。油を抜いた瞬間に駐輪所に毒霧の如く悪臭が立ち込めて、倒れこみそうになった。…ごめんよ、Raid (バイクの名前)。
日光、会津、伊豆に沼津、走りたいところがわんさかだ。久しぶりに人間らしく、後半は遊びまわってやるぞぅー。
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2006年04月28日

工部大学校オムニバスその2 川口武一郎、小花冬吉、栗本廉、中村貞吉、森省吾

一期生、次行きます。

● 川口 武一郎(民一郎?)
電信科、一期生

電信科2名の一人。慶応義塾出身。
志田の親友。音響学を研究し、今入町にあった時計屋の元士族の老夫婦と仲良くなり、彼らの奏する六段の琴を聴いて、六段の音符を作ったこともある。

志田と共にエアトンの助手を勤めた。
日本アジア協会で発表されたエアトンとペリーの共同研究「諸気体の電気伝導度の研究 "The Specific Inductive Capacity of Gasses"」(Trans. of Asia Soc. Japan, vol.5, Part1, 1877) には、研究協力者として、川口への謝辞が記されている。 このとき川口は4年生。

四俊才として、田辺朔朗は、志田、高山、南と共に、川口を屈指している。英語得意で、英語の哲学書を愛読していた。

在学中に病に殪れ、卒業2年前に病死し、惜しまれた。五年生のときに、志田、2期生の岩田、中山、三期生の中野、藤岡が青函ケーブル海底線修理工事に赴いたが、このとき既に病を得て、川口は参加していない。
印象的な人物だったらしく、いろんな人の回顧談に出てくる。

高峰とも仲が良かった。時計屋で落ち合って、日曜日などは一酌して、陶然として寮に帰ってきたこともある。

この方も、長生きしていれば、いかなる功績を残してくださったかと、悔やまれる。


● 小花冬吉 (おばなふゆきち)
冶金科、1期生、1856-1934、

旧幕臣家の出。父は小花作助。
製鉄と教育者として功績あり。この人も業績を追うだけで何日あっても足りない。

もと、三好と一緒に工部省勧工寮の修技性だったが、明治2年に脚気で2ヶ月ほど療養。ある日、三好の家を訪れると、そこに入学試験問題があった。昨日実施された工学寮の入試問題であり、その日は終わりの日の2日目だった。しかも修技生制度は廃止されると聞いて吃驚。午後に大和屋敷の入学試験会場に走って、ダイアー先生に受験を懇願した。ダイアー先生は、昨日二問と本日の試験は既に終わったが受けてみるか?と聞く。努力してすべてを答案します、と小花は答える。既に問題を見たかと聞かれて、見たということを正直に述べた上で「余は道に落ちたるを拾わざる者なり」と断然と答えた。試験の結果、見事合格。まじめんぼさん。

地震学の祖といわれた、ミルンに着いて、冶金学を学ぶ。
グラスゴー留学組、採鉱・冶金を習得。16年5月帰国、工部省鉱山局鉱山課に出仕。後、広島県の官営鉱山(現在の三次市布野町)の四等技師に。48箇所のたたらの技術改良に取り組む。翌年、後輩の黒田正暉が加わる。日本の製鉄といえば、砂鉄を材料とした「たたら」。たたらは、空気を送る踏みふいごが語源で、鉄を精錬する炉のことをいう。小花らは、日本古来の方法に様式技術を取り入れ、シンタースメルティング法によるたたら鉄滓からの鉄のリサイクル方法や、水力装置の開発を行なった。
明治20年5月フランスに留学し、製錬技術を学ぶ。その後、秋田鉱山監督局創立に当たって推されて局長。札幌鉱山監督局長を兼任。29年、製鉄所技師として欧州並に米国に差遣される。32年2月に工学博士の学位を授与。

官営製鉄所設立に名を残す。八幡製鉄所の名は彼と共に語られる。
明治17年、大山元帥、樺山、松方、黒田、牧野の元老及陸海軍の諸将に働きかけ、製鉄所の開設を叫んだ。自分の足で山河を跋渉して、全国の鉄山調査を行なった。明治25年6月、製鉄所建設論を公にし、欧米各国の鉄鋼、鋼鉄の算出額、鉄道用軌道の長さから軍艦、商船使用の鋼鉄のトン数まで精査した。そして、日本の鋼鉄輸入額と対照した上で、日本が75隻の軍艦を備える必要がある、軍事防衛上や原材料入手の利便性を考え、九州門司近傍に一大製鉄所を建設すべしと力説した。巨大プロジェクトのフィージビリティ・スタディが認められて、かの八幡製鉄所建設に繋がった。28年帝国議会に建議し、認められた。

晴れて、官営八幡製鉄所の初代製鉄部長に。明治40年2月5日、小花は、八幡製鉄所の炉に初めて火を炉内に入れた。一寒村が東洋第一の製鉄所と化したのを見て「忘れじの 古里しのぶ 老の身は 誰に語らんありし昔を」と詠んだ。八幡製鉄所は、日露戦争への資材供給や技術革新、重工業の発展に伴う需要増加において、なくてはならないインフラとなった。

明治43年に東京帝国大学教授。
また、明治41年、藤田、岩崎、古河などの鉱山会社が、その養成教育を実施する専門学校設立を建言。これに答えて、秋田鉱山専門学校が設立され、小花が43年校長に就く。採鉱学科と冶金学科より成る。現在の秋田大学工学部。小花は、松下村塾等私塾教育の美点を研究して、学生の善導は師弟の融合であるとした。寄宿舎を建設して全ての学生を入舎させ、献立から食料品の購入、会計等一切を学生に任せた。小花もまた、毎週土曜日から日曜にかけて、必ず宿直学生と起居を共にした。校長と学生とは親子の如く教師と学生とは兄弟の如く親しかった、慈父のごとしであった、とのこと。

4年の勤務を経て、退官後は小石川の閑居に閑雲野鶴を友とし悠々自適の生活を送る。大正3年に病没。秋田大学に小花の胸像がある。人のよさそうなつぶらな瞳。

責任観の強い人で何事をするにも予め周到な調査研究をし、後に禍根を残す事はなかったとのこと。学校の校章を作る時にも、世間並のものでは承知出来ぬと、その意匠に苦心して工夫を凝らした、細かい人。
時事新報社曰く、「日本鉱業界の大先輩にして鉱業界の父と云わるる大功労者。我が鉱業界の父」と絶賛。
でもやっぱり「隠れたる功労者」と、一般には伝わっていない。



● 栗本廉
冶金科。一期生。

英国留学組の一人。地質学を学ぶ。
明治16年工部省准奏任御用掛。農商務四等技師。19年に休職した後、官営の生野鉱山に勤務。足尾銅山の鉱夫引き抜きの論争に参加した。
工手学校の提唱者の一人。


● 中村貞吉 
化学科、一期生。1858年生。

三河豊橋藩の出。石油化学を研究。12年の11名英国組には含まれなかった。
13年度、杉山輯吉と共に工学会の技師を務める。

18年、工部大学校助教授と工部省御用掛を兼勤。その後、イギリスに留学。19年帰朝。農商務省四等技師。20年、依頼退官。工手学校設立時の創立委員となる。当初大鳥が校長に推薦されたが、中村が初代校長となった。工手学校の演説でも「工業は恰も戦争の如し」と述べている。
23年、従七位。24年、病のため退官。明治28年死去。
福澤諭吉の長女、里と結婚した。
髪の毛がふさふさで、もみあげが濃い。ラテン系の顔立ち…


● 森省吾
化学科、一期生。工部大には珍しく土佐出身。

化学科は合計6名居り、第一期生では最も多い科だが、ジョーの存在がきらびやか過ぎて、他の人たちが今ひとつ目立たない。けれども彼も、なかなかのもの。
「プロジェクト気球」チームの一人。水素製造を担当した。
議論家。西楼上のストライキの際には首魁者として、第一に取調べを受け、南、岩田(電信科二期生)と共に謹慎処分を受けた。

卒業後、陸軍に入り、火薬や化学に関する研究を行った。発明が上官の名義となる体質に不満を持ち、陸軍から離職。化学工業に関する学会の必要性を唱え各方面に働きかけた。明治31年、工業化学会の設立の際は榎本武揚が初代会長に、森省吾が副会長に就いた。


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そんな感じで、一期生。
経歴を調べるのに、国立公文書館のデジタルアーカイブがめちゃくちゃ使えました…。
よくここまで、人事データを揃えておいてくれたものだ。感謝。

さて、高峰ジョーって、目立つかと思いきや、意外に他の人の手記に出てこない。ストライキやイベント等の騒ぎにも参加していない模様。なんか、孤高の天才で、勉強すればデキるのに、ムラがあって、やる気にならないとイマイチやりきれてない、という感じがします。その辺り、委員長気質の志田が、ジョーのやる気を出させるために構っていれくれればいいと思う。

一期生に特に、大物が揃っているような気がします。英国留学が大きいというのもあるかもしれません。そして、英国における教育そのものより、国の金を使って行っているわけだから、国に還元せねばならない、という責任感が、彼らを育てたのではないか、という気がします。
勿論、たぶろーくんのような綺羅星も後からやってきて負けず劣らずの活躍をするのですけれども。一期生はちょっと別格、という感じがあります。

さて、同じ1期生でも、年齢はばらつきがアル。一学年、皆同じ年というわけではなくて、工学寮明治6年時点で一期生は16歳から21歳まで、結構幅がある。石橋が最年長というのは意外だ。二期生以下とは年齢が逆転している人たちも多いし。
学年と実年齢の年功序列って、どうだったんだろう。4〜6年生は現場実習などで、6年生は、工部省の技師たちを差し置いて主任になったりしているから、実年齢よりは学年のほうが序列としては大きく働いている気がする。
誰もが未踏分野を行くわけだから、先覚者としての動機付けというか、責任が育つということなのでしょうか。

ところで、学生はみんな、体育や実習でやらかしたネタを元に、あだ名がつけられていたとのこと。あだ名がついてない人は、それだけ品行が無難だったということだそうな。どこかにあだ名リストってないですか。石橋にはそのあだ名がなかったそうですが、それはウソだろう、と思った。


    [2] 入潮 2006/04/29(Sat)-20:31 (No.48)
    すみません。あだ名が付けられてなかったのは、石橋じゃなくて、辰野でした。納得した。コワくて誰もあだ名を付けられない。いや。「オヤジ」があったか…。

    (何故か石橋と辰野、キャラが全然違うのに、混同しがちになる…。今までもコッソリ訂正してました)

    ちなみに情報源はたぶろー君です。

posted by 入潮 at 03:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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