2006年05月01日

GW前半

幼稚園の時、「ミルキーはママの味」と聞いて、怖くて泣きそうになったことがある入潮です。
無駄に想像力というか妄想気があって、怖がり。「クトゥルフの呼び声」で真っ先に発狂するタイプです。(分からんネタを…)

金曜日、客先と呑んで、そのまま会社に戻って、次の日に国会図書館に行こうとしたら。地下鉄永田町の出口で立てカン「本日国会図書館は休館です」。…世間様は、GWに突入していたんですね。畜生。想像力豊かなアタクシにも予想できませんでした。

悔しかったので、バイクで、30kmぐらい夜の街を慣らしてきました。後半のツーリングに向けて。バイクをならすより体を慣らすほうが先。足つきが悪いので信号で止まるたびにコケそうになる。
結局、キャブレター取替えになったので、かなりな出費になりました。まぁ、食費と資料のコピー代ぐらいしか支出のない毎日で、他に使う当てもないから、たまには良しとしよう。うちの世帯のエンゲル係数は無茶苦茶高くて、貧困世帯です。電気使用量も、ブータン一世帯以下だったことを知ったときは哀しくなった。
ここ5年間、スーツとシャツ以外の服は買っていないし、化粧・アクセサリについても、全く使用していない。それで社会人として一応やらせていただいているのだから、うちの会社も寛容です。

そんな感じで、人生、何か大事なものを捨てているワタクシでも、萌えは重要です。

今Amazonを見たら、ユースド商品に、「地の王(グラウンドキング)、空の勇(エアヒーロー) 」がありました。かの大山格氏(大山巌元帥の御曾孫)による、宇都宮攻防戦小説が収録されています。大鳥びいきには嬉しいのですが、土方好きの普通の方にはお勧めできない、という、稀有な短編小説です。
最初は、こ、こんな姿に描いてしまっていいんですか、と恐怖に慄いてしまったものですが、今読み直すと、このぐらいが妥当ぐらいだよなぁ、と至極納得してしまいました。その辺自分も、大分図太くなったと思います。いやその、大山氏の先見の明というか、既存の認識に捉われずに自らが読み解いたものから描き出す姿勢には、敬服の至りです。
大野津・小野津とか、沸点の低い米田桂二とか、飄々とした大川とか、哲学的でオタクの血を引く大山巌とか、大鳥抜きにしても、戊辰ファンにとってはかなり見所があります。未読の方は是非。

そんな感じで、たまには軽くつらつらと。
工部大学校のほうは、完全に泥沼状態に陥っています。現在、エアトン先生の衝撃の事実に、慄いています。オムニバス、先生編でじっくりいきたいと思います。
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2006年05月02日

高峰譲吉小説「堂々たる夢」

「堂々たる夢」

二年半に渡って雑誌に連載された、高峰の伝記小説。
高峰賛歌。表紙が金箔文字の和紙、という豪華さに、著者の高峰に対する崇拝の念がまず伺えて、びびります。

著者が、元週刊誌のデスクの方、ということで、大変分かりやすく、ドラマチックな構成をされています。
高峰もそうですが、周りの人物のキャラクタリゼーションの仕方が、独特で面白い。
日記などの史料引用もあって助かるのですが、これは違うかな、というとこが散見されたり、出典がわからなくて創作と区別がつかないところがあったりで、あくまで小説ということで楽しむのがよいかとは思います。以下ご紹介の内容も、小説の中の話ということで、お受け取り下さればと思います。…小説にしておくのは勿体無い場面ばかりなので、出典がわかればそれに越したことはないのですが。

まず、著者がどういう思いを込めて高峰を綴ったのか、というのが、冒頭に出てくるのですが。
そこで、出会い頭にいきなり気球が出てきて、不意打ちを喰らいました。

熊本城の戦況を打開するための気球について、政府に提案したのは大鳥。それで「大鳥君、いまは戦の最中ぞ」と一喝されてしまう大鳥。全員の反対に遭うなかで、ただ一人、「ガンベッタの武勇伝に習おうというのかね。奇抜だがやってみよう」と、賛成した山県有朋。

……何か狙っているんでしょうか。この場面。余りにピンポイントなニッチを捉えすぎている。

それが冒頭だったものですから、本編も、大鳥校長。でばっています。ここまで校長校長している大鳥は、滅多に見れるものではありません。

いや、「旧工部大学校史料附録」とか、「丁友会パンフレット」とかの工部大系の史料には、平時、大鳥はあまり出てこないもので。大鳥って、物事がうまく行っている時は、けっこう昼行灯めいているんじゃないかなー、というのが最近の印象です。活躍していないんじゃなくて、普通に、物事が流れるように、事務作業を淡々としている。いなくなって始めて周りが気付いて困る、という感じ。それで、問題ある時だけ、妙に目立ってくる。結果、卒業式学位寄越せ事件(←後日記述します、すみません)などで、問題処理係という形でしか印象付けられない、と。

それで、高峰って、唯我独尊の天才のイメージがあるのですが、この小説では…この小説でもちょっとそんなところがありますけど。
その高峰の、大鳥に対する位置づけ。

「譲吉にとって、頭が上がらない人間がいるとすれば、父親を除けば、かつて工部大学校の校長であった大鳥がその一人だった」

…譲吉の大変善き理解者として出てきます。これを筆頭として、それでいいのですか?という表現が目白押しです。

まず、紹介からして、「戊辰の戦いには1600名の幕府軍を率いて…最後まで政府軍と戦った猛将」です。…い、いや、その通りですよ。もう驚きませんよ、アタクシ。

気球エピソードは勿論事細か。
それに加えて、工業新報発行まで紹介。高峰に折り入ってやってもらいたいことがあると、気球実験後に高峰を呼ぶ大鳥。知識を一握りの人間が持っていたのでは発展は覚束ない。その知識を広く世間に普及し啓蒙してこそ、日本に化学工業が根付く、そのための雑誌を作りたいと熱弁する大鳥。腹の底から噴出すような情熱の大鳥。それに突き動かされたように、いつの間にか「実にすばらしい。ぜひやりましょう」と答えている譲吉。

この後、譲吉は荒井さんを訪れる。この荒井さんがまたスゴイ。譲吉に大鳥の雑誌作りをどう思うか聞いたあとで、「それでは大鳥君の真意を十分に理解しているとはいえんぞ」とのたまい、五稜郭で降った意図について述べてしまう。
荒井さんの経歴紹介で「男谷精一郎をして、あやつの剣には魔が宿っている、といわしめたほど」というのがあるのですが。これも出典があるのでしょうか…。その通りだとしたら、あまりにデキすぎていて怖い。

けれども荒井さん。「滅多に人を褒めない大鳥が」とか「大鳥は面白い人で、自分じゃ化学工業の知識はまるでないのに」「政治家になれば一流の政治家になれたのにあえて化学工業の振興に投じた」とか言ってしまう。…これは、作者の方の調査不足です。けしからん(笑)

でも、この著者の方、大鳥の技術官僚としての実績を抜きにして、ここまで大鳥を持ち上げてくださるのも、何が作用したのか、不思議です。

この後、大鳥の住んでいる場所である桜川町の住所から、「桜水社」と発行団体名の名前をつけてしまう高峰。それに感激する志田と高山直質。(高峰、志田、高山は工業新報著者三人組)

高峰の出身である加賀の人間が、大久保を殺害し、しかも加賀の巡査が「ざまみろ」と書き送った手紙が発覚した。そのあおりで、卒業生の英国留学における高峰の選定に響きかけたが、これを、山尾と大鳥がカバーした、とか。

次々に同僚が倒れていく過酷な3年間の留学から帰ってきた譲吉に対して、学習院長の大鳥。
「三年間ご苦労様でした」といい、めっきり白いものが増えた大鳥が、譲吉の肩を抱くような優しさで言う。その声と表情に、三年間抱き続けてきた肩肘を張ったものが、ゆっくりと解けていくのを感じた譲吉。

留学後の就職先は引く手数多。なすべきことに迷う譲吉に「安易に妥協せず、国の為に役立てて欲しい」と、譲吉の気持ちを察したように励ます大鳥、とか。

さらに、化学では大先輩な宇都宮三郎が出てくる。高峰にソーダ工場勤務を勧める。イメージは違います。宇都宮はそんなこと言わないだろう、と思うのだけれども。とらえどころはかなりマニアな領域。

自分のしたい仕事とは違うと宇都宮の誘いを突っぱねる譲吉。宇都宮と議論でやりあいながら、なにがしたいのか掴む。それに対して愉快そうな大鳥。「独創的な研究開発こそこれからの日本には必要だ」と譲吉の動機を押し上げる。これを聞いてつま先が震えるような感激を覚える譲吉。「(宇都宮も山尾も)みんな君の事を心配しているんだよ」と、口には出さないがその思いを伝える柔らかな響きの声の大鳥。


……ここまで、正気を保って打ち込んだ自分を褒めてあげたいです。
こんなに、大鳥が、しかも大鳥校長が、良い扱いをされている現代小説の文章が(明治同時代ならともかく)、かつてあったでしょうか。けしからん。先を越された。(←…)

大鳥だけではなく、山尾さんも、相当いい位置づけです。
山尾と伊藤の関係が、あまりにらしくて、噴出せます。大隈さんが、工部大学校の予算を削ろうとした時の、伊藤から山尾への相談。「伊藤が改まって『山尾君』という時は、ろくなことがなかった」とか、「あの俊輔がえらそうに髭などたくわえおって」と内心思う山尾。「伊藤さんと大隈さんが直接話し合うというのは却って話をこじらせる」とか口に出して言ってしまう山尾。そして大隈説得という面倒ごとを自分で引き受けてしまう山尾。
井上の鹿鳴館提唱については、外見より中身、と眼に哀しい色を浮かべる山尾。

こんなにいい人ぶりが連発されている山尾も、なかなかお目にかかれない。いや、山尾はいい人です。一体あの長州でどうやって育ったのかと思うぐらいに、いい人です。

そんな山尾と大鳥。二人そろって、譲吉の「かけがえのない良き上司」と言われていました。

さらに、滅多に見られないところとしては、吉田清成が出てくる。農商務省次官としてです。
農商務省で人造肥料の導入を持ちかける高峰。そんなものを保守的な農家が受け入れるわけがない、という先輩官僚。意識を改めるのは君のほうだ、頑迷なのは君だ、と俺様全開な高峰。これに気軽に割って入ってくる吉田。自分の責任においてやってよし、と、鶴の一声で人造肥料の導入を決めてしまう吉田。恰幅のいい豪胆上司、という感じです。

この後、渋沢栄一とか谷干城とか益田孝とか塩原又策とか、様々な人物との付き合いを通じて、高峰が描き出されていくわけですが。
彼等もまた、自分の責務に尽くし、日本の行く末を真剣に考える姿がそれぞれ描かれている。

そこで思ったのですが、悪人が一切出てこない。だれも貶められていない。立場的に難しかったりするけれども、それもその人ならではの考え方があるゆえ、ということがちゃんと分かる書き方。

この著者の方、高峰好きであると同時に、心底の明治好きなのではないかと思いました。
そして、こういった明治のスゴイ人たちを心酔させる姿を通じて、高峰の凄さを描き出しているのに成功している感じです。
いい意味での国粋主義者というか、日本好き、という感じ。それで、善き日本人としての顕著な例として、高峰を取り上げておられる気がします。

書き方や表現力に特徴があるわけではなく、さらりと読めてしまえるのですが。誰をもち下げなくても、英雄というのは描けるものだし、そちらのほうが心に残るものがあるのだと思いました。
こういう伝記小説って、安心して読めるから、いいですなー。

さて、面白かったエピソード。
譲吉が工部大入学前、長崎でフルベッキに英語を学んでいた際、下宿していたイギリス商人の家に、ものの名前を英語で書いた紙を貼り付けて、英語を覚えようとしていた。それを見たメイドが「日本のボーイが部屋の中の家具などにべたべたと紙を張っている。あれはきっと日本の呪いだ」と怖がった。

…これ、出典ご存じな方、教えてやってください。

高峰なら、呪いだって普通に科学的にやりそうだ。(…すばらしい日本人を見せてもらった後に、その偏見か)

    [2] あろあ 2006/05/05(Fri)-01:52 (No.52)
    さっそく買って読みました!
    普通に面白かったです!
    活字嫌いで資料嫌いの私のようなおバカさんのためにも、こういう読みやすくて面白い、そして入潮さんのおっしゃるように「主人公を持ち上げるために他者を貶める」ようなことのない、良質な伝記風小説がいっぱい出て欲しいと思います。
    (ので、何年でもお待ちしています如楓伝・笑)

    ところでこの本、大鳥さんが名づけたという松楓殿のことにも触れていてくれたら、わたしたち的に完璧だったのに、残念でしたね(笑)。
    松楓殿だからって、松と楓以外全部伐採しちゃったって…譲吉、カワイイ奴!

      [3] 入潮 2006/05/07(Sun)-19:45 (No.55)
      あろあさんが活字嫌いだなんて。そんな天然心理に背いたことは私は認めません。
      こうして即座に入手して読みきってしまわれる方ではありませんか。謙遜しすぎは罪。

      一般の眼を意識した、分かりやすい文章で、自分も、書き方そのものが参考になるなぁと思いながら読んでいました。

      如楓伝。もう名前がついているのですか。楓の如し。それに大鳥の生き方や信念が凝縮されているので、なんだかもうもうそれしかない、という気がしてきました。…だから余り乗せないでくださいってば。

      松楓殿。そこを突いてくるところが、ツボです。あれ、周辺何ヘクタールあったんでしょう。元々針葉樹で松しかなかった、ってことは、ないですよな。
      なんだか譲吉、本気で大鳥氏を尊敬していたのでは…、という気になってきました。大鳥って、遠くの普通の人にはどうでもいいというか見過ごされる存在だけれども、高峰とか浅田とか山崎氏とかみたいに、ちょっと変わった人には、妙に盲目的になられるところがあるんじゃないかと、思えてきました。大鳥もそういう変わった深い人が好きなようなので、良いんじゃないかと思います。
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2006年05月06日

南アルプス・静岡・沼津

ほとんど野人と化しながら、走りまくっていました。
でろでろんに疲れました。しばらく太ももが上がらなかったぐらい。

現在、沼津です。
一昨日から、高いガソリンを消費しつつ、バイクで排ガスを撒き散らしています。

ルートは以下のとおり。
4日:
横浜→厚木→宮ヶ瀬湖→道志村→山中湖→河口湖→上九一色村→本栖湖→富士川→早川町→南アルプス→井川雨畑林道→山伏峠→(寸又峡を目指すも敗退)→県道52号南下→清水(宿泊)

本日:清水→静岡→口坂本温泉→井川湖・井川ダム→長島ダム→本河根町→静岡→清水→(東名高速)→沼津→明治史料館

あまり面白みのある話題でなくてすみません。
思うままにいかないことだらけで、えらく疲れました。失敗記録は以下のとおり。地図がないとわけわからない。

・宮ヶ瀬ダムを、眠くて朦朧としていて見損こねた(日本固有の技術、ローラーでコンクリートを押し固めたRCD工法、ダム高156m、貯水量約200万立法mの国内最大級のダム)

・川口湖へ向かう138号を、何を思ったか逆方向へ。都留まで着てしまう。都留から高速を使って河口湖へ出ようとしたら、都留からは逆方向にしか乗れない。大月まで出て高速に乗ったが、行楽家族連れの車で激しい渋滞。1時間半のロス。エンジン熱ダレして、足を火傷。

・早川町、南アルプスの手打ちそばの食べられる「そば処アルプス」で昼食。山中の一軒家で、1時間待。他に食料の得られるところはなく、泣く泣く待つ。待っている間、雨のような鳥糞の襲撃を食らう。

・井川雨畑林道。落石で岩ごろごろ。砕石ですべる。何度こけそうになったか。ひぃこら着いたてっぺんの山伏峠。標高2000m。落石のため通行止めで、ゲートで閉ざされていた。
ゲートの向こうは、逆の静岡側から上ってきたオフロードバイクの一行様が、同じように立ち往生。ゲート10cmの向こうはお互い果てしなく遠い。オフロード軍団は、ゲートの横のがけをバイクごと引っ張り上げて上って超えようとしていた。5人がかりで、峠でバイクを持ち上げる人たち。根性だ。
そんな体力も気力も自分らは、あえなく敗退。引き換えす。下りのほうが滑る。周囲は崩落地帯。曲がり損ねると絶壁の谷底。恐怖。

・周囲にろくなキャンプ地はなし。実は、山伏峠を越えた先で、食料を用意して待っている同僚がいるのでどうしても峠越えはしたかった。道路の無いところは走れない無力さを痛感。仕方がないので、お互い南下、海まで降りて、清水で落ち合うことにする。2000mから一気に海抜0mへ。あたりはすでに夕闇。

・とっぷり夜もふけた頃、ようやく清水にたどり着く。適当な漁港にテントを張る。水なし。風呂無し。トイレ無し。清水に先に着いていた同僚が、酒と刺身を用意してくれていたので、そのまま宴会に突入。どろどろのままテントで眠る。

・翌日。自分の主目的地は沼津。沼津といえば、兵学校。同僚と別れてそっちを目指す予定だったが、テントを片付けたのがまだ朝早かったので、昨日あきらめた寸又峡の温泉を、南から目指すことにする。同僚いわく、南から上がると片道1時間。

・寸又峡よりもう少し近いところに、口坂本温泉というよさげなところがあったので、そちらを目指すことに。この県道が極狭で地図で観るより全然長かった。たどり着いてみると、温泉は9時半から。着いたのは8時。ということで、峠を越えて井川湖を抜けて別の温泉へ。

・この道がダムの宝庫だった。景色最高。桜満開。走っては止まり、景色と構造物を楽しむ。そんなことをしていると、時間など湯水のごとく流れていく。気が付いたら午後。

・急いで同僚に別れを告げて南下。ショートカットの国道を使おうとしたら、これが工事中、狭い、対向車多い、12-14%勾配のヘアピン連続。3度程ぶつかりかけた。寿命が3年ちぢんだ。老けた。

・時間が無いので、清水まで降りてから、沼津まで一気に高速で抜ける。目指すは沼津兵学校。じゃなかった、沼津明治史料館。展示も楽しみだけれど、見たい資料がいっぱいいっぱい。ここに行かずして何の静岡。時間はいくらあっても足らない。それで、沼津に着いて一般道に下りてから、道を間違えて、何を思ったか1号バイパスに乗ってしまう。これが高速国道で、次のジャンクションまで降りれない。激しく戻り道をする羽目に。これで30分はロス。

・沼津。風が吹き荒れていた。荷物を積んでバランスが悪く、風にあおられやすくなったバイクをなんど倒しそうになったか。

・明治史料館にヨレヨレになりながら到着。展示の券を買っておきながら、肝心の展示は見ずに、ひたすら紀要と目録とにらめっこしていた、どう見ても研究者に見えないバイク乗りの来訪者を、館内の方はどう思ったのだろう。大変親切にしてくださいました。有難うございました。

・沼津史料館の目録に、かなりなお宝がありまして。これは見逃せないと思った。史料室に入室できる学芸員の方が、今日は不在だけれども明日なら空いている、とのこと。明日、早朝に伊豆方面に向かう予定だったのを、午前中再度史料館を訪問することに決定。

・館内、嵐のごとく強風の音。声が聞こえないぐらい。この日、沼津の海岸でテントを張って過ごそうと思ったけれども、臆した。とても無理だと判断。史料館の方にホテルを取っていただく。しかも、館内にバイクを入れさせてもらう。大感謝。

・夜になって風が止んだ・・・。全然問題なくキャンプできたみたい。まぁ、疲れ果てていたし、明日はもっとシビアなスケジュール、下手すると夜中までの走行だから、疲れは抜いておきたい、ということで、よしとする。

顔は日焼けとゴーグルのずれでヒリヒリして赤くなっているし、排ガスの煤で汚れてパンダ状に黒くなっている。ジーンズも煤と汗でいい感じにぐだぐだ。よく沼津資料館の館員のお姉さま方、嫌がらずに相手してくれたものだと感心してしまうほどでしたが、おかげさまで、明日の楽しみができました。

さて、ホテルに入って、駅前をぶらつく。
休日の夜を皆様、満喫中のようです。駅前は、カップルだらけでした。また、お嬢さんたちが綺麗にキメてるんだ。

一方、漁港の町なので新鮮な魚を食いたい、と思えど、一人だからどこの店へ入る勇気もない自分。結局ようやくコンビニ握り飯を口にしただけ。春もすんだのに春爛漫な方々と比べるだに、いつもと変わらない侘しさ。人生って何だろうと感じないこともない。

でも駅前のお嬢さんたちより、今の自分のほうが格好いいと思った。

……ちょっと言ってみただけです。ごめんなさい。

そんな感じで、明日も濃そうです。
事故りませんように。と、コロボックル圭介生き神様にお願い。波乱万丈だけれども、とりあえず生きて帰ってくる、というのがご利益。
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2006年05月07日

沼津・伊豆その1 沼津明治史料館

伝習隊山口君、陸軍士官学校で気球を作っていました。
江川邸の倉に、圭介関係資料、たんまりあります。

…以上、ご報告要点はこの2点に尽きます。

それで終わるとあまりに怠惰なので、とりあえず自分メモということでダラダラ書きます。
以下、公表されていない情報を含んでおります。あくまで、愚生個人が見たものに過ぎない、所詮ジャンクなネット情報、ということで、お留めいただければと思います。

無事、帰りつきました。
3日と1/4日で、走行距離930km。かなり走り込んだと思ったけれども、やはり関東の道は、距離を稼ぐのは難しいですね。昔は東北や北海道あたりで、平気で4〜500km/日ぐらいは走っていました。単に、若かったから、というのもあります。身の衰えを感じます。

最終日のルートは、以下の通り。
沼津・明治史料館→韮山町・江川邸→江川反射炉→めおとの湯→富士見パークウェイ→伊豆スカイライン→十国峠→箱根峠→箱根新道→小田原→西湘バイパス→(国府津)→横浜新道→首都高速湾岸線→R6号→帰宅

● 明治史料館

もちろん沼津に関する歴史資料館なので、資料館の対象は兵学校だけではないのですが。時間の都合上、見たのは兵学校関連のみということで許してください。

沼津兵学校ですが、徳川静岡藩の、廃藩置県までの数年間の、兵士養成学校かと思いきや。兵学を含んだ、英学、漢学、図学、数学、等も盛り込んだ、総合人材育成所だったのだということがわかりました。武官だけではなく、文官も多く新政府に輩出しています。沼津兵学校小学校を含めると、ここから工部大学校に出たのは、石橋絢彦、田辺朔朗、小田川全之、真野文二など豪華な顔ぶれ。真野の父親、真野肇も沼津兵学校出身で、工手学校・育英黌の教官になっています。(育英黌って中ば沼津兵学校出身者同窓会なんじゃないかと…)

展示もそうなのですが、研究紀要や発行物など、研究成果の報告が大変充実しています。元こちらの学芸員で今は佐倉の歴博にいらっしゃる「旧幕臣の明治維新」の著者の樋口雄彦氏の成果が眼を見張ります。

沼津兵学校出身者に、いかに明治政府の実務者として重要な働きをした人間が多いか、ということが実感できました。「敗者」と位置づけられますが、最終的に国の礎にがっちり食い込んでいたのですから、この人たち、人間としては真の勝ち組なのではないかと思った。教育・人材重視の勝利。いや、勝ち負けで物事を表すのは野暮ったいことなんですけれども。

近代的な学制の草分けであり、他藩からも注目され留学生を派遣された高度な教育レベルを達成し、多くの人材を政府に野に排出したこと。それが、沼津兵学校の碑文に記されていますが、元兵学校教授の方が刻んだその内容は、「敗者としての恨みや苦悩など微塵も無く、むしろ時代の先頭を切って走った者の自信と誇りにあふれている」と樋口氏が評しておられます。沼津兵学校の意義は、その言葉に凝縮されていると思いました。

地元の方々の熱意も感じられ、市史の編纂においても重要なテーマを占めている。明治2年から5年、3年間の間の出来事に、ここまで注力できるのがスゴイ。史料館の存在も、沼津という位置にあるのが大きいのかなと思いました。
(工部大学校も、あの一等地にあったから崩れかけた碑文ぐらいしか今はなく、それすら存続が危ういですが、もし東京じゃなくて地方に建っていたら、今頃記念館ではすまないぐらいのメモリアルになっているのではないか、とか思った…。)

私的成果については、以下の通り。

・昨日、目録に、大鳥→大築尚志の自筆書簡があるのを見つけた。これは見ていかねばと思い、本日の再訪を決定。目録から申込書を作成し、学芸員の方にお願いして、史料を出してきてもらう。デジカメ撮影もOK。

・で、大鳥→大築書簡。読めない…。大鳥の原型を留めてないほど崩しきり、かつクセのある字。くずし字辞典で見る、いちばん原型から外れた字を好んで使っていないかと思う。
以前は生字だけでこめかみから血を吹く思いをしましたが、最近はあまりの読めなさに怒りがこみ上げてくる。いや、己の教養の無さに対する怒りですが。
内容は、フランス伝習についてと、大築の病状を心配している書簡ではないかと思います。

・あとは、福王(田?)平左衛門から、大鳥と共に出された辞令や「仏蘭西伝習についての書簡」とか、横浜仏蘭西伝習を命じられた士官の人名リストとか、履歴書とか、じっくり見るだに美味しいのが一杯。

・昨日、「他に調べている人物があれば、あらかじめ学芸員の方にお伝えしておきますよー」とご親切に館員さんが仰って下さった。遠慮なく「そ、それでは、本多…忠直と、山口知重を」と、どもりながらお願い。幸七郎と言いかけて焦った。人様の前で伝習隊員の名前を口にするのは、大鳥以上に緊張する。
あとから、石橋絢彦と小田川全之と田辺と真野も一緒に言っとけばよかったと、ずうずうしくも思った。でも、言わなくて良かった。時間がいくらあっても足りない。

・で、山口君。最近になって、ご子孫の方から関係文書の寄贈があったとのことで、目録の草稿が作成されたばかりだった。まだ公表前ということで、目録の複写は出来なかったのですが、学芸員の方が目録を見せてくださり、必要なら史料を出すと、御厚意を下さった。大感謝。

・目録草稿を見て、呼吸が止まるかと思った。山口君、「軽気球製作御用取扱申付候事」とありました。確かに辞令を見ると、そうなっていた。
陸軍省大日誌のデータベースを見てみたら、10年8月には内国勧業博覧会に陸軍から気球が出展されていた。それなりの成果があったらしい。

・その他、山口家寄贈の履歴書類がまとまっていて良かった。辞令なども全部保管してあったのですね。あと「学業履歴」という、学問に特化した学びの経験記録があった。明治9年ごろ作成で、教官になる際に作ったものだと思うけれども、これのみ、維新前について触れてあった。まとまった情報になったので、早速、コンテンツの更新をしてみた。

・山口君の写真が展示室にパネルになって展示されていたのも収穫。猫目で、文人肌な感じの方でした。教授だもんな。君付けなんてできない。経歴も、学業畑、研究畑で、そちらのほうが性に合っていたのだと思う。もちろん伝習隊で大活躍でしたし、それゆえの興味、というのはあったのですが。彼も戦にある人ではなかったのだろうと思えた。

・一方、本多さんの写真はやはり発見できず。本多さんのほうは、動きの大きさの割りに、残っている記録に出会えなくて、つかみづらいところがあります。樋口氏が若干纏めてくださっていたので、そちらから更新させてもらいました。

・あ、体操方の下逸郎は、明治元年時点で18歳となっていました。ただ、史料目録もなかったので、年齢の出典は不明。

他、収集物は以下の通り。

・「沼津市博物館紀要」:静岡・沼津に関する郷土研究報告。もちろん、沼津兵学校関係も抱負。樋口氏が毎回兵学校関係の史料解題や解説を行っている。兵学校関係人物の履歴書がある。「大築尚志略伝」は多分大築に関しては一番詳細な研究。静岡藩文書に、幕府歩兵隊・伝習隊の給料や埋葬料が分かるものがあったり。樋口氏、すばらしい仕事をしておられる。過去のものはコピーできるし、在庫があるものは購入できる。

・「明治史料館通信」:史料館発行の季刊の無料ペーパー。1985年〜現在まで全号入手。これは、樋口氏を初めとした研究者の方々の、沼津兵学校関係者の定期研究報告なので、ぎっしり情報が詰まっている。
「撤兵隊戦死者梶塚成志墓誌拓本」という碑文が江原素六と大鳥圭介の書による、とのことだけれども、何処にこの碑文があるのだろう。というか大鳥、撤兵隊供養まで手出ししていたのか。
あと、吉沢勇四郎の兄が、沼津兵学校三等教授の石橋好一だったとか。開成所教授手伝並出役で、兵学校でフランス語の「体操書」を訳している。そのほか、まだ目を通していないですが、読んでいくと色々発見がありそう。沼間もいた。

・史料館刊行物の「沼津兵学校」、(1986)「沼津兵学校の群像」(1994)はかなり情報がまとまっていて良品。品切れだけれども、コピーを取ってもらえる。

そんな感じで、沼津兵学校。思った以上の収穫があって、幸せでした。もっとじっくり時間をとって、丸一日かけて調べてみたかったです。

紀要や刊行物は、国会図書館でも参照できます。ただデータベースでは、全部はひっかからない…
エッセンスは樋口氏の著書「旧幕臣の明治維新」にわかりやすくやすく構成されています。この本一冊だけで、沼津兵学校についてはだいぶ網羅できる。

そんな感じで。結構な量になりましたので、一端、切ります。
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2006年05月14日

沼津・伊豆 その2

連休遊んでいたのが祟って、開けてみると環境が変わり、ひぃこら言っています。下手をすると、産学二足の草鞋を履く羽目になりそうです。

まぁ、なんだかんだ言いつつ、往生際悪くこっちのほうもやり続けると思います。憎まれっ子世に蔓延る。時間の使い方のやりくりなんて、自分次第ですし。
自分が二人欲しいけれども、二人に分かれると分けてやるのがもったいない、という感じ。それで、二兎を追う者になっちまうのな。
圭介は常に五兎ぐらいデフォルトで追いかけてそうだ。草鞋は三足以上履いていた。どうせ人生、失敗するなら、その領域にまで達してからにしたい。

さて、阿呆をほざいてないで、江川邸です。
沼津兵学校からバイクで30分ほど。韮山は伊豆の西側に位置するので、結構近くにあります。
オフィシャルページはこちら。 http://www.egawatei.com/

なお、韮山町は、伊豆長岡町、大仁町と合併して、2005年4月1日に「伊豆の国市」となっています。韮山という行政区が消えるのは、江川に愛着のある地元の方々にとっては、寂しいことだったらしいです。

さて、韮山にはもちろん、江川塾・反射炉を見たいということで訪れたのですが。
本来、江川は、鎌倉時代より三十八代続いた家名、江戸時代より代官職を拝命して十一代の世襲代官。
代官邸宅および代官の役所「江川邸」が「江川塾」の機能を持っていたのは、幕末に入ってからのほんの一時期のことだったのですな。

代官は幕府天領地の統治官、将軍の代理者ということで、世襲ではなく任命されるもの。世襲にすると権力が地方に分散してしまうので、世襲の代官は珍しい。江川の世襲は特例的に認められていたもので、それだけ、幕府から統治の方の信頼があったということ。それを地元の方は誇りに思っておられました。

代官家江川邸は、空襲にも地震にも遭っていないので、多少の補修はあれど、だいたいは柱や建物がそのまま残されています。門も当時のまま。主屋は、年季と由緒が溢れていました。国の重要文化財に指定されています。

他の史跡と異なるところは、歴史ガイドの方がいらしていて、案内をしてくださいます。中庭や主屋、倉のほうなどに別れて何人かいらっしゃったのですが、皆様、相当お詳しく、専門的でいらっしゃいます。退職された教師や研究者の方とかいらっしゃるらしい。いくつか質問をすると、かなり突っ込んでお答えくださるので、とてもありがたいです。展示の文章は10中9は頭を素通りする駄目人間でですが、生きた説明というのは頭の中に根付かせてくれます。

中途半端に観光化しておらず、歴史に興味ある人がじっくりと時間を過ごすのにいい造りになっていて、たいへん居心地が良かったです。市営ということで、それだけ運営には市にかかる負担もあり、職員の方も少ない予算に苦労されていましたけれども。行って楽しかった、おしまい、な観光地と違って、こういった造りの史跡は落ち着いて昔を偲び、もっと調べてみたいという意欲に駆られるので、とてもいいものだと思いました。

以下、一般的見所をば。

・主屋。1600年ごろの建造物。年月を経てきたものというのは何らかの重みと静謐さがあるが、格別に存在感があった。江川の系譜や、各当主の書画などが展示されている。安積艮斎が英龍の事を、文武を兼ね備えた「雄略絶倫」と称えた書画、砲術のための数学や測量書の教科書、江川がパンの祖となったといわれる「オーブン型のパン窯」もあった。宇都宮さんがこの窯で焼かれたパンを2年間食っていたのか。
生き柱という、生木がそのまま柱になったものなどもある。
マニアなところでは、圭介の同僚で友達だった友平栄 (その息子新三郎が壬生藩士で、宇都宮攻めの際幕府軍に降伏してきて、壬生を攻めるなら今と圭介を勧めた) が、これから熱心に仕事しますということを書いた「奥儀誓書」というのがあった。

・歴史ガイドの方に、系譜や江川の代官の役割などを詳しく説明していただく。江川の塾生や講師が、後に戊辰戦争で陣営を分けて戦った旨を話題にすると、「貴方はこれを見なさい!」いきなり「塾の間」につれていかれる。そこには塾生名簿が。もちろん、大山巌や黒田の名前が。ただ、名前だけで、在籍年とか、出身藩などはかかれていない。それが分かれば面白い史料なんだけれどもなーとか贅沢を抜かしてみる。それにしても歴史ガイドの方の江川にかける熱意には、尋常じゃない迫力がある。

・GW中特別イベントということで、中庭を開放していた。室町時代に作られ、千利休、北条早雲、日蓮上人などもこの庭を愛でたそうな。楓と竹に囲まれた池。大変落ち着く。新緑が綺麗で、何時間もぼーっと過ごしたいぐらいに安らいだ。紅葉の時期にも開放されていて、それはもう美しいそうだ。

・農兵訓練場としていた「枡形」が、門の前にある。幕末まで、海防については拡販が分担して受け持っていたわけですが、一元的ではなく、派兵に時間が掛かるものだった。そこで、江川が、韮山代官領の農民に軍事的な訓練を施し、危急の際には農兵として動員して、迅速に海岸防備体制をとれるようにする体勢をとった。兵農分離が基本であった江戸時代体勢では画期的なことだったとのこと。

・倉には当時の反射炉の素材や、硫黄・硝石など火薬の材料、スペンサー銃や韮山傘などが展示。武器マニアには垂涎かも。…はい、涎たらして魅入ってました。

・庭にあった奇生楓。ガジュマロのように、桜かブナかなにかの木に、楓が奇生して、青々と葉を茂らせていた。宿主は殆ど枯れていた。

・隣接している郷土資料館では、「韮山代官江川英龍の情報戦略」を開催中。幕府直轄領を預かる代官としての江川太郎左衛門英龍が、いかに民政や幕府の海防政策遂行するのに、幅広い情報収集を行い、分析・活用をしたのかがわかる史料が多数展示されています。お台場の、十字砲火可能な死角のない砲台設計とか。渡辺崋山との交換文書とか。

その後、反射炉へ。江川邸から2.5kmほど離れているところで、県道に「反射炉線」と名前がついていたり、ガードレールに反射炉が描かれていたり、なんだか、地元のアイドルです。反射炉。

反射炉自体は、耐火煉瓦は多分当時のもの。それから鉄鋼で補強がしてありました。煙突部分が目立ちますが、炉の部分の構造が、近くに行くと、鋳口、焚口の設計書と共に細かく説明してあります。製鉄マニアには嬉しいものかと。
あと、復元した24ポンドカノン砲があった。3.5トンというから運搬も大変だ。

観光客は反射炉のほうが多かったです。こちらにも歴史ガイドさんがいらっしゃいましたが、反射炉の薀蓄ではなく、ひたすら漫談を披露していました。かなり面白くて思わず脇で聞き入ってしまった。芸が広い。ちょっとファンになりそうです。韮山歴史ガイドさん。

さて、江川邸を訪れた目的に、ちょっと狙ったところがありまして、それについては、それなりの成果がありました。ただ、ちょいと考えたいところがありますので、後ほどまとめたいと思います

反射路の駐車場の傍に、お茶の加工工場があり、見学できます。乾燥と成型の工場でした。コンベアなどはなくて、結構手作業が入っているようです。

勿論、原料のお茶は静岡産。この季節の静岡、茶畑の緑色が生き生きとして、いいものだなぁ〜、と浸れます。
それらの茶畑、今は日本に冠するお茶の産地も、今井さんら牧之原士族をはじめとして、開拓に従事した静岡藩旧幕臣の遺産なのだと思うと、武士は戦のみにて生くるに非ずと、しみじみとした感がありました。
今にまで連綿と引き継がれてきたものを肌で感じることができますので、この時期の静岡の山側、南アルプスに向けての山中の道は、旧幕好きの方には、興味深いものではないかと思います。史跡の碑文以上に、人々の生活には、語りかけてくるものがあります。

で、せっかくの伊豆、江川さんのお膝元なのだから、ということで、温泉へ。町営のお風呂、スチームサウナがついていて、かなり気持ちよかったです。
そんな感じで、予定以上に時間を消費してしまった。

江川邸。あまり散策された方の話は聞きませんが、関東の方は日帰りプラントしてもかなり良いと思います。駅→江川邸で約2km、江川邸→反射炉で約2.5km、反射炉→めおとの湯が約2km。いい運動になるぐらいの歩ける距離ですし、疲れたらタクシーでも良いかと。伊豆の空気の中でのほほんとできます。
免許持ちの方でしたら、レンタカーを借りると、周辺の温泉や、茶畑散策ができますので、よりオススメ。

温泉から出たら、既に5時。タクシーのドライバーさんから、夕方から嵐が迫っていると聞いておりました。嵐、という言葉が頭の中を渦巻く。走りを楽しんだツケがやってまいりました。

これから、GWの終わり際の夕方、一番込みそうな時間帯。更に、ルートには、伊豆、熱海、箱根、湘南と、いかにも天気のいい休日に皆して出かけていそうな関東行楽地が目白押し。1時間動かない、なんてことも覚悟しなければならない。その中で悪天候というのは涙がでそう。

昨夜、地図とにらめっこして組んだ渋滞対策は以下の通り。

・東名高速、第三京浜など、大型高速道路は使わない、
・国道のバイパスを多用、ただし1号線は最小に留める。
・幅が広くてすり抜けのしやすい有料道路を可能な限り多用。
・東京は湾岸線に出るが、ディズニーランドのある浦安は通らない。

これで少なくとも、全く動かなくなる、ということはないはず、と期待。

帰り道に、国府津の元大鳥別荘の、臥龍梅が今どうなっているのかを調べに行こうか迷っていたのですが、既に夕方でしたし、公共史跡と違って人様のお宅のことで、連絡なしに訪れても礼を逸すると思いましたので、断念しました。西湘バイパス道路から、このあたりかなぁ、と遠目に眺めておしまい。

錬りに錬った帰り道プランが功を奏して、結局、思ったほど渋滞に遭わずに済みました。GWって意外と首都高がガラガラなのでした。夜の首都高って、キラキラしていて綺麗。遊園地みたいだった。湾岸線から環八経由でR6号に出るつもりが、道を間違えて東北道方面に行ってしまった。これが、結果的に6号に早く出られた。ただ、R6号線では嵐が来る直前で、暴風に吹き付けられて車体が一気に1車線流されてコケそうになったりと、恐怖でした。天気については、セーフで帰りついた、という感じでした。帰宅は真夜中、下手したら午前1時2時にはなることを覚悟していたのだけれども、結果、なぜか午後9時半には家に到着してしまいました。

行きは1日目取手→横浜まで5時間かかったのに、沼津→取手、倍以上の距離があるのに4時間ちょっとで着いてしまった。最後、常磐道を使っていたら、もっと早かった。
なお、1日目は、わざわざ国府台を通って、蔵前橋→亀戸→錦糸町→御茶ノ水と、大鳥脱走逆ルートを辿ったり、東京内を走り回って観光して、国会議事堂や国会図書館を見て回ったり、皇居2周とか意味のないことをしたりしていたせいなのですが。

どうでもいいですが、都内って何であんなに迷うのだろう。R14号→R1号と迷いようがないルートのはずなのにいつの間にか違う道に入っていて、気がついたらホテルオークラの前だった。そこを過ぎると物々しい警備。近寄ると、警備員が目の前の巨大な柵をガラガラガラと開けてくれて、思わず飛び込みそうになった。直前でユーターンしたら、不審な目で見られました。後から地図で確認してみるとアメリカ大使館だった。不法侵入者になるところだった。

そんな感じで、最後の1日はなんだか、うまく行き過ぎて怖いぐらいでした。明日から仕事でなにかしっぺ返しを喰らいそうです。

観光とは一風違う、こんな感じの目的のある旅だと、発見、というとおこがましいですが、なにかこういう「見つけたぞぅ〜」という感慨が楽しくて、止められない感じがします。
まぁ、これを本職にしてしまうとそういう感覚も薄れるもので、たまにしか出来ないから、一層非日常の楽しさがあるものなのでしょうなぁ…。
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2006年05月15日

沼津・伊豆その3 江川文庫

江川邸を訪れた目的は、もちろん、観光だけではなく、圭介資料を探すというのもありました。はい。
といっても、特定のブツがあったわけではありません。

いつぞや、特集するといって狼少年になってしまっている山崎有信氏。「史談会速記録」の大鳥についての彼の談話に、大鳥が脱走する際、妻子を佐倉へ託した後「諸道具色々大切なものは自分の体に附けることが出来ぬから、残らず江川の家に送つた」とありました。で、江川秀武が、「大鳥家の品物を私の処で与った。只今大鳥男爵家に掛けてある山陽の額があるが、あれ抔も一時私の家に預つて居た」と話していたと、山崎氏が仰ってました。

ここで言う、大鳥の大事な品物。何があるかは具体的には不明なのですが。
横浜や江戸における伝習隊教練の忙しい最中にも日記をつけていた、大鳥の文久・慶応期の日記。
また、現在もその材料が何であったのか学界では論争になっている、日本初の大鳥活字、その大元の版。
それら品物を、もしかしたら大鳥が脱走前に江川に送っていたかもしれない。

その情報がないかと思って、訪れたわけでした。

無論、東京にあれば、、関東大震災や空襲などをはじめ、家事や天災、或いは単なる荷物処理などで、残されていない可能性のほうが大きく、そこまでウマイ話もないだろうとは思っていました。ただ、何か大鳥関係のものが、江川家に残されていないかなぁ、という漠然とした期待があっただけなのですが。

中庭で、ほのぼのと楓に見入っていた際、歴史ガイドのおじさんが話かけてくださいまして。色々とお伺いしているうちに、江川家の蔵の話になりました。現在、所蔵物を整理中であるとのこと。これ幸いと、「その蔵の中に、こ、こういうのがあるという可能性はないでしょうか」と、大鳥の荷物について聞いてみました。そこまで専門的なことは知らん、とすげなく返されました。けれども、丁度、蔵を整理している担当の方がいらっしゃるから、史料館のほうに行ってみるとよい、とアドバイスを下さり、その担当の方の名前を教えてくださいました。

もちろん、奮然、史料館へ。
窓口の方に、担当の方のことをお伺いすると、文庫のほうでお仕事中というのにわざわざお呼びして下さいました。

お伺いした方は、江川文庫資料管理の担当の方で、正にその江川の蔵の整理中でいらっしゃいました。お仕事を中断されたというのに、嫌な顔一つせず、懇切に話を聞いてくださいました。

まず、江川秀武について整理。

・大鳥が肥田浜五郎に招聘されて仕えた江川秀武。「最後の韮山代官 江川秀武」として、韮山郷土史料館で特別展が、去年催された。

・秀武は、36代江川太郎左衛門英龍の子。安政元年、英龍が没。兄英敏が37代として英龍の後を継ぐが、1862年、19歳で英敏病没。秀武は9歳、書類上では17歳と偽って、38代江川を継いだ。東京の芝新銭座に塾を構えた後、慶応3年2月、鳥羽伏見の敗北の後、江戸明け渡し前に、江川家ブレーンの柏木忠俊(総蔵)により、江川は朝廷帰順を決定。1867年6月に韮山県が成立すると、秀武が県知事となり、伊豆の旧旗本領をあわせて管轄する。このとき秀武は15歳。柏木忠俊、根元公直、岡田直臣らが補佐する。明治3年に少六位。

・明治4年7月、廃藩置県に際して、韮山県は小田原県、荻野山中県と合併して足柄県に。柏木忠俊が足柄県権令(後、県令)になる。秀武は9月25日付で免官。海軍省の官費留学生としてアメリカに説こう。11月の岩倉具視使節団に同行した。英武は、ニューヨークのピークスキル兵学校に入学。明治7年4月に官費留学生制度が廃止になって帰朝を命じられるが、自費で留まり留学を継続した。8年9月にペンシルバニア州のラファイエット大学に合格し、測量、設計の理論と実技を学ぶ。成績は常に上位だったとのこと。

・明治12年10月、大学を卒業して帰国。14年7月内務省御用掛、取調局に勤務。17年大蔵省権少書記官として大蔵省議案局、造幣局などに勤務。19年、依頼して官を辞職。麻疹による健康的な理由だったが、官界に馴染まなかった、との声も。この時、英武33歳。東京を引き払って、韮山に戻る。明治20年に本人の知らぬ間に県会議員に当選していたり、その後も総選挙に出馬するように勧められたが、本人は謝絶し、再び官や政治の道を歩む事はなかった。晩年は「耄禄閑人」と号し、達観の境地に入っていたという。昭和8年10月2日、最後の韮山代官としてその生涯を閉じる。享年80。

・英武が韮山に戻った際に、彼は長い時間を掛けて江川家に伝わった膨大な史料、特に父英龍の書画などを整理・保存する作業を行っている。江川家伝来の史料が散逸せずに保存されているのも、英武によるこの成果があったゆえのこと。

以上は、史料館の特別展「最後の韮山代官江川秀武」のパンフレットよりまとめたものです。パンフレットには、英武の情報が凝縮。11歳の代官時代や慶応3-4年ごろの講武所結いの英武や、洋行前の散切り頭、ラファイエット大学時代26歳の英武の写真が掲載。代官時代は、あまりに普通の子供の顔だった。
そのほか、髭もじゃの木戸さんもあった。髪の毛はふさふさなのに、髭は薄かった。テディベアみたいなお顔でびっくりした…。

担当の方に、お伺いできた話は、以下の通り。

・現在、静岡の公共団体の委託を受けて、江川家の蔵にある所蔵物を、江川文庫データベースとして、目録を作成中。5年計計画のプロジェクトで、平成18年度が最終年度の5年目。

・江川邸には、東蔵、西蔵があり、合計で4万点の資料が存在すると言われている。現在、1万数千点の整理が終わった。プロジェクトの終了する今年度ですべてを整理し終えることはまず不可能。プロジェクト後の調査継続のための予算はついておらず、残っている資料の整理を続けるためには何らかの予算措置が必要。

・データベースは年代別ではなく、所蔵物の整理順に作成中。整備されたデータベースは、国文学研究資料館で公開される予定。データベース作成自体は、江川文庫資料の文化財登録を目的の一つにしている。(江川邸は重要文化財に指定されているが、江川邸所蔵資料である江川文庫はまだ登録されていない)

・K氏の御厚意で、データベースのエクセルファイルを見せていただいた。その中に、目録として、文献、書画、書簡などが、年代、作成者、内容などについてリスト化されている。

・これまで整理された資料の中では、大鳥の活字の版は見つかっていない。大鳥の日記に関しても、今のところはデータベースにはない。

・江川邸の東蔵に、英武が大切と思ったものが保管されている。軸の書簡、書額など。その中に、大鳥の作のものが多数ある。英武の子が生誕した際の祝いの書画もある。

・大鳥の、築城典型の草稿、砲科新論の草稿がある。安政6年作。活字が鋳造されて作成された印刷物ではなく、その前の自筆原稿。

・大鳥の著作の洋書の訳本が何点か。扶揺堂主人という号がある。

・大鳥の洋行時に留学中の英武に送ったものがある。大鳥洋行時、米国にて、英武と会っている模様。

・明治17年の大鳥→英武の手紙。高峰の名前がある。他、明治30年ごろまでにわたって、大鳥→英武の書簡が多数残されている。明治に入っても、秀武と大鳥の交流は続いていたと見られる。

・明治5年、柏木忠俊→英武の書簡。大鳥らが釈放されたことを祝っている。そのほか、秀武と他者とのやり取りの中で大鳥の名前が見られる書簡が、何点かある。

…そんな感じで。データベースを見せていただいたのは一瞬で、メモも取れなかったので、上の情報には、あやふやなところもあります。

ただ、現在整理中の江川の蔵に、大鳥関係書簡や、洋書訳本の草稿などが存在することは、確かなようです。
大鳥が江川塾に居た頃に、江川で行なった仕事と、明治になってから英武と交換した文書については、現存しているということで。
大鳥が脱走前に江川に送った荷物、というのは今のところ含まれている様子はありませんでした。未整理の中にあるという可能性も勿論捨てきれませんが。大鳥から江川に送られた山陽の書額が大鳥の家にあったというので、もしかしたら、大鳥が釈放されてから、英武がその荷物を大鳥に送り返していたのかもしれません。そうすると、他の資料について全般的に言えることなのですが、皮肉にも、東京にあったものは地震や火災や空襲等で、何かと失われていやすいんですよな…。そうすると江川の蔵に残しておいて欲しかったです、英武さん。


データベースは整理が終わり次第、国文学研究資料館(http://www.nijl.ac.jp/index.html)に公開される予定とのことです。以前にも一度、江川文庫の整備事業が行われています。ページを当たってみると、「収蔵アーカイブズ情報データベース」に1997年度撮影分までの江川家のマイクロ史料580冊が保管されているようでした。

江川の蔵は現在も整理中で、プロジェクトも大詰めを迎えた頃でした。そのお忙しい最中の来訪で、担当の方はGWも休みナシに働いておられましたのに、長々とお付き合いくださって、感謝のしようもありませんでした。

こういうところを訪れ、お世話になるといつも感じるのですが。
ご説明くださる方に対して、こちらからも情報を提供し、割いて下さる時間に見合うメリットを何か供することができなければいけないな、と思いました。観光地で客の相手をするのがお仕事の方と違い、職員の方々は皆、ご自身の本来の調査や業務があって、その時間を割いて下さっているわけですので。

プロジェクトについても、今回の整備作業には予算がつきましたが、なにか整備や企画をしようにしても、予算不足に悩んでおられるのが通常です。近所の子供たちの歴史に触れる企画にしても、弥生時代の火の起こし方を教えるのに、職員の方が、建設廃材を貰ってきて、ナイフで手作りの見学実習材料を作っておられました。
ここに限らず、地方における公共の歴史文化史料館の予算不足は、慢性化しているようです。

東京にいると、民間の、それなりに値段が張って、来客の多さでペイできている博物館もあるわけですが。

地方で二束三文の入場料で運営している史料館、博物館は、それだけ運営にも苦労がある。そういったものの恩恵に預かるわけですから、自分が受けた分は、何かしらの寄与はしたいものだなぁ、という気になりました。

それで職員の方の邪魔をしていれば、世話はないのですけれども。

あと、上の情報ですが、あくまで、自分が聞いてきたということで、なんら公な情報ではない、ということで、お含みいただければと思います。

そういったことを、この場で流してしまってよいものか、結構、たらたらと悩んでおりました。
沼津明治史料館の史料についてもそうだったのですが。自分が見てきたものは、一般の観光客を対象にしたものからはある程度踏み外してしまっているものでもありまして。その公開前の情報を、ネットで垂れ流すことについての是非は、悩ましいものがあります。

江川文庫については、未発表の書簡や、自筆草稿など、大鳥史料の所在を明るみにしてしまうわけで。(…まさか築城典型や野戦要務が自筆とは思わなかった。普通に印刷かと思って最初聞き逃してしまった…。自筆だと色々メモ書きもあるだろうし、なにかあるんだろうなぁ、と期待してしまう)

ネットの情報は、それが正しいとオーソライズされる前に、流布してしまうのが問題だというような趣旨のことを、沼津明治史料館の方が仰っていました。確かに研究者の方々にとっては、公表前のものが、正しかろうと、そうでなかろうと、広まってしまう、ということに対しては、大きな危惧があることかと思います。

よって、興味本位で訪れて、たまたまうまく話をお伺いできたり、史料を見させていただいただけの自分が、全く影響力のない辺境サイトとはいえ、公開物扱いされるネットに公開前の情報を流してしまうのは、軽率なことだろう。言ってよいこと、そうでないことは、区別すべきだろう、と考えていました。

けれども、公表されるかどうかということに確実性はないもので、公表を待っていたら見つかるものも見つからない、というのはあるでしょう。焦点の当て方は人それぞれで、マニアが喜ぶものと、館員、研究者の方々が重点を置く研究項目とは、異なっている。
自分などはやはり、誤解されがちな大鳥については、問題がない限り、実体が明るみなるほうが良いと思ってしまいます。実際、今回の、柏木→英武の手紙は、大鳥ら箱館幹部の釈放が、一般にどう受け止められていたのか、新しい視点を供し得るものだと思います。また、英武留学中の大鳥との付き合いについても、当時の技術レベルや産業動向、までいかなくても、米国を日本人がどう捉えていたかについて、何らかの示唆するものがあるのではないかと思っています。

そうすると、公ではない、あくまでジャンクな情報という前提で流させていただいて、それを接点に公への道を開いてくださる方の出現を期待しても、良いのではないか。職員の方々にご迷惑にならない形で、というのが前提で、予想される問題についてはある程度の抑止を呈しつつ、しかるべき方への情報への接点はあるにこしたことはないのではないか。「ある」という情報自体は、用い方によって、有害なだけではない価値であるのではないか。研究に繋げていただけるのなら、次への道を繋げる意味は大きいのではないか。

そう思ったので、やっぱり、ここに書く事にしました。

無論、史料を出してくださるにも、江川文庫は公開前ですし、公開の予定もないとのこと。実際、蔵の史料を参照しようと思ったら、まず担当の方にコンタクトを取り、その史料がどこにあるか特定していただき、蔵を開いて、探し出していただいて、参照させていただく必要があります。そうすると、職員の方の手間や時間をそれだけ割くことになる。
上の史料を直接閲覧するには、やはり興味本位ではいけないのだと思います。
こうした史料への接点は、研究として、しかるべき調査目的があり、それを学術的に何らかの形で活用する目処があって、初めて可能となることでしょう。

この後何らかの形で史料を手にされる方は、そういった点を、ご考慮いただければありがたいです。
また、江川文庫に限らず、自分がご紹介する情報については、そうした形で、受け止めていただければと思います。

といいつつ、自分ごときが何をえらそうなことをほざくか、という感じではあり、僭越も甚だしいことだ、と思いつつ、取り越し苦労なんじゃないか、誰が興味持つんだよ、とか思いつつ、いや、万が一にもご迷惑があってはならないから予防線は幾重にも必要だとしつつ、だったら最初から言わなきゃいいじゃないかと悩みつつ、ぐるぐる回っている感じです。

なんというか、好きなことをして、うっしゃぁ、とガッツポーズして、駐車場で客待ちをしているタクシードライバーのおっちゃんをびびらせるぐらい嬉しい経験をして、一方で悩みが増える、というのも、因果なものです。

…悩んでいたら朝になった。仕事どうするんだ。

    [2] Q太郎 2006/05/18(Thu)-13:48 (No.58)
    江川邸…
    ガイドさんがいたのかぁ、惜しい事をした、と思いながら読んでましたが、そこである事を思い出しました。
    私が行ったのは10数年前であるという事と、当時は「願成就院いくぞぉ!山木館跡いくぞぉ?!」とか言ってて、江川邸はオマケのように行ったのだ、という事を。
    う〜ん、惜しい事をしました。
    数年前から「反射炉見に行きたい」と思ってたんですが、江川邸も再訪しなきゃ、と思いました。


      [3] 入潮 2006/05/19(Fri)-01:36 (No.59)
      願成就院に山木館。鎌倉ですか。自分は教えていただいて初めて今知った無教養者です。吾妻鏡に記載されている仏閣って、すごいですな。一度焼失しているようですが、800年の歴史ですか…。
      そして10数年前から史跡来訪を重ねられるQ太郎さんの歴史も、にわか者の自分にはまぶしいです。
      ガイドの方、反射路を含めて4名の方に御話お伺いしましたが、どの方も濃かったです。ファンになりそうでした。Q太郎さんのように、博識で深くいらっしゃる方でしたら、ガイドの方々喜び勇んで、憤然とお相手してくださり、もう放して下さらなくなると思います。
      反射炉のほうは観光地化してしまっているので、個人的には、江川邸の中のほうで、ゆっくりまったり時間をとるといいかと思います。紅葉の中庭見に、自分ももう一度行ってみたいなぁと思っています。
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2006年05月19日

同方会誌 大鳥圭介獄中日記 丸毛利恒補注 その1

同方会報告「獄中日誌」。
今までノーチェックだったのですが、この間図書館で初めて見ました。同方会報告自体は、記事別にピンポイントでは当たっていましたが、獄中日記は新人物往来者版があるからいいや、とスルーしていました。
そして激しく後悔。なんで今まで気がついてなかったんだ、と。

これ、「大鳥圭介君獄中日記」なんてタイトルをつけるべきではないです。
「丸毛利恒注釈版獄中日記」ぐらいにしてください。
本体は、獄中日記ではありません。丸毛君の注釈です。獄中日記をダシにして、丸毛君が言いたいことを書き連ねている感じです。この注釈だけで、一つの作品になるんじゃないか、ってぐらい。丸毛君、記録人間の本領を発揮しています。

主に、マイナー人物の動向の説明がスゴイのです。そのほか薀蓄が色々と。なまじ、新人物往来社版をはじめとした南柯紀行に、本文だけ収録されてしまったし、「旧幕府」にも注釈無し版が掲載されていたので、今まで丸毛君の注釈にある情報があまり広まっていなかったのですな…。研究論文にはたまに参照されています。知る人ぞ知るという形で。

獄中日記部分は、牢の中で大鳥がちり紙に書いていたもので、大鳥が洋行中これを持って行っていた。旅行中に清書しようとか思っていたのだろうか。同方会誌版は、一緒に吉田清成に随行していた本多晋が、日記を大鳥に書き写させてくれと頼んで写した。これを丸毛が借り受けて、更に写した、というもの。その際に丸毛が詳細な註釈をつけた。これについて。

「君の記中に就き予が見聞したるものを註補しおきしに、頃日同方会幹事諸君、之を本誌に掲載せんとせらるるを以て、茲に一言を記す。予が贅言も史乗の班に小輔あらば幸甚」

と、丸毛君、謙遜していますが。とても一言、ではない。贅言なんてそんな。どれだけの情報を提供してくれているのか。丸毛君の註釈を見て、初めてわかることがてんこ盛りでした。
大鳥の本文に入る前に長々と、護送中の出来事に関する薀蓄を呈してくれていますし。その後も、註釈が激しすぎる。当時はじめて見た読者、どれが大鳥の本文でどこまでが注釈なのか分からなかったんじゃないかと思うぐらい。

以下、初見の記述を書き出してみます。といっても単に自分にとっての初見なので、既に周知の情報でしたら御免なさい。

・榎本、松平、大鳥、荒井、永井、松岡磐吉、相馬主計七名の護送。経路を仙台に取らず、秋田を迂回したのは、当時の仙台藩の激徒が、彼等を強奪するかもしれないという恐れがあったためなんだそうな…。激徒に奪われることを心配されていた、榎本、大鳥たち。

・護送中、熊本藩士の唐杉という人が、津軽で、護送される榎本らに、合作で作品を作ってくれと頼んだ。これが「五傑合幅」ということで、榎本が「物換星移」の題字、永井が竹、松平蘭、荒井は2首の和歌、圭介が「自疑身世忽瓢零〜」の七絶を認めた、とのこと。唐杉さん、うまいことやったな…。いやその、敵側の藩士にも、彼らの人気は高かったようで。

・相馬主計。榎本らと共に護送されたのは、「坂本龍馬暗殺の嫌疑あるを以て特に巨魁の中に加へられしなり」とのこと。土佐藩士が龍馬を殺された事に対する復讐の念が非常に大きく、新選組が犯人であると信じられていた。それで坂本に関してはシロだけれども、伊藤甲子太郎暗殺の咎で、三宅島に送られた、とのことでした。相馬だけ、「幕臣今井信郎の生涯」で今井幸彦氏が「箱館陣中でも職制ではない、たとえ名義上の新選組代表代行でだったとしても他の六人と格が違いすぎる」と疑問を呈しておられて、これに自分も同感だったのですが、そういうことだったようです。つまり、戦争犯罪人と、戊辰戦争前の殺人事件の咎人が、一緒くたになって送還されいたということ。

・コラシュは五稜郭で錬兵に従事していたが、夜は少年子弟にフランス語を教えていた。

・小笠原賢三。幕府軍艦役で甲鉄艦の構造を知っていたので、アボルタージュのときに高尾に乗り込んでいた人。後に逓信局司検所司険官となった。多分しだりんの同僚か部下だな…

・吉田次郎。陸軍奉行添役。二関源治ら見国隊と共に仏蘭西船に乗って箱館へ。降伏時は斉藤辰吉とともに室蘭へ赴き、沢太郎左衛門らを帰順させた。後、記録寮七等出仕。

・見国隊の方々。二関源治。「痩躯長大、面貌閑雅」(閑雅:落ち着いていてみやびなさま。上品)。 源治と共に上陸した片山源吾右衛門「白皙矮躯」。見国隊参謀・大塚董之助、後、利篤。「風姿瀟洒」…なんか美形が多いですな、見国隊。

・渋沢誠一郎については、感旧私史では丸毛、ボロクソに暴露していたけれども、ここでの注釈ではおとなしかった。それでもやっぱり好きなのか嫌いなのか、1頁を割いて長々と述べている。彰義隊分裂の原因の近いところは「府下の巨豪に諭し、軍費を献せしめんとせしに出てたり、是れ将た天野等が口を之れに籍りて渋沢氏を排斥しにや」とな。渋沢は後租税寮七等出仕、養蚕研究のため欧州に渡航、帰国してからは商業に投じる。

・獄中の筆。主人の中に、筆を作るするスキルを持った人が居て、刷毛を求めてその毛を取って筆を作ったのだそうだ。それを一同、特に大鳥、重宝した、と。

・荒井さん。甲鉄艦が幕府への引渡しで、米国から着航する際、勝海舟が、荒井さんを甲鉄艦の艦長に推していたのだそうな。世が世なら、開陽丸と甲鉄艦の、世界でも有数の巨大戦艦二艦の艦長になっていた可能性があったわけか…。

・揖斐吉之助。旧幕撤兵隊の者、ということで、屯所の仕込方として駿河から派遣されてきた、と圭介が書いている。これに対して、丸毛君の注釈。揖斐は元伝習歩兵差図役で、後、陸軍少将と出世。この人、「旧幕臣の明治維新」によると、当時少佐で、鬼教官として鳴らし、諸藩から集った兵士たちの怨嗟の的となっていた。一方、軍の上層部からは有能な人材として評価されていたとのこと。楠正成を尊敬する朝臣を鼻であざ笑う、ニヒルな徳川遺臣だったそうな。…そんな面白そうな人が、屯所の仕込方。牢獄のすぐ外でイケイケやってたんだ。牢内に響く兵士の悲鳴。

・砂糖屋武助が出牢するときに、圭介は根本という人へ伝言を頼んでいる。この根本、根本公直という人。韮山代官江川英龍の従属で、維新に際して柏木総蔵と共に顕職に就いたとのこと。家族のことでもお願いしたのだろうか。江川ネットワークが生きています。

・獄中詰め込まれ様子。「残暑の節、一畳の上に二人づつ並びて臥すは随分難渋なり」は、新人物往来社版にも含まれているからいいとして。同方会誌版のみ、「但し二人も相手によりては格別苦しからざりし昔しを思ひ出せり呵々」とある。この部分、山崎さんが大鳥圭介伝で書いていたから、何に由来するものかと思ったのだけれども。これか…。
「昔」って何ですか。適塾か。 それとも荒井さんとの同居なのか。 そして「呵々」って笑いは一体何なんですか、大鳥さん。「呵呵 :大声で笑うさま、あはは。(大辞林 第二版)」…て、照れ笑い?
なお、新人物往来社版の獄中日記は、前半部分は、戸川残花が大鳥に頼んで原本を得て、「旧幕府」に掲載され史料欄に納められたものを収録している模様。ちなみに後半部分は大鳥の元になかったので、「旧幕府」自体が、丸毛が写して同方会誌に掲載したものを収録し、これを新人物往来社版が用いている。つまり、新人物往来社版は、獄中日記でも前半と後半で謄写者が違うんですな。
「二人も相手によりては〜」の問題発言、戸川さんは見なかったフリして書き写さなかったのだろうか。それを丸毛はしっかり書いて、山崎さんがさらに圭介伝に載せた、と。

・荒井さんが相馬に代わって五番部屋、四番の圭介の隣にきた際。新人物往来社版(戸川版)では「隔壁にて色々談話を為せり」。同方会誌(丸毛版)では「大に談話を隅壁にて催せり」。…こっちのほうがうるさそうだ。圭介、よほど嬉しかったのか。箱館ではお互い忙しそうで、圭介はほとんど巡見視察に出ていて箱館に居なかったし、さもなければ防衛対策と、金策や箱館町人との折衝に走り回っていたし、あとはひたすら戦闘現場だし。ゆっくり語る暇もなかったのでしょうな。

・このほか、戸川版と丸毛版で、書き写しの際に色々と表現違いが生じている。(写すにも圭介の字、読みにくいし、大変だったんだろう)。 戸川版のほうがあえて無難に纏めている気がする。写本する人が違えば、内容も若干違い、印象も異なってくるということで。中田版の「幕末実戦史」ほど著しい違いはなくて、大抵はなんでもない些細な違いなんですが、その微妙な違いが、ワタクシにとっては、結構、重要だったりする。

…眠いのでとりあえずこんな感じで。続きは又明日…。
いつもながら丸毛君には、悲鳴をあげさせられます。書きすぎだってばー。
いやまったく、ありがたい方でいらっしゃいます。手を合わせる。

    [2] ままこっち URL 2006/05/23(Tue)-23:45 (No.63)
    入潮さんこんにちは。精力的な記事のUPは嬉しい限りです。
    週末に日光六方沢へ、満開(のはず)のシロヤシオツツジを拝みに行ってきました。残念ながら今年は花つきが芳しくないうえ開花が遅く、枝ばかりでした(涙)それでも六方沢橋で谷底に向かって「大鳥先生ー!」と叫んでまいりました。入潮さんのバイク旅行記、事前のルートチェックの参考にさせていただきました。ありがとうございます。
    ところで・・・小ネタで申し訳ないんですが、相馬主計が流されていたのは新島だったと思うんですが、記述に三宅島、と書いてあるんでしょうか。もうひとつ、イトウカシタロウのイトウは「伊東」でございますので、何卒よろしくお願いいたします。

      [3] 入潮 2006/05/24(Wed)-04:35 (No.66)
      六方沢ご苦労様でした。休日は家族サービスに努められるお姿が眩しいです。天気は良かったようで何よりです。今年は寒いので例年より開花が遅れているとのこと、赤ヤシオは見ごろだと思うのですが、白ヤシオはまだ先のようで、残念でございました。

      相馬の流刑地と伊東甲子太郎の苗字については、わざわざのご指摘、かたじけないです。双方、同方会誌の原文のままでした。おや?とは思ったのですが、丸毛の記述で「三宅島」、「伊藤」となっていたので、何も考えずに準じてしまっておりました。
      標準認識が別にある場合は、一言添えておくべきでしたが、新選組については旧幕史料を通して見ているだけでして、何が標準かをあまり存じ上げない、至らない身でございます。新選組はメディア情報が多く、何が虚構で何が推測で何が事実なのか良く分からない一方、根拠に確信の持てる資料にアクセスするのが至難で、事実確認が難しいと悩んでしまっている次第です。ですので、ご指摘は大変助かります。ありがとうございました。

      漢字については、正しい漢字を探しても、公文書でも一定していないし、墓碑と戸籍ですら漢字が違っていて、どうしろというんだー、頭を抱えることがあります。当時の皆さんはおおらかだ。名前でも次郎と二郎とかは見る毎に違いますし、「正」が「鉦」になったり「鐘」になったり、何故そうなる、という場合も。榎本さんですら釜だったり鎌だったりしますし。大鳥→鵬のように本人が遊んでいる場合もあり。本人が正しく書いていても、写本者とか活字を組んだ人が間違える場合も当然ありますし。
      そういうわけで、現代語に直していても、「〜とのこと」としている部分で自分に確信が持てない所は引用元に沿うようにしています。…や、勿論、単純な自分のタイプミスも多いです。すみません。

    [4] ままこっち URL 2006/05/27(Sat)-17:17 (No.71)
    ああー入潮さん・・・アカヤシオは確かに花開いていました、確かに。でもシロはまだだったんです(残念)
    史料の記述、やっぱり原典どおり、でしたか。そうかな、どうかな、いやでも更新時間が明け方だしもしかして、とかナントカと色々考えましたが、原典どおりとのことでちょっと安心です。
    伊東先生の苗字の表記は実弟・鈴木三樹三郎の息子さんが「伯父伊東甲子太郎武明」という本を書かれていることもあり、おそらく「伊東」が正しいのでは、と思います。資料関係でもあまり「藤」の字になっているものは見かけないように思います(当たり方が足りないのかもしれませんが)
    相変わらずお仕事大変なようですが、体力低下しやすい季節です、無理せずほどほどに・・・入潮さんのことですから、仕事がキツかろうと雨が降ろうと、六方沢の谷底で1人野営でもしかねない、と本気で心配しています。

    [5] 伊藤哲也 Eメール 2006/05/28(Sun)-00:23 (No.73)
    伊東甲子太郎の苗字は伊東で良いでありましょう。ただ、多くの隊士名簿原本だと「伊藤甲子太郎」と書かれている。数ヶ月前の発言に同じ内容のレスをしておきました。
     九州に行っている時は変名をしたり。原本でどちらが書かれているかでありましょう。

      [6] 入潮 2006/06/01(Thu)-12:33 (No.74)
      お返事が遅れまして、大変申し訳ないです。また、お二方様に、細かいところまでご指摘いただいて、恐縮です。

      ● 名前について
      人名・地名の漢字違い、史料に当たっていると誰もが泣かされるところではないでしょうか。
      名簿比較は色々と楽しいです。お二方がメインにされている新選組ですと、大塚霍之丞の附録名簿には大野左仲、宮氏名簿では谷口四郎蔵、石川勇次郎、という方々がいらっしゃいました…

      号や諱のほうは、詩作や公文書などで一定しているから混乱はあまりないですが。通称の姓名については、記録どころか、身内や本人ですら一致して使用していないのですから、何が正しいかということを設定することに、自分はあまり意味を見出していません。人名に関しては、読む側に分かっていただければ良い、というレベルで、自分はかなり適当です。無論、ご本人が自分の漢字はこれである、と指定されている場合は別ですが。引用の際は原文に沿う、自分の著述内では最も一般性がありそうなものに一貫性を持たせる、というのが無難なのではないかなと思いますので、そのようにしています。

      ● ヤシオツツジについて
      桜と同じで、開花時期が短い上に気候に敏感で、罪な花です…
      ただ、行楽で行って見るのと、飢えと疲労と責任の重圧の極限状態で見るのとでは、全然違うのだろうので、むしろ見ないままに書き残したものを元に偲んでいるほうが、本人には近いところにいられるのかなぁと思ったりもします。
      …といって、地震に、六方沢谷底の夢を砕かれた人間は負け惜しみをしています。はは。
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2006年05月21日

同方会誌 大鳥圭介獄中日記 丸毛利恒補注 その2

続きです。

・明治2年9月9日の日記。圭介、「梁川君賦獄中九日二絶。以示余其一」として、「也被啼鴉呼夢回〜」の詩を記載していますが、この「梁川君」とは勿論、榎本のこと。見逃していました。丸毛がしっかり注釈いれてくれています。1番部屋の榎本と4番部屋の大鳥は会話はできなかったはずなので、人づてに榎本から詩が来たということか。読むときは、「梁川君」「如楓君」と言い合っていたのかと思うと、微笑ましい。にしても圭介、9月14日「榎本感冒、絶食の趣聞きて憂慮甚し」、16日「医師来る」、18日「医師来る」、21日「榎本吃逆甚、人々心を傷めたり」、23日「榎本容体少佳、医師来」…これら医師は榎本がらみだけではなくほかにも病気の人も居た模様ですが(圭介は無事)。榎本の容態を聞いては、書き綴っているあたり、健気です。

・牧野主計。陸軍奉行添役。彼、大鳥の極寒サバイバルな松前・江差巡行の折、同行していました。牧野主計は元、草風隊の参謀。伝習隊脱走後4月15日に、諸川で御料兵の加藤平内や米田桂二らと共に脱走軍に合流している古参です。以来、草風隊は、宇都宮、北関東と伝習隊と共に伝習隊と共に戦闘を繰り返し、隊長村上求馬は藤原の戦で戦死。その後会津で戦い、大鳥に従って函館に入った。大鳥と結構付き合いは長い模様。箱館で陸軍奉行添役には、他に草風隊から佐久間悌二が就いています。

牧野主計は、隼之助とも。後に数江と漢字を変えている。書や書画を善くし、錦池と号している。幕府の使番だった牧野左近が兄。
後、開拓使出仕というけれども、明治7年・12年の官員録では確認できなかった。明治16年7月没で、このときは横浜税関勤め。丸毛との付き合いも深かったようで、その死が嘆かれている。

・そいや、今気がついた。南柯紀行、「旧臘中ブリュネ工兵士官と共に、大森浜の砲台を見立、且、峠下森村辺まで行きて緒砲台の地勢を巡見せり」とある。臘は陰暦一二月のこと。大森浜は箱館の東側にそういう地名のところがある。森村は多分今の森町で、鷲ノ木のすぐ近く。松前江差方面のほか、年が明けてすぐにも、大鳥、峠下・鷲ノ木方面の巡察もしていたのだな…。それで3月中旬に五稜郭戻りだから、ほとんど箱館にいる暇なかったんじゃないか。奉行だからもうちょっと本部でふんぞり返っていればいいのに。働き者めー。

・獄中に没した松岡磐吉、江川英龍の家士だった。代官手付、安政、文久の間に長崎で海軍術を学ぶ。軍艦頭を経て軍艦組、軍艦役に。遺児が一人、当時4歳。彼女は吉井茂則という方に嫁ぐけれども、この吉井氏、工部大学校五期生で、造家科。次男次郎が松岡家を継いで、海軍予備校で学んでいるとのこと。

・森常吉、桑名藩士。定敬に従い奥州を転戦して仙台から合流して、藩主直属は3名のみという制限のために新選組に入って箱館に。差図役頭取改役。帰順後津軽に禁固されていたが、京都での周旋の首謀と目されて、牢に送られてきたとのこと。圭介に青森の新聞を渡している。

・人名でも読みにくいものはルビを振ってくれているのがありがたい。峠下襲撃の説明で、瀧川充太郎具綏が「みつたろうともやす」。ずっと「じゅうたろう」と思っていた(十太郎、という漢字もあったので、じゅうたろうと信じて疑わなかった。そういえば「光」太郎もあったけど、充の写し間違いかと思っていた)。伝習隊のコンテンツの説明でも間違えてました。すみません。
大野村にて「君(大鳥)撃ちて之(官軍)を走らし、大砲二門を奪ひ、敵を斬獲する十余人」…丸毛君、そんな大鳥が直接やったみたいな書き方を。

・今井信郎。圭介と同房に入牢。皆と共に青森のお寺に謹慎していたのですが、坂本龍馬殺害の件で別途東京に送られた。ここでも丸毛君が詳細に説明してくれている。今井による龍馬殺害の件は、私闘の暗殺ではなくて、れっきとした幕府命令下の公務であった。そもそも捕縛が目的で、殺害まで及んだのは、相手が反抗したから、やむを得ずというもの。取調べ側が静岡藩に入った元見廻組の小笠原石見に照会して、私殺ではないということが判明した。それで、「格別寛大の御処置」が出て、罪は問わず、今井は静岡藩に引き渡されることになった。この「寛大の御処置」については、御子孫の今井建彦氏が考察されています。
よく、龍馬を暗殺した男、ということで注目されていますが、暗殺ではないのですよな。今井はその件について聞かれるたびに「オレが殺人犯だとわざわざ主張するやつがいるか」と苦笑していたそうですが、今井にしてみたら、仕事でやむを得ずやったことなのに、たまたま相手が有名人だったというだけで、後々引きずられるのは迷惑だ、というところなんでしょうなぁ。

丸毛君が、今井の諱を教えてくれました。「為忠」または「耕戦」。戦い、耕す。正に今井の人生がそこに込められていると思います。この方の人生の本領は、龍馬関係ではなく、衝鋒隊を率いて常に乱戦にあった戊辰の戦線と、降伏後の半生にこそあると思う。

今井は、戊辰戦でも特に、乱戦の中、最も血の濃い修羅場に在り続けた方。衝鋒隊の将として常に銃弾降り注ぐ中を生き抜いた。「オレを撃て」といわんばかりの、目立つ事この上ないチンドン屋まがいの衣装で、文字どおり白刀と銃弾の降り注ぐ屍山血河の最前線で、仁王立ちになって、関東、北越、会津、箱館を通して衝鋒隊を率いて、隊長の古屋を支え続けた。戦闘は50戦を超え、逃げる味方は回天丸で斬り、95%を超える士官損耗率の衝鋒隊で生き抜いた。この悪運の強さ。戊辰の猛将の名はまずこの人にこそ与えられるべきだと思う。(土方の戦闘は数にすると今井の1/5程度で、しかも実際は後方に居たことが多かったことを考えると、メディアは罪なものだ、と。まぁ、比べるのも無粋なことですが)
降伏後は一転して、静岡牧ノ原で、開墾と茶をはじめとした商品作物の栽培、士族の授産に従事。農業と教育、即ち、産業と人材を育てるのに力を尽くした。キリスト教にもミイラ取りがミイラになるかの如くに、入信。晩年は(偶に刺客に襲われ撃退しつつ)平穏な日々を過ごした。詩作とか見ていて思いますが、この人、感性がとてもまともで、根本は穏やかな人なんですよなぁ。荒ぶるとスゴイ熱いですが。

二股・矢不来撤退ではゴネて古屋と大激論した今井。それで撤退指示した大鳥にしこりがあるかと思いきや、牢内では今井が大鳥をからかって楽しんでいた感じ。大鳥の背の低さ(5寸以下、つまり150cmそこそこかそれ以下)を南京カボチャ扱いし、獄中で将棋を打っては大鳥を追い詰めて、どうしても参ったといわない大鳥を笑う。一方で勉強については素直に大鳥から英語を学んでいる。そして、あの牢獄は実は大鳥が作ったというのを、人生の持ちネタに。書き物にも大鳥の戦いをちゃんと書いてくれている。遠慮がない感じで仲よさそうです。

・山内六三郎。後提雲。脱走の前、榎本の意を受けて、引き渡す艦に積載していた小銃や器械類をひそかに開陽艦に転載したのが彼だったそうな。宮古湾襲撃も、もともと甲鉄の構造を熟知していたゆえに、蟠龍に同乗していたとのこと。林董は自分では単に面白そうだったから、とかいっていましたが。後年は、妙に薩摩に好かれて、開拓使の重鎮、鹿児島県知事、製鉄所長官に。大変優秀な人材です。

・12月21日、「寄富兒」の漢詩。「右文左武共師今 徒読父書宜自箴 想汝他年成立日 知吾一片後凋心」
この「富兒」、富士太郎のことだと、丸毛君が教えてくれました。言われてみれば、何で気付かなかったんだろう…という感じ。
文と武、共に、今その師となる。そのはずの父は、徒に書を読んで自らを戒めている。汝が成人する日のことを想う。すると(それを見ることができない自分について)心が萎んでいく。…という感じの詩でしょうか。…涙
で、この富士太郎について、丸毛君の解説。(東京大学)法科大学を卒業、明治23年欧州に渡ってパリの大学に入り外交学を3年間修める。卒業して27年9月に帰朝、現在台湾総督の秘書官。この詩に負けないというべきか、とのこと。
…うっしゃ、黒田清輝のパリ在住と時期的にピッタリ。これで、清輝とセーヌ川を一緒に歩いて、留守は寂しいと清輝に言われていた(いやほかの人と一緒にですが)大鳥君と富士太郎が同一人物というのは間違いないでしょう。まさかここでウラが取れると思わなかった。ありがとう丸毛君。

・年が変わって明治3年1月28日、「悼中島父子戦死」「悼五稜郭戦死諸将」の詩。これに、ここぞとばかりに詳細な解説をつけてくれています。中島さんについては2ページ以上。それから、降伏前の榎本の自刃未遂について丸毛君が説明。小杉の雨窓紀聞など他書がそれを記しておらず、官軍からの再三の降伏勧告を退け、万国海律全書を渡しておいて、忽ち恭順謝罪したのは何故だと不審がる人間が居るから説明した、とのことですが。
小杉さんだけではなく、圭介も、榎本の自害を止めて指を大怪我した大塚君も、榎本切腹については何も記していないんですよな。何か理由があるのだろうか。

・明治3年5月5日、箱館で謹慎していた部下たちが駿河或いは東京へ着、という新聞を大鳥が得る。丸毛の註釈では、4月17日午後8時に箱館出帆、寺泊を経て翌日上陸。駿河徳川藩から担当者が迎えに来て、二組に別れ、一組は関口頼藻と中山修介が率いて東京へ。別の組は下山蓬吉と吉橋爪昇一郎が監督して静岡へ。丸毛や本多さん、山口君はこの中にいたのですな。静岡着は5月3日。
で、11日に箱館より帰郷した方々が、彼等七名に西洋料理一箱を送っています。それとは別に本多君が6月2日に西洋料理を差し入れ。6月23日に浅田君がうなぎを差し入れ。…彼等も無役で極貧生活から始めないといけなかったわけで。人のことを慮っている余裕もないだろうに。
一方で圭介は、銚子沖のマンボウが美味そうだだとか、アシカが見ごたえあるとか。のんきなことを書いている。もとい。帰藩したとはいえ、榎本らが未だ囚われの身にあるうちは、脱走帰藩組もすっきりと新生活を始める、というわけにもいかない心境はあったものだと思います。

ちなみに、浅田君の註釈。「会津の某戦に負傷し箱館に来り病院に在り、今乙葉林八と称す。奇楽澄涼丸を以て名あり」名があるんだ、浅田君。念のため検索してみたら、浅田漢方薬の中に「澄涼丸」というのがあった。硫黄、胡椒、寒晒粉から作られていて、腹痛、霍乱の諸症を治すのだそうだ。薬の名前を浅田君がもらったのか、浅田君の号を御舅さんかその弟子が受けたのか。


そんな感じで、たらたら書いてしまいました、同方会誌獄中日記丸毛註釈版。丸毛君の筆に感謝の念を注がずにいられません。

同方会誌ですが、「同方会誌」だったり「同方会報告」だったり、図書館によって、資料名のタイトルが一致していません。発刊当時の雑誌名が同方会報告だったのですが、後に変更になりました。(このためにしばらく探し損ねていた…)。当たられる方は、両方をキーワードにされてみるとよいかと思います。
立体社から1980年に復刻されているので、比較的手に入りやすいと思います。監修されているのが大久保利通のご子孫で、歴史家の大久保利謙氏、というのも面白いです。

旧幕臣といったら、「旧幕府」ですが、同方会誌もかなりエッセンスたっぷりで、負けじと面白いかと思います。
詩作の発表、時事問題、江戸時代の言葉や風俗から、石炭やスチームタービンの科学的考察まで。旧幕臣たちが思うままに趣味の事項を取り上げている感じです。

後の号で、旧幕臣列伝のような感じで、人物紹介が連載されています。マイナー旧幕臣ファンの方は要チェック。丸毛は「まるも」と読むそうな。「まるげ」と思ってました。常識だったらごめんなさい。
いやその、人物の名前、読めないままそのままになっていることって多くないですか。それで図書館や博物館のリファレンスで口にして、初めて読めなかった、ということに気付いて、間違った読みをして恥ずかしい思いをする。…私だけですか。ごめんなさい。
posted by 入潮 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月23日

絵本明治太平記 瀧川の死

絵本明治太平記、福井淳編、明治19年。
こちらに、人吉の瀧川が居ました。

「人吉の戦ひに瀧川中尉討死の事、並に人吉落城の事」
ということで、見出しにもなっています。

(これまで戊辰戦争では、「賊」というと旧幕軍で、官軍はその相手側だったので、「賊」が相手側で「官軍」が主題側というのは妙な気分…)

明治10年5月。山川(浩)中佐の一隊が、兵を二隊に分け、一手は黒野田に堅塁を築いてこれに拠った。もう一隊は山麓から進んで、川辺、深見の両村を経て、人吉に侵入する。この隊に瀧川がいた。

ここに賊(西郷軍)は大砲数門を置いており、防戦がもっとも激しい地域となった。
官軍側の兵は右翼で防ごうとするが、防ぎかねて全軍で河辺村まで退く。深水村まで至ると、賊兵数百、杉林の中から射撃してきて、激戦は数時間に及ぶ。
そして、瀬磨山方面に官軍の瀧川らの隊が進む。農夫に賊兵がいるかどうかを問う。一兵も無しとの答え。さらに数百メートル進むと、道が険隘で並ぶことができない。

その時、森林の中から、雨の如くの銃弾が降り注いだ。隊は余りの不意に驚いて、我先を争って逃げる。

これを見た瀧川中尉、剣を揮って厳しく叱咤するが、隊の壊乱を止めることはできなかった。さらに退くこと数町。漸くにして隊を整えて、防戦しようとするが、一度崩れた隊で盛り返すのは容易なことではない。終に、右翼の兵が支えることができなくなり、敗れた。ここで。

「瀧川中尉は身を挺(ぬ)きんで突進して、兵士を指揮し、其身十余創を被ぶり、満身血に染またれども、猶剣を杖(つまづ)きて退かず。既にして賊の兵勢漸く衰へて退きたり。此時士官某、瀧川を抱き大声にて戦い勝りといふ。瀧川笑ひを含で死せり」

瀧川は一人身を抜きん出て突進、十数か所もの銃弾を受けて全身血に染まりながら、なおも剣を杖にして立ちふさがり、退かなかった。ようやく敵の勢力が衰えて退く。ある士官が瀧川を抱いて、大声で、勝ったぞ、と叫ぶ。瀧川はそれを聞いて笑いを含んで、死んだ。

「明治過去帳」のほうでは、銃創が15、刀創が6箇所という負傷の身を、馬に縛り付けて勇戦。負傷した戦友奥山庄太郎の銃を貰い受けてなおも防戦した、ということで。その不死身男な書きぶりも凄かったけれども、これもまさしく瀧川だ、と思った。

男ぶり良すぎ。戦友の手の中で、勝利の声を聞きながら、微笑んで息絶える。どこの少年漫画のヒーローですか。

大鳥なら馬鹿者、って言うのだろうけども。
思わず世界が車田正美になった私も馬鹿です。「瀧川の小宇宙が消えた…」とか、離れたところで星を見ながら呟いている大川を想像した。
…格好良過ぎるとついキャラクター化してお笑いにしたくなってしまう。関西人の性です。
公文書のように淡々と記録してくれているほうが、心を健やかに保って、真面目に故人を偲べるから、楽でいいです。

といいつつ、絵本明治太平記。大衆向けの小説構成なので、どこまで本当なのかわからない、という点はあります。なにせ大鳥についての紹介が以下の通り。

「抑々大鳥圭助、驍勇の名、益々聞へ、善く兵を用ひ自在なる、臂(ひじ)の指を使ふが如く、部下の兵卒も精鋭の者なれば向ふ所前なし。官軍しばしばこれがため窘(くるし)めらる故に、官軍皆、大鳥圭介憚り、敵国に比せりと云ふ」

兵を使うのは、肘が指を使うごとくに自在。官軍はこのために苦しめられ、皆、大鳥を恐れて、彼一人が、敵一国に相当すると言っていた。

ご本人が聞いたら、虚ろな眼でしばらく風化していそうです。

…もとい。この記述については、「近世事情」官軍側の記録にも似た表記がありますので、それなりに適当ではないかと。…本当だってばー。

一方、福島攻めに圭介が居たりして、多少疑問なところもあるのですが。基本的に明治太平記、かなり史料を読みこんで作ってあるように見られます。丸毛君はじめ、いろんな人の日記や記録の記述がちらほらある。
絵本という割りに、本文は結構ちゃんと書いてあります。絵本というか、小説の挿絵程度にしか、絵はないですし。瀧川に関しても二股にて。

「賊兵大いに乱れ立ち死傷者最も多りしが、彼の瀧川ハ激して頻りに見方を励して駒井をめがけて討て蒐る」

としっかりと活躍を描いてくれている。マイナー人物の紹介も多く、群像好きには、嬉しい造りになっています。

明治太平記はいろんな異本がありますので、年代と著者を基準にされるとよいかと思います。参照したのは小説形式のものですが、本当に絵本で、バックに平仮名で書いてあるのもある。

こういう当時の娯楽モノが、実は結構、読みやすくて、当時の世相において各人がどう受け止められていたか、その認識をよく表してくれているんですよなぁ。なにせ本人生きているから、誤った迂闊なことは書けない。どこまで史料扱いできるか、というのは、別口から確かめなければいけないのですが。派手な書き方をしてくれているので、ウラさえ取れれば、見ごたえあって大変よい材料になるのではないかと思います。
戊辰戦争と西南戦争について、官賊問わず、両陣営、満遍なく触れてくれているので、お気に入り人物を追ってみるのも一興だと思います。

(今まで「滝川」で通していたのですが、見る史料の多くが「瀧川」表記で、「滝川」で探すと探し損ねることが多かったので、今後、こちらでの表記も「瀧川」で統一したいと思います。勝手こいてすみません)

[2] 入潮 2006/05/24(Wed)-01:19 (No.64)
肝心な事を書き忘れていました。
「絵本明治太平記」ですが、国会図書館のデジタルライブラリ(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)で読めます。
自宅に居ながらにしての贅沢。ブラボー。

posted by 入潮 at 03:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

同方会誌その3 異動欄について

同方会報告の、「異動」欄。
会員の転居や入会・脱会・改名、そして死亡について、住所つきで、毎回、奥付前に触れてくれている。なので、同方会の会員の行方については、これを追うと判明するものが結構ある、嬉しい構造になっています。
明治30年代も後半になってくると、見知った方々が続けざまに死亡欄に記載されていって、辛くなる。榎本さん、荒井さん、圭介、渋沢さん…。知った名前がどんどん去っていく。寄稿を続けて会誌を引っ張っていた丸毛は、明治38年に台湾で亡くなっている。一方、人見さんは大正11年没で、毎回例会とかに名前が現れているので、その長生きが頼もしい。

・明治40年、榎本さんの家が水害に遭って、同方会から見舞いを受けている。
榎本さんは、同方会の会長を勤め、例会や慰霊祭、式典などには欠かさず出席していたので、同方会における存在感はとても大きい。榎本さんあっての同方会、という感じ。その死去に関しては特集が組まれ、顕彰のために銅像が立てられている。

・大正元年10月の第35号に、圭介死亡が掲載。それで、入れ替わるかのように、大量に入会者が生じています。偶然だと思いますが。入会には紹介者が必要なようですが、発行者の赤松範一氏が、張り切って紹介者として、メンバーを増やしていました。旧幕の重鎮が次々に世を去って、世代交代が行なわれていく感じではあります。
江原素六とか、本多晋とか、主要メンバーはまだまだ頑張っていますけれども。

このときの入会者。まず、乙葉林八こと、浅田君。いた!という感じで。「牛込区横寺町 売薬業」となっていました。薬屋を営んでいた。恐らく、浅田宗伯さん関連で、漢方の薬屋なんだろう。
浅田君、脱走帰藩の沼津移住者の名前には見当たらなかったから、多分そのまま東京に戻ってきたのだろうと。そして、澄涼丸の名の、浅田宗伯漢方への採用を考えると、ちゃんと嫁さまや宗伯さんの元に戻ってきたんだな、と。今のところ、官員録などで名前を見たことはないので、おそらく市井の薬屋さんとして生きたのだと思います。

戦中は猪突隊長だった彼ですが、圭介より長生きしてくれていました。なんだかほっとした。伝習隊には、圭介より若くして先立っている人が多かったので。
大正6年に、大連市に転居しているのですが、これって中国の大連ですよな…。そして、大正7年(1918年)7月16日、大連市にてご臨終。同方会より御香典が贈られています。

・他に同時期の加入者。衝鋒隊の内田庄司の息子(弟という記録も)で、箱館で「総裁付き少年」だった内田万次郎。麹町区大手町で、印刷局技師となっています。
それから工部大学校卒業生の小田川全之。牛込区原町で、古川鉱業の理事。
さらに人見寧。府下南品川在住で、もう退職しているのか職は無かった。
それから、中島さんの遺児、中島鍋次郎。巣鴨で女子職業学校職員。
あと、海軍少将の小花三吾は小花万次の紹介とあるけれども彼は小花冬吉の係累か? 要確認…

・そして、出ました、石橋絢彦。上の方々と同時期の入会。阪田貞一という方の紹介ですが。石橋はこの後、ここぞとばかりに、榎本らから聞いた戊辰戦争話や沼津移住の旧幕臣について、語り綴ってくれます。もう、その紙面を牛耳らんとするが如く、毎回、大量の記事を掲載しています。あたかも丸毛君の後を継いだよう。特に、「沼津兵学校沿革」は圧巻です。巨星現れる、という感じです。
樋口雄彦氏が、国立歴史民俗博物館の報告「箱館戦争降伏人と静岡藩」と「旧幕府陸軍の解体と静岡藩沼津兵学校の成立」で、沼津に移り住んだ幕臣のその後の行方とか、幕府時代との繋がり等を、一人一人について逐一考察されていて、スゴイ…と驚愕していましたら、大元のかなりの部分が、石橋あややんの記事に拠るものだった…。もちろん樋口氏の研究自体も素晴らしいですが。
ほんと、石橋は工学博士だけではなく、歴史家としても、十分に食っていけた方だと思います。学位論文も書けたのではないかと。

・工部大学校生では、真野文二(父親の肇も)、小田川全之、三好晋六郎、妻木頼黄が頻出です。嬉。
真野と三好は、大鳥が審査総長を務めた第五回内国勧業博覧会の審査員になっていた。

・賛助会員ではあるのだけれども、大鳥は一度も行事の参加者としては名前がなかった。寄付者としては顔をだす。つまり、金だけ出してそのイベントには参加しない。明治36年の慶喜の公爵位授与の際に、同方会員で盛大に祝典を開いた際も、出席せず、漢詩だけ送っていた。
一方で、獄中日記のみならず、如楓家訓とか、別荘についての逸話とか、TK生という怪しい人による写真のエピソードとか、清在住時の語りとか、書画とか、時々、関連事項が掲載されている。これらは皆、編集者の方や周辺人物が本人の許可を得て掲載、というもの。
大鳥は、子々孫々の幕臣というわけではなく、一代成り上がりの人であるわけで。幕臣の繋がりコミュニティ、という場では、榎本さんたちと違って、結構ドライだったのかもしれない。義理だけ果たしている、という感じ。学会や専門雑誌など、実利のあるところにはよく顔を出しているけれども…。らしいといえばらしい。

・富士太郎・次郎も会員。富士太郎は外交官なので動きは激しく、転居通知にはしょっちゅう出てくる。大鳥と同じく行事参加者としてはあまり出てこないが、これは外国勤務が多かったせいと思われる。一方、次郎は時々、行事に出席していた模様。

・明治から大正に移るのと同じくするように、あるいはその前からもですが、榎本金八や春之助に武憲、荒井陸男、今井健彦、中濱東一郎(万次郎の息子)といったジュニアたちが登場して会の主力に。瀧川充太郎の弟、具和も同方会に入会していましたが、何故か退会している。

・山崎有信氏が、「大鳥圭介伝」について、広告というか、発刊のお知らせを載せている。価格二円五十銭のところ、直接山崎氏に申し込めば、二円にまけてくれるのだそうだ。同方会の入会条件は、「旧幕臣及びその子弟」だから、山崎さんは同方会には入っていない。会員になっていたら、戊辰記録の書き手として、彼ほど強力な人材もめったにいないと思うのだけれども。…無いものねだりです。

とりあえず、人の出入りについて、目に付くところをば。
まだ全然まとまっていないままのポストですので、逐次、追加いたします。
posted by 入潮 at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月27日

適合性

夜です。あー。まだ見積り作んなきゃ…。
提案書が二つ重なって、にっちもさっちもいきません。
最近、普通に結婚して普通に子供育てたいと思うことが多いのですが、それが月面旅行より遠い世界の夢に感じる。

草鞋が3足になりました。
成り行きで、非営利団体の構成員になってしまった。仕事の都合でですが。無給。
組織として若いところので、モノを動かそうとすると、名刺作りから理事会資料作成まで、山ほどやることがある。勿論、本業の仕事量は大して変わっておりません。
すでに自分の給料は、時給換算するととっくにマクドナルドのアルバイト以下です。最低賃金は満たしているのだろうか。まぁ、どこまでが仕事でどこまでがそうでないのかという線引きが非常にあいまいな分野ではあります。

にしても非営利団体って良いなぁ…。競争とか成果とか配当金とか利益率とかよりも、まず自分たちのやりたい事、理念を第一に考えて良い。なんせ何が「イイコト」なのかをおおっぴらに主張すれば良いので、申請書一つ作るのでも、楽しい。競争という柵から抜け出すと、こんなに負担が軽く感じるのか、と思う。あとは透明性さえ確保すれば良い。

やっている内容は仕事と同じなんですけれども。競争しなくて良い、という気の持ちようだけで、こうも変わるのかと思う。これで食えるだけの給料さえ出れば最高なんだけれど。

とか感じるあたり、どんどん自らの奴隷化が進んでいる気がする。
「真性マゾですね」と、後輩君は新たな前途を祝福してくれました。


ここまで人の心を荒ませる資本主義って何なのだろう、と思えてきた。競争で幸せになれるタフな人も中にはいるのは確かだけれども、自分はそこまで強くないや。
だからといって共産主義もアレなんですけど。

なにが合うんだろう。…やっぱり行く末は出家か。
清く慎ましく生きるって、最高の贅沢なことなんだろうと思います…。
posted by 入潮 at 06:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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