2006年07月01日

明治を生きた戊辰戦争人物伝その1:小柳津要人

本日の、明治を生きた戊辰戦争人物伝。
いつはじめた?なんてことは聞かないお約束。

小柳津要人(おやいづかなめ)。
「日本古書通信」の平成15年8月号に紹介されていました。引用文はそちらから。
この方、「箱館戦争日記」を残しておられます。

この方のユニークなところは、士魂商才の典型的な方だ、ということ。丸善の三代目社長で、福沢諭吉をして「元禄武士の魂を以つて西洋のマーチャントの風ある者」と言わしめた、とあります。早矢仕有的さんとも関係が深そう。

1844年2月15日生、1922年没。岡崎藩士宗和の長男。20歳の時に江戸に出る。大鳥圭介の学塾縄武館に入門して、兵学、洋学の手ほどきを受けた」とのこと。
大鳥弟子いた、いた。縄武館=江川塾です。……考えてみると、江川塾出身者で名のある人で、戊辰戦争の脱走軍側の参加者って、初めて見たかもしれない。新政府側はいましたが。徳川サイドは皆、恭順している。あとは榎本か。…極端だ。

それから、「開成所に学んで、英学得業士として新知識を身につけた」とのことです。開明派。得業士とは「学生から成績優秀の者を選んで与えた身分。一定期間の修学後、試験により修了を認定されて、専門の官職に就いた」と大辞林にある。

かと思いきや、戊辰戦争において、要人は藩の方針に納得がいかず、脱藩して、上司の志賀熊太に血判文を出した。そして、同士と共に江戸に来て、榎本の艦隊脱走に参加したとのこと。熱い人です。
「箱館戦争日記」は、この慶応4年8月19日夜の、艦隊参加の場面から始まっています。

遊撃隊は、もともと、伊庭八郎、人見勝太郎、岡田斧吉(旗本、箱館では改役遊撃隊頭取)、本山小太郎ら36名で、上総に挙兵。請西藩の脱藩大名林忠崇と結び、岡崎脱藩の藩士がこれに参加する。この時、玉置弥五左衛門(五郎とも。「遊撃隊起終録」の著者)と共に、要人は岡崎の国元から脱走しました。
「遊撃隊起終録」は、「箱館戦争史料集」に収録されています。西澤朱美氏が解題で要人の記録についても紹介して下さってました。要人の註釈もしっかりとある。さすが、いいお仕事をしてくださってます…。

箱館では、遊撃隊の差図役。大川の名簿にも遊撃隊一番小隊の頭取、柴田真一郎の下に名前があります。砲撃隊の指揮を担当していたらしい。場所は不明だけれど負傷している。恐らく、遊撃隊の被害が大きかった木古内あたりかと。

降伏後は、江戸を経由して、岡崎に謹慎。明治3年3月に放免されて、東京に向かう。その途中、沼津兵学校に立ち寄って学んでいる。「乙骨太郎の学僕となり、また外山正一の知遇を得た」とのこと。外山正一は、16歳にして開成所教授、東大初の邦人教授、東大総長、後文部大臣。その後、要人は上京して、大学南校、慶応義塾で学びました。九州の柳川で英語の教師となったとのこと。…と、当時のインテリ街道まっしぐらな感じの方。

そして、明治6年1月に横浜に出て、丸屋商社(丸善)に入社。当時の横浜は、外国商館がひしめいていて、通訳や業務調整ができる人間は完全に不足していた。要人のように洋学の才のある人間は横浜にこぞって出世を求めた、というその流れの中でしょうか。

要人は、めきめき頭角を現して、洋書の輸入や出版物の販売、自社出版と、出版事業を拡大していった。…「堰堤築法新按」も彼の手を経て出版されているのだろうか。
それからも丸善に勤め続け、明治33年には三代目社長に。大正5年まで社に尽くして、丸善を発展させています。

なお、艦隊参加前の、小田原の戦いを示した慶応4年5月6日〜8月17日分は、「遊撃隊戦記」として、「丸善百年史」に全文掲載されているそうです。こちらは未入手。今度探しにいってみようっと。

それから、明治39年に「新式戦闘艦各部訳名一覧」なんていうかっちょいい名前の、船用の辞書を作成しています。なんか、自分の便利のために作ったもの、という気がする。さらに、「舶用機関受験問答」「大統明鑑抄」の編者にもなっています(著者は別)。舶用〜は人気があったらしくて、明治26、28、29年と改訂版が出ている。艦マニア?

当代きってのインテリ。それが、血判状を上司に叩きつけて脱藩して戦争に身を投じて大砲指揮で前線を駆け回ったかと思うと、また学問の徒に戻り、その次には商才を発揮。

つかみ所がないというか。いろんな顔を持つ方です。そもそもあの時代、特に釈放後、誰が学費を出してくれていたのだろう。江川塾時代からの経歴を見るだに、かなりデキル人っぽい。興味深いです。

経済のことを口にするのはむしろはしたないこと。交換価値を知らないことが育ちのよさの証。そんな武士社会だからこそ、明治の世で、あれだけの士族が、馴染めなくて零落していった。その中でどうやったら彼のような方が生まれるのか。若いときの貧乏先生が、彼の価値観を破壊してくれたのだったら面白い。結局それか。ごめんなさい。


そんなかんじで、明治を生きた戊辰戦争人物伝。
其の2、其の3はいつになるかわかりませんけれども、長期戦でまとめていきたいなぁと、うすーく思っています。有名どころでは林董や山内提雲、大塚霍之丞、丸毛利恒、本多晋、小杉雅之進、安藤太郎、牧野主計、小菅智淵、本山漸、などなど。賊徒のビハインドを跳ね除けて、官や民間で、それなりの重責を負っていた方々に光を当てたい。

林・山内コンビの出世街道は言わずもがな、という感じですが。山内提雲や林董が、いかに薩長から愛されていたことか。林には、謹慎中にその語学力を買われて、薩摩から開拓使に出仕しないかと持ちかけられ、仲間が謹慎の苦境にあるのに自分だけ甘い汁が饐えるかと、断った。これがかえって気に入られたというエピソードがある。それでいつの間にか長州閥の工部省の事務の柱に。外務省に移っては日英同盟立役者。外務大臣。伯爵。一方、山内君は鹿児島県の知事、かつ国家プロジェクトで当時の殖産興業の集大成といえる八幡製鉄所長官にまで昇りつめた。

賊徒だろうが戦犯だろうが。榎本も大鳥も荒井も、実力があったから必要とされて出世した。立見は陸軍大将に。山川兄も少将で貴族院議員。山川弟は初代博士で帝国大学総長。

永井さんも釈放されて直後に大鳥と同時に左院の引き立てを受けた。徳川の行政面を担っていた彼こそが、まず隠居する旗頭だったのではないかと一見感じられこそすれ。老練な行政経験が、新しい世の立法府に必要とされた。

それは、官に就き、天朝の為に働くことこそが、奉公だ、忠義のあり方だ、という意識変化がきちんと行われたことの表れだったわけで。

私、出世した人間が好きです。それだけいってしまうと実力主義賛美になって、いやぁな感じではあると思うのですが。最終的な地位ではなく、そこにたどり着いた過程を考えるとそうなる。それだけの能力を身に着けて、身を粉にして働いて、責任を果たして、役に立って、今の社会の土台になってなってくださったわけですから。

結局、古い価値観にしがみついたままに、近代化に必要な技能と知識と技術を研鑽しなかった人間が、淘汰されてしまったわけで。それは薩長もその他の旧藩も旧幕も同じ。武士階級の没落は、皆に平等に訪れていた。山口藩諸隊の叛乱も、稲田騒動も、佐賀の乱も、荻の乱も、神風連の乱も、西南戦争も、それを示している。これらの不平士族の大きい乱って、ほとんど、維新では官軍側の藩から起こっていますよな。勝ったのになんで優遇してくれへんのやー、という感じで。
一方で、賊とされた旧藩や旧幕のほうが、そのあたり割り切っていたような気もします。沼津兵学校の人物経歴など見ていると、箱館帰りの賊徒だった彼らのほうが、粛々と恭順した人たちよりも立ち直り早く、再就職の道に就いた人が多い。

無論、薩長政権、という言葉が代表するように、参議やトップは薩長土肥の方々が占めていた傾向はあるのですが。官員録を見ると、3等出仕あたりから、どれほど旧幕臣や佐幕諸藩の方の名前が多いか。官員の実に1/3が、旧幕臣で占められています。

官・民問わず、社会への尽くし方はあると思います。官に背を向け民に就いたからカッコイイ、というわけでもない。民間で活躍した渋沢栄一にしろ益田孝にしろ、「薩長の世」と僻んで民間に行ったわけではない。三等出仕という、明治初期の幕臣としては、勝海舟を除くと最高官位にいったんは就いてます。それに、当時民間で成功しようと思ったら、政商という言葉もありますけれども、官と人脈を作って便宜を図ってもらうことは不可欠でしょう。

富国強兵、殖産興業の世に、役立つ能力を磨けば必要とされた。そうでなければそれなりの運命。時代の要求に合わせて、必要とされる知識と経験を身につけていった人間が、実力に見合った地位に就いただけのこと。旧幕臣や諸藩の方々は、その子弟の教育に重きをおいて、人材を育てるという責務をきちんと果たしていた。

そう考えると、福沢さんの「痩我慢の説」は、現代ではしょっちゅう取り上げられていますが、自分としては、彼は一体何を血迷ったのだろう、という感じがしています。旧幕臣たちの箱館戦争とその後の人生を見つめてこられた山崎有信氏も、かの説を「自我撞着」と一刀両断にしておられましたが。有用な頭脳と能力を持つ方々たちに、「痩我慢」どという、耳に聞こえの良い自己満足に浸られて、野に引っ込んで隠居されてしまったら、発展する国もしませんわなー、と思います。国力とは、まず、中央の官に優秀な人材が集うこと、ですんで。

そんな感じで、自由民権運動にせよ払い下げにせよ、明治の政府を否定することが格好いいという捉え方を、今のメディアや教育がしている。それがエンターテイメントにもなっているというのを眼にすると、どうも、しっくりこない感じがしています。民力の向上を述べるのはいいことなんですけれども。

もちろん、NHKのシリーズ明治のように、明治の再評価という動きもメディアにもありますが。幕府、佐幕藩へのシンパシーが強いほど、明治に否定的な傾向がある。
世に背を向けて生きた生き方がカッコイイという声も大きい。それは当たり前といってはそうなんですが。
けれども、乱世を乗り越えて明治を生き抜いた方々の、国づくりの苦難とか家を支える苦労まで、きちっと見てこそ、彼らの戦いをちゃんと見届ける事になるのではないかなぁ、と思います。

一方で、彼らの、世に背を向けた様ばかり描き、弾圧を受けた存在としていることが、彼らを敗者に仕立て上げてしまっているのではないかと感じます。

彼らは決して負け組などではなかったと思います。

そんなことをえらそうにつぶやいてみた後で、どうでももいいことなのですが。
「旧幕臣」と打とうとすると、いつも「急場苦心」と変換されてしまって、なんだか水呑み百姓なアタクシの人生が象徴されているような気になって、切ない感じがします。
しょうもないオチですみません。

posted by 入潮 at 02:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

スーパーウーマン

先日、 ままこっちさん( http://mamakocchi.blog22.fc2.com )と呑みました。嬉。
周囲はお嬢さんたちが買い物におしゃべりにたむろする、四ツ谷の駅ビル。親父な飲み方しかしない奴なので、普段決して乗り込めない領域だったのですが。ままこっちさんのお陰で、なんだか若返りました。

新撰組ファンで大河ファンでいらっしゃいます。ブログで日々多くの情報発信に勤めておられる上に、その快活な語り口が魅力で、多くの読者の方を抱えて運営されている方です。毎日何かしらの価値ある情報提供を続けておられるバイタリティが凄い。

そして。ありがたいことに、大鳥を好きになってくださり、さらに、大鳥の魅力についても時々ブログで語ってくださっています。ままこっちさんが大鳥情報を流してくださると、ままこっちさんお目当ての新撰組ファンの方への普及効果があるというう。辺境の光あたらぬくらい場所でボソボソやっている自分などから拝見すると、後光が差して見えます。拝みます。

それで、ままこっちさん、夏休みで函館へご家族でご旅行されるとの由。五稜郭や資料館関係、二股などメジャーどころだけではなく、木古内・矢不来・茂辺地海岸まで廻ってきてくださるとのこと。
そういうことで、函館話とか、戦争話とかに花が咲きました。
大河ドラマとか、土方話とかで、土方ファンの方に「言っていいのかそんなこと」ということを、酒の勢いでぶちかましてしまった気がします。快く受け止めてくださったままこっちさんは、海のように広い心をお持ちだと思いました。

せっかくだから更に大鳥にはまっていただこうと、大鳥ナマ身史料ぐらいはもって行こうと思っていたのですが。準備が間に合わず。ご家族連れの方に、函館市図書館の箱館戦争関連の文献リストだけ渡して終わるという愚行をしでかしてしまったのが、心残りです。

お仕事ではキャリアを着実に積み重ねておられ、主婦としても母親としても立派に家庭を築き、ブログで発信されているように情報アンテナの領域が広く、さらに趣味に精をだしておられる。スーパーウーマンのような方です。

図書館ひとつ、旅行でも、自分だけが行きたいところに家族を連れて行くわけには…と思ってしまうんじゃないかと、自分などは思ってしまうのですが。そうではなくて、家族ぐるみな幕末ファン。家族を新撰組色に染め上げて、自分のハッピーは家族のハッピー。普段から一緒に楽しむ。そういったあり方を達成されている。
それはもう、尊敬、の一言です。言い訳の余地のゆるさない、理想的なファンのありかたを見た思いです。

仕事だけで精一杯で生活が成り立たなくなり、すでに枯れ果てて諦めの境地にいた自分には、まぶしくて溶けそうでした。いや、このままではいかんと、刺激をいただいて、志を新たにいたしました。

ここのところ色々重なって、モチベーションが枯渇状態で、サイトのほうもこの体たらくだったのですが、スゴイ女性とお話をさせていただくと、もりもりパワーをいただきます。本当にありがとうございましたー。


ままこっちさんとお話して思ったというか、トドメ刺された感じなのですが。

つい最近、とある国際開発系の雑誌の企画で、女性コンサルタント座談会というのに出させていただきました。いや、雑誌から会社に依頼があったところ、うちの会社の女性技術者が、皆出張中か産休で、一人国内でダラダラ穀潰ししている自分が槍玉にあがっただけ。

それで、集まった方々、エリート女性という言葉がぴったりなすばらしい経歴の方で、プロフェッショナルとして堂々とアサインされてる方々。そんな中にペーペーの自分が混じっていていいのか、と恐々としていたのですが。

仕事と家庭の両立で、時間のやりくり、子供の幼稚園への送り迎え、親御さんとの折衝のなかで、周囲に理解してもらいながら、生きている。だれもみんな、家庭に専念できない自分自身を、すまなく思っている。
そういう実態が明らかになりました。

他人から責められるより、自分が自分を責める声が一番ツライんですよな。

女性の社会進出、女性の専門職、というのは、どの業界でも企業が看板飾りのように掲げている事だと思うのですが。
男性と違って、女性は、有能な人ほど、仕事を「させてもらっている」という意識があるような気がします。
女性の本業は、家事と子育て、ということを分かった上で、自分がやりたいから、というわがままで、仕事をさせてもらっているのだ、と。
無論、割り切っている方も多いと思っていたのですが。でも、そうではないのだなぁと、最近よく感じます。

この職だと特に、1年の半分以上国内にいないのは当たり前。しかも行き先はろくな通信ができないことも多い。そんな環境なんで、家庭を半年以上空ける母親がどこにいるか、と思って、それを言い訳に、自分の人生に積極的になれずにいたりするのですが。

そういうとき、この仕事は自分にしかできない。自分がやらないと改善しない。そういう誇りと説得力があれば、家族にも理解してもらえる。なにより、自分自身を納得させることができる。

やっぱり、専門家としての実績と能力で勝負。誰もができる仕事をするのなら、自分がする必要は無い。自分にしかできないからやらないといけないのだ。そういう意識がないと、自分が守らねばならない家族に対して、やっていけない。

なんというか、今、自分ひとりだから、雑用係に甘んじて、専門性に対して貪欲にならないでいるような気がしてきました。

家庭だと、家事や子育てひとつひとつが、そのひとにしかできない専門性だと思います。仕事としての専門性とは全く別ですが。

いくら仕事に一生懸命になって専門性磨いても、仕事に時間を割くだけだと、人間として、レベルが高くないというか、不完全なままなんですよなぁ。仕事というのは、生き物として、女性として、ちゃんと家庭でも女としてのプロフェッショナルであって、自分の居場所を作り、自分の後続を残して、はじめて、やっていいと認められるもの。それで初めて専門性を高められるもの。
そのぐらいの認識でいないといけないんじゃないか。

仕事やら専門性やらは、自分が人間として女としての責務をきっちり果たし、そのための環境作りを自分で整えてから、はじめて求められる贅沢なんじゃないか。人として必要なことをまず固めていないと、その贅沢においても価値あることができないんじゃないかと、思うようになりました。

「オニババ化する女たち」( http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334032664/249-1367446-4455512?v=glance&n=465392 )は名著だと思います。
…上司に勧められたんだよ、ちくしょう。今更廻り見回してもどうにもならんのだ。もう10年早く言ってくれ。

そんなアタクシは、今日もオニババ街道まっしぐら。


    [2] ままこっち URL 2006/07/14(Fri)-21:51 (No.90)
    入潮さん、箱館より帰ってきましたー!
    先日はお忙しい中、お時間作ってくださりありがとうございました。お陰様でとても楽しい時間を過ごすことができました。
    私なんぞは全然スーパーウーマンでも何でもなく、日々ダンナや子供に負担をかけているのでは、と自分を責めつつ短い業務時間でどうやって人並み、いやそれ以上の成果を出せるか、知恵を絞って効率的に業務を進めるよう何とかやりくりしているに過ぎません。入潮さんのように明かりをとるのも大変な場所に公共インフラを構築するような立派な仕事をしているわけでもないですし。恐縮するばかりです。
    さて、箱館のほうはしっかり松前方面、知内、木古内、矢不来と回ってきました。レポートはボチボチでUPしていきます。入潮さんオススメの谷地頭温泉、入ってきましたよ♪
    中央図書館に籠れなかったのが唯一の心残りですが、いつかまた行こう!と思っています。
    また飲みましょう♪

      [3] 入潮 2006/07/18(Tue)-12:22 (No.92)
      すみませんー。気づくのが遅くなってしまいました。

      函館(箱館)旅行、お疲れ様でした。短い日程のために相当の準備をされ、密度濃く動かれたのだと思います。
      ガイドブックをたどるのではなく、自分で見つけ自分で組んだ自分のための旅、ということで、得られるものもそれだけ多かったのではないかと思います。それに、語ることも、独自の視点から噛み砕いたままこっちさんにしか書けないもので、すばらしいエンターテイメントになると思います。

      谷地頭温泉。碧血碑参りで汗だくになった、あるいは極寒に冷え切った体には、とてもいいロケーションにあると思います。ただ、この温泉に入ったという資料をまだ見てないので、箱館軍の彼らが漬かったのかどうかはわかりませんでした。泉質表をみて何時掘り出したのかを見ればはっきりするのですが、どうだったっけ…と、そんなことばかり気になってしまうお年頃。

      「過ぎません」と仰いますが、それを行うのが大変なのですよう。時間をかければできることはけっこうある。けれども、同じ時間でも多くのことを。同じく仕事でも短い時間で。それができるのは、経験と能力と意識なのだと思います。

      中央図書館にいかれない方に、図書館資料の検索結果を差し上げるというド間抜けなことをしでかしてしまった償いに、次回はもう少しマシなことができるようにしたいと思います。というわけで、ぜひぜひ、リベンジさせてくださいませ。
posted by 入潮 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月09日

「雲、西南に流る」

「雲、西南に流る」
2004年12月出版の、平山寿三郎氏の小説です。
以前ご紹介した「東京城残影」の著者。65歳で小説家デビューと、一時期話題になった方です。

帯の文句は、「フランス語を武器に、混迷の時代を走った、若き元幕臣の幕末・明治」という、なんとも、自分のツボを直撃してくれるアオリです。

戊辰・箱館戦争に巻き込まれた若い青年が、西南戦争を迎えるまで、混迷の時代を、自らの才覚で泳ぎ渡っていくストーリー。
主人公も登場人物も、皆、超人でも、天才でも、英雄でもありません。どこにでもいそうな、普通の人たちです。ただ、その時代に何が必要かを見極めて、それを武器にし、時に流され、時に自分で道を選び取り、自らの行いに相応の生業を手にしている。
あの時代、石を投げればそういう人たちに当たりそうな。そんな人々を描いているのが、魅力です。

主役は、稲村源三郎。
八丁堀同心の三男の宇津木家に生まれ、母の妹の家である稲村家に婿養子として入った。
仏語伝習所が慶応元年にできたとき、その二期生として伝習所で学びました。その縁で、通訳として、伝習隊下士官になります。
この頃の太田陣屋や、まだ沼沢地にすぎなかった横浜の描写が詳しくて、雰囲気をよくつかめます。海辺の寒村にいきなり降って沸いた景気。そこに群がる人々。

主人公源三郎の家は、家禄を減らされ家の維持にやっきになる。源三郎は、どうせ徳川がなくなるので家禄もなくなるだろう、禄のない家を存続させるのは余り意味がないのではないかと、従姉弟の久美の婿養子となる。伝習隊の下士官なので相続は容易とのこと。伝習隊士官の地位は、けっこう重きがおかれていたのでしょうか。

源三郎の兄は、町奉行として新政府に引き継がれ、そのまま召抱えられる事になる。その時の久美の台詞。

「二君に仕えるのはどうの、掌を返したようでこうの、とかいってぼやいていますけれど、それは表向きで、内心では暮らしの道がたつことになって喜んでいる」

というようなことは、この時期江戸で、どれほど囁かれたことでしょう、

それで、源三郎は久美と所帯をもち、一家の主として、徐々に責任感が出てくる。もう養う家族がある。家族を飢えさせるわけにはいかない。
伝習隊で鍛えた通訳の能を生かして、横浜のフランス商会に職を得る源三郎。
そして、久美に子が宿る。
もう、源三郎なしには立ち行かない家族。

大鳥隊の脱走を聞いて蒼白になって心配する家族。脱走軍に参加しなかったことを、よかった、よかったと、無出を撫で下ろす妻。これも、典型的な姿だったのではないかと。

この生活感の高まり具合と、それに逆流するように時勢に飲み込まれていく様が、たまらんです。


駒場野にいた源三郎は、脱走については一切知らされず、気がついたら大鳥たち小川町伝習隊がいなくなっていたという書かれ方でした。

しかしながら、北関東奥羽での大鳥たちの活躍が聞こえてくる。榎本艦隊の脱走が持ちかけられる。ブリュネたちが自分たちが育てた大鳥らを見殺しにできないと、それに参加するという。ブリュネたちには通訳が必要だ。
源三郎には、伝習下士官として仕えた柵がある。そして、男には戦う時がある。

結局、源三郎は、榎本脱走軍に身を投じるわけです。
この過程が、にくい。それでいいのか、やめとけ、家族はどうするんだー、お前には守るものがあるじゃないかー、と読者に叫ばせるのです。

それで、奥羽では戦は終わらず、流れに流されて箱館まで転戦する羽目になる。そして、ブリュネたちフランス人軍事顧問が箱館脱出する際に、通訳として一緒に箱館を逃れるという、序盤の流れです。

脱走軍をさらに逃れてきた源三郎は、新政府軍の探索から身を隠すため、横浜に身を潜めます。当時の横浜には、外国商館が立ち並び、イギリス語・フランス語の通訳は引っ張りだこ。

能力と責任が災いして、箱館まで流された、という辺りの、性格というか運命に、大鳥と同じ匂いがします。大鳥が生まれるのがあと20年遅かったら、彼のような役どころになっていたのかもしれない。


なお、大鳥隊長は、ストーリーの背景説明で、ほんのちょっとだけ登場。伝習隊の育ての親としての役どころを描いてくれています。
そして、榎本さんと一緒に、いい感じの慕われ方をしている。嬉しいです。ほんのちょっとだけですが。

あと、大川が、ちらっと出てくる。鳥羽伏見の敗戦の報告をしにくる。シャノワーヌに負傷者、死者の数を告げたあと、「…伝習隊は精強でした」と締めくくる。くっ。渋い。

鳥羽伏見の戦いで負けたあと、江戸城引渡しに向けて、伝習歩兵が街の迷惑、嫌われ者になり、騒ぎを起こして脱走する、という過程が細か。伝習隊がどう思われていたのか、想像豊かになります。

榎本と大鳥の脱走については「あれは太政官を恫喝するための脱走」とありました。かっちょいい言い方だ。


さて、戦から逃れて戻ってきた源三郎ですが。江戸で望んだ家族を見つけることはできませんでした…
失意のままに、横浜で、商館の職に就く。孤独な流浪の敗残者の様子が、もう切ない。

そんな感じで、戊辰戦争後、混乱の世を、語学の才で泳ぎ渡っていく源三郎。
朝令暮改の太政官に右往左往され、廃藩置県と地租改正という大改革に惑わされる民衆の様子が鮮やかです。

榎本たちの赦免が知らされたとき。喜ぶ元脱走人。

「もう箱館を隠すことは要らなくなった」

箱館帰りというのは、その世を生きる彼らにとっては咎人の烙印のようなものだった。榎本たちの釈放は、彼ら降伏人たちを、精神的にも、過去の柵を断ち切って、前を向いて生きるきっかけになった。
そういったあり方が描かれているのが、なんとも嬉しいです。


キャラクター一人一人にリアリティが篭っていて、誰が実在で誰がそうでないのか、分からなくなってしまうのも、平山さんの魅力の一つです。

イチオシは益田です。大佐さんではありません。益田孝。不敵で大胆、実力をもって官に切り込んでいく幕臣、という役どころ。
後に三井財閥を支えた実業家の、益田孝です。三井物産で、綿花、生糸、石炭などを取り扱い、財閥として三井を成長させました。また、工部省から三池炭鉱の払い下げを受け、三井鉱山を設立している人です。鈍翁と号し、茶人としても有名、という人なのですが。
この益田が、幕臣から長州の大官の腹心となって、栄達の道を歩む過程が、ちらほら出てきます。
この方が主人公と牛鍋をつつく仲になるのですが。どうにも、位置づけがかっちょいい。元英国伝習騎兵隊中隊長。脱走には「徳川は恭順したのだからお役目は終わり。おれは文明開化に身を投じたのさ」とあっさりしたドライさが、いい。

長州出身ながら、官に背を向け新聞の世界に身を投じる岩淵も、旨味にじみ出るキャラです。牛鍋仲間で、世を益田と論じながら、背景世界を巧く説明していく役割があります。
彼は架空なんですよ…ね? 実在だったら御免なさい。アクチュアリティのあるキャラ作りで、この辺りがはっきりしないところも平山節。

そして、何より、薩摩男・沢田がいい。
源三郎のかわりに久美一家を背負う事になった彼ですが。…あまり言うとネタバレなんですが。ていうか、もうどうしょうもなくネタ晴らししているんですが。
「東京城残影」の薩摩官員、佐川もそうでしたが。平山さんの書く薩摩人って、なんでこう、直情で実直で朴訥で、イイヤツなんでしょう。この時代にあるからこそ浮き立つ、薩摩男の強烈な可愛さ。

物語の流れの根幹に位置するところに食い込んで、あまりにこの男がいいところ取りをしてしまって、途中から主役が誰か分からなくなってしまう。

そして、題名の示すとおり、時代は西南に流れていきます。その時に薩摩男沢田の選んだ道が、また、切ない。もういいじゃないか、お前は幸せを手にしているじゃないか。お前はすでに守るべきものを持ってしまっているではないか。登場人物に切々と語りかけてしまいたくなるほど、情が移ってしまいました。
あぁ、でも分かる。そうするのを止められないのが男なんだと。そこで張りたい意地があるんだと。

彼を見ていると、西南戦争時の黒田って本当に辛かったのだろうと、心底感じられました。

それで、沢田。生きて帰ってきてくれー。と叫びたくなる。でも、物語的には死相が見えているんだな…。
一歩間違えると、「どっちやねん、どうなるねん!」怒りたくなる中途半端さなのですが。これをはっきりさせずに終わらせたのが、また、粋というか。こう、後に残る余韻があるのです。

そんな感じで。さくっとまとめようと思っていたのに、いつもどおりタラタラと書いてしまいました。
手前の駄文よりは、まず、平山さんの文章を当たってくださいまし。
切なさと世知辛さと仕方なさの3S。人情と世情の狭間で、フラフラできることが請合いです。

…いやその、出番は極少ながらも、大鳥の扱いを良くしてくださる数少ない小説家の方でいらっしゃるからオススメしているわけでは決して、その。…はい。


    [2] あろあ 2006/07/11(Tue)-12:33 (No.86)
    おひさしぶりです。
    最近全く勉強せず、娯楽小説ばかり読んでるあろあです(^^;)
    私もこれ以前読んで、沢田の可愛さにやられてしまった1人です(笑)。
    そして益田イカしてますね〜。明治の実業人は皆おもしろくてカッコよくて好きです。ってあんまし詳しくないですけど(笑)。
    『明治おんな橋』も面白かったですよv
    平山さんに限らず、明治1桁年を描いた小説は良いものが多そうですね。舞台が良いのかしら。浅田次郎の新しいのも面白かったですし。
    (そして登場してもいないのに「あ、大鳥が出獄した頃だ」とか「日本に帰って来た頃だ」とか脳内補完しています・笑)
    また面白い本がありましたら、紹介してくださいませね。

      [3] 入潮 2006/07/13(Thu)-04:36 (No.88)
      あろあさん、書き込みありがとうございます〜。

      沢田、いいです。沢田。今が旬。なんて瑞々しい。

      実業家といえば、西村、益田、五代、渋沢…。濃い面々です。制度も整わず、投資環境も整備されておらず、資本の蓄積もない、無い無い尽くしからスタートした先駆者の方々ですから、それだけ、一癖もふた癖もある方々なんだと思います。高峰もそうですよなー

      「明治おんな橋」。平山さんの書かれる女性は、あまりしっくり来なかったりするのですが、この作品の3人の女性は、なんとも良かったです。
      会津武士の女の辛酸を嘗め尽くした律っちゃんが、あそこまで前向きで生きることに貪欲な姿が、もうシビレました。
      そして、沢田−久美路線とは真逆をやった美代には、大喝采でした。女、強ぇッ!と叫んでしまったことです。ウソの開き直りようがもう、最高。
      明治初期は、版籍奉還、廃藩置県、地租改正、徴兵制、学制、秩禄廃止と、世の中がひっくりかえる改革を何回転もしてかしていますので、それだけ、扱う世界観が噛み砕かれているのではないかと思います。みんな辛酸をなめていて、絶対的な勝者、ヒーローの存在しようがないというのが、ポイントが高いのではないかなーと思ったり。

      浅田次郎さんも明治初期を書かれていたんですね。それは知りませんでした。探してみますー。
      あまり小説は存じ上げないので、あろあさんこそ、お薦めありましたら、ご紹介してくださると嬉しいです。
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2006年07月13日

明治八年七分外債発行

えーと。更新の創作ですが。前半部分をご存知だった方は、失笑してやってください。…ちゃんと後半も書きましたんで。そっちのほうも。(あぁ?と思し召された方は、お手数ですがお問い合わせください…)

外債発行、秩禄処分という、明治の改革でもあまり注目されない、ファンにも見向きされない分野。とことん世間様のニーズに背をそむけた道外し者でございます。

2年間ほったらかしていたのを書いたのはいいのですが、あまりに需要がなさそうですので、蛇足ながら、背景をば。

まず、吉田清成。見れば見るほど、ゴツイです、この人。中身がもう剛腹倣岸、不敵不遜。薩摩人の豪胆を煮詰めて抽出して固めて取り出したという感じの方です。それでいて外見は、キラキラした王子様。貴公子面のジェントルマン。留学時代はジャニーズ系。そのギャップが最高だ。

以下、外債発行の流れについて少々触れてみます。吉田の本領発揮はここにあります。
自分、その、金融経済はまったく素人なんで、妙な事をのたまっていたら容赦なくご指摘の槍を突き立ててやってください…

債=借金です。見もフタも無い。「債券の発行」「内国債の募集」とか言うから紛らわしいですが。要は借金です。

主に公債など国や地方が財源をまかなうために国民から借りるもの、社債は民間の株式会社が資金調達のために借りるもの。貸した側は、債券という書面の形で、利子と元手の金を受け取る権利を持ちます。

吉田らが担当した外債発行は、日本にとって実は二回目。外債は、国外から借金すること。内債は国内から金を借りてその利子は国内で回るので、国の中でお金が回るだけですが、外債は利子が国外に流れてしまいます。けれども、国内に資本がない当時は外国に求めるしか無かったわけです。

最初は、明治3年に九分外債(利子9%)を発行しています。
この利子というのが曲者。当時の1千万円というと今の我々の感覚では1兆円規模。これが1%違うと、100億円違います。それもこれが毎年のしかかります。9%だと10年で9000億です(単利。返した残りの分に利子がかかるとするともっと下がる)。勿論原本の1兆円分も償還しないといけません。よって、少しでも低く利子を抑えたい。これが切な願いになります。

他国の例だと、ロシアやアメリカ、フランス、ペルー、チリなどの国で5%、6%という金利で発行したのに対し、1回目の日本の外債は、9%という足元を見られた高利に設定されてしまいました。これを「国辱外債」などとする声もあります。(他、ホンジュラスで10%というのもありましたが、外債保有者協会から、相手国の財政状況をを無視した無謀な金利、ということで、結局放棄されています)

それだけ日本は、税制が確立していない、国内の諸制度も確立されていない、よって、政府の財政基盤が整っていない、また、資金の蓄積も貯蓄もないからそれを元手に投資できない、社会資本も生産設備も作れない。そういう貧困の悪循環にあったわけで、そんなところに投資するのもリスクが高い。ということで、金利が高く吊り上げられてしまう。

今も国際金融などで、政情不安な国に対しては、リスクプレミアムという言葉で、金利が高く設定されています。

しかも、オリエンタルバンクからの外債調達の前に、レーという英国人に資金調達を依頼してトラブルを起こし、9万ポンドという膨大な違約金を支払って契約を解消している失敗があります。踏んだりけったりです。

よって、外債調達の任務では、金利を0.1%でも低く抑えることに、調達者の力の見せ所があったわけです。
そして、外国人の代理人ではなく、国が第一義な日本人を派遣することになりました。
で、留学時にアメリカで実地の銀行で、金融、保険業務を行い、帰国後大蔵省でメキメキ頭角を現した吉田がこの任を負ったわけです。

発行は、銀行や証券会社などが請負います。この場合、日本政府が外国の銀行や会社にに外債の発行を委任します。外国銀行が自分の国(あるいは第三国)で債券を買ってくれる人を募集して、お金を集めて、日本政府に渡す、という流れです。で、この銀行や会社が、利子や額面を決めます。銀行は損をしたくないので、借主が返済できない羽目に陥るかもしれないというリスクが高かったり、借主の国力が無かったりすると、足元を見て利子も高くなります。また、金利はその国の公定歩合にも左右されます。

吉田は金利の設定に対して、いろんなオプションで相当なこだわりを持って、少しでも金利を低く抑えようと、根気強く、あるときは雌伏して時勢を見極め、あるときは国を変え、あるときはエージェントの間を渡り歩きました。

最初アメリカでは、12%というとんでもない金利条件でした。それで折り合いがまったく付かず、実務家のラルストンから英国のオリエンタルバンクを勧められ、ドイツ系のシフ組合からの斡旋を受け、ワシントンから英国へ移動しました。

吉田は、政府から7%以下の金利条件で募集せよと制約を受けていました。この条件が相当厳しい。
しかも、表面の金利を7%にしても、また、実利を計算するためには、単純に利子だけではなく、額面価格、発行価格、償還期限、手数料、諸経費などを見なければなりません。しかもシンジケートに世話料も払わねばならない。これを計算すると、金利7%と言われても実利がが8.5%になる。吉田はモントンローズ社の計算師二人に計算を依頼しています。この当たり綿密です。
今だったらExcelの関数でざくっと出来てしまうのですが。当時は複利も全部手計算で、万全を期して、計算のプロフェッショナルを、クロスチェックできるように雇ったのでしょう。

なお、足元を見て、シンジケートのほかに、シフ組合も世話料や他の経費を請求してきましたが、そこは吉田、シンジケートに対する以外に費用を些少とも払う道理はない、と言って跳ね除けてます。

しかも、ロンドンで金融が逼迫をはじめ、イングランド銀行が公定歩合を6%に引き上げました。勿論、金利は公定歩合以上になります。それで7年8月〜11月は、成り行きを静観。

そういった厳しい条件のために、7%以下という制限では外債の成立じたいが危うくなります。吉田は日本政府に掛け合い、最初2千万円としていた起債額を1千万に減らし、実利を8.5%にすること打診し、認めてもらったりもしたこともありました。

一方、モントンローズ社が6%の表面金利を提案してきました。これで、25年賦で、7%金利と、諸条件を考え合わせて、実利がどうなるかを詳細に計算しています。ここで、手数料が7〜8%という膨大な額を課されたりして、実質金利が8.5%ぐらいになってしまい、吉田はさらに粘ります。

12月中旬に、イングランド銀行が公定金利を5.5%に引き下げたので、吉田は他にオリエンタルバンクと交渉を開始。結果、手数料や外債の額面を引き上げなどを重ね合わせて比較し、オリエンタルバンクの7%の条件で合意することしました。
その当たりの、表面的な数字に揺らがないところに、吉田の周到さがあります。

オリエンタルバンクは、債券購入者を一般から募集。総額は英貨240万ポンド。当時の日本円で1071万2000円。(1ポンド=4円88銭で換算) 発行価格は、額面100ポンドに付き92ポンド10シリング。発行成立は明治6年1月13日でした。

なお、前述のレーが妨害を始めたり、後で触れますが外債発行反対の森のロビー活動し、Economist紙が批判したりと、吉田はさまざまな障害を乗り越えています。

散々世話したのにフラれた形になったモントンローズ社からは講義の手紙が来ましたが、吉田は見込み書の条件を検討した結果、オリエンタルバンクのほうが有利であったと一蹴。数字がすべて。義理も人情もなし。

なお、吉田は、7%に満足せず、交渉次第で額面を上げて更に6%で行こうと狙っていたようです。「不得止事七朱(%)之論に屈服したり」「劣生においては矢張り六朱の方しかるべしと存じ居り候」と手紙で述べていました…

この吉田の、先ず自分で数字を見て確認、人に計算させてチェックを怠らない。妥協を許さず何ヶ月もかけ、必要とあらば大西洋も渡る。
このときの吉田の日記や書簡に、めまぐるしく銀行や実務家、会社の関係者が出てくるのですが、そのあたりの人脈の使い方も、天晴れです。人脈は使い尽くすが、人情には溺れない。理財家の鑑です。

ちなみに吉田が担保として使ったのは、日本政府の禄米でした。政府が発行人となる場合、税金が担保になることはあるらしいですが。日本人の血肉そのものを担保にするとは、吉田の胆力ってば…。

にしても、禄(券)=支出を処理するための外債発行で、その担保が禄(米)=収入、というのは、どういうロジックなんだろう。 たしかに相手国から「目的がよくわからん」と批判されていたようですが。

鉄道や道路、工場などの建設事業にかかわる外債発行なら、事業収益も見えているので、外債の引き受けもしやすいのでしょうが。
禄処分のための外債って、どう説明したのか不思議だ。
殖産興業のため、というもうひとつの目的もあったので、そちらを強調したのかしらん。

なお、英国で公定金利が高くなって、静観している間、大鳥は、大学でアトキンスさんに化学を学んだり、宇都宮さんと怒涛の1ヶ月100工場巡りを敢行したりと、大変有意義な時間をすごしておりました。これらは後に工部省において、ちゃんと殖産興業事業として還元されています。大鳥らが製法や設計を聞くと、秘密のノウハウまで全部惜しげもなく教えてくれたとのこと。知的所有権にうるさい今では考えられない。大鳥、かかった経費はものすごいリターンで、日本に返してくれたと思います。

ところで、九分国債ですが。なんと、明治15年、規定の期限に、日本政府は全償還し終えています。きっぱりと払いきった。
鉄道の決算額が約46万円、元金償還+利子で78万円と、鉄道収益だけでは償還することはできなかったのですが、関税収益などで補填して、しっかりと返しきりました。
その間もちろん、西南戦争はじめとした士族の乱の勃発で、国内は激しいインフレを経ていました。血を流しながらの返還です。

外債を期限で償還するということは、それだけ国際信用力が上がるということです。次の外債発行もしやすくなり、金融でも金が借りやすくなるし、条約改正にも大きくプラスになる。

…えらいよ、日本。すごいぞ、明治。あの極貧状態でよくやったと思います。

借りた金を期限内に返すのは当たり前、という声もあるかと思いますが、国際的にはなかなかこれが行われない。
(20年ぐらい前のルーマニアで、独裁者のチャウシェスクが無理やり外国からの借金を返済して国際信用を高めた一方、その為に国内に小麦すらなくなる大欠乏が訪れた、ということもありました)

今の途上国への姿勢、つまり援助、ODAを見ていると、明治政府の彼らの本気と偉大さが、身に染みて分かります。

前にも少し書いていて繰り返しで申し訳ないんですが。
途上国がある事業のためにODAで借金しようと思っても、その妥当性の調査や経済性の判定は全部やってくれるし、必要な組織も提案してくれるし、金利は1%とか2%とかタダみたいなもんだし。最初は10年ぐらい返さなくていい期間(グレースピリオド)をつけてくれるし。しかも内何割は返さなくていいよ、無償(グラント)であげるよー、なんていうのが着く場合もあるし。なんて至れり尽くせりなんだろうと思います。
吉田らの調達任務は当然ながら、全部日本の手弁当でしたよ。

それで、「ほうっておけない」キャンペーンなど目にするのですが。あのアドボカシー(政策提言)の中に、途上国の借金の帳消しがあります。それで今、借金帳消しの可能性がある国リストなんてのが作られているのですが。そんなリストにのっかかってしまったら、その国の事業には民間銀行は誰も貸したくないし、ODAだって借款はストップする。まして、帳消しに実際になってしまったら、国際信用などガタ落ちで目も当てられなくなる。そうすると、道路鉄道など国レベルのインフラはまず進まない。貸すにしてもリスクが高くなるので、金融の利子はドン上がり。そうすると事業の投資も進まない。発展などしようがなくなる。社会資本がないから親父がいつまでたってもまともな職に就けない。子供の教育も進まない。

残るのは細々した草の根という名前の無償援助で、ある村に小学校を立て、診療所を建て、その村だけが喜ぶ。あるいはもっと大きな無償援助もありますが。なんにせよ、規模は限られているし、返す責任が無くもらったら終わりなので、主体性も育てるのが大変だし、あまり効率もよくない。下手すれば援助依存を蔓延させるだけ、という羽目になってしまう。無論、やりようでは効果の高い素晴らしいプロジェクトになるし、そうしなければならないのですが。

ほうっておいてやってくれよ…と、白い輪っかを見るたびに思ってしまっておりました。

すんません、話が逸れたところで、眠気で力尽きたので、続きます…。今回あまりネタが書けなくてすみません。
次は吉田vs森騒動。薩摩人ハイカラ紳士二人の激突。こちらは傑作ですん。多分。わ、ワタクシ的には。
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2006年07月14日

激論、吉田清成・森有礼

昨日の続きです。吉田・森戦争。
戦場はワシントンです。

外債の目的は、武士の秩禄の処分のため。武士は江戸時代になって、為政者、官僚としての役割を担っていました。明治になって、廃藩置県、すなわち武士の雇い先である藩が全部なくなります。武士は士族という名称になりましたが、彼らはひとまず解雇されました。国の公務員と軍人をいったん全員クビにして、退職金を国債の形で与えて、その上でその国債を強制的に買い上げるというような感じです。

その後で、最小限の人間が、官職として公務員に復帰することになります。が、時代は変わり必要とされる能力も変化している。もはや役に立たない人間は要らない。実際に再度官職にありつけたのは士族の3割程度です。ちなみに再就職できた官員の3割以上が、フタを開けてみると旧幕臣でした。全体から見れば、実務者レベルでは、言われるほど、薩長政府でもなかったわけです。

で、官職にありつけなかった多くの士族は、失業者です。自分で商売や農業を始めて生計を立てねばなりませんでした。その才覚もなく、無為徒食となり、退職金としてもらった債券の利子も食べていくには不十分で、債券を売り払って、細々生活する者も多かったのでした。

で、国としても、武士に対する債券の利子を彼らに払っていかねばならない。箱館戦争の恩賞でこの債券が乱発されたのですが、この費用に、国家予算の3割が注ぎこまれた。発行したはいいけれども、そんなものをほったらかしにしておいたら、国家は破産する。
そういうわけで、国は、いったん自らが発行した債券を、自ら買戻しに乗り出したのです。具体的な方針としては、禄券の1/3を回収し、2/3を買い取る、というもの。

…こんな目的で発行された外債なんて、内情知ったら、自分だったら絶対買わないなぁ。激しいマイナスからまだマシなマイナスにするための公債。プラス収益の要素がない。
どうやって吉田さんは相手銀行等に説明していたのだろう。

で、在ワシントン弁務公使、森有礼。後の駐清公使、外務大輔、駐英公使、文部大臣と、外交・教育分野で要職を歴任します。廃刀論や国語の廃止と英語の採用の推進など、極端に洋化された思想の持ち主です。明六社の設立にかかわり、諭吉とともに啓蒙家でもあります。

以前から、ライマンの契約担当者。それでライマンから広瀬常を恋で勝ち取り、日本初の契約結婚をしたことで触れていました。あと、「クララの日記」のホイットニー一家を、簿記学校設立のために日本に呼んだのもこの人。(そしてクララにぼろくそに書かれてしまう)

吉田とは薩摩藩密留学仲間でした。
Wikiの写真(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC)が良いですねー。

彼が、士族の秩禄処分に大反対でした。

森は、士族の禄は、個人の既得権益だと考えます。つまり、禄は、士族という特権階級の私有財産だと考えたのです。西欧の貴族は、大土地所有の上に、権力と威信を持っていて、これを「既得権」としました。既得権は侵すべからぬ神聖なものと考えられました。西洋思考の森は、この考え方を持っており、既得権が存在しない国は野蛮だと、欧米人にみなされる可能性があったので、森はこの点を恐れたのがあったと思われます。

一方、吉田は、禄は、公的なものと捉えていました。これは日本政府の基本姿勢と同じです。「その職を解けば、すなわちその禄を得るの理なし」。士族がもはや公務員として用を成さずクビになったのなら、その給料を与える必要もない、というわけでです。


吉田は在ワシントン日本大使館から電信を受けて、「至急之用」と、M5年4月5日に呼び出されます。ここで大使館の森に面会し、森から外債調達の目的を正されます。上記の姿勢の違いから「最初より異論にて度々弁論すと雖も、遂に同意せず」と、論争になります。

そして、吉田は、後の為になるだろう、と文書で議論をやろうと持ちかけました。以降、4月10日頃から、即レス連続の激しい書状の応酬が続きます。…そのおかげで、論争の内容がすべて今の我々に明るみになってしまっております。

この往復書簡がすごい。この二人、1日中机にかじりついてひたすら書いていたんじゃないかと思えます。

幾度かやり取りをしてから4月14日になって、森が、14項目に及ぶ質問状を、吉田に送りつけます。「閣下等是迄深く慮られ候次第、又昨日御話の内、明快不仕廉」と、話の内容が良く分からなかったから、と前置きしていますが、要するに、反対する理屈です。まとめると以下のとおり。

1) 公債を今起こすのがどれほど切迫しているのか。なぜ今なのか。

2) 国債を発行するのに外国人に募るのはなぜか。自国民に募るのとの差はなにか。どのぐらいなのか。

3) 華士族の「家領物」の1/3を「減奪」する理屈とは何か。また、「家領物」の2/3について、6年分として一時に「買奪」する理屈は何か。またその6年というのはどこからきたのか。

4) 国債を償却する方法はどうするのか。

5) 税収はどうか。工業を興すにつき政府の役割は何か。鉱山・鉄道の事業について政府の役割はなにか。

6) 外債発行などして日本の一国の名誉を失わない方法は何か。

などなど。償却方法など、もっともな質問もあれば、単に吉田を困らせようとしているだけなんじゃないか、というような質問もあります。

ちなみに、森は禄を「家領物」と表現して、その家が所有するものだとみなしています。また、「減奪」「買奪」という言葉を用いて、不当にそれを政府が奪おうとしているという意味を持たせています。後に「政府盗業」とまで表現しています。
それで、「軽粗の事業を止め之を未発に熟せしむるにその手段如何」と、軽率なことをやめてこれを未発に防ぐ手段は何か。つまり、やめろ、と締めくくっています。

これに対する吉田の反論。

1) 公債を今起す必要性は、過日の議論で説明済み。切迫していないはずが無かろう。

2) 国内で募集すると失敗するのは明白。そこまで国内に資本の蓄積はない。外国から募るより他はない。

3) 「家領物」だとか「減奪」だとかいう言葉は、意味を理解しがたい。秩禄処分の事と推察するが、国民より納められる税を、私の個人に与える道理などない。禄はことごとく没収しても良いぐらいだ。それを、2/3を買い取ってやろうというのだから寛大な処置というものだ。

4) 質問文意が不明。(税金によってあがなうのは分かりきったことだろう、ということでしょうか?)

5) 国民の学問も未熟。工業についても政府が先頭を切って開発してその利益を示して、国民を教導する他はない。鉄道鉱山は政府の所有。

6) 各国との約定を固守し、下民への信を失わないこと。会計の基礎を確立し、国民を安寧に保護すること。そうすれば外国に対して信義を失う事はない。

まとめてますが、実際はもっと長々しています。
6)などさすがだなぁ、と。外国への信義を守る為には先ず自分のところの国民を安泰にすること。そのためには会計の確立が最初。

で、吉田、更にこれに付け加えて、森に問いただしています。
現代語にしてしまうのがもったいないほど、迫力に満ち溢れた文です。

一、独立政府としてその代任として国外に派遣されている公使ともあろう者が、自国の政府が決定したこと、内閣議員の決議した条項について、外国人に対してそれを貶めるようなことを言うべきではないと思われるが、如何。

二、禄制処分について、減奪だとか買奪だとかのたまって、公然と書面にしたためるとは何事だ。禄というのは個人の所有する資産でないことは明白だ。仕事もしない無能の人間が、禄を安んじて受ける道理なぞない。禄を廃止するのもしかるべきだろう。よってこれを題して「賊」と名づけるとはどういうことか。たとえそれに理があったとしても、政府の代理者たるものが、こういった語を発して、自国政府を辱めてどうするのか。

三、政府の代理者たる官員は、自国政府の信と名を辱めぬことを第一義とする。もし全国の安否にかかわる程の利害があるなら、使者を遣わしてでもあるいは自分が帰国してでも、これを正すべきである。政府の勅命を持った理事官に迫るというのは、道理上も実務上も適正ではないと思われるが、どうか。

四、内閣および議院で議定し、君主の国璽をもって発令したことは、即ち一国の法律だ。その国民たるものはこれを遵奉すべきだ。いわんや、その国の代理たる職務を担当する人間は、主務を敢行するに当たって、一点も国の信義を失うことのないよう補助するのは当然だろう。私の受けた任務を、私が公表する前に、外国人に対して口外することはないと信じる。

激しいです。吉田さん。
これが森に送られたのが、森の質問状の翌日の15日。吉田さん、徹夜して書いたんだろうか…。
これに対して、森がまた即レスつけて、重箱の隅つつき状態になります。「『買奪』『減奪』の意味?文学者に問い合わせたら?」なんて言まででてきます。

そして、森は、自分の論を英文にして、パンフレットにして配るという挙に出ます。ロビー活動です。
森の主張も読んでいると納得できるところがあるのですよな。
このやり取りは、4月20日ぐらいまで続いています。

結局、吉田が森を相手にしなくなる形で打ち切られます。

で、吉田はこの後、ワシントンからイギリスへ移動します。森の妨害に屈したわけではなく、前述のとおり、アメリカの金利が12%というとんでもない状態でとても7%の金利での外債発行は見込めないからです。それで、シフ組合というロスチャイルド系のシンジケート機関から、二千万円ぐらいならロンドンで一手に引き受けることも可能ですよ、という招きがあったことからも、欧州へ舞台を変えることになります。

なお、吉田・森激論の最中、大鳥が何をやっていたのかは不明。最初の頃は大鳥の名前での通信文もありましたが、この頃になると名前が見当たらない。岩倉使節団と会談はしていたようですが。
留学生をニューヨークに送り出していたので、その世話でもしていたのだろうか。で、「国に戻ったら奏任官」とか世の中ナメている留学生にムカついて、渋沢に愚痴ってたのだろうか。(そういう手紙が後にある)


で、吉田の印象を極めつけたのは、上の出来事を本国に報告した、吉田→井上馨 書簡。
上のやり取りでは、まだ公的書簡の体裁を保っていたので、言葉はいろんなものを押さえ込みながら穏やかなものでしたが。ここにきて吉田の鬱憤が破裂しています。

これがもう、あまりの吉田の不遜さに、笑えて笑えてしょうがない。

「(森と)面会、大に弁論致し、たとえ彼ら今更異論致し候えども、実に無益の至り。…彼の見込みを承り候所、実に拙き論にて、先ず、第一禄を銘々の『プロプルチー(Property、私財)』と見做したるにて寸分も取るにたらざる拙論

「森の『プロテスト(反抗)』文論差し上げ候間、篤とご覧下さりたく、世の中の余計な論これや、誠にあほらしき子供の議論にて、言葉の添えようも無きの次第

実に三尺の童子もかような愚なる事は申すまじきと思われるほどの拙策にて、ヒタヒタに論じ付き、一言も弁論できぬ位に叩き付け候。その後は例の通り異論を減じたれども、最初の高言に耻候か、自己の否を『コンヘス(認める)するには至らず候えども、もう何の異論も口外すること相叶ましく存じ候

「勿論、たとえ森など如何ほど弁説を飾り奸議を企み候とも、微弟においては豪髪の恐もなければまた患も更になし。少しもご懸念には及び申さず候」

「この度の『アンバサドル(外交官)』連中は森の見込みにては、皆下愚文盲にして、森一人にて事を施行いたしおり候心組と察せられ候。実に岩公の森に『インフルエンス(影響)』されて在る事は、意外数多なり」

…こんな感じで、吉田の哄笑が行間から聞こえてきます。かなり書き下してはいますが、とても現代語でリピートする勇気はありません。

更に、吉田の毒舌は留まるところを知らず。森の言を信じる人間がいるのは憐れみの至りだとか、西郷も出立前に森のことを大懸念していたとか、(森が)弁務使でありながら岩倉は無学だと嘆いて日本政府が動揺するような迂闊なことをのたまっているとか。
森が清にいたとき、大に褒められて、日本の開化は彼の力によって成ったといわれたということについても。

「アノ位の人物(森)がなさる開化というものが、今日日本の開化なれば、我輩ごときは先ず一番に去ってほしいと存じ申し候」

どうですかこの、傍若無人、不羈不遜。
ちなみに吉田は森さんより年下です。

井上さんに対しては、「微弟」と謙遜しているように、普通に尊敬していそうですけれども。

あ、森さんの名誉のために付記させていただきますと、外債から離れた別の場面では、吉田はちゃんと森のことを「日本産西洋人」と評して、尊敬の念も示しています。

森さんのこの行動について、政府は「困った奴じゃのー」ぐらいの反応で、特にこれが咎められるということはありませんでした。昇進もして、明治8年には特命全権公使として清国に派遣されています。

そんな感じで吉田の大将。年上だろうが留学仲間だろうが容赦がありません。この人の部下ってどうなんだろう。
普通に、普段から挨拶代わりに「この小童が」「たわけ者めが」「笑止な」「片腹痛いわ」「たるんどる」「絶望とともに散れ」とか言ってそうです。最後のひとつはスルーしてやって下さい。

さて。そんな吉田による大鳥評価。同じ吉田→井上書簡にて。

「大鳥も用達し候えども、兎角長く世の中に疎なれば、詮方なく存じ候。しかし極最上の人物にござ候。ご安心下さりたく候」

…大鳥、役に立つけど、世の中に疎いところは仕方ない。なんだけれど、「極最上の人物」だそうな。
長く世の中から離れてたから、ってことなんでしょうけれども。世間知らず扱いしてからかっていそうな口ぶりだと言う気がするのは、腐り人間の気のせいですか。
そして、井上さんには安心しろ、って言っているけれど、それを聞いてさらに不安爆発させる人がいそうです。

というわけで、無事外債発行を終え、ついでに残るという大鳥に大蔵省から借金の斡旋をしてあげて、吉田さんは6年7月に帰国します。帰国後、その交渉能力を買われてか外務省に移り、7年9月特命全権公使として米国駐在。開拓使のお雇い外国人の斡旋なども多々しています。そしてなんといっても、条約改正の大任に就きます。条約改正は彼が10年間取り組んだ問題でした。その中で上司の外務卿の井上馨と意見で対立し、左遷の憂き目をみます。18年9月に農商務省の大輔。その後、元老院議員、枢密院議員、子爵。
理財家として、金融、保険の面から日本の財政の基盤を作ったこと、それから、外交官として条約改正に貢献したことが、彼の功績です。

なお、外債発行渡航前のゴタゴタとか、帰国してからの吉田と大鳥との付き合いについては、以前にも触れていますのでよろしければ…
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/bbs/iridiary_log5.htm
08/05 No.564 「意外の人 吉田清成」
01/02 No.714 「新春からつらつらと」
(量が多いので、Ctrl+FでNo.番号で検索していただけると早いかと…)


吉田や秩禄処分、外債発行について興味を覚えてくださった方は、以下の文献がご参考になるかと思います。

・「薩摩藩英国留学生」(中公新書):吉田の留学中の経歴、学んだ内容、経歴概略が豊富。

・「明治前期財政経済史料集成 第十巻」:吉田の外債調達における洋行中の日記、書簡をある限り収録。外債発行の最も基礎になる資料。吉田・森大論争文書も、吉田→井上馨の爆笑俺様書簡も、こちらでフルに参照可能。
なお、時々、富士太郎少年から圭介へ手紙が届いている形跡が伺えて、ほのぼのできます。
外債に関係のない一般的なことは省いているとのこと。残念。

・「秩禄処分」(中公新書):「明治前期財政経済史料集成」の内容を、現代語で要点を解説。明治初期における士族の状態と行き先を理路整然と説明。入門書としてはこれが一番いいかもです。

・「吉田清成書簡集」:洋行前騒動が詳しい。黒田、渋沢、井上馨、伊藤博文、堀基あたりの交換文書が面白い。大鳥からの書簡も多々あり。大鳥、一緒に梅見て、相撲みて、温泉いって、碁を打って、秘本を借りて、仕事の愚痴を言って……。

・「戦前外債小史序」宇野健吾、「筑波大学経済学論集」通号17
・「明治6年7分利付外債の募集過程」千田稔、「経済集志」54(1)
あたりの雑誌論文も、良くまとまっていて、参考になります。他の外債との条件の比較が数値で見れます。

それと、「大鳥圭介伝」と「われ徒死せず」ももちろん。


……なんか大鳥の文献紹介でもここまで必死になったことって無かったかも。
それだけ、マイナーに甘んじている吉田清成という人物に、注目してもらえると嬉しい、というのがあります。かっちょいいですよ、吉田さん。財を握る人間は国を握る。

ほぅら、貴方は吉田さんをかっちょいいと思えてくる…! (催眠)


    [2] Q太郎 2006/07/19(Wed)-02:34 (No.94)
    思えてきました!
    個人的に薩摩に関してはどうもアレなんですが(すいません)、吉田さんはかっちょいい。
    以前クララ日記読んだ時も、日記はちょっとムカつきましたが(重ね重ねすいません)吉田さんはかっちょいいと思ってました。
    やはり決定打は、小説の「ふははは」笑いだと思います。

      [3] 入潮 2006/07/20(Thu)-03:58 (No.96)
      よしっ!
      …と思わずガッツポーズです。
      いつもながら、外債ネタも、興味を示してくださる方が一体いらっしゃるのだろうかと、恐々で。もはや自分一人でやったら満足だと自らを慰めておりました。
      読んでくださってありがとうございます。涙で画面が見えないです。

      クララ日記をご提示されるところが、Q太郎さん、資料を読み込んでおられますなー。
      クララ日記で吉田さんの印象が、煮ても焼いても食えないジェントルマンになりました。
      自分に厳しく、他人に熾烈極まりないお方。叩きのめすのが彼のデフォルトのコミュニケーション。
      もはや普通の書簡でも、バックグラウンドに高笑いが聞こえてきます。素敵な吉田王子様。
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2006年07月16日

大鳥富士太郎「渡欧回想談」

いました、富士太郎。「同方会誌」52号。

明治29年の発刊から、前半というか、51号(大正10年)になるまで、富士太郎の名前を見かけるのは転居記録だけで、ほとんど例会やイベントには富士太郎は出席していませんでした。親父の義理で名前だけ登録していた、幽霊会員なのかなぁと思っていました。
けれども、帰国してから、会ごとに顔を出すようになっていて、出席者にもちゃんと名前が現れるようになってました。

そして大正11年5月28日、同方会の春季大会。下谷神社で行われましたが、このとき特命全権公使だった富士太郎が、外交官として長年外遊して見聞した体験談を、1時間にわたって語っていました。速記者が記録している。名づけて、「渡欧回想談」。目次を見た瞬間に躍り上がりました。

さて、同方会も、結成時の明治30年ごろには、幕臣時代の本人たちが生存していたので活動も活発でしたが、この頃になると二世三世の時代。会もそんなに頻繁ではなく、同方会誌も4年5年に一度という頻度になってしまっておりました。

一方、大正12年9月に関東大震災で、大量の罹災者、貴重な建造物や資料の損失を出し、会員も無論大きな被害を受けました。被害状況が、会報に掲載されております。

榎本家は全壊で次女の菊子がお亡くりになりました。
石橋絢彦は横浜市南太田町に住んでいたけれども、失火で瞬時に延焼、金沢村の知人を訪ねて飢餓を脱したとのこと。長年蒐集していた蔵書、記録も家財と共に灰燼に帰したそうで、残念無念限りなしです。
また、武田英一。五稜郭設計者の斐三郎のご子息ですが、斐三郎の黒龍江を航行した測量機械、箱館五稜郭の設計図、和漢洋の図面数千巻が一挙に炎の中に消えたとのこと。

「明暦の火災と安政の地震を再現せるものにして其被害の程度に至りては遥かに大なる」という被害。震災では主だったメンバーは無事だったとの事ですが…。人的、物的被害の大きさに、悲鳴が出る。

これに加え、大正11年に本多晋と江原素六、人見寧、大正12年に山内堤雲と島田三郎、13年に安藤太郎、榎本武憲、内田万次郎…と、主だったメンバーがお亡くなりになりました。
これまで、同方会誌は、重鎮が亡くなると必ず追悼の特集を組んでいたのですが、数々の記事で同方会を支えてきた、主筆とも云うべき江原さんと本多さん、島田さんらが死亡ということは、これは追悼記事で埋め尽くされることになる可能性が…。

そういうわけで、この時勢だと、富士太郎の講演は掻き消されるかなぁ、と心配してしまったのですが。
ちゃんと全文、掲載してくれていました。赤松範一さん(編集長)、ありがとう。
事務局が地震で破壊されたのか、赤松さんの自宅に所在が移ったりしていたのですが。よく速記原稿残っていたものでした。

で、前置きが長くなりましたが。大鳥富士太郎「渡欧回想談」。

中身ですが。真面目です。謙虚です。富士太郎の堅実な性格が現れています。
明治23年に大学を卒業して以来、留学生として、外交官として、ほとんどの時間を外国で過ごしていた富士太郎。幹事の中澤氏が是非、外遊について話をしてくれと持ちかけてきた。富士太郎、元来自分は話し下手だからと、いったんは辞退した。けれどもなおも頼まれるので、外の講釈師に頼むと金が掛かる。自分だと金が掛からないという点では要望に添えるから、面白くないことさえ我慢してくれたら、多少の時間は塞ぐことはできるだろう、ということで、出てきた次第、と仰ってます。謙虚なんだからー。

富士太郎の外国デビューは、明治23年のパリ。その頃はまだ日清戦争前で、ヨーロッパでは今(大正)と違って肩身が狭かったとのこと。中国人も日本人も、西洋人は区別つかないので、中国人扱いされても辛抱していないとならない時代だったとのこと。

そんな滞在で富士太郎が感じた事。
外国に行くと、自分ということが薄くなり、日本という観念がはっきり浮いてくる。
そして、それまでいくら西洋のものが善いと思っていても、いかなる事を見ても日本が善いように思われてくること。
何を観察しても日本贔屓になる。事情が分かってくるとそうでもなくなってくるが、はじめの3年ぐらいは無性に日本が恋しかった、とのこと。

これはなんだかとても理解できる。自分と相手、という見方だけではなく、自分の国と相手の国、という単位で物事を考えるようになるというのは、一度国外に出るとよくあることだと思います。相手も自分を通して日本という国を見てくるわけで、個人レベルでは、自分の印象=日本の印象、となってしまう部分が出てくる。なので考え方の枠組みが変わってくる。

あと、分からない、馴染んでいない、ということ自体で、好きになれないと思ってしまうというのは確かにある。けれども、分かるようになってくると愛着が沸いて来る。情報媒体が発達していなかった当時は、物事を体に染み込ませるのも時間が掛かったと思いますので、好きになるにも時間がかかったのではないかと。
自分も3ヶ月〜半年ぐらいは、其処に愛着を感じるまでかかりますが。愛着とは結局、知ることであり、知るのに時間がかかるということなんですよな。

で、日清戦争があって、三国干渉。これは当時の頗る重大な事件で、日本人としては切歯扼腕の思い、涕を呑んでの屈服だったとのこと。で、最初、この干渉を仕掛けてきたのはドイツの皇帝(ヴィルヘルム2世)と推測され、日本の駐独大使は何故それを未然に防ぐ事ができなかったのかと、日本の世論から猛烈に攻撃されたらしい。
ところが、近年、ロシアのヰツテ伯爵(セルゲイ・ヴィッテ)の回顧録が発表され、首謀者が彼であったことが確かめられた。
この時、駐日のロシア・フランスの両公使が、外務次官の林董を訪ねた。林はこのときのことを回顧録に残しており、このときの林らの行動を、事細かに富士太郎が語っています。
誰が干渉を発案し、どういう経緯で、どういう文書が作成されて、どこで 何が取り交わされて、誰がサインしたか。

この内容ですが。現職の外交官の方や外交史を専攻されている方、三国干渉を1から100まで研究されたい方には、大変興味深い貴重な内容なのだと思います。けれども、中身が専門的、細部に込み入り過ぎて、複雑で、聞いている方はついていけてない人もいたんじゃないかと。聞いている何人かは寝ていたんじゃないかと思う。富士太郎、…謙遜じゃなかったのかも。親父のエンターテイナーな漫談癖は受け継がなかったらしい。

いやその、専門的に貴重な話というのは得てしてそういうものではないかと思います。日清・三国干渉・日露に興味がある方はぜひ目を通していただければと思います。

で、富士太郎。何の因果か、彼が外国に出ていると、毎回戦争が起こる。日清戦争が1894年、日露が1904年、第1次世界大戦が1914年と10年おきに起きているから、何かの周期にぶつかったのだろうけれども。彼は3回の戦争を全て外国で体験しています。移動するにも戦争を避けるために、航路や時期を選ばないとならなくなる。そのための事務手続きも大変なのに、外務省は本当のことを説明してくれない、なんて実務者ならではの愚痴も。

日本が日清戦争に勝って、大分世界に認められるようになったけれども、まだ軽蔑されて肩身の狭い思いをすることは多かった。ただロシア人は西洋人と違って東洋人に対する待遇はよかった、とのことです。

世界大戦のあと、また富士太郎は軍艦や潜水艇に襲われないように、インド、英国、米国と行ったりきたりしていました。大戦後の敗戦国ドイツから戦勝国フランスへの賠償金がひどいと同情論が起こったが、フランスは国土を滅茶苦茶にされて、工場もすべて破壊され生産設備がまったくない。まず工場を作り直すことから始めねば生産が何もおぼつかない。少なくとも3年は回復できないほど徹底的に痛めつけられた。一方でドイツの国土は無事で、少しも製造能力は衰えていない。ただ賠償により金がなくなっただけで、そんなのは原料があるのだからでも回復できる。だからむしろフランスのために同情してやらねばならない。
第三者の目から公平不公平ということを言うにしても、いろんな点を調べてからから議論をしないと、公平と不公平を取り違える恐れがある。

…と、なるほどなぁ、ということをおっしゃっています。自分この辺はぜんぜん詳しくないので、単に第1次大戦後のドイツは賠償でひどい状況だった、ということしか知らなかったし、多分当時も世はそんな感じだったと思うので、こういう見方には頷くばかりでした。

さて、この世界大戦について、日本には、日清・日露と違って、東洋の平和、というお題目が欠けていた。日本人にとってはどこか他所の国の戦争のように思えていた。世界の平和ということは考えず、日本は軍需品をこしらえて金を儲ける、今戦争に加わったら損だから高みの見物をして金を儲けることに専念した。これが人心を腐敗させ意気地なくさせた第一の原因ではないか。そう、富士太郎は述べています。

このために、勢力のあるところには頭を下げなければいけないという、幕末のような有様になった。金銭や地位に屈服してしまうということになったら人間は終わりだ、と述べながら、話を幕末に移しています。

幕臣としてこういうことを言うのも何なのですが、と前置きしてから、富士太郎。幕府の末に当たって、天下の大勢をしっかり見て、薩長の勢力に服従するが良いというのは、先見の明があったとでも言うのだろうけれども。

「主家に対して今迄受けたる所の恩義を返さうとして、自分のみを犠牲にしたと云ふ意気は、何時でもあつて欲しいと私は思つております」

…これ、他の人が言った言葉なら、あー、徳川武士道だなー、とそのまま通り過ぎていたのですが。
他ならぬ富士太郎が言ったから、結構、きました。

親父の、恩義という名前の勝手によって、彼ら大鳥の妻子は賊の家族という不名誉を蒙り、貧窮に陥り、世を憚り苗字すら名乗れず、(時に女装させられ)、世の中に対して後ろめたい思いをして過ごさなければならなかったわけで。親父を恨んでも仕方がない状況ではあったのです。

無論、脱走軍に対する世間のシンパシーも大きく、圭介の友人たちが家族を大分援助してくれていた点もありました。そのあたりの周囲への感謝もあってこの富士太郎の言葉に結びついているというのもあるかもしれませんが。

やっぱり親父の姿は頭の中にあったのだろうと、思って間違いはありますまい。

圭介はみちさん、家族に、徳川への忠を脱走の理由として説明していました。蘭三郎氏の「祖父の自伝に就いて」の圭介の記述「今や主家の将に滅びんとするに遭う、之に事ふるの道唯一死あるのみ、其期己に近し」というみちさんへの説明を見てもあきらかです。

ただ、圭介の脱走の動機は、恩義忠義の一言で片付けられる単純なものではなく、非常に複雑な背景と心情があっ省産業育成に邁進の親父や、医者になるために居候に来た親戚の伝之助に対して、自分は法科大学・外交官という、彼らに背を向けた感じの分野選択をしていることとか。素直じゃない、というのは、その程度に過ぎません。(で、吉田さんに影響を受けたという説も唱えてみる)

家族の中で一番親父をクサしていて、親父から何かものを言われると腹が立つけど、赤の他人や新聞などが親父を侮辱していたら本気で怒って、そんな自分に更にムカついている優等生な子、という感じが頭に浮かびます。

そんな感じで。富士太郎君、普通に真面目でした。圭介の自虐的ギャグ癖というか、真面目に悲惨なのだけれどもなんだかお笑い的な独特の感性は、特に受け継がれなかったようです。あれは、播州・大阪という地で後天的に磨かれた一世一代の特質で、遺伝要素ではなかったらしい。受け継がせるほど、息子が幼い頃に一緒にいる時間もなかった、というのもあるでしょう。

富士太郎。東大法学部出のキャリア外交官で華族、とかいうと、どんなに謙虚に振舞っていてもある程度偉ぶったところがでてきてしかるべきところなのでしょうけれども。
語り口調の一つ一つが、正直で謙虚で真面目で几帳面で。そのあたり、なんだか素朴で良い人な富士太郎の性格がよく読み取れました。…この性格で、人の腹を探りあうのが仕事の外交官は、辛かったんじゃないだろうかと心配になってしまうぐらい。

なお、いろいろ深読みしましたが、私の勝手な推測で、富士太郎の話本体に、親父のおの字もでてきませんでした。榎本艦隊が宮古湾会戦でウソの国旗を掲げたことについては触れていたのに。んもぅ。
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2006年07月19日

印刷博物館

昨日、連休だということに気づかず、出社しました。
土砂降りの月曜日の朝。生理痛の重い体を引きずって会社に行こうとしたら。電車がやけにすいている…

悔しかったので、午後の早いうちに仕事を終わらせて、あとはサボり。
図書館に行こうかと思ったけれど、めぼしいところはほとんど月曜日休み。
ということで、印刷博物館へ行きました。
一度行ってみたいと思っていたのです。場所を調べたら、職場から二駅だった。

目黒の、大鳥神社の近くじゃなかったっけ、と思っていたら、それは寄生虫博物館でした。大鳥関係施設でも、私の頭の中の分類はそんな感じ。

印刷博物館ですが、高層ビルの一階と地階。建築アートの髄を凝らした感じの作りで、都心の一等地になんという贅沢な作りをしているのかと、びびりました。
意味も無く、臆してはいかんと思い、勝手知ったる自社ビル、といわんばかりにずんずん入る。すると間違えて二階のオフィスフロアに上がってしまい、急いで降りて、警備員のおっちゃんに不審な目で見られてしまった。

中も大層なもので、空間を贅沢に使った作り。抑えた間接照明と、木の家具調のシックな感じの展示。一方、ほぼすべての展示に対して、液晶タッチパネルで音声説明を備えているという、贅沢仕様でした。

これで300円という安価な入場料でモトを取れるのだろうか心配になってしまった。
公立かと思ったら、凸版印刷株式会社運営の私立博物館です。確かに場所はトッパンビルの1Fでした。

VRシアターという三次元画像が見れる立体ホールがあって、スパコン画像による映像を上映してくれます(土日祝日のみ)。自分の行ったときは、奈良の唐招提寺の紹介で、弥勒観音、千手観音、東山魁夷障壁画など見せてくれました。印刷と映像は表裏一体。映像技術の粋を紹介、というところでしょうか。
客は自分と後1名しかいなかった。それで綺麗なおねえさんの生アナウンス付き。いや、頭が下がります。

展示のほうは、印刷の歴史を追うということで、象形文字から始まって、グーテンベルグ、解体新書、駿河版銅活字組版、葛飾北斎、横浜日日新聞、といった有名どころの、複製またはオリジナル。パネルではなくて、家具調の机に並べて、座って見れるところに、オリジナリティがあります。

やはり本木昌造は、日本の印刷事業の祖で、小石川・飯田橋界隈が印刷の町になるきっかけにもなっているので、アイドル扱いでした。
ショップで売っていた「活字文明開化 本木昌造が築いた近代」は、本文オールカラー、関連年表、特別展の展示内容と揃っていて、中々お買い得でした。

で、大鳥関係ですが。
「歩兵制律」が展示してありました。元治2年2月、陸軍所発行で、大鳥活字使用。川本清一郎の訳です。
清一郎の父親の川本幸民が、大鳥の薩摩藩出仕時代の上司。ちなみに幸民は、兵庫三田藩の出身。坪井信道の下で学び、緒方洪庵と青木周弼と共に信道門下の三哲と呼ばれ、後に薩摩藩に蘭学者として出仕しました。彼が若い頃に兵庫で学んでいた村上良八の息子が大三郎。大三郎は圭介の適塾の先輩で、圭介と一緒に江戸に出てきて、裸で同じ破れ布団を被っていたという人です。そんなめくるめく人間関係。

歩兵制律のタッチパネル解説が、展示とはややずれたところにあって、見逃してしまうところでした。ここで、訳者の川本清一郎ではなく、活字鋳造者の大鳥について解説してくれていました。

解説では「鉛を使わず、錫と亜鉛の合金を流し込み鋳造した。後にアンチモンを加えて強度を加えるなど、独自の工夫を凝らしてある」とありました。活字は失われたとのことなのに、どうやって分かったんだろう。
なお、大鳥は「幕臣の中でも秀才中の秀才と言われ」と。秀才中の秀才。このフレーズ、時々聞くけれども、何が出典なのだろう。学芸員さんがいらっしゃったけれども、さすがに恥ずかしくて聞けませんでした。

あと、「明治政府に迎えられ英語を新たに習得し、学習院長や外交官として活躍した」とのこと。英語はおや?という感じで。それと、開拓使・工部省はスルー、というのは悲しかったです。いつものことですが。

…はい、名前が出てくるだけで、泣き咽ぶほどありがたいことです。

あと、欧州中世の活版印刷工房を実演している映像があって、一つ一つの小さい版字を組み合わせて並べて、一行ずつ、一ページずつ揃えていく様が、緻密で、かわいらしかったです。圭介も最初はああやっていたのだなぁ、とほのぼの。いや、大変そうな作業なのですけれども。嬉々としてやっていそうだ。

それを考えると、今の輪転機、映写というのは、大した技術です。身の回りにあふれる印刷物に、というか、印刷物があふれているという現状を達成した世に、改めて畏敬の念を覚えてしまったことです。

そんな感じで、大変お得な感じの、良い時間が持てました。
特に印刷に興味がなくても、のんびりと時間を過ごすには良い空間だったと思います。


さて、帰り、会社に帰るのも何だったので、そのまま漫画喫茶に寄りました。読んだのは、「トッキュー」。
…関西弁でちっちゃくてやかましい、童顔おっさんな教官。その教え子の一人に、薩摩弁の一筋縄ではいかんスタァなにーちゃん。
ちょっと心臓に悪かったです。

…いや、別に、その。ごめんなさい。

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2006年07月20日

工部大学校オムニバスその3 安永義章と赤羽工作分局製紡績機械

ちょっと間が開いてしまいました。オムニバス。前のように一度にやろうとするとハードルが高くて続かないので、一人ずつ行きます。2期生はまずこの人から。

安永義章 (やすなが ぎしょう)
明治13年5月卒業、佐賀県出身。機械科の第2期生。

明治9年3月と11年3月の2回にわたって、成績優秀者の景品が与えられている秀才です。
彼が贈られたのは、工部大教師のジョン・ペリー先生の著作"An Elementarty Treatise on Steam"と、ランキン博士の"A Manual of the Stream Engine and Other Prime Movers"、"A Manual of Machinery and Millwork"でした。

第一等及第の卒業者。2期生の機械科11名のうち、第一等は彼と原田虎三のみ。
卒業時の成績は45人中2番で、次席でした。

安永は、志田や高峰や森、それに志田の電気工学科の後輩の岩田武夫らとともに、プロジェクト気球チームの一員でした。この時安永は4年生。彼の担当は木型・気球枠の製作でした。

西館楼上の集合ボイコット事件のときも、南清や片山東熊、岩田武夫、中野初子らとともに謹慎食らっています。
そんな感じで、イベントにもよく顔を出す。電気科の岩田と共に、二期生の中心的人物のようです。

卒業後は、岩田とともに、明治14年の日本工学会の会長になっています。
また、明治23年の工学会誌に「石造拱橋」という論文を掲載。
さらに、「度量衡比較自在」を明治26年に工業雑誌社から出版しています。

卒業後は工部省工作局赤羽分局勤務。
その後、工部省の終焉に伴い、明治18年に陸軍に移ります。3月、兵器製造研究のため欧州へ派遣されています。明治20年陸軍三等技手。このとき、化学科の先輩でプロジェクト気球チームの森章吉も同じ陸軍省でした。
明治21年、森省吾とともに、五等技師。

陸軍省にいながら、官民問わず、いろんな仕事を引き受けています。
明治24年に、大阪セメント会社の製造力検査を、内務省より委託されています。
また、明治26年9月〜27年2月まで、東京工業学校で機械科の授業の受け持ちを嘱託される。
さらに26年10月、御料局名古屋支庁所管の錦織綱場の改良方案を調べる嘱託を受けています。
加えて、明治27年7月19日には、震災予防調査会臨時委員に任命されています。

こんな感じで、陸軍に所属していても、あちこち、いろんな分野で使いまわされていた模様。能ある人の宿命というべきか。

明治29年陸軍省を辞することになります。同期の鉱山科の荒川が語るところによると、小銃研究を行っていたとのことですが、良い武器を発明しても上官の名義となり、本人が尽くした功績が世に現れることがない。これが不平で陸軍を辞めた、とのことでした。

その後、八幡製鉄所の技師になり、先輩の小花冬吉とともに製鉄所担当。製鉄事業視察のため再び欧米へ派遣されます。明治34年に陞叙の際「工学博士」という肩書きが見えますので、このときまでに博士号授与があったのかと思います。明治35年10月に八幡製鉄所退官。

その後、明治37年4月、大阪高等工業学校長に就きます。これは今の大阪大学工学部。少なくとも大正7年までは勤め上げています。

興味深いところでは、安永はダイハツディーゼルの創立にも関与していました。
当時、エンジンはほとんど舶来者の輸入品。エンジンの国産化とその普及のために、安永が関西の財界有力者の協力を仰いで、発動機を製造する会社、「発動機製造株式会社」を設立。ここで、国産初の6馬力のガス発動機の製造に成功しています。昭和になって三輪自動車の製造を行いますが、このときの車の名前が「ダイハツ」。「大」阪の「発」動機会社ということで、会社がダイハツと呼ばれ親しまれていたことが由来だったそうです。

さて、安永。興味深い体験談を語り残して下さっています。
「赤羽工作分局製 紡績機械」ということで、彼が明治14〜15年に工作局で担当した、紡績機械の製作についてです。

「現代日本記録全集9 科学と技術」(筑摩書房)に収録されています。この本、団琢磨の語りや田中館愛橘の座談会、前島密の「郵便創業談」、田辺朔郎の「北海道鉄道由来」、そして、恐ろしいことに宇都宮三郎が自分について語っている「宇都宮氏経歴談」などが収録されています。えらく濃い記録集です。田中館愛橘については今ちょっと目をつけておりまして、オムニバス番外編で後ほど語りたいと思います。

で、安永の語り。まず、「わが工学会長山尾庸三君が工部卿たりし時、わが客員大鳥圭介君が工作局長たりし時」と仰っているので、たぶん工学会の公演か何かだったのではないかと。

後になってからの回顧談ということで「未だ赤羽工作分局が工部省の所轄なりし時」と始まっています。なお、赤羽分局は16年2月26日に海軍兵器局に引き渡されています。

紡績業はもともと内務省の管轄で、国内でも綿紡績の発展が強く要求されましたが、日本に紡績機械を製作する技術は当時ない。すべてイギリスからの輸入品でした。これは紡績に限らず、鉱山機械や造船、蒸気機関など、すべてにおいて同様でした。産業の外国依存からの脱皮と国産品の生産は、国の使命。各種機械器具を開発して、国産機械を製作するためには、音頭をまず国が取って、国家資本を投入せねばなりませんでした。

その開発現場最前線が、工部省工作局でした。安永は、この工作局の赤羽分局で、農商務省から注文を受けて、紡績製作の担当となりました。そして、同じ2期生機械科卒業生の坂湛と共同で、紡錘二千個の紡績機械一機を製造したときの苦労を語っています。

以下、国主導の機械開発の黎明期を象徴するような出来事だったのではないかと思いまして、興味深いです。

明治13年5月、坂と共に工部大卒業と同時に紡績機械製造を命じられました。で、6月に三河にある輸入ものの紡績機械を見に行き、見取図を作って、工作局長に報告しています。(次席卒業ということは、一期生だったら十分留学できたのに、二期生以降はそのチャンスはなく、いきなり現場主任を負わされたわけだから、気の毒だ…)

ちなみに、その報告は「工作局長大鳥閣下に奉呈す」から始まっている。大鳥閣下って誰だ、と一瞬本気で思ってしまった。閣下呼びか…。そういえばクララも「大鳥閣下」と言っていたけれども、あれ、訳者の方が勝手につけた敬称だと思っていた。

この紡績機械がまた複雑で、分離離散しているので全体図を把握することはできなかった。が、7割8割の解体図は作ることができた。その見取り図作成に半年を費やした。途中で自分は病気になって、ほとんど坂にお任せする羽目になってしまったとのことでした。

そうして苦労して作った見取り図を元に、紡績機械を製造するわけですが。
農商務省からの注文は10機だったのですが、最終的に1機しか作らせてもらえなかった。
というのは、赤羽で作ったものはあまりに制作費が高価で、英国からの輸入の2倍にもなってしまった。それに見込みより時間がかかってしまった。なので、残りの9機は製作を見合わせられてしまったとのこと。
これがよほど悔しかったのか、安永はそのときの苦労についてつらつらと語っています。

もともと、蒸気機械やポンプも、国内で作ったら最初は輸入品の2倍も3倍もコストがかかった。それらは将来の経済性を念頭において開発するのであって、開発費用を最初の1台の費用に負わされたら、高くなって当然だ。輸入品を国内品で代替するのなら、その目的を考えてほしい、というのが最初。

開発するにも大蔵省から予算は減らされて、仮家屋一棟も建てられない。お雇い外国人は任期が来たら再契約は許されない。新規雇用も絶対にだめ。工場機械もすべて輸入は許可されない、自作するしかないという状況。そうすると全部自分で調べて試行錯誤せねばならず、はなはだ手間がかかる。それで不都合を申し立てると、製作をやめろといわれてしまう。

材料の鉄も、輸入物ではなく釜石産の鉄を使用せねばならなかった。で、釜石の鉄はえらく硬い。ヤスリも鏨も入らない。工夫が泣かんばかり。紡績機の仕上げも困難を極める。工部卿が視察したとき、安永が自ら、輸入鉄と釜石鉄の強度の差を見せるのに、鏨をとって実演して見せた。そうしてようやく上等の鉄を手に入れられるようになった。ただ、釜石産の鉄で苦労して作成した機械は、強度が強くて磨耗や破損の心配が少なかったとのこと。

官営の工場の定めとして、部下の工人を勝手に金銭で報いてやることもできない。全体の組織も緩慢迂遠。

そんな感じでやっとこ作成した手作りの国内初の精密紡績機械。価格は4万円。これはむしろ安価というべきだろう。もし1機だけではなく予定通り10機作らせてもらえれば、1機当たりの値段はもっと下がっていたに違いない。1機だけの値段をみて高価とされてしまったのは酷な話だ、と。その悔しさを滲ませています。

局長、ちゃんと部下を庇ってやれよー、と思いましたが。
大鳥は15年で元老院に移ってました。残念。
組織が緩慢迂遠、というのは、当時どこもそうですよな…

で、そうして心を砕いて製作した1機が、16年2月に農商務省に引き渡されたのですが、なぜかそのまま箱詰めで2年間も蔵入りになってしまっていた。
その後、紡績と織物の第一人者とされている農商務省工務局の荒川新一が、その機械で綿糸を紡ぐ試験を行った。
その評価。

「打綿器のほかは役に立たぬぞえ。決して安永のことを悪く上申するようなことはしない、安心しろい。畢竟、こんな製作を言いつけるやつが、いえー、悪いえ」

などと言い放たれた。
しかも、その数日前には、坂に向かって「打綿器は見掛け倒しで、綿は打てぬわい」などとのたまっていたらしい。

「右のご挨拶は小児の戯言と同然なれば、無論取るにたらず。同氏は十分の試験も為さず、早計にも右様のごとき論定に帰着し、器械はあちこちたたき散らし、同氏の弁舌に任せて同氏の意見、即ち鑑定のとおり十分に工務局へ報告されしならん」

と、精根尽くして製作した機械に対する酷評に、安永は涙ながらに語っています。
そして、器械は、非常に安価で、払い下げられてしまいました…。

しかし。
払い下げを受けた下野国芳賀郡の野沢泰次郎氏。彼の元で、紡績機はその真価を発揮したのです。
野村氏は、後に安永を訪れました。安永はあいにく留守にしていたので、野村氏は手紙とともにお土産の鰹節を置いていきました。その書面の内容。

「先年工作分局にて御製造の綿糸紡績機械その後御払下げを蒙り、据付運転仕り候処、案外工合宜しく候」から始まり、その機械の具合のよさを述べています。長年ご苦心された末の今日の実況、このような精密な機械を日本で製造されたのは国家のための大儀、ということで、「鳴謝かたがた出頭仕り候」だったと。

さらにその後、再び野沢氏からの手紙で。「完全整頓良結果の次第」「爾来右機械の義、なんらの故障もこれなく、十分都合よく運転致し居候」とのこと。まったく長年の苦心の工夫の成果で、わが国未曾有の精密機械で、このような良い結果を得るというのは、実に敬服の至り…と。感謝と尊敬の言葉が連ねられていました。

「論より証拠」と、安永、溜飲を下しています。
見取り図おこしから苦労して、コピーから初めて、先生もおらず、硬い鉄を削って、誰もやったことがない国内製の精密機械を仕上げて。それで評価はボロクソ。発注者には使ってもらえず、民間に叩き売りされてしまった。
けれども、その民間人使用者の評価こそが、すべて。

荒川氏の知識は「架空的、書籍的」。未だ一の実地の演習も経ていない。経験は荒川氏にはなかった。
一方、野沢氏は長年紡績の実業に携わってきた実地の人で、あまたの紡績所の視察もし、自ら英国製の紡績機械を使用して熟達した人である。赤羽製のものと舶来製の機械を、部品一つ一つ比較することのできる人である。
そういう方からの良い評価を得られたことが、実に満足。我輩にとってこの上なき証明。面目欣喜に耐えざるなり、と。

机上人間からの公の評価より、実地で用いる人からの評価のほうがずっと実がある。面目躍如。
お上に認められなくても、実際に使ってくれる人の役に立てたから嬉しい。
そういうエンジニアとしての喜びが伝わってきたことです。
なんかもう、「よかったなぁ、がんばったなぁ」と、抱きしめて肩をぽんぽん叩きたくなりました。

そんな感じで、二期生次席安永君。そのエピソードは、とっても素朴なものでした。
明治の先駆者の方々は、右も左もわからない状態でも、職務に誠心打ち込んで、その分野を開拓してこられたのだなぁと。
実質的な、胸に来るエピソードでございました。
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2006年07月21日

国会図書館 「史料にみる日本の近代」

国会図書館。

「電子展示会『史料にみる日本の近代−開国から講和まで100年の軌跡−』の提供を開始」
http://www.ndl.go.jp/modern/

うおー!
思わず雄たけび。いやちょっと、これはマジですごいですよ。
最近、利用者というか、すっかりファンになっています。国会図書館。

「歴史史料とは何か」「歴史史料とはこう使う」…国会図書館ならではの豊富な資料の実例を、惜しげなく掲載して、プロフェッショナルな思考法と作業を紹介してくださっています。
なんかもう、館員の方の、史料にたいする愛着と意気込みが、ムンムンと伝わってきましたです。

そして、スライドショーがすばらしい。船中八策、蹇蹇録の草稿、立憲政友会の写真…は、鼻血吹くかと…。陸奥のナマ字…

明治だけではなく、大正・昭和のファンの方も十分楽しめると思います。
年表とコンテンツとのリンクがすばらしい。
参考文献の参照の仕方が、解説と写真と資料アクセスにダイレクトに結びついていて、こんな贅沢な参考文献集ってかつてあっただろうか、というぐらい。インターネットメディアの勝利というべきか。

国会図書館の事業なので、やはりというか、政治、憲政などに分野が偏っていますが。それでも一見の、いや、しらみつぶしに舐めまわす価値があります。

いやー、スゴイ。
本気だ。本気で、国民に明治からの近代史を見直そうとさせているよ、国会図書館。教科書でないがしろにされているところを、ひっぱたいて無理やり目を向けさせんとするばかりの、行動。
もう血沸き肉踊ってます。
もう、あなた方のためなら、どれだけ税金取られても文句言わない…。


そんな感じで、ワタクシ的には大活躍の国会図書館。
以前に国会図書館の独立行政法人化について、民間に任せたりしたらとんでもないことになると、ぶーぶー文句をたれたことがありましたが。
国会図書館側からちゃんと見解を示してくださっていました。

http://www.ndl.go.jp/jp/role/index.html

「国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもの」独立行政法人の対象となりますが、「立法補佐機関としての国立国会図書館の仕事は国の事務そのものであり独立法人の事務でないことは明らかである」と国会図書館側が明言してくださってます。

まだ議論の段階で、これで独立行政法人化の流れに歯止めがかかったわけではないのですが。

「国民の知的活動の成果である出版物を文化財として後世に伝えていくという役割を通して、文化と歴史に価値を認める社会の拠点たらんとすることを、私たちは粘り強く訴えていきたいと考える。」

という見解を、総務部の方がされていました。
いやもう、自分ごときが何を憂慮することもなかったですよ。
もう心から、応援したいです。コピー代1枚25円でも、いくらでもつぎ込みます。いや、10円にしてくれるならそれに越したことはないですが。あとA3マイクロの馬鹿高さはどうにかしてほしいですが。それはともかく。

更に驚いたことに、重点目標の項目。

「デジタル・コンテンツを作成・提供する機関と協力して、わが国のデジタル情報の総合的なポータル・サイトを構築し、平成19年度から提供を行う」

ま、まだ何かやる気ですか。
総合デジタルアーカイブでも十分度肝抜かされたといいますのに。
さらに、何をやってくださるのか。想像つきません。

いやGoogleの野望に比べればまだまだ、とかおっしゃる方もいるとは思うのですが。
それでもこう、政府が主導になって、こうした知的活動の音頭を取ってくれるのは、大変頼もしくあります。
国民の知の供給源。この国に生まれてよかったと思える瞬間。

…自分も、供給してくれるものを受け止められるように、その度量を、ちょっとでも広げたいと、思うだけ思っておきます。はい。

    [2] ままこっち URL 2006/07/23(Sun)-21:50 (No.98)
    入潮さんっ!
    私もこの情報を最初新聞で見て、実際サイトに飛んでみてまさに「度肝を抜かれました」!
    ユーザフレンドリーなサイトの構成、作りはまさに秀逸。高い税金を払っている甲斐がある、というものです(爆)
    今後もますますの仕事ぶりを期待したいですね。

      [3] 入潮 2006/07/24(Mon)-12:51 (No.100)
      おぅ、新聞にも掲載されていましたか。こういったことはどんどん宣伝してもらいたいですねー。
      サイトデザインも、プロがやっているのかと思う見やすさで。美しい〜。
      税金は…これが、納税者の不満を逸らせるためのやり方だとすると、コノヤロウと思いますが。笑。
      そして、「ふーん」とただ通り過ぎるだけではなく、ままこっちさんのように「度肝抜かれ」て下さる方が、もっと増えればいいなぁ、と思います。
      ナルシーな過去礼賛ではなく、そこから何かを掴んで自分自身の奮起となるように。
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2006年07月24日

「死生の境」その3と本多晋発言

偉人たちに、死生を分けたという体験をインタビューしていく新聞企画、「死生の境」。
その大鳥圭介版。今まで2回ご紹介して、まだ最後まで語っていませんでした。
他の方も語ってくださっていましたし、もういいかなー、と思ってましたが。資料を整理していたら原本がでてきた。以前に打ったテキストが勿体無いので、「せっかくだから」という身も蓋もない理由で続きを。
今はデジタルライブラリ( http://kindai.ndl.go.jp/index.html )にも収録されています。
収録前に、マイクロフィッシュの見難くて時間がかかる高コストな複写を行って、しかもその後古本屋で見つけて原本を買ってしまっていました。国会図書館の大サービスぶりは、いつもは大喝采なのですが、たまにこういうときは悲しくなるのが人間です。いや、嬉しさ9割です。オススメしやすくなりますので。いい本へのアクセス性が高まるのならそれに越したことはありません。

これまでの記事は、以下のログにありますのよろしければご参照くださいまし。

http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/bbs/zakki_log09.htm
2005/10/01(Sat)-21:31 (No.81)
2005/10/06(Thu)-02:57 (No.92)
(今見ると、「木戸さんが薩摩の雄を煽っていた」とか、スゴイ書き方していたな…)

箱館戦争中、七重浜で、銃弾が頬を陣羽織を掠めて衣服に穴が開く、文字通り弾丸雨あられの最前線。前に出るなと部下に叱られ、庇われ。従卒は打たれ。
その後、降伏、投獄。狭く不潔で不快な牢中で、首はないものと覚悟して、血も枯れる思いで処遇を待つ日々。生かす殺すのか分からないままの生殺し状態。これぞ死生の境。

しかしながら、大鳥がこれこそが「死生の境」と感じたのは、さらにこの後のことでした。

「其が一月二月経つても、殺しさうに無いので、ソロソロ娑婆ッ気が出て来る。夜も更けて、四隣ゲキ(門構えに貝)寂たるの時、コツコツと、隣の境の戸を叩いて、互いに話し逢ふ。我輩はよく榎本と話合たが、此形勢を察して我輩は『どうだ榎本、俺はもう生命拾ひをした積りで居る、もう殺さないぞ』と楽観すると、榎本は『奈何も形勢が面白くなつて来た様だが、併し油断はならぬぞ』と言つた。」

生かされるのか殺されるのか。なかなか沙汰がない。
夜長に、圭介、こつこつと壁を叩く。壁を挟んでしょっちゅうお隣の榎本さんと話し合っていた。
もう殺されないぞと楽観をする圭介。まだ油断はできないと榎本さん。

殺すの殺さないのの話。いくら覚悟があったこととはいえ、知らされないというのは一番の苦痛だったでしょう。

明治2年の9月頃に、一度、彼らが死罪一等を減じてられ無期懲役になったという報が、新聞に記載されていました。彼らの家族はどれほど喜んだことでしょう。
しかしながら、その直後で大村益次郎の暗殺があり、また、政府は死罪側に傾きます。

そうした上層部の動きは、ほとんど囚人たちに知らされてなかったようで、生殺しのまま、不潔不自由な状態で閉じ込められていました。
知恵ある人間、何が辛いって、情報がないのが一番辛い。

生きているわけですからな。四六時中覚悟しているわけにもいきませんわな。というか、死への覚悟が大きいほど、無謬は苦痛だと思います。時間が有効に使えるならそれに越したことはない。

時間がたつと生きたいという気持ちも出てくるでしょう。牢中にいると、太政官日誌や新聞や新入り囚人や書物などから、新しい情報は入ってくる。もともとあれだけ合理的生産的志向の人間だから、自分は何をやっているという焦りも生じてくるかもしれない。同時に、あれだけ覚悟したのに生きたいと思う心を恥じる心も生じるかもしれない。

それはみな同じことでしょう。それに、榎本や荒井ら幕臣たちにとって何より忌避したいのは、自分の忠を汚すことでしょうし。
その中で、一人、「もう殺さないぞ」と楽観している人間がいると、周囲も多少は救われるというものではないでしょうか。周りの人間たちが楽になるなら、自分が汚れることは厭わないというのは、「負けて笑って帰ってきた」という戦中の大鳥のあり方からもよく伺えることです。

ここで、「大鳥圭介傳」の本多晋の証言にある、大鳥の発言。

「函館で降参した時も榎本は正直だから頻に切腹し度がった。一度切腹しやうとする処を大塚霍之丞に止められた位だが、僕は然う思つて居たよ、なに降参したつて殺されやしないと」

現在の大鳥のイメージにつながっている諸悪というべき発言です。上の大鳥の榎本に対する「俺はもう生命拾ひをした積りでいる」発言とあいまって、大鳥の楽観というか図々しさが強調されます。

ただ、この本多の言について、大鳥圭介傳著者の山崎有信氏は、「是は大鳥男の詞かどうかは疑わしい」としています。その根拠として降伏後「四人は必ず屠腹ならんと考へし」の言をあげています。また「しかし降伏の決心をした際は殺されたりやしないと考へ、其の後に於いて死を決せられたものと見れば別段矛盾ではないから、或は降参して籠の中でと屠腹と考へた以降、死を決したものと見れば差支えはない」ともして、「かれこれ対照して決するは蓋し史家の責任であらう」と述べています。

自分は、榎本の切腹後、降伏を持ちかけた時点から、大鳥の死への覚悟はあったと思うのです。戦の中での死から、降伏による逆賊としての敵の手による死への覚悟に遷移したというべきか。降伏=逆賊としての死、という頭。
そして、死ぬなら降伏ではなく、戦の中で死にたかったという本心があります。それをうかがわせる根拠は、あまりに多いです。

まず、5月14日の、降伏使者が来た時点での「今にいたり降伏すべき心なし、いずれも潔く戦死せんと誓いし」の言葉。14日の時点で、降伏の心はなかった。これが榎本切腹未遂と、その後の議論で覆る。

さらに、降伏時の漢詩。「 砲裂艦摧吾事終 幡然代衆殺茲躬 独慙一片男児骨 不曝白沙青草中」衆に代わってこの身を殺す覚悟。「我が事終わる」と、自身の終焉を詠み上げた歌。そして、白砂青草の中、つまり戦の中で死に骨をさらすことができなかったことを「独慙」一人、慙愧する。

そして、山崎さんも上げていますが、詰問を受けた際の、「我々を誅戮して自余の脱走人を寛典に処し給わんことを願うのみ」と告げた発言。
自分たちを死刑にして後の兵士の処遇を赦せと請うた。

見張りの役人が、脱獄の疑いがあるからと金を渡さなかったことについては「我輩、元万死を帰し、衆人に代り、天裁を仰ぎしことなれば、仮令尋常の家に居き、番兵の看護なしと雖、遁走などの卑劣の心あらんや」
もともと死を決意して兵に代わって罪を受けようとしているのに、逃げたりするか、と憤慨。

「今よりは世をすつる身のひたすらにたどりても見ん志きしまの道」
世を捨てる身であるから、敷島の道、つまり歌の道にひたすら入っていこうという心情の和歌。

「詩無求巧却成巧 人或失時終得時」
詩を巧く作ろうと求めようとしないときのほうが、却って巧くできる。人もまた、もはや時を失い終わろうとしているときに、却って貴重な時を得る、という気持ち。これも自分が「失時終」と、自らが終わりであることに対する自覚をしています。

「一夜夢逢九泉友 醒来愧我尚偸生」
夢であの世の友に逢った。夢から醒めて、自分がなお生を盗んでいるのを恥じる。「偸」は盗む、という意味。おめおめとまだ生きていることを愧じる念。
情景が目に浮かぶ。「死にやしない」などと思っていた人間のする体験ではありません。
たぶんこれ、中島さんのことなのだろうなぁ、と。別の「 慷慨平生結満膓 一朝國破見忠良 可憐親子三人骨 青草空埋千代岡」 の詩と併せるとそう思います。彼ら親子の死が「平生」から「慷慨」になって腸に満ちる。

「一朝忠憤不図躬 誰道人生鮮有終」
一朝の忠義のために身を省みない。そのような道の末の終わりというのは誰の人生でも鮮やかだ。
ここにも、あの戦で死にたかった、という本心が見える。

「自慰自嗤自憐 夙識死灰難再燃」
自ら慰め、自ら嗤い、自ら憐む。死の灰は再燃することはないというのを思い知っている。

「阿母倚門児屈指 天涯空待未帰人」
みちさんが江戸に移ってきたと聞いては詠んだ歌。母は門にもたれて、子供は指を屈して数えて、「空の果て」の「帰らぬ人」を待つ。

そこまで思い至ってから「余裕綽然心似禅」と、禅の境地にまで達している。

さらに、後に大鳥は、人生で死ぬと思った3つのこととして、「余は死損なうた事三度あり。一は五稜郭の折敗戦して首を刎ねられんとせし時、二は日清談判破裂当時、二六時中砲弾絶えず頭上に唸りし時、三は小田原海嘯の折命からがら逃げし事なり」と語り、第一に降伏時のことを挙げています。

そもそも、大鳥は戊辰戦争のみならず、閑谷学校の大火事、安政の大地震、小田原大海嘯、日清会戦前夜の銃撃戦と、内乱、外乱、火事、地震、津波…と、人生のありとあらゆる厄災を経験しつくしているような人間ですが。

戊辰戦争中は、今市や会津で直接目の前から銃弾を雨あられと浴びせられながら逃げ惑い、箱館戦争でも艦砲射撃の真っ只中で重量弾を叩き付けられ、決戦時も陣羽織に銃弾の穴が開く前線に一日中い続けたわけですが。それすら、「死ぬ」と思ったことには含めていません。「死に損なった」のは、まず、降伏時のことだと語っています。

これだけのことを自分で連ねていて、「降参したって殺されやしない」と言っていたと今更他人から言われても、白々しいというものではないでしょうか。

当時の大鳥の心境を目にすれば、どう見ても、本多に伝えた言は、自分をずうずうしくみせたいポーズに過ぎないと思える。自分で「死を覚悟していたよ。死ぬしかないと思っていたよ」なんて外面の良いことをいう人ではないというだけのことでしょう。

大鳥は、5月16日の夜の榎本切腹未遂後、玉砕するという議論の中で、降伏を自ら持ちかけました。(疲れ果てて押入れで眠っていて呼び出されたときですが…) 先に降伏論を呈した中島三郎の意思を継いだ形になるかと思います。

「是迄蓋したらモウ沢山だ、此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やつて居たら、どんなみつともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門に降伏して、皇裁を仰ぎ、外の者の為に謝罪するが宜しい」の中島三郎の言。(史段階速記録・林董)

大鳥は千代ヶ岱で、中島さんの死に居合わせました。永井さんを文官として除くと、武官では大鳥は中島さんに次ぐ年長者。そして軍には、若い人も、給料目当ての歩兵も多い。降伏という泥にまみれる行為を呈するのは、自分にしかできないと考えたのではないかと思います。

本多も、船の中で大鳥の南柯紀行の草稿を見ていて、しかも自分で書き写しているから、その内容は知っているだろうに。
というか、本多のこの証言自体が突っ込みどころだらけでして。
吉田に対しても、吉田は本多にとって長年の上司であり、英語もできない判任官のぺいぺいの自分が頼み込んで洋行に連れて行ってもらったり、事業に失敗しては借金を世話してくれたりと、大変世話になった人物。その吉田を「大腹な人で金がなくてとうとう貧乏して死んだ」とかのたまっている。
こういう人だから、面白ければ何とでも面白いほうを語ってしまうというのはあるでしょう。

現代になって、無責任な評論家やら小説家やらが、他人物と対照させるのに都合がいいから、こういった発言のみを抜き出して、大鳥のキャラクター像を作り上げているので、大鳥が誤解を受けているわけで。安藤太郎発言の抜き出しも同じ。「大鳥圭介傳」も、功罪両方あります。

や、本多の語りも好きなんですけれども。旧幕府などで貴重な記録を残していますし。まじめなときはちゃんとまじめな人です。
本多に遠慮なくそういうことを言わせてしまう普段の大鳥の言動が問題なんでしょう。ある意味自業自得ですが。そうなることを分かってあえてそういう言動をしているあたりが、憎たらしい。

大鳥の楽観は、他人に見せるため、他人を安心させるための楽観であって、本人が本当に楽観的であるというわけではない、というのは、いつもの行動パターンです。

話がそれました。既出も多くてすみません。というかこのサイト始めたときから散々垂れ流していたことなんですえが。追加情報もあって、後のために一度まとめておきたかったものでして。
…続き、いきます。

「其はさて牢獄内には、我々同志と同じ、配所の月に照らされて、数多の破廉恥罪を犯した者も交じつて居た。而も多くは重犯罪のみで、金箔附きの悪漢計りであつた。即ち放火犯も居れば、強盗も居るという風で、我輩は此処別社会の一室内で、かかる肌違ひの物と、同房して居た為、幾何か気もまぎれたが、其内殺されそうにも無くなり、取締も幾何か緩くなり、知己友人等と密に手紙の往復も出来る様になつたので、自と気も勇んで、此等の犯人にABCの手ほどきやら、数学やら、読書を教えてやる事とした。」

と、牢内の様子。「其内殺されそうにも無くなり」と余裕がでてきた大鳥、放火犯や強盗相手にABCやら数学やら教えてあげていた。楽しそうだ。こういうときは生き生きしている。
大鳥、教えるとか育てるとか、人に対するエンパワメントが好きなんだなぁと。スキルを身につけさえることが、釈放後の就職に有利になると思ってやっているわけで。
あと、相手が放火犯とか強盗とか金箔つきの悪漢、というあたりが、無性に楽しそうだ。

なお、上に挙げた死の覚悟が伺える漢文やら歌やらは、投獄されて半年までぐらいのもので。途中で何か悟っているし、時間がたつとあり方も変わるというのはあると思います…
明るくなれる材料があるときはことさら明るいのも大鳥ですし。

いろいろ連ねましたが、結局は推測の域を出ないものでして。誰にも断言はできない。実は本当に死ぬとは思っていなかった、あの漢詩や歌はたんなる叙情的な作品に過ぎなかった、というのも、アリだとは思います。それはそれで大鳥らしいし。本当のところは本人しか知らないでしょう。
あと、死ぬと思っていたり、いや大丈夫さ、と思っていたり、コロコロ変わっていた、というのもまたアリで、それも人間らしいと思います。


…と、とりあえずここまで。
そんなに長くない体験談にいくら時間をかけて突っ込みしているのやら。
もう一回で終わります…。
posted by 入潮 at 04:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

死生の境 その4

「死生の境」続きです。今度こそ最後まで行きます。

「不潔と粗食に困じ乍らも、二年と七ヶ月の星霜を過して、時は明治五年の正月六日、突然糾問所所へ出頭せよとの命令があつた。此不意の命令に、愈々許される時が来た。否愈々殺されるのだと、人毎に楽観又は悲観しつつ、命の儘に糾問所へ出頭した。
愈々死生の間際となった。不時の喚問は、要するに死生の割然と定まる時である」

2年7ヶ月。長いですよな。それだけの間、不潔なところでろくな食べ物もないところで。収入も無く家族に差し入れさせるだけさせて、生死もおぼつかず、心配と迷惑かけっぱなしで。これで家族に何も返さずに死んだら、借金だけが残る。恨まれます。

投獄されている間に世の中はどんどん変わっている。鉄道のための第1回外債が発行される。スエズ運河は開通する。稲田騒動はおきる。工部省が設置される。郵便制度が施行される。何より、廃藩置県で世の中の秩序がひっくり返った。自分達が所属していた藩というものはもはや、ない。

明治初期って、3年違うと世の中違う世界、というぐらいに変革のスピードが早い。そして3年という年月は、覚悟も何も色褪せるには十分な時間だと思います。その中で、牢の壁を見つめてひたすら情報を受け取るだけで、なんら世の中に作用することができない。あの生産的人間たちには、それが何よりも苦痛だったのではないだろうか。そして、生きるも死ぬも処遇を知らされないまま生殺し状態。

で、正月すぎて6日。こ「いよいよ許される」「否、いよいよ殺される」と人それぞれに楽観、悲観する。言うまでも無く大鳥は楽観のほうですが。

この時、釈放のその日まで、彼等は自分達の処遇を知らされていなかったのです。

生きるか、死ぬかが下されるとき。「不時の喚問は、要するに死生の割然と定まる時」つまり、これこそが、本当の「死生の間」であると、大鳥は述べています。
普通の人は、戦争やら強盗に襲われたやらで死に掛けた話を呈しているわけですが。
確かに、死刑か恩赦かどっちだ、というその狭間を体験できる人間なんて、めったにいない。
…大鳥、芝居好きだけあって、ストーリー作りが巧いですな。

「で互に顔を見合せて、『オイ奈何だらう』『奈何なるかな』等と騒ぐのも、畢竟不安であるからだ。処で我輩は相も変わらず楽観して、「心配することは無い、もう赦免だ。愈々晴天白日の身となるのだ」と太平楽を並べて居ると、榎本は『貴公は何時も楽観するほうだから、貴公の観察は当にならぬぞ。併し貴公もまさか根もない事を言ふのでは無からう、何故赦免だといふ見当をつけたか』と聞く。
勿論見当の無い事を言はぬ。と我輩は、糾問所へ出頭せよと命じてからは、我々を罪人扱にしないでは無いか、どうだ、牢を出る時に、所持品を取りまとめて行けと言つたらう。加之籠へ乗せるにも、紐を掛け無かつた。若し我々を罪人扱にすると、厳重に紐を掛ける。其をかけないのを見ると、もう大丈夫だ。と言ふと、榎本を初め皆の者は、『其もさうだ』と稍々愁眉が晴れる。」

やっぱり楽観。なんて仰らないで下さい。「太平楽を並べている」と自分で仰っている。これも楽観のポーズなわけでしょう。
「貴公はいつも楽観するほうだから」なんて釜さんに言われる圭介。本当にいつもそう振舞っているのだなぁ、と。
そして大鳥の楽観は根も葉もない、というわけではない。所持品をまとめていけ、ということは、少なくとも虜囚は終わり。そして、籠にのるのに紐をかけなかった。これは罪人の扱いではない。こういったことに気づいていることもそうですが、それを開き直って楽観の材料にして説明しまっているところがえらい。

「斯くて糾問所に出頭すると、時の糾問所の頭たりし、黒川通軌が、我々同志を一列に並べて、『其方共儀悔悟服罪に付き、揚屋入りを仰せつけ置かれ候処、特命を以て赦免仰付けられ候事』との特赦文を朗読したが、我輩は『ソレ見た事か』と隣つて肩を並べて居た榎本の尻をこっそり突く。すると榎本は、よせと目に言語いはせて、眉を顰める。突くも、突かるるも、双方欣しさが極度に達して居るのだ

これこそが死生の境。そこにあったのは特赦の知らせ。死と生の境目から「生」の側に。三途の川から生の岸辺に乗り上げた、その瞬間。

釜の尻、つんつん。

粗食・不潔に甘んじてきた、垢と髭だらけの40過ぎたおっさんが。
嫌がる榎本さんの尻を突っついて、喜びあっている。
糾問所の担当、黒川さん、多分、目が点。二の句が次げないですよ。

初めてこれを見たときは、マイクロフィルムリーダーの前で悶絶しながら、しばらく動けませんでした。
ほんとに、大鳥、期待を裏切らないというか…、いつも予想以上の言動をぶちまけてくれてます、この方。
太字部分だけ抜き出したら、一体何をしているのかと思います。不用意すぎます。

…えーと。大鳥、榎本さんを持ち上げているのだと思います。語りの中で、自分が三枚目になって、榎本さんを節度ある男として演出している。
あいつはああだった、という他人の描写ではなくて、自分で自分のことを下げているわけなので。根が関西人ですよな。

これを見ると、大鳥が一人楽観して、はしゃいでいます。他の人はもっと節がある感じです。
実際にそうだったのかもしれませんが、「痩我慢の説」をはじめ、世間に何かと目を向けられやすいシーンであるだろうので、ことさら、そういう演出を行ったような感じがするのは、気のせいでしょうか。

前述の、「榎本は正直だから切腹したがったが〜僕はこう思っていたよ、なに降参したって殺されやしないと」の台詞も、結局、自分を道化にしてひきたて役にして、榎本は徳川武士の男だった、ということを強調したかったからなのではないだろうか。
そう考えると、大鳥、ほんとに榎本のこと好きだよなぁ、と思うのです。


「さて我々の、斯く赦免されたのは、全く大西郷と、黒田伯との尽力の結果であつた。当時西郷氏は薩摩に居たが、氏の意を伝へて黒田伯が、尽力して呉れて居た処、一向埒が明か無かつたので、一月の五日、新年宴会の席で、三条公に迫つて、『彼等は一時は朝敵と成つたが、決して私欲で行つたのでは無い。主家の亡びるのを見るに見兼ねて、奮起したのである。彼等は主家に対する節義の為、戈を執って官軍に抗したのである。如恁者を、ムザムザ殺すのは、当を得た事でない。貴殿が強つて殺すと仰せらるるならば、先づ我輩の首を刎てから、彼等を殺しなさい』と手詰の談判をしたといふ。其結果直ぐ翌日六日に赦免された次第だ。」

大鳥、西郷と黒田への恩と礼を述べています。述べていますが、黒田の尽力は一向に埒が明かなかったとのこと。で、西郷さんが5日の新年会の席で三条実美に迫って、彼等を殺すのなら先ず自分の首を刎ねろと直談判。そうすると直ちにその翌日の6日の日に赦免された。

…って。なんか、黒田はぜんぜん役に立ってなかったみたいな言いぶりですな、圭介。

もうちょっと何というか。報いてあげてください。
大鳥の口から出る黒田って、そういうすげない感じなのばかりだから、なんかまた、微妙な感情があったんじゃないのかー、と腐ろうとしなくても、勘繰ってしまうのです。
まぁ世間では黒田の美談のほうが有名だから、西郷さんの功績でもあるんですよということを強調したかったのかもしれない。

さて、話は変わって。

「我輩は若い時に、馬に跨つて、市中を廻るのが好きであつたから、折々は浪人共に抜刀で、追駈けられたりしたけれど、差して恐ろしくは無かつた。」

唐突に話題が変わっているので、インタビュアーが何か質問したのだと思います。
若い頃は馬で市中を回るのが好きだった。攘夷熱の旺盛な世の中。洋学者は目の敵にされる。浪人に刀を抜いて追いかけられる。が、そんなのはぜんぜん怖くなかった、と。

ちなみに圭介の前に林董が同じ死生の境で。

「辻斬に出くわした事があるかといふのか、如何してゝ、こんな者に出くわして耐る者か、畢竟辻斬に遭うなどは、遭ふ奴が馬鹿だからさ。自分は生意気な方であったらうが、此迄人と喧嘩した事はなし、又口論の末、洋杖でなぐられた様なことすらも無かつた。又恁うして辻斬りに遭はぬ様に警戒していたから、辻きりなんて少しも恐ろしくは無かった」

などと述べています。このインタビュアー、辻斬りについてみんなに聞いているらしい。ちゃんばら好きなんでしょう。その董の答え。「辻斬りには遭うほうが馬鹿」。…圭介、図らずしも董に馬鹿にされた形になってしまった。

にしても董、自分が生意気だということは、自覚していたんですね。
いや、日英同盟立役者の偉人に失礼千万なのですが。箱館戦争にせよ工部省にせよ、周囲より年が若くて、言動を見ているとどうしても生意気イメージがある。というか、董自身が好き好んで生意気だと思われようとしているという言動がある…。

で、本題。

「又如恁事(辻斬り)には、毫も気を痛めはしなかつたが、併しさすがに敗戦の苦は実に実に辛い物と思つた。殊に敗戦の苦は、命令の行われない事である。士気は沮喪すると同時に、大将の指揮が悪かった為、恁(こ)う敗戦したのだと、思ふにつけて、大将の命令を聞かなくなる。だが四五日休養させて、酒でも呑ませて置くと、忽ち士気は奮ひ立つ。要するに敗戦の感想は後日の悔悟、即ち後であの時にああすれば良かつただらうに、恁うすれば可かつたらうにと、悔悟するに過ぎぬ」

……これが圭介です。
「敗戦の苦しみは、実に実に辛いものと思った」。白髭座敷爺になってようやく、本心を吐露しました。

安藤太郎の証言。

「大鳥さんが配下を派して戦はすと不思議に勝つ、自分が出ると必ず負ける。然し、負けても実に平気なものだ。奈破翁(ナポレオン)は負けたときは笑つてゐたというが、大鳥さんもさうで、負けて泰然として馬に乗り、にこにこして逃げてくる。『また負けたよ、ハッハッ』と笑いながら平気の平だった。」

平気じゃなかった。ぜんぜん、平気じゃなかったですよ、この人。

この安藤発言も、諸悪の根源という点では、本多証言と同じかそれ以上で、非常によく評論家などに引用されている言ですが。

上の圭介発言と照らし合わせるだに、これがポーズだった、強がりだった、装いに過ぎなかった、というのがよく分かります。

なんというか。安藤証言の「平気の平」と、この大鳥の発言「実に実に辛い」を重ね合わせて、初めて、大鳥という人が「キャラクター」から「人間」になる。立体的に見えてくると思います。
周りの将兵には、負けて笑って平気な姿をさらしながら、その実、内面でのみ、辛さ苦しさを味わい、悔悟の念をかみ締めている。

安藤や本多の発言のような、図太い図々しい姿が呈されていると、その裏に、本当は違うじゃないか、という姿もまた同時にあるところが、大鳥です。しかも、死ぬ直前の白髭座敷爺になってから、そういうこと漏らすのだから、もう…という感じで。

敗戦で何が辛いかって、士気が下がり、大将の指揮が悪かったと思われるにつけて、兵が言うことをきかなくなる。まぁそれは4、5日酒でも飲ませとけばまた士気も上がってくる。

この当たりも実体験滲み出ていますよなぁ…。ちなみに、酒を飲ませとけば士気がちゃんと回復する、ということは、兵は単に負けの鬱憤を大将にぶつけていただけで、本当に兵に見捨てられていたわけではなかったわけでしょう。却って、兵と大将、信頼感があった感じがします。
それに大鳥にとって、「負け」という事実は大したことではなく、本当にまずいのは士気が落ちて瓦解するすること、というのも読み取れます。補給のない流浪の軍故の言葉かと。

なお、「自分が出ると必ず負ける」というのは明らかに事実と相違。本人の戯言を安藤が繰り返しているだけでしょうけれども。大鳥は5割以上でちゃんと勝っています。

そして、敗戦の辛さというのは、要するに、後日、ああすればよかった、こうすればよかった、と後悔する気持ち、その辛さにすぎない、と。

敗北という事実が辛いのではなく、
他人の声はどうであれ。自分が自分を責める声が一番辛い。
陸軍の総責任者であり、現場の戦術指揮官である人の言葉だなぁ、と。責任と責任感の両方を携えていた人の言葉だなぁ、と思いました。机上の戦略家に、これらの言葉は吐けないでしょうし、こういう押しつぶされそうな当事者意識はありません。

ちなみに、董も敗戦の心境については述べていますが。
「全体戦争といふものは、勝た時には随分面白い者であらうが、敗戦の経験は気のきかざる事夥しい」
と、中身は大鳥の言に比べると、かなり重みに欠ける。

他の軍人の方も、戦に関する苦しみは述べておられますが。ほとんどが、半ば自慢の個人的な体験とか、活躍談が多いです。一方、やはり、戦で泥にまみれた人の話は、ずっしり重いです。
大島久直陸軍大将の、戊辰戦争で庄内を攻めたのときの負け話とか。

「僕の戦歴は平凡なものさ。話す丈の価値がない」などと仰りながら、彼の日清の際。
「凡そ世の中で何が一番苦しいと云つても、死なうと思つて死なれぬ時位、苦しい事はない。僕は此人生最大の苦痛を、しかも適切に、旅順の役に嘗め尽して、独り心の中で泣いた。実にこの苦痛は話にも形容出来ぬ」

…現場で戦してきた人の言葉って、こういうものなんだ、と思いました。そして責任がある立場ゆえの重みのある発言。
そういった重さを、その談からは感じるのです。

そして、死のうと思って死ねない位、苦しい事はない。同じ苦しみを、投獄された方々は味わっていたのだと思います。

死生の境。百科事典的な経歴だけを見て、人を机上人間呼ばわりしている方にこそ、見てほしい史料だと思いました。

そんな感じで。
どれだけ長くすれば気が済むんだ、という感じですが。
本文全文タイプしてしまったので、これを「引用」という言葉で誤魔化して著作権をクリアするために、長くしたんです、という言い訳を。…まったく要らない労力です。

そ、それだけ価値のある、読み応えのある史料だ、ということで、お許しください。

なお、大鳥や大島大将以外にも、意外に熱かった渋沢栄一とか、相変わらず偉そうな前島密とか、子供にアオられてる谷干城とか、何が言いたいのか分からない大隈さんとか、かなり見所があります。
お時間ありましたら、ぜひ、紐解いてみて下さいませ。
混じり気のない、本人の言葉というのは、一番いいものです。


    [2] ままこっち URL 2006/07/26(Wed)-01:01 (No.102)
    入潮さん・・・何たる偶然、私も丁度「死生の境」を読んでいたところでした!
    林菫の項なんか結構面白い(林氏らしい)んですが、何より圭介先生の冷静なところ、「オレには弾丸は当たらない!」というところにしびれました。
    まさに「死生の境」を経験した人にしか語れない、すごい史料ですね。
    今は函館レポで手一杯ですが、いつか記事にしたいと思います。

      [3] 入潮 2006/07/27(Thu)-12:59 (No.103)
      おう、読んで下さってましたか。嬉しいです。箱館レポ、お疲れ様です。あれだけの濃い内容を分かりやすくまとめるのも、大変な作業かと思います。
      大鳥の気炎は、カッコいいというより、いつもどうにもコミカルな可笑しさが先に来ます。
      「なーに、おれに銃丸が当たるものか、銃丸の方が避けて行くぞっ」ですが。そんな風に前に出られたら、「そんなわけないでしょ、何仰ってやがるんですか」と妙な敬語で、首根っこ引っつかんで後ろに放り投げたくなると思います。実際部下とどっちが前に出るか競り合っていて、横から「何やってるんですか!」と怒鳴りたくなる感じで。
      多分本人も承知なんだろうなぁ、と。かっこよくあろうとしないあたりの人間性こそが、味なんだなぁと思います。
      本人の後年の回顧談というのは、脚色や美化が入っているものですが。大鳥は美化に使う絵の具が常人とまったく異なっている気がします。
      ままこっちさんのお言葉で語ってくださるのでしたら、そんな嬉しいことはありません。余裕がありましたらぜひお願いしたいです。
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2006年07月28日

諦めないこと

あー、疲れた…。
年から年中疲れたような奴でごめんなさい。
ここ数ヶ月仕掛けていたお仕事が、一気にパァになるような羽目になってしまいました。

精神的な疲労だと帰宅できてもそのままんなにもできずバタンキュー。風呂に入らないと疲れるなぁ。体が汚れると精神も汚れる。シャワーだけでもだいぶ疲れが取れるものですが。

あきらめない、というのは、大変疲れることです。
ハードルが立ちふさがり、というか、立ち入り禁止状態で、変更に次ぐ変更。何度も体制図を書き直し、関係者とひたすら調整し、それが可能な形にもっていこうとしては、やっぱり駄目だとポシャる。
自分ひとりの仕事じゃなくて、相手の会社、相手の方針とも戦わないといけない。
そして結局先方の徒労になる。人様の迷惑になってしまったことが一番疲れる。

あきらめれば楽になれる。
何回思ったことか。人からも言われた。
しかもあきらめないほうが泥沼というか、なお悪くなるのは目に見えている。
見切りをつけるのは早いほうがダメージは少ない。
なのだけれども、一縷の望みのために、やっちまうんだなぁ。
諦めないことを諦めるというのが難しい。

自分の疲れだけじゃなくて、もはや上司が潰れかけているのがキツイ。
私のようなぺーぺーは、結局やっていることは力仕事にすぎなくて、意思決定や決断の重みは、上が背負ってくれている。決断というのは、それに伴う結果の責任をすべて引き受ける前提の行いで、心理負担がとてつもなく大きい。そして、体の疲れより精神の疲れのほうが生命力に対してダメージが大きい。自分なぞ楽なものです。

新渡戸稲造の「武士道」での言葉。

「生きることが更なる苦難を伴う際は、あえて生きることを選択するのが、更に上位の精神性をもった武士道である」

さらに。

「真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐ事や死を恋焦がれる事は卑怯と同義」

新渡戸武士道は、当事者としての武士の実態に無関心なところがある、武装階級ではなく国民を近代文明の担い手たしめるために作為された国民道徳思想だ、という批判も根強くあるようですが。んなこたどうでもいいです。何が武士道かという議論は好きな人にお任せします。

私は単純にこの言葉に共感した。生きるという一番難しい選択をせずしてなにが戦士か、と思います。
終わりに焦がれるのは、フィクションだけでいいです。美しい終わり方なんぞ目指しても、耽美な現実逃避であるだけで、何も生まれない。

会津で。箱館で。
最後の最後まで諦めなかった大鳥らの生き汚さには、毎度、力をもらいます。

彼らの往生際の悪さのために多大な災難を蒙った人たちも勿論いる。
自分のせいで相手に迷惑をかけていることほどしんどいことはない。会津の圭介とか、その心理負担はいかばかりだったか、と思います。

一方で彼らが生きて、その命を最大限に使ったことにより、生かされたものがある。
降伏人1000人の人生。彼らの後半生の国づくり。

そういう、厄介と迷惑と災難をもたらしながら、同時に生むものもあったからこそ、大鳥らは戦士だったと思います。
戦いってのは、終わらせるためにではなくて、創るためにやるものだと思います。消費以上の生産につながる目的がないとやっちゃいかん。目的がダメになったら、さらにその目的を上回る生産性の別の目的を持たねばならん。

本当にもう駄目、というときに何を見つけるか。
藁をもすがる思いですがってみたら、それが鉄棒だった、ということもある。
鉄棒をつかんで重みに一緒に沈むかもしれないのですけれども。それを底の泥濘に突き刺してそこから這い上がることもある。
諦めなかった人たちによって、歴史は造られてきたのだと思います。

そんな感じで手前を動かしつつ、まぁもうちょっとやってみます。
分けわかんなくてごめんなさい。
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2006年07月29日

技術離れ対策

やるだけやりました。残務も凄いことになっていますが。あとは荒野となれ山火事となれ。…明るい展望を示す努力ぐらいしろ、って感じですが、とにかく一区切り。

てことで呑みました。日本酒オンパレード。

十四代本丸(庄内)、獺祭(山口)、上喜元(酒田)、田酒(青森)、烈(大阪) 、奥播磨…覚えているだけでこんな感じ。他にもいくつかあった。八十種類以上の地酒をそろえるというお店で、際限がなかった。
何合飲んだんだろう。5時間近く飲みっぱなし。最後のほうにはへべれけで、味が分からなくなっていた。勿体ない。

今まで余り聞いたことがなかったけれども、獺祭(だっさい) というのが、どうして、名前に反して粋で、きりっとしてうまかったです。こちら( http://www.sakeno.com/ranking.php )でみると、人気があるんですね。杜氏さんではなくて、若手社員の製造スタッフさんたちによるお酒だそうです。(http://asahishuzo.ne.jp/)


で、飲みの話題は、「この業界、お先暗いね。これからどうしようか」ということに終始していました。

技術者が技術者として食っていけなくなっている。年々事業環境は厳しくなる。公共事業は削減の一途。リストラを繰り返しても追いつかない。各社は技術者をもてあまして、どう食わせようか頭を抱える。
最初から余り高くなかった給料は、下降の一方。
残業は厳しく制限される一方で、透明性やら品質やら環境配慮やらデジタル化で、手続き事項や作業は複雑化する。書類も提出物も増える。作業レベルは上がっているのに報酬は下がる。一人当たりの仕事の量は増えるばかり。

とても若い優秀な学生さんに選んでもらえるような状態ではありません。

景気いいのは、中国需要に引きずられている自動車業界、プラント、メーカーぐらいでしょうか。

世の中はソフト化。金融、投資、法律系は重宝される一途。
金融・商社系と、エンジニアリング系の給料差は拡大する一方。昔からある程度そうですけれども、格差は広がっているのではないか。
安全性、企業倫理、独禁法やらなにやらで、締め付けは厳しくなるばかり。メーカーもゼネコンも、ニュースになって出てくる時はいつも悪者扱い。

もう世の中が出来上がっちゃっていて、インフラがなくて不便、という経験をしている人間がいなくなっちゃっているから、インフラに価値を置かなくなっている。「公共事業はやめます」と公言する政治家が当選する時代だ。
世の中どんどんソフト化している。モノをつくるより、制度でなんとかしましょう、という方向性。
それはそれでいいのですけれども、ハードの否定に世の中が動いているのは問題だと思う。最終的に世をささせているのは、ハード、モノなので。

けれども、技術者になるインセンティブがどんどん無くなっている。理科離れ、という言葉も出来て久しい。10年前に比べると工学部の人数は半分以下になっているそうな。油にまみれて機械に向かい、設計図面とにらめっこでひたすら計算、というのは全く流行らない。

不便な思いをすると、便利なものを生む技術というものへのモチベーションが働くのですが。世の中便利になりすぎていて、もはや技術が当たり前になって、それ以上高めようという動機が起こりにくくなっているのかもしれない。後は安くするばかりで、メーカーは競争、競争、とコスト低下の過酷な努力を強いられている。

んでも、資源の無い国が、知的財産とモノつくりで食っていかなくてどうするんだ、と思います。

投資金融ばかりいじくっていても、実質的なものは残らない。
10年後、20年後の我々を食わせていくのは、やはりハード面の技術だと思うのです。
今は人件費の安い途上国にも優秀な方々はたくさんいる。その中で競争して日本が食っていくには、自分ところの技術力を高めて、品質と耐久性と信頼性をもつモノとその技術を売ることにより、世界に冠するしかないでしょう。

インフラ系が国内で市場を失うのは仕方がないですが、その技術を売れるところはまだまだ国外にいっぱいあって、そこに収益を求めないでどうするのかと、みんな思っています。が、ハードインフラ系のODAったらもう、逆風の風当たりが強いこと強いこと。なんかもう、メディアからは悪徳業者の代名詞みたいな扱いを受けています。

一回、マスコミの人間を、道路、水道のない雨季の泥濘の未電化の山中に1ヶ月ぐらい置き去りにしてみると、考え方も変えてくれるのかもしれん。


とにかく若者をエンジニアリングに目を向けさせないと、我々、実質的な収入源を失って、そのうち食っていけなくなると思う。金融も貿易も、国にハード資本があってこそ、支えられるものなので。その辺、みかけの金の流れに惑わされてはならんと思うのです。


それで出てくるのが工部大学校ですが。
明治初期、産業技術導入のためにひとつの省を作ってしまうぐらいだから、それはもう国を上げてのやる気だった。

工部大学校の実験室も最初から恵まれていたわけではなく、エアトンが着たばかりの頃は、「実験設備がまったく十分でないため仕事はとても難しい。広さと明るさの綿で此れまで目的にまったくかなっていない。間に合わせの地を占めている。換気装置がまったくなく明らかに健康に悪い。ガスも水も火も供給されていない」とダイアーに報告していました。

それでも大急ぎで実験室設備が整備されて、ペリーが来る頃には、彼をして「世界のどこにも見られない、すばらしい実験室に出会った」、ディクソンには「それらの設備はイングランドの科学系カレッジで通常見られる設備よりも最も完璧なものであった」と言わしめました。
そういった設備とともにエアトンは、ペリーとともに11編の共同研究論文を発表しています。この論文には、川口武一郎を始め、多数の日本人学生が実地訓練の名の下に、研究に協力していました。志田、川口、浅野、中野ら秀才学生らは、彼らの実験助手としての役割を果たしていました。
その工部大学校実験室での秀才助手達との研究の成果と、工部大学校の制度そのものを、エアトンとペリーは本国に持ち帰って、英国の技術発展に寄与させたわけです。

フィンズベリーではエアトンは、工部大学校のシステムを取り入れて技術者教育の制度を整えました。
工部大学校はお雇い外国人から技術を受け入れるだけではなく、そのお雇い外国人の質をあげることによって、技術を還元させた、平たく言えば、教えるほうを学ばせた、という役割も、工部大学校にはあったわけです。

一方、こういったことは一部の論文以外、余り強調されていない。これらを書いたのは、ほとんど英国人です。日本人の文献資料漁っていると、お雇い外国人ヨイショばかりなのが、気に食わんのです。

あれだけ、受け入れ側の日本が予算をつぎ込んで、本気になって技術習得、人材育成をしようとしているのだから、有る意味、お雇い外国人が成功して当たり前だと思うのですよな。

今の技術援助なんて、援助側が人の派遣から契約からぜーんぶ面倒見てあげて、奨学金出して自分の国に留学させてあげて、現地でセミナーやら講習会やら開いても参加者の旅費やら日当やら全部出してあげて、ついでにその会計処理までやってあげて、至れり尽くせりやっているわけで。それでも、明治に比べると、情けなくなるほどの効果しか上がっていない。受け入れる側に、どれだけ自分達が貧乏でも費用を費やす価値がある、という主体性と自立性がないと、依存心を増長させるだけで、大して効果にならん、というのは感じます。

そんな感じで、明治初期御雇い外国人に関しては、今までの研究でいくら功績が称えられていても、あれだけ高給と高待遇もらっといて、受け入れ側がやる気満々で、まじめで誠実なんだから、成功しないほうがおかしいというか。そのくらいやって当たり前だろう、と思ってしまうんですよな。

で、明治日本は10年で自分と頃の技術者を育ててお雇い外国人と首を挿げ替えて、20年でほぼ完全に技術の外国依存から脱皮したわけで。それを見ると、今の援助は何十年同じことをやっているんだろうと思ってしまいます。勿論ベトナムとかインドネシアとか、結構な効果を上げているところもあるのですが。
とにかく、あの日本の明治初期の10年と言うのは、すさまじいスピードで成長したわけですし、それ自体が、我々に大きな勇気を与えてくれることだと思うのですよな。

日本人はあれだけ歴史好きの癖に、どうも今のメディアって、自分の国、特に政府事業を評価しない傾向があります。戦前ナショナリズムへの反省なのか、舶来志向なのか、左翼や朝日新聞の陰謀なのか、単に謙虚なのか。もうちょっと手前の国のことを妥当に取り上げてもいいんじゃないかなぁと思うのでした。やりすぎて自画自賛になってしまうのも困り者ですけれども。少なくとも、ウチの国はこうだったよ、と胸張っていえる土台を作っておくことは、日本人が日本人であるためには必要だと思うのです。

工部大学校は東大の前身だけあって、教育史分野などでは結構やりつくされているところがあって、今更私ごときが取り上げんでも…とは思うのですが。
そういう感じの、世界史上稀に見る真剣さと真面目さが工部大学校をはじめとした当事の技術者教育につぎ込まれていて、それゆえに今の日本がある、ということについては、声を上げておきたいなぁと思います。


そして、その時代の面白さを明らかにし、エンターテイメントとしてメジャーにすることによって、若者の技術離れ、技術離れを何とかできないか。
平たく言えば、工部大学校をアニメなりドラマなりにして、ひとつのジャンルにしてしまう。

なにせ全寮制エリート男子校の群像モノだ。おたくなお嬢様方の飛びつく要素には事欠かない。
工部美術学校のひなとかりんとかの女の子を、萌え系としてクローズアップすれば、おたく男子だって関心を向けてくれるだろう。
これでつかみはオッケー。

その中で、プロジェクトX風に、イベントや各自の実習、卒論主題を取り上げて、いかに彼らが当時の技術最前線で苦闘したかをドラマとして描き上げる。

本気でやったら、受けると思いますよ、マジで。

そして、ジャンルの力で、若者の目をエンジニアリングに向けさせるのです。

「動物のお医者さん」のおかげで北大の獣医学部の志望者数が、「海猿」のおかげで海上保安大学校の志望人数が、激増したというではありませんか。
その意味で娯楽メディアが若者に与える影響は、偉大。

まずはNHKあたりが2クール、26話分の放映をする。その後、パロとして民放が戦隊モノでもやって、ジャンプが天下一武闘会モノをやれば、だいぶ広まってくれるだろう。

……どこまで自分が真面目なのか分からなくなってきました。
本気で日本の将来を憂いているのか、単に工部大学校のメディアモノが見たいだけなのか。
後者が94%ぐらいです。

そんな感じで、酔っ払いのたわごととして許してください。

とりあえず、20話分ぐらいは、頭の中に貯まってます。そのうち、真面目に不真面目な感じで垂れ流してみたいと思います。

posted by 入潮 at 03:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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