2006年08月02日

工部大学校オムニバスその4 菊池鋳太郎と久米民之助

1898年(明治31年)10月14日の毎日新聞の記事。

「去六日来、上野公園第五号館に開ける白馬会第三回展覧会は、作家四十余名、其多くは一人にて二十枚内外を出だしたれば、点数三百六十と注せらる。海辺田間の小景は数ふべくもあらず景色人物ともに大作亦多し。」

ということで、上野で白馬会の博覧会があった。これに。

「此一区画の前後左右に菊池鋳太郎氏の彫刻、大鳥圭介(銅)大倉喜八郎(石膏)の半身像立てり。共に久米民之助氏が夫々へ寄贈の為め氏に製造を托したる者なり」

……大鳥の銅の半身像が出展されていた、と。

作成者は菊池鋳太郎。彼は、工部美術学校の彫刻科の卒業生でした。ラグーザの教えを受けています。洋画も描き、「海(メシナ)」「フロレンス」などの代表作があります。

白馬会というのは、明治21年に菊池鋳太郎の私宅に設立され、洋画研究所を付属機関として持っていました。
会には、久米桂一郎、浅井潔、岩村透、松岡寿、黒田清輝などが中心となって創立。当事のそうそうたる洋画家が名を連ねています。

明治29年より毎年上野で、白馬会展覧会というのが催されています。東京美術学校予備校としてこの研究所に入り、卒業後白馬会展覧会へ出品という過程を進む者が多かったとのこと。私設の美術教育・研究機関という感じです。西洋美術史、裸婦デッサン、実技指導、美術講演会、フランス語習得を奨励など多角的な指導が行われたそうです。
明治44年解散。


で、菊池に大鳥に寄贈するために、大鳥の像の作成を依頼したのが、久米民之助。

久米は工部大学校六期生、土木科、一級及第卒です。1861年8月27日生、1931年5月24日没。

この方がなかなかスゴイ。豪華絢爛な人生を送っておられます。

群馬県出身で士族。幼い頃に両親を亡くすも、慶応義塾で学び、工部大学校へ。明治17年卒。
卒業してすぐ、宮内省に入省して、皇居造営事務局御用係として、皇居二重橋の設計、建築に従事しています。
菊池もまた皇居造営には加わっていたので、このときに知り合ったのかも。

明治19年に東京帝国大学工科大学の助教授を兼務するも、こちらはなんとたった2ヶ月で退官。
民間の大倉組に入社し、佐世保鎮守府の開削工事に従事します。
明治20年には中国、朝鮮に渡航して諸般の視察を行い、翌年には米、英、仏、独などを巡歴しています。

帰国後は、山陰本線など国内線のほか、台湾西部幹線など台湾や朝鮮の国外の鉄道工事も、数多く手がけています。グローバル土木技師。

その後、技術者から一転して政治家に。郷里から推されて、明治31年、第5回衆議院議員選に群馬県第一区から出馬して、衆議院の代議士になっています。明治36年まで連続4回当選。在任中は、歳費を私せず、地方の公共事業に寄付したとのこと。故郷の沼田公園を整備しており、公園内には久米の銅像があります。

さらに、政治家のあとは実業家に転身。台湾製氷株式会社の社長。山陽鉄道、唐津鉄道、箱根トンネルや台湾の鉄道を担当。
そして、朝鮮半島の金剛山の開発に従事する。鉄道、発電のために、1919年には金剛山伝記鉄道株式会社を設立し、社長に。観光開発に身をささげました。

そうした実業の数々は見事に成功を収めて、後年、久米は代々木上原に敷地4万坪の屋敷を構えました。久米の趣味である能舞台をあつらえた豪華な家で、付近からは代々木御殿と呼ばれたそうです。

技術者で実業家はともかく、政治家にまでなる方ってめずらしい。しかもその全てにおいて成功しているというのは、生半可な才覚ではないという気がします。

写真は、眼光鋭い迫力のある紳士、という感じです。
「土木人物事典」(アテネ書房)にしっかりと掲載されています。

現在の株式会社久米設計は、久米民之助の次男の権九郎氏によって設立された久米建設事務所が、その前身とのことでした。

…そんな方が大鳥にプレゼントするために、同じ学校卒業した先輩に頼んで、銅像を作ってもらっていた。
単に校長と生徒という繋がりではないですよなぁ。久米が卒業する頃には大鳥は既に元老院に移っていましたし。
どういう繋がりだったのか、そして今その銅像はどこにあるのか。銅像は戦争で失われたか、大砲の材料にでもされてしまったかなぁ。ちょっと、いや、かなり気になるお年頃です。

そういえば、ラグーザが作った大鳥の石膏の彫刻も、どこにあるのか、というか現存しているのか不明だ…。

…もうすでに、1期生から順番に、なんていう殊勝な試みは諦めて、手当たり次第、という感じです。

まぁ、人間、勢いです。特にこういう、ニーズの全く見込めない分野では、自分のモチベーションがあるうちが勝負なのさー。

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2006年08月03日

雑メモ

うー…
酷い呑み方をしてしまった。頭痛い。アルデヒドが溜まって手足が重い。
電車2回も乗り過ごすし、途中から記憶は途切れ途切れだし。どんな醜態を晒したことやら。会社に行くのが怖い。コントロール失うまで飲むようになったら、いろんなところで、危険。

頭冷ますために、いろいろと雑ネタいきます。

● 1925年の映画

日本映画データベースより。これ、何だろう…

http://www.jmdb.ne.jp/1925/ba003690.htm

輪王寺宮関係のような感じではあるのだけれども。
後参謀が黒田じゃなくて大山巌。

いまから80年前の映画か…。大鳥を直接知っている人もいっぱいいる時代ですよな。


● 「岩内の歴史」 岩内町郷土館30周年実行委員会
http://www8.ocn.ne.jp/~iwa-bun/REKISI/nenpu.htm

明治7年「大島圭介外3名 来町、茅沼炭山を視察す」

圭介が、北海道巡視の際、岩内まできていました。渡は渡島半島の左上の部分です。明治7年、米国から戻ってきてすぐの年です。箱館から徒歩で札幌、幌内まで行く途中に寄ったのでしょう。何月かは不明ですが、8月よりは前。
茅沼の炭田は、ライマンが前年の明治6年に炭鉱調査を実施して埋蔵量を概算したりしているので、その確認調査(調査内容が正しいかどうか確認する調査)だったのかもしれない。

● 明治9年01月19日 太政類典(公文書館)

「元二本松藩丹羽丹波無禄士族ニ入籍、…旧幕臣大鳥圭助同上」

釈放後平民になっていた榎本、大鳥らですが、明治9年1月に士族となっていました。禄は無し。同じ時に沢太郎左衛門も士族に入籍しています。榎本さん、松平さん、荒井さんについてはわからなかった。

榎本さんは明治20年には「神奈川県下箱根宿小田原町山林ヲ東京府士族榎本武揚ニ払下ケ皇宮地附属地ヲ除却ス」とあるので、その前には士族に復籍しているのでしょう。

● 明治4年太政官 単行書・大使書類原稿訴訟書類・第九 (公文書館)

「榎本釜次郎石炭一件始末」
「米人ウェンリートより旧幕松平太郎借財之一件」

お二人仲良く、訴訟関連で名前が並んでいました…
榎本のほうは、脱走艦隊の箱館占領中に、英国承認ハーウェル社中に石炭を売り、代金九百四十ドルをが支払われたが、云々。すみません。読めません。石炭の引渡しに問題でもあったのだろうか。

松平さんのほうは、いつのことか分からないのですが、おそらく脱走前、神奈川でウェンリードから借金した件。あと、別に、「旧麾下松平太郎ヘ英人バング支配人グルゴルヨリ貸金訴訟ヲ審理ス」というのもありました。松平さん、このあたりから戦費の金策をしていたのだろうか。
この訴訟が生じたときは二人とも獄中ですが。どのように処理されたのだろう。新政府が肩代わりしてくれていたらいいのですが、それも何というか…。

● 井上馨関係文書 土方久元書翰(憲政資料室)

「大蔵大少輔御中宛 明治5年2月13日 「大鳥圭助ニツキ開拓使ヨリ別紙申立アリ、評議ノ上至急返答乞ウ」

えと、土方久元→井上馨に、大鳥の洋行前騒動について。大蔵省の吉田さんが大鳥を連れて行こうと正院の議題に上げたら、開拓史より「別紙申立」があった。
別紙の内容がどうなっているのか、見てみたい…

2月14日に大鳥随行が決定するまで、人事については2月12日・13日ゴタゴタしていました。吉田さんと渋沢が走り回って、吉田さんは出発前準備のために「為離別夜業過度候て、顔色失し候様有之候ては不相済事故、きっと御戒申置候」と井上さんに心配されてしまっていましたが。

土方さんまで巻き込んでいたわけですか。板ばさみ事務処理をしているだけと思いますが。
このとき土方氏は大内史。太政官正院の、三等出仕クラスです。土佐の重鎮がそんな雑用を…。

土方さんは後年、宮内大臣。榎本と仲が良くて、しょっちゅう酒を飲んでは、「榎本のは肴などは食わんで酒ばかり飲む、殊に朝から晩まで飯も食わずに酒ばかりだ、我輩が飯を食わなくてはいかんと忠告したら、避けは米の水じゃから酒を飲めば米を食うのも同じ事じゃと答えた」という有名な話があります。

● 「加藤弘之、大鳥圭介らが専攻学社設立」明治12年4月18日、東京日日新聞

「池田謙斎、加藤弘之、大鳥圭介の諸君が相謀りて一社を創設し、専攻学社と号し、あまねく専門の学士を会合して、学芸の新発明、およびその他およそ見聞に掛かる有益の説を登録して、世に公けにせらるるよし。もっとも東京大学三学部の一室を借り受けて、毎月集会せらるると云う」

とのこと。池田謙斎は東京大学医学部初代綜理、明治12年のこのときは陸軍軍医監兼一等侍医。
加藤弘之は後東大初代総長で大鳥とは坪井塾の同僚。
お二方とも、明治21年に日本最初の博士号を授与されています。(この時志田も工学博士)

東大系と工部大学校系が一緒になって雑誌刊行をしているのが興味深い。工業新報が明治10〜16年の刊行なので、それと時期的には被っています。工業新報が工学系なのに対し、専攻学社もっと広範に専門分野を扱っている感じでしょうか。

この専攻学社。東京新聞にも「専攻学社というのを取り立て、一学科に秀でし学士を集めて、学芸の進歩を助けんがため、これから新たにできる書籍の批評や学術上の新発明や、その他有益の説を記載し、雑誌の類を発兌されるよし」とあるので、何らかの発行物はあると思うのですが。どうも探しても見つからない…。所在をご存知の方は教えてやってくださるとありがたいですー。

卒業生のみなさんと、書物の感想や発明や有益な説について、わいわいがやがや。楽しそうだ。

● 「糖蔗青年会、東京愛宕下の青松寺で開かる」明治13年11月25日、東京日日新聞

糖蔗青年会というのが催されたらしい。砂糖製糖関係のシンポジウムというところか。「すこぶる盛んにして、渡辺洪基君は開会の趣旨、津田仙君は芦粟の来歴、大鳥圭介君は製糖機械の説、中村定吉君は製糖化学を演説せられたる」とのこと。林議官、松田府知事、清国公使らが招かれて、総勢250名ばかりで、3日間続けられたのだそうな。

大鳥、製糖機械。またコアなところに手をだしていますな。海外の雑誌論文の紹介か、あるいは工作局でもなにか手がけていたのだろうか。

一緒に名前の挙がっている中村定吉は、工部大学校一期生、化学科出身。卒業後に工部大の助教授に就いていて、工手学校の初代校長。
いろんな繋がりが見えてくる感じです。

● 徳川慶喜「大鳥別荘御滞在日誌」発見

http://homepage3.nifty.com/kouzusyoukoukai/yo_tojyou.htm

なんですかー、これ。
慶喜公が圭介爺の滝の家に出入りしていた、という話は、福本氏はじめ所々でありましたけれども。

この日記では、ちょうど圭介爺が亡くなってからのことですな。…避けられていたとかそんなことは…。


…まとまりがまったくないですが、とりあえずそんな感じで。後の己の参照用メモ。


    [2] ゆぅちゃん 2006/08/05(Sat)-01:22 (No.109)
    こんばんは。
    本文読ませていただきました。
    このなかに書かれているうち、榎本の士族復帰ですが、明治18年に士族復帰の嘆願が出され、復族しています。証人には大久保一翁がなっています。
    一応参考までに

    [3] 入潮 2006/08/05(Sat)-04:48 (No.110)
    こんにちは。情報のご教示、ありがとうございます。助かりました。
    明治18年とは意外に遅かったのですね。11年までロシア派遣だったので、タイミングを逸していたのかもしれません。嘆願というのも意外な感じがしましたが、本人からというよりは、周りの旧幕臣や士族の方々からお薦め、お願いされて、という感じだったのかもしれません。榎本さんが平民だとやりにくいという…。

    [4] ゆぅちゃん 2006/08/05(Sat)-23:11 (No.111)
    もう一度歎願書を見直しました。
    明治十七年七月某日、勝安芳より送られた書状を添付し、同年八月二日に「戸籍之儀ニ付願」を榎本武揚、武興連名で提出しています。
    内容は独立した士族であるにも関わらず、兄の戸籍に「家族」として入っていたために分家した際、平民籍となってしまったという内容です。
    (ただし、これはあくまでも書面上の理由のような気がします)
    明治十八年二月廿日、大久保一翁が証明書を提出し、同年五月一日、士族編入されています。
    ちなみに、榎本同様、士族編入を請われた人物に竹中重固もおりましたが、こちらは断固拒否して、平民のまま、生涯を終えました(本家は明治14年士族復帰してます)。

    [5] 入潮 2006/08/07(Mon)-12:15 (No.113)
    そういえば聞いたことがあるかもしれないと、手持ちを探していたら、寝てしまいました。レスポンスが遅れまして、申し訳ございません。
    よ、よろしければソースをご教示いただけますと、大変助かります。

    士族というのも、考えてみると、治世・行政関与や兵役などの責務が伴っていないのに、籍として区別するのも妙なものだなぁ、と感じてしまいます。藩があったころは別で、廃藩置県前からの通過措置みたいなものとは思いますが。
    平民をまっとうして権力に背を向けるという生き方も、共産主義的な階級否定の観念が入らずとも、一般受けはいいのでしょうけれども。士族として特権が付くならそれに見合う社会貢献、国つくりをしなきゃならん、という建設的志向で生きた人のほうが、自分としては好きです。まぁ、禄なしの士族に特権も何もあったものではないですが。
    むしろ零落の代名詞になって、士族で出世したら周りの士族も救わねばならん同類への義務感みたいなものばかり引き受けて、貧乏くじなだけじゃないか、って気もします。

    追加情報、ありがとうございました。

    [6] ゆぅちゃん 2006/08/08(Tue)-06:26 (No.115)
    情報ソースです。
    ○榎本歎願書関係〜東京都公文書館蔵原本(見直したのはコピー)
    ○竹中本家〜国立公文書館〜歎願書控
    ○竹中重固〜子孫談。戸籍に「平民亡父竹中重固」となっています。ちなみに昭和20年の空襲で勝安芳の書状は灰燼に帰したそうです。
     ちなみに一般説では秩禄債券は明治9年を以って終了しているようにうかがえますが、家禄不足分を新たに明治31年に与えている関係で、この時期に多くの復族が出されております。この時期に八王子千人同心や弾直樹などが士族復帰の歎願書を出しております(ともに公文書で確認)が、門は厳しく、ことごとく却下になっております。
     榎本の歎願時期は、爵位制度が前年施行され、勝ら幕臣が爵位を受けるに当って、工作したような感が伺えます。

    [7] 入潮 2006/08/10(Thu)-03:07 (No.118)
    詳細な情報、ありがとうございます。
    打ち込みにも時間を要されたことかと思います。頭が下がります。

    秩禄ですが、明治31年のことは初耳でした。日清戦争の賠償金が余ったのか。でも日露戦争でも戦費調達の外債発行を行っていますし。財政的に余裕のあった時期とも思いにくいですよね。何か士族の機嫌を取らねばならないようなことがあったのでしょうか…

    竹中重固氏については、「北海道江移民開墾之見込ニ付五ヶ条之儀不顧恐奉言上候(東京府貫属士族竹中重固)」というのが、明治5年11月の太政官上書建白書・建白書にあるようなのですが。旧幕府時代からの流れか何かで一度士族だったのが籍を返上したのか、なにかの間違いなのでしょうか。うーん。

    あと、ご配慮もありがとうございました。

    [8] ゆぅちゃん 2006/08/10(Thu)-07:21 (No.120)
    「東京府貫属士族竹中重固」と申されておりましたので、原本を確認いたしました。
    正確には「東京府貫属士族竹中萬寿蔵方寄留竹中重固」です。
    明治30年代に写された竹中萬寿蔵の壬申戸籍を見ますと、附籍に重固が編入されております。ですから重固は士族ではありません。
    竹中萬寿蔵ももともとは竹中本家の分家にあたる家柄で元旗本でした。
    附籍から独立した戸籍を持ったときの重固の身分は「平民商」でした。
    ちなみに士族編入される以前の竹中黄山は「平民農」でした。
    いずれも公文書からの確認となります。
    ちなみに附籍とは、他人でも養育されるものはその養育するものの戸籍に入れる、という制度で、使用人や家来、妓楼ならば女郎。あるいは遠縁などに摘要される例が多いようです。

    [9] ゆぅちゃん 2006/08/10(Thu)-07:23 (No.122)
    きり方が悪く、冷たいキリ方になっていたようです。失礼いたしました(汗)。
    管理人さまの調査能力には本当に脱帽いたします。
    どうか陰ながら期待いたしております。

    [10] 入潮 2006/08/11(Fri)-03:23 (No.123)
    更にお手数をおかけしてしまって、申し訳ないです。ご教示ありがとうございます。
    竹中黄山氏は重固氏の福岡藩預かりからの預り替え先の方ですね。本家分家で、身分の籍が異なるというのは、意外に、時々あるようで。本家が平民、分家士族などは珍しいのでしょうが、やりにくかったでしょうね…
    黄山氏の士族と北海道入植と帰農。先祖が北海道に散らばった淡路出身の自分には、身近に感じられてしまうテーマです。

    当方、データベースの目録を確認しただけでした。早とちり、お恥ずかしいです。目録ですと、作成者の記述や略の方法によって、実際とは異なった記述になることがあるという良い例ですね。目録はあくまで目次に過ぎず、中身を見るまではなんともいえないと。勉強になりました。
    戸籍・公文書は最も硬い資料だと思います。ゆうさんの、足で資料を集め、その中身を以って語る実質的な在り方は、見習いたいと思います。
    情報の詰まったコメントをいただいてしまって、恐縮しこそすれ、冷たいなどとはとんでもないです。ですのにお気使いもいただいて、どうもありがとうございました。

    [11] ゆぅちゃん 2006/08/11(Fri)-11:01 (No.125)
    補足です。
    竹中本家である竹中黄山は旧名「重明」、途中「図書」で重固の養父です。重固は罪人扱いで、明治二年、黄山は重固を勘当した時点で、竹中本家とは直接戸籍上の縁はなくなっております。
    余談ですが、入潮さまは稲田家中だったのですね。
    もともと幕末に親しみを覚えたきっかけが船山馨だったもので、「お登勢」正続は感動した逸品です。
    いま調べてる慶応4年4月の東山道軍にも海部閑六が従軍しておりますので、興味が沸いています。明治3年には「稲田騒動」で、多数が相馬主殿と一緒に新島に流されておりますものね。
    駄文が続きましたが、これからも活躍お祈りいたします。

    [12] 入潮 2006/08/12(Sat)-00:46 (No.127)
    あ、その、侍ではなく、代々水呑み百姓でございます…。うまいこと言いくるめられて、人足として連れて行かれてしまったあたりかと。
    「お登勢」は大作ですね。阿波藩では、阿部興人という方が、稲田騒動の際に終身禁固に処せられてまして。3年で赦されましたが、後に、北海道でセメント、発電、農業など開拓に従事して北海道の殖産興業に尽くしていました。また阿部は銃士隊で日光・今市を転戦して大鳥軍とも戦い、後に日光の保全運動を起こしていたりします。
    そういった、稲田・阿波と北海道、戊辰戦争のつながりというのも、追って行くと見えてくるものがあって、面白いですね。
    色々と貴重なコメント、実のある情報、どうもありがとうございました。またご教示くださると有難いです。
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2006年08月04日

ヤング・ジャパン

(会津落城時の記事)「大鳥圭介は、宇都宮の戦いから若松における最後の抗戦に至るまで、全戦闘を通じて、官軍の敵の中で一番すぐれた指揮者の一人であり、また、旧主に対して最も忠実な家臣であることを示した。彼が指揮するところでは、どこでも、その名は大敵とみなされた。彼こそ他の誰よりも官軍の進軍を食い止めた。若松では勇敢な天才であることを示した。降伏が決まると、彼は城を捨てて部下とともに仙台に赴き、艦隊に加わった」(ヤング・ジャパン)

えーと。ヤング・ジャパンは、米国人ジャーナリストのジョン・レディ・ブラック氏が、安政元年〜明治10年までの主に東京・横浜の出来事について、記者の目からまとめた英文記事です。
週刊の英語新聞「ジャパン・ヘラルド」の編集者であり、その後日刊「ジャパン・ガゼット」、また隔週刊新聞「ファー・イースト」を創刊しています。

…記者の目にそう映っていたのですか。ブラック氏がどんな話を聞いていたのか。「そいやでっちあげもよくやったなぁ」と後世のたまった某佐幕ジャーナリストの話を鵜呑みにしたのではなかったことを祈りたいです。

アメリカ人だから、中立的な視点だろうとは思うんですけれど。南北戦争の中古品払い下げのお得意先の機嫌を取ろうとしたのでなかったことを、もうひとつ一緒に祈りたい。

…ほら、幸せって素直に受け入れるには何か怖いじゃないですか…。

え、えっと。「宇都宮の戦いから」ということは、小山、結城の戦いを無視している。けしからんですな。あれはお手本的理想的な包囲殲滅戦なのに。それに母成の後の磐梯山流離いも見てくれなきゃ。調査不足ですよ、ブラックさん。(開き直り)

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2006年08月06日

実りある一日、図書館について

充実した一日でした。ホクホク。
単に、会社が工事で、この週末オフィスに入れないので、土日休まざるを得なくなったというだけなのですが。
本当はとある大学図書館で文献漁りの予定だったのですが、その図書館が休みで、急遽国会図書館へ。
そのあと呑みました。

国会図書館ですが、複写のシステムが変わって、だいぶ効率よく資料収集できるようになりました。
以前は雑誌・書籍あわせても2冊上限、複写は一度出すと戻ってくるまで次の複写ができない、という効率悪さだったのですが。

今は、書籍3冊、雑誌論文3種類、さらにオンライン複写が3本まで同時にお願いできるので、最高9種類の資料に一度に当たれる。
オンライン複写は、論文名さえ特定できれば、閉架から手元に引き出すことなく、そのまま論文全体をコピーしてくれるというもの。1時間かかることになっていますが、実はこれが一番早くて、今のところ10〜15分ぐらいで出てくる。自分で探すより早いです。
で、複写が、書籍、雑誌論文、オンライン複写と平行できるようになった。これが大きい。

…そうすると、複写分量が増えて、しかも白黒1枚25円なものだから、みるみる懐が淋しくなっていくのなー。

で、工部大学校関係を主にあたっているのですが、それら論文の大元になるいわゆる一次史料の多くが、昭和初期に出版されたもの。大正末〜昭和前半って、酸性紙が用いられていて、劣化が激しいのですよな。いちおう別室で閲覧可能なのですが、破損が激しくて、複写ができない。それで原資料から直接手で移すしかないのですが、ページをめくるたびに、ペリペリと嫌な音がする。下手すると、文字通り粉になっていく…。複写しないほうが破損が酷くなる気がする。そして、そんなに劣化しているのなら、最初から見せてくれるな、と思います。心臓に悪い…

他、洋学者、戊辰戦争、開拓使、内国勧業博覧会と手当たり次第で、収穫も色々とありましたので、ボチボチご紹介していきたいと思います。主な収穫物は、田辺昇吉氏の宇都宮・今市関係と、真面目な論文にめっちゃ可愛い黒田、巨頭藤岡市助あたり。


こういう漁り方をしていて思うのですが、マニアックな情報を求めていると、一番役に立つのは、論文だなぁ、と。
新刊書籍は大体一般向けにアレンジされていて、出版社の意向もだいぶ入っているので、意外と限られた情報しかなかったり、偏っていたり、出典がよくわからなかったりすることが多い。もちろん優れた書籍も多いですし、新書などは新刊書籍のほうが情報も新鮮だしずっと良いものが多いですが。

一方、こういうオタクなことをしていると、論文は一本のテーマが絞られているから系統的に把握しやすいですし、出典はだいたい全て明らかになりますし、研究の原点に近いので、どうやってそれが判明したかという過程がわかる。何かを探している思考が同調する。一般受けを考えず、自分がやりたいこと、面白いと思ったことを目一杯根拠を明らかに主張している。それが面白いです。まぁ、研究ってのはすべからくオタクみたいなもんだ、と暴言してみる。

井上真琴氏の「図書館に訊け!」(ちくま新書)は読んでおいて損は無い、というか、読まないと損だと思いました。自分は今まで真実をまったく見損ねていた、と思いました。今まで手探りでなんとなくやってきたことが系統立てて書かれていてびっくりしました。知識の獲得手段の裾野が、段違いに広がると思います。

「図書館の怖いところは、利用者の関心やレベルに合わせてその相貌と機能を変えるところにある」とか、「図書館は人類の知的遺産を継承するために生き延びてきた文化制度であり文化機構なのである。何百年何千年とかけて資料を集積して運営されてきた歴史と伝等の息づいた機関なのである。そんなものがすぐ利用できて理解できると思うほうが、神をも恐れぬ所業であり、傲慢な考えである」とか。

そういった、図書館最前線の方ならではの言葉が連ねられています。ともすればマニュアル的な、単調になりそうな内容なのに、それがいかに魅力的であるか、このノウハウを使わねば損だ、ということを伝える書きっぷりが良いです。

ちょっとずれますが、この方の「いったん記録史料をみてしまうと、資料の持つ『重さ』に圧倒されてしまい、印刷された本が単なる二次的な資料にしかみえなくなってしまう」という言葉は、反論不能だなぁ、と。


さて、重くなった鞄と軽くなった財布とともに、呑みへ突入。
K生さま、前日夜にいきなりお誘いかけアタックをかますという非礼にかかわらず、快く応じてくださいました。ありがとうございました。

まさか吉田大鳥ネタであそこまで盛り上がってくださる方がいらっしゃるとは思いませんでした。
政治経済のバックグラウンドがしっかりされているので、色々教えていただきました。手前の付け焼刃ぶりが恥ずかしかったです。
最後のほうにはいい感じに酒も回って、やっぱりというか、はじけました。私のほかにもそういうことを考える方がいてくださったのか、と思うと、得体の知れないやる気が沸きます。
「そういうこと」の内容は、いやその、吉田さんはかっちょいいです。(駄目)
ラベル:国会図書館
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2006年08月08日

戊辰戦争:宇都宮攻防戦整理

最近、「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉をかみ締めています。
要するに浮き沈みの激しい人生です。
そして、捨てられる直前より拾われた後のほうが、冷静に考えると大抵状況は悪くなっているのですが、それにも気づかず拾われた喜びをひとまず感じられるように、人間できています。幸せです。

さて、宇都宮。
いい資料がいくつかありましたので、ご紹介をしたかったのですが。
その前に、流れをちょっと整理してみます。自分の頭の中整理のため。

宇都宮・日光・今市に関しては、この方の右に出る者はなし、というプロフェッショナルな御大がいらっしゃるので(會東照大権現様を拝み見る)、今更口にするのは恐れ多いのですが。 間違ってたらご容赦なくご指摘ください…

この時期の資料では「官軍」「東軍」という表記が多いので、それに準じます。(いつもなら「旧幕軍」にするのだけれども、この時期会津藩の方々が影響大きく入っているから、旧幕とだけするのも的を得た表現ではないかなー、と)

番号は後に示す参考文献です。

● 4月12日、鴻之台で結集後、前軍、中軍、後軍に分かれて進軍。

● 4月16日、官軍主力は香川隊は、彦根一中隊、岩村田藩一小隊、須坂藩一小隊、旧幕岡田兵半小隊、計200名(1)。このうち、官軍平河支隊vs草風・貫義・凌霧隊の小山第1次戦、官軍香祖式支隊vs大鳥中軍の武井村戦。
江上(秋月)の前軍は下妻藩と強談。藩士を強制従軍させる。

● 4月17日、午前に官軍香川本隊vs大鳥中後軍の武井村戦、小山二次戦、午後に官軍祖式江支隊vs大鳥中後軍の武井村戦、小山二次戦(1)。
江上前軍は下館藩を劫掠(2)。

● 4月18日、東軍の大鳥中後軍へ壬生城より使者、壬生藩大砲奉行の友平慎三郎。(彼の父友平栄は江川塾の講師で大鳥の同僚(3))友平らが金千両を持ってきて、大鳥が怒った一面もあったが(5)、結局壬生は素通りで見逃すことに。

● 4月19日、東軍前軍による宇都宮攻略。
前軍は約1000名。対する宇都宮城防御側は、宇都宮藩のほか、援軍として香川派遣隊と鳥山藩兵で、合計3-4百名(1)。
なお、宇都宮・鳥山藩兵はともに、刀、槍、火縄銃装備。香川派遣隊は、武井村と小山の戦いで大鳥中後軍や草風隊と戦火を交えて疲弊していたので、援軍として鳥山藩を招致した。

宇都宮白は北方奥羽への備えとするため、北・西部は強固で防壁も厚かったが、東南部は小川があるだけで守りは薄い。
午前11時、簗瀬村(城南東部)で戦闘開始。簗瀬村の名主宅に火を放つとたちまち市街地に燃え広がる。城東の中河原門、下河原門より東軍突入。午後4時頃には官軍は脱落者続出し、壬生道方面より退却。(2)
火災は広がり、焼け残ったのは材木町、三拾軒の茅屋のみとなった(3)。
前軍は火災のため城を出て、蓼沼に戻り宿営。
烏山藩は東軍砲撃に恐れて一発の射撃もなく退却、彦根兵も大鳥中後軍との交戦で疲れ果ていて応戦せず壊走、という士気の低さだった。(2)

なお3月より、安塚、雀宮をはじめとして藩領西部で一揆が連続して勃発していた。4月1日には5000、4月3日には蜂起農民の数は三万に膨れ上がった。この武力鎮圧に「本藩の兵卒は近隣一揆の暴動に日夜奔走して休むことを得ず頗る衰微を極めたり」と、宇都宮藩は疲弊しきっていた(4)。

● 4月20日:中後軍の入城。ただし城内焼け落ちて空虚。大鳥、「城内は漸く焼け落ちたる儘にて余炎猶激しくして近づきがたく…兵隊に命じて之を消防せしめ」「残りし家も盗賊抔入りしと見えて狼藉を極めたり」「兎角暴行の者これありて市民を悩しめ大に困却せり」という有様だったので、見せしめとして「両三人も斬首に処し」てようやく収める(南柯紀行)。一揆で藩に捕らわれていた農民21人を解放(5)。場内の肝心の武器弾薬は敵撤退時に堀に捨てられ、補給不可になっていた。

その後、前軍が戻ってきて入城。桑名が戦功の第一の杯を受ける。「大鳥氏曰、昨日の戦、桑の士官隊先鋒として功は多し。故に諸隊に先て我軍に与ふ、是に於面目を施す。…大鳥氏隊に先て鞭馬、城中に来ると言」(7)

この日、官軍側では援軍として、安塚に河田左久馬第一救援隊(合計21小隊、砲5門+臼砲2門)が到着(1)。

● 4月21日:壬生・安塚攻めに就いて、会議。壬生城中より呼応すると友平が壬生進撃を勧める。柿沢が反対し、会議は長引くも、進撃に決する(5)。深夜に攻撃軍が出発。大鳥は体調を崩して城に残留。

● 4月22日:壬生・安塚攻め。
朝6時より大雨「大雨車軸を流すが如し」(7)。
大鳥は会津別伝習隊、会津一番砲隊、凌風隊に策応を依頼し安塚へ向かってもらう(1)。
作戦開始は午前2時ごろ。戦力比は官軍500対東軍600。東軍は以下の3部隊に分かれた。
― A)安塚正面攻撃部隊
― B)安塚東から側背を付く部隊
― C)迂回して壬生城襲撃部
これにより、3方向包囲戦に出る。(2)

A)の正面攻撃隊は伝習第一大隊と第二大隊の滝川・浅田隊。城南部の幕田村で因州兵と打ち合い、撃破。ここに土佐の祖父江の二個小隊が到着するも圧される。午前8時ごろ官軍河田佐久馬が因州二小隊と急行してくる。雨で銃が使えず白兵戦の乱戦になり、白兵戦に弱い伝習隊は撃退されて被害を大きくする。午前10時から午後1時にかけて撤退。(1)

B)は大雨暗闇の中道に迷い、包囲に出られなかった。(2)

C)は伝習七番・八番の一中隊。大川が率いて安塚の裏道から壬生城へ。A)の味方が既に敗退後だったので、当初目論んだ呼応はできず(8)。薩摩の軍艦を通りざまに撃ち殺し、馬と武器を奪って、壬生城を放火。雨のため火がまわらず、戻ってくる(3)。

なお大鳥の依頼した会津一番砲隊と凌風隊は、戦場に着いた頃には既に戦闘終了後で、参戦できなかった。(1)
東軍死傷者60余と被害が大きかった(6)のは、A)の幕田での白兵戦が長引いたためだった(1)。

● 4月23日 宇都宮攻防戦
大鳥はこの日朝、日光へ転身の指示を行いながら防戦準備(2)
22日午後から、救援隊が壬生安塚に到着。主力は以下の2隊。

― 総督府最高幕僚の伊地知正治を総責任者とした「伊地知第二救援隊」(野津鎮雄の薩摩五番隊含む6小隊280名余+砲3門)

―「第三救援隊」(野津七次=道貫の薩摩一番隊、大山弥助の薩摩二番砲隊・薩摩六番隊を含む四個小隊200名余+砲4門+臼砲2門)

これら歴戦の官軍精鋭部隊が投入される。この救援部隊の投入で、戦況が一変していく。

まず朝、城の北西の、栃木街道・陸羽街道の交点である六道の辻が戦場に。大鳥軍が築いた保塁から東軍は砲撃するも、野津・大山ら官軍第三救援隊と圧しつ圧されつ。
大鳥は自分では大砲の筒払いの音かと思ったとか言って、いつものごとく呑気に見せかけているが、実際は日光退去の準備を進めていた。官兵が迫るのに一度当たってから後退すべしと令を下す。(5)

午前9時ごろ、城の西門である松が峰門に官軍が迫る(2)。ここで敵味方血みどろの白兵戦となる。野津七次は土手を上った瞬間、槍で衝かれて負傷(1)。他、有馬藤太ら数十名が負傷(8)。
また東軍は宇都宮要塞砲の24ポンド青銅砲を用いて榴弾、霰弾で砲撃。一弾が官軍の兵糧弾薬に命中して、周囲のもの悉くを飛び散らせる。
正午近くになり、東軍側の土方もここで足指を負傷し脱落(10)、ほぼ同じ時刻に秋月も大砲により横腹に負傷(11)。

正午頃、城北西の大手門を守備していた一隊が材木町へ、大鳥の手元の一隊((1)より大川隊)は六道口へ出て、官軍を後背から奇襲(2)。また、栃木街道に出た会津砲兵隊と凌霜隊は、安塚では間に合わなかったけれどもここで大活躍。輜重隊を襲って弾薬を分捕り、退路を断つ(7)(9)。官軍は三方向包囲されてピンチに陥り、撤退まで追い込まれる。この時、大山弥助、横浜ファーブルブランド商会から購入した六連発拳銃で格闘中の敵を撃ち殺しながら、野津七次をなだめながらの撤退(1)。官軍はかろうじて滝権現まで退却した。(8)

午後2時、大鳥が大川に命じ、大川隊は城外に出兵して、明神山を奪い返す。また、下河原門の薩摩兵を撤退させる。

3時ごろ、東軍は敵を町外に追い出し、城を出て八幡山に陣する。撒兵隊((5)(6)では御料兵)は城中へ入る(3)。

しかし、ここに至って遅れていた伊地知第一救援隊が到着。伊地知救援隊は、22日に結城の賊徒に出会って、23日朝7時にようやく整頓をすませる。伊地知隊の、野津鎮雄率いる薩摩五番隊は朝8時に出るも、安塚の応援にいた(9)。

撤退していた野津・大山の第3救援隊は、伊地知隊から補給を受け回復。一方、河田佐久間の大垣藩兵も後方支援に入り、再び官軍による総攻撃が始まる。

午後3時過ぎて、官軍は二の丸、本丸の南の伊賀門から本丸へ突入。また、伊地知救援部隊内の無傷の強豪、野津鎮雄薩摩五番隊が、城南から攻め、守っていた土工兵を突破。会津、桑名は河原門より日光道へ引き上げを開始(1)。

午後4時、薩摩五番隊が八幡山、明神山へ再度襲撃(3)。ここに至って大鳥は、「朝よりの戦にて上下死傷も多く、且つ大小砲の弾薬打尽くし又之を用意するの道なきゆえ、たとい今一日防戦したるとも明朝に至れば全軍を引揚ぐるより他に良策もあるべからず」と、死傷多く弾薬も尽きたので、城を捨てることにする(6)。

なおも、場内は竹林内で東軍が抵抗している。ここで本多が背中に銃創、柿沢が両足を打ち抜かれる(5)。(午前とする説もあり)(浅田隊もここか)。また、大手門付近の北部正面でさらに東軍の一部が頑強に抵抗しながら、軍の脱出を助けている(★)。そして、東軍後衛の一部(大川隊か)は明神山・八幡山にとどまって、激烈な銃火をもって友軍の退却を助けている(1)。

それで、「われ城の裏門に上り明神山の形勢を望むに…漸くに諸隊を引揚げ一隊を残し之を以て殿と為し…明神山へも引揚げのことを通じ残らず日光のほうへ赴きたり」と、その殿の一隊に大鳥がいたのかは分かりませんが、最後の最後まで大鳥は戦場にあったのは分かる(6)。

午後5時、夕暮れに至って「賊、八幡山を逃れて、日光辺を差して散々に落失たり」(9)。
_________________

(1)「戊辰戦役史」 (大山柏)
(2)「下野の戊辰戦争」(大嶽浩良)
(3)「慶応兵謀録」(田中恵親)
(4)「県信緝日誌」(宇都宮藩家老 県信緝)
(5)「北戦日誌」(浅田惟季)
(6)「南柯紀行」(大鳥圭介)
(7)「戊辰戦争見聞記」(石井勇次郎)
(8)「北関東戊辰戦争」(田辺昇吉)
(9)「伊地知正治日記」(伊地知正治)
(10)「島田魁日記」(島田魁)
(11) 「谷口四郎兵衛日記」
_________________

そんなところで。
資料ごとに言っていることや隊の名前、推移の順番などが多少違ったりするのもありますが、更に他とも照らし合わせて、勝手に妥当そうなほうを取りました。100%正しいとは言い切れませんが、流れとしては大きくは外していないと思います。

「宇都宮城は土方の活躍があったので落とせた。それが旧幕軍の最初の勝利だった。逆に官軍から宇都宮を攻められたとき、土方が負傷して離脱してから士気が落ち、城は陥落した」という描写を、小説や漫画や読本系の記述などでよく目にしますが。そして、「安塚や宇都宮の敗戦は、決断力がなく判断が遅れた大鳥が悪い」とかいう批判も、解説本などでどこそこでよくお見かけしますが。

上の経緯を見る限り、そういう一般的な見方に諸手上げて迎合しようという気がまったく起きないのは、私の調べ方が偏っているからなんでしょうか…。

4月中旬は大鳥らが中後軍が、官軍の主戦力・援軍と、近代撒兵戦繰り広げて野戦遭遇戦の連戦をしている一方、前軍は弱い藩苛めのカツアゲまがいをしているだけだし。19日に前軍が宇都宮攻め落としたのは、前軍が敵に3倍する兵力で、攻めやすく守りにくい城の攻めやすい城南からの攻撃で、一方敵さんは一揆で疲弊の極みで、旧装備で、連携もヤル気も皆無だったし。

21日は、前軍が消火もせずほったらかしていたので、城に入ってきた大鳥が、兵に消火させて、乱暴三昧の部下を収めて見せしめをして宥め抑えて後始末に走り回って、尻拭いに苦労しているし。しかもその火による被害に加え、敵が武器弾薬を堀に捨てて無用の長物にしてたのを前軍が止めなかったので、宇都宮が補給拠点としての役を為さなくなってしまった、そのツケを弾薬不足という形で後で思いっきり食らっている。

22日の安塚戦A)は、伝習隊は白兵戦に弱いのだから、何時間も粘らずに不利を悟ってさっさと逃がしてやってくださいと、率いていた方に申し上げたい感じがするし。B)とのタイミングの問題で大川の奇襲が功を為さなかった。そもそも出立してから大雨になるし、迂回組や援軍は迷うし、人の手とか判断力とかが及ぶところの敗因ではないと思うのだけれど。…天気を読まなかったほうが悪いとでも言うのだろうか。

23日の宇都宮陥落のときは、諸将が午前中に負傷して撤退していく中、大鳥はその後も粘りに粘り、奇襲に、回り込みに、背後の退路確保に、味方を逃がしきるまで諦めてない。
大川の城へ、敵の背後へ、山への走り回りの活躍っぷりもすげぇです。大した運動量だ。ていうか、何で彼は無傷でいられるの。

その末に、やっぱり弾薬が尽きて撤退するのですが。大山柏は「本多は背部銃創、土方も足部負傷、その他小隊長級にも多くの負傷者を生じた、これが午後の戦闘に影響したらしくあっけなく敗れた」と記述していて、それをそのままここぞとばかりに引用している評論家もいらっしゃるのですが。実際の推移を見てみると、むしろ粘って盛り返しているのは、土方ら脱落後の午後以降です。大山・野津隊を撤退させたのも、三方包囲で輜重隊を急襲して官軍に全滅を覚悟させたのも、明神山を取り返したのも、皆、午後のこと。「あっけなく」という表現はどうにも不適当ですよな。時系列で考えるとより明らかになると思う。

(そんな大山柏氏の見方に対して、大山格氏が「アッカラケ」で意を唱えんばかりの書き方をされているのが、何とも…。小説ですが。)

それに徹底的な官軍勝利の要素は、援軍の伊地知救援隊の到着だと思うんですが。どのみち随意退却はするにせよ、この救援隊がなかったら、少なくとも戦闘で宇都宮は陥ちてないですよな。いや、「たら、れば」は禁物つーのは分かっているのですが。それにもともと伊地知隊は、結城の平定で宇都宮に来るのが遅れていたから、最初からいたらまた別なんですけれども。
要するに、勝敗は、誰か一人の功でも責任でもないだろ、ということで。

…なんか、大鳥の立場を考えると、ため息しか出てこない感じなんですが。これも贔屓ゆえの穿った見方なんでしょうか。

「官軍のほうでは明日の作戦に就いて軍議を開くこととなったが、いづれも今朝来の戦況を繰り返して語るうちにも、大鳥の戦略神のごときを褒めぬものはない。薩摩の将野津七左衛門は微笑を浮かべながら、『大鳥どんの書物で学んだものが、大鳥どんに向かうのじゃもの、敗くるのは当然でごわす、勝ち居ったのが不思議じゃごわへんか、ハッハ…』」 (西郷隆盛詳伝)

既出ですが。そんな薩摩の声に涙してみる乙女心。当時の方は分かってらっしゃる。とか言ってみる。

一方、浅田君。「此日銃創ノ痛ミ少ク去テ余歩為ス事ヲ得ル故ニ、午後本営ノ後面苦戦ノ時兵ヲ率テ戦フ、忽チ痛ヲ発シテ歩行ナラズ、駕ニ乗リ兵隊ト共ニ城中ヲ出」昨日安塚の怪我の痛みが少なくて歩けたから、午後本営の苦戦している戦に出たら、たちまち痛みが酷くなって歩けなくなって、籠に乗せられて退出。それで、「尚防御セハ数日ヲ支ユベシ」…なお数日城を支えられるだとのたまう。弾薬打ちつくして、死傷者続出で。
君は分かっていない。


★印のところは、明日突っ込みます。…というか、ここまで、その突っ込みのための前フリの整理だったのに…。
あぁ、もう明るい。始発の音が…。

[2] 入潮 2006/08/12(Sat)-03:26 (No.128)
ご指摘いただきまして、日付を修正いたしました。
最初、「桑名が戦功の第一の杯を受ける」のところを21日にしておりましたが、20日の間違いでした。
助かりました。どうもありがとうございました〜。
posted by 入潮 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

「下野の戊辰戦争と民衆」

「下野の戊辰戦争と民衆」大嶽浩良著。

2001年の栃木県立文書館研究紀要に含められている論文です。
日光叢書や、真岡市史、南河内町史、芳賀町史、いまいち市史などの郷土史を紐解きながら、戊辰戦争時の背景について触れています。

鳥山藩の一揆に打ちこわしなど、宇都宮側が疲弊していた背景が詳しいのですが。
なにより、旧幕軍がいかに地元の方々に迷惑を撒き散らしていたかということを、つらつらと示し、その根拠になる史料をこれでもかと連発してくださっています。大鳥が見たら多分泣く。

「行軍にあたってはあくまでも人馬役と宿泊地を沿道の宿村と農民に求めた」として。

たとえば前軍が芳賀郡を通過したとき。

「白米近隣村中俄に引集め、左候ても大軍の事故に合兼、真岡町堺屋善兵衛より俄に米三十俵引取、水車へ下け、或は人足之もの共へ春せ、飯を炊き米をつき、市町乱騒ぎ」と、大人数に対して米を炊くだけで、調達して精米して炊いてと大騒ぎ。てか、前軍、糧食は全部現地徴用だったのか…

戦争の運搬やら馬丁やらのために人足を徴用されて。
「戦争人足之もの共壱人も帰宅無之に付定て、右戦争之災に罹り可申哉も難計、村中大騒ぎいたし、俄に鎮守へ千度参詣」
と、戦場へ借り出された家族が誰も帰ってこない、心配でお千度参りする村人の様子とか。

前軍が簗瀬口から宇都宮城に攻め込んだ時。
「市民は未だ戦争を目撃しもの無きを以て人々争い見んと欲し、社頭の表坂に登攀し、群集数百人に及びし処、弾丸飛び来り、楼門前なる茶店の老婦に中り、顔面出血社内に逃れたり。見る者恐怖悉く散乱せり」

などという一面も。戦争を見たことが無かったので見物に来たのんきな民衆。そこに弾丸が飛んできて老婦流血で、みな逃げ散る。…前軍、民衆、避難させてやってくれ、というのは無理なことなのか。

更に、入城した前軍が、再度の戦争に備えて町民を軍夫として徴用したとき、鎖をつけて逃亡を阻止している…。「既に人足に連れ参り、大砲引き仰せ付けられ、尤も逃げ等不相叶様鎖りを以つなき候由に御座候」

村も黙って搾取されていない。柳原では、「乱暴金策」を働いた兵士を、一人撃ち殺しています。民衆対兵士。目も当てられません。

とりあえず記述されているのは前軍ばかりですが。宇都宮落城後、日光でも負けてはいません。

「旗本方の歩兵共は、日々に市中を徘徊して茶屋又は酒其外諸売人にて買物喰物乱りにいたし、価値を置ものあり置さるものあり、剰へ美しめ能女人を尋山村へ持込強陰などをするもあり、依て市中不残恐縮之思ひをなし、何れも戸閉売買一切に不致、山中市中皆々不自由一方ならず、上下共に困窮乏様子に相成けり」

…茶店で酒強奪、食い逃げどころか。女性を山村へ攫って強姦。市中はみんな恐れて、一切家の戸を閉めて商売もせず、皆不自由極まりなく、困窮した。
大鳥さん、参拝していろんなことに涙流している場合じゃないですよ…。

こんな感じで、民衆の受けた迷惑や厄介を、ひたすら連ねてくださっています。
今まで戦争の華々しい、カッコいいところばかり追っかけていたわが身が痛くて、なんかもう、ごめんなさいと、謝り倒したくなります。

大鳥も直接迷惑をかけています。
旧幕側、新政府側ともに、地元の農民を配下に於いて兵力にしようと、地元猟師を奪い合いしました。
大鳥、4月23日付けの触れ。

「宇都宮脱走之もの共、新里村辺二聚屯罷在候由、右は日光山□□いたし候或も難計候間、其辺猟師申合早々打払候様可致候、尤此方より討手之人数差向可申候得共、可成丈速二打取候様可致候、功名於有之は神廟に請ひ、身分取立可申もの也。
辰四月 大鳥圭介 純彰花押 御神領猟士共へ」

(こちらはすでに亜樹さんがご紹介されてました。重複すみませんです)

23日というと宇都宮落城日ですが。前日にでも用意したのだろうか。既に日光への退去の用意はしていたと。宇都宮持久、ってのははなから考えてなかったというのがここからも伺えますが。

士分への取立てを餌にして猟師をひきつけて、猟師鉄砲隊を組織した、と。どれだけ集まったかは分かりませんが、とりあえず藤原の功績を見る限りでは、かなりの威力を発揮した模様。これについては、谷干城の「東征私記」から抜き出してくださっています。

「(賊は)十分に策略を設、奇正互いに用ひ、高徳より絹(鬼怒)川を渡り、大桑に出て我後を絶せんとする者奇兵なり。小佐越、柄倉大勢進む者は正兵なり、左の山上より我兵を射下する者亦奇兵なり、高徳村よりは絹川を隔てしきりに大砲を発して声援を為す、其戦の様中々巧者と云うべし。且戦闘上にて太鼓・喇叭などを用ゆるは錬兵非ざれば不能所なり、賊に仏伝習の者多し、故に此なるべし」

と、正兵=会津・旧幕軍、奇兵=猟師隊とし、その連携を「中々巧者」と述べています。

それで、猟師隊、土佐に恨みを買って、会津・旧幕軍に協力した地元一帯焼け野原にされてしまうのな…
その土佐軍も、「一日壱人へ手当て銀六匁ツ」で雇おうとしていましたが、結果は不明とのこと。

藤原についてはまたそのうちじっくりと触れたいと思います。

あと、六方沢越えのとき。

「(旧幕軍が)直接栗山村へ落去り候、手当てにて人足の用意をなしけるに、怪我人多ければ、中々以人足不足、依之近郷より参り居候役夫は及び申さず、東西市中之若者役夫と申付、夫にても不足ゆえ、旗本方手込に山内往来之者見掛次第に抜身刀、或は抜身槍などをふり廻しおどかして引連れ行れ、途中にて逃るもあり。又は町家へ抜身の太刀を引さけ大の眼を開き亭主は居さるや、又男たる者は残らず出べし、駕篭かき或は長持人足を尋…誠に以恐怖之思ひをなして居られしとなり」

六方沢越えの前に、けが人が多くて人足は不足、駕籠持ちや長持ちに人手が必要。市中から集めても集まらない。男という男はみんな出せと、旗本は抜き身抜刀で槍を振り回して、目を見開いて町民を脅して連れて行った。途中で逃げる者もいる。全く怖い思いをしていた。
……なんかもう、ごめんなさい。ごめんなさい。

そんな感じで、ここにあげたのはほんの一例とばかりに、民衆の受けた戦争迷惑が、ひたすら描き出されています。
結びの言葉。
「総じて見れば、(旧幕・新政府)両軍の間に軍隊の性格や兵士の士気、武器・戦術の面でも質的な差異はなかったとの指摘は肯けよう。新政府軍の勝因は情報操作や兵隊数と弾薬量で上回ったことだが、裏を返すと近世的倫理に代わる新しい戦争理念や軍隊秩序は未だどちらにも育っていなかったのである」

理念や秩序のなさではどっちもどっち。質的には両軍変わらん。
…ごもっともです、と這い蹲るより他はありません。

論文なのにここまで元史料を抽出してしまって良いものかな、と迷いましたが。引用の枠にはいるかなと苦しい言い訳をしながら、自分の脳みそに入れるために、書き抜きさせていただきました。これからも戦争に触れていくのに、こういった面は避けて通れないというか、避けていたらそれは戦争じゃないだろう、と。

大嶽氏はひたすら収集した資料に忠実な方で、この方の著作はかなり好きです。高校教師でいらっしゃるほか、栃木県歴史文化研究会常任委員長 宇都宮市文化財保護審議会委員など歴任されている方。郷土史家の方といってしまって良いのではないかと。
「下野の戊辰戦争」の著者でもいらっしゃいます。こちらは以前ちらっとご紹介させていただきました。大作です。(http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/bbs/iridiary_log4.htm、05/25(火)No.456)
写真と地図をふんだんに使いながら、戊辰戦争の経緯を客観的に説明。写真の半分以上が墓か碑。戦そのものより、論文と同様、戦に右往左往した地元藩や住民の記録に主に焦点が当てられています。迫力ある良著です。


さて、この論文が掲載されていた紀要を発行している、栃木県文書館

日光附近戦争及雑記書(平賀イク家文書)
http://www.pref.tochigi.jp/soumu/link/monjokan/course2.htm
など、かなり面白そうなものを所蔵していますな…。ていうか、教材…?

あとは、20万点とか相当な数の文書を所有されているのですが、ネットでは「〜家文書」等とあるのが見えるのみで、年代などはお問い合わせ、でしょうか。下野の戊辰関係、いろんなお宝が埋もれていそうです。

そんな感じで。
また、力尽きました。
まだいきます。宇都宮。


    [2] 亜樹 URL 2006/08/09(Wed)-21:45 (No.117)
    ご無沙汰しております(^^)。大嶽氏の論文、存在を知らなかったのでとても参考になりました。近い内に図書館or文書館へ行って見てみます。
    文書館は栃木県庁の敷地内にあり、宇都宮だけでなく県内の古文書を収蔵しています。「日光附近戦争及雑記書」は現物を見ましたが、挿図を含めとても綺麗でした。平賀家の文書は、平賀家の事前許可を受けていなければ撮影による複写も不可だそうですが、幸い「いまいち市史 近世史料編VII」(156〜198ページ)に全文が載っており、19日の宇都宮戦で町人が泣叫ぶ様や、六方越えの際の人足集めで「誰彼かまわず引連れた。イヤと言えば刀を振り立て、或いは腰縄にして引連れた」様などをこちらで読む事ができます(この市史は、原本のくずし字が読めず文書館で唸った私の強い味方です:笑)。

    ↑今市市は、今春の合併で日光市になってしまいましたが、それ以前の発行なので「いまいち市史」です。


      [3] 入潮 2006/08/10(Thu)-03:18 (No.119)
      御大、ご光臨、かたじけないです。
      すみません。お名前勝手に使わせていただいておりました。
      自分の頭で流れを何とかひいこら整理してから、改めて亜樹さんのまとめられた各史料を拝見すると、その濃さにもう唸るばかりです。地図も大変参考にさせていただきました。

      氏の論文ですが、出典が主に周辺の町史・市史で、亜樹さんはもう既に全て網羅されていると思いますので、亜樹さんにとっては物足りないかもしれません。
      いまいち市史のあれがそうでしたか! 実はコピーをとっておきながら、該当部分の最初のページだけ取り損ねており、記録の出典が分からなくて、誰かご存じないですかと垂れ流しかけていた矢先でした。
      大変助かりました。テレパシーが通じているのかと思いました。するっと出されるところがおさすがです。ありがとうございます。
      そしてそのいまいち市史を、まさにそのリアリティに泣きながら突っ込もうとしていたところでした。完全にお後を追いかける形になってしまっております上、ミーハーな見方しかしておりませんが、お許しください…

      合併、今市市、藤原町、栗山村と、あの時期におなじみの地名が見られなくなってしまうのは、道すがらの地名の数が減ってしまったところに、勝手な寂しさを感じてしまいます。
      近いうちにまた押しかけさせていただくと思いますので、よ、よろしければお相手してやってくださいませー。


[4] Q太郎 2006/08/11(Fri)-05:27 (No.124)
「大鳥圭介純彰花押だって。きゃ〜、大鳥さん花押あるんだぁ。」
見たいかもしれません。
(こんな情報性のカケラもないカキコですみません。
しかも、短!)

    [5] 入潮 2006/08/12(Sat)-00:30 (No.126)
    コメントありがとうございますー。いつも読んでくださる方いるのだろうかと半ば諦めモードですので、一言でもいただけるとモチベーションが大変補充されます。
    花押は活字ではなく現物を見ないと確認できませんよね。自分も見たいです。箱館での書簡や文書には、そういったのを今のところ見たことがないので、途中でなくしてしまったのだろうか…とか思ったりして。
posted by 入潮 at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

東京大停電

あちゃー、東電さん、ご愁傷様です…
という感じでした。首都大停電。

フレックスぎりぎりで出社している人間なので、電車ストップなどにはあわずにすみましたが。
道路の信号機まで止まっていたそうで。お盆中でよかったというべきか。不幸中の幸いでしたな…。平日のラッシュ時だったらどうなっていたのだろうと思うと、背筋が寒くなります。

自分は、東電と日銀の、この事故への即座対応がすげぇと思いましたです。

275kV送電線が止まったって。ほとんど国レベルの基幹線ではないですか。これより大きいのは500kVの大電圧送電線ぐらいか。

電線はネットワークで、太い線から変電所を通して細い線へ、網目のように張り巡らされて需要家の下へ送り届けられます。今回の事故は、道路で言えば、国道1号線とか12号線とかの主要道路が寸断されて、それに連なる道路へのアクセスが全て途絶えたみたいなものかと。

それを2時間で復旧、というか、他の線を使って電力をまわしてくることができるというのは、大したものです。普通の国だと、その線を張り替えて回復させるまで、国中停電しているレベルです。

損傷したルートも15日中に復旧する見込みだそうで。徹夜作業ご苦労様です。
お盆で昼間のピーク需要が少なくなっているから、良かったですな…。

東京電力の安定度というのは、世界でも群を抜いています。(日本の電力会社は皆そうですが) 一需要家当たりの平均停電回数、停電時間はそれぞれ、約0.1回、3分。この値は運用効果指標として必ず設定・モニターされるのですが、他の先進国と比べても驚異的に良い数字です。普通、年数回、1時間レベルはいきます。ミャンマーやネパールなどではそもそも発電所の容量が増加する電力需要に足りなくて、電力が不足して、首都でも計画停電しているぐらいですし。酷いところは年の1/4も電気がこないわけで。燃料代があがっているから更に状況は悪くなっているのだろうな…

停電原因にしても、東電のピーク供給の計画やメンテナンスが悪くて停電、という、東電自身に起因するものはまずないようです。小規模なものはあるかもしれませんが。台風や、今回のクレーン船による直撃事故や、99年の自衛隊機による断線のように、ほとんどは予期しないアクシデントです。そういった天災や事故にも、二重三重の回避措置を取って、復旧までの時間を1分でも短縮させようとしている。
東電に限らず、日本の電気は、相当質の良いサービスを行ってくれていると言えます。

その分、日本の電力会社は、他国の3〜10倍以上の電気料金取ってくれてますけどな…。
その辺は思うところ無きにしも非ず。

電気に頼りきった社会の脆弱性が明らかに!なんてことをここぞとばかり言っている新聞もありましたが。電気に頼らない生活なんてもうありえませんので。電気がないと文化的生活は放棄しないとならない。だからクリティカルな機関は自家発電を持ち、そうでないところは、ネットワークの電力迂回に頼るしかない。信頼性は、どこかで途絶えたときに、どこから即時にうまく別のところから回してくるか。それにかかっている。前回の自衛隊事故以降、送電ルートのシミュレーションを繰り返して、即時迂回対策は行っていたとのこと。

ただ、今回のように大電圧の基幹線だと迂回も難しい。ですので、あれだけの時間で復旧できたというのはむしろ技術的にはスゴイことかと。…経済的には情状酌量の余地は許されないのですが。

東電さんは、今回の事故で、むしろ安定供給性を世界に示したのではないかと私は思います。

そんな世界に自慢できる日本の電力も、明治24年、電灯導入の初期にはいろいろありました。日本初の国会議事堂で火事が起きて貴族院が焼け落ちたとき、電気が原因だと言われたことがあったり。それで、皆電気にたいする知識がなくて、軒並み需要家が減った。これに対して、工部大学校卒の電気四天王、志田や藤岡市助が、電気が原因ではない、電機は安全だと、ひとりひとり需要家に説明して走り回った、という話があります。オムニバス市助編でそのうち詳しくいきます。


そして、日銀の即日オペレーション、1兆円投入もすごい。事故のおきたその日の午後にはもう1兆円が動いているのか。日本の国家予算の1/85、ブータンの国家予算20年分。普通1億動かすのにも、半年、1年とああだこうだ調査して書類作って手続きに走り回っているのに。うーん、すごい。

東電さん。経産省から副社長のお呼び出し食らい、これからも報告書作成に、担当者は大変な思いをしそうですが。
それでも、これだけの事故がおきても絶対に顧客数は減らないから、いいよなぁ…とか思ってみる、一民間人。
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皆様とお茶会、宇都宮

週末、遊び倒しました。いやー楽しかったー。
人様とお会いできると、なんというか充実度が段違いです。とかいうと、普段よほど寂しい人間らしい。その通りなんですけど。

土曜日は午前中ちょろっと仕事して、午後からまた国会図書館へ。
藤原をまとめるのに、谷干城遺稿とか、佐賀藩戊辰戦史とかを見ときたかったのでした。他、工部大学校とか、洲本稲田藩関係とか、旧幕臣沼津関係とか、黒田開拓使とか、下野一揆や人足徴用関係とかを、雑多にやりすぎて、全く収集がつかなくなってしまった。調べものは、その日のテーマを決めてその関連史料をじっくりやるほうがいいですな。分野が散漫になるとあまり頭に入ってこなくなる…

その後、夏の祭典帰りのあろあさま、M子さま、そしてリサイタル帰りのままこっち様のところへ押しかけて、渋谷で飲みとなりました。

皆様、大河や新選組ファンの方々だったので、おとなしく勉強させていただこうとしたのですが。何かあると大鳥に話を持っていってしまう堪え性のない奴が一人いて、全く申し訳ございませんでした…。

M子さまは、初めてお会いした方ですが、ほわわん、とした雰囲気の方で、とても和ませていただきました。とか思ったら「私空手やってるんですけど」と目がキランとして、思わず背筋を正してしまいました。
業界の話なども、へぇえ、と唸ることしきり。なんだか、世界が開けましたです。

サッカー話で、あろあさんが、「うちのチーム」「うちの子」と、サポーターになっているチームのことを称して居られてたのが、なんだかいいなぁ、と印象的でした家族を応援するような連帯感というか。

そしてしだりんと高峰、たっきん、絢彦の一期生四人衆の力作ペーパーもいただきました。志田が一期生集合写真そっくりで、可愛くてお腹がよじれるかと思いました。あの写真は緊張して顔がつぶれているんです、と意味なく力説してまいりました。いやまさか工部大生のイラストが見れる日がこようとは。幸せ。

そして、M子さま、あろあさま、お二方ともすばらしい創作者でいらっしゃる。お二方の作品には泣くほど癒されました。この道やっていて良かったと思いました。

それから、メインイベント。ままこっちさんの怒涛の箱館レポ。デジカメで写真を持ってきてくださるということだったので、よく見れるようにと、調子にのってラップトップPCを持ち込んだのですが。その枚数に度肝抜かれました。どうやったら、ご家族連れで、3日4日でそこまで回れるのだろうと、その行動の濃さと周到さにびっくりでした。

木古内の「白馬剣士奮戦の地」の立て看板、「もう朽ちてないようですよ」と、事前に大嘘ぶっこいたのですが、ちゃんとままこっちさんが見つけてくださいました…。単に自分が見つけられなかっただけでした。申し訳ございません。さらに、遊撃隊が死守しようとした松前の「折戸浜古戦場跡」のほぼ消えかかった字まで。相当根性がないと見つからないものです。ままこっちさんの前もっての綿密な調査力とそれを実行に移すパワーと、それら超人的行いを可能にする愛には、もう乾杯でした。

そして、皆様、土方氏に対する姿勢に浮いたところがなく、すごく真面目でいらっしゃって、びっくりでした。どうして土方が副長たりえたのか、というテーマで真剣な議論が始まったり。何が創作で何が実物像をきっちり分けて考えておられて、冷静にここは良い、ここは駄目、と評価されているので、感心することしきりでした。

歴史に限らずとは思いますが。だれそれのファンだからどうだ、というような決め付けなんてする必要はまったくないわけで。単に、本当のところ(あるいは原作)はどうだったのか、というところは知っておきたいと、ファンなら皆思うもの。その上で、創作は創作として楽しみ、対象の実在性を高めるようなよい創作には心打たれ、中傷誹謗にすぎないような心無いでっち上げには悲しく思う。そのあたりは皆同じなんだなぁと思いました。

自分が戊辰以前の新選組はぜんぜん知らず、根拠の確たることが言えなくて推測しかできなくて恥ずかしかったです。土方もちゃんと土台から知っておきたいなぁ、知っておかねばならないなぁ、と思いました。


そして、翌日。日曜日は宇都宮へ。
ずっと宇都宮、今市、小佐越、藤原、矢板あたりを回りたくて、1日だと先ず無理で土日休める日を狙っていたのですが。連続2日休むということがどうしてもできず、今までズルズルきておりました。ただ、下野をまとめていたらもういても立ってもいられなくなり。そして何より「會東照大権現」( http://www.geocities.jp/aogiri40/ )の亜樹さんにお会いしたくてたまらなくなった。亜樹さんは、北関東の戊辰関係をあたっていると、どこから発掘されるんだ…!と悶えたくなる貴重情報や、野州花や宇都宮城復旧状況など、タイムリーな野州情報を、惜しげもなく提供してくださっている、足を向けて眠れない方です。

史跡は捨てて図書館と亜樹さんのピンポイントアタックなら1日でいけるだろう、いうことで、思い立って行ってしまいました。
…そして己の驕りを悔やむことになる。
図書館も亜樹さんも、到底1日で満足できるような方ではございませんでした。

まず、図書館に行く前に、駅前で地図を確認。東側のお堀の代わりの田川、前軍が最初に火をつけた簗瀬町、焼け残ったという材木町、落城日の午前中の激戦地の松ヶ峰、会津藩士が戦った河原町、包囲戦を行った六道ヶ辻、そして本丸、二荒山神社…などなど。当時の地名がそのまま残っているのが、嬉しいです。土地関係が一気に空間的に掴むことができました。でもやはり亜樹さんによると、失われてしまった地名も多いのだとか。区画整理などが行われると地名は一気にかわってしまうものですし、便利なら変わってしかるべきですが、やはり昔の名前が消えていくのは、寂しいものであります。いや、余所者の勝手な感傷というものなのですが。

そして、バスに乗り宇都宮市立図書館へ。最初は栃木県立図書館にしようと思っていたのですが、亜樹さんから、中心部から少し離れているけれども市立のほうが郷土史が開架で参照できると前もって教えてくださったのでこちらにしてみました。

行ってみると、面積的には大きくはないですが、調査相談室に郷土史料がぎっしりと固まっている。そのあまりの密度濃さに眩暈がしました。
栃木県史、宇都宮市史、藤原町史、壬生町史、いまいち市史など、北関東戦でおなじみの周辺の市町村地方史はもちろん、日光叢書、大日光などの日光関係史料、二荒山神社誌など、それに野州史学、下野史談などの論文や研究紀要に史談集、そして宇都宮藩家老の県勇記による戊辰日記などの一級資料の写しまで。
そして、足で調べる郷土史家の大家、田辺昇吉氏の著作や、明治百年野州外史などの、現代文による地方史研究の大作、果ては栃木県の歴史漫画まで。

途中から頭が飽和して、自分が何を調べたいのかも分からなくなってくる体たらくでした。
机に積み上げて、片っ端からしおりを挟んでいくのはいいのだけれど、なんだかもう、自分研究者でもないのに、こんな大量の資料を手にかこまれて、これから何をしようというのだろう、ここまですばらしい成果が残されているのに、今更自分が何をすることがあるのだろうかと、空しくなってしまいました。
端から、1日で調べようと思うほうが間違っているのですよな…。

収穫物について、一つ一つはまたじっくり…やっていると時間がいくらあっても終わらないので、こんなんありまっせという情報概略だけでも、触れていきたいと思います。

その後、二荒山神社へ。二荒山というと遠方人は日光を思い浮かべますが、宇都宮城北にあるものです。
東武宇都宮駅のすぐ北側にあります。ここも宇都宮戦では前軍に焼かれてしまった所です。下の「下野の戊辰戦争と民衆」で、いまいち市史の平賀家文書で記述されてましたが、民衆がこの神社の階段でのんきに戦見物をしていたところ、茶店のばあさんが弾丸に打たれて顔面流血で神社に逃げ込んできて、見物人がダッシュで逃げた(by亜樹さん)、という場所です。

荘厳たる二荒神社の参道の階段を登る間、婆さんが血みどろで迫ってくる様が脳裏にこびりついてしまって離れませんでした…。
お社自体は静謐でとてもよかったのですけれども。あと、お盆なせいか、いろんな若い方が何人も、一人で参拝に見えられてました。

こちらの二荒山神社、西側に24階建てのマンション建築が計画され、これが景観を壊すと、反対の署名運動が行われています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060810-00000092-mailo-l09
でもニュースで取り上げられていました。
歴史的建造物の保全と、地元の経済発展のジレンマは、余所者にはなんとも口出しできない問題なのですけれども。考えさせられます。
公共工事なら景観は先ず最初に考慮されるものなのですけれども。民間だとどうなるものなのか。それまでの設計や土地収用も大変な労力で。建設当事者、担当者の方が何より、頭を痛めていることかと思います。こういう仕事はしたくないなぁ。

そして、メインイベント。お仕事帰りの亜樹さんのところに押しかけました。何度も言ってしまってますが、こっそり師と仰いでいる方です。歴史においても、お酒においても、二つの道において。

お会いするのは3年近くぶりで、ものすごーく緊張していました。
最初にお会いしたのはこのサイトを開いて間もない時で、今あの頃の文章を見るとあまりにちゃらんぽらんなのが恥ずかしくて、あれを知られていると思うとそのまま穴に埋まりたいものです。まだまだビギナーな気持ちでいましたが。いや実態もビギナーなままですが。過去の書いたものを見るともう、上郡とか宇都宮とか会津とか色々なところに向かって土下座して謝りたくなる分、多少成長もあったのかと思いたい。

それはともかく、感じ入ってしまうのは、亜樹さんの歴史に対する姿勢だけではなく、陶冶された人格といいますか。しぐさ一つ一つ、心遣いが、本当に大人な方なのです。席ひとつにしてもさりげなく奥側を勧めてくださったり。女性らしさと漢!なところを素敵に混在させた方です。そして、一言一言に重みを持っておられる。お会いするのはまだ2回目なのですが、いつも惚れ惚れします。

そして、亜樹さんの地元史に対する愛情が素敵なのです。偏らず、目を瞑ることもせず、いい所も悪いところも噛み含めて愛しておられる感じで。見習って見習えるものではないですが、その姿勢は心がけたいなぁと思います。

前日のさまざまなご教示に加えて、大川の史料やお土産もいただいてしまいまして。もう色々と本当にお世話になり、お礼の申しようもございません。

話の内容も、この資料情報にとどまらず、中身の解釈や考察もたんまりで、大変刺激的で、アドレナリンが出っ放しでした。

さらに楽しかったのは、戊辰の道日本酒紀行です。
いや、そういうタイトルでお酒が並べられていたわけではないのですが。メニューのラインアップに「美田鶴」(小山)、「四季桜」(宇都宮)、「杉並木」(今市)、「天鷹」(太田原)、「東力士」(那須)と、ありまして。…これは「順番」に呑むべし、と素敵なご提案を亜樹さんがしてくださいました。

一合づつどこまでたどり着くか。実は5つのうちどこまで行ったか覚えていません…。杉並木までは呑んだと思うのですが。その頃あたりからもう自分はあやふやです。討ち死に脱落も同然で、総督、あとは頼みます…と、戸板で運ばれていった感じです。あぁ至福の時間が。勿体無い。このぐらいで麻痺している己の脳細胞の脆弱さを恨みました。ていうか、亜樹さんの肝臓とデヒドロゲナーゼは、普通の人間の持っているものとは別のなにか高次元な存在のものだと思う。

そんな感じで、気がついたらもう新幹線のなかでへべれけでした。東京駅で駅員さんに呆れられながら起こされてしまった…。

と思っていたら、亜樹さんが日記で、「函館までやるべし」と、お素敵なご提案を下さいました。
北関東でもあの体たらくでしたのに。いや、合宿ならまだ…。でもきっと、田島あたりでリタイアか、日光で置き去りにされて土佐に掃討されるか。そのために土佐の酒や芋焼酎を紛れ込ませていたりして。というか、函館までで何合あるんだろう。会津ゲリラ戦はかたっぱしから持ち寄って、名前も分からなくなりそう。とても辛そうだ。

…そんな酒飲み道中サバイバルオフ。皆様いかがでしょうか。場所は会津か箱館か。人数が集まれば一人当たりは楽になる。でないときっと生きては帰れない。いつか本気でやりましょう。


そ、そんな感じで、皆様、お付き合いしてさってありがとうございました。いっぱいご迷惑おかけしてしまって申し訳ございません。人様にすがり付いて生きています。量的にも質的にも、あふれ返りそうなトークと紙とに囲まれて、幸せ満喫なお盆の週末でした。

ラベル:資料 宇都宮戦
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2006年08月17日

平賀家文書「日光附近戦争及雑書書」その1

ベッドが資料コピーの海と化している。整理していると眠くなってそのまま海の上で熟睡、気が付くと凄いことになっていた。カオス状態に、朝、悲鳴。
…とりあえず、一つ一つ行きます。

今回の宇都宮行きのきっかけになった文書、平賀家文書「日光附近戦争及雑書書」。
明治2年6月執筆。ほぼリアルタイム記録の、一級史料です。

これを記した平賀嘉久貼治氏は、日光同心。同心とは、奉行の下で庶務や警察事務を行っていた下級役人のこと。平賀さんも日光奉行の元で働いていた方。

公文書ではなくて、家に伝わっていた私文書なのですが、相当詳しいです。戦闘のその場にいたかのような詳細な描写と時間推移。戦闘配置の絵図入りで、戦記を記してくださっています。こちら、公務で報告書として用いられたのではなく、自分の記録として作成されたのなら、平賀さん、相当な戦争マニアだ…。日光奉行所も、旧幕軍の後始末や新政府による真岡県編入でくそ忙しかった頃でしょうに。

オリジナルは栃木県立公文書館所蔵。宇都宮〜今市戦は「いまいち市史史料編近世Z」にほぼ収められているようです。ほか、「藤原町史資料編」「写真集戊辰戦争 日光山麓の戦い」など、結構いろんなところに抜き出されて収録されています。戊辰戦役史などのメジャーな史料では引用されているのはあまり見ないのですが、地元史料としては有名らしい。おそらく、宇都宮の推移については、最も詳しく記された文書のひとつかと思います。

これが、地元民ならではの目で戦争を描き出してくださっているので、面白いというか、戦争のいろんな面が浮き彫りになって、深いです。

明治元年の3月の一揆続発や、板倉親子の動き、小山、結城の戦いなどから含まれているのですが。目玉その1は宇都宮戦争。

4月19日に前軍が責めたときは、簗瀬口(宇都宮城南東)にて東軍が時の声をあげ、簗瀬の名主五郎左衛門という人の宅へ火をかけ、さらに官軍の宿になっている寺院にも放火。どっと一時に燃え上がり、市中町人老若男女差別なく「周章(あわて)ふためて泪さけぶ声山をも崩るる計り」だったとのこと。「狼虎の荒れたるごとく切り切り廻れば、城中人数ことごとく□し、西方東方途方にくれ、逃げんとするを切廻り」という有様。この時に今の東武宇都宮駅の北にある二荒山も焼けてしまった。

夕方、前軍は。

「其威勢振て屋敷市中又は近在々迄も立廻り、軍用金仰申付、末々之兵は酒色を好み、中には強蔭等いたし荒々しく押歩行候故、町人百姓恐れをなして居たる」

町民も神社も焼くし、民衆は慌てふためいて山をも砕かんばかりに泣き叫んでいる。前軍の兵は威勢良く屋敷市中を立ち回って、上は金を軍用金と称して奪う、下は酒飲むは食うわ、中には強姦するわ、荒々しく横行。百姓町人は怯えている、という様。

…そりゃ元庶民の大鳥さん、頭痛めます。見せしめ斬首も必要になります。翌日寝込みもします。

で、23日の宇都宮攻防戦。
朝からの激戦。夕刻、午後4時ごろの大手門での激しい攻防。ここで東軍が、官軍の兵50名ほどと必死に戦っていた。東軍は官軍を皆殺しにしようと、二人がかりで斬りすくめて健闘。しかしここに、官軍が六道口へ引き纏めていた人数でもって、一斉に場内へ攻め込んだ。
この大手門を持ちこたえていたのが、大鳥。

「此時城内には大手口持陸軍奉行大鳥桂介其他小勢にて固め居所へ、どつと一度に乗込まれ、今は認らい兼、大手開らへて迯出し、大鳥圭介既に危き折、会藩竹本登と申者馳来り、是を救て友に迯出しけり」

大鳥が小勢と守っていた大手門に、六道口に引いていた官軍が、どっと一斉に乗り込んできた。とうとう耐えかねて大手門を開けて兵が逃げる。大鳥、すでにピンチ。この時、会津の竹本登が馳せ来て、これを救って一緒に脱出した。

こちらの場面、8月8日の「宇都宮戦整理」のポストの、宇都宮攻防戦記述の(★)印のところです。

最後の最後まで大手門で粘っていた大鳥。この長い一日のうち、大鳥が最も前線にあったのはおそらくこの大手門。なので、大鳥が足に榴弾を受けた怪我はこの場面だった可能性が高いのではないかと。

そして、竹本さん。「馳来り」ということは、徒歩じゃなくて馬ですよな。そこに、足を負傷した大鳥総督を救出した。ジモティーの平賀さんが、竹本さんの名前まで記しているということは、誰かがその名前を聞いて伝えていたということなのでしょうけれども。

「やぁやぁ、我こそは会津藩竹本登、これより大鳥氏をお救い申す!」
とか叫びながら、薩摩兵ひしめく中に、馬で走ってきたのだろうか。そ、それは、かっくいいですよ、竹本さん…。

馬に対して徒歩の大鳥だと。どうやって拾っていったのだろう。俵抱きか、首根っこつまみ上げか。まさか引きずっていったのではないですよねと、余計な心配をしてしまった。

…と、どうにも妄想止めなくなる場面でございました。いやその、竹本さん、大鳥総督の命を救ってくださって、ありがとうございました。大手門で味方逃げ散り、敵多勢。下手したら首を取られていただろう、という状況ではありませんか。(大鳥はいつも一歩手前まで行っている気がする。この宇都宮といい、今市といい、母成といい、木古内といい、七重浜といい…)

竹本登氏。「呆嶷館」様( http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/ )によると、350石取りの御奏者番で御側衆というから、相当なお家柄。 京都の禁門の変に物頭として参加。その後慶応4年2月、「白井大砲隊戦記」によると、鳥羽伏見の戦いの後、フランス式の兵法を修行するために江戸に残留した隊の中に、会津砲兵隊の差図役として名前がある。伝習場所が小川町で、シャノワンやメッスローから教練を受けているから、大鳥とこのときから面識があった可能性はありそう。

(会津は素晴らしい資料サイト様があるので、助かります…)

それから、3月はじめに砲兵隊は会津若松に帰国、さらに会津から藤原にやってきて、遠山虎次郎らとともに会津兵42名を率いて、「御神領御敬衛」として3月24日に宿泊しています。(「藤原町史」に宿泊者名簿あり)。そして、鎮静方とか言いつつ、地元民を逃げ散らせてしまった模様。

宇都宮戦においては、「会津戊辰戦史」によると砲兵一番隊の組頭。
竹本さんが大鳥軍に合流した時期ですが、日向内記がこの一番砲兵隊なので、日向隊が宇都宮に援軍として来たときに、一緒にいたのではないかと。
安塚で間に合わなかった分、活躍してくれました。

その後、南柯紀行にも名前が何度か出てくる。藤原で鉄壁の防御を敷いていた7月21日に、兵隊休息のために大鳥が第二大隊と共に藤原を出て会津へ向かった際、竹本さんが同行。更に、兵と別れて鶴ヶ城下へ行き、容保候に謁して二本松敗戦の報を聞き、石筵布陣の依頼を受けた際も、竹本さんが連れ添っています。

その後竹本さんがどうなったのかは追いきれていないのですが。やはり鶴ヶ城篭城組だったのでしょうか。

…とりあえず、続きます。
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2006年08月19日

平賀家文書「日光附近戦争及雑書書」 その2

続き行きます。「日光附近戦争及雑書書」
……つらいです。今回のは、精神的に余裕の有る方だけ、ご覧下さい。

宇都宮戦の後。

・4月23日、宇都宮落城日、彦根藩の探索担当の4人を、長畑村で会津藩士が生け捕る。今市の河原で死罪に。このうち一人が千石取りのものだということ。

・24日、長州の探索方を生け捕る。鉢石町裏で死罪。他、生け捕りの者11人。

・別の史料「元日光御殿役所役人聞書(日光市高野家文書)」には、同じく長州の探索人が、29日に鉢石町でえげつない目に遭っています。
「鉢石町・横町において長州間者壱人召捕、この者乞食の体なり、身にこもをまとひ髪型ぼふぼふとして全く非人の体なれども間者なれば、かかる霊地の御山守護の神技申し上げて然るに召取候間者を五分切に切下げ旗本方二三十人斗り集り、肉を喰へ殊に懐中の金子四拾両余分取致し、其上首は某所にさらし置候、跡にて大谷川河原ふちへうづめ候よし」

この時の模様、谷口四郎兵衛日記にもあります。肝を食った第一大隊の兵卒が、「大言珍しきたわごとを吐き、歩行て果ては遺乱と成る」という状況。

この人食いの意味ですが。よく、人食いには死者の魂や能力を受け継ぐとかいう意味があったり、それが医療行為であると信じられていたとか、殺した敵に対する行為だったとか、飢餓状態を乗り越えるためだとか、過去のカリバニズムには色々理由付けされていますが。

…この時はなんとも、なんでそうなったのか、わかりません。まだ日光に到着する前で、飢えてはなかったと思いますし。
肝試しだったとしてある本もありましたが。文字通り過ぎる。

その背後で、ひたすらに士官・歩兵の脱走と、隊中の金の持ち逃げが生じています…。
一方で、この28日、鉢石町で柿沢さんが亡くなっています。

……大鳥。兵は半分狂乱状態でよってたかって人食いする。その裏で脱走と金の持ち逃げ頻出。同時に、「士を愛すること赤子の如く」と頼んだ参謀の死…。

・さらに29日、土佐の探索人を、松原町の関門外で殺して、首を晒す。
「高野家文書」に「手早追い詰め肩先へ切付一刀に切留めたり、それより追々人数集り嬲り殺しにして首はその場に晒し置け」とある。

……なんというか。官軍は会津や箱館で賊軍の死体を埋葬しなかったから酷い連中だ、とかいう話がありますが。それどころではない情景が繰り広げられていたのですが…。

・4月29日の瀬川村の戦い。「御山内並東西町之人々同様はまず、老若男女病人足弱ものは背負い駕籠に入れ担ぎ、或いは明荷、或いは戸板にて、又はおぶひなどして近在へ逃げて、荷物は馬に付け、背負いかつぎ持ち運ぶ。逃げるものもてんてに持ちからげ行、泪さけ叫ぶ声あり、実に目も当てられぬ計なり」
地元民の逃げ惑う様。泣き叫ぶ声が響き渡る。目も当てられない様。

・日光から追い出される旧幕軍。退去を聞き届けて、2000人が栗山郷、六方沢へ出立する。この時。
「百人余の手負い助郷人馬を持って駕籠或いは戸板に乗せ、人足遣払へ差仕候故、自ら市中を尋歩き見付、何者にても構わず引き連れ候、若し否を申すものは刀を抜き振立て、又は腰縄にして引連らるるゆえ、市中の男皆逃げ去り候事」

旧幕軍約百名の怪我人を、地元の人馬を用いて、駕籠や戸板に乗せて運ぶために、人足が必要。兵が市内を訪ね歩いて、人を見つけたら何者でも構わず引き連れていった。イヤだという者は刀を抜いて振りたてて、腰に縄を付けて引き立てられる。市中の男はみんな逃げた、という有様。こういうことをすると必ず後から地元民から避難轟々になる。

美麗壮観な神廟の前で大鳥。「後来如何なる形勢に遷り行くべきやと悲泣に堪えず」 総督。泣いてる場合ではないです。泣きたいのは良く分かりますが。

・土佐兵がやってきた頃には日光はもぬけの殻。「市中並に御山内寺院ことごとく脱走人をせんさくす候処、脱走の手負光栄坊に四人罷在候を見出し、即座に鉄砲内掛け切り殺す」
…日光に残された旧幕兵の怪我人は、ことごとく捜査されて、見つかった四人、撃たれ切り殺された。

・第1次今市戦、閏4月21日。
「老若男女とも手に取る物も打捨て、我先にとばっと一度に逃行きものの其あわれさは、中に中方に暮してうろつくものもあり、また腰などぬけて居るも有、実に目も当てられぬ有様なり」

・第2次今市戦。土佐の援軍が着いてから東軍引き上げの後。
「東軍勢首弐拾五切取、脇本陣岸屋幸七宅之前へ晒し置く也、下木戸外又土橋、伯父ヶ森、大谷橋在道之田の中べに首なき胴計りが四拾七有之由、敵味方は聢と相分らず候えども、多くは東軍方の由申すなり」

…25ほどの東軍の首が、本陣の岸屋さんの家の前に並べられた。岸屋さんもいい迷惑だ。さらに47の首のない死体が田んぼの中に。戦争過ぎて耕そうと思っても、何か出てきそうで、稲植えもしたくないだろうな…。

・今市戦の後、彦根兵の放火。
「新右衛門の宅へ放火、それより所々へ放火いたし拾五軒消失いたし候、是等は実にふびんな事哉、百姓にはなにも罪あるまじきに此致方は実にいたわしきと人々口々に申ける」
この後、5月1日から7月まで、ひたすら、どこそこの家や橋や寺や村が、焼かれた、焼失…と、つらつらと述べられています。

・土佐・彦根などの官軍だけではなく、東軍も。
5月17日朝、「玉生村へ脱走人数押来り、放火いたし有増焼失」。
「同日、船生村名主平作焼失致し候に付き、仮小屋出来候処、猶又五月三十日脱走之人数押来り放火、再度焼失」
5月17日に東軍に家を焼かれた名主の平作さん。仮小屋を作って住もうとしたら、また30日に東軍が来て再度焼かれてしまった。

ごめんなさいともいえず、なんというかもう虚無的に半目で眺めているより他はない感じです。

戦争というか、戦闘の死者の場合は、なんと言うか双方覚悟の上でやりあっているのだから、痛ましくもまだ仕方ないと思いながら見れますが。戦闘外の死者のほうが、どうにも消化の悪い、重たいものがあります。単に慎ましく生きて生活している人間が生活の場を奪われていくというのは、しんどい。

こういうことを言い出すと、もっと規模の大きな残酷さは歴史に枚挙に暇がないのではあるのですが。日本人は他国に例のない大量虐殺を喰らっていますし。

……壊すより創るほうを追う方が、楽でいいです。という結びにさせてください。

最初からやるな、という感じではありますが。ただこれをやらんと先に進めない気がしたので。いや、やったとて何が変わるというわけでもないのですが。

夏ですしな。

靖国は政治に使うより前に、とにかく鎮めたい慰めたいという気持ちのほうを大事にしてください。
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漫画とかフィギュアとか

昨夜はアナクロの空さんと、お食事しました。
普段世間様に背中をそむけたことばかりのたまっていて、時折これでいいのかとわが身を振り返っては、なけなしのモチベーションが霧散しかけたりするのですが。人様とゆっくりお話できると、なんともエネルギーチャージになります。

初対面だったのですが、わざわざイラストにまで描いて、背格好を教えてくださいました。これがまたキュート。それなのに、待ち合わせで人違いをして、違う方にお声かけをする。「そ、空さんですか?」「?…違います(笑)」というう間抜けをかまし、しかもそれを思いっきり空さんに見られていた奴。

場所は池袋の京風料理屋。和服の姉さんが「いらっしゃいませ」じゃなく「おいでやす」をお迎えしてくれて、こんなところに迷い込んでいいのかと一瞬腰がひけました。
オタクな会話になるだろうと思い、検索ワードに「個室」と入れて探したところだったのですが、これが結構ヒットでした。
しかし、話に夢中になっているとノックも聞こえず、オタク話に興じている最中に扉が開かれて慌てる、という一面も。

ご本をいただいたお礼、ということで、これ幸いとお呼び掛けさせていただいたのですが。
漫画作成にかかる苦労を色々お伺いしました。ドロー系のソフトでは一瞬でできる網掛けも、一つ一つ丁寧にトーンを張っているのだと思うと、漫画も職人技だなぁと思います。いくらデジタル画が進んでも、持ち込みなどはやはり技量を測るために、手作業が求められるとのこと。
日本の漫画文化は世界に冠するものですが。空さんのような方々がそのクオリティを支えているのだなぁとしみじみとお伺いしました。

空さんは、大鳥・伝習隊にも並ならぬご関心を示してくださって、えもいわれぬ大鳥イラストや漫画を生み出してくださっています。ちょっと眠そうな、野暮ったい、人間味あふれる大鳥像が素敵なのです。

「あの顎ひげはどこからきたんですか?無精ひげ?」
「もみ上げと頬髯のかわりです」

…なるほど。という一面も。
箱館時点で大鳥に髭があったのかどうかは、実は未だによくわからなったりして。会津磐梯の流離いの最中とかは、無精ひげだらけだったと思う。
そのへんのモサさを一目で表してくれる、ちっこいおっさん具合が、とってもツボなのです。

空さんは探究心豊かな方で、貴重古本入手エピソードもとても楽しくお伺いいたしました。


さて、いきなり話は変わりまして。
久しぶりに動画サイトで遊んでいたら、フィギュアスケート、太田由希奈さんの復活映像があってうれしかったです。

太田さんはとてもやさしい京都弁の方。
足首の骨の故障で2年間ブランクがあり、一時はスケートをやめることも考えておられたとのことですが。アメリカで療養に加え更にレベルアップ。6月25日のDreams on Iceで復活、7月の野辺山でも演技を見せてくださいました。

太田さんの特徴といえば、滑りと手。手そのものが芸術的といえるぐらい、とても優雅な動きなのです。「氷上の菩薩」と言ったアナウンサーがいったアナウンサーがいたそうですが。まさしく千手観音のように、麗しい手つきで、手そのものに表情がある感じなのです。技の入っていない滑りの部分こそがもっとも魅せることができる、稀有な選手です。

ぱぁっと花の開くようなレイバックスピン、イナバウアーやイーグルの背中のラインを見せる滑りが惚れ惚れするほど綺麗。ほぅ〜とため息つきながら見入ってしまいます。

ジャンプが不安定なので、現在の採点方法ではあまり点が上がらないという傾向があるのが寂しいかぎりなのです。ジャンプはらはらしながら見てしまう。あとはとにかく滑りとスピンを見せてくだされば幸せ、という選手です。

滑りが綺麗、というのは、それだけ基礎がしっかりしているということなのですよな。昔はコンパルソリーという、図形を描くような滑りの技術を競う科目があり、まさに基礎の競技も盛り込まれていたですが。今はショートプログラムとフリーという二段構成になったせいで、基礎の滑りの部分が軽視されているという話も耳にします。
でもやっぱり見ていてスゴイ選手というのは、まさにその基礎の部分で。
基礎も極めると芸術なんだなぁと思います。


漫画もフィギュアもみんな職人芸で、ここが得意、ここで魅せる、という個性があって面白いです。
ただやはり共通しているのは、ずっと練習を積み重ねてきた基礎の部分で、ここがないと個性も光らない。
それはどんな分野も同じで。
自分には幼い頃から積み重ねてきたもので、コレ、というのがないので、空さんにしても太田さんにしても、ひとつの分野に邁進されているかたを見ると、羨ましいなぁ、まぶしいなぁ、と思うと同時に、このままではいかんなぁ、と力をいただきます。

そんな感じで。仕事引きこもりから、ちょっと脱出している今日この頃です。
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2006年08月23日

水戸常野の乱 大川正次郎

いたいた、大川正次郎。
天狗党の乱の鎮圧で、幕府歩兵に加わっていたというのをどこかで見て、その出典を知りたいとずっと思っていたのですが。
ありました。「幕末の騒動と幕府陸軍 常野の乱を中心として」(軍事史学29(1)、1993.06)で紹介されていました。
大元は、野史台維新史料29の「筑波戦記」。こちらの引用が上の論文にありました。

常野の乱。よく知らなかったので、簡単にまとめてみます。「筑波戦記」の解題が、背景をわかりやすく書いてくださってました。

水戸藩には、藩主斉昭の尊攘派と、藩政改革を望まない保守派、さらにその中間の存在がもともとあって、藩論は統一されていませんでした。文久年間、斉昭次の藩主徳川慶篤が京都へ上京。これに伴っていた水戸藩士藤田小四郎が、京都で尊王攘夷志士と交わります。そして、幕府が攘夷の勅命を受けながらいつまでも攘夷を実行しようとしないことに憤激。幕府に攘夷実行への決意を促そうと、自らが攘夷の先鋒となるために筑波で挙兵しました。これが、元治元年(1864)3月の頃。

それで、藤田らは筑波山を出発。兵と共に日光東照宮へ参拝して攘夷祈願を行い、同志を募集して緒隊を結成しました。この時の藤田らの行動は、幕府に歯向かう意思はなく、ただ幕府を攘夷へ動かしたかった故のことであるとのことです。

それで、攘夷を盾に商人や富豪を脅しては金銭を奪ったりして嫌われた、という面も。それで高慢という意味から「天狗党」と呼ばれたとのことですが。兵隊はどこも同じですな…

同年6月、幕府は宇都宮、結城などの下野諸藩に、藤田、武田耕雲斎ら筑波勢の討伐を命じました。訓練途中にあった幕府歩兵隊も派遣され、幕兵vs筑波勢の戦闘が繰り広げられます。

ちなみにこの頃大鳥は、徳島藩や江川塾を掛け持ちしながら、二院制の建議書を書いていました。まだ幕府との関係は、翻訳と講師バイトのぺーぺー。教材提供をしているだけで、幕府陸軍との直接の関わりはまだ無し。

連戦の末、武田耕雲斎が大将として、在京中の藩主の弟一橋慶喜に訴えて、攘夷意見を朝廷に伝えようと計り、約800名が京都へ向かいます。しかし、一橋慶喜自身が彼ら筑波勢討伐の総督を命じられました。ここにおいて、武田らは降伏しました。

翌年慶応元年2月、首脳部の24名が斬首または死罪、更に352人が死罪、100名余は島流しと、血で血を洗う処刑が行われ、彼らの目指した攘夷は決行されないまま、天狗党の乱は幕を閉じました。

さて、この天狗党の乱が、幕府歩兵隊のデビュー戦だったわけです。
長州の奇兵隊等に比べ幕府歩兵隊は、注目されることも高い評価を得ることも、これまでなかった。その理由を、上の「幕末の〜」の論文は、「奇兵隊が、参加が自発的で組織も同志的結合であり、いわゆる『革命』的な民兵集団だったのに対し、幕府歩兵は強制的に徴募された傭兵に過ぎず、役割も幕藩体制を維持するための反動的な集団と見なされた」 としています。

確かに、傭兵より義勇兵、体制派より反体制・革命派のほうが人気があるのは、古今東西どこも同じ。

天狗党の乱の戦闘経緯については、軍事史を対象としているだけあり、上の論文が詳しいです。

まず幕府軍事改革。文久3年、楼中水野忠誠から「軍役兵賦令」が出されます。これは、旗本の知行地に、石高に応じた賦役を課したもの。要するに、旗本は、領地の生産高に応じて金と労働力を提供しろ、というものです。これによって、農民や金で雇った町人が傭兵となって、幕府歩兵が誕生しました。文久3年2月には、辰ノ口(大手町)、小川町、三番町に屯所が設けられました。この頃の兵の総数は2万が目指されましたが、実際は4000程度だったということです。

そして翌年元治元年4月、天狗党に対処するために、幕府歩兵隊500名を含む総勢1000名の部隊が、日光警備を命じられました。事実上の天狗党討伐命令です。

7月6日下妻の高祖道村での戦いで、小競り合い程度ながらも、幕府歩兵隊は藤田小四郎の兵を敗走させます。幕府陸軍初戦にして初勝利。

その後、下妻町で9日に筑波勢から夜襲を受け、水戸勢武士団の槍刀に農民出身の歩兵が適わず、敗走。徴発した軍夫に逃げられています。この敗走で幕府陸軍が本気になった。

大手町歩兵、小川町歩兵が投入され、7月26日に江戸を出発。9月22日に小川町歩兵隊は磯の台場を占領。筑波勢は那珂湊まで退却。一方、歩兵頭並の北条新太郎が率いる歩兵隊が、部田野原、平磯口、雲雀塚と筑波勢を破っていきます。

この9月の部田野原での戦闘に、大川の名前が出てくる。北条の歩兵隊に所属していた模様。鳥居丹波守家来の報告に大川の記述があります。

「九月十七日朝四ツ時、大川正次郎歩兵中隊引具し斥候として押出、部田野一本松新宿賊徒見張り処乗取、賊兵三十人余り逃者尚追討致し、二番撒兵清次賊一人打留め、首は大川正次郎上け分捕り品にこれあり」

9月17日、大川正次郎が中隊を率いて斥候として出た際に、部田野一本松新宿で天狗党が見張っていた場所を乗っ取り、30名ばかり逃げていくのを追い討ちした。撒兵隊の清次が一人を打ちとめ、大川が首を上げて、分捕り品を得た、とのこと。

大川、中隊を率いていたということは、この時点ですでに歩兵指図役頭取クラスだったのかしら。まぁまだ軍政が整っていないからその場しのぎの人事だったということもありえるでしょうけれども。

にしても、今まで「賊」といわれると旧幕軍側だったので、なんだか読んでいて変な感じだ。

さらにもう一箇所。翌日9月18日の戦闘で、平磯原新掘で水戸勢300名と対峙した際。

「雲雀塚の陰に賊徒五六十人潜伏致し居候につき、直に大川正次郎へ申達し、撒兵一小隊坂本榎之助と申談し、『ハンドモルチール』を以独立候」

賊徒が5,60人潜伏している。これが大川に伝えられ、撒兵隊(歩兵隊)と坂本の砲兵隊と話し合い、ハンドモルチール砲をもって立ちはだかることになった。
このとき、坂本榎之助の砲兵隊が大砲を六門繰り出し、激しい砲撃戦が繰り広げられています。坂本は大砲差図役頭取勤方。
大川、砲兵隊の激しい砲撃戦の中で、撒兵隊を率いて力戦していた模様。

この後、戦闘は、9月25日、10月17日、18日と連戦、10月23日の那珂湊の戦いまで続き、これを幕兵が占領して戦争は終結しました。幕府は三兵編成以来、陸軍の訓練期間はきわめて短かったにもかかわらず、実戦に十分耐えるだけの成果があったことを、戦闘によって立証したわけです。そして「第二次長州征伐において苦戦する幕軍のなかで幕府陸軍のみひとり気を吐くことに繋がった」と結ばれています。

出征した各将兵については、歩兵頭、歩兵頭並クラスまでは褒賞が記録されているのですが、大川は上記戦闘中の描写のみでした。

ほかに「波山記事」や「波山始末」、「水戸藩史料」、「常野騒乱記」などがこの事件については詳しいとのことですので、この辺りを調べると何か分かるかもしれません。

それにしても大川、これだけ名前が出てくるのは大したものだ。寛政譜以降の旗本事典にも「大川」姓はないので、旗本ではなく、門閥もなかったのではないかと思うのだけれども。この頃から頭角を現して、目に付く活躍をしていたようで。確かにどの戦闘でも、大川って、奇兵として動いているせいだけではなく、敵味方からあちこちで描かれているんですよなー。戦闘で鮮やかな男。

彼みたいな男が付き従ってくれて大鳥も果報者だ。鴻之台でも、その時点で大鳥は実戦経験はなかったけれども、大川らすでに経験豊富な伝習隊士官・歩兵がいてくれたわけで。

江戸脱走時は、大川は八番小隊の差図役頭取。序列からいけば浅田や山口、山角と同列だった。瀧川と本多、沼間が歩兵頭並で、それからは頭ひとつ下だった。けれども、宇都宮での本多さん負傷時には代理として第二大隊長になっている。これは滝川が第一大隊だったというのもあるのでしょうけれども。また、田島の再編時も沼間と並んで連隊長。沼間が連隊長になったのは大川・滝川の申し出にもよると南柯紀行にはある。とすると単独連隊長になっていてもおかしくない力量があったわけで。出世頭と言っていいんでしょうなー。

あと良く分からないのが鳥羽伏見の戦い。野口武彦氏の「幕末歩兵隊」によれば、瀧川も大川も鳥羽伏見に参戦していたらしいのですが。何が出典なのか分からない。京都はぜんぜん資料を当たっておらず聞き伝なので、単に見逃しているだけかと思うのですが。でも鳥羽伏見の幕軍って「幕兵」とか述べられているだけで、第何連隊がどこそこににいた、とかいう具体的なのにあまりめぐり合えないのですよなー。

なにかご存知でしたらご教示してやってください…と、結局他力本願です。


    [2] 鐘ヶ江 2006/08/23(Wed)-14:53 (No.138)
    うわーvv
    天狗党騒動、以前人様に教えていただいて「筑波戦記」だけは見ていたのですが、全然状況を分かってなかったのですごく面白かったです。素敵にまとめてくださって有難うございます。

    鳥羽伏見、やっぱり誰がどこにいるのかなかなか掴みにくいですよね! いつも煙に巻かれて終わっている私です…。
    ダブルリバーの鳥羽伏見参戦ですが、真偽のほどは定かではありませんが、『旧幕府』で確か荒井さん(すいません、問題の部位だけコピってたもので、筆者の記憶があやふやになってしまいました)がこんなことを書いています。
    「正月五日黎明に京軍、淀城を攻む、東軍淀橋を隔て防戦す、京軍川岸より砲撃す、瀧川充太郎、大川庄次郎引率の伝習隊能く戦ふ、此時陸軍奉行竹中丹後守の号令全隊に行渡らず諸隊共指図役頭取の見込にて攻撃防御を為す」
    こう、伝習隊というので、蝦夷帰りの彼は思わず奴等を連想したんじゃないか、と言う気もします。
    すでにご承知のことだったら申し訳ありません。

      [3] 入潮 2006/08/24(Thu)-03:21 (No.140)
      うわーい。
      さすが鐘ヶ江さんです。伝習隊で困ったときの駆け込み寺。いや、聖域。
      助かりますー。

      天狗党は自分も今回大川が出没したのと見て初めて背景を纏めてみた、しょうもない奴です。
      攘夷目的で、その攘夷自体がナンセンス化していく中で、あの結末はむごかったです。

      旧幕府、確認してみます。わざわざ本文の打ち込み、ありがとうございました。
      全コピーしたまま安心してほったらかして居りました。駄目な人間です。
      鳥羽伏見は、新政府側は比較的詳細なのが見当たりますが、彼らにとっては幕府第何連隊だろうが幕兵は幕兵、以上、って感じなのでしょうか。そして幕府側は余り詳細にしたがらなかったりして。会津になるとまた詳しいのですけれども。

      よく小説などでは竹中さんがワルモノ扱いされていますが、このから文ですと、命令が行き届かなかったのが悪かった、という扱いなのですね。

      思わず連想、に妙に納得してしまいました。
      ありがとうございました〜。


      [4] 葛生 2006/08/24(Thu)-22:19 (No.142)
      今頃は大阪の夜をお楽しみでしょうか…。
      大川についての調査、凄い凄いと感激しつつ拝読しました。文久の軍制改革について確認しておりましたため反応が遅れました…。

      文久の改革では、歩兵隊の初期の指揮官(士官)には、主として旧軍事組織の旗本・御家人クラスの中から、多少なりと西洋軍事技術を心得た人材を異動のかたちで就任させた例が多かった、ようです。(宮崎ふみ子 「幕府の三兵士官学校設立をめぐる一考察」より)
      陸軍内部での昇進が、外部からの任命を上回るのは、慶応年間に入って以降だったというので、元治元年段階で中隊指揮を任されたなら、歩兵隊結成以前に何らかの武役についていた可能性は高いのではないかと思うのですが。

      ちなみに、文久改革で俗に「歩兵隊(歩兵組)」と呼ばれるのは「先鋒重歩兵(6連隊)」のことで、「撒兵」は「先鋒軽歩兵(4大隊)」の中に組み込まれた部隊を指します。指揮系統が違うので、大川が撒兵を指揮した、ということはなかったのではないかと、僭越ながら…。共同戦線だったんじゃないでしょうか。
      撒兵には、旧武役の中から与力・同心など足軽相当の士分や、小普請組の御目見え以下・50俵以下の寡禄の武士が任用されたそうで、寡禄とはいえ仮にも旧名誉職の武役出身の彼らと共同戦線が張れる以上、大川もある程度の身分の武士だった、という気がしなくもありません。
      いえ、単なるお前の希望だろと言われてしまうとそれまでですけれども。

      旗本事典には「大川姓」はないとのことですが、そうすると元諸組に所属していた譜代御家人とか…?
      とりあえず、文久改革で指図役以上の役職についた人の名前なら、どうやら『柳営補任』という史料で確認できるらしいので、明日にでも図書館に行って参ります。
      すでにご確認済みの資料でしたら、ごめんなさい。


        [5] 入潮 2006/08/29(Tue)-13:01 (No.146)
        すみません、反応が遅くなりました。
        詳細に調べていただいて恐縮です。ありがとうございます。深いご高察をいただいて、頭が下がります。

        宮崎女史の論文については初耳でした。今後参照させていただきたいです。

        大川が撒兵隊を率いた云々は、指の滑りでした。すみません。大川のいた北条の歩兵隊と、別の隊の撒兵が同じ作戦に出た、ということで。命令系統が明らかに違いますよね。ご指摘ありがとうございます。
        「撒兵隊を率いて」→「撒兵隊と共に」と訂正させてください。

        ただ、重歩兵=歩兵と軽歩兵=撒兵の違いも良く分からなかったり。装備は違っているようなのですけれども。歩兵が撒兵行動もしていますし、必ずしも名が体を現しているわけではないような気がします。文久改革と慶応時点での構成も微妙に違っていますし。自分はぜんぜん、組織制度の細かいところまでを見ているわけではないので、まだ何ともいえないのですが。

        「柳営補任」ですが、「寛政譜以降旗本家百科事典」で、「諸向地面取調書」「江戸幕臣人名事典」と共に参照されているものですね。見たいなぁと思いつつ、怠惰にして未見でした。

        大川も、せめて親父や祖父の名前ぐらい分かれば「寛政重修諸家譜」などでも引っかかる可能性はあるのかな、と思ったりするのですが。なかなか出自のしっぽをつかませてくれない、ニクイ男。
        あとは、「諸向地面取調書」が、家屋敷の土地台帳で、大名屋敷から下級幕臣の町屋敷にいたるまで、全ての住所と坪数が、御家人の50坪程度まで記されているとのことですので、何かわからないかなぁ…と思いつつ、サボっています。

        もしや御家人で譜代ですらないのかしら、と思ったりして。
        大川の場合、自分は出自の家格は低いほうが面白いなぁ、と思ったりしています。あるいは養子。そして大鳥に成り上がり者同士の同属意識を抱くという。

        まさか、幕府歩兵隊入隊時に、苗字を変えたとかじゃないだろうな…。

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愛でる会in大阪

いきなりですが、大阪近辺で、24日木曜日夕方お暇な方。お食事してやってくださいませんか。

関西に行くので、コレ幸いとタカエフ( http://plaza.rakuten.co.jp/aroa18/ )のあろあさんにお相手していただく予定なのですが。せっかくですので、他の方にもお声かけしてみたい、というダメモトで。恥ずかしながらの募集です。

あろあさんは大河新選組ファンでいらっしゃって、読書量が半端ではなく、京都新選組にもお詳しくいらっしゃいますので、新選組ファンの方も色々お話お伺いできると思いますー。
というか自分も勉強したい。
あろあさんはお優しい方なので、「大鳥を愛でる会」とか仰ってくださっていますが。江戸末期明治までターゲットを広げて何でもかんでも愛でたいと思います。

大鳥さん良く知らないけれど、なんとなく興味あるかなーとか、とにかく飲みたい食いたいしゃべりたいなど仰る方で、たまたまこちらをご覧になりましたら、ぜひおいでくださいませ。
今までロムだったし、そんないきなり知らない人のところになんて…と思し召しの貴方。貴方こそがターゲットです。

待ち合わせの概要は以下の通りです。

● 場所: JR大阪駅 御堂筋口
改札から出て突き当たりの喫茶店「デリカフェ」
時間: 8月24日(木) 19:00
(最初当方の間違いで25日としておりました。24日が正しいです。あろあさん、ご指摘ありがとうございますー!)

できれば、当日お昼ごろまでに、こちら( irisiomaru@hotmail.com )に前もってお知らせいただけると、人数が分かるので在り難いですけれども。直接、上の待ち合わせ場所にいらして下さっても歓迎です。
もし時間は遅くなるけれど来たい、と仰る方いらっしゃいましたら、時間とご連絡先を上までお知らせいただければと思います。

19:30ごろまでしゃべってそれから移動、という感じになるかと。

当方の目印は、上は白シャツ、下は黒ズボンという面白味も何もない格好です。
あと、こういう( http://members2.tsukaeru.net/irisio/neta/nanka_yamazaki.jpg )感じの表紙の本を、机の上においておきます。表紙は野州花。山崎有信編の「大鳥圭介南柯紀行」。ふはは。
(大鳥会にする気満々?いやそんなことは)

どなたもいらしてくださらないと悲しいなぁとかも思いつつ。そのときは一人であろあさんを愛でます。どちらに転んでも幸せだ。


    [2] あろあ URL 2006/08/23(Wed)-12:20 (No.137)
    先生!!
    大鳥と工部大生を愛でる会(増えてる)は、
    24日 です(笑)!

    ついでに、デリカフェはものすごく混んでるときがありますので、もし席が空いてなかったら入り口のとこで集合お願いいたします。
    もちろん入潮さんが山崎先生のご本を捧げ持っております(笑)。(勝手に)
    私も普通に白ブラウス+Gパン+フリフリの白日傘といった格好かと思います。
    以上、よろしくお願いいたします☆

    あ、ちなみに私は読書量もその吸収力も少ない単なる賑やかし要員です…先に謝っておきますm(_ _)m


    [3] ままこっち URL 2006/08/23(Wed)-23:05 (No.139)
    うわあーいいなあ。楽しそう(羨)
    明日長野に日帰り出張です・・・お2人が集合されている頃、丁度新宿に帰って来る予定です。
    楽しんで下さいネ。入潮先生は飲み過ぎに注意(笑



      [4] 入潮 2006/08/24(Thu)-03:31 (No.141)
      ● あろあさん

      すすすみません…。
      駄目ですね、自分。なんという致命的な間違いをしでかしていることやら。
      訂正、助かりました。言っていただかないと気づかずに過ごしてしまうところでした。
      ありがとうございましたー!

      デリカフェ状況も、がってん承知いたしました。予防措置、ありがとうございます。

      工部生を愛でる会。対象は格段に増えるのに受け皿はかなり小さくなってしまうような気が…。
      いやさ、そんなことではいけませんね。周知活動がんばりまっす。

      ● ままこっちさん

      と勢いづいてみつつ、今のところ愛でる参加者は2人のみという気配だったりして…。たはは。

      長野日帰りとは。お忙しいですね。高原の空気をゆっくり吸い込めるゆとりがあること、お祈りいたします。
      うむー。昨日は酔っ払ってなかったはずなのですが。素面で眠くてしでかす間違い。より性質が悪いです。


    [5] 風香 2006/08/30(Wed)-23:44 (No.147)
    はじめまして。大阪の大鳥ファンで、風香と申します。
    今頃ですが、愛でる会、お邪魔したかったです……
    かなり頻繁に覗かせていただいてたんですが、
    たまたま試験やら旅行やらに重なっていて、全く告知に気づきませんでした。
    「「今までロムだったし、そんないきなり知らない人のところになんて…」行ってても迷惑だったかな」
    とも思うのですが、そんな私がターゲットだったそうなので、ますます残念です。

    実は、こちらで大鳥さんのことを知って、2、3年間ずっとロムっ子でした。
    初めのきっかけが何だったかは思い出せませんが、
    ここで大鳥さんに出会えたのは幸せだったと思います。
    (正確には、その前に燃えよ剣は読んでいたんですが、
    大鳥さんのことは全く記憶に残ってませんでした……)
    自分が技術者志望なせいか、すぐ入潮さんの語る大鳥さんのファンになりました。
    工部大生のお話もわくわくして見ています。
    ……見てるだけで、自分で読んだのは大鳥さんの日記と新旧の伝記、それから武揚伝くらいですが。
    後は入潮さんの研究成果のかけらを見て楽しませていただいているばかり……

    本当にお邪魔なだけかもしれませんが、次の機会があったときにまた悔しがるのも嫌なので、
    とにかく今のうちにご挨拶と思って書き込みました。
    これで度胸がついたらまた時々書き込むと思うので、よろしくお願いいたします。


      [6] 入潮 2006/09/01(Fri)-01:39 (No.149)
      初めまして。おいでくださってありがとうございますー!
      平日で、しかも直前の通知というのがそもそもの間違いだったのですね。申し訳ないです。
      あろあさん、ロンリーワンなどとんでもございませんでしたよー。
      これはぜひとも、第2回をせずにはいられますまい。
      その際には風香さま、ぜひ、お姿現してやってくださいませ。

      しかも技術者志望の学生さんでいらっしゃいますとは。あ、目頭が熱く…。
      そこを見てくださる方がいてくださるというのは、やっていてよかったなぁというか。独りじゃないんだなぁ、というか。技術と歴史の双方に興味を抱いて下さる方というのは、貴重です。どうしても、戦争と政治ばかりが注目されて、技術には(それを理解するバックグラウンドが必要なだけに)関心が払われないまま、ということが圧倒的に多いですので。

      ニーズが少ない、というかニーズ皆無なのは覚悟の上ですが、やはり自分の供するなけなしのものを楽しいと言ってくださる方がいてくださるのは、何よりのモチベーションになります。ありがたいことです。なにかのお役に立てるかどうかは分かりませんけれど、大鳥さんや工部大生の生き様を明らかにすることが、技術者としての指標の欠片にでも繋がればいいなぁと思います。

      風香さんも、試験や演習や実験、論文などこれからも大変なことかと思いますが、頑張ってくださいませ。今後もお見捨てなく、お付き合いくださると嬉しいです。
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2006年08月25日

二つのモード

疲れました。心地よい疲れです。

資料収集と人にお会いするため、ということで、神戸に来ております。

資料準備やらなにやらで、1時間半ほどしか寝ていませんでした。
一方、神戸に朝の飛行機で向かうのに、途中で電車が信号機故障でストップしまして。おりしも時刻はラッシュアワー。二時間ちかく、人人人で埋め尽くされた、すし詰め空間で押し合いへし合いの苦行を強いられました。また暑くてクーラーがあまり効かず、みな汗ダラダラ。親父様方の汗が自分にぽたぽた落ちてくる状態のまま身動きできず。足も1cmも動かせない。JRは人を集団発狂させるポテンシャルを秘めていると思いました。

飛行機の時間ですが当然間に合わず。JRに、そちらの責任なので新幹線にタダで乗せろと交渉しようかと思いましたが。まず飛行機の後の便への振り替えができないか聞いてみると、「交通機関の遅れなど、自己都合ではないやむをえない場合は、遅延証明があり、席が空いていれば振り替え可能」ということでした。知らなかった。覚えておこう。これが1日1本とかだと使うのは難しいですが。
羽田-伊丹という1時間に1本ベースで飛んでいる便だったからよかったです。

神戸市立図書館で、洲本市史や徳島藩史・県史などの郷土資料で、稲田騒動のことを漁ろうと思っていたのですが。この遅れにより、頓挫。残念。

そして、人様にお会いするのに汗まみれの汚い体で申し訳ないと思いつつ。
大鳥関係の書籍を出版されたF氏をご訪問しました。

F氏は大鳥を長年追ってこられた方。その緻密な資料収集にかかる労力についてお伺いし、感無量の一言でした。

未だ公開されていない大鳥→富士太郎書簡についてや、大鳥→他者書簡は数あれど他者→大鳥宛書簡が「ない」という理由、学習院文庫の現状、出版社との関係、出版にまつわる今後のご活動や、文書解読におけるご苦労、大鳥の学習院辞職のエピソードなど。どうしようもなく濃密で、ひとつひとつ長年足で根気強く当たられてきたご本人でないとできないお話をお伺いでき、本当に学ばされました。

個人的に「山油編」に出ていたオイルシティの場所がわかったというのが嬉しい。いや誰も気にしないところですが。

印象的だったのは、出典をすべて記憶されており、明らかにしておられるということ。それが事実である、という裏を取るのに、すさまじい労力とコストをかけておられること。

「この1行書くのに何万円つぎ込んだのだろうと、よく思う」

と笑っておられましたが。それが現実で、そうでなければ、既存の認識にはない新しい像を、確実性を持って供給することは不可能なのだと思い知らされました。

「事実はなかなかつかめない。簡単に手に届くところにはない」

というお言葉は、ずっしりと重かったです。

一方自分は何について述べるにも、しょっちゅう「えーと、何に書いてあったっけ…」としどろもどろになりながら、もちこんだPCのPDFを漁るという体たらくでした。己の浅はかさを思い知らされた思いです。

「実際にその人が歩いたところを、自分もその足で歩くことによって、表現力が格段に増す」というのも至言だなぁと思いました。

実際、ひとつのことが事実だった、ということの裏をとる、証明することの難しいこと。書かれたものを見つけ、その原本がある場所を訪れる費用と時間。長年それらをつぎ込んで、コツコツと事実を蓄積していかれたその根気と集中力。

それでも、深くなればなるほど需要という点では乏しくなる。この出版で著者の方が利益を得るどころか、ご自身が出版のために相当な投入をしておられた。

そういった本職の傍らの長期の地道な作業の積み重ねと、経済的な犠牲も厭わずに世に出すべきことは出すありかたに、大鳥云々は置いておいても、F氏への尊敬の念を新たにしました。

一方で、世の中には、娯楽小説で広められた認識を、原典も確認せずそれが事実であるかのように焼き回しして大手出版社で出版し、何万冊も売り上げて稼いでいる方々もいらっしゃるわけで。世の中、不条理なものだと思いました。

…大方の人は事実は求めていないのだなぁ、と感じることがあります。

結局、1時からお時間をいただき、2時間もお話させてもらえれば御の字、と思っていたのですが。気が付いたらすでに6時を回っているという有様でした。


その後、大阪へ移動。お仕事帰りのあろあさんと待ち合わせ。
結局、関西大鳥ファンとのご縁をいただく夢は叶いませんでした。
やっぱり自分嫌われているのか、とか、関西の大鳥ファンはもう大河の終了と同時に消えてしまったのか、とか、色々ネガティブな推測をしてみましたが。「やっぱり平日だから」という身も蓋もない結論で、さくっと二人の夜へモードチェンジしました。

真面目モードが一転して腐女子です。いや、ちゃんと真面目な会話もしましたけれども。

最近時々真面目なこともありますが、それは一時的なものというか、普段はわざわざ腐るより、ナマモノそのままのほうが新鮮で美味しいと思うというだけで、本質は正真正銘の腐女子です。

ともかく、大阪飲み食いマップを所持、すかさず予約を入れてくださるあろあさんの周到さには、大変助けていただきました。頼もしい。

大鳥と工部大生は、キャッチコピーに劣ることなく存分に愛でてきました。初対面の方にはまず工部大生の話はできませんからな…

以下、すべて妄想会話です。まともな史料情報を求めてこられた方は、目を瞑ってスルーしてやってください。

工部大学校について。

・高峰はツンデレ。
・秀才志田はことあるごとに高峰に「バーカ」と蔑まれている。
・片山vs石橋対決(長州vs旧幕)。一人心を痛める曾禰(小笠原)。曾禰がもどかしい辰野。
・大鳥は最初、石橋に用務員に間違えられた。就任挨拶で旧幕フリーク石橋仰天。90度最敬礼。

そのほか、腐女子妄想。
・小/鳥 (「小」は屋敷が近所だった人)
・鳥/釜
・荒/鳥
・宇都宮戦後薩摩軍議で「大鳥の戦略、神のごときを褒めぬものはない」から、大鳥レア訳書の所有を競い合う薩摩乙女。活字ではなく生字を持っていた江川塾直弟子大山の優勝。

具体的な内容が知りたい方がもしいらっしゃいましたら、第2回愛でる会に、ぜひご参加ください。(…)


そんなところで。
合いの手も起点も絶妙なあろあさんによって、散々妄想突っ走りモードになりました。楽しかった。

……虚構の夢に浸って癒され、事実を求めるモチベーションを補完するというのも、また大事なことです。その辺が腐女子。

1日で言っていることがこんなに豹変しているわが身の浅ましさ。存在してごめんなさいという感じです。

いやさ、事実と虚構はキッチリ分けて切り替える。
TPOは大事です。うまく生きるノウハウはこの三文字アルファベットに集約されると思う。

posted by 入潮 at 03:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月28日

何度目かの上郡紀行 その1

帰宅しました。4日間、阪神・山口をふらふらしていました。
暑かった。強行軍で炎天下を歩き回ったので、この4日間で1ヶ月ぐらいの汗をかいた。新陳代謝激しくだいぶ毒素も出せた。いいリフレッシュになりました。

以下時系列で備忘メモを。

25日は上郡をご訪問。
もう何度目なのだろう。5度目ぐらいか。訪れるたびに、新しい発見があります。
今回もまた、「おらが村」さん(http://www5f.biglobe.ne.jp/~ootori/index.htm)に一日中、お世話になりました。いやこの日のアレンジを含めて事前から何かと手配していただき、感謝です。今回自分がやったことといえば、「おらが村」さんに付いて回っただけした。

● 小皆坂の滝

上郡の谷間を分け入った山中の奥。うら若き圭介、いや慶太郎が育った岩木の里。その奥に、岡山へ抜けるフットパスがあります。閑谷学校へ通う際に慶太郎が通った山道。

その途中の森閑な山中に、綺麗な滝がありました。地元では「おたきさん」と呼ばれ親しまれています。

大鳥生家から更に奥へ入ること約600m。徒歩で十分行けます。いちおう上郡観光マップにも記載されているのですが、訪れる方は滅多にいない模様。

いくつかある滝への道はなかなか楽しい。
すべて雑草と薮に覆い尽くされていて、歩くのも一苦労。道が消えかかっている。マムシが出るとのことで、足元が見えないのは恐怖。さらに蜘蛛がすさまじい。いくら払っても追いつかない。手と頭が蜘蛛の巣でべたべたになった。
けれども、途中しっかりと太い青々とした竹薮があったりして、歩き応えのある道です。

そんな感じで、ひび割れた石段を登る。せり出す岩盤、「落石注意」の看板に、本当にいつ岩が降ってきてもおかしくないと怯えながら上ると、水音が聞こえてくる。

そして滝をご神体とする滝神社に至りました。滝に打たれる修行僧などが拠って、そのための行者の小屋が名残として残っています。

滝は20mほどの落差。露出した岩が、ほとんど垂直にそびえていて、水量はあまりなかったけれども、落差以上の迫力がありました。周囲の緑も、深深と静かで心清められる。

ただ、落木が下半分を隠してしまっていたことが残念でした。落木を取り除いてほしいと「おらが村」さんは町へ掛け合ってくださっているとのこと。

閑谷学校へ行き来する幼き日の慶太郎。村を出発する際は、滝に飛び込んでさぁ勉強するぞと英気を養った。また、学校で他藩の寒村の子だといじめられ嫌なことがあっても、休みで家に帰る前にはこの滝に打たれ、滝つぼで泳ぎ、心身を漱いでいた。
そう思うと感慨もひとしおです。

「圭介は少年時代に過ごした故郷の景色が忘れられず、晩年に別荘に『滝の家』を作ったのではないか」と「おらが村」さんは仰っていましたが。それしかない、という気がしてきました。

生家からも歩いて来れる距離なので、生家まで来られたら足を伸ばしてみることをお薦めします。道はきつくはないですが、薮が凄いので、長袖長ズボン、スニーカーかトレッキングシューズが良いのではないかと思います。

入り口では、近くの家を直しにきた建築士の方が、トランペットを吹いていた。緑の山、青い空に金色のトランペット、響き渡る音。いいもんです。

● 赤松小学校

岩木に近い小学校。生徒数60人ほどだそうです。
玄関に大鳥の和歌「にしひがし 国こそかわれ かわらぬは 人の心の 誠なりけり」が飾られています。しかもその出典の説明「明治に活躍する郷土の偉人、赤穂郡岩木村細念(石堂) 大鳥圭介先生作」が、これまた嬉しいです。明治の功績にちゃんと目を向けられるようになってきたのだなぁ、と。

こちらの校長先生は「大鳥圭介書簡集」を編集された方です。元社会の先生で、郷土史にも造詣が深くいらっしゃいます。
おりしも、27日、この赤松小学校校長先生が講師となって、講習会が下の岩木公民館で開催される予定です(これを書き込む頃にはもう終わっているはずですが)。

知らずに飛行機の日程を羽田→伊丹、山口→羽田と先に組んでしまったのを後悔。マイレージって行き先変更できないんだもんな…。
校長先生にはご挨拶だけさせてもらいましたが、ちょうど会議があるということで、時間の都合でお話をお伺いすることができず残念でした。

小学校の横には、「ふるさと赤松絵図」という地図があり、ちゃんと「大鳥圭介岩木に生まれた」「大鳥圭介死亡」と年表に掲載されていました。赤松小学校の子供達はみんな大鳥圭介の名前に親しんで育っているんですよ…!


● 岩木公民館

大鳥生家から川を挟んだ向かいに、昨年建設された岩木公民館があります。その集会室に、大鳥の事跡紹介と写真展示をしてくださっています。

これらは、「おらが村」さんが自らできる範囲から整備してくださったもの。公的補助があるわけではないのに、そのご活躍には頭が下がります。

ただ、展示はほとんど個人で行っている。展示物はクオリティが必要だから、インク代の負担が大変との由。頭が下がります。

故郷の方々は保存のために並ならぬ労力を払ってくださっているのだなぁ、としみじみ嬉しくなります。

あと、昔この集落にあった岩木小学校の写真が掲げられていました。その岩木小学校の校歌。

「雲にそびゆる 船岩の
山のふもとに そそり立つ
学びの家は 世に高き
大鳥男の 誕生地」

…大鳥さん、岩木の小学校児童みんなに歌われ継がれていたみたいです。
岩木小学校は、赤松小学校・大枝小学校と統合され、新たに上でご紹介した上郡町立赤松小学校になったので、残念ながらもうこの歌詞を歌う学校は存在しておりません。

公民館は普段は鍵がかけられていて、勝手に入ることはできないのですが。
これから生家に赴かれる方、せっかくですので、「おらが村」さんにコンタクトを取っていただいて、この展示を見せていただけば、大鳥の実在感がぐっと増して良いのではないかと思います。(「おらが村」さんのページにMail to のリンクがあります)

そんな感じで。まだ半分もいってないですが、今日は眠気限界につき、沈みます…。
posted by 入潮 at 02:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月29日

何度目かの上郡紀行 その2

昨夜はポスト前に寝てしまった。踏ん張りが利かないなぁ。というわけで昼休み投稿。
続き行きます。このペースでは何時になっても終わらない。

● 生家について

これまで、所有権の所属について、いろいろと変遷がありましたが、結果として町役場に移ったとのことでした。
生家はやはり傷みが激しく、今のままで止めておくことは不可能で、取り潰すしかないということです。
立替についてはかなりの費用がかかり、フルに再現することは今の町予算状態では不可能。
その後どうするかについては、次の案があるとのことです。

1) 平地にして、すぐ傍の丘にある生誕の地記念碑を移してくる。
2) 規模を縮小して一室でも建設する。その際、まだ使える柱などを用いる。

やはり生家を再現しなければ意味がない、再現できないなら取り潰したほうがいい、という意見と、少しでも家を実感できる建物があったほうがよい、という考えと双方あります。

これらに取り組んでおられるのは、「おらが村」さんをはじめとした岩木の自治会の方々、それと、上郡で歴史遺産を有する各自治体の代表で構成される会の方々。今回お話しをお伺いして、これら地元の方々が、真剣に考えてくださっているのだということが良く分かりました。

27日の講習会も、「生家にしても、町に周知して、とにかく保存しなければならないと意識から変えていかねば」とのことで開催してくださった由。

生家という記念をなんとか目に見える形で伝えたいという活動を、地元の方々が精力的にしてくださっているという現状を目の当たりにでき、頼もしい限りでした。

● 生誕記念碑

上で触れた生誕記念碑は、大鳥生家から川を渡ったすぐ傍の、こんもりした小山の中に、ひっそりとあります。ここの緑は、何時来ても優しい。

以前に訪れたとき、土台に亀裂が入っていて、心配な状態でした。子供達が訪れたときに台座によじ登ったりして、崩れる危険性があったことから、自治体の方が町に補修を申請。町は台座にセメントを入れて補修してくださっていました。安全に関わると動きは早い、とのこと…。

建立者として、地元の前田家の方や、大鳥貝次郎、福本伝之助などのご係累、そして大国眞太郎の名前が刻まれています。大国眞太郎は兵庫出身の医者。学費に窮したとき、大鳥が補助したことがありました。大鳥圭介伝にも回顧談を語っています。

● 上郡役場町史編纂室

町史編纂室のご担当の方をご訪問。
現在、上郡の町史編纂室は縮小され、以前に大鳥の「堰堤築法新按」などの記事をお書きになっていた方はすでに異動され、ご担当の方はお一人になっていました。
けれども、この方が、大鳥の国府津の別荘を訪ねられていたり、琵琶湖疎水の大鳥→荒井書簡(「田辺君、ちょっと若すぎるけど疎水事業土木主任を任せようと思うけど、どうかな」と大鳥が荒井に相談したもの) の写真を取っておられたり。「堰堤築法新按」の原書である "Design of Mill Dams" をご存知で、大学図書館に所蔵されていたのを訪ておられたりで。すでに足で大鳥関係資料を集めて回っておられている方で、嬉しかったです。

そして、ちょうど「上郡町史」の解説の付録小冊子に、大鳥の世評として例の安藤発言の「戦下手」「連戦連敗」がありましたので、それを話題に、手持ちのデジタルライブラリ他で無作為に漁った大鳥にやさしい史料を何点かご解説させていた。「戦苦手」では決してない、同時代の評価を何点かご紹介したところ、納得してくださったようで、よかったです。

やはり故郷から公的な立場で発信してくださる方がいかなる認識を抱かれているかというのは、今後の影響力を考えても大きなものですので、今回色々お話させていただけたのは良い機会になりました。

● 古老木下氏ご訪問

「おらが村」さんのご紹介で、地元の古老の方にご訪問しました。大鳥の妹おかつの娘、よしののお孫さんに当たる方。御年92歳でいらっしゃるとのこと。なお、東京で大鳥の家に下宿し医者になった福本伝之助は、おかつの息子、よしのの兄です。
この方の、太平洋戦争時期における出兵経験を、お伺いしました。当時満州鉄道のご勤務から、当地で招集され、出兵してソビエト兵との戦闘や、乗っていた艦をウラジオストック近海で撃沈されて沈没、それを泳いで生き抜くという経験を経た方。その兵役体験。この談話こそが歴史だと思いました。お伺いしながら背筋が伸びきりました。
この方のお話自体が、戦争を知らない世代の人間にとっては、遺産だと思いました。大鳥云々は抜きにしても、いずれご本人の許可が得られるなら、まとめてみたいと思いました。

そのほか、木下家に伝わる、大鳥の六枚つづりの書画を拝見。屏風状になっているものです。洪水の際に、一度半分水に漬かったらしいですが、綺麗に補修されていました。書かれていた内容は案の定分かりませんでしたが、「おらが村」さんが下の吉田氏にご依頼して読んでくださるとのことで、期待大です。

● 吉田氏ご訪問

地元上郡の書家の方。この方も御年90近くでいらっしゃいます。
古文書の解読をされており、これまでも数多くの大鳥の漢詩や書画を解読されております。大鳥を尊敬して育ったという方。ご自身が出展された書画の展覧会の作品にも、大鳥の漢詩を用いておられました。

以前に「おらが村」さんがご依頼されていた今回の詩は、鶯を用いたもの。深い意味があり、この詩は「大変高級」という言葉を繰り返していました。いずれ「おらが村」さんがアップしてくださると思います。大鳥の書画がまたひとつ明らかになります。楽しみ。

すでに日も暮れて時間オーバー。残念なことにご挨拶だけ、というあわただしさで、後にせざるを得ませんでした。またじっくり、お話しお伺いしたいです。そもそもの計画が、欲張りすぎなんですよな…。


それにしても、木村氏、吉田氏などこうした方々が上郡にはいらっしゃり、過去の記憶を伝えようとしてくださっている。
そして「おらが村」さんのような方々が、形にして、我々に伝えようとしてくださっている。

連綿と流れてきたものを伝え、受け取る。
人から人へ、言葉やその場の景色を介して伝えるものは、深く、重いです。

そうしたものを目の当たりにして、何というか。インターネットは、大したものではないのだなぁと思いました。確かにその情報量はすさまじく、便利で、効率の良いものですが。こうした重みというものはインターネットでは伝わらない。

情報化社会で何が求められているかというと、インターネットのテクニカルな便利さ・効率良さと、こうした人から人へ受け継ぐリアルな重みの両方の部分の双方を、これからの世代に担わせることなのではないかと思いました。


というわけで、予定時間を大幅にオーバーしてしまい、ご家庭のある「おらが村」さんに多大なご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ないです。
それだけに、得たものは大変大きく、こうやって文字にすることも言いたいことの1/100にもならない感じで。今後、どうやってまとめていこうか、という感じです。、

感慨もそこそこに、時間に追い立てられたまま神戸へ戻って、夜行バスに乗り込む。阪神を後にし、一路山口へ向かいます。
posted by 入潮 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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