2006年09月01日

山口市徘徊 その1

8月26日。
神戸→山口を夜行バスで参りました。
3列リクライニングシートのバス。普通の四列シートより1000円ほど高いのですが、しっかり眠れるので体への負担はだいぶ楽です。それで早朝に着いて翌日は1日をフルに使えるので、体力を含めた翌日のパフォーマンスを考えると、かなりお得な手段だと思います。
一昔に比べて夜行バスもだいぶ整備されました。利用者も増えたのではないでしょうか。JRも殿様商売でうかうかしていられない。

山口の到着地と宿は、駅前ではなく、湯田温泉にしました。駅からは車で10分ぐらいの位置です。
湯田温泉は新山口駅や空港方面、下関や秋芳洞方面にも直接バスが出ているので(空港は予約必要)、付近の観光拠点にするにも便利だと思います。

この日の行動は以下の通り。

● 遊楽里(ゆらり)

朝6時からオープンしている湯田温泉のスーパー銭湯形式の外来入浴施設。650円。塩サウナと高温サウナ、打たせ湯に露天風呂ありと、優秀な設備です。
湯田温泉はアルカリ泉。汗と埃だらけになった肌がツルツルになります。
こちらで早朝の温泉に入って、サウナで汗をかいて、夜行明けの眠気を払ってリフレッシュ。
すると、各施設が開く時間になるので、時間的にもちょうど良くなります。

● 山口県文書館

バスは「美術館前」で下車。県立図書館の構内にあります。ウェブページも地図も県立図書館とは別にあったので、最初は別施設かと思った。実際、管轄は別部署のようです。県立図書館については、翌日分にまとめて記述します。

文書館のWebはこちら。(http://ymonjo.ysn21.jp/) 所蔵文書が前もって検索できるので便利です。ただし、膨大な数の諸家文書についいては、目録などが作成されて検索に反映されているのかどうかは分からない。(多分まだではないかと)

戊辰戦争関係では、奇兵隊や干城隊などの長州部隊の日記や記録が主ですが、他、色々と面白そうなのがありました。
分捕り品から出てきた幕臣の方の日記。一日の行動が非常に詳しいのですが、4月12日、市川から始まって4月19日で「伝習兵」の文字が見えた瞬間に終わってしまった。ここで分捕られてしまったのか。もしずっと生きていてくださったら貴重な語り部になってくださったのにと思うと、くおぉ、という感じ。

あと、「杉浦弘蔵戊辰日記」。これは「維新日誌」に収録されている杉浦清介の「苟生日記」と同じ内容なのですが。文書館にあったものは榎本が宇和島藩主の伊達宗城に送ったもので、その写本と思しきものです。榎本から伊達宗城へ宛てた書簡が付いていました。多分写しが残されたもので、榎本自筆ではないと思います。

「苟生日記」はご存知、愚痴悪口雑言がひたすら連ねられた事務方の記録。榎本さんに対する苦言というかいちゃもんというかがあり、誰に対してもぼろくそな感じなので、榎本さん、読んでどう思ったのだろうと思っていたら。
「戦場事に望むる者には無にて只々此処彼処ブラツキ居なる者にて可有記事も飲酒空謀之事而已にて更に観るべきもの無御座候」
という一文が榎本さんの書簡にあって、笑ってしまった。

その他、奇兵隊の方の「戊辰日記」とか、「土佐藩戊辰戦争日記」とか、ちゃんと読むと面白そうなのがありました。奇兵隊関係は、北越戦のものが多かったです。それと、「戊辰戦争一件取集」で、「越後下野陸奥戦記」というのがあって大田原や白河戦の様子が詳しい模様。さすがに箱館関係は少なかったです。

あと、彰義隊寺沢の「幕末裡面史」の写本があった。降伏会見の様子が詳しいのだけれど、流れがちょっと違うので、どこまで本当なのだろう。
そして降伏決定時における大鳥がかっちょいいです。どこまで本当なのだろう…。

1時ごろまでしか時間を取っていなかったので、ピンポイントで何点か当たっただけだったのですが。じっくりと時間をとって数日張り付いたら、また面白い結果になるのではないかと思いました。

● 歴史民俗博物館

県庁の傍、旧藩邸門の前にあります。
考古学的なものとか米作の農器具の展示が主で、維新関係の展示は全く無いのですが、益次郎の一生が20分間にまとめられた館内のビデオがありました。マスジ、愛されているなぁ…。

展示物からはとても計り知れないのですが、この博物館が、圭介→益次郎書簡のオリジナルを2通所蔵しています。どちらも益次郎が江戸にいた頃のもの。

すでに鐘ヶ江さんがご紹介してくださっているものなのですが、一つが年賀のご挨拶。もうひとつが、大鳥が大山に、山根秀策という人が「昨日トーネルえ参り候所、帰り候途中にて、シケレーフル請取帳紛失仕り候由大に心配致、此段先生え申上呉候様申出候」と、金子請取帳を紛失して心配していたとお知らせしています。

この「シケレーフル」はミニエー銃のこと?「トーネル」というのも、人名なのか地名なのか、わからん…。

大鳥にとっては、適塾の塾頭だった大村は大先輩。大村のことを「先生」と呼んでいます。どちらの書簡からも、大鳥と大村の親しげな関係が伺えて、その後の人生の道の違いぶりに思いをはせてしまったことです。

● 菜香亭

炎天下直射日光の中、てくてくと歩くこと30分弱。純和風の大きな建物が聳えます。
もともと、毛利家の料理人だった斎藤幸兵衛が、明治10年ごろに八坂神社の一角に料亭を開業したもの。その料亭を気に入っていた井上馨が、斎藤の「斎」と、自分の「馨」の読みである「さい」と「こう」の漢字を当てはめて「菜香亭」と命名したとのこと。
その神社から、県が7億の文化財保護の予算を投じて、現在の場所に移築したとのこと。移築できたのは半分程度だったとのことですが。その歴史文化保存にかける意気込みには頭が下がります。今は山口市が管理しています。

こちらの見ものは、長州出身者を中心とした政治家らの残した書画。先代の主人が、この菜香亭にやってきた著名人に頼んで書画を揮毫してもらったものが、現在大広間に展示されています。

日本家屋の庭園と広間が、平静で静かで荘厳で、書画と畳のにおいに囲まれて、しばらく魂抜けたように見入ることができます。

木戸さんの書画「清如水平如量衡」。「宗史、循吏列伝 葉康直伝」にある、葉康直の人柄を評した言葉とのことですが。ここで揮毫したのだとしたら、木戸さん、よほど落ち着いた心持ちを得ることができたのだなぁと思っていましたら。木戸さんが亡くなったのが明治10年、菜香亭が出来たのも10年ということで、もしかしたら伊藤辺りが持っていたのを寄付してくれたのかもしれないとのこと。

二つ目の「如」が小さく書かれていて、なんだか書画にタメというかリズムがありました。
自分、書道は小学校の授業でしかやったことなく、書のうまさが分かる教養なぞ皆無なのですが。この中では木戸さんが一番綺麗というか、芸術的だなぁと、見ほれてしまいました。
木戸さんって、普通の書簡でも手が独特で面白い。

あと、山市が「万象具眼」と書いているのですが、これが、1文字目が激しくにじみ、2文字目が崩れていて、どうにも愛嬌があって、可愛い。
「すべての物事の是非を判断し、本質を見抜く能力を備えている」という禅の言葉。
字にも句の選び方も、それぞれの特色があって面白いです。

それから、河東碧悟桐の自由律詩。いくら自由とはいえ、字まで秩序なく躍りまくっていた。あのそうそうたる面々の菜香亭の書画の中で、これを呈するのは度胸のいることだろうに…とまじまじと見入ってしまいました。

で、大鳥の書画。二つ続きの大広間のどちらにも飾られていなかったので、最初は焦りました。その横の小部屋にあった。
「天意憐迷艸 人間重晩晴」
力みのない、楽しんで書いた感じです。「艸」の字がくにゃっとしていて、遊んでいる感じがします。ここで書いたのだとしたら、よほどくつろいでいたのだろうなぁと。
大鳥が菜香亭に来たのかどうか。みちさんをつれて長崎の工場視察に行く途中に寄ったか。あるいは下関条約のときにでも来たのだろうか。
聞いてみましたら、「当時、毛利家当主を会長とした地元有志出資団体が文部省に負けじと私立学校を設置して、中央から超優秀な人を先生として引っ張ってきたり学校講演に招いてたりして地元教育に力を入れていたので、教育者として講演に招いた可能性が考えられます」とのこと。うーむ。

それにしても、こちらのそうそうたる揮毫者たち。四書五経をはじめとした漢学から取っているのでしょうが。こうした漢詩を、頼まれてサラサラと出してくるあたり、あの時代の方々の教養の深さというのをしみじみと思いました。

その中で、竹下登元首相が、歴代の首相が揮毫しているのならと、自分も書いて送ったとのことなのですが。
「わが道を行く」。…竹下元首相がもしここを実際に訪れていたら、先人の筆の重みに打たれて、もうちょっと慎重に揮毫したのではないかと思う。

そんな感じで、菜香亭。歴史を作った人々の重みに満ち溢れている一方、もう料亭としての機能はないですが、広間だけ貸し出してケイタリングで宴会なども出来る模様。一般の方の結婚式の披露宴などにも使われています。バスの運転手さんもここで結婚式をやったと仰っていた。けっこう庶民にも近しい感じで開かれています。

奥のほうにある、従業員の部屋とされていたところが、なんとも落ち着く。余り誰も来ないので、そのまま昼寝してやろうかと思った。

● 木戸神社、木戸生家跡

菜香亭から県庁のほうへ戻り、さらに先へ。だいぶ疲れてきて、PCとコピーの束の重量がずっしり肩に食い込む。荷物アリで長距離歩くのは無謀でした。

「文武両道の神 智、徳、体育に秀でた人」として祭られていました。体育もそうなの?
ちなみに、病没した際、「死を前にこの地にあった本宅、山林などを地区民に与えて、子弟育英の資とするように言い残した」ということで、この地の人々が感謝の意味も込めて神社を建てたということ。
感謝からお祭りをしたり。鎮魂やお慰めのために祭ったり。日本の神社のお祭りの対象には、いろんな意味があって面白い。

(一神教が土壌の方々はこれに違和感を覚えるらしいけれども。そもそも、日本のカミと西洋の神(God)という全く異なる概念に同じ言葉を当てはめるのが間違いで。人間だろうが災いをもたらす悪霊だろうがご先祖様だろうがトイレだろうが、なんでもかんでも祭りの対象にしてしまう日本人の懐の広さは、ちゃんと説明できるようになっとかんといかんと思う。宗教は嫌いなんて斜に構えていても、誰も納得してくれず、日本の文化土壌が軽視されるだけですんで)

家の後は碑が立つのみで、近所の家は普通の民家のようでした。…生家が保存されているかと思って覗いてしまった。ごめんなさい。

● 湯田温泉

夕方温泉街に戻ってきて、チェックイン。湯田温泉の中にも、中原中也記念館や高田公園、「臨野堂」など高杉晋作や桂小五郎の密談の茶屋や、旅館で山田顕義の嫁の出身の「瓦屋」跡など。前知識なしに、行ってみて初めて、へー、そうなんだ、と思うところばかり。
他、足湯めぐりなど観光気分で徘徊できます。
おおすみ歴史美術館は良いということを教えてくださったのだけれども、湯田温泉に帰り着く頃にはすでに夕方で、閉館していました。残念。
あと「圭介」という名前の寿司屋があった。

・ 高田公園
七卿の碑、所郁太郎の顕彰碑、井上馨の銅像などがあります。
中原中也の詩碑があるのですが。

「あゝ おまへはなにをして来たのだと…吹き来る風が私に云ふ」

この一文が、どうにも身に染み込んで忘れられません。しばらくまとわりついて離れそうにない文句だ。

・ 亀の湯
湯田温泉には共同浴場がないとネットで見ていたのだけれども、歩き回っていたら、あった。松田屋ホテル脇の南北の通りにあります。共同浴場大好き人間なので、入ってみる。350円。小さいけれどサウナがありました。水風呂がぬるかった。壺湯というのがあり、浴槽がいきなり低くなっている。あらかじめ教えてもらわないと嵌ってアゴを打つから注意。シャンプーやタオルは自分で用意する必要があります。

・足湯
その名のとおり、足だけ漬ける。湯田温泉に全部で5箇所あります。地元の方がスリッパでやってきては、朝から夕方までなにかしらしゃべっている。井戸端会議の様相。オリエンテーリング的に全部制覇するのもよいですが、靴下+靴で行くと、足を拭くのがうっとうしくなる。サンダル必須。
地元のおっちゃんおばちゃんと交流を深めるにはいい場所です。思う存分、長州弁が堪能できる。その地に行くとその地の言葉が肌で分かるのが、いいですな。


そんな感じで、山口市内をぐるぐる回った1日でした。

交通について。バスは本数が少ないし、流しのタクシーにもめったに出会えないので、前もってしっかり行動予定を立てておく必要があります。バスのタイムテーブルはネットで拾える。大体の目的地は歩けない距離ではないけれども、時間効率が悪くなります。
立ち寄る博物館などでタクシーを呼んでもらって次の目的地へ向かうのが、一番早いかも。

基本的にバスで回っていたのですが、土地勘がなくバスマップを持っている訳ではないので、方向から適当に乗って行き先を聞いてみるという無謀なことを繰り返しました。それで、4回バスに乗って、同じ運転手さんに3度も出くわした。偶然なのか、それだけ本数が少ないということに過ぎないのか…

町を歩いてそこここで、維新期の歴史に触れるということにかける町の意気込みが感じられて。ファンにはたまらない感じなのではないかと思います。
ろくに長州のことを勉強していないのが申し訳ないというか、もったいない感じがついて回るのでした。

[2] Q太郎 2006/09/02(Sat)-11:39 (No.151)
その約1週間前に、山口・萩・上郡(?!)に行ってました。
「圭介」は湯田でしたか。
初日山口某所で側面に「味処 圭介」とデカく書いたバスを見て、同時期に山口(の別の場所)にいらしたしのさんに思わずメールしてしまいました。
山口・萩はレンタサイクルもいいようですね。
私は使いませんでしたが。
なぜなら台風だったから。
山口駅で萩行きのバス待ちの間に自販機で買ったカロリーメイトが良く冷えていたのが印象的でした。
次回は秋・冬に行って、カロリーメイトが温まっているか確認したいと思います。

[3] 入潮 2006/09/06(Wed)-12:36 (No.152)
お返事遅くなりました、ごめんなさい。
なんだか、8月後半、山口、そして上郡が熱かったみたいですね。えぇ、気温以上に。ニアミスに歯噛みです。

「圭介」はお寿司屋さんっぽい暖簾がかかっていました。ランクが高い感じで、一人で入るには、ちょっと勇気がでませんでした。
…そうですか。山口は、美味しそうな「圭介」が走り回っている土地なんですね。

確かに自転車があれば、観光には一番便利な配置でした。菜香亭にレンタサイクルがあったのですが、市内では一番端っこで、また戻しに行って市内まで戻ってこねばならない手間を思うと、使えなかったです。湯田温泉にあれば便利なんですけどなー。

台風直撃とはご愁傷様でした…。交通機関も心配だったことと思います。ご無事だったようで何よりです。

冬に暖かいカロリーメイトというと、志は素晴らしいかもしれませんが、実態はあまりウェルカムではなさそうですなー。コーヒー味ならセーフでしょうか。

posted by 入潮 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月02日

勇敢な英雄 大鳥圭介 その1

あろあさんが啖呵切ってくださったので。なにも準備しとかないと、怠け者めと怒られそうなので、いくつか上げてみようと思います。

勇敢で英雄な大鳥。

…血迷ってません。たぶん。
自分、安藤や沼間が残したように、大鳥が「戦下手」でも「連戦連敗」でいいと思ってました。
大鳥の価値はそれでなんら変わらないし、むしろそれが味、と思っていました。
それで、最初は自分も勘違いしていて、局所的な戦闘は下手でも、大局を見る戦略目はあったのだとか弁護していました。

ただ、どうも、同時代の証言や文書を見てきた限り、上の評は、事実に相違していると思うようになりました。

過大評価は痛いですし、現実と願望の区別はしっかりくっきりつけねばいかんわけですが。

それでも、大鳥について、小説やドラマ、読本系の既存メディアと、当時の世評や記録との、個人的贔屓とは別にしても、やっぱり違和感があるわけです。

大鳥は、有能かつ勇敢、箱館では敵味方でも稀有な戦闘数を経た、練達した現場の戦闘指揮官である。
圧倒的に不利な条件を多数含みながら5割以上の勝率を上げている。
撤退時もいつも最後まで踏みとどまって味方を逃がしている。
現場の作戦指揮から戦略立案と防衛構想まで、上流から下流まで驚異的な仕事量をこなしている。
一方、勝ち戦は自らの記録として誇示せず、ただ負け戦のみを自らの責として淡々と記した。

そういった姿が、同時代の各史料を当たるごとに、浮き彫りになって困ってます。

なんでこうなるかというと、国会図書館のデジタルライブラリ(http://kindai.ndl.go.jp/index.html)で「大鳥」とか「戊辰」とか「会津」とかで検索して引っかかるところ、片っ端から目を通してみてください、と言えばそれで終わるのですが。そこまで労力をかけて下さる方もまずいらっしゃらないだろうので、グダグダしいですが、いくつかピックアップしてみます。

● 「明治名誉略伝」 福田恒久編 明治12年

明治の世に著名な「英雄豪傑」の方々を紹介した、手書きの列伝です。漢文で著者の序文があります。主に維新期に活躍した方々25名について略伝を綴っています。この中に「大鳥圭介公略伝」ということで、大鳥の紹介があります。

「資性温和にして頗る計略あり。兵を佛人に学ぶ。全国洋制の兵法を演習するは君を以て始めとす。維新の役其当千六百人を率ひ野州に至り結城を攻む…君撒兵を用ひ狙撃す。官軍抗する能わず」
「函館に至り連戦皆捷を得る。…君等大に奮戦し屡官軍を悩す。君兵を指揮する臂の指を使ふ如く、操縦意の如くならざるなし。且率ゆる所の兵は曽て練兵を佛蘭西人に学ぶもの是を以て部下精鋭至る所官軍或窘む。官軍或は君を称し隠然一敵国となす」

大鳥の性質は温和ながら、すこぶ計略があった。実地の兵法をフランス人に学び、洋式の兵法を演習したのは大鳥が初めてだった。(本当はこの前に英式伝習がある) 維新に際しては1600名を率いて野州にいたり、結城、小山を攻めた。大鳥は撒兵を用いて官軍を狙撃し、官軍はこれに対抗することが出来なかった。
函館に至ってからは連戦でみな勝利を得た。大鳥らは大いに奮戦し、しばしば官軍を悩ませた。大鳥が兵を指揮する様といえば、肘が指を使うごとくに操縦は自在で意のままにならぬことはなかった。かつ、率いた兵はかつて錬兵をフランス人に学んだもので、部下は精鋭、いたるところで官軍を苦しめた。官軍は陰ながらしかしはっきりと、大鳥を称して一つのの敵国とまで見なしていた。

この評は当時一般に広まっていたらしく、これに類する記述は、明治6〜9年の「近世事情」や明治19年の「明治太平記」にもあります。


● 「高名像伝」 子安信成編,石田渓岳書画、明治13年。

約100名の人物が、各人、イラストと共に見開き2ページずつぐらいで紹介されています。

「圭介其は元尼ヶ崎商家の子なり。錬兵の術江川氏に学び其の術に長ずるを以て幕府に徴さる。幕府の斃るる、伝習兵一隊を率ヰて脱走し、野総の間に戦ひ日光の地方に出没して屡々官兵を敗り、軍略大に著る」

「尼ヶ崎商家」→尼崎の飛び領地である上郡岩木の村医者、「江川氏に学び」→江川氏で講師として教授しと、細かい表現が違っていますが。

幕府が倒れるや、伝習隊一隊を率いて脱走して、野州に戦い、日光地方に出没してしばしば官兵を破って、軍略は大いに著しかった。

ここでも野州の活躍。日光では直接は戦闘はしていないので、今市戦のことかと。今市も、今市第1次、今市第2次と敗北した戦闘だけを大鳥は南柯紀行に書いていますが、実際は栗原、柄倉、高百村など、さらに数戦行っていて、規模は小さいながら勝っています。

この書が世に出たとき、大鳥は工作局長。「後徴されて諸官を歴任し工作局長となる」としっかり紹介してくださっています。それだけ有能だ、という書き方で、二君に仕えたとか説を曲げたとかいう詰りは微塵もありません。

大鳥が薮の中を這いずっている感じのイラストが、デジタルライブラリのほうで見れます。
今市第2次戦の大谷川で逃げ回っているところはそんな感じなのかもしれない。


● 「明治六雄八将伝」木滝清類著、明治16年

その名の通り、六人の英雄、八人の将、合計14名を紹介。六雄には徳川慶喜、勝海舟、大鳥、西郷隆盛、江藤新平、前原一誠が。八将には有栖川二品熾仁親王、島津久光、黒田清隆、西郷従道、山田顕義、榎本武揚、谷干城、板垣退助、というラインアップ。六雄と八将をどう分けたのかは良く分からないところでありますが。

これの大鳥の持ち上げ具合がすさまじい。全文書き写してもいいぐらいです。まとめられなくて困る。

「古今英雄豪傑少なしとせざれども、其一方の将に常に士卒と共に進て敵陣に入て闘戦する者は甚だ少なし。況んや其士卒に先立ちて敵陣に進入する者に於てや殆んど稀にして、加藤清正、福島正則等に於て僅かに見るところなり。何に由て然るか剛毅非常なる将に非ざるよりは能わざるところなるを以てなり。尤も将の先陣に進むは実に危険なる事なりと雖も、将にして先陣に進まば士卒の勇気を増し、其敗す可きの戦争も却て其勝を得るあるは、亦疑ふ可らざるの事実なり。聞く、公(大鳥)の士卒を卒ひて戦場に望むや常に先陣に進み敢て危険を冒して敵陣に切り入れりと。

嗚呼公は維新の際、賊軍中に於ては堂々たる一方の将なり。然るにこの如く其れ危険を侵して先陣に侵入するは実に其剛毅感ずべき者あり。其王師に抗したるの罪は固より大なりと雖も、其の剛毅の甚だ大なる之を加藤、福島に比するも亦決して恥じざるの人傑なり。士卒或は諫めて曰く、君にして先陣に進むは危険の至りなり。故に少しく後ちに進み給へと。公之れに答えて曰く、我萬全必勝の籌策胸中に立て而して後ち先陣に侵入す。故にもし萬全必勝の籌策胸中に立たざる時は我れは敢て先登せざるなりと。嗚呼公は固と剛毅、人に優て且つ籌策に富むや斯の如し。」

古今に英雄豪傑とされている者は少なくはないが、本当に将が士卒と共に敵陣に入って戦闘する者は少なく、さらに士卒の先に立って突入する者は稀である。加藤清正、福本正則ら僅かに例がみられるだけである。
それで、著者は、大鳥が士卒を率いて、常に先陣に進む危険を冒して敵陣に斬り入っていたと聞いた。

大鳥は賊軍において堂々たる将だった。危険を冒して敵陣に進入するというのは実に其の剛毅に感じるところがある。朝廷に歯向かった罪は大きいが、その剛毅さは、加藤や福島に比べても決して恥じるところのない傑物である。
大鳥の配下の士卒は諫めて、あなたが先陣に進むのは危険の至りです。少し後ろから進んでください、と。
大鳥はこれに答えて、自分には必勝のはかりごとの策が胸中にあるから先陣に立って進むのだ。もし策がなければ先には進まない、と。ああ、大鳥の剛毅さが人に優れて、かつその策に富むということ、かくのごとしだ。

…私、主語は間違えてないですよね。

大鳥、また部下に諫められている。
これは木滝氏がさまざまな戦中の談話を聞き集めて書いたものだと思うのですが。
いや、大鳥がいつも危険なところにいるのは事実なのですけれども。それで部下に怒られたと自分で言っていたこともあるのですけれども。…だれが木滝さんにこの大鳥のことを語ったのかが知りたいところです。

「而して予輩は公の剛毅実に驚くに堪へたるの一事を聞知せり。何ぞや或る戦争の時、大砲の弾丸公の傍らに飛び来り以てここに破裂せるも公は泰然として動かず、其の破裂丸を我が方に引寄せ、以て煙草の吸殻を其の破裂丸中に叩き入れたりと言う」

ある戦争のときは、大砲の弾丸が大鳥の傍らに飛んできて、破裂した。それでも大鳥は泰然として動かず、その破裂した破片を自分のほうに引き寄せて、煙草の吸殻を破片の中に叩き入れたと言う。

五稜郭で、官軍から飛んできた弾丸の殻を花瓶にしたというのは、丸毛か誰かが語っていたけれども。これは初耳です。不発で火薬が残っていたらどうするんだろう、大鳥…。

「明治元年四月十七日、常陸結城の役に弾丸飛来て公の着せる陣羽織の袖を貫きたり。其の時公陣羽織の裏を示し衆人に謂て曰く、今日は即ち先主家康公の命日なり。故に我此危難を免れたり。若し此事昨日か明日なれば我れ必ず其弾丸の為に死なん。然るに幸にして家康公の命日に際し其弾丸の吾が身体に当たらざるは、是れ勝戦の前兆なり。来ざや進めと号令を掛けつつ、先陣に進み、以て其役に大勝を得たりと云ふ。嗚呼此れと云ひ彼れと云ひ、公の所為は実に非常の豪傑たるの振舞なり」

4月17日の結城の戦いで、弾丸が飛んできて大鳥が来ていた陣羽織の袖を貫いた。この時大鳥は陣羽織の裏を示して、みんなに、今日は家康公の命日だから打たれる危難を逃れることができた。もしこれが昨日か明日だったらこの弾丸のために死んでいただろう。家康公の命日に弾丸が当たらなかったということは、これは勝ち戦の前兆だ。さあ進め、と号令をかけつつ先陣に進んで、大勝利を得た、とのこと。

…だから誰だ、これを語ったのは。浅田君か。
陣羽織に穴。箱館決戦のときだけではなかったようで。その悪運。家康公の命日だから、なんて非科学的なことを本気で信じているような人でないことは確かだと思うのですが。戦に際しての盛り上げパフォーマンスなんでしょうな。このエンターテイナー…。

「一度反旗を翻へして王師に抗したれども、過ぎて即ち改むるに憚るなきは、眞の英雄の英雄たる所以なり。君の君子の過ちを改むるは猶月日の蝕のとしと雖も、此の英雄豪傑の過ちを改むるも亦猶日月の蝕の如くにして公の英雄の英雄たる所以、豪傑の豪傑たる所以なり。既往は咎めず今日政府に尽くすところを以て其罪を贖ひたりと謂うべし。…此れは恐す可きも彼は恐ず可らざる者ありて存す宜なる哉。政府に於て此れは其の降を許すも、彼は皆其罪に処し、以て其の首を斬りたるや、 嗚呼公は其勇万人に勝り明治の天下に比すべき者殆ど稀なり」

さらに、降伏・釈放後、身を改めるのを憚らなかったというのは、真の英雄中の英雄だ、と。今日政府に尽くすことをもって、反逆の罪を贖った、豪傑中の豪傑だと。政府に降って、其の罪に服して、兵の命を救うためにその首を斬られようとするその勇気は、万人に勝る。明治の天下に比べる者もほとんど稀だ、と。

ものすごい尊敬されています。
新政府側から見た視点とはいえ、これが当時の世評、認識なのではないでしょうか。
こういうのを見ると、現代の人間が好きな、二君に仕えずとか、痩我慢の説とか、なんじゃそら、と思ってしまうのですよな…。

それから、著者は、大鳥の脱走、反抗は、あくまで徳川の禄を食んでいた者が徳川に忠義を尽くして王師に抗ったのだ、これはその罪は軽くはないが、当時の情勢から見ればやむをえないのだ、江藤や前原や西郷の反乱とは違うのだ、ということをつらつらと述べています。明治16年当時まだ強かったでしょう「賊」というレッテルについて、ひたすら弁護しています。
このなりふりかまわない弁護っぷり、熱烈シンパっぷりが、やはり浅田君を髣髴とさせる…

更に極めつけ。

「されば、其の職宜しく武官に適す可きに今其職文官たり。是れ公は文事にも亦長ずるの人なるに因ると雖ども、之を武事に比較するときは武事の方はるかに其の右に在るべしと信ずるなり。故に予輩は公の為め庶幾くは武官に転任あらんを希望するなり」

大鳥の職は武官のほうが適しているのに、今は文官だ。これは大鳥が文事にも長けている人であるからだといえども、武事のほうがはるかに大鳥に適していてると著者は信じている。よって著者は、大鳥が公のために、武官に転任することを希望するのだ、と。

…なんか、ご本人が聞いたらカラカラに干からびて風化してしまいそうなので、この書が大鳥の手元に届いていなかったことを祈ります。この著者、陸軍で大鳥が「思は甚だ不本意」と述べたとか、大鳥が陸軍をいうことを一切口にせず、陸軍から逃げ回っていたことは、知らなかったのか、それを知ってあえてここまで扇動しているのか。
どちらにしても、すさまじい、の一言に尽きる文章でした…。
他の六雄、八勝の人は、もうちょっとテンション低かったです。


● 「徳川十五代記」清水市次郎編、明治19年

その名のとおり、徳川の興亡を綴った徳川記。徳川の祖先、桶狭間や長篠、関ヶ原や大阪夏の陣・冬の陣から詳しく綴られている。維新関係では筑波の乱、長州征伐、彰義隊についてが触れられているのですが。これに「 大鳥等総野に官軍と戦ふ事」と一章が費やされています。

「四月十七日此日は東照宮の祭日なれば、今日こそ華々しき一戦をなし西国武士の肝を挫かんと勇気日ごろに十倍し、小山の宿外れに兵を出して待所…脱徒の筒先鋭く両家(井伊・藤堂)の兵忽ち打屈められ既に危く見えし処に、壬生藩援兵として間道より押来るを、脱士等俄に隊を分て之に応じ暫く挑み戦ひしが、官軍終に打負散々になって逃げ走りければ、脱士等の兵益々盛ん」

4月17日は東照宮の祭日。この日こそ華々しい一戦を行って、長州薩摩ら西国の武士の肝を挫いてやろうと、勇気は日ごろの10倍で、小山の外れに兵を出して、彦根・藤堂の藩を打ち負かした。官軍の壬生藩が援兵としてくるも、脱走兵は隊を分けて応じて戦い、官軍はついに散々に打ち負かされて走り逃げ、脱走兵の勢いはますます盛んだった。

これは、大鳥の名前こそ出ていませんが、明らかに大鳥指揮の小山第三次戦についてです。
一方、南柯紀行では、兵が酔っ払っていたところにいきなり戦が始まったとか、ランドセルをなくしたとか、そんなことばかり書いている。大鳥は、ことさら、戦闘の困った点ばかりを強調して、他の史料では明らかに勝っているのに、そういう勝ちの印象をもたらさない書き方をするのですよな…。自分の勝ちはわざわざ書かない。謙虚というかなんと言うか。

「(宇都宮にて)既に官軍の援兵次第に進み来る由注進あるにぞ、主将大鳥圭介やがて手配りを定め官軍を挟み撃にしたれば、援兵の官軍前後より敵を受け已に危うく見えし処に、薩長大垣の軍雀の宮より馳来り味方を助けて憤撃せしかば、流石勇敢の脱士等つ遂に支ふる事能はず繰引に退き…両山の兵を纏めて一手になり四方より当たって奮戦なし、辛くも一方を切抜け日光山へと走りし」

4月23日の宇都宮戦。既に官軍の援軍が次第にやってくるという中心があった。大鳥は手はずを定めて、官軍を挟み撃ちにした。官軍の援軍は前後より敵を受けて危ういところまで追い込まれたところ、薩摩・大垣兵の援軍が雀宮より馳せ来て味方を助けたので、流石の勇敢の脱走兵士も支えることが出来ず引いた。明神・八幡の両山の味方の兵を纏めて奮戦して、一方を切り抜けて日光山方面へ落ち延びた。

こちらもやはり、宇都宮における大鳥とその兵の奮戦の様子です。朝、南柯紀行では大鳥は、前日の安塚戦で雨にぬれた銃の筒払いをしているんだろうと、戦闘の音に気に留めなかった、などと書いているのですが。実際、浅田君をはじめ他の史料では大鳥は朝からちゃんと準備していたわけで。なんというか、南柯紀行のほうは、大鳥が自分でことさら自分が間抜けたところをわざわざ書いて演出しているだけというようにしか見えない感じがします。


…えーと。
わざわざ何万点と言う膨大な史料の中から、大鳥にやさしい史料を選び抜いて抽出しているわけでは、決してございません。手当たり次第に開いてみたら、こんなのばっかりだった、というだけです。

まだまだ一杯あります。序の口です。本当です。
まだ続けようと思ったらいくらでも出来ます。
ウソだと思し召しでしたら、その目でデジタルライブラリを訪れてみてください。お願い。きっと認識変わります。

とかいって、もちろん、面白おかしく書くために、誇張や過大評価もあふれていることと思いますし、資料の妥当性の検討は必要ですけれども。
こういったものもあるのだということは、すくなくとも明らかにしておかないと、フェアじゃないだろう、ということで。
贔屓サイトとしてはこのぐらいやらせてください。

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2006年09月06日

SAMURAI7

最近、CGIをおいてあるサーバの調子が悪いらしく、こちらの雑記がよく落ちてます。すみません。

それ以上に自分も落ちています。
連日、呑んだくれて、へたばっていました。平日のはじめから三連続。
一昨日はビールと出羽桜2合、あと名前を忘れたけれど加賀の酒2合、焼酎、それから河岸を変えてカクテルを3杯ほど。昨日はなんか飲み放題でいろいろやった後、ラムをがつがつと3人で1瓶。

…後から自己嫌悪になるような飲み方はしちゃいけねーな。いけねーよ。

えーと。先週、なんとなく深夜テレビをつけてみると、えらく作画の美しいアニメをやっていて、びっくりしました。3DのCGを駆使していて、このクオリティで毎週やっているのかと驚愕。

「SAMRAI7」
すでにスカパーで放映済みだったとのことで。思わず、全話を見てしまいました。
かの黒澤明監督の「七人の侍」が原作だと謳っているのですが。原作というよりは、異次元パラレルなパロディと言ったほうがしっくりくる感じです。

黒澤氏の原作が好きな方からは何かと文句がありそうですが、一つの作品としては秀逸だと思います。
ここまでのジャパニメーションの品質を世界に披露したのは、誇っていいと思う。

キャラクターデザインが草薙琢仁氏というのが嬉しい。独特の世界観をあらわすイラストで、ソードワールドのライトノベル時代からのファンでした。和風とか中華という枠に収まらない雰囲気を醸してますなぁ。
原作付きというのに全く萎縮していない。冒険的なデザインです。

そしてキャラクターが、渋い。
カンベイのおっさま。ドレッド長髪にピアスにサンダル、浅黒い肌というワイルドなお姿ながら。
「いつも負け戦ばかりだったという軍師」にズドンとやられました。
負け戦ゆえに身に染み付いた貫禄とか老成さというか人間性がじんわりと伝わってくる、味のあるキャラクターです。こんなおっさまを主役に据えてくれるとは、NHKもやるなぁ。

最初、見目麗しいカツシロウ少年が主人公で、彼の成長物語なのかと思いながら見ていました。へたをするとカンベイのおっさまは主人公の成長のための死にポジション。

しかしながら、依然として物語の中心はおっさま。
カンベイがどうも英雄になりきれない庇護され具合で。独り突っ込んでいって、ピンチになって、部下に助けられるというのがそれとなくパターン化している。「先頭に出ちゃ駄目です」と部下に叱られる某都督を彷彿とさせる。ガタイは違いますが。
ヒロインの恋愛ベクトルまでおっさまに向いていますし。
そして、監禁されるし沐浴シーンはあるし。私はむしろおっさまがヒロインじゃないかと思った。NHKもコアな領域を狙うものです。

その古女房とか、参謀とかが出てくるから、うれしいですねぇ。いやその、歩兵頭の隊長さんとか、会津からお迎えした参謀さんとかを彷彿させているなんてそんな。

しかも工兵がいる。ヘイハチ。工兵といえば吉沢君。彼もムードメーカーっぽいよね。…だからさ。

あと、剣豪のキュウゾウ。すごいデジャブがあったと思ったら。あれだ、ファイヤーエムブレムのナバールだ。(分からんネタですみません) で、ナバールといえば、私の中では今井さんです。

それと、キクチヨ。元農民でサムライになりたかった男というと…。うーん、これは、やめておこう。

難点と言えば、この布陣だと、ダブルリバーがいない。ブツブツ。

そんな感じで。現在ろくでなし人間を満喫しています。
まぁ人間そういう情緒を養う期間も必要だわな。

オタクとは情緒であり、萌えとは、あはれ、ゆかしさと惻隠の情の混在した大変奥深い感性です。良哉。


    [2] 入潮 2006/09/07(Thu)-02:31 (No.154)
    今、一話を見返してみたら、先の大戦とやらで、おっさまが軍服を着て、戦艦をザク切りしていた。キュウゾウもそうだけど、ここのおサムライ様たち、金属ロボでも大砲でも、みんな刀一本でカマボコのようにスライス切りしてしまうのね。しかもそれで刃こぼれしない。(の割りに、予備の刀を地面に林立させるし)
    この刀ってダマスカス鋼とかオリハルコンとか特殊素材なのかしら。それともおサムライ様って、筋肉マンでいう超人のように、一般人とは人種的にかけ離れているのかしら。弾丸を見切るどころかそのまま切り裂いて纏めちゃうし。
    それなのに、死亡原因が、よけた弾丸が砕いた家の破片だったり、味方の誤射だったりと、案外渋い。
    トンデモ世界観なのに、妙にリアリティを持たせようとしているあたりが、なんと言うか。そういう往生際の悪さも好きです。
posted by 入潮 at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月08日

勇敢な英雄 大鳥圭介 その2

大鳥英雄伝。続き行きます。

●「絵本近世太平記」藤谷虎三著 明治21年6月

絵本といいつつ、小説です。たまに挿絵があるぐらい。小説ながら、史書に拠れるところは拠って細かく記述。あとは一般受けするような構成としています。
近世というだけあり、ペリーの来航から始まります。一般人に勤王憂国の何物たるかを知らしめ外交の親密させることが目的なのだそうだ。
序文に群像のイラストがあります。髭なしポニーテールな(あえて髷とは言わない)圭介が、榎本さん、黒田と同じ頁にいます。
ノルマントン号の沈没まで取り上げられています。この辺はリアルタイムに近い。

で、大鳥ですが。「勤王」本というだけあって、旧幕側は敵・賊扱いなのですが、動き細かく描写してもらっています。

結城戦で褒められているのはいつものことなので飛ばすとして。
その後の宇都宮の安塚戦、現代でこそ大鳥の判断ミスが評論家に責められている戦闘すら。

「首将大鳥圭助部署を定め安塚に一隊を派して官軍を支へしめ、又一隊をして間道へと進みて、我先鋒薩藩大垣藩の兵を襲わしむ。我軍腹背敵を受け頗る防戦に苦む」

と、大鳥の作戦ですこぶる苦しんだという官軍の様子が書かれています。因州・土州の兵が援軍に来たから勝てた、という書き方。実際大鳥は病気でダウンったのでしょうけれども。
この後、日光・今市でも。

「会津藩ますます備えを堅くし、且藩士菅野某山川某らをして間道より日光に出し大鳥圭介らと合して官軍に抗せんとす。我軍之を聞き薩長土肥彦根等の官兵之を日光に撃つ。敵兵地理を諳(そらん)じ、殊に大鳥の軍略に長ずるあり。官軍屡(しばし)ば利を失ふ。因りて今市駅に退く」

と言う感じです。
実際、現在においては連敗が強調されている今市戦ですが、当時は、対板垣戦(+谷干城の補給戦)は「互いに勝敗あり」という評価が多いです。板垣の包囲戦も見事ですが、実際に雌雄を分けたのは谷の補給なんですよなー。
「大鳥は道普請するから打ち破るのは簡単」というのは、周辺状況から判断すると、どうも負け惜しみめいて聞こえないこともない。とか言ってみる。

それから時が変わって、箱館上陸の際。兵を入れる榎本さんのイラストがあります。釜さんの隣に立っているのが多分圭介。

人見さん・本多さんが嘆願書を携えて使者となって赴いたとき。官軍から急襲をうけて旧幕軍は衆寡敵せず危険にさらされる。この時、後続の大鳥。

「大鳥の率うる処の兵進みて後ろにあり砲声を聞いて急に赴き援く。本多等氣を得て急撃す。官兵粗相して走り大野の営に退く。大鳥等要地を選びて兵を駐む。…福山大野両藩の兵代りて大野を守り、大鳥等の進むを見て急に之を防ぐ。大鳥奇計に長じ、且兵剽悍、(両藩は)守備当る事能わず大に壊走す」

大鳥が後ろから本多さんを援けにきて、本多さんたちが気を得て急襲していたのですって。この二方がコラボしているのが描かれるのは嬉しいです。

大鳥は奇計に長け、伝習兵は剽悍、ということで、福山藩・大野藩の藩兵は守ることがきず壊走した、とのこと。

それから、「土方某、星某をして別に兵を率いて間道より」と、土方さんが出てきた。この本は、福島、宮古湾、決戦のとき等で、記録程度ではありますが、土方さんにも触れています。 (箱館の土方の具体的行動に触れた内輪以外の文献には、未だにろくにお目にかかれない…。まぁ探し方が悪いのでしょうけれども)

それで、福島攻めのとき、敵砲台に苦戦する蟠龍。これに。

「既にして日暮れる因て(賊軍は)函館に退き更に海陸謀を合わせ大鳥をして兵を引て陸路土方等を援けしめ」

とあります。…おや、大鳥が福島で土方等を助けた?と疑問。

さらに時間は飛んで、矢不来戦の模様。

「大鳥圭介矢不来に在り。兵五百を率いて我軍に備ふ。(4月)廿九日我軍之を衝き、別に精兵三十を撰び間道より横に賊砦を襲はしむ。大鳥等、我軍の奇計あらんことを察し、賊の胸壁を山腹に築き銃手を埋伏して之を守らしむ。既にして我兵の間道より進みしもの賊の胸壁に近づき而して未だ之を知らざるなり。賊兵機を見て発し、我兵直に壊走す。時に我軍の本道する者尚之を知らおもへらく一挙して賊砦を破るべきのみと吶喊以て之に逼る。賊軍迎へ戦ふ。地雷火発忽ち発して山川鳴動し我軍為に死するもの数なし。蓋し賊の予め布く所なり。大鳥圭介官軍の乱るるをみて兵を麾(さしまね)き、砦を出て急に撃つ」

大鳥の前線指揮官模様。
敵の奇兵の襲撃を読んでいて待ち伏せ、迎え撃ち。壊走させます。敵本軍がときの声を上げて逼ってくるのを更に迎撃。あらかじめ敷設しておいた地雷で敵に損害を与える。乱れた隙に大鳥は兵を差し招いて急襲する。


結局この後甲鉄艦・春日がやってきて、艦砲射撃には為す術もなく撤退するのですが。
それでも、今になって、ただ敗れたの情けないの言われている矢不来戦。こういうのを見ると、ハテ情けないのってどこのどなたのお話のことなんですかと、首を捻ってしまうことです。

書き手からすれば大鳥等は賊軍で、貶める対象でありこそすれ、なんら褒めたり持ち上げたりする必要はないわけで。

なのに官軍の攻撃者にほとんどスポットを当てずただ「我兵」としているだけなのに、ここまで大鳥が出張っていて、それでいいのか、と唸ります。それだけ明治の世にも旧幕人気があったということなのでしょうけれども。

現代との認識のかけ離れ具合は、なんともはや…という感じです。


● 「絵本明治太平記」 福井淳編,岡本仙助、明治19年9月

上の「絵本近世太平記」と名前は似てますが、文も著者も別物です。こちらも、絵本というよりは、ちゃんとした小説です。以前瀧川関係でご紹介したことがありました。
よほど人気が出たらしく、いろんな版や異本がありますが、とりあえずデジタルライブラリで二番目に古いものです。

「大鳥圭助驍勇の名前益々聞へ善く兵を用ひ自在なる臂(ひじ)の指を使ふが如く、部下の兵卒も精鋭の者なれば、向かふところ前なし。官軍しばしばこれがために窘めらる。故に官軍皆大鳥圭介憚り敵国に比せりと云ふ」

と「近世事情」に似たことを述べています。
ただこれ、宇都宮城を陥落させたのも大鳥だということになっているのですよな…。人の手柄を取ってはいかんだろう。

こちらでも、そのほか、各戦闘における大鳥の挙動がいろいろ伺えます。
たとえば、上の「近世太平記」と同じシーン。峠下戦闘で本多さん・人見さんたちが津軽兵を敗走させ、勝ちに乗じて追い迫ろうとしたとき。

「脱兵勝ちに乗じて追い迫らんと為したれば、純彰曰く敵を侮る者敗ると之を制して長駆させず要所を選んで陣を取る」

なんて、シメるところで、びしっとシメてます。
あ、こちらでも福島で。

「蟠龍丸松前に近づくこと六ヶ敷ければ、遂に一たびしりぞきけるが、其後また賊兵函館に乗返り松前にての事柄を報知にぞ。賊兵謀計を設けて、海陸の軍と二手にし榎本釜次郎松平太郎等の回天蟠龍の二艦に乗じて、福島湾より大鳥圭介は陸軍の兵を引て福島村ならびに野越より押寄せる…海陸よりして攻蒐けたれば、(松前)藩兵崩れて敗走なすにぞ」

とある。大鳥が陸軍を率いて、海軍と挟み撃ち。やっぱり大鳥、福島攻めには参加していたのだろうか。

南柯紀行には「松前進軍のときは余五稜郭に留守せし由て戦争の模様巨細にしるしがたし、但伝聞のまま之を録す。遺漏多かるべし」と述べていたので、大鳥は福島・松前攻めにはいなかったと思っていたのだけれど。
確かに、松前は留守といっているけれど、福島のほうはいなかったとは言ってない。

淡々と経過だけ記しているから、大鳥は五稜郭残留だと疑いなく思っていたけれど。大鳥はそもそも、勝ち戦は面白味無くサクッと書く人だからなぁ…(だから南柯紀行では勝ちが印象に残らない。藤原しかり木古内しかり)

どの史料を参考にしたのだろう。一つの文献だけで触れられているとか、同じ人が書いたのなら、ふーん、で過ごすのですが。二つの資料から違う人から書かれていると、いきなり気になります。まぁ、「近世太平記」が「明治太平記」を参考にした、というのはあるのでしょうけど。
大鳥の福島攻めについて。何か出典をご存知な方がいらっしゃったら、ご教示ください…(また他力本願)


まぁ、これらは資料というよりは小説で、当事者の言ではないので、参考文献としてどのぐらい信憑性があるかというと、それのみに頼ることはできんわけですが。
それでも、当時の世評としてはこんなものだった、ということの一応の根拠にはしてもいいんじゃないかと思うわけです。

ひとつ声を出しておきたいのは、前にあげた「ヤングジャパン」「近世事情」「明治名誉略伝」「高名像伝」「明治六雄八将伝」「徳川十五代記」なども含めて、これらみんな、「南柯紀行」の公表前、「大鳥圭介伝」の発刊前のものであるということ。

また、日清戦争後だと、戦争の正当化というか、世論高揚のためにヒーロー化・偶像化が行われて、功績が誇張されて喧伝されるというのはあるものですが。それにしても、これらも日清戦争前のものなんですよな。
(てか、日清戦争後は、さらにスゴくなります)

で、上の文献、だれも大鳥が「実戦経験がない」「戦下手」などということは記していません。明治20年代ぐらいまでの資料では見たことがない。
一次史料ではない、といわれるとそれまでかもしれませんが。浅田君日記や町田老之丞日記の評価などと照らし合わせても矛盾がないわけです。

(凌霜隊矢野原さんの「歩兵総督大島恵助軍議因循之事と存ずる、随分名高き人と思ひ外の人なり」があるけれども。彼は朝比奈隊長以外は誰に対しても当たりが辛いし、藤原の鬱積帯陣中のことということで情状酌量の余地あり)

それで思うのですが。
まず大鳥の死後に「大鳥圭介伝」が発刊され、直接に大鳥を知る者が少なくなり、一方で、分かりやすくネタにされやすい安藤評が残された。

そのイメージのままに「南柯紀行」を見ると、大鳥自身が「実戦経験はない」と遠慮し、戦イヤ空気を漂わせ、勝利はスルーして、敗戦や準備不足の反省ばかりつらつら書いて、負けムードばかり演出している。それも大鳥の謙遜癖と、身をえぐる関西系エンターテイメント精神の為せる技なのですが、その辺の空気を読まない、字面だけで判断してしまう人が、安藤発言のイメージを、やっぱりそうだったか、と強調させてしまう。
それが現代の小説での描写に繋がったのではないかと。

まぁ、そういう風になってしまうことこそが、大鳥の思惑通り、手のひらの上、ということなのでしょうけれども。
何を見るにつけても、歯がゆくなってしまったことです。

もはや悔しいので、大鳥は勇気と胆力ある有能な前線指揮官だ、ということは、仮令誰と喧嘩になっても、開き直って主張していきたいと思います。

あーもう。負け将軍で別にいいのに。
てゆーか、諸手上げてバンザーイ、黄色い声でカッコイー、なんてこと、やりたくないでゲスよ。そもそも過大評価も盲目賛美も格好悪いものだし、痛いってもんじゃありませんか。

愛をもって貶しているほうが、ずっと楽です。うがー。

(あ、主張、ってのは、自分のサイトでは、ということで。人様のサイトに押しかけてどうこうというのは無いです。そこまで度胸はないです。弱い人です。)
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2006年09月09日

勇敢な英雄 大鳥圭介 その3

勢いついでにもうちょっと行っておきます。大鳥英雄伝。

● 「日清韓三国英名伝」東洲山人編 明治27年9月

名の通り、日本、清、韓国で英明を馳せた人物を、列伝風に紹介しています。日本人は35名、清国から李鴻章、袁世凱、丁汝昌など10名、朝鮮国からは大院君、金允植、魚允中などで21名。

基本的にみんな褒めている方向性なのですが。大鳥。

「君は幕府の末路に方り名士と称せられ、勝伯、榎本子と共に其名声天下に著しく、幕府の遺傑といふべし。君は勇猛豪胆にして維新革命の変起こるや君は幕を助け寡兵を以て王師に抗し、野総の間に転戦し、函館五稜郭に篭りたる榎本武揚と力を享せて大に官軍を悩まし砲雲弾雨の間に誠忠を尽したり。当時大鳥将軍の名を東北に輝かせしは二十余年の昔夢となり。君は戊辰の役平ぐるに及んで禁固幽閉せらる後、罪を許され徴されて朝廷に出仕し、爾来忠勤啻(ただ)ならずゆえに現在の顕職に就く」

幕府の遺傑。幕臣だったのは3年間に過ぎなかったわけですが。
勇猛豪胆、ここにもこの四字熟語が出てきます。大いに官軍を悩ました。誠忠を尽くした。東北でも大鳥将軍の名前は輝いていたのだそうです…
あとは日清戦争前の公使時代における活躍を誉めそやした後。

「今髭髪白を加ふと雖も尚ほ勇気豪も衰えず将来我帝国の代表として能く国家に尽し少しもわが国の恥辱を蒙らぬ様処理する疑い無しと信ずるなり」

えーと、外交官としてなのか何なのか、事後処理にまで期待されているようです。

あと、黒田の描写が面白かった。

「君人となり沈着寡黙、自ら持すること頗る方正厳格なり。而して伯は容貌愚なるが如くにして胸中極めて敏活の才を蓄へ、粗放豪大なる如くにして極めて綿密詳細に、又獅子の如く勇猛にて又羊の如く慈愛なるところあり、烟上に眠れる猫の如しと思えば忽ちにして猛虎の寒月に嘯く威厳を現はし、感情鈍しく知覚遅きが如くなれども却つて義に勇み情に篤きことあり」

褒めているのか貶しているのかどっちだ。なんだか素直に褒めることが出来ないのだけれど、愛はある、という感じ。「羊の如く慈愛」と「獅子の如く勇猛」を混在させているあたりはとても納得した。

こういう列伝系、他に榎本さんも結構出てくるのですが、榎本さんの場合は危なげなくて、いくら褒められてても、当然だろう、という感じで通り過ぎてしまうんですよな。その点黒田は危なかしくて好きです。大鳥はありえないっぽくて驚きます。

● 帝国将校列伝 元木貞雄 明治29年3月

帝国将校。紹介されている方は、皆、陸軍少将だとか海軍中将だとか、あるいは維新の元勲だとか肩書きを背負っています。帝国陸海軍の旗印や誉となる方々を取り上げているのですが、なぜか肩書きも何もなし、ぽつんと「大鳥圭介」が居ます。「賊将」と言うわけにもいかなかっただろうし、大鳥が日本国の将校だったことはないから苦しいところではあるというのは分かりますが。はず。あ、明治7年1月に一瞬だけ陸軍大佐にはなっていたっけか…。でも何をしていたのかもよくわからず、借金の後始末してたぐらいしか記録が見当たらない。
ともかく、それなら取り上げなければいいのに…と思わせつつも、大村益次郎、西郷、大山、樺山、川村、野津、大島といった豪華メンバーの中に顔を出しています。

「歩兵練法一篇を著はして世に公にせり。又鉛版を制し築城典刑なる一書を印行す。是れ実に我が邦。鉛製活版の濫チョウ(竹かんむりに腸)にして時に文久元年なり。この時列藩に於て西洋式の武術を得たるは実に此の二書に拠れりと言う」

と。陸軍の基礎、祖のひとつであったことが評価されたのかな、と思いきや。やはり脱走後の伝習隊を率いての戦いにも触れ。

「(宇都宮で)君衆寡敵せざるを慮り、退いて日光に拠り屡々官軍を悩ます。然れども孤立久しく守り難し。依りて東北に奔り至る処快戦して毎に官軍を破る。…五稜郭を取りて之に拠る。是に於て軍気復た大に振ひ屡々寄功を奏し官軍これが為に被靡(ひび)す」

と、大鳥がしばしば官軍を悩ませたとか、東北では至るところで快戦して毎回官軍を破っていたとか、五稜郭でもたびたび寄功を奏して官軍はこれの為に思うままにさせられたとか。
東北、母成の負け戦には一切触れず。その後の山中泥沼ゲリラ戦のことを述べているのだろうか。
いずれにしても、帝国将校でもないのに、その列伝で項目を持ち、恐るべき指揮官扱いを受けています。

あと。降伏のとき。
「大勢既に此の如くんば到底其志を成すべからず。而して徒に壮士を殺すは極めて無用にして且つ不仁の挙たるを免れずと。因て榎本氏等と謀りて降を請ひ帰順す」

この「不仁の挙」。こういう言い方をしているのは初めて見ますが、「壮士を殺すは極めて無用」というのは、やはり先の中島三郎の降伏説を引き継いでいるのではないかと思えます。
仁にあらず。一見、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と矛盾しているように見えますが、そうではない。無駄死にはむしろ恥。人を無用に死なせるのは更に仁にあらず。そういった価値観は当時でも尊重されたということが、短い記述のなかに伺えます。


● 御世のほまれ 落合直文著、明治28年4月

日清戦争の話は手を出しているのときりがないので、とりあえずスルーしているのですが。
こちらにも大鳥公使の話がちらほら。京城に乗り込む陸戦隊。その際、ある人の和歌がありました。

「大鳥の羽風や遂にはらふらむ とりのはやしに かかる群雲」

群雲は韓国朝廷か東学党か、と解説されていましたが。
ようやく開き直ってやる気になったか、という感じが見て取れない気もしないでもない。・


● 出師軍歌 鉄街隠士著、明治27年8月

著者の方、鉄街隠士と怪しい名前ですが、その正体は、三田村熊之介。「日本新辞書」(明治28年)、「新選用文章」(明治28年)、「叙景美文 細評」(明治38年)などが著作にあります。日本語には言のある方らしい。その他、「日清戦争実記」、「日清戦争記」など、日清戦争関係の実歴物も世に出しています。

で、この方が作成・蒐集した日清戦争時に作られ歌われた軍歌。「軍人の歌」「義勇兵」「宣戦の歌」「すめら御国」「君が代」などに並んで、その名も「大鳥公使」があった。
歌です。軍歌です。四文字タイトルです。せっかくなので全文引用してみます。


    皇御国(すめらみくに)を代表し 万里の翼を鶏林の
    天に奮へる大鳥の 公使の誉(ほまれ)は世に高し

    今は昔の事ながら 花の上野の彰義隊
    会津の城も焼け落ちて さしも栄えし徳川の
    流れも絶えん有様に 悲憤の心やみがたく
    打ち漏らされし健児をば 集めてこもる五稜郭

    神出鬼没の軍略に 寄手の兵を悩まして
    大厦支えし一木も 御旗の風に支え得て
    身は軍門に降を乞ひ 面縛興櫬(めんばくよしん)の辱(はじ)を受け
    青草白砂の其の中に 男児の骨を曝さぬを
    恥ぢし勇気は今もなほ 張りて弛めぬ胸の中
    老てますます壮(さかん)なり 畏れ多くも征討の
    錦の旗にてむかひし 此の身はかねて亡きものと
    覚悟は既に極めしを 明治の御代のありがたき
    起死回生の洪恩は 銘して臣が胸に在り

    若しや一朝事あらば 匪躬(ひきゅう)の節を尽さんと
    天に祈りし甲斐ありて 今や東亞の大勢は
    震天動地の活劇を 現はし来る昨日今日
    日本国の威名をば 五大州裡にあらはさん
    国旗と共に斃(たお)るとも 一歩も後へは譲るまじ

    彼の辮髪何者ぞ 彼の碧眼児何者ぞ
    義旗の妨げなさばなせ 文弱怯懦の我ならず
    百戦汗馬の労を経て 鍛ひ鍛ひし圭助が
    此の膽力に驚くな 此膽力におどろくな


…この歌の作者の方。貴方のヨイショ具合にこそ驚きます。
かなり本気で作っているみたいです。
本当に誰か歌っていたのだろうか。「大鳥公使ヨッポド偉い」どころの騒ぎじゃなかったですよ。

万里の翼を鶏林の天に奮える大鳥。
神出鬼没で、その軍略で寄せ手の兵を悩ませた。

「青草白砂の其の中に 男児の骨を曝さぬを」のくだりは、「砲裂艦摧吾事終 幡然代衆殺茲躬 独慙一片男児骨 不曝白沙青草中」の詩からでしょう。どうやって知ったんだろう。
箱館で、青い草、白い砂のなかに男として骨を曝すことができなかったことを恥とした勇気は、老いてなお盛ん。天朝に事があれば、わが身を省みず国に節を尽くそうとした。

辮髪の満州人など何者ぞ、碧眼の西洋人など何者ぞと。
文弱で怯懦な圭介ではない。百戦汗馬の労を経て鍛えに鍛えた圭介が相手だ。
この胆力に驚くなと。わざわざ調子を変えて2回繰り返しています…

三田村さん、号を「楓蔭」と仰います。まさか如楓先生を意識してとか、そんなことは。そこまでは。

この詩は七五調なので、「水戸黄門」「どんぐりころころ」「蛍の光」「戦友」などのメロディに合います。皆さん歌ってみてください。私にはとても恥ずかしくて駄目です。

あと、「ちやんちやん坊主」の俗謡も収められていた。ちやんちやん坊主とは袁世凱のこと。…困ったもんだ。


今日のところはここまでで。なんかもう、躍起になっているというよりは、惰性になりかけています。ここまで持ち上げられていると、不安とかいうより、厭きてきた…。

これでもまだ、挙げようと思った分の半分もいってないですんですが。
これだけ続くと、だんだん恥じる心も麻痺してきますな…。あまりやって楽しいことでもなかったです。
褒められすぎているのも、やる気が無くなる…

あ、「上野合戦」(桃川燕林口演、明治27年)で「官軍の参謀長板垣退助大鳥圭介を壬生に破る」「大鳥圭介板垣退助の宏量に一驚三嘆殆んと泣く」という見出しがありました。中身の文章は大したことありませんでしたが。
こういうのがあると却って安心できます。

まぁ、これらの感じの文献が世には在ります、という事実だけ、押さえとかせてください。

どうっすか。もうそろそろ「へたれ」という悪評は、お考え直ししていただけませんかね…。
それももはやどうでもいい、という気分になってきましたが。
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2006年09月11日

週末の大学図書館:開拓使申奏録、明治工業史

どはー、疲れた。
充実した週末でした。詰まりすぎていろんなところから発火して、プスプスと焦げ付いている感じです。
特に今日はいろんなことがありすぎて、出来事を頭の中で消化しきっていません。
とにかく、楽しかった…と言ってしまおう。

昨日は大学図書館へ。
国公立大の図書館は独立行政法人化して以来一般にも開放されるようになりましたが、私立はまだまだ、外部者には、すげない。ただ、部外者でも目的が認められれば館友会に入れるというところがありましたので、チャレンジしてみました。

ビルの8F〜B2Fがまるまる図書館で、ひとつのフロアだけでその辺りの市立図書館よりも大きいという恐るべきところでした。
すごいのは、よほどのもの以外、書庫が全て開架だということ。全国の県史・市史、各大学の百年史、維新史、維新史料要綱、大日本史料関係、外交百年史、明治百年叢書…などなど、が手に取り放題。

国会図書館などは、そこに行けばとりあえず文献はある、という安心感があるのですが。1回に3冊、それも閉架で出してもらうのに時間がかかると、効率が悪い。前もってその資料が「ある」ということが分かっていて、狙い撃ちにしないとはかどらない。手に取るまで中身が分からない、というのもつらい。

けれども、資料が開架だと、いろいろと比較もしやすく、その場でひとつの資料から出てきた参考文献がすぐ探せますし、狙った以上のモノがみつかることが多い。

他の公共図書館では、絶版物や高額書籍は書庫に入れて閉架にして、閲覧するときに閲覧者を管理するのが大部分ですが。大学図書館の場合、最初の入り口の敷居は高くて閉鎖的ですが、一度その敷居をまたいで中に入ってしまうと、中にはすさまじい自由度があるのだなぁと思いました。もちろん場所にもよるのだと思いますが。

今回の目的は、大鳥の洋行からの帰国日のウラ取り。「開拓使申奏録」にあると前にひよさんに教えていただいていたので、その記録を求めにいってきました。

以前にも触れたのですが、まず榎本さんが明治7年3月12日付の公文録で、ロシアに向けて出発したこと。

一方の大鳥の洋行からの帰国日。「開拓使申奏録」では明治7年3月28日の届けに「開拓使五党出資大鳥圭助米国御用済昨廿七日貴重致候、此段御届申上候也」とあり、明治7年3月27日帰着で間違いないといえる。ちなみにこれ、開拓次官黒田清隆直々に、太政大臣三条実美宛てに出されています。

つまり、榎本と大鳥、すれ違ってしまっている。榎本さん帰国の明治11年11月まで、彼ら、会っていないわけです。
碧血碑についても、何か関与したとしても、協働としては具体的なやり取りはできてないのだろうなぁと。資金ぐらいは出しているかもしれませんけれども。

で、こういう微妙な日付追いの場合も、公文書館のデータベースだけではなく、各省庁の記録まで踏み込まないといけなかったりするので、それらが開架でまとまっている図書館は大変ありがたいです。

(ずれますが、今確認してみたら、明治12年公文録に「特命全権公使榎本武揚箱根温泉入浴ノ件」とあった。…特命全権公使の肩書と件名のバランスに脱力できた)

(なお、アジア歴史センター、9月15日〜10月9日の間データベース閲覧不可とのこと。気をつけんと)

それから、ハマったのが、明治百年叢書にある「明治工業史」。これまでもピンポイントで当たっていたのですが。10巻全部手にしてその凄さがわかった。
その名のとおり、明治の工業の起源、発達、現状まで綴った全十巻。化学工業、造船、鉄道、建築、電気、土木、火兵、鉄鋼、機械、地学などの各分野に分かれています。

田辺朔郎が編集長というだけあって、もう工部大学校生ひとりひとりの業績があふれかえっています。一人の業績もいろんな分野にまたがっているので、これを10冊全ての分野を目の前にどんと並べておいて、あっちこっちハシゴで手に取って纏める必要がある。1回の閲覧冊数に限界がある閉架では出来ない芸当です。

この明治工業史、ネタの宝庫でしたので、また追々突っ込んでいきたいと思います。
にしても、図書館の明治工業史。ほとんどページを開いた形跡がない…。このお宝を、購入時から25年間以上活用せずに放置させているとは。その贅沢ぐあいに、勿体無いお化けが出そうでした。

こういうピンポイントなのはおいておいても。学生さんは、こと研究、調査となると、自由度があるといったらそれ以上の存在はないですので(教職員・研究員はおいておいて)。一私人だと、諸機関の方々や関係の方々に説明するのも大変です。「趣味で調査」等と言うと、ステイタスの信頼度がガックリと落ちます。身分に何らかの信頼性がないといけないわけですが。それ以上に、大学や会社からの使命という任務を背負ってないと、信頼されるのも難しい。一方、学生ならそれだけで納得してもらえる。

で、学生なら調査するインフラが使える幅はものすごく広い。大学図書館ネットワークWebCatを利用したライブラリローンなどを活用すると、それこそ日本中の図書館の資料が手に取れるわけで。

遊びまわってないで、学生のうちにまっとうな分野に興味をもって、存分に心行くまで調べ物に没頭しとけばよかったと、今になって後の祭りです。学生の方、入学金・授業料のモトは取れるだけ取っておいてください…

図書館も色々個性があるので、県立・市立・大学と色々渡り歩いてみると面白いと思います。
閉架・開架の量とか、特殊資料や地方資料の有無とか、コピー機の性能や込み具合とか、複写手続きのやり方とか(何気にこれに一番時間が掛かる)、閲覧室の机の仕様とか落ち着きやすさとか、レファレンスの使いやすさとか。
もちろん、求める文献があるということが一番大事なのですけれど。


さて、本日は今市・藤原へツーリング。

藤原は、今は鬼怒川温泉といったほうがよほどメジャーかと思います。
戊辰戦争では今でこそマイナー気味な地方に甘んじていますが、会津と関東を最短距離で繋ぐ要所でした。慶応4年5月から7月中旬まで、ここを大鳥・山川ら旧幕・会津連合軍が守り抜き、アームストロング砲をひっさげてきた佐賀藩部隊を撃退し、難攻不落基地に仕立て上げました。ために新政府は白河方面に兵を集中させざるを得なかったという、全体の戦略に影響を与えた地点です。
また、当時新政府軍優勢の戦局にあって、旧幕・会津側が快勝を得ていた数少ない場所です。

ここをバイクでガツガツ走ってきました。

R294号→R354号→R4号→結城市→小山市→宇都宮→R119号→徳次郎→大綱町→→今市→R121号→大谷川→大桑→栗原→高徳→小佐越→鬼怒川温泉→藤原→龍王峡→鬼怒川公園岩風呂→(R461号)→今市→(R121号)→宇都宮→(R121号・R408号)→真岡市→下館市→下妻市…

と、宇都宮までは往路はほぼ大鳥中・後軍、復路は前軍沿いというルート。それ以降の今市からは旧幕・会津軍の戦闘地をたどった、という感じです。1日の走行距離は273km。

今日はちょっといろんなことがありすぎて、反芻するにもあふれて溺れそうな感じです。
明日以降、ちょこちょこと整理していきます。

そんな感じで、机上で1日、現地で1日という、理想的な在り方をした週末でした。分野はぜんぜん違いましたが。
資料を眺めていて得るものは無論多いですが、現地を回って、土地勘を身に着けて、地元の方の話を聞くと、認識がグンと立体的になります。

まだ長州のまとめも終わっていないし、前回宇都宮で集めた資料の整理も手がついていないというのに。書きたいことが増える一方。自分の首を絞めるのもまた自虐めいた楽しさがある。

いや、誰も求めていないのは分かってます。己の魂の求めさえあれば良いのです。(駄目)
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2006年09月13日

戊辰戦争:藤原の戦い

藤原ツーリング。
先月の宇都宮で集めた資料の裏打ちという感じで行ってきました。

日記に行く前に、藤原の戦いの概況を整理してみます。

ここは、2ヶ月間戦況を膠着させ官軍の戦略に大きな影響を与えた割に、メディアではあまり触れられることがないポイントです。

以下の地図をご参照ください。
http://members2.tsukaeru.net/irisio/figures/fujiwara.gif
(でかくてすみません。赤線は現在のR121号で、当時の道とは異なっています)

以下、カッコ番号は出典資料です。

慶応4年5月6日の今市第2次戦で旧幕・会津軍は土佐軍に敗退し、今市の攻略を諦めます。そして、今市の北、大谷川を越えた今の鬼怒川温泉周辺、藤原に本陣をおいて、堅牢な地形に拠り鉄壁の陣を敷くことになります。この地点で、大鳥らは会津の石筵山の防衛を依頼され転陣するまで、2ヶ月間を守り抜くことになります。

そこは給養粗悪な山間の寒村。食べるものといえば豆の味噌煮、キノコ、鬼怒川の魚ぐらい。娯楽もなければ女も無し。ムサイ男たちが、がん首つき合わせて日々官軍の襲来に気を張っておらねばならない。兵の鬱憤は溜まる一方(2)(6)。「此辺山多く悪敷所、食物不自由」と凌霜隊矢野原さんも不平ぶーぶー(8)。これらを宥めるのに大鳥は苦労しています。

ここに、土佐藩が白河を攻めることになり、土佐に変わって、佐賀藩鍋島候の藩兵が布陣してきました。これに宇都宮藩が加わる。宇都宮藩は自城を落とされながら、奪回戦に加わることができず、ここで雪辱を果たさんと燃えています。

一方、土佐の板垣は佐賀藩に「甚だ進むに利あらず。公ら宜しく固守して以て白河口の官軍が蹄を抜き鞭を掲ぐるの日を待ちて、倶に興にせよ。若し猶ほ之を察せずして徒に軽率躍進せんか、卒に敵の術中に陥り、悔を他日に敗さんのみ」と、藤原に進むベきではない、白河が落ちるまで待て、軽率に進んだら敵軍の術中に陥って敗北する、と忠告していました(10)。

佐賀藩には、大きく分けて鍋島監物と鍋島鷹之助の2隊が布陣していました。6月25日、板垣の言に従わず、彼らは藤原口へ向けて侵攻を開始します。鬼怒川左岸の高徳からは鷹之助隊が、右岸の柄倉からアームストロング砲を携えた監物隊が、大鳥軍に攻め入りました。

(下流に向かって左が左岸、右が右岸となります。鬼怒川の場合南が下流なので、左岸は東側となります)

大鳥軍は大原の入り口に防御陣地を構築していました。胸壁に隠れながら防戦します。しかし、間道を迂回した佐賀隊と宇都宮兵2小隊が、大鳥軍の胸壁を裏手に回って射撃。また、小佐越方面の鷹之助隊が、対岸からアームストロング砲で大原へ砲撃。また船生からも佐賀三番隊・六番隊が攻め込みます。大原は敵に放火されて大鳥軍陣地は破れ、藤原まで撤退します(1)(2)(6)。

なおも、藤原南端から大鳥軍は防御射撃で抵抗を続けます。そこに午後5時ごろ、車軸を流す如くの大雨が襲来。日没にも差し掛かったので、佐賀隊は追撃をやめ、監物隊は大渡へ引揚げました。大原の三十戸は官軍に焼かれました(4)(6)。(佐賀藩の「鍋島直大家記」には、大鳥軍側が村を焼いたと書いてある(1))。

この日、大鳥と山川は五十里に出張していて不在でした。(なお、五十里には江川塾での知り合いの藤沢茂助がいて、藤原の胸壁作りを手伝っていたりした)
五十里で大鳥は、大原で戦闘が起きたという報を聞いて駆けつけます。対岸の滝の湯という温泉場(上滝、下滝の間ぐらい?)に潜伏していた敵に、手臼砲をぶっ放して驚かせ逃げ散らせました(6)。

手はずはかねて打ち合わせしておいたのに不甲斐ないと大鳥は怒る。ただ、言っても甲斐はない、明日また攻めてくることは間違いないということで、大鳥も小原まで出向く。人足を急かして、徹夜で胸壁を作り陣地構築を行いました(1)(6)。

翌26日。鷹之助はなおも攻撃を主張。一方、監物は昨日の戦闘で苦戦し兵が疲れていると、これに反対しました。しかし鷹之助は自隊単独ででも進撃する旨を伝えまます。軍監の伊東外記は、監物に、鷹之助が一隊で出て万が一敗北する様なことがあってはならないと進言、高徳からの監物の侵攻を要請しました(1)(3)。

一方、大鳥軍。小原の胸壁は草風隊と回天隊が守備し、小原の山の手のほうを伝習士官隊と地元猟師隊が守ります(4)。

午前8時ごろ、小佐越にて戦闘開始(1)。

右岸の滝村から来る敵を、回天隊が川を隔てて当たります。四斤砲榴弾を放ってくる官軍に対し、大鳥軍は川岸の障壁に寄って小銃で狙撃して戦う。この時、地元の猟師隊も活躍しています(4)(6)。

正午になり、監物は左岸の高徳へ進発。鷹之助隊は右岸の小佐越から侵攻。午後2時ごろまでじりじりと戦う(1)(5)。

連日の雨で鬼怒川は大増水。両軍とも渡河できない。特に高徳の監物は、挟み撃ちをしたいけれど、本隊から応援を出しても川を渡せない。
鷹之助隊のアームストロング砲は、地形に巧妙に隠匿された大鳥軍陣地にはほとんど命中しない。(1)(2)

官軍5〜600人に対し、前夜に敷いた大鳥軍の小原の陣地は、正面の草風隊40人、川岸に瀧川ら士官隊10名余りという守り(5)。また、左岸のモウキ山中腹の物見台からは、猟師隊が山石を蹴落として官軍の背後を攻撃します(9)。

官軍の榴弾が障壁を砕き、これに当たって草風隊長村上求馬が死亡。滝川は援軍を請う。山上、山林に散布した伝習隊の伏兵が連発してこれを助ける(5)。午後になって、寡兵の旧幕側は疲労が蓄積していく(6)。

藤原の本営にあった大鳥は浅田に命じて、ここに救援に向かわせる。浅田は小原村で激しい銃撃戦に突入(5)(6)。
更に大鳥は、瀧川に策を与え、大川にとともに、二番小隊、三番小隊を鬼怒川の滝上流まで退却させ、射撃停止を命じました。佐賀鷹之助隊は、三番小隊に誘われて、敵軍は敗走したと思い、戦機を逸するべからずと、蟻の群がるように、陣地奥深くへ入り込む。その群がる敵に、大川・瀧川は一斉に射撃開始。官軍牟田隊は断崖を転げ落ち、算を乱して退却(7)(9)。この騙し奇襲は、浅田も自分が行ったと記しています(5)。浅田が真っ先に切り込み、瀧川、大川、大村卓司が続いて、士官も兵士も太刀を抜いて当たるを幸い斬りつけた、という記録もある(12)。このあたり、資料によって細かい戦い方は違っていますが、いずれにしても伝習隊大活躍。

さらに大鳥は、藤原の北の高原宿の予備隊(会津隊)を、藤原から北2km上流の兎跳より、右岸への渡河を果たさせていた。予備隊は、背後からときの声を上げて右岸の官軍を急襲(1)(9)。
ここで山川が、藤原より更に上流、竜王境の北にある兎跳を、跳んで渡ったという伝説がある(11)。兎跳は岩場で、鬼怒川の幅が4〜5mまで狭まっている箇所です。(仮橋は掛けられたとのこと(4))


鷹之助隊は、下滝辺りで大砲の運搬を険しい道路に阻まれた上に、対岸から激しい射撃を受けました。
至宝アームストロング砲は、砲身と砲車の片方だけを持ち帰る羽目に(1)。(大鳥軍に分捕られたという説もある(3))。

とうとう、官軍は午後8時に小佐越に兵を集め、小佐越も捨てて、柄倉まで後退。午後10時に今市へ引き上げます。一方、旧幕・会津軍は大原、小佐越を回復しました(1)。

官軍は宇都宮藩家老の長男の安形靭負太郎や佐賀藩小隊長の嬉野弥平次ら18名の戦死者、負傷者30数名を出しました。中には川を渡って逃げようとして溺死した者もありました(3)。
旧幕・会津側の死者は、村上求馬と伝習兵2名。
(佐賀藩戦死者のうち14名と、4月19日の大桑戦、4月29日の瀬川十文字戦、今市第1次戦闘、今市第2次戦闘などでの土佐藩の死者は、今市の回向庵に葬られています(3))

大鳥軍は、小銃20挺(30とも)、大砲3門、元込銃の弾薬五千発、他を分捕った(6)(12)。また、下滝の激戦で、鷹之助隊は大砲を鬼怒川に落としています。結果、鷹之助隊の大砲はほとんど失われました(9)。

佐賀・宇都宮藩側は約1000名。対して旧幕・会津側は300名でこれを守り抜いたのでした(9)。終わってみると、地形と地元猟師隊を活用したゲリラ戦による、旧幕・会津軍の鮮やかな戦闘勝利でした。

この戦いの結果、佐賀、宇都宮、芸州、今治、人吉、中津などの各藩の官軍兵約2000は、大鳥ら伝習隊が母成峠に転陣した後、会津兵が藤原を引き払った8月21日までの2ヶ月間、一歩も藤原口へ侵入することが出来なかったのでした。しかも、芸州は六方沢と富士見峠経由と激しく遠回りし、宇都宮・佐賀藩は小百の旧道を栗山村へ向かうという慎重さでした(3)。

「大鳥圭介の巧妙な指揮と、守兵の逆襲、兎跳迂回隊の背後進出などによって、佐賀藩は戊辰戦争史上でも稀なほどの大敗を喫してしまった」

「装備においても士気においても、全国屈指と目されていた天下の佐賀藩が、図らずもこの一戦に敗れたために、大兵力で関東平野に進出してきたものの、最後まで二級兵力に甘んじなければならなかったのも、つまりは藤原攻防戦の失敗にあったと見てよかろう」

と、この戦闘の評価が地元資料に述べられています(3)。

参考資料は以下の通りです。

(1)「佐賀藩戊辰戦史」(佐賀藩戊辰戦史刊行会)、(2)「戊辰戦役史」(大山柏)、(3)「殉難碑建立記念史料 戊辰の役藤原の戦い」(鬼怒川史談会)、(4)「慶応兵謀録」(田中恵親)、(5)「北戦日誌」(浅田惟季)、(6)「南柯紀行」(大鳥圭介)、(7)「牟田日記」、(8)「心苦雑記」(矢野原与七)、(9)「戊辰戦争事典」(新人物往来社)、(10)「板垣退助君伝」(栗原亮一)、(11)「下野歴史51」、(12)「野奥戦争日記」

攻撃側は兵約1000名で、死傷者50名弱。5%の損耗というと、戊辰戦争の他の戦闘と比べると、数値的には少ないかもしれません。
けれども、古今、戦争というのは、被害の大小で勝ち負けが決まるのではない。戦いの目的は敵を殺戮することではない。陣地や領土を奪い守ることにある。

敵を殺さずともその場から撤退させ、強い恐怖感を与えて二度と敵をその場に近寄らせないようにすることができれば、戦闘の目的は達成されます。

上で触れたように、この藤原の戦いの結果、旧幕・会津軍は死者3名の損害でもって、敵に難攻不落さを見せつけました。そして、ここより侵攻能わずとの諦めを敵に植え付け、2ヶ月以上の膠着状態を成し遂げています。

一方で、同時期の白河口の戦いでは、3ヶ月の間、数次に渡って戦闘が行われ、百数十人、多いときで400人もの死傷者を出しながら攻防が続けられたわけで。双方にとって、相当に効率の悪い戦闘だったといえるえしょう。

わずか、といってしまうと死者に対して申し訳ない気持ちではありますが。
軽微な被害で戦争目的の達成するという、勝利の本質を突いた鮮やかな戦闘を為したのが、藤原の戦いだと思います。
損害が大きいほうが話には残りますが、派手なのが良いというものでは決してない。少ない損失で戦闘目標を達成するほうが、戦術勝利のレベルとしては高いです。

地の利はあり、防備の準備をする時間もあったとはいえ、人数・装備共に劣っていた兵力差。しかし、地形と猟師隊という地元リソースを最大限に有効活用して、最小の被害で勝ち、戦闘目的を成し遂げた。
ここに大鳥の真価があるのではないかと思いました。

…そいで。
「戦下手」って誰のことなんっすかね…?

と。わざわざ言うなという感じなのですけれども。また世間様に喧嘩を売ってしまうような結論に、また行き着いてしまうわけです。

盲目的な浮ついた世評なら、いくつも重なると飽きも来ますが。こうして、戦闘の挙動や結果を一つ一つ検証してみて導き出される結論ですと、思いは強くなる一方だから、困ったもんだ。

自分も好き好んで嫌われるようなことは言いたくないんですってばー。
ただ、資料を追えば追うほど大きくなるこの違和感は、どうしようもありません。

別に大鳥でなくても藤原の地形なら誰でも守れる、という声もあるかもしれません。けれども、6月25日の大鳥不在時にいったん陣地が瓦解しかかって、豪雨に救われたわけで。

また、この戦闘では大鳥は前線に出ていません。常に藤原の本営にあって、戦況を把握しながら、各隊に指揮を出していました。これが大鳥の本来のスタイルなのだと思います。大鳥が前線に出てくるのは、負けている時ばかりなので。勝っている時は自分が出る必要はないということなのでしょう。

ここまでの総合的な指揮能力を示しながら、戦イヤを繰り返した上に、戦下手だと後世に思わせているこの現実そのものが、何より大鳥の大鳥たる所以なのかなと思ったりします。

(「主戦派」というのは、徳川の立場を貫くという在り方であって、「戦好き」とはまた別次元のモノだと思うのです)

いやその、戦下手と評した方を責めているわけではないです。結果的にそう評されるだけの敗北も喫しているのは事実ですし。自分としては、世間評価では、戦下手でぜんぜん良いんです。その分、自分のやる気が増します。
ありえない仮定ですが、世間が一体となって大鳥を称えだしたら、きっと面白くない。私のやることなくなってしまうじゃないですか。

ただ、あるものは「ある」、あったことは「あった」ということは、言いたいだけなのでした。


だめだ、もう朝か。またやってしまった。資料から直でまとめると、時間がかかってしょうがない。
眠い…。


    [2] ままこっち URL 2006/09/14(Thu)-21:34 (No.160)
    入潮先生〜
    日帰りツーリングに史料整理とつき合せ、ならびに記事のUP大変お疲れ様です。若さゆえ〜(歌ってみる)その行動力、羨ますぃ・・・
    藤原の陣については私も、もっと調べたいと思っていますので参考になります。ありがとうございます。
    私は明日、日帰り出張で大阪・京都に行くのをいいことに(爆)当初予定より1時間早い新幹線に乗って適塾に立ち寄るつもりです。寝坊しないようにしなくちゃ・・・

      [3] 入潮 2006/09/16(Sat)-10:03 (No.161)
      コメントありがとうございますー。
      藤原の戦い。興味持ってくださってありがとうございます。大鳥が、もっとも大鳥らしい戦闘ができたのがこの戦いではないかなーと思っています。決して旧幕・会津側に有利な条件が揃っていたわけではないけれども、圧倒的不利ではない限り、大鳥は良い仕事をするのだなぁと。
      ままこっちさんのほうでも何か発見されましたら、ぜひ教えてください。

      出張、ご苦労様です。そういう醍醐味があると、やる気がぐんと違いますよね。自分も今週滋賀への出張で、安土城を見てきました。適塾を選んでくださってありがとうございます。畳1畳に圭介一人。堪能してきてくださいませ。

      ___________

      上のリンクの地図で、大原の位置が間違っておりました。(小原が2つあった) 訂正しました。すみませんでした
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2006年09月16日

藤原・今市ツーリング

ツーリング。
武井、小山、結城、宇都宮、日光、今市と、おなじみの地名を目指して、どんどこ行きます。
青看板に現れる地名だけで嬉しいので、無意味に立ち止まって写真を撮ったり。時間がかかる。
下館、真岡、壬生、鹿沼など、通り道ではないけれども、行き先案内がでるとつい嬉しくなる。
徳次郎や、大綱、大沢など、マイナーな地名ほど、燃える。いずれも南柯紀行などに出てきます。青看板だけではなくてコミュニティセンターや病院などの看板も意味なく撮影してみる。

● 日光杉並木について

119号日光杉並木。こちら、メイン道路も良いのですが、大沢を過ぎた辺りから国道は並木の脇を走ることになります。並木道はダート道、或いは一車線の舗装として、残されています。

国道を脇に作ったのは、排ガスからの杉並木保護のためかと思ったのですが、単に昔の杉並木道は幅が狭くて、国道2車線の車幅が確保できなかったからなのだそうで。その地点は、並木道と平行に国道を通しています。

こちらの道に入ると、高い杉がアーチ状に迫って空を覆い隠し、荘厳な迫力があります。一車線のパートは、日光方面からの上り方向になっているので、わざわざUターンして戻ってしまった。それだけする価値はあると思います。

● 今市近辺の連戦について

今回、日光東照宮はスルーして、今市へ。大谷(だいや)川を越えて北上します。
この辺りは、今市の戦いの主激戦地です。六方沢を越え、五十里を越えて会津の田島で軍を再編成した後、大鳥らは南下して、今市奪回を目指します。

大鳥軍の関東出撃は、官軍にとって一大脅威であり、江戸に近いだけに、地歩を固めた関東平野に対する擾乱でした。これを迎え撃ったのが、板垣退助・谷干城率いる土佐・彦根兵です。

この附近で行われた連戦は、以下の通り。

・閏4月18日、大桑の戦い(小百・大桑における東軍少人数部隊と土佐九番隊の前哨戦。官軍勝利)

・閏4月19日、栗原・柄倉の戦い(官軍が柄倉・大桑を占領。東軍猟師隊が活躍し官軍を射撃するも、押し押されつ)

・閏4月21日、今市第1次戦 (東軍は小百、高百より御料兵が出撃。瀬尾から大谷川を渡り東から今市を攻撃する沼間・瀧川部隊が、さらに東の大沢口から進撃する山川隊とタイミングが合わず各個撃破された。七里村から日光からの適援軍を阻止する大川は遊軍としてあぶれた。大鳥は自分の兵配分が悪かったと反省)

・5月1日、日光松原の戦い(会津原平太夫と伝習浅田・吉沢鎌五郎隊が日光東側で彦根兵と戦闘、敵営舎を焼き払い砲を破壊)

・5月6日、今市第2次戦(要塞化した今市に対して、東軍の総兵力戦。谷の援軍、板垣の迂回隊による包囲が完成、東軍敗退)

あと、詳細不明なのですが、瀬川十文字の戦いというのもあったらしい。
このように、今市近辺では2週間に5、6戦という一進一退の激しい連戦が繰り広げられ、大鳥も五十里、藤原、小百と本営を移しながら指揮しまわっていたのでした。

もともと、東の白河口の戦いを牽制するための東軍の今市攻めでした。今市第2次戦の敗北で大きな被害を出し、結果として大鳥軍は小兵力で藤原の狭隘な谷間の抑えとなり、残りの兵力を白河口へ派遣するという方針となりました。

この頃は梅雨で連日の大雨。大谷川は氾濫し橋は流される。その中での雨と泥の中の連戦でした。
伝習隊、ツライ戦をくぐってきているわけです。(会津・草風・貫義隊などもそうですが)

今市第2次戦では、大鳥は十人ほどの小勢で敵と打ち合い、左右の兵が撃たれ戦死して、直接弾丸の雨の中を逃げまわり、味方の兵が来た助かったと思って近寄ってみるとこれが敵で身を隠す場もなく逃げ惑い、大谷川を泳いで渡るという羽目にまで陥っていました。

大谷川は、そうした波乱を思わせるようなふしは皆目無く、ゆったりと流れていました。

● 鬼怒川ルート121号、戊辰の道、殉難の碑、小原陣地

東西に流れる大谷川に、北から注ぐのが、鬼怒川。会津西街道がこの川沿いに作られています。下野から今市、龍王峡、山王峠を越えて、会津若松、北陸・東北へ通じる街道で、縄文時代から原型があったといいます。1643年、会津藩主の弟保科正之が、険路の迂回工事をして宿駅を設置し、整備しました。日光経由の江戸参勤路として、また、廻米の運搬ルートとして使用されました。

会津西街道は、龍王峡の付近までは現在の121号と同じルートですが、その北、川治温泉や五十里湖の辺りは、東側のもっと山側の稜線を通っていました。今はもう廃道になって使用できないということです。五十里の北の辺りで再び121号沿いとなります。

大谷町、瀬尾、大桑、栗原、柄倉、小佐越、と今市戦争でおなじみの地名を越えて北上していきます。
121号は、右岸のバイパスと、左岸の温泉街沿いのルートに分かれています。
また、東武鬼怒川線が左岸側の121号と平行に走っています。鬼怒川温泉駅が、この地点の拠点となるようで、駅前が開けていました。藤原総合文化会館に、観光情報センターがあり、ここで各種パンフレットが揃い、ガイドの方から観光情報がいただけます。藤原の戦いに関連した地名を追っていますとコアな要望にも、いろんな案内地図を出してくださって、大変丁寧に教えてもらえました。

鬼怒川観光、藤原訪問をされる肩は、まずこの観光案内所を訪れられると良いのではないかと思います。

ここで、「戊辰の道」と呼ばれるルートを教えていただきました。地図には直接は出ていないのですが、ガイドの方に聞くと教えてくださいます。小原の辺りは、「小原沢古戦場跡」として整備されていました。地元史家の田辺昇吉氏、斉藤茂吉氏らが中心となって建立された「藤原の戦 殉難の碑」も、この戦場跡にあります。「殉難の碑」は、今回のツーリングを思い立った目的のひとつでもありました。

会津西街道のパンフレットには「小原沢付近では、幕府と会津藩の連合軍が、自然の地形を生かして理想的な陣地を作り、陣地前の細い一本の上り坂を上って攻撃してくる官軍を銃で迎え撃ちました。そして特筆すべき攻防は官軍大敗に終わりました」と、殉難の碑の写真戸とともにきちんと掲載してくださっているのが嬉しい。

その「戊辰の道」ですが、鬼怒川温泉駅から北へ500m、鬼怒川公園駅と新藤原駅の間にあります。121号からは、「ホテル星のや」から分かれて東側に入ることになります。戊辰の道の北側に、公衆浴場の鬼怒川温泉岩風呂があるので、そこを目指すと分かりやすいかと思います。市販の地図には出ていないことが多いので、注意です。

「戊辰の道」は遊歩道として、車道沿いに整備されていました。いくつかの案内看板があります。

「徳川の祖廟のある日光山は重要な戦略拠点で、そこに至る下野の戦いも多くの悲劇を生んだ。しかし、政府軍の土佐藩体調板垣退助や会幕連合軍大鳥圭介らの努力で日光山の戦火は回避され、やがて戦争の舞台は会津若松城下に通じるこの街道に移り、沿道の住民を巻き込んでいった」

…ごめんなさい。「巻き込んだ」と地元の方にいわれてしまうと、謝りたおすしかない感じです。
にしても大鳥、板垣と連名で称えられているのは、微妙な気分だろう。
ちなみにこの看板には、日光の板垣銅像の写真が掲げられていました…

他、藤原の戦いの戦闘概要図も掲げられているのが嬉しい。この図では、政府軍は約1200名、会幕軍は500名となっていました。人数の細かいところは、資料によって一致しませんなー。

「会幕軍は、下原(小佐越駅付近)、大原(藤原中学校付近)、藤原(新藤原駅付近)など街道筋へ主陣や前線基地を築き、装備を整えて、一日でも長く戦闘を持ちこたえ、若松城下を目指す政府軍の前身を阻もうとした。政府軍は頑強な抵抗に苦しめられたが、8月、会幕軍の主戦場白河口へ結集する退却によって前進できた。大原、藤原などの集落は、会幕軍の退却に伴って焼き払われた」

小原沢の戦いとして「進撃する政府軍が難所を越えると、道は切り通し風の上がり坂になり、大きく蛇行している。陣地を構えて政府軍を迎え撃つのに絶好の地形であった。会幕連合軍は、近隣の農民を使役して、左手小高い丘に溝形の防御施設を設け、モウキ山の麓に姿を見せた政府軍兵士を一斉射撃したのである」

と、中立的ながら、ご迷惑をおかけしたにもかかわらず、旧幕・会津軍には比較的好意的な書き方でした。
小原沢は、その名の通り、小原に沢が流れ込んでいるところです。
モウキ山は、小原の東側にある、こんもりとした高い丘です。

殉難の碑の建立の経緯は、宇都宮市立図書館にある「殉難碑建立記念史料 戊辰の役藤原の戦い」(鬼怒川史談会)が詳しいです。

殉難碑は「当地の渓流をは挟んだこの付近一帯は、慶応四年六月二十六日の戊辰戦役における東西両軍激戦の遺跡である。この碑前方の丘陵に急々に気づいた陣地に拠った東軍の幕府伝習大隊・草風隊及び会津藩隊は、陣前に肉薄してきた西軍の佐賀・宇都宮両藩隊を逆襲によって撃退し、西軍の会津進出を阻止した」

とし、草風隊村上求馬や、佐賀藩・宇都宮藩の死者の名前を留めています。撰文は斉藤茂吉氏。

新政府軍も東軍も、地元にとっては良い迷惑だったでしょうに、こうした弔いの意思が、歴史ということばに誤魔化しきれない、生きたものに対する敬虔なものが伝わってきて、なんともいえない感じがしました。

碑の近くには付近が陣地として使用された帝釈堂があり、今も塹壕跡があって、陣地の様相をとどめています。
緑が深く、人も滅多に踏み込まないのか、伝言板の屋根が倒れていて、ここで銃火が飛び交っていたとは思えない、なんともいえないしみじみとした情緒がありました。

● 旧藤原本営 星家

戊辰の道を抜けると、新藤原駅に出ます。

ここに、国民宿舎がありまして。今回の目的のもうひとつです。
ここは当時、大鳥が藤原に帯陣した際、本営とした庄屋でした。6月26日の戦闘では、ここから大鳥が飛び出し、小原・和田沼を見渡せる断崖に指揮所を設営して、次々に命令を下したといいます。刻々代わる情勢に対して采配を振るって、各部隊を派遣して、新政府軍を食い止めたのでした。

こちら、実は、ネット情報で、大鳥が地元の方から藤原を焼かないでほしいと懇願され、勿論焼くことはないと約束したが、結局退却時に藤原が焼かれることになった、その約束破りの謝罪のために揮毫し、書額が星家のホテルのロビーに飾ってある、というものがありまして。真偽は不明でしたが、とりあえず本営とされた庄屋さんである星家のご子孫の方のホテルなら何かわかるだろうと、お伺いをしにきたのでした。

星氏のホテルですが、さすがにロビーで書額にご対面、というような都合よい僥倖はありませんでした。
お伺いしてみると、現在の当主の方がおいでくださいました。
地元資料などでよく拝見する星七郎氏のお孫さんに当たる方。星七郎氏は旅行でお留守にしておられるとのこと。戊辰の役について、大変お詳しくいらっしゃるとのことで、御年98歳というから驚きです。

幸いなことに、当主の方に、いろんな地元資料を見せていただきながら、大変詳しく、話をお伺いすることが出来ました。
普段はお忙しい方でいらっしゃるのですが、日曜日でちょうどお客様が途切れた頃とのことで、運がよかったでした。


お話する際に、「戊辰戦争の事を調べていまして、旧幕・会津軍が地元の方を戦乱に巻き込んだことが…」と切り出したとき。

「巻き込まれたのではないですよ。もともとこの地方は会津のお膝元で、村人が幕軍にご協力したのです」

と正してくださったのには、背筋が伸びる思いでした。

大鳥の書については、そのような揮毫は聞いたことがない、とのことでした。
ただ、藤原を焼いた辺りの話は本当で、藤原を焼かないと約束したのに、結局焼く結果になって大変申し訳ないという、大鳥の謝罪の手紙があるそうです。

すぐに出るかどうか…ということで、わざわざ倉から文箱を出してきてくださいました。ただ、庄屋さんだっただけあり、膨大な文書があり、その中から探し出すのは短い時間では不可能でした。
栃木県教育委員会で目録が作成され、「星七郎所蔵文庫」として番号付けされているということで、その番号が分かれば出すことができるだろうということでした。

そうした手紙が残されているという事実だけでも、なんと言うか、この地元と、戦の出来事との鮮やかな繋がりが感じられ、いっそう、故人の足跡を深く感じたことです。

ご当主のお話では、旧幕・会津軍が藤原に火をつけたわけだけれども、村人には「すまないが今から焼くから大事なものをもって避難するように」という連絡が行われたとのこと。そして、星家の倉は焼かれずに残っていたから、焼くところも選んだのではないか、ということでした。

この手紙をもらって、地元の人も「まぁ、しょうがないかー」ということになったのだそうです。

そういうところにも、大鳥の几帳面さというか、ただ「戦だから」で片付けるのではない、折り目正しさを感じました。

そいや大鳥、会津の人が藤原の東と船生を焼いた際、農民に迷惑をかけるのは人心を失うとして、役を免じて罰してます。

「会人某、兵を率いて藤原より当方なる村に至り、之を焼き其帰路船生も半焼払いたるに由り、其役を免じたり。右の村落たとえ敵地へ接近し敵手に陥るときは我々に害ありしと雖も、無事の農民を虐くし人心を失うを以て之を罰したり」

大鳥自身も農民出身なわけで。地元には本当に気を使っていたのが、伺えます。

なお、戦闘の戦死者はほとんど遺棄死体となり、首級は藤原本営、つまり星家の前に晒されていたとの記述が、お持ちした資料にあった。

「やっぱり!だから前の道路、事故が多いのか。お祓いしたほうがいいな…」

とのことで。
いや、それは直線からいきなりカーブになっているので、死角になっているからだと思います。はい。

(これはご当主のジョークだと思います。決して営業妨害などではございません、はい)

あと、東軍側の死者は兵士3名ということでしたが、地元猟師隊のヤギサワという方が1名、鍋島隊に撃たれて亡くなっているということでした。

そのほか、さまざまな地元関連の話をお伺いしました。

鬼怒川周辺は、南から、高徳、大原、藤原、高原新田と、四箇所の本陣(大名の指定宿泊所)があり、それぞれ大名主が治める土地だったとのこと。宇都宮藩の飛び領地ではあったけれども、藩の直接支配の及ぶ土地柄ではなかったとのこと。産業も、自給自足以上の米が取れるわけではなく、地元の方には、殿様がいる、という感覚は無かったらしい。

一方、街道として、運輸や宿場として成り立っていた。名主は荷運びを受け持っていたが、自前の馬などで荷運びを断ると、峠でどこからかきた山賊に襲われたらしい…。なお、山王峠の名前も、その山賊に由来するのだとか。

その後も、星家は運送の会社を起し、伝票の発行などの事務一切の業務を取ったとのこと。その後、藤原軌道株式会社を設立(翌四年下野軌道株式会社)し、付近の交通を担ったとのことでした。

鬼怒川温泉は、1751年、右岸の滝の湯というところに温泉が発見されたけれども、日光奉行所の管轄に置かれ、地元の人間は入っていなかったとのこと。温泉は塩原まで足を伸ばしていたとのことでした・。大鳥も、滝の湯に隠れた官軍を砲撃した、とは書いてあるけれども、彼等が温泉に入ったという記述はしていない。大鳥軍も温泉には入ってはいないでしょう、とのことでした。
そして、1871年には左岸に温泉が発見され、今の鬼怒川温泉は主にこちらであるとのこと。

藤原は電車の駅名では「ふじわら」だけれども、「ふじはら」と読むのが正しいとか。
鬼怒川温泉も、昔は一級観光地・行楽地で、最近は景気が悪くて観光客の足も途絶え気味で、閉めてしまった旅館も増えた。現在、新宿から直通で電車が通り、首都圏とアクセスがよくなったけれども、これが日帰りができるようになってしまい、かえって宿泊客が減ってしまったので、地元としての収益は下がってしまったという面も。

「新選組が来ていたら、もっとここもお客さんが多かっただろうになぁ」

というお言葉には、乾いた笑い声を立てるより他はありませんでした。

字数制限により、ここまで…。

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2006年09月17日

藤原・今市ツーリングその2

10分もお時間いただければ僥倖、とばかりに身の程知らずに乗り込んでしまった星氏宅ですが、気がついたら2時間以上話しこんでしまっていました。
既に日も西側に傾いていたので、御宅を後にします。

● 慈眼寺

星氏からお伺いした周辺のお話の1つ。
121号沿いのすぐ近く、慈眼寺を訪れます。ここには、十一面観音菩薩立像があります。

旧幕・会津軍が藤原を去る際、藤原の集落に放火した。会津藩士中野善六が炎上する慈眼寺の境内を走りぬけようとしたとき、寺の中から女性の鳴き声がするのを聞いた。炎の中に助けに入ると、そこには菩薩様がいた。中野は無我夢中でこれを背負い、炎の中を潜り抜けて安全な場所に逃がしたといいます。

行ってみると、今はこの十一面観音様は、なぜか、「ぼけ防け観音」となっていました。どこをどう経たのかは、謎。

日光指定文化財のひとつになっています。境内も無人で、どこかに保管されているのか、残念ながら拝むことはできませんでした。

● 龍王峡

さらに121号を北上して龍王峡へ。
そこは、鬼怒川の誇る景勝地。龍がのたうっているように鬼怒川が流れているからというネーミングだそうです。長さ3kmの渓谷。白龍峡、青龍峡、紫龍峡、という箇所に分かれています。

2200万年前の海底火山活動で噴出した火山岩が、陸上に隆起してから、鬼怒川の流れに侵食されて出来たとのこと。

ハイキングコースになっていて、1時間の周遊コースと、1日がかりで川冶温泉へ抜けるルートがあります。
山川大蔵が飛んで越えたという兎跳の地点は、周遊コースから更に外れて1時間ほど分け入った紫龍峡にあり、行って戻ると2時間はかかるルート。この兎跳を見る予定だったのですが、さすがに日も落ちかけていたので断念。龍王峡を下に下った、虹見の滝、竪琴の滝の二つを見て戻ることにしました。

鬼怒川の渓流。すでにこの地点で激流でした。落ちたら本気で死ねます。泳げればとかそういうレベルじゃない。兎跳では、鬼怒川の川幅が4〜5mまで狭まっているとのこと。助走距離が確保できれば走り幅跳びで飛べない距離ではないですが。川幅が狭いと、それだけ流速も上がる。落ちたらその場で終わりですな…。
一応、兎跳には小網神社の旗竿と三間梯子を渡して渡った、という具体的な話も伝わっているので、多分梯子で渡ったのが伝説化した、ぐらいではないかと思います。私としては飛んで渡ってくれたほうが嬉しいですが。

紅葉の頃に来たら、すばらしいでしょうなー。人も凄まじそうですが。

● 鬼怒川公園岩風呂。

町営の日帰り湯施設です。500円。アルカリ性単純温泉。匂いのない無色透明なお湯です。泉温が44度というので、多少は温めているかも。
ヒノキの内湯と露天風呂あり。町内では一番有名で、日帰りの客や登山客のほか、大型観光バスでもツアー客がやってきている。その割りに洗い場が大きくないので、団体さんと一緒になると込み合って大変。

湯船はゆったりとできましたが、案の定、洗い場が争奪戦になっていました。

日曜日などは避けて、周辺の旅館の日帰り入浴を利用したほうが、空いていていいかもです。

● 帰路の厄災

温泉から上がり、ツーリングで凝った体も良い具合にほぐれました。外に出るとすでに暗闇。ナイトランは避けようと思っていたのだけれどもなー、などと呑気なことを思います。

…幸せだったのはここまででした。これから、災難に遭遇します。

まず、雨。
お風呂を出た瞬間に、瞬く間に土砂降りになりました。轟音。雷鳴。激しい夕立。
まさしく、正しく、車軸を流すが如くの豪雨襲来。
こ、これは6月25日の豪雨か、と戦く。

やり過ごそうかとも思いましたが、時間も遅いし、いつ雨が止むかわからない状況だったので、急いで雨装備に身を包みます。

そして走り出してすぐに、己の判断を悔やむことになる。
ゴーグルもいくら拭っても水が流れ、視界が確保できない。20km/hぐらいで徐行しながら、なんとか雨脚だけでも弱まってくれと、天に祈ります。
道路もいきなり冠水して、川のように水に漬かります。

激しい雷。目の前が白くなったと思ったら、近くに落ちたのか、音が劈いて、腹に響いてくる。それがひっきりない。天の怒りとはこのようなものか、と思えるほどに雷鳴が凄まじく、恐怖に涙が流れてくる。ひぃぃ、と悲鳴。

学生時代にも雨中ツーリングはさんざんやりましたが、ここまで激しいのは初めてでした。
やっぱり雨宿りをしようと思い立ったときにはすでに藤原の集落は過ぎ、身を隠すところもない山の中。

その状況では合羽も物の役には立たない。雨が水の流れになって隙間から服に入り込み、下着まで濡れそぼります。

後ろには真っ黒な雨雲。既に夜だったので、空の様子はよくは見えませんが、進行方向に向かって雨雲が降りてきている感じでした。

後から聞いたら、栃木県北部に大雨洪水警報が出されていたとのことでした。

とにかく今市まで行って、それでも嵐の中だったら身の振り方を考えようと、南下。
しばらく行くと、ようやく雨が弱くなり、すっと道路が乾いてきた。よし、雷雲を振り切った!と喜ぶ。
そのまま調子よく加速して、大谷川の橋に差し掛かる。

そのとき、いきなりハンドルが激しくぶれ始めた。何だこりゃ、と後輪ブレーキを踏んで止ろうとすると、さらにハンドルが暴れてコケそうになる。止らない。

しかも、それまで広々と開けていたはずの道路。いきなり、橋の出口から目の前が渋滞していた。
ブレーキの制動が利かない。ハンドルも制御不可。
せまる車のテールランプ。目の前が赤くなる。まだ40km/hは出ている。

……本気で死んだと思いました。久しぶりに。

奇跡的に、路肩と車の間に、バイクが入り込んでくれました。針の穴を通すように。路肩と車は、バイクのハンドルがぎりぎり入るぐらいしか開いていなかった。
それで何とか、縁石を足で削って止りました。脂汗が噴出す。

おりしもここは、大谷川。第2次今市戦では、吉沢鎌五郎、高木銓之助ら士官をはじめ、二十数名の死者、50名以上の負傷者を出した地。

ちなみに、田辺昇吉氏の「戊辰秘話日光山麓の戦」には、「こぼれ話 吹竹渡河」として、大鳥も「大谷川に飛び込んで、息がつけないので吹竹を口にくわえて潜水して対岸に渡ったということである」と、今市に伝えられている話にあるそうです…。大将がそんな羽目にまで。(亜樹さん情報。複写してましたが、この記述ぜんぜん気づいてませんでした。ありがとうございます…!)
大鳥、故郷の岩木川で鍛えていたのか、ちゃんと泳げたのだな。大鳥側の資料には見当たらないから、真偽は定かではありませんけれども、直接弾丸雨あられと撃ちかけられたのは事実で。

そんな大谷川でのこの災難。呪いか、あるいは天の啓示か、としか思えない恐怖を味わいました…
寿命が2年は縮んだ。白髪も100本ぐらいは増えたと思う。

要するに、単なるタイヤのパンクでした。
後で分かったのですが、チューブの空気入れ口の根元がごっそり破裂していた。普通の何かが刺さったりするパンクだと、ゆるやかに空気が抜けていくのでこんな突然にハンドルがブレるということはないのですが。
高速運転しているときに、チューブのゴムの劣化した部分が根元に沿っていっきに裂けたので、それだけハンドルブレがいきなり始まったわけでした。

チューブレスタイヤだと修理キッドがあるのですが、自分のバイクはチューブつきなので、タイヤをホイールから一旦外してチューブごと交換する必要がある。工具も、前輪を浮かせるための台も必要。
とてもその場で応急処置ができる状態ではありません。レッカーを呼んで工場修理しかないかと判断。

というわけで、とりあえず大谷川の狭い橋を渡りきってしまわねばならない。でないと付近の交通に迷惑。
それで、自力でバイクを付いていくわけですが。重い。パンクしたバイクって何であんなに重いんだ。(それは摩擦が激増するから) 1m、1mが果てしなく長い。

おりしも、後ろからは振り切ったと思った雷雲が迫っている。この状況で、またあの土砂降りに突入するのかと思うと、もう絶望感が募る。
何でこんな目に遭うんだ。私が何をしたというのだと、泣きたくなる。

いや、いっぱい悪いことはしてるけれど。恨みフリーな人生とはとてもいえないけれど。
なかんずく。あれだ。邪な心を持っているから悪いんだ。実際に生きた偉人を相手に変な妄想をしているから駄目なんだ。

…雷雲に怯えながら、180kgの車体を渾身押しながら、ぜいぜいと荒い息で、ひぃこらと汗だくになりながら、泣きそうな思いで、見えぬ対象に向かって、何度も謝り倒しました。
……己の腐った部分は、悔い改めようと思いました。断腸の思いで。

橋を渡ってしばらく461号を進んだところに、クリーニングの看板文字が見えた。
とりあえずそこまでバイクを押していき、レッカーを持っているバイク屋へかける電話をお借りすることにする。携帯電話を未だに持っていない開けていない奴です。

しかしその非文明さがこの場では幸いに働きました。
不幸中の幸いだったのは、トラブルに遭遇した時間が、ちょうどぎりぎり、クリーニングさん屋が開いている時間だったということ。これが夜遅くでどこも閉まっている時間だったり、山中で数kmも民家なし、という状況だったら、目も当てられないところでした。

それで、宇都宮でレッカーを持っているバイク屋さんに電話で連絡。任意保険のサービスで、引き取ってもらう。修理は即日でできるので、宇都宮までトラックで一緒に工房に行って修理を待ち、それから帰宅することにしました。

レッカーが来るまで1時間半ほど掛かるとのことだったのですが。
クリーニング屋さんの親父様は、もう店を閉める時間なので、隣の自宅のほうに入りなさいと進めてくださった。夕べの団欒時間に申し訳ないと思いつつ、ありがたくお邪魔する。地獄に仏の思い。

息をつく間もなく、案の定、激しい雷雨がやってきました…。危機一髪でした。

● 今市地元話

レッカーを待つ間、クリーニング屋さんの親父様と奥様に、今市のいろんな話をお伺いすることができました。
地元の方ならではの団欒に花が咲く。

日光杉並木は、天然記念物に指定されている反面、それゆえに住民は杉には手出しできない。
冬は日当たりが悪くなり、背の高い杉のせいで1日中日陰になり、気温以上に寒いとか。
古くなった杉は、枯れやすく、木立折れてが家に落ちてきて、家を破損することがある。そのときも杉のほうが昔からあり、後から移り住んできたほうが悪いということで、公からの補償は何もされないとか。
そんなわけで、地元の人たちには、さっさと切り倒して欲しいという本音もなきにしもあらずだったり。

ただ、杉のおかげで産業もあって、線香がそう。杉並木を走っていると、どこからともなくいい香りがしてきます。で、線香産業の工業化については、淡路島から技術を学んだのだとか。ふとしたつながりが嬉しい。
ただ、線香ももう中国・東南アジアとの価格競争には勝てず、閉鎖する工場も相次いでいるとのこと。

他、合併で、今市市の名前がなくなり、日光市となったことについては、寂しい、面白くないという感情もあるのだ、とか。

江戸と日光を結ぶ街道の話について。宇都宮の西側を通る121号の例幣使街道が江戸と日光を結ぶ最短距離で、当時の江戸-日光のやり取りはこちらが使われたのだとか。

トラブルの中でこそまみえられた、地元今市の方のお話でした。

中学生の息子さんがいらして、歴史の時間に、板垣退助がここで戦争をした、ということを歴史の先生から聞いて興奮して親御さんに話してくれたとかいうのも、ほほえましかったです。

身の程の知れぬ突然の闖入者を暖かく迎えてくださって、食べ物も下さって、人様のご親切にあやかって、人情に涙します。
そんなこんなですぐに時間も経ち、レッカーが来る。話に花が咲くと時間の流れも速い。
ご夫妻には深く深くお礼を申し上げて、トラックに同乗し、宇都宮の工房へ向かいました。

● 宇都宮から帰路

今市を発つときには、まだ雨が降っていました。夜の道を宇都宮へ向けてトラックで走り、バイク屋さんの工房でパンクの修理をしてもらいます。

ついでに前後輪に窒素ガスを入れてもらって、タイヤの状態は万全に。(普通の空気ではなく窒素にすると不活性なので、ゴムの劣化をある空気に比べると防げる)。修理代は工賃含めて5000円ほど。

終わったらすでに夜中近い。工房のお兄さんには激しく残業していただいて、頭が上がりませんでした。
外に出てみると、星が燦々と瞬いていました。あたかも、悔い改めを祝福するように。

実は、宇都宮の亜樹さんのところに夕方にお寄りして、サプライズなご挨拶だけでも、などと考えていましたが、その夢はあっけなく潰えました。

疲れたのでこのまま宇都宮に泊まろうかとも思いましたが、翌日は日常どおりの会社。業務も山積み。幸い空は晴れ。よって、疲れきった体に鞭を打って走る。

帰りはわき目も振らず。交通量も少なく直線ルート。万全の状態のタイヤで高速度巡行。
往路は写真を撮ったりしながらで、宇都宮までは3時間近くかかったのですけれども、復路は結局、1時間40分程で着いてしまった。新幹線より早かった。勢いあまってスーパー銭湯に入って、サウナで更に汗を流しきったりして。

帰宅は1:30。…終電帰りの普段と同じでした。

そんな感じで、幸せと散々な不幸の入り乱れた一日でした。
無事に帰宅すると、気も大きくなる。
祟りとか物々しく阿呆を言ってみましたが、後から思うと、雷雨については、宇都宮を含めて今市、鬼怒川方面は、高い標高の山に囲まれて上昇気流がおき、夕立の激しい雷雨はしょっちゅうあるとのこと。

タイヤのパンクも、元々、タイヤの空気圧を低めにしていたのが悪かった。速度が若干でにくい反面、グリップがよくなり雨でも滑りにくくなるのと、若干車高が下がって足つきがよくなるのとで、普段から空気圧を下げていたのです。それが劣化したチューブのゴムに負担になって、裏目に出たのでしょう。もう10年もののバイクですし。

それでも、これら計ったように災難が連続して藤原・大谷川で起きたということで。何らかのモノを感じずにはいられませんでした。基本的に怖がりなんで。あほらしいでしょうが、本人は本気です。

そいや以前小佐越付近を走っていたとき、いきなり誰かが乗ってきたかのように後ろの座席がズッシリと重くなって、金縛り状態になったことがあったことを思い出した。錯覚なんでしょうけれども…。
…星氏のお話もあることだしなぁ。あそこのルートはもう怖い。また性懲りもなく行くのでしょうけれど。

そんな感じで、なんともはや。終わってみると、充実しまくった一日でした。
苦難は人間を豊かにします。などと、ほざいてみる。

祟りを恐れると同時に、受難に遭ったのが大鳥と同じ場所ということで。そこに一抹の嬉しさなぞも感じてみたりする。
そして、懲りずに次の連休は、何とか2日の休みを確保して会津磐梯の大鳥・伝習隊流浪ルートを走りたいなぁー、などと考えている。

…多少悔い改めても、この救いようの無さは、相変わらずな奴です。
ここ、1ヶ月以上書き込みが無くなったら、とうとう地獄に落されたかと思し召しください。

posted by 入潮 at 02:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

樺太とサハリンエナジー

ろ、ロシア…。
こいつは国辱か、と思いました。資源自給率の低い国はこうやって足元を見られるんだ。

サハリンII。
可採埋蔵量は原油約11億バレル、天然ガス約18兆立方フィートを有する、ルンスコエとビルトン・アストツスコエ鉱区を開発するプロジェクト。ロイヤル・ダッチ・シェル社(英・蘭)55%、日本からは三井物産が25%、三菱商事が20%を出資したサハリンエナジー社が実施主体。日本にとっては、エネルギー源を中東に依存し過ぎないための、エネルギー安全保障のための開発。
このプロジェクトに対して、ロシア天然資源監督局が、事業許可承認を取り消す決定下した。
理由は、「環境対策に不備がある」とのこと。

…あれだけお金と時間をかけてEIA(環境影響評価)をやらせといて、今更それか…。(EIAのレポートはサハリンエナジー社のWPにある)
無許可で樹木を伐採した事例が54件あったとのことですが。そりゃ、いちゃもんレベルだろう。

鮭の遡上を妨げたというのもあるようですが、そういうのは事業への反対を目的化したNGOの常套手口。データを出さずにまず定性的なことをいって、批判だけする。データを出すとどうとでも見えるように見え方を作ってくる。

(環境を破壊してもプロジェクトを進めるべき、といっているのでは決してないです。ただ、事業者は何億円単位で月日をかけてEIA調査をし、環境保護のための代替手段も講じ、企業としての社会責任を果たした。そこに事業反対のための感情的な環境破壊反対を起すのが、売名行為めいていて好かんのですわ…。
本当に必要なのはその事業の便益を確保しつつ環境影響を減じるための、技術的な代替手段の提案でしょうに。鮭の遡上ルートを別の河川に創生するとか。
本当に環境保護活動をやりたいなら、そういったミチゲーション(緩和・軽減)手段のための予算を、実施主体の企業と国やUNDP/UNEPのGEF(Grobal Environment Facility)あたりから確保して、ミチゲーションプロジェクトの主体となるぐらいの根性を出してもらいたい、と思ってしまうのです。環境は「守れ」と口で言えば守れるものではない)

それで、事業停止命令ながら、「事業が白紙に戻ることはない」という露政府見解。

これは「国営ガス独占企業ガスプロムはサハリン・エネジーの株式25%譲渡をシェルに求めているが、両社の交渉が進んでいない実情があるため」「建設停止が事業主体の企業価値の下落につながり、株式取得を目指す同国のガス独占企業、ガスプロムの本格的参加などより良い条件を引き出すことにあるとの見方が有力」

(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000032-mai-bus_all)
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000785-reu-bus_all)

つまり、環境問題でケチをつけてEIA承認を取り消し、事業停止まで追いこんで、サハリンエナジー社の株価を下げて、自国の国営企業(株の過半数は露政府)に安価で株を取得させる。
それで、他国に投資させるだけさせておいて、建設が8割すんで、事業がいざ回収段階に入ろうとしたら、その権益だけもらおうってことか。

環境問題というのは、一番、難癖をつけやすい。どんな事業でもパーフェクトな環境配慮なんてできない(木の一本一本、動物の一匹一匹数えていられない)。どんな形でも文句はつけられる上に、世論は味方にできて、正義を振舞える。
それで、ロシア、WWFはともかく、あのグリンピースまで呼んで記者会見とは…。(http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20060920&j=0026&k=200609203026)

それで、原油高だからって、たやすく事業撤退は無いだろうと、うまい汁だけ啜ろうと、こうして大きく出る。
こういう国をこそならず者国家と呼びたい。

(しかし事業収入が100億円で、投資額200億ドル。三井物産、三菱商事の投入は計9000億円。よく回収の目処立てたなぁ。単純計算で200年以上…?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060919-00000823-reu-bus_all
http://www.sankei.co.jp/news/060920/edi001.htm
…いっそ日本近海のメタンハイドレードの開発に当てたほうが良かったのではないのか、という気がしてきた)


日本は、なにせ資源がないから足元を見られる。日本の最大天然ガス輸入相手であるインドネシアも、エネルギー輸入国に転落する。
そして、ロシアなど何百年も前からずっと不条理にいじめられ続けてきた国に頼らざるを得ない。
安全保障の組み先がまったく安全じゃない。

安全をうたうなら、アメリカ国債を買うより、資源保有国の国債を買いあさって、いざというときに国債を大量放出して価格の下げ脅しができるようにする、ぐらいの度胸がほしいなぁ。
そのためのファンドがもし公募されるなら、自分はなら喜んで長期で組む。…いや、そんな資金はありませんけど。

でも、雀の涙も蒸発するような利子0.1%で貯金して、その金が14%とか28%とかの高利の消費者金融に廻されているのが現状かと思うと。

なんつーか、不条理さに涙がでます。

5年ほど前にサハリンに行ったときは、大規模森林火災で焼けおちた、森の墓場ともいうべきタイガが延々と続く。不毛で寒々しい。夏に高山植物が生えるぐらいで、後は1年間風雪の中。いるだけで心が泣けてくる土地。食料も手に入らなければ泊まる宿もない。高校生の就職希望先、男子1位はマフィア、女子1位は娼婦という、荒んだ土地柄で。希望といえば石油・ガス会社の落としていくマネーぐらいしかなかった。

今もあまり状況は変わってはいないのでしょうが…。
あの寒々しい地域がますます国際利権争いの道具になっているのを見るのは、やりきれないものがあります。地元にとっては資本が入るというのは幸せなことなのでしょうけれども。

さて、サハリンといえば樺太。樺太といえば黒田。

明治3年5月9日、黒田は、樺太開拓使に就任しています。
当時、日本近海におけるロシア兵の暴行にたまりかねて、樺太出兵論がおきたのですが、黒田は非戦論を唱えていました。財力不足、兵制整わず、人材欠乏がその理由です。
就任後、黒田は国境安定のために、樺太に向かいます。

黒田が樺太に赴く際、木戸さんが、黒田に歌を贈っています。

地球は一塊物 何ぞ必ずしも東西を論ぜん
行きて偉業を為せ 賛ふべし造化の功
鯤魚大鬚を振い 飛んで北海の中に入る

造化:天地とその間に存在する万物をつくり出し、育てること
鯤魚:中国古代の想像上の大魚。北方の大海にすみ、大きさは幾千里

地球はひとつの塊。東西を分けて論ずる必要などあろうか。
大鬚を振った鯤魚(黒田)が、今北の海に入る。

……木戸さん。熱いです。
榎本らの処遇に関しては対立もありましたが、基本的に木戸さんって黒田の理解者なんですよな。
(タッグを組んで一緒に征韓論反対したり。明治7年5月に木戸が病に伏していたとき、黒田は八代口戦記と戦闘図を木戸に贈って見舞ったり。)

この詩をそのまま、三井物産さん、三菱商事さんに捧げたい。

樺太において、黒田は露国官吏と親善を尽くし、紛争は万国公法に照らして処分すると約しました。

それで、樺太開拓使を北海道開拓使の管轄においた挙句、「三年ももたん」とあっさり手放した黒田の判断の豪胆さが、頼もしくてしょうがないです。

その黒田も、サハリンが宝物庫になって、またロシアに日本がいじめられていると知ると、なんと思うか。
明治から昭和まではたとえサハリンを領有しても荷物になるだけだったから、関係ないだろうといえばそうなんでしょうけれども。

…井黒本を見ていると、感化されまくって、黒田贔屓になりすぎて困ります。
まとまり無くてすみません。

(参考:井黒弥太郎「黒田清隆」吉川弘文館)

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2006年09月22日

会津まつりと大鳥会津裏磐梯流離ルート

[1] 入潮 2006/09/22(Fri)-19:11 (No.165)
うーむぅ…。

http://www.aizukanko.com/festival/autumn/aki-23.htm

山川と大鳥が並んでいるのがいいやね。日光口で固めたのが通です。

これが無くても明日ツーリングに行こうと思っていたというか。今の今まであることを知らなかった。道が混雑してそうだなぁ…
(連休は仕事と雨で潰れた)

目的は会津若松もあるのですが、兎跳リベンジと、石筵→山入村(場所わからない…)→母成グリーンライン→木地小屋→秋元湖→大塩村→桧原湖→綱木峠(ガレたダート林道、行けるか…)→慶徳→木曾→長窪→ドロブ峠(どこやー)→小田村(ここも不明)→秋元ヶ原リターン→高森→土湯温泉→福島→桑折→仙台
…の、大鳥・伝習隊の涙と苦悶の漂白流浪ルートを追ってみること。

さすがに仙台までは無理っぽいですが、檜原周辺と木曾口は行っておきたいなー、と。
当時を偲ばせるものは何もないでしょうけれども。大鳥のたどった道の距離感だけでもつかんでおきたい。
1日50km、3000mの標高差、道なき道を歩いた大鳥の後を追う。軟弱現代人の自分にはとても無理。足があるからできる技です。
足はいつもの、YAMAHA TT-250R Raid。

出陣式は無理そうだけれど、帰陣式と、できれば彼岸獅子も見てみたいなぁ。
午後3時ごろから、本丸のステージ周辺を、南柯紀行(新人物往来社版)片手にフラフラうろついていると思います。もしいらっしゃる方がおられまして、見つけてしまったりしまわれましたら、お、お声掛けしてやってください。
「大鳥圭介が好きなんですか?」とか言っていただけたら、その場で貴方にロックオンです。

…また無理なこと仕掛けているよとあざ笑ってやってください。

温泉宝庫ルートでもあるから、2日掛けてゆっくり回りたかったのだけれど。
日曜日は天気悪そうだし、オーバーワーク覚悟で日帰りで行ってみよう。4時起きだ。…いつもの就寝時間か。


    [2] ままこっち URL 2006/09/23(Sat)-11:41 (No.166)
    入潮先生〜
    もうお出かけでしょうね・・・気をつけて(祈)
    今年の会津まつりは、大河出演者の参加がないので、30万人規模まではいかないかな?と思います。天気は心配なさそう、ですね。
    私は来週後半、高湯温泉に1泊、東山に2泊して来ます。↑のルートでは土湯峠、戻って秋元湖、桧原湖、あたりは行く予定です。ダンナに「いつも史跡ばっかりだから、たまには違うところに行きたい」と釘をさされましたが、白河城、二本松城、世良捕縛地などは絶対行くつもりでいます。
    ああーっそうそう木地小屋に気になるお蕎麦屋があったんですが・・・(遅い)
    レポート待ってます♪


    [3] 葛生 2006/09/24(Sun)-00:06 (No.167)
    ええと、拝見したのが遅かったので遅すぎる情報提供になってしまって申し訳ないのですが。
    「ドロブ峠」と「小田村」。たぶんこれじゃないかなという地名があります。

    ○ドロブ峠
    喜多方市山都町から大谷という集落を抜け、陣ヶ峯峠(陣ヶ峰@南柯紀行)に抜ける道が、恐らく9月2日の行軍路じゃないかと思うんですが、その陣ヶ峯峠の南側に富士山という山があります。で、これを「左の山@南柯紀行」だと推測すると、山の南西に「泥浮」という集落があるんですよ。読みはまさに「どろぶ」。そして、陣ヶ峯峠の手前にある立岩という集落から、尾根を越えて「泥浮」に向かう山道が地図にあります。この道の峠部分が、「ドロブ峠」だったりしないのかなー、と。
    南柯紀行の記述によると、「左の山に第二大隊を展開して敵の後背を撃とうとし、ドロブ峠に登った」ということなので、位置的にもぴったりかと。(そしてこのへんで道に迷ったのねと考えるとわくわくします…。)

    ○小田村
    喜多方市内に「字小田」という場所があります。喜多方市立図書館の西側です。新撰組の島田魁の日記には「塩川小田」と「大塩小田」の地名がありましたが、両方とも現在の地図からは発見できませんでした。が、島田が「小田」という地で「付近に屯集の兵隊並びに新撰組およそ二千余人は、(略)一同評決のうえ、仙台ならびに福島に赴く」ことにしたと書いているので、大鳥の「小田村」と同じ場所と考えられます。そうすると、喜多方市付近というのは位置的に妥当かな、と思うのですが。

    地図見て憶測するばかりの机上人間なので、たまには入潮さんやままこっちさんのような行動力を発揮しないとー、としみじみ思います。思いながら今日も家の中です…。(ダメダメ)
    お二方とも、無事のお帰りと楽しいレポートを心待ちにしておりますvv


      [4] 入潮 2006/09/26(Tue)-03:05 (No.170)
      ● ままこっちさま

      お祈りくださって、ありがとうございます。おかげさまで無事に帰宅できました。
      史跡にメディアのブームの影が見えると、とたんに訪れる気がしなくなる、ぐーたらな奴です。大河の余波があったら、会津若松には寄らず逃げていたと思います。

      高湯はまこと、良いお湯ですよなぁ〜。そこに一泊とはお目が高い。安達屋旅館や玉子屋がすばらしいです。外来OK。公衆浴場もありますし、巡り湯されてはいかがでしょうか。

      そのルートですと、磐梯スカイラインも走られるのでしょうか。強風ですのでどうかお気をつけくださいまし。
      土湯は有名ですが単純泉でして。せっかくなのでちょっと足を伸ばして不動湯か鷲倉・野地・新野地あたりの硫黄泉に入ると、東北の野趣が堪能できて良いかと思いますー。

      檜原でしたら、ぜひ県道2号・64号の桧原湖周遊コースを回られてください。そして、一番奥の金山で、綱木に向かい米沢に拒否されてすごすご引き返してきた圭介にこっそり思いを馳せてみてください。…もとい裏磐梯の包み込むような自然をご満喫ください。

      二本松城は、討ち死にの枕にされてしまったので、もう跡地は観光地です、ということで。ぜひ旦那様をだまくらかしてくださいませ。

      木地小屋蕎麦屋。そういえばのぼりが出ていました。「おおほり」という名前で、一瞬ドッキリしました。一人だと全く食に気が回らないもので、スルーしてしまいました。自分の分まで堪能してきてくださいー。

      ● 葛生さま

      詳細に調べてくださって、ありがとうございます。助かりますー。
      南柯紀行の西会津ルートは、多分、県道16号・336号とその近辺の間道だったかと思います。

      泥浮。この上なく嫌な地名です。山歩きにとって。
      漆窪村までは見つかったのですが、その後、濃い霧の中、自分も迷いに迷いまして。どこが田んぼのあぜ道で、どこが車道かわからないという有様。泥浮は結局地図上でしか発見できませんでした。
      ただ、「峠」といいきるには、地形的にはちょっと厳しいんですよな…
      陣ヶ峯は高郷村と西会津町の境の峠で、霧に閉ざされていて大変怖かったでした。ここも死者がでていましたし。

      ちょっと迷ったのが長窪で、木曾から陣が峯に行く途中から北に分け入ったところにあります。ただ「木曾より二里」「極めて高い山」とある割には、木曾からの距離が4kmほど、他に高いところはいくつかある、という場所でした。一方、それより南、木曾から20kmほど、R49号を越えて県道342号沿いにもやはり「長窪」があり、こちらは高い山だったりする。そして、後者の「長窪」に木曾から向かう途中に「漆窪」があり、さらに後者長窪の西側、国道400号の東側に「泥浮山」があったりする。
      つまり、

      北側: 県道16号+県道338号沿い、長窪-漆窪村-泥浮

      南側:県道16号・国道49号以南 漆窪-長窪-泥浮山

      の二通りが考えられてしまいます。
      多分北側のルートのほうが正しいと思うのですけれども。どれか一つぐらいは混じっているかもしれない。惑わしてくれます。西会津。

      小田村のほうは、大鳥や兵の移動経路から、喜多方しかあるまいとは思っておりました。後で分かったのですが、JR喜多方駅の北東に約500m、県道16号沿いに、その名も「小田」というところがありました。R459号から県道16号に抜ける際、そこと字小田のあたりも通っておりました。おかげさまで、結果オーライです。

      こうやって迷いまくるのも、圭介はもっとわけわからず、迷って泣きそうだったんだと思うと、また、趣深いものでした…

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2006年09月25日

会津裏磐梯西会津福島ツーリング

はー…
こうやって書き込みを打っていると、生きて帰ってこれたのだなぁ、という気がします。大げさですが。

走行距離、2日間で924km。
高速なしで、オール下道。

1日目朝4時から、2日目朝5時から。走りも走ったり、という感じでした。
前回の藤原・今市のようなアクシデントはありませんでしたが。さいさいあってたまるか。
疲れ果てました。

尻が痛い。股が裂けそう。足が重い。腕が上がらない。首と肩が石のようだ。
両日とも、1日の半分以上は寒さの震えで歯がかみ合わないままだったので、顎の奥の骨がなんだかおかしい。
もう当分バイクは見たくないです…

基本方針は、「藤原から桑折(福島)まで、大鳥が歩いたルートを、道が残っている限り、忠実に追う」でした。
(桑折→仙台は駕籠だったからパス。…いや、仙台まで出ると本当に自分が帰れなくなるから)

桑折までの地点はだいたい巡れました。まだ2,3逃した点もありますけれども。
ただ、後から旧道があるのがわかったり、南柯紀行をよく見返してみると違うルートだったり、日没でギブアップしたり、迷って辿り着けなかったりなどで。なかなか大鳥ルート通りとはいきませんでした。

身に染みて分かったのは、大鳥・伝習隊・衝鋒隊の面々の体力は人間じゃない、ということでした。
大鳥も体力だけじゃなくて、精神力が化け物並だと思った。勿論、疲れた、苦労したとつらつら書いてますが。過ぎたからこそ言えることで。あれだけのことを実行したその心と体に、なんというか、放心する思いでした。
自分がやったら「苦楚百端至らざる無し」どころの話ではない。廃人になると思いました。

昨夜は大塩で、テントで単独野営でした。大塩は裏磐梯の奥、喜多方へ抜ける道沿いの山中。大鳥が母成で死んだと伝習隊に思われてて、再会して生を喜び合った場所でした。
寒かった。暗かった。怖かった。寂しかった。侘しかった…
裏磐梯って、独特の幽愁と圧力のある場所だと思います。

今日は寝ます。
やっと、眠れる……
まだエンジンの音が頭の中に響いている…
posted by 入潮 at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上郡・藤原・会津路フォトギャラリー

整理がつきそうにないので、とりあえずフォトギャラリーにしてみました。

上郡・閑谷へ抜ける山道、皆坂の滝
http://members2.tsukaeru.net/irisio/slideshow/060825Kamigori_s

今市・藤原
http://members2.tsukaeru.net/irisio/slideshow/060910Fujiwara_s

壬生・鹿沼・日光例幣使街道・山王峠・田島・若松・中山峠・母成峠・裏磐梯・西会津・猪苗代・土湯・福島・桑折
http://members2.tsukaeru.net/irisio/slideshow/060923Aizu_Bandai_s

写真だけだと、どれがどこだか、って感じです。
人様のお顔とか、眼鏡がサングラスになっていたり、不自然に影が多くなったりしていますが、気にしないでください…

叱られそうなので、折りを見て、下げます。

posted by 入潮 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月27日

お買い物

ネット買い物しちゃった。
ハクキンカイロと2Gフラッシュメモリ。

ハクキンカイロは、白金触媒を使ってベンジンを低温で触媒燃焼させることにより、長時間の暖が取れるというもの。通常の酸化鉄のカイロとは違って、廃棄物も出ない。熱量は使い捨てカイロの13倍。軽いし暖かい優れもの。

歴史は結構古く、大正末期には発明されていたらしい。戦前・戦中には郵便局や軍隊が愛用。昭和37年の南極観測隊も使ったとか。

掲示板でライダー大絶賛だったので、購入してみました。晩秋ツーリング用。あと冬のモンゴル・ブータン対策。

気合の入ったファンがいて、非公式サイトまであります。
http://www.geocities.jp/hakukinwarmer/

もちろん、ツーリングだけではなく、冬山や天体観測、警備員バイトなど野外で一日過ごす際には大活躍かと。

フラッシュメモリのほうは、2Gで4000円ちょいだった。何でそんなに安くなっているのー。3年ぐらい前、成田で128Mメモリを買ったときは1万円近く払った覚えが。記憶装置のコスト安、留まるところを知りませんなぁ。

早く届かないかなー、ウキウキ。
…たまにはこういうモノを買って喜んでいる若い(というには難のある)娘が居てもいいだろう。
実用性は何よりの美なのです。


ようやく、疲れが取れてきました。まだ肩が痛いですが、これは慢性。
月曜日などは歩くのも億劫でした。
日焼けとゴーグルずれで、赤白パンダ状態。鼻の頭とほっぺたはガサガサ、上唇が荒れてガピガピになっている。人様の前には出られない体です。たかが1泊2日の行軍ごときでこの羽目に陥るとは不覚。

昔は40日とか野営を続けて、この程度の疲れも1日眠れば回復していたのに。こうして人間衰えていくのな…。
東京生活がいかに人間の生命力を蝕むか。いや、ただの老化か。まぁ、今の体にあった無理の仕方があるということで。

レポートですが、書くことが膨大で、何から手をつけてよいのやら、という感じです。
写真と一緒に整理したいのだけれども。
母成等は周辺状況を整理するのも一苦労。会津や新撰組でさんざん研究され尽くされているかと思いきや、大鳥視点から触れてみると、案外書くこと一杯あるのですよな。
特に、裏磐梯檜原の流浪と西会津のゲリラ戦闘は、置き去りにされている感があるので、丁寧に触れていきたいなぁと思います。

大鳥の真髄は、六方越と檜原の漂泊にあると思っています。
posted by 入潮 at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月30日

会津磐梯ツーリングその1 会津まつり

レポートというか、道中備忘メモ行きます。

ルートは以下の通り。

(9月23日)
R294号→R408号→R352号→壬生→鹿沼→日光例幣使街道→今市→R121号→五十里湖→横川→山王峠→田島→会津若松→鶴ヶ城(会津まつり)→R49→十六橋→中山峠→県道42号→萩岡→母成グリーンライン→母成峠古戦場→東軍殉難者慰霊碑→沼尻温泉→木地小屋→大島原→秋元湖→レークライン→R459→大塩→檜原湖→金山→綱木峠入口→大塩(ラビスパ裏磐梯)

(9月24日)
大塩→R459→喜多方(小田)→県道16号→慶徳→木曾→長窪→高郷村→県道338号→陣ヶ峯→漆窪→(泥浮果たせず)→石坂峠→西会津町→上野尻発電所→R49号→県道16号→喜多方→塩川→県道7号→大寺→猪苗代本陣(亀ヶ城)→県道2号→R115号→高森→鷲倉温泉→土湯峠→土湯温泉→鳥渡→R4号→福島→瀬上→桑折→R349号→霊山町・月館町・川俣町・船引町・小野町・平田村・古殿町・鮫川村・塙町・矢祭町→東舘温泉→R118号→里美村・太子町・山方町→県道104号→R6号→水戸→土浦→取手

走行距離924km。ALL下道。…我ながら良くやったと自分を褒めたい気分と、何を馬鹿やっているんだとどつきまわしたい気分が混在しました。
いくら東北の道が走りこめるとはいえ。二日連続で450km越の下道を走るのは、馬鹿でした。

前日就寝1時。朝、4時起床。
会津まつりは、猪苗代近辺を走ってから帰陣式を見ようと思っていた。前日に亜樹さんから、帰陣式はみんな疲れ果てているからしゃっきりしない、出陣式のほうがいい、とオススメいただく。よって、出陣式に間に合うように早朝に出発を決意。この時点で無謀さが追い風になっている。無理はある程度覚悟。

長時間のソロツーリングになるので、荷物はできるだけ軽く。温泉セットと地図の他は、テントと寝袋、最小限の野営道具のみ。南柯紀行、戊辰戦役史などの史料が入るのが、いつものツーリングとの違い。手早くパッキングを終わらせて、4時半出発。

R294号をまっすぐ北上。暗かった空が、白々と明けていく。交通量は少なく、たまに大型が通るぐらい。直線のR294号を北上。宇都宮方面を目指す。
前回の藤原ツーリングが、止まると汗が噴出すぐらいの暑さだったので、気温を甘く見ていた。夜明け前の冷ややかな風に晒されて、すっかり体が冷える。

○ 壬生・鹿沼・例幣使街道

いつも宇都宮に出るのにR4号に一度入るのですが。今回はルートを少し変えて、壬生・鹿沼経由にしてみる。
日光例幣使街道に入った。江戸と日光奉行所を繋ぐ街道。途中に壬生がある。ここまでで2時間弱。
壬生の街中の区画は、昔の城下町の風情が少し残っている。

壬生は、佐幕に与し大鳥軍を通過させたかと思うと、官軍が迫るとあっさり恭順して官軍を城の中に入れた。これを良しとせず、大鳥は宇都宮から壬生攻めを決める。

結果が失敗だったために色々言われている壬生攻めであるが、一度手中に入れた宇都宮は街道の交点であるため、周辺が平定されていないと基地としての安定度が下がり大変危険である。周辺が安全であって始めて宇都宮の価値がでる。壬生攻めはそれを考慮したものと考えられる。
また、壬生藩の大砲奉行友平慎三郎が、宇都宮の大鳥に内通して壬生を攻めるよう勧めた。慎三郎の父友平栄は大鳥の江川塾時代の同僚だった。大鳥の壬生攻めの決定にはその点も働いたものではないかと思う。

壬生寺の付近で、朝ごはんと、冷え切った体を温めるために、コンビニおでんを胃に入れる。この辺りを雨の中、大川が、敵に対して味方のフリをして城下に忍び込み、放火し、身を隠して敵将を狙撃して首を取ったんだなぁ、と思いながら。

体も温めて、しゃっきりしてから、鹿沼へ。4月19日、前軍が焼き尽くした宇都宮を脇に、大鳥中・後軍がひとまず兵を入れたところです。地勢は良くなく、山腹に寺院があり、そこに兵を入れたとのこと。山腹ということは今の鹿沼市内よりもう少し東かもしれない。

鹿沼を抜け、御成橋を渡ると、例幣使街道の日光杉並木が始まる。宇都宮から今市にいたるR119号の杉並木も良いけれども、こちらは道幅が狭くて樹木の密度が濃く、迫り来る感じで迫力がある。朝の早い時間、交通量が少ないうちに一気に駆け抜ける。杉並木からもれる朝日。爽快。

○ 五十里湖・山王峠

今市を抜け、大谷川を渡り、R121号を北上。川冶温泉から五十里湖に至る。もともと五十里は、江戸日本橋から50里の距離にあることからこの名前がついた。天和3年(1863)の日光大地震の際、山が崩れて川がせき止められ、天然の湖ができた。これが享保8年(1723)の長雨の際に決壊して大洪水を引き起こし、周辺の村に大きな被害を及ぼした。
藤原の戦いが起こった慶応4年6月25日、大鳥が山川と打ち合わせのために藤原より後方、北に分け入ったこの五十里の集落に来ていた。

今はダムが建設され、この五十里の集落はダム湖の底に沈んでいる。五十里ダムは、当時始めて堤高100mを越えた重力式コンクリートダムで、建設当時は日本一の高さだった。
121号は巨大な橋が掛けられているが、左岸側に旧道があり、こちらをてくてく行く。旧道といえど大鳥のいたころとはだいぶ様変わりしているのだろうが、楽しかった。

R121号を北上。R352号とR400号と合流し、国道の案内標識は三つの番号が縦に並んで示される。
大鳥が竹本登と共に会津に向かう際、7月22日に一泊した横川を抜けて、山王峠へ向かっている。
過日、閏4月3日、六方沢を越えてきた大鳥が峠下の一軒茶屋で山川大蔵と出会ったのもここ。大鳥は山川に出会い「君侯の艦裁、 様々に打ち合わせて力得ること大と喜ぶ」と力付けられていた。

今は山王トンネルになっている。地図上には旧道もあるが、今はチェーンが張られていた。落石か何かで通行止めになっているようだ。残念。旧道は抜けるのも時間がかかりそうなので、ここは素直にトンネルを抜ける。

山王峠が、栃木県と福島県の県境である。同時に、関東と東北の境目でもある。バイクにつけてあるツーリングマップも、関東編から東北編に入れ替えをする。旧幕の大鳥と会津の山川が出会っていたのは、地形的に象徴的なところだった。
(山川も江戸で伝習訓練を受けていたので、この峠より前に江戸で両者が会っている可能性も無きにしも非ずなのだけれども。大鳥の書きぶりからすると、なんとなくここが初対面っぽい)


○ 田島

峠を越え、分水嶺を越える。併走する川は、鬼怒川ではなく、阿賀川になる。阿賀川の別名は大川で、近辺には大川と名のついたものが目につくようになる。

田島の集落は奥会津の中心地で、日光街道の宿場町。
閏4月5日、六方沢を越えてきた大鳥が、大隊を再編したところでもある。ここから大鳥軍は南へ引き返し、今市攻略を目指した。そして板垣土佐軍に破れ、藤原に篭った。また、会津へ向かう際、7月23日・24日に2泊している。

稲がたわわに実った黄金の風景。心和む。豪雪地帯らしく屋根は急な角度がついている。数は少ないながら茅葺屋根も未だに残っている。

R121号道沿いに「清水屋」という旅館があった。幕臣望月光蔵が土方歳三に面会して枕を投げられたという「清水屋」は、若松の七日町とのことなので、多分関係ない。

湯野上温泉、芦ノ牧温泉という温泉地帯を抜けて北上。湯野上は無料混浴露天風呂があるらしい。この時点ですでに朝9時近い。もうすぐ会津まつりの出陣式が始まる。時間があればぜひ立ち寄りたかった。

R121号はR118号に合流します。

○ 会津まつり

祭りというだけあり、通行規制や駐車場が心配だったのですが。
何も考えず118号を北上していたら、鶴ヶ城のお堀が見えました。
お城の正面にあるスイミングスクールの駐輪場がガラガラだったので、申し訳ないと思いつつ、その脇にバイクを止めさせてもらう。ここまで出発点から4時間半。すでに股が痛い。良い具合の休憩になります。

お城に入ると、ぬけるような青い空に白いお城が聳え立つ。その前に、赤い鎧の伝騎兵が馬に乗って巡ってくる。絵になるなぁ。
水路跡や兵器倉など興味い構造物の跡もあり、見ているといくらでも時間が過ぎそう。

お城の正面に回ると、ちょうど出陣式が始まる頃でした。時間ぴったり。

今まで、五稜郭などもそうですが、実はあまり祭りは見に行く気は起こらなかったのです。
だって、見るだけよりも、当事者になったほうがずっと面白いじゃないですか。
昔は毎年阿波踊りで練り歩いていた、まさに踊る阿呆のほうだった奴でして。ああいうのを見ていると、いいなぁと混ざりたくなってウズウズして仕方がなくなるのです。

そして、祭りというのは、その地に住む人間達が、自分の地との結びつきを強め、見せ付ける場というもの。もはや故郷に戻ることの無い身としては、アウトサイダーとしての視点からぽつんと眺めていると切なくなる、というのがあったりします。
まぁ、結婚でもして、その地に落ち着く根っこができると、また感じ方も変わるのでしょうけれども。

で、先人感謝祭。城前に設営された広場に、とりどりの衣装に身を固めた行列が入場。
芦名、伊達、蒲生、上杉、加藤、保科、松平と、歴代藩主の旗手が入場。その後、保科正之を初めとした会津藩主・重要人物に扮した方々が並ぶ。時代は幕末に限っていませんでしたが、その後の面々は主に会津戦争の諸隊・武将とう構成でした。

各地方からも友情出演で、地方の人物に扮している、ローカルトゥローカルなネットワークが良いです。長岡の「米百俵祭り実行委員会」から、ガトリング砲と長岡藩銃士隊の参加があったのですが。ガトリング砲を引いて市内練り歩きというのは、重そうだ…。昔はそれで峠越えをしたりしたのだから、街中ぐらい引けなければ困るのでしょうけれども。長岡藩銃士隊の衣装が黒子めいていて格好良いし、一番実用的そう。

兵士の綿服は綿、士官のラシャ服は黒ウールと、衣装も忠実に作られている感じで、各隊力が入っていました。横須賀開国甲冑隊ですが、これで鉄砲の玉を食らったら、甲冑や鎖帷子の破片が肉の中に入り込んだりして、治りが遅く痛そうだ…とか思いながら見ていました。

そして我等が大鳥圭介なのですが。日光口の一団、青龍隊と共に入場。(日光口守備って朱雀隊でなかったっけ…)
日光口・青龍隊は、鶴ヶ城近くにある竹田綜合病院の職員の方々。青い着物に黒い金属板を張り合わせたスケールメイルでした。重そうなのに若いお姉さんが元気良く歩いてました。

で、院長先生が山川大蔵、外科医の方が大鳥ということで。その地位を象徴しているのか、大鳥が山川の後ろをそろそろ歩く感じでの入場でした。山川に気を取られていて、最初思いっきり見逃した。

大鳥ですが。
陣羽織は緋色じゃなくて朱色。
山川より背は高いけれども、背を丸めていて所在無さげ。
前に山川。後ろに青龍隊。伝習隊がいない。孤独。借りてきた猫のよう。
主要人物は前に設営された舞台に座る。この舞台の上の大鳥、目立たず、探すのには「ウォーリーを探せ」のごとくだった。もしや演台にはいないのかと不安になった。目を凝らしてようやく見つかる。山川のななめ後ろ。山川の従者のよう。

そんな感じで、見ていてちょっと切なかったです。でも実際に会津における大鳥、本当にそんな感じだったのかもしれない、と思った。兵糧弾薬はおんぶ抱っこしてもらっていたわけだから、遠慮せざるを得ない立場だったんだよなぁ。

その後、空砲の撃ちっぱなしや、娘子隊の演舞、殺陣など、パフォーマンスも盛りだくさん。
殺陣ですが、会津の将VS長州(白熊)将官だと思うのですが。最後に勝つのがやはり会津のほう。ここで長州側に負けて、恨みを募らせる構成とかのほうが面白いのに…とかちらりと思ったりした。

あとはもういいかな、と思って。バイクに戻ろうとする。
城から出るまでの沿道が人でぎっしり。人をよけるのに手間取る。そのうちに、主要人物が騎馬になった行列が始まる。
そうすると、せっかくだから騎馬の大鳥さんを見ていこうと思う。

馬に乗っていても目立たない大鳥さん。名札がなければ分からない。
でも、日光口でよかったです。大鳥が一番会津に貢献していた場所なので。母成口で新撰組と一緒くたに固められてしまうよりは、よほど実際の事跡が評価されているのだなぁと思いました。

でもやっぱり欲を言うと、一人二人でも伝習隊をつけてほしかったなぁと。伝習隊は会津の為に戦った戦闘回数は、桑名・衝鋒隊と並んで一番多かったわけですし。

ただ、長岡や桑名など諸藩と違って、伝習隊は故郷のない軍隊なので、ローカルネットワークの枠組みでの出演は難しいのかしら。…どなたか、江戸から有志がでてくださいませんか。

まぁ、それを言い始めると、存在ごと忘れ去られている衝鋒隊とか凌霜隊とか草風隊とか、際限がなくなりますけれども。彼らも会津のために辛酸を舐め、流浪したり、篭城したりしたわけで。

で、そんな寂しい大鳥さんの騎馬を眺めていると、すぐ背後にいたカップルの女の子、青色のメッシュヘアの、キュートなお嬢さんがいきなり後ろから乗り出して、「せんせぇ〜、頑張ってくださぁい☆」と、黄色い声を上げながら手を振った。先生の患者さんなのだろう。

わけもなくめっちゃ嬉しくなった。

そして、照れくさげに首をかしげて手を振り返す先生。
…萌えた。
負けじと「大鳥先生、頑張ってくださいッッ!」と野太い声を張り上げてみた。心の中で。


そんな感じで、会津まつり出陣式を満喫。市内行列や帰陣式も見たかったのだけれども、このまま、戦場めぐりに旅立ちます。
まわりが通行止めだらけになっていたので、今度は脱出に一苦労。

こういったお祭りが、地元の方の帰属意識を高めるというか。ここが故郷なのだという感慨を、見事に供給しているように思います。
一部の極端な作家のせいで、会津の戊辰戦争の恨み辛みが揶揄されてしまうことも多く残念なのですが。
大部分の方は、戊辰戦争というテーマをおいておいても、演舞や獅子舞、純粋に故郷に伝えられてきたものを、こういった形で無形の文化財として保存して大切にしながら、次世代に継承されているのだなぁと感じます。
毎年、長しえに続けていただきたいなぁと思いました。

そして鶴ヶ城を後にする。
鶴ヶ城のすぐそばに、「福島県立会津学高等学校」がありました。歴史もなにも、意味も無く写真を撮ってみる…。

posted by 入潮 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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