2006年10月01日

六方沢と兎跳ね

ふにゃ〜、疲れた。ただいま帰宅。(9/30 24:50,書いている途中で寝てしまったのでポストは翌日)
性懲りも無く、日帰りツーリングに出かけてました。

今回の目的は、有料道路が無料化した六方沢の霧降高原と、前回藤原でタイムアップで諦めた龍王峡の兎跳。
今週頭に、もうバイクは見るのも嫌だとか言っていた気がしますが。気のせいです。

昨日、1ヶ月予定でスリランカ出張していた同僚が、4ヶ月ぶりに帰ってきてたのを見たので、無理やり誘ってみた。

一人は675cc、一人は1200ccのロードバイクということで、トコトコの250ccオフバイクの自分は付いていくのが大変。

連れがいると寂しくなくって良いです。会津磐梯のソロツーリングが孤独で仕方が無かった。
それだけではなく、お互い気遣って無理をしなくなる。昼飯も晩飯もきちんと取るし、しかもちゃんと美味しいものを食べたいと思うようになる。休憩も入れるようになるので、ソロの時に比べて体の負担が小さくなります。

今日の走行距離は370kmほど。ルートは以下の通り。

取手→R294号→下妻→下館→県道47号→R352号→壬生→鹿沼→R121日光例幣使街道→今市・日光→霧降高原道路→六方沢→大笹牧場レストハウス→県道23号→川治ダム→R121号→五十里湖→龍王峡・兎跳ね→日塩もみじライン→那須塩原温泉→R400→R4→西那須野・矢板・氏家→R408号→真岡・二宮→R294→下館・下妻→取手

同僚二人とは鹿沼で待ち合わせて、日光方面へ出発。どちらも土木屋で、一人は環境専門、一人は橋梁専門。

日光例幣使街道は大絶賛でした。枝が伸び放題だというのが。普通の植林なら枝落ちされているけれども、日光杉並木は文化財指定されているから勝手に切れないというのがあるのだろうか。

当時の街道の幅そのままなので、対向二車線がとれず走りにくい。けれどもそれだけ、天を覆う高さの杉の木が迫り来て迫力がある。後から植林されたものもあるのですけれども、多くは江戸時代初期から街道を見守ってきた。1625年から20年を掛けて、徳川家康の家臣松平正綱が植林したもの。

杉並木は大きく分けて3つあります。宇都宮-今市-日光間の日光街道(R119号)、鹿沼-今市の例幣使街道(R121号)、そして、今市から北へ伸びる会津西街道(R121号)。
見たところ、例幣使街道が一番密度が濃くて迫力でした。

東武日光線やJR日光線と併走しているので、日光東照宮にこられた方は、今市からちょっと足を伸ばして散策してみてはいかがでしょうか。東武の下小代や明神で降りて、今市まで歩いてみるのも一興かと思います。

霧降高原ですが、9月25日から無料化、その後の最初の週末というのがあって、いつもからは考えられないほどに交通量が多かったでした。渋滞と言うほどではないけれども、走りこめず残念。
霧はぎりぎり降りてこず、濡れずにすみました。

橋屋の同僚は、六方沢にかかるアーチ橋の構造について思うところがあったらしい。橋板が盛り上がっていて、施工が雑とか何とか。

崩落だらけのあそこを夜脚で越えた人間がいるということは、にわかには信じられない様子でした。ふふ。

その後大笹牧場へ。大鳥らが飢えて、兵士が茶屋の味噌、沢庵、梅干を貪る餓鬼道の様相を呈したところ。その中で大鳥が部下に鶏卵二個もらったところ。
今はその悲惨な有様をうかがわせるところはなく、立派なレストハウスが立っています。牛乳やチーズケーキ、ソフトクリームなどが名物。

ここで飢えていた大鳥たちには申し訳ないと思いつつ、ジンギスカンとソフトクリームを食す。大変美味。
無料開放直後だけあって、相当混雑していました。あんなに盛況なのは開店以来ではないだろうか。レストハウスの駐車場があたかもバイクの見本市のようだった。

ここで、サンショウウオの黒焼きを売っていた。他、ゲテモノ、とはいいませんが、珍しいものがお土産として売られています。

竜王峡は、藤原戦のとき、山川の迂回隊が佐賀藩兵の後ろを付いて奇襲するのに、兎跳ねと呼ばれる所から鬼怒川を渡河した場所。鬼怒川の幅が4mと狭くなっていて、兎が飛んで渡れる、ということがその地名の由来らしい。地元伝説では、山川がこの藤原戦のときに飛び越えて渡ったというものがある。

4mと言うと、飛んで飛べない距離ではない、荷物が無く助走が十分に取れるという条件でなら。
それで、本当に山川が兎跳ねを越えるのが可能かどうか、というのを、実際に目で見たかったので、見に行ったのでした。
竜王峡駐車場から、いろいろ写真をとりながら徒歩で片道1時間、往復で2時間ぐらい。アップダウンも大して無く、汗ばむぐらいで、ちょうどいいハイキングになりました。

同僚がコンパクトながら接写1cmの6倍ズーム、600万画素のデジカメを持っていて、カエルや蓑虫やキノコといった生き物のの写真を取り捲っていたのですが。これが、デジカメ液晶の画面でズームアップすると、すごい。見たことのない世界が広がっていました。木の枝にしか見えないような尺取虫が、アップで見るとタンパク質めいていて生々しいとか、キノコの大アップは珊瑚のように多孔質で規則正しい孔が連なっていたとか。ちょっとした顕微鏡ですな。マクロの新しい世界、という感じでした。欲しくなった…

で、兎跳ねですが。確かに、岩が川の途中で出ていたりして、対岸まで跳べことはなさそうだと思いましたが。問題は、山川が渡った対岸の右岸側が、渡る前の左岸側よりも、岩盤が高い位置にあったこと。つまり、右岸から左岸は渡れるけれども、逆は大変厳しい。
…どうやってしがみついたのだろう。山川の超人的能力が、またひとつ明らかになりました。いや、神社の幟旗やら梯子やら渡したという記録もあるのですが、これを跳んでいったと地元民に思わせただけでもすごい。山川ならやるだろう、ということで。

それから日塩もみじラインへ。既に夕暮れ。交通量はなく大変快適。走り屋の同僚についていくのは端から諦めて、自分はとろとろと峠を越えます。
もみじラインを抜けたところに奥塩原温泉がある。ぷぅんと硫黄の匂いが漂っている。ここにある秘湯「渓雲閣」に入りたかったのだけれど、既に外来の時間は終わっているとのことで入れなかった。残念。

それから那須塩原温泉のほうに居りて、通りがかりで入浴施設の「杣の湯」に。もちろん「杣槎」(「如楓」と共に大鳥の号。たまにある。「杣」は山から木を採る人、つまりきこりのこと)を思い浮かべながら。
121.1L/minという豊富な湯量を誇ります。温泉の掛け流しをしてもらうため、シャワーは設置していないと書いてある。とにかく湯を楽しめ、といわんばかりに、浴室はコンクリートの打ちっぱなしでタイルや石などの飾りは一切ない。温泉硬派。…施設費をケチったようにとれないこともない。
pH8.4のアルカリ性単純泉。肌はつるつるすべすべになりました。自分の肌が気持ち良い。

それで、塩原に下りてガストで夕食を食べていると、激しい雨。
またかよぅ…と思いつつ、通り雨だろうということで、雨脚が弱まるのを待ってから出発。
高速に乗る同僚とは別れて、また下道R4号を走ります。自分の家は、東北道と常磐道のちょうど真ん中にあり、どちらに乗るにも出るまでが長い。それなら最初から下道でいいや、ということで。ケチっているのもありますが。
幸い、塩原から矢板に抜けたところで、雨はやんで道路も乾いてくれました。

距離の割りにはお尻の痛みもなく、結構無難にすんだなぁという気がしています。
会津磐梯で寒さには懲りたので、しっかり防寒していたのもある。寒さによる冷えは体力を奪い続けるものなので、寒いかどうかで疲労度がぜんぜん違ってきますなー。
会津磐梯の無理で、体が長距離に慣れてしまったというのもあるかもしれない。
あとは、やはり人と一緒だということ。昼食・夕食などちゃんと休憩を入れたということ。それと、初めていく場所に対しての不安や孤独などの心理ストレスは結構疲れに響くのですが、誰かと一緒だとその辺はかなり軽減されるというのがある。

ただ、同僚を史跡めぐりにつれまわすわけにも行かず。今回は風光明媚な景観のところばかりなので誤魔化せましたが。六方沢の看板を食い入るように眺めていたのは、呆れた目で見られた。

でもバイクは史跡めぐりには最強の手段だと思うのですよな。行軍ルートもそのまま追えますし。オフ車だと三斗小屋や綱木峠のような林道にも入れますし。間違ったり通り過ぎたらすぐに引き返せるし、路駐して写真取るのも周囲の交通に迷惑かけないし。何より、現地の空気を吸って風に当たりながら、自分で道を辿っているという実感がある。

反面、道を走ることが目的になって、あまり資料館や記念館、図書館に入らなくなってしまうのですが。これはルートを調整して、施設のほうを目的にすれば良い。

何より、タクシーやJRよりもコストパフォーマンスが良い。
今日のツーリングはガス代1500円+食費ぐらい。1000km近く走った会津磐梯も、野営なので宿泊はタダで、ガス代+食費で5000円弱だった。まぁその分、普段のメンテナンスや防寒・防水装備などにお金はかかるのですが。

まぁ確かに、乗らないより乗るほうが危険という代物ではあります、寿命は確実に縮むと思います。
命に対するリスクかなぁとは思います。ハイリスク・ハイリターンで。それだけ得られるものがある。
事業への投資と同じようなもので。リスクをとって投資しないと、得られるリターンもない。登山やスポーツ等と同じで。それをすることにより事故の確率は高まるけれども、しないよりはずっと得られるものが大きい。人生の密度が高まる。命が濃くなる感じがする。

致命傷に至るバイク事故というのは、多くの場合はスピード出しすぎや無理なカーブの突っ込みによるもので。結局自分で自分をどう制御するかの問題。安全運転、グッド・ライダーを心がけていれば、世間が厭うほど、そんなに危険な乗り物とは考えていません。
峠族や半キャップ原チャは確かに危険な存在だなぁという気はしますが。乗り方の問題だと思うのですよね。

というわけで誰かライダーになって一緒に走りませんか。(これが言いたかった)
…はい、また無理ほざいている、という感じで。だって一人で戦場巡りするのは、怖いんだもん。裏磐梯の闇は寂しかった…。


    [2] ままこっち URL 2006/10/01(Sun)-17:38 (No.174)
    入潮先生〜ま、またツーリングですかっ!その元気、羨ましい。。
    私のほうは四駆とはいえ家族でミニバン、運転はダンナ、しかも「米&麺どころ会津」の秋はグルメ三昧・・・と、ひもじい思いをしながら行軍したケースケ先生らに申し訳ない旅になってしまいますた。
    クルマは気温や天候の変化には強いですが、1人で乗るとコスパは低いですね。バイクはその点動きやすいですね。
    これからツーリングにはいい時期になると思いますので、無理せず楽しんでくださいまし。

      [3] 入潮 2006/10/03(Tue)-12:49 (No.175)
      ままこっちさんもお疲れ様でした。無事のお戻り何よりです。旅のご報告、楽しみにしております。

      いやもう、無理しすぎして。体力より気力が勝っていると、後から体がしんどくてたまらんです。
      ご家族だとご飯も美味しくていいいですねー。当方、食は端から諦めていましたが、地酒を飲み損ねたのが口惜しいです。今度こそ。
      車だと、人数割りできると効率的で良いですよね。バイクのガス代は車の頭割りとトントンぐらいなのですが、高速道路料金が一人でも軽自動車と同じなので、高速に乗ると途端にコストが嵩むようになります。そしてケチって下道トコトコになり、余計に疲れる。車のなかでワイワイできる家族が欲しいです…。

      週明けの仕事、大変そうですが、お互いに乗り切っていきましょう〜。
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2006年10月06日

会津裏磐梯ツーリングその2 戊辰戦争:母成峠の戦い背景

纏めるのに手間取っています。
母成峠あたりは会津・新選組の研究家や作家の方々がいろいろと書いておられるので、スルーして良いかな、と思ったのですが。
いろいろ書かれているからこそ、大鳥弁護の視点でちゃんと追っておきたいと思いました。だって弁護がこのサイトのそもそものコンセプト。手前がやらずんば誰がやる。つっても、明治の文献だけ見てれば、本来、擁護するまでもないのですけれどもな。
いやさ、自分の背景整理のためです。すんません。

周辺地図はこちら。まだ作成中なので、順次更新していくと思います。地形が分かるほうがいいやねと。国土地理院の等高線入りのから作るのが一番なのですが著作権の問題があるので。カシミールの5万分の1メッシュ可視地形データを加工して地名を重ねてみました。Illustratorは時間がかかるのでExcelでやった。線が汚いのはご容赦を。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/figures/aizubandai.jpg

○ 猪苗代湖・国道49号・中山峠

会津若松を出て、R49号、猪苗代湖北岸へ向かいます。
7月21日、兵を休養させるため藤原を出発した大鳥。7月27日(南柯紀行では28日)に若松で容保候に拝謁。酒肴を賜っています。日光口を守り通した客兵、歓迎されていたかと思いきや。この酒宴はタダではなかった。

この謁見には大川もいました。彼の記録(奥州南口戦争記)では、敵が赤口まで迫り、越後口が不利にある。よって伝習隊に越後口を応援してほしいということで、そちらに向かおうとしました。

一方、会津藩の西の守りであった二本松が、7月29日、官軍板垣軍によって落とされました。
よって、会津の西側の防備の方が急務となり、猪苗代方面への布陣を依頼されます。
「休みに来たんじゃないのかよー」とぶーぶー不平を言う兵を金で説得。同時に兵力不足の会津を憂う。瀧川・鈴木ら伝習隊の士官を田島に派遣して、農兵を徴募、鍛えて兵力増強を図ります。また、武器の製造も依頼します。…この辺、客兵の仕事を逸脱しているような気がしないでもない。
それらの手配をしてから8月1日、大鳥は本多、大川や、会津藩士らと共に猪苗代本陣に向かいました。

この時、大鳥たち伝習兵は、四、五千という仙台兵の大軍とすれ違いました。仙台藩兵は、二本松の前方、須賀川の守りにあり、二本松の急を聞いても駆けつけることなく、退路を立たれるのを恐れてさっさと帰藩します。この時メインの奥羽街道を避けてはるばる猪苗代・裏磐梯経由を取りました。伝習兵はこれを臆病と冷笑します。

てめぇらがしっかり二本松を守らなかったせいで、俺たちゃ若松で遊びっぱぐれたじゃねぇか! という声も歩兵から(一部士官からも)あったことだと思います…。

仙台も単に弱兵というだけではなくて、肝心の藩の意思決定がふらついているから、官軍とコトを起したくなかったのではないかと思うのだけれども。ドン五里なんて悪評が付いてますけれども、トップの采配がしっかりしてないとなかなか強く動けませんわな。

大鳥らは、おそらく猪苗代湖畔より北に入った県道7号のほうを通って猪苗代本陣へ出ました。「大寺」経由とあるので、この道かな、と。
自分は国道49号のほうへ行ってしまいました。R49号は猪苗代湖北側の湖畔の道で、そちらのほうが道が平坦で早いから、最初大鳥もこちらを取ったのだと思った。

R49号はかの十六橋を通ります。地名で十六橋とある。現状どうなっているのかは湖畔に出ないとわからない。いわゆる「会津の最も長い一日」、母成敗戦後に若松まで攻め込まれた日では必ず注目される十六橋ですが。大鳥が通ってないからいいやとスルーしてしまった。

官軍、躍起になって急いで十六橋を圧し攻めなくても、大鳥のとった北ルートに回れば若松までいけたんじゃ…とか思ったり。
それはともかく、49号は中山峠を越えて東に伸びます。中山峠を越えて北へ行く県道24号へ入ると、母成峠に繋がる、母成グリーンラインです。母成峠へは、南方面から、官軍侵攻ルートと同じようにして入りました。

一方大鳥は峠の北から地勢を見ながら配備に付きます。
8月2日木地小屋へ。母成峠の北東、峠までは12kmほどの地点。僻地にして人家約30軒がある。ここを宿陣地として母成の陣地を設営します。野営するよりは往復24kmを行き来するほうがいいらしい。これから数日、大鳥と伝習兵はこの木地小屋と峠をいったりきたりになります。

木地小屋から母成峠に行く途中に沼尻という山があり、今はスキー場・温泉場になっています。この日、敵が沼尻を越えてきたから早く兵を出してくれと、会津軍事方から急かされました。そんなに早く敵が登り来るわけはないだろうと大鳥が斥候を出してみたら、番兵が根拠なく敵が来たと騒いでいただけだった、という一幕も。

翌8月3日、大鳥は本多、大川、他士官と共に朝早くから石筵山(=母成峠南方の山)に登ります。もともとここに
は猪苗代守将の田中源之進の陣が、二本松、仙台藩兵と共に詰めていました。
視察したところ、石筵山はいくつかの山が連なっており、しかも平坦。二本松から攻められた場合、防衛線は南北に渡って12kmもある。兵が身を隠す樹木等も無く、ただぼうぼうと草が生えていて、馬でも駆け抜けられる。山の中央が中軍山。東側にのみ容易に渡れない谷間があり、ここを勝沼という。勝沼の北側、連山の最北の硫黄山に連なるところを要所として、勝岩と名前をつけた。自棄っぱちなネーミングだ。

ここの主兵の数は500ほど。しかもその多くは農兵で士気低く未熟。大鳥の伝習第二大隊をあわせても数は700。一方、大鳥は2000の訓練された兵でもここを守るのは難しいと感じた。
といっても兵がいないので仕方がない。無い袖は触れない。田中ら諸隊長と談義してから木地小屋に戻ります。
この状況でも大鳥は最善を尽くさんとばかりに、胸壁増強に当たります。

これら、会津兵や大鳥伝習隊の動きは、斥候、というか地元農民のリークにより、官軍には筒抜けでした。
8月17日、二本松に、官軍白河口参謀、薩摩の伊地知正治が到着。土佐兵を率いる板垣と、猪苗代西から若松を攻めるために作戦会議を行います。

会津攻めについて、最初に大総督府の大村益次郎は「先ず枝葉を枯れ、さすれば根幹はおのずと枯る」という意見で、福島・仙台・米沢をまず刈り取ってから幹たる会津攻めよ、という考えでした。しかし現場の伊地知・板垣の考えは「根幹を抜かば枝葉は憂うるに足らず」と、まず幹である会津を落としたい考えで一致していました。現場には、何より、冬の足音が忍び寄っていたからです。寒さが強まり雪の季節になると、彼等南方の兵には帯陣が著しく不利になります。よって大総督府も彼等の会津攻撃案を認め、会津攻撃命令が出されました。

侵攻ルートについては、板垣と伊地知で、意見が分かれていました。伊地知正治は母成峠から、板垣退助は猪苗代南東側の御霊柩峠からの侵攻を主張しました。

伊地知・板垣は互いに譲らず、いったんは、兵を二分して進軍することになります。しかし、長州の桃村発蔵が兵力分割の不利を解き、板垣を説得。手勢の数が薩摩より少ないゆえに立場の弱い板垣は折れ、伊地知の主張した母成峠進軍に加わります。

地形的には母成のほうが御霊柩よりずっとなだらかで視界が開けており、攻めやすいことは明らかでした。御霊柩峠は今は御霊柩林道となっています。前は鬱蒼とした九十九折のダート道でしたが2年前に全面舗装されたそうな。急坂の峻険な峠です。母成よりも攻めるにははるかに難そう。

なぜ板垣がわざわざ難攻な御霊柩峠方面を主張したのか。理由は分からないのですが。
伝習隊を避けたかったのではないのか、と思ったりします。

何せ板垣は、今市で勝ったとはいえ伝習隊には痛い目を見ている。兵が襲撃を恐れて連日草履を脱ぐことさえ出来ず病気続出の雨の帯陣は、板垣にとって決して良い思い出ではなかったことでしょう。谷干城の増援がなければ勝てていたかもわからない。…板垣、口に出しては言わないでしょうけど、母成峠に伝習隊が来たと聞いて、内心「げっ」と思ったのではないかと。伝習隊とやりあうぐらいなら兵力分割の愚を犯すほうがいいと。

そして大鳥にとってもそれは同じなんだろうなーと。
今市第二次戦、圧していたところに天才板垣インスピレーションによる包囲攻撃で直接銃弾を雨あられと食らって、大谷川に飛び込む羽目にまでなった。その悪夢が蘇ったのではないかなーと。
大鳥が直接板垣が敵将にいたと知っていたという所作はないのですが。白河口総督軍がこっちにきたというと、容易に想像ついているんじゃないかなと。
大鳥のほうは口に出して「逃げたい」とか言ってそうです。そして部下に叱られてそうです。どんな状況でもボヤキながら彼は一生懸命です。

そんな母成峠を挟んだ心生温まる二将の心の交流が、想像されてしまうことです。

とりあえずここまで。
…背景整理すらも終わらんかった。


    [2] ままこっち URL 2006/10/08(Sun)-00:16 (No.178)
    入潮先生
    十六橋、昨年行けなかったので今年行ってみましたが、車両通行できないんですよあの橋・・・地図では通行できるように書いてあったので、すごいクネクネ道の旧道を「これなの?」と言いつつクルマを走らせてみましたが、見事に行き止まり。それでも鉄条網の外から写真を撮ってまいりました。
    私が行ったのは猪苗代方面からだったんですが、逆方向(戸ノ口原方面)からだともっとキレイに写真が撮れたようです。いずれにしても両方向とも、バイクやチャリも含め車両通行は不可、でした。。


      [3] 入潮 2006/10/09(Mon)-04:49 (No.181)
      十六橋、行かれましたかー。そこまで深く辿られる綿密な行動力はおさすがです。さっくりスルーしてしまった自分がお恥ずかしい。

      橋脚が石製とはいえ、流石に140年近く立つと、本来の使用に必要な強度は維持できないということでしょうか。補修されるにしても、国道に車道として使われている橋があるわけですから、そこに予算を費やす必要もないと。

      橋だけではなく、旧道は旧道として、今使われている路とは全く異なって、放置され消えかかっているところも多いようで。歴史ファンのためだけに収入のない施設整備をお願いするわけにもいかないのですけれども、寂しい点ではあります。

      [4] 入潮 2006/11/04(Sat)-19:34 (No.199)
      あ、十六橋は、両方向とも、通行可能でした。
      ただ、2tまでの制限があり、車幅も限られていました。普通のセダンでも苦しいのではないかと思います。
      自分も行けないものと思っていました。
      後に行く方のご参考までに〜。
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2006年10月07日

人がましく休みを満喫

昨夜、K生さんとS宮さんの飲みに、混ぜていただきました。楽しかったです。大鳥をネタに、鳥とかタコとか食べながらの呑みって、なんであんなに楽しいのだろう。至福でした。眼福でした。普段親父とばかり飲んでいるから、たまに綺麗なお嬢さんたちと飲むと緊張する。

大鳥は迷ったら距離を長く書くとか。史跡巡りオカルトネタ出し合いとか。
S宮さんが「会津中将」をいきなり所望されたので、頼んでいたビールをキャンセルして、おこぼれをもらった。なるほど、甘口でした。

お二方の仲良さには、なんだか当てられっぱなしでした。出会った瞬間にお布団並べてたそうで。いいなぁ。

酔っ払いついでに、店を出てから、勢いあまって植木に突入した気が。そしてS宮さんが心配してくださって常磐線のホームまで見送りに来てくださった気が。…この辺になると余り記憶がありません。勿体無い。もとい、ご迷惑おかけしました…。

今日は久しぶりにバイクの整備。
オイル交換、チェーンの清掃・油差し、エアクリーナー洗浄、タイヤの空気入れ、といったこまごましたことを。手が油と煤でガサガサになった。軟弱な皮膚だ。でもこれで燃費がよくなれば良いなぁ。
エアクリを洗うのに灯油が必要で、入手するのに苦労した。ガソリンスタンドに買いにいったのですが、以前はペットボトルでも売ってくれたのですが、消防法の改正で専用の灯油缶でないと売ってくれなくなってしまった…。
あとはフロントのブレーキに違和感があるのを何とかしたい。ワイヤーの潤滑性が悪くなっているんだなー。オーバーホールしてもらわんと。

明日はどこへ行こうかな。
会津もう一度行って、前回取りこぼした檜原峠や御霊柩峠や山入村を訪れたいのだけれど、明日はまだ天気が悪そうだし、大雨の後なので峠道は崖崩れが心配だ。むー。
ラベル:ツーリング
posted by 入潮 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月08日

会津裏磐梯ツーリングその3 山入村の戦い

次、行きます。
参考資料は、「南柯紀行」、「北戦日誌」、「谷口四郎兵衛日記」、「七年史」、「会津戊辰戦史」、「會津戊辰戦争」、「戊辰戦役史」、「会津史」あたりです。ベースは南柯紀行と戊辰戦役史。あとのものは事実確認程度で。

○ 山入村の戦い

母成峠の戦いに入る前に、触れておきたいのが、山入村の戦い。

大鳥は木地小屋で、ここをどう守ろうか熟考。今の兵力ではとても防衛は無理。翌日会津若松へ帰って藩主や執政方にこの方面の危機を説明するけれども、兵は残らず他の地点に出てしまってどうしようもない。官軍は軍艦で新潟の新発田へ上陸し、ここを陥落した。衝鋒隊や長岡藩兵は長岡を引いて、彼等も津川口から会津に入っていた。津川にて会津は官軍を食い止めている、という状態。
田島で農兵を新しく徴募して訓練するしかない。会津には余計な文官が多いからこれを出来るだけ減らして兵力に用いたいと大鳥は今まで言ってきたが、因循でそういった策も実施されないまま今日に至った。ため息。…と鬱々と日記に書かれている。

8月17日(南柯紀行では8月5日ごろ)、福島にきていた小笠原長行が中心となって、列藩同盟軍が二本松奪還攻撃を実施。福島、川俣、大森、鳥渡、そして母成の5方面からの包囲攻撃が計画された。

母成からは、伝習隊・会津・二本松兵あわせて4〜500。夕方に石筵を出発し、二本松藩士を案内として二本松に向かった。ところが山道に迷い、夜の山をさ迷って明け方に山入村に着いたけれども、夜が明けてしまって夜襲できないということで引き返してしまった。徒労の末に兵士が帰ってくる。片道20kmの行軍に激しく疲労。
結局、福島から来た本道のみが戦闘して、仙台藩が29名の戦死者を出し敗走。あとのルートからきた兵は迷ったり道が悪かったりで攻撃に間に合わなかった。

ただ、この時白河から伊地知軍が二本松に到着。これが板垣軍と合わり、官軍は強固な大軍となっていた。
なお攻撃指揮を取る小笠原長行が、このころ山中静翁とか三好寛介などの変名を用いていて東軍に重みがない上、彼直卒の手兵がいないから指導力を及ぼしきれない。よって総指揮が行き渡らない状況だった。
母成からの兵が間に合っていても、二本松奪還が成功したかどうか疑問。むしろ迷っててよかったのではないかと。

この後大鳥は猪苗代本陣に出て(日記には八月中旬とあるが、18日のことかと)、田中源之進らと協議。田中はイケイケな感じの攻撃派で、二本松襲撃の説を譲らないでいた。歴戦の兵が十分にいて、守兵のほかに余力があれば攻めるのも良いけれども、兵員は不足でかつ統制も十分でない、討って出て敗れたら国境が危ないと大鳥は議論したが、田中は譲らない。伝習隊の補給を担ってくれる会津の猪苗代城代の田中がその意見なので、大鳥も強くは逆らえない。
なお、新選組と土方も猪苗代本陣にいた模様(谷口)。大鳥の記録にはないのですが。

19日夜、石筵から使者。翌日の20日に山入村から二本松へ進撃するので、伝習第二大隊も出陣せよとの指令(井深隊からか)。やむをえないとして、兵を出すことを、(おそらく木地小屋の)本多へ伝えた。

夜が明けて20日朝に木地小屋に大鳥が戻ると、すでに兵は早朝に出発していた。急いで兵の後を追っていくと、歩兵らしい者たちがぽろぽろと帰ってきた。山入村で味方は敗退とのこと。伝習隊はどうなっているのかと聞くと、彼等は正面に出て戦っていた、おそらく後から引揚げてくるだろうと。暫くして大川らが帰ってくる。本多はまだ帰ってこない。

話を聞くと、仙台と会津兵を右翼に、二本松兵を左翼に備え、伝習隊は正面から敵に当たる。伝習隊は善戦し、1km以上も敵を後退させていた。しかし、両翼の兵はろくに戦闘しないままに山腹に引き上げる。敵はこれを追って山へ。このために中央に突出していた伝習隊は四方を包囲されて撃ち立てられ、多くの被害を出したという。

実際、主力は薩摩、長州、土佐、大垣、大村藩で合計三千余の大軍。これが8月20日、二本松を発して石筵に向かっていました。
直接伝習隊に当たった敵は薩摩九番隊。伝習隊に対して独力攻撃不可能と見て援兵を依頼。薩摩十二番隊、土佐六番隊などが来るも、伝習隊は強固で容易に攻撃できなかった。ゆえに正面を避けて両翼の会津・二本松・仙台兵に当たる。
そして、土佐兵の一隊が北方に通じる隙間から敵後方に迂回し、背後から射撃した。すると両翼は忽ち混乱して敗走を始めた。

伝習隊は一隊を背面に向けてこの土佐兵にあて、壊走を始めた二本松を収容して、全軍を後退させた。この伝習隊の犠牲によって、両翼の隊は被害少なく退却することが出来たという状況だった。
伝習隊30人以上の死傷者を出し、士官も3,4人死亡。浅田君も重傷。それなのに会津・仙台・二本松の損害は軽微。

夕方四時ごろになってようやく本多が数人と共に帰ってくる。帰路を絶たれて林の中に隠れ、敵が数歩前まで迫ってきたけれども見つからず、山路を迂回して何とか帰ってきたという。

隊長の本多からしてのこの惨状に「余、益々三藩の兵の頼むに足らざるを知れり」と大鳥は血を吐くように書いています。「益々」ってことは、その前から不信感が募っていたのだな…。

「然れども亦、本多、大川他士官の無事にて帰るを見て、悲喜相交り手を執りて涕を流せり」と。手を握って無事を喜び、伝習隊が犠牲になったことを悔しがる。二本松進撃に元から反対だったのに、自分が戦略指揮を執りきれず無謀な戦に伝習隊を引きずられてしまった不甲斐なさも、同時に込められた涙なのだと思います。


会津藩士死者は3名で、いずれも猪苗代隊井深組所属とのこと。伝習隊の死者の名前は明らかになっていない。

大川名簿に死者の名前がありました。弔いの意味で名を掲げてみます。

差図役 山下秋之介
差図役並 浅井清之丞
嚮導役 磯村悦二郎
小頭取締 西宮浅吉
歩卒 清七、要蔵、甚之助、良平、米蔵、清吉、金八、勘左衛門、藤二郎、慶三郎、源助、藤吉、元二郎、松五郎、勘吉、小三郎、小兵工、清助、金蔵、政吉、浅右衛門、要助、庄七、源太、竹三郎、喜兵工、亀三郎、仁三郎、栄二郎、栄吉、栄三郎、重吉、勇造、善之助、竹二郎、吉蔵、熊二郎

以上41名…。合掌。

山下は伝習第一大隊から途中で第二大隊に加わった、会津藩士です。浅井、磯村、西宮は脱走時の名簿には無し。うーん。

敗走させたとはいえこの日の伝習隊の働きは頑強で、精兵ありということを見せ付けた。
土佐兵の斥候は玉の井村の官軍本営で板垣に報告。「今日の敵、剛強無比、意ふにこれ伝習隊なり。今市以来始めて敵と相見る、梢や気を壮にするに足れり」と。板垣は何を持ってそれが伝習隊だったかと聞くと、斥侯は「弾丸の向かふ所場を誤らず、彼れ伝習隊に非ずんば誰ぞ之を能くせんと、戦了るに及んで其の草間に散落せる弾薬箱を検す、果たして伝習隊の符あると見る」と答えた。板垣はこの斥侯を褒めた、という話が「板垣退助君伝」にある。

この「山入村」の場所ですが、訪れようと思っていたのですが、特定できないでいます。
「戊辰戦役史」でも特定は難しかったらしく、大山柏は各藩の記録からあれこれ場所を検討している。長州の記録ではこの戦闘場所を玉ノ井西北西4kmの「坂下」としてある。とすると、県道380号沿い、三ツ森山か石籠沢あたりかと。

この戦の死者が「三十一人戦死の墓」として弔われています。福島県のWPでは、「慶応4年8月20日、本宮から進出し、この山入村(玉井村)に入った西軍と、二本松を奪還すべく、母成峠より進出した会津藩・伝習隊との間で戦いが行われ、夕刻戦力に乏しい会津軍が敗退、伝習隊のみが奮戦するも西軍に包囲され、大損害をだし母成峠へ敗退して行った。後に残った会津・伝習隊有志31名、戦利有らずとして枕を並べて自刃した。」
とあります。(http://www.pref.fukushima.jp/kanko/data_m/63162.html )

ただ、「七年史」には「一軍は玉の井村より進んで須賀川を焼き、一群は山入村に進みけり」とあるので、玉井村=山入村というわけではなさそう。山入村は廃村になったのだろうか。

この玉井村の場所なのですが、一度本宮まで出ないと車道がない…。県道146号が石筵本宮線としてあるのですが、途中で途切れている。当時はここにフットパスかなにかあったのかと思いますが、一度迷っているぐらいですし、相当な山中を越えなければならなかったのだと思います。
時間的にも山入村を探すのは断念して、母成峠へ向かいました。


この日8月20日の夜、兵たちは、会・仙・二本松の不甲斐なさに憤り、木地小屋の拠点に帰ろうと言い立てました。しかし大鳥は、今日敗れたのだから明日必ずここに攻めてくる、木地小屋まで帰っていたら間に合わなくなると兵たちを説得し、石筵山に野営しました。
田中らや二羽丹波ら隊長たちを呼び集めて、明日の朝敵襲が必ずあるとし、持ち場を定めて防戦の手はずを整えます。
けれども、兵員は根本的に欠乏。大砲に熟練した者もなく。頼りの伝習兵たちのモチベーションは、今日の理不尽な戦ですっかり下がってしまった。
「独り焦思苦慮して枕に就きたり」と。
あかんあかんあかん、もうあかん…と言わんばかりの、鬱々とした様子がまざまざと伺えます。

けれどもここで早朝まで熟睡してしまっているのもまた大鳥です。この日の奔走で激しく疲れたということで。
やることやって疲れたら寝る。これ、基本。

まだ母成戦に辿り着かない…。


    [2] 入潮 2006/11/04(Sat)-19:31 (No.198)
    山入村の伝習隊死者ですが、玉井村史談会の方が、しっかりと調べて「三十一人戦死墓」名を刻んでくださっていました。失礼しました。
    後ほど詳しく記させていただきますー。

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2006年10月09日

ハクキンカイロの初陣、矢板記念館

やっぱり北に行けばよかった。

…と思いながら帰ってきました。満月とそれに負けず東の空に燦然と輝くオリオン座を見て夜の道を走りながら。

えっと、連休、日・月晴れそうということで、野営して再度会津に行こうと、今朝キャンプ道具を積んで出発したのですが。
激しい強風と渋滞で北へ行く気力が萎え、戻ってきました。

本日のルート。
取手→R294→下妻・下館・真岡→R408→R4→大田原→矢板→矢板武資料館→県道30号→R400号→塩原温泉→矢板→喜連川温泉→宇都宮→R294→取手
合計305km。

今日の目的は、矢板武記念館(http://www.city.yaita.tochigi.jp/html/osirase/syougai.files/yaitake/takeshi.html)がサブのメインでした。

メインの目的は、先日購入したハクキンカイロの性能を試すこと。…しかし燃料のベンジンを買い忘れていたことに気がついた。弾薬無くちゃ戦はできねえな。がっくり。

矢板氏は栃木の発展を担ったといって過言ではない、地元名家。もともと江戸時代、日光へ材木を卸す材木問屋をしていたのですが、日光方面に新道を作ったり米問屋をしたりで、日光との繋がりのなかで地元に貢献していたそうで。
それで、明治になり矢板武氏が、彼が鉄道の誘致や銀行の設立といった地元開発の指導者として活躍。それらの活動を通して矢板氏は三条実美、山縣有朋、品川弥二郎、渋沢栄一、勝海舟らと親交があったのですが、その中に大鳥圭介の名前も。

それで、大鳥と矢板武氏の文書か書があるとのことで、展示されていないかなと思い、行ってみたのでした。
矢板武記念館の建物は、もともとの矢板家がそのまま市に寄付され、これが展示場となったものです。

結果ですが、大鳥関係は展示されてはいませんでした。
鉄道にかかる品川弥二郎との文書、勝海舟の書額などは常設にありましたが。
聞いてみると、受付の方が、生涯学習センターの担当の方に確認してくださった。それによると、11月1〜3日の市民開放の日に、大鳥関係資料が展示されるらしい。その日に行かねばならない。
今日お目にかかれないのは残念だったですが、それが分かっただけでもめっけものでした。いや、直接行く前に、電話で確認すれば済むことだったのですが。

大田原は、行く予定は無かったのですが、矢板武記念館に入る道をまちがえてスルーしてしまって、ついでに行ってみた。たしか伝習第一大隊が城を攻めにいっていたなー…と。その程度の認識しかありませんでした。結局通り抜けただけ。ちゃんと調べてからいけばよかった。
ここで、ホームセンター発見。ハクキンカイロ用のベンジンゲット。補給完了。これで試せる。

他、アウトドアショップも国道に並んでいたので、銀マット(テントで寝る際に床に敷く)やら、ネックウォーマーやら、しこたま買い物。
ネックウォーマーは放熱が大きい首を保温するフリース地のもの。帽子にして耳を保温したりも出来るもの。マフラーで代用できるのですが、巻く手間が要らなくて便利。
…大田原まで行って何をやっているのやら。こうして着々とツーリング装備が冬に向け充実していきます。

矢板から北上、奥塩原で先週に入り損ねた秘湯に行こうと志す。が、行ってみると国道400号が歩行者天国になっているとのことで、迂回路に車が廻り、連休の行楽客で大渋滞。
しかも風がすさまじい。家を出た時点から強風吹きすさび、車体があおられていたのですが、ここに来て山からの吹き下ろしが加わる。ちょっと油断をすると一瞬で対向車線まで飛ばされる有様。止まるとコケる。そんな中すり抜けをしながら走るのは大変危険。
ここから鬼怒川方面に抜けて田島方面へ北上しようかと思っていたのですが、気力が無くなる。

とりあえず、山上に行くのは諦めて、山麓の温泉にだけ入りました。泥臭いpH9.2のアルカリ泉で、露天風呂オンリー。みやげ物屋にくっついた感じの温泉。それでも冷え切り強張った体に、温泉のぬくもりというのは、何にも変えがたい至福。萎縮した血管が広がって、痛いぐらいにびりびりと血が動き出す。この瞬間の為に、バイクという非合理的な馬鹿をやっているのだと思える。

これで体が完全に温泉巡礼モードに入りました。さらにもう一箇所、南下して喜連川温泉へ。宇都宮の北東側で、田園に沸く温泉です。こちらは道の駅がクアハウスになっていて、500円で大浴場、露天、サウナ、水風呂と設備が充実。湯も海の水かと思うほど塩分濃度が高く、しかも硫化水素臭がある。しっとり肌になる。水風呂が野外で、ヒノキの桶になっていて風情があります。空も広い。
喜連川温泉パンというのが名物になっていて、どう温泉と結びついているのかわからないのですが、噛み応えと風味があって、美味しかった。
喜連川道の駅、全国にある道の駅でもかなりポイント高いです。お薦めです。

そして宇都宮へ。亜樹さんのところに、急襲。北へ走りに出るたびに、パンク事故だったり時間が遅くなりすぎたりして、訪問しそびれていたので、今度こそご挨拶だけでもと、押しかけてみました。この非常識にもかかわらず、快くお相手してくださいました。ありがとうございました。しょうがなくだったらごめんなさい。ご迷惑おかけしました。

会津藩士江戸脱走組でこのお方の右に出る者はいないだけあって、秋月登之助が伝習大隊長になった理由とか、柿沢勇記と大鳥が出会ったのはいつなのかとか、秋月ら脱藩会津藩士路線と柿沢ら公用局組とは藩からの指揮系統が全く別だったのではないかとか、大変濃く興味深いお話をお伺いしました。幸せ。

見方に贔屓や好き嫌いの偏りがなく、史料に記されたことをそのまま凝縮して認識にされているので、語りがとても気持ち良い。
山川サンショウウオはもう定着です。

あと、半分以上は、史跡巡りに連なるオカルト話に費やされたような。
史跡というと、大体、戦跡やお墓になるのですが。そういうのはつきもののようで…。

ただ人死にが出ているというと、東京ほど死亡密度の濃いところはない。安政大地震や関東大震災、東京大空襲などで、何回も人間が入れ替わるほどの大量死亡が起きている。それで、史跡や所謂心霊スポットでだけ心霊現象に遭遇するのも変な話だ、というのは納得でした。

自分も、学生時代に走り回っていたときは全くそういうのは無かったのに、由縁や謂れを意識して訪問するとそこで何かに遭遇するというのも、変な話だと。単に、知識があることによって自分の意識が勝手に錯覚を作りだしている、枯れ尾花の類だと思っているのですが。

ええ、錯覚なのですが。
知識があると、意識する。その意識が、そこにあるモノに対する感受性を高める。そうすると、存在を知ってくれている、理解してくれる、ということで、寄ってきたり付いて帰ったり、ということになるということでは、という結論になってしまった。
つまり、知れば知るほど史跡には近寄らないほうがいいという、アンビバレンツなことになってしまう。
うぬー。

だから自分が勝手に自分の錯覚を作り出しているだけなんですが。ええ。

そんな感じで。気が付いたらとっぷり夜も更けて、23時半。
宇都宮に着いた段階では、まだ北に行く気も2割ぐらいあったのですが、流石にそれから北上して、しかも散々オカルト話を繰り返した上で、野営する気力は皆無になってしまった。だって、今市。小佐越。藤原。五十里。駄目です。それは駄目です。逃れるには田島まで行かないと。宇都宮→田島までは2〜3時間。それから野営は流石に無謀だ。四号線、東北道まで出るという手もありますが、また塩原まで戻るのも辛い。

ということで、北は諦めて帰宅しました。帰宅路は前軍ルートで、戦闘起こってませんから安心です。誰か交通事故で亡くなっているでしょうが、知らないからスルーです。

宇都宮から家までは2時間弱なのですが、途中の寒いこと寒いこと。歯の根が合わず体硬直。温泉であったまったのが全部飛んでしまった。
そこで出番のハクキンカイロ。ここで試さずいつ試す。コンビニの前でカイロにベンジンを入れてると、怪しい人扱いされてしまって、店から店員さんに心配そうに呼び止められてしまった…。そりゃ、夜中に、駐車場に座り込んで、丸い金属(カイロ)と燃料両手にアレコレしていたら、不安にもなりますわな。説明するのに難儀した。

えーと、苦労しただけあって、カイロの性能は抜群でした。腹に入れていたら、ぽかぽかでした。腹よりは腰に入れたほうが体の芯があったまる気がする。小さいのに、普通の酸化鉄カイロよりだいぶ存在感がある感じです。満足。

そんな感じで、志半ばで挫けてしまい、北へは行きませんでし、矢板での収穫もなかったので、ミッションは達成とは言い難いですが、亜樹さんの濃い語りのおかげで、大変充実感のある一日でした。

ここんとこ週末出ずっぱりで、最近の雑記が戊辰戦争一色になってしまっています。明治や工部大も忘れたわけでは決してありませんが、もうちょっと後回しになりそうです。

ああ、腰がぬくい…。<まだ入れている


    [2] Q太郎 2006/10/13(Fri)-10:20 (No.185)
    ハッキンカイロ、私が子供の時分は使い捨てカイロはまだメジャーな存在ではなかったので、スキーに行く時使ってました。
    使えなくなったストッキング等に入れて腹に巻いてたというのも、今となってはいい思い出です?
    ところで、またまたステキげな情報、ありがとうございます。
    11月1〜3、どれか一日くらい休みだろう、と思いたい今日この頃。(別に忙しくないのに…)

      [3] 入潮 2006/10/18(Wed)-03:16 (No.188)
      す、すみません。お返事が大変遅くなりました。
      よもやハクキンカイロでコメントをいただけるとは思いませんでした。Q太郎さんのツボつき具合はいつもフェイントで病みつきになりそうです。
      カイロですが、背中にまきつけて慢性の肩甲骨の凝りがどうにかならないかとか、いろいろと試して居ります。重宝。

      矢板、行かれますか、行かれますか!?
      自分は出張のため、いけないことが決定してしまい、泣いています。もしいかれましたら、是非、この可哀想な奴に情報の恵みを与えてやってくださいませ…。
posted by 入潮 at 04:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月10日

会津磐梯ツーリングその4 母成峠の戦い

○ 母成峠の戦い

母成峠の戦いは、地名が錯綜しているので、文章だけで読んでいると何がなんだか分からない、というのがありました。地図を作ってみてようやく自分で理解できた。そして、力尽きてしまって、文を書く気がなくなる。
母成戦の図は以下の通り。

http://members2.tsukaeru.net/irisio/map/bonari.jpg

御霊櫃峠攻めルートを主張していた板垣も折れ、8月21日、官軍一斉に、母成峠攻略を開始します。
官軍の編成は以下の通り。右翼、中央隊などの名称は仮のものです。

右翼隊: 勝沼から萩岡の側面、敵左翼を攻撃。また、安達太良山麓の猿岩(勝岩)に進出して敵背後に回る。長州三番中隊、土佐七小隊。最も強固な抵抗に遭った。

中央隊:石筵に展開。薩摩七小隊と三砲隊、長州一中隊と一小隊、土佐六小隊と断金隊、砲隊、佐土原二小隊と一砲隊。砲兵隊を編成、敵第三戦陣地で中央から大砲で集中砲火、その後歩兵を進めた。

左翼迂回隊: 石筵から山道へ入り、萱峠、達沢を経て母成峠の敵背後へ回り、猪苗代への退路を分断することを企図。伊地知が直属してきた薩摩の精鋭一〜六番隊(薩摩第一大隊)、大垣三小隊。

陽攻隊:陽動のために中山峠に進出。


対する東軍。陣容は田中源之進以下会津2小隊、仙台兵3小隊、二本松は二羽丹波以下3小隊。会津兵は臨時編成の農兵で、装備はせいぜいヤーゲル銃か火縄銃。訓練も行き届いていない。このほか、人数不明ですが唐津藩士もいた模様。
地形は広漠、勾配もゆるく、凹凸ある台地。しかも本道以外にも支線の道がいくつも通じているという、不安材料には事欠かない有様。
会津農兵や三藩の兵が頼りにならないということを、山入村の戦いで痛感。当てにできるのは寝食を共にしてきた伝習兵200名のみ。その伝習兵も、味方兵の不甲斐なさに怒りまくっていて、士気は激しく落ちている。
もはや絶望的な思い。暗澹たる思いで、眠れぬ夜を過ごしたでしょう。

それでもやれるだけのことはやっています。
まず、仙台に行こうとしていた伝習第一大隊に石筵を守るよう依頼。秋月登之助以下約130名が加わります(谷口四郎兵衛日記)。これは心強い。

そして大鳥は以下の三箇所の陣地を設置しました。

第一線陣地:石筵の北側、斜面の中腹。会津に余力があった際に構築された。石筵を見下ろせる良好な陣地。

第二線陣地:第一線の後方。萩岡・勝軍山付近の瘤状に連なった台地、及び、その北東にある険しい峡谷である勝沼。勝沼の北側で硫黄山の山麓に連なった地点を勝岩と名づけた。
勝軍山付近に会津・仙台・伝習第一大隊・新選組(土方・山口も)が布陣。田中源之進がこれを指揮する。萩岡の東面に二本松兵と伝習第二大隊が配置。こちらは大鳥が直卒した。守備の主力。

第三線陣地:母成峠。標高937m。仮陣地・胸壁を設け、砲5門を設置。兵士の休息場として陣小屋を急造していた。

(陣地の名称は「戊辰戦役史」に準じた仮称)
兵力差は官軍3000に対し、東軍800。

官軍は夜明けと同時に玉の井村を進発。前夜の雨で泥濘になった道を越えてきます。
この三段陣地の存在は、間諜により官軍に知られていました。

こうした防御線に深度をとって、数段に陣地を設置した戦術ですが、今で言う縦深陣地戦術です。これは当時例がなく、近代兵法の教科書にも書かれていなかったということを大山柏は指摘しています。

この縦深戦術は、フランスの名将ペタン・フィリップによって、第1次大戦で初めて体系的に用いられたものでした。これは、塹壕線を複雑に構築し、自然障害を考慮しながら主戦場を選択するもの。土木工事の重要性を強調した点も斬新です。人的消耗戦の連続である中、人的被害を少なくし、時間稼ぎを可能にします。
戦い方としては、予備隊を複数線に貼り付けて敵の前進を阻止しながら、積極攻勢に出ることなく、少し戦っては被害の少ないうちに撤退。後線で前線の敗軍を収容し守備隊を厚くして、再び後線で敵に当たる。そうして、防御設備がなく補給線が長くなった敵に対し、機をみて敵を両翼包囲しながら全面的攻勢移転に移るというもの。1917年のドイツ対フランス戦、攻勢移転戦術vs縦深戦術の戦いで、フランス軍が戦術に優った結果を示しました。

大鳥なりに、限られたリソース、不利な条件での守勢という立場で、最善を尽くそうとした在り方が伺えます。

一方これに対して、薩摩砲隊長の大山巌は、攻撃のためにあらん限りの砲を中央に集め、集中攻撃により敵を圧倒、その後両翼から歩兵による攻撃を行うという案を示す。これが採用されています。これまで砲兵は、歩兵隊に応じて配分されるの常でしたが、砲を集中させて砲兵団を作った点で斬新でした。広漠な地形であるからこそ可能な戦術といえます。

戦闘推移。

まず早朝6時、官軍が玉の井を進発。母成峠は濃霧に包まれ、見通しが利きにくい状態となっていました。

午前9時、敵右翼隊が萩岡の第二線陣地に到着して、交戦開始。
大鳥は、木砲を二発打つ音を以て、官軍侵攻の合図としていた。朝まで熟睡していた大鳥はこの音を聞いて直ちに起きて、飯を食う。兵へ指令を伝えて中軍山へ。

官軍中央隊は第一線陣地を攻撃、山脚に砲兵を展開したが、東軍は粘らず敵火を避けて後退。官軍中央隊はさしたる抵抗もうけず第一線を占領。官軍は直ちに第二線陣地へ。この東軍守備兵の撤退は予め予定のうちかと。

大鳥は伝習第二大隊と二本松兵を直卒して、第二線陣地、勝岩の上方へ向かい、北側の敵に当たる。ここを本多と大川が兵を率い、大鳥は戦況を伺う。敵は谷を下り更に登らねばならない一方、味方には胸壁があり、防御には利がある。ひとまずは死傷も出さず戦いが続けられた。

一方、勝岩の下方には伝習第一大隊と新選組が防衛している。大鳥、これを心元なく思って行ってみると、人数も少なく、撒兵の方法も良いものではなかった。これを指揮する。
東軍は第二線陣地に砲を三門おき、ひとつは本道を、ひとつは勝沼方面に当たる。この猿岩の戦闘の様子は、「板垣退助君伝」に詳しい。

官軍は右翼隊のうち、長州一小隊と土佐二小隊で別働隊を編成。勝沼から北方にでて山中を迂回する。これを見て第二陣地の兵がこれを防ごうと対戦。官軍は一部で防ぎながらもなおも別の隊が山を登り、勝岩に達する。そしてついに西側の平坦な地に出た。この時、土佐は村を焼かれて幕兵に恨みのある地元の猟師を案内に立てていた(会津史)。この官軍別働隊が斜面を南下して、萩岡を側面から攻撃。土佐隊と交戦中の東軍第二陣地を左側から崩した。この側面攻撃に東軍は隊形を崩して既設の陣地へ逃げ込む。更に官軍別働隊に敗れた部隊がなだれ込み、これによって東軍は動揺する。

さらにこの時、第一線陣地を破った官軍中央隊が第二線陣地に迫ってきた。官軍は砲兵による砲撃の予定だったが、適当な地形がないので砲兵は小銃を手に取って攻撃。敵中央隊と右翼の兵力が合わさったので、東軍は第二線陣地を放棄して第三線まで後退した。

大鳥は中軍山で指揮しつつ推移を見ていたが、萩岡で火炎が上がるのを見る。会津兵が陣小屋へ火を放ったという。
これが正午ごろ。

そして第三線陣地の戦い。
ここには正面に第三線陣地よりもわずかに小高い丘があり、ここに薩摩の全砲兵20余門が展開。第一線・第二戦から撤退してきた東軍に、一大砲撃を開始した。この砲弾の雨にたまらず、訓練不足の会津・仙台兵は逃げ散る。伝習隊までが後退を始める。そして敵歩兵の突撃。

大鳥は堅固な胸壁に拠って今一度と防戦を指揮するが、「何者の所業にや本営の陣屋へ火をかけたり」。なんと後方の本営で火が上がった。これは我先に退却した会津農兵が火をつけたもの。しかも彼らは、敵が既に後方に回ったと言い触れている。

これにより味方は退路を絶たれると恐慌状態、散り散りに敗走する。大鳥は、ここが敗れれば会津は滅亡の危機にある、今一度奮発してくれと怒鳴るけれども、もはや必死に防戦しようとする者はいない。気がついたら、自分と僅かに数人だけが、胸壁に取り残されてしまっていた。

そこに敵が群がってきて、弾丸は雨より激しく降り注いでくる。大鳥はここで残っていた、会津の田中、小森、北原雅長らと、ここで死んでも甲斐はない、一度退いてまた防御の策をたてようと話し、皆の同意を得る。そして木地小屋に向けて撤退。これに敵が追ってきて、しきりに狙撃してくる。幸い一発も命中しない。

この後の防戦の策を相談しながら歩いていると、林のなかに呼子の笛の音。味方かと思って進む。すると敵だった。間道から発砲され、大鳥は愕然として再び逃げ惑った。田中らともはぐれる。

なお、敵左翼隊は午後5時ごろ漸く達沢に達する。急峻な山道を越えるのに手間取って、回り込んだ時にはすでに峠の戦闘は終わっていた。大原(場所不明)のあたりで敗残兵に遭遇したという。…もしかしてこれが大鳥らか。時間的にも。下手したら薩摩隊に生け捕り。(本当生け捕られたのではないかと伝習隊に心配されていた)

そして大鳥も伝習隊も散り散りになり、会津を救わんと足掻きながらの壮絶な山中流離の途に着く。

第三線陣地崩壊時の大鳥の叫びは、脅しでも誇張でもなく、事実だった。この母成峠の敗戦が会津滅亡のスタートだった。会津藩は鶴ヶ城城下に予備隊を配置していなかった。為に、一方面が破られるとそこを補強する為の兵力がない。場内には城を守る兵もない。最前線にいる部隊が、防備を放棄して鶴ヶ城に駆け付けなければならなかった。この為に会津の防備線はすべて崩壊していく。


ということで、官軍の迂回・陽動・砲隊と、東軍の三線の複数陣地。敵味方とも、大規模にして複雑な陣地戦を展開した母成峠。大鳥なりに、圧倒的に不利な条件最善を尽くして、殿どころか、最後の最後の一兵になって直接弾丸雨あられと打ちかけられるまで、陣地で粘っていたのでした。

当時、兵法の教科書を訳し教授していた大鳥が、教科書にない複線陣地の戦術を編み出した。これは大鳥に、基礎知識に基づいた豊富な実戦経験があって、初めて可能だったことなのではないかと。小山・結城・宇都宮・今市・藤原の連戦を経ていたわけですし。
兵力不足、援軍も期待薄、地勢悪く、士気も低い。そうした悪条件の中で、陣地を何度も歩きながら考え抜いた末の結論だったのではないかと思います。

考えられる東軍の敗因は以下の通り。

・兵力の数の不足、訓練不足の兵、地形の不利、といった前提条件
・濃霧の発生による見通しの悪と、敵兵の見落とし、発見の遅れ (ただしこれは官軍も迂回隊との協調において同等の不利に働いた)
・第一線陣地の早期崩壊
・第二線陣地で敵別働隊に当たった隊の競り負けと雪崩れ込みによる第二線陣地の混乱
・縦深陣形を生かすには予想外の戦闘推移の早さ
・第三線陣地を攻めた官軍の砲隊による集中砲火と、これによる混乱
・第二線陣地と第三戦陣地の、二度にわたる農兵による放火。特に第三線陣地の本営の出火と、退路を絶たれたという流言は味方の戦意を瓦解させた。
・前日山入村の戦いで伝習兵に生じた味方兵への不信と士気の低下

と色々挙げられるのですが。
何より、会津農兵のやる気のなさを、根本として挙げたい。

東軍陣地の状況は、地元農民によって敵官軍に筒抜けだった。また地元農民は官軍のための迂回隊や別働隊のための道案内役を買ってでていた。ホームの有利が会津側には薄かった。

もともと、江戸末期の疫病や冷害・飢饉により生産力が落ちていた。ここに京都守護職や出兵準備による藩出費の増大が、疲弊した農村に覆いかぶさっていた。
会津は身分意識の大きい国柄で、武士と農民の生活レベル差は大きく、農民の貧困度合いは激しかった。
戦争に突入すると、会津藩士は焦土戦術で農村を焼く方針を用いた。つまり領地を占領した敵に、領地の糧食や家屋を利用させないために、「御用火事」という名目で兵は自分の領土の農民の生活の場を焼いていった。いくら名目があれど自分の収穫、田畑財産を焼いた人間たちのために働こうという気など農民達に起きようはずが無い。

また、農兵は徴兵だった。無理やり農村から男手を連れ去られた形。男たちは残された家族や畑が気になって仕方が無い。隙があれば逃げ出して家に帰りたい。命を賭して戦っても、田畑が荒れて家族が泣くだけでいいことはひとつもない。故に他人の褌で相撲をとることばかり考えててもむべなるかな。フランスの国民軍のような義勇兵的なテンションはまったくなかった。

一方、仏式撒兵戦術は、兵一人一人が合図に基づいて機敏・機能的に動ける士気の高さが前提だった。逃げると斬ると恐怖で押さえつけるやりかたは、密集陣形を用いた火縄銃時代のものだ。
そんな中で、士気が皆無の農兵をもってこられても、不安材料にしかならない。

要するに、会津藩の農民との信頼関係の形成の失敗、ひいては藩経営の失敗というのが、敗戦の本質にあるのではないかと思える。

…いや別に殿様を責めたいわけでは決してないのです。単に、誰か一人が悪いと責任をおっかぶせてしまえるような問題ではないだろう、と思うだけで。

大鳥が真っ先に逃げたなどと書いてある小説も世にはあります。間に受ける方はいらっしゃらないと信じますが。ここでの敗戦を以って大鳥を戦下手や負け将軍呼ばわりされる方もいらっしゃいます。ご自身ならどのように戦うか、戦えるか、後学のためにぜひともご教示をお願いしたいところです。はい。…いやその喧嘩売っているわけでは決して。ジンルイミナキョウダイネ。

[2] 入潮 2006/10/10(Tue)-21:34 (No.183)
書き足していたら字数制限にひっかかった…。

実際に、南側から母成グリーンラインを登っていくと、萩岡の上、第二陣地を置いたあたりは結構急峻なのですが、そこから上はほとんど台地。たとえば鬼怒川の怒涛の急流に削られた藤原の峻険に比べると、峠はスコーンと抜けるような丘に思える。
戦術を知り戦闘経験のある人間ほど、ここで守れといわれたらイヤだと答えると思った。

峠は展望駐車場になっていて、ここに昭和57年、官軍・東軍双方の死者を悼むために、古戦場跡の碑が建てられています。
すがすがしい青空に、ススキがたなびいていて爽快な光景なのですが、この碑があるがために、景色がモノトーンめいて見えました。

ここに、ドライブなのか仕事なのか、作業服で来ていた地元のおいちゃんたちに声を掛けられる。地元会津弁の方3名にまくし立てられて、ひとつのやり取りに「はい?」「え?」を繰り返し、意思疎通の効率が大変よろしくない。…圭介も苦労したのだろうか。脱走初期に参謀に会津人がついたのは、通訳が欲しかったからというのもあるのだろうか、とか思ってみる。

おいちゃんに、手作りの味噌焼きおにぎりをいただいた。朝、壬生でコンビニおでんを食べたきりだったので腹ペコ。胃袋に染み込む美味さでした。ありがとうございました。
こういうおすそ分けに、普通ならありえない、土地の親和性を感じる。知らない人から食べ物もらっちゃいけません、というような世知辛さはどこにもない。独りで旅していると、珍しがってくれるというか哀れんでくれるというか、こういった情のある僥倖にたびたび出会えます。それがあるからやめられないのかもしれない。

ぼうぼうと生えて風に揺れるススキ。この草むらのなかに圭介らは身を隠して逃げていったのだと思うと、ススキ一本一本が風に揺れるのも哀愁深い。

そういった情緒も、背後で暴走珍走団めいたおにーちゃんたちが、短くしたマフラーでやかましい音を破裂させていて、打ち破られてしまった。せっかくだから大砲の音だと思うことにした。

そうして峠の向こう側、数百メートル行ったところに、ダート道の入り口がある。東軍殉難者慰霊碑の入り口でした。こちらのほうは実は存在を知らなかったです。通り抜けようとして看板で気がついた。

ダート道を下っていくと、万葉の庭という庭園があり、「歓迎万葉の庭入り口」というゲートがあるだけで、惑わされます。その対面に、入り口の案内看板もない鉄階段がある。これを登ると慰霊碑のある空間に至ります。
母成の戦いの詳細絵図や案内板も立てられています。
東軍戦死者は、埋葬を許されず放置されていました。これを見かねた人々が遺体を仮埋葬しました。その後雑草に覆われて所在がわからなくなっていたところ、猪苗代地方史研究会の方が発見。母成弔霊義会を結成して慰霊祭を執り行い、この碑を建てたとのこと。
明治22年に、会津藩殉難者慰霊祭が晴れて執行できるようになった際の西郷頼母の歌も、案内板に提示されていました。

「なき魂も 恨みは晴れて けふよりは ともに長閑く 天かけるらん」

殉難碑の裏面には、母成峠戦の東軍戦死者の名前が刻まれています。会津藩三十八名、二本松藩八名、唐津藩六名、新選組六名。
……伝習隊の名前がない。

客兵だからスルーされてしまったのかと思ってしまったのですが。
あとから確認してみると、大川日記にも母成の死者が記録されていないのですよな。

死者無しということなのではなく、あまりに散り散りの壊滅状態になったので、再編後、死者と脱走の区別が付かなくて記録できなかったからなのではないかと思います。

この地の下に彼等の遺体がと思うだに、神妙に手を合わせます。何をいっていいのかわからない。ご愁傷さまでもご苦労様でもない。同情するのも失礼だし、称えるのもなにか違う。ただ安らかに、と思うだけでした。
マイナスイオンにあふれているような、緑と木漏れ日の心地よいはずの広場なのですが、どうにも重い物を感じました。


それから峠を越えて猪苗代側へ。これから圭介敗走ルートを追う…前に、峠で冷えた体を温めるのに、沼尻温泉に行きます。県道24号から外れ、東へ。古くからスキー場があり、スキー客の常宿になっています。田村屋という旅館の温泉でした。
酸性-カルシウム-アルミニウム-硫酸塩-塩化物温泉という長い名前の成分。お湯は、わずかに硫黄臭さがあり、底に緑の湯の花が沈殿していました。良い湯でした。堪能。
ここを死ぬ思いで敗走していった兵らに申し訳ないと思いつつ。

そうして、こんどこそ、凄惨なる大鳥磐梯流浪路を、追っかけに入ります。今回のメインは、どちらかというと、戦争よりここから。
すでに背景整理で力尽きて、レポートになってない。
posted by 入潮 at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

著作権の進化

米Googleが、動画サイトYou Tubeを約2000億円で買収。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061011k0000m020075000c.html
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20266088,00.htm

Googleも懐が広いなぁ…。
まぁ、著作権で風に当たっているのはGoogleのほうなので、You Tubeがその傘下に入ることによりGoogleが倒れたときに共倒れになるのではないかという見かたもあるようなのですが。
やっていることは、著作権のほかに放送権も踏みにじっているYou Tubeのほうが、業が深いですよな。

著作権の考え方でいくと、著作者の利益を保護するというのが、法の基本。
逆に言えば、著作者の利益になっていれば、問題は起きにくい。

Amazonなどの本屋サイトやそのアフィリエイトなどで、表紙の画像を出版社・著作者に無承諾で掲載することは、著作権を杓子定規に捉えると、著作権違反です。

また、漫画のキャラクターを自分で描いてみたり、小説の設定をパロディで書いてみたりする二次創作は、全て著作権には違反している行為なのですが。
誰もそんなことは騒ぎ立てません。サンライズなど一部厳格に取りしきっているところはあるようですが。
むしろアニメ製作会社や出版社が、同人誌即売会などのイベントに出資する勢い。
これは、二次創作作品が、オリジナルの認知度を高め、読者の原作品への愛着を高め、更なる購買意欲を高める働きがあるため。

つまり、Amazonにしても、二次創作にしても、You Tubeにしても、結果的に著作権を有する出版社、著作者の利益になるから、野放しにされている。

これは「黙示の許諾」と呼ばれています。
許諾どころではなく、むしろもっとやれと煽り立てられている状態。
二次だろうが違法コピーだろうが、作品のファンを増やせることは、著作者にとっては何よりの投資効果をもたらすのです。

で、インターネットは、著作権の在り方をガラリと変えて、新たなニーズとマーケットを掘り起こした。
それは、埋もれた希少品を安価に掘り出す、マニアの世界。

古本を例にとると分かりやすいと思うのですが。
希少でディープな本ほど、マニアには受ける。けれども数は吐けない。一般受けはしない。
マニアは一生懸命血眼になって探すわけですが、大部分の人間にとっては価値のない屑。

そういうものについて、情報を整理して、求めている人に、安価に短時間に供給する。
それが、検索システム。検索は、世の知識構造を変える画期的な技術なのです。

情報提供者は、今まで売れなくて倉庫に平積みになっていた本が売れる。マニアは長年探し回らねばならない本を一瞬に見つけることができる。
Amazonの古本や、「日本の古本屋」等のサイトは、情報の提供者と享受者双方に、利益をもたらす。Win-Winの関係を作るわけです。

大半の本屋は、ベストセラーの売れゆきで稼いでいる。売れないマイナー本など在庫を増やすだけでコストがかかり害悪とすらいえる存在なのですが。Amazonの場合はこうしたマイナー本を取り扱い、マイナー本の売り上げが全体の1/3から半分を占めるのだそうです。

これ、横軸を売れ行き順に並べ、縦軸を売れ数に並べたグラフにすると、恐竜の長いしっぽが地を這うような状態でずーっと続いている図になることから、こうしたマイナー本群を、ロングテールという。

で、ネットはこうしたロングテールの発掘と提供を可能にするわけで。
表紙や、ちょっと見せます程度のちっこい動画を掲載することは、これまで捉えられなかった極小の消費者のニーズを、低コスト短時間小労力で掘り起こすができる。出版社やDVD会社としては、自らなにも労をせず、コストもかけず、欲しい消費者に的確な広告を与えてくれるので、表紙の画像掲載もちっこい動画の掲載も、どうぞやってくれと持て囃したいところでしょう。

で、こうした多すぎる情報を整理し、消費者が望む情報を簡単にもたらしてやるシステムの提供者が、Googleであり、You Tubeであり。彼等は広告収入によって稼いでいる。トリプルWinの構造。ちょっと揺らぎようがない感じです。

あ、米Googleが著作権で問題になっているのは、三大大学図書館の書籍を全てオンライン閲覧+全文検索化しようとした、とっぴょうしもない壮大すぎる野望のため。いずれそれも認められる流れになっていくのだとは思いますが。時期尚早過ぎたのではないかなと思う。でもその野心が大好きです。

特に二次創作をされている方には、出版社の「お目こぼし」で行えている状態、いつ咎められてもおかしくない、という意識があるようですが。

AmazonやYou Tubeなどの巨大商用サイトにせよ、個人の二次創作にせよ、著作権で問題にすることは、時代に逆行することになるのだと思います。そして、それらの利用者が、これは違法だし…とか肩身狭く感じることもなくないのではないかと。著作権で訴訟を起す企業のほうが、一般に対してはイメージが悪くなる。

問題になるとしたら、それは、法の本質から離れた、やっかみや嫉妬や気に食わなさといった、個人レベルの感情が起きるときではないだろうか。

そしてそういうので著作権侵害を言い立てても、だいたいは著作権以前に、「権利濫用禁止」という民法1条により、門前払いを食います。実際、特許法や著作権法で、権利濫用を根拠に権利行使を制限した判例はかなりあるらしい。

権利云々を言いたてていちゃもんをつける側が、法の本質を考えていない、ということで、恥をかくということでしょうか。

(アイドルやスポーツ選手など実在の人物を取り扱う、いわゆる生モノの場合は、生きている人間の肖像権や名誉毀損が絡むから、また違うのでしょうけれども。実在意識とキャラクター化が混在している歴史サイトは、大変微妙だ)

あと、いちおう端っこだけでも歴史系マニアとして望むことは、もっとフェアユースの概念が日本でも広がってくれないかなぁ、ということです。

フェアユース(公正利用)とは、個人の利益ではなく公共の便益にかなうのであれば、著作権法の中で、認められている許諾がなくとも使用できる、というもの。著作権は守るだけでなく、著作物をみんなの共有財産として有効活用していかなければならないという考えに基づきます。アメリカなどでは一般的になってきた考え方です。

たとえば、まだ著作権が消滅していない大鳥関係資料について、このフェアユースの概念が適用されるなら、大鳥の業績を広めることが日本人が日本人としての誇りを高めることに寄与するのであれば、著作権上求められる許諾などの手続きなしに、自分がサイトに全文アップしても問題ない、とかいうことになる。

こちらのサイトに概念や背景が詳しい。
http://www.nic.ad.jp/ja/materials/iw/1997/proceedings/fujimoto/fairuse.html

特に個人サイトの場合、個人の利益のためでもないし、著作者の利益も侵害しない。そもそも絶版になっている文献も多い。ベストセラーになるような本の初版の内容をそのまま載せるのは問題ですが、載せても載せなくても出版者の利益には関係ない、むしろ関連書籍への需要が掘り起こせるし、それが公共の利益に適う、といった場合には、著作権は顧慮しなくてもいい、となると、大変助かるのですよなぁ。

技術にあわせて、法の取り扱いも変わっていくのだと思います。逆に、変わっていかないとおかしい。何のための立法機関だ、ということになる。

余談ながら、5年ほど前にミャンマーで、カラーコピー機が国内になくて、報告書作成に大変苦労したことがあった。偽札を防ぐため、カラーコピーが違法とされていたのですが。スキャン+カラープリントアウトはOKだった。で、プリントアウトのほうがコピーよりも画像が解像度が良かったり。何のための違法だ、という疑問が大きかった。更に言えば、品質の悪い兌換紙幣を発行しているほうが悪いと思う。今は変わったのだろうか。

えーと、法についてはまったくのシロウトなんで、鵜呑みにしないでください…。
情報の取捨選択能力こそが、これから個々人に求められる生き残り資質になるのではないかと思います。
などと、しれっと。

こうした、Webの普及によって世界がガラリと変わろうとしている。今すさまじい知識の変革期にある、ということは、以下の書籍で実感できます。

「ウェブ進化論」梅田 望夫、ちくま新書
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480062858/sr=8-1/qid=1160504843/ref=sr_1_1/250-5395122-3089853?ie=UTF8&s=books

前からずっとご紹介したいと思っていました。
どきどきわくわくしながら、一気読みしてしまえます。すごい興奮した。どんなファンタジーより今の時代が楽しい。
欲を言えば、もちょっとハードの価値を認めてくれればなと思いましたが。今、この世に何が起こっているのか。鋭く簡潔に読み解いた、名著です。

要するに、二次創作もAmazonもYou Tubeもどんどんやってくれ、といいたい。私は喜び勇んで、全て利用させていただいており、大変大きな便益を享受しておりますし、消費者として市場に金を供給する「義務」も果たさせていただいています。ははは。

That's オタク。オタクこそが、時代のパイオニア。

といいつつ、すでにもう取り残されている自分を自覚するばかり。進むの早いって。世界。ようやくこの間携帯を手にしたばかりだというのに。メイルの打ち方どころか、自分のメイルアドレスがどうなっているのかも良く分からない。

第三世代って、ワンセグって何ですか。ワンレンの親戚ですか。
何がおきているのかを理解する間もないうちに、もう次にどんどん進んでいる…
posted by 入潮 at 03:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月14日

仕事でふらふら、旭川と東大図書館

北海道にお花畑を見に行ってました。

いや、仕事でですが。旭川に泊まりで出張でした。寒かった。朝晩で5,6℃ぐらい。
飛行機上空から、函館と札幌を内心叫びながら見送りました。
それで今日、会社に戻って今まで仕事。疲れた。

ここのとこまた別分野に手を出さざるを得なくなりました。今度は夏30℃、冬-40℃の土地で百姓。
人権は建前上守ってくれますが、人生はまったく顧慮してくれない会社です。

てことで、来週からモンゴル出張。やっと外にでれる…。
今年はもう出張はないものだと思って、晩秋・紅葉用のツーリング装備を整えてしまったではないか。帰ったらもう冬だ。くそー。

えぇと、先日、東大の研究室と生協と総合図書館に行きました。仕事で。
あれは仕事で行くところではありません。工学部を通るたびに、「うぉ、コンドル先生はどこだ」「あぁ、この建物のなかに辰野・曾禰のナマ卒論がッ」とか、のけぞる。

図書館は雰囲気が大英図書館とよく似ていた。モデルにしたのだろうか。なんかこう、日本一の智が結集した聖地としての威厳を背負っているぞ、という感じ。国会図書館のほうは重厚さのなかに機能性があって、どちらかというとワシントンの議会図書館に雰囲気が近い。国会図書館のほうは慣れましたが、東大のほうはどうも、自分のような一庶民には居心地が悪くて、こんなところに迷い込んでしまってごめんなさい、という気になる。

一度、関東大震災で全焼しているのですよな。幕末明治以来築き上げられてきた蔵書数十万冊が一瞬にして灰塵に帰したという。ぐあぁ。
時間がぜんぜん無かったので、目的の文献だけ見つけたらさっさと引揚げるはずだったのですが。何気なく通りかかった棚に、各電力会社やら製剤会社やら製紙会社やら丸善やら各銀行やらの百年史・五十年史がずらりと開架で並んでいた。悶えた…。今度一日かけて行ってみよう。
ここでしか出来ない調査をするのです、という目的を書けば、一般人でもあっさり中に入れてくれます。独立行政法人化ブラボー。

…む。明日は福島、ピーカンか。
いや、駄目だ。出発準備が。文献も山と読まねばならない。事務作業も終わるかどうか果てしないのに。
駄目なんだったら、自分。
(といいつつ三十一人戦士の墓の位置を地図に書き込む…)

(あ、天から行けというお告げが降りてきていた…)
ラベル:図書館
posted by 入潮 at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月16日

会津裏磐梯再チャレンジ

あー、もう目を開けていられない…
今日一日で3日分ぐらいのエネルギーを消耗しました。もう駄目。

再び会津へ行ってまいりました。もうこの機を逃したら、来年雪が解けるまで北には行けない、と。

ミッションは以下の通り。

1) 御霊柩峠
2) 山入村、三十一人戦士の墓
3) 大塩峠・萱峠
4) 下野街道 大内宿

前回に行き逃したところです。見つけるのを諦めたり、あとから地図をみていて旧道があることに気が付いたりとかで。

休日出勤もせねばならないし、出発準備もあるし、読まねばならない資料も山積み。ここで行ったら、あとで地獄を見ると己を戒めども。

A様が、柿沢・秋月の墓所や滝沢旧道や地酒「会津中将」の蔵元を示した地図をお送りくださった。
…これを手に取ったのが前日夜中。これが「行け」という天の啓示と言わずしてなんと言おう。

というわけで、理性より衝動が勝ったことを、人様に責任転嫁しつつ。

その週ずっと終電帰りで、前日も日が変わるまであれこれやっていて、仕事終わる目処もつかず、という状態。前回と同じく4時起きで出発したかったのだけれど、睡眠不足だと眠気と戦いながら走る羽目になる。そもそも午前3時に床に入って4時に起きれるはずがない。

結局、7時起床で出発。会津西街道ルートではなく、高速道路で一気に郡山まで出ることにしました。こうなったら時間と体力を金で買う戦法。

ルートは以下の通り。

一日目:
取手→土浦→高速常磐道→いわき中央→高速磐越道→船引三春→要田温泉→元宮→大玉村→三十一人戦士の墓(山入村)→R4・県道357・県道29→御霊櫃峠→県道4・県道236・R294→赤津宿→滝沢旧道(一部)→戸ノ口古戦場跡→十六橋・安積疎水→R49・県道7・県道2・R459→裏磐梯→大塩峠(萱峠)・蘭峠→桧原→県道64・R459→大塩温泉→県道69→会津若松→会津本郷温泉→阿賀川河川敷で野営

二日目:県道131→関山宿→大内宿→R121→田島→山王峠→五十里湖・県道249→湯西川温泉→大笹→県道169・県道245→今市・日光例幣使街道・県道70→宇都宮→R4・R121・R408・R294→取手

一日目:475 km(含高速)、二日目:285 km、合計:760km

土日のどちらかはとにかく会社に行く必要があった。日帰りも無理をすれば不可能ではなかったのだけれども、1日目、2つ目の温泉に入ったらもう力尽きた。野営。

そして、翌日早朝から走って、午後出社すれば何とか…と思っていたのですが。

関東地図をお持ちの方は2日目のルートを辿っていただければと思うのですが。直行で帰宅せねばならない人間の取るルートでは到底ありません。

…あまりに、紅葉が見事すぎました。ついつい、山道を奥へ奥へといざなわれてしまった。会津の標高の高いところは全盛、日光も峠辺りは素晴らしい、の一言に尽きました。一車線ぎりぎり、空は枝で覆われ、道路は枯れ葉で埋まっている。ヘアピンカーブ・急勾配の山道。何度後輪が滑ってコケそうになったか。

…楽しかった。美しかった。あんなものを、見ずに通り過ぎろというのは、人間の健やかなる感性に反したことです。

それで、帰り着いたのは午後2時半。すでにこの時点で疲れ果てていました。
そのまま、出張用の買出しと洗濯をし、バイク屋に行ってブレーキのオーバーホールとホーンの修理をしてもらって、夕方から仕事へ。帰宅してから、バイクを長時間放置できるようにキャブレターから油を抜いてバッテリーをはずす。

…疲れた。体力と精神力の限界が見えた。何でこんな思いをしてまで、バイクなんて非効率的な乗り物に貴重な時間と体力を割いているのか。
我ながら何かに取り付かれたかのような行いだと思います。

とりあえず先に自分で勝手に設定したほうはミッション・コンプリートですが、A様より示された新たなものは、あまり満たすことができませんでした。雪が解けてから再チャレンジします。会津図書館も行きたい。行かねばなるまい。

人間の欲望って、果てがない。

posted by 入潮 at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月19日

モンゴル着

モンゴルです。首都ウランバートル入りしました。

寒いです。昼間で3℃。今は氷点下。旭川より寒い。
といってもまだまだ序の口で、冬はこれから。
正月ごろには-40℃まで下がるとのこと。風呂に入って外に出ると頭の後ろにツララができるのだそうな。
ただ、ここまで寒いと人間ほとんど外に出ない。それで、豊富な石炭を利用して熱供給をしているので、室内は半そででもいられるぐらい暖かいのだそうで。

一方、今はちょうど暖房が入る前の時期なので、実は室内は一番寒い時期だった。室内でバイクの冬用のウェアを着て震えています。

会津野営で寒さに体を慣らしておいてよかった。計算どおり。…嘘です、すみません。

秋の草原の国というと、抜けるような爽快な空を想像してしまうのですが。
どんよりとスモッグで曇っています。町中が石炭臭い。これは、暖房用の石炭のため。
この国は、石油は出ないのですが、石炭は豊富に埋まっていまして、大規模な露天掘りで安くガンガン掘り出しています。で、石炭を燃やすときに発生する硫黄酸化物や窒素酸化物が、大気汚染の元になっている。

(石炭火力発電所が原因かと思ったら、そうではないようで。地方から首都周辺に集まった遊牧民のゲル(テント)のストーブの石炭が、問題になっているとのこと)

さらにこれに、激増した自動車が拍車を掛けています。ちょうど夕方のラッシュ時期に着いたら、大渋滞で難儀しました。運転手は慣れっこで、割り込みしまくり。Uターンのときに確認すらしない。交差点のガソリンスタンドが、自動車のレーンと化している…。

運転は相当あらっぽいというか、かろうじて信号が守られているぐらいの無法地帯です。皆、草原を自由に馬で駆ける感覚で車を乗り回しているので。車はぶつけまくっていて、みんなボコボコになっています。バンパーがへこんだぐらいでは、蚊が刺したほども感じないのだろう。

これまでのモンゴルの産業といったら、カシミアと皮製品ぐらいのものでしたが。今、地下資源の最後のフロンティアなどと言われ、石炭のほかに、鉄鉱石、銅、金などの金属資源に熱い目が注がれています。外国からの投資が急速に入り込んできていて、資源成金というのが街に現れてきた。

この国も、来るごとに変わっていくのだろうなぁと思います。

今は、ちょうど草も枯れて、茶色い大地が広がっていて、どうにも侘しい感じです。

宿にADSLが来ていた。といっても速度はダイヤルアップと同じぐらい。でもブータンよりはだいぶ状態がいい。
というわけで、時間を見つけて、更新していきたいと思います。

ここも標高が高くて酸素が足りないのと、アルヒ(酒)を飲むので、すぐに寝る毎日になりそう。更新を思うだけで終わらないようにしたいと思います。と思うだけで終わらないように…(エンドレス)
ラベル:モンゴル
posted by 入潮 at 02:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

グラミン銀行

潰れてます。
呑んだくれています。

酒は上物の飲み物として尊敬すべき液体。客人を迎えるには欠かせない。そしてモンゴル人は、相手が酔わないと安心しない。こちらも貰ってばかりでは何なので、お返しに日本酒やら焼酎やら持ち込む。
そういうわけで、毎夜何かしら飲んでいます。

自分が持ち込もうとした酒は、空港で割れてしまっていました。せっかく会津で買ってきたいい酒だったのに。もったいない。入れていた鞄が酒でぐっしょり濡れて、凄い臭いがしていた。出発前、成田のチェックインカウンターで、「何だこの酔いどれ女は」と、皆怪しい人間を見る目で通り過ぎていった。まだ酔ってないのに。出発からしてそんな感じでした。今だったらそのまんま酔っ払いです。

仕事場がビアガーデンの奥の部屋で、ビール工場の中を通って部屋に行くので、毎日ビール漬けになる。そして、モンゴルといえばアルヒ(=ウォッカ)。寒いから体を温めるためというのですが。温めるだけではすまないのが常。いくらでも瓶が出てくる。恐怖です。

昨日は雨でした。この時期は普通雪なのに雨というのは相当珍しいとのこと。こんなところにも温暖化の影が現れています。で、降水量の少ない都市なので、排水が全く整っていない。ちょっと雨が降るとすぐに道路が冠水しています。そして、夜のうちに雪に変わり、凍り付く。朝は打って変わって銀世界でした。温暖化だろうがなんだろうが、寒いものは寒い。

二日酔いのまま、今日は刈入れでした。着々と農業への道へ。
植え付けも雑草むしりもやっていないのに、刈入れの一番美味しいところだけいただくというのも申し訳ない。味を占めそうだ。
しかしこの寒さで1日中農作業というのも、厳しい。しかも昨日の雨が凍って、昼に解け始める。手も足もびしょぬれになる。寒い中で濡れると、本当に体力を消耗する。これが毎日なのだから、お百姓様の苦労が身に染みます。


さて、二日酔い頭でNHKを見ていたら。
グラミン銀行のユヌスさん、ノーベル平和賞受賞。
やっとかー、という感じです。10年遅いという気もします。

ムハンマド・ユヌス氏は、マイクロクレジットの創始者。何が凄いかというと、資金能力のない相手に、担保なし、小額から、零細農民、多くは女性に対して金を貸すこと。

そのシステムが良い。貸す対象は、個人ではなく5人程度のグループ。昔の日本で云う五人組を作る。融資はそのグループに対して行い、グループが連帯責任で金を返す仕組み。

この連帯責任が、担保になっているわけです。「人間性が担保だ」という素晴らしい言い方をしていますが。要するに、金の貸し先をグループ化することによって村八分が怖い人間から確実に返させるということ。(バングラディシュのように農村人口が密集しているからできるのであって、ブータンのように谷を越えてようやく一軒、というように離散した地域には適用は難しいかも)

重要なのは、単にその場しのぎの生活のための金貸しではなくて、産物を進め商売をして、借りた人間をちゃんと儲けさせる相談を行う。それまで耕すだけだった人間が、自分の生んだものに頭で考えて付加価値をつけさせるサポートを行っている。だから、借りた人間が、自分の儲けのなかからちゃんと金を返すことができるようになる。その仕組み自体が担保というか。貸しっぱなしではなく、グラミン銀行の人間が、返せる体制、つまり生活基盤を作ってやっている。

たとえば、グラミン銀行が携帯電話会社「グラミン・フォン」を設立。電話の普及していない農村の土地のない女性たちに携帯電話を貸す。女性たちはこの携帯電話を使って、先物取引をしたり、市場アクセスを手に入れて、ビジネスを行い、借りた金を返していく。

これら、数千円からという、小さい規模からはじめる融資なので、マイクロクレジットという名がつけられています。

そうした事業が功を奏して、グラミン銀行の返済率は98%を誇る。利益は毎年17億円という成功を収めている。

素晴らしいです。これを見ると、うちの国の消費者金融は何をやっているのだろうと、辛くなってくる。

それでHNKがこれを紹介していまして。その後、日本ではどうかということで、とあるミュージシャンの持っているNPOを紹介していました。再生可能エネルギー設備導入の紹介でした。それはそれでいいのですが。再生可能エネルギーは、よほどの規模があり事業で採算性が取れるものでないと現実的な効力は無い。小規模でチクチクやっていても、単にイイコトした気分になれる贅沢娯楽に過ぎないわけで。実際にそれがどれだけ地球環境と貧困削減に貢献しているのかというと、局所的にはよくても、全体の大枠から見れば大したインパクトはないわけです。でも、言葉がキレイだから、マスコミは喜んでそういうのをもてはやしたがる。

一方、日本もちゃんと国として、大使館予算で行っている草の根無償の中に、マイクロクレジット草の根無償というのがあります。「無償」というのは、返さなくてもいい、要するにプレゼントのこと。対比語は「借款」です。これは掛かった金は返してもらいます、というもの。

で、日本はマイクロクレジットの有効性にはきちんと目がつけていて、その原資や事務作業経費については無償で行いましょうという枠組みをもっていて、世界中で行っています。けれども、NHKはなぜかそういったODAには触れない。

なんで日本は、日本が日本の名前において行っている事をちゃんと国民に知らせないのだろうか、不思議です。

ウランバートルを走っているバスにも、日本の無償で入れたものがあります。
モンゴルの人口240万人のうち、半分はウランバートルに集中している。地方からどんどん都市に人口が流入しているわけで。ウランバートル郊外には移住してきた遊牧民のゲル(天幕)が林立しています。
ウランバートルも広いし、外がこの寒さなので、移動するのも大変。
そこにこの、小さな「JAPAN ODA」シールの張られているバスは、かなり喜ばれている存在です。

ただ、このバス、HUNDAI(韓国のメーカー、現代のこと)です。モンゴル人、バスにでかでかと書かれたHUNDAIの字を覚える人は多かれ度、ちっこいJAPAN ODAシールをわざわざ目に留める人はあまりいない。日本の税金を使って韓国の自動車メーカーを儲けるさせて宣伝してやっているのだから、何をやっているんだ、という気がしないでもないです。

ひも付き援助への批判対策で、国際入札にしたからでしょうか。
ひも付きというのは、日本のODAで入れる機器を、日本のメーカーの製品に限定して、日本の企業を儲けさせるということに対する、ネガティブなイメージから付いた言葉。入札の条件で、日本の商社やメーカーに限定して、他の国の企業が入ってこれないようにするわけです。それで、日本の製品は高い、というのは有名で。税金を払う側(=日本人)で公平性を求める人が、「ひも付きはよくない、どの国の会社も入札に参加できるのが公平だ」と高々と声を上げる。これもマスコミが好んで批判することです。

私としては、日本の金で日本のモノを入れて、何が悪い、という気がするのですよな。ODAで入れる製品は、日本のプロダクトの広告塔であり、その耐久性、機能性を知らしめるには格好の手段。日本製は高いが良いもの、というブランド意識を植えつけられます。その国で普及すると、大きなマーケットになる。技術立国日本の展望が広がっていくわけで。

大体、日本の金で日本の名前でモノを入れるわけですから、安かろう悪かろうな他国製品を入れて、すぐに故障するとかメンテナンスに金がかかるとか悪評が立ったら、傷つくのは日本の名前なわけで。
自分なら、安いからという理由で、自分の納めている税金が他国のメーカーの宣伝にしかなっていないというのなら、そっちのほうが納税者として怒りの声をあげます。

「公平性」という言葉が大好きな方はたくさんいらっしゃいますが。それを金科玉条のように振りかざした結果、妙な事になっているというのは、ときどきあるようです。

ただ、モンゴルのこの件の場合は、単に、当時Hundaiの市場が既に出来上がっていて、スペアパーツが手に入りやすいとか、安いとかいう事情があり、あるいはあるいは安いバスのほうが台数を稼げるから、そのほうがいいなど、当のモンゴル政府からそういう要望があったのかもしれない。

そのあたりは、当時の担当の方や基本設計を行った方に聞いてみないと分からないですが。

その場合だと、単に市場を開拓していなかった日本企業が悪い、ということにもなる…。

さて、格差社会という言葉が流行語になって久しい。
原因は、景気云々もそうですが。日本の製品が海外できちんと売れているという状態が、今の日本人の生活レベルを支えているわけで。その前提が、韓国・中国の台頭により脅かされてきた、というのが一番の原因なのではないかと思う。中国も、「安かろう悪かろう」の代名詞ですが、日本やアメリカからかなりの技術導入(あるいはマネ)をして、「安かろう良かろう」になってきている。中国製40万円小型車が大流行で、これが日本のマーケットを脅かすのではないかという話も。これはかなり恐るべきこと。

一方、中国やインドの人口が巨大なマーケットになっているというのはすでに現実。
グラミン銀行の成功は、低所得層を経済的に豊かにすることを可能にしたこと。援助もなにも、使っておしまいな寄付ではなく、貧困層が金儲けする仕組みを作らないと、貧困はどうにもならない。そこにグラミンのシステムによって突破口が生まれた。そして、今まで資本主義に置き去りにされていたこの貧困層が、今後大きな市場になっていく。貧困層がちゃんと金儲けする社会が、世界に安定をもたらす。

ここに食い込むために、日本の技術は、低コスト化をもってしてこれを本気でターゲットにする必要がある。
それは、貧困撲滅と低所得層の生活水準向上にとっても、日本自身が生き残るためにいも、必要なこと。
さもないと、いずれ日本は零落していくのではないか。先進国の人口は減っている一方、増えているのはこのポスト貧困層であるわけで。

日本のモノを世界で売るということを、日本人が一丸となって本気で考えないと、格差どころの話ではなくなる。先進国、中心国、途上国、という言葉がありますが、「転落国」という語が生まれ、それがわが国に課せられるというのは、ぞっとしない話だなぁ、と。別に不安を煽りたいわけではないですが、怖くなってしまうわけです。先人が築き上げてくださった技術立国日本のステイタスを、今の我々の世代が貶めてしまうようなことになっては申し訳が立たんのではないかと。

や、単に、一納税者としては、HUNDAIのバスより、TOYOTAやHONDAやISUZUに使ってもらうのがいいなぁ、と思うだけなのですが。
(相手の借金になる円借款は別だと思いますけれども。金を返さねばならないのなら、安いほうがいいと思うのも相手次第)

そういいながら、本日、余りに寒いので、デパートで有名アウトドアウェアメーカーのロゴのある防寒具を買ってきました。どう見てもバッタモノの中国製品です。結構しっかり作ってあって、良いです。そうなるとやはり、購買において安さに勝てる魅力はありません。

不安だ。あー、不安だ。
ラベル:貧困 モンゴル
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2006年10月24日

モンゴル:人と国


[1] MOJO URL 2006/10/24(Tue)-00:55 (No.191)
入潮様
こんばんは。お邪魔します。

モンゴルですか・・・
近い国なのに、現状のモンゴルのイメージが乏しくて情けないです。
でも、正直寒い所は嫌いなので、
入潮様のような活動は、たぶん出来ません。
(吹きさらしの冬の発掘現場は経験ありますが)

日本の今後を考えると、
私も不安だらけです。
その反面楽観的なところもあります。
(といっても、私の場合もう少し範囲が狭いです)
私は日本人に生まれたことを
とても喜ばしく思っています。
アジアの片隅にこれだけの歴史を積み上げてきた民族ですし、その使う言葉の美しさ、
異文化を飲み込む寛容さなどは誇りに思います。
しかし、国(故郷ではなく政治体としての)となると、自分は「国」を一度でも誇りに思ったことがあるだろうか?
たぶんありません。

その差がどうも埋められなくて、
たぶん国が滅んでも日本「人」は生きていけるのではないかと思ってしまいます。

公平性、効率化と言う言葉が
どれほど仕事をやりにくくしているか。
お金も労力も必要な所に投入してこそ活きるのに、
目的をはっきりさせずに、お題目だけ唱える輩の多いこと。いやになります。
格差だって、社会にあるのは当然。
平等は幻想です。
・・・すみません。
なんだかやさぐれてしまいました。

ご自愛をお祈りしています。


    [2] 入潮 2006/11/04(Sat)-19:21 (No.196)
    MOJO様、
    思慮に満ちたコメント、ありがとうございます。通信困難なときにお言葉いただけるのもいっそう嬉しいです。レスポンスが大変遅くなってしまい申し訳ないです。

    冬の発掘現場とは、それも大変そうです。風の中に長時間居続けるというのが一番堪えますし。
    温暖な地方での夏生まれなので、自分も寒いところはできるだけ避けたいです。ただ、人間、慣れるもので、そこに人がいる限り、なんとでも生きていけるのだなぁという気がしています。

    MOJOさんのように日本に生まれられたことが感謝できる方は、あまりいないのかもしれません。自分は外に出て初めて、日本人のステイタスがいかにありがたいことかを初めて知りました。パスポートもビザも難なく取れる、通貨が強い、何より製品の品質に裏づけされた「あの日本人」という定評がある。馬鹿にされるところも皆無ではありませんが、日本人は世界の中で確固とした位置を持っているのだなぁ、と。

    日本はダメだという自虐やニヒリズムが好まれることが多いですが、子供らにちゃんと自分が日本人でよかったと思ってもらえるようなものを供していきたなぁと思います。

    国が滅んでも日本人は生きていく。なんだか考えさせられました。日本人は民力が高いのだなぁと。
    政治が無くても生きていけるというのは、多分とても凄いこと。ミャンマーでも感じました。(軍事政権ですが、小乗仏教がとてもいいコミュニティを作り上げていき、政治とは別のところでミャンマー人がミャンマー人らしく生きている)
    自分も国会で居眠りしている方々はちょっと誇りには思えないです。
    けれども、日本を今の姿にまで築き上げてくださった先人、官僚、技術者、研究者、創業者の方々は、大きな誇りであり、もっと知りたい、もっと知っておかねばならないと思っています。

    仕事をやりにくくする要素。公平性、効率化。ぜひそれに「透明性」という語を付け加えさせてください。
    いやその、MOJOさんも相当、ご苦労されていますね。今度一緒に飲ませていただきたいです(笑)

    格差について、同感です。機会の平等はあればいいなぁと理想としては願うのですが、結果の平等を求めるのは何か履き違えていると感じられてしまいます。福祉と平等をごたまぜにして考えると、ろくでもないことになるなぁ、と。

    日本も日々寒さ増している頃と思いますが、体調などご留意ください。


      [3] MOJO URL 2006/11/05(Sun)-00:44 (No.201)
      入潮様

      人間、なんとでも生きていける。
      そうなのですね。
      国が滅びても人は残る、と思うのも実はそのあたりに根っこがあります。
      民百姓はたくましくてしたたかです(笑)。

      日本人であることを誇るためには、いま声高に言われれているような愛国心なんか不要だと私は思います。
      自分までつながっている歴史と文化、そして日本語の美しさを知ることができれば、それが誇りにつながると思います。

      「透明性」賛成します。
      私なんぞ苦労しているうちに入りませんが、飲むほうは是非ご一緒させてください(笑)。

    [4] 入潮 2006/11/05(Sun)-04:20 (No.203)
    国が滅びても人は生きていける。一方、人がいないと人は生きていけないのだなぁ、と感じたりします。
    国というのは人が効率的に生きていくための必要悪なのかな、と思います。

    「愛国心」というのは、言葉にしてしまうと無粋なことなのかな、と思ってしまいます。要は自分の存在を肯定できること。自分の家族、地域、郷土、形あるなしに関わらず今の自分に繋がるものの成り立ちを知っていて、良いものを良いと思えること。愛国心や祖国愛というのは、その結果生まれる、肯定的なものの形の一つに過ぎないのかな、と思います。

    歴史と文化と言葉、それを個人を構成するものとして、それぞれが取捨選択して積み上げていくことができるようにするのが教育だろうと思うのですが。必修を履修せずとあたふたしているのを見ると、本質はどこにあるのだろうと思ってしまいます。

    そういうわけで、酒の席、お言葉に甘えて駆けつけさせていただきます。MOJOさんの語りは、いろんな方面で尽きることがなさそうです。
ラベル:モンゴル
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2006年10月25日

Problem...

Now I am having problems of very slow internet connection and virus infection to my PC.

T-T

Virus is a big enemy and influences even to the body of our team members. (That is because of duty smog from coal stoves and this cold cold climate)

I'm now from a cyber cafe and not being able to use Japanese here.

Sorry for the delay of BBS and e-mail response.

MOJO-san, thank you for your warm comment!


    [2] ままこっち URL 2006/10/25(Wed)-23:43 (No.194)
    入潮さん
    寒冷地でのお仕事お疲れ様です!石炭ストーブと冷涼「すぎる」気候、開拓使だと思って乗り切って下さい!そして帰国されたら、是非鍋の会、でも・・・(悪魔の誘い?)


    [3] MOJO URL 2006/10/27(Fri)-01:59 (No.195)
    入潮様
    くれぐれもお体大切に。

    豊田で宇都宮三郎展が始まりました。
    弊ブログで紹介していき隊と思いますが、
    もし機会があれば実物資料をご覧下さい。


      [4] 入潮 2006/11/04(Sat)-19:27 (No.197)
      ○ ままこっちさん
      お言葉ありがとうございますー。
      暖房も電気も水道も道路も、首都にいる限りは少なくともインフラは整っていますので、開拓使や、実際に開拓に従事された方々の苦労を思えば、寒さぐらいでぶーぶー言えなくなります。文句を言うとろくな食糧もなく綿入れ一枚で北海道の冬を越した先祖に殴られそうです。
      鍋、いいですね…しみじみ。鍋オフ、ぜひやりたいです。

      ○ MOJOさん
      宇都宮三郎展! 情報、ありがとうございます。自分がいないときに限って、こうも面白そうなイベントが実施される…。帰国したら真っ先に駆けつけたいと思います。滞在が延長にならないことを祈るのみです。
      通信事情が悪くて、ブログもなかなかお邪魔できず、生殺し状態です。豊田市史も調べてみるといろんな発見があって面白そうですね。


    [5] MOJO URL 2006/11/05(Sun)-00:06 (No.200)
    入潮様

    宇都宮三郎展、とても小規模な展示ですが、
    ご覧いただけるなら光栄です。
    お越しの際には弊ブログへメッセージをお送り下さい。都合がつけばご案内したいと思います。

    豊田市も歴史は長いですし、多様な地域色を内包していますので、
    面白いところも多いと思います(市史は通読しようと思うと眠たくなってしまいますが・・・)。
    徳川氏の祖の松平氏も豊田出身ですし、
    織田信長の肖像画として最も有名な重要文化財「紙本著色織田信長像」も豊田市内で所蔵されています。

    そういえば、この信長像も
    11月26日までの会期で行われている豊田市郷土資料館特別展「新豊田の文化財展」で、
    土・日に本物が展示されています。
    松平氏初代の親氏(ちかうじ)と若き日の家康(松平元康)の木像も並んで展示されています。
    豊田市民としては、こちらの展覧会もお勧めですが・・・

    ご無事でのご帰国をお祈りしております。

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