2006年12月04日

愛知、宇都宮三郎訪問その1

土曜日、遊びました。名古屋+池袋。大変幸せな一日でした。

名古屋の目的は、宇都宮三郎とMOJOさんでした。

報告書のために前日は夜行バス出発ギリギリまで計算。結局終わらないまま、「ゴメンナサイ、探さないでください」と言い置いて、タクシーに飛び込む。
その週ずっと終電+自宅残業で寝不足が続いていたので、夜行バスでは爆睡でした。

目的地は豊田市。ご存知、トヨタ自動車の本拠地です。
その豊田市の「産業とくらし発見館」で宇都宮三郎の特別展が行われているということを、MOJOさんに教えていただきまして。これは見ずにはいられないということで、豊田へ押しかけたのでした。

宇都宮三郎は大鳥の親友。工部省工作局時代は大鳥の右腕でした。江戸末期にも、江川熟や開成所などでもつながりがあったかと思われます。

圭介は三郎について、「宇都宮氏経歴談」で三郎の明治の事跡をとりまとめ、「創業は難しく守り継ぐのは簡単だというのは政界の諺だが、実業界においても同じである。本国で、西洋の理化学を導入して工業の先端を開き、その嚆矢を射て正鵠を逸せずに、率先して文明を教導したのは、他でもない、我が親友宇都宮三郎だ」「人間の百事のこれをいうのは易い、これを行うのは難しい、百難を排して日本国の工業の愛児を生産せしめたのは実に三郎だ」と、力いっぱい褒め称えています。

共に内国官業博覧会の審査委員をやったり、圭介が神戸や長崎の工場に出張しているときは三郎が工作局長代理となっていたりと、工部省工作局のツートップであると共に、殖産興業の現場の最前線で共に技術導入をしてきた仲間でした。砂糖、藍の製法、木材の防腐法、石油の蒸留器の製作など、大鳥が技術を調べて三郎が実用化したというようなコラボレーヨンも多い方です。
大鳥は工作局の事務総括や管理を行い、宇都宮はもっと実業に製作現場と開発を担当していた感じです。

大鳥がここまで人物を高く評価しているのは、箱館同僚は別とすると、あとは島津の殿様と小栗忠順ぐらい。

三郎、前は爬虫類のように無表情な宇宙人めいた人という大変失礼なイメージがあったのですが、桂川家の少女今泉みねの「名ごりの夢」では、大変可愛らしく描かれています。むにゃむにゃで、ぼっとんぱらぱらな人です。こちらについては、また別途。江戸末期洋学者コミュニティというのも、腰をすえて調べたいなぁ…

バスは岡崎→豊田→名古屋→四日市というルートだったのですが、寝すぎて豊田で降り損ねて、名古屋まで来てしまった…。

明けやらぬ街。名古屋からJR中央本線で三駅、千種にある、名古屋市立中央高等学校に、「宇都宮出生地」の記念看板が立てられていますので、まず、それを見に行ってきました。すぐ裏手に小学校もあって、ちょっと惑わされました。朝早く迷っている間、住民の方の視線が気になる。見知らぬ人間が学校の周りをうろうろしていると、ことさらに怪しまれるこの世の中。

高校の玄関の書面に白い解説板があり、過不足なく説明してくださっていました。この高校の生徒は、宇都宮三郎の名前に親しみながら3年間を過ごすのか…と思うと感慨深い。

この「千種(ちくさ)」という地名。大鳥もまた、岩木川の下流、上郡を流れる「千種川」を見て育っています。そんなふとした偶然が嬉しかったり。「千種」という名前は、実質的な技術者を育てるのだろうか。いつか子供が出来たら付けてみようかしらと思ったりして。

それから、豊田市へ向かいます。豊田までは、JRで鶴舞まで出て、地下鉄に乗り換え赤池まで。さらに名鉄三河線に乗り換え(乗り入れている場合もある)で、豊田市まで。約1時間。急行や特急がないのはいいとして、名古屋から直通の電車すらないあたり、40万人都市とは思えない鉄道の不便さです。これが自動車の街にするための行政の方針だったら、それはそれで凄い。
ちなみに、私企業が行政の名前になっているのは、日立市とここだけだそうで。

そして、豊田市駅から徒歩5分の「豊田市近代の産業とくらし発見館」(http://toyota-hakken.com)へ。豊田市の近代化や産業にかかる文化財を展示している資料館です。スタッフの方が作成されている公式ブログはこちら。http://toyota-hakken.at.webry.info/
平成17年に開設されたばかりの、新しい施設です。

こちらで、MOJOさんにご案内をいただきます。展示の方法や資料の資料にかかるご苦労など、直接展示のストーリーを編み材料をそろえてこられた方だけに、その説明は含蓄深く、実体験にあふれて、MOJOさんには、本当にお世話になりました。

「とよたの近代産業」の展示では、近代化水車やガラ紡、養蚕、そして自動車といった産業の変遷に掛かる展示を、凝縮して行っていました。
もともと豊田は三河国。これは「御河の国」ということで、河と、河がもたらした堆積地とともに歩んできた土地。この川は矢作川のことで、古くから矢作川の豊富な水力を利用して、紡績や水力発電が行われてきました
また、矢作川が運び、砕いてきた珪砂や粘土を利用して、みがき粉、瓦などの産物の紹介も。本当に川と共に歩んできた地方なのだなぁと、伺わせます。

紡績用かなにかの水車ですが、尖がるまで磨耗したスプロケットや歯車、スポークが飛んだのを無理やり針金で固定してある水車など、見るからに使用者が大事に長持ちさせて使ってきたのが伝わってきました。こういうところにスポットをあてる視点が、大好きです。

ガラ紡は、電気モーターで動くように改造していて、実際に紡ぐところを見せてくださって、ちょっと感動でした。ちなみにガラ紡は、内国勧業博覧会に出品されていましたが、マネをする人間が続出して、発明した人が利益を得られなくなったということが問題になった。日本で初めて、特許、知的財産の保護の概念をもたらすことになった産物でもあります。

大掛かりではありませんが、「ここをみてくれ」と、伝えたいところに感情がこもっている、良い展示でした。他、葉脈のめっき体験や勲章の鋳物体験など、体験学習のプログラムで、地域の子供達に産業とはなにかということを肌で感じる機会を供給しています。「茶の間の風景」や昔の洗濯器や冷蔵庫を置いてあり、おじいさんおばあさんには懐かしさを、子供達には新鮮さを与える身近さも良かったです。

で、お目当ての宇都宮三郎展示。特別展として、12月24日まで、関連物が展示されています。
リーフレットも豊富で、スタッフさんの手作り感が溢れています。
印象に残ったのは以下の展示。

・「全勝」「大技長」。宇都宮は醸造法を開発して特許を持ち、酒造者に技術提供をしていました。その方法が優れており、既存の酒造法に全て勝る、という点で「全勝」という銘がつけられました。その際、宇都宮が謝礼などを受け取らなかったため、せめてその感謝の意を表したいとして、宇都宮の当時の役職である「大技長」という銘の酒が造られています。その際の酒造業者から宇都宮への感謝状なども展示されていました。さらに、記念式の際の酒の桶も。これは、古物屋に出されていた目録から、館員さんが偶然見つけられたものだそうです。出会いというのはあるものだ…。残念ながら、灘の酒に押されて競争力がなくなり、宇都宮の酒造法で作られた酒は、今までは継続されて作られておらず、もはや味わうことは出来ないということ。残念無念。

・生命保険加入の際の身体検査報告。宇都宮は、明治生命の生命保険加入者第1号としても有名。その際の身体検査結果が。167cm、54kg。細すぎ…。寝食を忘れて打ち込む人の典型という感じ。持病の結核についてはクリアしていた。とある高峰小説で、宇都宮が「小太りで赤ら顔」という表現があり、余りに事実に反しているとMOJOさんご不満。「やせぎすで青白い顔」の間違いですよね、と言うと、思いっきり同意してくださいました。ご本人の遺品の前で、すみません。

・大礼服。「女性用のマネキンなんですよ」「着てみようかと思いましたが、諦めました」
……故人の礼服を前に爆笑してしまって、再度すみません。

・妻の貞さん。大変若々しくて可愛いお写真。危うく結婚式を、化学実験を優先してすっぽかされそうになった方です。意思は強そうな方。奇人の夫で気苦労は多いけれども、人生は素敵だったのではないかと思います。ネタには事欠かなさそう。

・刀。宇都宮の家紋の丸十字のほか、葵の御紋が入れられたものも。葵の御紋ということは、拝領品。無銘ですが、その美しさにはしげしげと見入りました。

・高峰譲吉と志田林三郎の写真が並んでいた…!工部大学校の二大巨頭です。グラスゴーから帰国したばかりの頃かと思われる、だそうです。 当時洋行組で流行っていた、自分の写真を名刺にしていたものだと思います。ムラがある天才の高峰と優等生志田はいいコンビだと常日頃思っていますが。一緒に同時期のものがあったということは、二人で一緒に宇都宮に挨拶に来たということだろうか。写真サイズも仕様も見たところ同じ。高峰はともかく、志田も宇都宮と接点があったのは初耳。高峰は我の強そうなくりっとした目(「生意気そうですよねー」という言に同感)。志田は穏やかな紳士顔です。
どうでもいいですが私の携帯の待ち受け画面は、電信局時代のしだりんです。

・「宇都宮君にチャレンジ」…なにを挑戦するのかと思いましたら、クイズでした。展示の最後には、シメとして、初級・中級・上級でクイズが。スタッフさんの書かれた似顔絵がいい感じで、愛にあふれています。

・CD。豊田氏郷土資料館特別展の際の展示を纏めた「舎密から化学技術へ」のカタログを、CDにして販売してくださっていました。本体も持っているのですが、やはりデータになっているのは、探す必要がなくなるのと、検索ができるので、大変ありがたい。5000円ぐらいまでなら買おうと思っていたら、一枚350円。…原価割れしているんじゃないかと不安になりました…。その辺りにも、宇都宮にかける発見館さんの意気込みを感じました。

長くなりましたので、いったん切りますー。


    [2] MOJO URL 2006/12/06(Wed)-01:10 (No.215)
    日帰りの強行軍、お疲れ様でした。
    発見館と宇都宮三郎展、楽しんでいただけて幸甚です。

    でも私がいる豊田を、名古屋と言わないでくださいね。
    名古屋は尾張、豊田は三河です。
    これは大事です(笑)

    たしか日立市はもともとの地名で、企業が地名から名を採ったと聞いています。
    それに対し、豊田市は古代からの地名「挙母(コロモ)」を脱ぎ捨て、一企業名を堂々と自治体の名前にしました。反対運動が無かったわけではありませんが、市名がこの名前になったおかげで、そう簡単には本社が動くことはないと思います。

    発見館と宇都宮展、お褒めいただきまして光栄です。
    こちらも入潮さんとのお話の中で、多くのことを教えていただいたり、気付いたりしました。
    ありがとうございました。
    今後ともよろしくお願いします。

      [3] 入潮 2006/12/07(Thu)-04:07 (No.217)
      MOJOさん、本当に色々とお世話になりました。楽しかったです。ありがとうございました。

      そ、そして大変失礼いたしました。
      藩が違いますものね。敵国ですものね…

      最近になってようやく、藩というのが何であるのか分かってきたばかりで。そんな右も左も分かっていない、つい最近まで東京の隣が名古屋だと思っていたような田舎者の為すことですので、許してください。

      こうしたことばかりですが、見て初めて、自分が何もわかっていなかったということに気づきます。
      川ひとつ隔てればそこは異国。
      自分の庭ひとつ知ろうと思ったら、人生は短すぎる、という言葉を残した方がいますけれども。
      そうしたことを、かみ締めるばかりです。

      MOJOさんの、地元にしっかりと根付いた生き方をみて、人間、こういう大事なものを持っていないといけないんだなぁ、としみじみと感じました。

      日立は常陸国からでしたね。ご指摘ありがとうございます。
      とすると豊田はまさしく、地方自治体が一私企業を自らの名前に冠した市ということで。
      そういえば恵比寿も、たしかエビスビールからでした。
      拡張することはあっても、がっちり地方に食い込んで、移転はまずないだろうというのは、本当に感じました。
      トヨタ自体が豊田の下のひとつの自治体のような感じで。

      こちらこそ、今後とも色々教えてくださると嬉しいです。近代化遺産ツーリングと飲みも、是非是非(笑)


    [4] MOJO URL 2006/12/08(Fri)-00:07 (No.218)
    どうもありがとうございます。
    このところ愛知県や中部地方さえも「名古屋」の一言で呼ばれる風潮に
    少なからず憤りを感じていたものですから(笑)

    ちなみに三河国と尾張国では方言も違います。
    尾張では語尾に「みゃー」とか「なも」を良く付けます。
    これに対し、三河の語尾は基本的に「じゃん・だら・りん」です。
    例)
    ・だから○○○じゃん(だから○○○だよ;肯定)
    ・それは○○○だらぁ(それは○○○だよね;疑問、確認)
    ・○○○しりん(○○○したら?;依頼、促し)

    「地元にしっかりと根付いた生き方」と言われると
    面映ゆいばかりです。
    故郷がある幸せは感じていますが、
    単に風来坊になり損ねただけのことです。

    近代化遺産ツーリングと飲み、是非やりましょう!

      [5] 入潮 2006/12/09(Sat)-22:02 (No.222)
      はい、尾張と三河の違いは、今回のことでしっかり認識しました。
      地元の歩みにこだわりがあるというのは、全く大事なことです。
      自分を含めてなのですが、こうしたこだわりを持っていない人が、今はどんどん増えていっているのでしょうね…いや、言い訳ではないのですけれども。
      新しいことがあふれる世の中、新しいことを覚えるので精一杯になってしまう。

      今は、根を下ろす場所があるということに、ものすごくあこがれていたりいます。
      定住者と旅人は、お互い無いものを求め合っているのにすぎないのかもしれませんけれども。
      帰るところがあって旅を許される、というのが、一番いいですね。

      「じゃん」「だらぁ」は三河弁でしたか。…三河武士もそうだったのでしょうか。
      なんだか、骨太、朴訥、実直の三本柱な三河武士が、とたんにかわゆく思えてきました…

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2006年12月07日

愛知 宇都宮三郎訪問その2、池袋

そんな感じで、宇都宮紀行…とかいうと違う地名になってしまうので、愛知紀行、あたりで許してください。続き。

お昼は味噌カツをいただきました。美味。
名古屋の方と出張に行くと必ず「つけてみそ」を持ってくるので、味噌は名古屋名物かと思っていました。八丁味噌の産地は名古屋ではなく三河、岡崎地方なのだそうで。
三河地方は高温多湿なために、米味噌、麦味噌がうまく発酵しない。そこで、大豆に麹菌を直接育成させる特殊な技法で味噌造りが行われた、ということです。こちらから、地元の方の味噌にかける濃さがむんむん伝わってきた。(http://www.kakuq.jp/home/Default.asp)
それでいきなり小柳津要人(箱館戦争で遊撃隊、のち丸善社長)の名前にヒット。そいや小柳津さんも岡崎藩士だ。他、遊撃隊には玉置弥五左衛門や和多田貢ら(元)岡崎藩士が身を投じているんですよね。岡崎と遊撃隊、もともと何か繋がりがあったのだろうか。そして彼らは味噌携帯だったのだろうか。江戸や上方出身者と味噌論争していたのだろうか。

● 幸福寺

午後はまず幸福寺へ。宇都宮三郎の菩提寺です。
住所は豊田市畝部 西町屋敷51。最寄り駅は三河上郷。MOJOさんがご案内してくださいました。
Googleでプリントアウトした地図を頼りに行こうと思っていたのですが。周辺は入り組んでいる上、大きなお寺ではないので、人に寺の名前で聞いても分からず、難儀したと思います。感謝です。

構内にあるイチョウは豊田の銘木にも指定されていて、黄金色に色づいていて綺麗でした。
そして、「宇都宮三郎出生地」の案内板が。あれ?と思うと、脇に「この標札は宇都宮三郎の生まれた名古屋の中区新栄公園の東側の学校の前に立っていたもので、今は金属製のものに替わっています」と奥ゆかしく手書きでピンで張られていました。おそらく普通は見逃します。
そうした古い看板ももらってきて記念に立ててあるあたり、愛を感じます。

それから、しっかりとした案内板が。宇都宮の事跡、特に近代化の貢献について、技術のほか、交詢社の設立の援助や生命保険への関与についても、簡潔に纏めていました。「明治35年肺結核により死去。自身が考案した化学装置付の棺に入り、この幸福寺の墓所に葬られている」と締めくくられています。

長年遺体が腐敗することはない、という設計の棺。30年経ったら開けてみるように家族に言い残した三郎ですが、これが開かれることは、今まで無かったとのこと。

墓所の手前は池になっていて、それも三郎の祖先が整備したものらしい。
地元に根付いたお寺で、この地方の方々が拠り所とする、ほんとうに普通のお墓でした。

その奥に三郎と神谷家の墓が並んでいます(宇都宮の先祖は神谷家)。
「この下にあるんですよ」とMOJOさん。……ははは。
ここまで濃い謂れのある墓もそうはあるまい。
手を合わせて、幸福寺を後にします。
門のところには、発見館の特別展のポスターが張っていました。紹介のアオリ文句が、大鳥の言葉なのです。わけも無く嬉しい。

● 明治用水

その後は、豊田の近代化遺産のひとつ、明治用水にご案内していただきました。
明治用水は灌漑用水、工業用水として、矢作川を水源とし、豊田市や岡崎市をはじめ8つの市に水を安定供給しています。紹介のWPがありました。http://www.nhk-chubu-brains.co.jp/meiji/s_index.html

明治用水というから、計画も明治から始まったかとおもいきや。1826年(文政9)にはすでに開削計画のための測量が完成していたらしい。
建設は伊豫田与八郎が私財を投じて建設。これは投資目的だったとのことですが、思ったより土地価格が上昇しなくて狙ったリターンが出ず、伊豫田は借金に走り回ったとのこと。現在、伊豫田氏は水神様として今は豊田市畝部町、幸福寺の近くに祭られています。

建設には地元農民の反対も多かったのですが、計画立案者の岡本は「工事ができあがれば、恨む村は三か村、喜ぶ村は数十か村、なにほどのこともない。」と述べたといわれるそうな。…カッコいい。一度言ってみたい、その台詞。(住民移転というのは、先祖代々の土地に対する補償をせねばならない、工事側にとって大変な問題。たとえば1万人の便益のために、その事業で移転などせねばならない不利を蒙る10人の方に、移転先から職まで至れりつくせりの配慮をせねばならない。この費用が時に工事費の2割を超える。それでも世論は10人に同情して、工事側に非難を一斉に浴びせる。プロジェクトの実施を察知してわざわざ補償地に引っ越してくる人もいる。反対運動を起して補償額を吊り上げようとする人もいる…)

その明治用水の取水堰にご案内いただきました。今は新しい堰になっていますが、明治の当時の堰が、その上流側に残されています。

当時の堰の内部は、石積みにして間に土砂を入れて固めたもの。自重で固めるロックフィルダムの原型かと思います。遮水壁はあるかどうかわからなかった。全て人力。大鳥訳の堰堤築法新按にも似たような工法が紹介されています。(明治用水の工事開始が1879年、完成が1890年で、堰堤築法新按の出版が1982年、なので、工事に参考にはされていなかったと思いますが。堰堤築法新按が実際にどう活用されたかは、一つ一つの明治期の堰堤工事の工事誌を見て、ちゃんと調べてみたいなぁ。…あるいは活用されずに放置されていたのかもしれませんが)

また、水運で船が上流へさかのぼるための閘門が設けられているのも印象的でした。
閘門は、水面に高低差のある場所で、ゲートで水路を閉じたり開いたりして、水面を昇降させて、水に浮いている船を登らせたり下ろしたりする装置。パナマ運河などが有名です。こういうアイデアも既に明治前期に日本で実用化されていたんですね。

現在、矢作川上流に約520haの山林を管理し、「水を使う者は水を作れ」をモットーに水源涵養を行っているとのこと。いい言葉です。水利プロジェクトに関わる者、かくありたし。

● 遺跡の話

近代化遺跡のほか、豊田には縄文遺跡が豊富にあり、土地の基礎を掘ると何かに出くわすことが多いそうです。一方、それで開発が止まることはあまりなく、遺跡が見つかった場合、文化価値を記録として残すということ。開発を取るか、文化遺産をとるか、という問題にも、考えさえられました。大抵、文化遺産を破壊して開発するとは何事か、という感情的な議論が生じるのでしょうけれども、そこに住むその土地を持つ人にとっては、生活にかかっている問題なんですよな…。
「守れ」と世は言いますが、その言葉自体がそこに住む人を守っていない、ということは、往々にしてあることです。

● トヨタ鞍ヶ池記念館

豊田佐吉さんの豊田織機時代の織機が展示されているというので、それはぜひ見たい、ということで連れて行ってもらいました。
…世界のトヨタの底力がここにあり、という感じでした。見せ付けられた。織機発明の佐吉、自動車創業に乗り出した喜一郎は、トヨタの聖人で、崇め奉られていました。
世界中の貴賓の一大接待場でもあるようで。構内にすべての国の石を取り揃え、「貴方の国の石もあるんですよ」と、誰が来ても言えるようになっているらしい。金のかけどころが違う…。

それから、トヨタ工場内の道路の良さに驚きました。
トヨタのかんばん方式、ジャストインタイムは、今や世界中どこででも耳にするようになりましたが。その流通インフラがあって初めて可能になるものなんでしょうな…。


それから、豊田スタジアムの傍の休耕田の菜の花を見つつ。スタジアムに向かう黒川紀章設計の橋の豪華さに驚く。これもトヨタに向かう道。

もともとトヨタが自動車工場の敷地を確保する際に、土地代について、もとの土地所有者の設定した金額が、トヨタが購入を予定していた価格と違っていた。これでモメにモメて、その差額を当時の町が負担したそうで。当時の町長さんも英断です。

行政と一体、自治体と一体にならないと、なかなか私企業が一国の産業を代表し、国際競争力をもつような超巨大企業となるまでは成長しない、というところでしょうか。
それによって国と国民が受けている恩恵も計り知れないわけで。
こうなると、談合とか公正取引とか独占禁止とか、みみっちいこと言うなよ…などと思ってしまいます。

いやその、ダンゴウハヨクナイデス。はい。

そんな感じで、名実ともにトヨタの街の豊田市で、トヨタの凄さに打ちのめされた感じでした。

豊田市駅に戻って、MOJOさんとお別れです。本当に色々とお世話になりましたし、新しい視点もたくさんいただきました。大感謝です。


● 池袋お食事会

そして、名古屋に戻り、新幹線で東京へ。池袋に向かい、まちさん、空さんのお食事会の二次会に押しかけさせていただきました。
まちさんは今回が初めて。お二方、雰囲気がとても似ていらしてびっくりしました。眼鏡が共通してるだけなのですけれども。きっと魂の色が近いんだ。

場所はデニーズへ。おふたかた、タピオカのジュースとかケーキとか、可愛らしいものがテーブルに並ぶ中、一人、ビールとから揚げという親父が。ついいつもの癖で。…滅多にない機会なのにちゃんと女の子らしいことすればよかった。

お二方とも、幕末絵師でいらっしゃいまして、絵にまつわるお話を、たくさんお伺いできて幸せでした。

空さんのリアルイラストなど、ものすごく手間と根気がかかることを成し遂げられたのに感心しきりで。絵に対する夢と展望をもっておられて、そういう話をお伺いすると、刺激をいただきます。

あと、自分がまちさんの絵を「ゴツくてカワいい」などとのたまってしまったために、「ゴツカワ」という語が生まれました。ゴツカワ。骨太で実直で男気溢れる中に、照れと恥じらいを持つ可愛い男たち。まちさんの絵は本当にそんな感じです。ツンデレの次の流行語としていかがでしょうか。4割ぐらい本気で。


そんな感じで、幸せで実り豊富な一日でした。
こういう繋がりが生まれることに、ネットの存在に感謝です。

バスと新幹線でやろうと思った仕事を、再度爆睡に陥り全く片付けなかったために、今地獄を見ているあたりは、とりあえず置いておいて。
あぁ、また客先からメイルが来た。深夜メイルって、意地でもその場で返答してやりたくなるんですよな。
眠れん…

[2] MOJO URL 2006/12/08(Fri)-00:32 (No.219)
記事の掲載時刻に
入潮さんの地獄を垣間見てしまいます。

私の説明が悪くて申し訳ないのですが、
明治用水のところで「伊豫田与八郎が私財を投じて建設」とあるのは、もう一つの枝下用水(しだれようすい)を建設した西澤真蔵のことと思います。
西澤真蔵は投機目的で始めた用水事業ですが、途中から農民のためにと私財を投げ打って、まさに「井戸塀」状態になった人です。この人ももちろん水神さんとして祀られています。

食事会に間に合ってよかったです。
それこそ急行も快速電車もない豊田市ですから(笑)
ご希望の時間の新幹線に乗れたか心配していたのです。

今度またゆっくり(可能であれば)豊田にお越し下さい。まだご覧いただいていない百々貯木場や郷土資料館なども案内しますよ。

[3] 入潮 2006/12/08(Fri)-03:35 (No.220)
す、すみません。眠くて頭の中が膿んでいました。…と、時間のせいにしてはいけません。大変な間違いでした。
畝部で伊豫田の神主さん姿の像を見たのと、水神さんとして祭られていたという話が重なったというのもありまして。枝下用水と実物を見せていただいた明治用水が、同じ矢作川のからの用水だったので、記憶がごちゃごちゃになってしまっていました。
訂正、どうもありがとうございました。

農民達が自分たちの手で測量を行ったというお話も、大変印象的でした。

島国出身の身ですので、まだ陸続きなだけ、名古屋と豊田は近所に感じます(笑)

近代遺産も素晴らしいですが、それを伝える人が居て、遺産は生きるものだなぁと思いました。
本当に、貴重なご知見、色々とありがとうございました。
ぜひまた豊田にはご訪問させていただきたいです。

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2006年12月08日

銀座で鍋オフ忘年会

銀座で鍋。

…とかいうと、なんだか凄まじい天井離れした贅沢なことのように感じます。

しかもイベリコ豚という、スペインの美味なことで有名な豚の鍋です。そういうのがあるということは、検索して初めて知りました。私は黒豚すら口にしたことはありません。

最近、健康にも精神にも影響が悪いコンビニ食しか口にしていない自分にとっては、なにか異次元にでも飛び込むような覚悟です。初めてミャンマーに出張に出たときよりもどきどきする。

そんな感じの鍋オフを、ままこっちさんが企画してくださいました。(http://mamakocchi.blog22.fc2.com/blog-entry-874.htm)

いや、自分が勝手に緊張しているだけで、ざっくばらんに幕末明治話を肴に盛り上がって、鍋をつつきましょう、という会です。

・日時: 12月20日 (水) 20:00 開始予定
・場所: 東京銀座
・予算: 1万円以下

ままこっちさんのパワーあふれる絶妙トーク、綿密な調査に裏付けられた幕末史跡レポートなどに浸りたい方は、是非。こっちが本体で、鍋はおまけです。


あと2名様との由。参加希望してくださる方は、以下の項目をTopにあるアドレスまでお知らせください。

・お名前(HN可)
・メールアドレス
・ウェブページやブログをお持ちの場合、URL

12月15日(金)までにお知らせくださればと思います。
追って概要などをお知らせいたします。

忘年会というか、自分の年をまず忘れたいというか、置き去りにして忘れきってむしろ無かったことにしたいことが一杯一杯というか、そもそも来年があるのかどうかも怪しい身の上の奴ですが。

楽しくやりましょう〜。


[2] ままこっち URL 2006/12/09(Sat)-23:41 (No.223)
入潮さん
わーい広報ありがとうございます♪
イベリコ豚、は今年輸入解禁になったそうで、37、8℃で溶ける脂身が絶品らしいですよ・・・(今から妄想中)
ご覧の皆様も是非ご参加下さい!

[3] 入潮 2006/12/12(Tue)-03:27 (No.225)
余り宣伝らしい宣伝になっていなくて、すみません。
融点が体温近くとは。溶解したり固化したり、忙しそうですな…
いえ、食べ物でした。もの知らずですみません。
グルメ情報まで敏感に察知されるままこっちさんは素晴らしいです。

いやー、楽しみだなー。
posted by 入潮 at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

「船津辰一郎」

「船津辰一郎」

ゆまに書房から、「日本外交史人物叢書20 」として復刻されています。
以前にしのさんがご紹介くださっていました。

船津氏。50年間、中国要地の領事、書記官などを歴任し、終始、中国との外交を担った方。中国語はむろん、英語も堪能。温和で情誼熱い。老中国、支那通と言われる日本人の中で、船津ほど中国に知られ、敬愛された人は少ないといわれる方です。

陸軍の通訳官として、日露戦争に従軍。外務省書記生となり、シカゴ領事館やニューヨーク総領事館に勤務した後、南京の初代領事に。香港で領事になり、排日運動の交渉に当たります。南京事件や日中戦争でも、日中交渉の最前線で立ち回った方です。

また、大正7、8年ごろから、日本の紡績会社が中国に進出して事業を起していました。これが240万錘の紡績機、35万台の織機にまで及び、中国の一大産業にまで発展しました。しかし、中国共産党がこれに反発、排日排貨運動は猛烈になり、日本資本の紡績会社は労働争議の攻撃に立たされました。
ここに船津氏が領事を退いて、在華日本紡績同業会の総務理事に就任し、この難局に当たっています。
さらに日中戦争の際も、日中国交調整に駆け回りました。

この方、大鳥公使の小姓でした。中国・韓国に、公使と共に赴任しています。

辰一郎は明治6年8月9日生まれ。幼名は達一。父才吉は大工。祖父歌之丞は、盲者でありながら佐賀藩の検校で非常な傑物だったという。

辰一郎は須古村小学校に入り、明治20年んに高等科を卒業。神童といわれたほどで、勉強振りも人一倍熱心だった。もともと師範学校に入学するつもりで、入学試験の準備のために、漢学者の安住百太郎の松蔭学舎で学ぶ。この安住先生が極めて質素な人で、辰一郎が人力車に乗っただけで「わしは多久から佐賀まで歩く、芋はかじるが一度も車には乗ったことがない。近頃の若者は惰弱だ」と、こっぴどく叱ったり。園芸を趣味にしていて、南京茄子などを栽培してそれを運動にしていたり。誰かに似ている。

で、師範学校は、辰一郎の身長が低くて規定に満たなかったために、合格しなかった。それで教育家になることは諦め、海外貿易に従事しようということになった。

ところが父はそれを許さない。あくまで教育者になれという。それで辰一郎は小学校の代用教員を3ヶ月ほど勤める。明治22年初春、辰一郎は意を決し、父が昼寝をしている隙に故郷を脱走し、長崎へ出奔した。

手には竹野評定官へ当てた安住先生の紹介状。竹野評定官は、安住先生から連絡を受けていたけれども数ヶ月も音沙汰がなかったということで、辰一郎を試す。初対面で「玄関で待っておれ」といって、そのまま放置。辰一郎は、丸2日飲まず食わずで待ち続けた。竹野はこれに感心して、いい口があるまで待っていろと、厚意ある言葉を与える。

半年ほど過ぎた。竹野の次女浜子の婿の鄭永昌が、駐支公使館交際官試補だった。鄭は長崎市古川町生まれで、父祖代々の唐通。鄭が北京で客死した塩田公使の遺骸を日本に送還する護衛の任にあり、帰朝してきた。鄭と共に中国へ行く気はないかと竹野は辰一郎に問う。勿論、少年は二つ返事。

この、鄭の上司となり、塩田公使の後任として親任されたのが、大鳥公使。
船津少年は、15歳にして、大鳥公使の書生として中国へ赴き、その後5年を北京で過ごすことになった。

一行は、大鳥公使、鄭永昌、秘書の三輪高三郎、そして船津少年の4名。日本郵船会社の西京丸で10月中旬に上海へ。 上海では旅館東話洋行に4、5泊。上海から英国バターフィールド社の高陞号に乗り換え、22年11月2日、天津に着く。(この二つの汽船は両方、日清戦争で用いられた) この日は天皇の天長節だったが、非常な大雪で、寒気が身に染みた。

更に天津から陸路で北京まで船で上り、11月10日に北京公使館入りした。この時公使館に居たのは、今立吐酔(すごい名前だ…)、熊崎寛良、中島雄と、書記生が2名、武官が2名。
この武官のうちの一人が、海軍の関文炳。もう一人は陸軍の堤寅吉。これは変名で、実名は瀧川具和。瀧川充太郎の弟でした。

船津少年は必死で寝食を忘れて中国語を学ぶ。秘書の三輪が帰国したので、その後を受けて船津は秘書兼書生となった。そして船津は明治22年から27年まで、日清開戦で大鳥が帰国するまで、5年間に渡って大鳥公使に仕えたのでした。

この船津伝記における大鳥公使の書きぶりをご紹介します。

「彼が大鳥公使から受けた影響というものは、前述の安住先生の薫陶と共に頗る大きなものがあった。大鳥公使は幕末の先覚者であり、又学者として軍人として当時海内に於ける屈指の人物であった。一旦徳川家の知遇に感じ官軍に抗したけれども、意は天朝に叛くものにあらざることは明白、五稜郭を最後の幕として官軍に下り、許されて明治政府の要人となった。彼は外国の事情に精通する極めて練達の士であるから、復活後漸く多事ならんとする駐支公使として抜擢されたのである」

船津少年が公使からうけた影響は頗る大きかったそうです。学者としても軍人としても屈指の人物。
公使任命前は、工部省を終え、元老院、学習院・華族女学院学長。少なくともそれまでは技術官僚、教育者として活躍しており、外交経験はありません。いきなりの外交官、しかも特命全権大使という大任。この時に中国や朝鮮、インドの歴史地理宗教の論考を発表しているので、その辺りが認められたのでしょうかとも思うのですが。いきなりの転身という感は大きいです。

「公使自身貧しい中に刻苦励精遂に名を成している苦労人だけに、船津の逆境に対して深く同情し、随時適当なる指導を惜しまなかったのである。これは船津にとっては非常な仕合わせであった。安住先生が克己質素努力の人格者であったが、大鳥公使亦非常に質素倹約な人であった。したがって船津も亦自ら奉ずること誠に質素勤倹であったのは当然であろう。北京で公使の靴下を始めて色々のものを修繕していたので東京に帰るや大鳥令夫人から『船津さんはなかなか修繕がお上手ですね』と褒められたという話が今に残っている。夫人を同伴していなかった公使の身廻りは一切船津が受け持って実に忠実に働いたものである」

…これでもかというぐらい強調されています。質素倹約。
神童の誉れ高い船津少年が、公使の靴下を。衣服を。ちくちく縫って夜を過ごす。
というか公使。仮にも全権特命大使なんですから、破れた靴下を少年に縫わさんでください。普通その国における特命全権大使というと、キャリア組で自分の顔が日本の顔といわんばかりに踏ん反りかえった感じなのですが。…いや、今まで自分の会った大使の方がそうだっただとかなんてことは決して。

えっと、ここでの大鳥夫人というのは、すずさんでしょうか。

「後年船津は夫人に述懐して『自分は公使の令息富士太郎さんよりも可愛がられたものです』といつている。天涯孤独わずかに十五六歳の少年船津が熱心に学び且つ忠実に仕える有様が眼に浮かぶではないか。船津は明治二十五、六年から五十余年間日記を残しているが、これも公使の教訓を一生実行したものと思われる。これはよいことだと決定して実行し始めたら、一生続けるという信念は船津の真骨頂であった。大鳥公使の遺した如楓家訓を其まま身に体して実行したと思う節々が極めて多い」

えぇとこれは。船津少年がそれだけ可愛がられたということなのでしょうか。父親不在がちな大鳥家の家庭の事情。富士太郎君は表には出さないし甘えないけれども、同方会誌の「渡欧回想談」を見る限り、心の底では親父のことはちゃんと尊敬していたと思います。多分。

圭介、自分も親に背を向けて出奔したことがあっただけに、似たような道を経てきた船津少年が、可愛くて仕方なかったのではないかなぁ、と。そして世話を焼かせるのが彼の愛情表現。

如楓家訓の実行者。ちゃんといたようでよかったです。家族ではなかったですが。家族のような子ということで。大鳥から『屏嗜好専其業、至誠□事天佑之』の語を贈られてより、断然酒を絶ち娯趣を棄てたという、明治の発明家前田道方という方がいましたが(台湾日日新報」1919.1.13-1.29)。何げに大鳥、こっそり人の生き方に影響を与えているようです。

船津少年はその後、病気静養のために帰朝し、熱海温泉で療養する公使のお守り(本当に「お守り」と書いている)をするために、5年後に帰国。そして故郷に錦を飾り、親戚友人の歓迎の宴に連日もてなされます。

その後、26年9月、駐韓公使を兼ねた大鳥公使が朝鮮京城へ赴任するのに同行。21日大鳥公使が鄭永邦を伴って長崎に到着。22日釜山着。24日、巨文島を通過、25日朝9時、仁川に到着。27日まで連日雨で出発できず。荷物紛失事件なども起きるが、27日慶利号という小型蒸気船で漢江を渡り、京城へ。
船津少年は、荷物をなくして、単衣一枚で大いに震えていた。一枚あった毛布も、公使の枕がなかったので、枕に提供してしまい、寒くて夜眠れなかったそうな。…公使、いたいけな少年から毛布を取り上げないでください。

そして10月5日、大鳥公使、朝鮮国王に謁見。この時、朝鮮王宮から轎を差廻された。
24日、大鳥公使は各国の使臣を招待して宴会を開催。船津少年は宴会の給仕になり、各国の使臣の行状を観察。
「(袁世凱は)仏国代理公使フランダンと談ず、フランダン亦能く支那語を語る。独国公使日本語を談ず。…聞くに独仏公使間に隙ありて相逢うとも握手などは決してせず、只だ黙礼するのみ。我公使など独国公使へ話をするときは仏国公使変な顔をして見居るとのこと、随分嫉妬心深きものの如し」

大鳥公使がドイツ公使と話をしていると、フランス公使が嫉妬するように変な顔で見ていたんだそうです。
これが、白鬚コロボックル公使の魅力です。
…いや、単に独仏の仲が悪かっただけなんでしょう。すいません。

明治26年の暮れ、12月20日ごろ、大鳥公使は体調を崩して寝込んでしまった。「主人思いの船津は大いに心配」だったけれども、大鳥の命で按摩をしている。「主人の命により、肩脊を按摩すること数回。窃かに思へらく余や幼より父母の言に従わず、常に家を離れ異郷に在りて未だ倚閭の情を慰むる能わず、域外却て他人の脊を撫でその体倦を医す。因よりその分なりとは云え、若し之を双親の身に施して其考情を尺さんには、如何の感あらんか」

と、公使の背中をもみながら、これを父母に施すことができたらいかな感があるだろうかと、遠い故郷の両親を偲ぶ船津少年。
…洪庵先生を按摩していた圭介青年も、同じようなことを考えていたのだろうか、とか思ったりして。


さて、前述の、大鳥が清国公使だったときに、駐韓公使を引き受けた際の話。天津のために工学士の桑原政が派遣されるとき。大鳥公使、「余は欣喜に堪えず、多年の望漸くにして達したるに満足するものなり」と喜んだ、というエピソードも。桑原政は、工部大学校二期生次席で工作局に勤務していた安永義章と共に、ダイハツの創設者として名を連ねている方です。

「蓋し大鳥公使は明治初期に於ける工業界の先達であったから、この頃すでに大陸の鉱工業開発に遠大の計画を抱いておられたのである」

よかった。工部省時代の経歴もちゃんとスルーされずに、語られていました。
…とか云ってみるのだけれども。

さらりと触れられているここに、大鳥の外交官転身のきっかけとなる核となるものが含まれているのではないかという気がしました。

外交官になっても、その国の工業発展を志す。
むしろ日本は、すでに工部大学校や東京大学工科大学の日本人上級技術者達が育って、日本の工業は日本独自の手でやっていける。自分がいなくても大丈夫だということで大鳥は日本の工業産業の最前線からは身を引いた。

そして一方で、未だ産業が独力では立ち行かず、自立的な発展が求められるところにこそ、自ら赴き、そこに、日本での洋学・工業導入の経験を活かして自分の力を尽くしたい。それが、朝鮮赴任における大鳥の「宿願」だったのではないか。

大鳥は、いつも、先覚者というか、開拓者というか、他の人間がまだ手を出していない、けれども世の中が必要としているものに対して惹かれていく、そうした嗅覚のようなものを持っている気がします。

そして、自分でなくても他の人に出来ることはやらない。誰もやりたがらないことについては、骨が折れる、苦労する、ということが分かっていながらも、ついそっちに行ってしまう。そんな難儀な性質が、晩年にさしかかったこの時期にも、見え隠れするのでした。

平時、大鳥公使は、イザベラ・バードが凡庸な昼行灯扱いをしていたりしていて、ぱっとしない感じであったようですが。
この後、日清戦争開戦に向けて、混迷の日々を送ることになり、大鳥公使は豹変します。それはまた後日。
船津少年は、再び帰朝した公使に伴い、軍艦八重山にも乗船しています。

時代に求められるままに、必要とされること、好きなことをやっていたはずなのに。
いつのまにか戦乱の中心になっていたりする当たり、若い頃から運命がぐるぐる螺旋を描いてオーバーラップ。それが、船津氏の筆から伝わってきて、あー、これが大鳥なんだなぁと頷けてしまう感じでした。

でも、ほのぼのした少年書生と老公使の関係。公使館のつかの間の穏やかな日々が伺えて、ほほえましかったでした。
平時に少年に世話を焼かせているじーちゃんと、戦の中の苦労性大鳥との対比が浮かび上がって、なんとも言えない感じがしました。

余計な仕事は自分で背負い込み、世話は人に焼かせる人。…私も世話焼きたい。


    [2] しの 2006/12/15(Fri)-00:11 (No.226)
    船津さんのご紹介ありがとうございます。
    ちっこい爺とちっこい少年の2ショットは可愛らしいですよね、時節があんな感じなのにほのぼのしちゃってるイメージです。

    >ここでの大鳥夫人というのは、すずさんでしょうか。

    M27年6月5日の船津さんの日記に『長谷川氏始め鈴子様等四人(大鳥公使家族)も主人出発と聞き昨夜八時頃熱海を出発し、〜(後略)〜』というくだりがあるので、大鳥夫人はすずさんなのだと思います。

    船津さんは日露の時にアメリカから帰って中国勤務になるときも、圭介の所に来て昔話やアメリカでの話をしたとの事なので、本当に慕ってくれてるんだと嬉しかったです。
    『船津辰一郎』を読んだ後、船津さんの日記が凄い読みたいと思ったんですよね。
    もちろん今でも読みたいんですが…。


      [3] 入潮 2006/12/15(Fri)-22:57 (No.228)
      しのさんがご教示下さったおかげで、さまざまな発見がありました。素敵資料のご紹介、ありがとうございまいたー。

      船津少年と在りし日の圭介少年。いろんな共通点がありますよね。
      お互いちっこいだけではなく、平民ながらにしてじいちゃんが凄かったとか、親に背を向けだまくらかして自分の進みたい道に突き進んだとか、教科書も無い中苦心して語学を修めたとか。
      だからいっそう、圭介爺は船津少年が可愛くて仕方がなかったのだと思います。
      そして、世話を焼かせて困らせることは、圭介なりの愛情表現なのだと思います。

      大鳥夫人、すずさんでよかったです。外に誰かいたらそれはそれで問題だ。いえ、全く疑っていませんでしたが。

      船津氏の日記ですが、ぜひとも読んでみたいです。毎日英語でつけていたとのことですから、やはり残っていたとしても多くは英語でしょうか。書生時代は中国語でもつけていそう。
      日本紡績同業会を辿っていけばなにか分かりますかね。活字になっていたりすると大変ありがたいのですが、今のところ、どのような状態なのかすらまだ追跡はできていないです…。
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2006年12月15日

ヤマトとヒロシマ

ここのところ、国内をあちこちうろつき回っています。
今日は湘南、昨日は広島、その前は筑波、など。残念ながら仕事でなのですが。

睡眠時間が少なくても、移動時間が多いと眠れるので助かるなぁ。飛行機とか新幹線とか、高い乗り物ほど寝心地が良い。

安芸津の工場にまで脚を伸ばしつつ。
呉に大和ミュージアムというのがあるとのことで。行きたかった。

大和ミュージアムは、年間40万人も来れば御の字だとしていたら、200万人以上の来館者があったとのこと。地方の博物館としては、驚異的な人数です。
「男たちの大和」という映画があったのもあるのでしょうが、宇宙戦艦ヤマトの巨大模型がお目当てなお父さんたちがメインで、賑わっているらしい。

もともと呉は、明治36年には呉海軍工廠が設置された軍港。戦前に戦艦「大和」を建造し、戦後はタンカー製造などで造船の街として栄えたということで。

船を作る技術、浮力の基本原理、木、FRP、アルミ、鉄の素材、プロペラの推進力など、技術の原理が体験型で分かりやすく展示されている模様。
あの大和・宇宙戦艦ヤマトの独特な流線型が、いかに流体的に優れていたかなども、眼の付け所がいいです。

技術はそれだけだと一般との接点に乏しく、悲しい事ながら、科学技術の歴史では博物館はやっていけないところが多い。けれども、アニメでも漫画でも、一般とのなじみのあるところを接点にして、そこから切り込んでいくという着眼点がいいなぁ、と。

昔は「ヤマトを作るんだ」「アトムを作れるようなロボット工学者になるんだ」という夢を子供に励起させるようなアニメが、きちんとあったと思います。技術が身近に思える、自分でもやりたいと思えるような作りで。
今のは、複雑でヒロイックで技巧に走って、エンターテイメントが行き過ぎていて、娯楽だけで終わってしまっているような作りになっているような気がします。なんか、もったいないというか。もっとシンプルでいいから、子供に、自分もやりたい、なりたい、と思わせる身近で等身大な像が提供されたらいいのになぁ、と思います。

広島も久しぶりに訪れました。街中のイルミネーションがすさまじかった。中国電力さん、そんなに電気があまっていますか…という感じで。

原爆ドームのほうは、ライトアップを見ただけですが。相当な補修をしていますね。原型をとどめるのにかなり無理をしているなぁと。地震による崩落の危険があるとのこと。

それでも、形有るものを形有るままに保存するということは、お金さえあれば可能なこと。
ただ、記憶は廃れ、風化し、消えていく。

あれは日本としても世界としても、無くしてはならないモニュメントだとは思いますが。原爆の記憶をもつ国の人間なのだという意識が続いていないと、記念碑は記念碑で終わってしまう。

保存においては、「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」という声もあったそうですが、それは当事者ならではの声なのだろうなぁ、と。すでに記憶になってしまったから、残そうという話になる。

10年前に世界遺産になりましたが、ユネスコの世界遺産の登録審議会に置いて、アメリカは登録に反対、中国は「日本の戦争への反省が足りない」と棄権したとのこと。

アメリカは、原爆により戦争の終結を早めたことによって、自国民の生命を守ったという論調を未だにしているということですが。広島・長崎あわせて21万人が虐殺されながら(さらに死者は東京大空襲で13万人、沖縄で19万人、名古屋・大阪・神戸などを含めるともっとだ)、反米も報復も考えず、生き残った若い兵士までが「復讐の儀式」にすぎない無法な東京裁判で銃殺されたという事実を骨身に刻みながら、ただ粛々と「二度と戦争は起しません」と頭を垂れる日本人は、どう「反省が足らない」のでしょうかね。

自分達の先祖の中に悪人を作り出し糾弾することが美徳と勘違いしている「イイヒト」たちが、変な認識を広めているのが実際で。

形あるものを残すのは可能なことですが、形ないものをの遺すのはとても大変なことであるし、一度ゆがめられたものは取り返しがつかないことでもあるのだと、美しいライトアップを見ながら感じました。


…まぁこういう話を始めると際限がなくなってしまうのですが。
夏にはいつも世がホットになるので、たまに冬につぶやく奴がいても見逃してください。
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2006年12月18日

牡蠣、引越し

島に行った際、一緒に行ったメーカーの方と、夜は生牡蠣を食べたのですが。
実(身?)はちょっと痩せていたけれども、大変美味しくたらふく食わせていただいたのですが。
いや、仕事をしていてそんな僥倖に預かれる機会など、一生に何度あるかということですが。
世の営業という部署の人間は、いつも社費でこんなもん食っているのかと、世の中を薮睨みしてしまったというものですが。

えーと。その後、メーカーの方からの連絡が途絶えてしまった。
どうも、メーカー側の方々が、牡蠣にあたってダウンらしい。

もともと牡蠣は、あまり奇麗な水ではなく、汚い水のところをむしろ好むようで。食べるとしても2,3匹にしておいたほうがよく、生は特に注意ということでした。
食ったのは、2、3匹どころか。桁が一つ違った気が…

幸い、こちらから行った2名は、ピンピンしています。普段喰っているものが喰っているものだからでしょうか。上司は魚が好きで、タイの田舎だろうがパキスタンだろうが、貝でも刺身でも平気で食う。海の無いブータンでもナマズやら鯉やらを食っている。付き合わされるほうも、まぁ、喜んで付き合っていますが。普段から汚いモノを食っていると、こういうときに助かります。この仕事は、まずは抵抗力勝負です。

それにしても、メーカーの方にコストを出してもらわないと、肝心な部分の積算が進まない…。
いやその、ご快癒をお祈りしております。


えっと、ここのところ、夜な夜な引越し作業をしているので、しばらく書き込みは無くなると思います。

終電で帰宅、引越し詰め込みをして、始発の音が聞こえる時間ぐらいに力尽きて眠る日々。
肉体労働をしていると、疲れていてもあまり眠くはならないのですが、ある閾値を超えると、とたんに電池が切れたように意識がなくなって、気がついたら朝になっています。今朝、電話で叩き起こされたときには、雑巾にまみれて床に横たわっていました。肩が痛い。

それにしても荷物が多い。
就職するときにすでに持ってきていた本だけでダンボール20箱を超えた。まだ序の口で、これから倍増した資料に手をつけねばならないのが恐怖。我ながら六畳ワンルームによくこれだけ詰め込んだなぁ、と思う。
2,3人の家族でもダンボール30箱もあれば十分ですよとのたまった引越し屋さんは、うそつきだと思います。

そのダンボールの確保に駆けずり回るだけでも一苦労です。
会社には腐るほどありますが、おしくらまんじゅう山手線に持ち込む根性はないし。
夜中に、10km離れた24時間スーパーにバイクで駆け込んで調達。
引越しやさんのダンボール配達サービスもあったのですが。世の中、資源ごみにするしかないダンボールであふれかえっているのに、わざわざ新品調達をするなんて、エネルギーに関わる者としてそれは許せない、という余計な矜持が邪魔をしました。そんなおためごかしは最初から持ねばよかったと、今、激しく後悔しています。善人とは、楽してなれるものでは決してありません。

それで、引越し日は24日に決定。

「わざわざクリスマスイブにしなくてもいいのに」
「わざわざクリスマスイブにしたんです。イブに何もすることが無くて一人暇で寂しく過ごすほうが嫌じゃないですか」
「それを口に出して言うのが一番寂しいだろ」

そんな心温まる激励を上司からいただきました。

もともと、今年度中に、年齢制限で会社の寮から出て行かねばならない通達が来ていたので、家探しは始めないとならなかった。

それで、12月は一番家賃が下げ側に変動するそうで。1月になると上がり始め、進学・就職・移動時期の2月・3月でピークになる。4月は上がったままで売れ残った物件ばかりで、ろくなものがない。賃貸で引っ越すなら11〜12月が一番、とのことで。

それで、普通に土日出勤の毎日終電帰りぐらいには忙しいのだけれども、年度末になるともっと忙しくなるだろうので、今しかないか、と。

バイクを駐輪できることと、資料を広げられる広さがあることを条件に探していたら、なかなか見つからなかった。

けれども、キワモノな物件にぶち当たりまして。
広いのだけれど、築50年は経過していそうな木造倉庫の二階。場所は三角州の低地で水害にも弱そうだし、震度5ぐらいの地震がきたらもう崩れそうな家。風呂もなし。
仮にも土木に関わる者の住むところではない。普通の人は絶対に退くようなところなのですが。

けれども、なんというか、すごく気に入ってしまった。前に住んでいた人の家具や本や掛け軸などが置かれていて、そこにブラウニーが憑いていそうな感じだった。
ブラウニーとは、靴屋さんで夜中に働いてくれるという童話でおなじみの妖精。
こちら参照。http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-345-3p.html
人間の家に対する愛着から生まれる、古い家に住み着く精霊として設定される場合がありますが。
そいつが、家主がいなくなって寂しくなったから、呼んでいるんだと思ってしまったぐらいに、離れなくなってしまった…

世知辛い世の中で生きていると、たまにメルヘンなことも考えたくなるものです。この年になると。

色々探していたら、もう一つ二つ、かなり良い物件がありまして。駅に近い、安い、いわゆる閑静な住宅地、リホームしたばかりで綺麗、広い、エアコンあり、とかいう言うことなしな、理想的な条件だったのですが。…どうにも面白味がなくて食指が沸かずじまい。

決めた家は、もともと、90歳を超えたお爺さんが住んでいたところで、彼がお亡くなりになり、息子さん夫婦は既に別のところにマンションを買ってそっちに住んでいて、住む人が居なくなったから貸しにだした、という物件でした。

お爺さんの本が全部本棚に置いたままになっているのですが、このラインアップがまた素晴らしかった。柿本人麻呂や山上臆良など万葉集の歌集全集、ライアル・ワトソン博士の本、第二次世界大戦の経験者談など。本って、その人の人生の軌跡のようなもので、本棚は持ち主の人間性を語る。お爺さんが生きていたら、お話をお伺いしたかったなぁ…。

大家さんは、バイクは倉庫の中に入れてもいいと言ってくれた。これがありがたい。屋根つきの駐輪所なんて、都内で探すといくら掛かることか。

場所がまた、小さな工場の集まる下町で、街中に金属を削ったときの匂いが立ち込めている。まわりは、てやんでぃ、こちとらこの道ン十年よ、という、私好みのおっちゃんばかり。
目の前には銭湯はあるし、近くに商店街もあるし。

そして、何より、大鳥の脱走経路の側だった…。

そんな物件、断れるはずないじゃないですか。

それで、引越しの下見などでその家にしばらくいたら、どうも肩こりが激しくなった。
この家にいると、いろんなものを背負い込んでいきそうなので、それでも大丈夫なようにマッサージ機を買いました。
非科学的なことは科学技術で解決する。これが技術者。

「おまえ、流石にそれはネタだろ」

この話を同僚にしたとき、そう言われましたが、私はごっつい真剣です。

そのほか、この際だから欲しかったものを一気買い。コタツとマウンテンバイクを入手。
財布の紐は締めてかかったつもりなのですが、かなりな散財をしてしまった。

そういうわけで、年末から、下町で銭湯ぐらし、自転車通勤という、憧れていたライフスタイルを手に入れられそうで、満足です。

誰もうらやましがってくれないという自信はありますが、私は幸せです。

地震水害が来たら、まず真っ先に家が潰れてくたばりそうですが、牡蠣に中らない体に恵まれたので、このぐらいのリスクは背負って生きるぐらいで丁度良いでしょう。はは。

…そんな感じで、ダラダラ垂れ流していても、片付かないものは片付かない。鉄筋コンクリのワンルームだと、ブラウニーは手伝ってはくれない。

それでは、埃とゴミと睡眠不足の戦に戻ります。疲れた…
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2006年12月24日

銀座鍋オフ、引越し

銀座の鍋は大変美味しかったです。総勢6名。
豚肉の赤さにびっくり。味も濃厚でした。惣菜も出汁が上品で美味しかった。
皆様のお話も含蓄深く。料理も人も、贅沢でした。
…そこに、打ち合わせが長引いて提出物が終わらず、1時間遅刻した馬鹿者が一人。
1時間という時間が、あれほどに逃して悔しかったものはない…。
それでも、新しい方と知己を得られたり、大変貴重な時間を過ごさせていただきました。
参加者の方々は以下の通り。

ままこっちさま:今回、企画から場所探し、連絡事項、幹事まで、全て手際よくこなしてくださいました。初対面の方が多いので、事前にアンケートを取り、紹介シートを配布してくださったという気の使いよう。本当に頭がさがります。
そして、赤ちゃんがおなかにいるので、お酒は口にしておられませんでしたが、素面を思わせぬテンションと語り口。口数少なな方がいたらすかさず話を回してくださったり。場の取り持ちようは見習いたいなぁと改めて思いました。

Jさま:怖い人でした。決して敵に回してはならない方だと思いました。社会のいろんな面を一刀両断にされてます。私の言う「怖い」は、人間に対する最上級のほめ言葉です。
A樹さんといい、歴史分野には、かっちょいい御姐様が多くて嬉しいです。

Mさま:幕末のみならず、世界史の各分野にも関心深く、広い知識をお持ちな方でした。ウィーンにまで舞台を見に行かれたり。文化的教養への熱意の素晴らしい方でした。

Aさま:微笑みが癒し系。見ているだけで幸せになるような方でした。そして、思索に富んだ一言を持つ方だなぁと思いました。

Qさま:せっかく名乗り上げくださったのに、今回は席が遠くて、じっくりとお話お伺いできず、大変残念でした。サクサクぽん酒を空けてくださるのが、頼もしかったです。次回こそゆっくり杯を差し交わさせていただきたい。矢板の話もお伺いしたい。

皆様幕末ファンでいらっしゃるので、一人異端者が混じって、妙なことをほざいて嫌われたりしないかと、恐々としてました。

(自分、幕末は洋学者と幕臣ぐらいしか手を伸ばしておらず、京都や長州、土佐など、いわゆる「幕末」でメインとされているところは、全く追っていないんですよな。幕末をひとつの時代として見るのではなく、明治、或いは現代への繋がりの始点のひとつとしてしかみていないので、かなり無知です。なので、こちらを幕末サイトという眼で見ていただくと、期待外れになってしまって大変申し訳ない。かといって明治サイトでもないし。…何サイトなのだろう。単なる大鳥サイトです。それ以上でも以下でもありません、はい。)

でも、史跡訪問や旅行についてや、欧州の文化、舞台、新選組の位置づけなど、一般的な話題で、かつ皆様の思慮深いお話をお伺いできて、本当に楽しかったです。

京都についても、京都という連綿と続く歴史の中では、新選組の登場はほんの一瞬にしか過ぎず、観光産業は沸いたけれども住民はけっこう冷ややかだ、という話もお伺いしました。
新選組ファンの方々も、人間をキャラクター化するのではなく、そこに存在した人たちを人間として追いながら、すごく冷静な視点をお持ちなのだなぁと感じたのが、印象深かったです。

そういうわけで、人も、お話も、お料理も、大変美味しくいただきました。幸せ。


さて、引越し。ようやく今、なんとか荷造りがすみました。明日運送会社が来て、運び出し。この1週間で10時間ぐらいしか寝てない…
荷解きを考えると気が遠くなりますが、もう正月にゆっくりやるしかないです。

ダンボールは50箱を越えました。内、40箱以上が本・資料だった。不要かどうかの判断をするためについ読みに入ってしまう。捨てようと決心しても、最後の1回、ということで読んでしまう。そうすると時間がいくらあっても足らない。

就職して今のワンルームに越してから、ほとんどモノを買っていないと思ったのに、何でこんなにモノがあるのかとイヤになりかけた。大量のゴミも発生。中古、100円ショップや格安家電が増えたから、本当に必要かどうか熟慮せずに買ってしまい、結局対して活用しないままに捨ててしまう。この消費型生活は変わらないというか、更に加速していくのだろうなぁと。
ネットでの古本屋、オークションなどで、求める中古品が安価に手に入るようになったのも、功罪両方あります。

それで街にでれば、なんでそんなにというぐらいにモノがあふれている。街は際限なく人に「買う」「消費する」という行為を強要する。広告を眼にせずに街を歩くことは不可能だ。

そんな社会が、資源を大切にとか、地球に優しいとか、グリーン何たらとか言っても、手前の手先を誤魔化しているだけで、何も説得力がない気がする。

人間、本当に必要なものってほんの僅かなのに。
スーツケースひとつあれば2ヶ月は持つ。2ヶ月持てば1年も2年も同じ。
なんだけれども、持たずにいるということがなんと難しい世の中か。

いや、荷物の大半を占める資料を捨てれば相当身軽になるのだけれども。これはもう手放すわけにはいかない。
本こそ捨てられない最たるものなんですよな。自分、本はまったく大切にしません。徹底的にハイライトとメモと手垢で汚します。そうしてボロボロにするほど、自分のものとして愛着が沸く。新品同様なのは、それこそまだちゃんと読んでないから、ということでやっぱり捨てられない。

人様のおうちにお邪魔したとき、真っ先に本棚を見てしまうのです。本棚を見ると、その方の考え方や知識、興味や価値観などが大体想像がつく。
本は、自分の人間性の土台になる一番の財産なのではないかなぁと思います。

テレビやインターネットは、情報源としては手軽だし、エンターテイメントではあるけれども、大衆化するために相当な作為が入っていたり、情報としてのクオリティや公共性に対する責任がなかったりする。
本からマスメディアとインターネットへ移行していくのは、流れとしては仕方がないけれども、人間性を育てる手段としてはかなり頼りがない気がしています。

だからといってむやみやたらに持てばいいというものでもないのですが。
…自分の本棚には、人間性を疑われそうな春画本とかそっち系の同人誌とかも普通にあります。はい。いやほら、人間性の幅を広めるのも、大切なことだからさっ。

    [2] ままこっち URL 2006/12/25(Mon)-21:16 (No.231)
    入潮さん、お引越し無事に済みましたか?
    さて先日の鍋の会では楽しい時間をありがとうございました。もう少しゆっくり出来るとよかったんですが、時期も宴会シーズンですし隣のオヤジ様方に迫力負けしちゃいましたね(爆)
    本棚は人をあらわす。私もそう思います!そんなウチの本棚はやはり偏っている・・・ノウハウものが多いかな??あとはビジネス本ですね。
    荷解きも大変だと思いますが、不用品を処分されたことですし、スッキリと新生活が送れるといいですね♪


      [3] 入潮 2006/12/28(Thu)-08:01 (No.233)
      おかげさまで、何とか雨露はしのげる生活になりました。
      資料はもう何も考えずにダンボールに詰めたので、これからの荷解きと整理の道のりは遠いです。

      こちらこそ、とっても楽しかったです。ままこっちさんの幹事の采配の見事さにうっとりしました。
      あの親父様達は、いい反面教師でした。ちょっとわが身を振り返ってみなければ、と思いました…

      本棚は人の軌跡。ままこっちさんのところのは、ビジネスウーマンらしい本棚なのですね。
      自分の本棚はとても人様に言えるようなものではなく。「そこには混沌があります」と物々しく言うより他はありません。
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2006年12月28日

身元開示請求

晴れて江戸の民になりました。
東京都民といってしまうと別にありがたみは感じないですが、かつての江戸に住んでいるとなると、この響きだけで嬉しくなる。江戸っ子というとは恐れ多すぎるのですが、江戸住民ぐらいを標榜するのは許してください。

区役所や警察署などの公的手続きを済ませながら、街中を見て歩いていました。 区役所では勝海舟展をやっていた。横浜開港資料館所蔵の、若い勝さんの写真があった。ぴちぴちしていた。ブースは小規模だったけれども、愛されているなぁ、勝さん。

商店街は提灯で彩られている。その中を、若い力士のにーちゃんがipod聴きながら自転車を乗り回している。観光用だけれども人力車が練り歩いている。あちこちに金物、鉄管、金属加工の工場が散らばっている。徒歩15分圏内に10数箇所の銭湯があって、破風造りも多い。
街が楽しい。

それで、自転車通勤をしようとすると、途中で神田駿河台と皇居を通過する。つまり、圭介の通勤路と脱走路を同時に楽しめてしまう。思わず、ふはははと高笑いしそうになります。

今までの家は本当に寝に帰るだけで、駅前のスーパーぐらいしか生活圏が無く、土地への愛着もなにも育ったものではなかったのですが。今度はちゃんと、生きる場所を楽しみたいと思います。
家自体も、まだ全然片付いていないのですが。家に帰るのが楽しみ。この感覚は、かつて無かったなぁ、と。

そして、久しぶりに自炊してみた。
自分で作るものが一番おいしい。…とかいうと寂しい傲慢な奴になってしまうのですが。
自分で作る食べ物の味というのは、母親から習ったものにすぎなくて。要するに小さいころに食べていたものを無意識に再現しているわけで。それで一番安心できるということは、いくら外食産業が発達していても、人間、帰るところはひとつなのだなぁ、と思いました。大した味ではないです。パックのダシとしょうゆとみりんと砂糖を目分量で叩き込んでいるだけ。ただ、この味で自分が育っただけに、この味で育つ次の世代が居ればいいなぁと思うのだけれども。母と自分がいなくなれば、この味ももう終わりなわけで。寂しい気もします。

それにしても、引っ越した矢先に、暴風雨と雷。
大雨と雷で、このボロ屋大丈夫かいなと、いきなり不安です。
三角州だから水害にはめっぽう弱いだろう。

あと、町が碁盤の目に整備されているので、戦災でいったん焼けたのだろうなぁと思ってはいましたが。
区の歴史を見ていたら、1923年の関東大震災で前身の本所区の9割余りが焼失して焼死者4万8千人。さらに東京大空襲で6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出した。天保7年7月の隅田川出水をはじめ、水害にもたびたび苦しんできたとのこと。

多分今も、他所に比べると災害に弱いことはいえるのでしょう。防災意識が高くハザードマップもあちこちに目に付くのはその裏返しかと思う。そういうのを見ても、都市に住むにも、人間、自然と大変な思いをしながら付き合ってきたのだなぁと感じます。この街の人たちは、ここが開拓されたときから自然に叩きのめされては、しぶとく蘇ってきた。そうした先人の足跡も、辿ってみたいと思います。


さて、話は変わりまして。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061226-00000018-imp-sci

掲示板などの、プライバシー侵害や名誉毀損の書き込みに関して、掲示板の運営者やプロバイダが、書き込みを行った発信者の身元を明かせという請求について、対応する際の新たなガイドラインが策定されるとのこと。早ければ2月に導入。

名誉毀損については、「公共性や公益性、真実性などが認められない個人への誹謗や中傷に限って自主的な開示の対象」とのこと。

ガイドラインだから、法的拘束力はないのでしょうけれども。
これまで、発信者の身元開示の要求については、プロバイダやサーバ管理者は、どういう場合に開示していいのか分からないから、発信者の同意を得てから開示していたらしい。つまり、掲示板で中傷を書き込んだ人に、攻撃された人から「誰が書き込んだのか教えろ」と請求があったときに身元をばらしていいか、わざわざ問い合わせていたとのこと。そんなので真面目に返答する人は少ないでしょうな…。
けれども、このガイドラインによると、これが、発信者の同意なしでも、プロバイダが発信者の身元を教えろと請求してきた人に知らせてOK、ということになる。

これ、どう見ても2chの存在が念頭におかれていますよなぁ。
あと、SNSやブログにおいての、ネットいじめなどへの対処というのもあるのかもしれない。

人間、ネット世界において、自分が誰だか知られない、隠れたままでどのようにでも好きなことが言える、という条件では、いくらでも傲慢で卑小で攻撃的で正直になれるものだと、2chなどを見ていて、感心してしまう。あれは人間というものを学ぶにはとてもいい場所かもしれないです。

ただ、匿名性に隠れて他者を誹謗中傷する人は、その時点で、誹謗の対象より蔑まれるべき低レベルな人間性を持っているということは、間違いないと思う。自分を隠して他人を蔑み罵倒することで優越感を得ようとするなぞ、まったくさもしいと思うのですよな。他人の悪口ぐらい自分の名前で言えよ、と思います。

…と云う事自体が誰かを罵倒していることになるというジレンマは棚に上げておいて。

で、こういう世間様に背を向けたようなことばかりのたまっているサイトだと、叩かれたり晒されたり攻撃されたり荒らされたり、というのは、ある程度は当たり前だろうなぁと覚悟はしています。むしろ、叩かれてようやく一人前というぐらいのもので。叩くほどの価値もないとかいうのが一番空しかったりする。それも自意識過剰だけれども。
それでもやっぱり、嫌われるだけならともかく、隠れた人間に不当に攻撃されたりすると、正直、辛い。

それで、こうした法・ガイドライン整備により、攻撃者たちが今まで防御壁にしていた匿名性が確保されなくなってしまうというわけで。一応自分の名前で発信している者の端くれとしては、心強く感じるものです。

プロバイダに連絡できる程度に書き込み側を特定するためには、それなりの準備が必要ですが。アクセス者のIPが分かるようにしておけば、プロバイダや発信地域は大体分かる。で、不当な攻撃を受けたときは、名誉毀損の名目で、書き込みを行った人間の住所氏名等の個人情報を教えるようにプロバイダに要求できる。匿名掲示板の場合は、掲示板のあるサーバの管理者に連絡すればいい。

書き込む自分の身元が、いつ自分が攻撃した人間にバレるかわからない、というような状況は、恥の文化たる日本人にとっては、結構恐いものなんじゃないかと。

(あ、自サイトへアクセスして下さっている方のIPをいちいち見るのは、面倒くさいとかいう以上に、なんだか覗き見しているような感じがして失礼だというような気がするので、普段は全くやらないです。自分がよく訪問するサイト様でも、「この時間にこんな大量のアクセスがあった」とか「〜というところから閲覧されている!」とか仰っていれば、監視されているようでびびってしまってしばらく足が遠のいてしまう小心者ですので。ただ、もし自分が攻撃を受けたら、それなりの手間は踏んで防衛したくなるのが、人情ってものです)

別に「ウチ荒らしたら、本名と住所割り出して親兄弟に連絡する準備ぐらいはあるよ?」なんて脅しをかけるわけではないのですけれども。ええ、決して。全く。全然。


さて、プライバシーの保護、個人情報の保護の重要性が強調されて久しいですが。私はプライバシーの尊重しすぎというのも弊害が大きいのではないかと感じています。単に、プライバシーとかいうもったいぶった言葉は好きになれん、というのもありますが。

個人情報の保護がどこか履き違えられて、ネット上では、自分というものがバレないから何をやってもいい、というようなモラルの低下に繋がっている気がします。

セキュリティはまったく別問題だし、芸能人やスポーツ選手など、誰もが知りたいと思う有名人についてはその生活の安寧は保障されなければならんだろうとは思いますが。

ただ、日本人には、世間様に対して顔向けできないという恥を何より恐れる心がある。体面とか建前とか見栄とか世間体とか、自分がどう見られているかを気にしている言葉は日本語にはかなり多い。
その、「どう見られるか」という意識が治安を保ち、人間関係をスムーズにしてきたわけで。

一方で、個人情報が保護されすぎて、自分という者が世間にバレないという状況。そしてこの恥の概念がなくなってしまったらと思うと、そのほうが怖い。
そのタカが外れてしまったのが、2chに代表されるような無法地帯な世界なのだろうなぁと。

無論、匿名掲示板の書き込み内容は、玉石混合で、良い情報もいっぱいあるし、自分も何度も助けられたりしています。それに、ご指摘にはごもっともなものもあり、己の身を振り返る機会にもなり、ありがたい限りというのもあります。ただ、必要な情報を取捨選択し、都合の悪いものはあっさり無視するドライさは必要だと思います。ちなみに自分が対象になった場合、褒貶に関わらず、匿名の人が相手のときは、掲示板でもメイルでも一切反応はしないようにしています。というか、匿名でモノをいうこと自体がそもそも好かんというのがある。

けれども、なかなかこれが、口で言うほどたやすいことではない。皆、感情の生き物だから。大抵は売り言葉に買い言葉になる。特に誤解や中傷に対してはどうしてもモノを言いたくなるのが人間。言わないでいるのは体に悪い。そしてヒートアップしていくのだろうなぁと。

ただ、罵り合うにしても、いつか「自分」だとバレるかもしれないと思うと、自分の発言に責任を感じるようになり、それがどこかでストッパーになるかな、と思います。

それで、こうしたガイドラインにより、ネットにおける恥の意識が少しでも喚起されればいいなぁと思うのでした。そうした意識が進むと、無責任な蔑みや罵倒は抑制されるのではないかなぁと。そうすると発言に若干の責任意識が働き、情報の取捨選択もしやすくなるのではないかなと、ほのかに期待します。

まぁ、ガイドライン自体は名誉毀損で裁判沙汰に発展するようなケースを想定しているのであり、過剰な期待はできないとは思うのですけれども。

…これでちょっとだけ言いたいことが言いやすくなったかなーなどと、この小心者にはささやかな暗い喜びが沸いてしまったことです。

いや、何を言うにもそもそも敵をつくるような表現のしかたをするのが悪い。世間認識に反したことを言っても他者様を決して不快にしない表現でかつ言いたいことに説得力を伴わせて言うことに、発信者としての力量が問われるのだろう、とは思うのですけれども。

人間が至らない奴なので、つい安易な方向を求め、環境整備を喜んでしまいます。はい。

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2006年12月31日

明治を生きた戊辰戦争人物伝2 山内堤雲 その1

昨日、仕事納めでした。公式には28日で終わっていたはずですが。終電どころかバイク通勤になったのをいいことに夜中1時半まで仕事した上、もう今年は出勤しないぞと心に決めて、そのまま資料と仕事PCを持ち帰ったという体たらくです。いろいろと遣り残したことがあります。けれども時間は否応がなく年の区切りに向けて過ぎていきます。

これから産休を取っている同僚と遊んできます。赤ちゃんと戯れて癒されてこよう。赤ちゃんって果てしないヒーリングパワーを放っていますよな…。誘拐したくなる女の気持ちがちょっと分かる。(危険)

初詣は、去年と同じく靖国神社になるかな、と。年初めから益次郎とご対面。あの像の作者は工部大学校の出身者です。あそこの新年は屋台がひしめいていて、お祭り騒ぎで、それなりに面白い。実際に靖国に脚を運んでみると、あそこを軍国主義の象徴だなどとはまず思えなくなると思う長閑さです。近くの駅には「初詣は靖国へ」のポスターが張っていました。勿論、軍服とはまったく縁遠そうな、ほのぼのした笑顔の着物のおねーさんです。

さて、資料。明治を生きた戊辰戦争人物伝その2。
前回第1回は約半年前、7月1日の小柳津要人でした。シリーズ化とはとてもいえないペースです。
第2回の対象は山内堤雲。この方も、功績と当時の存在感の大きさの割りに、現代にあまり伝えられていない方です。

山内六三郎(堤雲)は、箱館戦争では、林董と共に、榎本の書記官・通訳として随行したことで知られています。脱走前に2度の洋行を行っており、幕末官僚や洋学史に親しい方はこちらでお馴染みかもしれません。
釈放されてからは黒田に見込まれて開拓使に登用され、その後、工部省、農商務省、逓信省を歴任し、鹿児島県知事となり、さらに八幡製鉄所長官になりました。明治30年退官。その後、大正12年2月5日、86歳で天寿を真っ当します。
彼もまた、幕末の俊才の一人。幕府で培われた洋学の才を以てして明治の世に尽くした実務者であり、明治の功労者でした。

特に八幡製鉄所は、当時は単に「製鉄所」と呼ばれていました。それだけ日本の製鉄産業の中心を担ったプラントでした。その長官というからには、事務面とはいえ、殖産興業に果たした重責は果てしない。八幡製鉄所は、日本の鉄産業、重工業を支え、第1次世界大戦を支えたインフラでした。火を入れたのは工部大学校一期生小花冬吉。1970年に富士製鉄と八幡製鉄が合併して現在は新日本製鐵株式会社。国家的企業であり、八幡製鉄所自体は近代化遺産でありながら、諸処の新技術を導入し、海外との競争に屈することなく、現在も現役で活躍中。見学可能。
http://www.yawata.nsc.co.jp/index1.shtml
…八幡に触れると果てしなく話が逸れ続け、それだけで何ポストあってもたらないので、またの機会に。

山内、開拓使では、煤田開採事務係事務長として幌内炭鉱の開発にもかかわっています。幌内炭鉱は、榎本が鉱石を分析し、ライマンが基本調査を行って、圭介が事業化調査を行って、黒田が国家的開発を承認させた。明治12年開鉱。昭和期には年間120億円の利益をたたき出すようになった。残念ながら平成元年に閉鎖され今は稼動していませんが、日本の殖産興業を支えた資源供給のひとつであることは間違いない。創生におけるこの関係者たちのコラボレーションが濃くて楽しいです。

ちなみに、弟の徳三郎も開拓使に出仕。地学の技術者。ライマンの一番弟子として、ライマンに愛されています。ライマンが工部省に移ったときに共に移動してきて、大鳥の信越羽地方の産業巡検と石油開発のための地質調査の際に、伴っています。大鳥の「信越羽巡歴報告」にも徳三郎の知見が入っているのではないかという部分があります。

その山内堤雲の「山内堤雲翁 自叙伝」が、同方会誌の昭和7年刊行、57号と58号に収録されています。
公表しようとしてかかれたものではなく、子孫のために残そうと書き留められたものですが、家族の英太郎氏が同方会誌に掲載したものです。

これを読むと、山内君の実直で真面目な性格が伝わってきます。その土台に、時々好奇心と行動力をぶわっと沸かせている感じです。箱館でよく並んで見られる林董は見るからに生意気、もとい、才気煥発、という感じですが、山内君は静かで朴訥ながら内に炎を秘めている感じがします。遊びもすればサボりもする。人間的で正直です。

山内は旗本伊奈遠江守の家臣、山内豊城の三男として、虎ノ門外にある伊奈家の長屋で生まれた。維新後は入舟町といわれたところ。家は直参ではなく陪臣であった模様。「六三郎」という名は、親族で六番目の、三番目の男子ということから、父親が生まれたときに命名したもの。
天保14年8月、七歳で伊奈氏が京都の東町奉行を命じられ、父がこの用人として上京した際、家族一同が伴った。

京都町奉行所は、二条城下にあり、学校もその邸内にあった。そこで山内は兄と共に牧野善助という先生に指示する。この人は、勉強せず蜆を採って遊んでいても、怒ることもせず、かえってその蜆を弁当にいれて持って帰ったという人だったと。

それから、知恩院というところで、父親の友人の冷泉三郎為恭という方の弟子になった。
冷泉為恭は、京都の公卿に召抱えられた、やまと絵の画家。狩野永泰の三男、岡田家の養子で、和歌の冷泉家とは関係はないらしい。障壁画や仏像画で名を残している。佐幕派だったために、後、元治元年5月に、長州藩の人から殺害されてしまった。

弟の徳三郎は、この京都に居た頃に生まれたのだそうな。あと、おたまという姉がいる。

京都では祇園祭、東山の文字、嵐山の桜ともみじ、鴨川の涼み、壬生狂言が面白かった。恐ろしかったのは二度の落雷。一度目は夕立の後、魚を銅版に入れて遊んでいたら近所に落雷した。もう一度は、仲間と一緒に稲荷神社の守に行ったときに落雷に遭い、大杉が火柱の如くに燃え上がった。仲間は驚いて自分を見捨てて逃げてしまった。その御蔭で、「物理を解せる後も、雷鳴は恐るるとにはあらぬも不快の感じあり」とな。それを「露国のピートル大抵は幼少の時水中に落とされ、それより水を嫌ひしといへるも此感動なるべし」なんていっている。その当たりの正直さがなんとも人間らしくて良いです。

山内の名前ですが、最初「一式(かづのり)」、それから冷泉先生の命から「恭明」、さらに「政明」と激しく改名しています。そして、佐倉に居たときに剃髪して「潤徳」、それから谷家へ養子に出たときにまた髪を伸ばして「六三郎」に戻った、とのこと。脱走時にこの一番平凡な名前に戻した、というのが面白い。
堤雲という名前は、横浜にいたころに友人等が互いに号を呼び合ったとき、向島の櫻から、春帆という人が選んでくれた号だということらしい。これが、山縣有朋の詩「隅田川 堤打ちこす朝ころに 動かぬ雲は さくらなりけり」は「能く予が名をよみ入れたるものなり」と喜んでいたりします。

その後、江戸に帰ってからは、霞ヶ関の裏の汐見坂の駒井大和守の邸内に住む。ここに、父親の友人に小林茂助という能役者が居た。彼が六三郎を能訳者にしろと進めた。それで六三郎は三ヶ月間、汐見坂に通って、雨風の厭いなく毎日声を張り上げて謡っていた。ところが、声が枯れて出なくなった。これを乗り越えれば本物だと師匠に言われ、なおこれを押して謡っていると、声はでずに咳ばかりが出るようになった。そこで、開業したばかりの林洞海のところに行くと、謡なぞ大俗物だと怒られて、軟膏を塗られた。その後は詩吟もあまり楽しいと思わなくなり、能役者になることはやめた。

…画家の弟子になったり、能学に足を突っ込んだり。いろんな可能性を経てますなー。
本人にとってはひとつの夢が絶たれたのでしょうが、後の日本のためには、よかったと思います。

それで15歳ごろ、佐倉の伯父の佐藤泰然の下に学僕として厄介になることになった。ここからが、六三郎の洋学者人生の始まり。元駕篭かき六尺の部屋で寝起きして、掃除、雑巾がけ、調合製薬、講義書の書き取り、手術の手伝いなどをする。卵巣水腫の患者が来て大手術したときは、その頃麻酔を用いることもなく、女性の患者が痛いとも言わずに耐えたことは、自分の腹を切られるごとくに覚えて自分が耐えがたかったとのこと。

翌年の夏から、泰然の息子で林董の兄の善道と共に蘭学を始めた。文字の形もわからず、イン・ヘット・アルフェメーンと何回も繰り返すも覚えられず、「両人の覚えの悪さよ、もはや五十遍目なり」と笑われたとのこと。山内君のような秀才からしてこれだったというのは面白い。
それからだんだんと覚えていくけれども、翻訳などをするといっても小さい辞書が二冊あるだけ。ヘンチー・ヤンチー窮理書などを写本してすごした。

…と、この辺でタイムリミットです。続きはまた後ほど。山内君の洋学修行はかなり面白く、苦心して新しい概念に取り組んでいった日本人の象徴的な姿であるかと思いますので、後からじっくり触れたいと思います。


他、山内君の残したものに、「五大州巡行紀」と「後の鏡」があります。いずれも山内堤雲死後に、やはり英太郎氏が同方会誌に掲載したもの。

「五大巡行紀」は、慶応3年、徳川昭武がフランスへ留学する際に随行した日記。1月11日、郵便船のアルヘー号に乗って出発以来、毎日の出来事を記しています。渋沢栄一も同行していて、渋沢と一緒に家を借りていたりします。毎日の行動や移動場所を記しながら、ものめずらしげに、或いは業務上の必要性から、風俗の違いや物価、為替レートなど記している。下っ端としての視点にとっても共感する。史料価値も高いのではないかと思います。

「後の鏡」は、箱館戦争後の収監の記録。これが情緒たっぷりで、自分だけではなく友人や榎本、荒井の詩歌も修められ趣深い。毎日天気を記しているし、病気や怪我についてや、米の値段が凶作で変動したり、江戸と僻地とで物価の差があるとか、社会的にもさまざまな事象が記されていて、当時の様相を知るにはいい資料かと思います。これについても、箱館戦争の貴重資料かと思いますので、こちらも後ほどご紹介したいと思います。


…という感じで、皆様、今年一年大変お世話になりました。ご来訪してくださる方々に、たくさんの励みとエネルギーをいただきました。ありがとうございました。

どうかご家族様かたがた、皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

posted by 入潮 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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