2007年01月02日

新年To Do リスト

いやぁ、徹夜明けの銭湯は最高です。
50℃超というタンパク質が変性しそうな高温湯と水風呂を繰り返し、何かの苦行をやり遂げたかのような達成感がオマケに付いてきています。
新年早々、挨拶もせず何をやっとるのだという感じです。

えぇと、改めて、頌春、寿ぎ申し上げます。今年も至らぬ身ですが、どうかお見捨てなくご鞭撻宜お願いいたします。

昨年の総括とか今年の抱負とか、語れるほどにきちんとした年越しはできず。時の区切りを何と心得るか、という自堕落な様です。去年の今頃は何してたっけ、と思ってログを見ると、ドラマに文句つけてクダ巻いているだけでした。今年も進歩はないと思います。いや、あのドラマを見て、大鳥さんっていいかも、と思ってくださった方もたしかにいらっしゃったので、ドラマ自体には一応感謝です。今度はあのアニメがどういう扱いになるか激しく怖い。むしろ存在ごとスルーしてくれと願っているあたり、進歩どころか後退しています。

そんな感じで、今年の目標とか志とか決意とか、そういったものを初々しく語れるような健やかな様ではないですが。自分の背中を蹴るために、やることリストだけ上げます。粛々淡々。

・山内堤雲続き
・林董の日清戦争内幕語りについて
・会津裏磐梯レポート続き(忘れたわけでは決して)
・工部大学校オムニバス続き(同上)
・長州レポート続き(…)
・今井信郎と衝鋒隊続き
・北海道文書館文書続き
・ 大岡昇平「保成峠」「檜原」続き
・ 工部省後期の意見書
・墓について
・「山砲演式」中身
・「大鳥圭介とライマン」の続き
・大鳥と石油の関係
・工部大学校資料の日本人スタッフ、出来事、出身者について
・宇都宮・日光年表を各資料からちゃんと書く
・土方と大鳥の関係
・箱館市立図書館史料整理、山崎有信蒐集史料、天極記、荒井郁之助測量沿革考、函館戦争奥羽人民告諭、函館戦争陣備目録、陸軍五稜郭史、など
・東洋学芸雑誌収録「廉恥」「国民の外交」について
・会津・箱館年表の完成
・大鳥の戦、戦術、戦略の続き
・大鳥の経歴、要点紹介の改訂版


…このうちいくつできるかな。まだ探したら色々ほったらかしていそうだ、
追い詰めないと何もやらない人なので、この位風呂敷広げさせて下さい。
好きでやっているんです。やることがたくさんあって、毎日楽しいです。

…志を立てることと、自己催眠は、紙一重だと思います。
posted by 入潮 at 10:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

はじめに

当ブログに足を留めて下さって、ありがとうございます。
入潮と申します。

当ブログは、「天下大変―大鳥圭介と伝習隊」サイトの雑記として掲示板形式で記してきたものを移行したものです。

内容は、大鳥圭介を中心とした幕末明治の人物・科学技術・軍事など資料についてのメモです。
洋学、戊辰戦争、近代産業技術、工部大学校、国つくりなどがテーマです。
資料については、現代人の記述だけではなく、できるだけ同時代を生きた方々の記録をご紹介できればと思っています。

また、途上国事情についても、別カテゴリとして触れております。過去にラオス、ケニア、タイ、インドなど。現在はブータン、モンゴルなどです。途上国開発 開発援助についても触れていこうと思います。各国事情に興味のある方も、よろしければご覧いただけると嬉しいです。


当方の記述した内容について、著作権は放棄しております。当ブログの記述について、リンクのほか、引用やコピーペーストなどもお心のままにしていただければと思います。(コメント欄についてはこの限りではありません)

ただし、当ブログに含む記述・情報は、校正や厳密な真偽の判定を経ていない、ネット上のジャンクな素人の文章として取り扱われる性質のものです。解釈間違いなども多々ございます。信憑性という点では、出版物や諸文献にははるかに及びません。コピーや引用をしていただけるのは大変嬉しいですが、ソースや出典に関しては、個人の責任で念入りにご確認いただきますようお願い申し上げます。

特に引用した資料の内容については、漢字の異字の使用、句読点の追加、読み下し、省略などを、読みやすくするために当方で予告なしに行っております。その際に誤謬が入っている可能性も大きいです。
よって、資料原文の引用につきましては、原典そのものを直接ご確認されますよう、お願い申し上げます。

二次利用において派生する諸問題につきましては、当方の力は全く及びませんこと、ご了解をお願いいたします。

矛盾点や間違い、不適当な解釈のご指摘・ご批判などは、コメント欄やメールなどでご教示いただけますと幸甚です。


本サイト (大鳥圭介と伝習隊):
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/entrance.htm

大鳥圭介と伝習隊について、江戸末期、戊辰戦争期、明治初期〜中期を主に紹介したページです。
・年表と若干の陸軍・銃砲資料、社会資料
・工部大学校
・創作物
を含みます。

メール:
irisiomaruアットhotmail.com
(アット→@)

コメントやご感想、ご批判など、いただけますと大変励みになります。

なお、旧掲示板からの移行の都合で、移行分で以前にいただいていたコメントは、コメント欄ではなく本文に含めております。ご了承ください。

少しでもお気に召していただける箇所や有益に感じていただける記述がありましたら、幸いです。

posted by 入潮 at 18:18| Comment(4) | TrackBack(0) | はじめに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月04日

山内堤雲 その2

山内堤雲、続きです。

山内は天保9年(1839年)9月17日生まれ。大鳥より6つ下、みちさんよりひとつ上、黒田より二つ上、というのは意外だった。
1855年の安政大地震は16歳で遭遇。佐倉にいたけれども、翌朝江戸で大地震大火の報があった。父はこの時長崎。江戸にあった母や姉の安否が心配されたので、不眠不休で江戸へ。幸い下谷八軒町の家も、母、姉も無事だった。余震があったのも知らずに疲労で死人の如くに寝入った。

さて、六三郎の祖父俊三信経は市ヶ谷の鍋鶴組の与力、谷嘉右衛門の甥だった。谷の息子に子がなかったので六三郎をその養子にほしい、という話があった。六三郎の父は幕府の与力となることを熱望していたので、父親は賛成。一方、六三郎は既に医学で身を立てようと、剃髪して潤徳と名乗っていたから、これを承諾しなかった。そこで父は丸三日間六三郎を説得。六三郎は拒絶できず、安政3年、17歳で養子になることを承諾してしまった。
ちなみに佐倉の伯父の佐藤泰然は親子のごとく仲がよかったとのこと。

そして安政4年の正月から、六三郎は願って蕃書調所に通学した。当時教授は、箕作阮甫、松木弘庵(寺沢宗則)、福沢諭吉、川本幸民、西周、津田真一郎、加藤弘之、杉田玄端という早々たる顔ぶれ。ここで六三郎は句読教授に召し出され、生徒に文典を教えながら、自らも松木以下の先生に付いた。7月には教授手伝並として五人扶持となる。

さて、米国から、ペリーの日本紀行のオランダ語文が幕府に送られた。その翻訳を命じられる。ここで六三郎、つとに感じたのは、「漢学の素養無きを以て、原文は解し得るも、之れを国語に反訳するに当たりて文を成さず」ということ。漢学の素養がなかったので、原文は分かるが訳するのに文を作ることができない。ここで初めて、漢文を学ばねば、ということを思い知った。安政6年、20歳にして息軒安井先生の塾に入った。昼は蕃書調所で教え、夜は塾の先輩についたり先生の講義を受けたりした。

蘭学の才に秀で、生徒として入った蕃書調所で教授手伝となって食い扶持を得るほどの能力があった六三郎。けれども、翻訳を行うのに、自分の国の言葉を知らないので、それを学びなおした。
その根性、真面目さに感銘を受けます。偉い。

日本人が、今の技術レベルを築き上げられたのは、何より、自分の国の言葉で専門の課程を学ぶことが出来たというのが大きいと自分は考えています。途上国では、大学課程はまず英語やフランス語などの元宗主国の言葉で行われるのが普通です。これは、自国の言葉に専門語がないし、専門の教科書がないから、教えられない、というのが大きい。自分の国の言葉で高等教育を受けることが出来ない。専門の教科書が英語しかなければ、英語を知らない人間は学ぶことが出来ない。

専門を学べないと就職教の機会にも給料にも大きな格差が生じることになる。これが積み重なると国力にも響いてくる。一人一人が専門知識を備え、技術を研鑽できる土台は、まず言葉にある。途上国が何故途上国なのか、というのは、ひとつはこの言葉に対する姿勢の違いが大きいのではないかと思う。

日本は、こうした江戸末期の先人達がまず、自分達の国の言葉で外来の概念を説明しようとした。その伝統があって、今に至るまで、あらゆる分野の専門知識が自国語で整備されていった。
PCにしてもインターネットにしても、日本語オンリーで何も不自由しない。パーソナルコンピュータが一般化する際に、まずNECが何よりも早く日本語入力システムを確立させた。これが、日本人の間でのデジタルデバイドを最小にとどめることになった。

山内のように、外国に向かい合う際に、まず、寝る時間を割いて自分の国の言葉を見つめなおした。そうした洋学者たちの姿勢が、今の日本に繋がっているのではないかと思うのです。


さて、この安井先生の塾には、村上俊平、瀧川淵、安藤太郎、谷守部(干城)などが居たとのこと。箱館海軍で共闘する安藤とは既にこの時に知り合っていた。谷さんが居たのは意外です。
で、ここには1年余ほどいたのですが、「当時漢学者の塾ほど不潔なるものはあるまじ」と述べています。障子は骨が折れていて、畳は破れ、壁は落ち、風は吹き込み、虱は無数に散乱、飯米は黒く、香者の沢庵は悪臭を放っている、という有様。その中で筵を被って授業を受けていた。弁当はそういう沢庵と黒飯と、あとは煮豆を十六文で買って詰めたもので、これを加藤弘之と分け合った。後から加藤さんが東大総長として番町の美麗な屋敷に住んだときに訪れてこの話をした際「そんなこともあったなぁ」と笑っていた。

…適塾とあまりかわらんですな。当時の俊才を輩出した塾ってば一体。
ちなみに加藤弘之は、大鳥が坪井塾で塾頭をやっていたときの塾生でもありました。この時期、いろんな人がいろんなところで絡み合っています。

この安井塾の月謝は1ヶ月二分五十銭。六三郎の収入は五人扶持で、これを浅草の蔵前で、札差という御家人の扶持米を金に換えてくれる町人のところで換えると、一両二分ぐらいになる。よって、二分は月謝で払い、二分は家に送って衣服代とし、二分を小遣いとした。
塾に居たときの服装は、夏冬共に茶色縦縞小倉の行灯袴、鼠色羽織に白糸で土佐柏を一つ背に紋を縫った羽織、木綿ドンツク、木綿帯、高下駄、という出で立ち。お出かけのときは、白小倉の袴、金巾の黒紋付、木綿の割羽織。
時々同窓生と居酒屋「矢大臣」に入り、牛蒡やするめなど菜物一品、焼酎一杯を頼んで十六文を散財し、陶然として麹町を散歩していた。

こうした記述も、当時の物価や様相が良く分かって面白いです。(ドンツクって何だろう)

自分はあまり酒は好きではなかったのだが、佐倉に居た際に医者書生の風儀がよろしくなく、酒楼で遊ぶものが多かった。自分も付き合って無理に酒を飲むこともあった。けれども、江戸に帰って入塾してからは、自らの不学を悔いて、玉篇を坐右に置いて、字を引いては読み、苦学で血涙が出てくるほどになった。けれども1年あまりで友人を送る漢文を作れるぐらいにはなった、とのこと。(でも焼酎一杯ぐらいは時々あった、と書き足している辺りが、生真面目だなぁ、とほほえましい)

こうして、学者にでもなろうかなぁと思い始めた24歳の頃。文久元年5月22日、神奈川奉行手附翻訳方を命じられた。横浜開港後、増大する翻訳の需要のためでしょう。七人扶持、手当金2両、筆墨料1ヶ月1両、日当手当金一分、という。好条件といっていいのでしょう。

そして横浜に移ることになる。職場は横浜運上所。税関と県庁を兼ねたようなところ。官舎は八畳二間、二畳の玄関。

こうなると漢書を読む暇はなくなる。さらに、蘭学より世の中は英学を必要とする時勢であることに気づく。よって英学の独学を始める。玉篇ではなく英蘭対訳の辞書を購入し、英文の書簡がくればこれを別紙に写して、辞書で英語の上にいちいち蘭語を書き加え、静思熟読して、ようやく英文書簡の意味を理解した、というやり方。英語にも蘭語にも何通りかの意味があり、どれが適当か全て書いてからいちいち斟酌して、追々と書いたり消したりしてようやく一語に限定して、全文の意味を理解するなど、苦労したとのこと。

ちなみに、各国領事からの奉行宛書簡は原則蘭語ということになっていたけれども、蘭語が添えられてないことも多かった。また、英国領事は英文しかよこさなかったとのことです。

その中で、外人にも知己を得て毎晩通って英語対話を学び、会話することもできるようになったとな。
米国漂流の彦三という人とも懇意になった(万次郎とは別?)。林董がこれに同居して英語を学んだとのこと。ここで箱館若手コンビの林董三郎の登場です。

なお、遊楽もした。同僚に長崎の通訳官がいたが遊び人が多くて、「パスタイムと交際のために」花かるたなどに興じたり、遊里に足を入れたり。「心に弛みを生じ」としているところがまた真面目ですが「家計甚だ窮乏せり」だそうで。そういえば神奈川奉行所勤めの頃の今井さん、風呂に入る金もなくて海で体を洗っていた、とか行っていましたな…。神奈川ってそういうところなのだろうか。

そんな六三郎君ですが、この頃佐倉の蒲生安之丞氏の娘と結婚しました。名前は幼名お駒、結婚で改名してお千代。三々九度まで顔を見たことはなかったとな。妻は婚礼の前にすでに家族の下にきて働いていたので、自分より両親、姉に親しかったとのこと。

結婚時は横浜の遊びがたたって、借金が七十五両ほどあったけれども、妻を迎えてからは心を入れ替え、これを1年で返し終わった、と。
そして、放蕩時代も一日たりとも欠勤することはなかった。たとえ品川まで遊びに行っても、月曜の午前10時には必ず出勤していた。これは、翻訳方は自分ひとりで、当時の文書往復は頻繁で、欠勤するわけにはいかなかった、とのこと。このあたりも、わざわざ記すところがなんとも。

そうして、時は文久三年。鎖国談判のため、外国奉行池田筑後の守が欧州に使節として派遣されます。かの有名な「スフィンクスを見た侍」一団です。これに、知り合いの田辺太一に就いて随行を志願した。これが認められて、通訳方として随行が認められます。

このあたりで、次に続く…。
1回で終わるぐらいにさらりと触れようと思ったのですが。このあたりの洋学者事情も中々面白くて、せっかくなのでちくちくとやってみました。
幕末洋行自体はいろんな研究文書があって、調べつくされているとは思うのですが。
こうした、洋学を学ぶために先ず漢学を学ぶ、という在り方などは、非常に示唆的で面白いと思います。「国家の品格」「祖国とは国語」を持ち出すまでもなく、英会話学校や語学留学の相変わらずな隆盛ぶりについて、このあたりのエピソードを投げかけてみたいと思いました。
posted by 入潮 at 05:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月06日

「おさぼり」のススメ

都心で夜明けまで呑み続け、フラフラになって雨に打たれながら自転車で家にたどり着き、そのまま泥のように眠りこけて、気がついたら午後も西日が挿していた。
新年早々、そんな自堕落な生活を送っています。

「東京おさぼりマップ」という本を、コンビニで買いました。
「仕事途中にいけるフリー&格安休息スポット」「午後3時のビジネスマン達へ。必要なのは20分間のリフレッシュ」ということで、漫画喫茶や屋上、ロビーや博物館、銭湯などが紹介されています。

これだけを見ると、よくあるヒーリング系のハウツー本かなー、と思ったのですが。

「おさぼり」を「ハードな現代社会を行きぬくための自己防衛手段」と定義し、力をヌく手段とし、ストレスの耐性を高める行為としているのが、なんとも気に入りました。

ストレスというのは、常々、わけのわからない言葉だと思っています。
もともと、抑圧とか、材料破壊試験における負荷だとかに用いられていた言葉だと思うのですが。
それが人間に用いられて、なんだか自分の体と心に好ましくない事象全てに適応されるようになった。ストレスといっても、何も特定していない。原因を明らかにしていない。なので、ストレスという言葉を多用されるとなんだかうんざりします。

あと、病気の原因が「ストレスだ」といわれると、当たり前のことをわざわざ言わなくて良い、と思います。「あなたの病気の原因は貴方に好ましくない原因があるからです」といわれているようなものなので。それでなんとなく納得させられた気になる。医者も説明したような顔をしている。なので、ストレスとすぐ口にする医者ほど、自分は信用したくなくなります。

原因が悪いとすると、結局、環境や人のせいにしてしまって、それから逃げるより他はなくなる。けれども、人間、仕事をして金稼ぎをして食っていかねばならない以上、ストレスの原因と付き合うことは不可避です。金稼ぎというのは楽してできることではない。いやな思いをすることのほうがずっと多い。金はその対価である以上、そこから逃れられるはずもない。

人間、普通に仕事をしていたら、プレッシャーもやりきれなさも不甲斐なさもムカつきも普通に受けます。
仕事中に誰にも会いたくなくなってトイレに閉じこもりたくなることも、何も食えなくなって吐いたことも何度もあります。

でも、ストレスの原因が悪いのではなく、ストレスに耐えられない自分の体が悪い。ストレスをストレスと思わないように自分を作り変えたほうが良い。
そう思うようにしたほうが、何かと現実的な生きる術に繋がるのではないかと思うのです。

この本では、「おさぼり」は単に休息が目的ではない。仕事への意欲と集中力を増し、業務を円滑に進めストレスとうまくつきあっていくためのテクニックだ、とした肯定的な捉え方も素敵です。「おさぼり」はただの「サボり」とは違うのだと。

それで、昼寝だけではなく、サウナやスポーツ施設でのリフレッシュや、博物館、ブックカフェ、ビル屋上などでの頭の切り替え場所を紹介してくれています。

ちなみに、20分程度の昼寝は、脳の前頭連合野の疲労回復に役立つそうな。前頭連合野は脳みその中でも記憶力や集中力を司る部分。この機能が低下するとやる気がなくなる。この機能が高まると、仕事の集中力が増し能率が上がる。


で、この「東京おさぼりマップ」ですが。ただのサボりポイント紹介ではありません。わざわざ行ってみたくなる、積極的におさぼりしたくなるところが豊富。場所は駅に近く、客先からの帰りに簡単に寄れるところばかりというのも素敵です。そして、なにより費用対効果を重視したのが素晴らしい。無料かせいぜい500円以内でのリフレッシュが実現できる。

たとえば、ホテルのロビーでの昼寝と豪華トイレの活用、カラオケボックスでの完全防音・プライベート空間での昼寝、マンガ喫茶でのシャワーやプチオフィス活用、デパート屋上での非日常の逃避、図書館の図書室での息抜きや昼寝、大学学食での買い物、市役所・区役所での食事や放心、博物館・美術館・記念館などでの失踪気分とマニア浸り、神社で森林浴、果ては山手線など。

自分の今までのお気に入りや、行ってみたいと思ったのは、以下のところ。

・東京駅オアゾ内 宇宙航空開発機構JAXAのPRルーム: ミニ宇宙博。宇宙からの地上の景色、15分のロケット打ち上げ上映あり

・「旅の図書館」:東京駅八重洲北口のJTB図書館。各国観光資料、各国航空会社の機内誌、地図、時刻表など

・「東京交通会館」:有楽町。団塊世代青春時代にタイムスリップできる。昭和のテーブルゲームあり。

・「日比谷公園公園グリーンテラス」:霞ヶ関日比谷公園内。テラス席セルフ式のカフェだけれども、「無料休憩所」の大きな文字が。また、公園内での森林浴と昼寝もよし。草地広場では鉄棒や吊り輪ができる。

・「日本の酒情報館 酒プラザ」:虎ノ門。 試飲で、日本各地の酒の呑み比べができる。525円で70種類の中から5銘柄を選ぶ。6000冊の酒関連の情報誌やマンガも楽しめる。

・「航空図書館」:三田線幸町。大量の飛行機模型のほか、充実した専門雑誌棚。物流、観光、無線、ヘリコプター、気球、航空シミュレーターなどなど。気球の歴史を探ってみたい…

・「食の文化ライブラリー」:高輪台。味の素研修センターの施設。「食」をテーマにした図書館。食の雑誌や「美食しんぼ」全巻なども。「食とくらしの小さな博物館」では時代ごとの食卓風景を再現している。

・「目黒寄生虫館」:目黒。お馴染み。巨大(長)サナダムシの展示、フィラリアに寄生されて地面につくほど肥大した睾丸の写真など。近くに「大鳥神社」がある…

・有栖川宮記念公園:広尾。構内にお馴染みの都立図書館がある。森の中で渓流もあり、周辺の大使館勤務者の家族の子供達も遊んでいて和める。

・恵比寿麦酒記念館: 恵比寿。ビールのブランド名がそのまま地名になったのだそうな。日本ビール史の展示と、セルフ式ビールの呑み比べが…、

・「池袋防災館」:池袋。消防署の上。地震、火事などの災害状況を疑似体験できる。震度6の揺れを経験できる地震コーナー、煙の中を歩いて出口を探す煙コーナー、応急手当コーナーではダミー人形で人工呼吸法を学べる。

・立教大学第一食堂: 池袋。10メートルはある高い天井、礼拝堂のような厳粛な雰囲気。1918年に作られた建物。

・「深川江戸資料館」:清澄白河。原寸大で江戸深川の町並みが再現されている。路地、長屋、雨漏りする天井、夕方の鐘の音。米屋、船宿、芸者、あさり売りの住まいも。昼寝もできるそうな。

・「東京都水道歴史館」:原寸大の江戸長屋と井戸のセット、井戸端会議の再現音。治水関係の図書を備える閲覧室ではうたたねも可能。土木マニア必修。

・「現代マンガ図書館 内記コレクション」:江戸川橋。この世に生み出されたマンガのすべてを蒐集しようという図書館。雑誌のバックナンバーも好く揃っている。天井までコミックに埋め尽くされた空間。所蔵リストは三十冊。


…と、そんな感じで、上げていけばキリがありません。「おさぼり」どころではなく、それを目指していきたい、と思うところも目白押しで。特に博物館、専門図書館系は、近代産業技術にアタックしたいと思っている人間には垂涎のラインアップでした。東京写真美術館図書室も面白そう。

国家級のメジャーな施設を、しっかりとおさぼり施設として紹介しているのもいい。経済産業省や農林水産省の食堂まであった。
そして、靖国神社や国会図書館が含まれている。靖国神社は、ベンチも有る回遊式の日本庭園、飛び交うトンボ、泳ぐ鯉などは平和そのもの。国会図書館は最強の昼寝メッカなんだそうだ。確かにあの新館地下1Fは独特の誘眠電波が飛び交っていると思う。あと、青山霊園もしっかりと含まれているのが良い。

東大や明治大学、慶応大学、上智大学などの大学の学食は活用しようと思いました。

そんな感じで。ローカルネタでごめんなさい。でも、皆様が住むどの地域にも、こうした「おさぼり」スポットは有るのではないかと思います。

サボりと言ってしまうと何かと後ろめたいですが、心身をすっきりさせて、集中力仕事の能率を高めて、ストレスを跳ね除け、マニアな知識まで身につけてしまうる、ポジティブなおさぼり。人それぞれの場所と方法と、自分だけのスポットをを持っていると、日常のささやかな楽しみ、けれども大きなエネルギーチャージになるのではないかと思います。
posted by 入潮 at 23:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月08日

造船、小栗忠順と大鳥屋敷

東京に来られたF様と飲んできました。
F様は海洋船舶工学を専攻されている学生さん。船舶というのは工学のなかでもなかなかそれを目当てに志す方がいない。けれども、構造、設計、波動解析、材料、エンジン、燃料とさまざまな工学分野のバックグラウンドが必要となる難しい分野。そこにアタックされている、女性エンジニアとしての将来がとっても有望な方です。

造船というのは工学の中でもなかなか中身に触れた事はなかったです。とても興味深く、専門や業界のお話をお伺いしました。

たとえば、大型船舶の3割が日本、3割が韓国、1割が上海と、東アジアの三角地帯で世界の船舶造船の実に7割を占めているとのこと。韓国は造船所のキャパシティが大きくて、大量受注に対応できる。一方日本はそれにくらべると容量が少なく、少量受注はできるけれども、量で韓国に勝てないのだそうで。

韓国がそこまで躍進しているのは驚きでした。
たしかに、日本海事広報協会の統計では、百総トン以上の2005年の造船竣工実績で、日本、韓国、中国の順に、469、326、420隻、あるいは16,434、17,689、6,466総千トン。トン数ではもう韓国に負けているんですな…。

あと、東南アジア航路では、マラッカ海峡の水深が浅いので、50万トンだと通過できないために30万トンクラスの船の需要があるのだとか。また、パナマ運河の拡張にしたがって、これまでパナマ運河の幅で制限されていた船舶のサイズが大型化できる、その需要が今後生じるのだとか。

世界のエネルギーや材料事情など一般的な条件だけではない、造船業界独特の事情があるのだというのが面白かったです。

また、最近の就職事情の話などもお伺いしました。だいぶ、工学部学生の売り手市場になってきたとのこと。今までは就職難で就職活動に心身すりつぶされてろくに研究にうちこめないこともしばしば、実験と演習で苦労した単位があまり報われない分野だったのが、社会的地位を盛り返してきたというのは、喜ばしいことです。

ただ、船舶専攻でも、造船分野への就職は少ないらしく、やはり花形の自動車業界を希望する方が多いのだとか。そのあたりは、さもありなん、という感じではあります…

今は卒論真っ只中とのこと。良い研究を纏められること、お祈りしております。苦しくお忙しい時期にお時間いただいてしまって、大感謝です。


さて、そんなF様を得手勝手に引きずり回した先が、御茶ノ水。

小栗忠順屋敷跡があるのと、明治大学スカイラウンジで夜景を見ようということでお誘いしてみました。
明治大学のほうは1月7日まで閉鎖されているということで、今日までかよー、と悔しがる羽目になってしまいました。

手元には、「切絵図・現代図で歩く持ち歩き江戸東京散歩 江戸開府400年記念保存版」というのがありまして。

嘉永・万延・文久年間の地図が収録されて、それと現代の地図が比べて見れるようになっている作りです。屋敷の名前も詳細に記入されているので、碑文どころか全く陰も形も残っていないような家の位置でも割り出せる優れもの。江戸の史跡散策には是非お手元に、という一冊です。ただ、北が上になっていないので、方向感覚が優れていないとすぐに迷うという欠点はあります。

で、YMCAの前の駐車場が小栗忠順屋敷だとどこかで聞いたことがあったのですが、この地図「小栗豊後守」の場所をみると、YMCAそのものの位置でした。

この当たり。…暗くて良く分からないですが。

oguriYMCA.jpg

そしてその隣が、「滝川三郎四郎」。その近く、御茶ノ水駅の西側出口の向かいあたりにも「滝川八左衛門」という区画があったので、伝習隊滝川の家はどちらかな、と思っていたのですが。
滝川充太郎の親父様の滝川播磨守具挙の父親、すなわち充太郎の祖父が滝川三郎四郎具知なので、小栗家の隣が滝川充太郎家ということで間違いはないでしょう。
ちなみに、日本大学理工学部とYMCAの間の建物です。

そして、大鳥さんの幕臣時代の屋敷。
今日見た限りでは、この近所、というぐらいしか分からなかったのですが。
公文書館所蔵、多聞櫓文書の大鳥圭介屋敷拝領願いに、場所がたしか記されていたなぁと。見てみてみました。慶応3年11月、当時大鳥は歩兵頭並。

「駿河台甲賀町能勢鍬之丞地面」

上の地図の「嘉永二巳酉年新刻、文久三亥歳改正 江戸麹町六丁目」となっている地図の、「コウカ丁」となっている脇に、「能勢鎌三郎」とあります。鍬と鎌の違いはありますが、他に能勢姓は付近にないので、ほぼ間違いなくこれでしょう。

とすると、大鳥の屋敷の現在の場所は、YMCAの小栗屋敷と昌平橋を結んだ線のちょうど中点。…千代田区神田駿河台4丁目1-3、ニコライ堂です。

大鳥が脱走する際、活字の鋳物そのものとか、書いている途中の日記とか、翻訳中の文献などを色々と屋敷に残して行ったらしい。
江戸開城の際、この能勢さん宅はどうなったのだろう。だれが摂取したのか。…ニコライ堂の地面を掘ったら、何か出てこないか。

などと、未練がましく考えてしまったことです。

ご参照。

otoriyasiki.jpg

しっかりと大鳥、小栗さんと近所でした。小栗さんの日記に、慶応4年の1月2月ごろ、あのきな臭い頃合に、何度か大鳥が仕事後の夜に訪れているのが見られます(群馬県史料集小栗日記)。確かにこの距離なら夜中に行き来してもなにも問題がない。
小栗さんも小川町屯所、圭介の職場にはしょっちゅう出入りしています。いや、そこが陸軍奉行でもあった小栗さんの職場だったわけで、圭介に用事があったとは限りませんが。

以下、名家談叢「小栗上野介」より。既出ですみません。

「幕末3,4年間は懇意を交び、小栗も駿河台に居り私も駿河台に居て近傍でもある」
「夜中など往来して国事を談じた」
「洋学者より経済上の事や海陸軍の事や世界の形勢を聞いて、始終注意しておった。私共が話に行くと、いつも世界の形勢などを問われるから、自分の知っていることだけは話したが、非常に記憶の強い人であった」

と、大鳥の回顧談でも親密な付き合いが語られています。
また、大鳥、小栗忠順のことは絶賛しています。

「其時西洋より軍艦を買い入れ、或は将軍の上洛など幕府財政の困難中よりも百方工夫して之を弁じたるは、余程の苦心した事ならんと思う」
「財政困難の中に其の経費を工夫して兵員を訓練しなければならなぬということを主張したのは、全くの小栗の見識であつたと思う」
前にも話したとおり温厚篤実というより寧ろ剽悍なる人で、議論もナカナカ盛であった」

とりわけ。

「横須賀の造船所を開いたのも小栗の功である。…小栗の考には我国ではどうしても海軍を設けなければならぬ。海軍を開くには唯外国から軍艦を買い入れていてはならぬから、是非自国で製造しなければならぬ。それには造船所や船梁がなければならぬ」

と、造船の功を強調しています。

そんな感じで。小栗さんが「ここの屋敷空いたからお前来い。話を聞くのに便利だ」ということで大鳥を近所に呼んだ、というのもありうるのだろうなぁ、などと。

ちなみに、小栗さんの奥方様も、大鳥と同じ「みち」さんです。

その小栗忠順が権田村鳥川原で斬首されたのが明治元年閏四月六日。六方沢の餓鬼道行軍を経て、山川に出会い、田島にたどり着き、軍を再編しようとしている頃。大鳥が何時訃報を受け取ったのかは分かりませんが、当時の情報速度からいうと今市攻略を行っている頃当たりではないか。あの無理な今市要塞攻防戦の陰にあった大鳥の感情には、もしかしたらその当たりのことが影響していたのかもしれない、と思ってしまいました。


あと、同じぐらいの近所には、阿部伊予守の巨大な屋敷もありました。単純に面積で比較してみるとですが、小栗さんの屋敷って、あれだけ奉行職を兼任した割には結構質素だったのかもしれない。

そんな感じで、当時と今の比較をしてみるというその作業にもいろんな発見があって、いっそう奥深さが味わえました。

当時の地図と現在のものを比較してみると、この界隈の町並み・通りが、結構江戸末期の当時そのままであるようです。もちろん潰れて建物の敷地内に入っている通りも多いですが。このあたりは、関東大震災や東京大空襲にも耐えたのかなぁ、と思いました。

…それだったら大鳥の残していった資料は…。(しつこい)
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2007年01月10日

白虎隊と武器と戦

うちのテレビはつきません。
どうも、アンテナが来ていないらしい。室内アンテナをつければ何とかなりますが。別にテレビがなくても全く困らない生活になってしまっている。

こうなるとNHKも、わざわざ受信料を払ってまで見ようという気も起こらない。無精者です。もうちょっとこう、NHKも「ニーズありき」で視聴者に媚びてないで、公共放送の信念を貫いてくれれば別なんですけれども。
…何様だ、という態度です。すみません。

そんな感じなので、世間の歴史ファンの方々はただいま白虎隊ドラマ一色な感じでいらっしゃって。一人仲間はずれで寂しいです。

だからというわけではないのですが、今回、毒を吐きます。会津ファンの方や会津地元の方には本当に申し訳ございません。謝るぐらいなら書くな、というものではありますが。戊辰戦争に触れていると、どうしてもぶち当たってしまう違和感がありまして。この機会に述べさせていただきます。


戊辰戦争の会津はどうも苦手です。
自分が会津メディアを見たときに、いつも言いたいことが出てきます。
白虎隊や娘子隊の話には、涙はでません。代わりに怒りが沸いてきます。

…女子供を殺しておいて、誇るな。
恥じてくれ。

と。

殉節を美化し、美談を作り上げて小説を売りさばく。あまつさえ観光資源にして地元の収入源にしている。女子供の死をネタに地元が金儲けするとは何事か、と思ってしまいます。

あれこそ、慰霊碑を立て、「繰り返しません」と、恥じながら手を合わせて誓い、そっとしておくことではないかと思うのです。

(まぁ、今でもたとえばアチェに行くと、津波の死者や死体が腐敗していく状態を現地民が撮ったDVDが、外国人の援助関係者に高値で売りつけられて、生き残った人たちのいい収入源になっていたりする。自分が体験してきた恐怖と絶望を売って自分の身の足しにしているわけだから、それはそれで逞しいと泣けてきます。同時代で同じ経験を経て生き残った人間は、死者を食い物にしていいと思う)

男は好きで戦争をやっている、武士は本来戦争をやるための階級なんだから、いくらでもやってくれ、と思います。戦うのも死ぬのもそれをもてはやすのも、別にいいのではないかと思います。

けれども、女子供が戦い死ぬというのは、そういう状況を作り出した側は、行ってはならぬところまで堕ちたと悔いるものではないかと思うのです。旧日本軍しかり。

そして、一旦女子供が戦場に引きずり出されたからには、全力で守るものだと思う。
間違ってもその死を美化して崇めたりするものではないだろうと思う。

白虎隊の面々が、ヤゲール銃という使い勝手の悪い旧式銃で戦わなければならなかったのも、思うところ大きいです。予備兵力に良い武器を与える余裕がなかった、既に当時主流のミニエー銃は払底していた、というのもあるでしょう。けれども、砲身が短いから、非力な少年には持ちやすかったとポジティブに評価しているものの記述もあり、それはとんでもないと思う。

矛盾しているかもしれませんが、いざ少年たちが戦場にでるとなったら、何を差し置いても最新最良の武器を与えたいと、自分が兵站担当なら思うだろうなと。

砲身が短いと射程距離が短い。射程距離は命中率に直結する。射程が長いほど自分の弾は敵に当たり、敵の銃弾は当たりにくい。つまり、砲身が長いほど生き残りには有利。無論それを持ち運びする体力の問題はあり、山野をかけずり回るなら軽い銃のほうがいいというのはありますが。

砲身の短い銃を持つ兵は、猟兵と呼ばれる、機動性を重視して適に突っ込んでいき、最前面に体をさらす、いわば死に頭の特攻隊の持つもの。そんなものは、未来ある未成年に持たせるものではない。

そして、ヤゲール銃は、施条されているとはいえ、ミニエ効果を見込んでいない、口径ギチギチの弾を銃口から力技で込めなければならないもの。(施条されていると玉が回転し、弾道が安定して飛距離が長く命中率が良い。ミニエ効果とは、弾が中空の円錐形をしていると弾薬発火のガス圧により基部が金属膨張を起こして膨らむ現象。発射時に膨張するから弾を筒内径より小さくでき、格段に弾が込めやすくなる)

ヤゲール銃はおなじ施条銃でもミニエー銃よりよほど装填に時間が掛かる。使い勝手がよかったとは、とても思えない。装填に時間を要するとそれだけ敵から弾を喰らいやすい。生き残る可能性は、どれだけ自分が回数を打てるか、つまり装填の早さにも比例する。

また、銃口から弾薬と弾を入れて勺杖でカンカン叩き詰めて、撃ったらカスを取り除いてと、1発打つのに2,3分かかる前装式よりも、後ろからガチャっと弾丸を装填するだけで10秒かからない後装式のほうがずっといい。

それで、少年がヤゲール銃を持っているというのは、藩の調達掛が武器商人に売り先のない使い勝手の悪いポンコツをつかまされてお蔵入りになったものを、どうせ前線にでない予備兵力だし、ないよりマシ、ということで少年達に持たせたのではないか。調達係のポカが、どうも別の方向にすりかえられている気がしてならない。

自分の息子が白虎隊に居たら、兵站に泣き付いて脅してでも息子に後装式を持たせてやれと押しかけると思う。或いは全財産をはたいてでも手に入るものなら後装式を買って息子に持たせる。篭城する山本八重子がスペンサー銃(後装式連発銃)を持っていると知ったら、前線に出る際に彼らにくれてやってくれと土下座して懇願すると思う。

人に殺されるぐらいなら、人を殺してでも生きて帰ってきて欲しいと思う。死んでこいと口では言っても本心から子の死を望むわけはない。生き残ってくれ、そのためにはいい武器を。これが親心だ。

それだけ武器の力、技術の産物は、勝敗以上に生き残りに決定的なものです。なので、銃の種類一つにしても言わずにはいられないものがあります。

平和主義世代がそんなこと言っていいのか、とも思いますが。「人を傷つけてはいけません。たとえ自分が殺されても」なんてことを、身内に、或いは自分自身に強いられるのは、マハトマ・ガンジー級の偉人だけだと思う。
平々凡々たる自分は、武器を向けられても無害でいなさいだなんていう独善など、とても人様には押し付けられない。自分と、自分の大事な人は生き残らせたいと思う。それが人間の本音でしょう。


それ以前に、そもそも、女子供が銃器を持って戦わねばならない事態になることが異常だ。

少年はいずれ武士となり戦うために、婦女子は家族を守り夫を支えるために、常に心身を鍛える必要がある。そうした武家の教育を受けて自己を研鑽してきたた女子供が、戦場に出る。どうにもならない玉砕戦まで追い込まれたときは当時の観念からいってもそれは仕方がないのでしょう。

けれども、士道は、本来戦う階級のあり方からかけ離れた江戸時代の太平楽の儒者が昔を夢想しながら考え出した理想観念にすぎない。そんなものを押し付けられて女子供が戦場に出ることを今になって賛美するのは、やはり違和感が大きい。本来戦いは男のものだ。女子供が戦しなければならないのは、国が、男が、力不足だからだ。

国破れて山河あり。国は滅びても人は生きる。
男は国と共に滅びても、女子供が次の世代の国を作る。次の世代のために守らなければならないものがある。作る人間守る人間は、壊しても壊されても、いかんと思う。生き物として。

女の「生んでやるから守れ」、子供の「将来があるから守れ」というメッセージは、雌雄に分かれた成長する生き物なら皆放っています。女子供を守れないのは男として情けないことだと。それはもう連綿と続く生き物の歴史の前提だろうと。どんな精神性でもお為ごかしでも、そこは担保してほしいと感じるのです。

そりゃ今の女は強いというか態度が大きいですし、フェミニズムといういびつな逆転現象も起きてますし、女が戦ってこそ勝ったベトナム戦争みたいなのもありますし、保護しすぎて子供がおかしくなっているとかもありますけれども。その辺は歴史の例外として脇においておいてですな…。

こんな後の時代のぬくぬくしたところから偉そうにのたまうのは反則なわけで。当時は当時の事情があった、というのは無論です。当時の人はもう、仕方がない。彼らは自らが育てられた価値観に従って彼らの最善を尽くした。それは凄いことだ。骨なし根無し現代人としては羨望にすら値する。彼らを美しいと感じる心は自分にも確かにある。自分が当時そこにいたら、何も考えずに自らの保身ばかりで、ただ逃げ回っていただけだと思います、実際。

…と結局自分も賞賛しているんですが。

女子供が死ぬ羽目にまでなった会津の敗因は、要するに為政の失敗なわけで。戦の条件として、生産力は落ち、領民が塗炭の苦しみを舐め、武器は整わず、農兵は疲弊してやる気が皆無だった。その状況で戦に没入した意思決定者、すなわち藩主と家老が悪い。それは少なくとも見てほしいと思うのです。官賊云々とは別の次元で、為政者が人々に対して負う責任の所在というのはあるだろうと思うのです。

当時の価値観と今の考え方は全く違うし、今の価値観で当時を云々するのは履き違えた傲慢だろう、とは思います。

でも、だからこそ、ただもてはやすだけの今の人間に対しては、思うところが大きかったりするのです。

彼ら彼女らは、アイドルではない。被害者だろう。
と。

彼ら自身は自分達が被害者だとは決して思ってないだろうにせよ。

各史跡や会津まつりのように、有形無形の形で歴史文化を伝えるのは、なくてはならないことだと思います。

ただ、「祖先を自慢するのは子孫がだらしない証拠だ」という、ある小説家の言葉が思い浮かびます。

歴史からよき姿を読み取り伝えるのは必要なことですが、同時に多面的に見ながら、悔いるところは悔いることもまた、不可欠だと思うのです。
良い姿ばかり強調して美化して持てはやして商品化して地元の価値を上げるというようなあり方には、首をひねります。

えっと、会津自身は大好きです。うまい米と酒と、えもいわれぬ温泉と、季節の風情情緒のある、素晴らしい土地だと思います。

やかましくてすみません。今日は力尽きましたが言いたいことはまだあったりして。世良修蔵の今の捉えられ方などにしても、やはり違和感が大きいです。
明日、続きを行きます…。
posted by 入潮 at 03:30| Comment(5) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月11日

カタカナへの反発

連休中に会社の同僚が家を冷やかしに来てくれました。ついでに溜め込んでいた、ラオスやらモンゴルやらトルコやらブータンやらの酒を空けました。胃の中にも床にも。家の中が酒臭い。
ついでに、ドアのサッシの木が腐っていて、乱暴な連中に容赦なく開け閉めされ、ガラスが外れてしまいました。サッシはボロボロでもはやガラスは固定できず。寒風が吹き込んできます。しょうがないからガムテープでガラスを止めています。いつガラスが吹き飛ぶか怖い。
…戦争直後の家もこんな感じだったのかなぁと、在りし日に思いを馳せています。
多分この家も戦後すぐに建てられたものだろうから、丁度いいのでしょう。

暴風雨が来ませんように。あと地震も怖い。この家に居ると、忘れていた自然への畏怖を思い出して、人間としてはいい感じです。

えぇと。
カタカナ連発への反発。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070107-00000090-sph-soci

塩崎官房長官の「センシティブ」「エクスパティーズ」「キックオフスピーカー」など、記者会見でのカタカナ言葉に対して、記者が当惑しているという記事。
スポーツ新聞なのですが。これを書いた記者の気もちは分かる。

カタカナを多用するほど、頭はあまりよろしく見えないと思います。
…といってしまうと、また語弊があるのですけれども。

やっぱりカタカナに頼るのは、楽、というのがあります。
いったんカタカナで仕入れてしまった知識は、そのままカタカナで使うほうが簡単なわけで。新しい概念のカタカナ語は抽象的なことが多いだけに、用法をきっちりしようとすると、無駄に長くなります。

槍玉に挙げられている「ウィン・ウィン(Win-Win)の関係」とかもよく使います。「ある事業を実施することにより、勝者と敗者に分かれるのではなく双方が利益を受けるような関係」とかいちいち言っていられない。

会話がカタカナの羅列になることもよくあります。

「スコープのデマケはディスカッションしてください」
→「客先から指定された作業項目の役割分担は、話し合って決めてください」という感じで。そう言えばいいのに、というところですが、同業者相手だとついやってしまいます。

カタカナのままだと概念の部分が強調されるので、より言いたいことが端的に伝えられると勝手に期待している、というのはあります。但しそれは相手がその用語を理解しているという前提の上であって、同じ業種で気心が知れた相手に限るものなのではないかと。相手が一般の方とか見知らぬ人の場合は、多用すると「何コイツ」と白い目で見られるだけかと思います。

カタカナ言葉も、それをちゃんと日本語で説明できて初めて自分の言葉になる。
カタカナばかりでそのまま使っている限りは、他人に理解させる気がないのではないかとすら思われることがありますし、何より本人が本質を理解しているように見えない。

小泉元首相は、このカタカナ言葉が嫌いで、厚生相時代には省内からのカタカナ言葉追放のための検討委員会まで設立したり、首相になってからは英語を多用する答弁をした閣僚に「分かりやすく表現しろ」と叱ったりしたらしい。それ以降、役所内では日本語表現に重きを置いた一方で、漢字が並ぶ「戒名」のような用語にまみれて、余計にわかりにくくなる弊害も出たのだそうな。

それはそれでやりすぎというか。
議員の書記さんたちや省庁のエリート官僚の方々が、いちいちカタカナにチェックを入れて適当な日本語を当てはめるのに四苦八苦されている様を想像すると、ほほえましい。

とにかく、日本語にするにも、相手にわかりやすく、というのが重要なのでしょう。
分かりやすく表現するというのは、簡単ではない。言葉の本質を捉えてきちんと理解した上で要点を抽出せねばならない。間違ったイメージを与えてはならない。大雑把にみえて厳密。これがとても難しい。
簡単な表現が出来るほど頭がいい人だというのは、話し言葉も文章も同じことかと思います。
そして言葉の美しさは、単純で簡単な表現にこそ宿るのだろうなぁと思います。

言葉は生き物で、日々新しいモノや概念が生まれていますから、変化を取り入れて時代と共に変わるのは当然。変わっていく言葉についてそのまま外来語で取り入れるのではなく、外来語の意味を理解し、それにふさわしい日本語を当てはめて、いかに土着化させていくか。

もともと日本語は、とても包容力のある言語だと思います。
カタカナに対して単に拒否反応を示すのではなく、カタカナ語を内包して周囲にわかりやすく自分のものにしていくか。それが日本語を用いる者に求められているのではないかなと思いました。


ただ、カタカナ言葉も、結構面白いというか、使っていて楽しいことがあります。
カタカナを使うことにより、妙な同業者意識というか、仲間内の閉鎖的なやり取りができるとき。

「サチる(=saturate、飽和する)」とか、実験室の化学屋さんは好んで使っているかと思います。ある薬品が水などにこれ以上溶けない、という状態。頭が過負荷状態で、これ以上詰め込まない、働かない、というときに泣き言として言うことが多いです。今はネットワーク専門の人たちが、通信過多で帯域や性能がいっぱいになるときにも使っているようです。

「エマる(Emulsify、乳化する)」。よけいな界面活性物質(洗剤)が存在してしまい、本来混ざらないはずの油と水が混ざってしまうこと。「エマった!また分離時間が掛かる、やりなおし」と頭を掻き毟ったり。

「ネグる(=neglect、無視する)」は、いろんな分野の人が使っているとは思います。誤差が無視できる範囲でそれ以上計算で厳密性を求めないで行こうというとき、「ネグれ!」とか言ってます。大抵、それ以上面倒なことはやりたくないときに使う言葉です。

それも、相手が同じクラスとか部署とか研究室など、専門分野や作業を共有している人にしか通用しない言葉。一見知的を振舞いたいのだけれども、ふたを開けてみると単なる泣き言。それを使うことによってお互いの結びつきを確認して、お互い情けないなぁと感じることにより、より親密な関係を作り上げられる。そんな秘密結社的な楽しみ方。

結局言葉もTPO、時と場所を考えて使い分けるのが一番ということでしょうか。

…えっと、新年スタートで早速沈没しかかっています。
業務が押寄せているのに、疲れた体で新年会という名目でまた飲む。
さらに、帰宅してから、連中が残していった大吟醸が畳の上で存在を主張している。
日本語にしてもろれつが回っていません。カタカナより何よりまずまともな言葉をしゃべる状態を作らねば。
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2007年01月13日

掲示板と並行

ブログへの移転の理由は、掲示板形式よりブログのほうが見やすく、操作性がずっと良いというのと、掲示板CGIを置いているサーバが不安定だったからということ、それとスパムを退けやすいという点でした。

けれども、元の掲示板のほう(http://members2.tsukaeru.net/irisio/cgi-bin/zakki2/board.cgi)への書き込みと並行していきたいと思います。

一部ブログのドメインにアクセスできない国があり、自分もそこにいく可能性がなきにしもあらずということ、ブログは重いので通信事情の悪い国からのダイヤルアップからは開き難いことなど、およびバックアップのため、などからです。

普段は先にブログに書き込み、後から掲示板のほうにまとめてコピーペーストで入力していくので、掲示板のほうが2,3日書き込みが遅くなることになると思います。
ただ、出張中などは、先に掲示板のほうに書き込み、アクセス状況が良くなったらブログに移していく、というやりかたになると思います。

掲示板かブログのどちらかを一方を見ていただければ十分ということで、便利なほうをご参照いただければと思います。
見てくださる方がいるというのは本当にありがたいことです…

(それにしても国からのアクセス制限というのは困ったものだ。昔居たミャンマーでは.netや.go.jpなどのドメインにしかアクセスができず、肝心の.comやco.jpが開けず、自分の会社にもアクセスできないという状態でした。国の情報統制なのですが、.netにも変な情報はあふれているし、あまり意味のないことだなぁ、と。
それ以前に9800bpsという極遅でブチブチ切れる回線だったわけで。情報収集には難儀しました。情報通信インフラの存在はまったく貴重です。)
posted by 入潮 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | はじめに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月15日

江戸東京の地図

今日は無理やり仕事を休んで、バイクと自転車で東京の中をフラフラしていました。

本日の行動。
江戸東京博物館→北区中央図書館→現代マンガ図書館内記コレクション→銭湯。

だいぶ道を覚えられるようになりました。今まで何度か地方から来たことがあったのですが、必ず迷ってました。こちらは国道の番号でしか道を辿っていないのに、青看板は何とか通りとかなんたら橋とか、見たこともない地名ばかり指示する。なんと余所者に辛い土地なのか、と思っていました。

今もその考えは変わっていません。なんて複雑奇怪な道をしているんだ、東京。江戸住民など標榜したのが間違いでした。余所者田舎者の本質はいつまでたっても変わりそうにありません、が、とりあえず通りと橋の名前は覚えるように心がけたいと思います。

おさらい。

国道4号「昭和通り」は、明治通りとの交差点から、「日光街道」になる。明治から先は日光、と覚える。
国道6号は「江戸通り」で、隅田川の言問橋を渡ると「水戸街道」になる。
「日本橋」は要所。国道4号が終わり、南にいくと国道15号になる。国道1号が始まって大手町から皇居を1/4周して桜田門から南へ伸びていく。

国道17号本郷通りのややこしさはどうにかならないだろうか。南北東西きざぎざに走っているので、出くわすといつも迷う。駿河台散策の敵。

…なんだか自分が迷わずにいられるようになる気がまったくしません。

江戸東京博物館は、徘徊用の地図目当て。あそこのミュージアムショップは、こと江戸に関する限り、そこいらの図書館よりよほど品揃えがいいです。なお、ショップだけに入る限りは、入場料はいりません。

明治2年の江戸地図が、廊下になっていて閲覧者に踏まれていて、それが売店で売られていたのを2,3年前に見た覚えがあり、今回求めにいったのですが。今は取り扱いしていないとのこと。残念。

その代わりに明治11年6月の内務省地理局地誌課発行の地図を購入できました。
地理局は明治7年に地理寮が発足してから、明治10年に地理課が編成されたもの。地誌課発行の地図は明治11年6月発行で、「本局測量課実測図二基ツキ都外村落ノ如キハ東京府の丈量スル所二拠リ之ヲ製ス」とあるので、江東京中心部の測量は多分測量課の最初のまとまった仕事なのだろうなぁ、と。

監修には塚本明毅、製図には赤松範静の名前が載っています。
塚本は長崎海軍伝習所一期生で、軍艦操練所教授、及び軍艦頭並。江戸明け渡し後は駿府へ移住し、沼津兵学校の算術の一等教授。『筆算訓蒙』を記している。廃藩置県に伴い兵部省で兵学大教授に。
赤松は元幕府軍艦奉行。
双方、旧幕臣のブレーンです。

なお、荒井郁之助が明治9年6月に開拓史を辞任した後に、1年経って翌年の明治10年8月に内務省出仕、12月に地理局測量課長に就任しています。荒井さんは直接はこの地図の測量には関わっていないかもしれませんが、管理職として監督はしたかも。

内務省の測量・地図という特殊技術が必要な分野でのこういう顔ぶれを見ると、いかに技術と行政知識を持った旧幕臣の力が当時の政府に必須だったかということが、伺い知れます。

あと、「歴史探訪に便利な日本史小典」という手帳を購入。
これ、すさまじく便利です。タイトルに偽りなし。
年号と読み方、十干十二支の紀年法(1867年=丁卯など)、西暦から干支の計算方法、天皇・大老・老中・内閣総理大臣在職期間リスト、官位相当表(従五位=頭=少輔など)、国県と五畿・七道の対照、主要街道と宿場、貨幣、方位・時刻、月の異名、紋章、人口の推移、くずし字・異字・略字一覧……
探訪だけではなく普段の文書読みから活用できそうです。いい買い物をした。

北区図書館の収穫物と、現代マンガ図書館については、また後日触れます。
銭湯…はどうでもいいですが。通勤路を入れると、1ヶ月ぐらいは毎日違う風呂を楽しめることが分かった。楽しい。

そんな感じで、江戸が楽しくてしかたがないです。仕事に行きたくない。
posted by 入潮 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月18日

不二家とマスコミと日本人

袋叩きですなぁ、不二家…。

雪印のときもそうでしたが、自分は不二家に同情します。

無論、不二家が悪くないとは思いません。悪いものは悪い。賞味期限切れの材料を使ったことも、不祥事の公表の時期を遅らせたことも、社会的通念から言えば、悪い。

…でも、そんなマスコミがこぞって非難し、一般人がそれを拡大再生産して酷い酷いと罵倒しまくるほど、「悪」なのか?という気もします。
幼児殺人やら国事犯やら詐偽やら、誰が見ても倫理的にも感情的にも非難せねばならないほどのことでもないだろう、と感じるのです。

不二家の行っていたことは、言ってみれば、どこの企業でもどこかお目こぼし的にやっていても何もおかしくない。

だから、いったんやり方を守っていないということの一つが明るみになって、ちゃんと調べてみたら、次から次へと芋づる式に違反が出てくる。それも当たり前だ、と。
多分、同業者はみんな肝を冷やしているんじゃないかと思います。そして、「自分のところでなくて良かった」と思っているのではないかと思います。


こういうと語弊があり、非難囂々のお叱りを受けるかもしれませんが。正直なところ、自分はこう感じてしまっています。

賞味期限がなんぼのものだ。
それより問題なのは、食って壊れるような軟弱な体になる過剰な安全性を求めている国民性のほうなんじゃないのか、と。
さらに怖いのは、自らの生き物としての弱さを棚に上げて企業の悪を責めて正義に浸る独善なのではないのか、と。


別に私は、不二家の廻し者でもなんでもありません。食品メーカーとの繋がりもありません。実家は肉屋ですが家とは縁切られ状態ですでに10年以上経っています。

えぇと。まず、賞味期限とは、JAS法で「その製品として期待されるすべての品質特性を十分に保持しうると認められる期限」で、その期間内であれば美味しく食べられる、というもの。これが、食品衛生法で「品質保持期限」(品質の保持が十分に可能であると認められる期限)と同じであるとされる。
「消費期限」(腐敗、変敗その他の食品又は添加物の劣化に伴う衛生上の危害が発生するおそれがないと認められる期限)とは別です。

つまり、賞味期限は、十分おいしいと感じられる期限であり、賞味期限内なら十分安全なので、それを表示することにより、安全側にとったものです。食品自身の安全、「食えるか、食えないか」の観点からみれば、安全過剰ともいえるものです。

自分は、牛乳も1週間ぐらいの賞味期限切れは気にしませんし。今日(1月18日)食べたうどんの賞味期限は1月6日でした。卵も1、2ヶ月ぐらい賞味期限が過ぎても、火を通してだけど、食う。

牛肉など、自分が子供の頃は、半月ぐらいおいておいて色が変わったぐらいのが、熟成しておいしい、と教えられたものです。(そして売れ残りを食わされた)。

更に言えば、うちの母親は、私に手洗いとうがいという習慣を教えてくれませんでした。汚い手のままモノを食います。落ちたものも拾って食います。
おかげで、不衛生に鍛えられ、20年間以上ほとんど風邪も引かず無欠席・無欠勤が続き、どんな国でもとりあえず生きていける体になりました。まさに「動物のお医者さん」の菱沼さん状態です。

ついでに、店の手伝いで、-20℃の冷蔵庫と30℃の外気をいったりきたりとか。寒風の中カブの後ろに乗って配達を手伝わされたりとか。20kgの米袋背負って買い物とか。よくやってました。

…今思うと、児童労働に交通違反に不衛生か。酷い親がいたもんだ。

でも、冷蔵庫の温度差は気持ちよかったし、カブのスピード感も好きだったし、米袋運びも力試ししているようで面白かったし。喜んでやっていた変な子供だったというのも確かです。現代人じゃなくて、江戸時代の丁稚奉公に近い育ち方だったかもしれません。。

もっと小さい頃は一度風邪を引くと2週間は寝込み、幼稚園にもほとんどいけなかったぐらいの虚弱体質でしたが。母の容赦ない教育(?)が、今の自分を作ってくれたのだと思います。一抹の疑問も感じないでもないですが、基本的に感謝しています。

そんなわけで、自分は1週間ぐらい置いて濁った麦茶も平気で飲みます。濁っていると、10の7乗程度まで細菌数が増えていると考えていいです。なので、不二家が「1万個以下/gと定められている細菌数の社内基準に対し、当初細菌検査では100万、いわゆる10の6乗のオーダーが検出されたと発表しましたが、実際のデータの細菌数は640万個/gでした」と発表して責められてても、まぁたしかに600万は多いかな、と思いますが、そんなに大したことでもないと思います。

余談ながら、菌を扱っている人間は、乗数のオーダーでモノを考えます。1x10の6乗が、6x10の6乗になっても、若干増えたかな、ぐらいで、規模的には同じようなものだと考えます。細菌検査の担当者もそんな感覚だったのではないかと思います。

別に細菌といっても、生きていて呼吸してモノ食っていれば、常に絶え間なく体の中に取り込まれるものです。ただ、体にとって有益なもの、無害なもの、有害なもののがあるだけ。細菌数が増えると、それだけ有害なものを取り込む可能性も増えてしまう。

たとえば日和見感染症や院内感染を起す緑膿菌とか、HIVのカリニ肺炎とか。(カリニは原虫ですが) 健康だと全く体内に取り込んでも支障はないけれども、抵抗力が落ちると病気の原因となる。
大学時代は、10の7乗〜8乗個/gの高濃度の緑膿菌を日常的に扱ってましたが、別になんともありませんでした。
食中毒というのは、季節が変われば普通に細菌は増えて起こりやすくなります。普通に生きていれば、年に1度や2度、ハラも壊します。どんな食べ物でもそれが自然です。環境は絶え間なく変わるものなのだから、下痢ぐらい起さないほうがおかしい。それを不自然な方法で留めているのが食品の「安全」だ。

江戸時代の武士の欠勤記録をみていても、1年の1/5は、腹痛だの風邪だので休んでいます。でも何が悪いとは言われていない(病気とは別の理由があったのかもしれませんが)。そもそも年がら年中、ベストのコンディションで動けると思うほうがおかしい。

それを、いざ食中毒といって企業のせいだけに押し付けるのも、なんだかなぁ、という感じがします。

本当に問題になのは、自然のものを食べていても食中毒やら何やらを起こし、それを企業が悪いと責任転嫁して自分の体を強くしようという意識にならない国民性なのではないか、と感じたりする。

モノは悪くなる、腐るのが自然。それを留めて安全にするのは、輸送も時間も添加物も、すさまじいエネルギーと環境負荷を要求するわけです。

ただ、ごく一部の悪性病原菌は問題なわけで。そういうのの混入を招かないために食品会社は涙ぐましい努力をしているのですが。その努力がやって当たり前、になっている。


安全への希求は、食品にせよ住居にせよ交通にせよ、留まるところを知らない。年を増すごとに大きくなっていく。

ただ、安全に守られすぎるのも、人間を弱くします。
無菌状態の温室にしばらくいた人間は、一度外に出ると容易に風邪を引き病気になります。体に入り込む細菌がないと、自然に免疫力が衰えていく。抵抗力をつけていくためには、どんどん細菌を取り込んで、汚れるほうが良い。汚ないモノを食うほど、不衛生な環境にも耐えられるようになる。
走らない人間は、どんどん足腰が弱くなり走れなくなる。早く長く走ろうと思ったらランニングで鍛えるしかない。それと同じ。

日本人って、あれだけ海外でハバを利かせている割に、日本以外では生きていけない観念を持っているなぁ、と思います。人間が生きている限り、どんどん汚くなるのが当たり前。安全でキレイにするというのは、ものすごいエネルギーの投入が必要なわけです。金がなければできません。安全でキレイというのは、とてつもない贅沢です。

中国に行けば、10個買った肉饅頭のち、2,3個は大抵腐っています。
市場に行けば、肉が真っ黒に見えるすさまじい密度でハエがたかっています。

それでも、人はそれを食って生きています。
でも、多くの温室育ちの日本人はそこでは生きていけない。
世界からみると、日本人の抵抗力のなさは異常だと思います。

日本人は、自分達の安全と快適がどれほど贅沢なもので、同時に他の見えないところにどれだけの負担を強いているか、ということについて、もう少し自覚的になってもいいのではないかなぁ、と思います。

そりゃ、安全な食品のほうがいいに決まっています。企業に守って欲しいクライテリアはもちろんあります。
そのために、企業の監視は必要だと思います。それに、安全でない食品など買う消費者はいない。だからメーカーは買ってもらうために安全にする。それが、安全な品を提供するのが企業の社会責任である、という認識になった。

けれども、そこばかりを重視して、すべての責任を企業に押し付けて、自分たちが世を生きる生き物として鍛えないといけない根本的に大事なところが置き去りにされているのではないか、とも思うのです。

もちろん、一週間風呂に入らないほうがいいとか、腐ったものを食うほうが良いとか、そういう極端なことを言う気もありませんが。程度というのはあります。

雪印のときにも思ったのですけれど。
安全や品質に対する社会からの要求が高まって、どんどん、企業に対する締め付けが厳しくなっている。それを対応するためには、莫大な追加コストがかかる。
企業がその社会責任の要求をくそ真面目に満たしていたら、正直、そんなので収益なぞ出るはずがなくなる。収益がでなければまともに給料は出せない。

そこで企業がとる道は三つ。

徹底的な効率化。
社員に、過酷なサービス労働を強いる。
あるいは、ズルをする。

上の三つ、どれも程度の差はあれ、どこの会社もやっているのではないかと思います。

以前に比べて、社会の要求を満たすためには作業量は激増する。それで同じだけの収益を上げようと思ったら、効率化にも限界がある。効率化のための仕事というのも発生する。でも会社は収益を出さねばならない。決算期にはマイナスを出した部は痛めつけられる。管理職の給料は減らされる。結果、社員がサービス残業やら過剰労働やらで泣きを見る羽目になる。

無論、企業は社会にとって、誠実であり、善でなければならない。
けれども、ここまで達成していればいいレベルというのがあると思う。どこまでも安全、どこまでも高品質、どこまでも透明、というのは、果てしのないコスト、つまり作業量を要求する。どこかで妥協しなければならない。
一方で世間は、いったん知ったからにはこの妥協を認めない。どこまでも「善」を突きつけてくる。知らなければそのままで済ましているだけ。

一サラリーマンとしては、正直、行き過ぎた世間の独善に付き合って過労死するのは、真っ平御免だ、という気分もあります…。


そして、こうした善を要求する世間が、多くの不幸を作り出している、という側面があると思います。

談合にも似たような感じを受けていたりします。
談合は、そんなに糾弾されるほどの社会悪か、と思うのです。
談合が行われなくなると、一見、競争がおきて確かにコストは下がる。我々の税金が効率的に使われるようになると思われる。

けれども、コストが下がり続けると、いい加減、効率性を求めるにも限界が出る。大体、収益の出ないきつい仕事に対して、社員のやる気は起きないし、いい仕事をやりたくても会社がそこに労力を注ぐことを認めてくれない。そして、できるだけ省力化、つまり手を抜こうとする。
結果、設計のミスや瑕疵が生じやすくなり、材料の投入が過少になり、安全性が確保されなくなっていく。
そして、建設会社・工事関係者は大量にリストラされる。そこに賃金の安い外国人労働者に取って代わられる。正社員は首を切られ、会社に対して責任感の乏しい短期契約者が主流になる。

そのうち、5,6年もしたら手抜き工事被害がでてくるんじゃないかと思います。
また、ゼネコンは大量の労働者を吸収していますが、建設会社に余裕がなくなると労働者が首を切られ、大量の失業者が出る。

えてして、下層市民とわめき立てる方々が、同時に談合を非難していたりしますが。自分達が独善的なイデオロギーを口にすることにより、同時に自分たち自身がその下層市民を生み出しているのではないかと。

そして、マスコミは、一方で企業悪を糾弾し、その一方でサービス残業を非難する。そしてその新聞社やテレビ会社自身が労働基準法無視の労働を従業員に強いている。そこを「ダブルスタンダード」なんて格好良い言葉でごまかしている。

そりゃ、悪性病原菌の混入を招いて大量に死者を出すとか、手抜き工事をして震度5程度の地震で被害を出すとか、社会的に決して許されないレベルというのはありますけれども。

昔は公害がその槍玉だった。水質汚染も大気汚染も、それを起した企業はさも悪し様に罵られて、裁判で痛めつけられ、多額の補償の支出を行った。
その教訓を受け、今はどの企業も環境と企業倫理と消費者からの信頼を重視するようになり、なかなかマスコミが攻撃できるところが少なくなってきた。だから、雪印や不二家のように、今までお目こぼしされていたちょっとしたズルにまで、いったん尻尾が出てしまうと、それがさも人類の敵であるかのように引っ張り出され、あげつらわれるようになった。

今の指標は安全に安全を重ねた過剰防衛的なものだし、不二家が違反していたのは自分達で作った「社内規定」に対してだし、現場の人はそれを分かっているから、多少規定を超してしまってもいいんじゃないか、というズルな気持ちも生じるわけだったのではないかと思います。
それに、1日「賞味期限」が過ぎたら、その材料は全部捨てなければならない。下水に流す、ごみ処理にするにしても、それだけ処理にエネルギーが掛かる。地球環境にも負担をかけるわけです。膨大なムダです。効率性からいえばとんでもないことです。それで、1日ぐらい、まだまだ全然使って現実として大丈夫だというのなら、それを使ったことに対しては、現場で注意すればいいというレベルで、社会がよってたかって悪し様に罵ることでもないだろう、と思うのです。不二家のやったことは、確かに、悪いことは悪いですが、「決まりを破ったのはちょっとマズいね」というレベルで、喧々諤々に非難しなければならないことか?というのが正直な疑問です。そんなに社会は悪人が欲しいのか…と思ってしまうのです。


そんなわけで。
「日本人」というと、ガチガチにガードされた温室の中から、自分達の安全を少しでも脅かす者をガミガミ糾弾する。そしてその温室のための資源とエネルギーを確保するために環境破壊が行われる。その自分達のための環境破壊を自分達で批判して正義を振舞っている、なんだかなぁ、な集団。

…という図式が見えてしまうのは、その日本人の一員としては、どうも居心地よくないです。


人は、自分が安心して生きるために「悪者」という犠牲の羊が必要らしい。
何かを非難して自分の格を上げることが、精神衛生には良い。
そのためにとことん要求される安全。
肥大化する正義。
魔女狩りは、社会の安定には必要。

そんなことを感じてしまって、自分は、企業よりマスコミと大衆社会のほうが怖くなりました。

多分、自分と同じく、「自分のところでなくてよかった」とこっそりと胸をなでおろしながら、じわじわした落ち着かなさを感じている方も多いのではないかと思います。食品に限らずモノつくりに関わっている方々は、呑気では居られないと思います。

一方で、素直に不二家を責めていられる方々は、幸せなんだと思います。


……実は不二家や雪印より、もっと国や人類存続にかかわる大問題があって、それから大衆の目をそらせるためにあえて過剰な糾弾を行っているのではないか。
とか、思ってみるあたりは、小説の読みすぎです。

私はカントリーマァムが大好きです。
不二家には、消費者信頼を回復して、しっかりと復活してほしいと思います。
不二家社員の皆様、世間の逆風に負けず、がんばって下さい。
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posted by 入潮 at 03:35| Comment(8) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月24日

ねつ造への反応

なんでまた、テレビのお茶の間番組のデータ捏造は、悪し様に取り上げられて打ち切り騒ぎにまで及んでいるのに、歴史の人物像や出来事の捏造は、ごくごく限られた人しか気にしないのでしょうか…。

前者は、そんなものがあろうが無かろうが、今まで伝えられてきた食品の性質や効能には変わらない。ただ数字で分かりやすく示せたかどうかの話で。関係者が頭下げれば終わる話だと思うのだけれども。

後者は、人や家の名や誇り、自分の国の評価や価値観の根幹、民の心のよりどころにも関わることだと思う。

その割に、歴史研究家とか評論家とか時代考証担当とか郷土研究家とか作家とか仰る方も、それを行うことに憚りがない。(自覚的かどうかは置いておいて…)

誰かさんが誰かさんを暗殺したのだという邪推だとか、とある長州の方の人物像を極悪非道に書き上げるだとか、誰かさんが実戦経験なしだとか机上の戦略家だとかの小さなことから(いや、私としては全然小さくないですが、笑)、大戦中に沖縄で一般人の集団自決が軍から強要されたというような国辱ものの自虐的捏造まで。

根拠のない妄想や願望や流言に基づいて人の名を傷つけることは、たとえば墓を傷つけるよりよほどに性質が悪いと思うのです。

墓は金さえあれば修理もでき作り直しもできますが、人の名は、一度イメージが損なわれたら修復はとても難しいですから。

いわんや国の名をや。

別に社会問題として認知して世間で騒いでくれとは全く思わないのですけれども。

なんだかなぁ、と思うことが多いです。

(いやそもそも、大衆は単に何かを責めることさえできれば対象は何でも良くて、不二家も納豆もたまたまその犠牲になったというだけのような気もするけれども。それを言っちゃおしまいよ、ということで)

(それにその、自分も偉人のイメージを損ねるようなことを書いてしまっている罪悪は常に携えているわけで。手前に指差されると申し開きにも苦しい状態ではああるのですが。少なくとも根拠は明らかにできるようにしたいと思っています…)
posted by 入潮 at 03:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月26日

「痛恨の江戸東京史」記事

「文武両道の大鳥圭介を明治政府は活用できなかった」

という、おや?と一瞬首をかしげるタイトルの記事が、「都政研究」という業界雑誌の2005年5月号に掲載されていました。
「都政人・区政人の情報誌」というサブタイトルがついているように、役所の行政の方々やその関係者のために政治経済社会に関連した情報を発信する雑誌です。

著者は作家の青山やすし氏。毎月、「痛恨の江戸東京史」というタイトルで、幕末や明治の人物を題材にエッセイを書いておられました。

「江戸を戦火から救った勝海舟、明治を不遇に生きる」「明治政府はボードワンの都市公園提案を半分しか生かせなかった」「後藤新平の震災復興計画、大幅に縮小」「市町村制度を作った山県有朋、国民に理解されず」…などなど。

タイトルがタイトルなので、まず、江戸・明治政府の至らなかったところを批判するような見出し。なので、江戸・明治を肯定したい側から見れば、結構反論したいことが出てくる…かと思いきや、そうでもありません。基本的にこの方、江戸明治がとても好きなようです。「もっとこうすればよかったのに!」というような思いが伝わってきます。

それで、大鳥圭介ですが。大鳥の生き方を通して、最初に著者は江戸と今の時代を対照させています。

まず、情報について。
圭介が近隣の村医師から蘭学を学び、生理学、物理学、植物学、病理論、解剖書、解体書などを読み漁って、これらをかなりのスピードでマスターしてしまった。そのときに「日本の赤穂の村の青年が『これからは西洋医学、蘭学の時代だ』と考えたことは興味深い。幕府が全く情報を流さなくても、そしてテレビやラジオ、インターネットがなくとも、世界の状況は日本の農村にも少しは認識されていたのだ」

と、情報伝達について先ず触れています。

メディアが無くても、無いからいっそう、重要な情報は口コミに重きが置かれて、確実に、広く伝わったのではないかと思います。
今はそのテレビやらインターネットやらが有るので、人の口を頼らずとももいくらでも情報は手に入りますが。どこか、無味乾燥というか、リアリティが無い。四角い画面の中の文字の羅列を、手遊びにしているだけのような感じ。しかもジャンクな自分に関係のない情報も多すぎて、どうでもいいものでもマスコミが騒ぐから、それが重要だとなんとなく勘違いしてしまう。情報の量は格段に増えたけれども、それを取捨選択し、是非を判断し、自分に必要なものを重みを持って受け止め、そのために自分が動く、ということがあまりない。

けれども、人の口から伝えられるものというのは、直接自分たちの生活に関わるわけで。一つ一つの情報にも、ずっしりとした重みがあったのではないでしょうか。またそうした口伝えの過程で、人と人との結びつきが日々醸成されていく。情報の伝達は、今よりももっと濃くて瑞々しいものがあったのではないかと思います。

その中で、閉ざしていたお国の扉が、外から無理やりこじ開けられて大砲を突きつけられた。それまで親しんできた法則とは全く別の考え方がなだれ込んできた。それがいかなるリアリティをもって村々を飛び交ったかは、想像に難くありません。

儒学を学んだだけの田舎の一青年であった圭介が、これからは蘭学の時代、と捉えられたのは、本人の素質や敏感さもあったと思いますが。中島先生から借りた本をめくりながら、生きる場が変化に揺れた、全く当たらし考え方を取り入れる必要があると、いやおうが無く時代の軋みに放り込まれたということなのではないかと思います。

そのときの圭介青年自身は、どうこうせねばならない、というような使命感に打たれたというよりは、単に「世の中こんな面白いモノがあったのか」という好奇心が沸騰しただけだと思いますが。なお、圭介の好奇心は、いつも社会のニーズと一致しています。時々それが20年ぐらい後のニーズだったりしますが。

次は、教育について。

「圭介は早起きして蘭書の原書を写本するアルバイトをして、これもまた勉強になった。当時、蘭書の原書はなかなかなか手に入り難いので、裕福な学生は圭介のように金の無い学生を雇って、借りてきた原書の写本を作っていたのである」

と圭介の貧乏を強調して下さっている。
大体、誰かにノートの写しを頼んだりすると、写した本人の頭には良く入るけれども、肝心の頼んだ本人は、写しを得た時点で満足してしまって、あまり頭に入れなかったりしますが。この当たりの写本バイトも、彼の後の素養になったのでしょう。手を動かした者勝ち。

そして、江川塾に教授として招かれた際についても、著者は黒田清隆や大山巌の薩摩藩留学生の存在にもきっちりと触れて下さっています。

江戸末期の、武士ではない階級の者が自由に入学して学んでいた私塾。教員も基準や学歴ではなく実力主義によって採用され、武士階級には属しない者でも学力があれば武士を教えていた様子を指摘。

「多くの青年が幕藩体制の下で、幕府や藩の枠に捕らわれず、また、勤皇か佐幕に捕らわれず、互いに交流して切磋琢磨していた。いわば、今のアメリカなどで見られる社会人を対象としたビジネススクールのようなものだ。管理社会となった現代のほうがよほど江戸時代よりその種の私学教育が制度化されていて、自由度が制限されている。その結果、教員の資格審査などが形式化されていて、実力ある青年の登用が阻害されていないか」

と現代の制度について疑問を投げかけています。

ビジネススクールがどういうものかはよく知らないのですが。単に社会人が多くて大金をキャリアアップのために払っているので、少しでも元を取ろう、人脈を作るのも資金回収として、それがいいのではないかという気もする。

確かに、幕末の一時期は、ものすごい実力主義がまかり通った異様な時期だったかと思います。その実力とは、変わり行く情勢が必要とする新しい能力を持っているか否か。それが語学であり、医術であり、窮理(物理)であり、舎密(化学)であり、兵学(軍事)であり、行政能力であり、法知識であり、外交能力だった。それらを有して周りに示せた人間は、ほとんどなりふり構わずに登用されて出世した。

勝海舟は祖父は貧農出身で、養子先は無役の小普請組の家格だった(小普請組:無役、つまり仕事なしの旗本及び御家人。土木工事などがあるとそれを監督したが、基本的に穀潰し)。渋沢栄一は米と藍と養蚕を営んだ豪農出身。榎本武揚の父円兵衛(箱田真与)も、備後国の箱田村の郷士の次男で、勉強することを望んだので土地の奉行が参勤交代に随伴したのが始まりだった。荒井郁之助の父清兵衛も最初は微禄の小普請組ながら、一代で代官となり、棚倉六万石、甲州八万石、桑折の十万石の直轄地の代官をそれぞれ歴任した。(なお、代官は普通一代限り。韮山代官だった江川家が世襲だったのは例外)。幕臣で華族としては勝と共に一番上位の爵位(伯爵)を得た林董も、祖父佐藤藤助は出羽の鳥海山の直江村出身で、江戸に出て仲間奉公という卑賤の仕事にあって、主人に気に入られて士分に取り立てられた。

彼らを見ていると、決して関ヶ原の働きがどうの、先祖の功績がこうのという家柄に基づいて立身したわけではない。親や祖父が、武士ではないのに御家人株を買って士分となった人も多い。(株を買って士分というルートがあるというのは、経済的に身を立てることで社会寄与してきた人間が、官僚側に就けるということ。なので、経済観念が弱い武士集団を補う良い制度だと思うのですよな)

もちろん、小栗忠順や永井尚志などのようにそれなりの家格の出身者も、同様に実力があれば要職を歴任していますし。

彼らの進退を見ていると、江戸時代末期の官僚構造は、ずいぶんと風通しも新陳代謝も良かったのではないかという気がします。そうでないととても切り盛りできなかったというのはあるでしょう。未曾有の人材不足はこの時から既に始まっていた、ということでしょうか。福沢諭吉は「門閥は敵」と身分差を目の敵にしていましたが。それは中津藩の状態がそうだったのか、福沢の父が不運にもそれを超えられなかったか、ということで。

今の場合、もはや門閥は無いでしょうが、学習指導要領ががっちりしすぎているというのはあると思う。個性を伸ばすのが重要、というわりに、児童・生徒が自分の学びたいことを選べない。私学・公立で少しは違うかもしれませんが。せいぜい社会や理科の中で選択科目があるだけ。スペシャリストが育ち難い構造だなぁ、というのは感じます。

ただ、それはそれで良いと思う。自分の場合は、中学・高校のときに叩き込んだ基礎が、今ものすごく生きている。というか、叩き込み損ねたことを、なんであの時もっとちゃんとやっておかなかったのかと悔やむことばかりで。

どんな専門分野に入っても、何かを生み出そうとしたら必ず必要になるのが基礎力。それがないとそこからどうやって考えて応用させていっていいのか判らない。基礎がないと思考の出発点がないので、何も始められない。結局誰でもできるような仕事しかできない状態になる。

新しい分野にチャレンジするときも、高校程度でもその分野の教科書に親しんだことがあるかどうかで全然違う。実際、自分も就職してからも何度こっそり高校の参考書を見直したかわかりません。仕事だけではなく旅行で博物館などで遊んでいても、やっぱりセンター入試程度の歴史地理の素養が有るかどうかで、なにもないより全然経験の受け止め方や得られるものが違ってくる。今になって史料を当たるときも、漢文があったおかげでハードル意識が低くてすんでいると思う。受験勉強をしていなかったら、一次史料に手を出そうなんて気は全然起こらなかったと思う。

なので、センター入試は、受けるにせよ受けなくていいにせよ、ちゃんと勉強して受けておくのが良いと思います。むしろセンター免除の大学が増えているほうが問題だと思う。(そういう自分は結局センターは受けずに潜り込んでしまったのですが…)

受験の弊害やら詰め込み教育やら何かと悪し様に言われていますが、私は詰め込み万歳です。若いうちに頭に叩き込めることは叩き込んでおいたほうがいい。絶対に何かしら後から役に立つし、そこを踏み台にして新しいことを身につけられる。それが自分の価値になるし、人と自分の違いになる。人間の容量を大きくできる。受験は役に立たないという人は、役に立たせずにすませてしまって成長の機会を損してしまっているだけではないかと思ったりする。

自分の専門を選ぶにも、色々と詰め込んでおいてとりあえず知っておかないと、選べるものも選べない。選択にはまず基礎知識が必要。特に今の社会は何かと学際的にやることが必要で、一分野だけで済むなんてことはまず無い。詰め込んでみないと面白いかどうかもわからない。というか、面白くないのはわからないからだ。どんな分野でもそれなりの面白さというものがあるので、一度詰め込んでみると、なにかしら面白さを発見するものです。そうして何が一番自分にとって面白いのかを選ぶのが、選択ではないかと。

そういうことをやると学力が平坦化するのですが、それはそれでいいと思う。天才を生みにくい代わりに、人生にどこへ行っても通用するようなものすごい機会を与えていると思うのです。私は一人の天才よりも一万人の平均知力の底上げのほうが、ずっと大変だし、国の発展に寄与すると思う。天才も多い一方人口の大部分が貧困層であるインドが良い例かと。

一方でそれなりに基礎的なことが分かっていて、自分のやる気さえあれば、どんな就職先にもとりあえずアタックできる(就職できるかどうかはともかく)、少なくとも選択を自分で行える素地が皆にあるのは凄いことだと思う。

そのあたりは、日本の教育の利点として見てもいいんじゃないかなぁと思います。いい所を変に捻じ曲げて解釈して、子供がかわいそうなどと善人ぶるから、ゆとり教育などという妙なモノが生まれる。大人に必要なのは、子供に「勉強しておくと、後から役に立つんだな、人生面白くなるんだな」と思い込ませる催眠手腕だと思います。それを勉強は役に立たないとか言う怠け者がいるから、子供が付け上がる。子供には苦労させときゃいいのに、と思います。

圭介はああいうふうに好奇心の塊になって、自分から次から次へ分野への手出しをしていった。それができたのは、純平じーちゃんから、世の中は面白い、勉強をしていると面白いことを見つけられる、ということをちゃんと学んでいた、そこが原点になっていたからではないかと思います。

…と、長くなりました。話を記事に戻します。
あとは著者は淡々と、いや、温度高めに、圭介の足跡を辿ってくださっています。圭介が尼崎藩士に登用されたことについて。

「父の跡を継いで村の医師となるはずだったのに、西洋の学問を一生懸命勉強したら、その実力が認められ、武士になってしまったのである」
…なんだか受身な感じの書き方がいい感じです。

そして、次の就職先。徳島藩主からヘッドハンティングされた圭介。
「(徳島藩主松平)斉裕は十一台将軍家斉の子である。ペリー来航のときには大森、羽田の警備を幕府から割り当てられている。後に幕府の陸軍総裁も務めている。西洋の兵法や砲術を教えることのできる圭介を切実に必要としたのである」

…徳島藩主の経歴については不勉強にして初耳でした。圭介、要所防衛の任にあった陸軍総裁のブレーンとしての役割を期待されたようです。そして彼が教えた藩士たちと下野で戦う羽目になる。内部消費の膨大な無駄。もとい、松平斉裕と徳島藩についてはもうちょっと調べてみたいと思います。

この後、筆者は思い入れ、あるいは思い込みたっぷりに語ってくださいます。

鳥羽伏見後。
「圭介は徳川譜代の臣ではない。三十七歳にして新参者だ。教授から幕府に途中就職したテクノクラートだ。当時としては稀な、オランダ語、英語、フランス語をマスターし、西洋医学、西洋兵学を修めた学者だ。フランス式歩兵を率いる幕府歩兵奉行、いわば現場の司令官だ。その現場感覚からいったら、ここは戦う場面だと思っていた」

会津敗北後。
「徳川三百年の譜代の家臣団がわれ先に戦線を離脱して、赤穂の村の医師の家の子だった自分が、こうして幕府最後の抵抗部隊を率いている。奇妙な事態になったが、戦うことは自分の気持ちに問うてみて自然だった」

蝦夷上陸後。
「圭介は初めて北海道を見て、『夢のような世界だ』と思った。政権を失った徳川家の家臣とその家族たちが北海道を開拓しながら北辺の守りを務める、という自分達の主張をこの地で貫けるという確信をもった」

…あたりは、筆が乗っておられます。

ただ、南柯紀行をみた限りだと、大鳥は常に戦うことに関する確信を持っていたわけでは決してないなぁ、と感じます。

「我曹交戦は好むところにあらざる」「可成戦争を成さざる方可然」とか書き綴っているのとか、ひたすら苦難ばかり書き連ねている当たり、確信のある人間の文章とはとても思えない。また、勝利は誇張せず淡々と、負けは大げさに情けなく書くあたりも。戦いというあり方そのものにずっと疑問を持っていて、いつもなんとか自分を無理に納得させていたような感じがします。浅田君をはじめとした他人の記録には時々大仰な言葉が出てきますが。あれは自分も他人も説得しようとして外に出した言葉で、矢張り本音は南柯紀行に込められていると思うのです。

獄中で思い出した、脱走中言志の一説として。

    捐児捐母又捐身
    枉戻君言亦可憐
    直節素期殫我分
    莫将成敗議忠臣

という詩があります。

児を捨て、母を捨て、また身を捨てる
曲げて君言へ戻る、また哀れむべし
節を直し素より期す、我が分を尽くすと
成敗をもって忠臣を議するなかれ

という感じの読み下しになるかと思います。漢字は似た意味の常用漢字に変えています。(誤っていたらご指摘ください…)

もともと大鳥は大鳥なりの「分を尽く」そうとした。それが子を捨て、母(妻のことか)を捨て、さらに自分の身を捨てることだった。「曲げて」君言を行うことだった。その身を「哀れむべし」とまで言っている。勝敗じゃないのだ、と。

「直節」とか「君言」とか解釈が迷うところもありますが。
少なくとも、これは、確信があって行動を起した者の作る詩では無い。
あれはそうするより他はなかった、どうしようもなかった、という気持ちが感じられてくる。

大鳥は、最終的に、恭順派、開明派と呼ばれた人たちの身の致し方こそが、正しいと考えていたのではないかと思います。

鳥羽伏見の戦の直後、慶喜に謁見した頃は、大鳥も確かに一戦交えるべきだし、勝てると考えていたと思います。箱根・東海道挟撃策は小栗さんにも大鳥にも頭にあった。

けれども、慶喜の頭は恭順一本。小栗さんは領地の権田村へ引っ込む。官軍は江戸に迫ってくる。そして開城となったら、頭も立場も変わっていくでしょう。
少なくとも、大鳥は、桂川家や江川家、宇都宮らをはじめとした洋学者たちとの親密な付き合いがあった。彼らと交流していて、大鳥だけが思想として積極的な主戦派でありつづけたというのも考えにくい。脱走してからも、恭順した佐倉の洋学者には家族が世話になり付き合いは続いているし。主戦派VS恭順派という対立の構図は、こと大鳥においては見られない。(前島密とのやり取りはありますが、前島は自分を飾るところがあるし…)

大鳥は、学問から軍事の現場に転向して、伝習隊という連隊規模の隊まで作りあげてしまった。他の洋学者たちとは異なって、すでにどっぷり軍事の現場に首まで漬かってしまっている。しかも、村医者の家出身の貧乏人が、お奉行様と呼ばれる未曾有の出世までさせられる。そういえば「駿河台」などというやけに御公儀への忠誠心を植え付けられるような名前の土地に屋敷まで与えられていた。(晴れた日には江戸から富士山、徳川発祥の駿河の地まで見渡せるから、「駿河台」と付けられたのだそうな)

幕府陸軍は無用の長物。育ちの悪い伝習隊の連中は失業者どころか、どこで大砲をぶっ放すかわからない危ない存在。下手したらそこで新政府と開戦、江戸は火の海になる。どこかで不平分子を凝集させて江戸から引き離さなければならない。お歴々は粛々と恭順体制。もうこうなったら、自分しか責任を取って面倒を見る人間はいない。

節を尽くすだけならばそれは身を立てることであり、「身を捨てる」とは言わないはず。大鳥の詩からは、脱走は自分の本意ではなく、そうせざるを得なかった、他に人も選択もなかった、という、消去法的などうしようもなさが感じられるのです。

それでとことんまで付き合って、泥濘にまみれて、しんがりに置き去りにされるまで戦やっているのが、大鳥圭介という人間なのだな…

それから記事は降伏、戦後へ。
他の方と同様、開拓使・工部省の仕事と成果は、ざっくりスルーしてくださいます。…この当たりはもう、同業者にしか期待していないから、いいのですけれども。
そして、朝鮮国公使について大筋を触れた後。

「圭介は明治34年になくなるまで明治の世を生きるが、明治政府が再び圭介を目だって活用することは無かった。大鳥圭介はインテリかつ国際通でありながら胆力のある、文武両道に秀でた人であった。その後の日本政府の基本姿勢は殖産興業から富国強兵に重点を移していくことになるが、明治政府が彼を更に活用していれば、多少は路線が変わり、日本近代史の展開が変わっていたのではないかと惜しまれる」

と結んでいます。

ここにもちょっと異論。

朝鮮から帰国した後は既にもう引退、隠居体制だから、明治政府が更に圭介を活用することは無かったというのも、それは仕方が無い、と。枢密院は恩賞、名誉職のようなものだし。

そして、開拓使や工部省の詰まりまくった仕事量と、書いた報告書などの度合いをみても、清国・朝鮮赴任への経緯をみても、むしろ私は、明治政府は大鳥を都合いいように活用しまくった、と言って良いと思う。(明治政府が、というよりは、伊藤とか黒田とかその当たりの面々が、というか)

活用できなかった、というのは、明治初年、新政府の面々が圧倒的に人材不足で、何をやって良いのかも判らず右往左往して、朝令暮改の連続をかましているときに、榎本だの大鳥だのという日本の頭脳が、北の地でドンパチやっていたというのが勿体無くて仕方が無い、というのはあると思いますけれども。

あるいは著者は、大鳥が参議や閣議に関与できる政治中枢に居なかったことを指しているのではないかと思うのですが。その当たりは価値観の違いかなぁ、と思います。大鳥の本質は政治家ではない。上から口だけ出して奇麗事だけ言うよりも、現場で手を汚していたほうがいい。技術官僚の行う開発仕事は、政治が絡むとろくなことにならないので、むしろ政治からは遠のいていたほうが良い仕事が出来るものですし。工部省の大鳥は、一部の産業・技術史に携わる方以外誰にも知られていないところで、切り口が変わると、いかようにでも評価しようがあると思います。政治・戦争・外交で歴史が造られていると思う方は、そうした切り方をする包丁は持たないようで。その当たりは、政治業界紙への寄稿文ならではの見方(そして歴史という分野の限界)かな、という気もします。

すみません。何様だ、という感じですが。ちょっとタイトルに違和感を感じたものでして。偉そうに、言わせていただきました…

なんだか、標題の記事に片っ端から文句を言っているようですが、調べた中から事跡をポジティブに評価し、親しみを感じてくださっているこうした記事は、大変嬉しいものであります。
書いてくださってありがとうございました、ということが言いたかったのです。本当。

…久しぶりに大鳥、大鳥、言えて楽しかったです。
posted by 入潮 at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月27日

マツノ書店と復古記

マツノ書店さん

山口県、防長所在の古本屋さん。山口県の郷土史料のほか、これまで長州史料に限らず旧幕府や会津戊辰戦史、七年史など貴重な佐幕・会津史料を数多く復刻してこられました。幕末属新ファンに熱い視線を注がれている、気骨の古本屋さんですが。

…とうとう、復古記を復刻されるとのこと。
「多分来年五月ごろ発売予定」とのことです。

復古記といえば、王政復古の正史として編纂され太政官により刊行されたもの。発行は政府ですが、実際仕事を行ってきたのは、東京(帝国)大学史料編纂所。

正史とか国家史とか行ってしまうと、戦前の日本の歴史否定ムードの中で育ってきた現代人はいらがっぽさを感じるのかもしれませんが。復古記は、慶応3年10月から始まって、各事件ごとに、当事者たちの記録、つまり一次史料をそのまま収録していった、超硬派の史料集です。

たとえば下野の戊辰戦争でいえば、東山道総督府の交換文書のほか、宇都宮藩主の戸田忠友家記や総督府日記、各藩の日記などに加え、個人の従軍日記や家記も一次史料と認められるものは収録されています。幕軍側だと、浅田君の北戦日誌も、歩兵第七連隊米田桂次郎附属で六方沢も一緒に越えて詩を詠んだ源恵親の「慶應兵謀秘録」も、桑名藩士中村武夫著の「泣血録」も収録されている。もちろん官軍側の「伊地知正治日記」も「香川敬三事跡」など、当事者たちの記録も豊富。立場に捕らわれず、色々と客観的に比較対照できます。

私が、今まで散々戦下手といわれてきた大鳥の能力を見直す気になったのは、この復古記に収録されていた浅田君の筆が最初でした。
現代人が現代語で加工を重ねて書き連ねた姿とはまったく違った、ありのままの歴史世界があるのだと気づいたものです。

ただ、編纂されたのが1889年(明治22年)で、その当時に明るみになっていた史料しか収録されていないという限界はある。なので、たとえば、明治30年代になって初めて世に公表された南柯紀行などは入っていません。
また、事件ごとに関連する各史料のパートが抜き出されているだけなので、それぞれの史料の全編を見ることはできず、また史料の解説や著者についての予備知識を得ることはできません。その点で、あくまで「正史」で留まるという限界はあります。無論そのように編纂されたのだから当然ですけれども。

それでも、一級史料集としても、編年史としても、これほど協力なツールはありません。

それで、全15巻、計1万3000ページ。…いったい価格設定は幾らになるのだろう。そしてばら売りはしてくださるのだろうか。

復古記は、東大史料編纂所でデータベース検索ができ、画像も見れるのですが。やはりハードコピーとして手元にあるほうがいい。比較対照は本そのもののほうが断然いいので、検索と組み合わせるとその便利性はいっそう増すのではないかと。

いずれにしても、これを復刻に踏み切ってくださったマツノ書店さんには、畏敬の念を覚えずにいられません。
国の修史事業として刊行されたものを民間が引き継いで覆刻する、それが大出版社ではなくいわば地方の古本屋さんが請け負うのですから、その苦労は推して余りあります。

欲を言えば、資料の字が小さいので、もう少し見やすくしてくれないかなー…などと。でもそうすると頁数が増えるでしょうし。難しいところかな。


で、今回マツノ書店さんで古本を購入し、郵送してもらったのですが。そのときに、「防長火車日誌」と書かれたパンフレットが入っていました。
何か復刻された史料の宣伝かな、と思いきや。これが、マツノ書店さんの通信マガジンでした。ネーミングがとてもツボに入った…。

この中で、古本の購入者からの声のほか、「七年史」や「会津藩教育考」などの各史料の復刻における裏話などが入っていて、大変興味深いです。

「他県史料の復刻は、ご当地への侵略では?」などという声もあったそうな。怖い。それはマツノ書店さんも気にしているけれども、たとえば「七年史」が福島県で購入されたのは全体の出版数の9%、「大久保利通伝」は鹿児島へ7%、「仙台戊辰戦史」は宮城県へは2%に過ぎなかったとのこと。主要は東京・関東で全体の4割を占めるとのことでした。

この「防長火車日誌」にも復古記復刻・販売を実現するためのマツノさんの努力が書かれていました。東京大学出版所とある取り決めをしたそうなのですが。曰く「身も心も引きつりそうな覚書」…内容を見て、こちらも震えました。

さらに、古本を買った際に一緒に送られてきた新年の挨拶カードで、この復古記販売のことを。

「出版絶不況に抗する零細の戦、々発止の尻や如何…?」

…と素敵過ぎる文面で述べておられました。

復古記にこめるマツノ書店さんの覚悟と意気込みにはもう、目頭が熱くなってきます。

なお、復古記について一般読者の視点でのコメントを求めておられます。既に利用している方はその利便性や注意点など、そうでなければ購入を迷う気持ちなどでもOKとのことで。入選10編には図書カードを進呈とのことですので、復古記に興味のある方はトライされてみてはいかがでしょうか。

挨拶文も「これからもスモールとユニークに徹し、本州最西端から重厚堅牢な限定復刻版を後世に遺してまいります」との言。前半のカタカナの軽さから、後半のずっしり重みのある言葉の組み合わせが素敵。マツノ書店さんのこだわりとあり方に感銘を受けます。

そんなマツノさんの古書リストも、しげしげと眺めてしまって、こんなのもあるのか、と嬉しい悲鳴をあげてしまっています。ただ、リストの最後が、なぜか叶美香写真集だった。…まさかそこまで狙っているのではないでしょうな…。
posted by 入潮 at 04:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月29日

駿河台と図書館徘徊

本日の行動。

駿河台→大学図書館→足立区立図書館→銭湯

これまでだと、日曜日でもやることがあると惰性でそのまま会社に行っていたのですが。
引越ししてから、ちゃんと江戸を知るようにしようと心を入れ替えました。報告書の締め切りが近い気もしますが、今年は人間らしく行こうと思います。

そういうわけで、今週もバイクでフラフラ回ってきました。

まずは、駿河台へ。
通勤中に自転車で何度も通っているのですが。朝は急いでいるし、帰りは夜中で暗くて写真が取れなかったので、一度ゆっくり見ておきたかったのです。

JR御茶ノ水駅の聖橋出口のすぐ側に、「千代田区町名由来板」ということで、付近の歴史を紹介してくださっていました。江戸幕府400年記念事業らしいです。素晴らしい。

ちょっと長いですが、駿河台東部町会の方が駿河台の由来をよく纏めてくださっているので、こちらに引用してみます。

「『駿河台』は元来、本郷・湯島台と地続きで、『神田山』と呼ばれる丘陵でした。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな街づくりのために、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって平川(現飯田橋付近から一ツ橋を通り、海に流入していたといわれている)の流れが滞り、下流で洪水が頻発しました。そこで、隅田川に通じ、江戸城の外堀の役割も果たす『神田川』が分留として開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、独立した台地となりました。

元和二年(1616)、家康が駿府で没すると、家康直属の家臣だった旗本(駿河衆)がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多くの屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。

現在の駿河台三丁目と四丁目にあたるこの地域は、明治時代は三つの町で、駿河台北甲賀町、駿河台南甲賀町、駿河台東紅梅町と名づけられていました。甲賀という町名は、忍者で有名な甲賀者が多く住んだからとも、また甲賀者が勤める火消役屋敷があったからともいいます。紅梅町は紅梅の大樹があった紅梅坂の名称と共に誕生した地名といわれています。

大きなドーム型のニコライ堂(日本ハリストス正教会協会復活大聖堂)は、幕末から日本で布教を行っていたニコライ大主教が七年の歳月をかけ、明治24年(1891年)に完成させたもので、以来この町のシンボル的存在になっています。関東大震災で被害を受けたものの、昭和4年に復興され、国の重要文化財に指定されました」


そして、その隣に、安政三年の駿河台東部界隈の地図と現代の地図を並べて対比してくださってます。

surugadaimap.jpg

前掲の「嘉永二巳酉年新刻、文久三亥歳改正」の地図とは若干違っていて、大きな屋敷には坪数もか書かれています。

大鳥屋敷と思しき場所はやはり能勢鎌三郎のまま。坪数は記載なし。小栗さんのところはまだ先代で「御書院番小栗又一二千五百石、970坪」となっていました。その隣は「御小姓組滝川三郎四郎千二百石」。
改めてみる問い、この界隈、千八百石とか二千石とか四千石などの上級旗本が、ごろごろしていますな…

紅梅坂はこちら。

koubaisaka.jpg

大鳥がいたころから、紅梅はあったのかな? 地震で焼けてしまったのか枯れてしまったのか、今はもう一本もありません。

そして、ニコライ堂。

nikoraidou.jpg

「「大聖堂」「境内地」を許可なく勝手に撮影し、商業目的に使用することを禁じます」というボードが入り口に掲げられています。禁じているのは撮影することそのものなのか、それとも商業目的に使用しなければ撮影してもいいのか。観光客の皆様、遠慮なく撮っておられたので、多分後者なのでしょう…

とりあえず、道路から見えている聖堂は公共地の景観である、駐車場は境内ではない、ということで勝手に撮影可と判断させていただきました。

で、その駐車場。能勢鎌三郎屋敷跡であり、大鳥が拝領した屋敷と思しき場所。

otoriyasikiato.jpg

契約しないと停めてはいけないのだそうです。かつての大鳥が住んだ土地と契約を…。

そして、東京復活大聖堂、通称ニコライ堂。ロシア人と思しきお姉さんが、敬虔な祈りを捧げていました。正教会の祈り方って、プロテスタントとは全然違うのですね。(むしろイスラムと似ているかもしれない…)

看板は以下の通り。
「この聖堂は明治十七年三月に起工し工期七年を以って同二十四年二月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は、英国人コンドル博士です」

…コンドル先生?
工部大学校造家科教師。辰野金吾や曽禰達蔵らの先生にして、年は生徒と変わらなかった。ここで名前を拝見できるとは。関わっておられたとは、存じ上げませんでした。鹿鳴館といい、日本の豪奢建築でこき使われていたものです。

中を拝観できました。寸志という名の拝観料300円を支払う。
イコンや絵画は散々いろんなところで見てきたのですが、やはり教会で見るのが一番荘厳で重みがあります。建物と一体となって初めて、芸術以上に生きるものなのだと思いました。
祈り方を知らないので、ただじろじろもの珍しげに見るだけの不調法者です。どのモスクや教会や寺院に行ってもそうなのですが、こういうところに来ると、自分が人間としての背骨の欠けた人間だということを強く自覚します。子供の頃の宗教との関わりというと、葬式で足の痺れを我慢していたか、神社で石蹴りとか縄跳びとか木登りとかして遊んでいただけだからなぁ…。


その後、小栗屋敷跡も再度確認。前にYMCAと書いてしまっていましたが、YWCAの間違いでした。
YWCAの隣、滝川家と思しき場所は現在、日本大学歯学部総合歯学研究所一号館。
ただ、通りの位置も当時と違っているかもしれないので、その向かだったの可能性もなきにしもあらず。その場合は、大学のテニスコートです。

そんな感じで駿河台を散策。昼間にゆっくり歩くと、いろんな発見があって楽しいです。


それから、皇居を越えて四ツ谷にある大学図書館へ。

皇居の、公文書館前の紀伊国坂、北の丸、代官町通りは、都心では稀有な、信号のないワインディングコースで、緑の中、快調に飛ばせます。自転車だと慣れるまで登りが辛いのですが。あと、内堀通りをぐるぐる回るのもオツなもの。
一時期、皇居周辺ランニングなんて排ガスだらけで体に悪いとか言われていましたが。ディーゼル規制も行われ、植林も進んで、随分ときれいな環境になったものだと思います。タイの王宮周辺などは、交通量が増えきってしまって、交通整理のおまわりさんが防毒マスクをしていましたが。それに比べると驚異的な環境だと思います。

図書館のほうは、「柳営補任」「諸向地面取調書」「江戸幕臣人名事典」のほか、「明治工業史」あたりをめくりにいこうと思ったのですが。不覚にも、8階建てのうち、日曜日は教養部の2階までしか利用できなかった。

ただ、雑誌コーナーで面白い論文があったので、いろいろとコピーしてきました。
後ほどご紹介します。

その後で足立区立図書館へ。既に夕方。

靖国通りから4号線を北上。上野、入谷、三ノ輪を過ぎていきます。これが交通量が多すぎ。タクシーは確認しないで急停止・急発進するし、バイクはすり抜け・急方向転換し放題。普通に走っていてもバイクが車の間から割り込んできてぶつかりそうになる。一レベル上の反射神経が常に要求されている感じ。夕方の国道なんて走るものじゃないです。

それにしても最近街乗りにしかバイクを使っていない。パリダカも走るオフ・ツアラーが泣く…。

足立区立中央図書館は、学びピア21という生涯学習センターの中にあるのですが、歴史関係では都内の区立図書館では随一の充実度を誇っていると思います。たしか『陸軍省日誌』もここで見たのだった。

地図関係も豊富。「明治大正昭和東京近代地図集成」「日本地図選集明治東京区分地図」「東京市近傍郡部町村番地地界入地図」「明治前期・昭和前期東京都市図」などなど。その土地の変遷が終えます。国府台の周りは錬兵所操練所演習所だらけだったのか…とか。

あと「新撰東京名所図会」が楽しかった。地誌というか、明治期におけるその町々の成り立ちや現状を細かく紹介しています。駿河台の甲賀町やニコライ堂についても事細かで嬉しい。ニコライ堂のエピソードについては…きっと葛生さんが紹介してくださることでしょう。他力本願。…いや、葛生さんの駿河台の大鳥屋敷調査レポートは素晴らしいです。自分のあんな適当なメモから、よくぞそこまで綿密に掘り起こしてくださったという感じで。もう足を向けて眠れません。こんなところでファンコールしてしまってごめんなさい。

さて、今回のお目あては、実は復古記で。先日、復古記のご紹介をしたときに、そういえば「蝦夷戦記」のパートのコピーをまだとっていなかったなぁと思いまして。思い出してしまうと、来年までもう待てない。

でも、地図を見ているうちにコピーをとる時間がなくなってしまった。貸し出しは出来ないだろうし、と思っていたのですが、開架だから登録カードさえあれば貸りられる。

こちら、以前は都外ということで登録できず、したがって貸し出しもダメだったのですが。今回、「隣接区の居住なんですけれども登録できないでしょうか」と、ダメモトで聞いてみたら、これがOKでした。
ビバ、東京都民。

にしても借りた復古記の中身。名前だけ出ている新選組関係者に鉛筆で線が。麦叢録の土方の死亡の記述のところには、濃く二本線。熱心なのは結構なのですが、公共物に書き込むというのはマナーとしてどうか一言いいたいところです。線は付けた本人には重要かもしれませんが、その当人とは異なる情報を探している人間にとっては、あまり快いものではない。(それで、正史における新選組の位置づけとか存在性とか何かわかりましたか、とか、意地悪なことを思ってみたりする…)

…という感じで。書名や行動を羅列ばかりしていても何も実にならない、中身に触れてなんぼだろう、とは思うのですが。とりあえず今後触れていくための備忘録ということで…。

posted by 入潮 at 04:38| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

倦む機会

―― 機械でいいから産ませてくれ。

と思いました。
産む機械発言。
もはや、膿んでます。私が。

ただの口のすべりに、辞任だの何だの、そこまであげつらわなくても。よほど人を責めたい人がいるんだなと、また感じられてしまったりして。厚生相が本気でそう思っているわけではないのは瞭然なのに。笑って見逃してやって後は飲みながら虐めてやれよと、永田町に向けて思いました。

それにしても、昼に弁当を買いに行く暇も銭湯にいく暇もなし。休日もなくプライベートもなく。幾人もの上に都合よく使いまわされる。会社員なぞ、所詮働く機械。身も心も磨り潰されて、客と上司と外注との軋轢に押し潰されて、使えなくなったらポイ捨てされてハイ終わり。そんな奴隷人生なぞよりも、産む機械のほうがよっぽど上等で大事にしてくれそうだ。

家族持ちだと仕事する側も家族を口実にキリをつけられるけれども、独り身だと際限なくやっても誰も怒らないものなぁ。労働基準監督署がうるさいだけで。

(それにしても「機械」という言葉に対するネガティブな反応って、先進国育ち特有の傲慢な感覚だよなぁ。長州ファイブは「生ける機械になる」と志を抱いて旅立った。機械とは、小さな力から大動力を産む、生活を下支えする無くてはならない必須設備なのに。機械にどれほどの叡智が込められ、そのおかげでどれだけの利便が享受できていることか。別に私、メカマニアではないですけれども。機械という言葉への評価が低い人ほど、機械には疎い人だという気がする)

えーと。例のごとく疲れています。日曜日遊んだしわ寄せだから自業自得ですが。

自転車通勤を始めたら、終電の縛りがなくなって、かえって帰宅時間が遅くなってしまいまして。2時3時まで居ついてしまう。それで帰宅して最後の力を振り絞って駄文を投げ込んで、あとはバタンキュー。ポスト時間が遅くなる一方。
銭湯にすらいけないのは、人間としての尊厳がなくなる。風呂のない家を選んだ自分が悪いのだけれども。
そもそも、まともな時間に仕事を終わらせることができない自分の要領悪さと容量不足が悪いんですけれども。
このままでは、過労死か孤独死ししか未来が見えない。

家の中で心臓麻痺とか脳卒中とか起しても、誰も助けてくれない。このぼろ家の中で、腐乱死体になるだけ。
腐臭を振りまいて近所と大家さんにご迷惑をおかけして、ニュースで人様に恥を晒す。そんなことは避けたい。

そんなわけで。

「人並みの人生。」

という標語を、職場の机の前にでかでかと書いて張りました。
ちょっとしたパフォーマンスです。

でも私としては果てしなく高い理想です。

以前の机の前には「出家ゲージ」を張っていました。
正確には「あと1ヶ月以内に会社を脱走しミャンマーに行って出家することを実行する確率ゲージ」です。
出張中に誰かに取り払われていまっていたのですが。
最高で41%まで上がりました。…5割を超えてなかったのか。まだ余裕があったらしい。

最近、女性雑誌も様相が変わってきたようで。図書館で日経ウーマンとかいろいろ雑誌をみかけました。働くキャリアウーマンのための雑誌。
一昔前は、いかに商社マンやら官僚やらを捕まえて玉の輿になるか、というのがテーマの根底にある記事が多くて、OLは結婚までの腰掛け、という調子が多かったように思いますが。今は、記事の背景設定も、企画書を書いていて徹夜明けのときの化粧法だとか、一人でも生きていくための投資方法だとか、そんなのが目立ちます。

やめとけ、といいたい。

そんなことをしても、結婚できない女が増えて、クリスマスに中島みゆきの「十二月」を聞くやさぐれが増えて、マッサージ屋が儲かって、高齢化社会が進むだけだ、と。

何を好き好んで働く機械を量産するんだ。しかも大体は男より性能も稼働率も悪いしメンテ費用も掛かる。それより産む機械のほうがよほど価値がありそうだ。

それで、女のキャリア志向をマスコミが扇動して、同じ会社の新聞で少子化問題を論じているので、それこそ笑止千万だと思う。

とりあえず生き物としての使命、すなわち二人子孫を残すこと、をまず第一の目的にすべし。
仕事なんぞ、食ってさえいければ、あとは余裕のある人間の道楽娯楽でいいんです。

自分を殺して仕事を第一義にしていても、オニババになって、あとは一人で墓場に入るだけ。親がいなくなったらもう墓を立ててくれる人もいない。そうすると無縁仏となって、苔生して季節とともに風化していくのみ。…それはそれで無常観があって良いんですが。とりあえずまだ無常以外のものを求めてもいいんじゃないかと思う女心と冬の空。せめて死んだときに墓を立ててくれる人を求めてもバチは当たらない。

アナリストだのコンサルタントだのエンジニアだのリサーチャーだのスペシャリストだの、適当なカタカナ言葉の響きにあこがれて勉強して就職して仕事が人生と精を出してもも、責任ある仕事ほど彼氏と付き合う暇も結婚相手を見つける余裕もなく、最後には便利使いされて使い捨てされ、そのうち結局自分の人生って一体なんだったんだろうとポツンと振り返って、迫りくる孤独と空しさに耐えねばならなくなるだけ。

私、エンジニアのことしか分からないので、世の中にはちゃんと華やかで幸になれる仕事もやりかたもあると思うのですが。女性エンジニアの方は特にお気をつけ下さい。
若い頃は仕事が面白いのでつい仕事にかまけて自分の人生をほったらかしにしますし、同じ給料を貰っているのだから女としての自分を優先させて周りに迷惑かけるのも気が引けるのですが。人生のほうが大事と気が付いた時にはすでに手遅れです。

大学生の頃や、まだ余裕のある新入社員の頃は、周囲はシャイな殿方がいっぱいいますので、色目使ってでも既成事実を作ってでも早いうちに確保して、将来に備えておいてください。人生設計はお早めに。
焦りを覚える頃になるとすでに仕事も責任背負い込んでかつかつになってしまって、余裕もなく何もできないままに枯れていく。そうなってからでは、遅いです。

結局、仕事なんぞ大したものじゃないですからな。自分が潰れたら、会社は金を払って別の人間を探してくるだけですからな。どんなに特殊な経験をつんで知識があっても、探せば代わりはどっかにいますからな。

自分がいなくなっても、残されるのは自分が作った無味乾燥な書類の山とデータ。それも自分がいなくなれば誰が作ったのかもわからなくなり、ハードディスクは消され、ISOなり社内規定なりの書類保管期限が来れば捨てられて灰になって終わりです。

でもその家庭のそのカミさん母さんは、そこにしかいないですからな。代わりなんてどこにもいないですからな。母さんがいなくなったら子供は泣きますよ。でも私がいなくなっても、1ヶ月ぐらいば困る人はいるでしょうが泣いてくれる人はいないでしょう。…いかん、自分が泣けてきた。

だから餓鬼の二人も三人もこさえて、鍋をひっくり返し皿を割りながら、自分のと自分の相手の血の行く末を眺めてるほうが絶対にずっと良い。

そんなものは価値観とかじゃない。人間として生き物としてのあるべき姿への、いけとしものが持ってしかるべき憧憬であり、原風景だ。

生理のたびに、今回も無駄に流してしまった、ごめんよぅ…と、分けもなく何かに謝りたくなります。虚しさの極地です。ご先祖様に無言で責められている気がします。なんで毎月毎月そんな思いをしなければならないのだろうと思います。


あー、女性の社会地位の向上って素晴らしーなー……−・・


……と。そんなことを考えるぐらい、疲れてます、という話です。あまり本気にしないで下さい。

単に、仕事と私事を両立させ、旦那をみつけて人並みの家庭を築くことができない不甲斐なさを、責任転嫁しているだけです。
仕事しながらでも、ちゃんとできるひとはできてます。うちの同僚の技術♀もしっかり結婚して産休とっています。
要するに、本人の才覚なんですよな。仕事にしても人生にしても。


でもなぁ。
仕事も私事も存分にこなせるだけの余裕と能力のある人が世の中にあふれている、というようには、どうも見えない。
世の中には本当に選んで独りでいる人もいますけれども。そういう強い人はごく一部なんじゃないか。
やっぱり、平凡なおなごふぜいが求めるところは、もうちょっと平安で、もうちょっとおとなしくても、いいんじゃないだろうか。
大部分の人間は弱いですからな。いや私が弱いだけか。

……まぁ、こんなこと書き連ねていても、どうせ来るのは結婚相談所のスパムメールだけだろう。
不毛。
仕事しろ仕事。うっだらー。


どうでもいいけど、すさんだ気分のときって、妙に創作性にあふれているような気がする。この悲惨な気分をいかにして利用して人を笑わせてやろうか、「うわ、俺コイツよりマシ」と笑ってもらおうか、というネタばかり考えて、そんな自分を嘲笑っている。
これも、極限状態にあっても自分の精神が壊れないようにバランスさせる自己防衛本能かもしれん。

人間、うまくできているなぁ、と思います。
posted by 入潮 at 04:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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