2007年02月02日

江戸の古地図

連日、3時間睡眠で、通勤自転車を20km漕いでいると、いい加減疲れます。
いや、普通に電車に乗ればいいのですが。江戸城、じゃなかった、皇居のお堀の脇を抜ける快感を覚えてしまうと、もうあの満員地獄はごめんだと。贅沢になってしまったものです。

自転車はいいです。東京って繋がっているんだな、と思えます。…何を当たり前のことを、という感じですが。
普段、電車や地下鉄ばかりで移動をしていると、駅を拠点にいくつかの円が広がっている、というような位置認識になってしまう。自転車で回り始めて、初めて東京の面としての広がりを認識できました。

そして、この坂も旗本たちがぜーぜーいいながら上ったのか、とか、この運河みたいな神田川が江戸の洪水防御を担っていたのか、とか、外堀の上を走る首都高速は凶悪だ、だとか、色々と発見があります。


さて、Yahooの古地図。

正直、うーん…という、微妙な感じです。
いや、コンセプト自体はすばらしいし、とても便利ですし、ぜひ活用させていただきたいものですけれども。

…そこまで便利にしなくても、と。
ちょっと寂しい感じがします。

いや、ひねくれモノのつぶやきに過ぎないのですが。

綺麗に加工し過ぎだなー、と。

具体的な作業としては、古地図をGISに読み込んで、位置情報のある衛星画像と現代地図とレイヤーで重ねて、江戸の地図は要所要所でカパカパと座標を入力しながら、その座標を軸にして画像の補正を重ねていったのだと思うのですが。
そこで行われたことの内容が想像できるだけに、そんな楽しいことは自分もやってみたい、とか思うのだけれども。

こう思うのも妙な感覚かと思うのですが、やっぱり昔の地図にはゆがんでいて欲しいのです。

そして、ゆがみを取る作業が、もったいないな。ゆがみこそが味なのに、と。

たとえば敷地の形や道路の広さ、東西南北の方向。どの年代の古地図をみても微妙に違う。
このゆがみは、その地図を作った人間が歩いた感覚、つまり、その時代の人間が持っていた感覚だと思うのです。川の大きさ、堀の方向。実際とは違うだろう一つ一つが、遠近感をもった芸術です。

定規を当てて現在の地図と照らし合わせて、坂道が長く描かれていたりすると、あー、ここで苦労してたんだな、と感じる。

こうしたことは、三角測量や平板測量など、測量技術が伝わっていないころならではの味で。歩測などで地図を作った人間が、見た感覚や体の感覚が混じってしまうのは避けられない。縮尺などもずれていく。けれども、それが人間的なにおいになって、面白い。それが古地図の醍醐味ではないかと思うのです。

ところが、現代の地図と重ね合わせて補正を行っていくという作業は、そうしたずれを廃していって、現代からの視点で見ると都合よくなるように局所的に拡大縮小を繰り返して併せなおしたもの。

なので、どこの交差点、橋をあわせても、ピタッと現代の地図や衛星画像とあうような古地図なぞ、気持ちがわるい(笑)


今はもう、位置情報(緯度・経度・高さ)をもった衛星画像から、等高線でも植生でもGIS上で地図は描きだせますし。補正方法もすでにソフトウェアの中に組み込まれていますし。ある程度は正確な地図、たとえば1/2.5万程度なら、机上にいながらにして作ることができる。1/2500ぐらいになると測量機器をもって走り回らねばなりませが。それもGPSとトータルステーションの導入で、格段に正確に地図が作成できるようになった。それなりの測量会社が作れば、そんなに違ったクオリティになることはない。

ですが、地図は生きています。

地図を描く方法、技術は、時代と共に変化しています。
地球が丸いという前提すらなく描かれた地図もある。緯度経度という概念がなくても、伊能忠敬のように、歩く旅人から見れば正確きわまりない地図もある。どこを中心に描いているかひとつにも、地図作成者の価値観がこめられている。どういった技術背景のもとに、どういった目的で描かれたかに、古い地図の味があるのではないかと思います。

そして、地図の元になった世界ももちろん、変化している。

地図に落とした時点というのは、永遠に続く柱をあるところでぶった切った面を見ているようなもの。連綿とした時代の流れが長々とあって、時間軸のどこを切り取っても、そこ特有の地図、歴史絵図、人間絵巻がある。
10年あれば通りも屋敷の持ち主も変わる。地図の持つ背景世界がすでに違ったものになる。どこで切ってもその様相は違う。

なので、何年に描かれたかということは最も重要。
古地図でも、時代と時代の違いのある地図を読むことにより、その世界の変遷を感じられる。地図は文字以上に世界を語ります。

「江戸時代」といっても、平面的なある一時期に凝縮されているわけではない。江戸時代の中にも、いろんな世相があったわけで。
それをただ、「江戸時代」と一言で一枚地図に書かれてしまうと、なんだか、荘厳な柱がぎゅっとお好み焼きのように薄っぺらい平面に押しつぶされて、それをぱっと見して、「江戸時代ってこうなんだー」と分かった気になってしまう感じがする。それがもったいないと思うのです。

サービスとして、文句の出ない作りにしようと思ったら、こうした手法しかないのかな、とは思います。
もちろん、Yahoo古地図は、現代地図、そして衛星画像とあうように作ったところに価値があるから、それが嫌なら使うな、というものですが。

ただ、古地図ならではの、「語り部」という、もっとも古地図を面白くしている要素が、なくなってしまった。ただの位置表示機能になってしまった。そんな感じがしてしまっています。

もちろん、現代人の便利のために行われた作業でありますし、試み自体はとても面白いですし、私も存分に活用させていただこうとは思うのですが。
あくまでツールであり、それ以上のものではないかな、というのが概観です。

便利だけれども、本来古地図は、便利だという以上の奥行きと深さのあるものだと思います。

地図に限らず、「便利」は良い事ですが、えてして趣がない。
「便利」とは、自分が手間を惜しみ時間を節約するために、他人が行ってくれたサービスがあって、はじめて成り立つもの。
けれども、自分のものを見る土台になる、歴史観とか、世界観とか、価値観とかいったものは、自分が足で動き手間隙を割いて集め読み込んた「不便利」からこそ育つのではないかな、と思いました。

それは地図に限らず、本人の記録とか日記とかもそうで。赤の他人の現代人が都合よく便利に抜き出して現代語に翻訳したものと、実際の生の言葉を当たるのとでは全く得られるものが違う。それと同じかな、と思います。

江戸の地図を眺めるにも、Yahoo古地図があるからいいや、と止らず、そこを入り口にして、古地図のゆかしき世界に足を踏み入れる方が増えればいいなぁ、と思います。


なお、このアナログ地図もいいですよーという呟きは、地図集を買ってしまった人間の負け惜しみではありません。…とは決して言い切れないあたりが、哀しい奴です。
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2007年02月05日

銭湯探して

目が覚めたら2時(PM)回っていました。
勿体無い。いい天気だし。午前中に起きていたら、図書館なり博物館なり、一軒は回れたじゃないかと思いつつ、出勤。

そして、3時(AM)まで仕事。結局、仕事時間量はいつもとあまり変わらない。

週末というと、朝寝ができてバイクで会社で行く日、という位置づけになってしまいました。

夜中3時に20分も走ると、手足が凍えてキツイです。昔仙台にいた頃、-5℃ぐらいで路面凍結を気にしながらも平気で走っていたのですが。最近の東京は暖かかったせいか、また寒さに弱くなりました。人間、甘やかすと軟弱な体になります。

そんな日々の楽しみが銭湯巡り。自転車なりバイクなりで冷え切った体を溶かす熱い湯。人生至上の快感です。

そして、一度入った湯の敷居は二度と跨がねぇ、とばかりに、日々銭湯を変えています。オリエンテーリング気分で、楽しい。そのうち「流浪の銭湯日記」とか始めるかもです。需要はぜんぜんなさそうですけれども。

昨日入ったのは、市谷柳町の銭湯「柳湯」。素晴らしかった。スチームサウナは銭湯代込、薬草湯は、よくある入浴剤ではなくて生のハーブ、水は井戸水を使っているらしくてすこし硫黄っぽい匂い、水風呂は冷たくて身が引き締まる。今まで行った銭湯の中ではトップクラスでした。

で、この市谷柳町といえば、ピンとくる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私はぜんぜん、気づかなかったのですが。

銭湯を探して付近の路地をうろうろしていると、ぶつかりました。

070304shieikan.jpg

試衛館跡。

今は路地の中の駐車場になっていました。普段普通に歩いていたら絶対に見つけられないところでした。
偶然ってあるものだ。

場所は、地下鉄都営大江戸線、牛込柳町東口よりすぐです。住所は 東京都新宿区市谷柳町25

こういう風に、不意打ちでも何かにぶつかるから、東京ってすごいやと思います。

史跡巡りに近くに寄られた方は、ついでにタオル一枚を、締めくくりに銭湯としゃれこんでみてはいかがでしょうか。
なお、東京都の銭湯は共通で430円です。

…と、こういう軽いネタしか書く気力がない。
色々と書き散らしたいことが溜まっています。ぼちぼちいきます…
ラベル:銭湯
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2007年02月06日

維新期の兵式

「軍事史学」という雑誌があります。

国内を中心的に、国外も含めて軍制や戦前の戦争目的、戦後処理、戦史史話、史料紹介などを主なテーマとして、政治・外交・経済・思想・国際関係なども含めて記事を収録しています。

軍事史学会は昭和11年に創設されてから、敗戦後にやむなく解散。その後昭和37年に復活とのこと。記事を見ている限りは右にも左にも偏りがなく、純粋に史料を紐解いて論じている、硬めの機関紙です。

その割りに、専門家だけではなく、「幅広い一般の読者層、特に次世代を担う若い読者のニーズにあった啓蒙的で親しみやすい内容」を心がけているとのこと。軍事専門家や元陸海軍、自衛隊の方だけではなく、一般の歴史研究者も寄稿しているようです。戦後途絶えたとはいえ、こうした研究の積み重ねがまとまっているというのは心強いことです。アレルギー的な反戦感覚が根強く「戦争とは何か」という心の備えをしない風潮の中でも、いざ関心を持ったときに、ちゃんと行き場があるということで。

さて、こちらの雑誌でも、戊辰戦争も結構取り上げられています。前にも箱館戦争特集などがあり、かの井黒弥太郎御大が、五稜郭戦についての大作を寄稿していました。

そして、平成十八年六月刊号の165号第42巻第1号には特集で「幕末維新軍制史」という特集が組まれていました。平成十四年にも一度あり、今回が二回目です。

この号で、淺川道夫氏による「維新建軍期における『兵式』問題」という論文が掲載されています。
幕末、西欧の近代兵学が、砲術、錬兵から用兵、軍制まで、誰がどのように導入していったかについて、具体的に述べられています。

論点は、まず、オランダ、イギリス、フランスのいずれに習うか。
そして何より、(1)前装式滑腔銃、(2)前装式施条銃、(3)後装式施条銃 の小銃技術の進化にしたがって、兵式、戦術が変わるということ。

前装式、後装式の違い、滑腔銃と施条銃の違いは、詳しくは、こちらをご参照ください…。

平たく言うと、前装式(先込めともいう)は鉄砲の筒の上から弾薬と弾をグイグイと押し込んで、杓杖でカンカン押し固めて装填するので、発射に時間が掛かる。訓練を受けた兵でも最速で1分に2,3発が限度。

一方、後装式(元込めともいう)は弾丸を筒の後ろからボルトなりバネなりで入れ込む。発射が動作が早く、寝転びながらでも装填・射撃可能、というもの。

この発射速度というのがミソで、発射動作が速いとそれだけ密度濃く打ち込める。後装式1丁が、前装式の4丁、5丁にも匹敵します。

また、滑腔銃は銃の筒の内側がつるつる。使う弾は球型なので、ある距離になると空気抵抗のために飛距離・命中率はがくんと落ちる。

施条銃は中に溝が彫られている。施条銃は椎の実形の弾が回転しながら飛び、弾道が安定するので、飛距離が長くて命中率が高い。

飛距離があると、もちろん遠くから攻撃できるので有利。そして、命中率が高いということは、密集する必要がなく、散開していても個人の技量でカバーでき、それだけ兵力が少なくすむということ。

施条銃が、戦術に飛躍的な変化をもたらしました。

現在使用されているのは全て後装式施条銃です。(歴史愛好家や、国によっては規制上の理由で、前装式をあえて用いている例はある)

ちなみに、施錠銃のことをライフル、施錠のことを「ライフリング(rifling)」といいます。

銃の筒の内側に溝を施す作業は、大変です。現在は専用の機械で行われています。
ライフリングは、冷間鍛造という常温で圧力をかけて金型を用いて圧縮成型行う鍛造方法か、特殊な工具で切削していくことにより行われます。どちらにしてもとてつもない動力が必要で、幕末時点では人間や馬などでは到底不可能。蒸気機関を導入せねばなりません。

よって、佐賀藩で施条砲の作成が少数行われていたほかは、ほとんどすべてを輸入に頼らねばなりませんでした。

施条銃のあるなしが戦局を左右するといっても過言ではありませんでしたので、心得ある者が藩にいるところは、こぞって買い求められました。

(大鳥、箱館で「三ヶ保破損して、大砲小銃其外弾丸緒武器を失いたれば、大小の武器に乏しく、大に困却せしが、器械方宮重(一之丞)、貝塚(道次郎)等其他附属の者、昼夜の勉励工夫に由て漸く不足を補うことを得たり」とありますが。施条銃も製作したのだろうか。多分自前でできたのは弾薬補充ぐらいだろうと思うのだけれども)

この論文で、目か鱗だったのは、まず上の(1)〜(3)の小銃の技術がありきで、それにしたがって、戦術がある。そして、その戦術ごとに、それを解説した洋書の翻訳が行われてきた、という点。
前装式滑腔銃には前装式滑腔銃の戦術があって、その訳本がある。これが、後装式になるにしたがってまた別の戦術があり、その兵書の訳が行われてきた、ということです。

小銃技術がまずありきで、兵式がある。

また、それぞれに、どこの国からの訳本、戦術を輸入するか、という観点がありました。国に寄っても戦術が異なり、担当者はどの国に準拠するか、頭を悩ませています。

幕末期の近代的な歩兵の運用方法は、当時西洋ではそれぞれの国で標準化されていました。衝撃力、火力、機動力を組み合わせたもので、これがそれぞれ、縦隊、横隊、散兵の陣形に対応します。(散兵とは、兵を密集させずに適当な間を取っておかせること)これを、オーダーミックスといいます。

そしてこの運用が、隊の装備する小銃によって変わります。
まず基本として、以下のように纏められます。

● 前装式滑腔銃時代 (火縄銃、ゲベール銃(蘭)など)

歩兵は、縦隊と横隊を組み合わせた、密集陣形。命中率の悪さを、銃を固めることで補った。
横隊の火線(敵と砲火を交える戦闘の最前線)は、一般的に3列構造。三段階で撃つことにより、弾込めに時間がかかるのを補う。

● 前装式施条銃時代 (ヤーゲル銃(蘭)、ミニエー銃(仏)、エンフィールド銃(英))

初期のオランダでは、前装式滑腔銃を持つ縦隊・横隊と連携して、前装式施条銃を持つ隊が撒兵として前哨に展開した。(前哨とは隊が敵地の近くに停止する際、停止地点の前方への配置のこと。主に警戒のため)
一方、ミニエー銃が普及し、滑腔銃が廃れると、横列・縦列の陣形も、密集だけではなく、散兵が加わることになる。さらに、三列だった火線が二列になり、戦闘隊形における機動力が向上した。
ただ、前装式は弾薬の装填に時間が掛かるので、間断なく火力を維持するには、密集隊形はなお取らなければならなかった。

● 後装式施条銃時代 (シャスポー(仏)、スナイドル(米)、スペンサー(米))

1680年代後半から。後装式で装填時間が飛躍的に減少。短時間で連発できるので、密集隊形を取る必要が無くなった。むしろ敵の前で隊形を組むと、敵の良い標的とされて、大きな損害を蒙ることになった。この段階に至って、歩兵は全て散開する散兵となり、兵士の各個射撃が重視されるようになった。オーダーミックスの中で、散兵の部分が独立、発展していく。ただし、兵は自分達で行動を判断できるようになる必要がある。命令を行き渡らせることが難しくなる。ラッパは太鼓よりも多くの複雑な命令を伝えることができるので、ラッパが採用された。
さらに、密集隊形であれば「逃げると殺す」と士官が威圧的に兵を抑えることも可能だが、散兵ではすぐに脱走されてしまうため、兵の一人一人の訓練の熟度と士気が徹底的に重要になる。


これが、オランダ式、イギリス式、フランス式と雑多に導入されていく中で、兵式が各藩によって、また年代によって異なり、雑駁を極めていくことになります。

その中で、どのような兵法書が翻訳されて、兵制にどう影響を与えたか。戊辰戦争や明治陸軍にいかに採用されていったか、というのが論文の主題でした。

ここに、大鳥の関わり方がちょっと面白いのではないかな、と思えたことがあったのですが。

明日続きをいきます…。
posted by 入潮 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

維新期の兵式その2、大築尚志と大鳥圭介

兵式、続きです。話が細かくなるので、軍制に興味の無い方は、スルーしていただければと思います…

「兵式」とは、要するに軍隊の様式。訓練法、装備、戦術などの方法のことです。

兵式の大まかな流れとしては文久年間の前装式滑腔銃から、慶応年間の前装式施条銃へと移り変わります。
それぞれの兵式を訳した本としては、以下の通りです。

● 文久年間:前装式滑腔銃、オランダから原書を翻訳。
同じ前装式滑腔銃でも、火縄式→燧石式→雷管式と、発火の形式が異なっていく。

代表的な訳本は、Reglement op de exercitien en manoevres der infanterie (1861)。これは、生兵教練、小隊教練、大隊教練、散兵教練の4部から成る。

訳書は、求実館と幕府陸軍所から刊行されている。
幕府陸軍所刊の和文名は「歩兵練法」で、これが1864年、大鳥圭介訳。第一帙「生兵練法」と第二帙「小隊練法」が幕府から出版されたが、未完だった。後に第三帙の「大隊練法」が民間から松園蔵版として刊行された。訳者は不明で、陸軍所刊行のスタイルを踏襲している。
官から1巻、2巻が出版されて、3巻が民間から出されたというのは面白い話。大鳥が実地訓練へ入ったから3巻まで手が付けられなかったということだろうか。

求実館版は本間寿助が「歩操新式」のタイトルで、1864年〜1865年に翻訳している。やはり、生兵、小隊、大隊までで、散兵部分早くされていない模様。

外に、Voorschrift betreffende de wapens en schietoefeningen bij het infanterie (1860)を原書として、「歩兵心得(内題として歩兵武器取扱打方稽古心得)」が大築保太郎(尚志)により翻訳されます。これはオランダ軍制の小銃教本です。

この大築と大鳥の関係がけっこう面白い。

話は兵式からそれますが。大鳥も大築尚志もどちらも陸軍所から訳書を発刊し、二人は兵書の翻訳係として、この頃から同僚でした。なお、元治元年、幕臣に取り立てられたのも同時。大築、大鳥、鵜殿団次郎の三名が連名で、西洋軍事知識に通じた者として採用されています。勝海舟「陸軍歴史」より。

「右三人の者兼而英学蘭学熟達の者にて、其上団次郎義は数学測量、圭介義は数学築城学、保太郎義は地理学築城学等殊に練達仕、已に兵書取調方出役被仰出候以来、翻訳書数多出来候上、兵書取調等日夜勉励仕抜群の者に有之候間、格別の訳を以て新規被召出」

とのこと。大鳥の数学、保太郎が地理学というのに、どういった成果があってのことなのかはわからないのですが。
この時大鳥は阿波藩「松平阿波守家来」大築は佐倉藩「堀田相模守家来」ということで、陪臣から直参への取立てでした。御手当は二人とも十五人扶持金十両。
(ちなみに、保太郎の弟彦五郎は、慶応元年4月、14歳にして幕府のロシア留学生に選ばれています。この時の同行者に山川大蔵がいた。)
で、慶応2年、二人と荒井郁之助が、横浜にて「仏蘭西国業前伝習」を仲良く仰せ付けられています。

が、この時大築は病を得て、療養生活に入ります。この時、大鳥が大築の病を心配した手紙のオリジナルが、沼津明治史料館に保管されています。

慶応3年9月には回復した大築は業務に復帰。この頃、三兵フランス伝習が横浜から江戸に移される。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦の後に歩兵差図役頭取に任命、さらに「柳営補任」には2月に歩兵頭並とあり、戦中どさくさまぎれの昇進まで大鳥と似ています。

しかし大築は脱走はせず、幕臣として沼津へ。

この恭順と脱走の道別れについてですが、大鳥の脱走に際して、大築は大鳥から妻子を託され、同じく佐倉の洋学者である友人の荒井宗道(鉄之助)宅に大鳥妻子を送り届ける手伝いをしたりしています。

似た経歴を歩んでいたら、いっそう方針の違いで仲違いをするというのは良くあることですが、この二人の場合は、そうしたことはなく、良好な関係を保ち協力しあったまま分かれたようです。

大築はそして、沼津兵学校の一等教授、大佐格となります。戊辰戦争後、廃藩置県と沼津兵学校の新政府接収に伴って、陸軍中佐兼兵学助として明治政府に出仕。
明治6年大佐。このとき同じく砲兵大佐だったのが、武田成章。五稜郭設計者です。共に、砲兵科の先祖、泰斗として尊敬されたとのこと。

ただ、大築は洋学者としては用兵、軍政、教育といったソフト部分の担当であり、大砲製造などのハード部分の造兵は大築にとってむしろ新分野だった。けれども大築はその任務によく答え、その後、陸軍砲兵工廠の創始者、陸軍造兵界のシンボルとまで称されることになります。砲兵局長を経て、最終的に陸軍中将にまで叙されました。


明治前期の陸軍の砲兵・工兵左官には、旧幕臣がごろごろいます。脱走組でも、明治15年ごろの丸毛の記録では、小菅辰之助(智淵)が工兵中佐、筒井於兎之助(義情)が陸軍少佐、関廣右衛門が陸軍大佐とあり、箱館組でも、単なる士官よりも技能持ちの砲兵・工兵の出世が早いです。もともと新政府軍には工兵が存在せず、工兵制度のあった旧幕から多くの移譲を受けなければならなかったというのはあったと思います。

ただ、伝習隊の本多や大川が大尉どまりだったことを思うと、彼等の昇進は刮目すべしと言えるかと。

能のある人間は、恭順組だろうが脱走した賊だろうが、関係なく重用されていると言ってよいかと。

薩長の人間しか重く用いられなかったというのは、多少の藩閥コネも確かにあったでしょうが。決してそれだけではなく、多くは手に職がなくてあぶれた人間の負け惜しみのほうが本質的だったのではないかと思います。

概して言えば脱走組には就職・昇進の不利は新政府側・恭順組に比べれば確かにあっただろうけれども、実力があればそれは大した障害にはならなかった、と。あと、廃藩置県前の明治3,4年と、その後とでも、全く状況が違うというのは感じられます。さすがに釈放直後は脱走兵は敗残の賊兵扱いで、身の立てようがなかった。けれどもその後は、戊辰戦争経験者の経歴を生かすことができた。

で、そこまで見てから思うことで、だいぶ飛躍した考えであるかとも思うのですが。

大鳥ら洋学者は、脱走組と恭順組にあえて別れることで、洋学者の役割分担をした。そして、洋学者の生き残りと、導入した技術の実戦、そして次世代への継承を図ったのではないかな、と。

結果的にそうなったということで、脱走当時に彼等にどこまで思惑があったかというのは分かりませんが。

洋学者同士で、脱走と恭順での争いが全く見られない(前島密はおいといて)。恭順側の宇都宮三郎は病の身を圧して京都まで箱館政府容認の嘆願に行ったし、福地桜痴に至っては江湖新聞という佐幕新聞で脱走兵を守り立て発禁処分を食らっていた。洋学者の間で、脱走者と恭順者には、確かに精神的な繋がりが見られます。

他の洋学者出身の陸軍脱走組には、吉沢勇四郎、米田桂次郎、古屋作久左衛門などがいます。海軍もそうですが、結構、恭順組と綺麗に分かれたな、という感じはしていました。
吉沢も古屋も戦の中に倒れ、残念ながら後の世にその才を生かすことはできませんでしたが…

脱走組は、自らの命をも道具として導入した技術の実践部分を担った。恭順組は、脱走組の「成果」も取り入れながら、旧体制で得た技術を次の世で活用し、確実な技術継承を行った。

大鳥と大築らのあり方からは、そうした繋がりと役割分担が伺えてしまうのです。

恭順した大築が後に陸軍で活躍し、戦った大鳥は陸軍の敷居を跨ぎたがらなかった、というのもまた対照的ではありますが…。

と、話が脱線したまま、進みませんでした。本日はここまで。
前装・後装式施条銃については、また後ほど。

なお、大築に関する記述のほとんどは、「幕末維新論集〈12〉明治維新の人物像」収録の樋口雄彦氏の「大築尚志略伝」によります。
樋口先生、本当にいい仕事をしてくださっています…。
posted by 入潮 at 03:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月13日

維新期の兵式 その3

「兵式」次行きます。
同じく、「軍事史学」165号の淺川道夫氏の「維新建軍期における『兵式』問題」より概要のご紹介です。

蘭式の前装式施条銃は、あまり輸入量は多くなく、活躍期間も長いものではありませんでした。
変わって台頭してくるのが、イギリス式です。
これは、幕府および緒藩の外交相手として英国が優勢になり、それにつれて英国式の前装式施条銃、エンフィールド銃(Enfield Rifle)の輸入量が増え、蘭式のゲベール銃が少数派になっていったことが関係するのではないかと思います。

● 英国式前装式施条銃

英国式の、ミニエー銃形式の前装式施条銃は広く用いられました。「明治4年の兵器還納時に収管されたエンピール銃(エンフィールド銃)は53023挺に及び、これは小銃全体の三割近くを占めるものだった」とのことです。

蘭式からイギリス式への転向ですが、同じ前装式施条銃を用いる限りは、教練の方向をあまり変更せずにすんだとのことです。逆に、前装式滑腔銃から前装式施条銃への転換のほうが、編成や教練に大きな差があり、変更に手間を要したといいます。

慶応年間に入ってから、赤松小三郎と浅津富之助が「英国歩兵練法」(正しくは「英」に口へんが付く)を共訳します。原文は"Field Excercise and Evolutions of Infantry (1862)"。これは、生兵、小隊、中隊、施条銃使用法、大隊運動、軽歩兵について。
さらに赤松は、慶応三年にこれを「重訂 英国歩兵練法」として、改訂版を薩摩藩に上梓しました。橙色の独特な表紙だったので「赤本」として重用されたとのことです。

なお、赤松小三郎は上田藩の兵学家。佐久間象山らに師事しており、安政2年には長崎海軍伝習所で伝習生として加わっています。各藩が揃って招こうとし、薩摩藩に招聘されます。その後、薩摩藩士に兵学教授をした後、上田藩に呼び戻されようとしますが、その際に、京都で暗殺されてしまいました。優秀な人材ゆえに、「敵」の手に渡ることを恐れられた。維新の暗部です。

さらに、エンフィールド銃を扱った小銃教本として"Regulations for Conducting the Musketry Instruction of the Army”があります。これは福沢諭吉が「雷銃操法」として翻訳しています。これもまた時勢に必要とされて相当な数が売れたとのことです。

福沢諭吉、よく伝記では戊辰戦争には関与せず維新の混乱期でもひたすら学問と教授に日々を費やした、という書き方をされていますが。戊辰戦争のおかげちゃっかり知名度を上げていたわけですな。


● 英国式後装式施条銃

英国式の後装式施条銃としては、スナイドル銃(Snider Rifle)があります。その教本が日本にもたらされたのは戊辰戦争中で、後装式施条銃の兵法導入は、実は戊辰戦の実戦には間に合いませんでした。
前述の"Regulations〜"にはスナイドル銃使用法部分があり、これを古川節蔵が「元込施条銃操法」として、翻訳しています。これは福沢の後を継いだか、共同作業だったのではないかと思われます。

古川は岡本亀五郎、岡本周吉、古川正雄とも。広島の小田村の庄屋の三男出身。福沢諭吉の弟子で、慶応義塾初代塾長。榎本に加わり脱走し、「高雄」の艦長に就任。宮古湾会戦に参加するため高雄で回天らに同行。しかし暴風雨で座礁し、上陸したところを新政府軍に捉えられました。明治期には海軍省、工部省にも出仕しています。

また、同じ英国式スナイドル銃教本の原書の"Field Excercise and Evolution of Infantry(1867)"は、英国での発刊の翌年には既に日本で翻訳が行われました。訳者は福井藩の瓜生三寅で「歩操新書増補」。また、栗津_次郎が明治2年に「英国尾栓銃錬兵新式」を訳しているとのこと。「尾栓銃」とは後装式銃のことでしょうか。導入当初は言葉の当てはめにも苦労したのが伺えます。

● フランス式前装式施条銃

慶応に入り、徳川幕府がフランスからの支援に基づいて軍制改革を実施すると、フランス式教本の翻訳が幕府機関を中心に行われるようになりました。最初は開成所の林正十郎が1866年に訳した「法蘭西歩兵操錬書」。これは、重歩兵用のテキストを訳したものでした。(重歩兵は、一般的には分厚い鎧、ヘビーな武器を装備した、防御力の大きい歩兵のことですが。ここでは単に密集陣形を取る歩兵のことかと)
原書は"Re'glement du 17 avril 1862 sur l'exercice et les manaeuvres de l'Infanterie"(フランス語のアクサン記号などの特殊文字の出し方がわからないので、記号は入れていません。すみません…)

そして、軽歩兵用の教法を訳したのが、「仏蘭西歩兵程式」です。1867年発行。訳者は大鳥圭介。原書は"Reglement du 17 juin 1864 sur l'exercice et les manaeuvres de l' Infanterie"。

これは、時節を考えると、フランス教官のブリュネらが来日して、大鳥が大田村の陣屋で教練を受けにいった頃の作業かと思います。この時の様子は、「名家談叢 実歴史談」に詳しいです。
「昼は終日操練に従事し、夜は深更に至る迄荒井郁之助子とともに佛書三兵練法を訳して諸士官に分配し毫も怠ることなし」という日々。なお、大鳥がフランス語を学び始めたのはこの時になってからのことでした。昼は歩兵と一緒に泥まみれの教練を受け、夜は荒井さんに筆記してもらいながら翻訳作業。空いた時間にブリュネからフランス語を学ぶ、という生活を送っていた頃。いつ寝ていたのだろう、という過密スケジュールの中で訳された本でした。なお、未完でした。

これらはまだ前装式施条銃の段階で、フランス軍事顧問団の指導を受けて編成された伝習隊も、訓練にはエンフィールド銃を用いていたとあります。

伝習隊の代名詞である後装式施条銃、シャスポー銃(Le fusil Chassepot M1866)ですが、これが2000挺ナポレオン三世から幕府に送られた際、まだ後装式施条銃の教本は訳されていなかったとのこと。よって、「結果的に後装銃段階の訓練までは及ばなかったと思われる」と論文は述べています。

この陸軍所版の大鳥訳を引き継ぐ形で、田辺良輔が戊辰戦争後「仏蘭西軽歩兵程式」として1869年に訳しました。

諸藩の間でフランス式が普及し始めるのは戊辰戦後の1870年に入ってから。しかし、その準拠となる教本はすべて前装式施条銃段階のものだったので、当時の操錬はほとんど全部が密集陣形を採ったものだったとのことです。


●フランス式後装式施条銃

シャスポー銃に対応する後装式銃の教本の訳を最初に、明治3年、五稜郭設計者の武田斐三郎が「法国新式歩兵演範」として、松代藩の藩校から出版しました。これにより松代藩は維新政府に先行して後装銃の仏式教練を行うことになりました。

また、維新政府の陸軍兵学寮が、1869-70年に、前述の「官版 歩兵程式」を訳しています。この訳本には、シャスポー銃用の1867年制小銃教範の増補がなされていたとのことです。訳者は不明。


……ここまでで、息切れです。

見たことのある名前の方がたくさん。この文久〜慶応の当たりでの兵制、兵式、砲術に掛かる面々というのは、戊辰戦争中、そして後の明治の世においても、特に実務部分で活躍した重要人物ばかりだといえると思います。軍事技術がまず科学技術分野の中で突出し、後の国の産業を引っ張るという例がここにも見られるかと。

そして、この部分、仏式前装式・後装式への変遷について、大鳥の名前がちょろちょろ出てきているのですが、ここについては、もうちょっと突っ込みたいので、また明日行きます。
posted by 入潮 at 04:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月15日

診断とか占いとか

「根拠ない血液型性格判断」
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/rikei/news/20070214ddm016070128000c.html

良くぞ言ってくれた、と喜びました。

血液型に、性格を判定できる要素など何も無い。
小学生の頃から、ずっと思い続けていました。

自分の血をウサギやらネズミやらの血と混ぜて固まるかどうか(=抗体反応の有無)で、自分の性格が決められてたまるか。
しかも人間の性格なぞ複雑極まりないのに、A、B、O、ABと、たかが四種類に分けられようはずが無い、と。

自己紹介などで血液型を書いたり言ったりせねばならなかったりすると、面白くないので、医療や戸籍などに関わること以外は、全部スルーしていました。

あまりに周りが血液型性格判断を普通に行っているので、なんだか自分が間違っているのではないかとか、世間に反抗するだけの天邪鬼なんじゃないかと不安だったりしたのですが。

これでなんだかすっきりしました。

占いにしても、診断にしても、人間、誰かに自分を分かって欲しい。理解して欲しい。そんな願望をついた上手い商売だなぁ、と思います。けれども結局は詐欺めいた弁論術にすぎないわけで。

「答えは貴方の中にあります」など、一見ものすごく説得力があるように見えて、けれども何も具体的には示唆していない。そういう、便利な言葉というのはいくつかあります。

「あなたは本当は優しい人」「貴方は本当は寂しがりやでしょう?」
とか言われても、人類60億、皆そうだ。わざわざ口にせんでいい、と思います。

「当たっている」と思うのは、自分がそう思うだけであって。何かしら適合する文句を自分で見つけているのに過ぎません。

動物とか歴史人物とか、いろんなキャラクターの型に当てはめるサービスはウェブに数多いようですが。人が勝手に作った枠組みに自分を合わせて、何が楽しいのかと感じてしまうひねくれ者です。人間はもっと複雑だ、と。
…同化行為は確かに楽しそうだなと思いますが。

診断結果の紹介もブログのいたるところで行われており、見ない日はないというぐらいで。それだけポピュラーなんだな、とは思うのですが。
それだけ自分がどういうタイプの人間か、分かって欲しいというのがあるのかな、と思います。理解してもらいたいという欲求はだれもが持つものですので。

(せっかくの発信手段なのだから、他人が作った分類結果をコピーペーストするより、自分の頭で苦労して自分の文章をひねり出して示すほうが、よほど目的に適うのではないかとも思ったりもしますが…)

けれども、だいたい性格なぞ、下手に類型化しても、相手や環境が変われば人間の感じ方も違ってくるわけで。
自分、家族の前と友人の前と上司の前では全く性格は違いますし。更に言えば関西弁のときと標準語のときとでも変わります。

私は、性格を決めるのは、遺伝と環境と読んできた本、だと思います。

人の性格が知りたいなら、血液型や星座を聞くより、本棚にどんな本が多いですかと聞くほうが、よっぽど具体的な真実に近づけると思います。

星占いも、わけが分からないです。何で太陽の軌道が、昔のギリシア人が勝手に決めた星のつなぎ方や天球の区分を通るから、幸せだとか不運だとか決められないとならないのか。イエローがラッキーカラーで、スカーフがラッキーアイテム、猫は避けて通ること、とかいわれても、理解する気がおきません。得手勝手で不可解な世界観のファンタジーを押し付けられている気分になります。

心の安らぎと楽しみが得られるならそれでいいとは思いますが。
時々、そんな妙なものを信仰してても、なんら生活に寄与しないのではないかと思うことがあります。

たとえば、就職判断などで見かけますが。

休日の過ごし方は?という質問の選択肢で 「1) 屋内で読書 2)キャンプでアウトドア」 などという項目があり、1)を選ぶと、「思索的な貴方は研究職が向いています」、2)を選ぶと「活動的な貴方は営業が向いています」などへベクトルが向かうようになっている。

…勘弁してくれ、と思います。一日中ひたすらインターネットやってごろごろしていたいときもあれば、体力の限界までバイクで走り回りたいときもある。

就職というのは、就職先のもつニーズを分析し、その中で自分の今持つ能力、経験、ポテンシャルがどう活用されうるか、相手が必要としている分野にいかに自分を売れるかであって。自分の性格で相手が選んでくれるような生易しいものではないだろう、と思います。自分の希望を言う助けにはなるでしょうが。性格がこうだから、ではなく、こういう能力があるから、で選ぶものだと思います。でないと相手企業にとって迷惑です。企業は性格に対してではなく、仕事する能力と成果に対して報酬を支払うのですから。

こうした性格判断は、そういった合理的なプロセスを省いてしまって、「今の貴方で必要とされるのよ」という夢見がちな幻想だけを与える。なので、かえって本人に対して為すことが悪いのではないかと感じたりします

判断というのは、ものの原理とか仕組みとか道理とか、いちいち言葉をひねくり回して考えて理解しないと答えにたどり着けない、ややこしい作業です。けれども、人間、基本的に怠惰なので、そこになんとなくでも手っ取り早い答えがあれば、ついそれに飛びついて、安心して、そこで終わってしまう。そうすると、人間が生産的に物事を考えるための必要な土台が育たない。占いやら診断やらに判断を頼ってばかりだと、何か不都合があったとき、それを処理してクリアするだけの論理的下地が自分の中にできない。だから脆い。現代人がストレスに弱いというのも、その原因を特定して攻略する論理的思考が育ってないからというのが、その一因にあるのではないかと思います。

手っ取り早い安易な解答ばかり与えてもらっても、ものの見方は広がらないし、価値観も育たないし、問題解決はできないし、結果に対する責任感もないまま。調べ、考え、悩み、自分で結論をひねり出してこそ、自分の行動とその結果に最後まで立ち向かう根性と人間性が得られるのではないかと思います。

といっても、こうした根拠が根拠になっていない分類やら決め付けやらアドバイスが、楽しいというのは分かります。
根拠がないからこそ、いっそう、そこに神秘的なものを求めたがる人間の心理は確かにあると思います。
儀式や信仰といった、人間や国のアイデンティティを強める手段としての占いは、良いものだと思います。

ただ、占いにしても診断にしても、多くは安心するための手法に過ぎない。未知なことへの不安を和らがせる効果はあるけれども、それでなんら現状が変わるわけではない。しょせん娯楽にすぎない。

エンターテイメントはエンターテイメントとしてそれ以上のものではない、ということで、話題の供給源として楽しむのは、いいのではないかと思います。


…と、兵式をまとめるのに手間取っていることの逃げとして、当たり障りのない(?)話題を。
後装式戦術の例として小山・武井村の戦いを上げようと思ったら、複雑でプロセスを追いきれません。
「大鳥は有能です」と答えだけ示して逃げたいです。でもそれだと何も説得力がない。
答えを与えるだけで信じてもらっている占い師とかいう家業は、なんて楽な商売なんだろうと思います。
posted by 入潮 at 12:52| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月16日

チョイオタがカッコイイ。

ええと、昨日占いについて、ぶちくさ文句を垂れてみたら、その日、尊敬する方のサイトにその方の占い結果が示されていたりして。なんだか夜逃げしたくなってしまった小心者です。こんばんは。

いや、その。
占いは良いです。占いは文化と共に培われてきました。古代の政治の意思決定は占いなくしてありえなかったといっても過言ではありません。人間の、到底抗えぬ自然への畏敬をこめたすばらしい行為だと思います。正月の初詣でのおみくじも、年の区切りとけじめ、生き方を自らで知覚することのできる、素敵な風習だと思います。

…とフォロにならないフォローをする自分が、だいぶツライ。

さて。ニュースからもう一つ。

「チョイオタ」がカッコイイのだそうな。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070216-00000028-inet-inet

「チョイ」=「ちょっと」で、昨年流行った「チョイワル」から派生してきた言葉だと思います。

ちょっとオタク。
ライトなオタク。


オタと省略して言うのは、オタクの蔑称かと思っていたら、特にそうでもないようです。

以前に「オタク文化論」ということで、オタクとは情緒と共に無償の献身で調査・創作・創造を行い、高いスキルと精神性と美意識を有し、武士道に通じる日本古来の高尚な精神素養を継承した存在であること。そして、萌えとはあはれ・ゆかしさと惻隠の情を内包した、奥深くナイーブな感性の表れであると、調子に乗りながら、のたまったことがありました。

上の新聞記事は、オタクをそこまで評価してくれていませんが、ライトなオタクをとても肯定的に捉えてくれていると思います。アンケートの標本数は少ないし、サンプリングも偏っているようにも感じるのですが。着眼点が面白いです。

アンケートの結果。

「ちょっとオタクではある」と自称した回答者は68.7%、「雑学にあかるく、情報通」48.4%、「明るく堂々とオタクをカミングアウトしている」31.4%

とのこと。そして、チョイオタは、「広く浅く、そして様々なジャンルに明るく、守備範囲の広さ話しのユニークさなど、好印象なイメージ」があるとしています。

「チョイオタ」は、豊富な教養と文化理解とユーモアのセンスで、一部とに知識と健やかな笑いを供給しているのです。それは、10年20年といった、あるいは子供の頃からの、たゆまぬ対象への愛と理解があってこそ為せる業です。
「チョイワル」のような浮薄なファッションとは違います。

一方、ちょっとではないオタクの場合、のめりこみ方やお金のかけ方が違う、コミュニケーションが苦手、という、少々ネガティブな一般イメージがあることを述べています

オタクがコミュニケーションが苦手と思われるのは、知識が深すぎて、だれもついていけないから、一般人相手には黙っているというのが関係しているのではないかと思います。
しかしながら、オタク同士、同じ趣味が通じることがひとたび分かれば、そこに瞬間にして氏族血族のような親和性が生じる。むしろ私は、オタクはコミュニティ作りの達人なのではないかと思います。

そして、そうした深い知識こそが、唯一無二の価値と発見と生産を世にもたらすのです。誰もが知りうること、できうることには、大した価値はありません。一方、オタクが、技術と知識の粋を凝らし、精魂を込めて生み出した作品は、まことに見事です。世界を席巻するジャパニメーション、Mangaの姿は、オタクたちの不断の鍛錬が凝結した結晶といえるでしょう。

そして、分からない相手にわざわざ分からない話をするまでもない。自分の価値観を確固たるものとした、独立不羈の人間性を持つ存在でもあることの現れではないかと思います。この自分を持たない、自己を造れないでいる魂のぼうふら的現代一般人の中にあって、オタクは、自己とは何かを知る、精神の灯台のようなまぶしき存在です。

オタクへの認識も、変わってきました。というか、千差万別に広がってきたような気がします。
「特定の事物に強い関心と深い知識を持つ一種のエキスパート」であるという尊敬の念の混じったポジティブな評価から、「現実の女性に相手にされないから二次元のキャラクターに依存する男性(あるいはその男女逆)の逃避行動」など捉える蔑視的な見方まで、ずいぶんと差があります。

こうしたライトオタクにしてもヘビーオタクにしても(こう表現するとなんだか武器のようだ)、評価が別れてきたのはいいことではないかと思います。それだけ世間に特異な存在ではなくなってきた。また、サブカルチャーが、本来のカルチャーの領域にまで進出してくる可能性をはらんでいることの証ではないかと思います。

前述のように、オタクのもつすばらしい素質、精神性、生産性、社会性は、技術立国日本の行く末の中で、もっと有効に活用すべきではないかと考えます。オタクの無償の活動が生むマーケット価値と文化的貢献は、もはや定量不可でしょう

しかしながら、さらに一般的に認知され、その崇高な精神と行為に見合う評価を受けるには、現状の世間評価に惑わされず、阿世を行うことなく、オタク自身もまた不断の自己研鑽を続ける必要があると思います。

一つの分野に深いだけでは、オタクのネガティブな印象は完全にはぬぐえません。
縦に深い専門性を備えながら、同時に横に広い一般教養を併せ持ち、博識と専門知識の双方が必要ではないかと考えます。同じオタク分野においても、スペシャリストとジェネラリストの双方の役割を同時に担うわけです。それがあってこそ、格好のタイミングと場面において、自己の分野を一般へ浸透させることができるのではないかと考えます。

そういう自分は、まったくこの横の広がりを欠いています。特に、ことテレビの話題になるとまったくついていけません。芸能人も知りません。そうした話題になると貝のように口を閉ざします。日本のアイドルは皇室の方々だけで十分だと思っています。4割ぐらい本気です。
もうとっくに、一般から隔絶した逃避型ヘビーオタクと思われているかもしれない。いや、事実だから別にいいのですけれども。

なんにせよ、オタクについても、一分野に誰にも追従させぬ深さと、広く一般的な話題に対応できる教養を併せ持った、「T字型」オタクを目指したいと思います。

……だいぶ自分が何を言っているのか分からなくなってきました。
こういうことをやっていると、自分が心底阿呆だと思えて、なんだか気持ちがいいです。
現実逃避はこのぐらいにして、仕事に戻ります…。
ラベル:オタク
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2007年02月20日

東京マラソンと中国からお客様

東京マラソン。

通行止め解除と同時にバイクで走ったら、都心は道がえらく空いていて快適でした。東京をあれだけ昼間にかっとばせることはまずないだろうなぁ。

とうことで自分は仕事のためにスルーだったのですが。後からレポートを読んでいたら、うっかり感動してしまいました。

街ぐるみのビックイベント。共同体意識が希薄だといわれる東京住民に、「東京」というコミュニティ意識を芽生させるきっかけになった、という新聞の評価。
東京の、住民意識が薄いというのは、要するにみんな土地の人ではなくて地方から働きに出てきた田舎者の集まりだから、だと思うのですが。
こうした現代の「お祭り」で、東京という一つの棲家に、新参者達たちが根を下ろすきっかけになるというのは、田舎者江戸住民の一人として、嬉しいことだと思いました。

普段行く仕事場の近くの銭湯が、東京マラソンで練習する人のために、去年の暮れに浴槽を削ってシャワーとカランを広げる改修をしていたり。犠牲になった浴槽は、家庭の風呂と変わらない大きさになってしまった。
それでも、マラソン前は練習のランナーでシャワーがいっぱいになってしまい、時間待ちが出る有様。
「全然採算は取れないと思うのだけれどもね〜」と、銭湯のおばさん。ランナーのために、自分の城をシャワー場のように改装してしまったのは、あっぱれだと思いました。

レポートを読んでいて面白かったのは、トイレ。
当日、朝は冷たい雨が降り注いだために、3万人のランナーの体は冷えた。なにぜ3万人。スタートするまでも一苦労。登録や、荷物を預けるのに行列をつくる。スタート前のトイレも大行列。これに並んでいて、スタートに間に合わず、20分以上も遅れたランナーもいたとのこと。
それで、スタート後に民家やコンビニでトイレを借りたランナーも数知れず。コンビにはともかく、普段から知らないお宅でトイレを借りるなんてことはまずない。この当たりの地元の人の受け入れが嬉しかったとのことで。

いずれにせよ、トイレ不足はランナーを苦しめて、大会運営の課題として残ったとのこと。

今、水処理メーカーの方と仕事でお付き合いしているのですが。これがまた70超えた職人肌の私好みのじいさま。生活排水、つまりトイレの排水を環境にそのまま放出できるまで浄化できるシステムを開発。単なる微生物処理なのだけれど、これが、通常2日3日は滞留時間が必要なところ、3時間もあれば、仮設トイレの槽もすっきり綺麗になるのだそうな。花火大会のときに大活躍だったのだそうで。現地処理してその場で流せるのなら、コストも低くすむし再利用もしやすい。
来年の東京マラソンの時には、そうした技術にもお呼びがかかるといいなぁと思いました。

あと、用意されていたバナナや梅干、氷菓子などの栄養補給用の食糧がすぐになくなって、約2万人のランナーが空腹状態におかれてしまったとのこと。参加費1万円で、バナナの一本も食べられない、と。運営費の問題ではなく、単に運営者の調達の見込み違いとのことでしたが。事前に30数万本のバナナが用意されたと聞いていたのだけれども、どこにいったのだろう。

ところで、サルの着ぐるみやメードなどの衣装を着た市民ランナーもいたのだそうな。
お祭り騒ぎで神輿も出たとのことで。そのうちコスプレーヤーとかも走り出さないかと、ちょっとどきどきです。だれか始めたら、きっと広まるだろう。まず手始めにスポーツ漫画からとか、やりやすくていいじゃないでしょうか。

そんな感じで。いろんなドラマがあって、レポートを見ても、ちょっとじーんと目頭が熱くなりました。両足義足のランナー、沖縄の島袋勉氏も制限時間内ではないけれども、完走された。彼の存在が色々なランナーを力づけたそうです。

余韻が残っているのか、刺激を受けて来年は自分も走ろうと思ったのか、マラソンが終わってからも、皇居の周りを走る人の数はそんなに変わっていませんでした。むしろ増えているようで、びっくり。
皇居ランナーが増えると、皇居チャリダーとしては夜ぶつかりそうになって怖いですが。

東京という都市が、また少し好きになりました。

関連記事:

http://www.janjan.jp/culture/0702/0702190319/1.php
http://mytown.asahi.com/tokyo/news.php?k_id=13000000702190002
http://news.livedoor.com/article/detail/3035684/
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070218-OHT1T00061.htm
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/02/19/01.html


さて、この日、上海在住のDさんが、うちのボロ家に泊まりに来てくださいました。ほわほわした雰囲気の、それでいて豪傑な方でした。
中国は、初めての海外旅行で本当に通り抜けただけですが。デイパック一つで1ヶ月貧乏旅行をして回ったことがありまして。その際のことを思い出しつつ。変わり行く中国というのは、いろいろなところで囁かれていますが。本質は同じなようです。かなり中国と中国人ネタで盛り上がりました。具体的なことはちょっと公な場では言えない。

Dさんは中国史ご専門の方。中国のエンターテイメントジャンルといえば、三国志とか項羽と劉邦とか、その当たりばかりかと思っていたのですが。近現代史ジャンルというのがあるのですね。極少だとはおっしゃってしましたが。たしかに、強烈なキャラクター揃いです。なんだか、国民党を見る目が違ってきそうです。

普段自分では買わないような良いビールを大量に用意してください、そしてすべて消費してしまった。ありがとうございました。

そして翌日、Dさん、バックパックなのに、東京江戸博物館、浅草の蔵前を回って上野まで歩くルートをご紹介してしまった。後から自転車で行ってみて、やっぱり遠いよなぁ…と、青くなりました。恩を仇で返してしまったかも。にわか住民が無謀に案内すると、そうなります。大丈夫だったでしょうかと心配です…。
ラベル:皇居
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2007年02月21日

維新期の兵式 その4 武井村・小山の戦い

ちょっと間が空いてしまいました。「兵式」続きを行きます。ここからが書きたかったことです。(「その3」までを飛ばしてここから読んでいただいても、全く支障はありません)

浅野氏の論文では、戊辰戦争前、つまり慶応4年前までにおいては、前装式施条銃段階(密集隊形+歩哨としての散兵)の訓練までしか行われていなかった。大部分の藩は、後装銃段階(隊全てを散兵)の訓練までは及んでいなかった、と考察されています。

よく幕末軍事で出てくる用語の「撒兵」は、散兵と同じ。フランス教練によってもたらされたナポレオン式散兵戦術、あるいは英国式の後装式銃による散兵です。それまでの兵隊を密集した集団とは異なり、開戦すれば兵を分散させて自由な隊形を取らせ、土地の起伏や建物、樹木などあらゆる地形・障害物を利用して隠蔽も可。かつ、施条銃の命中率を以って狙い撃ちの銃撃を行いました。

密集陣形vs撒兵では、圧倒的に撒兵が有利。密集陣形は密集することによって火力の密度を補っているのに、敵は遠くからばらばらに、遮蔽物を利用してどんどん撃って来る。訓練度にも寄るけれども、後装式は前装式より装填が5倍早い。装填速度が5倍違うということは、一人が五人の兵力に匹敵する。密集隊形を取っている前装式滑空銃部隊にとっては、撒兵というのは、それはもう、悪夢です。

一方で、それだけ、撒兵戦術は、複雑な命令を行い兵を動かせる訓練の熟度と、兵一人一人の士気の高さを要求します。

戊辰戦争当時、この最先端の散兵戦術を駆使して連勝し、新政府軍を恐怖に叩き込んだ旧幕府部隊が存在しました。

それが伝習隊です。
その戦いは、以下の通り。

「大鳥純彰圭介旧幕府歩兵奉行、その党千六百人と下野に走り、進みて結城に逼る」
「内参謀祖式金八郎、館林、結城、須坂三藩兵を武井駅に出して、之を邀(むか)ふ、克たず
「適軍監平河和太郎、彦根、笠間、壬生三藩兵を率いて古河に赴かんとし、結城の急を聞き、転じて之に赴き、賊と小山駅に戦ふ、利あらず
「結城の軍と合し、再び小山に戦ふ、軍監香川廣安、彦根、宇都宮、岩村田三藩、及び岡田善長の兵を率いて、宇都宮より来り援ふ。賊鋭を尽くして抗拒す。官軍、復た利あらず

そう官軍側記録(復古記)をして、言わしめました、武井村・小山の戦い三連戦です。
(正しくは「適軍監平河和太郎〜」は、別働隊でしたが)

えっと、以下、地図がないと位置関係を掴むのが難しいと思います。関係図は明日上げます。すみません…

経緯ですが、江戸脱走後、国府台に旧幕府勢力が結集し、前、中・後軍に分かれて出立。
その大鳥の率いた中・後軍(以下大鳥軍と記述)のルート。北へ向かって、以下の通り。

国府台→関宿→(利根川渡河)→諸川→武井村→結城→小山→鹿沼→宇都宮。

この、宇都宮にいたるまでの道程で、4月16日・17日の2日間でいきなり三連戦・三連勝しました。

まず、官軍の東山道総督府は、下野諸藩からの報告により大鳥等の動きを察知。軍監の香川敬三を本隊として、当時周辺にあった以下の兵を編成しました。

(1) 平川隊: 小軍監土佐藩士、平川和太郎指揮。宇都宮に進駐し、古河方面に派遣されていた。

(2) 祖式隊:内参謀長州藩士、祖式金八郎指揮。藩論が勤皇と佐幕に別れてお家騒動を起した結城藩を、4月5日に攻略した。

(3) 香川本隊:大軍監水戸藩士、香川敬三指揮。宇都宮藩の縣勇記からの対旧幕・会津への応援要請を受け、4月1日から宇都宮に派遣されていた。4月16日の小山南方・武井村の戦いで官軍敗退の報を受け、宇都宮残存の全兵力をもって出発。
。岡田善長(旗本)が加わる。17日に小金井で平川隊と合流。(壬生兵は、幕軍が壬生城に迫るという報を受け壬生に引き上げた)

これらの隊が動き出し、新政府軍と旧幕軍の戦いの火蓋が落とされました。

第一戦は、実は大鳥軍ではありませんでした。大鳥らとは別行動をしていた草風隊・貫義隊・凌霜隊の、洋式部隊の諸隊です。

以下、各戦闘の推移。参照資料は、「復古記」「戊辰戦役史」「下野の戊辰戦争」「明治野州百年外史」「北戦日誌」「南柯紀行」「壬生町史」等。


○ 4月16日正午頃、小山南方の戦い。
官軍:平川部隊 (壬生藩二小隊+砲二門、彦根藩三小隊、笠間藩の槍隊二小隊+砲若干。約4〜5百名)
VS 旧幕別軍: (草風隊・貫義隊・凌霜隊300〜350名)

平川部隊は、結城にあった祖式隊から敵軍来ると救援要請を受け、大鳥軍に備えた。小山南方に敵兵が現れたと報を受けて、結城道で遭遇戦が展開。これは、大鳥軍と別行動をしていた、草風隊・貫義隊・凌霜隊らだった。
壬生藩はともかく、笠間兵は旧式装備。一方様式装備の草風隊・凌霜隊ら小銃が活躍し、旧幕軍側勝利。

大鳥はこの戦闘の砲声を聞いて、草風袋の鈴木弥七郎を斥候として派遣したが、鈴木は小山に敵影を見て急いで引き返してきた。

○ 4月16日正午、武井村の戦い
官軍: 祖式隊 (須坂藩(長野県)一小隊、岡田善長(旗本)半小隊+砲一門、館林藩一小隊、上田楠次)、vs 旧幕軍:大鳥軍、伝習第二大隊 一番小隊(隊長山口朴郎)、二番小隊(隊長浅田)、三番・四番小隊(滝川指揮)

武井村は結城の南南西約6km。
大鳥軍は、主要な街道を選ばず、わざと間道を選んで目立たないように北進していた。これは無用な戦いを避けて日光を目指すため。
15日、大鳥軍が諸川に宿陣。
この際、官軍が賊軍迫ると報を受ける。これを受けて官軍は結城にあった祖式隊を派遣した。これが大鳥軍と武井村で衝突。

大鳥は、伝習一番、二番小隊を出し、三番・四番を応援に。諸川には伝習二個小隊、七連隊・草風隊を予備として置いた。
まず、森林で視界が悪い中、武井村の南に在る台仙房で、官軍須坂半小隊と、威力斥侯を行っていた伝習隊山口朴郎の一番小隊が遭遇戦。

さらに、その100歩後方を進んでいた、瀧川充太郎指揮下の三番・四番小隊が、隠れて停止した。この三番・四番小隊は「東照大権現」の旗を持っている。

山口の一番小隊と、その100歩後ろを進んでいた浅田の二番小隊が、ただちに散開して敵に当たる。官軍側の旗本岡田隊は四ポンド野戦砲で榴弾を撃ちかけてくる。伝習隊はみだりに打たずに匍匐前進。麦畑に隠れたまま敵に接近し、して浅田の二番小隊が至近距離から急射を浴びせる。後装式シャスポーだから銃弾は間髪入らず打ち込める。

1時間ほど戦い、兵士が疲労してくる。浅田と山口が、隊のうち28名を分隊として藪の中をもぐり進ませ、敵の横を襲わせる。これが功を奏して敵を撤退させる。

一方、敵の別隊は、大鳥隊の背後を回ろうとする。須坂藩半小隊は、七五三場に進出、更に、大鳥本隊のある諸川に向かった。これに瀧川の三番・四番小隊が気づく。瀧川隊は急いで結城方面から引き返し、この須坂兵とぶつかった。瀧川は背後に回られ劣勢に。汗馬に鞭を打って、浅田ら前面に助けを求める。
しかしこの時、小山道にいた本多の左翼の半大隊が軍を翻してこれを救った。浅田ら第一・二小隊、滝川の第三・第四小隊、そして本多隊が合わさって敵を三方包囲。新政府軍は狼狽して瓦解、潰走する。大鳥の側にも予備兵力を出してくれと依頼がきて、大鳥は直卒して直接諸川駅へ向かったが、すでに敵は敗走していた。

一番小隊は武井村まで敵を追った。
この時浅田は、「敵兵がもし適切な距離で霰弾を放ったら我軍が勝利するのは難しかった。ところがこちらが5〜60歩まで接近してもなお敵は榴弾を用いてきた。その拙を知るべきだ。野戦においては射程距離に注意すべきだ…」と教訓めいたものを述べている。

浅田ら諸隊が諸川まで戻ると、大鳥が出迎えてその労をねぎらった。
この戦闘に時間をとられ、大鳥軍は当初の予定の小山までは至らず、諸川付近に宿営することになった。

官軍にはこの敗戦の報がもたらされ、愕然。急遽上記(3)の香川隊が組織された。


○ 4月17日正午過ぎ、小山第二次戦
官軍:香川隊 彦根藩一小隊、岩村田藩(長野県)一小隊、宇都宮一小隊、壬生藩兵、旗本岡田半小隊+砲1門 vs 旧幕軍:大鳥軍

これが小山地方の四連戦の中で最大の戦闘となった。

16日に草風隊らに敗れた平川隊を吸収した香川本隊が、宇都宮から派遣される。これは宇都宮に残った官軍の全兵力だった。

大鳥軍は17日明け方に諸川を出発、小山へ向かう。結城街道の諸川と、本道の小山の間は間道で、草むらや林が多く、道路は狭隘で見通しは利かない。

敵兵が小山駅北にありという報を受ける。大鳥はやむをえない場合にのみ戦闘に及ぶ旨を軍議で伝える。(この軍義は畑の中に筵を引いて行われた)

先鋒は持ち回りで、この日は加藤平内指揮の御料兵。御料兵は密集陣形である縦隊のままで本道を小山まで進んだ。また伝習隊二個小隊を裏手の結城道のほうに廻し、伝習隊・七連隊を後衛とした。村の若者を道案内に立てる。

ここに小山宿で御料兵が、彦根兵から射撃を受ける。狭い街道で東・西側から挟撃されて、やむなく南方に後退。
そこで大鳥は大岡新吾の伝習五番小隊を応援として派遣。宿の横面を衝かせる。これに御料兵は力を得る。

さらに、結城道の方面、浅田の伝習二番小隊と大川の八番小隊、山角麒三郎の六番小隊も、官軍左後方側面から、隠蔽して接近。二人の地元民を案内に立てた。
小山の南方で、麦畑の麦が繁茂し、そのほかは数里が一望のもとにあり、障害物がない。左のほうに葦の藪がある。大川指揮の八十名これに隠れ、伏兵となる。浅田は六十名を率いて麦畑の中をもぐり進む。全面の4〜500歩先の畦に、敵3-400名発見。浅田隊が発見され射撃を受ける。しかし浅田は射撃を命じない。100歩に近づくまで待つ。そして、百歩の距離に近づいたら、急射撃。しかし、兵力が少ないので敵の反撃を支えがたい。

浅田はラッパで大川の兵に援兵を請う。大川隊は直ちに応じ、草むらから現れ、急歩して激しく射撃。これに力を得た浅田隊は、大川と連携して小山駅の中央へ突入。敵の本営まで迫った。伝習隊は小銃に着剣して襲撃。官軍は前後側面に攻撃を受け、全軍瓦解。砲をおいたまま散り散りに敗走した。

浅田は弾薬兵器を分捕る。大川は隊を分けて右の草むらを探索。
浅田隊58名で町の外を守っていると、左の麦畑から5,6人の敵兵が来た。その一人が長官らしい。浅田は堂々距離を近づき、手を振って招いた。敵はこれを味方と思って喜んで15,6歩まで進んできた。ここで浅田、射撃命令。しめしめと敵長官と二人の首を取って、本営に戻った、という一幕も。

彦根の青木小隊は家屋煮立て篭り、弾薬を撃ちつくして最後は白兵で切り込み、一人を除いて討ち死にした。彦根藩記の「井伊直憲下記」が、「賊兵は撒兵に配り頻りに新手を入替候へ共、味方は代援之兵も無之、諸藩苦戦」と、孤立させられた苦戦の様子を伝えている。

新政府軍に加わっていた壬生藩兵は、内に洋学者の兵学者を有し、施錠された四斤砲を持っていた。これでを連発するが、射程が近すぎて当たらないままに、弾薬が尽きた。

官軍は離脱のために街道上の喜沢部落を放火。宇都宮まで退却した。
大鳥軍は相変わらず本道には出ず、小山駅を占領。

伝習隊の散兵戦術の様子については、次の結城藩の藩記である「水野忠愛家記」に特に顕著。

「賊兵、小山宿東裏麥(むぎ)畑に潜伏し、川間通行の横合いより、しきりに発砲致し候処、賊は山畑中にてその在るところを知らず、官軍は道路に在りて楯と成すべきの処なく、その悪地に付き死傷多く、殊の外苦戦」

隠蔽した旧幕軍の居所がわからないままに、しきりに発射され、道路に密集した官軍は良い標的とされてしまった。

この戦闘の勝因は、第一に大川が敵の背面を襲ったこと、第二に浅田隊が持ちこたえたことと、浅田本人が大川の働きの功を強調して記している。

この戦闘で味方死者5,6名、負傷者12,3名。

○ 4月17日午後、小山第三次戦
官軍:祖式隊 (須坂兵一小隊、館林藩半小隊、結城兵若干、笠間兵250名)vs 旧幕軍: 大鳥軍 御料兵、伝習二番小隊、八番小隊(隊長大川正次郎)

16日、武井村で破れた祖式隊のリベンジ。午後に、草風隊らに破れた平川隊の笠間槍部隊約250名が、合流した。
16日結城にいたこの祖式隊が、小山二次戦終了後の午後3時ごろに、全兵力を持って、小山へ。ただ笠間槍部隊に戦意はなく、銃火の中突撃する意思は無かった。よって須坂兵が先鋒となり、大鳥等の駐屯する小山へ砲撃を開始した。

大鳥軍は、小山駅へ入る。おりしも小山は東照宮の祭りの日で、村民は酒を飲み赤飯を炊きの歌い踊りの酒宴状態。村民が徳川氏の再興疑いなしと小山第二次戦の勝利を祝ってくれるので、歩兵も酒をしこたま飲んた。ここに敵からの砲撃の音。これは、信管の切り方が悪く、花火のように高く上がって破裂しただけで、襲撃を大鳥軍に知らせたようなものだった(大鳥は「天発」としている)

歩哨を立てていた大鳥軍は、集合のラッパを響かせる。この時守備にあったのは、浅田の第一小隊。浅田は敵攻撃を支えがたく、騎を馳せて援兵を請うた。大鳥は本多に命じて伝習隊を散布。

酩酊していた者もいるが、とりあえず集まった兵から手分けして各隊長が臨時に指揮。大鳥は三小隊を編成して派遣。不規則な散兵線を作り上げた。

官軍は敵は少ないとみて肉薄してくる。敵は刀槍で接近戦を仕掛けてくる。大鳥軍は敵隊長はじめ数人を射倒す。

ここに、次第に体勢を立て直した大鳥軍が、両翼に兵を延伸。官軍を包囲網で囲む形となった。これにより官軍は忽ち瓦解。官軍斥侯(指導者クラス)の土佐藩士上田楠次が重傷、後死亡。

浅田らは戦闘を終え午後2時半に本営へ凱旋。大鳥に会って勝利を祝う。この時敵の首七級を晒した。
浅田は今日の戦いは、野戦のもっとも迅速な決戦の例であり、ここまで愉快な戦はそうないだろう、と述べている。つまり弾丸2,3発打つ間に勝敗が決まる。何十発も撃って勝敗がつかないのは、やる気がないからだ。なお、守戦や山戦はこれとは異なるとのこと。

分捕り品は、フランス式山砲3門、水戸製和砲9門。そのほか槍刀類があったけれども、それらは役に立たないとして井戸に叩き込んだ。

この戦闘で死者は味方12,3名、負傷者17,8名と、小さくはなかった。
戦闘後、大鳥軍は疲れた足で、負傷者を介抱しながら、東照大権現の旗を夕日にたなびかせて、ようやく飯塚まで進出。
一方、官軍祖式隊は、もはや戦闘の余力なしということで、江戸まで引揚げることになった。この日真壁まで30kmを、逃げに逃げた。


以上、大鳥伝習隊の初戦3連勝でした。

大鳥は横浜で、フランス教練を受けながら、同時に教練書を翻訳していました。フランスの後装式施条銃の原本の出版は慶応元年。同じ年に幕府に招聘されたフランス軍事顧問団が来日しました。フランス人教官が持ってきた本を、或いはフランスで広まったばかりで教官たちが携えてきた軍事技術を、リアルタイムで大鳥が理解し翻訳し、後装式撒兵戦術の教練を施していたのではないかということをうかがわせます。

福田八郎衛門の撒兵隊というその名もずばりな隊もあるのですが、実際は「甲冑を着し大身槍或は長巻を携へ大刀を佩びし」(南柯紀行)といういでたちの者も多く含まれていました。

また、戦闘の記録に撒兵という用語を用いているものもいくつかみられます。官軍側の須坂藩の小山戦の記録にも撒兵を用いたというのが見られます。ただ、伝習隊の行動のように、各小隊それぞれすべてがラッパで統制された散兵として行動し、敵を翻弄したのが明らかな戦いは稀です。旧幕軍脱走以降の戊辰戦争では、補強的に散兵が用いられることはあっても、大鳥軍のように小隊全部が散兵行動をできた隊は珍しかったでした。

また、各藩の記録に「賊頻に発砲」という記述が目立つのも、大鳥軍の装填・発射速度が早く、後装式の装填性能に新政府軍が驚いていたことを伺わせます。

(ただ、散兵の程度や装填速度を主眼にして全ての戦闘を追いかけたわけではないので、特に後期の箱館戦争などでは新政府側の武器が充実し、様相はまた変わっている可能性はあります。佐倉藩の山本常五郎が「法朗西撒兵教練」を訳していて、これがもしかしたら間に合っている可能性もある。この当たりは今後注意して調べてみたいと思います)

小山・武井村の戦いの兵力は、記録によって戦闘の人数は違いますが、だいたい旧幕軍側700〜1000名、新政府側は200〜500名でした。(大体みんな、自分の兵力は小さく、敵の兵力は大きく書く傾向がある…)
兵力差はありました。旧幕軍のほうが大きかった。一方、新政府側にはに大砲があり、旧幕側にはありませんでした。この不利は、浅田の筆が伝えるとおり、撒兵の機動力で補いました。そして何より、伝習隊装備の小銃はぴかぴかの後装式施条銃シャスポー。小銃武器は完全に有利です。勝って当たり前の戦であると言えるでしょう。それゆえに、今までにさほど注目されることのなかった戦いであるといえます。

けれども、伝習隊が後装式施条銃を用いた散兵戦術の手本を示し、いわば新兵器による次世代の戦いを見せ付けたのが、この小山・武井村の戦いであったのではないかと思います。

そして、幕府陸軍の組織力とフランス伝習の効果があってはじめて、それが可能となったのだと思います。

なのに、大鳥自身を主役に書いたものですら「小山の戦いはビギナーズラックだった」などと見当違いなことを言われてしまっているのが現状です。

まして、連戦連敗だの、戦って勝ったことはないだの、戦下手だの、酷い誤解が、一般論として小説や評論などでまかり通っています。これには一石を投じたい。

これだけ、いわゆる正史で勝ちが強調されているというのに、「戦って勝った試しはない」などと、一体誰が言い出したことなんでしょうか。

答え:おそらく大鳥本人@酒の席→安藤太郎→大鳥圭介伝の安藤太郎証言→小説・評論

何せ、南柯紀行を見ても、上の小山の戦いについて、推移は正確に書いてはいるのだけれども、余計なことが多い。慣れないからびっくりしたとか、誤報に戸惑ったとか、兵が鳥を撃ち始めて住民を怖がらせたとか、敵襲に大に驚きとか、歩兵が酒を飲んで酩酊大に混乱とか、ランドセルを紛失せりとか、困ったことばかり書いている。「大に驚き」も他と対照すれば、ちゃんと準備して警戒していたのがわかるのに、面白味を出そうとして、ことさら自分が慌てたように見せかけている。
よく読むと官軍のほうがよっぽど慌てふためいているじゃないかと思うのだけれども。ただ格好悪いから彼らは書かないだけで。その官軍が名指しで恐るべき敵将とした当人が、一番自分が慌てて困った描写をしている。

さも情けない印象を与える書き方をあえて行い、我々を惑わす人が大鳥です。それもまた事実なのだろうけれども、そこばかり強調して笑わせてくれる困った人です。

そんなわけで、最近、自分は戦況を調べるのに、大鳥の南柯紀行を参照するのは最後になりました。彼は、自分側を負け寄りに情けなく書きすぎるので、客観的な判断に支障がでるからです。

南柯紀行が与えてきた大鳥の負けイメージは、かなり大きいと思う。
敵官軍資料も部下の記録もイケイケなのに、何で本人そんなに黄昏れているのか。とりあえず復古記の各藩資料と天然浅田の北戦日誌を読んでから南柯紀行を見ると、落差の激しさに「これが同一人物なのか」と疑いたくなります。他の資料と見比べれば比べるほど、南柯紀行は変です。本人、わかってやっているのだろうからなおさら始末に悪いです。「あんたは黙ってなさい」と言いたくなってきます。後年の私からしてそうなのですから、当時傍にあった部下はなおさらでしょう。
それで南柯紀行を読む側も、なまじ小説や安藤証言の先入観を抱いているから、さらい大鳥の罠にかかる。

自慢はしない。勝った事実はサラリと。酷い目に遭ったことは強調して面白おかしく。それが関西人の謙虚さとスマートさ。これがもっとも顕著で、大鳥の性格を現しているが故に、南柯紀行は大鳥バイブルなのですが。同時に大鳥の正当な評価の妨げにもなっている。

…人が弁護しようと一生懸命になっているのに、一番の障害はその本人。全く困ったものです。

長くなりましたが。まだ続きます。あぁもう5時だ…。
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2007年02月22日

維新期の兵式 その5 新政府陸軍と大鳥圭介訳書

続き行きます。

昨日の戦闘配置図はこちら。(クリックすると大きくなります)
地名が多いので、地図がないと何がなにやらという感じでした。

koyama.gif

さて、旧来の密集隊形に対して無敵に見える後装式施条銃の散兵戦術ですが、致命的な欠点があります。

熟練した兵を要求すること。
そして、弾薬の消耗が早いことです。

まず兵。撒兵戦術では、重い小銃を担いだまま、野戦で数kmを走り回る体力が必須です。なんたら流の剣道槍術よりも、まず体力です。薮や泥濘を走っても疲れない、そして銃砲の扱いに長け、複雑な命令を理解して的確に動き隊列を組める兵は貴重です。それを育てるためには、数ヶ月という訓練期間を要します。予備兵力がない限り、特に大鳥のような流浪の軍にとっては、一度消耗すると補充するのは至難の業になります。

そして、弾薬の消耗。これは、装填速度の速さという利点ゆえに生じる、諸刃の剣です。豊富な弾薬の補給、しっかりした兵站が存在しなければ、後装式施条銃を用いた戦術は成り立ちません。

兵と弾薬の補給線が確立してこそ、撒兵戦術は生きます。

大鳥はこの欠点を承知しており、弾薬の手配には常に気を配り頭を痛めています。江戸で弾薬は用意していたが持出しが出来なかったり、これを送らせたけれども届かなかったり、宇都宮で人を日光に派遣し5000発作ったけれども実用のものができなかったり。確保には相当苦労しました。今市以降、会津の指揮系統下に入ったのも、この弾薬不足が大きく、会津に補給を頼らざるを得なかった点があります。(シャスポーのカートリッジは特殊なので、互換性はどうだったのかという疑問はある。あるいはやむをえなく汎用ミニエー銃を使用した時期も多かったかもしれない)
藤原の帯陣中に横地秀次郎が江戸から弾薬を届け、ようやく安心できました。また、箱館でも自作した様子があります。
兵も、実戦の渦中にありながら、会津や箱館で農兵や徴募兵の訓練を施していました。

また、実戦段階において、撒兵戦術が可能な条件は、以下の通り。

(1) 後装式施条銃と豊富な弾薬
(2) 兵の士気の高さ
(3) 兵の熟練度の高さ、ラッパによる統制された行動

これを考えると、大鳥のあり方がよく理解できる気がします。

撒兵戦術では、逃げる者は斬るなどと脅しつけていたら、斬る前に兵に逃げられます。それまでの密集隊形では通用していた「敵よりも味方の士官の剣を恐れよ」という恐怖による支配が、通用しなくなります。

それで、補給に気を配り、兵や士官の死者を一人一人数え記録し、負けて笑うという大鳥のあり方は、この撒兵戦術の必要性に見事に合致します。

熟練の兵を必要とするということは、兵一人一人の命の価値が上がります。
最低数ヶ月は訓練期間に必要。良い兵を作るには、金と時間がかかります。
そこから、良い将校とは兵を生かして返す将だという、人道的考え方も生まれた、という面もありました。
無論それが、命を守るのは良いことだという人間の感情にも合致したわけですが。

(戦争から人道主義が生まれたというと、安全な国で育った平和主義世代の方々には違和感が大きいかもしれませんが、世の中そんなものです。今も中国やら南アジアやらを見ると、人海戦術という言葉が通用し、人間の命は安いです。建設現場にいるとひしひしとそれを感じます…。)

また、大鳥が負けて泰然と笑うというのは、無論、能天気で楽天的な人間だからでは決してない。
撒兵戦術に不可欠な、兵の士気の高さを維持するため。兵の意気を挫けさせないために、いわば大鳥は自分でピエロになった。

諸藩は、確かにスナイドル銃など後装式を備えている隊もあるけれども、散兵の教本が行き渡っているところは少ないので、訓練は不十分。せいぜい、前装式戦術の、密集隊形に補助された歩哨的な散兵しか運用できない。
全員散兵で、ばらばら挑んでくる大鳥伝習隊は、新政府軍諸藩にとって恐怖だったでしょう。

小山の戦いが新政府軍に与えた衝撃は大きかったでした。

「圭介善ク兵ヲ用ヒ、操縦自在臂ノ指ヲ使フガ如ク、部下精鋭、沸人二就テ伝習スルモノ多ケレバ、向フ所官軍ヲ窘ム、官軍或ハ圭介ヲ稱シ、隠然一敵国トナス」(「近世事情」維新日誌収録、発刊は明治6〜9年)

「明治元年四月十七日、常陸結城の役に弾丸飛来て公の着せる陣羽織の袖を貫きたり。其の時公陣羽織の裏を示し衆人に謂て曰く、今日は即ち先主家康公の命日なり。故に我此危難を免れたり。若し此事昨日か明日なれば我れ必ず其弾丸の為に死なん。然るに幸にして家康公の命日に際し其弾丸の吾が身体に当たらざるは、是れ勝戦の前兆なり。来ざや進めと号令を掛けつつ、先陣に進み、以て其役に大勝を得たりと云ふ。嗚呼此れと云ひ彼れと云ひ、公の所為は実に非常の豪傑たるの振舞なり」(「明治六雄八将伝」木滝清類著、明治16年)

「敵兵(大鳥軍)地理を諳(そらん)じ、殊に大鳥の軍略に長ずるあり。官軍屡(しばし)ば利を失ふ。因りて今市駅に退く。大鳥奇計に長じ、且兵剽悍」(「絵本近世太平記」明治21年6月)

…大鳥が兵を使うことは、肘が指を使う如くに自在である、向かうところで官軍を苦しめた、官軍は大鳥を一敵国とみなした、など、異口同音に伝わる話は、枚挙に暇がありません。
後装式散兵術を駆使した伝習隊は、言ってみれば未知の新兵器を携えた得体の知れない存在。しかも首脳部には大鳥の訳した書で学び、あるいは直接教えを受けた将官があちこちにいました。


さて、ここで思い起されるのが、戊辰戦後の、帝国陸軍創世期における兵式の改革。
陸軍は、それまで新政府が拠っていた英国式ではなく、まして蘭式でもなく、フランス式を正式な兵式として採用しました。

フランス式採用の理由は、フランス式の教本が、「演習教練の指導に関する懇切な心得、指針、解説の諸事項」が多く含まれており、常備兵の根幹となる歩兵の編成や教練を施すのに利便性の高い優れたものだったということが大きかったとのこと。また、「旧幕府時代よりの両国間の深厚なる交誼と既に国軍に扶植せられたる仏語知識の深かりしに起因せる」(陸軍教育史) という理由でもありました。

なお、恭順した西丸下屯所、三番町屯所の伝習隊は、その大部分が維新政府に移管され、陸軍の直轄部隊に組み込まれました。そのうちの二中隊は、「帰正隊」として、官軍として奥州・蝦夷の戦場に赴いています。ネット情報ですが、この帰正隊、どうやら官軍にあって、かつての同士の旧幕脱走兵とも戦う羽目になったとのこと。彼らのほうが心情的には辛かったでしょうな…。
なお、この恭順した伝習隊2400名のうち1200名は新政府政府の管轄下に入り、第二連隊を経て鎮台の一番・二番大隊として残されました。
伝習隊自身が、敵味方に分かれた惨事になりましたが、一方で戦国の真田氏のように、親子で敵味方に分かれ生き残りを図ったのと同じ意図を感じないでもないです。
ここでも、洋学者と同じく、分裂による技術継承の系譜が見られる気がします。

いずれにせよ、新政府の陸軍のフランス式の採用は、旧幕時代の遺産を引き継いだものであるといえるでしょう。

諸藩の兵式は当時ばらばらで、戦術単位で三カ国の兵式が並存しているのは大きな問題でした。これを統一するのが課題でした。また、ひとたびフランス式の採用を決定したとしても、フランス語の修得者の数が少なく、歩兵教練書以外の必要な教練書の翻訳が進んでいなかったことも問題でした。そこで、三兵戦術の理論面はオランダ式と折衷するという過程もとられました。つまり、理屈は蘭式、実践的教練はフランス式を採ったという時期がありました。

さらに、フランス式後装式シャスポーは当時国内にも3000挺程度しかなく、しばらくは前装式ミニエー銃を代替として用いていました。銃器・兵式双方の後装式銃への更新は、大きな課題となりました。

その後、明治5年11月、16人から成るフランス軍事顧問団の来日が実現しました。そして、明治8年、フランスのサンシール士官学校を模範とする陸軍士官学校が発足。日本陸軍は本格的にフランス式に統一されることになります。

さて、この時に使用された、官版「歩兵程式」が思い出されます。前半の前装式施条銃パートは既に大鳥らによって翻訳されていましたが、後半の後装式パートが明治3年に兵学寮から出版されています。

後半部、訳者不明。

一方、戊辰戦争にて、当時まだ浸透していない新式の後装式撒兵戦術を駆使して、官軍を震え上がらせた存在があった。近代陸軍兵式を導入してきた泰斗であり、実戦においてもお手本的な戦闘を見せ付け、官軍・賊軍合わせても稀に見る数の実戦戦闘経験を有する人間がいた。そやつが、牢屋の中でヒマそうに、うじうじと日々を潰している。

大鳥が最初に糾問されたとき、糾問掛の小栗が聞いてくる。「兼て翻訳せし書類中にて、某々の書ありや否やを聞けり。余答て曰、去年混乱脱走家屋も其儘筆墨書籍抔も捨置たれば、今は種々の草稿も多分紛失せしならん、と」(南柯紀行)

兼ねて翻訳してきた書のなかに、某々の書はないかと聞いてくる。去年脱走のときの混乱で、家も書籍もそのまま捨て置いてきてしまったから、色々草稿があったけれども、今はもう紛失しているだろう、と大鳥、すげない答え。

…「某々の書」として、あの「歩兵程式」が入っていたかどうかを聞きたかったに違いない。なにせ前半パートは大鳥が翻訳した。後半は、確実に大鳥の頭の中に入っている。大鳥は、新政府軍にそれを嫌というほど実戦で見せ付けて震え上がらせたのだ。
大鳥が既に訳したものがどこかにあると新政府が期待していたとしても何もおかしくはない。

(ちなみに、「歩兵程式」は、名前が削られながらも、沼津兵学校でも用いられていた。
教官に採用した元脱走兵の履歴に、旧幕陸軍の経歴を一切認めなかったほどに新政府に遠慮していた沼津兵学校が。一旦刻印された訳者の名前を削ってでも、その訳書の中身を必要としていた。
また、旧幕のフランス式が、徳川藩沼津兵学校では旧採用されず、新政府陸軍に導入され生かされたたのも、皮肉な話だ)

いっそ新政府の彼らは、後半部パートを大鳥に依頼したかったに違いない。

けれども、囚人に与える労働は、懲罰として以外のものは認められないのが普通。遣り甲斐や生きがいを感じるような業務は与えてはならない。何より、罪人に公的業務を任せるわけにはいかない。そもそも明日死罪になるともしれない逆賊の国事犯だ。だから、そういうことはまずありえなかったとは思いますが。

訳者不明。
人材不足になりふり構わぬ明治政府から。次世代の陸軍を担う訳書が、「訳者不明」で刊行されました。
当時の兵学書訳というのは、もう翻訳者にとっては花形業務。自分の名を上げるにはそれ以上の仕事は無い。
それなのに、訳者不明。

……ここで、あらぬ考えが頭をよぎります。

謎の差入人、植木屋藤兵衛の差し入れに、何も言わずに原書が入っていたりする。

(私は、牢内ニーズを知り尽くして日々差し入れを送り込み、一介の植木屋にまかないきれるとは思えない額の金銭や、ただの植木屋が手に入れられるはずのない陸軍毛布や、禁止されている紙や筆も平気で差し入れてくる謎の「植木屋藤兵衛」が、某薩摩の元弟子で元敵将であったと、信じて疑っていない)


月曜日: 「差し入れだ。やぁ、歩兵程式の原本。昔訳していたんだ。やりかけのまま脱走してしまってて、屋敷においてきてしまったけれども。懐かしいなぁ。…え、今から暇つぶしにやってみたらって?でも、紙も墨も乏しいし。ちょっと無理だねぇ」

火曜日:「また差し入れだ。…紙と墨と筆? これはありがたいなぁ。これで昨日の差し入れの本が訳せますね、って?うーん、でも、内容が分かっても、訳文は正確に行わないといけないから、辞書がないと苦しいなぁ。仏語は兵学関連しかくわしくないから、一般的な用語は弱いんだよ。蘭語ならまだ大丈夫なんだけれどね」

水曜日:「え、また差し入れ? ……仏蘭辞書か。この牢屋の会話ってどこかに筒抜けなんだろうか。まぁ隙間だらけだからねぇ…」

…などというような会話を、思わず想像してしまいました。

あるいは、宇都宮藩主戸田忠友の屋敷になってしまった(葛生さん調査感謝!)元大鳥屋敷から訳本草稿が無事発掘され、それが出回ったか。そっちのほうがありうるかもしれない。

ということで、「訳者不明」になっている訳書ですが、原書と照らし合わせて、他の大鳥の訳と比較しながら、訳のクセを一つ一つ紐解いてみたくなってしまう。大鳥、結構自分で造語を作っているので、対照するのは不可能ではないと思います。ヒマだったらやってみたいことです。フランス語をどうにかせねばなりませんが。
田辺良輔の「仏蘭西軽歩兵程式」はデジタルライブラリにあるのになー…

…すみません。完全に妄想レベルの話です。
だって詮索するなというほうが無理な話ではありませんか。
まぁ無いとは思いますけれども。

えんえんとやってきた「兵式」の締めくくりが、こんな馬鹿妄想ですみません。

いずれにしても、大鳥が導入してきた軍事技術が、新政府の陸軍にもちゃんと繋がっていたのだということが確認できて、満足でした。

ここまでお付き合い下さった方、もしいらっしゃいましたら、読んでくださってありがとうございました…。
posted by 入潮 at 07:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月26日

ちょっとした週末気分

報告書の締め切りと、予期せぬ提案書が降り注いできて、きっつい日々です。
当然土日はフル出勤。というか今年に入ってから日曜日をまともに休めたのは2,3回じゃないか…。
でも一応まだ今年は会社に泊まっていない。午前4時帰りとかはありますが。なまじ自転車通勤になったから、いつでも帰れてしまうのですよな。
会社の床よりボロ家でも家がいいです。というか、この家だから帰りたいと思える。毎日がんばって帰宅しているお父さんたちの気持ちがちょっとだけわかりました。

それでも土日は職場単純往復だけではなくて、ちょっと違うこともしてみたい。
いつも土日はバイクなのですが、気持ちがいいぐらいに晴れていたので、昨日土曜日は自転車にしてみました。

そして、出勤前に、都内で唯一、毎日午前中も営業している上野の「燕湯」に入ってみる。銭湯マニアの間では、「これぞ下町銭湯」と定評のあるお湯です。

入ってみると、さすが。千鳥破風の一軒屋で天井が高く、開放感がありました。
そして、岩風呂。浴槽正面には岩山を模した本物の岩が壁に添えられていて、岩の上部から湯が出てくる構造。壁の富士山も堂々としていて立派でした。
熱い湯でも有名とのことでしたが、43℃ぐらい。特別に熱いとは感じませんでしたが「湯がぬるいときはお知らせください」と貼ってありました。熱い湯に誇りをもっているらしい。

サウナなどの余分な設備は一切なしですが、これぞ銭湯、という硬派な意気込みを感じました。

江戸時代は、銭湯は「ゆうや(湯屋)」といったらしい。朝風呂は江戸っ子の大好物。戦争だろうが何だろうが町人は欠かすことはありませんでした。

「江戸名物浮世風呂。日の出と共にわいた。勇みの者や職人などは、何をさておいても起き抜けには湯へいった。歯楊枝をくわえて、肩へ手ぬぐいをのせて、新しい麻うらのふじくら草履(つっかけ草履)をはいて、ゆうやへ行く姿は、この時分の粋なものであった(戊辰物語)」

とありました。ちなみに、朝湯は女湯のほうがきれいなので、みなそっと誤魔化して女湯に入る算段ばかりしていた。八丁堀与力同心組屋敷では、同心は女がいなければ平気で女湯に入った。女湯に刀掛けがあるのが風呂屋七不思議のひとつだとか、
ちなみに、山の手の武家屋敷には湯屋はあまり見当たらなかったのだそうです。

そんな感じで、つっかけ草履ではなくてトレッキングシューズにマウンテンバイクといういでたちでしたが、江戸っ子気分を味わえて幸せでした。


さて、自転車だと、バイクのスピードで気づかなかったことにも色々目にとまります。特にお店。
平日は出勤時間が早いので店が開いていないのでスルーしてしまっていたのですが。通勤路にうわさの神田の「時代屋」があることに気づきました。

せっかくだから寄ってみる。
古本屋かと思っていたのですが、主に時代小説の新刊書籍をテーマにした本屋さんでした。
ずらりと本棚に時代劇、歴史読本、時代小説が並んでいる。

大河ドラマになっている「風林火山」は店の奥に大々的にきらびやかにコーナーで特集されていました。

そして、幕末維新コーナーというのがありました。
棚に広げられているのは、長州、新選組、会津関係。星亮一、早乙女貢、秋山 香乃 司馬遼太郎…。
これはこれで、納得のラインアップではあるのですが。
大鳥ファンとしては、あぁ、ここが誤解のデパートになっているのだな…と。そしてこれらが一番売れているのだなと、まざまざと感じて、脱力しました。

自分、小説が嫌いだなんてことは決してありません。ただ、必要以上に誇張や都合の良い作り上げを行ったり、願望を込めたり、英雄化したりしているものは、退いてしまうだけでして。
等身大の、背伸びしない、リアリティある、世情を感じさせる小説は大好きです。

けれども、「幕末あどれさん」も、「東京城残影」も、「明日は維新だ」も、「『浪士』石油を掘る」も、「地の王 空の勇」も、自分が好きなものは、とりあえず時代屋さんのにぎやかなラインアップの中にはありませんでした。…いや当たり前といえばそうかもしれませんが、世間からのはずれ具合を自覚して終わりました。
「武揚伝」ぐらいはよく探せばあったかもしれません。

(今Amazonで見てみると、「地の王 空の勇」の中古本がが高騰していました。何があったのだろう。たぶん一緒に収録されている佐藤大輔の短編が、今流行りの「皇国の守護者」続編っぽいということで、いきなり需要がでてきたのだろうな。ついでに、私の再評価後の大鳥像にぴったりな大山格氏作品にもぜひ触れてください…)

二階にも喫茶コーナーなどがあったようなのですが、そんな感じで、二階に行く気力はなくなりました。

なんというか。もう、マツノ書店さんがあれば十分だと思いました…。


気を取り直して、皇居を越えます。
竹橋を通過して北桔橋門へ。 きたはねばしもんと読みます。向かいに国立近代美術館と国立公文書館があるこの周辺は、きつめの坂になっていて、自転車ではいつも息があがります。

この北桔橋門のあたりは堀が深くなっています。お堀の水が太陽の光をきらきら反射していて、きれいでした。

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そして、乾門(いぬいもん)のあたり。交番があります。明治になって建てられた門だそうです。
もう桜が咲き始めていました。芽も膨らんで、開花した房もいくつか。

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さらに、赤レンガの国立近代美術館工芸館が、いつ見ても美しい。むかしはここに近衛師団司令部庁舎がおかれていたそうです。

代官山通りの一体は、和やかな庭園として整備されていて、まったく威圧的ではなく、道行くだけで安らぎをもたらしてくれます。

なんというか、昔は大変失礼かつ不敬なことに、都心の一等地に広大な敷地を占領して勿体無い、さらに交通が妨げられている。あそこを開発したらどれほどの価値になるか、とか思っていたのですが。

皇居は皇居として、日本の象徴、中心、財産、そして心のよりどころとして、今後も今のままであってほしいなぁと思います。


さて、夜はままこっちさんと、お食事。
わざわざ職場の近くまで足を運んでいただいてしまいました。身重のままこっちさんに申し訳なかったです。
沖縄料理屋で、ソーキ蕎麦やら昆布やらヘルシーにいきました。最後は鶏飯です。お約束。

二人なのでさぞや濃い話になるかなと思っていたのですが。
一般的な話題で盛り上がりました。育児手当や諸制度、保育園の状況など。社会に関心の深いままこっちさんだけあって、とっても考えておられました。びっくりだったのが、女性の多いままこっちさんの会社でも、ワーキングマザーが1%程度しかいなかったということ。社会がどれほど女性の仕事と家庭の両立を推奨していても、現実がついていかない。

歴史ネタについては…なんというか煮詰まっていたことをツラツラ愚痴ってしまって、申し訳なかったです。ままこっちさんにお話したらすっきりしたので、そのうち友人全部無くす覚悟でここでもぶちまけると思います。
おみやげと手作りのビーズの携帯ストラップをいただいてしまいました。麻紐とインドビーズ。素朴ながら綺麗。既製品はお金を出せばいくらでも手に入りますが、こうした、そこにしかない、オンリーワンのものというのは素敵です。そうしたものを生み出せる趣味というのも、ものにあふれた現代だからこそいっそういいなぁ、と感じました。

そんな感じで。楽しんだら後は怒涛の業務。その日は3時まで。今日も普通に日が変わるまででしたが。
ちょっとした気分転換ができたのと、ままこっちさんのおかげで、なんだか充実した週末でした。
ラベル:銭湯 皇居 小説
posted by 入潮 at 04:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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