2007年03月03日

戊辰物語 その1

すこし間が空きました。今週はきつかった…。とりあえず峠は越したと思いたい。
今日、目が覚めたら7時でした。夜の。一応会社に行くつもりだったのに。気を抜くとそうなる。

さて、「戊辰物語」という記事集があります。
古本屋で偶然見かけました。1983年に岩波書店から文庫で発行されています。
戊辰戦争から60年。昭和3年(1928)、東京日日新聞に連載された、戊辰戦争時期を生きてきた古老の聞き語りです。
60年というと、二世代。12進数・60進数の回帰点。若者がじいさんになり、ひとつの時代が移り変わったという区切りを与える、切りのいい時間です。米国の戦争中の公文書なども、60年を区切りに公表されているのだそうで。今、太平洋戦争中の文書が色々公開されはじめ、新事実が出始めて注目されているのだそうです。

で、昭和3年に、維新の動乱を直接経てきた人がまだ生き残りつつ、出来事は記憶となった。それが新聞記事という形で記録された。それらは記憶の混乱や美化、誇張などの加工も経られたもの。有名人へのインタビューで聞く側も興味本位なところがあり、信憑性は高いとはいえない。よって公式な歴史とは一線を隔てますが、それだけいっそう、時代の生っぽい雰囲気があふれています。

勝者の歴史というと、昔(=江戸時代)は何かにつけ悪かった、民衆は苦しんできた、というようなことが強調されて描かれますが。実際はそうでもない。江戸の町民は毎朝1回八文の湯屋へ出かけ、芝居を楽しみ、年の暮れは押し詰まってまでこつこつやるのはしみったれだと、12月25日ごろにはもう切り上げて月代を綺麗にそって正月が来るのを待っていた、とか。結構余裕のある生活でした。

維新の混乱期は、米の値段が暴騰してインフレに皆苦しみました。 嘉永6年(ペリー来航時) 米100表 = 49両 だったのが、慶応三年では100俵で420両。ほとんど10倍だったとのこと。
けれども、鳥羽伏見の戦いで幕軍が負けたとき、それでも将軍が江戸に帰ってきたというので、それまで高騰していた米の値段がいっきに大下落した。それで「さすが将軍様、米がどかりと落ちたなどはご威勢はえらいものだと感心した」とか。その前の正月も、将軍様が江戸にいなくて寂しくて、自然に門松も小さい加減になったとか。江戸の人たちが、将軍様のお膝元ということを誇りに思い、親密さを持っていたことを伺わせます。

ほか、江戸の警察機構。上官である与力が南北25人ずつ、その下の同心が130人ずつ。与力は400〜500坪の屋敷に住み、同心でも5,60坪はあっただとか。与力は200石、同心は30俵二人扶持。圭介の幕臣取立て時が50俵三人扶持だから、彼らはかなり裕福だ。あとはその手下である目明し、岡引きがいる。彼らは、与力や同心の使用人であり公儀役人(公務員) ではない。江戸の八百八街を、わずかその400名程度で治安維持していたのだから、江戸という街は世界的に見ても優れた治安があった。土地土地の旦那衆というのが顔をきかせていたのもあった。役所の管理支配が上から下まで染みとおっていたわけではなく、ごく僅かの警察力でも治安の保てる社会だったことは特筆されること。

一方でことさら出てきたのは、歩兵の乱暴。元博徒ごろつき。歩兵の軍律は苛烈というよりは酷薄を極めていた。脱走して吉原へいった四名は従容として斬られた。そんなだから、幕軍解散になったときなどは、たかが外れて、町民にたかるは脅すはで随分嫌われた。色物席にも出没したけれども、芸界ではダニのごとくに嫌われた。日本橋ではよく歩兵が殺されていて、一晩に5人もやられていることがあっただとか。
迷惑かけてごめんなさいと謝りたくなります…

天気についても記述が豊富。戊辰の年は春からの雨続きで、からりと晴れたような日は数えるほどよりない。
武士達は道路へ出ると、はかまの裾へ泥が跳ねて、踏み込もうとしてはよく転んでいたのだそうな。
確かに圭介の日記も、ひたすら雨と泥と格闘している。野戦続きだった彼らは、雨に体を冷やしながら文字通り泥まみれで陰惨な連戦を潜り抜けていったのでしょう。

風俗については、武士のハイカラは毛糸の襟巻きをして靴を履いていたのだそうな。靴だけれどもどうせ寸法が合わないから豆ができる。それを「紅毛人でさえはくのだ、日本の武士にはけぬことがあるか」とびっこをひいて血だらけになりながら履いた。靴を履いて家を出るときは別に草履を包んで持っていて、人がいないところではこの草履に履き替えた、とか。ちぐはぐな見栄っ張りぶりが楽しいです。

あと、洒落ものの彰義隊。戦争中は日に10両、支度金は5両出す、といわれて誘われて入った武士が多かった。財源は上野の僧侶、覚王院義観から出たのと、勝海舟との関係で繰り合わせがついたので、彰義隊は皆、羽振りがよかったとのこと。勝さん、上野に財政援助していたのか…? いずれにしても彰義隊の資金は潤沢にあったらしい。「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」として吉原では人気があったとことですが、これは彰義隊の面々が、持っていた金を、明日は戦、宵越しの金はもたねぇ、とばかりに金払いがよかったから。

すそのつぼんだ義経袴、みずいろがかったぶっちゃきの羽織に、朱鞘の刀をもって威張り、下駄を履いて歩くのが流行だった。これで、おおたぶさに結うのだけれど、髪が足りないから沢山入れ毛をしてもらったとか。この頃からアデランス商売があったのね…

彰義隊にしても、神田和泉橋の鉄砲や大倉屋喜八郎は、たびたび彰義隊にただで鉄砲を持っていかれて散々迷惑したのだそうで。いい加減決死の覚悟で「官軍は金をくれるがあなた方は品物だけとって金をくれない」と断ったという話も。ミニエー銃三百丁を三日で収めろという無茶なことも注文されたが、次の日が上野戦争でこれは収める必要はなくなったとのこと。

いずれにしても彰義隊は金には困らず。天野八郎はスペンサー銃七連発まで持っていた。その装備と人員、日光今市で野戦真っ只中な大鳥軍にも送ってやってほしかった。山野の野戦で困窮を極め、豆と味噌で着のみ着のまま帯陣しなければならなかった大鳥脱走軍が気の毒だ。今市第2次戦で板垣に負けたのも、五分五分の戦況が続いた決定打は援軍の有無。補給戦で負けたようなもの。と言うのも仕方がないことですが。江戸の様相をみるにつけ、ついつい、その頃大鳥伝習隊は…と考えてしまいます。

上野の戦の後、官軍の死体は刀傷でやられて血だらけの者が多いが、彰義隊は鉄砲で死んだのが多いから割合きれいだった。けれども、顔などずたずたに切られているのがある。死んでいるのをいいことに官軍がむやみに斬って、肩や腕の肉などは刺身か膾のようになってしまったという話も。

最初は官軍は江戸町民には随分嫌われたもので、「上野はどの方面か」と聞かれると町民は「あっちです」と全然違う両国のほうを指差して教えてやって、後で腹をかかえて笑ったとか。
官軍の肩には官軍のしるしの「錦きれ」をつけていたが、江戸の武士で腕の立つものは喧嘩をしかけてこれを奪うものがあって、「錦きれ取り」といった。「だれだれがどこそこでまた取ったそうだ」と江戸っ子は大いにこれを喜んだ。彰義隊の岡十兵衛はこの錦きれ取りの張本人だったとのこと。


明治になってからも、いろんな人物エピソードが入っていて楽しいです。タブロイド誌のゴシップめいています。伊藤博文などはネタも豊富で、好んで語られています。

その中で黒田。

「黒田清隆様もそりゃ大変に『かっぽれ』が好きでしたよ。月の中に一度や二度はきっとお屋敷に呼ばれたものです。ある雨の降る夜の八時ごろに、その頃芝の新網にいた私のところへ『すぐ来い』とのお使い。私が金八というのをつれて伺うと、ご存知の大酒の方でひどく酔っていましたが、『俺の腕の上でかっぽれをやれ』とのお話。こいつにゃ弱ったが私と金八二人が左の腕肩から手首へ並んでまたがると、殿様はこれをぐっと持ち上げて『さあ踊れ踊れ』というんです。右の手にさかずき、お酒を一杯つがせてこれを飲みながら、左手に小さくとも何でもとにかく人間二人を乗せて平気でいるんですから、肝をつぶしやした。仕方が無いんで殿様の頭へしがみついて『沖の暗いのに白帆が見える』と唄ったら『あれは紀の国みかん船』といいながら立ち上がるんですからいよいよびっくりしましたよ。何か御気に障ると『たたっ斬る』というし、ご機嫌だと子供のように可愛がる。いや、こわいが良い殿様でした」

とは、初代かっぽれ海坊主氏の談。
かっぽれは、語源が「おかぼれ」で、組踊りの一つです。こちらのサイトで様子が伺えます。
http://www.pinsukekappore.com/home/index.htm

……ていうか、黒田。
酒に酔って、男二人を左の腕にまたがらせて躍らせて、そのまま左手を持ち上げて右手で酒を飲んで唄う人。どこの海坊主だ、という感じです。

でも、「こわいが良い殿様」。やっぱり黒田は愛されていたのだなぁと思えて嬉しかったです。
岩波文庫の後書きで、また例の事件の余計なことを言われていますが。黒田も相当、明治否定者のいい餌食になってしまって、歴史の残り方に損をしている人だと思います。実際は、可愛くてたまらん人だと思います。

そんな感じで、もう一つ二つあげたいネタがあるので、「戊辰物語」、もう少し続きます。
posted by 入潮 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

「戊辰日記」その2、井上良馨と戦争について

「戊辰日記」
おっ、と思う記述がありましたので、もう一つこちらからの引用、行きます。

井上良馨(いのうえ よしか)。

雅なお名前です。長州ファイブの映画で、今が旬な井上馨とは関係はありません。

薩摩生まれの海軍元帥。薩英戦争、戊辰戦争から日清戦争まで、国内外の海軍に関わる主な事件、戦乱のほとんどに顔を出している方です。弘化2年(1845)11月生、昭和4年(1929)3月22日没。
写真で見ると、好々爺たるおっちゃんです。

慶応4年より春日艦に乗り込み、薩摩海軍士官として戊辰戦争を戦っています。このときの上官は伊東祐亨。その兄で海軍中将になった伊東祐磨は、大鳥の江川塾時代の教え子。

井上ですが、慶応4年には春日艦で兵庫の阿波沖海戦で開陽丸と矛を交えました。明治2年3月には宮古沖海戦で脱走艦隊の襲撃を受け、4〜5月の箱館戦争にも参加。そして、木古内では春日艦は例の300ポンド砲を持って、大鳥指揮下の守備隊に屍山血河を築かせました…。

江華島事件の際には井上は「雲揚」艦長。飲料水が欠乏したので、自らボートに乗りこみ江華島の草芝鎮に向かった。その際に島に設置された第三砲台から砲撃を受けたので、雲楊号へ帰艦して江華島砲台を破壊、要塞を占領した。これにより朝鮮政府に衝撃を与えて、日朝修好条規(江華条約)を締結させたという事件です。(これ自体、水を求めたということ自体が挑発行為だったとする論もある)

その後累進し、軍務局長、常備艦隊司令長官、海軍参謀部長、海軍大学校の初代校長等を歴任しました。日清・日露戦争では、佐世保・横須賀・呉などの鎮守府司令長官として海域の防衛を統括。明治34年(1901)には海軍大将、40年(1907)子爵。明治44年(1911)に元帥。

この方、明治11年、日本海軍の艦長として初めてヨーロッパに航海しました。その際の軍艦は「清輝」。大鳥富士太郎君とパリで一緒だった洋画家と同じ名前です、というのはおいておいて。清輝は初めて日本が製造した軍艦で、井上はその艦長に任じられ、国産軍艦が欧州まで航海できるか、その性能を試した渡航でした。

その際の談話が、「戊辰日記」に収録されていました。

1日12海里(=22.2km)が関の山、なれない航海。早速暴風雨にあって、ボートを持っていかれた。香港でイギリスからボートをもらって間に合わせた。
シンガポールを経由して、スリランカへ。インドのサーという名称のある人間が喜んで彼らを招待し「日本人ばかりの日本の船でよく来た」と一緒になって喜んだ。「イギリス人は君達に対しても黒々と呼ぶか」と聞いてくる。「そんな無礼申すと(わしらは)承知せんから、(彼らは)言わん」と答えたら「うらやましい人たちじゃ」と言って泣いた。

インドの名士も、イギリスの植民地体制の下で、被支配者としての差別に泣かされていた。自らの力で軍艦を建造し、そのイギリスに真っ向から向かおうという存在が同じアジアに生まれた。それがインド人を勇気付ける様子です。

ドイツでは魚雷がはじめて出来たと威張って、大事そうにガラスのケースへ入れて見せていた。イタリアやスペインでは、兵隊がよく喧嘩をした。5人ずつ組んで歩け、向こうから手出しをしたら死ぬまでやれと言いつけて、おおいにやってまわった。喧嘩はいつもこっちが勝ちで、後始末のゴタゴタは駐在している公使に任せてさっさと先へ行くものだから、愉快だった。そのうち「日本人なら小さいがつよいぞ」といって、当地の無頼漢も逃げていった、との事を自慢げに語っています。一歩間違えると国際問題。当時の公使館の方々、ご苦労様です…。

そんな勇ましい彼らも、欧州滞在は失敗また失敗。ホテルの便所の中があまりに綺麗なので、そこで顔を洗う奴があったり、部屋の番号を忘れて一晩中廊下で運動していた奴があったり、高価な葉巻などをつかんでから(その値段をきいて)肝を潰したり。

そんな体育会系ぶりは、大変微笑ましいです。
なんだか普通の、血の気の多い青年たちだったのだなぁ、と。

それで特に感心してしまったのが、以下の談話。

「トルコで王様と会ったが、例のトルコの救い主とやらいうオスマンパシャの王様が、『日本の宗旨は何だ』というから『固有の物だ』と答えたら、ひどく感心しおった」

という話。敬虔なイスラム信者に対して、日本の宗教について、「固有のもの」と一言で説明した。

宗教とは、どのような文化であれ、自分の価値観や精神を形作った土台にある、いわば人間としての背骨とされるのが普通。現代日本人は、それに宗教という形を与えないだけで、外から見れば確かに宗教だと呼ばれるものを持っています。正月の初詣にしろ、春の花見にしろ、盆祭りにしろ、葬式にしろ、地鎮祭にしろ、社会的な行動はみなその表れの一部です。
そして、外国の知識人から見れば、自分の精神性の土台を説明できない人間は、尊敬に値しない。

こういってしまうのも傲慢なことなのですが。「自分は無宗教だ」ということが格好いいことのように若い人たちには思われているようですが、そうやって胸を張ることがいかに恥ずかしいことかには、気づいてほしいと思ってしまいます。

英会話スクールに通い、インターネットを活用し、海外旅行や留学を楽しむ方々は多いですが。海外の情勢にも疎くリアルタイムな情報も知りえないながらも、日本とはこうだと朴訥に説明して相手を唸らせていた彼ら明治人のほうが、よほどに国際人だなぁと感じました。

そして、同じトルコのオスマンパシャ王から。

「『軍艦は何艘ある』と聞いたのには閉口したの。当時、形だけでも艦らしい艦は各藩から献上したボロボロのやつが四艘位よりなかったのじゃ。『兵隊はいくらある』といった。この時、おいは肩を張って、『日常は五万、いざ事あれは国民全て兵ならざるはなし』と出た。実は兵隊は二万ぐらいよりなかった。王は目をむいたよ」

一見、海軍の軍人さんの大言壮語だなぁという感じですが。
ここに、国防という概念の真髄があるのではないかと思いました。

概して、トルコ人は親日的です。それは、東洋の小国である日本が、トルコの不倶戴天の敵国であるロシアを日露戦争で打ち破った、その尊敬の念が今も伝わっているから。日本の戦勝の報告を聞いて、オスマンパシャ王は、この時の井上の言葉を思い出したことでしょう。
自分もバックパッカーをやっていたころはその恩恵に随分とあずかって、食事を世話してもらったり家に招待してもらったりしたものでしたが。

国を守る一番の方法は、「この国に攻めてはいけない。攻めると我々の不利益になる」と相手に思わせること。

「いざ事あれば、国民全て兵ならざるはなし」

こんなことを、今の日本で、国の代表者が口にしたら、そりゃもう「産む道具」どころの騒ぎではなくなるでしょう。
けれども、実際、このぐらいの気概がないと、国は守れないのではないかと思います。

国は、戦争によってできるものです。そして、我々の生活は、国によって守られています。
それは、厳然たる事実です。

お隣の北朝鮮を見ると、いまだ国民の4/5は電気の無い生活、旱魃が来たら餓死者続出、中国との国境では脱北者という国を捨てての亡命者が相次いでいる状態です。我々がその状況に陥らないですんでいるのは、たまたま我々が日本という国に生まれることが出来て、日本が我々を守ってくれているからです。

そして、我々が今、先進国だとか技術立国だとか言って、快適便利な生活を満喫できるのは、終戦時、アメリカが日本の復活を恐れて、資本主義陣営に取り込んでくれたからです。朝鮮戦争にしても車の市場にしても、アメリカが日本の製品を国際マーケットで売りさばくのに都合のいい条件を整えてくれて、日本経済が成長できたからです。別に、別に日本人一人一人が戦争反対な善人だったから、今の平和がある、というわけではない。

そして、宗教でも政治でもなく、富の偏りこそが、戦争の最たる原因だと自分は思っています。
そりゃ今の日本にも、雇用難やら生活保障やらの社会問題はありますが。そうしたことは、生きるか死ぬかの貧困にあえいでいる人の状況とは次元が違います。

熱いシャワーを浴び、車を乗り回し、アイスクリームや牛肉を食べ、テレビゲームをし、携帯電話をいじり、インターネットを楽しむ、先進国からみれば当たり前の、そうでない国からみれば贅沢な生活を満喫している。その方々が、ぬくぬくとした安全なところで「戦争はいけない」「貧困はかわいそう」などと言っているのを見ると、自分たちの生活そのものが、戦争を起しているのではないかと疑問が沸いてきます。

戦争の根本的な原因たる富の偏りを是正するためには、基本的には、エネルギーも食料も、自分たちの生活レベルを落とすしかない。

けれども、戦争反対のためなら自分達が日本のお隣の、電気も安全な水もない北朝鮮や中国内陸部の人たちと同じかそれ以下のレベルの生活になってもいい、という人は、あまりいないんじゃないかと思います。

ODAの世界にいると、口からはいろんな善良な概念を聞くことができますが、実際に自分の生活を変えて貧困の是正に寄与しようといす方は、まずめったに見かけない。世界銀行の人も大使館の人も、みんな外国人用の宿舎に泊まるか、三ツ星以上のホテルに泊まり、4WDの車を乗り回している。

我々としてはこの快適で便利な生活を手放したくない。
たとえ、国という枠の外の人間には貧しい思いをしてもらっても、自分達の生活は守りたい。

偽善の皮を取り剥いでいくと、本音の総意は、はそんなところではないかと思います。

そして、富の偏りといういわば原罪を意識せずにすむために、寄付とか戦争反対とかODAとかがある。
取り繕いにすぎません。けれども、その取り繕いが我々が安心して生きるためには必要。
国という枠に自分達の生活レベルを守ってもらって、その余力で貧困削減に寄与すればいい。それが一般的な考え方かと思います。

私は決して戦争賛成派ではありません。むしろ誰より身勝手な小心者で、臆病者です。自分が戦争に巻き込まれるのは真っ平ごめんだと、本気で思います。できれば貧困は撲滅して欲しいとは思いますが、今の生活は守りたいです。だからこそ、今の生活をキープしたまま戦争を回避するために、何が有効なんだろうかということを考えます。

そして、「戦争反対」と口で言えば自分たちは戦争に巻き込まれなくてすむという考えは、日本を弱体化させて他国から侮らせるだけで、その点でむしろ害のあるものではないかと思います。

無抵抗主義という考え方もありますが、本当に攻められて抵抗せずにいることが有効かどうかの確証はありません。そして、自分の仕事を奪われ、収入をなくされ、大事な人が殺されていって、本当に抵抗せずにできる人などいないと思います。

有効なのは、国の人間一人一人が戦争を知ること。「日本に攻めたら、自分の国に甚大な不利益をこうむる」と相手に思わせるだけの状況を作り出すこと。

日本は今、中国という、経済的にも軍事的にも脅威となる存在をお隣に抱えています。

別に自分、右翼でもなく、不安を煽りたいわけではないのですが。
ただ、中国の周辺国いろいろで仕事してきて、その国のマーケットをどんどん侵食していく中国の怖さが身に染みてきます。どの国でも、市場やデパートに出かけると、家電、バイクから衣類に靴まで、その国の産業を圧迫しながらみんな中国製に置き換わっていっているのをひしひしと感じる。

一方、中国の現状を見ると、人口増加に加え、一人一人の生活レベルが上昇中であることにより、もはや中国は自給自足の国ではなくなった。エネルギーも農作物も、輸入国に転じた。
中国の2006年の石油対外依存度は47%に達し、2005年度比で4.1%増加したとのこと(「日中経済通信」2/25News China)。また、農産物貿易は2005年、11・4億ドルの輸入超過となった(FAO Statistics)。

世界的消費大国の中国の、日本に対する影響は大きいです。資源も食料も輸入に頼らなければならない日本は、中国とそれらを奪い合いせねばならない。中国にとって、富める国日本は、障害以外の何者でもなくなる。

たとえば、食用油も中国は2003年に輸入に転じ、2004年には6.7百万トンもの輸入を行っている(2004 中国農業発展報告)。このおかげで食用油の国際価格が高騰し、今年のオーストラリアの菜種の不作などの影響もあって、日本は輸入する植物油を確保するためにてんやわんやになった。(植物油Information No.49)(バイオディーゼル需要が増えたというのもある)

そうした例を考えると、今後の20年はこれまでの20年ではありえない。日本は中国をはじめとした世界と、資源と食料を取り合わなければならなくなる。その中で我々が今の自分たちの生活レベルを維持できるだけの資源を確保できる保障はない。
そして、中国が自国のエネルギー・食料を確保するために、武力行使に踏み切ってこないという保障はどこにもない。

国防については、「核の傘」という考え方があります。

日本は何かあればアメリカが守ってくれると思っている。
けれども、仮に、日中の仲が険悪になって、中国が戦争をしかけてくる。そして日本に対米協力の即刻中止、米軍への日本の軍事基地使用の禁止を要求してくる。さもなくば24時間後に日本の主要都市に核ミサイルを撃ち込む、という要求を突きつけてきたら。

そのとき日本はどうするか。アメリカの核に守られているから大丈夫、中国が日本を攻撃するのはありえないと判断するか。いや、たとえ核が打ち込まれても、それを理由にアメリカが中国と核戦争を始めるわけが無い、アメリカの一般市民が何千万人も死んでしまうような事態を、日本のためにアメリカが選択するはずがない。そう判断して日本は中国に膝を屈するか。

これは「たとえば」の話ではなく、実際にその考えに基づいて方針を決めた国がある。1950年代にフランスのドゴール大統領がNATO司令官のアメリカ軍大将と議論した。仮にフランスがソ連から核攻撃を受けたとき、アメリカがフランス防衛のためにソ連と核戦争をするというシナリオがありえるのか、と。ドゴールはアメリカの「核の傘」がいかに欺瞞に満ちたものであるかを示した。それで、ドゴール大統領は独自の核兵器開発を推進し、1960年に最初の核実験を成功させた。一方、言論人、知識人やアメリカの政治家は、こうした自主的な核開発に反対し続けた。

フランスは自国に核を持つことを選んだけれども、日本は憲法を改正しない限りは日本が核を持ち得ない。
核に変わる自衛力を持つしかない。今のところそれは、アメリカの保護でしかない。けれどもそれはいつまで頼りにできるものなのか。

一方中国は、日本に対する軍事的影響力を日々強めつつある。中国原子力潜水艦の領海侵犯は頻繁に行われるようになった。「中国は南シナ海に続き、東シナ海を、事実上中国の海にしつつある。05年には北朝鮮の日本海側の港、羅津を租借し、史上初めて日本海への出口を得た。06年には米国の誇る空母キティホークの8キロ以内に、気づかれずに接近した。世界秩序を支える米国の軍事的な柱、空母機動部隊を至近距離から攻撃出来る力を、中国が得たことになる」との指摘があります。( http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2007/01/post_498.html )
(よしこさんのブログは、論点が明快で、容赦が無くて、大好きだ)

先月、中川政調会長が、このままでは20年後くらいには日本は中国の一地方自治省になってしまうという発言をした。「2010年の上海万博が終わると、中国は非平和的に台頭してくる可能性がある。台湾が完全に勢力下に置かれたら、次は日本ということになりかねない」( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070226-00000061-mai-pol )

ソースは未確認なのですが、中国の首相は「20年後に日本などという国はない」という極端な発言をしたという話もある。

米チェイニー副大統領は、中国の急速な軍備拡張に警告を発しています。(2月25日 産経新聞)
中国の国防費については「国家予算に反映される以上のものを軍事につぎ込んでいる」とされている。
他の費目に分散された装備調達費などを加えた実質分が、公表額の2〜3倍に達するとの見方が国際的な定説となっている。
中国の軍事費は、公的には2005年度で3兆円といわれていますが、これは、兵器製造コストや外国製ミサイル兵器輸入コスト、軍の衣食住コストや武装警察のコストを軍事予算に含めていないとのこと。実際は日本の約3倍、約15兆円と推定されています。前年比18%増、昨年まで18年連続の2ケタ増。じわじわと、他国への脅威を増しつつあります。

一方、日本の自衛費の高さは、GNP1%の縛りがある一方で、自前で兵器を生産できないから、アメリカから殿様商売の馬鹿高い武器を購入させられている。なので、コストパフォーマンスは相当悪い。
また、通常、どんな国も予備兵力は常備兵力の4,5倍はあるのに、自衛隊の予備兵力は1/5程度しかない。つまり、自衛隊は、一度消耗すると補充が利かないという、恐ろしい欠点を抱えている。

大部分の日本人はこうしたこととは無縁と思いながら日常を送っているのが、ぞっとしない話です。これを絵空事と笑ってみているなら、本当に中川会長や中国首相の言うことが実現しかねないと感じなくもないです。

よく平和の象徴としてスイスが上げられますが、スイスが永世中立を保っていられるのは、「武装中立」であるから。軍事費は欧州でも突出して高く、かなり強固な武装中立。スイスは何カ国にも国境を接し、常に周辺の大国に圧迫されていた。主要な一般道路には戦車侵入防止の為の装置が常設されている。政府が食糧を数年分貯蔵していたり、学校にも緊急避難用のシェルターが装備されているなど、国民保護の対策も十分すぎるほど取られている。また、徴兵制度をとっており、20-30歳の男子に兵役の義務がある。女子も任意だけれども、兵務に付く。
スイスの国防の基本戦略は、「仮に侵略が不可能でないとしても、侵略のメリットよりも損害の方が大きくなるようにすること」にある。

そうした例をみると、この先「平和」を守っていくのが、いかに困難なことか。
必要なのは、少なくとも、戦争はいけない、平和はすばらしい、という概念的なことを口にするだけで何かしたような気になることではない。

本当に、この先20年30年、安心して暮らしたいなら、歴史に対して正面から向き合って、日本という国の母体を強化して、一人一人が自分の役割を認識して、「あの国に攻めたら我々の損害になる」と他国から恐れられる存在になることではないか。

井上のように、「いざ事あれは国民全て兵ならざるはなし」という気概を示せるようになることではないか。

別に一人一人が兵になれ、ということを主張したいわけではないですし、そんなことは自分もまっぴら御免だとは思うのですが。
自分の家庭と自分の子供を守りたいと思ったら、見るべきものは、テレビのワイドショーでないことは確かだなぁ、と思うのでした。

日本人一人一人が、マスコミの作る妙な世論に踊らされず、歴史と正面から向かい合って、強く賢くあること。永田町のおっちゃんおばちゃんたちを論うだけではなく、我々一人一人が外国人に接する際にきちんと日本の正当性と日本人の素晴らしさを説明できることになること。何より、いびつな自虐とはいい加減おさらばして、日本という国を知り、普通の愛着を感じること。それが、我々の今の生活を維持するために、求められるのではないかなと思いました。

複雑極まりない現代社会ですから、それぞれがオールマイティになることは不可能。ただ一人一人が何かこれという自分の分野で卓越するものを持ち、それを、自分の生活のためというのと同時に、国というものへ寄与する意識を持つことが、その起点ではないかと思います。

…いやその、そういってミリタリーオタクを正当化しようとしているわけではありません。私はそんなミリオタの仲間に入れていただけるほどの知識も考えもないです。

ただ、お隣が怖いなぁ、昔の人はえらかったなぁ、ということを言いたかっただけでした…。
posted by 入潮 at 04:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

鳥羽伏見の戦いの幕府歩兵隊と伝習隊

本日はメモのみ。
ある記事を探していたら目に留まりました。

「戊辰の夢」澤氏日記、沢太郎左衛門の鳥羽伏見の戦い回顧談。
旧幕府第1号、旧幕府のしょっぱなの収録です。

沢さんなので、海軍、特に将軍の土壇場東帰についてがメインの話なのですが。その前振りとして、陸軍のほうにも触れてくださっていました。

「正月五日、黎明に京軍、淀城を攻む、東軍淀橋を隔て防戦す、京軍河岸より砲撃す、瀧川充太郎、大川庄次郎(正次郎)引率の伝習隊能く戦ふ、此時陸軍奉行竹中丹後守の号令全隊に行き渡らず、諸隊共差図役頭取の見込にて攻撃防御を為す」

これだった、瀧川と大川の鳥羽伏見出陣記録。

(以前に鐘ヶ江さんに教えていただいた記述でした。ようやく場所を見つけました。ありがとうございましたー)

この時の呼び方、官軍=京軍、旧幕軍=東軍。
どうも戦いごとに呼称が変わるらしい。彼らとしては、幕府を「旧幕」と呼ぶことも、新政府軍を「官軍」と呼ぶことにも、抵抗はあったのだろうけれども。(一方、大鳥は平気で「官軍」と書いている。この当たり性格だなぁ、と)

旧幕軍の布陣は以下の通り。

総督:老中格 松平豊前守(旧上総大多喜藩主、後の大河内正質)
連隊総長: 若年寄格 陸軍奉行竹中丹後守(重固)、陸軍奉行大久保主膳正
参謀: 歩兵奉行並 城和泉守

連隊長及び隊長:
歩兵奉行 高力主計頭、 歩兵奉行並:佐久間近江守 (歩兵第十一連隊隊長)
歩兵頭 窪田備前守鎮章 (歩兵第十二連隊隊長)
第四連隊長 歩兵頭 横田五郎三郎
第一連隊長 歩兵頭 徳山鋼太郎
軍監 木城安太郎
御目付 保田ニ(金へんに乍)太郎
其他差図役等数人

これだけの陣営だと、まさしく「軍」という呼び名がふさわしいです。

この面々で、後に脱走したのは、竹中さんぐらいか。上野から会津を経て箱館へ脱走、海陸裁判所頭取。

脱走時の旧幕軍は、規模的には「旅団」なので、軍と呼んでいいのかどうか細かいところで疑問だったりしますが。意思決定する司令部と兵站が独立して自給自足構造になっているから「軍」でいいのかしら。

瀧川らは「其他差図役等」に入っていたのかしら。入っているなら後から言及するぐらいだから名前をが入っていてもよさそうなのだけれども。
「引率の伝習隊」とされているので、おそらく小隊長規模で、差図役だったのではないかと思えるのですが。差図役並かも。うーん。

大川、天狗党討伐のときはすでに歩兵中隊を率いていたから、差図役頭取クラスでもおかしくないのだけれども。
あと、大川は元から幕府歩兵隊にいて、その後で伝習隊に所属が移ったということですよな。大川が自分からフランス伝習を志願したということなのだろうか。

上のうち、死亡が記録されているのが、第十一連隊隊長の佐久間近江守と窪田鎮章。

佐久間近江守は1月3日、鳥羽伏見道にて竹林より攻撃を受け兵が散乱した際。「敗兵を纏め今一戦を為さんと頻りに尽力せしも及ばす、ここに於いて、佐久間は家来澤田^(金へんに英)太の所持する小銃を取り、自ら伏勢の指揮官に向ひ狙撃せんとす。この時京軍には竹林中より隊長をめがけ連発す、その銃佐久間の前進に数発中り勇敢の将も重傷のために馬より落つ。この時、窪田備前守も一隊の兵士を励まし奮戦せしが、乱軍の中に切り入りて打死す」

…幕将が腰抜けなどと小説で評するのはどこのご都合主義作家だと問いたいぐらい、勇ましいです。両人。
ただ、連隊長クラスが自分でライフル撃って、刀で突入するのは、あかんと思います。ちゃんと隊を纏めて再戦可能なように撤収するのが第一の仕事ではないかと。まぁ後の世にぬくぬくしたところから俯瞰した奴の勝手な見かたなのですが…。

ちなみに、この佐久間近江守の従者、澤田は長州藩からの間諜だったとのこと。けれども、佐久間が負傷して死去するとき、これをよく介抱し、頭髪を切り取って遺骸を懇切丁寧に埋めた。そしてその頭髪を、戦後、佐久間の遺族に送り届けたとのこと。間諜には全く珍しい所業で、これをみても佐久間の仁義が厚く勇気が卓越した人間だったことがうかがい知れると沢さんのコメント。

また、窪田は、元神奈川奉行。豊後を預かった16万石の旗本の窪田鎮勝(蒲池鎮克)の息子。神奈川奉行所は、言ってみれば開国によって出来た新設港の密貿易取締り役。この時の部下に、後の見廻組・衝鋒隊の今井信郎がいました。(今井はこの時、給料を飲み食いで使いきり、一文無しになって、入浴もできなくなって1ヶ月海水浴していたという、男臭い話がある…)。

そして、佐久間と窪田を失った第十一連隊と第十二連隊の歩兵たちは、江戸に戻った後やさぐれきって、凶暴な群盗と化して江戸市中に散々迷惑を書けた後、集団脱走してしまいます。これを鎮撫するのに出発したのが、古屋作久左衛門と今井信郎、内田庄司、天野新太郎、楠山兼三郎、天野新太郎、永井蠖伸斎ら。彼らは後に衝鋒隊となります(楠山のみ途中離脱)。そして北関東の伝習隊共に北越の衝鋒隊として戊辰の年を暴れ、箱館では脱走軍陸軍の双璧の隊その1として北の地を席捲します。
今井と窪田・幕府歩兵隊は、切って切れぬ縁を感じます。

それで、幕府歩兵隊・伝習隊が若干活躍したのみで、命令系統がガタガタで、結果がご存知の大敗だったわけですから、敗報直後は大鳥には「そんなあほな」という衝撃が強かったでしょう。大鳥は鳥羽伏見に際して、まだ熟度が低いから自分からは出ないが、命令とあれば出兵する、という積極的なのかよく分からない姿勢でしたが。日夜精魂込めて開発してきた機器が、使い方を良く分かっていない使用者に、まったく概念の違う旧来型のものと一緒くたに使われてしまって、結果をだせなかったということで、駄目出しをされてしまったようなもの。それで、敗戦の報を聞くと、再戦を希望するのは当たり前というか、それしかないだろうと思える。そりゃ、主戦派にもなりますわ。

けれども、慶応4年1月から4月の間に状況は刻々と変化していくわけで。特に小栗忠順の領地への隠匿が彼に与えた心理的な影響は大きかったのではないかと思います。現在の多くの記述でみかけるような主戦派をただ貫いたのではないのだろうなぁ、と。
そのうち、そのあたりも丁寧に追ってみたいです。

とりあえず、まとまりないですが、メモということで、さっくりと…。
posted by 入潮 at 04:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月09日

戊辰物語その3 新選組と土方歳三

以下、土方歳三は常勝将軍で、天才的な近代戦の指揮者で、箱館政権の中心的存在で、ヒーローでないとダメ、という方が読まれると、相当心情を害されるかと思います。
どのような評価になっていようと、実際に生きた土方歳三がどういう人物であったのか、こういう評価もある、ということを見ておきたいという方には、お目通しをいただければと思います。

「戊辰物語」ですが。
この中で新選組がかなりの枚数で取り上げられています。

大正デモクラシーの平穏のなかで、幕末剣戟ものの狂言、「月形半平太」が大流行して、チャンバラ映画が大人気だった。今の世を挙げるまでもなく、平和な世というのは刺激を求めて、反体制的なフィクション活劇モノが好まれるものですが。
そうした背景の中で、勤皇志士対新選組というテーマも注目を浴びてきたという点があったのでしょう。

それで、箱館戦争の土方についても述べられていました。

「土方は(近藤)勇の捕えられるとともに会津に走り、さらに函館へ行って榎本武揚の幕下に参じたが、後に武揚の、官軍と和するの意あるを知って極度に悲観し、合戦のために自ら危険なところへ出動して死を希うの風があった。
酒も飲まずろくろく食事もとらず、『ああ、わが輩は死に遅れた、もし官軍と和することあれば、地下に近藤に相見ゆるを得ない』と長歎し続け、明治2年5月11日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。一説には自殺したとも言われる」

という記述がありました。

土方ファンの方は、何もこれに違和感を抱かないのだと思います。むしろ、これでこそ土方だということで、この麗しい記述ゆえに土方に惹かれたという方も多いのではないかと思います。

……こういってしまうのも心苦しいのですが、これを見て、違和感というか、異を唱えたいことが、滝のようにあふれてきてしまいました。

これを連載した東京日日新聞の記者に、かの子母澤寛がいました。
「新選組遺聞」「新選組物語」「新選組始末記」の新選組三部作を世に表して、新選組の存在性を一躍強めた方です。

子母澤氏の「新選組始末記」の緒言を見てみると、確かに、「ことしの春、私は私の仕事の上で『戊辰物語』という書の一部を書いた。その時にもやはり、この新選組の話だけは、本気になって書けたものである」とありました。
そして、「新選組始末記」の「六十五 宮古湾」の章にも、上の「戊辰物語」の記述と異口同音の表現がありました。

「新選組始末記」の発刊は「戊辰物語」と同じく昭和3年。
よって、「戊辰物語」上の記述が、子母澤氏による筆であるということは、疑いはないかと考えられます。

ステレオタイプの原画がここにあったのか、と思いました。

まず、「戊辰物語」の表記。

「武揚の官軍と和するの意」が、土方没日の5月11日より前に、榎本にあったというのは、明らかな、そして酷く失礼な誤謬ではないかと思います。

明治2年5月11日の箱館決戦は土方の命日でもありますが、それより前に降伏論は、あるにはありました。けれども、それを唱えていたのが確認できるのは、幹部では中島三郎助のみです。

「是迄蓋したらモウ沢山だ、此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やつて居たら、どんなみつともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門に降伏して、皇裁を仰ぎ、外の者の為に謝罪するが宜しい」との中島の言。けれどもほかの幹部はその言葉は聞き入れなかった。官軍からの降伏勧告も相手にしなかった。(「史談会速記録」林董) ほか、榎本らが降伏論を取ろうとせず、官軍からの使者も受け入れなかったのは、箱館戦争の記録者なら羅列するまでもなくほとんどの人間が書いている。

そして、5月15日の千代ヶ岱陥落で、中島三郎助が千代が岱で壮絶な討ち死にを遂げた。そして、歩兵達が脱走して軍が瓦解して逃げていく。これがあって始めて、降伏するかどうかの論議がテーブルの上がった。けれども、榎本、松平、荒井はらみな頑として降伏という手段はとろうとしなかった。ここに押し入れで前後不覚に寝ていて起こされた大鳥が、疲労の寝ぼけ眼を擦りながら、中島三郎の意そのままの降伏の意思を表明した。これは大鳥の「老雄懐旧談」の言に明らか。

よって、少なくとも、5月11日箱館決戦その日まで、榎本は、官軍に膝を屈する気は皆無だった。

そして、いざ議論で降伏が決まった際、榎本が切腹しようとしたことは周知の通り。切腹は狂言だったという、得手勝手な邪推をする作家も世の中にはいますが。丸毛利恒の「感旧私史」をはじめ、その場に居合わせた当事者たちの筆を見れば、切腹の意が事実であることは明らかだ。彼らが榎本の行為に感銘をうけていたことは、胸に迫って判る。

そして、榎本ら降伏幹部は皆、降伏した時点では死を覚悟していました。獄中でも死刑の知らせを、血も枯れる思いで待ち続けていた。もしかして、と気は緩んだことも長い投獄期間の間には確かにあったけれども、基本的に明治5年1月5日の、赦免知らせの瞬間まで、彼らは自ら助かるということは知らなかったし、いつ殺されてもおかしくないと考えていた。

釈放されてからも、いくら官への任官を請願されても「武士は二君に仕えぬ」と、がんと断り続けていた(永井・大鳥を除いて)。新政府が彼らの能力を必要とし、世造りには彼らの新時代知識が必須だったから、彼らが折れて重い腰を上げたのにすぎない。

榎本が節を貫こうとしたことは、特に大鳥が、懐旧談にしろ、榎本死去時の新聞相手にしろ、本多晋をはじめとした旧友相手にしろ、ことある毎に語っています。出獄してさっさと仕官して、開拓使に大蔵省に内務省に陸軍省に工部省にと、省を貨ね渡り歩いた人間にとっては、節を守ろうとした男の話をするのに後ろめたさを感じてもおかしくはないのに、あたかも大鳥は榎本の名誉を守ろうとそこら中で振舞っています。

これらの根拠は、当人の言葉として、いくらでも挙げられます。

脱走した徳川武士にとって、その節を貫いたという事実は、どのような賊の汚名と不名誉にも耐える、何にも変えがたい誇りでしょう。けれども、その節を変じたと名を汚されても、敗軍の将の汚名を背に、なんら弁解の言葉を口にしなかった。それは、榎本、松平、永井、大鳥ら皆に共通する覚悟でした。

節を守ったというのは、彼らの確かな矜持でした。

そこに、榎本が、土方存命中の、まだ闘いが終わっていない時期に、「官軍と和するの意」があったとするのは、榎本の節を根拠なく辱めていることに他ならない。
そうした、侮辱を広めることに、一体何の益があるのか。

…それにより土方の悲劇性が強調され、キャラクターが引き立つ、というメリットでしょう。

なお、「官軍と和するの意」ですが、蝦夷に着いたばかり、松前攻略前の話なら、そういう表現もありかと思います。当初榎本らが目指したのは、静岡徳川藩のいわば飛び領地としての開拓で、その認可を新政府に求めたわけですので。

ただ、その場合、後に述べる土方の福島における言動が、この「官軍と和する」を前提にしたものとなり、子母澤氏の表現と激しく矛盾していることになります。

また、これに続く、土方の「合戦のために自ら危険なところへ出動して死を希うの風があった」という記述も、かなり疑問です。

これを言ってしまうと本当に失礼なことで、ファンの方に刺されるのも覚悟、というぐらいのものですが。

土方が、隊に先立って前線で部隊を実際に指揮していたという記述は、どうも当事者達の記録に見つけることができません。
丸毛が旧幕府の「近藤勇の伝」で、人物を飾る感じでそのようなことを書いていますが、ではいつどの戦いにおいてか、という具体的な表記は見つけられないでいます。

土方の活躍を描写するのに、現代の記述では必ずといって良いほど二股の戦いが出てきます。たしかに「土方隊」が峠を守り通したということで、その奮戦を称える声が無い史料はないと言ってもいい。けれども、史料で称えられているのは「土方隊」の活躍であって、土方自身の行動ではない。

そこにいた当事者としては、今井信郎や大川正次郎ら各隊長の記録がありますが、彼らは土方が総督だったという事実しか言及していない。「又寡ヲ以大敵ニ当リ動カサルハ是土方君ノ力也」(戊辰戦争見聞略記)という記録もありますが、新選組内部でだけその活躍が抽象的に喧伝されている感じ。大野右仲の記録では具体的な行動が出ていますが、隊を率いて前線で戦ったというような記述は無い。かろうじて島田魁の日記に後方にいたことが記されているのみでした。

そして、二股の戦いで土方が実際に活躍していたのなら、その後は、さぞ彼が頼りにされただろう、と思うのですが。

二股戦の後に行われた、七重浜の夜襲の連戦。夜な夜な、泥濘の三連戦が行われました。夜襲といえど、特に三戦目は100名を超える死者をだした、戊辰戦争でもかなり大規模な部類の戦いです。後方にあった人間も直訴して戦いに臨んだ様子が描かれています。

けれども、これに土方が出陣した様子は無い。大鳥、今井、丸毛、小杉、石川忠恕、玉置弥五左衛門、荒井宣行ら、この連戦に参加したどの人間の言・記録を見ても、土方が参加したというのは見当たらない。大鳥と本多・大川・今井らは、先頭きって3回ともに泥沼化したゲリラ戦を前線指揮していましたが(今井は2回)、土方はいずれの戦闘にも参加していなかった模様。

更に、5月11日の箱館決戦。大鳥・本多・大川・春日・人見・二関ら、奉行や各隊長たちは、明け方3時から七重浜・有川・大川の防衛線に詰めて、早暁から戦闘を開始したわけですが。土方は、箱館山の寒川から官軍が攻めてきて、箱館の街が陥落するまで、五稜郭(或いは箱館?)待機だった。つまりは予備兵力扱いだったと見える。
このあたりがどうも腑に落ちない。

ということで、以下、土方が活躍したとされる、宮古湾海戦、二股、福島・松前の戦いについて触れてみます。


● 宮古湾海戦

土方の活躍によく含まれる宮古湾海戦ですが。
子母澤氏の「新選組始末記」には以下の通り。

「歳三は、わが海戦史上、壮烈前後にないだろうと言われる南部宮古湾の激戦なるものを演じた。…土方は函館全軍大評定の席上、この(甲鉄艦の)乗っ取りを力説し、三月二十一日の夕刻、函館脱走兵の中から精兵を選抜してこれを回天を旗艦として、蟠龍高雄二艘へ乗せ、掛川藩出身の傑物甲賀源吾を艦長として官軍奉行荒井郁之助も参加して、決死の覚悟を以って函館を抜錨した」

あたかも、土方が甲鉄艦奪取を思いつき主張し、計画し、人選したかのような書きぶりです。
この記述は魅力的だったようで、「燃えよ剣」も土方の発案のように書いています。この子母澤記述に基づいたものと思われます。

また、「甲鉄艦が七席の軍艦に守られて堂々としているのを発見して、土方は手を打って喜び、盛んに蒸気を焚かせて、遮二無二突進し」とか「土方は機関士を励まして、乗り寄せよ乗り寄せよと言う」とか、具体的な行動の記述も、「新選組始末記」にはあります。

けれども、これを裏づけする史料が見当たらない。

宮古湾襲撃に至る過程を描いたもの中では、「フランス人の幕末維新」(有隣新書)がかなり詳細かと思います。甲鉄艦、春日艦含む敵艦八隻が宮古に集合しているという報を受けた際の、フランス下士官のコラッシュの談。

「そこで討議されたのは、不意打ちに出るべきではないか、即ち守勢に回らずに攻撃に出てはどうか、という問題である。しかしそうなると実際に我々の艦船を引き連れていかねば成らず、ということは島を防御する一番の手立てを失うことになってしまうのである。また、他方、敵艦を打ち砕き、全く我々を攻撃できなくすることにはどれほどの利点があることであろうか。この問題は、二コール、マルラン、フォルタン、日本人海軍奉行の荒井郁之助、回天の司令官、それに私のあいだで、あらゆる面から慎重に議論された。その結果、全員一致で、われわれの軍艦三隻で敵の艦隊を打って出ることに決定した」

つまり、宮古湾襲撃の計画策定に当たっていたのは、フランス士官・下士官と、荒井・甲賀であり、土方の名前は出てこない。

「これら艦船にはそれぞれの乗組員のほかに、陸兵を数人ずつ乗り込ませることになった。彼らにはアボルダージュ(横付け)する際、白兵戦で活躍してくれるに違いないからである」

ということで、白兵戦の必要において、剣戟に慣れていた彰義隊、新選組、土方の面々が選出されたということのようです。

ちなみに。ブリュネはこの会議には加わっていませんでした。

「特使がブリュネ氏のもとに派遣された。この件を伝え、会議の結果を知らせて、承認を受けるためである。ただちに、計画に全面的に同意する胸の返答が届き、あとは出発するばかりとなった。ところが、われわれは、傲慢ひとかたならぬ海軍奉行を考慮に入れていなかった。奉行は、相談を受けなかったことに立腹し、あれやこれやと口実を設けてなんとか出発を遅らそうとしてきたのである。しかし、ブリュネ氏が急いでとりなし、反対すればどのような危険が生じかねないかを彼に納得させ、その場を切り抜けることができた」

とあります。

この反対した「海軍奉行」ですが、前にあろあさんもご指摘されていましたが、自分も「陸軍奉行」の間違いではないかと思います。荒井は計画の議論に加わっていましたし。榎本、松平共に賛成で、出発前に激励に船に訪れたりしていますので。

それに、大鳥は二月頭から三月中旬まで、ブリュネとともに江差松前方面に巡視と台場構築に回っていました。宮古湾襲撃が3月20日出発だったので、その前の会議に大鳥の帰郭が間に合わなかった可能性は高いです。

大鳥としては、自分の管轄下の大事な歩兵を、勝手に危険極まりない目にあわせられてたまるか、というところでしょう。
しかも盗賊海賊まがいのことをして、成功したところでどれほどの持続性があるか。
けれども、恩師ブリュネさんの言うことならしぶしぶ聞かざるを得なかった、というところでしょうか。
なお、宮古湾に加わった陸兵には、伝習隊も衝鋒隊も一連隊も、旧幕の陸軍伝習を受けた兵は加わっていない。

大鳥自身、南柯紀行には、ただ行われたことを淡々と書いています。面白くないことは一切感情を交えず淡々と事実のみ書くのが、この人ですが。

それで、反対するとどのように危険だったのか。コラッシュさん、そこのところをもう少し詳しく述べて欲しかった。…もとい。

宮古湾海戦を描いた記録で詳細なものは、ほかに、安藤太郎の「美耶古能波奈誌」(函館市立図書館蔵)があります。安藤は宮古湾海戦の直接の参加者で、海戦で負傷しています。その記述は詳細で定評が高いようで、丸毛利恒「北州新話」や鈴木金二郎の「函館記事」も、彼の記述を参照しています。安藤の描写もコラッシュの描写に矛盾しません。それで、宮古湾開戦の起こりとしては。

「征伐の師江戸を発し水軍は已に途上に在るの報を得たりければ衆議之を途上に要してその不意を撃ち我国有名の装(甲)鉄を奪わんと要せり」

衆議で決まったと述べるのみです。
そして、彼の豊かな戦闘描写の中にも、土方については一言も書かれていません。描写があるのは、荒井と甲賀が中心、あとは二コール、それと死者の大塚浪次郎や野村利三郎らです。
ほかに宮古湾海戦の様子が詳しい記録に「蝦夷錦」「説夢録」「天極記」などがありますが、これらにも、土方はそこにいた者として名前が羅列されているのみ。

つまり、当事者達の記録からは、土方は、乗組員として加わって居たというだけしか読み取れず、何をしていたか、どういう活躍だったか、というのは、自分の見てきたものからは、さっぱりなのです。ほかに何か根拠があるのかもしれませんが、どうも私には見つけることができません。



● 福島・松前の戦い。

福島・松前の戦いも、よく土方が近代戦術士官としての実力を見せ付けたとしてよく描かれています。

こう言ってしまってはそこで身を散らせた方々に申し訳ないのですが。相手の松前藩士は旧装備でろくに施条銃戦術の訓練は受けていないし、城はごり押しで攻めたわけだし、野戦は強力な海軍の援護がありましたし、武器も兵員数も圧倒的に脱走軍側のほうが有利だったわけで。そんなに難しい戦いでも、新しい戦術が示された戦いでもなかったと思います。言ってしまえば、勝って当たり前の戦いであり、当時の各隊の隊長クラスの誰が率いていても結果は同じではなかったかと。(そしてこういう勝ちの見える戦いには出てこないのが大鳥。)

一つ面白い史料があります。「渋谷十郎事蹟書」という記録です。「福島町史通説編」収録。

松前藩江戸屋敷の家老遠藤又左衞門らが、佐幕派家臣誅殺のため出張し、その目的を終えて箱館に帰って来たのですが。その一行の中に、渋谷十郎という方がいました。彼が、旧幕軍がやってきた際、泉沢にて、首を取られる前にということで降伏してきています。
渋谷は土方や松平と面談しており、土方から木古内にいる渋沢成一郎への書状を持って、旧幕軍の囲みの中を松前藩の福島城へ向けて出発しています。

ちょっと長いですが、引用します。

「仝廿七日陸軍副隊長土方歳三馬乘ニテ旅宿ヘ訪来ル。 余友安田純一郎之ヲ一室ニ請シ定テ、歳三曰ク『各々我等ニ面会ヲ望ムハ如何ナル事情ナルヤ、』余等応テ曰ク『余等去八月中内奸剪除ノ命ヲ受ケ、京都并ニ江戸邸ニ於テ其所置ヲ遂ケ、 復命ノ爲本月廿三日横浜ヲ発シ、一昨夜入港スルニ豈科ヤハカラン、今般ノ事変、 殊ニハ本藩ノ兵隊、既ニ大野口ニ於テ貴方ト交戦ノ趣、 今又貴方ノ先陣巳ニ茂邊地ヘ出張セリトテト聞ク、如期道路要塞ノ上、譬ヒ微服潜行セントテ、万一捕獲ニ逢フ時ハ一身ノ恥辱ト藩名ヲ汚スヲ如何セン、 故ニ断然首出ス、 希クハ武士ノ情ケ臣子ノ裏情愍察アランヲ乞フ、 各々ニ於テモ弾丸雨注ノ間戦地ノ経歴シ来タルハ亦其君ノ爲メニ尽ス所ナラスヤ、 今余等カ生命爰ニ迫マレリ助クルト否トハ君等ノ欲スル所ノ侭ナリ、 伏テ願ハクハ、 ノ籠中ヲ脱シ一去復命スルヲ得ハ実ニ再生ノ高恩ナリト、 歳三曰ク各々陳言スル所ニ虚説ナラサルヘシ、 雖然今ヤ貴藩ト戦端ヲ開ケリ全体以テ之ヲ処セハ如期寛大ニ差置ヘキニアラサレトモ、 譬ヒ各々ヲ捕ヘ断頭ニ処セシトテ敢テ思ヒニ快然ナルモ非ス、 何レニモ隊長松平ト評議ノ上差図ニ及フヘキ旨挨拶シテ去ル」

明治元年11月27日のことです。渋谷、自分達の命は、旧幕軍の欲するままだが、ここから脱して、松前藩に復命させてもらいたいとの言。それに土方は、すでに松前藩と戦端を開いている、たとえ一人一人の首を切ってもそんなに愉快なことではない。これは松平と相談してから上から指図に及ぶことだと挨拶をして去っていった。

翌日28日に松平が来て面談します。「 松平太郎玄関上面ニ在リ、 土方歳三左側ニ陪席ス」とあります。有川、泉沢で、松前藩と旧幕が戦闘に及んだ旨を述べました。この後、渋谷は、安田、小林らに脱走軍の挙動を知内に知らせさせます。その後、彼は土方を再び訪問し、一晩中語り合っています。このときの土方の言。

「歳三余ヲ奥敷ニ伴ヒ、 従容語テ曰ク、『我徒先般鷲木村ヘ揚陸セシハ固ヨリ戦事ヲ好ムニ非ス、 凾館惣督府ヘ懇願ノ次第有之其故如何トナレハ、既ニ奥羽連合ノ諸藩朝廷ヘ謝罪降伏セシヨリ、 我徒戦略士人牾施スヘキノ術ナキヲ以テ、仙台侯ニ迫リ、 朝廷ヱ謝罪寛大ノ典ニ預ランヲ只管懇願スト雖モ、 敢テ許容ノ色アラス、却テ我徒ヲ放遂セントノ動静アルヲ窺ヒ、 頓ニ彼地ヲ脱シテ北海ニ来リ、 開拓十分ノ成功ヲ遂ケ前罪ヲ贖ハント欲ス、豈科ヤ、督府ノ兵隊俄然トシテ襲撃、一時論説ヲ以テ禦ク旨キニ非レハ、 武門ノ習ヒ不得止接戦ノ処、 却テ勝利ヲ得ルニ至ル、是レ果シテ我徒ノ幸ナルカ將タ不幸ナルカ未タ知ル可カラス、 然リト雖モ、 苟モ兵力ヲ以テノ地ヲ掌握セシ以上ハ、 我徒ノ措置前日ノ思考ヲ以テスルノ類ニ非ス、 今我兵三千アリ、 益兵伏ヲ調ヒ大ニ運粮ヲ続カハ全島ノ平定ニ旬ヲ過キス、 其餘勇ヲ奥羽越振ハン掌中ニアリテ存ス、 唯リ南端松前氏アリテ孤守ス、抑モ先公豆州公殿ハ徳川家ニ於テ閣老タリ、 而シテ其勲績アルモ亦私徒ノ能ク知ル所ナリ、 然ルニ当志摩殿ノ存慮如何ナル持論アリテカ、大野ニ出兵セラレシヤ聞ク、子モ亦役員ニ列セリト請フ、 其藩論ヲ聴カン』ト」

土方の言葉ですが。
鷲木村へ上陸したが、もとより戦いは好むところではない。ここへ来たのは、箱館総督府へ懇願するためだ。すでに奥羽連合は朝廷へ謝罪降伏した。自分達はこれ以上抗えないので、仙台侯に迫って、朝廷へ謝罪し寛大な処置を請わんと懇願したけれども、許容される風はなく、仙台には自分達を放逐しようと動きがあった。であるので仙台を脱して北海道に至り、開拓を十分成功させて、自分達の罪をあがなおうとした。それなのに、新政府の総督の兵隊(松前藩)は依然として我等を襲撃してきて、対話をもって解決できるような事態ではなかったので、武門の習いということでやむを得ず接戦に及び、勝利してしまった。これが幸いだったのか不幸だったのかは分からない。けれどもいやしくも兵力でこの地を掌握した以上は、以前のような思考をそのまま持ち続けるわけにもいかない。今われらに兵は三千ある。この兵を用いて糧食も続けば、全島を平定するのはすぐだ。その勇をもって奥羽を振るわせようと思う。その中、独り松前氏のみがこれを守っている。いやしくも松前氏の先代は徳川家の閣老だった。その功績は自分達も良く知っている。それで志摩殿(松前候)はどうお考えで大野で兵を出してきたのか。その藩論を聞きたい。

「依テ土方ノ室ヲ出テ宿ニ帰レハ巳ニ鶏鳴ナリ」

と、渋谷さんは土方と明け方まで語っていたようです。

土方の言、ずいぶんと穏健な言い分に見えます。少なくとも、悲観して自殺同然の戦いをしたと言われる人の言動とは思えません。箱館政権の意思にまったく矛盾はありません。

…土方って、仙台での諸侯の会議で、生殺与奪の権を要求しながら、軍事を率いる弁を講じたのでは無かったでしたっけ。そういうことを言うから「放逐」になったのかと思うのだけれども…というのは置いておいて。

自分達は開拓をして成功させて、官軍に逆らった罪を贖おうとしたのだ、と。そこに松前藩が攻撃してきたから、やむを得ず戦ったのだと。松前藩はどう考えているのか、と。
そして、「もとより戦いは好むところではない」というのは、南柯紀行で何回も出てきている言葉です。この言動だけ見ていると、大鳥と土方は、かなり方針や志向は合致していたのかな、と思えます。

…今まで散々メディアで語られてきた姿とは矛盾していることは確かですが。子母沢寛氏の表現にも、まったく合致しませんが。

土方が自分に、もはや官軍と戦い死ぬしかない、という確たる意思がありつつ、榎本たちを政治的に邪魔してはいけないと、この場では彼らの意を代弁したにすぎなかったのかもしれません。土方に夢を抱いていたらそういう解釈もありかと思います。ただ、そこまで大人でいられるのもどうかな、という気もします。

単に、榎本や松平が述べた言を繰り返しているのかも知れませんが。明け方まで延々と渋谷さんと語りあっているのですから、これらの言に、ある程度土方の本意も含まれていると見てよいのではないか、とも思えます。

とすると、「もし官軍と和することあれば、地下に近藤に相見ゆるを得ないと長歎し続けた」という子母澤氏の記述も、どうも本当だったのか怪しくなってきます。この言が箱館の土方を土方たらしめていると言ってよいほどで、ファンの方の間でも特に好まれている記述かと思いますが。上の土方の言動をそのまま見ると、少なくとも向こうが攻撃してきたから仕方なく戦になった、というスタンスなので、「官軍と和する」まで行かなくても、松前藩が開拓を認めればそれでよし、という姿勢だった。なので、この表記までも疑わしくなってくる。

どちらにしても、土方がこの言の大意は、すでに発せられていた榎本の檄文に含まれていました。よって、土方が榎本らの意思に合致した行動をとったのは確かかと思います。

一方、この後、彰義隊分裂という事件が起こります。切腹騒ぎにまで及んだ結果、渋沢成一郎が小彰義隊として独立する。けれども、丸毛靭負の「感旧私史」を見ても、事態の収拾に走り回ったのはやはり松平太郎で、土方は一切記述に現れない。どうもこの件についても土方はノータッチだったらしい。

ということで、土方が松前方面を率いていたという役どころだったとしても、その意思決定や監督は、松平太郎にあったようです。



こうしたことを考え合わせると、土方は、陸軍の上に立つ人ではなく、あくまで自分の隊である新選組の管理しかしていない人だな、という印象です。
人見や酒井孫八郎などのさまざまな記録に「陸軍奉行並」ではなく「新選組隊長」と書かれていることからも、そのことが伺えます。 二股で一緒だった今井信郎すら役職を間違えている。(彼は軍規面も担当し、ワイルドな割りにその辺はきっちりしている人のはずなのだけれども) 大川に至っては名前だけあげてあとはスルーという扱い。(新選組に入った桑名の石井勇次郎は「陸軍奉行」としているけれども…)

こちらでもすでにつらつらやってしまっているのですが。
土方の管理は、新選組以外には及んでおらず、陸軍奉行並というのも肩書きに過ぎない感じがします。
防衛計画や、防衛設備設計施工や、人事や、組織訓練や、兵站準備や、火気配備計画といった、陸軍の管理者としての仕事をした形跡はまったくといっていいほど見当たらない。市中取締りの報償を石井に与えていたぐらいで。

仕事をしているとそれに関連した書簡がどこかに残っているもので、大鳥をはじめ箱館の他の奉行の方の文書はあちこちで見られるのですが、土方にはそうした書簡も、特に箱館のは見当たらない。上の渋谷氏には何らかの書簡を持たせたようですが。それも直接目にできない。あと、会津東辺史料に、土方が会津藩に母成敗戦後の援兵を請うた書簡があるのですが(亜樹さん、ご教示ありがとうございます)、それも「いつ」「どこへ」という5W1Hを欠いた抽象的な文書で、どのようにという指示でなく、解釈が分かれている。指揮者の書く文章としてはちょっとどうか、という感じ。あとはかろうじて、大鳥が松前の巡視結果と防衛について松平さんに宛て、「土方に回覧」としているぐらい。

なので、土方が陸軍奉行並という認識は、ほとんど当事者たちには無かったのではないかという印象を受けています。おそらく、五稜郭ではなく箱館に駐在していたという記録から見ても、新選組の旧来の職務である、町方の警備に、新選組と共に当たっていたのではないかと思います。軍務ではなく主に警察業務に従事していたのではないかと。


宮古湾襲撃についても、二股についても、土方の「活躍」には、こうした当事者の記録の裏づけのない描写が巷に多すぎると感じています。

私も土方歳三は好きです。嫌いだから貶めたいという私情があるのでは決して無い。メディアに見る彼の存在は掛け値なしに格好良いと思える。彼の描写が史料の中に見つかると、嬉しいです。むしろ好きだから、実際どうだったのか、ということが知りたい。

けれども、実のところ、具体的に土方を書いたものには、一度新選組の枠を出てしまうと、そう巡りあえない。書かれていないということは、こういうのも大変失礼なのですが、書かれるほどに他者に印象を与えてきたわけではないということではないか。少なくとも実際に書かれている人と比較すると、そう受け取らざるを得ない。

そうすると、その存在度は、陸軍隊の春日左衛門や、遊撃隊の伊庭八郎や、額兵隊の星恂太郎や、一連隊の松岡四郎次郎といった各隊長とせいぜい同格程度であって、陸軍奉行並といった統率者、指揮官としての具体的な行動の記録は見つからない。あくまで、箱館では多くの隊のうちの一つである新選組の隊長、という感じを受けています。全隊から見ればむしろ埋もれてしまうぐらい地味です。その新選組自体も、他隊の人間の筆では、羅列的に隊の名前が出てくる程度で、箱館では大して印象は大きくはない。箱館の主力は伝習隊と衝鋒隊、あとは彰義隊、額兵隊、遊撃隊、一連隊…という感じで。新選組はそれらの存在に対しては印象が薄い。土方はその新選組の内輪では慕われていたが、一度その輪から出るとそんなに飛びぬけて目だった存在でもない、という感じです。

確かに、鳥羽伏見の戦いでは結構いろんな方の記録に新選組の活躍を見ることができます。けれども、旧幕軍の江戸脱走以降は、新選組は、出てきても全体像の中ではかすんでいる。実際いた人の記録でも、そこに新選組がいても、名前を省略していたり、羅列程度に示していることがほとんど。ただ、新選組の一員、内部の人はさすがに自分達のことなので記録していて、そればかりが我々の目に付きやすいメディアで頻繁に取り上げられているにすぎない感じです。

大鳥の記録は、旧幕側で、詳細さ、正確さについて定評があり、同時代から現在までさまざまな形で引用されていますが。日付ぐらいはよく違っていますけれども。その大鳥の記録にも新選組や土方は名前の羅列、記号程度にしか出てきていない。新選組や土方を目当てに南柯紀行を読んで、「え?それだけ?」と拍子抜けした方はけっこういらっしゃるのではないだろうか。私は拍子抜けした。それが疑問の始まりだったりするわけなのですが。

大鳥が土方に何らかの感情を持っていて、思い出すのも辛いとか不快だとかの理由があり、わざと記さなかったのではないかということも考えましたが。特にそういうわけではなく、当事者の記録と照らし合わせていくと、大鳥の感覚は別にそんなに他の人と違うわけではないと感じられる。後年の回顧談にもほとんど出てこない。

大鳥のように、現在のメディア業界で示されている像よりも、実像のほうがはるかにプラスの方向に再評価できる場合は、述べていてとても楽しいですが。その逆の場合は、読んでくださる方の心情を害することにもなり、本当に心苦しいところです。

ただ、もちろん、自分の見たものは然程のものではない、なんら網羅したわけではない、というのはあります。まだ特に官軍側の各藩の記録などは直接当たっていないのも多いですし、会津資料なども有名どころしか知らないです。

自分は歴史を専攻したこともなければましてそれを生業にしたこともない。それどころか日本史は中学生程度の知識しかない、歴史はまったくの門外漢です。

そういった有様なので、別に自分の言うことが正しいのだ、などということを主張する気はまったくありません。ただ、どの辺ををみて、モノを言っているのだ、という疑問も持たれることかと思いますので、一応当事者の記録が入っているものとして目を通したものは、以下の通りです。

「旧幕府」、「同方会誌」、「復古記」、「太政官日誌」、「南柯紀行」・「名家談叢・実歴史談」・「老雄懐旧談」・「自伝草稿(大鳥欄三郎・医事新報収録)」(大鳥圭介)、「北戦日誌」(浅田惟季) 、「泣血録」(桑名藩士中村武夫)、「心苦雑記」(凌霜隊・矢野原与七)、「伊地知正治日記」、「香川敬三事跡」、「慶應兵謀秘録」 (七連隊・源恵親)、「野奥戦争日記」 (伝習第二大隊の誰か、維新日誌収録)、「日光附近戦争及雑書書」(日光同心・平賀嘉久貼治)、「戊辰戦争見聞記」(石井勇次郎) 、「谷口四郎兵衛日記」、「麦叢録」・「雨窓紀聞」(小杉雅之進) 、「蝦夷之夢」・「北国戦争概略衝鉾隊之記」・「衝鋒隊戦記」(今井信郎) 、「北州新話」・「感旧私史」(丸毛利恒) 、「美家古廼波奈誌」(安藤太郎)、「一季の物語」(大塚霍之丞)、「浮世成行枕夢物語」(屋代淳之丞)、「胸中記」(野田大蔵)、「津軽藩と函館の役」(中村良之進)、「説夢録」(遊撃隊・石川忠恕)、「天極記」(著者不詳、おそらく海軍士官)、「東走始末」および「函館の役」および「日本軍人の伎倆進歩と戦捷」(高松凌雲)、「函館余音」「一世一夢」・「幕末裡面史」(寺澤正明)、「脱艦日記」(著者不詳、おそらく箱館海軍士官)、「後は昔の記」・「林董自叙伝」(林董)、「美加保丸の難破談」(山田昌邦)、「美家古廼波奈誌」(安藤太郎)、「幕府の軍艦蟠龍丸の記」(横井時庸)、「幕府の軍艦開陽丸の終始」(沢太郎左衛門)、「函館戦争日記」 (岩橋 新吾(教章))、「五稜郭及函館戦争」(著者不明)、「小野権之丞日記」「酒井孫八郎日記」、「後の鏡」(山内堤雲)、「瀧之屋日記」、「函館戦争」(官軍・朝陽艦長 中牟田倉之助)、「苟生日記」(杉浦清介)、「新選組史料集」・「続新選組史料集」(新人物往来社)、「箱館戦争史料集」、「会津戊辰戦争史料集」、「會津史」、「七年史」、「會津戊辰戦争史」、「近世事情」(維新日誌収録)、「死生の境」(林董、野田豁通、大鳥圭介他)、「史談会速記録」、「藤原町史資料編」、「大野藩史」「福島町史」「北海道文書間蔵 箱館奉行所文書」、等。

とりあえず手元にあるもの手当たり次第で。
他に良い史料があれば是非ご教示ください

ここで並べたのは世に存在する史料のほんの一部にすぎないと思います。世にはさまざまに埋もれている史料がさまざまにあると思います。何々家文書というような、日の目を見ないままに、崩し字のまま郷土史料としてお蔵入りになっているものも相当あると思います。

そして、一つの史料をみるにも、見落としも多いです。そもそも、一字一句暗記しながら読むということは到底不可能ですし。人により、その史料から何を受け取るかはまったく異なる。同じ史料を何回読んでも、毎回何かしら発見します。1回や2回読んだからってその史料の書いてあることすべてが頭に入るわけではない。

そして、史料を見れば、見る人の数だけ、注目したいところがあることでしょう。そこから何を自分の認識として取り入れるか、自分の価値判断の基準とするかは、人によって違う。いわば、「史料を見る人の数だけ、歴史がある」と言ってよいのではないかと。

けれども、いくつかの当事者の記録をそのまま読んでいれば、だいたい共通する出来事、人のあり方や存在性などがなんとなく分かってくる。そうした記録に共通する物事は、誰が読んでも同じように受ける認識が、スタンダードとしてあってよいと思う。

それで、こういったものを見てきて、戊辰戦争以降の新選組や土方については、そのスタンダードがどこにあるのか、よく分からない。現在、現代語で説明されている評論や解説書の表記が、戊辰戦争に関しては、どうも史料から受ける印象とだいぶ違う。具体的な記録をしているのが、新選組内部の人以外にあまりいないので。ただ新選組内部の資料だけで盛り上がっている感じを受ける。
それで、新選組とであった人の記録で、膨大な記録の中でほんの1,2行、外見とか印象を記しただけなのが、いかにも重要事項であったかのように、強調されて、そればかりまとめられて、加工されている。

新刊書籍や読本など、手に入りやすいメディアでは、その加工の像ばかりが流布されている。けれども、肝心な具体的な人物評価の根拠となるところが、実際に当事者の記録を当たってみると、ほとんど見つからない。見つかっても抽象的で、羅列的で、ぼやけている。
それなのに、「新選組は歴史上重要だ」「土方はヒーローだ」というような観念が先にあって、それに都合のいい記録ばかり抜き出されてまとめられて、ストーリーが作られている感じがある。その観念は、子母澤氏の三部作と、「燃えよ剣」から来ているもので、実在の人物の記録に基づいたものではない。

明治末期から大正時代にかけて、日露戦争も終わって世情が落ち着いてきた。日本国内はよりいっそう娯楽に刺激を求めるようになった。また、太平の世ほど、お上を否定し論う調子に迎合するものですが。特に、現体制に抗っていた、旧幕府、佐幕の草莽の士がもてはやされるようになった。

そうした存在が、事実に創作や脚色や捏造を重ねられて、大衆に受け入れられやすいようにきらびやかな装飾が課されるようになった。何が本当の事実だったか、ということは、芝居や本が売れるなら、この際どうでもいいといった風潮。事実とは何ぞやという歴史学など、学者に任せておけばいい。

そうした流れの中で、新選組や土方が、旧体制の滅びの美学を引きずって掘り起こされて注目されるようになったのではないか。

子母澤氏が、嘘やでっち上げを書いたとは思いたくはないです。事実を大衆に分かりやすく伝えるのがジャーナリストの仕事で、そのための加工は彼らの仕事であり、誇張は職業病だと言ってしまえばそうなのですが。
子母澤氏の筆にある記述は、実際に新選組の係累や関係者の口から出た言葉であるのだと思います。

新撰組当事者の残した記録でも、永倉新八の「新撰組顛末記」のように事実と誤謬が甚だしいものや、島田魁の日記のように主語述語が一貫せず文章表現の解釈に悩む、資料として用いるのに疑問があるものも、新撰組資料には多いです。残念ながら、歴史研究者がそれらを掘り出して自分の好きなように解釈してしまっているように見受けられるものもあります。

一方、新選組の内輪の記録や、新選組の当事者やその係累の証言に、どうも新選組自身の存在や土方の誇張が目立つのは、土方を死した英雄化することにより、自分たちのプレゼンスを高めたかったのではないか。こんな立派な人の下で働いたのだ、だから俺達も偉かったのだ、といいたい感情があったのではないかと思えます。

新知識や技術を持つ旧幕臣は、新政府から請われて出仕した。元賊軍ながら、手に職を持つ彼らには就職先があった。工兵しかり、武器弾薬製造しかし、散兵戦術しかり、測量製図しかり、錬兵しかり。能力のあるものは請われて職に就いたのは事実。明治7年には官員の1/3が旧幕臣だった。

一方で、こう言ってしまうのは大変失礼なことなのですが、旧来の能力と価値観にしがみついた人間達は、時代に必要とされる技能があまり身についていなかった。それで、就職するにしてもせいぜいが警察や警備員などで、社会的地位も高くなく、そう俸給の良い仕事には付けない。それを、「薩長政府だから」と政府のせいに責任転嫁をした。そして、言いにくいことだけれども、「薩長政府」に仕えているかつての戦友に対する嫉妬ににた感情が大きかったのではないか。それで、彼らの頭の中に、現状を正当化するために、自分たちの派閥に対する過去の美化と、そうでない者への貶めが、ストーリーとして作られたのではないか。自らの身を補償するために。

そして、そうした感情に基づいた懐古趣味にあふれた記述が、為政者を攻撃したい刺激を求める大衆のニーズに、ぴったりときたのではないか。

結局、誤解を恐れずに言ってしまうと、新選組や土方は、娯楽メディアの中でのみ存在感のあるものなのかなぁと思います。

そうして描かれた姿が、事実である、ということの保証は、皆無ではないですが、どうにも希薄だというのが、今のところの印象です。


そんな感じで。ファンの多い新選組・土方をこのように縮小方向へもっていってしまうのは、読んで下さる方の心情を害することだとはわかっているので、やりたいことでは決してないです。今まで何度か同じようなことはのたまいましたが、未だに怖くてこれでポストしていいのか、という気がしています。

ただ、娯楽メディアと実像とのギャップによる違和感は、調べれば調べるほど募っていく一方ですし。阿世をして自分の感覚を捻じ曲げることもできないでいます。

私も、彼らを貶めたいわけでは決して無いのです。

「新選組始末記」は、「確かな史実と豊かな巷説を現地踏査によって再構成した実録」と巻末にあります。こうしたあおりでは、読者は本の中の著述が事実であるとの認識を受けます。

根拠無く事実であるかのように人を貶めるのが言語道断なのは、無論のことですが。
根拠無く事実であるかのように人を飾り立てるのも、またその人にとって失礼な行いではないかと思うのです。
他者を貶めてでも自分の好みに飾り立てる。そういうことをされて果たして故人が喜ぶのだろうかと、疑問です。実物そのままでは足りないと言っているようなものではないかと。

等身大を等身大として認識し、その姿を描くほうが、よほど故人は嬉しいと思うものではないでしょうか。
嘘と虚像で塗り固められた姿を賛美されても、普通の良識ある人間なら、やめてくれよとうんざりして手を振るのではないかと思います。

歴史英雄物語が悪いと申すわけではありません。
ファンタジーをファンタジーとして記述するのは一向に良いかと思います。幻想によって人は癒しと満足を得ます。それはそれで、価値の在ることだと思います。ある人物をモデルに、架空を架空として描くのは、一つの創作スタイルとしてとても良いものなのではないかと思います。

けれども、ファンタジーをあたかも事実と認識させて書くのが、いかがなものかと思うのです。

私もファンタジーは大好きなのですが。
現実の人物は、人物実物ありのままが、いちばん濃いし魅力的だし格好いいと思っています。

「新選組始末記」の解説には、以下のように記述されています。

「子母澤寛はその真実の姿を掘り起こし、再評価することによって、隊士たちの鎮魂と権利請求を願ったのではなかったか」

彼自身の筆はともかく、それが原図の一つとなってもたらされた今のメディア業界の姿は、どうも土方の「鎮魂」になっているようには、感じられないでいます。


そういうわけで、大様の耳はロバの耳と、のたまってみました。
別にそれで、何かをどうかしたいというわけではないです。ただこういうことを感じている奴もいるのだな、ぐらいでお心収めいただけるとありがたいです。不快にさせてしまいましたら、本当に申し訳ございません。ご批判、反証など、ございましたら、甘んじてお受けいたします。

そして、今の自分の認識をひっくり返してくれるような資料があるのでしたらば、それこそが自分の望んでいることです。自分の見たものなぞ、なんぼのもんじゃい、という感じで。自分も彼らを、世間と同じく、高く評価したいのです。ただ、史料でできてしまった認識は、史料でしか変えられないだけで。その史料が、今のところ、見つからないでいます。上に挙げた史料の中でも、見落としはいっぱいあると思います。「ここにちゃんと書いてあるじゃないか、ばか者」と、どうか叱ってやってください。


激しく長くなりました。しかしなおも明日以降、特に土方ファンの方に、嫌われることを言うと思います。

posted by 入潮 at 23:01| Comment(9) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月11日

奥羽蝦夷戦乱史、東京地図 等

…広尾の有栖川宮公園を目指していったはずが、なぜか気が付いたら目の前には、東京タワーが凛と聳え、観光客がひしめいていました。

本日の行動。
(六本木とか青山とか渋谷とか麻布とか東京タワーとか芝とか)→都立図書館→大学図書館→会社→銭湯

図書館のハシゴも、バイクで行ったら地下鉄の乗り換えもなく早くて効率良いだろうと思ったのですが。案の定散々迷って、意図せずに、普段まず行かない東京の有名どころを散策してしまった。皇居外苑通りに、西外苑通りと東外苑通りがあるなんて、聞いてない。東京の道はどうなっているんだ。いや、どうなっているかの問いかけが必要なのは、自分の方向感覚と二次元把握能力の無さに対してなのですが。

結果、都立図書館にたどり着くのに1時間かかってしまいました。

都立図書館のお目当ては、「慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史」。
その名の通り、戊辰戦争の、下野、会津、奥羽、箱館戦争を詳しく描いた戦記です。
佐藤浩敏著、東北史刊行会蔵版。大正六年九月発行です。

マツノ書店さんが復刻を準備されているということだったので、どういう資料なのか見に行ってみたのです。
国会図書館にもありますが、どうせ大量コピーをする羽目になるなら、枚数の制限のゆるい都立のほうがはかどるかなぁということで。

大正六年といえば、維新の50年後。まだ戦乱を体験した古老も存命中で、生の体験談を集めようとしても可能な頃。それに東北史という地元史料の存在も匂わせる。
それで、大鳥圭介エピソードで、目新しいのがあればラッキー、ぐらいな感じでアタックしてみたのですが。

久しぶりに、図書館で悶絶しました。

あんなに笑いを堪えて苦しかったのは、「死生の境」以来でした。

すごかったです。
厚さ6cmぐらいの大枚の本ですが、その全部のページで叫びながら歌うアニメソングを書き連ねているようなテンションの高さでした。
…資料を評する言葉ではありませんが、そんな感じでした。

一句一句の表記がとにかく凄い。記述は真剣だし、それなりに調べて書かれているのでしょうけれども、表現に作者の熱が篭り過ぎていて、「違う、それは良いんだけれど違うから!」と叫びたいような衝動に駆られ続けました。ツッコミどころ満載です。

マツノ書店さんの「火車日誌」のご紹介で「古書市場でも見ることなく、都内五十余の公共図書館でもたった一館にしかない、まさに幻の本。古色蒼然どの頁からも妖気が立ち上り、一刻も早い復刻を待ち望んでいるように見える」とされていました。

「妖気」。それは、単に古い酸性紙の本だから、というだけではないと思います。記述一つ一つが、妙な妖しさを醸し出しています。マツノ書店さんの意味したこととは違っているかもしれませんが。

マツノ書店さんが「七年史」と同時に復刻しようと一旦されて、けれども同時復刻しても千頁を超える文章をだれが一度に読むのか、積ん読になるのが関の山、ということで、復刻はひとまず見送られたようです。でも近いうちに復刻されるのではないかと思います。

史料として扱えるかどうかはさておき、読み物としてはかなり面白いと思います。横隔膜に来るほうの、物理的な面白さですが。

久しぶりに良い読み物を見た、という感じです。
具体的な中身については、今は笑いすぎていてまともに書けないので、そのうち落ち着いたら纏めたいと思います。

巻頭の写真がまた、良い。奥羽蝦夷戦乱に関わった各藩の藩主の写真がずらずらと収録されている。
箱館政権の面々ももちろん。あまり目にしないのもありましたので、ついでにこっそりご紹介してみます。(著作権は切れているから大丈夫でしょう…)

松平太郎さん。十七・八のころの肖像らしい。

matsudaidataro.jpg

荒井郁之助。年代不明。多分釈放後か開拓使のころ。

arai1.jpg

澤太郎左衛門。日本人離れした雰囲気。

sawatarousaemon.jpg

圭介は例の旧幕府の、つるんとした額の卵型の月代の写真と、あと「われ徒死せず」も掲載されていた開拓使か工部省のころのお鬚写真でした。相変わらず箱館時代の写真が無い人。
月代写真ですが、「圭介公の歩兵奉行時代のものにして、登城の際撮影せしもの也」とありまして。流石に慶応4年でまだ月代はないだろうと思うのですが。「旧幕府」には江川塾時代にジョン万次郎に撮ってもらったとありましたが、多分そっちのほうが正しいのだろうと思います。なにより、脱走直前の歩兵奉行時代であのつやつやした面だったら、それはそれで問題だ。

榎本さんは例の有名なブロマイドでした。

それで、個人的に嬉しかったのが、「脱藩軍団の本営と為りたる箱館五稜郭」の写真。
当時の五稜郭を外から写したもの。五稜の形の図面が有名ですが、脱走兵士達はそういう図面はほとんどみたことが無く、見えるのは陵の一角ぐらいで、本当に五陵の星型をしているのか、あの大きさでは実感はできなかったのではないだろうか。図面を見て補修作業をしていた圭介ぐらいなら、形も知っているでしょうけれども、タワーもヘリコプターもなかった当時の人たちは、今の我々が頭に浮かべるあの形とはまったく別のものを見ていたのではないかと思っていまして。

その当時の方の目に映るものをそのままに撮った写真があったのが嬉しかったでした。
つい嬉しくて、サイトのトップの背景に入れてみた。季節に逆行した雪景色で、桜もそろそろという時期に、どうも寒々しいトップになってしまった。
その前のトップ背景は、堰堤築法新案の原本、Design of Mill Dams の挿絵でした。いずれ公害を引き起こしそうな工場の煙もうもうな、環境保護の叫ばれる近年の美的感覚に反した背景でした。それよりはマシでしょう。

あとは、ようやく明治二年の東京大絵図をゲット。都立図書館5Fの東京室にありました。こちら、葛生さんにご教示いただいて、「東京市史稿市街篇第48 付図」としてあったもので、前に千代田区立図書館で、昼休みに自転車を飛ばして身に行ったことがあったのですが。館員さんが見つけてくださらなかったものです。

見て見ると、大判で、市史稿とは別の棚に収めねばならないものでした。これはたしかに、パートの職員さんではみつけるのは難しいなぁ、と。「知り合いにここにあるとお伺いしてきたんですけれど」と詰め寄ってしまってすみませんでした、千代田区図書館のお姉さん。

それから、明治四年版と、さらに明治7-8年の区分図もありました。この変動の大きい明治初期の地図。比べると楽しそうです。

すばらしいのは、複写依頼で、大判地図もきっちりとA3でコピーをとってくれる。仕事でもそうなのですが、地図の複写は原本を痛めそうでとても難しく、時間がかかるのですが。さすがプロだけあって、さくさく複写してくれました。これで10枚刷っても250円、たとえカラーでも1300円程度だから、安いものです。

この東京室所蔵資料は素晴らしい。数としてはそんなに大きいわけではないのですが、日比谷時代から移管されただけあって、年季が違う感じです。東京史でここ以上のクオリティを誇るところは、国会図書館を除けばそうないのではないかと。よく空襲災害を免れたなぁという感じでした。

とりあえずそんなところで。

posted by 入潮 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月14日

明治七年掌中官員録

北原雅長。「七年史」の作者。

母成峠で大鳥と一緒に、弾丸の雨の中塹壕のなかに取り残されて、一緒に手を取り逃げた方です。途中はぐれて空腹で裏磐梯をさ迷ってます。秋元原で大鳥と再会したとき、大鳥が丹羽丹波、田中源之進、そして兵士たちと一緒に団欒しながら芋、南瓜、蘿を煮て食っているのを記録してくれている貴重な方です。

や、七年史はもちろん、それだけではなくて、藩主の京都守護職時代から戊辰戦争までしっかりと会津藩の出来事・人物を記述している、信頼性の高い一次史料です。

さて、この方、明治22年に初代の長崎市長になっていることは知られているのですが。

明治7年の官員録の工部省の欄をめくっていたら。

・ 中録(九等出仕相当)「トウケイ 北原雅長」

とありまして。
工部省の本省所属です。この時上に、ちょうど陸軍省から移ってきたばかりの大鳥圭介がいるのですが。

この北原さん、同一人物なのだろうか。
まだ北原さんの工部省経歴のウラは取れていないのですが。会津藩士の北原さんだったら、戦友に逢って大鳥もびっくりだっただろうなぁ、と。

まぁ、工部省は特に旧幕臣がごろごろしているので、大鳥が旧知の人に会うのは珍しいことではない。もはや同窓会雰囲気だったかもしれません。

あと、これが会津の北原さんだったとして所属が東京、というのも首をかしげるところです。
だいたい東京士族となっているのは、旧幕臣だと思っていたのですが…。
むー。

(一方、ハママツも出仕者が多いなぁと思っていたら、静岡藩が静岡県と浜松県に分割されたとのこと。明治政府官僚に占める旧幕臣の割合は、正確には出せないなぁ…。多いのは確かだけれども。半分以上シヅオカ・ハママツ・トウケイで占めている頁もあり。ヤマグチ・サガも多い。数えようとしたけれど途中で挫折しました。その3県出身は今のところ449人中132人。3割には足りてない感じです)

ところで、宇都宮三郎の所属がタカヤマになっていました。飛騨国高山県。どうしてだろう。

そんな感じで、官員録。ふと調べようと思ったら、次から次へと対象が発散していくから、危険です。

最初は工部省測量司ととある小説にあった大野健介を探していたはずなのですが。工部省にも内務省にも見つかりませんでした…。

ところで、明治七年版官員録の出版は、西村組。他、個人の名前だったりで、官の発行ではない模様。単に官が民間に委託したのかとも思いましたが、明治八-九年の陸軍省官員録だけは陸軍省が直轄で発行している。

明治の最初から、できるところからはサクサク民間が手出ししていた感じです。長征のとき、出征する幕府の隊列を、町人が旗本リストである武監片手にお祭り気分で眺めていたというのをどこかでみましたが。そうした土台があったとはいえ、こういうのが民間ベースで売れていたあたり、情報公開はけっこう進んでいたのかもしれません。(コネと賄賂目当てだったらどうしよう)
posted by 入潮 at 04:14| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月15日

多聞櫓文書

国立公文書館へ行ってきました。

いつも通勤路で横目にしながら、開館時間が9時15分〜11時45分、13時〜4時半までと、普通に社会人生活を送っているとまず押しかけるのが不可能な時間帯で、今まで行きそびれていたのですが。

なんとか午前半休をとって、短時間ピンポイント勝負で見てきました。

公文書館も思ったより入りやすいなぁと。入り口で名前を書いて終わり。身分証明の確認なし。敷居が高いのは時間だけだ。
閲覧室は二階。入り口のロッカーに荷物をおく。隣に紙コップ自販機と休憩室があります。
中は広くはないですが、明るくて、検索用PCがズラリ。普通のオフィスの待合のような雰囲気でした。国の150年以上にわたる公文書が、保管されているものはほぼすべて閲覧できる場所としては、拍子抜けた感じ。

目録と辞書類以外はすべて閉架で、閲覧申請書を書いて出してきてもらいます。モノによっては5分で出てきたり、20分以上待ったり、さまざまでした。

目録はそれだけで楽しめます。多聞櫓文書の目録もありました。多聞櫓文書とは、多聞櫓に収められていた幕末期の公文書群のこと。「外交の部」「海防の部」「職別の部」「幕府軍事職別の部」に現在整理されています。開港時の五人の外国奉行の通信文書などもたくさん。瀧川パパ(播磨守)が勝手に外国人に養蚕紙を売り渡した者へ改易処分に申し渡した、という記述とか当時ならではのお達しも。

あと、履歴書や給与明細である「明細短冊」なども収められています。「江戸幕臣人名事典」などはこれをよく参照していると思われます。小普請藪益次郎組時代の本多幸七郎の明細短冊もある。明細短冊は、冊子状になっているのではなく、本当に短冊。長いものは折りたたまれているのですが、これをくるくる開くのは度胸が要ります。

で、大鳥屋敷の位置の記されているものの原本をまず確認したかったわけですが。
場所が記されていたのは、屋敷拝領願いのほうではなくて、大鳥の歩兵頭並時代の明細短冊のほうでした。すみません。明細短冊は、幕臣の履歴書とでも言えるもので、いろんな方のものがあります。

大鳥のものは、虫食いだらけで結構破損箇所があったのが、和紙に綺麗に裏張りされて補修されています。普通だったらぼろぼろでとても開けないだろう。こういう保存がちゃんと為されているところに、国家事業に感謝です。ただ、虫食いにかかるところはさすがに読めません。

以下の通りです。いつもながら、読み違いもあるかと思います…。

「慶応三年十月二十三日 多聞櫓文書 歩兵頭並大鳥圭介 明細短冊」

紋所 ノ丸 高五十俵三十人扶持 御役金八百両
本国 河内 生国 播磨

祖父 大鳥純平 只浪人
父 大鳥直輔 松平遠江守家来

歩兵頭並 大鳥圭介 夘歳三十五
駿河臺甲賀町能勢鍬之丞地面住居

文久酉年十二月二十八日 松平遠江守家来の節、江川太郎左衛門付鉄砲方附蘭書翻訳方出役被仰付

同三寅年 八月二十日 松平阿波守家来の節、海陸軍兵書取調方出役被仰付

元治二丑年四月二十八日 被召出新規切米扶持方被下富士見宝蔵番格歩兵差図役勤方被仰付勤候内並之高抜(カ)手當扶持高被下

慶応二寅年 正月二十九日小十人格 歩兵差図役□勤方被仰付

同三卯年 五月六日 歩兵差図役頭取被仰付 歩兵頭並介相勤兵学及エタマジョール学校規則取調御用取扱候用□書付仰被付

同年十月二十三日歩兵頭並被仰付候


特に慶応二年の歩兵差図役と歩兵差図役頭取の間にある役職が良く分からない…。頭取介とすると字数が合わない。むー

あと、「砲科新論」計四巻があったので見てきました。文久紀元十二月の出版で、「縄武館蔵」とあるので、江川塾で発行されたものかと思います。これも圭介の江川塾の講義で使われていたのだと思うとなんだか感慨深い。活字そのものもなんだか慣れていない感じがあって微笑ましかったです。

内容は、気合の入った化学実用書、という感じです。弾薬の材料となるのは何でどうやって使うか、調達できければどうやって自然物から代用するか、何をどのぐらい用いるとどのような効果になるか、ということがつらつらと書いています。弾薬量グレイン数とポンド数と火薬爆発力の関係とか。今で言う便覧のような、本当に現場のハウツー・化学、という感じ。
これが一通り大鳥の頭の中に入っているのだから、そりゃ重宝もされるわ、と思いました。流浪の脱走群が弾薬製造を戦中に自前で行っていましたけれども、それを可能にしたのはこうした下地があってこそなのだなぁ、と。

さて、この多聞櫓文書に、伝習隊の山口朴朗関係のものが2件ありました。

「撒兵山口朴郎儀冨士見御宝蔵番格歩兵差図役頭取勤方被仰付撒兵頭江可達趣」

慶応4年カとされています。
…山口君、元撒兵隊だったのか。冨士見御宝蔵番格というと、圭介が幕臣に取り立てられたときと同じ格付です。

そして、もう一通。慶応4年3月。差出人が歩兵奉行。

「歩兵差図役頭取勤方之者勤続之儀奉願候書付元差図役頭取勤方撒兵山口朴郎儀冨士見御宝蔵番格同役被仰付度」

山口君の歩兵差図役頭取の勤続を願い出る書状です。

慶応4年3月というともう脱走の1ヶ月前。陸軍の解体が議論され、歩兵が暴れ周っている頃。
歩兵奉行は何人かいるでしょうが、この差出人の歩兵奉行は大鳥に間違いないかと。
そして、この書状の字。きれいな楷書なのですが、これ、大鳥が気合を入れて書いたときの楷書、流落日記や堰堤築法新按などで見られるものに似ています。
大鳥の自筆の可能性が高いなぁ、と。

山口君、ここで陸軍をいったん辞めるか異動になるかの話が出て、それで大鳥が勤続を願い出たということなのだろうか。
そして、大鳥が、もともと撒兵隊にいた山口を引き抜いたのだろうか。あるいは本人の希望による異動だったのか。横浜太田陣や江戸移転後四連体構成時などの伝習隊の拡張に伴う異動だったらまだ分かるのだけれども、慶応4年、鳥羽伏見敗戦後での人員増強は、そんなにないですよな。

なお、撒兵隊は陸軍総裁職の下に撒兵奉行というのがあり、歩兵・騎兵・砲兵の三兵を統括した陸軍奉行とは命令系統は別だったようです。

こんな感じで、山口君は、結構、大鳥とのつながりが多く見つかって嬉しいです。陸軍省出仕のときには気球製作掛を受けていたり。気球について、陸軍と工部大学校との共同作業は間違いなくあったでしょう。

山口君は父はもともと武士ではないかもしれず、漢学の素養もあり、開成所の貝塚道次郎に化学、武田斐三郎に英語を学んで陸軍に転身した。学業成り上がりという大鳥との共通点があって、大鳥は気に入っていたではないかなと思います。脱走時で17-8歳と若い割りに、要所を任されていますし。

山口君の履歴書は沼津明治史料館に納められていますが、幕府陸軍時代の履歴は、新政府を慮ってか一切記されていない。ですので、こうした記録が残されているのは大変ありがたいです。

複写ですが、公文書館の閲覧文書は、マイクロ以外は業者に出している模様。特に古文書は撮影してからの引き伸ばしになる。なので、1枚当たりが高いし、時間がかかる…。マイクロは、今回は使用しなかったのですが、そのままリーダーから印刷出来る模様。
県立の文書館のように、デジカメ撮影が可能になるとありがたいのだけれども。残念ながら、携帯もカメラも、持ち込み禁止でした。

そんな感じで、公文書館の午前閲覧時間が終わって、いつもの通り皇居の代官通りを超えたのですが。
もう桜の開花が始まっていました。(写真はあとでアップします。)


前に乗せた桜は、寒桜でしたが。本格的な桜もそろそろです。
毎日皇居周辺を通っていると、こうした季節の変化にも気づくゆとりがあって、いいものです。
…実際は、坂道でぜーはーぜーはー自転車を漕いでいて、ランナーの迷惑になっているだけなのですけれども。
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2007年03月17日

官員録と住所、工業新報

官員録ですが、明治8年以降明治26年ごろまで、毎月ぐらいのペースで改訂版が出版されています。そして、明治六等出仕ぐらいまでの人たちは、住所が書かれています。こうしたのが堂々と売りに出されていたのだから、有名人にはプライバシーはなかった模様…。それで、それなりの高官の方なら、どういった住所遍歴なのかを追うことができます。

で、大鳥圭介の住所ですが。

・明治8年は、住所の記載なし。

・明治10年「工作局 長 大書記官 大鳥圭介 西ノ久保櫻川町二番地

・明冶11年7月もこれに同じ。

・明治12年1月の官員録では、「工作局 長 大書記官 大鳥圭介 白金上(三)光町十四番地」に変わっている。

ということで。

これで、大鳥の櫻川町の位置が、特定できました。
愛宕の近くとは聞いていたのですが、櫻川町がどこか全くわからなかったのです。西ノ久保で探してみたらようやく見つかりました。

現在で言うと、虎ノ門1丁目と虎ノ門3丁目、愛宕1丁目が、西ノ久保櫻川町です。
西ノ久保櫻川町二番地ですと、虎ノ門の森ビルの通り向かいになります。住所は東京都港区虎ノ門2丁目19 (リンクからはもう少し1号線よりになります)

工部省からかなり近いです。隣接しているといってもいいぐらい。500mも離れていません。この距離だと夜中も普通に行き来できそうです。工部大学校は東京女学館、現在では霞ヶ関ビルの向かいの会計検査院(工事中)、工部省本省(工作局含む)は虎ノ門病院と国立印刷局の当たりです。

なお、明治10年7月25日のクララ日記に「おゆきさんはお父様の別荘へいつか行こうと誘ってくださった」とあるので、大鳥家に別荘があった模様です。

そして、この櫻川町の名前にちなんで作られたのが、櫻水舎(桜水舎)。場所は竹川町。大鳥が荒井郁之助と共にほぼプライベートで発刊した「工業新報」を作るための会社です。「工業新報」の力になったのは工部大学校生。高山直質、志田林三郎、高峰譲吉らが、海外の文献の翻訳や論説を寄稿しています。明治10年6月13日発刊。二週に1回。定価一部五銭。

内容は、石灰、石鹸の製法、ガラスを切る方法、鉄道や道路の開発、北海道の開拓論、美術について、度量衡について、内務省地理局の気象データ、タイプライターなど機械について、と工学にとどまらず、科学技術に就いてさまざま。

ただ、「工業新報」は、いわば世に出るのが20年早かった。まだ誰も工業のことを理解しない。当時産業革命にあった欧米ではすでに科学技術の新聞雑誌が刊行されていたが、日本はまだまだ事情が違う。大工の学問か、そんなものが必要なのか、と思われている時代。数学や医学などの雑誌が出始めたが、すぐに廃刊になるものが多かった。(津田仙の農業雑誌は長続きした) 一般向けの工業専門雑誌が売れるはずも無く、大鳥や荒井らは金の工面に苦労した。運転資金のために工部大学校生徒が実験室で化粧水を作って売って回ったというエピソードもある。
志田や高山ら女性に免疫のなさそうな工部の無骨な生徒達が、お嬢さん方相手に化粧品を売って回ったというのは、想像するだに大変微笑ましい。

学生たちの回顧録に、高峰や志田らが校長先生の住所にちなんで「桜水舎」の名前をつけたとのことですが。普通、生徒が校長先生の住所なんて知らないだろうし。もしかして彼ら、大鳥家の自宅にお呼ばれされたことがあったのかしら。

さて、この櫻川町から、明治11年代に引越ししたものと思われます。ただ、明治11年2月5日の、みちさんのお葬式のことを記したクララの日記に、「三田三光坂十四番地の新しい美しい屋敷に住んでおられる。西洋館である」とあります。引越しは明治10年代だったかもしれません。
これが白金台の大鳥家ですが。みちさん、引越しして間もないうちに息を引き取ってしまったのです…。

現在の港区白金3-18にあたります。
現在の三光小学校周辺です(三光小学校が、大鳥家の長屋を寄贈されたと小学校のホームページにある)。西光寺の裏手。大鳥はこの周辺の人たちによく書画を書いて寄贈していたらしいので、周辺の寺を回ったら、もしかしたら大鳥の書画も出てくるかもしれません。

他に関係人物の住所。

工部省製作寮(工作局) 権大技長 宇都宮三郎 富士見町五丁目十番地
明治7-13年ごろ。今の飯田橋の近く、前田建設のあるあたり

工部省 書記局 大書記官 林董 富士見町四丁目七番地。
宇都宮宅に近いです。

工部省電信局局長 大書記官 芳川 顕正 駿河台甲賀町十三番地
圭介の幕臣時代の屋敷の近所ですな。

あと、面白かったのが。

工部省灯台局 局長 権大書記官 原隆義 工部省構内

……灯台局長、職場に住んでいたんですか?


この頃、(明治12年) 榎本武揚は特命全権公使としてロシア出張中。住所は、今川小路二丁目拾八番地

同じく明治12年1月 黒田清隆 参議、陸軍中将、開拓長官、 麻布仲ノ町七番地

そして、明治13年10月 吉田清成 神田錦町二丁目一番地
吉田清成は米国ワシントン公使館で特命全権大使ですが。

吉田の住所、明治14年1月から、白金志田町15番地となっていました。引越ししていた模様。吉田の書簡集でも多くはこの住所になっています。今の白金高輪駅のすぐ東側です。

大鳥家から近いです。500mも離れていません。

最初、吉田と大鳥が近所だったので、先にこの白金に住んでいた吉田が、帰国後の大鳥を近所に呼び寄せたのか、とか思っていましたが。どうやら近所に後からやってきたのは吉田のほうです。
まぁ、吉田の米国からの帰国が15年なので、この引越しは吉田の不在中に行われた可能性が高いですが。


さて、工部省に戻って。
明治10年〜13年ごろ、六等属に前田本方がいました。(明治8年にはいない)
前田本方といえば、大鳥から、「屏嗜好専其業、至誠□事天佑之」の語を贈られてより、断然酒を絶ち娯趣を棄てたという、明治の発明家です、(台湾日日新報」1919.1.13-1.29)
彼も工部省時代の大鳥の部下だったことが判明。 大鳥に、嗜好をもっぱら専門の仕事で覆うのは、誠の至りで、天佑の事だ、といわれて、酒を絶ったとは…。その上司は健康のために禁酒を勧められても「なにをいうかこの小僧」と往なしていた酒好きでしたが。

あと、七等属に大塚賀久治(明治8は無し、明治10〜13) 発見。彼は彰義隊。丸毛利恒の同僚で仲がよく、箱館では総裁付の大塚霍之丞のことです。福島での彰義隊分裂事件では、渋沢成一郎に職を奪われていました。丸毛には「短小にして軽捷」と評されています。降伏が決定した夜、榎本の自刃を止め様として、指が取れそうになるほどの深手を受けた。指はその後順調に回復したようで良かったでした。箱館の戦記として「一季の物語」を遺しています。

明治14末〜15年の作成と思われる丸毛の「感旧私史」にも工部七等属として記録されていたので、結構長い間奉職していた模様です。


そんな感じで、思わぬ人のつながりを見つけられたり、人の移動や変遷が判る官員録。もちろん、官職に就いていた人の動向しかつかめないという欠点はありますが。かなり使い甲斐のある史料かと思います。
だいぶ根気が必要なのも確かですが。

これのせいで、ひたすら年代の違う地図と官員録にらめっこで、4日間ぐらい時間をつぶしてしまった…。
Yahoo古地図も便利ですが、何年のものなのか判らないところが致命的だ…。
方向音痴だと、地図を読むのも時間がかかるんですよな。

本当に測量と地図作りは、根気と体力の要る仕事だと思います。
文久年間や明治2年の地図は、鉛筆もなく、細筆書きから切り絵として掘って色をつけて起していくわけだし。
明治6年以降は、わが足と箱尺のみで三角測量して地図作りをした。工部省測量司・内務省地理局方々ご苦労さまでした…。

posted by 入潮 at 23:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

故陸軍中尉瀧川具綏君墓碑文推敲文

「故陸軍中尉瀧川具綏君墓」

西南戦争で戦死した瀧川具綏陸軍中尉の墓碑銘を推敲した草稿。大鳥別荘の由来と思しき文書群に含まれている。中央に「櫻水舎」の印字のある四百字詰め原稿用紙1枚。語のつけたしや削除が多い。原稿用紙や筆跡からして、大鳥圭介自筆である可能性が高い。虫食いがあり、読めないコマもある。年代は明治10年と推測されている。


君通称具綏幼名充太郎家丗幕府二事へ父□1)哉食何千石二而大目付トナリ播磨守ト称ス母ハ齋藤氏寛永三年二月二十二日ヲ以テ君ヲ駿台ノ旧邸ニ生ム君少二テ捷敏豁小事ヲ屠セズ慶應二年出テ歩兵差図役並ト為り佛蘭西ノ兵式ヲ横浜ニ伝習シ翌三年歩兵差図役ニ遷リ本隊ト共ニ大阪ニ至リ警備ス四年春伏見ニ戦ヒ東帰後差図役頭取ニ迂□次テ歩兵頭並ニ進ミ四月本隊ヲ率ヒテ江戸ヲ去リ宇都宮日光会津ニ連戦ヒ屈セズ終ニ函館ニ至ル而太政維新後明治五年2)君ヲシテ陸軍少尉心得ト為リ間モナク陸軍中尉ニ迂リ次テ徴兵副使ニ任セラレ八年従七位叙セラル九年第二師管後備軍司令官心得二任ゼラレ別働第二旅団ニ属シ十年春薩軍肥後ニ入ルニ於イテ中隊長心得ヲ兼四月兵ヲ率ヒテ肥後八代ニ至出テ奮戦進而人吉攻撃ノトキ瀬戸山ニ向ヒ遂ニ戦没ス友士衆之ヲ聞テ□惜ス是レ実ニ明治十年五月三十一日ナリ宮氏某3)遺骸ヲ火ニシ□骨ヲ収テ其家ニ贈ル今此墓下ニ埋ル者ハ即是者ナリ何十歳末子ヲ挙ゲズ4)


1)「明治過去張」には「旧幕府瀧川陶哉長男」とあるので「陶」かと思われるが、原文は「愨」に近い字
2) 陸軍省日誌では「明治四年」
3) なぜか「義利」とあり、それを線で消して「某」としている。
4) 「君三弟一妹アリ曰具和曰く銀三季第□三浦氏ヲ冒ス妹こと□妙ナリ」と続いているが、字数の都合か線で消されている


……というわけで。大鳥が瀧川の墓碑銘を推敲していた模様。墓碑銘としては随分長いし、彫るのも大変。これが本当に充太郎の墓碑に採用されたのかどうかは判らない。さらに削ったり、他のものに変更されたりした可能性はある。瀧川家の墓はどこなのだろう。

何度も推敲して分を練ったらしく、付けたしや削除が多かったですが、出来るだけ修正後の文として読みました。解読に迷う漢字がいくつかありましたので、こうではないか、という文字がありましたらご教示いただけるとありがたいです。虫食いで損なわれているところもありましたが大体は良い状態でした。

瀧川について、不明だった点が、これで幾つか明らかになりました。着目点は以下の通り。

・滝川充太郎の誕生日判明。1850年2月22日生まれ。戊辰戦争脱走時点で18歳。大鳥と18歳違いで、大鳥のちょうど半分。本多より11歳下。山口君の1つ上。そんなに若かったのか…。

・充太郎母は齋藤という家の出。千五百石の家系と婚姻関係を結んだのだから、相応の旗本の家格ではないかと。「江戸幕臣人名事典」や「寛政譜以降旗本家百科事典」あたりで当たりがつけられないかしらん。

・小さい頃から敏捷で些細な事にこだわらなかったという性格。

・慶応2年で歩兵差図役並。16歳で横浜の太田陣屋にフランス伝習のために赴いています。大鳥とは少なくともこの時から面識はありそう。

・慶応3年に本隊(おそらく伝習大隊)と共に歩兵差図役として大阪へ。そのまま正月の鳥羽伏見の戦いに突入。江戸に戻ってきてから差図役頭取、歩兵頭並。この年にしてこの出世スピードも凄い。家柄補正も多少はあるのだろうけれども、それだけ能力があったということかと。

・徴兵制実施に伴い、徴兵副使として徴兵に携わっていた模様。9年、第二師管後備軍司令官心得ということは、予備軍の司令官代理という役職。中隊長心得を兼ねる。代理職が多い…

・瀧川の遺体を荼毘に付して実家へ遺骨を届けたという「宮氏某」ですが。線で消されていた「義利」の名からして、脱走後4/14に船形村で瀧川と共に追いついてきた宮氏岩太郎義利と同一人物だろうと思っていいでしょう。鐘ヶ江さん調査によると、宮氏岩太郎も別働第二旅団第一大隊会計官所属として西南戦争に従軍していたようなので、ほぼ間違いないかと(勝手に引用すみません)。なぜわざわざ「某」にしたのかはわかりませんが…。


…そんな感じで。

色々、色々…とありました。
とりあえずこれは序の口というか。伝習隊関係はこの一つでしたが。世の中、本気で探せば、何かが呼んでくれるものだと思いました。

この3日間、何が起きていたのか、思い起こすだけでも頭が焦げ付きそうです。
我が身の力不足が歯がゆい限りですが、ぼちぼち、整理していきます…。
posted by 入潮 at 20:57| Comment(8) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月20日

国府津の大鳥圭介「瀧の家」と臥龍梅

いまだ夢から覚めやらぬ感じです。

こんな夢です。

070317garyubai.jpg

臥龍梅といいます。

すでに花は落ちてしまって、萼(がく)ばかりになってしまっておりましたが。
二週間ぐらい前なら満開の花を楽しめたのだと思います。

「臥龍梅」は、根や枝が、竜が地を這うような樹形になることから、この名前が付いたとのことです。
ひとつの花に実がたくさんつく様子が、賢人が丸く座って世を論じているようだということで「座輪梅」とも呼ばれています。

李鴻章が、下関条約の際に、友誼を謝して大鳥圭介に贈ったものと言われています。

李鴻章は、大鳥が清国駐在特命全権公使で朝鮮国駐剳公使を兼任していた頃、陸軍(わい軍)・海軍(北洋軍)を掌握した清国の代表として、大鳥と交流を持ちました。

大鳥は、朝鮮の改革を強引に推進し日清戦争の火蓋を切ったとされる。一方で李鴻章の北洋軍は、日清戦争で明治海軍と激しく戦火を交えた。

また、洋務運動により陸海軍の洋式化を進めてきた李鴻章。大鳥もまた洋式陸軍の泰斗で、戊辰の乱で常に戦火にあったという共通点がある。

李鴻章と大鳥の交わりの様子を「われ徒死せず」の著者福本氏が発見され、新聞記事になっています。
中国当代屈指の知識人李鴻章に漢詩を贈ったというのは、無謀だという気もしないでもないですが。「君一人詩あり」と喜ばれた。

李鴻章が清国代表として結んだ下関条約は、清国にとって屈辱的な条約でした。
下関条約は、1985年に締結された日清戦争の講和条約。清国にとっては、敗戦国として、遼東半島、台湾、澎湖諸島の日本への割譲、 賠償金約3億円の支払い、沙市、重慶、蘇州、杭州の各港の日本への開放、 日本に最恵国待遇を認めるなどです。

その中で、李鴻章が贈った、臥龍梅。
賢人が世を論じる梅。
あるいは、「鳳」に対して贈った「臥龍」。(ちなみに、大鳥の長女の名前は「鳳雛」だ)

李鴻章がこの梅にどのような意味を込めたのか。想像の翼は膨らみます。

大鳥は、その臥龍梅を故郷の上郡に植え、さらに挿し木として、晩年の棲家である国府津の「瀧の家」に植え育てたのでした。

大鳥は、毎日この梅を見ながら、大陸の友人のことを思い起こしていたのでしょう。

違いの国の国情から、不幸な成り行きになってしまいましたが。あの戦争がなければ。 いやあってなお、その友情は揺らがなかったことが、古老たる木々から伝わってきました。

戦争の中に美を見出す視点は今は忌まれるものではあるのでしょうけれども、この臥龍梅は、確かに、日清戦争のひとつの人間たちの裏面を語るモニュメントではないかと思います。

ネット情報では、この臥龍梅は神奈川名木百選に数えられるようです。「1本を残して庭木を全て伐り倒した」とありましたが、今もこうして残っていました。一本だけではなく、道の両側に何本か植えられ、今も花を咲かせていました。

070317garyubairoad.jpg

なお、この条約調印の際に用いられた墨をすった硯が、大鳥の故郷上郡に届けられ、大鳥の叔母を通して、現在、上郡の係累の方の家に保存されています。


さて、大鳥別荘の通称「滝の家」は、その名の通り、大きな滝が構内にあることから名づけられました。
この一体は急な坂になっており、しっかりした岩盤がむき出しになっています。
道の上のほうから、この滝を覗く事ができます。

070317waterfall1.jpg

小さく見えるパイプの部分が滝の流路です。
残念ながら、今は水はほとんど枯れてしまっていて流れていないとのことでした。

関東大震災で水脈が変わって一度水量が減ってしまった事、また、新幹線のトンネルが掘削されて更に水脈がさえぎられ、とどめをさされたとのことでした。
自分が見たときは、かろうじて、水の存在がわかる程度でした。雨が降った折りには集水しているかもしれません。

地図を見ると、確かにこのすぐ側に新幹線が通っており、ちょうどこの「瀧の家」のすぐ北側からトンネルに入っていました。

周辺は、青々としたみごとな竹林でした。

070317bamboo.jpg

滝は下流に流れ、道の脇の無巻の溝を伝います。

070317soilwaterway.jpg

さらに下流へ行くと、すっかりコンクリートで被覆された水路になっていました。

070317waterway.jpg

そんな感じで。


当初、国府津の別荘は別の海岸地域にありました。しかし、明治37年、72歳のときに大鳥は大津波に遭い、別荘は壊滅。この時、屋根に這い上がって一命を取りとめています。この屋敷の材木は数百メートル先まで流されていたとのことでした。
「滝の家」はその後、水害に遭いにくい山の手にということで、引っ越した先の別荘ということになります。

なお、この大海嘯で流されてしまったかつての大鳥別荘の跡地ですが、今はバラ園になっておりました。
「加藤ばら苑」というそうです。今回は寄れなかったのですが、次回行ったときには訪れてみようと思います。

というわけで、大鳥が晩年を過ごした国府津の地を訪れて参りました。

冬に戻ったかのように冷え込んだ寒い一日でしたが、国府津の穏やかな風と青い空は気持ちがよかったです。100年前、ここで滝を愛でて漢詩を読んで書を書き、酒を止められては「なにをいうかこの小僧」とやりかえし、榎本の危篤の際には毎日電話しに行っていたちっちゃい白鬚爺ちゃんに、思いを馳せてまいりました。


……といいつつ、この別荘訪問自体は、まったく予想していなかったサプライズでした。
小田原に訪れた本来の目的については、また明日以降にご紹介したいと思います。
昨日の瀧川墓碑文草稿もその中の一つだったわけですが。未だに頭の中が全く整理付いていません…。


元大鳥別荘ですが、今は他の方の私有地となっております。
こちらをご覧になって訪れてようという気を起して下さる方が、もしいて下さるとしてですが、その際はどうか近隣の方にご迷惑になりませんよう、ご配慮いただけますようお願いいたします…。


ところで、こんなのがあるのですな。
買おう。絶対、買おう…。
posted by 入潮 at 03:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月22日

ドラマ「工部大学校オムニバス」のススメ

英国、"New Civil Engineer" の昨年11月の記事。
英国土木学会が、土木エンジニア賞を、小説の主人公とPCゲームのキャラクターに与えた、という内容が、「国際建設情報」2006年12月下期号で紹介されていました。

「子供達はメディア、特にテレビドラマの影響を強く受けるようになっている。土木技術者が立派な役柄のモデルとして、マスメディアに登場する必要がある」

とは、英国の土木学会会長のマスタートン氏の言葉。(一瞬、「マスターキートン」に見えた)

さすが、わかってらっしゃる。
こちらでも以前にちらりと話題にしましたが。若者の技術離れ対策、ひいては国の技術力維持のためには、メディアでの技術者の地位向上は欠かせないと思うのです。

自分はメディアは好きではないのですが、人々の認識はメディアによって作られているということは、事実だと思います。ドラマなりアニメなりで作られた像が、特に情報判断力がまだ育っていない子供に対しては、一番強力に働く。時にはそれが刷り込み状態にまでなる。私は藤子不二夫の漫画のせいで、公園の土管で寝る生活にあこがれたことがありました。後からあれは工事の不法投棄だと分かりました。大人ってつまらない。もとい。

それで、「マスタートン氏は土木学会、機械学会、土木測量学会、王立工学会と共に自らも賞金を提供し、土木技術者のイメージアップを行った作品に対するコンクール"Engineering Media Challenge Awards"を設立し、このたびその受賞作品が発表された」とのことです。商品額は5000ポンド。

受賞の対象になったのは、トゥームレイダーのアナヤと、Rovert Harrisによる「ポンペイ」の主人公。トゥームレイダーは、確か映画がオリジナルの、PS2とPSPで発売されているゲームです。ポンペイは良く知りません。

とにかくこれは良い試みだと思いました。というか、賞を作るだけではなく、まずその賞の対象になる作品をどんどん生んでもらいたい。談合で建設会社をよってたかってマスコミが非難をして、土木分野にマイナスイメージを植えつけるなどもってのほかだと思います。日本の生活を支えているはずの技術者という職に対するイメージが悪くなる一方。若者の技術離れが進むだけです。


それで、やったら良いのではないかと思うのが、工部大学校のドラマ。工部大設立の山尾の苦闘から、第一期生の入学から卒業までのイベント、グラスゴーの活躍、第二期生以降の学生達も、卒業研究をプロジェクトX風に一つ一つ取り上げる。特攻野郎Aチームとかスタートレックなどのアメリカンホームドラマのような形で、各話のドラマが独立していて、主人公が毎回変わる、オムニバス仕立て。

こうしたドラマを作成することにより、技術立国日本の成り立ちへの現代日本人への目を向けさせ、まず工学部の学生を増やしてその質を上げるのです。
長州ファイブはまだ見ていないのでなんともいえないのですが。評判はいいようで。この流れに乗りたいところ。そして、長州の彼らは皆ソフトウェアの人間ですし。ハードの面白さも分かってもらってこその技術啓蒙。ハードウェアの源流がメディアのエンターテイメントに現れることにより、子供達や若者の関心もぐっとハード側に引き付けられるようになると思うのです。

ゆとり教育なんぞよりよっぽど有効だと思うのですが。どうですか、文部省さん。


試しに数話のアウトラインを。

【第1話】「知られざりし工学寮」

一期生の入試、それぞれの試験騒動について。工部省修技所組(小花、三好、高峰)と、慶応義塾組(南・川口)、それに、高橋是清門下の唐津組(辰野、曾禰)。修技所を病気で休職しており、試験の存在を知らず、脚気の足を引きずって試験のために走り回った小花冬吉が主役。工部大の試験があると知らされたのは、試験終わりの日の2日目だった。しかも修技生制度は廃止されると聞いて吃驚。午後に入学試験会場に走り、ダイアー先生に受験を懇願。ダイアー先生は、昨日二問と本日の試験は既に終わったが受けてみるか?と聞く。努力してすべてを答案します、と小花は答える。既に問題を見たかと聞かれて、見たということを正直に述べた。そして「私は道に落ちたるを拾わざる者です」と断然と答えた小花。試験の結果、見事合格。
一方、辰野金吾。試験に不合格で、このままでは故郷に帰れんと横浜の商館で働く覚悟をしていた。しかし再試で10番目ギリギリの補欠合格、同郷の曽禰と共に大喜び。

【第2話】「入学式。それぞれの対決」

オープニングは戊辰戦争のハイライト。奇兵隊士として長州の野を這った片山東熊。木更津で敗れた旧幕撤兵隊の老幼組の石橋絢彦は、官軍の警戒する関門をくぐって逃げ回った。
本編ではまんじゅう神童・志田林三郎の登場。佐賀の科学技術の申し子として平民から頭角を現した。自分が首席だと思っていた志田、入学式でさらに上が居たことを知った。その名も高峰譲吉。加賀御典医の家系。工部大両雄の出会い。
同時進行で、片山と石橋がかち合っている。元奇兵隊 vs 元撤兵隊の、執念の対決の始まりに、ため息を付き諫める曽禰。実は曾禰は唐津藩主小笠原長行の小姓で、彼もまた歴史の目撃者だった。箱館に行く前に逃がしてくれた藩主の心を思う曽禰。自分たちの使命は、戦うことではなく技術者として共に国づくりをすることだと二人を諭す。

【第3話】「技術者とは革命家なり」

授業の開始。英語が分からずに苦労する学生たちに、自らの思いを語るダイアー先生。「Dai Nippon」の極意とは。救世に必要なのは英雄ではない。技術者である。
そこで語られる工部大の成り立ち。岩倉使節団に同行した伊藤と林の見たもの。工部大輔山尾の苦闘。予算獲得での井上馨との激闘。なお、洋行場面ではサブで大鳥と宇都宮が出てきて、怒涛の工場めぐりを敢行している。欧米の技術が見せ付けられる。

【第4話】 「新校長、着任」

学生たちも生活に慣れて落ち着いた。ある日、新しい校長が来るという。徳川陸軍を率いて江戸脱走、官軍を悩ました戊辰戦争の賊軍名将だったという人物。評判を聞き、授業の半分が軍隊式になると怯える生徒。噂が噂を呼ぶ校内。喧伝される旧幕軍と、その総督の活躍。石橋はここぞとばかりに沼津兵学校の地獄の教練を語り、旧幕軍の薀蓄を披露し、宿敵の片山に優位に立つ。
ある時、石橋は、ちっこい童顔の髭のオジサンに校内の案内を頼まれる。朗らかに、明日から雑用をやるので様子を見に来たと語るおじさん。てっきり新しい用務員かと思って、得意満々に構内を見せてまわる石橋。翌日の新校長着任で、見た顔を壇上に見て、仰天する石橋。

【第5話】「エアトン先生」

油断してくるとチョークと共に飛んでくる、"You are stupid!!"の怒声。水を打ったように静まり返る教室。次いで滝のように打ち付けられる質問。答えられないと拳骨と再度の怒号が響く。誰もが恐れる電気工学教師。その名もエアトン先生。
ただ一人怒られないのが優等生志田。彼のエアトン対策ノートで、生徒VSエアトン先生の抗争が繰り広げられるが、打ちのめされる生徒達。
そんな恐怖のエアトン先生の、クリスマスのパーティでの衝撃の仮装。美しく女装して演劇に望むエアトン先生と、惑わされた志田。


そんな感じで。
エアトン先生の女装は、事実です…。
あとは思い浮かぶ限りのタイトルを並べてみます。


「女生徒たち出現。工部美術学校」
「線路を作るよどこまでも―未踏の山々に臨む南清の鉄道測量実習」
「世界一の電気実験室。輝け、アーク灯」
「不世出の天才―川口武一郎」
「博覧場の模型たち」
「工業新報 早すぎた科学の光」
「北海の嵐。挑め、青函ケーブル海底工事」
「プロジェクト・気球」
「対立!学生ストライキ。西館楼の集合」
「涙の卒業式。旅立て、一期生」
「京都へ灯を、水を ―琵琶湖疎水に挑む」
「グラント将軍の昼食会」
「戦え工部大生! 学校対向クリケット大会」
「怪物ケルビン、席巻せよグラスゴー」


あたりが続いていくわけです。
工部美術学校の花、大鳥ひなと山下りんは、男性視聴者にとって貴重な存在です。
友情出演(?)として、東京帝国大学の田中館愛橘が、工部大を「電線を張ったり線路を引いたりするしかない学校」と馬鹿にしてくれます。
一期生が卒業してからも、浅野応輔や田辺朔郎、井口在屋にスポットが当てられます。そして、忘れられたころにグラスゴーの留学組から後輩達に手紙が来て、志田や高峰、辰野らのグラスゴー生活と活躍が紹介される。
最終回はこんな感じ。

【最終話】 「それぞれの道、それぞれの礎」

留学中の夏目漱石が、英国で目にした新聞記事は、高峰のジアスターゼ発見だった。卒業生の人生のハイライト。高峰、石橋、曾禰、辰野、それぞれの活躍へ繋がっていく。
頓挫した工業新報の後を引き継いで、工学会が結成された。クローズアップされる工学会報の記事。
東京帝国大学と工手学校、育英黌でそれぞれ科学技術を指導する工部大生。
安定した官の道を蹴りアメリカへ旅立つ高峰。有栖川宮造営に尽くす片山。灯台の灯を灯し船を導く石橋。八幡製鉄所の炉に火を入れる小花。東京駅建設を管理する辰野。国産織機の開発に汗をぬぐう安永義章。日本の夜に光を点していく藤岡市助。出水に難渋しながら琵琶湖疎水の掘削工事を進めていく田辺朔郎。うなりをあげる井口ポンプ。各界のリーダーになった卒業生たち。
そして、電気工学会設立時の志田の演説。全文披露される10の科学技術予言に、満場スタンディングオベーション。
しかし、産官民に技術の進歩をもたらした秀才への代償は大きかった。過労死とも思われるほどの短命にして世を去る志田。墓前に集う工部大生。山尾と大鳥、林ら官僚。遠い空のダイアー先生達。技術による日本の発展と幸福を誓う。現代に繋がる、科学技術。技術立国日本の礎。


……ここまでくると、自分の阿呆さ加減も楽しくなってきます。
まずはドラマシナリオになるような小説を誰かが書いてくださることですよな。
史料は提供しますから、だれか文才のある方、書いてくださらないかしら。…他力本願は、一番現実化するには遠い手段であるということは分かっていつつ。むー。
タグ:工部大学校
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2007年03月23日

大鳥邸宅と大鳥職場

21日春分の日、会社を休めたので、バイクで都内散策してきました。
迷いさえしなければ、東京も狭いです。
ルートは以下の通り。

駿河台→皇居→大手町・桜田門→虎ノ門2丁目→霞ヶ関2丁目→霞ヶ関3丁目→有栖川宮公園→白金3丁目→白金高輪→三越湯

言い換えると。

大鳥幕臣時代屋敷→大鳥幕臣時代職場→大鳥収監牢獄→大鳥櫻川町住宅→工部省(工作局含む)→工部大学校→都立図書館→大鳥白金邸→吉田白金邸→大鳥白金邸すぐ近くの銭湯

という感じです。
要するに、江戸東京で、大鳥住んでいたところとと大鳥の職場が、今どうなっているのかを見てきました。

といいつつ、駿河台、大手町パレスホテルは、今日は通っただけだったので写真はなしで。

以下、写真はすべてクリックすると大きくなります。

櫻川町、虎ノ門2丁目から行きます。

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愛宕通りの西新橋交差点。この左側が、大鳥の櫻川町邸宅のあった辺りです。

この近所、芝愛宕町に板垣退助も住んでいた模様…。栗本鋤雲さんが板垣と大鳥を会わせて記事にした際、戊辰戦からそれまで一度も両人顔合わせをしたことがなかったとのことですが。道で顔合わせしても互いに知らん振りしていたのだったら楽しい。

この周辺、官員や華族の邸宅が多かったようですが、地価も高かったことでしょうし、そんなに大きな家ではなかったかもしれません。

ちなみに、江戸時代は、近江水口藩の加藤越中守の屋敷でした。

大鳥の家があったと思しき場所は、雰囲気の良さそうなお蕎麦屋さんになっていました。

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高そうな感じです。時間があったら、奮発して食べにきたいと思います。


次は、工部省へ。霞ヶ関2丁目のブロックです。
ちょうどこの周辺が示された案内板がJTビルのところにありました。

地図の字は、クリックして大きくしてご覧いただければと思います。北が下になっているので注意です。

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中央の四角形が工部省があったあたりです。工作局もこの中ですが。大鳥局長は、生徒達にはハイカラで贅沢な工部大学校で過ごさせ、自分たちは木造平屋建の粗末な小さな建物で仕事していました…。(曽禰君談)

工部省の一角は、今は虎ノ門病院、JTビル、国立印刷局になっています。

虎ノ門病院。

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JTビル。JTは日本たばこ産業株式会社の略称。昔の日本専売公社。特殊法人で、株の半分以上は国が保有しています。「桃の天然水」などの清涼飲料水も生産していますが、売り上げの92%はたばこらしい。

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前衛的なモニュメントと建物です。周囲の雰囲気をガラリと変えています。
タバコ販売で相当利益を上げているのだろうな…と思い、JTのウェブページの財務アニュアルレポートを見てみると、2006年で4.64兆円、営業利益3069億円。しかも利益は2002年の1638億円からずっと右肩上がり。2005年は営業利益2733億円中2201億円が国内たばこ事業。…すごいな、たばこ産業。そりゃ、宇宙基地のようなビルも立つ。多少の禁煙キャンペーンなど、ものともしていない模様です。


それから、ブロックを南側へ回って、国立印刷局へ。

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財務省管轄で今は独立行政法人になっています。日本銀行券=紙幣の印刷や技術開発、パスポートや切手の作成などを行っています。ほか、官報や政府刊行物の印刷なども行っています。
日本紙幣には印刷技術の粋が凝らされていて、その技術レベルは世界でもトップクラス。すかしのほか、角度によりピンクに見えるパールインキや、インクが盛り上がる深凹版印刷、肉眼で見えずカラーコピーの解像度では再現不可なマイクロ文字、傾けると文字が浮かび上がる潜像、紫外線で発光特殊発光インキなど。印刷に技巧を凝らすのは、偽札を防ぐためというのが第一義なのですが。版の元になる銅版エッチングは手彫りだとか。1mmに10本以上の溝を彫る。まさに、職人技です。

ウェブページのムービーは結構感動できます。

そんな感じで、工部省跡地は、日本の金と日本の富の産地となってしまっておりました…


お次は工部大学校へ。霞ヶ関3丁目になります。

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この近辺が敷地内だったところかと思います。
例の赤レンガの建物は、文部科学省、会計検査院が入っていたところで、今は建設現場となっています。霞ヶ関R7プロジェクトというのが進行中。正式名称「霞が関三丁目南地区第一種市街地再開発事業」。

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概要はこちら
PFIによって進められる大規模な官民共同施設。文部科学省、会計検査院、金融庁が入居予定。

建設現場はこんな感じです。

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この中に工部大学校の碑文があったはずなのですが。この工事で撤去されるとか移転されるとか壊されるとか、落ち着かない噂を耳にします。施工管理者らしい技術者のお兄さんがいらしたので、どうなったのか聞いてみましたが。「ぜんぜん知りません」の一言で終わってしまいました…。
建設現場は、事業者に知り合いでもいないと入り込むのが難しいので、なかなか確認もできないです。
碑文の行方、気になります。

なお、この背後、北側に聳え立つ建物。

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日本の金庫番、財務省です。
国家予算の分配はここによる。まずトップに立つ官僚組織。金を握る組織が最も強いのは古今東西同じ。
個人的には、前の「大蔵省」の名前のほうがどっしりとした感があって好きです。何で名前を変えたのだろう。たしかにそのほうが分かりやすいですが。


で、場所は移りまして。六本木、麻布を越えて、有栖川宮公園の都立図書館へ。…行こうと思っていたのですが、祝日は休館日でした。日曜日も開いているから、祝日も大丈夫だと思っていた。残念。

それでもめげない。次は白金三光坂、現在の白金3丁目へ。明治10年ごろ、引っ越したあとの大鳥の邸宅です。
都立図書館から、実は結構近くて、1kmぐらい。徒歩圏内だったりします。

三光坂を示す碑がありました。

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もともとは、下専心寺にあった三葉の松に基づき、「三鈷坂」という名前だったとも、「日」「月」「星」の「三光」から来たとも言われているそうです。近くには北里大学、北里研究所があります。

大鳥家の後は、今は小学校になっています。
三光小学校。

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都内一等地で、小さいながらもちゃんと運動場、陸上のトラックも備えられています。
ちなみに、圭介の三光坂の家は、後に手放されて銀行の管理下におかれ、管理人がこっそり書生に貸し出して、そこに太宰治が住んでいました。

この三光小学校に、圭介の書額があると聞いていたのですが。中は無人。いずれ閲覧をお願いしてみよう…などと思って周辺をうろうろしていると。

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不審者は通報されるようです…。ごめんなさい。

フェンスに咲いていたオトメツバキが、青空に映えてとても綺麗でした。

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この周辺、いくつか古いお寺があります。一番近い西光寺を除いてみますと、お住職さんがいらしたので、少し話をお伺いしてみました。
この当たり、明治15年ごろに大鳥圭介と言うひとがすんでいて、周辺のお寺に書画を寄贈したりしていたそうですがご存知ないですかとお伺いすると。「ぜんぜん知らないですねぇ」とのお答え。…怪しい人だと思われて追い払われたのかもしれません。やはり当日突撃は無謀で、下調べは重要です。

それから東のほうへ行くと、白金高輪に出ます。
国道1号線沿い。この当たりが白金志田町。吉田さんの御宅のあったところです。

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圭介宅から近いです。400mもありません。圭介の後から吉田家が引っ越してきたというのがミソです。

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この当たりが吉田家のあったあたりかと思います。にぎやかな一帯です。地価も高そうです。

さて、大鳥家跡地の近くに、銭湯がありました。せっかくなのでもちろん入ってみます。

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「三越湯」。H17年3月に改装したばかり。銭湯といっても、スーパー銭湯のような入浴施設っぽい、新しい機能豊富なお風呂でした。昔からある湯らしく、改装前にあったとおぼしきレトロな置時計などがありました。
周辺のセレブな奥様がターゲット層らしく、いつも行く銭湯とは全然雰囲気が違いました。フロントのお姉さんは、豹柄のシャツにサングラスとゴージャスな感じでした。
サウナはロッキーサウナという、80℃程度の遠赤外線サウナに、自動コントロールした水滴を焼け石に吹き付けて蒸気を発生させ、湿度を20〜30%にしたものでした。設備投資費がかかっています。

露天風呂もあり。といっても、天井に窓がついているだけで、外気も余り入ってきませんが、風情のある岩風呂でした。善き哉。

内湯は消毒の臭いがしていたので、水道水ではないかと思いますが、露天風呂はもしかしたら井戸水かも。
…大鳥も同じ水脈の水を使っていたのかと思うと、入る身にも気合が入ります。

サウナと露天風呂ですっかり茹で上がりました。
外に出ると夜。良い一日でした。


そんな感じでダラダラと書いてしまいました。どこか行くと何かある東京。楽しかったです。どこも観光地でもなんでもなく、当時を忍ばせるものは何一つ残っていませんでしたが。それでも「ここにこれがあった」というのを知っているだけで、回りの景色が全く違ったものに見えます。

バイクでまわると意外に小さくて、あっという間でした。歩いて回るとまた別の風情が楽しめるのだと思います。
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2007年03月28日

「幕末あどれさん」と時代小説

「幕末あどれさん」
松井今朝子氏の小説です。
だいぶ以前に拾い読みをして、そのままになっていたのですが。休日に一気読みをしました。

あどれさん。英語では、adolescent。 若々しい、青年期の、青春の、という意味があります。

その名の通り、幕末に青春期を過ごした二人の青年の物語。
英雄ではなく、知識人でもなく、剣豪でもなく、為政者でもなく、ただ普通に生きて時代に翻弄された若者たち。世を変える力もなく、自分の行き先を自分の力で切り開くわけでもなく。どこか遠いところで自分の生きる世界の行き先が決められてしまって、その中で右往左往しつつなんとか身の上を過ごしている。

こうした、誰にでも起こり得る等身大の小説は大好きです。英雄物語だと、教科書的な歴史背景とヒロイックな描写で勢いで乗り切っていってしまう感じで、いつも自分は途中で世界と剥離して、息切れしてしまうのですが。

非日常でも、ここに自分が生まれたらこうなるのだろうなぁ、という実在感があるとそれだけのめりこんでしまう。そして、それだけの日常を描き出すのは、時代観を出すための力量が小説家に必要になってくるもので、英雄物よりもかえって難しいのではないかと思います。キャラへののめり込みやご都合主義では描けない。

その点、松井氏は、歌舞伎の企画制作や歌舞伎の上演台本を手がけられる方だけあって、人々が息づいてきた時代背景を描き出すのが、巧みだと思いました。傍観者がいつのまにか出演者に加わっているような感じ。なんだか自分が登場人物と一緒に橋を渡り、坂を上っているような感じがしてくるのです。

火事になると、女は多目の髪に鬢付け油をたっぷり塗っているから男の大頭より火がつきやすい、火事では女はお高祖頭巾を被って難に備えるとか。芝居小屋では煙草を吸う客のために火縄を売るものが大勢いるとか。春に生まれた雀の雛が多すぎると巣を巡る雀戦が行われるとか。
所々、さも普通の事のように描かれるけれども、その場所ならではの事象を書き出すのが、うまい。時代小説とはそういうものだといってしまえばそうですが。

それで、主人公の久保田宗八郎。絵に描いたような部屋住みの武士だったのが、何を思ったのか芝居の台本書きに興味を持ち、町人に身を投じる。「悪人になりたい」という言葉に、行き所のなさと、それでも自己が欲しい中途半端な人間の渇望が集約されている気がしました。絵に描いたようなモラトリウム人間。役に立っていそうで立っていない。周囲にあやかって生きていく。

そして、芝居モノ一同が奉行所に呼びつけられた事件や、太髷の旦那・河原崎権之助が殺される事件、三代目田之助が足を切る事件など、実際にあった出来事に宗八郎が関わっていて、その中で「町」そのものに解け込んでいく。それでも武士たる自分は心のどこかに持ち続けている。

一方で、宗八郎と触れ合いそうですれ違っているもう一人の主人公、片瀬源之助が中盤から良く動くようになる。

作者は宗八郎のほうに感情移入をしておられるようで、細やかな心理描写も宗八郎のほうが多く、源之助はとどちらかというと時代のステレオタイプをなぞったのだったかな、という感じではありました。

彼の歩み方が、おそらく典型的な若き伝習隊士官なのではないかと思います。著者は、軍制の移り変わりが、一人一人の名もない武士にどう影響していたのかを、綿密な調査と想像力で描きだしてくださっている。なので、当時の陸軍黎明期がよりリアルに感じられるようになりました。軍制を追っていて出会う無味乾燥な言葉の羅列に、しっとりした立体感が得られる感じです。

「講武所」が「陸軍所」に変わった変遷が何を意味するのか。無論、名前が変わっただけではない。それは、「武士」はもはや求められておらず、必要なのは「軍人」なのだとお上に宣言されてしまったことだった。自分たちが打ち込んできたことがもはや役立たずになってしまった、その納得しがたさ。

従来の旗本の五番方(=武官の組織、大番、書院番、小姓組番、新番、小十人組から成る)がありながら、それが陸軍というものに取って代わられる。陸軍の兵士は武士ではなく旗本が国許から差し出した百姓だ。

そこに、寄る辺ない部屋住みの若い旗本や御家人の次男三男が、自分たちの立脚点を持とうと活路を見出す。
部屋住みのいたたまれなさ、「家」を立てたい思いに、時代の変化がぶつかる。「部屋住み」たちが抱えていた鬱屈した思いと、新しい組織にあやかって「士官」となって「お取立て」に預かろうとする打算。名と禄と家名にこだわる若い功名心が、よく見えてきます。
無論源之助には、早く家から出て養子に入って老いゆく義父を安心させたいという事情もあるのですが。

武家の素養としてこれまで剣、槍、柔術と、心身を磨いてきたのに、いきなり鉄砲をもって走りまわれとは何事だ。異国人にものを習うなぞ真っ平だ。通詞の後塵を拝するなぞ面白くない。旗本の裃から、百姓と変わらぬ筒袖陣股引の戎服に改められるのはごめんだ、せめて下穿きだけは小袴にしてもらいたい、錬隊法なぞなぜこんな阿呆踊りをさせられねばならんのだ。

そうした若い武士たちの不満がリアルに描かれていて、当時の人間がどう感じていたのかが肌身に伝わってきます。

それで大身の家に生まれ大勢の家来にかしずかれてぬくぬくと育った若者達。士官候補生になって陸軍教練を受けるわけですが。これが旗本子弟だろうが百姓だろうがいっしょくたの錬兵訓練。体力と藪をはいずるサバイバル勝負。教官には踏みにじられる。ひたすらラッパの合図とともに走り回らされる。歩き疲れて行進すらうまくできず教官に尻を蹴り飛ばされる銃床で殴り飛ばされる。旗本息子たちはすぐにへたばるといって百姓出に笑われる。「アルト(止まれ)」の声をただ待ち望む。其のうち百姓郷士上がりにまで殴られる。フランス語ができないと獣と同じ、もはや人間扱いされないままに屈辱の給仕をおおせつかる。血の滴る肉を平らげる教官にただ奴隷の如く仕えさせられる。ぐしゃぐしゃにプライドが踏みつぶされる。伝習そのものの肉体的な辛さよりも、武士の面目も誇りもズタズタにされたのが、悲惨だった。

当人達には申し訳ないけれども、その惨状が楽しいです。うむ、頑張ってくれ、と。

それで、こうした若者達とは異質な存在、新人類として、大鳥が出てきます。時代の変化で台頭してきた人間の典型。翻弄される若者達とは逆の、流れを作る立場。さほど出番は多くありませんが、面白い役どころです。

まずは陸軍三兵の講義者としてですが。うわさで持ちきりになる。旗本では聞かぬ家名だ、御家人なのか、いや赤穂の医者の息子という、御典医か、いや町医者だ、なに陸軍では町医者のせがれが旗本の上に立つのか、と。

で、本人、顔立ちも物腰もいたってやさしい穏やかな人物で、上方訛りのあるゆっくりした調子と、蘭語まじりの授業。暑さでぼんやりする生徒達はうつらうつらと舟をこぐ。それであとから「わしは西洋でいうところのカピタン(差図役頭取)じゃ」と述べて、生徒がぱっちりと目を覚ます、という素敵な描写。

それで、あとから「大鳥先生、表高は高くとも頂戴する禄米はほんのわずか、四百俵の差図役頭取とはいいながら実のところは五十俵三人扶持」と生徒にばらされてしまった。雲の上の人かと思ったらそうでもない、いい役どころです…

あと、横浜伝習所における成島甲子太郎の位置づけが面白かった。訓練の非道さを愚痴りにいった若者達に、フランス教官の熱心さ、自国の利益ではなく日本の国益を考えて振る舞い助言してくれる彼らについて、語ってくれる。馬面で好かれるというキャラクターもいい。こうした、自らが史料から掘り起こした人物へのスポットの当て方がうまいです。


それで、源之助君。なんだかんだと流されて、脱走に付き合わされる羽目になるのですが。

これが、悲惨の一言。作者は、南柯紀行のあの無常さ、悲壮さを十分に汲み取ってくださって、源之助君の背中にどっしりと突きつけてくださってました。なにせ、章タイトルが「泥濘の道」。土砂降りと泥の中の脱走。

10代の伝習生徒たちが抜け出して脱走を追いかけてきたのもきちんと描いてくださっています。源之助が「けなげな奴等ではないか」と歓迎した一方、大鳥が「馬鹿者っ」と叱って「…いずれまだ親のある身であろう、忠よりまず考じゃ、親に心配をかけてはならぬ」と説得したあたりは、大鳥の親心がにじみ出ていて嬉しかったです。結局ついてこられるのだけれども。

で、長雨が続いた泥の中の道。無駄口を叩き、明るい声を立てて笑いながら、死の恐怖から逃れようとしている兵士達。灰色の辛い、けれどもどこか突き抜けた戦場の有様をよく描き出してくださっていると思います。

小山の戦いから活躍しているのが、伝習五番小隊頭取の大岡新吾。彼に目をつけて引っ張り出しているマイナー具合が素敵です。
あと、浅田君が一言だけ叫んでいました。
それで、本多・大川・瀧川の隊長格については一切言及なしというのも、なんだか拘り具合を感じました。

それで、焦土と化した宇都宮、狼藉の限りを尽くす兵士。
その後安塚攻めに、雨の中出向いた源之助ら伝習隊。紙薬莢のシャスポーが濡れてしまって発射しない。これをなんとかしようともがく様が描写されているのは、よく考えて書かれているなぁと感心することしきりでした。

そして、素敵だったのは、六方沢。

「なぜだ、なぜいっそあそこで討死させてはくれなかったのだ…」

勝利を得たと思いきや弾薬が乏しくなったことを理由に宇都宮城はあっさり敵の手に明け渡された。なぜ大鳥総督は代を枕に討ち死にさせてはくれなかったのだ。勝てもせず、さりとて負けとも認められない戦が、腹立たしく情けない。明日の事を思えば思うほど気がめいる。精魂尽き果てて、目の回るような空腹と、足の痛みと、はぐれては二度と会えなくなりそうな真の闇のなかで、心の闇もまたどんどん深くなる。

…言われてしまったよ、大鳥。
いや、よくぞ書いてくださった、という感じです。
あの六方沢の、飢えと疲労と闇への恐怖と泥濘の中で、皆が悲惨きわまりない思いをした中。いつ大鳥は後ろから撃ち殺されてもおかしくなかったと思います。
この六方越は本当に良い文学素材だと思います。このパートだけでも、大鳥ファンには読む価値があると思います。

そんな感じで、源之助は会津まで逃げ惑い、ほうほうの体で江戸へ戻る、まさしく生還するわけですが…。

不満があるとしたら、ラスト。平山寿三郎氏のような、やるせない、切ない、でも良かったー、という終わり方ではなくて。なぜそうならねばならなかったのか、という感じで、ちょっと読後感が悪かったです。
ハッピーエンドとはいかなくても、「若者達」の主題らしく、もうすこし双方に希望を残した終わり方はできたと思うのに。

宗八郎の旅立ちという選択肢も、それまで鬱々と江戸で過ごしてきた彼としてはまったく伏線がなくて、脈絡がなく唐突だという印象を免れなかった。これが、源之助のほうだったら、まだ箱館で気炎を上げた旧幕軍の遺志を継いでくれたか、という感じで、しっくりくるのですけれども。

あの終わりかただと、源之助は、何の為に幕府陸軍に、伝習隊に入ったのかと納得し切れなさが残る。いや、生活と家のためといってしまえばそうなのだけれども。源之助が、あそこまで戦中の生き汚いしぶとい様を見せておいて、あの終わり方というのが、どうにも救われない。青春と人生を潰して終わってしまった、というのはあまりにやるせない。大鳥が見たらしばらく鬱に入って立ち直れなかっただろう。

その救われなさで、時代に翻弄される青春の末路というのを描きたかった、というのは判る。けれども、どうも芝居めいていて、それまでにじみ出ていた実在感が消えてしまった感じがして、少し残念だった。それまで芝居に生きて、どこか浮世めいた感のあった宗八郎ではなく、しっかりと地面に足を付けて前を向いて生きてきた源之助の終わり方がこれ、というのが、違和感のある皮肉な感じを受ける。

若者達は若者なりに先々のことをしっかり考えてきたつもりだった。けれども、先のことなど所詮誰にもわかりやしない。ただ翻弄されるのみ。そうした無情さをあらわすのがテーマなら、源之助の終わり方もありなのでしょうけれども。

正直、二人の行く末が逆だったほうが、よほど読後感が良かったなぁと思う当たりは、自分の伝習隊若者への入れ込みのせいかもしれません。

いずれにしても、「幕末」という一ジャンル、一世界で今まで語られてきた英雄世界とは一線を隔した、身近な幕末、身近な江戸、身近な若者。憧れや理想を投影するのではなく、あたりまえの力なさ、不甲斐なさを彼らと共有したい。そうした方には、お薦めの一冊でした。「東京城残影」などと一緒に並べておきたい小説です。


それで、自分が、こうした等身大小説が好きなのは、作者が自分達の世界観で勝負している感じがあるからです。

よくある時代もの、剣豪ものの、小説、ドラマ、漫画などの作品の登場人物は、すでに読者にとっておなじみであることが多い。別にその作家でなくても、たとえば高杉晋作が主役だからとか、新選組がメインだから、という理由でその作品に手が伸びることは多いのではないかと。

それは、作者が純粋に自分の力量で勝負しているのではなく、既存のキャラクターの知名度にあやかっているわけで。なので、実在の人物像はさておいて、すでに描かれた他の作品に影響を受けている。その作家が何に影響を受けているのかは、だいたい見れば分かるもので。描き方そのものにオリジナリティはあるのでしょうけれども。すでに作者自身が登場人物のファンであることが多いので、既存の作品のイメージを壊さず、そこに自分や世間の願望を上乗せした形で描かれる。なので、ご都合主義的という傾向がある。言葉は悪いですが、自分の願望と読者の双方に媚びている感じを受けてしまう。

それで、そうした作品のほうが、大衆になじみがあるから売れ行きもいい。メジャーになる。
ビジネスとしてはそれで方向性はよく、出版社にとってはありがたいのでしょう。

もちろん自分も、この人物の姿が読みたいからという理由で作品に手を出すことも多いわけですし、そういったあり方を否定するわけでは全くないのですが。

やっぱり、ちょっとズルイなぁ、という気がするのです。

今の流行で人気が出ているアニメや漫画も、そうした感じを受けてしまうので、どうも入り込めないでいます。見れば見たで、面白いのだろうとは思うのですけれども。一時の娯楽で終わるかな、と。

一方、松井氏や「東京城残影」の平山氏のように、等身大層、背伸びしないの日常に焦点を当てているのは、既存の英雄性におんぶだっこしない。作者が自分の世界観とオリジナリティで勝負している感じがする。なので、得る感慨も大きいし、わが身に振り返って色々と考えてしまう。作者のメッセージも伝わってきて、それに対してもあれこれと言いたくなってしまう。自分の土台に残るものがある。そうすると、心から応援したいと思うのです。

(そして、そうした作品に限って、嬉しい大鳥像にめぐり合えることが多い気がする。それはやはり、世界観が、他の作品からではなく、作者が自らの足で収集した史料から形作られているからなのかな、とか思ったりする)

であるので、自分としてはこうしたマイナー群、本屋から言えば売れ筋から外れて在庫になってしまうような作品をこそ、愛でていきたいなぁと思うのでした。
タグ:小説
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2007年03月30日

大鳥道子墓碑草稿

大鳥圭介の、妻みちの死後の墓碑銘の草稿がありました。以前に瀧川墓碑銘草稿を触れましたが、それと一緒にありました。

もはや資料とか称せず、なんと言ったらいいか。遺品と呼んだほうが良いかもしれません。

そうしたものを、赤の他人の自分が、ここで軽々しく触れてよいのかと。
それは、故人のプライバシーを傷つけるような気がずっとしている。一方で、歴史人物になっている方に対するそうした罪悪感も、一種の私物化だろうか、とも思ってしまうわけで。
小田原に行って以来、悶々としているのですが。

やはり、結論はいつも同じで、知られたほうがいい一面は、明らかにしたほうがいい。

こういうのも変というか、おこがましいというか、憚られるのですが。

自分が見てしまったのも、文書が呼んだからのような気がする。
別に私である必要はどこにもない。ただ自分はたまたまそこに呼ばれて、たまたま見たに過ぎない。
資料にとっては、そこにいるのは誰でもよかったのだろう、という気がしてします。
そして、見たからには生かせ、と言われている気がする。

それも、世にしらしめたいという欲求を正当化したい、都合の良い感覚だとも思うのですが。

以前に、ある史料を発見された研究家の方が、史料が世に出たがっていたので自分が呼ばれた、ということを仰っていたのですが。そのときは、超越した感覚だな、という気がしたのですが。今ならそういう気持ちがとてもよく分かります。


そういうわけで、大鳥道子墓碑銘草稿。

今、大鳥道子の墓は、青山墓地にあります。墓の裏に墓碑銘が刻まれて、今は風化し始めて読むのも困難になっていますが。西山昌夫氏が「大鳥圭介とその時代」で、碑文を前文掲載し、書き下し分も載せて下さっているので、眼にした方は多いのではないかと思います。

草稿では何通りか碑銘を考え、文字数を検討したようで、草稿はひとまず、二つありました。

みちさんの死は明治11年2月4日。一方草稿は12年7月。妻の死から1年5ヶ月後に、碑銘が作られたことになります。この時期をどう解釈するか。死を受け入れるまで1年以上掛かったか。単に工部省と内国勧業博覧会事務局の激務に忙殺されていたのか。何かと考えてしまいます。

まず、青山の墓碑に採用されたほうの草稿を。
碑文は漢文ですが、草稿はカナ混じりの和文です。また、何度か推敲をして、朱で手を入れています。
以下、読みやすさのために、カタカナ→ひらがな として、句読点を挿入しています。


亡妻矢嶋氏名は道子1)雲州藩士大三の女なり。年二十ニにして予に帰き、明治十一年二月四日白金の第に病没す。其年三十八、青山の塋(はか)に葬る。君性貞肅2)にして精敏、能謹倹以て家を治め、好て窮乏を賑ふ3)。暇あれば文詞を以て楽とす。三男三女を生む。男は富士太郎、次郎、六三4)、女を雛、雪、菊といふ。維新の際、予、兵馬の事あり、尋(つい)で獄に下る。君躬は子女を挈(ひっさ)げ、都鄙に流寓し五年の間崎嶇酸率積憂、疾を致し死に瀕するもの敷なり。予が恩赦を蒙るに及て君疾稍差而め終に起きざるに至る。嗚呼、君に予が為に艱難に遇達し、勞瘁を極め、以て子女を全す。其節□予に尽すこと是の如し。而して予、之に酬ゆるに□らず5)。此終天の恨なり。哀れかな。

明治十二年七月 姓召祓涙記
全二百八十八字 内百六字仮名


1) 「三千子」と一度書き、「道子」と朱書きで直している。
2) 「貞静」と一度書き、朱で「貞肅」としている。貞肅=貞淑
3) 実際の青山の墓碑には「好て窮乏を賑ふ」の部分が「家好周人」となっている。また、欄外に朱書きで「夫の言を守り艱難に堪ゆる気節、百折不変を称する」とある。
4) 「六三郎」としてから、朱で「六三」と訂正している
5) 欄外に「二文字何れか是に作りたい如何」とある。実際の墓碑には「予系有以報此」となっている。

漢文にする前に、一度日本語で書き下し文を書いています。
よく著作の緒言などで漢文が出てきますが、これらは、一度日本語の文章を立ててから直しているのではないだろうか。人によるかもしれませんけれども。

修正前の稿は、家族の名前を間違えていたりと、本人とすると考えられない間違いをしていたりします。修正前は別人が書き、本人が校正したのかもしれません。しかしながら、どちらも本人の筆跡に見える。漢字違いはよくあることですが。息子の名前を間違えていたのだったら問題だ…。

とにかく、これを見るだけで、どれほど道の存在が大鳥を支えていたのか、その存在に感謝していたのか、そしてそれに報いきれなかったことが哀しかったのか、ひしひしと伝わってきます。

貞淑で、敏く、倹約家で、窮乏にあっても賑わう。そして詩文の素養があり閑あれば詩を紡ぐ。
全く似たもの夫婦です。貞淑はともかくとして、後は自分のことを言っているのではないかと思うぐらいです。

そして、戦にあり、獄にあり、その間5年間、官軍の追及を逃れるために佐倉へ避難し、また獄の夫を助けるために江戸に戻ってくる。その際富士太郎は脱走時4歳、釈放時で9歳。子が最も成長する多感な時期に、賊の家族としての流浪と困窮の艱難を家族で味わった。その苦難が積もり積もって、道は病を得て、死に瀕することもしばしばだった。「君に予が為に艱難に遇達」、原因を作ったのはほかならぬ自分で、それは償っても償い切れない。償えないままに道は逝った。

大鳥の人生と重ねあわせるほどに、その悔恨の念が痛いほど伝わってくる。


それから、もう一編。別の草稿です。

道子碑銘

道子は元雲州藩士矢島大三の女にして天保十年六月麹町邸に生る。嘉永六年其伯父吉田善兵衛の義女となり、予が新銭座に寓する時予に嫁す。明治十年十二月、肺炎に罹り、百薬験なく翌年二月四日終に白金の邸に没す。享年三十八。青山の塋(はか)に葬る。三男三女あり。長男富士太郎、次男次郎、三男六三、長女雛、次女雪、三女菊、皆健全なり。道子性?貞烈、好て窮人を賑ひ、間あれば即和歌を詠し、茶儀を演じ、又詞歌に長ぜり。維新の際に方り、予が在陣在獄併せて四年の間、児女を挈へ、都鄙に流寓し、艱難蒙苦を極め、為に身體衰耗、屡病に臥せり。而明治五年予寛赦を蒙り、家に還りて後、其疾寝愈、乃倹素家を治め、噎(カ)密子を育し、以て予が半生の事業を輔く。其功実に多し。而て今淹□して逝矣、嗚呼哀哉。

明治十一年十月 圭介涙血識

正面 大鳥道子墓

二百八十二字

それまで不明だった点が、いくつか記されていました。

道の誕生は、天保10年(1839年)、麹町。

この頃、雲州、つまり松江藩の藩主は松平斉貴(斉斎)(藩主官位期間は822年-1853年)。出羽守とあります。
一方、尾張屋の寛政期地図では、四ツ谷近く、六番町の今の雙葉学園のある当たりに、松平出雲守の屋敷があります。麹町のすぐ傍です。斉貴の先代、斉恒が出雲守なので、これが雲州藩邸で間違いはないかと思います。で見る限り、18万6千石という親藩ですが、大きな藩邸ではありません。

つまり、道さんは、松江藩の江戸藩邸で生まれた、江戸育ちの藩士の娘だった。
山猿育ちの圭介よりずっと、都会の娘さんだったわけです。

そして、1853年、14歳のときに、吉田善兵衛の幼女となった。なお、神戸又新日報に掲載されていた「吾県の精華」にある圭介から故郷への手紙では、「京極佐渡守様御家中吉田善八郎養女相談に相成申候」とある。義父は、讃岐丸亀藩士だったようです。丸亀藩は、5万石の外様の小藩。結婚時点では、吉田みちと名乗っていたのでしょう。

そして、新銭座、つまり圭介が江川塾の講師をしている際。みちさん、21歳の時に結婚。なお、圭介、最初は故郷の岩木の娘との縁談があったのですが、多少差しさわりがあってこれを断ったことがあったと、上の手紙で記されています。道さんとは「江川内人の世話にて」知り合い、「人物は至極宜しき様子、かつ血筋家柄の所も申分ない様子」ということで、結婚に至った。

なお、この手紙の詳細については、こちらの4/26の記事で触れています。

みちさんの直接の死因は、肺炎でした。肺はもともと、強くはなかったようです。

後半部は上と大体内容は同じです。やはり、戦中・獄中の苦難を悔恨しています。
なお、上の「吾が県の精華」で大鳥は、妻子の生計は、親戚友人の助力により辛くも凌がせたが、家族のために故郷の弟鉄次郎の許へ、三十両の借用を申し込んだ事もあると語られています。当時大鳥の故郷は疫病が流行り、妹おかつの夫福本譲平氏も亡くなっており、援助も相当苦しい状況でした。

丸亀藩も、藩財政は芳しくなく、藩士は内職でうちわを作っていた。一方、生家の松江の藩主も政治に関心がなく、相撲や鷹狩りなどにばかり現をぬかして、幕府に大金の献金をして藩財政を悪化させたために隠遁させられたという、あまり評判が良くない方。ですので、みちさんの自身の経済的バックボーンもほとんど当てにならなかったと思われます。

大鳥の釈放後。「予が半生の事業を輔く。其功実に多し」

大鳥が開拓使、内務省、工部省、内国勧業博覧会の事業にまい進できたのも、みちさんがいてこそ。
大鳥は、戦中獄中のことばかり触れていますが、釈放されて2ヶ月で約2年もの渡航、戻ってきたらまた2ヶ月で蝦夷地へ調査、更に年が明けたら今度はシャム(タイ)へ、と飛び回っている。本当に反省しているのか、と疑わしかったりしたのですが。当時の彼の周囲の各省庁の高官はなにかしら皆外遊はしていますから、そのあたりは余り実感が無かったのかもしれません。
そして、この文を見るからに、亡くなって初めてそれを耐え忍んだ功の大きさを思い知ったというところだったのではないかと感じられました。

忙しいと、在って在るのが当たり前になる。
失って初めて、その価値を思い知る。

こうした感傷は、特別な歴史人物や英雄だけが持つものではない。誰にでもあるものだと思います。うちの会社の人間も何人もこういう思いをしている人はいるし、私ごときにすらある。

だからこそいっそう、大鳥が傍で呼吸をしていたような実在感を、強く感じました。
どんな第三者が語るよりも、大鳥は、大鳥自身が一番で、それに太刀打ちできる史料も論評も何もありえないと思いました。

今頃、青山霊園の桜は見事なのだと思います。
自分はまだ、墓前に立てるほどの存在では全くなく、赤の他人にすぎない自分なぞが訪なうのも憚られる感じが大きいのですが。

こうした故人の想いとともに、墓碑の前に佇むのも、また善いものではないかと思います。

タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月31日

千代田の桜

年度末、呑みシーズン。別れと出会いと花見の季節。歓送会、歓迎会、お別れ会。
それと年度末進行が重なるので、家に帰るとだいたいバタンキューです。

今日も例にもれずフラフラしてます。酔っ払ってポストすると、いつもあとから後悔する羽目になるので。本日は当たり障りの無いところを。

桜。江戸はこの週末が見ごろかと。

昼休みにお弁当を持って、皇居の西側、千鳥ヶ淵と国立劇場を見て回ってきました。

まず千鳥ヶ淵のソメイヨシノ。

070319chidor_somei.JPG

周辺は会社を抜け出してきたサラリーマンでごった返し。皆かろうじてビールに手を伸ばすのを止めている感じです。
千鳥ヶ淵には288本の桜が植えられており、都内では靖国神社・皇居東御苑と並んで有数の見所かと。密度が高くて見事です。

それから、国立劇場。この前の広場でさくら祭りというのが開催されています。昼は平日はほうじ茶、週末はお茶とお菓子が、無料で振舞われています。ソメイヨシノだけではなく、何種類もの珍しいさくらが植えられていて、ここを巡るだけでちょっとした桜の通になれる感じです。

小松乙女。

070319komatsuotome.JPG

もともと上野公園の小松宮像の近くにあったものだそうです。ソメイヨシノよりも小ぶりで、花びらの外周の桃色が濃い、乙女という名前に相応しい初々しい感じです。

駿河桜。

070329suruga1.JPG

色が淡いです。見ようによっては白く見えます。名前からして、江戸開府の際に三河駿河から持ってこられた桜なのかと思いましたが。そづえはなく、文部科学省三島遺伝学研究所で作られた桜だそうです。ソメイヨシノよりも数日開花が早いので、本格の開花の訪れが予想できます。代官通りの、近代美術館の通り向かいにある駿河桜は、びっくりするほど華やかで、見事です。

駿河桜のアップはこちら。

070329suruga.JPG

それから、駿河桜二世。

070319suruga2nd.JPG

駿河桜の種から育てられたもの。世界でただ一本だそうです。

あと、「仙台屋」、「八重紅枝垂」、「関山」、「神代曙」などがあります。開花時期が異なるので、ソメイヨシノとずらして楽しむのも良いかと思います。


千代田区は、皇居を中心に抱えているだけあって、特に桜に力を入れています。
江戸の心意気を躍起になって継承しようとしている感じです。

桜の見所はこちら
さくらサポーターというのが結成されて、千代田の桜を守るための活動が行われています。樹木医と樹勢調査を行ったり、やご取りをして手入れをしたりしているようです。

昨年の通信では桜の見所散歩コースが紹介されていました。
以下の4つのコースがあります。

A:千鳥ヶ淵ルート
地下鉄九段下駅四番出口→目白通り→北の丸公園→代官町通り→内堀通り→千鳥ヶ淵→靖国神社歩道橋→靖国神社外苑→内苑→外濠公園→JR飯田橋駅出口
以上、1082本、行程4.5km、ハイライトは千鳥ヶ淵のソメイヨシノ

B:江戸城外堀ルート
地下鉄永田町7番出口→紀尾井町通り→紀尾井坂→喰違見附→真田濠→四ツ谷濠→外濠公園→市ヶ谷濠→外濠公園→JR飯田橋駅西口
以上、738本、行程3.8km、ハイライトは真田濠のソメイヨシノと牛堀濠のヤマザクラ

C:皇居東御苑ルート
地下鉄竹橋駅2番出口→内堀通り→平川橋→皇居東御苑→代官町通り(歩道橋までで引き返し)→地下鉄竹橋駅1a出口
以上、502本、行程4.2km、ハイライトは乾門周辺の八重紅枝垂

D:国会前庭ルート
地下鉄霞ヶ関駅A8出口→桜田通り→国会通り→国会前庭→国会図書館→三宅坂→内堀通り→半蔵門→麹町大通り→大妻通り→地下鉄半蔵門駅3番出口
以上、401本、行程3.5km、ハイライトは国会北庭のサトザクラ

という感じで。
Cコース+Aコースの一部+Dコースの一部が自分の通勤ルートだったりします。毎日1000本近い桜を見ているのか。なんて贅沢なんだろう、自転車通勤。


特にソメイヨシノはこの週末が盛りかと思います。お楽しみになる方も多いのではないでしょうか。

桜にかける日本人の情緒って、すごいものがある。
天気予報には開花予想。個人のブログでもみな周辺の桜について綴る。デザインに桜を起用する方も多々。桜の動向についてみんながそわそわする。地方地方の桜の状況についても興味津々。普段お国自慢をしない人も、周辺の桜については語る。その年の桜を見ないと、人生で何か大事なものを置き忘れたような、ものすごく勿体無いことをしたような気になる。

ぱっと散る様がはかなく、潔く、美しい。そこに日本人の死生観が込められている。生に執着しないとは言わないけれども、終わり際は美しくしたい。桜が散るのをみるだけで、じんわり涙が出てくる。アイデンティティの一つですよな。

自分も上のコースどれかをゆっくり歩きたいところです。国会図書館とか千代田区立図書館とかもルート内にあるので資料漁りもできるし。大久保利通殉難の地とか、靖国神社とか、史跡ルートでもある。

が、例にもれず自分は灰色のクレーム処理仕事です。辛い。春ぐらい人並みに生きたい。呑みだけは人並みですが。過ぎた仕事はぱっと散って終わらせたい。
タグ:皇居
posted by 入潮 at 02:16| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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