2007年04月03日

エイプリルフールの次の日とか住所とか

昨年のエイプリルフールででっち上げた内容ですが。

一部だけ実現されます。


……ということを、今年のエイプリルフールネタでやろうかと思いましたが。やめました。


本当になりましたので。


…ということを今年のエイプリルフールでやろうかと…。
エンドレス。


もとい。
何が嘘で何が本当か、というところですが。
本当もちょっとあるということで。

自分はなにもしていないのですが。
夢見心地なのと同時に、なにかとやるかたない思いが。

詳細については、また後日お知らせします。


情報を小出しにするのも、もったいぶっているようでいけ好かん感じではありますが。まだ確定していないので、期待だけ持たせてみたりする。メディアに楽しみの全くない大鳥ファンのすることですので、許してください。

中身の無いことばかり言っていても嫌らしいだけなので、少しでも中身のあることをば…。

みちさんの生まれたところを探していて気がついたのですが。
本多幸七郎氏の家も判りました。

本多八左衛門氏、すなわち本多幸七郎の爺様のお屋敷を、尾張屋清七絵図で発見。「安政再販」とされている、「番町大絵図」です。麹町のどこかとは聞いたことがあったのですが。

麹町、今の日本テレビ麹町ビルと東京グリーンパレスホテルの裏手の当たりでした。住所にすると、千代田区二番町14あたり。この界隈は密集した旗本屋敷で、同じような大きさの、かちっとした家屋が並んでいたようです。住んでいた場所も、なんだか本多さんらしいと思いました。

そんな感じで、本多さんとみちさんって結構近所の育ちだったのですね。歩いて10分はかからない。年齢も一つ違いでみちさんが上。麹町の街中で、知らずすれ違っていたりということも何度かあったかもしれません。


あともう一つ。
大鳥住所。
西ノ久保櫻川町と、白金三光坂のほかに、もうひとつ東京の中に自宅がありました。

大鳥圭介宛、「麻布区鳥居坂町9番地」となっている手紙がありました。
差出人は榎本金八氏。金+八=釜と、洒落で父親から名前をつけられてしまった、榎本ご子息です。内容は、日光保存のための保晃会についての書簡でした。6月10日とあるのですが、消印が33年なのか36年なのか39年なのか微妙。

ただ、明治37年には圭介翁は津波で流されていて、その頃には国府津へ移り住んでいたはずなので、33年か、遅くても36年の書簡だと思います。
この頃はまだ榎本武揚存命なはずですが。事務は息子にやってもらっていたのでしょうか。

場所は、そのまま今の麻布、鳥居坂でいいようです。


そんな感じで。
いろいろと資料を整理していると、なかなか書き物に手がつきません。
そのうち溜まってきたら、また有害な長文を垂れ流すと思います。
posted by 入潮 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

明治八年大鳥圭介「興国三策」

「興国三策」

小田原の文書群のひとつ。大鳥圭介自筆原稿。開拓使の原稿用紙に、丁寧な楷書で認められている。穴あき、欠損が若干あり。


書かれた時期であるが、文頭に「昨明治七年」とあり、また、文の最後に「明治八年一月」とある。

この頃、大鳥は開拓使から、陸軍省参謀局への勤務となり、1月10日に陸軍大佐に任じられた。しかし、その後1週間と空けず、1月16日には工部省へ異動となっている。更に直後、1月17日には、在日オーストリア大使の誘いを受け、川路寛堂と共に、暹羅国(タイ)へ旅立っている。3ヶ月の旅である。このように身の変遷の多い時期のことである。

よって、この文書は、明治8年の陸軍省勤務期間中に記されたものであると推測できる。在職中の陸軍の用紙ではなく、前職の開拓使の原稿用紙が用いられているところを見ると、公文書として用いられたのではないと思われる。

なお、文末に、「風邪引就中、筆記して奉煩展覧」とある。風邪を引いて公務を休んでいた際に、書かれたものであるらしい。

病中にあるとはとても思えない筆の運びと、論の冴えである。

内容は、「三策」の題名が示す通り、三種の機関の設立について提案している。
即ち、百工試験場(産業試験研究所)、株免状場(パテントオフィス、特許許可局)、そして商法学校(ビジネススクール)の設立についてである。
大鳥はその財源を、台湾出兵における、清国からの賠償金を当てると提案している。

この内容が、誰に、あるいはどの機関に提出され、どのように用いられたかは不明であり、今後の検証が必要である。


以下、本文。

(句読点を振り、濁点を付け、意味が明確なものは常用漢字を用いています(圓→円、賣→売など)。)


昨明治七年は内外騒擾、国家頗る多事、陸軍の軍費又尠からず。故に、政府の人民を鼓舞奨励する、百般の事業着手も、亦多くは躊躇して、進歩に至らず。是れ、時勢の已むを得ざる処にて、今之を是非弁駁するも益(?)あるなし。然れども、其の台湾出師の結末、韋(そくむ)にて干戈を動すに至らず、加之、支那より七十万円を治むるに至る、実に天下の大慶と謂ふべし。

抑、台湾の一挙に付、政府水陸両軍運漕戎器準備舩軆購求のために、処売、恐らくは五六百万円に下らざるべし。然れども、其可半は戎器舟軆等の代価なれば、実物永く存在し、且早晩須要の物件なれば、今遽(にわ)かに之を求むるも、全く消耗せしものと見るべからず、但、之を製作購求するに、前後緩急の差あるを以て、多少の損失を免れざるのみ。

而(しこうし)て、若し一朝、北京の和議調ばず、終に兵を開くに至るときは、多く無辜を殺すは勿論、国家の疲弊を起す、幾百倍なるを知らず、是れ、六百万円を失ひ、七十万円を得る計算上にては、大損耗なりと雖、事遂に兵制に帰し、其の餘の財を散ぜざるは、実に不幸中の大幸と謂うべし。

因て、夫の七十万円は全く望外の獲物と見做し、其七分一即ち十万円を取て、現今全国人民の産業を開き、百工を昌(さかん)にするの道に施さば、他日幾千倍の大利を興し、国家の潤沢するの功必赫々たらむ。是れ、余が積年希望す所なり。


人民の産業を開く端とは如何、曰、其方佉甚多し中に就て、最も国家に急にして最も人民に益あるもの、三件あり。曰、百工試験場、曰、株免状所(パテントオフィス)、曰、商法学校(ベジネススクール)是れなり。

● 百工試験場
之を起す、総入費五万円と定む

百工試験所は川を熟(なめ)し、油を精製し、硝子を作り、紙を漉き、蝋燭を造り、石鹸を練る等の如き百般の技術を試験し、其の法を弘く人民に伝習せしむる一局にして、之を内務省の勧業寮中、又は工部省の工学寮中に設け、以て人智を誘導し工芸を開くの基を置かば、其の功徳実に大なるべし。蓋し、百工の試験は、元と舎密学に因るものなれば、之に従事する必要なる、素より論を待たずと雖、其の学科たる専門の学校にて、少年の者之を研究し、数年の後にあらざれば、其の蘊奥を探る能わず。

而て、今や従来向学の人に向ひ其学を勧め其の程を説くも、ほとんど無益に為す。因りて、此試験場中にては其の理を講ずるを主とせず、但、実際の業を見聞せしめて産を開くの捷徒(?)を教んと欲するなり。故に、尋常学校の類にあらず、但し、一工事を試み、之を人に伝授するの規則等は、別に之を細論すべし。

群県の改度を捷られしより、奮諸藩士卒族の俸禄減却し、活計に窮惑するもの、其或千万なるを知らず、夫の士卒族なるもの、唯俸禄を仰ぎ生活を営みしものなれば、方今の世に当り、耕転を勤めむとするも、田圃なく商売を営まんとするも、事務に迂遠にて、両ながら手を看くる能わず、曰く、遂て零落し、遂に餓寒に迫るもの、天下皆是なり。

夫れ衣食足て礼節を知ると古語の如く、富は治り窮すれば乱るる人の常情なれば、破産の士、廉恥を失ひ悪意暴行を醸し、或は朋党を結び国乱を起す必無きを保たず、因て今、此試験場を設け、普く天下有志の者を招き、之を訓導し、内は人民の困窮を救助し、外は輸出の物品を奮息せば、一挙両全の良策にて、全国の鴻益を後世に期する、一大美事ならずや。

● 株免状場(パテントオフィス)
創業の費を三万円と定む

株免状上は、人の一新事を工夫して、以前に無きものを考出すか、又は、已前に之れあるも、更に一層の明案を加へて、世に益せる者に、政府の證印免状を与へて、他人の之を擬造するを防護する一局なり。西洋各州並に亜米利加合衆国等に於て、各一才智を磨き、大なるものは蒸気器械、電信機、ポムプ、裁縫具、水車、風車、臥床、椅子、大砲、小銃、く犂鋤、紙帛等、小なるものは錐、針、鋸、鍵、錠、鏡、箒、塵取、墨、革、糊、刷毛の類を工夫し、免状を受け、之を世に広く売捌きて、鉅萬の富を為せしもの、幾萬人なるを知らず。

是れ、新葭明の證印免状を所持するときは、己れ一人製造の権を有し、他人若し之を偽造するときは、政府より莫大の罰金を賦して、之を制するがゆえなり。夫れ、西洋各国並に亜米利加合衆国等に於て、株免状役所の規則大同小異あり。

今其大概を挙ぐるに、此寮は内務省に属するものにて、政府より正副両名の頭役並に大検査役三名を令し、而て其頭より、大書記一名並に第一等第二等第三等の検査役、総計七八十名、器械方及び書記生数十名を撰挙して、以て一局を編制せるものにて、其給俸は素より、等級に因りて同じからず、但し今之を委(?)述せず。

要に一人あり、新規の器械又は新奇の物品、例えば、便利の消防器械、又は、以前に類なき薬品等を工夫せしときは、其図面、其雛形、又は、其製法並に其功徳の次第を挙げ、住所姓名を記し、調印し、證人の調印を添へ、之を株免状所に出すときは、書記生之を受け取り、専門課の検査役之を点検し、其の新工夫なる確證を得、又其已前の品に優り世に益ある明なるときは、免状所の官印、内務卿並に寮頭の調印を押したる免状を願人に渡し、許可の證と為すなり。

願人は願書を差出すとき、金十五円を手数料として寮に納めて、其免許を得し、品を発行して売出すとき、又二十円を納むるを法とす。

一たび免状を得るも、永世専売の権を有するものに非ず、其の年限は、大抵三年半、七年、十四年にて此期を過るときは再願して、更に若干年の免状を請て延期を得るなり。但し此時は、所納の手数料初度に倍し三十円、其再売発のとき、又五十円を納むるなり。

右、税金の納方、並に、其金高の多寡は、各国にて小差ありと雖、大概上に所記を以て其細領を見るべし。其細目は、他日之を詳詑すべし。

本邦の如きは、人民の学識未だ開けず、百般工芸の道未だ進まず故、新器奇術を発明するもの甚乏し。促(?)之れあるも、政府の之を保護する法なきがゆえ、十年苦事の功も、一朝他人に偽造せられて、利を得る能はず所、謂労して功なき者となれり。故に、株免状所は、人民百般の技量(人べんに両)を鼓舞するの一大基本にて、之を設るは、民を富し、国を潤し。人智を琢磨するの、良手段なり。其設置一日も之を忽にすべからず。

夫れ、新奇の発明は、素より学識より生ずると雖、其の偶然に出づるもの、亦少からず。唯、人の心の用ふると用ひざるにあるのみ。

夫の蒸気舩、蒸気車、電信、写真の類も、其本を探るとき、□は僥事の発明に係るなるべし。新規発明と云へば、非常の大事と思はるれども、必ずしも然らず、例えば箒手、燭、水入、火箸の如き瑣細の日用品も、一層便利の工夫を加ふれば、即免状を得て専売の利を占むべし。右等のごとき瑣末品の雛形、予か合衆国免状所に於て歴観せしもの、実幾千萬種なるを知らず。彼国に於て、久く用来りし通例の捻錐ありしが、一人工夫して其端に鋼の小突を附け、免状を得て専売し、鉅萬の富を為せりと。是れ其一例なり。

合衆国華盛頓(ワシントン)府の株免状所は、牡鹿の巨閣にて、内に数十万種の雛形を蔵し、其員年に増息して、際限あるなし。是れ皆、前年より株免状を受るために出したる雛形にて、之を寮中に貯置き、其品類を分ち、各遍に配列し、之を庶民の覧に供し、以て人心を鼓舞奮発せしむる為にす。

豈廟堂の大仁恵ならずや。


● 商法学校 (ベジネススクール)
其設置の費二万円

一商法学校は手習算術を初めとし、帳簿の記録、銀行の取引、内外為替の組方、賃借利子の計算、国債の方法、及に其損益證書発行の順序、並に、各国物産の多寡出入、又、各国の経済などに至るまで教授する一局にて、苟くも、商估の業を以て活計を営んと欲する者は、此道に由らずんば、決して内外物産交易の法、金銀融通の述を知る能わず。

町人百姓にて若年の者学問するは、破産滅亡の基抔と云ひしは、二三十年前の奮□にて、近世に至りては外国通商の道も追々盛大に赴きしが、此事に従事する輩は、此商法学校に入て、一般の法則を学ばざれば、必十全の利益を得る能わず。又、外国人の欺謀騙術に陥るを免れず。旦、前件に記せし百工試験場株免状所を設けて、全国の物産を富し新発明にて良品を製出すも、之を外国に輸出し売却の法に迂遠なるときは、遂に国益を得る難し。故に、右三件は並行して始て、□州の利潤を招くべし。而て、通商の一事は繰合ひ、其規則を学得るも、必ず眼前の大利を得るを保つべからずと雖、之に由らざれば、貿易の利害出納の得失を察し難し。蓋、其規律を学び、之を斡旋活用して奇功を奏するは、其人にあるのみ。豈啻商估の道のみならむや。

但し、商法学校は、元来政府にて設くべきものにあらざれども、方今は世態にては姑く、官費を以て之を造営し、人民を誘導せざれば、其階梯を得る能はず。


右三件、小生此順、風邪引就中、筆記して奉煩展覧、庚區々の微衷、ご諒察御採用被下候得ば、国家の大華と奉存候也。

明治八年 第一月 大鳥圭介 拝



……以上、とりあえず、解読が終わって力尽きました。

いつもの通り、解読しきれないところや、読み誤りも多いかと思います。それでも大意は書き出せたかと思います。

活字になっていたり、公文書館やアジア歴史センター、憲政資料室のような公的機関に納められているのも目にした事が無いので、これが初出かと思います。
これだけの見識が、ダンボールのなかで腐るのを待っているかと思うと、やるせないです。
もし、既にどこかで触れられているのでしたら、是非教えてやってください…。

で、中身。
突っ込みどころ盛りだくさんというか。

まさに、合理と実用と実行の人、大鳥圭介。

キラキラしています。文章の端々から、希望と昂揚が伝わってきます。少年のように肌をつやつやさせて、眼を輝かせているおっさんの姿が、眼に浮かぶようです。

明日以降、がしがし突っ込んでいこうと思います。
posted by 入潮 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月08日

大鳥圭介「興国三策」 その2

間が開きました。

週後半は飲み潰れていました。出会いと別れの季節。
どうも、桜を見ると呑みたくなる体になってしまいました。パブロフの犬状態。

街中に、それと見て新入社員と判る方々も多く見かけます。目が輝いています。
うちの新入社員の入社抱負なども、希望に満ちています。「貧しい国のニーズを的確に汲み取り、生活を豊かにできる事業を進めたいです」と語る彼の部署は、支出を管理し給料計算を行う部だったりすると、やるせなくなります。彼らの輝きが死んだ魚のような胡乱なそれになり、ただ目の前の仕事を片すのに精一杯の会社奴隷に変貌するのはいつだろうかと、腐った老婆心が沸き起こります。

いやさ。
彼らと同じかそれ以上に、輝いているおっさんがいます。
われわれなぞよりもずっと厳しい条件で、激しい業務と重責に身を置き続けながらも、キラキラしている人が居ます。

「興国三策」続き、行きます。

先にも書きましたが、大鳥、楽しそうです。ウキウキして書いているのが、筆の運びからも語の選び方からも、伝わってきます。

戊辰戦争中の大鳥は、明るく強がっていますが、基本的に辛そうです。言葉の表裏から、そう見えます。
一方、開拓使・工部省の大鳥の筆は、何かしら楽しそうです。無味乾燥な意見や報告書や論説でも、楽しそうに聞こえます。予算不足人材不足の中で苦労していても、好きな事に没頭している人間の楽しさが伝わってきます。

だから自分は、明治初期の大鳥が、いっとう好きです。

この「興国三策」は、官の役割を考えて、何が効果的に民に益するか、論理明快に述べています。大鳥の本質が、ぐっと掴めると思います。

以下、カッコ内は意訳です。

「興国三作」は、産業試験所、特許局、商法学校の3つの機関の設立を建策したものです。言うは易いが行うは難い。なぜなら政府には金が無い。資金を確保できない開発論は、机上の空論です。
ここで大鳥は、この財源に、台湾出兵で得た清からの賠償金を当てるべしとしています。

大鳥は、論を展開するのに、まず、台湾出兵事件から入っています。

台湾出兵の起こりは、明治4年。琉球の御用船が台風に遭い、漂流して台湾の南部に流れ着いた。乗員66名のうち54名が、先住民によって殺害された。生き残った12名は漢人に救出され、宮古島へ送り返された。
日本政府は清へ賠償を求めたが、清は拒否。これを、在清のアメリカ領事が「野蛮人は懲罰すべき」と日本公使に意見した。これを受けて、明治7年、日本政府は、西郷従道率いる3000名の軍と二隻の軍艦を台湾南部に派遣し、当地を制圧した。この後、大久保利通が北京へ赴き、清国と交渉した結果、清は賠償金50万元が日本に支払われ、日本は兵を引揚げた。

これが、「国の内外が騒ぎ乱れ、事件が多く、軍の浪費が少なくなかった」ということの主な原因です。
台湾出兵前の征韓論対立と、続く明治六年の政変も、「内外騒擾」に含まれているかもしれませんが、その当時は大鳥は国内には居ませんでした。

「この混乱の為に、さまざまな事業が躊躇して着手されず、進歩しなかった。台湾出兵の結果だが、軍を動かして戦争に及ぶ事はなく、清より70万円の賠償金を得たのは、実に幸運な事だった」とのこと。今の感覚に貨幣価値を直すと、1円≒1万円として、70億円の賠償金です。

「ただ、この台湾事件で実際に動かした金額となると、海軍陸軍の武器や軍艦やらで、恐らく5〜600万円(≒5〜600億円)は下らないだろう。実際の物品の代価なので、これは資産として残る。消耗せずに残ったのは幸いである。しかしながら、もし北京での和議が決裂して開戦するような羽目になったら、多くの罪の無い人間を殺すのはもちろん、国家を疲弊させることは、その何百倍になるかわからない。600万円を失って70万円を得るというのは計算上は大損害だが、軍の兵制を整えるのに使われ、その財を空費することがなかったというのは不幸中の幸いというべきだ」

との事ですが。まず、実際に軍を動かすのに費やされた資金を推定しているのが、箱館で陸軍を背負って背中にめり込ませて大鳥らしいです。そして、600万円を費やして70万円を得たのは大損害だ、としているのも、大鳥の独特な見方ではないかと思います。600万円分は、とりあえず、武器や軍艦の形で手元に残ったのだから、あとから資産として活用できると見るあたりも、合理人間ならではです。
で、この次が面白い。

「よって、この70万円は、思いもしなかった得物だとみなし、その七分の一の10万円で、国の産業を開き、百の産業を盛んにする財源とする。そうすれば、後にその何千倍もの利益を起して、国を潤沢にする功績は輝かしいものとなるだろう。これは自分が積年、希望していることである」

賠償金の1/7。14%。微妙な数字です。つい採用したくなります。

そして、そのお金を財源として、産業を盛んにすれば、国全体の利害で見れば、将来的に何千倍もの利益になるという見方。

結論から言えば、どうも、この賠償金が大鳥の建言どおりに機関の設立に用いられた、ということはないようです。明治7年といえば、お雇い外国人の数が一番多かった時期で、どの省も予算には苦しんでいた時期。賠償金を特定の事業の財源に、という考えは受け入れられ難かったのかもしれません。
実際、この賠償金がどう使われたのかは、よくわかりません。今後調べてみようと思います。

ただ、注目したいのは、この時の大鳥の帰属。

前に述べた通り、これを書いた時期は、大鳥はほぼ間違いなく、陸軍省所属です。
賠償金を産業育成機関に用いよとか、実際に戦争に及んだら罪の無い人間が死んで損害甚だしいとか、軍にある人間のいう事か、と思います。

1月10日に参謀局大佐に正式就任しておきながら、その1週間後に工部省に移っている人ですから、あるいは、既に工部省からの引き合いがあったのかもしれません。自らの工部省就任を目処に入れて書いたと考えたほうが、よほど自然な内容です。また、「百工を昌にするの道に施さば、他日幾千倍の大利」「百工試験場」の言葉にあるように、「百工」そのものが、工部省の設立目的「百工を褒勧」という言葉そのものから来ているものではないかと推測できます。(工部省設立は明治3年10月)

また、誰に宛てた文章かは不明です。使っている原稿用紙が開拓使の公文書用のものだというのが、どうも不可解です。この時大鳥はすでに開拓使を去っているわけですし。私的な文章なら普通の原稿用紙を使わないだろうか。開拓使の仕事を自宅持ち帰り残業していたら、原稿用紙が手元に残って、単に勿体無いから使った、というのもありだとは思いますが。

「煩わせたてまつり展覧」や、「ご諒察ご採用くだされ候ば、国家の大華と存じたてまつり候なり」などの最後の文面からは、政府内の、少なくとも大鳥よりは上の地位にいる人物に宛てたものだと思えるのですが。

開拓使用紙なら黒田に宛てたものと考えるのが自然ですが。黒田に言っても仕方のない内容で。原稿用紙など気にせず、次の上司である伊藤に宛てたものか。内容から見ればそれが自然ですが。あるいはまた別の人間宛てなのか。

そもそも、本当に誰かに提出されたものであるのかどうかも、不明です。
工部省就任と暹羅派遣のドサクサにまぎれて、そのまま書類箱の中で眠っていたのだったら、どうしよう…。


と不安がっていても仕方がないので、各論に行きます。

三策の一つ。まずは、「百工試験場」。割り当て提案額10万円のうち、5万円と、3つの機関の中で最も多額としています
様々な工業試験を行う、産業技術試験研究所とでもいう機関の設立の提案です。

「革をなめし、油を精製し、ガラスを造り、紙を漉き、蝋燭を造り、石鹸を練るといった様々な技術を試験し、それを広く民衆に教え伝えるための局である。これを内務省の勧業寮、または工部省工学寮中に設けて、人々を導いて工業を開く基礎をおけば、その益は実に大きくなるだろう。工業の試験は、もともと化学によるものであり、化学に従事する必要があるのは無論、化学を専門とした学校で少年からこれを研究し、数年かけなければ、その極意を極めることは無理である」

化学と限定しているのは、製造業の育成を視野に入れたもので、そのための基礎学問が化学であるとしていることから来るのではないかと思います。

大鳥は、彼自身、左院、開拓使、大蔵省、工部省、内務省、元老院、宮内省、外務省、枢密院と、実に多くの省庁を渡り歩いた人です。藩閥や縦割り行政頭とは無縁の人です。
試験場は、内務省、または工部省のどちらか適当なほう、としているところにも、彼のあり方が伺えます。
内務省勧業寮は、後に工部省の工学量・製作寮とともに大鳥が兼務しています。

内務省の管轄の仕事であった石油資源開発、内山下町試験所、新小川町試験所などを、兼務解消のときに、工部省工作局に引っ提げて来て、工作局の管轄としています。そうして自分の仕事を増やすのがこの人です。


それから、注目したいのが、「専門の学校にて、少年の者之を研究し、数年の後にあらざれば、其の蘊奥を探る能わず」の言。

大鳥自身は、はじめて蘭学に触れたのは17のとき。語学として蘭語を納めたのは19になってから。あとは、語学にせよ洋学にせよ兵学にせよ、実務と並行しながら、時代のニーズに答えるための就学だったわけで。晩成型だったといえると思います。

大鳥は、技術の紹介者、導入者ではありますが、大鳥自身が何かの技術に打ち込み、発明し、研究し、開発したわけではありません。印刷も写真も、既に欧米で行われていることを辿ったにすぎません。世界の第一線には立ち得ませんでした。

幕末の洋学者たちは、よくわからない原書を手に、まったくの手探りで、道具をそろえるのも薬品を作るのも一から始めたわけで。非常に効率の悪い進歩でした。一部の幸運な留学生たちを除いて、彼らはなんら高等専門教育を受けたわけではなく、独学から始めなければなりませんでした。

専門技術の第一線に立ち、何々の父、というような功績を打ち立てることはできなかった。それは大鳥の技術者としての限界であり、技術官僚に甘んじざるを得なかった点であると思います。技術官僚としての事務職務が忙しすぎた、というのもあると思いますが。

頭の柔らかい少年の頃から、科学の専門に触れていれば、その極め方も効率も深みも、まったく異なっていただろう。特にこれから欧米に追いつき、輸入品を減じ、国産技術者を育て、欧米に先んじた日本独自の技術を打ち立てるには、進歩のスピードアップが不可欠。

それを行うのは、大鳥ら第一世代ではなく、専門教育を受け得るこれからの第二世代の若者達の使命だと。
そして、大鳥ら技術官僚の役割は、彼らを育成し、工学発展のための方針を定めて、産業育成の舵取りをする事。高等教育を受けた第一線の若い技術者たちの後押しをすることである。

そうした考えが、この「百工試験場」の提案にも込められているように思います。

ちなみに、「その学科たる専門の学校にて、少年の者之を研究し」は、工部大学校で実現していたのではないかと思います。

「今、すでに向学にある人に学を勧めてその程度を説いても、ほとんど無益である。この試験所は、其の原理を講ずることが主眼ではなく、実際の工業を見せて、産業を開発するものである。よって、通常の学校ではない。製造・工作を試み、これを人に伝授する。その規則は別途詳細に記述する」

学校はすでに文部省が進めているし、数多の私塾もある。
そこで、大鳥は、世に行われていない事について建言しています。
それは、原理を云々するのが目的ではなく、実際の産業を人々に見せること。そして、製造法を民間が自分たちで行えるように伝授すること。

先にあった、「百般の技術を試験し、その法を弘く人民に伝習せしむる」の一文でも判りますが。

大鳥が、普通の技術者と異なるところは、常にこの「人民に伝習」「人に伝授」というところにこだわっているところだと思います。

工作局の赤羽工作分局について、「諸器械製造を望む者は図面或いは雛形をもって当局へ申し出られるべし。もし又図面を所持せざれば、本人をしてただちに機械師と謀らしめ、望み次第の図を製して注文を受くべし。誰にても工場を一見せんと欲する者は来観これあるべし」と「工業新報」の広告に載せています。

赤羽工場は、民間に広く門戸を開いて、見学させるだけではなく、機械は欲しいが製図ができない一般人を助けて機械を製造しようという姿勢を示していました。大鳥は自分の管轄の工場を、一般への機械技術移転の場として活用したわけです。

官僚らしいといえばそうですが。何が国づくり、民の富にもっとも寄与するか。それを常に考えている人であることが伺えます。

「廃藩置県の後、藩士や卒族の俸禄は減り、生活に苦慮するものが何万人いるかわからない。士卒はただ俸禄をあてにして生活を営んでいたのであるので、今、農家になっても、田んぼがないので商売を営むにしても、やり方がよく判らず、失敗し、零落して、遂に餓えと寒さに苦しむ。天下皆このようである。
衣食足りて礼節を知ると、古語の通り。富めばよく治まり、窮すれば乱れるのは、人の常。破産した侍が、恥ずべきことを行い、暴行し、徒党を組んで国に乱を起す心がいつ起こってもおかしくない」

富んではじめて人は安んずる。乱れるのは民が貧困にあるから。国を治めるには、まず衣食の足る、ゆたかな暮らしを供すること。大鳥はこれについて、異口同音の意見を何度も口にしています。
「富は治り」の方法をじっと考え、実践する人であることが、ここでも伺えます。

「よって今、この試験場を設けて、天下の有志の者を招いて導き、人々の困窮を救助し、輸出できる製品を起せば、一挙両得の良策。全国の利益を後世に及ぼす一大美事であろう」

と締めくくっています。

人々の困窮だけではなく、日本の輸入超過は悩みの種。不平等条約のために、日本は関税を決める事ができず、輸入品にどんどん国内市場が食われていく。日本の富が流出する。それを防ぐためにもなる。

これについて、「美事」という言葉を用いているのが、まことに大鳥らしい。
こうした、実質的、具体的で、効果のあることが、大鳥にとっての「美」なのです。


この大鳥の建言をそのまま踏まえた試験場は、自分の知る限り、できたわけではないようです。
しかしながら、大鳥は、上で触れた通り、製作寮、工作局の各種の工場で、この建言を自分で実行しました。
自分が工部省のなかで直接やるようになったので、設立を勧める必要はなくなったと考えたのかもしれません。
どうも大鳥は、いつも、自分でやりたい事を、自分がやる目処のあることを、提案している気がします。上郡町史に収録されている、官によるコンサルタント設立の意見書もそうですが。できないことは言いません。実施が前提。実行有言の人です。


…また長くなりました。これがどれほど大鳥らしい建言かということを言うのに、ヒートアップしました。

まだ三策のうち、一策しか至っていない。
続きはまた後ほど…。
posted by 入潮 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月10日

大鳥圭介「興国三策」その3

皇居のソメイヨシノは、すっかり葉っぱになってしまいました。今日ぐらいが最後の花吹雪だったかもしれません。上にあるのが駿河桜かソメイヨシノかで、道が白くなったり桃色になったり。風情です。

一方、八重紅枝垂は花盛り。駿河桜も寿命が長いのか、葉桜ながらまだ楽しめます。
いろんな種類の桜を植えて、少しでも長く桜を楽しもうとしているのがわかります。江戸っ子にしては往生際が悪いですが、その当たりのこだわりは好きです。

ちなみに、各種の花の開花時期。

寒緋桜: ソメイヨシノより2〜3週間前

駿河桜: ソメイヨシノより5〜10日前

小松乙女: ソメイヨシノと同時期

神代曙:ソメイヨシノと同時期

仙台屋: ソメイヨシノより数日遅い

八重紅枝垂:ソメイヨシノより1〜2週間遅い

サトザクラ: ソメイヨシノより1〜2週間遅い

関山: ソメイヨシノより3週間遅い


各種の桜をソメイヨシノと比較しているのは、開花宣言がソメイヨシノを基準に行われているからです。

「関山」は八重桜で、桜湯としても用いられています。これからが見ごろです。国会前庭のサトザクラもまだこれからかと。

ちなみに、ソメイヨシノについて。四ツ谷濠の、千代田区さくら基金により設置された樹名板には、以下の通りの説明がありました。

「ソメイヨシノ(染井吉野)。高木、樹形は傘状、3月下旬に淡紅色、一重5弁の花が咲く。エドヒガシとオオシマザクラの交配種で、江戸時代中期に作り出されたといわれている。明治時代に入り、日本の近代化と歩調を合わせるかのように全国に植えられた。明治59年には千代田区の花に指定された。区内では江戸城内濠沿いや外濠沿いなど各地に群植されている。」

千代田区の花に指定されたのは、結構後になってからのことだったのですな。それまでは、指定するまでも無い、というほどに親しまれてきたからということでしょうか。


…などと、一般的な話題でもあげないと、誰にも読んでもらえなさそうなポストを続けています。

「興国三策」次、行きます。

株免状場。今存在する機関では、特許庁(Japan Patent Office)にあたります。経済産業省の外局です。(ちなみに早口言葉の「東京特許許可局」というのは実在しない)

設立の提案割り当て額は3万円。3つのなかで最も長い文句を費やしています。

まず、「株免状場」の役割を説明しています。

「人々の新しい事を工夫してこれまでにないものを考案したり、これまであったものについて更に妙案を加えて世の中の利益になるものを発明したりした者に、政府からの免状を与えて、発明を偽造するのを防ぐための機関である。すでに欧米では、みなこの庇護のもとに才知を競っている。大きいものとして、蒸気機関、電信機、ポンプ、ミシン、水車、風車、ベッド、椅子、大砲、小銃、鍬に鋤、製紙などから、小さな道具として、錐や針、鋸、錠前、鍵、鏡、ほうき、ちりとり、墨、革、糊、刷毛などまで。これらを工夫して、免許を受けて、世に売りさばいて巨万の富を為したものは数知れず。
新発明の免許を所持するということは、自分ひとりがその製造の権利を持つということ。もし他人が偽造すれば、政府が莫大な罰金を課して、偽造を制限することができる。
こうした規則は、欧米でだいたい同じである」

としています。
これは、大鳥が、明治5年・6年に欧米視察をしてきた結果、これを日本でも作るのが良い、ということで、提案しているもの。

別にこれは、大鳥の新規なアイデアではなく、すでに特許の概念は慶応期に日本にもたらされていました。福沢諭吉が慶応3年発行の「西洋事情」外篇で特許制度を紹介しています。ただ、これはあくまで紹介で、日本の国情を考えてのの議論ではなかったようです。また、神田孝平も慶応4年に「褒功私説」として、同じく特許の概念を紹介しています。

さらに、実際に明治4年になって「専売略規則布告」が発令されました。これは特許を取った発明品を専売できるとして保護するもの。
しかしながらこの令は、翌年には停止されてしまいました。発明を審査できる人材がなかったためです。発明が「発明」であることを証明するのは、かなり大変なもの。今でこそデータベースがあって検索できますが。当時は、国内でどのような製品が既にあるのか、誰かが逐一知っていなければならなかった。しかも、考案がどのぐらい価値があることかを推し量るためには、その人がその発明を行えるほどに当該分野に造詣が深くないとならない。そうした人材は稀有で、いかに概念が優れていても、実施する人間がいなければ絵に描いた餅。この人材不足は明治政府の頭の痛い点だったでしょう。

その後も特許に関しては度々建議が為されました。また、明治5年2月に岩倉使節団が国特許局を訪問して見学し、実情について調査を行っています。

そして、次に特許の法制度が進むのは、明治17年に商標条例の公布を待たねばなりませんでした。この条例の交布により、農商務省工務局に商標登録所が設置されました。高橋是清が初代所長に就任。
また、本格的な施行は、明治18年7月の専売特許条例の施行が初めて。高橋がこれを起案しました。彼は専売特許局の初代局長に就任しています。 これをもって高橋是清が日本の特許の父と呼ばれています。

また、この専売特許条例が上提された時、大鳥が、この条例の付託修正委員になって、内部を詳細に議論しています。その際、「本邦諸芸術の秘伝は容易に他人に洩すべからざる説」として、大鳥は意見を纏めています。

これについては、こちら3/24の「特許と圭介」という記事で触れました。

大鳥の意見は、以下の点で斬新かつ実用的でした。

・ 伝統に支えられた口伝の技術やノウハウの部分など、外国人が知りたがるものを秘匿することが大切。日本が外国に対抗して独自に持つ技術をこそ守る必要がある。

・ 公の機関や学校など、学究のために行われた研究に関しては、一般に流布すべきものである。一方、開発のまえに私的な資金がつぎ込まれたものに関しては、専売によりその利益を私のものとすべき

単に、目先の真新しいことを保護するだけではなく、伝統分野にまで焦点を当てているところが、和魂を持つ大鳥らしいと思います。(洋学者経歴からの先入観からか、よく小説などでは洋モノかぶれとして描かれていますが、大鳥はむしろ非常に和の感覚を大事にした人だと見受けられます。嗜好せよ詩作にせよ。職務の中で西洋のいい所、必要なところ取りをしていただけで、その土台はこの上なく日本的な人だなぁ、と思います)

「(大鳥の意見は)技術の公開と、それに対する代償としての特許制度という高橋是清などの意見と正反対であるが、高橋の意見が特許制度についてややもすれば法の精神的な面を強調して殖産政策と結びついた理想論に流れたのに対し、大鳥の意見は現実的である」と、「日本科学技術史大系」で評されています。


ちなみに、工部大学校卒の高峰譲吉が、グラスゴーよりの帰国後、この専売特許局の次長に任命されています。在職中、高峰は醸造、和紙、製藍等の研究を幅広く行っています。彼自身、明治23年、麹を使った醸造法の改良で特許を得ました。

高峰は、特許局の設立を提案し、発明を保護する考えを持ち続けていた大鳥とは、気が合っていたのではないかと思います。ともすれば行政に使われ潰されるか、教育の枠から出なくなる当時の技術者ですが。高峰の採った道は技術者としては画期的だった。それを精神的に援助したうちの一人が大鳥で、そのことが「松楓殿」のエピソードにも現れているのかな、と思いました。

で、大鳥の建言に戻って。
この特許局は内務省に属するのが良いとし、その組織構成を述べています。特許申請に係る手続きの方法についても、詳細に述べています。

「申込書には、図面、模型、製法や効果を上げ、住所、名前を記し、申込人の印鑑を添える。特許局に提出された際には、書生がこれを受け取って、専門課の検査役がこれを点検し、本当に新しい工夫であると確証を得て、それまでの品に優って世に益があると認められた場合、特許局の官員、内務卿と局の長官(この時は局を「寮」と呼んでいる)が調印した免許を出願者に渡し、許可の証とする。 出願者は15円を手数料として局に納めて免許を得る。また、製品を売り出すときは、さらに20円を納める。
これは、永久の専売を保障するものではない。期限がある。3年半、7年、14年とたつごとに、再度出願して延長を申し出なければならない。この時は手数料は初年度の倍額で、30円、50円と増えていく。」

大変細かいです。恐らく、金額を含めて、欧米ではだいたいこのやり方、この手数料で行っている、ということだということの紹介だと思うのですが。零細商店にとっては高い金額に見えます。
この当たりは、別に「細部は添付」などとして、別紙でよかったのではないかと思うぐらいです。さらに「其細目は、他日之を詳詑すべし」としているので、まだ細かくやる気があるらしいです。

もしかしたら、明治4年の「専売略規則布告」の失敗を見聞きしているので、二の轍を踏まないように、わざわざ詳細に提案しているということなのかもしれません。

専売特許は永遠ではない。特権を続かせたかったら更に金を払わねばならない、とするあたりも現実的です。年がたてばそれなりに新しくなくなりますので、利益も得にくくなる。それで、発明者は高額の手数料を払ってまで保護しようという気はなくなってくる。そうすると発明が一般に開放されやすくするという仕組み。こうした提案も現実的です。

「本邦は、国民の学識がいまだ開けておらず、工業も未だ進んでなく、新規の発明を行う者が甚だ少ない。それを保護する法がないので、十年費やした苦労も、1日で他人に真似されて、利益を得られないこともある。労が多くて功がない。よっ特許局は、国民の様々な技量を鼓舞する基本だ。これを設立するのは、民を豊かにし、国を潤し、人智を琢磨する良い手段である。一日もこれをおろそかにするべきではない」

と、また、熱い文句を並べています。本気でこれを建てないとダメだと考えています。
あたかも、発明を保護しないから工業が進まないのだといわんばかりです。

この言葉は、予言でした。
この後、第1回内国勧業博覧会で、臥雲辰到という方が、自らの発明品のガラ紡機を出展し、鳳紋を受賞しました。しかしながら、模造品がわんさと現れてしまい、臥雲氏が競争に苦しみ、結局、発明者が利益を得ることができなかった、という出来事がありました。
大鳥としては、「それみたことか」言いたかったのではないかと思います。
あるいは、内国勧業博覧会までに特許法を整備しきれなかった悔恨が、元老院時代の情熱に繋がっているのかもしれません。

さて、大鳥は、新規の発明は、学問のバックグラウンドがあって初めてできるわけではない、偶然のラッキーによるものも多い、とも述べています。蒸気船も写真も、基はといえば偶然の発明によるものだといっています。日用品も、ちょっとした工夫をすれば、免許を得て専売の利を得ることが可能だろう、ということです。

大鳥は、そうしたちょっとした発明の多々を、ワシントンのパテントオフィスで、実物を見てきたわけです。
ずらりと並べられている発明品の数々。それは刺激をうけたことでしょう。

このワシントン滞在中の視察。よもや、森有礼と吉田清成の薩摩ジェントルマン二人が、外債発行の是非で喧嘩腰の議論を延々おっぱじめてしまったので、暇だったから別のことに精をだしていた…とかではないでしょうな、大鳥さん。

そして、特許局設立提案の締めくくり。

「豈廟堂の大仁恵ならずや」

……熱いです。まことに熱いです。

大いなる仁の恵みとならぬはずがない。

こぶしを握り締めて、目をきらきらさせて、こんなに良いものなのだから、ないほうがおかしいよ、はやく設立しようよと、語りかけているようです。

そんな情熱の余波を受けて、こちらも熱くなりそうです。長くなったのは、大鳥が熱いせいです。

決して花見の酔いせいではありません。多分。

三策の最後については、また、次回…。
posted by 入潮 at 04:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月14日

大鳥圭介 「興国三策」その4

忙しいです。今週はずっと午前帰りです。インド人と遣り合っています。連中は口と手は達者で神経がナイロンザイルのように図太い人たちなので、大変疲れます。
2時を回ると、家に帰っても何もする体力気力が無い。

それで本日も、やはりそういう時間に戻ってみたら。
家が真っ暗、電気がつきません。
停電していました。

台所や照明の全部がアウトです。けれども一部のコンセントは生きている状態ですので、ブレーカーが落ちたわけでもないらしい。

たぶん、ネズミに電線を齧られたのではないかと。

最近ネズミの横行がすさまじいです。
置いていたインスタントラーメンや食パンが、綺麗に齧られています。酷いときには1日で食パンが半斤無くなっていました。

最初はなんだかペットを飼っているようで微笑ましいなぁと思っていたのですが。
連中は文字通りネズミ算式に増えるので、そうもいっていられません。

食料は冷蔵庫に入れるようにし、ネズミリペラーという、ネズミの嫌う超音波発生装置を台所に置きました。
これでひとまず、ネズミが食料に手出しをすることは無くなったのですが。

だからといって、電線まで齧らなくてもいいじゃないか。
感電死したらどうするんだ。

(別にネズミがかわいそうだという美しい心からではなく、ネズミの死体をほったらかしておくと、虫が沸くため)

まぁ、モデムとPCは生きているコンセントに繋げたから、まだいいです。

そんな感じで、日々、何かと戦っています。会社ででも家ででも。
もう少し安穏とした日を送りたいと願っても、バチはあたらないと思います。


そんな感じで、興国三策、ラスト行きます。

三策目。商法学校、ビジネススクールです。
設置費用は二万円を当てています。

「商法学校は、算術、帳簿の記録、銀行との取引、為替の組み方、利子の計算、国債を購入する方法、損益計算書の発行など、個人の会社や商店に必要な項目のほか、各国の貿易状況や経済状況など、商業を行う上で必要な情報の整理などまで教える学校。商業で生計を立てる者は、この勉強をしないうちは、国内外の産業貿易や金融の方法を知ることはできない。百姓や町人には、若輩の人間が学問なぞするのは、破産滅亡のもとだ、などという者がいる。それは2,30年前の古い言だ。近年は外国との貿易の盛んになり、これに従事する人間は商法学校で一般のやりかたを学ぶ必要がある。そうでなければ十分な利益を得ることができないままだろうし、外国人の詐欺や騙しに遭う可能性がある」

と、述べています。

大鳥は、単なる科学技術の学問の徒ではなく、こうした経済方面の感覚もまた有していたことを伺わせます。大明治の技術官僚出身者には、同時に実業者としての才覚を有していた者も多いです。

商法学校といえば、ウィリアム・ホイットニー。「クララの明治日記」でおなじみのクララの父親を思い出す方も多いかと思います。

在ワシントン領事館の弁務公使だった森有礼が、もともと、ホィットニー氏の従兄弟の知り合いでした。
もともと森有礼が、商法学校を東京に開設したいと考えていました。その校長・教師として、ニュージャージーで実業学校の校長の任にあり、学校経営に行き詰っていたホイットニー氏に、訪日の誘いを持ちかけました。

この森の言葉を受けて、家族一家で、ホイットニー氏は日本に移り住んでくることになります。
しかし、この商法学校は、当初、政府で認可されず、ホイットニー氏も失業同然の憂き目に遭います。
森は自分の新居をホイットニー一家に提供するなど、彼としてはできうる限りの便宜をホイットニー一家に払っていました。
しかしながら、それまでのホイットニー一家の困窮に、クララは森をいいたい放題に散々貶しています。「森氏は期待通りにしてくださらない」とか「まるで森氏が私達を借金で恥をかかせるか飢え死にさせるためにここにつれてきたみたい」だとか「森氏以外の日本人はみな親切だ」とか。日本産西洋人が形無しです。森が気の毒です。

結局、商法学校は、森の私塾という形で「商法講習所」としてスタートします。
この商法学校は、一橋大学の前身となりました。

この商法講習所の設立に、資金を補助するなどして、実際に大鳥も関わっています。
ホイットニー一家が路頭に迷いかけているときも「大鳥氏は私達の古い友達で、私達が困窮していた時とても親切にしてくださった」とクララが述べています。
明治8年の時点で「古い友達」ということは、大鳥が滞米中にすでに彼ら一家と知り合っていたことになります。大鳥は滞米中に、森からか、或いはホイットニー氏から商法学校についての知識を受け、その必要性を理解したのだと思われます。

それが、この建言に結びついているのでしょう。ホイットニー一家が日本に到着したのが明治8年8月のことですから、あるいはホイットニー一家が来日するという目処があって、この商法学校の建言を行ったのかもしれません。

(商法学校の校長となるホイットニー氏が、就職先が確定せず、契約も結ばないうちに、森の言葉を信じて一家で移り住んでくるというのも、なんだかなぁ思うのですが)

大鳥はその後も家族ぐるみの友人として、ホイットニー一家に、ことあるごとに出入りしています。長崎視察の際には歓送会が開かれたり。ひなやゆき、富士太郎やきくも、クララの筆にはしばしば出てきます。みちさんのお葬式の様子や、ラグーザによるみちさんの胸像について、ひなと大名上杉家の御曹司との結婚、大鳥三姉妹の関係、ひなの代わりにおかめのお面をつけて踊る大鳥、江戸の脱走に同行した僕竹下寅吉の存在など、大鳥一家の知られざるプライベートな姿を明らかにしてくれている、貴重な日記です。きくはクララのお気に入りだったようです。

ちなみに、クララは明治19年に勝海舟の三男・梅太郎と結婚。一男五女をもうけています。この梅太郎とは後に離婚する事になりますが、梅太郎の後妻の田崎このは、榎本武揚の姪だったりします。いろんなところで結びつきがあるものです。

すこし話が逸れましたが。続きをいきます。

「前に記した試験場、特許局を設けて、全国の産業を興し、発明で良品を製造するも、これを外国に輸出し、販売する方法を知らねば、国益を得る事はできない。故にこの三件は並行して初めて国の利潤に繋がるだろう。規則を学んで目前の利益を得ることを目的にするのはよくないと言えども、これを行う事なしには、貿易の利益や損失を察することはできない。商売の道だけではなく、法則を学びこれを活用して効果を挙げられるのは、こうした規則を学んだ者のみである」

商法学校は、一見、上の二つとは毛色の異なった建言に見えますが、実際は密接に関係しています。産業試験場で工業製品の研究開発を行い、特許局で発明者の権利と利益を保証する。そして、その製品を一般に流通させ、交易に用いる際に必須な知識を、この商法学校が提供するのです。

また、大鳥は常に、国内産業の保護と、製品の輸入量の減少を目指していました。

それには、日本に押し寄せた欧米の過酷な植民地政策がありました。「通商条約」という名で押し付けられた不平等条約により、搾取され、日本の製品が競争力を失い、日本の経済がズタズタにされた。それが、明治政府に重くのしかかっていた事実があります。

実は開国直後は、日本は輸出超過でした。1856年の100万ドルから1865年の間に、累積で3300万ドルにまで輸出超過額は増大しています。これは、日本の絹・綿の繊維製品が欧米で求められたからです。当初は輸出超過で外貨が得られていたのです。日本はこれを技術導入に用いることができました。これに対し、欧米は自国の産業を保護するために、輸入品の関税の上限を5%にするよう要求してきました。これは、下関砲撃事件の後、艦砲で脅しつけての無理やりな要求でした。欧米から日本への輸入品の関税を低く固定する不当な手段でしか、欧米の製品は日本製品と競争できなかったのです。一方、日本から欧米に輸出する製品の関税は、欧米は自由に設定できるとされました。よって、日本の製品は欧米市場で不当に高い値をつけられ、欧米製品は日本市場で安いままという、「不公平」な状況となりました。この関税5%上限を押し付ける「5%付帯条項」が1865年に条約に含まれたわけですが、その翌年、日本の貿易収支は一千万ドルという壊滅的な赤字収支となりました。それだけ一気に日本の富が奪われたことになります。

この5%の関税上限が、日本の工業製品輸出に課してきた苦しみが、どれほど大きかったか知れません。明治政府はほとんど無関税の欧米の工業製品が日本の市場で猛威を振るうのを押さえるために、何とかして、激しいハンディの中で、自国の技術開発を行って戦わねばならなかった。
そうでなければ、日本の富が外国に流出する一方でした。

なお、この5%の関税上限は、なんと日露戦争後、1910年まで続いたのでした。

よく、飢饉や疫病、それによる一揆の勃発などの世の乱れなどの国内の要因が、明治維新を推し進めたという説明を目にしますが。
自分はこの植民地政策を押し付けてきた諸外国の暴虐が、日本の混乱の最も大きな要因だったのではないかと感じています。

自分、幕末の全体像は政治史からみると、勤皇やら何やらの名を借りた権力闘争にしか見えなくてさっぱり理解できないでいるのですが。経済の方面から眺めると、納得できることが多くて、馴染みが良い気がしていています。

いずれにせよ日本は、この関税の及ぼす影響を条約締結時に推し量れなかったために、甚大な損害を後々まで蒙り続けてきました。それと戦う必要性を噛み締めたからこその、この大鳥の「之(通商の一事)に由らざれば、貿易の利害出納の得失を察し難し」という言葉があるのだと思います。

大鳥は、自らの目で、諸外国の技術を余すところなく見てきて、ただ賛美するのではなく、それに日本が打ち勝つ方法を、ソフト分野・ハード分野問わずに考え抜いていた。欧米に追従するだけの人間では決して無い。

むしろ明治の大鳥は、戊辰戦争時よりもずっと大きな敵と戦い続けていた。

それが、この建策をはじめとする各種の大鳥の意見から伝わってくるのです。

「商法学校は元来政府が設けるものではないが、今は世にこれを設ける力は無い。官費をもってこれを造り、民を導かなければ、そこまでの梯子を得ることはできないだろう」

民間は財力が乏しく、知識もなく、この学校を建設・運営できる状態にはない。まず政府が主導して道を開かねばならない。
そう締めくくっています。
明治初期、技術にしても対外交渉にしても、知識やノウハウや資本力のある民間はほとんどありません。今ならばいくらでも事業を委託できる民間会社がありますが、明治にはそうしたリソースはありませんでした。全て、官が主導して行わなければなりませんでした。それだけ、明治政府の実務者たちの責任は今の公務員とは比べ物にならないほど大きく、広く深い能力が要求されたのでした。大鳥等実務者はその開発の最前線にいつづけたわけです。

そうしたことが、大鳥の「興国三策」から、ありありと読み取れました。
ただ楽しそう、というだけでは無論ない。国に何が必要か、民の富に何が効果的かを読み解いた、大鳥の献言でした。


それで、第1回目でも触れましたが、「小生此順風邪引就中筆記」の一文。
風邪を引いて職務を休んで、書いた文。病気で頭が働かないときに、こうした文章が書けるというのは、凄いというか、なんと言うか。

時期的には、ほぼ間違いなく陸軍省出仕中に。軍のぐの字も出てこないこの献言。
一方で、陸軍所属の際のことを、洋行時の上司の吉田清成に、「思は甚だ不本意」と手紙で愚痴っていた圭介。
そんなに陸軍省への出仕が嫌だったのかと、勘ぐってしまします。
まさか仮病で家に引き篭っていたのではないでしょうなと、心配になってしまいました…。

それが杞憂としても、仕事を休んで寝間に篭り、妻の目を盗んで、布団の陰でコソコソ殖産興業の献言を書く夫。想像するとかなり笑みがこぼれます。

いやその、要するに大鳥は、机上の空論家ではなく、殖産興業で必要とされるものへ、こんなに鼻が利く人だったのだ、こんなに現実的に可能なように物事を考える人だったのだ、ということが言いたかったのでした。
それがあらわせたかどうかは甚だ心もとないですが。それ以前にこのテーマで関心を示してくださる方がどれほどいるのか。

気にしても仕方が無いので、己は己の道を行きます。
とりあえず、今はインド人に理論武装して勝てるだけの明治人の知恵と根性が欲しいです。
ネズミや停電で、ぐちぐち言っている場合ではないです。
posted by 入潮 at 04:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ひこにゃんと著作権

喝采しました。

はな。さんがご紹介下さっているひこにゃん像。思わずプリントしてしげしげ眺めてしまいました。

ひこにゃんが、ミッ○ーを、ぶった切っています。
笑いが張り付いたまま斬られているミッ○ーが、何ともいえません。

ひこにゃんは、400周年を迎える彦根城の記念キャラクター。脱力と力強さという相反する要素を同時に内包していて、一部で大人気のようです。

思うところのある会社は、世にいくつかあるのですが。
子供達に夢を売るとしつつ、裏ではひたすら自社のキャラクターの著作権による権益を追求しているディズニー社は、その一つです。


ディズニー社のコピーライトへのこだわりは異様なほどで、たとえばCMや映画でモブの人間が着るTシャツのプリントにも、ディズニーのキャラクターが出てくることを許さないらしいです。こちらによると、キャラクターのシルエットだけでも訴えられるという話もあるようです。

ディズニーにとって、キャラクターグッズによる収入は死活問題。米国の著作権法(1976年)では、著作権の保護期間は著作者の死後50年、あるいは発行から75年までとされていました。しかし、これを1998年に20年間延長させたのが、ディズニー社の活動によるものでした。というのも、ミッキーマウスが始めてキャラクターとして登場したのが1928年。この著作権が切れるのが2003年。ディズニー社は著作権による権益にしがみつくために、アメリカの法を変えたという認識があります。この1998年の改定は、「ミッキーマウス保護法」などとも揶揄されているとのこと。一企業の権益のために変えられる法とは何ぞや、と思います。

大鳥は、特許について、永年のものではなく、再登録ごとに手数料を高くして、こうした権益の独占をしにくくするよう提案していました。明治人のほうがよほど考えることがまともではないかと思います。

一方、著作権保護を延命させてまで、キャラクターによる利権を貪っている企業ですが。そのくせ、自らは「雪白姫」「シンデレラ」「ピノキオ」の童話など、すでに著作権の切れた他人の著作物をキャラクター化して「商品」として用いています。
童話など、すでに一般に著名な材料を用いて、キャラクターとして作品を作るほうが、全く一から自分のオリジナルとして始めるよりも、よほど作品売れるというのは事実です。童話の一般性におんぶだっこして始められるですから。まったくの創作に比べると「ずるい」です。
(これは歴史小説で有名人物を登場人物にする際なども同じと思いますが)

さらに、日本発の著作物についても、「ジャングル大帝」や「ふしぎの海のナディア」を、ディズニー社が盗用しているのではないかという疑惑が上がっています。
それについては、こちらのサイトが詳しい。ファンは、文化の侵害だと怒りの声を上げています。

そして、上のサイトの「詳しい情報」へのリンクにある記述。

「数年前とある小学校(滋賀県大津市?)の児童が卒業記念に、プールにとあるディズニーのキャラクターの絵を2ヶ月ぐらいかけ描いた。ところが、ディズニーがその事実を知り『著作権の教育上必要な処置』として、その絵を塗りつぶさせた」

…大津市といえば、彦根とは琵琶湖の対岸仲間。同じ釜の飯ならぬ、同じ湖の水を飲む中。
ひこにゃんは、この復讐を遂げてくれたのでしょうか…。


なお、手元の電子辞書「英次郎」には、以下の通りあります。
Mikey Mouse:

【名-1】ミッキーマウス(のイラスト[アニメ・漫画・映画])、古くさいこと[もの]、時代遅れのこと[もの]
【名-2】単位の取りやすい科目[講座]、たやすい科目[講座]、楽勝科目、楽勝講座
【名-3】素人仕事、急場しのぎのおっつけ仕事
【形-3】陳腐な、つまらない、くだらない、ばかげた、取るに足りない、無意味な、たわいのない、安っぽい、質の低い、低品質の、ちっぽけな、けちくさい ・What is this Mickey Mouse shit?

英語圏の人々の、"Mickey Mouse"という言葉に対する認識が、伺えます。

確かに感動や興奮と癒しのエンターテイメントを与え、これを消費と結びつかせたウォルト・ディズニーは偉大だったと思います。

けれども、そろそろ、先人の生み出した偉業にしがみついて、法を変えさせてまで金儲けをするのは、見苦しいのではないでしょうかといいたくなります。


さて、恐ろしいことに、こうした過程で成立された著作権保護期間延命に、日本でも追従しようという動きがあります。理由は「欧米諸国において著作者の権利の保護期間が著作者の死後70年までとされている世界的趨等を踏まえて」だそうです(2005/01/24、文化審議会著作権分科会)。まったく、やるせない限りです。

図書館などで、探し回ってようやく手にした資料について、「死後60年『しか』たっていないから半分しかコピーできません」と言われたら、私は悔し泣きします。

こちらでもつらつら述べたのですが、自分は著作権の切れた著作はどんどん利用したいと思いますし、著作権のある作品でも、フェアユースの概念がもっと広がって欲しいと思っています。

共有されたほうがよい情報・知識があるのは確かです。むしろ、知識の利用の利便性と、それを共有できる度合いが、その国の文化程度を決定すると自分は思っています。
牽強付会するわけではないですが、歴史資料に触れる方なら、おそらく同じような意識を持つ方も多いのではないかと思います。


その点で、あのネズミは、過去の記録というかけがえのない財産の共有を阻害する、害悪の象徴だと自分は思っています。

ですので、ひこにゃんが、そのキュートな面で、公共の利益を阻害する者をぶったぎった姿をみて、なんだかすっきりしたものを感じてしまったのでした。

あ、刀に血が…。
たしかに残酷でブラックで、それを賞賛するというのも憚られるものがあるのですが。
ひこにゃんの、脱力系の顔が、そのあたりの感覚を絶妙に緩衝していると思います。


という感じで、ディズニーのファンの方には大変申し訳ない罵詈雑言となってしまいました。心情を害されましたら、お詫びいたします。

……昨夜の停電の恨みを、ネズミにぶつけているわけでは決してございません。…多分。
ラベル:著作権
posted by 入潮 at 16:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月22日

タイの夜

暑いです。
ねっとりと、暑いです。
そこにいるだけで、じんわりと汗にの浮かんできて、気力が汗とともに霧散していく大気。

もーいいよ。だらけようよ。あとで考えようよ。食って寝ようよ。
そういう感じの惰性がとても強くなる、生ぬるさ。

これがタイ。
この空気が大好きです。

そういうわけで。現在、出張の往路にあります。バンコクです。
明日はブータンに飛びます。

今週は出張準備もありまして、まったく余裕がありませんでした。
新しいプロジェクトなのはいいのですが。インド人の相手は疲れるわ。新しいソフトはわからんわ。データの構成がどうなっているのかさっぱりだわ。読まねばならない資料は10センチ単位だわ。ビザは間違っているわ。飛行機のチケットはとれんわで。
もちろん帰宅は午前。
いい加減頭痛に苛まれて、家に帰っても気力体力がなく。コタツに入ったらそのまま意識を失っていつの間にか朝、という毎日でした。

それでも、飛行機の中でどっかりと寝て、タイの空気に浸って、タイスキ食って、マッサージしてもらったら、すっかり回復しました。
現場に出ると復活する。東京生活がいかに心身を苛むか。江戸は好きだけれども東京はもういやだと、たわけたことを思います。

タイも、毎回、くる毎に変わります。
10年ぐらい前にバックパッカーとして来たときは、ひどい渋滞で、ガスマスクをした警官が必死で交通整理をしていて、スクンビットのあたりが異様に近代都市として開けていて、そのほかは半ばスラム化した屋台に人がひしめいていたイメージでした。

今回は、まず空港が新しくなっていました。
Suvarnabhという、どういう読み方をするのか良くわからないお名前の空港。
首都の国際空港というと、その国の国力を現す顔のようなもので、空港を見ると大体その国の経済力がわかるもので。

広大な地に、お台場のような近未来的な様相。カマボコ状の飛行機ドッグに、建築としてどこまで必要なのか良くわからない鉄パイプのデコレーションの屋根。ターミナルも天井が高くて広くて、「贅沢に空間を使った」とでも形容されるものかと。
空港の外には、トヨタやいすゞやベンツの新車のリムジンがひしめいていた。

そこかしこに巨大液晶ディスプレイがあって、為替もニュースも到着便も、リアルタイムに情報を表示している。韓国のサムソン製が多い。

これを維持するだけタイは力をつけたのだ、という威信をかけた空港だな、という感じでした。

泊まったホテルの近くにショッピングモールがあったので行ってみました。
メイドインタイランドのモノがあふれている。服飾品の価格は、地元の所得を考えるとかなり高く、日本のユニクロなどのほうがずっと安いぐらい。
フードコートにはタイ風のファーストフードが立ち並ぶ。タイスキや中華は行列ができている。腹いっぱい食って1000円ぐらいと、かなり高い。

こうしたモールは大人気らしく、その周辺の道路は渋滞、買い物客のタクシーや乗り合いバスがひしめいている。

1日空港と市内を見て回っただけですが。タイの人たちの購買力がどんどんあがっているのだな、という感じでした。

もちろん、東北タイなどに行けば、今も変わらない農民の生活があるのだと思います。

こういう、変化の只中にある国は、独特のエネルギーがあります。
発展が必ずしもいいことではない、ということは、環境保護という言葉が好きな人はよくおっしゃいますけれども。
上の変化があって、下層の生活が引っ張りあげられるということは、事実だと思います。
タイの周辺一帯に及ぼす影響力は強くなる一方で、ラオスやカンボジア、ミャンマーなどでもタイバーツが通用したりします。バーツ文化圏という言葉もあるぐらいで。

お隣の国のご機嫌伺いも大事ですが。
こうした伸び行く国とのお付き合いも大切にしたいものだと思いました。

ちなみに、公的に日本にタイが紹介された初めての記録は、「暹羅紀行」By工部省大鳥圭介、でした。(非公式にはいくつかあったかと)

ここで暹羅紀行の中身に入っていければ良いのですが。
内容はデジタルライブラリ参照、ということで横着をします。
明日4時起きなので、寝ます…


そんな感じで、またネットアクセスの難しい地域に入ります。
ご紹介したいネタはいくつかありますので、頻度は下がりますが、まとめてポストしたいと思います。飲んだくれてなければ。
posted by 入潮 at 02:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月29日

ブータンの変化

飲んだくれていました。

いつもの言い訳ですが。標高2500m、気圧約700mb。通常の約70%程度しか気圧がないため、酸素が薄く、酸素を取り入れる量が少なくなる。そうすると、眠りが浅いとか、睡眠時間が増えるとか、頭が働かないとか、酒の周りが早いとか、いろいろ影響してきます。

要するに、空気のせいで、酔っ払いの怠け者になっております。はい。

という感じの、ブータンです。ちょうど1年ぶりぐらいです。
前回離れた際、もう来ることはないと思っていたので、空港に降りたときは懐かしく感じました。数えてみたら8回目でした。

平地のない国なので、滑走路や航行経路もぎりぎりに設計されています。
ここの国営航空会社は、国家予算に比する額を費やして、新規にエアバスを2台購入しました。以前から、飛行機の翼が谷間をかすりそうな勢いで谷の滑走路に進入していましたが。
機体が大きくなったためにさらにスリリングになっています。窓を見ていたら、翼が、稜線の家をなぎ倒すのではないかと思ってハラハラしました。
ここのパイロットは、ビルの間を抜けていく昔の香港空港パイロットか、空軍並の腕が要求されると思う。

それで、ブータンですが。
タイとは比類のないほどに変わっていました。


● 王様が変わっていた

皇太子殿下が王様になっていました。
予定では王位譲位は2008年だったけれども、より早期に統治経験をつませたいという前王様の意向により、早められたとのこと。

未婚ながら、新国王にはすでにお付き合いしている人はいることは知れ渡っている模様で、秘書がその家を教えてくれた。結婚は来年以降。これは、今年は暦の上では"Black Year"という、国の厄年のようなもので、結婚や大掛かりな公共工事などは行うべきではないとされているため。

飛行機ですぐ前の席にいたり、数少ないカフェでケーキを食べていたら隣に座っていたりで、挨拶しただけですけれども、結構身近なお方でした。もうあまり街でお見かけすることはないのでしょう。
ここだけの話ですが、最初見たときは、ずいぶんと色の白い優男な感じの方で、その手の人に好かれそうな人だなぁ、という不届きな印象を持ったものでした。

前国王は、流入しまくるインド経済に抗うように、仏教護持や民族衣装着用など伝統文化の維持に努めて、自分の王権を小さくして民主化を進めた方。「国民総生産」ではなく「国民総幸福量」の指標を用いたのは有名。実際におととしの国勢調査では"Are you happy?"の項目がありました。2008年の国民投票を置き土産にして退位されました。

前国王が英明な君主として名高い一方、インド・中国の大国にはさまれて国としての立場が難しくなっていく状況で、どういった王様になられるか。注目されます。

● 紙幣も変わっていた。

王様の譲位に関連してだと思います。紙幣がずいぶんと小さくなっていました。森林資源を大切にするブータンらしいというか、なんと言うか。
巨大な曼荼羅が刻まれ、持っているだけでご利益のありそうな1ヌルタム硬貨が、そっけない紙幣に変わっていたのは、ちょっと残念でした。


● 道路工事、建設工事

ブータン総工事中、というと言いすぎですが。どこもかしこも建設工事中。道路のいたるところで建機でガツガツ斜面を切って道路幅を広げている。乾いているので砂埃がひどい。厄年も何のそので、ブータン中を掘り返す勢いです。ちなみに今年に入る前に開始された工事については、今が厄年でも別にかまわないとのことでした。

空港のあるパロから首都ティンプーまでは1時間半ほど急峻な山道を走るのですが。この道路も全ての区間で工事中。施主がインドの軍だそうな。

道路は物資を運び、人の移動を支える唯一のインフラ。道路が無くては何も動かない。都市の人は明日の米すら手に入らなくなる。

その自分の国の道路を、他国の軍に作らせるというのは、国としてどうなのかと思ってしまいました。あたかもインドは、ブータンを自分の州の一つとでも思っているかのような振る舞いで。経済も軍事ももはやインドに依存しているブータンにしては、やむをえない、というところでしょうか。

それでインフラを手に入れながら、国としての文化的なアイデンティティは強めていこうとしているあたりは、ちゃっかりしていると言えなくもないのですが。

● ネットが無料に

ここの所得を考えると結構な金額だった国営プロバイダのインターネットの接続料金。これが、なぜか無料になっていました。民間が参入してきたから、とのことでしたが。
無料化すると当然ながらアクセスが殺到する。つなぎっぱなしになる。結果、ただでさえ細い、軟弱な、不足しがちな回線が、まったく繋がらなくなる。繋がってもブチブチ切れる。
これが、使用者たちのかなりのストレスになっているようで、新聞の見出しに、"free, but slow" と、でかでかとありました…。

だから更新が進まない…というわけではないのですが。

近いうちに、月3000円ほどでADSLも導入されるようで、そちらも検討してみたいと思います。ただし、通信のダウンロード量に、1GB/月の制限があるそうな。ダウンロードの容量制限だなんて、聞いたことがないぞ…。

● 模擬国民投票

近いうちに国民投票が行われるのですが、その事前の「練習」として、mob electionという、模擬投票が行われていました。
選挙をしたことがなかったわけなので、国民に選挙の意味とやり方を知らせるのが目的。
その投票内容ですが。「青い龍、赤い龍、緑の龍、黄色の龍、どれがいいか」だそうで。
…なんというか。もともとブータンは雷龍の国と言われ、国旗や紋章など皆雷龍をあしらっているのですが。せっかくやるのだから、ちょっと世論を把握できるような質問項目にしたらいいのに、と思いました。いや、差しさわりのない項目だから良いのか。

それで、字のかけない人が、歩いて何日もかかる山中からわざわざ投票しにくる。その彼らの判断基準の多くは「友達や兄弟が入れるのと同じにする」のだそうで。
…先は長いかもしれない。

● 県境も変わっていた

それで、国民投票のおかげで、行政区画が変わっていました。郡が別の県の所属になったり。これは、県の端っこにいる人は、遠距離を延々歩いて投票に行かねばならないため。国民の動かねばならない距離を少なくするために、わざわざ行政区画を変えたわけです。それはそれでよいのですが。おかげで、激しく仕事が増えました。地図境界も村落IDも全部変えなければならないのか…。


● さらに、国境が変わっていた

これが、衝撃でした。ここまで変わらんでも、と思いました。

ブータンの北部のガサ県のうち、東部が中国に奪われてしまっていました。奪われたと言う言葉は適当ではないかもしれないけれども。
県庁まで道路から丸1日かけて歩いた、以前に訪れたことのある県だけに、かなりショックでした。

もともと、該当のチベットの山岳地方には、誰も住んでいなかった。
よって、国境の位置は誰も知らず、位置を明確にするような建造物もなく、ただ地図上で定められていただけだった。

そこで、先に中国が国際機関へ領土の登録を済ませ、その後で派遣団が来て、すでに権威付けされているとうことで無理やり領土を決めていったとのこと。

人は住んでいなくても、その地域は希少植物や薬草の宝庫。遊牧民が採取した薬草は中国国内に高く売れ、密輸出が盛んに行われていた。それで、リッチになった未電化村の村人が中国製の太陽光パネルやバッテリーを購入していたりしますが。(ブータンと中国に正式な国境は無い) 中国にとっては、今回獲得した地域は、宝の宝庫だったわけで。それだけの富が、ブータンから中国に流れてしまうことになる。

さらに中国は、「国境の寺」という意味のある名前の寺があることを理由に、ティンプーやパロの北部も要求していたそうですが。ブータンはそれは何とか退けたとのこと。

で、日本のガイドブックには、ブータンの面積は前は「九州の1.1倍」と表記されていたのが、今は「九州の0.9倍」となっていました。つまりは九州の20%に値する地域が、中国の手に渡ったことになります。
ただでさえ極めて小さい小国が、さらに国土を奪われてしまった。

住民の有無が領土を決めると言うのは、日本の国境問題でもよく取りざたされていますが。国際法を知り、外交慣れして、ごり押しを恥を思わない国が勝つというのは、幕府の不平等条約の締結を思わせます…

こうした外交に対してモノをいえるのは、結局は軍事力なわけで。それで、軍事力もインドに依存しているブータンには、何もいえなかった。

新王を迎え華やいだだけではなかった。国民の無念さが思いやられます。


そんな感じで、不在の1年間、ブータンは激動の只中にありました。

それでも、ブータンの伝統建築の醸すほのぼのした町並みや、ため息のでるような水田の美しさは変わっていませんでした。

外国人の身勝手なノスタルジーに過ぎないのですが。そういう自分もまた変化をもたらす側の輩ではあるのですが。

やはりこの、ほっとする空気はかわってほしくないなぁ、と思うのでした。


えっと、久しぶりのポストがこれですみません。次は何かしら幕末明治ネタで行きたいと思います。
ラベル:ブータン
posted by 入潮 at 02:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。