2007年06月01日

内国勧業博覧会と大鳥圭介書画その1

圭介書画です。
(画像をクリックすると大きくなります)

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桑麻鱗介又牛羊
木石金銀相桔頑
三百年前兵馬地
化為衆芸競争場

博覧会 為緒方先生

如楓圭介



意訳:
繊維、桑(養蚕:麻類、製品、大麻、苧麻などの繊維製品)、食料品、魚類、貝類、又は牛、羊、羊毛(製品・革)、鉱物資源、金銀。
これらそれぞれの用途に応じた加工物が多く出品されて、この会場は盛んに賑わっている。そしてお互いに競い合っている。思えば三百年前はここは兵馬の地であり戦乱の場であった。今や代わって、それぞれの製品、もろもろの芸を競争する場となった。

緒方先生に捧ぐ。



「為緒方先生」というのは、大鳥の適塾時代の師、緒方洪庵先生と見るのが妥当ではないかと思います。勿論、洪庵先生は戊辰戦争前に亡くなっているので、或いは洪庵先生のご子息の、嗣子の惟準氏かあるいは惟孝氏、惟直氏のどなたかに宛てたと見てもよいかもしれません。

解読してくださったのは、上郡ご在住の書道の先生です。大鳥圭介の話を幼い頃から聞いて育った方。叔母様が大鳥家に嫁入りされたとのことで、日清戦争の後、下関条約の調印の際に大鳥が用いた硯を受け継ぎ、大事に所持されているという方です。

実は大鳥、同じ詩を他にも書画に読んでいます。緒方先生の為書きの無い、同じ詩のものもあります。それを上郡地元の昆虫館の方が「桑」の字があることから何か地元と関係があるかもしれないと購入されて、ちょうど偶然、同じ詩をその書道の先生が調べておられたばかりでした。

もう一つの書画については、おらが村さんがご紹介くださっています。

もう一つの書画では判別不明の字があったそうなのですが、こちらと対比させることにより、全文が判明したとのことでした。

先生は既に90に達するご高齢でおられまして。大鳥の書を解読するのにも、街の図書館まで酸素ボンベを担いで、字を調べに行かれたそうです。

解読にかける、半ば命がけの熱意には、本当に頭が下がります。

「おらが村」さんも、大鳥圭介を周知させるための地元イベント開催してくださったり、生家の保存に心を砕いて下さったり。

すべては草の根ベースのボランティアで、ご自身の時間と労力を割いて下さっています。無論観光収入になど繋がりません。費用も手間も、全て自前です。地元の方々の無償の努力には、敬意が沸きます。

(一方で、テレビや小説などメジャーなメディアで、一度極端な像が流布されてしまうと、それが簡単に広まってしまう。そうすると、こうした地元の方々の思いも甲斐のないものになってしまうもので。実在人物を扱う際はこうした想いもあるのだということを、メディアの方にも知ってほしいと感じます。客観的な根拠のあることならまだしも、空想やでっちあげでイメージを貶めるのは、そろそろ勘弁して欲しいなぁと、切に思います)


それで、詩の背景ですが。

この詩の「博覧会」というのは、第五回内国勧業博覧会のこと。
1903年(明治36年)、大阪の天王寺で開催されました。
五回にわたって開催された内国勧業博覧会の総決算といえる、出展者数、入場者数、敷地面積ともに、それまでの規模をはるかに超える、最も大規模な博覧会でした。

「内国勧業博覧会」とは何ぞや?ということですが。

我々が子供の頃から親しんできたいわゆる「万博」の、明治の国内限定版と考えるとしっくりくるかと思います。

まだまだ黎明期にあった日本の産業を育成、振興させることを目的に、在来の産業や欧米からの導入産業の製品を官・民間から募り、大規模に展示して一般に発表したものでした。
目的は、産業を比較検討し、改良・増進させ、一般の産業技術を高めることにありました。

様々な資源、様々な材料、様々な製造品、様々な産業。
第五回内国勧業博覧会は、いわば、殖産興業の集大成といえるものでした。

大鳥は、第一回、第二回で審査部長、第五回では審査総長となっています。なお、第三回は清国駐在特命全権公使として不在、第四回は朝鮮国駐剳公使として準備期間は不在。もし国内に居たら、やはり何らかの形で関わっていたのではないかと思います。

大鳥にとって内国勧業博覧会は、開拓使・内務省・工部省と出仕を重ね、殖産興業のために身を粉にして働いた、その成果の目に見える証だったのではないかと思います。
実際に工部省の分局(工場)から出展されたものを審査するなど、手前味噌気味なこともしていましたが…

その大鳥が、内国勧業博覧会を詩に詠み、亡き洪庵先生、あるいはそのご子息に贈った。

その意味を、色々とかみ締めてしまいます。

……と、ここで、明日ある身ゆえ、中身は先送り。明日、続きを行きます…。
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2007年06月06日

日光柿沢シロヤシオ参りその1

はふー、生還。

概要。

◆ 場所:日光鉢石町、六方沢

◆ 走行距離: 430 km(内240km高速)

◆ 目的:
1. 柿沢勇記の墓前で「本多幸七郎並びに会人垣沢某も深手なれば、相談相手もなく甚だ困却せり」を朗読する。
2. シロヤシオの下で「深山日暮宿無家 枕石三軍臥白沙 暁鳥一声天正霽 千渓雪白野州花」を暗唱する。

◆ ルート:(首都高)→(東北道)→鹿沼→(例幣使街道)→今市→日光→霧降滝→六方沢→栗山村→家康の湯→奥鬼怒林道→山王峠→戦場ヶ原→奥日光湯元温泉→中禅寺湖→いろは坂→今市→(日光宇都宮道路)→(東北道)→帰宅


ということで、帰国早々、性懲りも無く行ってきました。ツーリング。
もはやバイクは柿沢のお墓参りとシロヤシオのための足。ツーリングは目的ではなく手段となってしまっています。


● 例幣使街道

首都圏の渋滞をパスするために、今回は高速を使いました。宇都宮を通って日光まで、ダイレクトに高速は伸びているのですが、日光まで行かず、鹿沼で降りました。

例幣使街道を通るためです。

例幣使は、もともと朝廷から伊勢神宮へ奉納のために派遣されていた勅旨のことでした。これが、日光東照宮の例大祭の祈りを捧げ、幣(ぬさ)を東照宮に奉納するために、京の朝廷から派遣された勅使のこととなりました。
この例幣使の行く街道が、中山道かの倉賀野から梁田、栃木、合戦場を通り、鹿沼から今市、日光へ伸びています。この日光例幣使は、1647年より慶応3年まで派遣されていたとのことです。

このうち、鹿沼から日光までの、国道121号・119号は、色濃い日光杉並木に囲まれ、全国でも一番好きな道の一つです。

樹齢を重ねた木というのは、それだけで荘厳で清浄な力をまとっているように感じます。この道を通ると、なんだか体中の血液が膜で漉されてきれいになっていく気がします。

例幣使街道。

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ちなみに、この例幣使は、権威をかさに来て柄が悪く、駕籠をゆすって駕篭かきの人足から金を出せと脅したり。これが「ゆすり」の語源になった、とのことです…。

● 今市

街道を抜けて今市へ。商店街は昔ながらの町並み、店が連なっていて良い感じです。今市の荒物店で、お墓参りのためのお線香を買いました。日光産。森林浴の香り。
日光杉はその香りから昔からお線香の材料とされていましたが、今は東南アジア産のものに押されて、価格競争で勝てず、線香産業はだいぶ廃れてしまったとのことでした。

近くの東屋にこんなところが。
おいしい(水道水)いまいちの水。

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「いまいちの水」とひらがなで書いてしまうと、なんだか意味が違ってしまうと思います。
そして、わざわざ「水道水」と書くところもなんとも。「天然水」に比べると、有難味が薄い気がします。でも、正直で良い感じです。

● 日光柳営博物館

以前から気になっていたので、今回寄ってみました。

119号を今市から日光へ向かう途中にあります。住所は日光市野口598-1。
入場料は一般500円、学生300円。休館日は水曜。開館は冬期16:00まで、夏季17:00まで。私営の博物館です。

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柳営とは将軍家、幕府のこと。例えば「柳営補任」は幕臣の履歴書です。
日光での柳営、というからには、さぞや旧幕府由来の品々があふれている事だろうと期待して訪れてみましたところ。主な展示物は、茶壷・茶道具でした。

館主さんがご趣味で、長年、大名の所持していた茶壷を集めておられたとのこと。そのほか日光に献上された御茶壷や諸大名の古文書が展示されています。

ここで、驚きのものが。

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明治二十五年の、榎本武揚の巨大屏風です。雄渾ながらきっちりした筆遣い。迫力のなかに秩序がある感じで。榎本さんのスケールの大きさと緻密な性格がうかがえます。ここまで大きな生の字を間近で拝める機会も滅多にないかと。

榎本さんが東照宮へ献上したものだとしたら、感慨もひとしおだなぁと思い、館員さんに由来をお伺いしたのですが。
茶道具を集める過程で、茶道具だけではなく関連の家財なども一緒に購入していたので、その一つだろうとのこと。
大名は色々と困窮した方も多く、家財道具を処分する際に、まとめて売りに出していたそうです。
榎本さんの筆跡が、売りに…。
いや、おかげで今の世に直接目にできたのですから、それは僥倖というべきか。

二階には茶室、茶道具が展示されています。四畳半の茶室はとても落ち着く雰囲気です。予約すればグループでお茶会を催すこともできるとのこと。五時間一人2000円。展示物の茶道具を主人(館長さん)が選んで使用させていただける。流派を問わず名物茶道具で点前が楽しめる、とのことです。
茶の湯に興味のある方は、とても貴重な体験ができるのではないかと思います。

あと、二階に飾られていた巨大な写真。

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大山巌、山縣有朋、野津道貫、黒木為?、乃木希典…。
明治陸軍の超豪華メンバーでした。しかも恐らく名前は本人の直筆。どういった由来でこちらにあるのかは、聞きそびれました。

他、松平容保の若かりしころの写真と日光東照宮宮司時代の写真、徳川家達の「忠愛」の書、徳川慶喜の晩年の写真と和歌なども展示され、小さい博物館ながらも、見どころたっぷりでした。

写真掲載は日光柳営博物館さんに快くご了解いただきました。感謝。

ちなみに、この柳営博物館の少し手前、今市側の東武日光線の線路の側に、旧幕府陣地跡の「野口十文字」があります。塹壕の跡もあるとのこと。次に来たら行ってみよう。


…そんな感じで。まだ、柿沢の墓までたどり着きません。

ツーリングに出たのは先週土曜日でした。書き始めた際は当日にアップしようと張り切っていたのですが。疲れてダウンしました。

報告書の締め切りが近いのに無理をして出てしまったので、今しわ寄せが来て、残業に追われています。眠い。なかなかポストを纏めるようになりません。
亀の歩みですが、ぼちぼちいきます。
posted by 入潮 at 03:18| Comment(3) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月13日

日光柿沢シロヤシオ参りその2

報告書終わり、一息つけました。
今回は1年に5回の報告書提出があるので、年中こんな感じで追われています。

日曜日休めたので、バイクと自転車の整備をしました。
自転車にはスピード・オドメータをつけてみました。タイヤにマグネットとセンサーをつけて、センサーが磁力から回転数を計り、タイヤの回転数からスピードと距離を読み取る形式。調整が難しくて2時間近く格闘したけれども、取り付けOK。何km/hまで出せるか。通勤がまた楽しくなりそうです。

月に1日でも、こういう休みがあるといいなぁ…。


前回、日光柳栄博物館で、茶壷に触れたのですが。
大名の茶壷について追記。

藩主が幕府より茶壷を賜る。
これは一見、ものすごく栄誉なことに思われるのですが。これには別の意味があるそうです。

とっとと俗世を捨てて茶三昧の生活に入れ。
つまり、さっさと隠居して後代に家督を譲れ。

そうしたメッセージが込められているのだとか。
実も蓋もない感じです。

贈り物、もらったからといって素直にあり難がるわけにはいかない。こうした意味ある贈り物も、格式社会らしくて、面白いです。


さて、日光ツーリング、続き。

「あらたふと 木の下闇も 日の光」

元禄2年(1689年)の4月1日、日光東照宮の参拝を終えて鉢石町に宿泊した、芭蕉の句です。

なんと尊い事だろう。木の下の闇にも、日光の光が挿し、東照宮の威光が感じられる。

そんな感じの句でしょうか。
日光市役所近くの旧家高野忠治氏邸に句碑があります。

その東照宮のお膝元。
日光宿場町の、鉢石町。
東照宮から徒歩で10分〜15分ぐらいです。

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勝道上人が、托鉢の際、持ち歩く鉄鉢(弁当箱)を岩盤の上におき、常に日光連山を拝したことから、その岩を鉢石と呼び、この地を鉢石宿と呼んだのだそうです。その岩盤・鉢石は、指定文化財として遺されています。

ここは、旧幕軍が日光に拠ろうとした際に駐屯した地。
そして、伝習隊参謀、柿沢勇記が亡くなった地でもあります。

柿沢については、會東照大権現の亜樹様が史料を駆使して詳しく記して下さっていまして。今更自分が何を足せることもないのですけれども。

ずっとお墓参りには行きたいと思っていたのでした。
未だ係累でも何でもないのにお墓参りというのは、招かざる客が押しかけるような気がして気が引けるものがあるのですが。
具体的に柿沢の書簡や詩作などを見た事がなく、柿沢がどのような方だったのか、少しでも実感として掴みたかったというのがありました。

南柯紀行では、「二十八日、垣沢没せり、三浦木村に頼み鉢石町の上なる寺院に埋葬せり」(柿沢の命日は四月二十五日又は二十六日)

木村は五番小隊差図役並介の木村鎌之助か?三浦は伝修生徒にそういう苗字の人がいるけれども、詳しくは不明。会津の方と考えるほうが自然かもしれない。

大鳥圭介伝では「會津藩の垣澤勇記は遂に今日陣没したので大鳥都督は愁然として涙を流された、士を愛する事赤子の如く、死生共に一なるべきを記する都督の耳底に思ひも寄らぬ哀音は響いたのであつた」との記述。

赤子のような心で純粋に愛し、死も生も共に一つであろうとしたという。
大鳥がここまで一人の人物について強い感情を抱いた記述は、他に見ない。

ただし、この「士を愛する事〜」の記述は、「大鳥圭介野州落ち」という、装飾過剰な文調の明治44年の新聞連載小説にも見られる。もしやここから山崎氏が引用したのではないかとも危惧されたりする。一次史料を丹念に拾い読み解かれる氏の引用だから、この小説にもさらに元があるのではないかと期待したいのだけれども、今のところ原典となるようなものは見つからず。

いずれにしても、会津戊辰戦史の「大鳥深く痛惜す」の他、大鳥が柿沢を惜しんだ様子はいくつかの文献でも見られるので、大鳥の悲嘆に間違いはないと思う。

宇都宮で両足を打ち抜かれ、戸板で運ばれた柿沢。本多等他の怪我人は先に会津西街道から北へ送られたのに、もはや歩けぬ彼を軍に同行させた大鳥の心境はいかなるものだったのだろうか。

「本多並に会人垣沢某も深手なれば相談相手もなく甚だ困却せり」

「昨朝依頼の戦争引き続き危険なる山道八里ばかりも夜を侵して歩行したれば、人々疲労譬うるにものなし、疲■(ルイ)睡眠を催し夢中にて板布きたる往還を歩行し、最早一方も進むこと能わざりしゆえ、一農家の縁側に腰を懸け休息せしに覚えず横に倒れ臥し眠りたり」

大鳥は、信頼できる相手が次々に倒れ、無理な敗軍の行軍に、疲労困憊となる様子を書き綴った。


柿沢の墓は、鉢石町の観音寺にあります。
日光市役所のすぐに裏手で、市役所の裏側から行ったほうが近いです。
日光市役所の建物は、昭和初期まで大名ホテルというホテルだったそうです。レトロな外観が保存され、有形文化財に登録されています。(ちなみに今市と合併して中心が今市のほうに移ったため、今は日光庁舎と呼ばれている模様)

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この坂の上に、柿沢のお墓があります。


「戊辰戦争隊士の墓」

日光市教育委員会さんが、木製の碑を建てて下さっていました。

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「戊辰戦争隊士」という名称。派閥にとらわれない、一人の戦士としての姿を現してくださったようです。

説明書きは以下の通り。

「会津藩士で大鳥軍参謀の柿沢勇記重任の墓。慶応四年(一八六八)四月二十三日宇都宮の戦いで、(重傷)を負い同二十七日、日光和泉屋金右衛門方で死亡した。三十六歳であった」

奇しくも、柿沢は大鳥と同じ年齢でした。

墓は、苔が生して乾いていました。
今市で買った、日光杉のお線香をあげ、しばし黙祷。
ほのかな杉の香りと、静寂が、皮膚に染み入ります。

正面「柿澤勇記藤原重任墓」
左面「泰丘泰岳院久安道顯居士 日光観音寺葬
又 厚源院釋清佑居士 會津真龍寺江葬」
右面「慶応四戊辰年四月廿五日 於野州宇都宮城外戦死 行年三十六歳」
後面「會津藩柿澤勇八養子 森長蔵近好五男
森萬助一好 石堂留吉賢亘 建立」

会津の真龍寺の名が刻まれているということは、先に会津のほうにお墓が建てられ、その後で三浦さん、木村さんが葬ったこの鉢石町に、改めて墓を造ったということだったわけで。そうした過程も興味深いです。
森萬助一好氏は、柿澤の実家の係累の方だったのでしょうか。お父上と同じ「好」の字が入っていることですし。

柿沢の変名、「森三之丞」ですが、この実家の森家から来ているのではないかと思います。

さて、大鳥が南柯紀行に記述しているのは「垣沢某」。

あれだけ大鳥が心を預けた柿沢ですが。「垣沢」と漢字が異なり、名前は「某」としています。

これについてですが、柿沢と大鳥は共に過ごした時間は、実はとても短かったのではないかと考えています。
二人が会ったのは、脱走直前か、もしかしたら鴻之台での結集が初対面だったのではないかと。

というのも、大鳥は自分の部下は大体フルネームで書いています。
自分の管轄する人物なら、普通に仕事をしていたら、名簿作りや組織作り、書簡のやり取りなどで、部下の名前を自分で書く機会は多い。そうするとフルネームを記憶するようになる。

一方、各史料では、書く人間ごとに人物の名前の漢字が異なっていることは多い。これは、同じ組織に属していない人間については、記録者は耳で聞き覚えた名前に漢字を当てはめて書いていたからではないかと。
大鳥が各人に書かれる際も、「圭助」や「恵助」や「桂介」など、たくさんの異字が見られています。

よって、大鳥にとって「かきざわ」という名前は、耳で聞いただけであり、文書、文字で見る機会はなかった可能性が大きい。
つまり、柿沢は、大鳥配下の伝習隊組織の一員として正式任命される時間はなかったのではないかと思うのです。
それは、大川が後に作った死傷者名簿でも、集計後に後から2名の従者と共に柿沢の名が書き足されていたことからも伺えます。

「垣沢某」は、脱走直前か鴻之台で、柿沢が自己紹介で「かきざわです」と大鳥に名乗っただけなのだろうなぁと。

そう考えると、柿沢を埋葬した木村氏、三浦氏は、柿沢を知る会津藩士だった可能性が高いと思います。寺での埋葬には生年、諱を含めた姓名、家の名が必要になるでしょうから。

また、柿沢は、秋月登之助ら会津を脱藩して江戸で陸軍伝習を受けた組とも行動が異なる。
柿沢の、公用局という出自からしても、秋月らとは一線を隔していたように見受けられます。

もしかして、柿沢は、会津から旧幕軍に付けられた見張り、或いは間諜のような存在だったのでは…と思ったりします。

出会いが鴻之台としたら、宇都宮で柿沢が重傷を負うまで12日間しかない。
その短い期間の間に、大鳥が信頼しきった柿沢。

大鳥の参謀は、後にも先にも柿沢だけだったのではないかと思います。

この後「会人浮須、水島を参謀となせり」とありますが、この二人に大鳥が何かしら諮った様子は見受けられない。この二人の役割は会津との連絡係にすぎなかったのではないかと思います。また、柿沢と同じく負傷し大鳥が「相談相手もなく甚だ困却」した本多ですが、彼の役割としてはあくまで実戦隊長としての行動が、南柯紀行をはじめ各資料に見えるのみ。軍務に不可欠ながら地味な作業であるリエゾン業務・兵站・補給が判り、会津や他藩の情勢を読み解き情報提供を行い、軍の方針の決定について助言できたのは、柿沢ならではで、だからこそ大鳥は柿沢を無二の者として信頼したのではないかと思うのです。

いや、柿沢の公用局と洋学・砲術のバックグラウンドから推測しているだけで、確たる根拠はないのですけれども。

柿沢が居なくなって、大鳥がいかに困ったのか。
宇都宮〜山王峠に至るまで。疲弊と困却と餓鬼道の道程部分の南柯紀行の記述を、墓前で朗読しました。

頭に浮かんだ柿沢のイメージは「苦笑」でした。

…確かに、自分の奇行には、苦笑以外にどうしろ、という感じではあります。

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そういう感じで。柿沢について、なんら具体的な情報がつかめたわけではないのですが。
それでも、お墓に見えられたおかげで、柿沢がだいぶ立体的に感じられるようになった気がします。結局自分のイメージと会話している、危ない人に過ぎないわけなのですが…。


観音寺のお堂の正面には、以下の和歌が刻まれていました。

みちすじに まよはずいのれ はついしや かたきちかひのあるにまかせて

大鳥と柿沢に、「かたきちかひ」はあったのでしょうか。

後に大鳥は、最後まで会津を救援しようとあがき、仙台に落ち延びてからも松島の詩作どころではなく会津を案じた。その大鳥の会津への拘りを見ていると、大鳥はなにかしら柿沢から託されたものがあり、それを叶えられなかったのではないかという気がしてしまいます。

柿沢の死は、大鳥が新米総督から脱皮するための通過儀礼だったのではないかと思えます。

そういう思いを共に、観音寺を去ります。
東照宮方向へ進むと。

板垣像。でーん。

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素敵です。オーラが降り注いでくるかのようです。この、あふれる唯我独尊さ。負けず嫌いな正義志向者。自分が板垣に抱いていたイメージにこれほどぴったりなものが世にあったとは。余りに板垣が板垣らしくて、像の下で大笑いしてしまいました。

板垣を描いた錦絵もいろいろ凄いのはありましたが。私が勝手に持っていたイメージを三次元で見事なまでに表してくれた彫刻の作者は天才的というか。なにか繋がっているのではないかと思いました。これを造った新関氏の才覚は素晴らしいと思いました。
あの像の下でここまで笑い転げたのは、建像以来私一人だと思います。偉人を前にすみません。一般の観光客の方々に、何事かと奇異な視線を向けられてしまいました。

気を取り直して。

「板垣退助銅像:板垣退助は『板垣死すとも自由は死せず』の名言で知られる明治の政治家。明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐出身。明治元年、戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和四十二年に再建。彫刻家、新関国臣の作」

と立て看板。
観光案内版には「この銅像は戊辰の役の登晃した時の英姿」とあります。

…一言いいですか。

「日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し」

→ 大鳥ら旧幕軍は、日光に立て篭もっていない。参拝しただけ。宿陣していたのは今市と鉢石町。

→ 大鳥は別に板垣に説得されたわけではない。日光奉行の新庄右近に、大人数で駐屯されると米も塩も少ないので地元民が大迷惑、ここで戦争されたら僧も迷惑、と嫌がられ。松平太郎が持ってきた書簡では徳川家参政から戦争を諫められ。更に、日光に潜居していた板倉勝静親子に、家康神廟に血を注ぐと忠誠も却って水の泡になると諭され。「たとえ弾丸が神廟にぶちこまれても、よんどころなし」と逆切れしてタンカ切ったはいいものの。結局、弾薬兵糧の蓄えもなくて持久戦に不具合なので、いろんなことが重なって、大鳥が自分の判断で日光から出て行っただけ。

更に言えば、別に板垣も、日光を兵火から守ろうとしていたのではない。

四月二十六日、板垣→東山道総督府宛お手紙(「復古記 東山道戦記」より)

「徳川社稷の儀は立ち置きなされ候との御主意の処、その宗廟を兵乱にかけ候儀恐入候えども、賊徒擁し居り候上は、用捨し難く御座候間、その御聞き取り下され度候」

…東山道本部から、神廟には手をかけないようにとの通達。これに板垣はが、賊徒が日光に篭ったら捨て置くわけには行かない、攻めるから承知してねー、と返事しているわけで。
この人、日光を攻める気はモリモリあったわけです。
単に、旧幕軍に天然の要塞日光に篭られると攻めるのが面倒なので、旧幕軍を追い出そうと工作したわけで。この工作は、日光の末寺である飯塚の大林寺住職厳亮を、板垣が日光へ派遣したこと。この厳亮は日光に入ると同時に旧幕軍に捕えられて、山中に幽閉されたので、結局、工作になっていなかった。

一方、日光からは、衆徒(僧)の桜本院と安居院がの二名が、土佐軍監の谷干城に「御進軍御差止下されたく」と懇願。谷は「貴僧如何計り懇願すとも、賊を篭りたるを知りながら、私に軍を止む事は出来ず」と突っ返した。ただ、神廟に放火するのは忍びない、大鳥圭介に進んで官軍に当たるか軍門に下るか決めよと通達した。(谷干城、東征手記)。で、この二僧は大鳥に谷との会談内容を伝えたとのこと。

更に、旧幕軍には、今退くと官軍は必ず日光を焼くから、ここで守るべし、なんていう意見もあった。(慶応兵謀秘録)

結局、日光が戦火に包まれるのを回避したのは、大鳥の決断だったということでしょう。決断といっても、糧食なく弾薬なく、というのが一番の理由だったですが。

なお、閏四月一日、日光に進攻した土佐軍。大鳥軍が山道を越せないと残留させた負傷者を、光栄坊で虐殺しています。軽傷者三人は危機を察知して逃れたけれども、重傷者五人は殺された。(谷干城、東征手記) また、この光栄坊は五月十三日の暁に焼失した。(「明治維新と日光」、随想舎)

一方、旧幕の側も、4月29日、鉢石町で、乞食を装っていた長州の斥侯が、大鳥軍に捕えられて、所持していた四十両を分捕られ、身を五分切りに切り刻まれて、旗本二、三十人に集まって食われ、首は松原関門前に晒されて、遺体は大谷川のほとりに埋められた、この肉を食った第一大隊兵卒が狂乱した、ということもありました。(谷口四郎兵衛門日記、及び、日光御殿役所役人聞書)

…お互い様です。

なお、この後板垣は、きちんと礼を尽くして旧来の作法で東照宮を参拝した上、高札を立てて他藩の無礼な参拝を戒めたとのことです。
現場の人間以上に、官軍東参道軍首脳部のほうに、日光への配慮が大きかったのも確か。

後年の大鳥の日光への思いは、こちらでご紹介しました。
少なくとも大鳥に、あの時、日光を兵火に包ませなくて良かった、という思いがあったことは間違いないでしょう。
後年大鳥は、榎本らと共に、矢板武が中心となり、保晃会という日光保全のための会を結成して、多額の寄付をしています。矢板記念館に保晃会の名簿と証文があります。大鳥の遺品にも、保晃会について榎本武揚の息子と大鳥が書簡のやり取りをしたものがあります。(矢板記念館についてはこちらご参照)

少なくとも後年は、よほど大鳥は日光に尽くしているのではないかと思います。
幕臣だから当たり前、といってしまえばそれまでですが。

平時の地道な活動よりも、戦時の派手な行動のほうが好まれるのはいつも同じ。

そんなわけで、板垣の銅像。建てろといったのは一体誰なんだろうと、突っ込みたくなります。
政党政治の宣伝がらみだったのかいなと、下種な勘ぐりをしてしまうことです…。

一言で収まりきれませんでした。いつもの事。

…続きます。
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2007年06月14日

「慶応兵謀秘録」と呼び名

宇都宮戦の後の、負傷者の記録。
南柯紀行では「本多幸七(背を横に打たる)」としています。

本多幸七。

南柯紀行の序盤ではちゃんと「本多幸七郎」と出てくるので、単なる書き損じか、写本をした人の写し損じかだろうなぁ、と思っていました。

さて、田中恵親(田中雅楽助源恵親)という方の記した「慶応兵謀秘録」という記録があります。
加藤平内旗下の御料兵の差図役の方で、これまでも、野州戦で何度も参照させていただきました。

御料兵が同行することが多かった幕府第七連隊の士官名簿もあります。「七連隊」として各資料に顕れ、頭並はトミーと呼ばれた男・米田桂次郎。他、頭取に山瀬主馬、天野雷四郎が居ます。(米田桂二郎は4月15日に岩井駅から合流)
それらの隊と共に戦った隊を調べる方にとっては、心強い史料です。

御料兵は脱走時、谷中天王寺へ集い、東橋(吾妻橋)から小梅堅川通りに出て鴻之台で大鳥らと合流しています。天王寺に集まったことは、かねてから大鳥と打ち合わせ済みでした。「且は彰義隊之長不勝任と鑑みてなり」と、彰義隊に加わるよりも大鳥伝習隊と合流するほうを選んだ模様。

そして田中恵親らは、小山・宇都宮・六方越、今市戦、藤原戦と経ていて、最後は会津城内に入り、落城に際して降伏しています。
伝習隊と会津直前まで行動を共にしているので、大鳥の動向も「大鳥氏」として時々書いてくださっています。宇都宮の軍義で、壬生・安塚攻めについて議論しているときにやってきた壬生藩の友平新三郎について、その父の友平栄が大鳥の同僚だったことを記してくれていたり。

あと、隊旗の日の丸をスケッチしていたり、和歌も時々あらわれたりで、詩的教養もあふれる、見ていて楽しい史料です。

田島編成時の第一大隊(伝習第一大隊)の旗。

26_1st_regiment.jpg

同じく第二大隊(伝習第二大隊)の墓。

27_2nd_regiment.jpg

他、色々とご紹介したい記述もあるのですが。それぞれの場面のご紹介のときに譲るとしまして。

この田中さんもまた、本多のことを、「本多幸七」と記していました。
大鳥の記述は「大鳥圭助」です。(「圭介」もある)

これはこれで、そのまま読み過ごせる些細な事なのですが。

御料兵・第七連隊にとって、伝習隊は他組織。同じ幕府陸軍洋式軍隊とはいえ、一方は英国式、一方はフランス式と伝習経路も構成も異なります。

自分たちの隊については、きっちりと名簿を作っていた田中さんですから、伝習隊の人たちの名前の漢字が異なるという事は、やはり文書での確認ではなく耳での名前聞き覚えで書いたのではないかと。

それで、「本多幸七」。
大鳥の南柯紀行にも出てくるという事は、偶然とも考え難い。

よって、本多。通称として「幸七」と呼ばれていた可能性が高い。

そして、歩兵頭の本多を名前呼び捨てできる人間は、地位を考えるととりあえず一人だろう。
その本人も「本多幸七」と書いている。

つまり、大鳥、他隊との協議のあった公の場で、本多を「幸七」呼びしていた可能性がとっても高い。
ということは、普段はいわずもがな。

「こーしちぃ」

…それだけなんですけれども。
なんというか、ほほえましかったです。


史料紹介の中身に行かず、こんな突っ込みだけで、すみません。
たまには萌えたいお年頃です。
いやその、資料の些細な記述から、ちょっとした日常を想像するのは、楽しいものです。
posted by 入潮 at 23:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

大鳥圭介渡米渡欧日記 発刊


うおぉぉぉ……!

福本龍編による、大鳥圭介明治五年六年渡米渡欧日記。

発売。

…と吼えられずにはいられません。

本日は4月1日ではありません。


大鳥の、明治5年・6年の、外債発行・産業視察の日記の活字化を、「われ徒死せず」の福本龍先生が、成し遂げてくださいました…。

表紙をちらっと見ただけだったので、タイトルは正確ではないのですが。こんな感じだったかと。間違えていたら、すみません。

6月30日に刷り上りとのこと。

7月4日より、国書刊行会のWP (http://www.kokusho.co.jp/index.html) で、通販ができるようになるとのことです。

国書刊行会さんも、「今月の新刊」や「これから出る本」などで全くアピールしていないから、キャッチできませんでした。

どうしてこう、奥ゆかしい…。

とりあえず、国書刊行会さんい電話を入れて確認しましたので、出版自体は間違いはないと思います。

人間生きていると、誠に良いことがあるものです。



仕事に戻ります。すみません。
posted by 入潮 at 13:01| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月22日

明けない夜はない。

先週末、大鳥さんの命日に、とある方のチャットにお邪魔して、えらく楽しい思いをさせていただきました。
大鳥を偲んでくれる方があんなにいてくださるとは。嬉しい限りです。

そこではじけすぎた罰が当たったのか、今週は激しいことになっています。帰宅できても何もする気力がなかった。
明日提案書の締め切りで、にっちもさっちも行かない感じです。疲れた。眠い。

勝つ見込みのあるプロジェクトの提案書なら良いのですけれども。
どうも勝ちが見えない。内容はとても良いのだけれども、徹底的な武器を欠いている。

何が勝つために必要な武器か。

1)カネ 2)モノ 3)人。

天・地・人と言い換えてもいいのですが。
2)と3)はとりあえずあるけれども、1)がない。

競争というのは、それを真面目にやればやるほど、大体、やる前から結果が見えてくるわけで。
情報を集めれば集めるほど、ダメだ、という答えしか見えないことがある。
自分の力も、競争相手の力も分かるし、手元にある材料がどれほどのものかも分かる。

ただ、世の中、負けが見えていても乗り出さねばならない戦いというのはあるもので。
特に、自分を食わせてくれている人の命令には逆らえない。

勝ちの見えない戦いを行うのは、すさまじく大変なことだと思う。

勝てないなりに、色々と材料を求めて揃えられるように足掻く。
足掻くほどに勝てない事が分かるから、気が重くなる一方。
少しでもベターなものを作ろうとするから、作業も果てしがない。
四方八方から壁が迫って押しつぶしてくるように感じる。

主体的であればあるほど、圧力は大きい。

本当の戦に比べれば、自分のやっていることなど、吹けば飛ぶような、まったく大したことではないのですが。
こういう状況では、負ける戦いにあえて乗り出し、そこで負けても次に繋げた人の大きさを、身に染みて感じます。

私はこれで負けて笑える自信はありません。


ただ、大鳥は、そうして負けても、本当に大事な局面では勝った人だと思います。
明治という世造りのための戦いには、ひっそりと、勝利した人だと思います。
それが勝利だと理解する人はごく少なく、だれにも重きをおかれず、それでもその勝利がなければ今の世の中はなかった。そうした戦をした人だと思います。

世のある場所と、ある一部分の時間だけを切り取って、単純な勝ちと負けに分けるのは、後から見る人にとってはわかり易いことですが。
それはなんとも奥行きのない、そして楽なことのように思います。

負けても、なんとか次の勝ちの材料になる負け方をしたいと思います。


とか何とか、つらつら吐き出しても、目の前の作業は終わらない。

色々と書きたいことが溜まっています。
日光ツーリングの続きとか、内国勧業博覧会についてとか、そのほかぼちぼち集まっている資料とか。
これが終わったら、そっちに漬かりたいと思います。

…てことで、仕事に戻ります。
posted by 入潮 at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月23日

「ふたつの太陽」と三斗小屋

昨日はヨロヨロになりながらプロポーザルを上げて、帰って寝ようと思ったら、その日中に修正しろというお達しの報告書が来て、それを上げて、夜10時。さぁ帰るぞと思ったら、「これからサモアに2年間転勤になる奴が来たから」と、それから呑み。

酒は良かったです。長州の獺祭。
でもフラフラの状態で空腹のまま飲んだので、よろしくない状態になりました。
後半記憶がない。

それから久しぶりの電車で帰ったのですが

週末の終電。
案の定ラッシュ以上に激しく込みあう、おしくら饅頭状態の中、しかも遅れるのでその状態で1時間近く動かない。

そういう状態だから、よせばいいのに、時間が勿体無いからと小説を読んでました。

「ふたつの太陽」

亜樹さんがご紹介されていて、これは読まずんばおられまい、と早速購入しました。

戊辰戦争の、小山、宇都宮、日光、今市などの野州戦をテーマにした小説ですが。
素晴らしいです。

何が素晴らしいかというと、戦争を画くのに、指揮官の名前も兵士の名前も一切出てこない。官軍、藩兵、幕兵など隊の名前は出てきますが。名前があるのは、農民達。
戦争で多大な迷惑被害を蒙りながらも忘れ去られた地元の人間達。彼らが主役で、名前のある存在です。そして兵士士官たちは、名も無き背景です。

ヒーローたちのドラマとして表されがちな戦争の見せ方に対する、アンチテーゼのようなものを感じました。

「ふたつの太陽」とは、官軍と会幕軍という二つの陣営の比喩。
自分たちはただ地面と共に生きているのに、いきなりやってきた二つの暴力的で超越的な存在のために、力なく翻弄される。刻々入れ替わるふたつの太陽のもとで、もうどうしてよいかわからない下級武士、百姓、猟師の物語です。

小説といっても、記述は至極、事実の記録に基づいています。今まで読んできた史料にあった記述が、現代文になって文学的に綴られている。歴史と銘打ったそこらの読本よりもよほど、忠実に丹念に史料を読み込み事実を綴っています。

著者の立松和平氏は宇都宮のご出身。子供の頃より辻や神社の遊び場の中に残された記憶に対して、戊辰戦争で一般に流布されている書籍では、江戸と会津の間が空白であった。そこに著者は以下のように述べています。

「歴史を闇の底から浮かび上がらせたいという気負いがあったわけではない。…私の故郷に向かってあらゆる想像力をこらすうち薄明の彼方に立ち現れてくる影をペンで捉えていく。そんな微かな影がやがては一遍ずつの物語となっていったのである」

これこそが歴史小説ではないかと思いました。
郷土史をもとにした小説には、郷土を良く見せたい、正当化したい、格好よくしたいという作為に基づいた糊塗が多々見られますが、この作品にはそうした意図は皆無で。

ただ、事実に著者が小説的な色づけをして、読みやすくして記した。その実直な作業こそが何よりの郷土愛なのではないかと思いました。

語弊があるかもしれませんが、こと歴史に関する限り、巷で見かける歴史小説家を名乗る人たちよりも、文学者のほうが、よほど歴史に対して背筋が伸びている気がする。大岡昇平氏しかり。

それで中身ですが。

生々しいです。期待を裏切りません。
土と共に季節と共に生きる農民達。百姓の営み。土の黒さ、麦の香り、蕎麦の実りに一喜一憂する。草抜きは手間がかかる。まむし草の根は毒だが丹念に水にさらせば食べられる。
畑は耕す人間の心を移す鏡。土のこね方、水の御し方、田植えをする時期、蕎麦と米の収穫の差、そうした、人間誰でも覚えるような郷愁を誘う。

それでいて、いかなる徴発に対しても、どの此家でも納屋の床に穴を掘って籾殻や甘藷を入れている農民とか、慣れぬ山に入って餓えている江戸の侍を、はたから侮って笑って、蕗をとり鹿を捕っている猟師とか。底に生きる人間のしたたかさもきちんと描いています。

「四つ足を撃つのは何でもねぇが、人様を撃てっかな。撃ったことねぇかんなぁ」
という、幕軍に徴発された猟師の言葉も生々しい。

宇都宮で、戦見物していたら、被弾して二荒山の楼門前顔面血だらけになった老母、それを見て逃げ散る群集の話もちゃんと描かれていました。

余談ながら、会津藩の農兵取立で入隊させられ、荷運びの軍夫にさせられた村の百姓喜三太の記述。荷といっても、大砲の焼玉。条件によっては暴発するとも知れない危険がともなう、
彼が六方越を経るのですが。その記述がまったく南柯紀行そのままだった。服はぐっしょり。疲労困憊。石を枕に寝る。風が来るたびに樹の梅雨が顔や背に当たって目を覚ます。風邪一つ罹らない自分が不思議、まで、そのままです。……百姓の悲哀苦難を描くのに、そのまま使われる軍総督って一体。

そういう地べたを這って生きる者達の人間らしさ、愛嬌あふれる姿が描かれる。それを見て、そうだよ、やっぱり人間こうでなければ、という情感がわきます。

それで、百姓が丹念に精魂をこめて作った様子をつらつらと述べておきながら、容赦なく兵士がやってきて、ドンパチ打ち合って、田畑を荒らして焼いていく。

その様子に、「馬鹿、来るな、迷惑だ、他所でやれ!」と、いつの間にか拳を握って百姓に感情移入しているのです。

そうして、農民達への読者の愛着を誘っておきながら、その名前のある人間達が、大抵、最期には、首と腕と胴が泣き別れだったり、弾丸に蜂の巣にされて這いずって失血死したり、畑も種も家も焼き尽くされたりで。

腹の底から、うぉぉぉ…と慟哭したい気持ちに駆られます。

それでもまだ、この農民猟師たちは、架空の人間たちなので、それなりに読めていたのですが。

三斗小屋。

実在人物だった。記録そのままだった…。

それが、人物に愛着を沸かせた上で、色づけ肉付けして生々しく、史実そのままの記述に至る。なので、電車で読んでいて、悪酔いもあって、本気で気持ちが悪くなってしまいました。
体温が下がって、脂汗が出てきて、口に唾が溜まる。手にコンビニ袋を握り締め、電車の中の悲劇には陥らぬよう、気力を振り絞って耐えなければなりませんでした。危なかった…。

三斗小屋の惨劇ですが。
ここは、旭岳、茶臼岳と2000m級の急峻な山々が連なる山奥。下野と会津の境界になる軍事的な要所です。ここで、官軍は険しい難路を大砲を持ってよじ登った、日本史にも稀な山岳戦が繰り広げられました。

ここを攻めた官軍は、官軍黒羽藩早乙女三左衛門の本営隊と渡邉福之進の三番隊、ほか、林将曹ら館林二番隊、並びに臼砲三門です。守っていたのは、会津・旧幕諸隊。伝習第一大隊がここを拠点にしていたけれども、この時期にいたかどうかはわからない。会津が中心だったようで「会津軍」と表記されてることも多いです。

5月23日、湯元で戦いが勃発。会津側の望月行蔵、望月金太郎、浜島要次郎、高木保次郎らが守っていた。共同浴場でいい気持ちで朝湯を楽しんでいた会津藩士には素っ裸で逃げた者もいたとのこと。(明治百年野州外史)

もともと黒羽藩の所轄地で、住民は黒羽藩の者だったわけなのですが。
会津・旧幕軍と、官軍黒羽藩兵によって、全村焼き討ちの憂き目に遭っています。

各陣営の兵による、住民への被害状況は、「三斗小屋誌」に詳しいです。田代音吉著。
句読点は勝手につけて、常用漢字に直しています。

戦ノ巷トナリシ三斗小屋ハ、火花散リ弾丸トビ、剣鳴リ惨憺ナル修羅場トナリ。老弱男女ハ山間ニ難ヲ遁レ、壮年ノ男子ハ夫レ夫レ軍夫ニ使役セラレタリ。其初メ、幕軍ノ當地ニアルヤ、幕兵ノタメニ使役セラレ、後チ官軍ノ占領スルトコロトナルヤ、又官軍ノタメニ使役セラル。是レ土民トシ農民トシ、何レニ背キ何レニ抵抗スルノ勢力ナキヲ、如何ニセン。タダニ領者ノ命令ニ服スルノミ。之レ、元ヨリ農民トシテ、左モアルベキ自然ノ道理ナリ。然ルニ頑迷ノ各兵士等ハ、一旦幕軍ノタメ或ハ官軍ノタメ労働セシト判明セシモノハ、用捨ナク何レモ非常ナル惨殺ヲナセリト聞ク。左ニニ三ヲ摘載スレバ、

高根澤文五郎、氏ハ三斗小屋大黒屋ノ人 初メ幕軍ノ当地ニ至ルヤ、厳命ノ下二幕兵ノタメ軍夫二使役セラル。後、官軍當地ニ着クヤ、其事発覚シ、黒羽藩士ノタメニ捕ハレ、畑中ニ於テ一斉射撃ノ的撃チトセラレ、無慙ノ死ヲ果ゲタリ。

月井源右ェ門、氏ハ百村ノ百姓旧名主ナリキ。偶々、幕兵ノ當地ニ至ルヤ、名主家タリシノ故ヲ以テ、幕兵茲ニ仮リノ陣所ヲ構ヘ、家ヲ宿トシ、源右ェ門ヲシテ或ハ人夫ノ世話掛兵器米糧ノ運送其他種々ノ雑務ニ使役シタリ。然ルニ、僅カニシテ官軍ノ當地ニ着クヤ、幕兵ノ宿所タリシヲ以テ、直チニ官軍ハ源右ェ門ノ一家ヲ取リ囲ミ、源右ェ門ヲ捕ヘ、イザ是レヨリ板室ニ対陣セル幕兵討伐ノ道案内ヲセヨト。茲ニオイテ、源右ェ門ハ元ヨリ農民タチ彼レニ従ヒ此レニ背クノ心アランヤ、将亦安ンゾ反抗ノ勢力アランヤ、只時ノ命令ニ服従セシノミ。已ニシテ那珂川ヲ挟ミ、板室戦争トナルヤ、只ノ一戦ニシテ幕兵大敗、悉ク三斗小屋ニ逃ゲ込ミタリ。然ルニ、イツシカ此事幕兵、源右ェ門ヲ恨ミ悪ムコト甚タシ。時恰モ仝年五月ナリキ、偶源ェ門ハ幕兵ノタメ捕ハレ、終ニ三斗小屋陣所ヘ牽レタリ。官軍ニ服従シ、且ツ道案内セシ罪ヲ咎メ 當三斗小屋出来ノ馬具用縄ヲ以テ、源右ェ門ヲ縛シ、当地大金善左衛門ノ宅ニ於イテ柱ニ繋キ、炉ニ火ヲ焚キ幕兵等各串ヲ揃ヘ、源右ェ衛門ノ皮ヲ剥キ股ノ肉ヲ削リ取リ、串ニ挿シ炙リテ食シ、又一片ヲ源右ェ衛門ノ口ニ押シ込ミ、己ガ肉食ラヒトイイタリキト。源右ェ衛門ノ痛激悲泣ノ声山谷ニ響キ渡リ、聞クモ無惨ノ有様ナリシト。



……ちょっとこれは、現代語訳できるものではないです。

これがそのまま、色づけ肉付けされて「ふたつの太陽」で語られていたものだから、たまったものではありません。あたしゃ、最初、源右ェ門さんいい男だなぁ、旦那にするならこういう人がいいなぁ、などと思いながら読んでいたものですから、もう、本気で電車の中で吐くかと…。

あと、もうひとつ、会津長野の農民で、黒羽藩兵に捉えられた忠兵衛の話もあるのですが。本文打つのも神経が持ちませんので、興味のある方は小説か「三斗小屋誌」をご確認ください…。

さらに、官軍の人夫として徴発された百村新田の松本駒次という老人が三斗小屋に行ったとき、兵士達が野天で大鍋で煮物をしている。馬肉だお前も食べろというので箸を入れると、人間の爪が出てきたので吃驚してほうほうのていでその場を逃げた、という話もある。(明治野州百年外史)

月井氏の話は、加害者は「幕兵」とありますが、この時居たのは、「秋月登之助の家来ら」とあります。つまり会津人も無論居たわけで。

それで、会津軍が領内へ撤退するときに、会津兵は清野作戦、つまり、一片残らず焼いて敵に利用されるのを防ぐ放火を行った。
三斗小屋へ進撃した官軍は、9月10日に掠奪を尽くした後、全戸焼き討ちにした。当時温泉宿など34軒あったというが、根絶やしにされた。

打撃を蒙った住民たちにしてみれば。
官軍だろうが会津だろうが幕軍だろうが、あんたらみんなケダモノだ、と云うところでしょうか…。

官軍も会幕軍もお互いとはいえ。
三斗小屋の、住民強制労働・虐殺の上、一つの宿場町を根絶やしにした仕打ちは、死体を埋めなかったから酷いどころではない話ではないと思うのですが…と、一面的な会津びいきの作家の方にお伺いしてみたい気になります。

___________

6/25追記:
月井源右ェ門の記録について、加害者は、会津軍になっていたり黒羽藩(官軍側)であったりし、地元の記録によって異なっているとのことです。
黒磯市図書館所蔵本復刻版で黒磯郷土史研究会発行のものは、残酷行為は幕兵の仕業、下野史談会発行のものは黒羽藩士の仕業となっています。上記でご紹介したのは、黒磯郷土史研究会版でした。(しかもややこしいことに、最初間違えて、下野史談会版としてご紹介しまっていました…。)

旧幕会津側と決め付けることは今の時点ではできない模様です。亜樹様、ご指摘ありがとうございました。
___________


現在、三斗小屋温泉は、温泉と山好きには、ちょっとした有名どころ。
最寄のロープウェイ2時間歩くか、ダートの林道の終点から1時間登る。林道のほうはH13から通行止めとの話もあり。道路も電気もきていない、ランプの秘湯です。入浴のみは出来ず、宿泊のみということで、学生時代からいつか行きたいと思っていた場所だったのです。日本に残された秘境というべきか。連絡先は衛星携帯。

秘境といっても、戊辰当時はそれなりに温泉信仰で栄えた宿場町であって、官軍・会幕軍の仕打ちがあって、明治になっても一度鉱山街として復活したようです。

……行くしかないか…。

なんか、戊辰戦争に足を突っ込むと、自分の体を苛める方向ばかり向かっている気がします。

寿命が縮む…。
タグ:史料 小説
posted by 入潮 at 23:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月29日

しぇんしぇい。

薩摩弁では、「せ」の音が「しぇ」になる。
また、「り」が「い」になることが多いようである。

とすると。

「おーといしぇんしぇー」

と江川塾で呼ばれてたりしたのか。

応用:
「あいがしぇいよう学のおーといしぇんしぇーか、こまんかー」

訳:あれが西洋学の大鳥先生か、小さいなあ。


…うむ。
posted by 入潮 at 12:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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