2007年07月03日

大鳥圭介→大隈重信書簡

大隈重信関係文書3(おお-かと)
早稲田大学資料センター編 2006年12月刊

ということで、大隈重信の書簡集が、2004年より毎年着々と刊行されています。あいうえお順で、3巻目にして、ようやく「加藤」まで来ました。
要職を歴任し、付き合いも多く寿命も長かった方だけに、その関係文書の編纂は相当大変かと思います。
大隈さんについては、一度、昭和7年〜10年に、時系列で関係文書が出版され、さらに1984年に東京大学出版会より復刻されています。

今回の五十音順は、自分のように人物ピンポイントで追っているようなオタクには、有難いです。

というわけで、大隈重信関係文書、大鳥圭介よりの書簡が4点ほど収録されていました。


1)「大鳥圭介・川路寛堂書簡」。 明治八年一月二十七日。暹羅行きの道中、おそらく香港からの手紙。今後の針路について

2) 明治二十三年六月十七日。公使としての赴任先の清国より。清国の穏やかな生活と、一転変わって鉄道政策と朝鮮の不穏な状況について

3)明治?年八月九日(工部大学校在任時) 天秤他、諸機械の名称について、工部大学校の教師への問い合わせに答える手紙。

4)明治?年一月二十三日、 福岡県の元家老、大音素雪が、同県の石炭鉱山について大隈閣下に拝謁したいということの紹介状。


大隈さん、大鳥とそれなりに付き合いがあったのか、明治八年と結構早くから長年に渡った感じです。
大隈さんは「大鳥圭介伝」の序文に識して下さっています。(山崎氏からの要請に応じて、ということだけれども)

「圭介は寡兵を提げて干戈を執り、奇策縦横大敵に抗して屡之を死地に陥らしめしも、衆寡敵せず遂に野州に敗れ、去て會津に戦ひ、百敗の後転じて北海に奔り、榎本釜次郎と共に函館に割拠して天下の大軍に抗し、盛名一世を震撼す。然も力遂に尽き出でて轅門に降る、後召されて明治政府に仕へ、晩節を完ふす、其事跡の世に伝ふべきもの少からず、就中朝鮮に使して樽爼の間に国威を宣揚せし所、気骨稜々、三軍を叱咤せし当年の意気を示せり。抑も圭介何の養ふところありて克く此に至れるや、他なし」

と、ノリノリに褒めて下さってはいますが。
無難な感じはします。当時における大勢の見方がこの言に代表されているのではないかと思います。

ただ、百敗もしていない。せいぜい十敗だい。とか言ってみる。…これは大鳥が自分自身の敗歴を大げさに語る悪癖があるからしょうがないとして。

大鳥の工部省官歴をスルーしてくれるというのは、いただけません。大鳥は、緊縮財政で工部省の予算を散々削ってくれた大隈さんには悩まされたはず。「其事跡の世に伝ふべきもの少からず」に含まれるといえばそうなのでしょうが。
華々しく文章を飾ると、どうしても地味な事跡は省かれてしまうのでしょう。


大隈氏は、大人物なのだろうとは思うのですが、一方で、見れば見るほどよくわからなくなる人だという印象があります。他人物からの評で毀誉褒貶あったり、言動に一貫性が感じられないところがある。酒造業組合と禁酒団体の公演を、同じ日に招かれて行ったというエピソードとか。

いや、自分がまだ大隈氏については全然調べが及んでいないからというのが一番大きいのですけれども。すみません。

大鳥さんはそれなりに尊敬していたようで、小栗忠順を偲ぶのに、大隈さんに喩えていたこともありました(実歴史談)。直接話すとまた印象が違う人なのかもしれません。


(2)の手紙については、結構私的な付き合いもあったのかな、という感じもうかがわせます。
大鳥が清国大使だった頃の、任地からの書簡。


昨年赴任之節は、北京の気令(冷)如何と、家族朋友共、大に配慮致しおり候ところ、冬季の寒威も格別の困難これ無く経過、又、夏炎も既に大熱の期に差し迫り…(略)…小生も赴任以来今日に至るまで誠に無事閑顔、各国公使の間に時々交際を結び候までにて、格別面倒なる事もこれ無く、総理衛門大臣ともしばしば会合、多くは文事上の閑話にて、時に触れ東洋の大勢危急なるを風論候も、格別の感動これ無く、実は天下は永久泰山の如く安きものと安心平気なるは驚き入り候他、これ無く候。


…と、大鳥、タラタラと書いておりました。

寒さも大したたことは無い、小生は今日に至るまで無事、ヒマ。各国公使や清の総理大臣ともときどき会合して交際するまできたけれども、面倒もなく、多くは文事の上のヒマ話。東洋の危急であるといううわさも聞こえてきているが格別驚くこともなく、みんな天下は永久泰山のごとくで安心して平気であるのは、驚くことというだけだ。

大鳥の口から、そんなにヒマ、ヒマ、という言葉がでるというのは、えらく意外です。
イザベラ・バードのおばさんが、大鳥公使を、ぱっとしない窓際爺い呼ばわりしたのも、無理は無いという感じです。


但右数人中にて會紀沢一人は、頗る東西の事情に通暁致し、共に可談良友と頼みおり候ところ、あにはからんや四月中溘然病死、日清の交誼並びに東洋政略のため一人物を亡い、悼惜の至りにござ候。

と、交際のあった中で「会紀沢」という方が、東西の事情をよく知っていて、話せる友人だと思っていたら、四月に突然病死してしまった。日清の友誼、東洋の政略のためには惜しい人物をなくした、とのこと。

この会紀沢という方は誰なのだろう。(一瞬、會柿沢勇記の略に見えた…) とりあえず検索してみたところ成果なし。
大鳥、なんだかんだと中国人と仲良くなっています。

…それでこの後。
もちろんこのまま平和、ヒマ、で締めくくるはずがありません。大鳥ですから。永久泰平にある大鳥なんて、大鳥じゃない。


当地鉄道論是非粉々、更に取り留め候手順相決さず、右は資金に差し支え、天津李叟は外債の策を運し候哉に承り申し候。これに最も本邦の為患べくは、同叟の朝鮮に対する圧制策にて鮮王並びに有司はご承知の通り、更に自治の定見これ無く、国民は彼の撤桟一見等他事窘迫の時に際し、四方に紛起、靖定の模様これ無く、老鷲は兼て心算を按し、好時期到来遠からず、一唾手攻扼の勢、実に危険岌々無比上形勢にござ候。此儀に付、先ごろ愚衷十分に建言致しおき、かつ万一危難の時に臨み候節は、神州の為及ばずながら微力を尽くし候覚悟にござ候。


実際はそんなに平和泰平ではない。鉄道の是非は紛糾、資金繰りに問題あり。また朝鮮に対する圧制、朝鮮の王と貴族はご存知の通りで、朝鮮の自治はなっていない。国民は窮状に苦しんでいて、四方に紛争が起こっている。老鷲は算段を行っており、朝鮮への攻勢を行う好機は遠くない。実に危険度の高さは他に比べ物がない状況である。これについては先ごろ愚策を献じておいた。万一のときは微力を尽くすつもりだ。

「老鷲」とは誰のことか。大鳥とも見えるけれども、袁世凱か李鴻章か清国側の人間を指しているのでしょう。

大鳥が、清国特命全権公使であって、朝鮮国駐剳公使を兼任した経緯は、こちら(http://irisio.seesaa.net/article/30763778.html)でご紹介したことがありました。
大鳥が清国全権公使となったのは明治22年、朝鮮公使を兼任したのは明治26年。伊藤博文から朝鮮公使を兼ねる要請を受け、了承した。このとき、君本当に行くのか、韓国はいくつも事件が起こって難局にある。余人の毀誉褒貶を受けるだろうからやめておけ、と制止されたに関わらず引き受けた。

これを読む限り、既にこの、大隈さんへの書簡をしたためたとき、糾える麻のごとくの朝鮮に自分が行く覚悟はしていた模様です。

「愚衷十分に建言」の内容はわからないのだけれども、大鳥は自分で朝鮮の難局に当たる意思はあった。大鳥はいつも意見を言うときは、それを自分でやりたい、あるいは自分で行う覚悟があって言う人間だというのは、過去の幾多の言動に見られる。

口を出すからには自分で手を動かす覚悟。口は大きく意思決定はするけれども手は動かさない政治家という方々とは、対極にあると思います。
問題があるのを見つけてしまったら見逃しておけない。貧乏くじっ引きな実務者。
世の中はそういう人によってこそ作られているのだと思います。

争いごとも厄介ごとも、決して好きではない癖に、その種があると放っておけないで、いつの間にか自分の責任になってしまっているのが、この大鳥圭介という人だと思います。



六月十七日夜書き 北京公署灯下 大鳥圭介
大隈伯閣下内披

当地において相応の御用向き為るべく在候ば、仰せやらるべく候。さりながら、令夫人へも宣布ご伝願い奉り候。


公務が終わって、灯火の下、なおも大使館で、夜書いたようです。大使館は官員の公邸をかねている場合が多いので、仕事が終わっても寝るまで場所は同じだったかもしれませんけれども。

それで、大隈さんの奥様へもよろしく、と。奥様とも何かしら知り合いであった模様。

私信とも公文とも取れる内容でした。

次、(4)の書簡です。

扨、過日拝見仕り候天秤並びにその他器械名称の儀、序ながら工部学校教師へ内話及候ところ、実物一見仕り候上ならでは誤解の程も難計と申し事に候間、その意に則任、来る十三日朝、教師両人並びに通辞壱人附属差し出し候間、一応御見の為相成り候様、あらかじめ御下命下さるべく候。もし御差し支えの筋も為べくあり候はば、前もって御通知希奉り候。早々頓首。

八月九日 大鳥圭介 大隈大蔵卿殿閣下



公文公文、な文章です。

天秤とその他の器具について、名称についての質問が大隈さんからあった。工部大学校の教師に問い合わせたところ、一度見てからでないと誤解するかもしれないということだった。それで13日の朝、教師二名と通訳一名をそちらに遣ります。あらかじめ準備しておいてください。もし差し支えあるようでしたらご通知ください。

…という意味になるかと思います。

相変わらず、ちまちましたお仕事をされています。工部大学校校長閣下。この人、忙しいのか暇なのかわかりません。いや、ものすごく忙しい人であることは確かなのですが。いつ見ても、細かいことにも気をやりすぎです。
他省から問い合わせの器具の名称など適当につけておけばいいのに、とも一見思うのですが。

産業導入期だからこそいっそう、きっちりと白黒付けておこうという意図があったのかもしれません。
自分たちがいったんつけた名称が、その後ずっとその業界で使われることになるとも限らないわけですし。


そんな感じで、大隈重信関係文書。
未だにこうして、当人の言葉が世に出され続けているのが嬉しい。当たり前ですがそれが全く今までの言に齟齬しない、むしろ強まる方向だというのが、楽しいです。


誰が何を行って、それがどういう形で役に立ち、今の世界に結びついているのか。

そうしたことを全て明らかにしていくのは不可能で、誰かが一人について一生を費やしたとしても、明らかになるのは限られたことでしかありません。

だからといって、それをやるのは無意味だということは決してない。

そもそも自分が今いる世界でも、自分とかかわりがある事象は全く限られている。
その限られた存在である自分が、過去の人間が行った事、考えたことを知ると、それをなんらかの指標にできること。励ましでも癒しでも自虐でも何でも良いから、前へ進む動力にできること。そこに、人物を見ることの醍醐味があるのではないかと思いました。

その意味で、だれもが自分の指標になる人物を心に持っているものではないかと思います。一人に限らず。

そして、こういう生の文章を見るごとに、いまさらながら、人物の等身大での深みと奥行きが感じらる。そして、この人も人間なんだなぁという親近感と、こういう凄い人がいたのだという雲の上感が同時に募る。だからこそ、架空のキャラクターとは違う、人物ならではの重みを感じる。それが楽しいですし、単なる娯楽ではない、自分が生きる上での実益になります。


…といいながら、洋行日記発売までのソワソワ感を紛らわしています。
早く届かないかなー。
ラベル:大鳥圭介 資料
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2007年07月04日

内国勧業博覧会と書画その2 適塾と緒方洪庵

大鳥の「博覧会」書画ですが。(前回はこちら
今は亡き人間に為書きをするものなのだろうか?と思い、緒方洪庵の息子のどなたかに宛てたのではないかと思ったのですが。

どうも、大鳥と緒方洪庵の息子の方々の接点も見つからない。洪庵先生、子沢山で、七男六女をもうけられています。息子の方々は以下の通り。

緒方惟直……兵学寮教師からヴェネチアの商業学校日本語教師
緒方惟準…ボードウィンについてユトレヒト大学に入学。「衛生新論」他多数の篇あり、大阪府仮病院(後大阪大学医学部院長)、 陸軍一等軍医正、 陸軍軍医監
緒方惟考
緒方収次郎
緒方重三郎…内務省御用掛、参議院書記生、法学者?議会規則質疑録の訳がある。

単に記録がみつからないだけで、大鳥との接点もあったのかもしれませんが。

やはり、博覧会の書画は、亡き洪庵先生に宛てたのだろうか、という気が強くなってきました。


緒方洪庵に関する書籍は数出されていて、適塾などでもまとめて販売されていますが。一番基礎的なのは、洪庵ご曾孫の緒方富雄氏の「緒方洪庵伝」ではないかと思います。

緒方富雄氏による洪庵先生の生涯が、医学者として、蘭学者として、教育者として、そして人として語られています。
緒方富雄氏ご自身が、医学博士、医学史学者でいらっしゃいます。日本を代表する血清学者でいらっしゃるとのことですが。洪庵先生、そして福沢諭吉の言を心に留めて書かれたとのことで、お流石、文章はとても平易で読みやすいです。

そして、史料として、塾生記録である「適々斎塾姓名録」、洪庵先生の日記である「癸丑年中日次之記」、「壬戊旅行日記」、「勤仕向日記」の3点が収録されています。これがまた在り難いです。

まず、「適々斎塾姓名録」。適塾に行くと、入り口に展示されています。ダミーですが、本物そっくりに作ってあり、雰囲気が良くでています。

めくると色々な人に出くわして楽しいです。
まず、村上代三郎。姓世名録の4人目に出てきます。

「大坂を出発し、村上代三郎、三木芳策と同伴して、江戸に来たりしも別に手便る人もなく、又世話をして呉れる人もなく」(名家談叢)と、圭介が江戸に出てくるときに同伴して、江戸での貧乏生活で、一緒に破れ布団を被っていた人。姓名録のしょっぱなのページに現れます。いわば一期生。天保14年から在籍。圭介の入塾は1852年だから、12年先輩で、既に在塾9年目という長老でした。彼は播州加東郡木梨村出身とあります。圭介とは言葉も同じ、近くの出身だったようです。(ちなみに、代三郎は大鳥の薩摩藩出仕時代の上司の川本幸民が若い頃に師事していた村上良八の息子でもある)

もう一人の貧乏江戸仲間、三木芳策氏もいました。嘉永六年二月八日入塾。長州赤間關の出身。…圭介、長州モンと一緒に裸で同じ布団を被っていたのか…。

それから、武田斐三郎が117番目、弘化5年2月2日入塾。南豫大洲城下、とあります。橋本佐内さんは183番目。越州福井藩、とだけある。嘉永第三晩春入門、となっているのですが、同時の入塾者がたくさん居ます。

で、圭介。嘉永第五二月日として、「播州赤穂郡細念村 大鳥直輔 倅」とあります。同時期の入塾者に、丹州玉子村の今井良介という人がいました。

それで、びっくりしたのが、岩谷玄良。野党の如くの知能を持ち主、水をいれた徳利を持って金持ちそうな老人にわざとぶつかり、徳利を割って、「酒が台無しや!どないしてくれるねん!」と老人を嚇しつけ、老人に酒を「弁償」させて、皆で大いに飲んだという、梁山泊の親玉のような人です。いつも寝坊をしていて、早起きの圭介に尾上多見蔵の芝居の真似事で「あれ玄良どのお起きめされ」と起されていた人です。

この方、備前武雄、嘉永六年癸丑七月、入塾。

…圭介の後輩だったのか。
牢名主のような威厳があったので、てっきり右も左も知り尽くした大先輩だと思っていました。

その他、一畳一人制度や、解剖や、採点システムや、スケスケ着物にストリーキングや、誰からも忌まれたアンモニア実験など、この適塾のエピソードをあげていけばきりがありません。
若きエネルギーが、なんだか余計な方向にも存分あふれている適塾。今も国公立の理系の連中の寮とか研究室ってこんな感じだよなぁと、妙な懐かしさを感じます。

こんな、どうかすると変態の領域に入りそうな逸脱具合が、偉人が育つには実は結構必須の条件だったりしないかと思ったりします。紙一重ですが。

塾生に対して、そんな絶妙な自由主義を実現していた洪庵先生。

その洪庵先生の「癸丑年中日次之記」ですが。
洪庵先生が44歳のころ、適塾で医業、塾、種痘事業を行っていたころのものです。圭介も在学していた嘉永年間を収めたものです。1日1〜2行程度で、主に回診の記録ですが、体が弱かった洪庵先生、よく体調を崩していたり、季節に敏感だったのか、寒暖や天気も記録しています。

これに、1回だけ圭介が出てきます。

嘉永六年一月二十七日、雨、夕晴
「午後回勤、午前不快平臥、大鳥圭介に按摩頼む。夜浴場」

これが、大鳥按摩上手説の根源です。

ちなみに、「按摩」を頼んだのが見られたのは、日記の中でもこの日一回だけ。按摩自体は、何度も塾生に頼んでいるのだろうとは思うのですが。わざわざこの一回を書いたということは、やはり印象深い按摩だったということなのではないだろうかと。

そして夜の「浴場」も、出てきたのはやはりこの日一回だけ。
風呂なんてそれこそしょっちゅう行っているなずなのに。もしや、圭介が汚かったから、按摩中に気になって洪庵先生が連れて行ったのか?とか、要らぬ気をやってしまいます。(「陽だまりの樹」の印象が強すぎる…)
そして、風呂の中で洪庵先生の特別講義、とか想像したりしました。
…患者の見分け方、とかですよ。

以下、洪庵先生の概略ですが。

洪庵先生は文化七年、1810年生まれ。備中足守の出身で、幼名は田上騂(馬+辛)之助惟彰。「惟」の字は緒方家で代々名づけられてきたそうです。1864年54歳で没。
洪庵先生の生家は、今は残っていないけれども、足守町上足守植之町で、昭和三年に碑が建てられているとのこと。この碑の下に、洪庵先生の臍の緒と産毛、元服時の遺髪がうずめられているとのことです。碑は今も残っているのかしら。

で、天保二年、22歳で当時の江戸の蘭学の大家、坪井信道に入門。四年間学んだ。苦学の生活だった。塾の玄関番をしながら、義眼を作ったり、按摩に出かけたりして学資を繋いだ。信道はこれを哀れんで、自分の着物を与えたこともあった。信道は小柄な人で、洪庵は大柄だったので、膝がでるほどの短い着物になった。それでも平気で洪庵は勉強していたとのこと。

なんだか圭介と共通しているところがたくさんというか、当時の蘭学生は皆そんな感じだったのでしょう。ちなみに坪井信道の養子になった大木忠益の代の坪井塾で、適塾から江戸に出てきた圭介が塾頭になっています。洪庵の下では、信道の息子信良が学んでいて、その伝でもありました。

この坪井信道の門下、洪庵先生は、青木周弼、前述の川本幸民と共に、三哲と呼ばれたりしました。

天保6年2月、洪庵は江戸を辞して故郷に戻り、天保7年2月、長崎遊学。27歳。この時に名を洪庵と改めています。長崎で2年間学び、天保9年に大阪に出て、瓦町に蘭学塾を開き、医業を開業。この時29歳。適々斎塾の開業です。


…ここでタイムアップ。続きます。
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2007年07月05日

大鳥圭介 北海道新県設置にかかる提言 その1

大鳥の小田原文書の一つ。

明治十四年十二月二十八日
「開拓使を廃し新県を置くべき太政官の布令を読み感を記す」

原文は一般の原稿用紙。大鳥が、過日記した論文を参照しながら認めた書簡の写しです。筆跡から、写し自身も大鳥の手によって行われたものと思います。

明治14年12月といえば、大鳥が工作局長に工部技監を兼ねたばかりの時期。技監は、技術官僚、エンジニアとして、実務者に与えられる最高位でした。工作局のみならず、工部大学校長職、他の局の技術監督も行っていた多忙な時期の書簡です。

内容は、北海道の開拓使が廃止となり、一つの県となった、その際の、今後の北海道経営にかかる提言です。
誰に宛てたものかは不明。ただ「閣下」と尊称を用いていることから、大鳥より上の位、即ち各省の卿、あるいは長官クラスに宛てたことは間違いないかと思います。

以下、本文ですが、原文の送り仮名・助詞など、カタカナだったものを、ひらがなに改めています。
また、句読点を挿入、常用漢字に改めています。

読み違いも多いと思います。また、我が身の至らざるところで、熟語も不明な点が多いです。漢字知識のなさを恥じるばかりですが、これを人知れず埋もれさせたままにするのはあまりに惜しいと思いました。せめて存在だけでも明らかにしたい、と。細部は誤謬もあると思いますが、大意を示すことができましたら、ということで、ご紹介させてください。


北海道全域は分割せず、札幌を首府となし、一県治の下に総轄すべし。その故如何。曰く、故人も程(カ)す、周海八百里と。実に其地面の広大なるは四国九州を併せ実に山陽道を加へたるものに比すべしと雖、その人口を問へば、僅かに十五萬人内外にて、此にて佐渡一小島の人員に越え、而て伊豆一国の民口に及ばず。

県下政務の繁簡は、人口の多寡に関する大にて、土地の広狭に因る小なるを以てなり。或は以為らく、其人口少しと雖、遠隔の海隅に散在す故、三県庁の下に統括するときは、普く政令を宜き難しと。是れ唯理論上の所見にして、実際の事務に於ては決して為らず。一県下に併するも他の諸県に比すれば猶無事簡単なりとす。況んや他の右(カ)県よりも風俗素朴にて人民の薫政事の議論希なるに於てをや。

但、彼の函館の如きは、五港の一なる開港場なれば、外人に関する多少の交際あり。因て此三支庁を置き、書記官一名を以て外交上の事を司らして、旦特別の職制を設け尋常の小事は之に托し、重大の件に至りては、県令自ら任ずるの法を設くるを便とす。元来函館は開港の地なりと雖、且外客に対する交誼最閑にて他の諸港の如く繁雑困難なるものに非ざるなり。又根室地方は札幌を距る稍遠きを以て徒前の如く一支庁を置く方便宜なるべし。但これには書記官を当むるに及ばず、一二等属の判任官にて事当るべし。故に方今の形勢にては北海道全島中札幌を一首府と為し、函館根室を二支庁と為し、制度宜しきを得、毫も不便なきものとす。

夫れ一県を置くの利益数件あり。其最大なるものを挙ぐるに、北海道の風土人情は大に内地に異なり、昔時より藩制の区別なく或は幕府の直轄となり、或は松前の所領となり、又転して開拓使の統御に帰したるも銕□同軌にして、曽て之を分裂をし事(カ)なし。故に人情全境同一にて、自ら民心協和の良風あり。夫の内地各州の如(カ)、藩領相謀りて人心互に疎鎬し、嫉妬不和を生ずる等の如き悪習を見ざるものなり。是れ誠に千載不遇の美事にて、上下の幸福之に遍くものなし。実に願ふてもなき天然の楽土なり。冀(こいねがわ)くは永世快(カ)良俗を保存して離背せしめず、上は政務の煩労を芟(さん)鋤し、下は民情の淳僕を養成せむ、洵(まこと)に国家の大事なり。

北海道の幅真(カ)斯の如く広大、民風斯の如く淳良、加之沃野無□(みぎわ)山林欝葱内部には川河舟楫の便あり。外岸には鱗介挿漁の利あり。実に我日本帝国北門の関鎖、全国の金庫にて、他日国庫の貢税を増し、済世の基源となるもの、此北海道を舎て他に望むべきものなし。若し一朝、之が措置を誤るときは、他日臍を噛むも復及ぶべからず。故に、政府の之を処分するや、最心を尽し丁寧及覆之を図り、以て遠く将来の利害を洞察し、断乎として眼前の小事に拘はるなくむば、後世天下の大事大幸なり。全道を一県の下に置くときは、実に官吏の員数を減し、各種の諸費を省くべきを以て経済上も亦一利ありと謂ふべし。

若し此遠大の理由を慮らずして、北海道を分て二三県と為すときは、各県の施政法度自ら同一なるを得ず、彼此齟齬あるを免れず、果たして有る時は甲県は幸を受くるも、乙県は之に与る能(カ)わず、甲に不便なるもの乙は之を免るるあり、互いに禍福利害の差別を生じ、終に隣県の人民不平不和の感動を醸すべし。若し一たび之悪弊を生ずるときは、他日之を治癒する頗る難し。是れ県官の年来苦慮する処ならずや。今協和の美風を敗(ママ)りて、疎鎬の陋習に導く、治国の道を得たるものにあらず。

但し余が鄙見にても、北海道は百歳の後までも必一県下に置くべしと謂ふに非ず。数十年の後、地闢け民殖へ、之を分割して治むべき識を見るに至れば、或は之を区別するも、亦以て晩しとせざるなり。

我大政府の北海道処分を為すや、豈北海道の為にするのみならずのみならず、全国政治の復益に関係ある極めて大なり。実に経営は天下貧福の根原(ママ)国家盛衰の基礎なり。決して之を等間に見過ごすべからず。是れ余が積年精神を竭(つく)し肝胆を砕く所以なり。

地方の政事は實(カ)猛中を得て闊歩遍不及なく、所謂引元而て発たず。其助くべきは之を助け、且任すべきは之を任じ、緩急相待て良功を委するは、全州一般の機関なり。殊に未開地方の民を導くは、恰も穉児に歩を教ふるがごとし。之を扶けざるは、歩する能はず。之を扶くるたびに遍(カ)き強て手を加ふるは、却て之を引倒すの害あり。是れ最主任者の最も丹誠(ママ)を竭すべき秘訣なり。故に北海道の県令、其人を得る最難し。政府の之を撰挙するや、其才識の深浅を見るのみならず、其方略の巧拙を察する、極めて切要なり。

政府全国士族の困窮を愍(あわれ)み、国庫より救助の道あるとき、若し法を得ざるときは、其害ありて利なき、歴々徴すべし。其故何ぞや曰く政府の仁恵あるや、多くは官吏に縁故あるもの、又は興産狡□ 者は僥倖となり、農商に実意勉励なるものは奔走の術を知らずて其壱涌(カ)滴をも蒙る能はず。因りて政府の恩賜は却て良民の怨嗟を招くの媒と為る例少からず。

若し若干の金を貸し士族を救はむとならば、冀くは、之を備置き、北海道移住の士民に給し、起工授産の源資と為さば、上下百歳の利潤を周ふし、彼此偏頗の誹議を免るべし。儿て北海道は他県の例に拘らず、農工とも官庫より特別の保護あり、百般の事業を奨励し、以て今日富源の種子を下し、他年の美実を収むる、永遠の良策なり。

更に此に一言すべきは、北海道徴兵の事なり。
西南の民を移し、北島に赴かして、其此に余あるものを取て其彼に欠くる処のものを補ひ、疎密平均を得せしむるは、今日国家奐(カ)上の要務なり。之を勧奨するには、十数年の間期限を定め、北海道の人民には徴兵免疫を特許され、以て十分に移住の人貢を増殖あらむ、年来の素願なり。

北海道の鉱山鉄道は、工部省に引渡し、諸牧場開墾地は、有志の人民に払下げ、屯田兵は陸軍省に附して適宜の処分あるを当然の事とす。其余船舶は函館人民中有力のもの所望なりと聞けり。果して然らば且請願に従ふを以て再便宜なりとす。該地の開拓は、海運の便を助くる、最大の急務にて、之を函館の人民の手に託すれば、一般の交益たる、論を俟(ま)たず。若し他人に佛下げ之を他所に転用するあれば、忽北洋の運漕を奪去りて公私共大害を蒙るべし。又之を他の已に成立せる一二会社に渡すあれば、其害更に甚し。元来此類の事業は、一二会社に限りて専権を興ふれば、其利を恣にするの弊ある、已に有識者の憂ふる処なり。故に之を別人に託し、利益を分割するときは、彼此相競ふて、共に勉励し、互いに運賃を減じ、以て広く人民に益する、奐(カ)量なるべし。器械所の如きは、之を人民の手に渡すも或いは維持し難きものあるべし。故に其種類を分けて県庁に属せしめ、是迄創立せる工事は保存して諸氏工業の模範となし、必中絶なき、渇望に堪へず。

学校は之を文部省に属するも、又、県庁の官拠に付するとも、便宜に従て、可なりと雖、此地教育の保護は他県に於るよりも別して大切にて、而て農学校の如きは要中の要なるものなれば、猶一層隆盛ならしめ、以て移住民を安堵せしむるを要の仁政なりとす。

圭介曽て職を開拓使に奉し、屡北海道を巡歴し、□談(カ)地の風土人情を観察し、且開拓に熱心焦思する、已に久し。前年北海道開拓論を著し、必須の要件を記せしあり。今之を謄写し、併せて閣下の展覧を読す、閣下幸に文辞の□方(カ)を咎めず、方寸微衷の在る処を察し、以て撰択する処あらば、海□の殊恩謝する処を知らず。

恐憚頓首



理路整然とした提言の中に、大鳥の、北海道に対する積年の想いが、積もり積もっている感じです。
これを読みながら、大鳥の、箱館戦争、投獄中の思い、開拓使の物産と資源探査、工部省に入ってからも続く鉱山開発への関わり、など、走馬灯のように思い起こされました。

この中身に触れていくには、北海道の開拓・開発史をある程度踏まえてからでないとならないと感じました。今の自分の欠片の知識では、あまりにも解説するのに役不足だと感じています。

ただ、もしかしたら識ある方に見ていただけて、何ら益することもあるかもしれないと思い、誤字だらけの拙速と知りつつ、呈させていただきました。

(すでに北海道史などに掲載されていたら、笑ってお見過ごしください…)

完全に私見ですが。
これを宛てたのが誰かは今のところ不明なのですが、やはり内容から黒田が一番可能性が高いのではないかと思いました。

開拓使から陸軍省を経て、工部省に移る際、喧嘩別れしたのではないかと思うほど、両者の間は疎遠になっていますが、大鳥が元老院にある頃ぐらいから、また付き合いが見られます。
この書簡は、両者の関係性についても示唆するところがある気がします。

とりあえず、解読で力尽きました。今後、少しずつ触れていこうと思います…。
ラベル:大鳥圭介 開拓使
posted by 入潮 at 02:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「明治五・六年英・米産行視察日記」発売…

福本龍著『明治五・六年英・米産行視察日記』

本体2300円+税。

出版社にお問い合わせしたところ、確かに刊行されているとの事です。
1日も早くほしい、という天晴れな方は、国書刊行会さんに、直接メールまたは電話でご注文ください。

http://www.kokusho.co.jp/

送料無料の代引き便で発送してくださるとのこと。

それにしても、Amazonなどの通販はおろか、出版社のWPにも、一切広告、お知らせの類が無い…

奥ゆかしすぎます。

自分は夢を見て嘘を吹聴してしまったのだろうかと、我が五感を疑ってしまったではありませんか。

まだ実物を手にするまで油断できませんが。

嗚呼。この生殺し状態を、いかにかせむ。



と思いながらニュースをうろついていたら。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/maki200604/news/20070703dde012070014000c.html
「江戸っ子が嫌った『官民格差』」

格差という今の流行ワードに併せた懐古主義的・風刺的な記事ですが。
マスコミが幕末明治をこういう視点で見るのは、ちょっと珍しい気がします。

posted by 入潮 at 12:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月06日

内国勧業博覧会と書画3 適塾と緒方洪庵その2

洪庵先生、続きです。

内国勧業博覧会のほうは、ちょっと脇へ。大鳥と洪庵先生のご息子の方々との関係はもう少し追ってみようと思います。「緒方洪庵の息子たち」(西岡まさ子著、1992年)という本がある。週末に見てきます。
あと「緒方洪庵傳史料」が、去年に刊行されていました。でも都内だと国会図書館ぐらいにしか見当たらない。(それとなぜかベルリン国立図書館に所蔵されている) 復古記といい、先月の栗本鋤雲遺稿集といい、ここ1,2年、いい本が刊行・復刻されているなぁ…。

以下、洪庵先生の生涯の続きです。前回と同じく「緒方洪庵伝」(1963年版)より。引用した手紙などは、書き下しています。

大阪瓦町に開業した洪庵先生。天保九年、二十九歳。この歳7月に、摂津名塩の医師、億川百記の娘、十七歳の八重と結婚。八重奥様は、塾生たちのお母さんのような存在でもありました。

その後、瓦町の塾が手狭になり、過書町に家を買い求めて移転します。これが今の大阪大学の管轄にある、緒方洪庵旧宅及塾です。

蘭学者としての洪庵先生は、坪井信道に師事したときより活躍しておられます。訳本は、「医薬品述語集」「視力乏弱病論」「医学入門物理約説」「視学升堂」「和蘭詞解略説」「袖珍内外方叢」など。そして、大阪で開業してからの著作には「病学通論」「扶氏経験遺訓」「虎狼痢治準」の三篇があります。特にこの3つはどこかで耳にされた方も多いのではないかと思います。

翻訳書が広く読まれるというのは、原書が良いというのはもちろんですが、まず翻訳が分かりやすく良いものであるということが肝要。翻訳は原書が読めない人のためのものだ、ということで、洪庵先生は原文の細部にはこだわらず、直訳ではなく分かりやすく意訳した。学者は直訳にこだわって、小難しい漢語造語をひねり出すけれども、結局読む人には理解されない。

福沢諭吉は洪庵先生を「一旦文事に臨むときは、大胆とも磊落とも譬へ難き放胆家」と評しています。出版するものは下女に読ませて彼女が分かる文を作った、というエピソード持ちの福沢ですが。文章は、一般人にわかり易いものを、というのは緒方洪庵と彼の薫陶を受けた者たちの心するところでした。大鳥の南柯紀行も、他の戦記と読み比べると明快さがよくわかる。

物事を分かりやすく示すためには、まずその本質を十分理解し、自分の中で噛み砕いていないとできない仕業です。「わかりやすく」表現する訓練は、人の論理力と感性を研ぎ澄ませます。本質をがっちり掴んだ「わかりやすさ」は「鋭さ」となります。そして、鋭さはある種のカリスマを呼び起こします。
この「わかりやすく」という方針が、彼の門下生を明治の偉人たらしめた一番大きな要素だったのではないかと自分は思います。

さて、「扶氏経験遺訓」は洪庵先生の代表作とでもいうべきもの。原本は、1836年、ドイツの医者フーフェランド(C.W.Hufeland)の内科医書で、これをオランダのハーヘマン(H.H.Hageman,Jr)がオランダ語訳した。
フーフェランドの五十年の経験に基づいて系統立てて纏められた教科書で、医学必携、というもので、原書、写本ともにすでに非常に評判が高く、刊行後は非常に歓迎されたということ。

一方、「虎狼痢治準」は、安政5年、1858年の刊行。この夏、長崎から流入してきたコレラが大阪で大流行。一方で医師たちはどのように治療していいのかわからない状態だった。そこで洪庵先生が急いで原本から訳出しした。

この頃、ポンペが長崎にいて、ウンデルリッヒのコレラ治療法を紹介し、助手だった松本良順に口授して訳させた。これが流布していたけれども、「扶氏経験遺訓」のコレラの章とは説くところが非常に違っていて、医者はどちらに従えばいいのか分からないという状態を招いた。しかもポンペの紹介した治療法は、マラリアの特効薬でもあるキニーネを用いる方法だった。このキニーネの原料になるキナの樹、アカネ科のアカキナはアンデスの高地に自生するというもの。皆がキニーネを使ったので、医者の手に入らなくなってしまった。日本では1794年に伊良子光顕がキナ皮の臨床実験をしているけれども、栽培していたのかはどうだろう。(キニーネは副作用か吐き気が辛い…)

そこで洪庵は、モスト、カンスタット、コンラジの三冊の本からコレラの項を訳し、症状、治療法を詳しく紹介。さらに自分の経験を交えて批判的に総合し、「虎狼痢治準」と題した。「百部絶版不許売買」とあるとのことで、最初は百部だけを無料で配ったと思われるとのことでした。

ところが、洪庵先生は、この「虎狼痢治準」に「今、彼のポムペが口授、汎くこの都下に流伝して、医俗共にこれを誤る者甚だ少なからず。故に固陋を省みず、聊か弁する事爾りと云ふ」とポンペ批判を書いてしまった。ここに、松本良順から厳しい抗議文が持ち込まれた。そこで、洪庵先生は、松本良順の抗議を全文刷り、自分の過ちを謝して、「虎狼痢治準」の後へつづりこんで、さらに配布した。

撤回もせず、抗議文と謝罪文と一緒に配布した、というのがなんとも、洪庵先生の、謙虚さと意志の強さを同時に内包した人柄をうかがわせます。

「虎狼痢治準」は学術のためではない。ましてや自分の名声のためでもない。今将に目の前で死に行く人々、困り果てた医師たちのために、世に配られたもの。なので、急いで纏められた覚え書きのような側面もあった。箕作秋坪は知人への手紙で、「急卒の書にて候へども、余り疎漏、メース(師)の名を損じ申候」と。あまりに疎漏で緒方洪庵の名を汚す、とまで言っている。けれども、洪庵先生は患者のため実用のために、完璧ではない書だけれども、あえて世に出した。洪庵先生は象牙の塔の学者ではない。多少粗漏があって名は汚れても、世に益すれば良い。

そうした、実際に世に役立つためのあり方を常に追求していたその背中に、弟子も習うところが大きかったのではないかと思います。

大鳥の徹底した実用、合理性の心向きは、こうした洪庵先生のあり方から影響を受けたところが大きかったのではないかと思えます。

他、種痘に関しての功績は、世に知られたところではないかと。

そして、強調したいのは、教育者としての洪庵先生。

嘉永七年。大鳥が入門して2年。ペリーが浦賀にやってきた翌年の手紙に、次のものがあります。

「当時は病用相省き、専ら書生指導いたし、当今必用の西洋学者を育成候積に覚悟し、先づ是を任といたし居申し候」

あんなに、世のため患者のために、医者として尽くした洪庵先生ですが。なんと、この年になって、医者は用務は置いておいて、まず書生を指導して、今緊急に必要となっている西洋学者たちを養成する。それを己の任務とした。
医者よりも、教育者としての使命に目覚めた。

これは特筆する事ではないかと思います。

医学にとどまらず、あるいは医学はツールとして、世に必要とされる洋学者を育てる世に送り出すほうが大事。

この洪庵先生の考えに刺激を受けたからこそ、大鳥は、親の後を継ぐための医学よりも、化学物理、工学、兵学の道を選べたのではないかと思いました。

よくエンジニアが抱く言葉にあるのですが。

医学は人を治療する。工学は世を治療する。

目の前の人を治療するのは勿論大事な事で、必要な事だけれども、効力は限られている。その人の前ではその人の恩人になれるけれども、効果はその人に限られる。
けれども、工学は、技術を用いて世の中全ての人々に裨益させることができる。
一人の力で、より大きい実効を求められる。
そうしたより大きな効力を世に供せる人材を育てるのが、任務。

洪庵先生と大鳥の生き方に、そうした共通するメンタリティを感じました。

ちなみに、この頃の圭介は、金子二両と布団送ってくれて有難うとか、適塾は塾生五十人余いて殊のほか繁盛とか、読書の合間に筆写して飯代の足しにしているとか。「鵬圭介」の名前で、家族に手紙を送っています。翼を伸す未満のオオトリ、若いです。


そんな洪庵先生ですが。文久二年、五十三歳のとき、洪庵先生は幕府より召され、将軍の侍医たる奥医師に任じられます。これは林洞海と伊東玄朴の推挙によりました。洪庵先生は再三辞退していたけれども、やむを得ず引き受けたとのこと。
この時の心境を、洪庵先生は息子への手紙にしたためています。

「身に取りては、冥加至極、ありがたき事には候へども、病弱の体質、老後の勤め、なかなか苦労の至り、殊に往(住?)慣れたる土地を放れ候事、経済に於いても甚だ不勝手。実に世に謂ふありがた迷惑なるものにこれあり候。しかしながら、道のため、子孫のため、討死の覚悟に罷りあり候」

自分は老いたし病弱であるし、住み慣れた土地を離れて、苦労の至りだ。金もかかる。ありがた迷惑だ、と。しかしながら、医学のため、子孫のため、討ち死にの覚悟で引き受けた、と。

洪庵先生は、奥医師と兼務で、医学所の頭取に任じられました。西洋医学所ともよばれ、後に東京大学の医学部に発展する機関。洪庵先生は大阪大学・東京大学双方の医学部に関係していたことになります。この医学所はまだ体制が整っておらず、組織立ち上げのために骨を折らねばならなりませんでした。

そして、大阪で自らの方針のままに自由に過ごしていた洪庵先生が、幕府機関の中で、急に伝統と慣習でがんじがらめになってしまった。身分費用・つきあいのための身の回りの出費がかさみ、心身ともに疲れ果ててしまった。とくに奥医師になったにつけ、礼服、住居も身分に合わせて新調せねばならず、家来も雇わねばならない。引越しにも大きな費用がかさんだ。「とても蓄えの金子にては相足り申さず、身分こそ高く相成り候、ありがたき事には候えども、是より代貧乏人と相成り、年老いて苦労致さねばならぬ仕合、如何とも情けなき次第」と息子への書簡に認めている。洪庵先生は身分だけ高い代貧乏人になってしまった。

そして江戸へ来て僅か十ヶ月。文久三年六月十日、下谷御徒町の医学書頭取屋敷で喀血。窒息のために亡くなりました。弟子は四十人五十人と駆けつけ、通夜を過ごしました。福沢諭吉や村田蔵六もその一人。大鳥がこの中にいたのかどうかは、記録に名前が見当たらないのでわかりません。

医学所の後任、第三代頭取には、松本良順が就きました。

適材適所と人は言い、洪庵先生はまさにそれを具現した生き方であったのだけれども。その能と器ゆえに適さない地位に置かれてしまい、不遇に生涯を閉じてしまった。やるせない気持ちになります。


さて、大鳥の獄中日記の記述から、この適塾時代の修学について、ちょうど素晴らしい考察をしてくださっている方がいらっしゃいました。ご紹介させてください。

http://shandong.blog87.fc2.com/blog-date-20070705.html

「扶氏経験遺訓」の訳語と、大鳥が獄中日記で用いた用語の共通点を見出されています。素晴らしい…。
ご自身の専門性をもとに、ここまで緻密な作業をされる方がいてくださったのかとびっくりしました。

ちゃんと大鳥、医学も勉強していたのだな、というか、少なくとも洪庵先生の著作は読んでいたのだろうと思いました。
ちなみに大鳥はそれ以来医学と全く無縁だというわけではなく、後年になってからも、明治23年に「同化論」という生化学関係の論考を発表したりしています。


というわけで、洪庵先生の人生、考え方、実際の行動を見るだに、世に冠する英雄という柄ではないけれども、それだけいっそう、本当に何が世の中にとって益することなのか、名より実利を謙虚に考え抜いて実行した方ということが感じられました。自分の名前はどうであれ、自分の為すことが世の福利になるならば、それが自分の動力となり、幸せとなる。

そうしたマインドを、大鳥は着実に引き継いだのだということが、洋学者時代、開拓使、工部省などを通したその生き方から伺えるのです。

それで、あの書画は、やはり洪庵先生その人に宛てたものではないかという思いが強くなったのでした。

内国勧業博覧会の中身については、また次回…。
posted by 入潮 at 04:37| Comment(2) | TrackBack(1) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月10日

「明治五年・六年 大鳥圭介の英・米産業視察日記」

金曜日にようやく手にできました。落ち着かない1ヶ月でした。

福本龍 著 「明治五年・六年 大鳥圭介の英・米産業視察日記」
ISBN 978-4-336-04943-8

…実物を手にして初めてフルの題名が分かりました。

茹りました。生の大鳥圭介に。
実録とはこういうものかと思いました。主観を一切交えず、あるがままの記録を呈し、かぎりなく客観性を確保しながら、彼らが何を見て何を感じたのかが、福本先生の手を通じて綴られています。

国書刊行会さんのオンラインブックショップから、購入可能です。
http://www.kokusho.co.jp/order/index.html

出版後なのに「今月の新刊」にも出てない、全く広告が見当たらない、一体どういうことですかと、出版社様に直接絡んだ甲斐がありました。嫌な読者です。ご迷惑おかけしました…。

● 表紙・帯

表紙が、表紙が、まず泣かせます。

大鳥の、米英の、工場のみならず社会全てを視察した感を凝縮した言葉。

"Nothing is so easy as the discovery of yesterday;
Nothing is so difficult as the discovery of tomorrow."

これが、大鳥の生の筆跡で、いきなり表紙にあります。
ボストンかロンドンかの港湾都市を見下ろす風景に、大鳥の文字で、浮かび上がっています。

絶妙な構成です。

過去になされた発見ほどやさしく見えるものはなく、これから行う発見ほど難しいものはない。

大鳥のオリジナルの言葉だと思います。
今まで自分が見てきたものを、自分の国で実現させるのだという、あふれる主体者意識。それが篭められたものが、いきなり表紙に見える。

帯がまた泣かせます。

「戊辰戦争敗軍の将が1872,3年の英・米の産業を広範囲に視察した貴重なノート。科学者大鳥の眼が鋭く活写する!」

そのあおりの通り、裏表紙は、ちょっと鋭い、挑むような目をしている感じの大鳥さんです。

そして裏表紙側の帯。

「民を富し国を興すの要は、必百般の工業を開くにあり」

…開拓使四部作(石炭編・石油編・阿膠編・木酢編)の緒言ではありませんか。
よくぞこれを抽出してくださった…と、感涙です。

釈放されて、ようやく人生の本道に戻ってきた大鳥。その大鳥のこれからの10年を凝集した言葉です。
さまざまな工業を発展させることが、民を富ませ、民力を高め、国を底上げする。

国を興す。

大鳥に限らず、明治の実務者たちが拘り抜いた言葉です。

百般の工業。工部省の目的には「百工」という言葉がすでに用いられていますが。
これを記したの頃は、まだ開拓使だった大鳥。工部省において工業が自分の職務になるという見通しはまだ立っていなかったと思います。けれども、己の職位に関わらず、己の職務をすでに見出していた。

「当時、世界で最先端の米英産業の実際を視察する機会に恵まれた大鳥圭介は、科学者の眼で百般つぶさに見聞、記録した。これが、明治初期の日本の工業育成と産業振興に益し指導的な役割を担っていく事になる」

…感無量。
もう、私、何も言う事はありません。これで、いつサイト閉じてもいいと思った。

表紙の写真は以下のサイトに掲載されています。 (品切れになっている。Amazonも予約中だ。奥ゆかしい。)
http://item.rakuten.co.jp/book/4449877/

● 巻頭

開くといきなり、「大鳥圭介日記」の表紙。
そして、「日記の冒頭部分」としながら、ブラントン、とか、宇都宮、とかいう字が見える。大鳥の字が。
次のページには、硫酸・炭酸ソーダの製法について、ナフサ精製装置や石切鋸のスケッチ。
嫌が応にも期待が高まる造りです。にくい。

● 緒言

福本龍先生、前作の「われ徒死せず」もそうでしたが。緒言にはまことに泣かされました。
まさにこれを言って欲しかったのだ、という文言が連なっています。

以下、福本先生の言葉を先入観なしで読みたい、という方は飛ばしてください。反転。


「大鳥圭介は一冊のノートを遺していた。おそらくロンドンで買ったものであろう。新書版ぐらいの大きさで茶色の皮の表紙である。ノートの薄い紙にはインクでぎっしりと書き込みがある」

この書き出しの最初の時点で、咽びました。本文に行く前に、この三行を、何度読み返したことか。

事実のみを淡々と述べながら、かくも期待を掻き立てる言葉がありましょうか。

飾らない事実が、何にも優る説得力だ。

そう思わせる書き出しです。

そして、ノートの概略を解説した後。

「明治五、六年ごろのイギリス、アメリカの工業をこれほど多く、また広い範囲にわたって視察した記録はないであろう」

と、大鳥の記録の独自性と価値について述べています。この言葉に尽きると思います。

そして、渡航に至るまでの大鳥の半生についてざっくりと触れられるのですが。

「大鳥圭介は、明治維新という歴史的な大舞台に、官軍に敵対した『総督』として登場したのである。もともとは『西洋科学の学者』であったことは世間から忘れられてしまった」

戊辰戦争は大鳥にとってあくまでわき道であったと言わんばかりで、この記述もまた喝采ものでした。
「世間」というのは、当時も現在も含めてのことだと思います。
戊辰の軍人あるいは兵学者としての大鳥のみに焦点を当てるのは、片手落ちどころか、指一本にしか触れていない事だと思います。

「大鳥は先端の石炭、石油産業を知る日本では数少ない人であった」

と、これまで知られていなかった、資源技術における先覚者としての大鳥にも注目してくださっています。

日本科学技術史体系で紹介されていた、宇都宮三郎との、一ヶ月半で百数十箇所の怒涛の工場巡りについても、確り引用してくださっているのが嬉しい。

工部省についても、その工部省官歴を説明する中で、

「工学に関するほとんどの権限を大鳥圭介は任された事になる」

と、「われ徒死せず」ではほとんど触れられていなかった、工業・科学技術の実務者であった大鳥について、存分に補完して下さいました。


「大鳥圭介は七十九年の生涯であった。牢を出てアメリカへ行ったのがちょうど四十歳。人生の折り返し点であった」

という言も、大鳥にとってこの洋行がマイルストーンであったことを示唆する書き方。

「多彩な人生とも言われるが、終始大鳥を支えていたのは彼の前半生の適塾からはじまった西洋の科学への興味と猛勉強であった。加えてこの熱心な先端産業の視察が明治初めの日本の近代工業の育成に大きく役立っていたのであった」

この言葉が、大鳥の本質と、時代における大鳥の位置づけを、がっぷり捉えて離さないと思います。
この言葉があって、大鳥の事跡に眼を向ける方も現れるのではないかと。戊辰戦争の後はそのまま学習院長やら日清戦争やらに飛んでしまう百科事典的羅列も、変わっていくのではないかと思います。

簡潔にして、不足なく、冗長なく、必要を抽出しきった、素晴らしい緒言だと思いました。



● 本文

イギリスまで、イギリス各地、ロンドン、アメリカの、それぞれ4章に分かれた構成です。

単なる大鳥の日記の書き出しだけではなく、北海道庁文書館文書、明治前期財政経済史料集成の吉田清成日記、木戸孝允日記、久米邦武米欧回覧実記、ブラントン手記、黒田や吉田に宛てた書簡などを適宜抜き出し、時系列に何が起こっているのかを包括的に書いて下さっています。

特に大鳥日記の現存する明治五年八月二十三日以前は、他の史料から流れを説明してくださり、補完しあいながら記述してくださっています。福本先生の労力を感じさせます。

解説は最小限に留め、且つ客観的。史料の記述そのものを読ませる構成です。

日記に出てくる登場人物については、流れを邪魔しないようにとの配慮で、章末にまとめて解説されています。

中身については、取り上げていると限がないので、また次回以降に触れたいと思うのですが。

蝋燭、ガソリン、軽油、パラフィン、石炭、照明、革製品、塗り薬、鏡、洗剤、石鹸、食肉保存、ゴム製品、水道、冬期、漆喰、灯台、鉄製品、鉛製品、絵の具、めっき、紙、接着剤、染色、活字の印刷物、船、気球、靴、ガラス製品、砂糖、ウィスキー、防腐剤、化繊、活字、火薬、大砲、監獄……

に世話になったことのある人は、刮目して手に取るべし。
つまり日本で文明生活をしている人は、全て該当者です。(最後のはともかく)

…と私は本気で思います。

などと、書きたてておいて何ですが。

正直、自分、大鳥メモの部分は、二割も理解できませんでした。
自分の専門に若干関係のある石炭・石油部分も、全ては分かりませんでした。

記録は、最小限です。当時の大鳥が、自分にとって必要と思った事しか書いていない。メモだけ見ていても、なにも面白くないと思います。
福本先生の解説も一部に付いていますが、よくここまで読み解かれたと感嘆しました。

なにせ、対象を見る視点が、一般人と全く違う。

大まかな流れを見たり、当時の欧米を眺めた日本人のリーダー達に何があったのか、彼らが何を感じたのかを学びたいときは、木戸孝允日記、久米邦武米欧回覧実記を見るほうがずっと面白いし、得られるものも多いと思います。

大鳥のメモは、「何があるのか」という視点で書かれたものではありません。

「どうやって作るのか」という視点です。

それを、大鳥自身が後ほど自分が参照するためのメモです。ひとに読ませるための文ではありません。

なので、このメモを本当に理解するためには、当時の大鳥の持っていたバックグラウンド知識が必要になります。

化学でSO3HOとかNH4SHとか、ありえない化学式がでてきたり。
宇都宮氏経歴談でもそうでしたが、当時の化学には価数の概念が無かったのだろうとか。洋学史や化学史を紐解く方にはかなり面白いだろうとは思うのですが。
何が起こっているのか理解できないところが大半でした。

負け惜しみではないのですが、宇都宮三郎レベルでないと、大鳥のメモはきちんと理解できないのではないかと思う。
ここは自分理解したぞ!という方、教えてください、と請いに上がりたいぐらいです。

専門性の高い記述というのは、そういうものです。
一般には全く理解されないけれども、自分がその職務として打ち込んでいる人ほど価値がある。参照される。
現在、まさに当該の製造業の現場にいらっしゃる方には、興味深いところ大なのではないかと思いました。

読んでいて面白いし、理解できるのは、断然、久米や木戸の記録のほうだと思います。

ただそれは、我々読者は、別に作らなくてもいいから。何があったのか分かればいいという視点で読むから。

けれども、大鳥には、次に手を動かし頭をひねってこれを導入するのだという主体者意識がある。その意識に必要な要件のみが記されている。
そこには、自分の国でこれを作るのは自分だという使命感が、漲っています。

それが大鳥洋行日記であると思いました。

こう言っては福本先生と出版社さんには申し訳ないですが。この本、数は売れないだろうと思います。在庫泣かせになると思います。

でも、100年後にも参照され続け、バイブルのように手に取る人は必ずどこかに居て、各研究論文の「参考書籍」に挙げられる本だと思います。また、この記録を元に、新たな「発見」がなされる可能性もあると思います。

なので、一般人の家にはなくても、大学図書館や県立図書館クラスには、必ずあって欲しい本だと思います。

(一方で、大河景気で、脚色だらけの何が真実かわからない大衆向け読本をタケノコのように乱発して、一時の益を得ようとする出版物には、思うところ無きにしも非ず。ビジネスとしては正しいのでしょうけれども。)

あと、戊辰戦争での他の人物との関連という点での大鳥にのみ興味のある方にとっては、あまり面白いものではないかもしれません
でも、そういう方にこそ読んで欲しいと、矛盾したことを思いました。

この難解なものを、しかも大鳥のよみにくい筆跡を、ここまで読み解かれた福本先生、解読された方々には、尊敬と感謝の意がとどまりません。

そして、この売れなさそうな(褒め言葉です)本を発刊に踏み切った国書刊行会さんにも、頭が下がります。

そういうわけで、とりあえずレビュー第一弾。
これから二週目に入ります。
posted by 入潮 at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

大鳥圭介産業視察日記その2 現代の技術者

台風の週末になりそうですね。梅雨前線巻き込んでの豪雨で。うちのボロ屋は大丈夫だろうか。雨漏りも心配だ。
湿気があるせいか、ここのところ、家に妙な虫が出ています。蚊かと思ったらミャンマーでかまれたヒルよりも凄い痕になってしまった。何者だ。
そんな自然と触れ合える家。何か違う。


今週、研修やら会議やらで出ずっぱりでした。でも仕事は減らない。会社に戻ってから日が変わるまで残業で疲れて、なかなかポストが進みません。

今週前半は横浜で開催されていたカンファレンスに出てました。展示会はずいぶんと久しぶりでした。ずっと実務のほうでそれどころじゃなかったので、2年ぶりぐらいか。

場所はみなとみらいでした。よほど降りずにこのまま先の「日本大通り駅」のまで行きたいと思い、うずうずしてました。先には横浜開港資料館がありまして。洋学者や陸軍関係の資料がかなり気になっています。

新知識の受容港だったという横浜にあやかった、というわけではないと思いますが。
バイオフューエルという、数年で著しく伸びてきた技術についての展示会でした。各企業がしのぎを削って新しい事にチャレンジしていて、独特の活気がありました。

今後自分もプラント設計で、機器の仕様を決めたり費用算定したりしないとならないので、分析機器や遠心分離機、熱交換器や水処理のブースを行ったりきたりで話を聞いていたのですが。楽しかったです。 「差し支えない範囲で」ということで、過去の実績、利点、販売価格・納入コストなどを聞くのですが、突っ込んで聞いていると開発者の方が出てきてくださって、特許技術の中身をちらっと教えてくださったりして。技術者というのは自分にしかわからないことを聞かれると嬉しい人々なのだなぁと思いました。

聞いている途中は楽しいので、メモは最小限で殴り書き。それで、会社に戻って報告を作るために、自分のメモを見ると、これがまた悪筆。イニシャルと数字だけ書いてあったり。自分のメモにいらいらする。この苛つきに、なんだか既視感が沸いた。

…大鳥メモだ、と。

先日、大鳥の産業視察記録について、ああは書いたのですが。
正直、わけがわからん、もっと人にわかりやすく書いてくれと、内心、トホホな状態だったのです。
一番情けないのは自分の理解力の無さ自体なのですが。

メモというのは、自分が覚えきれないような正確さを期すことが必要なもののために書くもの。自分のためのもので、自分だけ分かれば良い。

大鳥メモの特徴。

・数字を書く=定量的に書き記す
・材料を特定する
・処理方法を明確にする
・価格を書いている。材料費、製品販売費、人件費(維持管理費)など
・なぜそこを見たのかという経緯や、見たものがどれほどの価値を持つかという評価は書いていない

などですが。
これらは皆、あとから自分が行う意識があって、真剣に出てくる質問事項。その一番実質的な中身のみ。
視察中は聞く、見ることで大変忙しいので、自然、その際のメモは最小限かつ最も必要な記述のみとなる。
なぜそこを訪れることになったかや、見た結果の評価は、余人に読ませるためには必要だけれども、自分はもう知っているので、わざわざ書かない。

そして、大抵は、何を書いているのかは自分にしか分からない。
それを、報告書として体裁を整えるという「翻訳」作業を通じて初めて余人に読ませられるものになる。

そうした点で、大鳥の産業視察日記の、視察記録部分は「日記」というより、自分のための純粋な「メモ」であったのだと思います。まだ料理していない材料そのもの。だから人に食べさせるようなものではない。
工場見学に行く際に常に懐に忍ばせていたのでしょう。日記帳も「新書版ぐらいの大きさ」とあるので、携帯性を重視して選んだのだと思います。

これを用いて料理されたのが開拓使四部作であり、工業新報に投稿された記事であるわけで。比較対照しながら読んで初めて理解できるものではないかと思います。こうして、はからずしも、後世の人間に労働を要求するのが大鳥。

たぶん、このメモが公開されるなんて本人は夢にも思ってなかったんだろうなと思います。そして公開される話が来ると「え、嘘、ちょっと、やめてよー」と、許可はしないと思います。

それにしても、視察メモが、非常に広範な範囲に渡っていたことに、今更ながら驚きます。普通技術者が主体的に携われるのは、せいぜい3分野が限度だと思います。それ以外は他人の仕事、と思うものだと思うのですが。100を超える工場で自分の主体性を失わないままに視察してメモをし続けたというのは、生半可ではないと思います。彼が工作局長というのは、適材適所の極みだな、と。私は1つのプラントだけでもうアップアップしています。


さて、分野変わって、本日は水力関係の研修でした。 場所は工部省の目の前。工部省は今は心の目で見るしかないですが。

実務者研修と銘打たれた研修だけあって、コスト低減のための実際の工法、事例、経済性が紹介されていて、とっても面白かったです。

特に、地下に調整池を作るという新しいアイデアの水力発電所の報告がありまして。堰やダムで作るような、川の水を溜めるための場所を、地下に作って環境負荷を減じコストを下げたというもの。

電気は溜められないけれども、発電のための水は溜められる。そこで電気をたくさん使う昼のために、夜は水を溜める。そのための池を調整池といいます。また、水が少なくなって流量が少ないと水車の効率が悪くなるのですが、水を溜めておくと水車の効率の良い十分な流量で運転ができる。そうすると発電量も増す。その分火力発電の電気を使わなくていいから石油を節約できる。

それで、地下調整池建設のために、最新の発破法やトンネル工法も考慮し、コスト算定のプログラムを作って設計システムまで立ち上げた。そして既存の発電所に地下貯水池を増設するための具体的なケーススタディを実施した。この技術を広めるためのヒューマンインターフェースまで面倒を見た。

ものすごく大変なお仕事だったと思います。非常にニッチな技術で、一般の方には全く縁がない類のものなのですが。使えるところ、使いたいと思う人にとってはとても有用。

報告してくださった技術者の方は、とても楽しそうでした。なんというか、自分が心身捧げてきたものが、たとえ家族や一般人にはまったく理解されなくても、同業者にはわかってもらえる、その喜びをかみしめている感じで。黒目がちの眼をくるくるさせて質問者の方に嬉しそうに答えておられる様には、きゅんとしました。こういう技術者の方がいらっしゃるのだから、日本はまだまだ大丈夫だな、などと思いました。

開発調査は資源エネルギー庁の委託事業だったので、報告書はこちらで公開されていたりします。

こうした知識は、これまでだと会社内部や業界の技術として語り継がれ、人脈がないとなかなか手に入れられなかったりしたものですが。公の税金で行われた調査だから、公に成果を開放するべき、という考えに基づいて、どんどん専門的な報告書が公開されています。

それで、今は、玄人だろうが素人だろうが、インターネットで様々な分野の研究開発報告が手に入るようになった。確かに未だほとんどのネット知識はあやふやで、確実性が乏しかったり、責任の所在がはっきりしなかったりで、結局きちんとした文書を手に入れて人に教えを請わないと実のあるものにはならないのですが。一方でプロフェッショナルが手にするような材料も、あるところにはあります。良い世の中です。

ちなみに、水力についての、大鳥の言。

「木綿を織り出し、其他メリヤスを製り、糸を作る、針を造り木を挽く等、皆水力に依れり。実に蒸気に比すれば入費を省きて其利の□大なる事を感ぜり」

同じく日記より。めずらしく感慨が書いてあります。よほど印象的だったのでしょう。
水力を動力として繊維製品を作る。エネルギーとして石炭を常に補充しなければならない蒸気機関に比べると、維持管理費用はごく少ない。その利は大きい。(初期コストは高いけれども)

これが後の「堰堤築法新按」の翻訳に繋がる大鳥の感動だったのだと思います。

水力は、化石燃料を使わない、自然のエネルギー。一度作れば、あとは川に水が流れる限り、燃料なしで、少しのメンテナンス費用だけで、ずっと使える。
今も、大鳥のことは知らないけれども大鳥と同じことを感じている技術者の方は、確かにいらっしゃいます。

というわけで、我ながらこじつけがましいとは思いつつ。
産業視察日記に浸る時間がなかなかできないので、実利に趣味を見出ししてきました。不純です。これが仕事なんだから良い身分だと思います。自宅残業しているので許してください。あ、またややこしいメールが入った…
posted by 入潮 at 23:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月17日

柏崎刈羽原子力停止

新潟県中越沖地震。被災地の皆様、大変な思いをされていると思います。写真を見ながら、明日はわが身だと思いました。一日も早い復旧をお祈り致します。

甘利明経済産業相より、東京電力社長に、直々、柏崎刈羽原発の運転停止の指示命令が下った由。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070717-00000024-reu-bus_all


これにより、現在停止中の1,5,6号機に加え、2,3,4,7号機が新たに停止された。
2,3,4号機がそれぞれ1100MW、7号機が 1356MW。合計、5756MWが停止中となる。この容量は、ミャンマー3つ分以上。

ちなみに世界でも有数といわれている大容量火力発電所の姉崎火力で3600MW。東京電力さんの総発電設備容量は、同社WP(http://www.tepco.co.jp/i/vo/press/07052502-j.html)によると74.9万MW。(2006年度末、他社受電含む)
今回の停止分は、東京電力さんの総設備容量の0.8%に相当します。

幸いというべきか。近頃まだ涼しく、電力需要のピークにあたる猛暑のピークはまだ来ていない。このピーク需要(時間ごとに変動する分の電気の需要)は、昼間のクーラー需要が大きい。ちなみに、通常の暑さの場合の設備需要は61.1万MWで猛暑の場合は64万MWと想定されている。このピークに対応するためには水力・火力発電から主に回されますが、そのベースに原発からの給電は必須。原発がないと、その分余計に火力発電の火を炊いて埋め合わせせねばならない。

この柏崎の現在停止中の5756MW。1日停止するのに、一体どのぐらいの火力発電からの補充が必要なのかとふと思いました。ざくっと計算してみます。

原発の設備利用率を90%とすると、停止により火力発電で補充されなければならない量は。

5756 x 0.9 x 24 = 124,328 MWh/日

ある程度は別の原発からとなるのでしょうけれども、仮に全部を火力発電から回してくるとします。

この発電量に相当する石油の所要量。

エネルギー庁のデータ (http://www.enecho.meti.go.jp/info/statistics/denki/h19/4-3-H19.xls) より、東京では 0.248 L/kWh 、つまり 1kWhの電気を起こすのに、0.248Lの石油が必要として。

0.248 x 1000 x 124,328 = 30,833,344 L

1バレル=159Lとすると、

30,833,344 L = 193,920 bbl

つまり、地震により停止中の柏崎原発の1日ストップ分をまかなうのに、毎日20万本のドラム缶分の石油が必要です。

この原油高の時期に、毎日毎日20万バレル。
原油価格時価にすると、本日1バレル74$というニュース。(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070717-00000402-yom-bus_all)
今日のレート122.04円/$ を適用すると、1バレル=9031円。
つまり、1日あたりの原油代。

193,920 x 9,031 = 1,751,281,824 円

毎日、17.5億円の原油代支出が、東電さんに課されることになります。
(実際は先物取引しているからこの数字にはならないと思いますが)

原発の偉大さがわかります。

勿論安全性が大事というのはわかりますが。原発を1日止めるだけで毎日これだけの損失が発生していると考えると、何ともいえない感じです。17.5億円あれば十分な義捐金になるでしょう。
東電さんも被害者です。報告が遅いなどと弱い者いじめをしていないで、1日も早い復旧ができるよう具体策を講じてほしいものです、経産省大臣さん。

ちなみに、発電方式別の発電電力量比率。2003年の日本では、
水力:9.1%、石油:13.2%、ガス:24.3%、石炭28.2% (火力合計65.7%)、原子力23.1%。
(http://www.tepco.co.jp/custom/LapLearn/teacher/junior/chapter_5/50-53-j.html)
ということで、原子力が1/4程度をまかなっています。

一方、家庭での家電別消費電力を見ると。
(http://panasonic.co.jp/cs/kaden/denryoku/index.html)
エアコン25.2%、冷蔵庫16.1%、照明器具16.1%、テレビ9.9%。

つまり、原子力無しで生活するとなるということは、エアコン無し、または冷蔵庫+テレビ無しで生活するということと、エネルギー的には同じです。

(実際は産業用、業務用、民生用と分かれているので、この家庭の比率が全体にそのまま当てはまるわけではないですが。単純化のためということで)

自分は別に原子力推進派というわけではありませんが、原子力無しでは今の便利な世の中は成り立たないことは、なんとなく理解しています。「原子力反対」という方は多いですが、その中で原子力がなくなるなら自分はエアコンか、テレビ+冷蔵庫か、どちらか無しの生活で構わない、という方はどのぐらいいらっしゃるのだろうか。そういうアンケート調査は行われていないのだろうか。…特定の答えを引き出すためのアンケートだという非難は免れ得ないから行われていないのだろう。

ちなみに自分は、家ではエアコンとテレビは無しで生活しています。…誰も聞いていない。もとい。
「原発無し+ エアコン or テレビ+冷蔵庫無し」で良いか、それとも原発はやはり必要か。皆様にお伺いしてみたいところです。


加えて、この原発停止による火力発電で、どれだけ二酸化炭素が排出されるか推定してみます。

同じくエネルギー庁が策定している換算係数のデフォルト値
(http://www.env.go.jp/earth/ghg-santeikohyo/material/denkihaishutu/cm_ec/main.pdf)、0.000555t-CO2/kWh を適用すると。

0.000555 x 1000 x 124,398 = 69,002 t

…6万9千トンのCO2が毎日排出されます。

原発停止1日で、自分が今行っているプロジェクトで削減しようとしているCO2の、■年分が消し飛びました。
■は、余りに虚しくて、数字が出せません。1以上であるのは確かです。自分らは身を粉にして、一体何を意味の無いことをやっているのだろうと思ってしまいます。

いや、被災地の方々のご苦労を思えば、何のことはないのですが。


京都議定書で定められた-6%枠を削減するためには、電力会社などには、二酸化炭素の排出削減が義務付けられます。満たせない場合は、どこか別のところがCO2を排出を削減したら、その「排出枠」を買い取らねばなりません。
もし東電さんが、義務付けられた削減量を満たすため、今回停止した原発の分の二酸化炭素の排出枠を買おうとすると。

現在CO2の取引価格が、大体20$/トン(上昇中)であるとして。

69,002 x 20 x 122.04 =168,420,082

1.7億円/日。毎日、1.7億円。1年間では617億円。排出された二酸化炭素のための支出が課されることになります。


被災地の方々はまったくそれどころではなく、こうしている今も余震と雨の二次災害の恐怖に過ごされていることを思うと、こういう暢気なことをやっているのも胸が痛むのですけれども…。

…被災地の皆様の生活と柏崎原発の一日も早い復旧を、お祈り致します。東電さんほか、水道、ガス、道路などライフラインに関わる皆様、大変だと思いますが、どうかがんばってください。
posted by 入潮 at 12:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月19日

国会図書館の進化

国会図書館。
相変わらず、この機関のためなら今の税金を払って全く惜しくないと思わせてくれる、素晴らしいパフォーマンスを見せてくださっています。
国会図書館の賛美は、以前もやっているのですが。

独立行政法人化の議論が自民党で出たときに、 「国立国会図書館は国会に属する機関であり…(略)政党の『提言』についてコメントする立場にありません」としながら、その動きについて牽制するかのように、自らの役割についてとキッパリと言い切ったのは、お見事でした。
こちらのページで全文が読めます。


さて、今回また喝采を挙げたのは、目標と評価
H19年度の重点目標。

1)書庫内資料の閲覧について、申込みから25分以内に提供:90%
2)オンライン複写について、申込みから50分以内に提供:95%
3)即日複写について、申込みから30分以内に提供:80%
4)後日複写について、申込日から4日(休館日を除く)で提供:90%

素晴らしい。利用者サービスとは何か。利用者が何を望んでいるのか。
それをよくわかって下さっている。
公の機関とはかくあるべし、という見本を見せ付けていると思います。


国会図書館にしかない知識はかなり多い。ほかの場所にあっても散逸しているので、一箇所でまとめて情報収集したいときは、国会図書館に優る存在はほとんどない。なので、国会図書館における作業効率が、そのまま知識の集積度合いにダイレクトに響いてくる。
遠隔地から来られる方も多いでしょうし。国会図書館の10分は、かなり濃い十分です。それが違うだけで、後の自分の進路に影響を及ぼしかねない情報が手に入ったりする。

なので、国会図書館における時間効率ほど大事なものはないと思います。

3)については、下で触れる100ページ制限があって為せる業だとは思いますが。
こういう具体的に何分・何日以内と数字で示し、絵に描いた餅にしないのは、本当にありがたいです。
昨年の結果を見る限り、トラブル以外は対処するシステムを作り上げた、という自信の表れかと思います。
2)のオンライン複写は大体15分ぐらいで出てきて、一番早かったりする。

更に、重点分野として「デジタルアーカイブの構築」として。

「『近代デジタルライブラリー』のコンテンツとして、大正期刊行図書の大部分を平成22年度までに公開する。 (略)デジタル・コンテンツを作成・提供する機関と協力して、わが国のデジタル情報の総合的なポータル・サイトを構築し、平成19年度から提供を行う。 」

と掲げているのも素晴らしいです。「大正期〜」については、もう半分ぐらいクリアされていると思います。ポータルサイトのほうももうだいぶできているのではないかと思うのですが。まだ意欲的広げようとして下さっているのかしら。期待も高まります。

何が知識・情報を媒体に国民に裨益するのか、がっぷりつかんでいる感じです。

そして、何より、はな。さんもご紹介してくださっていましたが。今回のデジタルライブラリの明治末〜大正年間の追加。

思わずCSVファイルを一から眺め回して、気持ちが悪くなりました…。
官報や統計、教科書類も多く、ものすごい量の基礎資料が、ネットリソースとして公開されたことになります。
個人的には工部大関連が多くて嬉しいです。

まず市助の「工学博士藤岡市助君伝」がある。(そういえばまだ藤岡市助についてのご紹介はまだでした。彼についてはいずれまたじっくりと。)

田辺朔郎による、「水力」「袖珍公式工師必携」(当時昼工事して夜に書かれたリアルタイム施工ハンドブック)のほか、朔郎編・田辺蓮舟著の「蓮舟遺稿」がある。

「工業大辞書」(M42)とか。当時の技術レベルがわかって凄く重宝ですし。「石油便覧」や「日本石油史」も個人的にありがたい。

戊辰関係では久留米藩資料とか、松平慶永の「戊辰日記」とか(これは復刻されている)

あと、欲を言えば、昭和初期のも優先してほしいと思ったり。

明治・大正時期のはほとんどマイクロ化されているので、実はかえって見やすかったりするのですが。
昭和初期〜戦後あたりは、酸性紙で痛みが激しく、複写できないものが多いのです。
別室で、パリパリ粉を吹く紙を、痛めないようにそーっとめくって、鉛筆で必要部分を書き写すというのは、精神的にも体力的にも時間的にも、かなりきつかったりします。


以前は、閲覧に待たされ、複写に待たされ、ということで、待たされ疲れすることが多かったのですが。
今は忙しくて、待つ、ということはまずなくなりました。
最も効率が良いのは、以下の3つを同時に行うこと。

1) 一般資料の閲覧+複写
2) 雑誌の閲覧+複写
3) オンライン複写で論文の複写

1)は通常の製本された書籍の閲覧で、場所は本館になります。1回に3冊まで。明治・大正・昭和初期の、マイクロフィルム化されたものも含みます。複写は同じ本館で申請・受け取り場があります。
マイクロは本館のリーダー室で読み、複写依頼することになります。

2)は定期刊行されている論文雑誌やジャーナル、漫画雑誌で、場所は新館になります。
雑誌は3種類までで、同じ雑誌の複数号を申し込めます。最大10号ぐらい出せたと思いますが、雑誌によって異なります。
複写は新館地下で行います。

3)は2)の雑誌についてですが、記事名や著者がわかっていれば検索マシンで当該雑誌の記事を指定し、閲覧することなく、直接複写依頼ができます。雑誌と同じ新館地下の複写カウンターから受け取ります。1回に3件まで。複写が終わるとまた申し込み可能です。

なお、1)、2)の複写についですが、1回あたり100ページの制限枠があります。「枚」ではなく「ページ」です。

この枠が結構苦しかったりします。それで、複写依頼を以下の通りにしてみる。

(縦書きの場合)
・複写開始ページ番号を左ページにする。
・複写終了ページ番号を右ページにする。

コピーは見開きで取ってくれるので、もう片側のページも収まることになります。
そうすれば、特に1冊から細切れに複写する場合、複写ページを増やせます。セコイです。

ちなみに、新館にいけば、本館の書籍も、もう100ページ複写できます。
ちまちま開始・終了ページを節約するより、雑誌の複写量が少ない場合は新館に行くほうが早いです。

それでも足りないなら、後日郵送ということで。後日複写はページ数制限無しです。(著作権が切れてない場合は著作権範囲内=本文の半分以下の縛りはあります) 以前は受け取るまで2週間以上かかり、忘れた頃にやってくるという感じだったのですが。最近は結構早く送ってくれます。目標成果制度万歳。

難点は、こういう複写を繰り返すと、1日1万円ぐらい平気で飛んでしまうということ。
なお、後日複写にすると、払い込みは後日郵便振替なので、お金が足りなくなったら後日郵送にするという手もあります。そうして抜け出せなくなる。

あと、郵送複写ですが。
図書館にいかなくとも、インターネットで複写依頼ができます。複写する文献名とページ場所がわかっていないとなりませんが。本の場合、まず目次ページだけ複写して送ってもらって、目次を見ながら該当する部分を再度申し込んで送ってもらう、ということも可能です。無論送料はかかりますが、図書館に行く手間暇をかけることを考えると、かなり便利です。
ただし、一度国会図書館に身分証明書をもって本人が訪れて、登録カードを作っておく必要があります。


そんな感じで、税金以上にさらに国会図書館につぎ込んでしまうわけなのですが。
少なくとも、飛んだ懐以上の充実感で、胸いっぱいになれます。

あとは、コピーの山を、自分の頭の中にちゃんと入れ、その後はファイルに入れ棚に入れて整理することですが。なかなかその最後までたどり着かないのは、困ったものです。このままでは紙がネズミの餌になる…。

ラベル:国会図書館
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2007年07月24日

浅田惟季 「北戦日誌」その1

報告書前なのに昼は研修を受けてたりしていて、連日明け方まで仕事して、先週はへろへろの一週間でした。今週もあまり変わりません
以前のような会社泊まりはすっぱり止めて、意地でも家には帰っているのですが。
空が白んで、さわやかな郵便配達人が街を駆け抜ける中の朝帰り。自分の時間はこのにーちゃんたちより1日遅いのだなと思うと、余計に不健康を自覚して疲れます。

ネタは毎日更新しても足りないぐらいありあまっているのですが。気力体力が尽きてます。

そんなときには「北戦日誌」。

読むほどに、若いなー、元気だなー、と思います。
負けてられん、と思わねばなりません。

戦況をや伝習隊人物を書くのに今まで散々引用してきたのですが、そういえば中身をきちんと語ったことがなかったな、と思いました。

著者はご存知、伝習第二大隊二番小隊頭取・浅田麟之助惟季。
生年が不祥なので、戊辰戦争時点で何歳なのか分からないのですが、文章からは、年は若いと思います。二十歳そこそこなのではないかと思う。略歴は伝習隊ページをご参照ください。

「北戦日誌」は、「浅田惟季北戦日誌節略」として「復古記」に収録されています。(以下「日誌」)
10冊、11冊、14冊に、それぞれの日付のところに分散して入っています。(藤原が10冊の「東海道戦記」に入っているとは知らなかった…亜樹さんありがとうございます!)

また、「復古記」を編纂した東大の史料編纂所に、「浅田惟季北戦日記抄」という名で、原本のその又原本らしきものがあります。(以下、「日記抄」)
らしき、としたのは。
「復古記」に収録されているものとは中身が色々と違うのです。「日誌」のほうが詳細で丁寧な説明です。写本の違い、というレベルの違いではなく、かなり分量も違います。
「日記抄」のほうは、所々書き下してはいますが、漢文のままのところも多い。楷書になったり崩し字が混じったりで、読みにくいです。…いや、慣れている方にとってはなんてことはないのだと思うのですが。

「日記抄」のほうは「北戦日誌」よりだいぶ簡略になっている一方、「北戦日誌」に含まれていない表現もあったりします。また、山入村や母成峠の戦いについては、「復古記」のほうには収録されていないので、こちらを参照するしかありません。

復古記の「北戦日誌」にするのに、「日記抄」をきちんと説明しなおした稿本が用意されたのではないかと思うのですけれども。それに相当するのがあるかどうか、今のところはわかりません。


で、「北戦日誌」の中身なのですが。
浅田君、かなり真面目で勉強家で、出来事をきっちり反芻して、次に生かす。その姿勢が存分に現れています。戦術を考えて、勉強しながら書いている、という感じです。
自分が参加した戦闘の推移はしっかり語り、ほかの史料にないぐらい詳細なのですが、反面、細部に眼が行って全体がどうなっているのかを捕えていない面もあります。この当たりは、一小隊長としてはごく適当で、より戦闘の現場の視点であるといえます。一方で、流れについては政治的なやり取りもきちんと書いていて、南柯紀行よりも詳細だったりするので、重宝します。

そして、熱いです。臨場感豊かに伝習隊の同僚達を書いてくれています。誰がどこでどんな動きをしたのか分かり、ありがたいです。

そして何よりの特徴は、浅田君が面白いのです。笑えます。
感覚がどうも一本どこかずれているのではないか、と思える記述がちらほらあります。

「南柯紀行」の面白さの場合、大鳥はどこか読者に読ませるための、ボケと突っ込みの呼吸を意識した計算した面白さを込めている。笑ってしまってから、なんだか釈迦の手のひらの上の猿になったような気がして悔しいところがあるのですが。「北戦日誌」は、天然です。そうした計算はありません。多分。上手くいえませんが、「それは違う、違うぞ浅田君!」と本人を捕まえて説き伏せたいような。そしていくら説明しても分かってくれなさそうな。そんなズレ具合があります。

今まであまり触れられなかったのは、なんというか、そのズレ方が大鳥に対して盲目的な方面に走っていっていて、それを挙げていくのが、どこか憚られるものがあったりしたのですが。

でも、浅田君の面白さというか、天然さは、ぜひ具体的に明らかにしておかねばと思いまして。これまでもいろんな方がすでに触れては下さっていますが。ひとつ纏めた形でやってみたいと思います。

浅田君迷言集。

いつもの通り、カタカナ→ひらがな、句読点変更、濁点追加、などを行っています。

● 脱走後

「大隊の将本多幸七郎、余が同僚山角、大川正次郎、山口朴郎、板橋淳次郎等諸官数十人、兵隊四百十一人、死を盟ひて悉く大鳥圭介に属し」

…皆で死を誓っている時点で、すでにもうなにか外れた気がします。
ちなみにあなたの大将は「余必ずしも府下に徒死せず、世の形勢を察して進退する所あらん」と家族に告げて出てきています。

● 第三次小山の戦い(4月17日)

「左の麦畑の中二、五人の敵兵あり、其の一人長官なるべし、指揮旗を携え来る。余、其距離近き故に手を挙て招く。彼、味方なりと思ひ、喜び早卒に進んで、十五六歩のところに来る、余、令を下して忽ち狙撃令めたり。其一卒、終に遁れ去る。長官及び二卒の首を斬りて本営に送れり」

指揮旗を携えた敵の長官がやってくる。浅田君、距離が近いので、手を振って味方のフリをする。十五、六歩まで敵が近づいたらおもむろに狙撃。まごう事なき、だまし討ちです。それで撃ち殺して、長官の首を切って、本営に送った。その本営にいる大鳥に。

「八つ半過、余等、軍を収めて凱旋し、本営に行て大鳥氏に逢い捷を祝す。即ち、敵首七級を梟たり。其罪を挙る文に曰、『三百年来の重恩を忘却し、君家に敵する人面獣心の奸賊、天誅不迯、今日首級を授く、依令梟首、其罪を糺す者也』 斯の如く書し其首級を青竹に貫き、本営の門前に梟る」

午後になって凱旋。本営の大鳥に勝利を祝った。敵の首七つを青竹にぶっ刺したものを、大鳥さんにお土産。本営の前に並べた。「君家に敵する人面獣心の奸賊、天誅は逃さないぞ」と書いて貼っている。
浅田君。これで大鳥が喜ぶと思っている。

浅田君を迎えた大鳥の笑顔が、硬直したまま張り付いていそうです。それを柿沢が横から可哀想な人を観る眼で見ていそうな気がなんとなくします。

その後。

「我軍今日の戦は、野戦の最迅速なる者也、爾後、斯の如く愉快の戦有るべからず。又此日、初度の戦いを論ずれば、其の捷は大川氏の兵、敵の背面を襲ふに在り、次は予が兵の能く支ゆるにあり。故如何と成は、若し余が兵、敵の衆に恐怖して敗する至らば、敵軍、直ちに本街道の横を襲う可し、然る時は豈に我軍全からん乎。故に八番小隊を第一の功とし、二番小隊を次とす」

そんな戦を愉快がっています。最も迅速に済ませられた戦で、今後こんなに愉快な戦はないだろう、とのことです。たしかに勢力も武器も相手を凌駕していたのは、今後1年の長い戦でこの戦闘ぐらいですが。それで誰の功かを語る。大川を第一の功としているあたりは謙虚なのか何なのか。
浅田は大川と一番仲が良いというか、始終ツルんでいるような感じがします。日誌を読む限り。

● 壬生通過(4月18日)

上の翌日。旧幕軍は壬生を通過しようとして、城に使いを送る。この使者は宮川六郎。宮川の述べることには。

「東照宮の旗章に発泡す。是何等の暴挙ぞ。我等敢て戦争を好まず、然りと雖も、事卒爾に出て止むを得ず、終に一丸を発して悉く賊を走らす。(略) 今、幕府傾危の秋に至りて、君家の仇たる奸雄の徒を佐け、正しく幕臣たる孤独の我儔を撃つ、是れ何の道理ぞ、抑吾等、兵器を携え日光廟に抵るは、全く錦旗に抗するに非ず、只新廟を護衛せん為め也。貴藩、若し先非を悔ひ我輩を助る時は幸甚し。又錦旗に拘泥して奸雄を佐るに至らば、士道に於て止むを得ず即時に問罪の師を発し、孤城を屠ん事今夕に在り。敵す可ならば、塹を深うし塁を高うして、以て吾軍の抵るを待て。旧幕を佐るの意あらば、速やかに賊を攘ひ、以て其首を捧げ来れ。乞有無の報告を待つ、と」

昨日小山駅で壬生兵から東照宮の旗に発砲されたことに対して。
これ、使者の宮川は、旧幕軍首脳から発された(たぶん大鳥の)手紙の内容をそのまま延べたようなのですが。昨日、「愉快の戦」を連発した浅田君。「我等、敢て戦争を好まず」「全く錦旗に抗するに非ず、ただ新廟を護衛せんがため」の言にどう思ったのだろう。とりあえずそのまま書き連ねている。

そして、使者は、軍を援助する気があるのなら賊の首をもってこい、と脅しています。

それで、壬生藩は、昨日出兵した隊長を自刃させて首を持ってきた。

それを見た大鳥は、これは昨日戦死した兵の首ではないかと言い。
「我輩元来途中の戦を好まず、宜く対て而して後に彼が状を窺んと」と、戦は好まないを再度強調。それで、大鳥、壬生の使者に直接会って話をし、敵の兵力の数を問う。使者は、薩長は百五十、昨日の敗兵八百がいて、壬生は官軍と旧幕軍の間に立たされてとても困っていることを訴える。

大鳥、格好付けています。というか、高飛車です。
…この大鳥は、かなり濃く浅田フィルターが掛っていると思います。

「大鳥曰、餘の兵は免ず共可也、薩長は九世の仇たり」

…薩長が九世の仇。
長州人と一緒に大阪から出てきて破れ布団を被って羽織を着まわしていた人が。長州の先輩(大村)に本を借りたり借金したり(未確認)してた人が。あまつさえ薩摩にバイト仕事をもらって食を繋いで、頭角を現す機会をもらった人が。10年前は薩長に恩人だらけだった人が。「九世の仇」とか言うのでしょうか。

「うーん、なかなか皆、その他の藩兵はともかく、薩長が相手となったら九世の仇とばかりにいきり立ってしまって、見逃すわけにはいかなくなってしまうんですよねぇ」位に大鳥が言ったことを、浅田君が真に受けてしまったのではないかという気もする…。
金と食糧を差し出した壬生の使者に対する大鳥の言が続きます。

「大鳥曰、我輩は波獄に拠る水藩と同じからず。小藩を劫し人民を掠するの不義をせん乎。今、天涯拠る所なきの一孤客と雖共、尚舊幕府の臣下たり。豈微小の金穀を闕可き、其我儔の日光廟に拠ん事を欲するや、一つには神廟を護衛し、二には君家の無辜を訟へ、三には君側の悪を攘ひ、以て四海の富嶽の易きに置んと欲す。今、敢て小事に関係し、道路區々として遅滞せんも益なし。公ら、斯くまで迷惑せんとならば、隘道を進まん。米穀は受け可く、金は受可らず。又携来る首級、見るに及ばず。善悪共に君家の為に死する者、是即ち忠士なり。吾等豈軍門に梟するに忍んや」

大鳥、高飛車モードが続きます。
自分等は水戸の天狗党とは違う。拠るべき拠点もない流浪の軍とは言え、なお旧幕府の臣下だ。日光に行くのは、神廟護衛しながら、徳川家の無実を訴えるためだ。小さいことに拘っていて道が進まないのも益はない。そこまで迷惑に思われるのだったら、自分達は間道を進む、と。

食糧は受け取るとのこと。補給のない軍だからしょうがないです。金は断ってますが。初期段階で余裕の有るうちだから、格好付けられることです。金がなくなるとそうは言っていられない。

で、大鳥。首は見る必要はない。君家のために死んだ者は善悪関わらずみんな忠の者だ。晒し首にするのには忍びない、と。

使者に、幕軍に与するなら、薩長側に与した人間の首を持ってこいと居丈高に言わせたのは、誰だ。
…と思ったのだけれど。使者が勝手に言ったのではないか、というのはどうだろう。それで大鳥は困った。壬生藩が持ってきた首を見て「これ昨日の戦死者の首じゃないか」と大鳥が言ったのは、実は「よかったー」と安心した声だった。けれども、周りはそう取らなかった、と。

そして、首は見たくない、というのは、実は浅田君の前日の行いに対する大鳥の抵抗であるような気がします。晒し首なんて見たくない、止めてくれ、という気持ちを分からせるために、わざわさ浅田君の前で言って聞かせている気がしないでもないです。

それを浅田君、気付かず、反省せず、ただ、カッコいい〜、と感じてそうな気がします。そんな感じの書きぶりです。

で、この場面、実際はもっとマイルドで和やかな物言いだったのではないかと思うのですが。なにせこの時の壬生藩の使者は、大鳥の江川塾での友人の息子の友平慎三郎でしたし。「慶応謀兵秘録」の源恵親さんがそれを書いているということは、友平が大鳥の旧友の息子というのはこの時点でわかっていたわけで。大鳥は「壬生藩のご迷惑になるのなら間道を行きます」と、結局、内容は下手に出ています。

ちなみに、南柯紀行のほうでは、「日光に行くのに壬生を通りたいのだけれども、もし兵の通過を壬生に差し止められたら、止むを得ず兵を動かさないといけないかもしれない、これは本当に自分としてはやりたくない。だから前もって壬生藩の心積もりを聞きたくて、壬生に使者の宮川を使わした。壬生からは、主人(藩主?)に聞いて返答するという答えだったから、使者は明日まで待ちますといって帰ってきた。ああもう、付近の形勢を知っている人もいないし、小金や宇都宮は敵兵ばかりだし、壬生藩の心積もりはわかんないし、自分も兵隊も疲れきっているし、事が起きたらどうしようと、悶々と考える。明け方になってようやく眠りに付けた」…という、浅田の筆に見る高圧さはどこへ行った、という感じの、切ない有様の総督でした。

北戦日誌の大鳥と、南柯紀行の大鳥は、明らかに人格が違うと思います。

さらに浅田君、こうして大鳥の言動を述べた後。

「この時、直ちに壬生を屠り、敵を放逐せば愉快ならむと。然れども、本文大鳥氏の説の如く、元来一小城に関係して、日光の道路、敵のために絶るるに至る時は、我当は死地に陥て、一人も存する者あるべからず、一時も疾く嶮に拠居し、會津城に通して大事を計らんとす」

…壬生を屠って敵を追い出したらさじ愉快だろうけれども、大鳥さんの言う通り、小さい城に拘って日光までの道が敵に取られてしまったら全滅してしまう。やっぱり一刻も早く峻嶮な地へ行って、会津と通じないとならないな、と。

やっぱり浅田君、大鳥の意図を分かってない気がします。道を絶たれるためだけじゃないんだってばー。

● 宇都宮入城後(4月18日)

前軍が落とした宇都宮。ここは元々、宇都宮藩の政が乱れ、苛政が甚だしく、税金を過分に課され、農民は逆上して一揆に走り、党を組んで城門に直訴に出た。これに対して奸吏は農民二十七人殺戮して二十一人を獄に捕えていた、と浅田は日誌に書いている。

「我軍城郭を屠るに至て、(農民の)縛を解き免す。彼等大いに喜び、城中に止つて駆役されん事を乞ふ」

住民はみんな、前軍が家や蔵を壊して掠奪して放火したので、山林へ逃れていたようですが。で、旧幕軍が入城して、捕えられていた一揆の農民を解放した。その農民、大いに喜んで、城で使役されることを望んだ、と。…強制的にならともかく、農民が進んで使役されるなんてことはないと思うのですが。浅田君。

● 壬生・安塚・幕田の戦い (4月20日)

そんな板ばさみの壬生に、官軍が入城した。
そこで宇都宮の旧幕軍、先に幕軍の通過をさせておきながら、官軍に入城を許すとはどういう了見だ、と壬生を攻める軍義が持ち上がる。南に弱い宇都宮の防衛上のこともある。

「大鳥氏曰、兵法に先すれば即ち人を制し、後れば即ち人の為に制せらる。未だ彼が備を設けざるを撃ちて、後に軍を退けん。 余等最愉快とす。衆議決せず。会藩柿沢勇記、最不可也と云う。終に薄暮に至て漸く進撃の論に決定す」

壬生を速く攻めようという大鳥。浅田君たちは「最も愉快」。ところが、ここで柿沢が大反対。

柿沢の反対は、会津としてはまだ恭順かどうか立場がはっきりせず、藩境をきっちり宇都宮で定めておきたく、徒に官軍と交戦したくなかった、という会津の事情を反映したものだと思います。柿沢は、伝習隊士より会津藩士としての姿勢から反対したのではないかと。

そうするうちに、壬生から友平慎三郎が再びやってきて、壬生城を撃つべし、壬生藩士は幕軍の攻撃に内応する、と内情を教えに来た。それで群議は進撃に漸く決定。

結果はご存知。土砂降りのなかでの行軍、シャスポーは効果的に発射できず。そうする間に官軍援軍が続々到着。大川が壬生を攻めたけれども火は広がらず。壬生からの内応も起こらず。幕田では伝習隊が苦手な白兵戦で延々戦わせられ、因州の河田佐久馬の捨て身の攻撃で大打撃を受ける羽目に。

それで、皆全身びしょ濡れ、寒さと疲労で兵士皆憔悴。
そこに浅田。

「この日の戦争、勝敗を論ずれば、幕田の戦いは敵六分の利を得て、味方四分の不利とす。壬生街の捷(勝)を合して互角とすべし。然れども、彼は衆、我は寡なるを以て論ずれば、我軍七分の捷と云う可し。(略) 若しこの時五百の遊軍有て代るときは、捷を得ん事必定せり。(略)故に多少を以て論する時は、我兵七分の勝と言う可し」

幕田の戦いは敵の六分の勝。壬生は互角だった。けれども我兵は敵より少なかったから、それを考えると勝ち負けで言うと七分の勝ちだ、と。

「ばかもーん、八分の負けだ!」と大鳥の怒声が拳骨とともに浅田君に降り注いでそうです。
同じ戦の結果を表すのに、北戦日誌の「七分の勝」と南柯紀行の「八分の敗」が妙に対応しているのが、可笑しいです。

なお、更に浅田君、上で。

「嗚呼、此日大鳥氏の説の如く迅速に進撃せば、必ず勝を得ん、然るを衆論決せず、空しく好機を失するに至る、惜しむべき也」

と言っています。大鳥さんのいう通りに迅速に攻撃していれば、官軍の援軍も間に合わず必ず勝っていたのに。グダグダ軍議をやっているから好機を逸した、ああ惜しい、と。多分、柿沢に聞こえるように言ったのだろう。もとい。全く負けを負けだと思っていないどころか。

「此日の戦争殊に猛烈にして、更に寸隙なし。我輩都下脱籍以来、未だ斯の如き戦なし。真に愉快の一大戦争と云う可し

全身びしょ濡れ寒中疲労困憊の負け戦を、愉快の一大戦争と言うか、君は!

君自身が愉快で仕方がない。

…そんな浅田君。
まだ続きます。
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2007年07月25日

浅田惟季「北戦日誌」その2

続き、行きます。

安塚・幕田の戦いですが、浅田君。敵の援軍が壬生より来た際、攻撃を受け負傷していました。

「我軍苦戦甚し、一丸有り、予が右手に中る。忽ち持たる短銃を堕す。幸にして重創ならずと雖、痿(なえ)を覚て屈伸自由ならず。次て七聯隊裨将田澤淳ノ丞戦死し、小花和重太郎重創を被る、又一丸予が股を傷て奔走する事を得ず、依て差図役並栗原立一に兵を託て退く」

と、昨日の戦いで浅田君右手に弾丸がかすり、持っていた短銃を落とした。手の傷には幸いならなかったが力が入らず屈伸できない。また一弾が股に命中、走ることができなくなってしまい、後を栗原立一に任せて退いた、という状況でした。
…それで、感想が「愉快な戦」。

なお、慶応兵謀秘録によると、本多さんも若干負傷していたようです。

● 宇都宮撤退戦 (4月23日)

「大鳥氏曰、我等目標と為す所は、唯日光嶽のみ。然れ共今敵兵新たに襲来る、戦ざれば臆するに似たり、一と度当て後、軍を退かん」

と。目指すところは最初から日光だけなのだけれども、敵が来るなら戦わずに逃げるのは臆したのと同様だ、一度戦ってから退却しようと、通ってそうで通っていない理屈で、戦は始まります。要は壬生に増援で押寄せてきた敵が襲ってくるから戦う、ということだと思いますが。

それで朝から夕暮れまで、丸一日戦いは続きます。推移はこちらをご参照ください。

秋月・土方らは正午ごろに負傷して脱落。明神山を奪い、六道口の官軍を全滅寸前にまで追い込み、午後になって本営裏の竹林の戦いが激しくなる。旧幕軍は粘っていたけれども柿沢、本多も負傷し、脱走者も出始め、圧される一方の状況ですが。

「余、此日銃創の痛み少く去て、徐歩為す事を得る故に、午時、本営の後面苦戦の時、兵を率て戦ふ。忽ち痛を発して歩行ならず、駕に乗り兵隊と共に城中を出、大澤を距る半里小林邑と云へる宿る」

浅田君、昨日、安塚の怪我の痛みが少なくなってきて歩けるようになったから、午後本営の裏で苦戦している戦に出た。するとたちまち痛みが酷くなって歩けなくなった。籠に乗せられて兵に担がれて城を脱出した、という有様。
…怪我人が無理して戦場にでてくるんじゃない。担いでくれる人が居なかったらどうするんだ。もう、この子は。

そして夕方、弾薬欠乏し被害も大きくなって、大手門に居た大鳥は撤退を指示。

「此日の戦争、辰の時に起て申の末に終わる、尚防御せば数日を支ゆべし。然れども、既に退軍の意有る故に強て死戦を遂るも益無し。依て黄昏に至て軍を収めたり」

そこに、なおまだ数日、城を支えられるだとのたまう。弾薬打ちつくして、死傷者続出で。自分も駕籠で担ぎ出されて。まだやれると信じている浅田君。あるいはただの尋常ではない負けず嫌いなのか。

「若し外見、今日の時機を知らざる者をして論せ令れば、宇都宮は上・下州、奥羽の咽喉にして専要の地なれば、之を卻(しりぞ)くは拙作と云んか。左に非ず。此時、奥羽同盟未だ成らず、会津兵又出師為さず。加之弾薬欠乏、糧亦尽く、若し因循する時は敵兵治路を断て我兵殲と成可し。故に此機を知て速に軍を退るは、眞に大鳥氏の神策と云ふ可し」

もし一見だけで今日の時勢を知らないヤツに話をさせると、宇都宮は上総下野、奥羽への道の交わる要所だから、これを退くのは拙策だ、だとか言うだろうけど。そうじゃないんだよ。この時は奥羽列藩同盟も成立していない。会津兵も交戦の令が出ていない。しかも弾薬は欠乏して糧食も尽きた。もしダラダラ迷っていたら、敵兵に退路を断たれて、殲滅されていたさ。だから、ここに機を知って速やかに軍を引かせたのは、まったく、大鳥さんの神のごときの策というべきだ!

…伝習隊リストでの浅田君の紹介でも挙げましたが。あまりにその天然ぶりが素晴らしいので、ここにもう一度お出でまし願いました。

もう、なんとも言えません。
大鳥、「我等目標と為す所は、唯日光嶽のみ」と、日光へ行くのが決まっていたのだから、朝から攻撃を受ける前にさっさと逃げていれば、そこまで死傷者出さずに済んだわけじゃないか、と思うのだけれども。
露払いや撤退準備で出発に間に合わなくて襲われたといえばそれまでだけれども。
そもそも、壬生攻めの前に、浅田自身が、さっさと宇都宮をおいて日光に行こうと大鳥に申し出ていた。
そこでまた泥沼の戦いに陥って、撤退する羽目になった。

その状況で、何故「神策」という言葉が出てくる。
浅田君の思考回路は、なんだか計り知れないものがあると思います。恐ろしい子。


● 日光・鉢石町(4月24日)

「鎮台新庄右近将監、県令山源七郎へ糧穀の談に及ふ。二官曰、先に彦根兵来て金穀を募る、故に止むを得ず倉庫を開て尽く興ふ、故に今一粒の蓄穀無し。唯僅かに街吏の俸禄に給する者有るのみ。然れども、二千の兵をして喰ふ時は、尚十日に出づべからずと云。此官吏、又敵軍の猛威に懼れて、人民の飢餓を救ふ金穀を猥りに姦徒に興へ、己れ一身の安逸を計る、眞に悪むべきの小人也。衆大ひに怒り刑せんと云。大鳥圭介、堅く止て漸く止む」

日光奉行、新庄右近らは、先に彦根兵が来て兵糧を持っていってしまったから、今は食糧がありません。二千の兵を食べさせると10日も持たないでしょう、と。これに対して浅田君、敵軍の猛威に恐れて、人民のための備蓄食糧を与えて自分の安逸を計るとは、なんと憎むべき小人か。皆で怒って処刑しようといきり立つ。
これに大鳥、やめなさい、と堅く戒めて回る。…苦労してます、総督。
兵糧に拘るのは士官として尤もなことですが。柿沢も本多も居なくて相談相手もおらず甚だ困却している総督を、余り困らせないように。

(そういえば、この日光奉行新庄右近って、現在の神田錦町3丁目6番地、宇都宮三郎の化学塾の錦径舎になったところに屋敷を持っていた、あの新庄右近なのかしら)

ちなみに、日光の食糧倉庫は、官軍だけではなく、宇都宮に来るのに立ち寄った会津砲兵隊も、その食い潰しに寄与していたと思います。
それに、備蓄食糧。日光奉行が官軍に拠出しようが、旧幕軍に与えようが、結局、日光にとっては同じことだと思います、浅田君。まぁ将軍のお膝元だから旧幕に尽くして当たり前、という意識が大きかったのでしょうけれども。

「嗚呼、兵糧弾薬の欠乏の為すに因て、止むを得ず要地をして敵手に陥ら令む、又歎息と云うべき」

浅田君の筆では、弾薬と食糧がないから日光退去が決定し、それから僧侶がやってきてここで戦をするなといってきた、という順番。
念のため、日光を放棄するという意思決定には、兵糧弾薬だけではなくて、神廟を戦火に晒さないため、という意図も一応働いていたことを、浅田君にお伝えしたいと思います。

それでこの後日光からの退軍を要請しに中禅寺の僧侶がやってきます。どうせ退去するのなら東照宮の埋骨の地、霊廟を汚すことなく軍を収めてくれ、と乞うてきた。

「大鳥氏曰く、然る時は敵兵直ちに進て我軍に迫らん、故に戦わずんば有るべからず」

敵が進んで迫ってきたのなら、それは戦わざるを得ない、とすげない答え。

南柯紀行の「たとえ弾丸神廟に触るるといえどもよんどころ無き次第なり」の、大鳥としては苦渋に溢れる啖呵を切ったところだと思うのですが。浅田君フィルターを通して見ると、大鳥、クールでドライです。

この後、浅田君、驚いたことに、いきなり田島に出ています。六方沢は完全にスルーでした。闇夜の険路も、餓鬼道も無く、さくっと田島に着いてしまっていました。
それはどうしたことだ、浅田君、何か苦難を感じる心が麻痺しているのではないかと、失礼にも思わず心配になってしまいましたが。そういえば浅田君も負傷者でした。会津会津西街道ルートで送られたほうにいたのではないかと思います。
……日光に残されなくてよかった。(残留負傷兵は土佐兵に虐殺された)

● 田島編成 閏4月3日〜閏4月10日

「十日、総軍二千五百人、三道に出師の令有り。先創者をして若松城に趣か令む。此時予が創、半ば癒て行歩自由を得るによって、中軍大鳥氏に付属して、暫く俗務を司る」

田島の編成。四大隊に分かれて、それぞれの方面へ出撃命令が下りました。負傷者は若松へ送ったのですが、この時浅田君はだいぶ癒えて、歩行もできるようになった。
で、大鳥の付属となって、しばらく雑務を執り行っていた。

一見、頭より体を動かしているほうが好きそうな浅田君ですが。あれだけ考え書く人なのだから、文章を書くのも好きそうです。喋るのはもっと好きそうな感じがします。しばらく、大鳥さんの周りは、うるさ…賑やかそうです。


今日はこれまで。一気に書ききってしまいたかったのですが、あまり進みませんでした…
まだまだ。浅田君の本領はこれからです。
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2007年07月26日

浅田惟季 「北戦日誌」その3

浅田惟季 「北戦日誌」その3
浅田君北戦日誌、続きです。

地名が錯綜しますので、地図はこちらで。http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/map/imaichi_fujiwara.gif
藤原の戦い6月25日のためのものですが。今市戦の位置関係の把握としても、ご参照いただければと。無いよりはマシという程度ですが。

● 今市第一次戦 閏4月21日

今市第一次戦。この前に、栗原・棚倉の戦いで19日に互角以上の戦いをしています。それで、敵は塁を築いて今市を要塞化している。この今市を奪回するための戦いですが、まずは強弱を図るために出撃する、というもの。
作戦ですが、本営を小佐越に設営。そして隊を以下の4つに分けています。

1)小佐越守衛隊
2)森友村から今市前面を襲撃する隊:山川隊、貫義隊、第二大隊の一個小隊
3)小百村から大谷川を越え、今市背面を襲撃する隊:沼間・瀧川隊150名
4)鉢石町の彦根兵の抑えとする隊: 大川隊二個小隊

まず土佐隊VS前面の山川隊。これは、山川隊が先に到着して後方の沼間らが着かないまま先に攻撃してしまい、貫義隊が敗走。その後で沼間隊が後面から攻撃。目論んだ同時攻撃ができず、敵から各個撃破を受ける形となった。
しかも官軍に、北村砲隊、予備隊の土佐一番、十二番隊ら増援が次々到着し、沼間ら不利。増援を小佐越にいる大鳥に要請するも、大鳥の手勢に動かせる隊が無かった。四番小隊長杉江誠一郎が戦死、この犠牲を以って沼間らは渡河し不本意に撤退。
一方で、日光方面の警戒にいった大川の二小隊が、あぶれて遊軍となってしまっていた。というのが流れ。

沼間は大鳥が増援を寄越さなかったことについて怒り狂っていたと思います。
大鳥は主力攻撃方面が三小隊しかいなかったことについて、兵力分割を素直に反省しています。
しかしながら浅田君。

「此日の戦争、既に我軍街内に乱入すると雖も、敵営を奪ふ事能はさるは、前面の味方速に敗して退くか故也。且寡兵なるを以て也。若し今一時を保つに至らば、彼於火して走らん事疑ひ無し。且前後の機、能く合して一時に攻撃せば、豈此の敗有んか。惜しむ可き也。且前面破れて、後面の兵街内に入る故に、彼又軍を反して我を防ぐ、斯の如く戦機違ふが故に、終に苦戦に及びたり」

悪いのは全て、前後面の攻撃時機が合わなかったタイミングのせいにしています。更に言えば、今市前面攻撃の山川・貫義隊がもっと持ちこたえていれば良かったのだ、ということです。悪いのは、大鳥さんではない、と言わんばかりです。

確かに、大鳥は反省していますが、状況を見ると別に失策でも何でもないと思います。大川が遊兵になったのは結果的にたまたま日光から敵が出てこなかったからだし。日光方面から襲撃されていたら前面・後面隊とも側面攻撃を受ける可能性が高かったので、使えるリソースを考えると、この配置は妥当だったと思います。
(ちなみに兵力の分割自体が愚であるわけではない。木古内では同じ戦術を用いて成功させている)
浅田君の言うとおり、悪いのは天候と、タイミングではなかったかと。

…いかん、思考が浅田に乗っ取られ始めてきた。

● 日光鉢石松原の戦い 5月1日

連日雨です。小佐越と棚倉から陣を小百村に移し、750の兵が小百を守ります。また二百人を高百村に分けて移します。
会津原平太夫が日光を攻めろというので、伝習隊の浅田・吉沢鎌五郎隊が、原の隊80名とともに日光東側で彦根兵と戦闘しました。まず、威力斥侯として、吉沢と浅田と2,3人が、偵察に出て敵営に接近します。

「大石の影に潜伏して、能く偵ふに、敵の哨兵二人裸体にして銃を地上に置き、流に臨みて汚衣を濯ぐ有り。予、密かに二人に命じて狙撃令む、一人砲撃と共に倒れて川中に没し、一人驚き走て砲台の中に入る。鉢石の敵営より二百人許の援兵来るあり」

岩影に隠れて偵察。川で洗濯をするのは美女、ではなく、汚れた服を洗っている裸のむくつけき敵兵。浅田は狙撃を命じて、一人を倒す。これを皮切りに戦闘開始。敵は200人、鉢石から出てくる。

「我一番小隊の長官吉澤鎌五郎、大勇噴戦、十五人の兵を率ひ、浅瀬を渡りて塁下に迫り、次て我兵盡く至る。(略)時既に薄暮に垂とす。予過ち有ん事を懼れ、営を放火し敵砲を毀ち、弾薬と共に河水に没し、兵器雑具を分捕令めて、軍を収む。(略) 此日の戦争、我れに五百人の兵有て捷に乗じ、直ちに進みて鉢石を襲はば、敵兵豈支るに暇あらんや。然るに吾は只二小隊の寡兵。若し猥に進で四面を遮らるるに至らば、一人も存ずること能はざるを懼れ、空く退軍す。嗚呼、惜む可きの至りならずや」

大鳥も絶賛だった19歳小隊長の吉澤と共に、浅田、奮戦。しかし時は夕暮れ。深入りすまいと撤退。その際、敵営を放火する、敵の砲を破壊する、弾薬と一緒に河の中に沈める、そのほか武器を分捕る、と。ただでは退かず、破壊を満喫。それに飽き足らず、もし自分に500の兵が居れば、そのまま鉢石を襲って、敵は支えることができなかっただろう。けれども残念ながら自分には二個小隊しかなかった。もし深入りして包囲されたら、全滅するかもしれない。それで空しく撤退した。ああ、勿体無い。

鉢石=日光の宿場町。日光までは眼と鼻の先です。深入りしなくてよかったです。ここで浅田のいう通り500の兵があったら。今の世界遺産は無かったかもしれません。せっかく大鳥が拠点にするのを諦めた甲斐が無くなる。
まさか大鳥、それを見越して、日光攻めを主張する会津側を満足させるために、小規模部隊を派遣したのではなかろうな…。


● 今市第二次戦

「沼間慎次郎、諸長官を会し議て曰く、吾軍出陣の後旬余、未だ愉快の大戦争を為さず。若し区々として連日を送る時は、将倦み卒怠り自ら獺惰に陥り、終に瓦解を醸すに至らん。故に不日挙軍力を尽し、今市を侵襲一挙に勝敗を決し、以て上下野州を壓倒せん。若し不幸にして敗するに至らば、直ちに藤原の嶮に拠て境を守らん。(略)全軍森友口の一面を烈く攻撃せば、必勝疑い無しと云う」

沼間、諸隊長を呼び集めて、軍議を開く。
おぅ。出陣してから日が過ぎて、未だに愉快な大戦争をやってねぇじゃねえか。もしダラダラと日を送っていたら、将は厭きる、兵は怠ける、惰弱になって、しまいに瓦解しちまわぁ。とっとと軍全力で、今市を一挙に襲撃して、上下野州を制圧しようじゃねぇか。もし負けたら藤原の険に拠って国境を守ればいいんだよ。おい。全軍で、森友村から激しく攻撃すれば、必勝は疑いねぇぜ!

沼間。期待に違わず、オラオラ風を吹かしています。
この沼間の言が容れられたからなのかどうかはわかりませんが。第二次今市戦、大鳥・山川が総軍を束ね、沼津が隊長、滝川・大川が副長として、今市奪回に臨んだ総力戦が繰り広げられました。

「予曰、策略極て可也、然れ共土州兵は強敵なり。必ず愆(あやま)ち有ん。又全勝を得ると雖も多く兵を喪ん。彦根兵は弱にして破るに易し。古来より弱を撃て後、強を制するは兵法たり。乞ふ、鉢石を先にして後、今市を撃たば如何。然れ共、此策用ひられず」

作戦は極めて最もですけども。土佐兵は強敵っすよ。そううまくいきませんって。勝ったとしても被害は大きいですよ。けれど彦根兵のほうは弱いから破るのは簡単ですよ。古来から、弱きを撃ってから強きを制するのが兵法じゃないですか。日光を先にして、今市は後からにしましょうよ。

けれどもこの案は取り上げられなかった。
浅田君はまだ、日光に未練があるらしい。弱い彦根が守るほうから攻めようといったけれども、沼間は今市からやりたく、これを通したらしい。
よかった。もしこれで日光が攻められていたら、また世界遺産の危機だった。今の日光の安泰は真に危ういバランスの上に成りたったものだったのだ。

それで総力戦攻撃開始。兵を小出しにせず、伝習隊六小隊と第三大隊280人で今市の要塞に迫る。会津の田中、原ら青龍隊が城取隊。午前中は善戦、敵は榴弾・散弾で激しく撃ってくる。また幕軍の野戦砲が溝の中に落ちて車輪を動かせなくなり、壊してしまったという場面も。

「嗚呼、此時に至て、吾れに大砲有りて烙丸を放てば、一挙して敵営を燃可き也。惜可し」

と贅沢を言いながら、浅田、抗戦。火力戦に突入しています。

この後激戦、大川・瀧川も刀を揮って大声を上げて兵を進める。今市の砦に肉迫すること50歩の距離まできた。しかし麦畑に潜伏していた敵兵が砲を撃って反撃してくる。

そして、敵兵の勢力が弱くなり、ここで総軍の力を尽くして投入すれば勝利間違いなし、という状況に。二小隊の増援が本営に要請される。

本営は森友村で、大鳥はここから指示を出していた。
一方、官軍の板垣総督は、宇都宮の友軍との挟撃を行おうとしていた。「慶応兵謀秘録」によると、大鳥はこれを「宇都宮城より敵の応援来るべし」読んでいた。増援が来て本営を襲われると一気に敗走になるとし、探りを出して宇都宮方面を捜索させたところ、増援は来そうにないということだったので、今市へ二個小隊を出すこととした。

「大鳥圭介、令を下て曰く、士官隊二十人をして中軍を守ら令し、余兵悉く前面の敵に当ら令よと。沼間慎次郎、令を伝て軍を進む。予、沼間氏に謂て曰く、若し後面の敵の援兵有て、直ちに中軍を襲はば、必ず瓦解せん。乞ふ、二小隊を残し置け。沼間氏、然りとして大鳥氏に問ふ。在傍の人曰、吾兵既に敵の三面を囲む、豈背を憂ふるの理有ん。爰に於て予が説行はれず。心中甚不愉快と雖共、臆説と評せられん事を懼れ、終に戦地に抵る。」

大鳥は、半個小隊20名で本営を守らせて、後は全て前面の敵に投入しようとする。沼間がこれを受けて軍を進める。けれども浅田君、沼間に、もし背後の敵が増援を受けて本営を襲えば、瓦解してしまう。二個小隊を残してくれ、と頼む。沼間、それは最もだとして大鳥に言う。大鳥が何か言う前に、側の会津人が、既に自軍は敵の三方面を囲んでいる、何故背後を懼れる必要がある、と浅田の進言を退ける。浅田、甚だ不愉快。けれども、臆病だと評価されるのも気に食わないので、そのまま戦地へ戻った。

それで、正午になって、敵軍に、日光の彦根二小隊が到着。これにより板垣は南方から迂回、包囲攻撃に転じる。さらに、午後三時頃、恐れていた宇都宮からの敵の援軍、土佐十四・十五番隊と宇都宮一隊が森友東方に到着。板垣は左右両翼の包囲を完成させ、これが止めとなった。

浅田君の恐れどおりに、大鳥のいた森友の本営が破られた。午後五時頃、大鳥は十人ほどの小勢で敵と打ち合い、左右の兵が撃たれ戦死して、直接弾丸の雨の中を逃げまわり、増水した大谷川を泳いで渡る羽目に。途中、味方の兵が来た助かったと思って近寄ってみるとこれが敵で愕然。身を隠す場もなく逃げ惑い、疲労困憊。浅田君の言うことを聞いていればよかった…。

そして浅田も逃げる。

「予等辛く遁れて大谷川を渡り、残兵十二人を率ひ行ふこと十四五丁、一民家有り。飢に堪ず飲を炊か令ん為に、直ちに其家に入る。大川正次郎、先に来て之を調べ喫し居りたり。因りて速に飢を凌ぐ事を得たり」

逃げる途中で民家があった。腹が減って堪えられなかったので、その家に入ると。大川がすでに先に居て飯を食っていた…という場面も。浅田君、大川のおかげですぐに飯にありつくことができた。

というわけで、今市第二次戦は土佐側の勝利。大鳥軍は死者20名余、戦傷約百という損害。8小隊編成の伝習第二大隊を4小隊編成にまで縮小しなければならなくなった。それで大鳥軍は今市攻略をあきらめ、藤原の山間に篭ることになる。

自分の進言を退けられた浅田君の恨みの筆は、止まらない、かと思いきや。

「此日の戦争、若し後軍の備えを厳にし、今一時間支ゆるに至らば、今市の塁堡は必ずしも奪い取るべき也。只前面を一挙に屠らんとして、本営の備空虚なる故に、今日の此の敗あり。所謂桶狭間の戦争に均し。大鳥氏、豈此理を知らざらん乎。知て此極に至るは、在傍過激者の時務を知らざるにあり。大鳥氏、兵馬の権を握て之を止ること能わざるは、此時軍費及び糧餉輜重悉く會津より送る所にして、又幕人の指揮に耳及び難き事有り。是れ脱籍浪徒の眞に歎する所也。後世、猥に拙策と云勿れ

もし後軍が備えを厳重にして、もう一時間でも持ちこたえていたら、今市は必ず奪い取れたはずだ。ただ、前面を一挙に屠ろうと投入しすぎて、本営をカラにしてしまったから、今日の敗北になってしまったのだ。桶狭間の戦いと同じだ。大鳥さんがその理屈を知らないはずがないじゃないか。知っていてこの極みに至ってしまったのは、大鳥さんの傍にいた会津の「過激者」が、時機を知らなかったからだ。大鳥さんは、兵馬を掌握する権力を持てず、これを止められなかったんだ。これは軍費も兵糧も輜重も会津に頼らざるを得ないからで、旧幕側が指揮を執り難かったからだ。拠点を持たない流浪の隊の弱い所なんだ。
後世の人、みだりにこれを拙策だなどと、言うんじゃないぞ!

…責任転嫁した。

浅田君。この子は、もう…。

「神策」の的外し具合も凄かったですが。これもまた、浅田君にしか言えない迷言の極みだと思う。

ここは、私は、浅田、沼間と一緒になって大鳥を責めて良いところだと思います。
意思決定の最終責任は、一応の日光口総督である大鳥にあるのだし。会津に意志を通せないとしたら、それは指揮官として意思決定者としての影響力不足だろう。

(今も企業の経営者が大株主の意思決定に口を挟めるかというと、そうではない場合も多いので、戦略面ではやむをえないと思う。金出す者が決定力を持つのが世の理。けれども、戦術面、オペレーション部分は現場責任者が意思決定力を持たないといかんと思う。まぁ会津も現場にいるから、仕方ないのだけれども)

確かに、大鳥も敵援軍を警戒していて、斥候に確かめ敵の援軍がないという条件で投入をした。それで援軍が着てしまったのだから、失策ではなく単に不運だったというのはある。

それで、記録を記しながら、後世の目を意識するという浅田君の視点は、刮目すべき点だと思うのですが。その才を発揮する方面が、また…。
人の弁護をするのに、後世の人間にまでクギを指す人は、そういないと思う。

それにしても、敵増援がわらわら来ていて、包囲が完成されているのに、それ以上とどまってどうするんだ。二小隊が本営にあったとしても、どのみち破られているって。負けず嫌いな子…。

そんな感じだから、当時も勿論、浅田君、大鳥が責められたのを弁護して回ったのだろうと思う。沼間とも激しく遣り合ってそうな感じだ。
なんと言うかもう。いじらしい。
そういうことばかり言うから、浅田君、四六時中、「大鳥さんを責めるな!」と喚いているイメージになってしまう。

そして、沼間が友人の島田三郎に「人を服従せしむることは中々上手だったが、実戦は余り上手でなかった」と言ったこの言葉は、この浅田の態度があってのことが大きいのではないかと思ったりもする。実戦は上手ではない、のほうは、沼間が居たのはこの今市戦だけだったので、その印象になっても仕方の無いところ。

余談ながら、この後、沼間が離脱したのは、単に大鳥の無能に腹を立てたのではなく、日光口総督にありながら会津の意思決定に逆らえない大鳥の立場を見ていられないからだったのではないか、と思ったりもする。無能が原因での離脱なら、小隊長クラスの幹部も一緒に離脱して、彰義隊のように別の隊に分裂して一派閥となる、ということもありえたのだろうし、沼間の才覚なら可能だっただろうと。けれども離脱グループは、沼間の元の子飼い連中だけだったわけだし。沼間の私的な感情ゆえのことだったのだろうな、と。

沼間は、大鳥のポテンシャルをそれなりに認めているからこそ、会津の元で意思を通せない大鳥が歯がゆかったのではないか、と思う。沼間自身が自分のやり方を通して会津と衝突してきているから、いっそうに大鳥がムカつく。しかしそれで何が正しいかということを計った際に、自分の立ち姿に自信を持ちきれなくなったのではないか。結果的に旧幕が兵站補給を得て軍を維持できているのは、大鳥があってこそなので。(衝鋒隊のように「現場調達」しなければならなくなったら、目も当てられない)

沼間は後年も辞職を繰り返していて、結局論壇舌戦で名を馳せるわけだから、個人プレーで活きて、人の下や組織の枠組みの中では生き辛い人なんだろうな、とは思っていましたが。

その舌は錐のごとく対象を貫き、その言は鉄を斬り石を断つといわれた沼間。彼は世の中を、敵と崇拝者と敵に分けたい人だと評された。尊敬と憎しみという両極端な感情を受け、敵は殲することで、自分の立ち姿を確認したい人だということではないだろうか。賞賛にしろ嫌悪にしろ、激しい感情を受けて、自分の評価を確認したい。
ところが大鳥は、毒舌も受け止める。公衆の面前で罵倒されても、理のあるところは認め、そうでないところは流す。敵でも崇拝者でもない、水は容れ風は受け流す柳のような姿勢。そういう大鳥は、沼間にとって規格外で、居心地が悪かったのではないか。

大鳥が沼間を憎むぐらいの器量だったら、沼間もやりやすく、沼間が去ることもなかったのではないか、と思ったりもする。
(鐘ヶ江さんがご紹介してくださっていた文献で、徳富猪一郎が沼間を「1/100スケール信長」と評したのを見て、かなり納得した。思わずマスコット人形を想像したのではないですか)

…これだけ書いて、まだ終わらなかった。
後2回。
posted by 入潮 at 03:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月27日

浅田惟季「北戦日誌」その4

●藤原の戦い (6月25日、26日)

鬼怒川に深く削られた幽谷、藤原郷。米も取れず、米味噌の類は馬で田島より運んでくる。食えるのは豆の味噌煮ばかり。日々を費やし、兵の鬱屈も溜まってくる。
ここに、今市に土佐と入れ替わって、肥前佐賀の兵が、宇都宮兵とともに進撃してきました。
戦闘推移は、こちらにまとめました。
地図は、昨日と同じ、こちらをご参照ください。

午後になって藤原の北の五十里にいた大鳥圭介は、飛脚から知らせを受ける。敵、大原に攻め入ると。ただちに藤原へとって返す。途中、川が氾濫して橋を渡れなかった。川舟で漸く渡って、高原まで帰る。使いによると高徳・小佐越から敵がアームストロング砲を用いて攻撃してくる。会幕軍守兵は大原で戦うも、敗れて小原、藤原まで撤退。敵が大原を焼き、村は灰燼に。滝村も捜索隊が守っていたが、敵に襲われて敗走した、とのこと。午後五時、車軸を流す如くの雨に敵が退き、豪雨に救われた、という日だった。
手はずは各隊長に言含めて置いたのにどういうことだと怒るも、責任を問うてもしかたない。ということで、明日また襲ってくるに違いないと、大鳥は急ぎ陣地構築を指示。(慶応兵謀録、南柯紀行)

「六月二十五日、肥前宇都宮の兵、大原の塁を攻撃す。此日大鳥氏会津より帰陣す」

浅田君の一日は、大鳥が帰ってきてから始まったようです。浅田君もそれまでに二時間以上戦っていたはずですが。

「大鳥氏、草風隊など八十人をして(大原に)赴き救わしむ。第三大隊、援兵の来るを見て憤激、二軍合し撃て、烈く発火す。敵兵又邑外に卻く。須臾にして大鳥圭介騎を馳て凱陣を促て曰く、大原村地理悪しく、全捷を得ること難し。小原邑外の要地に退き、欺て敵を隘道に導かば、彼必ず勝に乗て、追い迫らん。然る時は我軍伏を設け、彼が背面を絶たんと為の勢を示さば、敵兵必ず駭(おどろい)て、後口を顧る可し。其緩を窺て二面猛烈に攻撃せば、大勝を得んこと必せりと」

浅田によると、大鳥は、帰陣してから草風隊を大原に派遣。自分も大原に騎馬で赴いて、大原は地形が悪いので小原の狭隘な要地に敵を誘い入れようと、第三大隊に撤退を促していました。大鳥、小原から二面攻撃をすれば必ず勝つ、と撤退指示します。

なお、大鳥、夜10時に藤原に戻ってきて、さらに防御の作戦を巡らせる。藤原の対岸に滝の湯という温泉場があるので、ここに敵が潜伏している砲を受ける。臼砲で驚かしてやろうと、対岸から三四発撃った。すると隠れていた20人が逃げ帰った、という一面もあります。(南柯紀行)

そして翌26日。早朝より、300の寡兵で敵1000の襲来に対抗する戦いでが始まります。

浅田は高徳への間道を一番小隊30人で守ります。朝8時交戦開始。敵は対岸から四斤砲の榴弾を撃ってくる。けれども過日から墻塁を築いていたので当たらない。こちらからは小銃で狙撃して敵を倒す。渡河して突撃したいのだけれども、為す術が無いまま午後3時に。

「唯惜む可きは吾れに一門の大砲無く、愉快に敵兵を殪す事能わず、漸く一の臼砲あり。今我は高きにあり、彼は低きに在り、故に多く功無し」

浅田君、また砲を欲しがっています。小銃でちくちくやるより、大砲で豪快に敵兵を倒すのが愉快らしい。ようやくお望みの臼砲を手に入れたのだけれども、自分は高所、敵は低所。当たらない。もともと臼砲は山形の弾道を描く本来なら攻城用の砲。効果は少なかった。
(この臼砲は前日夜に大鳥がぶっ放したものか?)

そのうち、前面を寡兵で守っていた草風隊、村上求馬が敵榴弾により戦死。おなじ前面にあった瀧川は、馬で馳せ来て救援を請う。左方山上の伝習隊30名がこの急を救いに行くが、砲撃に苦戦。

「大鳥圭介、報を聞き、予に命て救わ令む。直ちに四十五人の兵を率い、列を整ふに暇非ず。急歩の令を下し馳て小原邑に至る。(略)此時惟へらく、彼は衆、我は寡、荏苒の戦い叶う可らず、一挙に勝敗を決するにあり。欺て撃つに如かずと。俄に一計を施し、傍らの兵五人に命じ、弾薬を運輸令んか為に塁を出し、走て小原邑の陣に行か令め、次て厳に放発を禁じたり。敵軍既に我が敗走為と推量し、急に列を乱して塁下に迫る。事恰も蟻の群がるが如し。予、其の接近するの的度を量り、直ちに小隊点放を為さしむ。敵兵大に驚き、辟易して退く」

大鳥の令を受け、浅田、瀧川の援護に出撃。藤原の本営から小原まで走っていく。この時浅田、一計を案じる。敵は多く自軍は少ない。ダラダラとした戦いにはならず一挙に勝敗は決まる。騙そう。浅田、兵に発砲を禁じる。敵軍、このため浅田らが敗走したと思い、列を乱して、蟻のように塁に迫った。浅田、敵が接近するのを待ち、一気に発砲を命じる。敵は仰天して退いていった。大成功です。

これに瀧川も士官隊を進めて、とどめのごとく追撃。敵は敗走。逃げる途中で鬼怒川に落ちて溺れ死ぬ者も無数にいた。

さらに、岩陰から斬りつけてくる敵がいるも、浅田、その背後に出て一人斬る。敵の配下の右手を斬って面を断った。瀧川も敵兵を斬った。白兵戦までやっています。
さらに、敵が川の岩を伝って逃げるのが見えたので、兵に命じて狙撃。皆水底に没した。このように溺れ死んだ者が70人あったという。兵器輜重もたんまり分捕り。米穀のほか、野陣用の用具もことごとく分捕った。浅田君、敵を狙撃し輜重を分捕る様子を、大変気持ちよさそうに、延々繰り返し書いています。

浅田、「愉快の一大戦争」がようやくなされてご満悦なようです。
沼間も、藤原まで待っていれば、この愉快な戦を満喫できたのに。とは言ってもせん無きものですが。
ちなみに、大鳥、第二次今市戦の後、沼間が大原に障壁を作ったのを「大に勉励」と褒めていますから、大鳥は沼間にとくに悪感情はなかったのではないかと思います。

夕暮れに至って、浅田、庄屋の家だった藤原の本営に帰ってきます。

「大鳥氏に謁し、兵隊をして捧銃を為さ令め、捷を祝し、酒肴を興へて戦労を慰む。(略)此日敵首、十一級を本営の門に梟す」

久々の勝利です。兵隊もご機嫌。浅田は「捧げーっ、筒!」と号令を発し、大鳥に対して兵に捧げ銃をさせて、勝利を祝しました。良い場面だ。

そして、酒肴が与えられて戦労がねぎらわれました。
…のはいいとして。

この戦勝に沸く本営。庄屋の外には晒し首が十一。得意満面に浅田君、記しています。

大鳥は日記で一切、首には触れていません。代わりに、後で周りを見回った際、路端の松杉に小銃の弾痕が星の如く、当たり血だらけ、という状態を、痛ましそう書いています。

この、首がごろごろ晒された藤原の本営。今は国民宿舎になっているのですが。ご主人とこの話題になったとき、「どうりで前の道路のカーブ、事故が多いと思った」との言でした。鬼怒川温泉観光で国道121号を通られる方は、どうかお気をつけください…。

ちなみに、藤原からは少し後。陸軍が仙台海軍と合流してから宮古に投錨した際、軍規が改められています。この時軍律には、次の一文が書き加えられました。

「敵の首級は取るに及ばざる事」

大鳥の発案かどうかはわかりませんが。軍規の策定に陸軍の責任者が関わらぬはずはなく。相当、首が嫌だったのだろうな、と思います。無論、重たい首を持ち歩いて戦闘するというのは非合理、という理由に表向きはしているでょうが。

久々の勝利に軍は沸きます。浅田、瀧川ら隊長たちにも会津藩主よりお祝いの羅紗が送られました。

ということで、この勝利。軽微の損害で、徹底的な打撃を佐賀・宇都宮兵に与えた。上野で威を見せ付けた虎の子のアームストロング砲まで無効化した。これにより新政府軍に恐怖を植え付け、この後日光口は攻めるべからずと、敵に難攻不落さを見せつけました。そして、大鳥らが母成峠へ転陣するまで、日光口は2ヶ月以上の敵侵入を許していません。最小の被害で勝ち、戦闘目的を成し遂げ、最大の戦略効果を与えた。最も理想的な戦術の結果です。

猟師の投入や地形利用という地元リソースを最大限に活用したゲリラ戦術とか、障壁の隠蔽配置と活用とか、山川別働隊の兎跳の渡河・迂回・背面奇襲とか、本営の臨機応変な部隊投入とか、大砲の使用と無効化とか。藤原戦は、戦術的にいろいろとお手本的で、見るべきところがある戦いだと思います。けれども、あまり注目されていないのは、勿体ないところだと思います。

● 母成峠の戦後、檜原にて。

このあと、山入村、母成峠の戦いがあるのですが。復古記に記述がないので、ひとまず母成戦後に飛びます。

母成の敗戦、瓦解。兵は散り散りになって、秋元ヶ原、檜原へ。総督の大鳥は死亡した、生け捕られた、という噂が、伝習隊を間に飛び交いました。

浅田君は山入村で左腎を銃弾でやられ、命も危なかった重傷。同じく檜原方面へ落ち延びます。

「大鳥圭介等戦死の節有り、予殊に痛心す、然るに今夕檜原に抵て計らず出会し、兵隊尚百三四十人有り、衆大に歓喜し、互に無事を祝したり。(略)二十五日早晨、大鳥氏、軍を反して、又檜原に行く。重創の兵九十六人を予に託し、涕泣して南北に別る」

大鳥ら戦死の説は浅田のもとにも届いており「殊に痛心」と、心を痛め、悲しみました。
その大鳥死亡説を聞いてから、はからずしも大鳥と檜原で再開。兵隊130-140人ほどがいた。ということは、大塩村で大鳥が本多、大川、瀧川、ほか敗残兵らが合流していますが、その後だったということでしょう。大塩村で大鳥は「余も諸子の無恙を見て手を握り感泣せり」と部下と手を取り合って男泣きしていたのですが、浅田君は残念ながらこの感動の場面には居合わせられなかった模様。

涙の再開現場には間に合わなかったけれども、浅田君も「大に歓喜」して、互いに無事を祝った。そして、左腎を打たれた重傷の浅田君ですが、大鳥から負傷者96名を託され、仙台へ落ち延びることになります。この負傷者たちの中には「谷口四郎兵衛日記」の著者もいました。

浅田が無理をするのは、宇都宮の例をみたら自明のこと。大鳥としては負傷者監督という責任を浅田君に与えて、戦地ではなく療養先への確実なルートを取らせたのだろう。

大鳥等はこれから、西会津方面へ転戦。長窪、陣ヶ峰、泥浮などで、糧食弾薬欠乏の中、若松城を救うために、官軍と更に戦い続けます。
一方、浅田は南へ。北の死地へ再度向かう大鳥たちと別れるのに「涕泣」した浅田君。…よほど大鳥のほうについて行きたかったらしい。

そうして、米沢造反。退路を絶たれる恐れから、大鳥たちは西会津からとって返し、昼夜兼行、薮を掻き分け泥に転びながら、東の仙台まで落ち延びる。浅田とは、無事、仙台にて再開します。

榎本艦隊とともに箱館に向かう際、傷病者は仙台に残しました。しかしながら、創の癒えていなかった浅田は、大鳥等とともに艦に乗り込み、箱館に赴いています。



以上、復古記収録の「北戦日誌略説」でした。

…と、ここまで書いてきて思ったのですが。

浅田の行動パターンについて。
自分が進言したことを大鳥が実行したら、大鳥を褒める。
自分の言を大鳥が採らなくてうまくいかなかったら、その理由を別に見出して、やむをえなかったのだと大鳥を弁護する。

どうも、こと、評価ということに関する限り、自分と大鳥を同一化している。大鳥を肯定することが、自分自身を肯定する手段になっていないか。

なんというか、盲目さが、浅田のもともとの性質ではなくて、浅田が戦場で生きるための手段になっていないかと思うのです。

なにせ寄る辺のない流浪の軍。
浅田君、理論的に物を考えようとしている人ですが。(時々破綻しているけれども) 通常なら、徳川という権威付けのないボウフラの軍たる自分の立場には疑問を抱いてしまうものではないかと。泥沼の戦いに身を投じていても、幕臣としての拠り所と正当性があれば心は楽。逆に、特に会津の傭兵扱いを受けるのは、精神的に辛かっただろう。「何のために戦っているのか」という疑問は常に頭について離れなくなると思う。

大鳥は日光を放棄する際に、その疑問に直面した。
けれども、浅田にそのあたりの迷いは一切ない。戦闘に没頭するのに、怖いまでに迷っていない。

それで、浅田は、その疑問を、自分から切り離して総督に押し付けたのではないか。
疑問を抱くよりは、最初から疑問は放棄してしまったほうがずっと楽。

善悪の判断は行わない。あるのは規律と命令系統。「何のために」は軍上層部が考えればいい。自分は「何のために」をとにかく肯定し、「どのように」だけを考えればいい。士官としては理想的な精神回路ですが。

つまり浅田は、迷いを抱かず思考停止をして戦に浸るのに、大鳥を利用していたのではないか。

浅田の突き抜けた弁護には、そうした心向きがあるのではないかと、思ったりします。

いや、単になんとなくで、確証はまったく無いですが。
そのくらい考えないと、戦場での無条件の上官肯定なぞ、ありえんと思うのですよな…。
もちろん、感性が合うとか人格が気に入ったとか知識を評価しているとか、いろいろ他の要因もあるのでしょうけれども。あると思いたい。


以上ですが、浅田君に関しては、まだ、続きます。
ここまでが、前ふりです。次こそが本題です。

報告書もきついのに何をやっているのだろう。浅田に睡眠不足で殺されそうだ。
posted by 入潮 at 05:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月28日

選挙ですか。

4:00。ただいま帰宅…。

ようやく、夏らしい夏になりました。通勤で、Tシャツを絞ると汗が滴るぐらいです。自転車1日20km。怠け者がよく続いていると思います。単に金を払って地獄の通勤電車に乗るのが馬鹿馬鹿しくなってしまっただけですが。
今週はずっと丑三つ時帰りです。午前1時を過ぎると歩行者が居なくなって走りやすく、午前2時3時代は車も少なくなるので、一番かっ飛ばせます。4時過ぎになると、今度は新聞配達のにーさんたちが出てきて、おはよーございます、の声に虚しくなってくる。

それで帰宅すると浅田に憑依される。疲れは溜まる一方です。いや、すぐに寝ればいいんですけれども。

疲れ果てて帰ってふとポストを見ると、選挙のチラシ。

紙面の半分を、「カネまみれの大臣ばかり」とか「税金のムダ遣いは野放し」とか、他政党の悪口で占め、しかもわざわざ赤色バックの片仮名で書く。あまりの品性のなさに、げっそり来る。他者を貶めて自分の格を上げようとするというのは、さもしい。公約は抽象的というか当たり前すぎて、わざわざ口にする理由がよくわからない。よけいに疲れた。

この時期、外を歩くのも嫌になります。
選挙カーや街頭演説、派手なポスターも、聞く気観る気が起こらない。あれの費用対効果はどのぐらいあるのだろう。通勤時間を狙って街中でがなりたてられても、中身を聞く人間なんてそういるとは思えない。そもそも、中身がないことばかりしゃべっている。公害にしか思えない。

選挙公約も、テープレコーダーの繰り返しのように馴染みのキーワードを並べ立てるだけで。
しまいに名前しか言わなくなるんですよな。

アンケートで投票の決まり手は何か、と聞いて、「選挙カー」と答える人が、居ると思ってやっているのだろうか。
騒音公害を振りまいて要らんガソリンを消費している人間が、その口で環境保護を唱えるのだから、笑止するより他はない。

チラシのほうは確かにゆっくり読めていいのですが。
本当に考えて書かれているのか疑問なものもかなりある。一般受けするレイアウトとキーワードばかり考えている。抽象的でよくわからない。

数字がでても高速道路を無料化すると20兆円の便益とか。世の中には不可解なことがいっぱいあるなぁと思います。

「食糧自給率10年で50%まで上げる」にしても、どの品目をどういった理由でどこでどうやって誰が作って、どのぐらいペイして、その補助金の財源はどこからどのぐらい出して誰に裨益するのか、とか。

「2050年までに温暖化ガスの50%削減」。…どこを減らしてどのエネルギー源をどこからどうやって持続的に確保してその財源はどこから調達してその便益はどうなってその経済評価の結果はどうなるのか、とても興味深いです。

あぁ、そういえば刈羽原発が、復旧まで最低1年ですか。ラドン温泉6L分の漏れで。私はおととい、300Lほどのラドン温泉に漬かって来ましたが。その銭湯は毎日湯を変えていると言ってました。300Lラドン温泉も毎日下水に放出されているのでしょう。東京のど真ん中で。
それで、うちのプロジェクトで削減しようとすると千年以上かかってしまう二酸化炭素が、さらにドカドカ排出されることになるのですか。南無三。人生無情。閑話休題。

とにかく、数字があっても、どうも裏づけのよくわからない数字が多すぎて戸惑います。

散々がなられている流行語の「格差社会」は、なんだか実感となって現れてこなくて、いまいち心に響きません。ネットを開けばどこのポータルサイトででも「4時には帰りたい」だの「習い事もしたい」だの、「自給1800円」だの、「未経験者歓迎」だの「私を生かす職場」だの、ふざけたナメた甘えた夢見た猫なで声で、人を集めている。現実、基本的人権無く、重圧に押しつぶされ、鬱病・過労死・家庭崩壊寸前になって生活の糧を得ている奴隷という名の従業員は、社員派遣さん問わずいっぱいいる。保険や手当てが違う分、雇用元の利益に対する責任と重圧が違うだけのこと。

金というのは、心身すり減らして骨身を砕いた代償だ。楽していたら金は稼げない。当たり前のこと。

「格差」なんてのは責任転嫁のために便利に使われるだけで、使えば使うほどその人間を軽薄に見せる用語だと思う。

そもそも、社会的責任やら品質やら談合悪やら透明性やらの、正義ぶった言葉を振りかざして、政治家とマスコミが企業を締め付けるから、企業に利益がでなくなって、社員に過剰な仕事と責任を要求し、給料と人員を減らさないとならなくなる。最低賃金1000円は結構だが、その分雇用者の負担が過ぎて利益が出ない。利益のない企業は法人税も払えなくい。すると政府に財源がなくなる、という悪循環になる。減税結構。弱者に優しくというのは耳には優しい。けれども、何をするにもまず政府に金が必要だろう。まずは、得手勝手で短視野的で一般受けしたいだけの非現実的な己らの独善を見直せと言いたい。

…と、疲れているから文句ばっかり垂れてしまうのですが。

公約チラシも、よく見ると「国会議員の半減」とか、「国産防衛戦闘機の実現」とか、「教育勅語復活」とか、「1000億円を補助金とした木造二階建て耐震化」とか「旧戦場の慰霊碑に参拝と清掃」とか、結構面白いのがあります。「維新」を掲げて攘夷思想もどきを振りまいているのは、いろいろな意味で面白いです。

でっかい公約でなくていいので、実現可能で具体的に挙げてくれているほうが、好感が持てます。

とりあえず、安全保障と借金の具体策がほしいですが。

スローガンばっかりなのは、シンプルにわかりやすく、というのがあるのでしょうが。あまりに簡単にと心配りをしていただきすぎても、かえって良く分かりません。やることだけ箇条書きされても、何をやりたいのか、どのぐらいの確度でできるのか、どうやってやるのか、どこから財源を確保するのか、何よりどのぐらい本気で責任を持ってやろうとしているのか、全然分からない。

共通テーマをいくつかあげて、それぞれの課題に対して、背景、現状の問題点、解決策、実例、予算、財源確保方法、経済効果をそれぞれ具体的に数値とともに記して、A4サイズ2枚のサマリーにして、各政党のもの1セットを置いておいてもらえば、それで十分なのだけれども。

それで、上記についての詳細を、公約の妥当性と実現のための具体的プロセスを踏まえて、200枚ぐらいのペーパーに記して、まとめサイトからPDFでダウンロードできる形にしといてもらえれば。希望者にはハードコピーを郵送するとしておけば。国の行く末を左右する方々が、どのぐらい本気でいらっしゃるのか、国民の下々の者にもよくわかると思います。

そういう企画書やプロポーザル作りは、どこの企業でもやってますし。

それで、やるとしてもどうせ外部の人間がデータと文章を作るのだろうから、同じ金を使うなら、大音声スピーカーの選挙カーを走らせるよりも、そっちのほうがよほど有力な選挙活動になると思うのですが。ウグイス嬢よりコンサルの時給のほうが絶対安いですよ…。

あとは選挙管理委員会かどこかが、各政党のサマリーから、各項目を表にして、比較対照できるように一覧表にして、選挙票と一緒に送ってくれれば、十分だと思う。

(毎日新聞のウェブで一覧表を作っていたけれども、あきらかに具体性の無い耳に聞こえのよい一行標語がならんでいて、自分には使えなかった…)

実現できるのかどうか、本気で実現させる気があるのかどうか。データと行動計画と費用と財源とともに示してもらわないと、何が良いのか、選びようがない。

さて、飯を食おうと思ったら、釜の中の米が腐っていた。
夏め。腹減った。炊きなおす気力がない。ひもじい。米を食うゆとりもない生活。…寝よう。

あれ。もう今週って終わりなんですか。
しまった、今週末こそ山に入ろうと思っていたのに。
もちろん明日も余裕で出勤です。あぁ、夜が明ける。
posted by 入潮 at 05:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月31日

浅田惟季 その5「北戦日記抄」

さて、本題です。

「浅田惟季 北戦日記抄」
「明治元年」と表紙にあります。また、スタンプに「明治四十五年三月二五日寄贈」とあります。
明治の最後の年に、東京帝国大学史料編纂所にもたらされたものでした。

これについて、言いたい事は唯一つ。

―― 誰か読んで活字にしてください。

本題、以上。


いやその、写本者のくせ字というか、崩したり漢文になったり字や文章の変貌が激しくて読みにくいのです…。まだ総崩し字よりはずっとマシなのですが。

以前にも記しましたとおり、基本的に「復古記」の「北戦日誌」のほうがずっと丁寧で、後からきっちりと校正をしたような造りなのですが。一方で、「北戦日記抄」は復古記に含まれて居ないパートがあり、また、復古記に収録される過程で切り捨てられてしまったようなエピソードがあるのです。

史料編纂所の「北戦日記抄」は、誰かの手による写本です。というのは、冒頭から「浅田氏、陸軍兵隊差図役頭取にて伝習第二大隊に属す」とあります。また、「北戦日誌」一人称は「余」と、浅田君が自分で書いたものと思しいですが、「浅田」「浅田惟季」「浅田麟之助」というように三人称的です。さらに、「日光」が「晃」となっているように、当時参戦していた人間からは考えられない表記もあります。

更に、順番があちこちに飛んでいます。
最初は4月11日なのですが。鴻之台からいきなり今市第二次戦に飛んでいます。何が起きたのかと思います。そして、藤原、山入村、母成峠、檜原、と順番にきた後、4月13日の諸川・小山に戻ってきます。そして、宇都宮、日光、今市、と進んで、終わります。
構成を理解するまで、だいぶ時間がかかった…。
よって、戊辰戦争に参戦していない第三者が写本したものだと思います。複数の人が行っているかもしれません。

他力本願では世の中は進まない、という真理がありますので、自分でできるだけ突っ込んでみます。読解は間違いだらけだと思います。読めない字もたくさんあります。7割あっていればめっけもの、という確度です。変な部分がありましたら、あるいは□部分が分かりましたら、どうか正してやってください。

ひとまず、復古記になかった小ネタを行きます。日付は原文そのままなので、多少前後があると思います。


● 4月11日、小川町屯所〜法恩寺

「四月十一日、午時、肥後兵三十六人来て、我陣営を交たらんとす。本多幸七郎、金を諸卒に分ち与け(金千四百両)曰、今日は即徳川滅亡の秋にて、我軍に百年来坐食の恩を報するに、死を以て誓之、曰、一両年、□陸伝□し、浮浪士一時の拠る一所なし、敵兵を撃ち退て以其方向を占ふべし。雖然、勝敗は天なり。体(?)そ、兵備の全からざるを憂ん。両等、臥薪嘗胆悉く尽し往き、國恩に酬ぜよと。令□て、空砲一発を号とめ、兵隊忽ち閧歌を発し、二道に分れて出立す。一隊は両国、一隊は吾妻橋に□し、悉く深川の報音寺に合し、大鳥圭介を主将とす」

肥後の兵が、小川町の屯所を摂取することになりました。本多幸七郎、金を兵卒に分け与えてます。その金額千四百両。450人だと一人3両。これが当面の兵たちの給料の前払い、ということでしょうか。

今日は徳川の滅亡の日だ。死を以って百年来の恩に酬いる。一両年、陸軍伝習を受けてきたが、もはや我々は浮浪士となり拠るところは無い。敵兵を討ち退けて、我々の行く末を占おう。勝敗は天の決めるところである。兵備が完全でないのは憂うところであるが、皆の者、臥薪嘗胆で国の恩に報え。
本多、そうして空砲を一発発する。兵は勝ち鬨の歌を発して、二道を分かれて進む。

これから軍は二つに別れ、うち一隊は両国を通り、一隊は吾妻橋を通るというルートで深川の法恩寺に集いました。そこで大鳥を待つことになります。

伝習隊が、大鳥と法恩寺で合流する前の、屯所から法恩寺までの場面でした。あの大鳥の鬱々とした出立が嘘のように、皆さん男臭く沸いていました。一緒に鬨の声を上げたくなります。本多隊長、渋い。(いや本多さんって女性よりむくつけき男にモテそうだなぁ、と。)

それにしても、隠密で脱走するのに、空砲撃ったり鬨の声をあげたりして、騒いで良いのか。

● 4月26-27日、六方越

あった。浅田君、六方越していた。苦難の感覚がないのでは、などと言ってしまってごめんなさい。

「未刻、我兵始発鉢石、往六方越之険、出五十里越、道極険悪、一人已不見人宗、五十里迄、飢困苦、況ヤ行二里、日没四面暗黒、不往一歩、兵隊道半、霧宿山中」

まごうなき六方沢です。午後三時ごろ鉢石を出発。大鳥が出たのは六時を回っていましたので浅田君はだいぶ先行。
六方の険を越えて五十里を目指す。道路は甚だ悪く人も通らない。五十里まで餓えて困苦、8kmも行くと四方は真っ暗、一歩も歩けなくなり道半ばにして霧のなか山中に宿す。

浅田君、股に銃創受けて兵に担ぎ出されたはずなのに、よく越えられたな…。

「二十八日、巳時、抵小邑名日蔭村、距鉢石崖六里、戸口十五、土人常食稷、不知有魚肉、只喰獣肉、求糧食、(邑米無只稗を一斗五升を炊かしむ、粥となし三つ食う)、食之与金一分二分、不悦与百銭、大喜、其固陋可推知」

午前十一時ごろ、日陰村という、十五世帯ほどの小村につく。鉢石から24km。土人はきびを常食として、魚があるのかはわからない。獣肉は食っている。糧食を求めた。村に米はなく、稗を一斗五升炊かせ、粥にして食った。食糧の金として一分二分を与えたが喜ばない。百銭を与えると大喜びした。その固陋さは計り知れない。

浅田君、ごうつくな地元民にムカついています。粥でも食べられたのだからいいではないですか。大鳥総督は、さらに4km先の日向村で、米と稗のうすい粥にありつけるまで、食べられなかったのですぞ。その前に大笹村で卵二個もらっていますが。
それに、地元民のほうがよほど迷惑だったと思う。

● 閏4月3日 田島

辛い思いを経て、田島にまでやってきました。

「三日、抵田島、人戸三百戸、遇沼間慎一郎伝習第二大隊長、須藤時一郎等廿二人、沼間須藤二月二十三日脱江戸、互祝其無恙、相見流涕」

沼間慎二郎出現です。兄の須藤氏もいます。兄さんは人質になったのではなかったでしたっけ。互いにつつがないことを祝います。沼間は恙のほうが尻尾を巻いて逃げていきそうですが。相見て涕を流す。そんなに沼間と浅田、二人仲が良かったのですか。

「長官本多幸七郎創重、臥有病褥、因使沼間代鎮具、擢武蔵櫻橘、為中軍参謀」

本多は銃創が重く、病床から起き上がれない。よって沼間を代理とし、武蔵櫻橘を中軍の参謀とした。
本多さん、そんなに傷が重かったのか。そういえば、今市も藤原も出ておらず、復帰は…山入村まで待たねばならなかったでしたか。それで壊滅で大鳥と同じように敵に目の前にまで迫られながら隠匿して逃げる羽目になった。最悪の復帰戦でした…。命あってなによりのものですが。

● 閏4月25日 今市・日光

「沼間慎一郎瀧川充太郎来曰、我等今日未見合戦、宜捷二小隊、如君意□、曰諾。初沼間大言曰、君軍未為眞戦、所為喧嘩、已及今市二十二日、於敗、浅田笑之曰、我軍未知敗、故今来戦已」

えぇと、ちょっと解釈に迷うところもあるのですが。
沼間と瀧川がやってきて言う。「今日までまともな合戦をやっていない(?)。二小隊で勝ってこようじゃねぇか。浅田、どうだ、お前やらねぇか」浅田、いいですよ、と答える。すると沼間が大言を吐きだす。「てめぇらは今まで真の戦をしちゃいねぇ」と。そのために喧嘩になり、22日(21日)の今市第一次戦での負け戦に話は及んだ。浅田、笑って言う。「我等の軍はまだ負け知らずだ。今から戦ってきて見せてやろうじゃないか」

…我軍未知敗、は無いだろう、浅田君。あるいは全体では負けていても自分の小隊は負けたことはない、と浅田は言っているのか。いずれにしても、沼間相手に一歩も引かず、負けず嫌い根性を発揮し、売り言葉に買い言葉で戦闘に出ようとします

それが、5月1日の日光鉢石攻め。吉澤君と一緒に出撃して、破壊の限りを尽くして帰ってくることになるのですが。
会津の原隊がやる気あっただけじゃなくて、沼間に挑発されたからだったのね。

大鳥さんの頭痛の種がまた増えていそうです。

● 5月10日頃、藤原

「此地僻地、日々食玄米味噌梅干の外、野菜あるのみ。後一葉の枯魚なし、□皆喰蛙食蛇及蟇」

蟇=ひきがえる

僻地で、食うものは玄米と味噌と梅干のほかは野菜しかない。干魚すらない。皆、蛙、蛇、ヒキガエルを食って力をつけるしかない。

…蛙に蛇、食っていたらしいです。伝習隊。

蛙はかしわのようでそれなりに美味い。ミャンマーだと蛇はご馳走だった。硬い蒲焼。夜暗闇の未舗装の山中をヘッドライトで走っていると、光にショックを受けて蛇が気絶する。それをドライバーが目ざとくみつけて急ブレーキをかけて喜び勇んで捕獲してくる。おちおちウトウトもしていられない。

えっと。寒村出身の元山猿大鳥は、蛙も蛇も喜んで食いそうです。「重曹があればやわらかくなって良いんだけどなー」とか言って嫌がられてそうです。本多と瀧川は育ちの良さが邪魔して戸惑いそうです。浅田君は大鳥が食べるなら自分も食べそうです。大川は地元の娘さんからちゃっかり差し入れもらってて苦労していなさそうです。


● 6月26日の藤原戦の後。

「大鳥令浅田以頭並格。七月二十一日、二本松落城に付、応援とて伝習二百三十人、士官隊三十人、発藤原、二十二日入会津宿、七日市街、松平容保召賜酒肴、七月二十三日山川大蔵を以て浅田麟之助に感状を送る、其文曰、去る六月二十六日於下野国小原戦争し抜群之働、(略)」

藤原戦の後、浅田の活躍に対し、大鳥は浅田を歩兵頭並格に昇進させました。
そして、二本松落城につき、伝習隊と士官隊は会津へ。(今市、藤原でも浅田の筆によく出てきて、瀧川が率いていたこの「士官隊」は、利根川の船着場で追いついてきた伝習生徒のことではないかと。自分の頭の中には「伝習ひよこ隊」と自動変換されてしまっています)

大鳥は竹本登と第二大隊を同行したというので、その中に浅田も居たのでしょう。瀧川はこの間、鈴木(金次郎?)ら伝習士官と共に田島で新兵取立てを行っています。
12日には容保侯が酒宴を催してくださいました。
そして、山川が浅田に感謝状を贈っている。小原での働き抜群で、感謝として洋服一通りと反物?二枚を授けました。浅田君、大変嬉しそうです。

浅田君、今市二次戦の「在傍過激者」への恨みは解けましたでしょうか…。

(いや、浅田君、何を憚ったのか名前を言わないし。あの時、山川も大鳥の傍らに本営に一緒にいて、本営襲撃されて逃げたわけですし。何より過激という形容詞がぴったり来る人ですし。確証はないですが、山川を指した可能性が、一番高いなぁ、と)

その後、母成峠の布陣になだれ込みます。諸隊みな不平ぶーぶーだったと思いますが。浅田は浮かれていたのか、全く不満気な文章は見当たりませんでした。


…ということで、母成峠に行きます。
が、峠に着くまえに力尽きました。

もうちょっとだけ続くぞい。(by亀仙人)
posted by 入潮 at 03:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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