2007年08月01日

伝習ひよこ隊(脱走伝習生徒)

「會東照大権現」様。日光口の更新。やってくださいました。すさまじい労力の結晶だと思います。勿論今までも宇都宮、小山はじめ、十分濃度も確度も凄かったですが…。官軍、旧幕、會津、日光地元、多方面からの資料、すばらしいです。興味のある方は是非。

「城取隊」の城取は、会津の隊長のお名前だったでしたとは。単に今市攻撃隊を指すのだと思っていました…。今市に城はないのに。要塞化しているからそう呼んでいるだけだろうか、勇ましいな〜、と思っていました。すびばせん…。


さて、葛西の渡しで、屋形船に乗って、大鳥たち伝習第二大隊を追ってきた伝習生徒50名。
自分で勝手に「伝習ひよこ隊」などと呼んでいるうちに、愛着が沸いてきてしまいました。
皆、まだ10代の溌剌した子たちだったのだろうなぁ、と。

浅田君が「伝習士官隊五十人(第二隊に属す)」として、その後も活躍していたので、どんな子たちなのかと思いまして。大川名簿をもとに、宮氏名簿や「幕末維新全殉難者名鑑」と照らし合わせて、以後をまとめてみました。こちらが結果。

箱館に行く前に野州で戦死したのは3人(神田ナ之助、小柴圭三郎、丸毛三郎)。負傷して、おそらく仙台で置いていかれたのが2人。(青木録之助、市川光之助)

また箱館まで来たのが確認できたのは、50名中15名。内10人が瀧川の伝習士官隊に、3名が大川の伝習歩兵隊に配属されました。1名は兵糧掛、1名は喇叭掛です。多くは嚮導役=下士官か、隊士=平兵士ですが。中には森川善之助のように差図役に就任している人もいます。(でも森川は、「幕末維新全殉難者名鑑」では箱館(おそらく千代ヶ岱)で死亡となっている…。)

あと、小柴圭三郎。ひよこ隊ながら、「幕末維新全殉難者名鑑」によると、第二大隊の差図役(小隊番号不明)になっていて、宇都宮で戦死していますが、大川名簿にはその旨の記述がない。むー。もしや別人かもしれない。名前も敬三郎と圭三郎で違うし。

大川名簿から、今市で死亡したと判明したのは神田ナ之助。今市の本営に土佐兵から攻め込まれた際、士官隊に守られていた大鳥、僅かの手勢10人余りでを防ごうとし、敵の2,3人は倒したけれども、左右いた二人ほどもまた戦死ししてしまった。神田君はもしかしてそのうちの一人でしょうか。
また、市川光之助、今井 繁吉郎、森川 善之助 もこの今市で負傷しています。
大鳥さんを守ってくれてありがとう、というより、死なせてしまってごめんなさい、という気になります…。

31人は進退不明。途中で離脱したのか。無事であったことを祈りたい。

それにしても、「幕末維新全殉難者名鑑」は、ありがたいですが、使うのが辛い資料だ。名前が見つかる=死亡、ということなので。見つかっても喜べない。

弾丸は若かろうが訓練生だろうが、選んで飛んできてくれはしない。彼等もまた六方越えや檜原流離を経たのかと思うと、つらくもあり、いじらしくもあり。

それにしても、彼らを見ていると、差図役(中尉相当)がものすごく高い地位に思えてくる。大鳥さんは、死者の名前はだいたい差図役以上しか書いていない。なんだか雲の上の人に思えてきます。もっと下々まで見てやってくれよぅ。

下士官や隊士・兵士の記録も、もっと読んでみたいなぁと思います。
あるとしたら、凌霜隊の矢野原さんの「辛苦雑記」ようなのが多そうだ。記録者は上級職の士官に多いだろうし、文書が保管され伝えられるのは、それだけ大きな家柄でないと難しいのだろうとは思うのですけれども。

戊辰戦争は士官だけの戦いではない。そういう当たり前のことを、しみじみ感じました。

宮氏名簿を見ていると、いろいろ突っ込みしたいところが出てきたので、またまとめてみたいと思います。
ラベル:史料
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2007年08月02日

「函館脱走海陸軍忽人名」覚書き

ぐーさん名簿(函館脱走海陸軍忽人名)は、「旧幕府」に何回か分かれて収録されています。おそらく箱館戦争関係の名簿では一番詳しいのではないかと。

大川の「函館戦争記」の伝習歩兵隊・伝習士官隊も、これとほぼ同じでした。

陸軍部分を見ていて気がついたことを、備忘メモとして。

組織図はそのうちアップします。
名簿も書き方・役職構成などには統一性は無い。各隊から出させたものをそのままくっつけた、という感じではありました。

以下、用語です。

「士分」:苗字のある者。隊士や歩兵にも士分は多い。歩兵が途中で苗字を得た者も多いと思われる。
「士官」:差図役並(=少尉)以上。
「下士官」:差図役下役、嚮導役など。
「歩兵」:役なし。農兵、徴募兵だけではなく、苗字のある士分も歩兵に含まれる。

・実際は連隊行動はほとんど取られていない。例えば伝習歩兵隊2小隊が二股、2小隊が木古内、というように、必要に応じて中隊・小隊規模で分けられ派遣された。

・改役、差図役などの士官の人数は、各隊によってばらつきがある。

・苗字のある者を「士分」、役のない者、或いは「歩兵・兵○名」と纏められているのを「歩兵」とした場合、士分約1600名、歩兵約1200名。合計約2800名。士分のほうが多い。

・丸毛利恒「感旧私史」では「武官陸軍は差図役並以上を以て士官とし、文官は調役並勤方以上を士官とす。然るに、伝習士官隊、遊撃隊、彰義隊等の如きは隊士と雖も、往々旗下の士多し(所謂目見以上なるもの)。又伝習歩兵隊、衝鋒隊、一連隊等の如きは従前の歩兵を以て成り立ちしものなれば、或は士官と雖も歩兵より戦功を以て昇りしものあり」 とある。

・上より、「隊士」は職務・階級上、「歩兵」と同じ。士分の場合「歩兵」ではなく「隊士」と呼ばれると思われる。 旗本も隊士に多かった。

・「士官」は「差図役並」(少尉相当)以上で、隊の指揮官を指す。なお、士官のうち「半隊指令以上」、つまり差図役以上は原則として小銃は持たない(「蝦夷錦」より)。 この士官は、合計役2800名のうち、233名。陸軍士官の率は陸軍全体の役8%。(「士分」と「士官」は別。「士分」は苗字のある者の便宜上の区分)

・歩兵の率が高いのは、伝習歩兵隊、衝鋒隊、一連隊、陸軍隊、など。

・苗字ありの士分の率が高いのは、伝習士官隊、小彰義隊、彰義隊、新撰組、遊撃隊、会遊撃隊、神木隊、額兵隊、など。

・士官の率が高いのも上と同じ。(ただし伝習士官隊のみ士官率は低く、5-6%)。会遊撃隊・額兵隊・神木隊・新撰組など、各藩出身の隊はほとんどが士分であり、士官率も高い(10%-20%)。

・衝鋒隊には差図役旗役、差図役旗役改並、差図役旗役介、嚮導役上席、鼓手など、独特な地位がある。長岡の連戦で生まれたものだろうか。また、喇叭役がなく鼓手がいるということは、太鼓で戦っていたのだろうか。 (喇叭役の居る隊もある。一般に喇叭のほうが複雑な指揮が可能で多様な戦術が取れ、程度は上とされる)

・衝鋒隊は、小隊の上に士官組織がある。小隊単位ではなく大隊直属で10数人いる。さらに衝鋒隊にも「士官隊」がある。頭取・友野栄之助。士分45名、歩兵5名の隊。「伝習士官隊」に対して、「衝鋒士官隊」とでも称すべきか。 衝鋒隊にも、歩兵と一緒は嫌だという武士たちがいたのだろうか。

・伝習士官隊は二個小隊あり、隊員のほぼ全てが士分。伝習士官隊はその名の通り伝習隊の士官のみを集めて構成したと見られる。伝習士官隊の歩兵は喇叭係のみ。士官の率は低く、伝習歩兵隊と同程度。(なお、野州にも「士官隊」と称される隊があったが、これは脱走し伝習第二大隊に合流してきた伝習生徒50名と思しく(別の説もあり)、函館の伝習士官隊とは別。箱館まで至った脱走伝習生徒から多く(15人中10人)が函館の伝習士官隊に配属されている)

・一方、伝習歩兵隊は四個小隊あり、各小隊に士官が3-4人。歩兵が5-70人という構成。伝習歩兵隊のほうが、もともと横浜で徴募された伝習隊の体制を維持していた模様。

・歩兵は皆「歩兵○名」でひとくくりにされている。歩兵は苗字がないどころか、記録もされないのかと思うと切ない。( 「幕末維新全殉難者名鑑」は歩兵の名前も判明した範囲で示してくれているので、ありがたいです。皆死者ですが。大川も「函館戦争記」で、負傷者・死者は歩兵も記録している。…死なないと記録に残らない歩兵)

・第三連隊第二大隊の額兵隊の付属砲兵。「砲兵11人、内戦死11人」で全滅。何が起きたのだろう。木古内戦か。

・第一大隊第一連隊(伝習士官隊・小彰義隊・神木隊)の付属の病院掛鈴木幸次郎。病院掛でありながら、宇都宮・会津・箱館・二股と、4回も負傷している。病院掛でなぜそんなに負傷をするのだろう。元士官かとも思ったが、大川の脱走時名簿には名前は見当たらず。

・「医師」と「病院掛」の違いは何だろう。「病院掛」の人は上の鈴木幸次郎の他にも、しょっちゅう負傷している。「医師」は病院での担当者、「病院掛」は前線の負傷者を病院へ運ぶ人、だろうか。

・一概には言えないが、士官率の低い隊、歩兵率の高い隊のほうが、戦歴が長くパフォーマンスも良い傾向が見られる。(例:伝習歩兵隊(士官率4-5%)、衝鋒隊(士官率4-7%))

そんなところで。
だから何?という感じではありますが。

特定の隊、特定の人物ばかりを突出して語ってしまっていますが。

箱館には多くの隊があり、多くの士官、下士官、歩兵がいた。

という、当たり前のことを再確認しました、ということで。
ラベル:箱館戦争 史料
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2007年08月03日

大鳥圭介伝と山崎有信

あまりに放ったらかしにしていたので、もはや誰にも省みられなくなっているのではと思う本サイトですが。以前に取り下げた基礎情報をこちらに改訂しました。まず序盤。今まで散々ほざいてきたことのまとめです。貴重な大鳥ファンの方々には、新しい情報は何もないと思います。

一方で、ウェブで検索して手に入る知識というのは、手っ取り早い分、確実性に欠ける面がある。けれども、もはやウェブにまとまっている情報があるかどうかで、流布性が全く違ってくる。だいたいウィキペディアをみて満足してしまうものですが。ウィキ以上の興味を持って下さる方がもしいた際に、拠れるところがあればと思いました。

いまさら何を、という感じではあるのですが。ブログのほうでマニアックな細かいことばかりブツブツやっていても、影響は大して無いですし。細部にかまけていて、当初の目的から云えば一番最初に作っておかねばならなかった大枠をほったらかしにしていた、ということで。

研究家やら評論家やらの方々の描かれる業界一般の姿とは、相当違ったものになっていると思います。燃えよ剣の偏った虚像をもとに創作された像に親しんだ方からみれば、違和感が大きいでしょう。でも、どこに突っ込まれても、出典がある、或いは複数の根拠から推測されるというという説明はできると思います。こういうとまた嫌がられそうですが、常敗将軍、へたれ、机上の戦略家、等の不当な印象が少しでも拭われて、技術者として世つくりした姿が広まればいいなと思います。(最近は心ある方々のおかげで、見直しの声も大きくなったと感じています。ありがたいことです)

で、大鳥圭介伝を見返していたら、今まで見逃していた点があったので、ピックアップを。(そして又細かいことを)

・戸籍

ひなの語るところ。大鳥の生年月日は当時良く記憶していなかったので、天保4年2月25日として届け、その後帰省したとき、祖母のお節によって初めて天保4年2月28日生まれであることが分かった。戸籍はそのままにしておいた、とのこと。

お節さんが亡くなったのは圭介が獄中に居るとき。ひなは8歳。圭介が居ないときに一度帰省したのだろうか。(借金のため?)

とすると、やはり天保4年生まれが正しいのか。ただし、ひなは別のところで誕生日を天保3年2月28日だと言っている。また、岩木にある碑文は天保3年2月25日生まれ、とある。

山崎氏は天保3年2月28日説を採用しています。自分もこれに習いたいと思います。

で、戸籍が天保4年生まれになったのは、大鳥が自分の誕生年を天保4年だと思っていて、小さい頃から体が小さかったから、一年遅く生まれたと誤解していたのだったりして。

・医術

「男爵は医家に生まれたるものなれば、多少の医術の心得もありしゆえ、小児を集め種痘を施せしことありし由」

大鳥さん、自分で子供をあつめて種痘を施したことがあると。洪庵先生の教えがきちんと体に残ったわけでしょうか。戦争中も、医薬品さえあれば、簡単な手当てぐらいなら医師に頼らず自分でできていそうです。

・依田百川の戊辰物語

大國真太郎が、年少の頃、依田百川の戊辰物語を読み、大鳥の李将軍の趣あることに心打たれたという。
依田学海の作品のどれを指すのだろう。読みたい。

・岡山中華日報

明治後期に岡山中華日報記者の菊池茂氏が大鳥のことを取り調べたことがあるけれども、未だ出版はしていない、これらはいずれも面白いものであるので、順次一冊として上梓されたい、とある。…これはどうなったのだろう。原本でもどこかに残っていないのかしら。

大鳥圭介伝。蘭三郎さんから、なにやら物語りめいたところがある、と言われてしまったりしていますすが。やはり、大鳥を見るなら、欠くことはできない最も土台となる基礎資料だと思います。

著者の山崎有信氏。大正4年の史談会速記録265編で、「大鳥男の事歴に就て」ということで、大鳥圭介伝の概要を語っています。裏話がちらほら。

山崎さんは、小倉藩の出身。武士ではなく農家出身。旧幕府ともなんら関連は無い。本業は弁護士。拓殖局員として、旭川で北海道の開拓にも従事していた。けれどもある時歴史の興味から上野の彰義隊を調べ「衝鋒隊史」を著した。その時に大鳥に興味をもって、大鳥に関係したことはずべて書き留めておいた。拓殖局が廃止になると、一つ大鳥さんの伝記編纂をしようと思い立った、とのこと。

その際、4歳になる長女が病気になった。子供が死に瀕しているのに、死の数日前まで伝記の材料収集のために奔走していたとか…。それを自慢するのは、親として駄目だと思います、山崎さん。その後悔を序文で書かれているから良いのですが。

南柯紀行も、既に旧幕府や同方会誌、維新史料などに掲載されていたが、字が違ったり誤謬があったので、大鳥家にある写本を借りてきて、いちいち材料として比較対照した。漢詩もいちいちプロの詩人に問い合わせて確認した。

(それで後年、修正された「南柯紀行」は、昭和18年に「大鳥圭介・南柯紀行」として、山崎さんが刊行してくださっています。総ルビ振りでとても読みやすい。新人物往来社のほうは、旧幕府・同方会誌からの復刻なので、漢字や漢詩、記述が細部で結構違う。新人物往来社も、山崎さん編集版を復刻してくれればよかったのだが…)

また、南柯紀行の中に、戦争中岩井村の村長の誰に世話になったとか、今市の本陣の主人が非常に同情してくれたとかあるが、(同情。そりゃ大谷川に飛び込んで泳いで逃げ回る羽目になったら同情もされる…) 「何某」としか書いておらず名前がわからない。それも一々関係の県や郡役所に照会して調べた、とか。

あとは、大鳥圭介伝に山崎さんが纏めた、脱走に至るまでの経緯について講演しているのですが。みちさんとの結婚の際、江川の長屋で婚礼した、とか、矢島という家は今日では絶家したそうで大鳥が存命中はどうかあの跡を立てたいと常に言っていた、とか。脱走に際しては、諸道具色々は持って行けないから、江川の家に送ったとか。江川英武の話では大鳥家の品物を預かったとか。
圭介伝にないエピソードが嬉しいです。

(江川英武は明治に官を辞して韮山に戻る際、韮山の蔵に江戸の荷物を全部送って、今も蔵に4万点ほど眠っているとのことで。築城典刑のオリジナルの草稿とか、英武との往復書簡とかが見つかっています。整理がされ公開されるのを心待ちにするばかりです。)

さらに、大鳥はインド、中国、朝鮮の歴史地理を非常に詳しく調べていた。日本の勢力はやがて朝鮮中国に及ぶということはその頃から大鳥の眼中にあったと思う、人は皆西洋のことばかり研究していたが、大鳥はこの方面を調べて学士院の雑誌に出していた、ということも強調しておられました。

こんなに苦労して「大鳥圭介伝」を作り上げました。大鳥さんはこんな人でした、というのをとっても楽しげに語っておられます。

山崎さんは、農民出身で苦学して弁護士になった方ですから、寒村から成り上がった大鳥には共感することが多かったのだろうと思います。

普通伝記を記す人は、対象の人物の深い知り合いだったり、係累だったり、地元の人だったりして、すでに何かしらの関係性があることが多いのですが。

山崎さんには大鳥に対してそうしたものは一切ありません。同郷でも親戚でもないし、会ったことも無かった。
伝記を書くために、生前に回顧談を聞きに行ってはいますが、伝記の動機はその前に完全にできていました。
ただ純粋に、ほかの事を調べている際に大鳥の経歴、言動を見て、尊敬するようになった。
そういうわけで、山崎さんの立ち所は、恐れ多いですが、大鳥ファンと
次元が同じであると思うのです。我々大鳥好きの、元祖、大先輩たる方です。

それで、山崎さんが真面目にやりすぎて、山崎さんが収集された、同時代人の評で、安藤とか本多晋とか、遠慮のない誇張と揶揄の混じった言もそのまま収録され、今現在、都合よく一部だけ抜き出されて、それが大鳥のイメージの誤解の元になったりしているのですが。

功罪ありますけれども、大鳥圭介伝は、やはり手元においておきたい、そして柱として常に拠りたい基礎資料です。
こうしたものを残してくださった山崎さんには、感謝してしすぎることはありません。

一方で、大鳥が生きていた頃を知っている人たちに、直接話を聞くことができた山崎さんが、羨ましくて仕方が無かったりしますが。

自分らは、コピーもある、検索もある、ネットもある。無いものねだりしていても仕方が無い。
自分も、平成の1/100スケール山崎さんぐらいを目指せればいいなと思います。
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2007年08月09日

浅田惟季 その6「北戦日記抄」2

少し間が開いてしまいました。浅田惟季北戦日記抄、復古記で飛ばされてしまっている分です。不明な字が多いのはお許し下さい。いつもの通り、こうではないか、というのがありましたら、どうかご教示ください。


「八月二日拂暁、発若松、午後到猪苗代、有一城為亀ヶ城、二本松仙台敗兵三百人屯集。

八月三日、我軍二百三十余人、発猪苗代進抵将軍山(一名ボナリ峠)、距会城凡十里、二本松迫五里、四面郜原、只山上半里勝岩ノ地形険、此岳土湯越、立沢ノ二道二兵ヲ置スンバ、一時モ支ルヲ能ワズ。若ソノ兵ヲ布ク寸ハ八千人ナラデハ、悉クその険ヲ守ル能ワズ。大鳥氏其守リ難キヲ知テ、急二援兵ヲ会津二乞フ。不報、圭助盡夜苦心テ先築砲台三余、自ラ馬ヲ馳テ、会津二至リ、国力ヲ尽シ出兵コノ険ヲ守ラン事ヲ論ス。会人曰、□須川二屯スル伝習第一大隊二百人、□□五十人ヲシ之ヲ救ワシメント。既而敵大軍進及ノ報アリ。圭助曰敵兵乗□□不百□、此吾兵退ハ会津ノ滅亡、旦夕二アリ。死ヲ決テ守ラントス。及使第一大隊二百人、□□五十人ヲシテ自須川間道出、襲本宮。吾第二大隊二百三十人、及仙台二本松兵三百人、在山入村、備敵兵、襲我後者。」


8月2日。若松での饗応も終わり、猪苗代に向けて出発します。大鳥は瀧川や鈴木を田島へ遣わして新兵訓練をさせたり、林正十郎に小銃製造を託したり、兵站関係の手配をしていました。また、二本松落城の報あったのですが、4,5千の兵がいながら間道を進んで撤退した仙台藩兵を、一同冷笑しています。浅田君は書いていませんが、率先していそうです。

8月3日。猪苗代を出発して母成峠へ。四面は広々とした高原で、山上に勝岩の険があるのみ。この道と立沢(達沢)の二道に兵をおかなければ、一時も支える事は出来ない。八千人いなければ、尽くこの峠を守ることは不可能である。大鳥さんはその守り難いのを知って、急いで援兵を会津に要請した。これは報いられなかった。圭介は夜を徹して苦心して砲台を三台据え付け、自ら馬を馳せて会津(若松)に至った。圭介は、国力を尽くして出兵してこの峠を守らなければならないと論じた。会津人は須川(酸川野)に駐屯している伝習第一大隊の200人と、他50人をして救わせようと言った。

すでに敵の大軍が進んできた報が伝わっている。圭介は我が兵が退いてしまったら、会津は今夕にも滅亡してしまう、死を覚悟して守らねばならないと言った。よって、第一大隊200名と他50名が須川の間道に派遣され、本宮を襲撃。自分達第二大隊230名と仙台・二本松兵300名は、山入村の敵を襲撃することとなった。

大鳥は、本多、大川らと共に母成峠を観察した結果、二千人必要といっていましたが。浅田君は八千人必要としています。いずれにしても、母成における兵力不足は深刻だった模様。第一大隊による本宮出兵については、南柯紀行他には記述は見つけられませんでした。


「八月十六日 申刻、発将軍山、夜既□□、抵山入村。第一大隊長土方年三、自須川険道、出襲本宮、放火奮戦敵兵懼忋敗走二本松、土方収兵、十七日午後、凱旋将軍山」


8月16日午後四時、将軍山(母成)を発し、山入村へ。一方、第一大隊の土方は須川から本宮を襲撃した。火を放って奮戦し、敵は恐れて二本松へ敗走。土方は兵を納め、十七日午後、将軍山に凱旋した。

第一大隊の本宮の戦い。土方が勝っている。

土方歳三、創作では常勝と言われている一方、会津での行動がよくわからず、谷口四郎兵衛日記では木地小屋・酸川野で連敗していたのしか見当たらなくて、首を捻っていたところでした。(宇都宮から数えると四連敗。 第一大隊は須賀川で勝っているけれども土方出陣の記述は見当たらなかったり)

浅田の記したこの本宮の戦いについて、復古記で確認してみる。

8月14日「賊兵、本宮駅を焚掠す。督府、土佐藩兵の二本松に在る者を遣わして之を守らしめ、三春藩に命じて兵一小隊を本駅に出さしむ」とある。また、「山内豊範家記」では「八月十四日、黎明本宮駅、賊の為に放火せられる。存するところ十の一分而已、先是、本宮守兵を置かず。於是九十合隊を出して之を守らしむ」とある。三春藩記にも「八月十四日暁、本宮宿にて賊徒放火いたし候に就き、高木村番ところ援兵として人数差出候処、最早賊徒、玉ノ井、熱海辺へ遁逃の由」

これによると、第一大隊は、敵の主兵のいない留守中に勝手に放火した。その後に、土佐兵が派遣された。その頃、第一大隊はすでに遁走、と。

すると、土方歳三の「奮戦」はその後か、と思ったのですが。

16日。「賊兵下手渡を陥る、督府柳河藩兵の本宮駅に在る者をして赴き撃たしむ」とあり、東軍と本宮にいて派遣された官軍とが戦っています。「立花種恭家記」では「賊兵、放火に紛れ、士家農家へ押入、衣類金銭等奪取、且陣屋へ積置候米六百俵余奪取引取申候」と。武士農家の家に押し入って、衣類や金銭を強奪して、陣屋の米を奪っていった。そして翌日「賊共防戦遂に敗走、生捕十余人」という結果。

「賊軍」は敗走して、十数人が生け捕られている。

ただ、この場所の「下手渡」は月館の近くで、少し北に外れている。
この後の日付に、「本宮」が出てくる戦いはない。

では、浅田の記した、土方率いる第一大隊が本宮で奮戦して勝利し、官軍がこれを恐れて二本松へ敗走した、という件は、一体何のことなのだろう?

もし事実は別として、14日の放火か16日の敗走について、浅田ら第二大隊にこのように伝えられ、「凱旋」とまでされたのなら、それは虚偽の報告と言わないだろうか…。

(否定したいのだけれども、土方には報告の不備が多い気がする。宇都宮攻めは中後軍に知らせ無し、母成援軍要請手紙はどこにという重要な項目を欠く、庄内援軍の不調も大鳥側に知らせていない、五稜郭攻めでは約束の合図の狼煙を上げていない、二股では偵察連絡を欠いて榎本さんを怒らせた、etc..)

虚偽の報告は官軍のほうだった、と考えるのもありかもしれませんが。複数の藩が同じ事を記していますし。

な、何かこれを覆す記述をご存知な方、すみませんが、どうかご教示いただけるとありがたいです…。


「十八日、敵将襲山入村、諜報ス。大鳥曰、敵若陥此地、即壯成之守難支、因先我第二大隊二百五十人、二本松仙台兵三百人ヲシテ守ラシメ、其余ハ整列テ、八ツ時将軍山ヲ発シ、夜三字に山入邑二着ク」

8月18日。敵が山入村を襲撃してきたと報が入る。大鳥、もしその地が敵に陥ちれば、守りは支え難い。よって先んじて第二大隊250名、二本松・仙台兵300名でここを守ることとする。午後二時に将軍山を出発、夜三時に山入村に着。

この前の日に、案内人が道に迷って出撃できなかったりしています。
南柯紀行では、大鳥は二本松への進撃は、兵力が十分あれば攻めるのも一策だが、兵員不足、統率もよくない、徒に攻めて敗れれば国境が危ういと反対していた。しかし会津の田中らは攻撃を主張、使者が山入から二本松を襲撃するとし、第二大隊の出撃を要請。猪苗代で軍義をしていた大鳥は、止むを得ず出兵する旨を本多に伝えた。大鳥が本営の木地小屋に戻ると、すでに皆出発していた、とのこと。浅田の記録とは若干異なる。本多に伝えられたことが直接ではなく「大鳥曰」とされたのだろうか。

「廿日拂暁、友軍陣玉井邑、我兵不残築墻壁、排裂兵、待之伏、二番小隊于北旁小丘、屯三番四番小隊于南旁竹林中、分浅田隊為二、一隊四十人在東旁田中在、本多幸七郎指揮之、一隊前面田中排列四十人、浅田惟季師之、東南守官道遣仙台二本松兵。未刻、敵砲一謦震地、我二番小隊始発、敵一軍直来、接浅田陣、浅田善拒、勝負未決、軍隊発砲、動地崩山。申刻至、浅田兵紛々殪死、敵一軍駆我竹林、兵奪之、惟季与大川庄次郎憤戦、復竹林。既而正次郎鞭馬、来呼曰、仙台二本松兵已破、敵迫我背後、言未終了砲声起背後、一丸忽捫浅田左腎。申刻浅田兵殪者多、遂敗。惟季、創痛甚、出血如泉、乗畚(もっこ)使兵士樵且走、背後敵兵、進来相距数十歩。高呼曰、乗畚去者隊長、速撃之。惟季兵三人返、戦死之。夜二更帰将軍山営、絶気。三医、小林文周施薬漸□、八十三人兵存者、尤、廿九人、山下秋之助褌将、浅井清之丞死次官、其余兵亦□三分之一、仙台二本松兵傷者三人。無死者、其怯万知。會津援兵不至、大鳥曰速退保猪苗代」

そして、山入村の戦いです。

20日夜明け、友軍は玉井村に陣した。我が兵は残らず胸壁を築き、兵を配置し、待ち伏せた。伝習二番小隊は北側の小丘に、三番・四番小隊は南側の竹林の中に配置した。浅田は隊を二分し、一隊四十人を東側の田圃の中に配置した。本多がこれを指揮する。もう一隊の四十人は前面の田圃の中に配置し、浅田がこれを指揮する。

東南部の道は仙台と二本松兵が守る。午後2時、浅田の兵は敵の砲が地を震わせた。浅田の二番小隊も撃ち始める。敵の一群が来て、浅田の陣に接した。浅田は善くこれを退ける。勝負がつかず、両軍の発砲は地を動かし山を崩さんばかりであった。

午後4時、浅田の兵は戦い倒れ死していく。敵の一群が竹林に駆けてきて、そこを奪った。浅田隊は大川隊と共に奮戦、再び竹林を奪い返す。大川、馬に鞭を打って駆けてきて、浅田を呼ぶ。仙台、二本松の兵はすでに敗れた、敵兵は我等の背後に迫っている、と。その言が終わらぬうちに、背後で砲声がした。弾丸一丸、浅田の左腎臓を穿つ。浅田隊の兵、殪れる者多く、終に敗れる。浅田の傷は激痛、泉のように血が噴出している。

歩兵がもっこを持ってきて、浅田を担いで走った。背後に敵兵が迫ってくる。その距離数十歩。敵が怒鳴っている。「そのもっこに乗って去るものは敵隊長だ、速やかにこれを撃て」と。
浅田隊の歩兵は、三名、取って返し、この敵と戦って死んだ。

夜が更けて、将軍山の営に帰り着き、浅田は気絶した。
軍営には医者が三名いた。小林文周という医者が浅田を施療、薬を施した。

83名の兵がいたが、29名が死んだ。隊長の山下秋之助、副隊長の浅井清之丞も死んだ。実に兵数の1/3である。一方、仙台・二本松は、負傷者が3名いたに過ぎない。死者は無し。その臆病を知るべしだ。
会津の援兵は来ない。大鳥は速やかに猪苗代へ退けと言った。


伝習隊にとって、無念、慙愧の山入村の戦いです。

満身創痍、多くの兵を失い、もはやボロボロ。大隊長の本多までもが帰らず、明け方にようやく兵隊数人と帰りついた。帰路を立たれて暫く林の中に潜伏し、敵が数歩の一にまで迫ったが遁れて迂回して山をよじ登って還ってきたという。本多にとって、山入は宇都宮以来の復帰戦だった。

浅田君、歩兵がもっこで銃弾の中担ぎ出してくれたからこそ、そして歩兵3人が身を挺して追う敵兵に向かってくれたからこそ、命が救われた。歩兵達3名は、死んでしまった…。

なお、浅田君を手当てしてくれた医師小林文周は、今市日光に駐屯していたときに、松平太郎に連れられてきた医師の一人です。


「余、益々三藩の兵の頼むに足らざるを知れり。然れども亦本多、大川其他士官の無事にて帰るを見て、悲喜相交わり、手を執て涕を流せり」

大鳥は、仙台、二本松、会津の兵の頼みならない事を益々思い知った。けれども、本多や大川らが無事に帰ってきたのを見て、喜び悲しみこもごもに交わり、手を取って泣いた。

兵は皆、三藩が伝習隊を置き去りにしたことに激怒して、すぐに木地小屋に帰ろうとした。しかし明朝、かならず敵襲があるからと、大鳥は兵を母成峠に引き止める。

大鳥が猪苗代へ退け、と言ったのは、浅田ら負傷者に対してでしょう。

大鳥は、三藩の隊長たちに、明朝必ず敵が押寄せてくるとして、おのおのの持ち場を定めた。しかし兵員は欠乏、しかも山入村の大打撃と不信感で、頼みの伝習隊すら士気は地に落ちている。大鳥の苦慮は甚だしかった。

そして翌朝。母成峠の戦いを迎える。



山入村は、現在の大玉村、玉ノ井地方。二本松・本宮からは県道146号を経ます。この県道は母成方面までかつては続いていたようですが、現在は通り抜けはできません。母成峠へはいったん本宮まで南下しなければ出られません。

場所は県道から外れて、農道に入り、入り組んだところにあります。迷いに迷って、地元の方に何度も道を尋ねながら、ようやくたどり着きました。前もって位置を掴んでいないと、特定するのは難しいと思います。

地図はだいたいこのあたりになります。

玉ノ井史談会の方が、詳細な説明版を掲示してくださっています。
恐らく、山入村の戦いをこれほどまでに詳細に示してくださっている記述は、他にないのではないかと。

yamairi_board.gif
説明版

yamairi_map.gif
上の説明版にある周辺地図のアップ。

古戦場の一角には、玉ノ井史談会の有志の方々によって、「三十一人墓」が建てられています。御影石に、歩兵を含む死者全ての方々の名前が刻まれ、菊の花が捧げられていました。人知れず、よくぞここまでしてくださったと、感無量の感があります。

説明版によると、会幕軍四十三名、官軍四名、二本松少年隊からも二名が討ち死にしています(碑文には会津3名、二本松1名、伝習第二大隊39名、内士官9名。士官隊の丸毛三郎もここに刻まれていました。

hibun.jpg
碑文

名前は以前に大川名簿より、こちらに記しましたが、碑文は、大川名簿とは若干異なります。碑文には、山本稲之助の名前がありますが、大川名簿にありません。一方、山下秋之助は大川名簿にはあるのですが、碑文にはありません。歩兵は大川名簿37人、碑文30人と、さらに相違が見られます。碑文のほうは別の資料を参照したものかもしれません。
大川名簿では、仙台に至るまでの歩兵の死者は91名。実に1/3以上が、この山入村の戦闘で失われたことになります。

お墓は奥まった場所にあり、深い緑の囲まれて苔むし、静謐の中にありました。
花が生けられていたのには頭が下がりました。死者は三十一人ではなかったわけですが。
二本松少年隊からは、久保鉄次郎十五歳、久保豊三郎十二歳の墓がありました。兄弟でしょうか。

また、長州藩吉村熊之助二十一歳、薩摩藩伊座敷金之進十九歳、薩摩藩次郎、土佐藩近藤楠馬二十二歳、連名で墓碑があります。死者に西も東もありません。

ご冥福をお祈りします。


yamairi1.JPG

かつて戦場になった周辺の農道。

yamairi2.JPG

同じく戦場付近にあった祠。


そんなわけで。やはりまた1回では終わりませんでした。次は母成峠です…。
posted by 入潮 at 04:19| Comment(11) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月11日

八つ当たり


暑くて荷造りが進みません。明日朝、荷物を出さねばなりません。
出張です。

世間様はこの週末を持って、お休みに突入されるようです。
手前は無論、お盆休みのバカンスなぞに出られるような優雅な身分ではありません。
仕事です。
振り替え休日なんぞもありやしません。そいやGWも潰れました。このままだと正月も潰れるかもしれない。

8月1日には「さらば日本の夏。紅葉の季節に会いましょう!」と高笑いしながら、涼しいうちに軽やかに出発している予定だったのですが。
外務省の書記官が変わったからという、よくわからない理由でビザが下りず、出発が今まで延び延びになっていました。

何が悲しくて、海外旅行ピーク日に、押し合いへ圧し合いの成田から、仕事で出て行かねばならんのだと思います。

出発が延びている間に、激しく暑くなりました。

自宅の室温がゆうに体温を越えています。もちろんエアコンだなんて持ち合わせていません。ヒートアイランドと温暖化を増長する贅沢品は敵です。というわけではなくて、単に貧乏性なだけだからですが。
仕事場にはエアコンは必要です。でないと正常な思考と判断ができなくなる。

東電さん、やはり今、ピーク電力の確保に大変なようです。うちの会社でも12時から4時のエアコン28℃徹底令が出ました。お盆でひと段落という感じでしょうか。
原発不要論の方々には、まずご自身の自宅と職場のエアコンを切ることからはじめて欲しいとおもいます。

そんな感じで激しく暑い我が家ですが。

残業で帰宅が日をまたぐと、近所の銭湯はまず閉まっています。うちに風呂はありません。このくそ暑さで、帰って風呂に入れないというのは、相当辛いです。私が以上に、私の回りが。
洗面器一杯の湯で体を拭いて、頭を水で洗って終わりです。それだけでもだいぶさっぱりしますが。
そんな中、世の中の方々は、普通に、湯を何十リットルも使っているのだと思うと、なんだかやるせないです。

今は氷を食べて、内側から体温を下げて、凌いでます。
冷凍庫がなかったら、もう耐えられないだろう。
そう思いながら、氷を作っていたら、今度は冷蔵庫が壊れました。どうも後ろ側がオーバーヒートしていたので、どこか焼き切れたのだろうか。

この暑い中、エアコン無し。風呂無し。冷蔵庫無し。

天は一体、私の何を試そうとしているのか、と思います。
いくら江戸明治人間のことを考えているからって、自分の生活まで江戸明治に近づけてくれんでいいです。

ついでにテレビもなく、20km自転車通勤です。家庭のエネルギー使用量トップ5の項目と交通について、化石燃料使用ゼロです。自分ってなんて地球にやさしいのだろうと思います。全く意図してやっているわけではないですが。

もちろん、会社ではエアコンを使っていますし、日々口にする食べ物はトラックで生産地から輸送されてきたものを調理しているわけだし、パソコンなしの生活は考えられないし。使っているエネルギーは無論あります。

でも、平均的日本人よりは明らかに少ないと思います。今のところ電気消費量は40-60kWh/月ぐらい。冷蔵庫分がなくなるので、もっと減るでしょう。人様の1/3ぐらいだと思います。

最近のロハスやエコなどの流行語も、その内容はライフサイクルとして本当に環境に良いものなのか疑問なものがあったりしますが。私の今の生活を皆がやれば、間違いなく地球環境に、二酸化炭素-6%に貢献すると思います。

どうですか、環境運動家の方、原発反対の方。ぜひ、まず、私のエネルギー消費以下量で、自らが率先して省エネ生活を送ってみてください。自らが行動を示さないと、地球は変わりません。

…たんなる八つ当たりです。
あー、暑い。エアコンと冷蔵庫が恋しい。
もう出張でるから買わないけど。
荷造りしなきゃ…。
posted by 入潮 at 03:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月12日

Google図書館プロジェクトと慶應義塾大学

出発前に浅田君ラストまでと、大鳥語りの続きはやっていきたかったのですが。やっぱりばたばたしていて無理でした。

とういことで空港です。意外なほどに成田は空いていました。
夏休み期間(7月13日〜9月2日)中に成田空港を利用する旅客は約427万人で過去最高と推計、とニュース(http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200708/sha2007081206.html)にあったので、げんなりしていました。激しく待たされるだろうと、時間早めに家を出たのですが。
出国検査もパスポートコントロールもほとんど待つことなしでした。

日本人の海外熱が冷めたのか、地方空港の海外線の充実によりそちらに流れたのか、成田空港スタッフの努力の賜物なのか、単に推計が外れたのだろうか…
というわけで、時間ができたので、ポストしていきます。


知の集積提供者としてますます野心的になっていくGoogle。
図書館プロジェクトはその最たるものだと思います。
以前にもちらりとご紹介したので繰り返しになってしまいますが。ミシガン、ハーバード、スタンフォード、オックスフォードなど各大学に所蔵される著作権に問題のない書籍を、オールスキャン・検索可能にして提供するというものです。

これの日本語版が、7月より開始されています。
http://books.google.com/intl/ja/googlebooks/library.html

Googleが掲げた目標。

「書籍–、特に、絶版になった書籍のように、ユーザーが他の方法では検索できない書籍– をより簡単に見つけ出すお手伝いをすること」

専門家(とくに歴史)の食い扶持を奪ってしまうようなサービスです。
ネットにさえアクセスできれば、どのような場所に居ようと、プロも小学生も、皆が等しく資料を手にする機会を得られる。
大喝采。

まだまだ蔵書は少なく、Amazonのなか見検索のほうがまだずっとひっかかりはよく、知の集大成というにはこれからだなぁ、と思っていたのですが。

この図書館プロジェクトに、慶応大学が手を上げました。
http://www.keio.ac.jp/news/070710.html

慶応大学が所蔵の「著作権保護期間が満了した約12万冊をデジタル化し、GoogleのGoogleブック検索を通じて、世界に公開します」ということです。

つまり、慶応大学の昭和までの12万冊が、国会図書館のデジタルライブラリと同様に開放され、しかもすばらしいことに、全文検索可能となるということです。

慶応大学には諭吉関係でいろいろと思うところがあったりしたのですが。こうしたプロジェクトに率先して参画して時機を得るのは、さすがトップクラスの私立大学だと思います。

これでますます、知識への道筋がハイウェイ化していく。アマチュアさんたちががどんどん侮れない存在になっていく。今新刊書籍で好き勝手を仰っている自称研究家さんたちも、うかうかしていられなくなっていくのではないかと思います。専門書や学会誌ではなく、いろんな方のブログを拝見しているいと、個人のブログがある分野の研究の最前線になる、というのが始まっているなぁと感じます。この流れが、さらに加速していくのではないかと思います。

情報へのアクセス性がプロの特権である時代は、終わったのだな、と思います。そして、自分の頭で考え、あまたの情報から必要なエッセンスを抽出する。そして、目的に対して重要な事柄を、分かりやすく、系統的に表す個人の能力が、より問われていくのだと思います。

実現はこの夏以降とのことですが。刮目して動向を見守っていたいと思います。

といいつつ、こういうときにアクセスろくにできない環境に入ってしまうのな。哀しい。

では、今度こそさらば、日本の夏。
涼しく(寒く、になるかも)なったらお会いしましょう。
といいつつ、できるだけ更新はしたいと思います。思うだけになるかもしれません。
ラベル:図書館
posted by 入潮 at 16:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月18日

寒いけれども暑さ対策

寒いです。
…というと、猛暑の本国に申し訳ない気もしますが。

ブータン、ティンプーです。標高2500mの高地です。
雨季の真っ只中です。連日雨です。朝晩が冷えます。

出国前に、何の修行かと思うほど暑さと戦っていたせいか、寒く感じて仕方がないです。
ほとんど半そでしか持ってこなかったので、作業服を着て寒さを凌いでいます。

今年のモンスーンの雨はことのほか激しい。土砂崩れ、水生の病害虫、川が渡れない、道が通れない等。その状況で、ジャングルの現場に踏査者たちが出ているのですが。遅れたスケジュールを取り戻せと急かさねばならない自分の立場が辛い。月が替わったら自分もでる予定です。

街中も、2008年の国王即位に間に合わせようと、建物も道路もどこもかしこも工事中です。道路は工事中の交通を全く考えてないかのごとく、掘り返してドロドロの石ごろごろにしたまま、雨で工事がストップ。そこを水があふれて流れ、その中を歩かねばならない。何が悲しくて、首都の通勤で、泥濘の中、ズボンを濡らしながら沢登りをせねばならんのだと思います。しかも転ぶと、抱えたPCのデータに被害が及ぶ。デンジャラス。

あと、蚊が多いです。
これだけ標高が高いと、通常なら蚊はあがってこないのですが。温暖化の影響なのか、今年は蚊が大発生しています。
日本で噛まれても、不愉快になるぐらいですむからいいのですが。ここの蚊はマラリア持ちなので、刺されるとかなり憂鬱です。乗り込みが遅れた上にマラリアで倒れて仕事が進みませんでした、 なんて羽目になったら、二度と仕事がもらえなくなる。

そして、こちらの蚊取り線香は、蚊より先に人間様がくたばりそうになるほど強烈です。烟を吸い込むとめまいと吐き気が襲ってきます。
マラリアも問題だけれども、煙を吸い込んだら寿命が縮む線香を作るのもどうかと思います。
そんなわけで、日本から持ってきた蚊取り線香を、折りながらチビチビ使っています…。

雨季で良いことというと、マンゴーが美味い、ぐらいでしょうか。
熟れきって、中が腐って虫が沸いているのに出会うと憂鬱です。
というか、どんな食べ物も、あしが早いです。何を食べてもほのかに腐っている感じがします。雨季の臭い。胃腸の抵抗力を試されている気がします。
あぁ寒い…。


と、ぐちっていてもしょうがないので。
体温以上の気温でも、クーラー、エアコンなしで涼しく過ごす方法。先週まで自分がやっていたことを、垂れ流しておきます。
東電さんの電力ピーク対策の、少しでも助けになりますように


1) 頭から水をかぶる。乾かさない。

水をかぶって髪を濡らしたまま、吹くだけで乾かさない。
髪の水の気化熱が頭から熱を奪うので、涼しく感じます。

2) 扇風機の前に水を凍らせたペットボトルを置く。

扇風機の消費電力は30-50W。エアコンの1/20。扇風機の前に、風の当るところに凍らせたペットボトルを置いておくと、融解熱で風から熱を奪い、風が冷たくなる。

3) 氷を食べる。

文字通り体の中の温度を下げます。アイスクリームだと糖分取りすぎで余計疲れたようになりますが、水ならOK。凍らした麦茶ならなおOK。ただ、胃腸の弱い人は注意です。

4) 麦茶を飲む

夏は、とにかく麦茶。
小さい頃から麦茶を1日2Lぐらい飲んでます。単に麦茶が好きだから。今もビールよりどんな飲みものより、麦茶が好きです。汗だくで帰宅し、冷蔵庫の水差しから一気飲みした瞬間に、最高の幸せを感じます。

で、最近、カゴメの研究で、麦茶の香りの成分であるアルキルピラジンが、血液の流動性を向上させる作用があるとわかったとのこと。いわゆる血液サラサラ効果。

なお、低級アルキルピラジンは加熱した際のローストの香気に寄与しているそうで。この成分が、血栓が出来るのを抑制し、心筋梗塞・脳梗塞に効果があるらしいです。出典がWikiですみません。
疲れると疲労物質である乳酸が血液に溜まり、血の粘度が上がりますが、麦茶はこれを緩和することになります。

他、抗酸化作用がある、胃の粘膜を保護しストレス性胃潰瘍の予防にもなる、食物繊維を多く含み整腸効果がある、などなど、健康食品の宣伝文句になりそうな効果がつらつら並べられます。さらに、カフェインを含まないからどれだけ飲んでも問題なし。

根拠無くこれは良いもと信じていたものに、科学的な根拠が与えられるのは、無性に嬉しいです。

5) エアコンを避ける

エアコンは、人を甘やかします。具体的には、体温調節機能と発汗機能を退化させます。エアコンの中にばかりいると、暑い場所に出たときに、発汗で体温を下げる体の自然な機能が劣化する。かく汗も、べたべたした臭い汗になります。(べたべたするのは、体内から流れ出たミネラルを多く含むから。ミネラルが流れると、イオンバランスが崩れて疲れます。自然な良好な汗は、水っぽくさらさらしています。)よってエアコンの中に居る時間は少なければ少ないほど良いです。

昼間職場でエアコンに当らざるをえないなら、家でぐらいはとにかくエアコン無しで過ごして、体の自然な機能を取り戻すほうが良いです。

6) 熱い風呂、サウナに入る

不思議なもので、熱い風呂、サウナに入って汗を流すほど、出たら外気が涼しく感じます。とことん熱い思いをすると、それだけ精神が暑さに強くなります。
東京の銭湯は、45℃以上の熱い風呂が多いですし、200円ほど足せばサウナに入れるところも多いので、うってつけです。


そういう感じで。
一番の暑さ対策は、暑さを避けることではなく、自分の体を暑さに耐えられるように作り上げることだと思います。

麦茶をたっぷり飲んで、昼間炎天下に歩いてどっさり汗をかいて、熱い風呂に入って、どっかり疲れたら、しっかり眠る。
そういう普通の生活が、一番の暑さ対策なのではないかと思います。

…とかいいながら、エアコンのない貧乏生活を正当化してみました。

そして、既に暑さと無縁の雨の高地にいる人間が言ってもなにも説得力がないです。

雨で洗濯物が乾かない。着る服がない。あぁ、寒い。

それでは、皆様、健やかな夏をお過ごし下さい…。
ラベル:ブータン
posted by 入潮 at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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