2007年10月04日

お墓参りと乙葉林八

相変わらず滞っております。
書くことがありすぎる状態でして。どこから手をつけてよいか、手をつけようとすると長くなってまとめようがく、そのまま寝てしまったり。

それ以上に、今後、興味の対象にどのように触れていったらよいのか、ぐるぐるしたりしていました。


先週のお彼岸に、谷中霊園へ行ってきました。
谷中霊園へは、二回目でした。

谷中霊園は青山霊園と並ぶ東京都の公営墓地です。天王寺や寛永寺などお寺の共同管理だった墓地を、明治政府が明治7年に摂取し、以来東京府(東京都)が運営しています。
かの徳川墓所である寛永寺の飛び地もこの霊園内にあり、徳川慶喜の墓地が広大な面積を占めています。

慶喜の眠る地だけあって、旧幕臣の多いこと。案内無しに巡るだけで、知った名前に出くわして、どきどきします。

阿部正弘、浅田宗伯、浅田宗叔、岩橋教章、岸田吟香、佐藤泰然、渋沢栄一、中村正直、福地桜痴、三好晋太郎、箕作秋坪、依田学海、などなど。

幕臣のみならず、藤岡市助(工部大学校卒、東電・東芝生みの親)、雲井龍雄(顕彰碑のみ)、村田経芳(村田銃製造者)、伊藤圭介、岩村通俊、大島高任、日下義雄、など。

興味ある方を見つけては、鳥肌を立てながら背筋を正しています。

前回は夏、炎暑のピークで、脱水症状になりかけたりしながら4時間ほどもうろついておりました。閑散としており、出くわしたのは、見回りの管理人さんと、幕末歴史散歩とかいう著名人のお墓の在所を示した本を片手にした物好きなファンの方ぐらいだったのですが。
今回はお彼岸だったので、人の出入りがピーク。狭い道に人がひしめいて、とてもにぎやかでした。

暑さのピークはとうに済んでいたのですが、蚊がすさまじかったです。
ようやく治りかけてきたブータンの虫刺されの上に、派手にボコボコにやられました。日本の蚊はマラリアもデングも持っていないので、刺されても気楽です。かゆみもマイルドだしすぐに収まる気がします。南アジアの蚊は、鋭く痒い。その上治りかけてかさぶたになっても激しく痒いので、すぐにかさぶたを剥いでしまう。寝ている間にも激しく掻き毟ってしまって、気がついたらシーツが血だらけになっている。掻き跡で組織が傷付いて痕が残って、いったい何の病気をした後なのかと思うような皮膚の状態です。閑話休題。

お墓参りは、マナーがファンの方の間では取りざたされたりしていますが。
私は、赤の他人は行かないのが、一番良いマナーなのではないかと思っています。

お墓は、無縁仏などは別として、税金で立てられた公共物ではない。遺族、ご係累の方々が、私費で購入され、管理料を支払い、維持管理されているもの。個人の家と同じ。よって、赤の他人が、観光気分で踏み込んで良いところではないと感じたりしてします。

ただ、お墓には名前のみならず、生没年、戒名、略歴、顕彰文などが刻まれていることが多く、書籍などからは知り得なかった事実に巡り合えることが多いです。それは、故人が生きた証として、少なくとも当時遺された方が残したいと思った情報であるわけで。

そうして刻み込まれたものについては、自分は所詮赤の他人であるという謙虚な気持ちで手を合わせ、存命中の功績に感謝しながら、お墓や周辺には変化を全くを与えないように、そっと、見させていただく。
そうしたあり方がよいのではないかと思っています。

それで、本題なのですが。

谷中霊園に、浅田麟之輔惟季こと、乙葉林八の墓所があります。

前回は、コメントでご教示いただいてから、多分浅田宗伯と同じところかその周辺にあるだろうと、軽い感覚で炎天下の中探したのですが、特定することができず仕舞いだったりしました。

今回、御子孫様にお声かけを頂きまして。お彼岸のお墓参りをされるのに、同行させていただきました。

幕臣の方のお墓参りに同席というだけでものすごく緊張したのですが、ご一緒されていた方に、やんごとない組織のやんごとない血筋の方々がいらしたりして。世が世なら、十一代前から流刑地の島で水呑百姓をやっていた家系の自分なぞ、前に立つことも許されないのだとか思うと、全身硬直のまま動けなくなるので、なるべく考えないように、図々しくしていました…。

そういえば谷中霊園にお墓参りに来られている方々は皆、当然ながら、谷中に眠る方々のご係累の方々であるわけで。
ぶつかったら、著名人の子孫に当たってしまう確立大なのか…などと思ったりすると、気が気ではありませんでした。意味も無く、心の中で謝ってしまいます。


乙葉林八氏は、奥様と末の息子さんと一緒に、赤御影石の心のこめられたお墓の元で眠っていました。お墓を建てられたのは、長男の辰三氏であるとのことでした。

お墓掃除を拝見しながら、なんだかとても懐かしい感じを受けたりしました。小さい頃は意味も分からずにやっていたなぁと。幕臣も先祖代々の水呑百姓も、墓掃除のやり方は同じで、ご先祖様を懐古する気持ちは同じなのだなぁなどと、不届きでせんのないことを思ったりして。
自分の先祖には触れる事がなくなって久しいのですけれども、一度顔見せに参らねばならないなぁと思いました。


さて、何らかの形で公表されたものなら、その資料を紹介するのになんら躊躇いはないのですが。
御子孫様からお伺いするお話は、その御家に大切に語り継がれてきたものであったり、そのご家系のプライベートな事も含まれていたりで、ウェブという誰もが眼にしうる公の場でどこまで述べて良いものなのか、いつも悩んでしまうところでありました。

今回は御子孫様から「全部語っていいですよ」と頭の下がるお言葉を頂きまして。お言葉に甘えまして、浅田惟季について、お墓と御子孫様のお話から今回判明したことを、挙げさせていただきます。

・奥様

浅田惟季奥様のお名前は「幾子」。漢方医浅田宗伯のご息女です。お墓には「旧幕府侍医法眼浅田宗伯之二女為乙葉林八配」と刻まれていました。大正五年七月五日病没。享年六十九。
脱走時、既に結婚はしていたことになります。二十歳そこそこで残されてしまったわけです。旦那の猪突猛進ぶりを思い起こすだに、彼が生きて戻ってきてくれて良かったと思います。

・お子様

10人以上のお子様がいらしたそうですが、多くは夭折されたそうです…。14歳で亡くなられた末吉君の墓碑が、隣に乙葉惟季の名で建てられています。(「惟季」の諱は明治になっても用いられていた模様)

・誕生年判明

お墓の裏側に、乙葉林八氏の没年と年齢が刻印されてしました。「大正七年七月十七日没享年七十有七」とあります。ほとんど消えかかっていて、その前にも一文ありましたが、読むことはできませんでした。
大正七年、1918年で77歳ということは、1841年生まれ。戊辰戦争時点で26-27歳。本多幸七郎より1-2歳下となります。瀧川より下だったり、逆に大鳥より上だったりしたらどうしようかと思いましたが。順当なところでした。(これであと分からないのは大川だ…。そういえば尻尾の掴めない大川も一代成り上がり組なのかしら。浅田と仲が良いし。戦い方も武士離れした融通良さだし)

没年の判明している伝習士官では、山口朴郎君に次ぎ、長生きです。常に死線にあり何かあると切腹を願った彼が…と思うと、感慨深いです。

・御家人

御子孫様のお話からは、浅田麟之輔は元江戸在府の会津藩士の子弟であったとのこと。旧姓はクサカで、口伝であり漢字は不明とのことでした。浅田宗伯ご息女の幾子さんとの結婚の際に、御家人株を購入し、幕臣となったとの由。先祖代々ではなく一代目の幕臣だったことになります。一方で、奥様の実家は当時のビッグネーム。陸軍士官就職は、当時名を上げるには最も手っ取り早い手段だったので、伝習隊入隊は、奥様にふさわしくあらんと家名を上げようとした動機があったのかもしれません。
脱走当時、歩兵差図役頭取。大政奉還後とはいえ役料で数百石はあったはず。一代上がりという点では、浅田君は大鳥の立場には共感するところは大きく、それが大鳥贔屓に結びついたフシもあったりしたのではないかと思ったりする。

・満州移住

先にご長男の辰三氏が満州へ移住、その後、乙葉林八氏が売薬店を畳み満州に移住したとのこと。
(同方会誌には、大正六年に大連に転居、とありました。市立函館図書館に、浅田惟季が写して多くの注釈を入れた鈴木金次郎の「名義団録」がありますが、これもその際に売りに出されたものが巡って函館に落ち着いたのかもしれない…)
親子が満州で住んだのは、ほんの1,2年に過ぎなかったとのことです。

・晩年、寡黙な方で、満州では独り刀の手入れなどをしていた。記録や書き物をし、戦時の古傷で右手が不自由だった。

御子孫様は、伝えられている話に対して、これまで北戦日誌から自分が読んでいた姿は、イメージが違って意外だったとのことでした。
戊辰戦争の前後で性格ががらりと違ってしまう方は、結構居るのではないかと思います。例えば今井信郎などは、横浜時代は絵に描いたような蛮カラで、呑んで騒いで金がなくなって海で体を洗っていたような人で、戊辰戦争では多分最多戦闘回数で暴れ回った人ですが。沼津で帰農してからは厳格な教育家のクリスチャンになってしまった…。
過酷で荒い人生を経た人ほど、後には静寂を好むのかもしれません。

・写真

asadarin2.jpg

乙葉林八氏。御子孫様がお見せくださったアルバムより。
年代は不明ですが、明治前期〜中期ではないかと。
すっと通った鼻梁で、かなりの美形なのではないでしょうか…。吃驚。

(一人歩きしてご迷惑をおかけすると申し訳ございませんので、転載などはご勘弁くださいますよう、どうかお願いいたします。)


さて、さらに貴重なものをいただいてしまいまして。
もったいぶっているわけではないのですが、1日2日で語れるものではなく、もう少し整理してから、ご紹介させていただければと思っています。
浅田君、マメなのは、筆だけではありませんでした。絵心も詩心も、凄かったです…。

こうしたことが判明し、明らかにできるのは、ご先祖様の記録と記憶を大切に継承されたご子孫さまがいてくださってのことで。お伝えくださったその寛いお心に、ただ感謝の一念でした。
タグ:浅田惟季
posted by 入潮 at 04:06| Comment(3) | TrackBack(1) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

北戦日誌草稿 柿沢の啖呵

色々止まっております。申し訳ないです。

明日から現場に戻ります。
途中帰国してから、部内の管理と他の案件の補助作業と研修生の相手などに明け暮れてまして。自分のプロジェクトの作業が全く進んでいない。
せっかく国内にいるのだから色々と調べて進めたかったのですが。
この3週間、何をやっていたのだろう。えらく忙しかったと思うのに何も達成感がない。手土産もなしに現場入りせねばならない。何をしに帰ってきた、という感じです。

そんな感じで、帰宅しても気力がなく、人様のサイトを巡ることすらできず仕舞いでした。
ツーリングもできず、三斗小屋に行けず。次の戻りは真冬になるので、紅葉の季節も逃した。
仕事が進まず焦るばかりだと、遊びにも全く身が入らない。

今日も1時半まで仕事で、これから荷造りです。こんな鬱々した出発は初めてかもしれない。

…とかローテンションを連ねていても、誰も何も面白くないので、テンションの上がる話題を。


浅田惟季「北戦日誌草稿」。
御子孫様に、写しをいただきました。「復古記」に収録されたものの原本となったと思しきものです。
おびただしい数の朱を入れて訂正し、何度も何度も推敲した後があります。後に記録として参照されることを顧慮したのか、それとも本人の性格なのか。大切にしてきた、思い入れの篭められた記録だと、しみじみ感じました。これを見るだに、戊辰戦争の記憶は浅田にとってよほど大きい者だったのではないかと思われてなりません。

復古記の収録部分は、写本時に若干の漢字や助詞の変更がされたぐらいで、大体原本と同じなのですが。かなりの部分、未収録の記述があります。
復古記編纂時に戦記として要約されてしまったらしく、メインの流れとは外れた部分が未収録です。

この外された部分が、エピソードてんこもりで面白い。

歴史の流れとしての戦史を追う人と、戦争の中の人物を追う人とでは、注目する視点が全然違うのだなと思いました。

たしかに、現在の我々は、様々な研究家の方々が分かりやすく流れを説明してくれていて、信頼のおける良い文献も手に入るのですが。編纂を始めた明治の当時は、おのおのの戦闘の流れなど未整理で、流れを掴むところからはじめないとならなかった。そうした状況では、まず「何があったか」ということを明らかにすることが先決だったのでしょう。

今後、徐々にご紹介していければと思うのですが。

まず、眼を見張ったのがこの人。

十五日舩方邑発し、午前、二連駅に拠る。農兵六百人余、竹槍を携へ、或は火縄銃を持て、街外を固めたり。我斥侯直ちに抵す。其寡兵なるを見て驕る状在り。既にして我中軍の先鋒接す。柿澤勇記、其長に問て曰く、両等、何の故を以て、兵器を携え、此地に屯集す。首長、答て曰く、官軍の命を受け、悪徒を鎮接せん為にす。柿澤、叱して曰く、両等、戦争を欲すか、又和平を欲すか。我軍を遮らば、忽ちに尓が首を斬て軍神を祭らん。長、恐怖して、面青黒し。兵器を地に投捨て、跪き謝て曰、願はくば幕兵を佐けて糧食を捧呈せんと云。此時、農兵皆遁れ去て止る者十五六人に過ぐべからず。長、導引して街外の一大寺院に誘ひ行き、彼の農兵をして糧を炊かしむ。

柿澤勇記。なんだかオーラを放っています。

脱走4日後。4月15日の事です。

舟戸村を出発して、二連駅にて。農兵が600も、竹やりや火縄銃を持って、街の外を固めていた。農兵達は幕兵の斥侯を見て、数の少ないのを侮っている様子。軍の先鋒が接した。
その時、柿沢が現れて、長(農兵の代表者)に問うた。お前達は何のために武器を携えて集まっているのか、と。長は、官軍の命を受けて、悪党を鎮圧するために集まっている、と答えた。
柿沢は叱責する。お前達は戦争を欲するのか、和平を欲するのか。我が軍を遮るのであれば、貴様の首を斬って軍神に祭ろう、と。
長は恐怖して青くなった。兵器を地に捨てて跪いて、幕兵を援けて糧食を提供しますと謝罪する。
この時、農兵は皆逃げ去って、留まったのは十五六人に過ぎなかった。長は隊を街の外の寺院に案内し、農兵に米を炊かせた。

柿沢、一人で600の農兵を逃げ散させて、長に兵の飯まで用意させてしまいました。
よっぽどの迫力だったのでしょう。

大鳥さんは「ある位置村落を通りしに、槍を携え四五人立ち向かひしに、歩兵の為にその其槍を奪われて早くも逃去りけり」と述べていますが、これと同じ村のことだったのかどうか。

いずれにしても、先鋒が矛を交えかけたような状況で、戦に突入することなく、柿沢の啖呵だけで平和的に解決し、あまつさえ糧食まで手に入れたのだから、大鳥さんは大喜びでしょう。そりゃ会って数日で恋に、じゃなかった、信頼もするものです。

でも、農兵が逃げ散らなかったら、本当に柿沢、一人や二人、首級を挙げていたような気もしないでもない。

こうした柿沢の参謀の枠に収まらない抜きん出た行動は、有る意味、伝習隊と行動を共にするための通過儀礼だったのかなぁ、などと思ったりする。

浅田君の書き方を見ていると、「あいつやるじゃん」という賞賛の念が伝わってきます。
伝習隊も、参謀柿沢を品定めしていたフシはあるのではないかと。

大鳥の日記では、市川の時点で柿沢の名前が出てきて、すぐに一緒に飯を食ったりしているので、市川の軍義の際に、藩況の情報整理か何かで、すでに大鳥は頼りにしていたのではないかと思います。
大川の名簿の扱いを見ていると、やはり会津からの客将の印象から抜けきらなかったのかもしれませんが。単に共にした時間が短すぎたのでしょう…。

二連駅というのが、どこかはまだ特定できていないのですが。岩井と諸川の間であるのは確かです。
ちなみにこの長は、村里長の間中伸之さんだと思われます。(山崎有信氏調査)


浅田君は、幕兵が通るとみんなこんな感じで、米穀を運搬して米を炊いてくれた、よって一日も食に欠くことは無かった、などと書いています。最初の1週間の、小山結城の辺に限った事ではないかと思うのですが。
この当たりは、まだ、なんだかハイキング気分です。

そしてほっとしたのもつかの間、この次の日から官軍隊と2日連続3連戦に突入します。


さて、テンションも上がったことですし。
自転車とバイクに油を差して、バッテリーを外して、洗濯して、荷造りせねば。
朝は遠いです。

では、よいお年を…。

メールとコメント、遅くなっております。時間ができ次第、お返事させてください。
posted by 入潮 at 04:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月18日

官有物払下と黒田清隆

私は、黒田清隆が大好きです。
彼が何か言われているたびに、弁護の言が滝のように溢れてきます。

明治当時から現在まで、大衆向けな書ほど、本来の業績が省みられず貶められているのが彼です。彼の尊厳の受けているダメージといったら、大鳥とは比べ物にならないでしょう。

夫人の疑惑については、そんな真偽も全くはっきりしない醜聞をわざわざ今になってまた取り上げる品性の低俗さに、もはやノーコメントなのですが。

官有物払い下げについて、黒田の職に対する誠実さまで疑われているのには、見るにつけ言いたいことが溜まっていました。

官有物払い下げについて、悪いイメージを持っている方がほとんどだと思います。
それは、一つは今の独占禁止法の感覚で語られてしまうこと。
もう一つは、当時の民権運動家たちが払い下げを攻撃したこと。民主主義の国では民権運動を賛美する必要があるので、彼等が攻撃した払い下げが、何かと言うと悪し様にされてしまっているように思います。

まず、官有物払い下げとは何ぞや、ということですが。

政府は殖産興業を勧めるために、政府自らが金を出して、インフラや工場を建設しました。これら一つ一つは、官が金を出して建設・経営した事業なので、官営事業と言います。

内務省は製糸、紡績、製糖など軽工業の工場を持ち、工部省は炭鉱、鉱山、鉄道、造船、硝子、煉瓦、機械などの各事業を設立し運営しました。
開拓使も、北海道の産業育成に必要な、醸造、製缶、炭鉱、鉄道などの各種事業を行っています。

初期投資が必要で、新しい技術の導入を必要としたこれら官の事業は、多くが赤字でした。技術は低く、市場はなく、新しいことへの取り組みで失敗も多く、利潤の出せるものではありませんでした。

しかし、官営事業には、後に民間がもっと効率よく真似し広められるよう、「模範」という大きな役割がありました。
誰も新しいことを始めるのには勇気がいる。それ以上に資金が要ります。誰かが最初にやらないと広まらない。民間には資本の蓄積はない。そこで政府がその「誰か」になったわけです。

さて、明治13年、西南戦争後の緊縮財政の中で、国庫の支出の節減が図られました。財政的に好ましい鉄道や鉱山は、政府の収入源にするために官営として留め、一方、赤字経営の工場などは、民間に買い取ってもらって、政府から切り離そうとしました。

これが、官有物払い下げと呼ばれるものです。
払い下げは、工部省、内務省などで数十件行われましたが、中でも有名なものが、明治14年の開拓使の払い下げです。

開拓使の官有物払い下げについて、百科事典的な記述は以下の通り。マイペディアより。

「政府は1872年以降10年計画で1400万円を北海道開拓のために投下した。1881年の満期に薩摩閥の開拓長官黒田清隆は、開拓使の官有物を同郷出身の五代友厚らの関西貿易商会ほかに、38万7000円余無利息30年賦という破格の条件で払い下げようとした。大隈重信や自由民権派から反対攻撃が起こり、伊藤博文ら政府首脳はこの計画を取り消した」

開拓使払い下げの問題点は、以下に集約されるかと思います。

1) 1400万円の投下に対する38.7万円の払い下げ額
2) 無利息30年賦の返済条件
3) 払い下げ先が黒田長官と同じ薩摩出身の五代友厚の会社である
4) 払い下げ先の会社に開拓使の部下の安田貞則が入った
5) 以上に対して自由民権運動家が攻撃を行った

まず、1)の1400万円の投入に対して39万円という売却額に対して、特に非難されているようです。

(ちなみに、1万円(明治前期)≒1億円(現在)ぐらいの感覚でいいと思います)

そもそも1400万円というのは、払い下げを述べるのにそこら中に出てくる数字ですが、何を勘定しての数字なのでしょうか。
払い下げ額と比較する対象の事業費としては、あまりに巨額です。

なにせ、開拓使十カ年計画で提出された10年間の総予算が1000万円です。
そして、開拓使が明治2年の設立から明治14年の廃止までに行われた一般会計の総額が、実績で、1813万円です。
一方、同じ期間の開拓使の事業費総額に至っては、463万円にすぎません。(「明治経済史大系5」P64-65)。
ちなみに、明治11年で、内務省・工部省・開拓使の全てを含めて行われる殖産興業のための諸事業を一括した予算総額でも、1250万円です(「明治財政史」8巻P131−134)。

五代らへの払い下げが行われたのは開拓使事業の一部に対してです。札幌醸造(後サッポロビール)など別の者に払い下げられた事業もあります。農商務省などに引き継がれた事業もあります。特に幌内炭鉱・幌内鉄道など開拓使の巨大事業は、当時は官営のまま残されています。なので、こと、開拓使が該当する事業に投入した額と売却費を比較する場合、「投入」はこの事業費総額の463万円の額より、よほど小さくないとおかしいです。

払い下げ額と比較するなら、その事業への投下資本か、当時の財産評価額でしょう。開拓使の事業総額から見て、払い下げ対象事業は、投下資本でもせいぜい100万円ぐらいではないでしょうか。

どこをどう勘定したら、開拓使の数多い事業のうちの数事業にすぎない払い下げ対象事業の投入が、省の13年間の人件費から運営費から設備投資費からお雇い外国人の給料から何から何までぶっこんだ省の累積の会計に匹敵するような額にまで積みあがるのか、誠に不思議です。

大体、官営事業は、右も左も分からない新しい事業に対してのものです。膨大な給料をお雇い外国人に払って技術移入を行わねばならず、足元をみた植民地体質の欧米商社からべらぼうな金額の機器を輸入せねばならなかった。そのコストを支払うわけですから、初期投資は否応が無く大きくなります。そんな額をそのまま民間に担わせるわけにはいきません。

また、実際、普通の途上国では、国営事業は普通政府100%持ち株の国営企業を経て民営化されます。つまりタダで、官僚の同族会社になってしまうということも、よくあります。

一方、払い下げを受ける民間の事業者は、不平等条約の下で5%関税制限をかけられ、欧米からの輸入製品との競争は、圧倒的に不利益な状況にあります。欧米の製品はほとんど関税無しに、バカバカ国内に入ってきてしまうのです。それで日本の製品は好きに関税を課されて、しかも欧米の指定商社を通さねば輸出すらできませんでした。

そんな不利な貿易状況で、払い下げを受けた民間会社は、欧米企業との競争の中で経営し利益あげねばなりません。よって、払い下げ先に初期投資をそう課するわけにはいきませんし、返済条件を緩やかにして、難しい事業に取り組む企業の経営を助ける必要も出るでしょう。だから、2)の無利息30年賦も仕方のないところと思えます。(ちなみに、途上国援助では、国際機関の開発銀行の融資条件は、似たようなものです)

そもそも当時は民間に資本力がありません。何十万円もの巨額投資ができるような金を持っている民間企業はほとんどありません。民間企業で経済が回っている今とは、全く状況が違います。39万円というと一企業にしては十分巨額です。全く安い気はしません。むしろ39万円もの払い下げ値をつけたことは、十分褒めても良いと思います。

それで、1400万円という数字がどこからでてきたのか。
当時のジャーナリストが、作為的に、開拓使の会計報告から、何から何まで勘定に入れて数字を作って、詐欺まがいに最もセンセーショナルな数字にしたようにしか思えません。新聞の一般読者は、数字を見るだけで、それが開拓使の累積総予算だろうが、投下資本だろうが、財産評価額だろうが、気にしませんから。古今マスコミのやることは変わらないです。

そういう、門外漢の素人がちょっと考えてもすぐわかる数字のおかしさを検討もせず、ただ当時新聞にあげつらわれて問題になっただけで、払い下げの善悪を決め付けて語るような評価は、かなりどうかと思うのです。

また、たとえ開拓使払い下げの1400万円に対する39万円として、払い下げ額が投入の2.8%としても、このは、当時の払い下げ事業の中では、大して珍しいことではありません。

たとえば赦籠製糖所は、投下資本258,492円に対して伊達邦成への払い下げ額はなんと994円 (0.4%)。
釜石鉄山は投下資本2,376,625円に対して田中長兵衛への払い下げ額は12,600円(0.5%)です。
これらは官業に問題があった極端な例ですが、払い下げのほとんどは事業費の数分の一〜数十分の一で払い下げられたのでした。
払い下げ額が投資額に全然満たなかったのは、工部省も内務省も同じです。

が、誰も問題にしていません。

一方、3)について。
払い下げの批判は、藩閥に対する攻撃に向けられたという側面も強いようです。
黒田が、薩摩繋がりの五代友厚に払い下げたことが、倫理的に問題だというわけです。

けれども、政治家と政商の癒着が問題だと言っているのなら、長州や他の閥だって同じです。
「長州閥の工部省」から市ノ川鉱山の払い下げを受けた藤田伝三郎は、長州の奇兵隊上がりでした。
また、工作局から深川白煉化石製造所と品川硝子製造所を払い下げられた西村勝三なぞ、工作局長大鳥圭介の幕臣繋がりです。旧体制の敗残者側がそんなことを堂々と行うなんて、けしからん問題でしょう(笑)

更に言えば、特殊な技術力を要する経営の難しい赤字事業なぞ、誰も引き受けたくなかった。
誰だって、巨額の金で買い取った事業で失敗したくありません。失敗すると自分の負債になります。

払い下げは、明治13年の大隈重信の「工場払下概則」によって、官業を継続させるだけの資力のある者に限られたわけですが。この条件が厳しくて、払い下げ希望者は皆無に等しかったでした。(収益の良かった鉱山や数事業を除く)

今のように、事業を公示すればよってたかって入札者が手を上げて競争する、というような恵まれた市場状況ではなかったのです。なんとか事業を継続できそうな民間を政府が探して、頭を下げてお願いしなければならなかったわけです。

例えば上の工部省の釜石製鉄所を引き受けた田中長兵衛ですが。釜石は官営で、お雇い外国人の数々、工部省きっての有能技術官僚たちが資本238万円をつぎ込んでも惨敗失敗した。だから引き受けろと政府から言われても、田中は嫌がって固辞した。ただ工場よりも、そこにある鉄材なら材料として売れるだろうということで、ようやく払い下げを引き受けたという有様だった。

一方、有名な富岡製糸場。これは内務省の管轄で、明治16年、90万円、10年賦で払い下げという条件を政府が提示したけれども、修理に100万円を要するという状態だった。たとえ価格が50万円としても誰も手をあげないだろうと新聞に揶揄された。明治24年に信州人二人に入札させたけれども、政府の売却の予定価格に達しなかった。明治26年になってようやく三井が12万1460円で落札「してくれた」という惨状だった。払い下げを嫌がられまくって、誰も受け手がなく、10年間もたってようやく予定の1/8の額で三井が引き受けてくれたわけです。

なので、黒田が明治14年の時点で、薩摩のよしみだろうが何だろうが、まともな額で払い下げを五代にを受けてもらえることになったのは、むしろ称賛して良いことではないかと思います。

また、4)について。
払い下げ先企業の経営者として開拓使の重鎮(大書記官)だった薩摩の安田貞則をすえたのも攻撃の種になっていますが。

そんなものはむしろ当たり前で、それをやらずにどうするのだ、というレベルのことだと思います。

黒田としては、それまで誠心注ぎ込んできた事業の数々を、何も知らない民間に払い下げて、経営難に陥って廃業になるなどさせたくはないはずでしょう。

特に事業の管理者と技術者は代えがききません。管理者は貴重なノウハウを蓄えていますし、技術者は現場に出て一人前に仕事ができるようになるまで10年かかります。官業に従事した管理者・技術者は貴重な経験を有しているわけです。

少しでも自分で事業を行った事のある人間なら、税金を投入して外国人技術者を雇いまくり自国技術者を歳月かけて育ててなんとか営業にこぎつけたものを、ポンと技術力も経験もノウハウも知識もない素人ばかりの会社に渡して、スムーズに経営維持ができると思うわけがないでしょう。少しでも事業を知った人間に託したいと思うのは当然の道理です。
当時と今の状況は全く違います。
事業経営の経験も知識も技術力も、今と違って、人材は民間ではなく政府にこそありました。

政府事業を民間にまかせるなら、中身の分かった政府の人間が民間に入って、事業を支える必要がありました。
具体的にはまだ追っていないですが、工部省の事業でも、多数の工部省技術者たちが、払い下げられた先の工場や鉱山に入らなければならなかったのではないかと思います。

みかけこそ今で言う天下りですが、そこにある事情は全く今とは異なるのです。

何だかんだ言って税金と公債で運営できていた官営事業と違って、民間には、厳しい競争環境で自力で収益を上げねばならない責任があります。それができなければ経営者は破滅します。官から払い下げ先の民間へ移った人間には、相当な覚悟が必要だったでしょう。

何でそれを、薩摩人への便宜やら、それに対する自分の利益の享受やらと、悪意にばかり解釈する必要があるのか。不思議です。ヒマな人たちだと思います。

開拓使の官有物払い下げを責める方々は、談合やら独占禁止法違反やらが頭にあるのでしょう。それは当時の現場や経済の事情を把握せず。マスコミに植えつけられた現代人の価値観でものを見ているのにすぎないのではないかと思います。当時のジャーナリストや自由民権運動家も、先進国の西洋人に植え付けられた上っ面の倫理を振りかざしているだけのように思います。昔から、ことさらに悪者を作り上げたい社会心情があるように思います。

5)の自由民権運動家からの攻撃について。
今が自由と民主主義を賛美せねばならない世の中であるせいか、自由民権運動家は、西欧の革命家たちのように半ば聖人扱いされているように思います。

正義の自由民権運動家達が攻撃したのだから、開拓使は悪にされる。

自分は、自由民権運動家の方々の言動を見ると、途上国の実情を省みずに、環境保護やら汚職追放やら借金帳消しやらの先進国の倫理をおしつけて、事業を難しくしては悦に浸っているNGOや識者や政治家の方々を見るのに似たようなむず痒さを感じてしまいます。

払い下げへの攻撃をはじめ、自由民権運動家の方々の言には、黎明期にある日本の実情を省みず、西洋から輸入してきた「善」の概念を賢しげに押し付けていると感じることが、幾度かあります。それで確かに欧米受けは良くなるかもしれませんが、実質的な国づくりにどれだけ寄与したのかは疑問です。

大鳥の明治10年の「工業新報」の緒言は、まさにその感覚を表していると思います。
この緒言はもう自分にとってはかなりの名文で、いずれ全文をご紹介させていただきたいのですが。自由民権運動にもちらりと触れています。

「近歳、都鄙の新聞、大小の雑誌相競ふて、世に行はる筆鉾を詞壇に戦はし、文飾を翰林に翻へし、互に相頡頑して以て文華を開達す。而て夫の政治は、談高い高尚に渉り、法律の論幽微に入り、自由の理民権の論世に出でしより、大に人心を感動し、一種奇特の精神を脳裏に胚タイせり。然れども、其所説多くは、欧米近世の時運を観て之を俄に東方未開の国に伝えむとする一急癖にして、其結果実益を得るの期、却て悠遠遼闊なるべし。(略)言論喋々、人を驚かし、脅かすも、其営生の計画に至ては往々迂闊に属し、自家の衣食を営む能ざるもの亦希ならず」

最近、いろんな新聞雑誌が競って筆を奮い文を飾って言論を戦わせている。内容は一段高い所の高尚なもので、法律を細かく云々したもので、自由民権の論は人心を感動させ、一種奇特な精神を植えつけた。けれども、その説の多くは、欧米の近代の情勢を見てきた人間がよく急に抱く、欧米の実情を未開の国ににわかに伝えようとする癖のようなものだ。その結果、実益を得る手段が迂遠にされている。言論は人を驚かし、脅かすけれども、生活をするための計画については迂闊なもので、(言論ばかりに傾倒していると)自分の衣食を手に入れることもできないということが少なくない。

それで何が大切、何が本質なのかというと。

「夫れ衣食住の人生に最緊要なるは素より論を待たず、古人言はずや、衣食足りて礼節を知ると。天下の民、各自力に食み、人熱に倚らず、而て飢寒の患なきときは、即ち其言や善、其の言行や篤、廉恥を破らず、法網に罹らず、安居身を全ふすべし。一国にて之の如くなれば、富強安寧、鼓腹を以て昇平を唱ふべし。然らば、衣食住の安楽自在は如何て之を得む。曰く、瑣小なりとも、公正の一工一業を興し、恒産の道を修め、拮据能く労に耐へ、百折撓まざるにあり」

衣食住は人生で最も大切なのはもとより論を待たない。
衣食足りて礼節を知るとは故人の言にある。民が皆自力で食えるようになり、病気もなく、飢えと寒さの患いがない時は、言も行いも良く、篤実で、恥を知り、法を犯すこともなく、安楽に過ごせるものだ。国中がそうであれば、富み、強く、安泰して、平和を唱えることができる。であるので、衣食住を安定させるためには、まず小さくとも工業を興して恒産の道を開くことである。そして、人々が生業を持ち、恒産の道を持ち、労働に耐えれば、挫けることはない。

自由民権運動なぞ西洋からきた大仰な観念に何が正義かを懇々と説いてもらわずとも、ちゃんと生業をもって食ってさえいければ、それで人の道徳は保たれる。そのための生業を民が得られるように、政府は富国、殖産を勧めるべしというところでしょう。
西洋の概念がいかにすばらしくても、口ばかりで、実際に人を幸せにしはしない。

当時、まさに現場で国づくりを双肩に担っていた実務官僚が、自由民権運動をどう思っていたかを示す一つの例でしょう。

現場で予算不足ノウハウ不足に苦しみながら現実と向きあって、何とか事業を進め、民間で継続し、民力を高めようとしている技術官僚たちは、ジャーナリストや民権運動家を、「言うだけの連中は楽でいいよな」と苦々しく思っていたのではないかと思います。

…黒田弁護文のはずなのに大鳥が出ばってしまいましたが。

大鳥は、払い下げについてはポジティブでした。「寧ろ人民に貸与し自由営業をなさしむる時は収支相償ひ事業拡張すべし(工部省沿革報告)」とあるように、民営化したほうが事業は拡張するだろうと述べています。それは、大鳥としては、赤字ながらも模範工場としての官の役割はひとまず果たし、民間で運営できる目処があったことからでしょう。

それで、大鳥の工作局の官営工場払い下げについてですが。

例えば、深川煉瓦製造所と品川硝子製造所の払い下げを受けた西村勝三は、すでにメリヤス・製靴・マッチなど新事業を手がけた事業運営のノウハウを持っている人でした。深川セメント工場を払い下げられた浅野総一郎は、コークスを取り扱いセメント工場に納入していました。工作局は、すでに経営されている工場があるところに、払い下げの工場を加えた形にしたと言えます。産業経営の経験者に払い下げることで、官業事業を民営化した後の事業の継続性を高めたわけです。

一方、黒田は、ドライで現実的な大鳥と違って、開拓使の官業廃止には大反対でした。文書で相当抵抗しています。黒田は自分の手で官営事業と開拓の成功を見届けたかったのだと思います。それが、松方の緊縮財政と払下概則の制定により、赤字経営の官営事業は手放さなければならなくなった。工部省も内務省も手持ちの官営工場はみんな売却をはじめた。そうするともはや黒田一人が我を張っているわけにもいかない。

それなのに、黒田が払い下げ先から見返りを受けようとしたとか、天下りを狙ったとかいう、黒田の名と尊厳を損ねるような悪意ある解釈ばかり眼にします。

黒田は、この払い下げにより私利を得たり保身を図った点は、一切無いと断言できます。アジア歴史センターや公文書館の公文を見ても、何かあると、給料を返上し職を賭しても国に必要な政策や事業を進めようとした足跡が見つかります。「じかん殿」のエピソードを持ち出さずとも黒田がいかに北海道を愛したか。彼は薩摩を捨てて北海道を選んだ男です。黒田が戸籍を薩摩から北海道に移したことで、黒田は郷土から裏切り者扱いされ、未だに生誕地に碑すら建ててもらってない。その分北海道で愛されていますが。黒田の開拓使の職に対する誠実さは疑いようがありません。

なぜ、延々、開拓使の官有物払い下げが、日本近代史の汚点のようにあげつらわれなければならないのか、不思議でしかたがないです。

確かに奴は酒癖は悪いですが。その酒への逃げも、家族の不幸と、職務の激しい重圧、政治の軋轢があってこそです。まっすぐで真面目だからです。その性癖ばかりが揶揄されるのですが。それで何ゆえに、この人が誠心捧げて取り組んだ職務まで否定されねばならないのか。人格を貶められ、邪推され、悪し様に嘲笑されねばならないのか。

自分では何もしていないくせに、人を批評し断罪することで自分が正義の側に立ったようないい気になる方々は、古今東西どこにでもいます。黒田が、そうした輩の格好の餌食にされてしまってるのは、本当に悲しいです。

…筆が走りすぎました。

どうも黒田のことになると、見境がなくなります。
途中から井黒弥太郎御大に憑依されたのやもしれません…。

それで、このエンターテイメント性に欠ける無駄に長い文、誰が読んで下さるというのだろう。読んでもらえなければどんな弁護も功を奏さない。

力が入りすぎると、却って弁護にならない。この矛盾。嗚呼。
posted by 入潮 at 05:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

仏蘭西伝習同窓会

明治9年1月22日の郵便報知の記事。


「大鳥圭介、藤沢次鎌の両君が発意にて、昨二十一日を始とし、月々一会ずつ旧横浜仏蘭西陸軍伝習の人々を、墨(ママ)田川八百末楼にて会合する事を催されて、会者は大給譲(ママ)君を初筆とし、三十余名なる由」


…で、伝習隊同窓会!?

正しく言えば、横浜太田陣屋伝習組の同窓会ですが。

毎月とはまた頻繁な。普通、せいぜい年1回とかでしょうに。
そして、いつまで続いたのだろう。明治9年ということは、翌年の西南戦争で、1/4ぐらいのメンバーが出戦して、そのまま立ち消えになってしまったのではないかとか。要らん心配を。

まず、大鳥と計って同窓会を企画したという藤沢次謙(つぐよし)ですが。
桂川家出身の洋学者で、桂川甫賢の子。「名残りの夢」で桂川家の人々や宇都宮三郎を描いた今泉みねのおじにあたります。文久2年8月、藤沢家に養子に入ります。後、歩兵頭から陸軍奉行を経て、陸軍副総裁まで出世。藤沢志州、藤沢志摩守とも。天狗党の鎮圧にも出撃しているので、大川の上司だったかもしれません。
明治は新政府に出仕して議官になっています。未確認ですが、旅絵師担ったという話もあり。この人のお墓も谷中霊園にあります。

で、この藤沢次鎌氏。異名がたくさんがあって、色々なところで出てきて、同一人物と認識するのが難しかったりします。

文久年間は桂川主税と称し、当時の洋学者コミュニティの中心的役割を担った桂川家の人物でありました。このコミュニティには、宇都宮三郎、成島柳北、福沢諭吉、そして大鳥圭介らが出入りしていました。

圭介は、彼を橘堂老兄と慕っていました。桂川主税と大鳥との親交の後も、書簡に残っています。

「ウェブスターの辞書買いたいんだけど、とりあえず自分は今の雇い主の尼ケ崎藩から借りているんだけど、15両ぐらいするんだけど、主税さん買わない?」とか。
「前からお願いしていた揮毫なんだけど、書いてくれた?忙しいと思うんだけど、もしまだだったら何日にもらえる?」とか。
圭介、図々しいお願いをしまくっています。

「誠にご多忙中御促し候はいかにも恐縮の至り」と、圭介は言っていますけれども。このとき、主税さん、本気で人生の一大事の大忙しの真っ只中だった。主税さん、藤沢家の当主の九太夫氏が没し、藤沢家へさぁ養子入りするぞ、という大忙しのときだったのでした。なんというタイミングの悪さ。

あと、この手紙の書き出しも凄いです。

「日々鬱陶しき天気に御座候ところ、爾来いよいよ御清福恐悦し奉り候。さて、過日は昇堂、色々御盛饌拝受、相替らず大乱酔、失敬御海成さるべく候」

日々鬱陶しい天気ですね。この間は宴会で酒と食べ物いただいて、相変わらず、激しく酔っ払っちゃってごめんなさい。

天気の鬱陶しさを吹き飛ばす能天気な書き出しでした。

何をやった圭介。しかも相変わらずって。

なお、大鳥が、「先日は酔っ払ってごめんなさい」と手紙に書いたのは、他に吉田さんがいます。
大鳥は、大酒飲みながらなかなか酔わない人ですが。本当に心の許せる相手ならこう弾けて飲む人なんだなぁ、と思います。既出ネタですみません。

この手紙に関しては、葛生さんが詳細にご紹介くださっていますので是非ご参照をば。(勝手にご紹介ごめんなさい)


さて、同窓会。この30余人の面子が、とても気になります。
誰と誰が顔合わせしていたのだろうか。記者さん、そのあたりもうちょっと詳しく。

明治陸軍士官に就任した伝習隊隊長たちも、陸軍省本省か東京の鎮台に所属していないと参加も難しいだろうから、現役の軍人は少なかったかもしれない。

瀧川は出席していたのではないだろうか。瀧川は横浜伝習を受けているし(若者で隊長というのはそれもあってのことかと)。鐘ヶ江さんの調べられた成果によると、東京鎮台にいたそうですし。あと、同窓会で再会していてこそ、西南戦争後の瀧川家からの墓碑文依頼があったとも思える。いや、明治での再会なしで墓碑文依頼有なら、それはそれで素敵だと思いますが。

本多は微妙だ。兵学寮(陸軍戸山学校)は東京新宿区だから、このころ東京にいたのは確かだろうけれども。横浜伝習をうけていたかどうか。
元外国御用役出役だから、横浜伝習はまっ先に受けていてもいいようなものなのだけれども。横浜の陸軍伝習は慶応3年5月開始。一方、慶応2年4月に本多さんは何をやったのか小普請入り(≒クビ)。(将軍家茂か重鎮に粗相でもしたのかしら…。家茂死後(慶応2年7月)なら警護役としてのけじめをつけたとも思われるけれども)
その後で歩兵差図役頭取として名前が出てくるのが慶応3年12月。
なので、もしかしたら横浜伝習には間に合っていないのかもしれない。
1年もあれば復帰したと考えてもおかしくはないけれども。
横浜の太田陣屋が、大手町・小川町・西丸下・三番町の各屯所に移ったのは、何月だっけ。

大川はメッスローだったかに褒められていたので、多分横浜にはいたかと。ただ同窓会時点で東京にいたかが不明。
浅田君、山口君らは東京にいたでしょうけれども、横浜から参加したかどうかはわかりません。
横浜伝習人の名簿でも残っていないかなぁ。通訳や仏蘭西語伝習のほうは、結構研究されていて論文もあるのだけれども。

あと、沼間は余裕で面子の中にふんぞり返っていそうだ。怖い。
いや、圭介発意と知ったら、「けっ」の一言で、そもそも来ないかもしれない。

ほか、仏蘭西陸軍伝習なので、小笠原石見(大鳥の工作局同僚)など脱走していない人たちもいそうです。恨み言言われたりして。

…あ、荒井さんも横浜伝習組じゃないか。
どこにでも接点があるなぁ、この二人は。嬉しい。


ただ、どうせなら、脱走した戦友たちの同窓会もないかなぁと思ってしまうのですが。
そうしたものは却って難しかったのかもしれません。本気で戦ったからいっそう。

横浜伝習組同窓会は単に、洋学者時代から気心知れていた藤沢と大鳥が飲んでいて、何かの機会にそういう話になったというだけのような気もします。

こうした記事を新聞に書いてくれるので、分かる事実というのがあります。
記者さんありがとう。

…そして、前の記事で、当時の新聞をこけ下ろしまくってしまって、ごめんなさい。

(どうでもいいのですが、「郵便報知」って、いつも「郵便放置」と変換される。ネーミングするとき、語呂的に良くないという案はでなかったのだろうか。単に今がタイムリーだからそう感じるだけか)

posted by 入潮 at 23:51| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月27日

板垣退助・大鳥圭介会談

もういっちょ、新聞ネタ行きます。

「戊辰の役の敵将板垣退助と会談」
明治9年11月2日の郵便報知新聞の記事より。

2005年8月18日の記事で、前振りを書きました。その続きです。

その際、続きは明日書くといいつつ、2年と2ヶ月以上後になってしまいました。
長い1日でした。
計画性のない自分には、良くあることです。

板垣退助。
明治4年7月参議に就任。明治6年10月に江藤らとともに辞表提出、明治7年1月副島、江藤らと愛国公党結成、民選議院設立建白書を提出。しかし2月佐賀の乱で江藤は死罪、3月に土佐に戻る。明治8年2月の大阪会議の後、3月に参議に返り咲き。明治14年19月自由党結成。
という、明治前半の経歴です。

明治9年のこの頃は、彼は参議に戻ってから、政党活動の下準備をしていたころではないかと思います。

一方、大鳥はこの頃、工部省工作局長と工部大学校長を兼ね、ライマンの内務省・工部省移籍問題に走り回り、内国勧業博覧会の審査委員を始めている。一体いつ寝ているんだろうという、思う恐ろしく多忙な時期です。

それで新聞記事の内容。

「戊辰の役板垣退助君と大鳥圭介君、各その軍に将とし、日光今市の間に相拒み、塁を対する十旬余、兵結て解けず、鋒を接する数次、奇正相角し、互に勝敗ありしが、天運の然ら使むる所、大鳥君、毎戦利少なく、加之に糧乏して寂を炊き、醤尽きて塩を咬み、裨校眼窪み、戦卒腕痿しかば、交綏して若松城に退き、鋭を養て、再び出んとするにその暇なく、奥州口危うしとの急報にて赴き援る事を促され、直に馳せ加わり」

戊辰の役において、板垣退助と大鳥圭介は各々の軍の将として、日光・今市の間で対峙した。保塁を隔てて相対すること100日余り。兵を結んでは解けず、互いに勝敗あった。

との書き出しは良いのですが。

大鳥は、天運の下、毎戦、利は少なく、しかも食糧は乏しく炊く米も寂しく、醤油尽きては塩を噛んで、眼窩は落ち窪んで、戦う兵卒たちの腕も麻痺したという状態だったのだそうだ。

…そこまで酷くない。

藤原だって、確かにタンパク源に爬虫類を食っていたけれども。豆の味噌煮はあったし、塩も交易していたから、醤油だってあったのではないか。

会津からの補給も断たれてしまった檜原の惨状と混同されているのだろうか。母成峠と西会津連戦後の檜原流浪は、確かにそんな感じだったのだろう。

それに、なぜまた大鳥のことばかり述べるのか。

土佐だって、谷干城は「霖雨連旬、番兵に労かるる殊に甚だし、兵士草鞋の緒を解くに暇無し、足されて殆ど溺死人の足の如し」(東征私史)と言って総督府伊地知に何度も兵士の疲労を訴えていた有様だったし。「士卒悉く病み、幾らも戦ふ能ざらんとす」だとか「防御力尽き兵士皆泥土に仆れれて眠るに到る、一度軍を退くに若かざる也」だとか(戊辰戦史)、連日の雨で病人続出で、海産物がなくて食も侘しく、もう兵を撤回して故郷に帰りたいという声が続出で、谷干城の援軍がこなければ戦の継続もおぼつかない、という状況だったのに。

多分、大鳥が、記者に、自分の惨状だけべらべらしゃべったからだと思います。まだこの頃、南柯紀行は世に出ていないはずですし。悲惨な過去は面白おかしく笑いネタにする。誇りがましいことは言わない。これ、関西人根性。

一方、板垣はええかっこし…もとい、誇り高い人だから、自分が酷い目にあったことは、たぶん言わなかったのだろう。

「仙会兵を左右翼と為し、自ら中堅と為りて、牡内の地に押出し、敵衛に当りて苦戦し、勢に乗じて十町程も進しに、両翼進まず、板垣君の兵溝中より潜り上て背後より襲しかば、孤軍支えず、再び若松に退かんとすれ共、猪苗代口既に官兵の断つ所となりしかば、止むを得ず山に攀ち渓を伝うる両日、夜福島に達して、仙台に奔れり」

これは、山入村の戦い→母成峠の戦い→西会津連戦→福島脱出を、ごちゃごちゃにしてバタバタと書いたという感じです。

これを書いた記者、推移も位置関係もあまり理解しないままに、聞いたことをそのまま書いた感じです。新聞に良くある書き方です。

これだと本当に一戦で大鳥がボコボコにされたような印象じゃないか。山入村は大鳥は出戦しいないし。壊滅的になったのは、連戦を経ての総じてのことで、しかも西会津の戦勝や、補給おぼつかず不戦敗というのも含んでのことだぞぅ。

…いやその、第三者から見れば、同じなのかもしれないけれども。


「爾来匆々十年ならんとし、互に憾を宿めざれと、廟堂公見の外、室相讌会相会するは、共にその情ありて未だその機を得ざりしに、弊社の鋤雲、これを聞て大に感じ、去月二十八日を以て、謹て両君を上野公演の精養軒にし、午後三時より九時に至る迄、共に襟懐を放て唔談ありしかば、傍聴耳新しく、親く刀斗を執りて、行間に在る如とき想を為したりと。この日、後藤象次郎君も莅(のぞ)まれ升。この後、両君には定て源々往来し、睦き兄弟の如くあるべしとて、老人が殊の外、悦喜であり升」

そうした戦から、以来十年が経とうとしている。互いに恨みはなかったが、政府の公式な場以外では、互いに会いたいと思いつつその機会はなかった。
それを聞いた、弊社(郵便報知)の栗本鋤雲。大いに感じ入ることがあって、お二人を上野の精養軒にお招きした。午後3時から9時まで、お二人は共に胸襟を開いて談じ合っていた。傍らで聞くのも耳に新しい。一緒に親しく刀斗を執って行軍したような想いだった、とのこと。この後、お二方はきっとそれぞれ往来し、睦まじい兄弟のようであるに違いないと、鋤雲氏はことのほか喜んでおりました。

えーと。突っ込みどころ満載な一文です。

「親く刀斗を執りて、行間に在る如とき想」の解釈にちょっと迷ったのですが。

刀斗(ちょうと):古代中国の軍隊で、昼は食物を煮て、夜は打ち鳴らして警戒するのに用いた鈍器 (広辞苑)

ということなので、文脈からこんな感じかな、と。
最初、記者が、「詳しくは書かないから、あとは行間を呼んで想いを感じろ」と言っているのかと思った。

なんだか、記事を読む限りは、板垣と大鳥、とっても仲の良い、和気藹々とした雰囲気です。

嘘じゃないかと思いました。

だって、この二人、明治に入ってから、書簡のやり取りも、付き合いの後も、今のところ、一切見つけられないのですもの。

板垣については、「大鳥圭介伝」で、山崎さんが板垣氏にインタビューして、その結果が「今市方面の戦闘に就て」として纏められています。が、板垣の話は、「貴方のご希望の大鳥男に関係したことではありませんが」などと前置きをして、「一度も敗軍したことのない我隊」だったとか、「藩が御親兵を献じたときに歩騎砲工の四科を揃えていたのは土佐藩だけだった」とか、沼間を捜して招聘した話とか、藩士授産のために斗南藩士たちに下賜金を世話したとか、岐阜で自分を刺そうとした相原尚褧が誤りに来たとか、自慢話ばかり。伝記書きのためのインタビュアーの山崎さんのニーズから外した話題ばかりで、大鳥のことは話したくなかったのかと勘ぐってしまえます。

大鳥は大鳥で、前回の官業払下げの際にご紹介したとおり、自由民権運動に批判というか、不信感を露にしていますし。

性格的にも、現実的実務者の大鳥と、思想家政治家の板垣って、まったくソリが合わなさそうな気がするのです。

なので、「室相讌会相会するは、共にその情ありて」というのは、一体どこからでてきたのだろうと思ってしまいました。むしろ、両方お互い敬遠していそうな感じだったのではないかと自分は思います。

それで、両者の会合を、精養軒、当時最もハイカラなレストランにセッティングした鋤雲さん。
二人がお互い胸襟を開いていて、話が弾んで、戊辰の昔話に、一緒に当時参加していたような想いだったとのことですが。

大鳥:「そろそろ日光は雪でしょうかなぁ」
板垣:「いやまったく。寒さも厳しくなっていましょうな。」
大鳥:「寒さだけではなく雨も辛いものです」
板垣:「ほう、雨。ハッハッハ(それ以上言うなという笑い)」
大鳥:「…ハッハッハッ (乾いた笑い)」
板垣:「さて、涼しくなってきましたな」
大鳥:「もう会津は雪でしょうなぁ(リピート)」

という、一見差し障りのなさそうなものすごく寒い会話を、えんえん交わしていそうです。
しかも、乾ききった会話に鋤雲先生は気づかず、ホクホクしていそうです。

鋤雲さんは、この会談の後も、二人はそれぞれ往来し、睦まじい兄弟のようであるに違いないと自信満々で、お喜びだったようですが。

私には、その後の二人の関わりの余りの無さからいって、鋤雲さんの心遣いが功を奏したようには、とても思えないでいます。

板垣との会談の結果が、あの大鳥の「工業新報」の緒言だったら、かなり笑えます。
ちなみに、工業新報の第1号の創刊は、明治10年6月13日です。この記事の約半年後。タイミング的にも良い感じだと思います。

後藤象次郎が同席したとのことですが。気まずくなることが分かっていたから、大鳥が後藤に緩衝役を頼んだのかもしれない、などと思いました。(大鳥は後藤象次郎とは仲がよかった)

…どうしても板垣と大鳥、仲良くない方向で想像してしまう。

板垣と大鳥の戊辰戦争の捉え方は、結構対照的なのではないかという気がします。

板垣は、たとえば、会津の農民が斥候を買って出たりして官軍を歓迎したという話を、後の自由党で語り自分の政治に利用している。戊辰戦争の経験を、人生において正の方向に捉えているように思います。(だから自慢話ばかりになる)

大鳥は、明らかに戊辰戦争を、自分自身にとって負のものとして捉えているようです。戦中の話は家族にすらしなかった、というのがまずそれで。漢詩なども、激しいマイナスを、せめてよりマシなマイナスに補償しようとするものが多いように思います。「南柯紀行」の公表も戦後30年経ってから。30年は、記憶が記録となるには十分な時間です。
専門の監理技術者と工手(技師)の関係を、士官と下士官に喩えたりはしていますが、それは洋学者、軍事技術の導入者としての視点であるだけでしょう。

勝者と敗者という立場の違いだけではなく、両者の徹底的な性質の違いがあるように思います。ある程度、戦争が両者の性質を作ったのもあるかもしれませんが。

なので、少なくとも大鳥は、板垣を苦手にしてそうだなぁ、と思うわけです。

単に、現場でものつくりする実務者・技術者は、口で言うだけの思想家・政治家は嫌いなものだ、という世の真理もあります。


さてこの栗本鋤雲氏。小栗忠順と共に、外交面、フランス陸軍の導入で活躍した方ですが。
もとは幕府御典医の家の出で、栗本家に養子に入り、奥詰医師になったという、医家の出身の方。昌平坂学問所頭取・箱館奉行を経て外国奉行に。維新後は在野の人として、報知新聞の主筆などジャーナリスト、文人として活躍しました。

メル・デ・カションとの交換記録や下関事件の顛末など外交記録として貴重な記録を残されています。ほか、「鉛筆紀聞」「晩窓追録」「匏庵十種」など各日記は、文学としても名高いです。

その「匏庵十種」では、陸軍黎明期と若かりし大鳥について、興味深い場面が語ってくださっているので、近いうちにご紹介したいと思います。

「独寂寝言」とか見ていると黄昏れがちな人かと思いきや、「鯤化鵬」と名乗るなど、壮大な気運もお持ちな方です。 夢見がちで突っ走るところもありげな感じがします。


大鳥も、若かった頃に世話になったわけだし、この人の頼みなら断れないところがあったのではないかと思います。


自分もかなり思い込みが入っていると思います。違うぞ、こんな事実もあるぞ、というのをご存知でしたら、ぜひご教示ください…。

posted by 入潮 at 05:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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