2007年11月08日

高山と亜熱帯の現場

暑いです。
湿気でむっとしていて、空気が重いです。
ゲストハウスの部屋の床を、見たことのない虫が、賑やかに走り回っています。

現場に入っております。ブータン第三の都市、ゲレフというところに来ています。
文字通り、山から降りてきました。現在標高は400mぐらいです。
久しぶりの下界です。ブータンに入って初めて真っ直ぐな道路を見ました。

インドとの国境の町でもあります。衛星写真を見てもそうなのですが、山の始まりがそのままブータンとの国境になっています。ブータン人は、さすがの大英帝国も、この急峻すぎる山と峡谷だらけの国土は欲しがらなかったのだと、誇らしげでした。

外務省の安全衛生情報の関係で、日本人はいちおう入れない地方のはずなのですが、雇い主が日本ではないという理由か、何の問題もなく入ってきました。(入領許可は事前にImmegrationから取る必要がある)

植生も亜熱帯のそれで、南国の雰囲気です。気温は28度ぐらい。晩秋の乾季でこの暑さだから、雨季の夏の暑さはもう考えたくない。
緯度からするとこの暑さのほうがが普通なのですが。国土のほとんどが2-3000mの高地なので、冷涼な気候になります。

今回は北のほうから東へ入り、南へ降りてくるという形で地方を回ってきました。移動で1日、調査で1日、という感じを繰り返しています。

車で長距離移動していると、高度600m程度まで降りたり、また3000m以上まで上がったりの繰り返しになります。鼓膜がぺこぺこ引っ込んだり膨らんだり、忙しい感じです。耳抜きできないと辛いかも。強制的に高度馴化訓練をさせられている感じです。2500mのところにずっといたので、いまさら訓練も無いのですが。3000mぐらいでは山と見做されないのがこの国です。

地図で見ると直線で10kmぐらいなのに、河が峡谷を深く刻んで、迂回しようとすると2時間も3時間もかかります。下手をすると道路の下は1000mを超えるような谷底だったりします。

植生もめまぐるしく変わります。高山植物がきれいだなぁと思ってたら、ちょっとうとうとすると、バナナやシダなどの亜熱帯の植生に変わってたり。針葉樹林になったと思ったら照葉樹の密林に入ったり。
何より、1日で桜と紅葉が見れるというのが、かなり変です。季節感もへったくれもありません。

車道も歩く道も、なにかとすさまじいです。後でゆっくりご紹介できればと思います。
2度ほど死ぬかと思いました。谷底に落ちかかりました。こうして暢気にPCを開いていられるのは、僥倖以外の何者でもありません。

今回は完全に乾季なので、雨季のような雨や虫や泥や洪水やその他もろもろの苦しみからは免れています。濡れない、滑らない、ヒルがいないだけでどれだけ体力が温存でき、快適で安全なことか。密林を歩いていると、虫やら蛇やらだらけで、くそ暑くて汗だくになるのは変わりないですが。

乾いているのは恵みだと思います。
砂漠の国ではそうは言っていられないのだと思いますが。
雨季の泥は人の移動をとてつもなく困難にします。泥で滑り谷底に滑落することすらあります。雨季で沸いて出た爬虫類、ヒル、羽虫の類は、容赦なく栄養補給に襲い掛かってきます。もちろん、マラリアやデング熱持ちの蚊は容赦なく集ってきます。

何でも、今いるところは、雨季にはレッドリーチ(紅ヒル)がでるそうで。巨大なヒルで、一度吸い付くと2,3日ひたすら血を吸って離れないらしい。…乾季でよかった。

雨季は、命がけの季節です。
それが、年の半分あります。
そこに人々は住んでいます。

現在、眼病が大流行していて、目が真っ赤になっている人がかなりいます。。
目の前を小虫が飛んでいるような錯覚が出て、サングラスをしていないとならないそうな。
測量した現地エンジニアも感染してしまって、PCの画面を眺めていられないとのことで、データ作業に支障がでています。

予防法はないかと、臨床もしている病院の管理の方に聞くと、「感染者を見るな」ということでした。感染者の持っている菌が目に入ると感染するので、近寄らないようにという点では確かに合理的なのですが。なんというか。

ちなみにこの眼病、目が真っ赤になることから、"Japan Flag Disease" と呼ばれているとのこと。不名誉な。

そんな感じで。
熱いシャワーも久しぶり。今はレストランの電話線を借りてアクセスしています。
案の定、すさまじく遅いしぶちぶち切れますが。久しぶりの文明の利器です。

またティンプーに戻りましたら、現れたいと思います。
タグ:ブータン
posted by 入潮 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

壬生宇都宮の再確認

ティンプーに戻っています。
久しぶりのネット環境を満喫するため、というわけではありませんが、久しぶりに更新二点。

一つはこちらでご紹介しました、箱館戦争の名簿である「函館脱走海陸軍忽人名」の、陸軍部分の整理した表で、箱館陸軍人員表。「〜人名」は、宮氏岩太郎作成で、「旧幕府」収録。

違う巻・号にばらばらと収録されているので、いちいち捜すのが面倒だったので、前にまとめてあったものでした。

箱館戦争脱走軍側の参加者の名簿としては、もっとも詳細なのではないかと思います。大川の箱館部分の名簿ともほぼ一致していますので、同じ材料をもちいたのではないかと。
海軍もやりたかったのですが、とりあえず陸軍で力尽きました。
あと、負傷者・死者リストもあるので、それもいずれ手を付けたいと思います。

差図役以下の情報需要はほとんどないのだと思うのですが。
隊士はともかく、名前もなく「歩兵四十九名」などで纏められてしまっている歩兵は、ちょっと切ないです。

圭介も歩兵はほとんどスルーだしなぁ(獄中の同房者はいろいろ出てきますが)。浅田君も自分の命を盾にして救ってくれた歩兵の名前は書いていない。大川名簿が頼りですが、負傷者と死者しか記録されていない。

宮氏さんの名簿は、様式は統一されておらず、それぞれの隊から提出させた名簿をひとまずまとめた、という感じです。額兵隊の「士官隊」という名称は初耳。人数からいって額兵隊組織と見てよいと思うのですが。「士官隊」は戊辰戦争にいったいいくつ存在したのだろう。ややこしいぞう。

この額兵隊「士官隊」士官の名前は名簿にはなし。
あと、一聯隊のそっけなさは何だろう。
伝習隊と衝鋒隊は、戦歴が長いだけあってか、器械係や兵糧方、喇叭役などの役割分担がしっかりしていて面白いです。指揮官の性格かもしれません。


もう一点のSSの追加は1年ぶりでした。ずいぶん長い間ほったらかしていました。
楓の記にちらりと書いて以来、ちゃんと書きたいと思いつつ、3年以上、発酵させていたものです。

もはや需要の無いところを掘るのに自虐めいた楽しみを見出しています。
事件名に騙されてしまった方、いらっしゃいましたら、すみません。


これを書くのに「復古記」眺めなおしていたら、いろいろと見落としていたことに気づきます。

宇都宮藩兵が気の毒すぎるとか。
板ばさみ状態の壬生は涙ものだとか。
退く者は他藩でも斬ると吶喊白兵戦の河田佐久馬のおやっさんが、男臭くて格好よくてたまらないとか。

一方、壬生城を攻めた大川。

「賊亦纔(わずか)に一小隊計、其備へあるを疑ひ、わずかに街の一端を放火して去る、城の危き實に累卵の如し。此の賊、途中我が傷者二人を殺し、我兵食を奪ふ、是を以て出張の兵皆飢ゆ」(山内豊範家記)

壬生城が、空っぽになっていたのだけれども、残った藩士が虚勢を張って防備厳重の振りをしたのですが。
大川隊は僅かに町の端を放火して去る。壬生城は卵のような危機だった。そして、大川は敵に遭うと味方の振りをして騙まし討ちしたのですが。
さらに、城を出た敵兵のための糧食を奪って、戦闘に出た敵兵を飢えさせていた。

「壬生在陣の因藩より汗馬の使来たり申述候は、今朝より宇都宮の賊兵、壬生城へ乱入致し、諸所を放火して攻懸り、只今吾藩と土藩との二藩にて防戦最中に有之候、此時暫時にして壬生へ到著いたし候処、早や賊兵は引退き、戦ひは止み候跡にて、死傷人等取片付け、同所大手前抔は焼け残りの火少し燃え候のみにて、応援の栓無之候事故、各残念に存候也」(東山道戦記)

壬生の近く新田に東山道の本隊が、すでにこの日22日に宇都宮を攻撃しようとやってきていた。ここに大川が壬生に放火したので、急遽、壬生を守っていた因州が援軍を本隊に要請。これを受けて、本隊が壬生にやってくると、大川らはすでに去った後。

大川は本隊にぶつからない絶妙のタイミングで退いていました。この要領のよさ。しかも、大川の陽動により、この日の官軍本隊による宇都宮攻めを未然に防がれた。もしここで宇都宮に攻められていたら、主力は安塚に出て宇都宮はもぬけのカラ。大鳥は寝ている。挟撃状態でさらに酷いことになっていた。

大川、すっごいです。敵を飢えさせたり、本営への攻撃開始を遅延させたり。意図したことではないでしょうけれども、結果的に、これは、もの凄い活躍だった。意図せずこれをやってしまうところが大川なのかも。


さて、浅田君。宇都宮入城の際。

一揆のために獄に捕らえられていた農民を釈放した際、「彼等大に喜び、城中に止つて駆役されん事を乞う」とありますが。本当なのでしょうか。
あったとしてもごく一部なのではないかと。

市中は、町人老若男女の区別なく「周章(あわて)ふためて泪さけぶ声山をも崩るる計り」で、兵は、「狼虎の荒れたるごとく切り切り廻れば、城中人数ことごとく□し、西方東方途方にくれ、逃げんとするを切廻」るという有様で、「其威勢振て屋敷市中又は近在々迄も立廻り、軍用金仰申付、末々之兵は酒色を好み、中には強蔭等いたし荒々しく押歩行候故、町人百姓恐れをなして居たる」だったそうですので…。(日光附近戦争及雑書書)

あと、「城中蓄穀二千俵、悉く分つて貧民に与ふ」とあります。
これは、ほかでは二万俵だったり、三千俵のうち三百俵(慶応兵謀秘録)だったり、色々です。

(會東照大権現様のまとめてくださっている史料のクオリティの高さわかりやすさとと労力を、仰ぎ見ます)

そんな浅田君の漢詩。

宇都宮城血浸溝
賊巣毀屠志央酬
抑観烈祖餘芳忝
葵旗普振下野州


賊の巣=官軍の巣が破壊された、これで葵の旗が、普く下野の野にはためくことになるだろう、と。
この意気揚々さ。頼もしいです。

あと、復古記では省略されているのですが、浅田君、略奪の様子を、長々と書いています。

(自筆文は、旧かな使いのひらがなですので、解読に自信のないところもあります。句読点挿入しています)

近傍の叢林麦畑の中、敵の屍骸、或然家具衣裳を棄る、狼藉して兵のなしたる山の如く、土人集合して、衣裳其他の雑具を奪ふる夥し。吾軍、直ちに城中に入、焼残れる藩士の邸に陣し、四方を点検するに、火未だ消えず、楼櫓外部は未だ燃えたり。米穀家具其他の百物、屋の内外に充満して、足の踏所なし。飯を炊いて尚釜中に在るあり。襖を放て収めざる有り。其の状、挙て言可からず。又、城中、一つの竹林あり。又、金銀を埋め、米穀を捨る事、山の如し。兵卒、愉快の状にて井底を探り、或は、塹中を掘て兵具金銀を得る事夥し。

予の隊の兵に、銀の鼎を得る者有り、黄金を得る者有り、故に陣営の陬(すみ)に物の埋りたる如き地有るを見て、一人の兵、鋤を携え、早卒に馳せ行て、鑿り穿つに、人首を得たり。衆、掌を打って、大ひに笑う。或は、塹中に没し、数十人隊列を整え、二分に追迫り銃釼を揚て、鯉魚を刺殺し得るあり。又、就中、千金の凾を探り出す、其内七百両を収めたり。其の近傍を捜索するに、若干の金銭有り。須臾にして、又一つの千金凾有り。衆兵、欣然として、蓋を開けば、悉く百銭なり。又、一瑣事有り。兵卒等分捕したり女官服或は甲冑を衣て揚揚と横行す。其行状、異形にして、形粧哂ふに堪たり。


近隣の草むら、麦畑の中は、敵の屍骸や家具、衣裳などが捨てられている。兵が狼藉しようと山の如くに群がる。地元民も集合して、衣裳や雑貨品を奪うこと、夥しい。
わが軍は直ちに場内に入り、焼け残った藩士の邸宅に陣して四方を見回ると、火は未だ消えていない。楼、櫓の外部はまだ燃えている。米穀や家具、その他さまざまなものが屋内外に充満していて、足の踏み場もない。飯を炊いた途中でまだ釜のなかにあるものもある。襖を放ったまま閉めていないところも有る。言葉にして尽くしようがない。また、城内に竹林がある。金銀を埋めていて、米穀を捨てていること、山のようだ。兵卒は愉快そうに井戸の底を探り、塹壕の中を探って、武器や金銀を得ること、おびただしい。

浅田の兵に、銀の鼎を得る者、黄金を得る者があった。故に、陣営のすみに物が埋まっていそうな地を見て、兵の一人が鋤を携えて、早速駆けて行って掘ってみると、これが人首だった。衆はてのひらを打って大笑いする。また、数十人で隊列を整えて、二分して、銃刀を上げて濠の中の鯉や魚を刺殺する。さらに、千両箱を捜し出して、そのうち七百両を収めた。その近くにも金銭がある。一つの千金箱がある。兵は大喜びで開けてみると、ことごとく百銭だった。さらに、兵が分捕った女官服や甲冑を来て、揚々と横行する者もいる。その行状は異形で、笑いが堪えられない。

…えらく楽しそうに書き綴っています。

一方、大鳥総督ですが。

「家中屋敷を巡見せしに、過半無何有に帰し、残りし家も盗賊など入りしと見えて、狼藉を極めたり」「歩兵共の乱暴せざる様厳令を下し、士官の者を断えず巡邏せしむれども、兎角暴行の者之れありて、市民を悩ましめ、大に困却せり」等など。

非常に、困っています。

そんな総督に気づいたのか、ようやく最後に浅田君。

「我等、其懶惰(らんだ)に成らん事を憂ふ故に、叱て之を止めたり」

行間に、小さく後から書き足しています…。

大鳥さんに怒られてから、兵の狼藉をやめさせたのだろうか。

そして、浅田が兵を叱った理由。
「懶惰(=めんどうくさがり、怠け者)に成らん事を憂ふ故」と。

兵が略奪で金銭を得たので、兵が働かなくなってしまうことを恐れて、叱ってやめさせた、と。

合理的です。頭の良い人です。こういう部下は、居ると助かると思います。

ただ、部下との価値観の相違に苦しむ現代人的感覚の総督の姿が、目に浮かぶようです。

戦中ですし、当時は浅田らのほうが多数派だったのだろうとは思います。
略奪は、兵に対する、懐の痛まない報酬だというのは、古今何処も同じ。
浅田らにとっては、宇都宮は「賊の巣」でしたし。敵からの略奪は、必要を満たす通常の感覚だったのでしょう。
大鳥の現代人に近い価値観のほうが、甘っちょろくて、異常なのだろうという感じはします。

…と、浅田君のほうを弁護したい気に駆られてしまった。

そんな感じで。読めば読むほど、書くことが増えてしまうので、次が進みません。
後味の悪い暗いところでぶち切っているので、何とか次は早めにつなげたいと思います。思うだけ。
posted by 入潮 at 05:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月30日

勤勉な人

本格的な乾季です。雨季にあれだけ悩まされた雨が、一切降りません。

朝晩冷え込みが厳しく、外は霜がびっしり下り、真っ白です。
暖房が、ないよりマシという電気ヒーターしかないので、夜なべ仕事がきついです。手がかじかんでキーが打てない。ハードディスクの放熱でせめてもの暖をとる。
気温にしてみると大したことはないのですが、居住空間に暖房のない寒さというのは、一種独特です。

通常はブカリという煙突付きの薪ストーブがあるのですが、森林伐採が進んで、ティンプー周辺はハゲ山になったので、規制でほとんど薪の使用ができなくなっています。豊富でクリーンな水力発電の電気を使うように、ということです。もはや薪は贅沢品です。
電気による熱は効率も悪いし、温まりません。化石燃料が恋しいです。

それで、とある援助機関のオフィサー宅にお邪魔したら、家でLPGガスのストーブをぼうぼう炊いていたりする。このやろー、環境保護でうるさく人に余計な仕事を課してくるくせに、自分だけ二酸化炭素を放出して贅沢しやがってと、ついヒネた目で見てしまいます。(LPGはインドからの輸入)。貧困削減をしかめ面しくいう人ほど、贅沢な生活をしているのだよな。

そして、乾燥が辛いです。からっからに乾いています。
足も唇もひび割れてがさがさで痛い。肌が粉を吹いて、黒いズボンを脱ぐと内側が真っ白になっていて、うげっ、と思います。
寒さで蚊がいなくなり虫刺されがマシになったのですが、かわりに乾燥で痒いです。
踵もひび割れて、歩くだけで亀裂ができて血がでる。痛い。

街は未舗装部分が多く、国王陛下の戴冠式に合わせて工事が佳境に入っているので、砂煙だらけです。乾燥が砂煙を増長します。目を開けていられない。

雨季のヒルだらけの現場に比べれば、まだまったくどうって事はないのですけれども。
つい環境に文句が出てしまいます。

エマ(唐辛子)とチーズの現場も1ヵ月半が過ぎると、そろそろ茶漬けが食べたいとか、唐揚げをかじりたいとか、些細な欲求も出てきます。持ってきた玄米茶が切れた。寂しい。

そんな感じでブツブツ言いながら、報告書作業中です。
ここ2週間ほど、4時就寝7時起床の生活が続いています。1日16時間ぐらい仕事してます。

おかげで後半は、まったく更新ができませんでした。今月中に宇都宮戦争部分を終わらせてしまいたかったのですが。ずるずる行きそうです。

気圧が地上の3/4程度しかない空気の薄さだと、いくら寝ても体力が回復しない感じで睡眠時間が余計に必要です。睡眠部不足は、もう若くない無理の利かない体に、いっそう烈しく圧し掛かってきます。

ずっと報告書の事を考えているので、寝ていても、でもひたすらデータ整理し英文を打っている夢を見ます。でもその分の仕事はもちろん進んでいない。働き損だ。

今、一緒に働いているブータン人のエンジニアの方がいます。彼も一緒に、夜中2時3時まで働いてもらって、申し訳ないと思っていたのですが。
この方は、本当に効果がでるのなら、仕事が増えるのをまったく厭わない。自分の仕事が増えて大変になるのが分かっているのに、それがこの国に必要で多くの人の便益に繋がるのならと、あえて色々提案して自分を苦境に追い込んでいる。明治の技術者のような気骨のある方です。

どんなに作業が遅れようと、現地の人はアフターファイブと土日は働かないのが普通だし、給料も同じなのに、ありがたいことだと伝えたら。

自分がより働き苦労することで、より多くの人の生活をよくすることができる。
それは、魂の質の向上になり、来世で報われるのだ。

という事を言っていました。

ここのドゥク教は、チベット密教と関わりがあり、輪廻や因果を重んじる考え方がいろんな行動の根幹にあったりするのですが。
宗教が勤勉性をも生み出す。そのことに、ちょっと驚きました。
こうした想いがさらりと出ることに、素直に尊敬の念が沸きます。

こういう人がいる国は、伸びます。

自分としては、そういう方と一緒に仕事をすると、こちらも仕事が増えて大変なのですが。

それで、明治の技術者たちは何を思って身を粉にして働いていたのだろうか、ということを思いやってみる。
昼に工事主任を執り行い、夜に施工管理ハンドブックの訳本として「工師必携」を執筆して、正に昼夜なく働いた田辺朔郎のような人たちが、何処にでもいた。志田林三郎は、教育、官僚、研究者、現場技師と、4人分の仕事をしていた。伝記を書かれた信太氏のご指摘にもあるように、あの死はきっと過労死だ。

彼らには何の倫理が働いて、何がモチベーションとなっていたのだろうか。

多分、自分の魂の質とか、来世とか、そういうことは思いもよらず、単に目の前で必要とされていたから働いていたのだろうな、とも感じます。

明治のみならず、日本人の勤勉さは、何が土台になっているのだろう。
顧客充足度とか、クオリティコントロールとか、その辺の大仰な事を言われなくても、お客様は神様だとか、正速美という意識は普通にありますよな。

国土に対して人口が多いから競争する必要が昔からあったとか、台風や地震の多発で風水害に対抗するために生活の質を上げる必要があったとか、農耕民族は働けば収穫増に繋がる見返りのある生産体制だったからとか、それなりの説明は目にするのですが。どれもしっくり来ない気がする。

疲れてくるほどに、彼らが何を思って身を粉にしていたのだろうと、思えてきます
聞いても「やらなければならないから、やった」ぐらいの返答しか帰ってこない気もします。

一方、人が必死で上げた報告書を、平気で二ヶ月も三ヶ月も放置し、支払いを遅らせてもなんとも思わないインド人と仕事をしていると、自分だけ納期の為に死ぬ思いをしているのが馬鹿馬鹿しくなってきて、モチベーションも枯渇しがちになってきたりするのですが。

勤勉な人と一緒に働くのが、一番勤勉にならざるを得ない気がします。
村意識の日本人は、他人が働いているのを見ると、落ち着かないのでしょう。
明治技術者のようなブータン人の存在は、受身なやる気に繋がります。
というか、俺がこんなに働いてやっているのにお前は何だ、と怒られるのが怖いです。
給料も違いますし。

(物価が違うので、日本人というだけで、現地の人の何倍も給料をもらっていることになる。自分よりよほど優秀なローカルと一緒に仕事していると、申し訳なくて仕方がなくなる)

世間ではもう、クリスマスやら年末やら騒がれるようになったようで。
こちとら、ゴールデンウィークも夏休みもまだなんですが。それどころか土日も数えるほどしか経ていないような。

私は、魂の質よりも、人並みの生活と玄米茶が欲しいです。
タグ:ブータン
posted by 入潮 at 23:49| Comment(4) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。