2008年01月01日

謹賀新年

謹んで新春のご祝詞を申し上げます。

あぁ疲れた。やっと、明けられます

「年内に送ります」と伝えていた報告書が、ついさっきやっと上がりました。「年内」を23時間ほどオーバーしました。いっそ、「2008年内という意味でした」とボケてやろうかと思いましたが。いくらインド人相手でもそれは日本人としてのなけなしの矜持が許しませんでした。

年末、冬の祭典に10年ぶりに参加したいと思っていたのですが、案の定、無理でした。夜のKさま、Oさま、Kさまの飲み会にだけ乱入させていただきました。久しぶりに、若いお嬢さんたちと会話して心華やぎました。サブカルチャーを担う若者たちの清清しい姿に、力を分けてもらってきました。…言うことがもう老人ですが。

そんなわけで、ぜんぜん正月を迎える体制になっていません。これから掃除と雑煮作りをしようと思いますが、正月があと数分しか残っていません。今年こそは人並みの生活を、と思いましたが、初日から破綻しています。

旧年中は、大変お世話になりました。サイトに来てくださった皆様御一人一人に感謝申し上げます。新しい出会いもいただき、学ばせていただいたことの多い一年でした。普通なら出会えることのない方と交流のいただけるネットの存在と、そのインフラを作ってきてくださった先人、皆様に感謝です。

去年、今年中にやりたいことのリストを挙げましたが、そのうちの2,3点しか消化できていませんでした。

さらに今年やること、と言うより、去年やろうとしてできなかったこと。

・松平太郎の野州戦援助
・宇都宮戦SS続き
・参考資料リスト整理
・燃えよ剣の検証
・硫黄島特集
・依田学海日録に見る榎本と大鳥
・明治ニュースに見る榎本と大鳥
・荒井さん特集と「土木屋さんの史学散歩」
・栗本鋤雲「匏庵十種」と陸軍歴史
・ブリュネの真意と箱館離脱
・ふんどし宿題
・三斗小屋ツーリング
・墨田区について
・土佐藩戊辰戦争資料のまとめ
・浅田惟季函湊戦図のご紹介
・明治前期殖産興業のまとめ
・私を救った鶏卵
・旧年のToDoリストからの持ち越し

あと、工部大学校全般。
特に、本サイトのほったらかしにしているコンテンツのほうは、早めに埋めて行きたいです…。

今の家に来てもう1年が立つのかと思うと、月日がたつのが早いです。まだ引っ越してから3ヶ月ぐらいしかたってない気がしますが。家に居た日を勘定すると延べでそんな感じでした。

今年もどれぐらい国内に居られるのか分からないので、とにかく1時間、1分を大切にして、自分という怠け者の尻を引っぱたきたいと思います。

"It is not how much we do but how well, the will to do, the soul to done."
(どれだけたくさんやったかが重要なのではない。どれだけ良い物を作り、作ろうという意思を持ち、そしてそれを最後までやり遂げる魂があるかどうかだ。田辺朔郎)

先人の言葉は重いです。

風呂敷を広げすぎても何も出来ないので、一つ一つ、やれることからやっていきたいと思います。

とりあえず人並みの生活からはじめます。
雑煮作るぞー。
posted by 入潮 at 23:53| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

正月晴れ

今日も飲んでいました。正月からずっと飲んでいる気がします。ビール→焼酎という、すっかりオヤジな飲み方が染み付いてしまいました。鍛高譚は美味いです。

正月から、お会いしたかった方、懐かしい方など、人様にお会いして、幸せな時間を過ごしています。
新年会は、皆様のおかげで大変楽しかったです。

相変わらず靖国は、普通で能天気で平和でした。
靖国をどうこう言っている人は、一度訪れて、この能天気さに浸られると、考えが変わっていいかと思います。

靖国の主のように傲然と構えているはずの大村益次郎像は、袴の中身、スネ毛まで見えないか云々されていました。鳩が我が居場所とばかりにちょんまげの変わりに居座り、しかも粗相までされてしまって、お顔が白く彩られていたことを、Tさんの激写が明らかにしました。あそこは掃除も大変だろう。上野戦争の英雄が、不憫でなりません。

お参りは、今の日本の礎になってくださった英霊の方々に対して、恥ずかしくないよう、また彼らに日本を守ってよかったと思ってもらえるよう、賢く強くありたいと、一応、それなりに力を入れてお祈りしようとは思っていました。

しかしながら、二礼二拍一礼しようとすると、隣に数十人の黒服軍団が整列で現れ、「英霊のォ、御霊にィ、追悼の意をォ、込めましてェ、本年の(略)」と、大音声で一同敬礼。その迫力に、手前の弱弱しい願いはかき消されてしまいました。どちらの組の方ですかと聞いておけばよかった。

絵馬は「行きたい学校に合格」とか、「みっちゃんとずっと一緒に居られますように」とか、プライベートなことを色々願われて、英霊も大変だと思います。国家安寧とか、世界平和とか、そういうことを祈りは無いんかい、と思って入ると、「ゴラン高原派遣隊一同任務達成 ○○三佐」とありました。思わず直立敬礼しました。

その後、甘酒の振る舞いや、マジックや合唱、能など催し物も。手品師の方の手つきがなれていないおぼつかない感じで好感度大でした。

毎年、着物のお姉さんが「初詣は靖国へ」と微笑んでいるポスターを見ます。
靖国は、運営費のほとんどが民間からの浄財で賄われているとのこと。
かつては内務省が神官を決め陸軍省が財政負担をしていました。現在、靖国は、一民間の、普通の神社です。(他国では米国のアーリントンを初めとした戦没者墓地はほとんどが国営)

それから、鎮霊社に赴きました。鎮霊社には、靖国には祭られていない、戊辰戦争の旧幕や奥羽列藩同盟軍の死者、西南戦争の薩摩軍の死者ら、他、外国の緒戦没社がが祭られています。
靖国神社本殿の左脇に入り口があります。恥ずかしながら、Yさんに教えていただくまで存在を知りませんでした。
1965年に竣工。2006年10月に一般開放されたとの事。コソボやイラクの犠牲者も合祀されています。靖国合祀の基準に沿わない戦争犠牲者の霊は全て祭っているという事。懐が深いとも節操が無いともいえる感じです。
本殿の靖国との差は、「顕彰」されるかどうか、という事のようです。顕彰といっても、オーソリティの手によるかどうかの違いで、慰霊されているのは同じ。彼らの存在と行いは、権威が広めずとも我々が知っていれば良いのではないかと思いました。

鎮霊社には、周囲の喧騒とは一線を隔した、静かさがありました。

それから、遊就館。今回初めて訪れました。展示内容は、非常に豊富で濃いものでした。無味乾燥なはずの歴史展示のそこいらに和歌がちりばめられているのが特徴的。そこに込められた情と
反戦と平和主義の世論のなか、日本の意思決定が全て否定的なものにされてしまうことが多いですが、戦争に至るまでの止むを得なかった事情を、備蓄量の変化などデータを下にしっかりとストーリー立てて説明しているのは見事でした。

初詣はそんなところで。
意気込んで新年会に水道橋へ移動。正月のいきなりの集まりだったにも関わらず、六名様の親不孝にお集まりいただきました。その後、隙間風吹きこむ我がボロ家で三次会。

Tさま。普段のサイトのコンテンツから、相当なエンターテイナーだと刮目させていただいていた方ですが。清楚な美人系だったとは。ネタがあればすかさずデジカメを構えるハンターぶりが見事でした。黙っていれば本当に美人なのですが、口を開くと凄いです。

Yさま。なんと京都からのお越しでのご参加でした。殖産興業を大学で研究された方。仕事でも分野こそ違えど業種が同じで、随分と愚痴りあってしまった気がします。一般人の方かと思いきや、侮れない方でした。

Sさま。和装で度肝抜かされました。鼠色の一見地味なお着物なのに、足袋やお化粧で目を引く、センスあふれた素敵な装いでした。滑舌鮮やかな語り口調も素晴らしい。

Mさま。見かけは可愛らしいのに、ごつい絵描きさんです。一次史料からピンポイントに対象人物の人間的な味を抜き出す技に秀でておられます。くりきんとんと黒豆をお持ちくださいました。家庭の味の凝集。一番こういうのが感動するのです。

Aさま。Mさまとの息の合ったコンビネーションがぴったりでした。榎本武揚布教を力強く繰り広げてくださいました。

そして、もうお一方、ご参加いただくことになっていたのですが。携帯を荷物に入れたまま、ご連絡を何度もいただいたのにも1時間も気づかず、帰ってしまわれたという、誠に申し訳ないことをしでかしてしまっていました。幹事失敗、猛省です。本当に申し訳ございませんでした…。

四次会は、泊まり組のTさまとYさまを引止めして、酔いと眠気のなかで、飲みと喋り続行。
最初はYさんとの仕事の話で、業界話やトンデモな客の話だったり、関東に越してこられたばかりのTさんと、会話のテンポにおける関西・関東の文化論だったり、それなりに普通の会話だったのですが。なんというか、ケイオスな会話を繰り広げました。人様の目がなくなると、見境と際限がなくなります。
そして、ほぼ徹夜のまま、朝、お送りするということになりました。
その日は、ほぼ1日沈没でした。

4日は朝メールがなだれ込んで仕事。午後に都立図書館へ。
ちょうど資料集めをされるという総督府資料館のつか様にお声かけさせていただいて、そのまま飲みになだれ込みました。

もともと戊辰戦争の戦地の取材を足でされて軍事的な視点から記事を記述されていて、前から学ばせていただいていたのですが。野州戦争をテーマに小山、宇都宮戦争を記述されて、嬉しくてほいほいサイトにお邪魔させていたのがきっかけでした。当時の藩の地元事情や、官軍脱走軍のバランスの取れた視点と分析、現地の貴重な写真など、野州戦に興味のおありな方は必見です。

それで、酒が入るとどうしても見境がなくなりまして。今素面になって思うと、真面目な歴史ファンの方相手になんであんな会話になったのだろうと減り込むような話題が繰り広げられてしまいました。異性の目から見た歴史同人だとか。

ちなみに、四日この日の収集品。「土佐戊辰戦争資料集」から、明治六年一月の高知県権参事の布達より。

「第七十八号 当管下の儀、旧来圧死堕胎或いは男色(難姦)等の陋習これ有処、漸く文明の今日に至り、右様人倫に背き候所業これ有まじき候えども、万一不心得の者於これ有は厳しく処置及ぶべく候条、右等の次第及見聞候はば、速やかに訟出申べく、この段相達候事。明治六年一月 高知県権参事星合常恕」

明治六年。廃藩置県になってまで、土佐、堕胎と男色の習慣があり、文明の世に至ったからには人倫に背くから、これ以降厳罰、ということなのだそうです。

戊辰戦争中は普通に男色あったのですな、土佐。薩摩だけではなく。

今市では数十メートルから直接弾丸撃ちかけられて逃げ惑って大谷川に飛び込んだ総督。当時は捕虜の人権と言う概念も無かったわけなので。生け捕りにならなくて良かったなー。沼間隊の加藤君は大丈夫だったのだろうか…。


そんな感じで、新年から、堕落しています。
こんな奴ですが、今年も何卒お見捨てなくおつきあいいただけますと幸甚です…。
posted by 入潮 at 23:40| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

硫黄島と日本

酔い冷ましに、雑煮を食っています。今年に入って三鍋目ぐらい。材料が勿体無いからですが。

自分は、雑煮と言えば、大根とか人参とか牛蒡とか里芋とか、てきとうに根菜を煮て、白味噌で味付ければそれでいいと思っていました。

もしかして、関東の雑煮は、何か違うのだろうかと検索してみたら。
小松菜とか、鮭とか鰤とか肉団子とかカマボコとかが入るとか。しかも白味噌は入れないらしい。
トビウオでだしをとるなんて初めてきいた。道理で白味噌を探しても、なかなか見つからなかったはずだ。

うちの雑煮は、えらくみすぼらしい、もとい、経済的だったようです。
新年会で、これが雑煮です、とばかりに張り切ってお客様に出してしまったのですが。
何これ、この味噌汁の出来損ない、ぐらいにしか受け取られていなかったのでしょう。

餅の食い方も色々あるようで。皆様、餅はどうやって食されますか。
うちは砂糖醤油です。しかも、餅は高いということで、正月の三箇日になってからと、あとは神社の残りモノぐらいしか食わせてもらえませんでした。

先日はKさまと飲んでいました。とても為になるお話をお伺いしたような気がします。そういえば大鳥の話をしたような記憶が全く無い。そのうち思い出すと思います…。それにしても、昆布焼酎が美味かったことと、何かを考えなければならないなと思ったことしか覚えていない。酒飲み健忘症になったのだろうか。末期症状だ。


そんな感じで飲みながら、纏めるべきこともやらずに、ひたすら偏った分野の本ばかり読んでいました。

年末から読んだ本。

「野火」大岡昇平 昭和29年4月 新潮文庫
「俘虜記」 大岡昇平 昭和42年8月 新潮文庫
「硫黄島の星条旗」ジェイムズ・ブラッドリー 文春文庫 2002年2月
「硫黄島 太平洋戦争死闘記」 R・F・ニューカム 光人社 2004年8月
「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官栗林忠道」 梯久美子 新潮社 2005年7月
「あの戦争は何だったのか」保阪正康 新潮新書 2005年7月
「名をこそ惜しめ ―硫黄島魂の記録」津本陽 文芸春秋 2005年10月
「十七歳の硫黄島」秋草鶴治 文芸春秋 2006年12月
「硫黄島戦記―玉砕の島から生還した一兵士の回想」川相昌一 2007年1月

文書名だけ羅列しても仕方がないのですが。一冊一冊、すべてチクチクとレビューしていきたい、中身の濃い本でした。

もともと、「祖父の硫黄島戦闘体験記」http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
を出張中にネットで読んでいたらどうにも抜け出せなくなってしまいました。この実録の現実感といったら、凄まじいです。

硫黄島の戦い。
アッツ、ペリリュー、サイパンなど、太平洋戦争で日本兵が玉砕した島は数あります。そのなかでも、名将栗林中将の卓越した防禦戦で持久した故に、兵が凄惨な目に遭い続けた戦いです。

本人の一兵士としての記録が本人そのままの言葉で記されているので、実在感が計り知れない。

軍に服務したことのある方の文章は、必要最小限のことを、速く正確に言う訓練を叩き込まれているせいか、非常にすらすらと頭に入ってきます。ある意味、仕事をする人間の理想的な文章だと思います。

特に太平洋戦争は、末端の一兵士、二等兵も自分の手で字を書いて記録を残しているのが凄いと思います。多くの戦争は知識階級の士官クラスでないと記録残すということができない。戊辰期は、武士階級、旗本も兵士となっているのでその記録もありますが、兵士が町人主体の伝習隊もやはり兵士の記録は無い。

それにしても、戦中の日本人の一兵卒の、語彙の豊富さ、感受性、文章力には唸らされます。我々現代人の三倍ぐらいの語彙数と、それを的確に表現する力を持っているのではないだろうか。戦後、日本語はだいぶ簡略化され、その過程で失われた語彙も多いようですが、それでかなり現代人は感性を失ったのではないかと思います。中学、小学校卒の一兵士の文章力に、自分は敵わないと思う。

十代の少年の記録には、「〜しちゃったのであります」などの言葉が出てきて、なんともいえない気持ちになります。

さて、硫黄島は、東京より南1250kmに位置する。サイパン陥落により、アメリカは日本の本土空襲がB24などにより可能になった。しかしながら主力爆撃機B29は直接の到達距離にない。硫黄島は、サイパンと本土の中継点にあり、空港がある。米軍がここを捕れば、B29による爆撃を可能にし、他の爆撃機の爆弾搭載量を増やし、不時着の戦闘機を収容できる。日本にとっては、日本国土の最前線。そうした、重要な戦略拠点だった。

そこで日本兵は、「地獄の中の地獄」、「史上最悪の戦闘」と、米国海兵隊をして言わしめた戦闘を繰り広げた。日本兵二万一千に対して、米側上陸兵は六万一千、更に補給・火力担当が二十二万が詰める。鉄量差・火力差は三千倍とも五千倍とも云われた。圧倒的な物量差、兵力差で、日本兵にとっては、初めから全く勝ち目のない戦闘だった。彼らの命題は、「何日持ちこたえるか」だった。

すでに熟練兵は消耗していた。硫黄島に配備された日本兵は、多くが十代の新兵や、徴兵された三十代以上の応召兵だった。特に、妻や幼い子供達を残してきた者が多かった。

日本兵は、飢餓と渇きと栄養失調と下痢の中で戦闘を繰り広げた。飲み水は硫黄分と塩分の濃い生暖かい水。食べるものといったら硫黄を含む水で炊くせいか紫色になった米、乾燥した南瓜、高野豆腐程度。食欲もないまま陣地構築の重労働で、皆、骨と皮と黒い垢になる。下痢が酷く、1日10回厠に駆け込むぐらいならまだ健常者と見られる。多くは痩せ細って、厠に行く気力もなく汚物にまみれる。蝿が凄まじく、真っ黒になるまで病人と健康人といわずに集る。その環境で、地底数十メートルを掘って複郭陣地を構築する重労働に明け暮れ、米兵相手に何ヶ月も持続戦を行った。陣地の壕の中は、地熱で40℃以上の気温で、硫黄ガスが噴出す。熱く、腐臭と死臭が篭る、およそ人間が生きる環境ではなかった。昼間はひたすら艦砲射撃と火炎放射に打ちのめされながらその壕に篭り、夜にゲリラとして爆弾を背負い体当りの野戦攻撃を繰り広げた。

対する米兵は、決まった時間に「出勤」し、朝も昼も夜も三食しっかり採り、もちろん水もふんだんにあり、負傷したら仲間が回収してくれて医務船で手術を受けられる条件。その敵と、上陸から1ヶ月以上戦い続けた。

彼らが何を思って、痩せさらばえ、枯れ木のようになって、骨と皮だけになって、水もなしに飢え死に乾き死にの苦しみの中で戦い続けたのか。
それは、自分達が一日持ち答えれば、その分本土への空襲が一日伸び、家族が一日生活することができる。彼らの戦いを支えたのは、その想いだった。

上の書籍の内、特に文章が脳裏に焼きついて離れないのが、「十七歳の硫黄島」です。
十七歳という、ピュアな年代のイメージとのギャップを硫黄島に被せなくても、三十歳だろうが五十四歳だろうが、この記録の持つ凄惨さはまったく変わりません。
夜中4時頃に読み終わって、そのまま眠るとどうにも魘されそうだから、その後で「おおきく振りかぶって」を通して読んで頭にフィルターをかけてから、睡眠時間を足らなくして深く眠ったのだけれども、それでも夢に出てきた。

「硫黄島の星条旗」「硫黄島からの手紙」のハリウッド二本立ての映画がリリースされてから、硫黄島は注目を浴びた分野ではないかと思います。自分は未見ですが。硫黄島に観光に行きたい、どうしたらいいか、という質問が、ツアー会社に入ってくるようになったとか。

自分はまだ未見ですが、そういう、映画の世界はまだ全然お綺麗なものだ、といわんばかりのことが、この「十七歳の硫黄島」で語られている。
「玉砕という一言で終わらせられるのには耐えられない」という著者の言葉が重過ぎました。

内容をきちんとお伝えするには、その凄惨さと切なさとやり切れなさは、もうこれは読んでいただくしかないのですが。それで終わると何も伝えられないままなので、舌足らずの極みを承知でご紹介してみます。

著者は通信兵で、爆撃で通信線が断絶し、修復不可能になってからは、自ら弾雨の中を偵察して戦況を報告するという任務に就いていた。

米軍上陸後の、最大激戦地は、島南部の摺鉢山。平坦な地形の島では最も高地である摺鉢山が、防御拠点になっていた。著者はこの陣地攻防における国旗掲揚戦を、通信兵の目で記録している。
頂上を日米兵士が奪い合い、米軍は数千の死傷者を出して、とうとう頂上を占領した。

この星条旗掲揚の瞬間を撮った従軍報道カメラマンのAP社のジョー・ローゼンタールは、ピューリッツア賞を受賞。さらにこの国旗掲揚は、この写真を基にして、米国立アーリントン墓地の正面に巨大なブロンズ像が作られたという「歴史的瞬間」になった。

しかしながら、この星条旗は、実は、翌日にはまた日の丸に変えられた。摺鉢山の頂上は、日本兵の夜襲により奪っては奪い返されの繰り返しだった。

まず、最初の摺鉢山の星条旗を見た著者。

「残念だがついに摺鉢山は奪われた。摺鉢山守備隊の皆さん、ご苦労様でした、と思うと、涙が溢れてきた。西空に移されるシルエットの旗の下の人影が、二人、一人と少なくなった」

しかしながら次の日。

「二月二十四日早朝。米軍は八時出勤だから、それまでには現状保持の状態にまでつくろっておかなくてはならない。すっかり明るくなった摺鉢山を望んだ。するとそこには星条旗ではない、まさしく日章旗が翻っていた。よくやった。日本軍は頑張っているのだ。この島のどこよりも攻撃の的になっている場所なんい。ご苦労さん、と自然に涙が出た。懸命に摺鉢山を死守している勇士がいる。故郷の人に見せてやりたい。…(略)何がなくて水があれば生きられるという。しかしその水を天が恵んでくれない。しかし死ぬわけにはいかないと、自分に暗示をかけていた。同じ境遇の人が、摺鉢山では夜を日についで眼前の敵と悲惨な激戦を展開し、ついに日の丸を掲げた。涙なくして見られぬ光景であった」

島から見渡せる摺鉢山の頂上。とうとう奪われたかと思ったら、また日の丸が海風にはためいていた。米兵は夜は攻めてこないので、夜戦は日本軍のお株だった。日本軍は健在と報じているようで、軍の士気は高まった。
けれども、この日朝の米軍の攻撃が開始されるとすぐに、摺鉢山の頂上は奪い返された。再び、頂上に星条旗が翻った。
もはや摺鉢山の守備隊は全滅したかと思われた。

二十四日が暮れた。
次の日の朝。摺鉢山には、再び、日の丸があった。

「二十五日早朝。摺鉢山にはまたもや日の丸の旗が朝日を浴びて泳いでいた。まぶしいほど綺麗な懐かしい旗だ。これは、いまだ頑張っている守備隊員がいるあかしである。あれほどの攻撃を受けたのに、よく頑張っているな。しばらく見入っていた。あの旗はどこにあったのだろう。不思議な思いだ。それに、あの旗は昨日とは違う。昨日の日章旗より、少し小さい四角だ。もしかするt、急遽作製した血染めの日章旗かもしれない。日の丸が茶色く見える。影を見ると泣いていた。拝む思いで眺めていた」

この日の日章旗は、昨日と異なり、日が上がってから二時間以上も頂上にはためいていた。そして米戦車群の攻撃が始まり、日章旗が抜き取られた。

「あの日の丸は、最後の鮮血としか考えられない」

二月二十六日朝、摺鉢山に日の丸はなかった。星条旗が、夜を徹して立っていた。


もうこの章は、滂沱の涙無しでは読めませんでした。
旗を、日の丸を、「まぶしいほど綺麗で懐かしい」と感じる想い。拝む思いで眺める。国を故郷を守る戦いが、一箇所の丘を巡る戦いに集約されている。こんなに純粋に国のことを思った人たちがいたのかと愕然とする思いでした。

国を守ると言うのは、国に生きる人を守るということ。故郷を守るということ。 その思いが国旗に込められ、それを果たそうとする者、果たせず死に行くもの者たちの思いの壮絶さが、鮮血の日の丸として、脳裏に焼きつきました。


その後、著者の居た送信所は破壊され、著者は火炎放射器で焼かれ、さらに砲撃の中で負傷します。

「言語につくせぬ火炎放射を全身に浴びせられ、癒す間もなく、次の任務のために征途についた。俺のどこにこの潜在的原動力があるのか不思議に思えた。自分を疑いながらも同時に、こんなところで死んでたまるかという根性が蘇生していた。影、待っていろよ、と心で叫びながら進んだ。髪は焼け焦げ、腕は腫れ上がり、衣服も借り物だ。あらゆる部位が麻痺している。けれど誰もが同じ状況下にある。五体満足なヤツなんか独りもいないんだ、と自分を叱る」

「影」というのは、著者秋草氏とずっと共にいた親友です。
火炎放射器の炎を全身に浴び、砲撃で吹っ飛ばされた。腕はあるがその先の指がない。

そして負傷兵として壕に入り、ドラム缶の上に転がされる。汚泥と排泄物と死臭の強烈な臭気の篭った中で、飲まず食わずに過ごす。
この壕の中の水不足、食糧不足の描写が、苦しくて仕方がない。他の重傷の血を吸って渇きを癒した兵士までが描写されている。

日時感覚もなく、昼夜の区別も就かない。
その後、米軍から毒ガス攻めに遭う。小指ほどの見張り穴に唇を押し当てて空気を求める。
水攻めに遭う。死体や排泄物が混ざって壕の中は肥溜めのようになる。
そして、火攻め。流し込まれた水にガソリンが注入され、手榴弾など火種が放り込まれる。水面に気化したガソリンは一瞬で引火爆発。阿鼻叫喚。

「彼らの顔や手、胸、腹など衣服のないところは上部の皮膚を少し残すのみで、ほとんどの皮膚が剥けて下方にぶら下がった。それが身体の上半身を取り巻いている。その火の海を望む場所から『お国のためだ、静かにしろっていうのがわからねえか』と覆いかぶさる者がいる。『わからねえっ、この痛さに黙っていられるか』と応酬があった後、お国のためだ、静かにしてやるよ、と言うが早いが銃声が響いた」

さらに、意識が混濁し朦朧とする中で、著者は壕の中をさ迷う。霊安室(という名の屍体置き場)に来る。

「足元にあるのはかつて人の体だったものであろう。足が触れると、腐った甘藷や南瓜を踏んだときのような感触が伝わってくる。中心の骨だけが固く、まわりのものはズルッと削げて骨が裸になる。俺の足を捉えて踏み越させない。とうていまともに歩けない。もう歩く元気もない。燐が飛び出すのをかろうじてへばりついた肉片が抑えているような死体があった。その泥んこのような肉片がずり落ちたら、物凄い数の燐が噴出しそうだとわかる。いつのまにか俺の方や指先からも、水芸のように、青白い燐が光っては消えている。肩から発する燐は、首筋を渡って頬や耳を掠めていく。このままではいけない。完全に虜になってしまう。今が正念場だ。冷静になろうと目を瞑った」

もはや生きているのか死んでいるのかすらもわからないような状態で、霊に引き込まれそうになる。

もうひとりの親友の熊倉。せっかく生き残ったのに、捕虜になる事を拒否して、手榴弾で散華した。二十歳だった。

「『また一人 我を知る人 失せにけり 飢えたるこの身 ひとり残して』
これを何かに残して辞世としようか。やめよう。故郷の誰にも伝える事のできない辞世というのは、ひどく空しい」


あまりに凄惨で、遺すこともできない辞世の句。

そうした中、いよいよ飢えと乾きは壮絶になる。夢遊病者のように食べ物を求めてうろうろする。
自分の傷口に沸いた蚤や虱、蛆を「俺を生かした唯一の食べ物だ」として食う。
ドラム缶を見つけては、中の液体を飲もうとする。重油、ガソリンまで口にして、悶え苦しむ。
米兵の残したサイダーの瓶を見つけて口にする。五臓六腑に沁みた。

炭を見つけた。時間が経つと炭は灰になる。「炭で残るのもまた希少価値なのだ」として、口にしようとする。

「大丈夫だ。焼き芋でも食べているつもりで食べた。味や栄養など関係ない。からだの入り口から出口まで、その通り道が癒着しないよう通らせるだけで十分だ。好きで食べるんじゃない。人間を離れて、畜生界に列する洗礼みたいなもんだ」

著者は、炭の元になった有機物が何なのかには触れていないけれども、それがかつては仲間だったものだったのだろうということは察してあまりある。

秋草氏は、この後、栄養失調と酸欠で意識をなくし、米兵の犬に見つけられて搬送され、捕虜となった。
その際、夢を見ているが、これがどうみても臨死体験にしか見えない。


当時の日本の普通の若者、普通の親父だった彼らが、戦いの中で、皆考えていたのは、本土の家族のこと。
日本を守る、イコール、家族を守る。
自分達が地獄としか言いようのない地で、飢えと乾きと疫病の中で、自分達が修羅道と餓鬼道と畜生道の坩堝の中で、戦い続けたのは、それが本土の家族を守る事だと信じていたため。

そういう彼らに守ってもらった国に、今、自分達は安穏と住んでいる。
彼らが鬼神をも慟哭させる戦いを繰り広げてくれたからこそ、今、アメリカでもなく、中国でもなく、日本という主権ある国体のもとで、日本の文化と精神性のもとに、我々が生活できている。

実際は、彼らの思いも空しく、本土空襲は彼らが死闘を繰り広げている最中から始まった。しかも痛恨である事に、硫黄島や沖縄決戦の米国の被害の大きさが、長崎と広島の原爆投下への意思決定を促した。

一方で、ポツダム宣言に於いて、国としては無条件ではなく「有条件」の降伏用件を引き出した。

「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州、四国、及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(第8条)
「日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ(略)日本国ハ、将来、世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ」(第11条)
「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」(第12条)

これは、日本が主権を有する国体を維持した上での降伏、という「条件」付けたものだ。
これらは、無条件降伏ではとても日本の降伏を促せず、日本軍の戦闘の凄まじさにより、戦闘継続の被害を憂えたものから付け加えられた。つまりは、南方、沖縄、硫黄島などにおける彼らの死闘が、日本が日本としてあることを可能にしたという論がある。些かこじつけだという気もしないでもないが、私はそれを支持したい。

こういうのを見ていると、どうもつらつら、今の自分、今の国について考えなければいけないような気になってしまう。

他国の人と一緒に仕事をするたびに、自分は自分が日本人であってよかったと思う。日本円の通過の強さとか、援助を供与できる立場とか、勤勉さとか、日本人としての仕事の品質の評価のされ方とか、顧客満足の求め方とか、安全衛生のレベルとか、あらゆる面で、日本人の一員であってよかったと思う。そのせいでえらくしんどい思いをすることはあるけれども。日本という枠組みにあってよかったと思う。

国という枠があって、その枠のなかにたくさんの富がある国と、そうでない国がある。
枠があり、その枠の礎となった人がいるから、枠の中で、世界の平均以上の生活を営める。

世界の7割は字が読めず、5割は栄養失調で、3割は電気がなく、世界の1%だけが大学教育を受けることができて、同じく1%だけがコンピュータを所持している…というような話は誰もが聞いたことがあるかと思う。(数字は"IEA World Energy Factbook 2006" と「もし世界が100人の村だったら」より)

たまたま、自分は彼らが守った日本に生まれることが出来たから、教育を受けられて、字を読め、仕事を得られて、パソコンを触れられて、他人を不当に踏みつける必要もなく、生きるのに苦しまなくともすむ、それなりの生活を送ることが出来る。それは、別に自分が特別な苦労や努力を経て能力があったからではない。単にたまたま日本に生まれたのが幸運だっただけだ。たとえば自分が他のアジアの国に生まれていたら、今の半分の消費生活を送ろうとしても、無理だっただろうと思う。自分の才覚では、ミャンマーに生まれていたら電気のない村から一生出ることはなかっただろうし、北朝鮮に生まれていたら飢え死にしていただろう。

先人が守り作ってきた日本に生まれたから、今の自分がある。
故郷と故郷の人々を守りたいという一心を徹された方々によって、守られた地で生まれ育った、という事実は、何を持ってしても変えることはできない。

特攻隊で逝かれた方の整備士をしていた祖父を持つ人が云っていた。特攻隊の方の出征の際の言葉。「国のため故郷のために喜んで若い命を散らせる者が居る、その事実は、たとえ国が今戦争に敗れても、千年、五千年後も日本人が日本人として生きる誇りになる」

彼らが無駄死にだったなどと言うこと自体が、彼らの死を無駄にしている、とてつもなく恥知らずで恩知らずなことだと思った。
軍部の暴走や大本営の作戦をあげつらって、だから日本は悪いのだと結論付けても、今更、なんら示唆されるものは無い。

当たり前だが、戦争には相手が要る。自分が攻めるか、相手が攻めてくるかでないと、戦争にはなりようがない。
しかしながら、戦後の平和主義は、「自分が攻める」ということだけを拒否するのに一生懸命だ。「相手が攻めてくる」ということには全然思い至っていないように思う。

自分が攻めなければ相手は攻めてこないとでもいうのか。誰もそんなことは保障できないだろう。

今の日本に「自分たちから他国を侵略しよう」などという思想がどこにあるのだろうか。すでに灰になって消え去った考えが、さも未だに蔓延っているかのように見せかけて、最も大事な事項から目を逸らそうとしている何かの恣意があるようにしか思えない。

今本当に必要なのは、「どうすれば相手から攻められないですむか」という思考と、方策の具体的実現ではないかと思う。

「あの国を攻めても絶対に勝てない。こちらが不利益と被害を蒙るだけだ」ということを、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどのほうぼうの国々に思わせること。それをどう実現させるかが、目の前の課題ではないかと思う。それに比べれば、防衛省の汚職だとか、企業の不祥事だとか、正直、どうでもいい問題のように思える。

お隣の現状については、見るべきことがありすぎる。

まず中国。自分の国のメディアが不当に日本の漫画アニメを安く買い叩いて輸入し、著作権を無視して繰り返し放映した。そして中国自身の若者たちが自ら選びとって普及していったサブカルチャーを、他国(日本)からの不当なダンピングによる文化侵略であるなどと断定。そして毎年二桁パーセンテージで軍事拡張をしている。

それから韓国。次代の子を賢く育てるはずの我国のおばさんたちは、韓流と浮かれて当地からの輸入ドラマに現をぬかしていたが、当の韓国の軍事の仮想敵国はわが国で、そのミサイルの標準は自分たちの頭の上だ。また、車、電化製品をはじめとした日本の収入源は、そのお株を安くて手軽な韓国製品にどんどん奪われ始めている。

ロシア。資源のない我が日本の、次世代の資源確保突破口だったはずのサハリン-2は、1兆円近い投資をわが国民間会社が行ったにも関わらず、環境問題を槍玉に挙げて、ロシア国営会社であるガスプロムがプロジェクトの権益を政治的に奪っていった。

そんな中で「平和主義」を口ずさまれると、一体、誰にとっての平和を言っているのだろうかと、怖くなる。
世界にとっての平和、というのはよく口にされるけれども。たとえば日本と韓国と中国と北朝鮮の富を、人口で平等に配分するとどうなるのか、それを日本人だれもが望むのだろうかと、少し想像力を働かせると、いかにも世界平和というのは実現不可能な偽善のように思える。富の偏りがそもそもの戦争の原因である限り、日本人が世界の平均よりも豊かな生活をしているというだけで、本質的に、それは平和への裏切りだ。

平和という言葉が好きな日本人にも、自分の生活レベルを落としてインフラとエネルギーを放棄してまで平和を求める姿を具現している人は、いない。

完全な無抵抗主義は、もう一つの手段だろうとは思うけれども、自分と自分の大事な人の財産も命も生活も奪われて、飢えようが殺されようが拷問されようが強姦されようが、何が何でも無抵抗を徹するという、非人道的なすさまじい覚悟を、国全員が持たねばならなくなる。

その覚悟がないのなら、武力放棄は、自分が善人でありたいという善意に基づいた思考停止にすぎない。憲法問題にしても、北朝鮮の脅威に対する方法が、「アメリカさんお出で下さい」と頼むしかない。それで平和を標榜するのは、彼らが死ぬ思いで死にながら守った主権のある国としては、お粗末な他力本願ではないか。平和、平和と口だけで言って、いいことをしたという気に浸っているのでは、日本を守るために戦い亡くなった方々に示しがつかない。

そうすると、一見、憲法九条と自衛隊問題に帰結する。それに対して意見を持つのは重要なことだけれども、意見を出して終わるのもまた、ともすれば、国の政治家への責任転嫁という、一つの思考停止の形になってしまいかねないと思う。

平和は、それを願うと口で言えば自動的に叶うものでは決してない。誰もが真剣に知恵と金と労力を投入して、はじめて得られるものではないかと思う。日本が60年戦争をせずにすんできたのは、闘った彼らの遺産だ。そして、周辺国を見る限り、これからの60年の平和のために、苦労しなければならないのは自分たちの世代だ。

軍事以外でも、我々が日々の仕事のなかでやることはたくさんある。一人一人の行いとして、「日本は侮れない」と周囲に思わせることの積み重ねが大事なのではないかと思う。専門性なり、子育てなり、勤勉さなり、丁寧さなり、意欲なり、マニアックさなりで、「日本人は違うぞ」というメッセージを、それぞれが自分にできる形で自分なりに発して、行動していくことが大事なのではないかと思う。

考え及ぶ限りの地獄を見ながら日本を守ろうとした方々に報いるのは、生半可なことではないけれども、せめて、彼らが守ったものを次世代に継承できるように、賢く強くありたいと思う。

そして、彼らの想いに、ほんの少しでも報いようとする確実な方法があるなら。
自分の周りの人を幸せにすること。
これに尽きるのではないかと思う。

…というあたりを新年に際して考えたこととして、纏めたかったのだけれども。
ぜんぜん考えが収束しませんでした。飲んでいるのが悪いのですが。
こういう話は、夏のほうが良いのかもしれません。

さて、荷造りをせねば。
美味い日本食とも、またしばらくの間おさらばです。
posted by 入潮 at 03:09| Comment(2) | TrackBack(1) | 太平洋戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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