2008年03月02日

早稲田大学図書館の大鳥報告書図面

早稲田大学古典籍データベース。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/index.html

思わず、キーボードに頭突きしそうになりました。

早稲田大学所蔵の30万点の古典籍。

在ることはわかっていたのですが、一般にはオープンではない、つれない大学図書館。卒業生か研究者か大学生ならアクセスで可能ですが、一介のオタクには手が届かない。卒業生の同僚に何人も校友会に入っていないか当たりながら、そのままになっていました。が。

貴重史料の公開+ダウンロードが、可能になっているではありませんか。

いつの間に。

慶応大のGoogle図書館プロジェクトとの連携に気を取られて、すっかり気付いていませんでした。

この早稲田の古典籍総合データベースは、5カ年計画で資料を入力中。現在半ばまできているようですが、現時点でもかなりの数が公開されています。
大隈重信が所蔵していた遺品も寄贈されています。それらが含まれ、膨大な政治行政関連の明治史料が所蔵されています。

大鳥関係では、現在のところ、以下が参照できます。

・大鳥→大隈書簡(大隈重信書簡集に収録されたものの原本かと)

・築城典刑 巻一〜巻五

・ポロナイ石炭山報告書

・信・越・羽三州石油其他物産巡歴報告書

・武蔵国及東京古今沿革図 (図のみで図説はない模様)

・地殻図説 (佐藤政養訳、大鳥が序文を書いている)

ほか、開拓使の貴重文書もあります。黒田清隆の「北海道諸工場・牧場等払下ニ関スル建言書」や榎本武揚の「 北海道石炭ニ関スル報告書」など。
勿論大隈さんが受け取った書簡のナマ画像も豊富。榎本さん、筆跡が安定していて、雄渾な字です。

すべて、PDFでDL可能。こ、この太っ腹。
築城典刑まで五巻全ダウンロード可能とは…。撮影の許されている北の大地の図書館まで赴いて、1日がかりでデジカメの電池を何十本も消耗しながら、原本を痛めないように撮った苦労は何だったのかと、思わず恨んでしまいました。

もう、しばらく夜は眠れません。


● ポロナイ石炭山報告書

上のうち、ポロナイ石炭山報告書。

幌内炭鉱は、榎本とライマンが発見し調査を行ない、事業化調査を大鳥が行った。さらに山内堤雲が煤田開採事務係事務長として開発実務に携わり、黒田が国家的開発を承認させたという、箱館戦争ファンにも見所の多い炭鉱です。(箱館戦争は、ある意味、明治の国づくりの人材供給のポンプだったのではなかろうか)
幌内炭鉱は、明治大正昭和の日本の殖産興業を支えた資源供給のひとつです。

大鳥がこの報告書を書いたのが明治8年5月。もう工部省に移っているはずの貴方。暹羅から帰ってきたばかりで激務にありながら、開拓使の仕事も継続している貴方。どの国にもある悪弊・省庁縦割りの原則を、軽やかに無視しまくっている貴方。

この報告書を片手に、ライマンや大鳥の歩んだであろうルートを、Hさんと共に、しかもHさんに全て運転までしていただいて、幌向川→幾春別川→幌内町→旭川→層雲峡→ライマンの滝→ケプロン川→層雲峡温泉・大雪ダム→荒井川(天幕沢川)→石狩川→大鳥川と、萌えながら辿ったのは、とても濃く良い思い出です。

さて、この報告書、四、五枚の短いものです。事業化といっても、現在の事業家がやるような経済財務などの詳細な分析などはしていない視察結果報告というものですが、採鉱口の場所や運搬方法なども検討し、採掘の工事や後の運営について、そして周辺の石炭鉱山を含んだ開発計画まで、示唆を与えています。石狩川は測量まで行かなくても相当詳細に地形を記録しています。簡明にして情報量の多い報告書です。

写本が数種類あるようです。事業化調査ですので、政府内の承認を受けるのに何部あっても足らないと思います。恐らく早稲田のものは、開拓使のだれかが写本したものかと思います。また、石炭の見本表がありますが、この見本表のほうは、大鳥の筆跡に似ているので、大鳥の自筆かもしれない。

今まで持っていた写しは、「付属の図六枚あり」とあったのですが、図はついてませんでした。「是劣生等の昨明治七年秋巡歴せし地形の大概なり」ということで、どこかにあればいいなぁ、ぐらいに思ってたのですが。

この早稲田大所蔵版に、図がついていました。

「石狩州夕張郡イクシベツ本流本流石炭番号表 牧野数江 写」とあります。几帳面そうな字です。
(イクシベツのほか、イチキシリ、ヌツハラマナイ(?)、ホロナイについての各図あり)。他、石炭山見取り図も。

図の写しの作成者。牧野数江。

なんと、牧野主計ではありませんか。

草風隊の参謀として、伝習隊脱走後4月15日に、諸川で御料兵とともに大鳥に合流した方です。
宇都宮、北関東と伝習隊と共に伝習隊と共に戦闘を繰り返し、その後会津で戦い、檜原ではボロボロになって流離ってきた大鳥に馬を貸してくれています。その後、大鳥に従って函館に。
箱館では陸軍奉行添役として、大鳥の寒中雪中の松前・江差巡行に同行していました。

丸毛利恒と仲がよく、丸毛の「感旧私史」でもよく名前が出てきます。戦闘を見ながら八幡山で宴会やったり、青森の謹慎で収監されたのが同じ部屋だったり。
1883年で数え53歳で没、ということは、箱館では数少ない、大鳥よりも年長者です。

こちらでも、獄中日記の注釈での丸毛による紹介を少し挙げましたが。「箱館戦争銘々伝」で
人物紹介がされていました。

「かなよみ」という明治10年7月26日の新聞で、「開拓使お雇画工」の牧野氏が内国勧業博覧会に出品したということで紹介されているそうです。

「戊辰の役には大鳥圭介君の参謀と成って、随分強い方で、書は(石井)潭香の高弟で、何一つできないことのない器用なお人であるそうです」

大鳥の参謀として紹介されています。
大鳥の参謀といえば柿沢勇記ですが。彼の亡きあと、特に函館で、大鳥を助力していたものではないかと思います。

ちなみに、出品は、北見の牡熊と千島の神鷲の精密な画だったとのこと。

牧野さん、開拓使の官員録に名前が無いなぁと思っていたのですが。画工という位置づけでの、非常勤の雇用だったようです。
牧野さんのように能力のある方だと、政府は放っておかないのではないかと思うのですが。やはり最初は、薩長政府になど仕えられるかと意地を張り出仕を拒んでいたのでしょうか。
そして、かつては三千石の旗本も、食っていくために役人に雇われになったのか、と言ってしまうと切ないですが。

絵画という特殊技能と機用さがあったからこそ、こうした形で国家事業の実務者として活躍したと言えます。

図工というと、今で言うCADやGISのオペレータという感じでしょうか。技能職です。無論、コピー機の無い時代、図写ができるというだけで貴重な特殊技能だったでしょう、

その牧野さんが、大鳥の調査の図面を、写しとはいえ、描いていた、ということは、なにやら感慨があります。
技術者にとって、報告書の内容を示す図面は、何より大事です。 報告書は他人に理解させるためのものであり、文だけでは説明しきれない。図面なしに報告書はありえない。その大切な仕事を牧野君が担当した。

明治八年一月というと大鳥はすでに開拓使を去っていますので、たまたま開拓使から提出用の報告書の写しを作れと牧野さんが命じられただけ、というのもあるかもしれませんが。

一方、牧野さんが、大鳥の幌内調査に同行していた、ともあります。この当たり、関連論文があるようなので、もう少し調べてみたいと思います。

それにしても牧野さん、箱館戦争中は、大鳥の馬が氷を踏み抜いて動けなくなるような極寒サバイバル巡視に同行し、また明治になって北海道の原野山中の徘徊に付き合わされたとは。

人間離れした健脚持ち、道なき道も崖も何のそのな地質調査を敢行、60歳になっても万里の長城を踏破してお付きの書記官たちをほとほと参らせた大鳥に付いていくのは、かなり物好きなのではないかと思います。
開拓使の仕事だからしょうがなかったのかもしれませんが。

そもそも開拓使の雇用も、大鳥の伝という可能性も少なくないかと。牧野さんが雇用されたのは明治7年5月とのこと。大鳥の帰国が同年3月末で、開拓使専任になったのは5月4日なので、時期的にもぴったりです。それで「何一つできないことのない器用なお人」なのですから、大鳥も牧野さんが居てくれて、相当有難かったことでしょう。

そんな感じで、想像すると色々楽しいです。

なお、牧野さんは、その後ライマンの製図補助を行ったり、動植物の写生を作ったり、開拓使が製造した鮭缶詰のラベルを作成したりしていたと、前掲書にはあります。
明治16年に世を去ったのは、返す返す、惜しまれます。


● 信越羽三州石油其他物産巡歴報告書

信越地方をつぶさに足で歩いた大鳥による、産業調査報告です。特に石油については、産油の兆候のある地について丹念に調べ、地質調査を行っています。この地質調査は、ライマン弟子で山内堤雲の弟の徳三郎の力が大きい。当時日本の地方産業の実態としても、日本の石油開発黎明期としても、好資料です。

工業化学雑誌第八編第八十三号(明治38年)に掲載されていたものがあり、あと小田原文書にも恐らくオリジナルが含まれていたのですが。大隈さんにも提出されていたのが、保管されていました。

そして、こちらにも図面が付けられていました。

長野県の真光寺の油井と蒸留場、越後蒲原郡柄目木村の沸壷図、長野県営の、米国製器械を用いた油井掘削の図、鳥海山麓の鹿又川辺の油田図、それから越後信濃の旧来法による油井掘削図、さらに越後目木村の地中から出るガスを収集して燃やし油を蒸留させる図、そして信濃善光寺の石油会社(石坂周三か?)蒸留釜の図。

その後、地図が10数枚添付されています。
地図のほうは筆跡も違うし、図法が江戸時代のものと変わらないので、上の図面とは別人の手によると思うのですが。

上の図面集。たぶんおそらく、大鳥の画ではないかと思うのですが…。

水墨画の技法と製図図面の正確さが合わさって、大変見ごたえがあります。
水墨画風の風景画だけだとそのまま見過ごすのですが。器具や櫓、人夫の働く様子を描いている図面が、どうも、石炭編、石油編の挿絵と共通するものがある。
働く人間を眺め、「どのように」「どうやっている」かを伝えようとする視点が同じであるように感じます。機能を持たせた絵というべきか。図画されたものがどのような機構、役割を持っているか理解していないと描けない絵図です。
専門書、技術書の挿絵などでよく目にする感覚のある図です。こういう絵が描けるというのも、そうとうな特殊技能だと思います。


ずっと前から疑問に思っていたけれども、確証が取れなかったことが一つあります。

…大鳥、実は、絵のスキルが相当高かったのではないかと。

ある古物商に大鳥の描いた絵が売られていたけれども、店主には額だけに価値を見出していて、肝心の絵が油で流されてしまった、とかいう逸話もありましたが。

この報告書の図面を目にして、その感が確信に近くなりました。

もし何か、「いや、違うんじゃないか」とか「ほかにこういうのもある」といったものがありましたら、どうかご教示ください。
結局、他力本願で、すみません。


それにしても、ポロナイといい信越羽といい、こうした報告書が、自宅にいながらにして画面でまじまじと、拡大して視るということが可能ということに、今のWeb時代の恩恵の素晴らしさを思い知ります。

そして、これほど価値のあるものを、フェアユースの精神で公開してくださった早稲田大学図書館の寛容さに、大感謝なのです。

あぁ、良い時代に生まれた。
おかげで睡眠時間が減ってどうしようもありません。
posted by 入潮 at 18:35| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月08日

大鳥圭介フォーラム

大鳥圭介フォーラム。
今月末、3月30日日曜日に、上郡町さんが開催してくださいます。

上郡町ホームページ
http://www.town.kamigori.hyogo.jp/

こちらの「新着情報」→「大鳥圭介公を語るフォーラム」に、詳細が掲載されています。

2011年が没後100年に当たるのを節目として、それに先立ち大鳥圭介の魅力と功績について周知していくことが目的とのことです。
大鳥圭介を「郷土の誇る偉人」と位置づけて下さっています。

4月に大鳥圭介の伝記を出版される方が基調講演をされ、「われ徒死せず」「大鳥圭介の英米産業視察日記」の福本龍先生、地元の校長先生や生家保存活動をされている方がパネリストとしてディスカッションされる予定とのことです。
また、フォーラム終了後、希望者の方には生家見学も催してくださるようです。

先日の神戸新聞の生家の件も、嬉しいことでした。こんなに良いニュースが続いていいのだろうかと思います。やはり地元という推進拠点があるかどうか、行政側の方針があるかどうかは、とても重要な事だと思います。

「おらが村」さんや生家保存会の方々の継続した熱意が行政の方々を動かされたのだと思います。地元小学校の校長先生も、書簡の編纂や講演など地道な活動を続けてくださっていました。そして、それに答えて下さり動きを起こしてくださった上郡町役場さん。いちファンとして大感謝です。

場所は上郡中学校の体育館。千種川改修工事に伴って取り壊される予定とのことで、その意味でも地元の方にとっては思い出深い催しになるのではないかと思います。

春の訪れのよい季節。上郡、特に大鳥生家の辺り、自然豊かでゆったりとしたよい地です。関西方面の方は、この機会に足を運ばれてはいかがでしょうか。この光景を、小さな大鳥も眺めたのかと、千種川の流れに思いを馳せるのもまた一興かと思います。

今後も、上郡町さんが、「さわやかに歴史と未来の出逢うまち」に含まる「歴史」に、赤松円心に大鳥圭介も加わって、故郷の偉人として推進し続けてくださることを期待したいです。
posted by 入潮 at 23:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月11日

ボケの真髄

土曜日に、幕末ファンのTさんと飲んでいました。
Tさんは、関西ご出身で、最近仕事で東京に移られた方です。
画力の高さもさることながら、我が身を犠牲にすることもいとわぬエンターテイメント魂に、いつも惚れ惚れさせられてしまう方です。

場所はTさんが見つけてくださった薩摩地鶏の店。
「薩摩に飼われた鳥を食いにいこう」と盛り上がりました

それで、西と東の文化の違いについての話になりました。

自分がボケたのに、突っ込んでくれなくて寂しい。それどころか、周囲から、空気を読めない発言をしてしまったようなような目で見られてしまう。
そうしたことは、西から東へ移住した方なら、誰もに経験があることかと思います。

それは、価値観が、西と東で違うということによるかと思います。
西と東では、何を以ってしてスマート、クレバーとするかの、美学が違う。

関西では、相手に笑ってもらうことに、最も大きな価値を置きます。
一方、関東では、相手に、格好いいと思ってもらうことに価値があるように思います。
異論もあるかもしれませんが、自分はそう感じています。

以下、手前のルーツが関西なので、関西人寄りの表記になってしまうことはお許し下さい。

「笑ってもらう」ということは、結構生半可な事ではありません。
嫌味に思われない。謙り相手を上に置く。その上で、自分が分かっていない、阿呆だった、愚かだった、先が見えていなかった、という短いストーリーを、瞬時に組み立てることが必要になります。
それには、すさまじい頭の回転を必要とします。これが天然自然のままにできる方というのは、それだけで相当な才覚であると思います。

西の方は、この呼吸を分かってくれます。
阿呆、愚か者を振舞ったボケの方に対し、「この阿呆、愚か者」と鉄槌のごとき合いの手を入れます。言うまでもなくこれがツッコミです。このツッコミが容赦なくリアクションが大きいほど、ボケへの報酬が大きいことになります。

この場合、人間関係的には、一見、ツッコミのほうが上に見えます。しかし、実は、ボケのほうが頭を絞っただけ価値は大きいのです。素晴らしいボケに対しては、ツッコミはボケを心の中で尊敬します。ツッコミがボケを凌駕できるのは、ツッコミながら、最初のボケの更に上を行くボケをかますことができた時のみです。

西の方は、このボケへの尊敬の念を、本質的に持っていると思います。
「格好悪い」ということをあえて振舞えることこそが、真の格好良さであると、認められるのです。

ただ、口に出しては、ボケを賞賛したりはしません。ボケのエンターテイメント性が大きければ大きいほど、ツッコミもまた激しいリアクションになります。そしてボケに対して、「コイツはマブダチや」という信頼を深めるのです。こうして生まれる絆が、ボケに対する報酬と言えるでしょう。だから、ボケは、際限なくボケという精神的重労働を行うことができるのです。

どつきあうほど仲が良い、という現象も、こうしたことより生まれます。

一方、自分の経験上ですが、東の方には、この機微が通用しないことが多いです。
ボケの「格好悪さ」が、そのまま格好悪いことになる。あるいは、場をわきまえない単なる「やかましさ」「下品さ」に捉えられてしまうこともあります。

繰り返しになりますが、ボケは頭を使います。いかに相手を立て、相手を笑わせるか。そこにあるのは、奉仕に似た無償の愛です。

それだけに、空振った時のダメージは大きいです。
反応が止まって冷ややかな目で見られたりすると、心の何かが乾き風化します。「アナタそれだから駄目なのよ。私だったらね…」と上から目線プラス自分語りなご示唆を頂いてしまうと、なんだかもう再起不能になる気分です。

これは東の方に苦情を申しているのでは決してなく、単に文化の違いです。西東に上下はありません。
むしろ、その場の雰囲気や文化を解さずに、やかましい、下品だ、愚かだ、と取られてしまうような言動をするほうが悪いのです。それは、自分がTPOをわきまえていないということになりますので。

自分なども何度周りを白けさせて、居住まいの悪い思いをしたことか。
このあたりの難しさに密かに涙するボケ関西人は、多いのです。

逆に、東の子供が西の小学校などに転校したりすると、「スカしている」「自慢しぃ」などの点で仲間を作りそこね、悪くするといじめにまで発展してしまうという悲しい例も見られます。
これも、そうした東西文化の違いから生じるものかと思います。であれど、子弟が多数派を傘にきていじめに及ぶようなことは、西の人間は大いに正さねばならない点であると思います。


一方、東の方にも、西のボケに対して、思わぬ方向から非常に洗練されたリアクションをしてくださる方もいます。

自分は洗練されていないので、咄嗟にあまりいい例が思い浮かばないのですが。
その感覚は、まさに「粋」という言葉に尽くされるかと思います。「粋と無粋」「粋と野暮」の粋です。

そういうときは、恐れ入った!という思いになり、相手に尊敬の念が沸きます。

有名な榎本武揚の逸話。
彼が晩年に風雲野鶴を友とし愛した向島の百花園にて。
「朧夜や 誰れを主の隅田川」の永機の句碑があるのを見た榎本が。

「隅田川誰れをあるじと言問はば、鍋焼きうどんおでん燗酒」

と短冊に書いて「どうだうまいだろう」と園主に渡して大笑いした、という洒落っ気にも感じるものですが。

(しかも隅田川には、 在原業平の「名にしおはばいざ事とはむ宮こどりわが思ふ人はありやなしやと」の歌にちなんだ言問橋がかかっていますが、その言問橋はまさに榎本が風流を過ごした向島に架ってたりする。この洒落者めぇ、という感じです)

西のボケが一方的に自分を貶める傾向があるのに対し、東の人の洒落には、相手や周囲、文化や慣習を茶化したところがありますが。それを決して嫌味に感じさせないのが、粋というものでしょう。

榎本武揚は東の「粋」、大鳥圭介は西の「ボケとツッコミ」の、東西のそれぞれの文化を極めた人たちではないかと思います

手紙や漢詩など、彼らの手によるものを眺めていると、そういう感じがします。

たとえば、獄中からの家族への手紙。榎本については特に、「榎本武揚未公開書簡集」に収録されているように、姉や母、兄への手紙が遺されています。

(出版により公開されたら未公開とは言わないのではないのか。…と突っ込むのはきっと無粋です)

化学については。
「殊にセーミ学は未だ日本国中に小生にならぶ者これなくと高慢乍ら存じ居り候、大鳥生、荒井氏抔にも教授いたし居り彼らは既に余程上達いたし申し候」

化学は自分が日本に並ぶ者はないと高慢とは知りながら思っています。大鳥さん、荒井さんにも教えてあげて、彼らは余程上達しました、と。

その後で、福沢諭吉に差し入れさせた化学書に対して。

「福沢子よりの書は同人方へ御差戻下さるべく候。右書は福沢くらいの学者のほんやくする書にして、少子抔の筆を労する迄のものには無之候、乍去同人事無遠慮種々申聞候事、こうまんちきとて一同大笑いたし候へども、正直なる人物と相見へ候」

福沢さんからの書は、お返しください。あれは福沢ぐらいの学者が翻訳する書で、自分などが筆を労するまでのものではありません。であるのに彼が遠慮なく言ってくることは高慢ちきだと、一同で大笑いしました。正直な人物なのでしょう。

どうでしょう、このチャーミングさ。
無機化学、金属化学については、知識・経験・実績ともにいちおう当代きっての大鳥に、教えてあげたという高慢さを以って、一流著名な西洋知識導入者の福沢の高慢さを笑う。あげつらうのは目下の人間ではなく名の知れた大家。

ツッコミどころが多すぎるのに、本人は、それをあえてわかってやっているところが洒落で、粋だなぁ、と思うのです。

そして、獄中にいてもなお、楽しくやっている様を見せて安心させようとしている心が伝わってきます。

一方、大鳥。以前にも触れたことがありますが。母親への手紙。

「一昨年春より昨年夏迄の間、山を攀じ河を渡り、千辛萬苦、大小戦争都合二十七八度、大小砲の弾丸の中に在て軍勢を指揮いたし候え共、運命強く一度も疵を受け不申候 (略)

只今の処は、たとへ小生、今暫時閉蟄致居候ども、強て心配は無之候。多分、来五月中迄には御免に可相成候間御免に相成候得ば又如何様にも可致工夫有之、猶又一花咲かせ可申見込に御座候。母上様其外各様へ御心配をかけ候段はいかにも恐入候へ共、英名を海内に流し外国迄も大鳥といふ名を響かせ候は、又可妙の義に御座候。後の世迄も名を残し候も、不容易の義と存知候」

一昨年春から去年の夏まで、山をよじ登り、川を渡り、千の辛さ、万の苦しさ。戦闘は大小27,8回もあり、大砲小銃の弾丸の中で軍勢を指揮しましたが、運命が強く、一度も怪我をしたことはありませんでした。
今は牢屋に掘り込まれていても、心配はいりません。おそらく次の五月には釈放になって、あとは如何様にでもなります。工夫次第でまた一花咲かせることもできるでしょう。ご心配をかけたのはいかにも申し訳ないですが、また大鳥の英名を、国内、国外にまでも響かせてみせ、後世まで名前を残すのも可能でしょう。

あまりにツッコミどころが多すぎて、どこから触れていいのかわからないです。

宇都宮で膝を負傷し、会津でがけから落ちて捻挫したのは誰かと。
降伏時でも獄中でも、死を覚悟する詩をあれだけ紡いでいたのは、誰だと。
いくら具体的なことはなにも知らない母上にしても、やっぱりツッコミどころだらけだと思います。

ボケにはいくつかの王道パターンがあります。自分の誇大表示というのはそのひとつです。ことさら自分を大きく見せたり、楽観的に振舞ったりする。本気でそれを信じていたら、ただのアホ、ということで、突っ込ませる。一方、この時期、いつ死刑宣告がされるかわからない状態です。大鳥はいくつも自分の死を覚悟した詩を作っています。その状況で、大鳥は手紙で誇大表示ボケをしているわけです。これも、あぁこんなボケかましているんやったらまだ大丈夫やと、母上を安心させるため。

ただ、これを書いたとき、母は既に他界していたという悲しい落ちもあるのですが…。


榎本は他人をネタに、大鳥は自分をネタに、という違いはありますが。いずれにしても、榎本と大鳥に共通するのは、家族に心配かけまいとする思い。相手を笑わせ、これなら大丈夫だと思わせる。自分のへこたれなさ、鷹揚さでもって、苦笑させながら、安心させる。苦境にある人間ほど、周囲に笑いと癒しを与える。

家族に対する手紙の例でしたが、このあたりは、友人に対しても同じかと思うのです。

もうひとつ、自然の事物から人間を読み出す点。

榎本が読んだ漢詩。

「白馬春袗斉賞春 長堤如帯漲紅塵 誰将人事巧相似 刮目桜花三日新」

大鳥の歌。

「秋の霜 冬の雪をば 凌ぎてぞ 人や見分けん 常盤木のいろ」

このあたりも、自分の苦境はさておき、ものごとの本質を見ることで、相手に希望を与える。二人に似た精神性を感じます。

自慢せず、自分の苦労を見せず、愚痴を言わず、相手を思いやり、大きいものには諂わず、表面的なものではなく、本質を見る。

そうした二人のあり方により、西と東、本質として良いものは変わらないのだと思えます。
イキもボケも、榎本や大鳥ぐらい洗練すると、お互いがっぷりと通じ合うものなのではないかと思います。

もともとボケも粋も、物事の本質を踏まえて初めてうまくいくものなのではないかと思います。表面的なことしか捉えていないと野暮になる。ボケも粋も、本質を見極める高度な知的作業であるという点で、共通しているのでしょう。

彼らの付き合いは、明治においても盛んです。依田学海の日記などに、榎本と大鳥らが会合しているのが伺えたり、ニュースで学会やお互いの歓送会などで見えたりというのが追えるのですが。そうした具体的な記録だけではなく、大鳥は榎本を「一心同体と言ふも可なるものある関係」と評しました。明治になり死ぬまで続いたそんな二人の関係性には、西と東の交流の理想的な姿が現れているような気がします。

「にしひがし 国こそかはれ かはらぬは 人の心の まことなりけり」

大鳥の和歌。

この「国」は、文字通り東西の各国のことなのでしょうけれども。大鳥は清・韓国の経験や「清国五人種」「東方人種資性の異動」をはじめとした多くの論考で、中国、東洋だけでも様々な性質の人間がいることを述べています。関西関東どころの違いではない。けれども還るところは、この和歌なのだと思います。いかに文化性質が異なっても、「心のまこと」は同じ。

東西問わぬ、「心のまこと」に触れられるまで、願わくばボケのレベルを高めたしと思います。

一方自分は、呑みの後に入ったコーヒー屋さんで、場にそぐわぬボケを繰り広げ、Tさんは、ツッコミならぬ「自重!」のお叱りを両手の数ほども下さいました。手前が心のまことの境地に達することは、夢のまた夢であるようです。
posted by 入潮 at 03:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

桜到来

暖かい日が続いています。

自転車では、汗が流れるぐらいです。
グローブを高グリップのものに変えたら、ハンドルがことのほか扱いやすくなったことに驚きました。自転車が我が手足のようだ。力も入りやすくなったので皇居の坂道も楽。装備ひとつでだいぶ違うものだと感動です。

さて、皇居はそろそろ、桜を目にできるようになりました。
赤い寒緋桜のほか、乾門の交番の辺りの大寒桜が、三分咲きぐらい。

大寒桜(オオカンザクラ)は早咲きの桜のひとつです。
「落葉高木、樹形は傘型、3月上・中旬に淡紅色の単弁( 5弁)の花が咲き、花弁の先には細かい切れ込みがある」
と説明板にはあります。カンヒザクラとオオシマザクラの雑種のようです。

ついでに、新しいデジカメを試してみました。

080311Sakura.jpg

花弁の筋までくっきり。ここまで撮れるのかと、ちょっと感動しました。
マクロに強く細かい字でも撮れるので、重宝しています。むしろそれが目的で入手したのですが。これまで何度も、手ぶれで撮影失敗し飲んだ涙からも開放されそう。
一眼レフでレンズをあーだこーだ言いながら高い金をかけないと成されなかったことが、手の平サイズで収まってしまう。テクノロジー万歳なのです。

桜は、もう少しほわっとした感じがいいです。
このぐらい。

080311Sakura2.jpg

そんな感じで、江戸が楽しい季節になってきました。

季節の挨拶などほんの一言といえどあまり得意ではなくて、以前は適当な表現を辞書で探したりしていました。そして衰えた季節への感受性に愕然としたり。一方、自転車通勤を始めてからは、あまりそういうことがなくなりました。特にこの季節は、桜の状態を述べるとそれが挨拶になる。開花が進むほど、うきうきします。いいものです。

隅田川堤あたりで、お花見したいですなぁ。
posted by 入潮 at 12:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月15日

大鳥論考と「教育論」

明治13年、東京学士会院での大鳥の公演。

「教育論」と題して、論考を述べています。
この頃大鳥はバリバリの工部省官僚です。一方、工部大学校校長も兼ねています。大鳥は後年、いくつかの教育に関する論考を残していますが、この頃からすでに教育への関心は大きかったようです。

「元来、我が邦人の性質は、才力勇気余ありと雖、頗軽躁浮薄の癖あり。老成人と雖猶然り。況や少年の徒においてをや」

導入部。元来、日本人は才力、勇気はあるけれども、思慮が浅く落ち着きなく軽々しい。
うーん、新しいものが流入し続けてきた明治初期ならそんなものだろうか、という感じです。

「田舎少年の才気あるものは小学に入り、読書算術の一班を窺ふに至るもの多くは浮薄児と為りて、家業の農商を嫌ひ、動もすれば官吏又都人の風を学び、外容を飾り、終には先祖伝来の家産をも失い、父兄親戚の意見をも用いず、甚だしきに至りては、郷里を脱し、都会に奔り、以て父母の患を醸すこと往々これあり

田舎の少年でも才気のある者は小学校に入り、読書算数の一般を習うが、多くは浮薄児になって、農業商業の家業を嫌い、役人や都会の風習を好んで外面を飾り、しまいには先祖伝来の家業資産も失って、親戚や父兄の意見も入れず、甚だしい者は郷里から脱走して都会に走って、父母の心配の種になることが往々にしてある、と。

誰のことですか。

上郡のどん詰まりの寒村から、才気があって隣藩の著名な学校に入って、5年も勉強した挙句、嫌々医業の勉強を始めて、蘭学をやりたくなったから大阪まで出て、さらに学費を親に払わせて貧乏学生し、家を継ぎにいい加減戻ってこいという親に、戻るから旅費を送れと金をせしめて、その金を持って足を故郷の西ではなく真逆の東、花の大都会のお江戸に向けて、やはり家業の医業を放っぱらって、洋学ばっかりやっていて、結局家業は継がず仕舞いの方のことですか。

そして父は大鳥が幕臣取立ての前に亡くなり、母に至っては大鳥が獄中の生死もわからず心配の只中にのまま世を去っている。

生きた父母の心配の種見本が、何を言う、という感じです。

「元来、尋常農商の子弟を教育する所以のものは、父祖の家業を墜さず、益資産を隆起し、父母を安寧養育せしめむが為なり。然るに多少の資金と時日とを費やし、斯る結果を得るは、豈に失望の至りならずや」

もともと、一般の農民や商人が子供を教育する理由は、先祖父親の家業を失敗せず益々資産を増やして、父母を安泰にするためである。よって多くの資金と年月を費やして、そのような結果を得るのは、失望の至りでないはずがない、とな。

加藤弘之氏あたりが、前のほうの席で悶絶していないですか。

加藤さんは後の東大総長で、東京学士院会員の重鎮。大鳥が坪井塾の塾頭だった頃に塾生で、大鳥に世話になったと日記に書いている。蕃書調所でも同僚。明治12年には大鳥と池田謙斎とで、専攻社という学士組織を立ち上げて、書評や学術発明などの雑誌を発行している(東京日日新聞明治12年4月18日記事)
まず学士会には出席しているだろうし、貧乏坪井塾時代をともに経験している人が大鳥の過去話を知らないはずがなかろう、と思います。

「此弊を救ふの策種々あるべし。諸君の良策を乞ふのみ」

貴方が言っても、誰も手を上げないと思います。浮薄という好奇心を尽くした結果が、目の前の、寒村平民から幕臣取立て、歩兵奉行、(略)、工部省高官、工部大学校長様ですから。
いや、大鳥を知らない方なら普通に考えてくれると思いますけれども。

現在文書で残っていて我々が参照できるものは、公演を後から雑誌に載せた形になっているものです。雑誌では字数制限もあるでしょうし、だいぶ省略があるのではないかと思います。やっぱり、大鳥は本題の前に、自分の経験を語って、聴衆を笑わせるぐらいのことはやっていたのではないかと思います。

前のポストで、榎本さんは周囲や文化を揶揄してユーモアとする、大鳥は自分をネタにする、ということを述べました。
どう見てもまじめな論考なのに、自分ネタでここまで笑わせてくださるのは、大鳥の才能だと思います。


「余が鄙見にては、小学の教員を選ぶを第一とす。通例、小学の教員は、維新後修学の人なれば、多くは若年の輩なり。故に其所学は規則に応じて学科を卒へたるものにて、法則通の教授には差支無きものなれども、少年を誘導するの経験に乏しく、後生を薫陶するの利害に明ならずや。況や、少年の邪路に赴くを矯正するに於てをや。冀くば、小学教員中に老成諄厚の学者を加へ、之をして書籍上の教授のみならず、時々生徒を会して、修身徳義上の談話を為さしめ、自然に軽佻浮薄の気を制止ありたきものなり」

ネタだけではなく、きちんと実効に繋がりそうな現実的なことを仰っています。いや、現実的な論考にネタを混ぜているというべきなのでしょうけれども。それが大鳥だと思います。

小学校の教員は、維新の後に修学した人たちが主で、多くは若輩者。学業は規則に応じた学科を修めただけだから、少年を導く経験が少なく、利害に疎い。ましてや少年が悪い道へ行こうとするのを矯正するような力は乏しい。だから、できるならば、小学校の教員の中に根気強く繰り返し教え諭せるような老成した者を加えて、教科書だけではなく生徒に修身徳義の談話など行って、少年の浮わついた気質を収めるようであればいい。

これは、現代においても十分通用するのではないかと思います。あるいは、問題は昔も今も余り変わらないというべきでしょうか。

学校崩壊など以前ほどメディアには出てこなくなった気もしますが、モンスターペアレンツやその親に育てられた子供に現場の教師の方々が悩んでいるのは同じでしょう。いじめも依然大きな問題です。教師の方が欝になるケースも増加しているとのこと。

そこで、退職された、社会経験の豊富な商社や金融関係、官僚、エンジニアの方などを、小中学校の顧問として採用するなどは、どうでしょう。

民間人校長先生なども、一時期は注目されましたが。校長先生や経営者側ではなく、現場の教師として、学科や担任は持たずとも、生活指導や教師の顧問の形で、非常勤で採用する。

教職員は教職員の社会を持っていますが、多くは終身雇用で、民間の社会経験のある方はほとんどいない。けれども、子供たちはいずれ多くは競争の激しい社会に出ます。そして学校の勉強とは、いずれ社会で必要となることを学ぶというのが基本。理科も算数も歴史も、単なる教科書を読んでノートを暗記するのではなく、会社や行政組織で長年切磋琢磨してきた方が、勉強が何に繋がるのか、その必要性を具体的に経験を交えて語り、勉強が役に立つ、生きていくうえで必要になるということを伝えれば、子供たちの勉強への関心も高くなるのではないかと思います。子供が勉強内容に自発的な興味を持てば、それで指導の8割は終わったようなものだと思うのです。興味さえあれば自分で勉強しますので。

また、そうした新しい風は、学校にとっても刺激のあるものではないかと思います。昔の村に一人や二人はいた、大人にも頼りにされる、駆け込み寺の長老のような感じの、社会経験豊富な、年齢が上の相談相手の方がいれば、若い教師の方も心強いのではないかと。

さらに、定年後の高齢者雇用の道も開かれますし、良いことではないかと思います。


そんな感じで。笑わせながら、締めるところで締める。きっちりと生産的建設的なアイデアを出す。あるいは、まじめな論考でも、笑いは忘れない。

それが大鳥ではないかと思います。
短い論説ですが、大鳥テイストがふんだんに込められていました。

なお、これに味を占めたのか、もとい、人気があったのか、大鳥は少なくとも22本の講演を行い、東京学士院会雑誌や東洋学芸雑誌にまとめています。これは、明治39年、晩年まで続けられました。
「大鳥圭介伝」や東洋学芸雑誌などに収録されている題目は、以下の通り。

教育論 明治13年
倹素論 明治16年3月
清国五人種 明治16年6月
支那東北諸国沿革考 明治18年3月
日本禮式は立禮を用ゐ座禮を廃する案 明治18年6月
学問ノ弁 明治19年3月
印度誌 明治24年4月
女子教育主義 明治21年6月
生理-同化論 明治22年6月
東方人種資性の異動 明治27年3月、29年1月
日清教育の比較 明治29年
徳育鄙見 明治29年12月
日清交際の将来 明治30年10月
支那語学を勧むるの説 明治31年6月
士道 明治32年10月
廉恥 明治34年7月
国民の外交 明治35年9月
満州及西伯利地理の概略、附図 明治37年6月
書画偽造の禁制 明治39年4月

などなど。数回にわたっているものもあります。
これだけ続いたのですから、講演は結構好評だったのではないかと思います。

なお、これらの多くは、社会科学分野です。地理、歴史、哲学、経済、宗教、文化などについて、深く追求しています。共通しているのは、当時の年代の方々があまり見ていないけれども、後々日本にとって大きな課題になっていくという分野であるという点です。このあたり、大鳥の、それまでの自分の分野だけに満足しない開拓者精神が窺えます。

上記の論考の内容については、また追々、ご紹介していければと思います。
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2008年03月16日

牧野数江と開拓使

この年度末の請求時期に、円高をやらかしてくれるとは。何の因果だろう。
死ぬ思いで経費削減して5%の利益率を上げても、為替レートの違いだけで、20%売り上げが減る(07年4月120円/US$→今100円/US$)。年度始めの受注がドルだったところは、どこも泣いています。

最近幸せだったツケが、一気に来た気分です。
働けど働けど、我が暮らし楽にならざり。ぢっと手を見る。

泣きたくなったので、バイクで皇居を周回走って、国会図書館へ行って、自分の汚い手ではなく資料を見て、癒されてきました。
国会図書館では、久しぶりに、がっつりと入り浸ってきました。
自業自得で、夕方から2時まで仕事せにゃなりませんでしたが、満足です。

色々といい文献に当たれました。

先日、大鳥の踏査に同行し図面を写した、元草風隊参謀で箱館の陸軍奉行添役の牧野主計について触れましたが。
「開拓使の画工 牧野数江について」(北大植物園研究紀要 2003年3月、今村信隆氏)という、そのものずばりな論文がありました。
ブラキストンの標本に基づいて、一連の博物画が製作され、これが北海道大学植物園博物館に所蔵されています。その製作に携わった4人の画工のうちの一人が、牧野さんだということで、焦点が当てられています。

牧野さんが開拓使の雇い(非常勤職員)になったのが明治7年5月23日ですが。「当時物産課の事務管理を任されていた大鳥圭介が、牧野の雇用に際し何らかの斡旋をしたという可能性もあるのではないか」と、自分と同じ推測が述べられていて嬉しかったでした。
なお、北海道文書館に「日記(物産課人員並に宿直付)」という文書があるらしい。開拓使物産課は、榎本武揚や大鳥が属した部門。この日記、かなり直に参照してみたいです。
ちなみにこの「日記」には、明治7年7月10日付で「本日大鳥圭介殿始め久保田良造、町田實則、牧野数江、北海道巡廻御用として玄武艦に而北海道江出発」とあります。牧野さん、大鳥と同じ船で、横浜から北海道へ赴いていました。そして幌内調査も層雲峡の山奥まで同行していたわけです。

大鳥が陸軍省・工部省へ移ってからは、牧野さんは、明治8年1月からライマンの下で製図工として働くことに。ライマンは、大鳥をMy Dear Generalと呼び、黒田と散々喧嘩し、弟子を自分の仕事に専念させろとか製図場が豚小屋みたいだとか無茶を言い、大鳥に引き抜かれて工部省に雇われた後は毎日大鳥に手紙を書いていて、最後に自分が反対した油井を勝手に内緒で掘られたお雇いめりけん外国人です。もとい、多くの弟子に地質の技術移転を施して日本の地質・資源工学の基礎を作って下さったライマンです。

牧野さんは、北海道南部噴火湾沿岸の油田の地図にも関わっています。

ここで、若いお雇い外国人モンローが、ライマンが牧野を貸してくれないとぶーぶー文句を言っています。
モンローが開拓使の調所弘丈に訴えた文。

"I have applied to Mr. Lyman the services of Mr. Makino to assist me in finishing my maps for the Kaitakushi. Mr. Lyman, however, can not let me have Mr. Makino's assistance at present, as he still some works for him to do.”

開拓使に提出する地図図面の仕上げの手伝いをマキノに依頼したいのに、ライマンが自分の仕事でマキノを独占していて、マキノを貸してくれない。

だそうで、どうも子供の取り合いじみている感じが。このお雇い上司部下、本当にしっくり行っていないですな。調所さんも、そんなこといちいち言って来られても知らんわい、自分らで解決せい、という感じだと思います。単にモンローが、報告書提出期限に間に合わない言い訳に使っているのかもしれませんが。
開拓使お雇い外国人は、他人とは思えないネタにあふれています。

それで、牧野さんは、8年2月からまた札幌へ。
その後、明治9年ごろに東京に戻ってきて、例のブラキストンの標本模写に携わります。さらに東京にある開拓使仮博物場で、缶詰に貼り付けるための化粧紙の製作に関わりました。大蔵省紙幣局とやり取りもしていた模様。

その後、明治13年6月に、仮博物場専務外を通告され、14年5月に再び札幌勤務。さらに、開拓使の廃止後も、「開拓使残務取扱所」にとどまり、残務処理を行っていた模様です。そして明治15年の「進退録」にて、解雇の記録があります。

病のために亡くなったのが、明治16年7月9日。
牧野さんは、身分は最後まで雇い、非常勤扱いだったようですが。戦後、もっとも長く開拓使を支え続けた人だといえるかと思います。
彼もまた、紛れもなく、戊辰戦争を戦い明治を生き抜いた人だと思います。

こういう、実務者一人一人に焦点を当ててくれる論文というのは、大変ありがたいです。

そのほか、開拓使について、かなり良い資料がありました。また次にでもご紹介できればと思います。

それから、明治電気業界人の雑誌「電気之友」のマイクロを見ていました。しだりん(志田林三郎)小伝があって嬉しかったです。あと、岩垂邦彦がなぜか人気者でした。
国会図書館所蔵は創刊1〜5号が欠番になっている。創刊号が読みたかった。どこかにないかとWebCatを見たら一件だけヒット。…天津ですか。中国の。それはさすがにおいそれと取りにはいけない。

長々マイクロを眺めていると、気持ちが悪くなりました。マイクロに長時間取り組むのは、至難の業です。どなたか、マイクロを快適に読み続ける方法をご存知ないでしょうか。酔い止めでも飲んだら効くのだろうか。

国会図書館さん、雑誌も近代デジタルライブラリに含めていただけませんか…
いや、どんどんわがままになっていきます。
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2008年03月17日

休日にPCと自転車とバイクと銭湯と漫画喫茶

モバイル目的に、12.1インチのラップトップを衝動買いしました。そろそろVistaモデルオンリーになってきましたので、今のうちに買っとくかと。Windows Xpをどうしても使い続けたかったのです。メーカーから届くまで、ここ半月、楽しみで落ち着かなかったです。

画面の大きさが異なると、同じメーカーでもキー配列が違います。気の短いショートカット人間なので、CtrlやShiftの位置が異なると、非常にやりづらい。早く慣れねば。
あと、HomeとEndのキーを押すと、なぜか画面のコントラストが上下するのですが。これは初期不良なのだろうか。

CPU:Core2Duo 2.0GHz、HDD:120GB、RAM:2GB、というスペック。(自分のPCのスペックを口にするのは、自分のスリーサイズを言うような、妙な気恥ずかしさがあります。なら言うなという感じですが。傍から見たらお粗末でも、本人は自慢したいものってあるじゃないですかー)
ハイエンドモデルからは程遠く、型落ちで安くメーカー直販のオンラインで買いました。春モデルとの入れ替え時期なので、いろんなフェアがあって買い時だったと思います。それでも現行使用中のノートPCのスペックをはるかに凌駕しているので、こちらがメイン機になりそうです。解像度も良いし、メモリが大きいので、快適快適。
といっても所詮私の自宅PC、一番使うのはテキストエディタなので、無駄スペックではあるのですが。

それで今朝は、セットアップの終わったPCを持って、カフェで朝食。一回やってみたかったんです。こっそり憧れていたんです。カフェでモバイル。終電で職場ノートを開くのはしょっちゅうでしたが。そういう疲れたものとは違う、心の優雅さがあります。ええ、カフェでモバイル。それで、やっていたことはネットのキャッシュを見るだけだったのですが。次は実のあることをやろうと思います。

午後は、自転車とバイクの洗車と整備。
自転車は、チェーンを掃除して油を差しただけですみました。同じギアばかり使っているので、スプロケが心配でしたが、とりあえず当分は大丈夫そう。一方、後輪のタイヤの凹凸がほとんどなくなってしまっていた。1年でこんなになるのか、という感じです。そのうちチューブが摺れてパンクしそうなので、早く交換しないと。電車代が浮くと思っていましたが、維持費も結構かかります。
最初は自転車通勤もいつまで続くか怪しかったのですが。LED点滅の持ち運び可能なライトにしたり、センサー式スピードメータをつけたりして無駄なカスタマイズをしているうちに、愛着がわいてきました。

バイクのほうは、タイヤに空気を入れてもらうのとエアフィルターの交換に、バイク屋へ。天気がよく暖かかかったので、そのままどこかへでかけてしまいたいぐらいでした。いい季節になってきた。

ここのところ、バイクに詳しい友人との付き合いもなく、バイク事情にはぜんぜんついていっていなかったので、バイク屋さんは色々楽しかったです。

まず、HYOSUNGという韓国メーカーの車体のラインアップがあったのでびっくりしました。XRXというオフ車が、125ccなのに250cc並の車格で格好いい。それで30万円を切っている。同スペックの日本車よりも3割ぐらい安いのではないだろうか。新品でも中古並みの価格で手に入るのは魅力。学生さんなら買いたいと思うのではないだろうか。

ここ数年の韓国の工業製品の台頭はすごいです。とうとうバイクまで来たか、という感じで。価格の安さで市場に乗り込んでいくのは、かつての日本のやり方だったわけですが。韓国は国家政策で技術者養成を行い、技能者オリンピックなどでも国が全面支援して、工業高校の学生は授業後に毎日6時間のトレーニングを受ける特待生制度があったり。そして、金メダル数では韓国がここ数年トップ。技能者の質はダイレクトに工業製品の品質に結びつきます。今後、韓国製品が品質面でも十分伸び、市場をさらに席巻するのは、目に見えています。国土狭く、食料自給率低く、資源はなく、競争の中で技術を磨いて工業製品を売って生きるしかないわが国は、5年後10年後どうなっていくのか。

さて、前はセローという足つきの良い225ccのオフロードバイクに昔乗っていました。セローは20年以上も販売されているロングセラー。非力で高速はつらいですが、どんな林道山道も気軽に入っていける操作性の良さ、頑丈さ、スクーター並みの燃費の良さ、さらに量産型なのでパーツも安い、というのが魅力なバイクです。

その中に、ピンクと灰色という趣味の悪いカラーで評判がよくなく売られたのは1年のみ、という年式のものに乗っていました(SEROW225W)。七年間乗って全国を走って、同じカラーを見たのは2度のみというマイナーなもの。彼女とともに、11万km、沖縄以外の全県を走り、300箇所近くの温泉を巡りました。それをネタにして、就職氷河期に、入社試験の面接をほとんど一芸入試のノリで通り、今の会社に入れてもらいました。なので彼女はもはや人生の恩人です。その思い出ある車体の中古車が陳列されていて、びっくりしました。もちろん年式も同じ。思わず声をあげてしまった。自分のは五速・六速ギアが両方壊れるぐらい乗りつぶしたので、さすがに自分の乗っていたものである可能性は皆無ですが。その相棒と共に在った大学時代を思い出して懐かしくなりました。またツーリングに出たい。北海道や九州を2ヶ月ぐらいうろつきたい。

そのセローですが、今は250ccに排気量アップ。ずいぶんファッショナブルになっていて、街乗り仕様のモタード車まで出ていました。昔は小柄な山男か山女の乗り物、というイメージだったのですが。客層がだいぶ変わったのではないでしょうか。山に乗りに行く方は、2000年ぐらいのSEROW225WEの中古をわざわざ買う方が多いらしい。

モタードは今の需要にマッチしているらしくて、各メーカーが足つきの良いのを出しています。カワサキのD-Trackerとか格好良いなぁ。

今自分が乗っているのは、TT250R Raidという車体です。これは16Lというビックタンクで長距離連続走行OK、大光量、シート幅が広く、名前の通りラリーレイド仕様のもの。もともとあったヤマハのオフロードTT250Rのバリエーション。操作性はあまりよくなく、重いのでセローに比べると林道は走りにくいですが、積載力があり、長時間のツーリングが大変楽。東京−仙台を無給油で走れる。セローはすぐに股が痛くなるのですが、その疲れはだいぶ軽減されます。ただ、でかいので自分のように足が短いと大変。
同じヤマハからで、セローの兄貴分のように思っていました。ツアラーに評判の高かった良いバイクなのですが、1996年ぐらいを最後に廃盤になってしまっています。

それで、エンデューロタイプのTT-R250というのがありました。TT250Rの後継機だとは思うのですが。最高出力19.7PS、最大トルク1.9kgf・mというスペックは、昔の225ccセローとほぼ同じでは。うーん、なんだか複雑だ。

…バイク乗りでない方にはつまらない話を、長々とすみません。


その後、バイク屋さん近くの温泉銭湯へ。
久しぶりに来たら、サウナの営業時間が短くなっていました。
銭湯は、湯や熱というエネルギーが元手なので、燃料高がモロに影響します。この石油価格高騰で、都内の銭湯はみな苦労しているようです。営業時間短縮や、営業停止してしまったところも結構ある。
一方で、燃料高が響いていない所もあります。薪を使用したり、都内の材木所から廃材やペレットをもらって燃料にしていたり。

銭湯も色々特色があり、電気風呂、森林浴ミスト、サウナでもスチーム式、遠赤外線式など、ヒノキ風呂、ハーブ風呂、黒湯・温泉や井戸水、インターネットPC併設、番台、破風作り、格天井など、それぞれの設備ややり方に特色があり、いろんなオプションがあります。銭湯同士でも競争です。近所との付き合いだけでは生き残れない。

数えてみたら、東京23区に、約850の銭湯がありました。
平成19年判の東京都公衆浴場業生活衛星同業組合発行の、「東京銭湯お遍路MAP」によると、各区の銭湯数は、以下の通り。

千代田区 4
中央区 11
港区 8
新宿区 33
文京区 15
台東区 41
墨田区 44
江東区 34
品川区 37
目黒区 20
大田区 73
世田谷区 48
渋谷区 18
中野区 33
杉並区 38
豊島区 40
北区 44
荒川区 42
板橋区 54
練馬区 37
足立区 58
葛飾区 57
江戸川区 60
___________
合計 849


銭湯は東京、日本に誇る文化だと思います。
銭湯によって、共同生活のマナーやルールを学べる。湯にタオルをつけない、体を洗ってから湯に入る、湯を流しっぱなしにしない、などの共通するマナーにより、衛生観念や、水やエネルギーの節約が身につく。何より、裸の付き合いというある意味究極の環境で、他者を不快にしない、迷惑をかけない、という心構えが備わる。また、日本の伝統建築様式も学べる。地域行事とのふれあいもあるし、同じ湯を使う仲間ということですぐに周囲と仲良くなりコミュニティができる。
このまま廃れるのは寂しい限りです。子供たちには、ぜひ銭湯文化を踏襲してほしいと思います。

あとサウナも良いです。場所によりますが、銭湯代にだいたい200円ぐらいプラス。無料のところもある。老廃物が出て肌つるつるになりますし、水風呂と繰り返すことで血行が良くなり免疫も高まりますし、夜はぐっすり眠れますし。ダイエットにも使えますし。かなりコストパフォーマンスの良い健康法だと思います。


そして、最後に漫画喫茶へ。
大鳥さんが論考で、自分の美的感覚で一番美しいのは漁師水夫だと語っていました。船の男たちが「実に天賦の美形」であるなどと力説していました。ちなみに二番は農民、武士は最下位だそうです。これについて詳しくはまた後ほど。

それで、釣り船屋のせがれで家業の手伝いで鍛えた筋肉が素質という主人公のボクシング漫画を思い出して、読みたくなりました。筋肉だけ見てこようと思ったら、そのままはまってしまって、18巻まで読みました。82巻まで出ているのか。全部読むまで何日かかるやら。


そんな感じで、昨日集めた資料を語る前フリのつもりだったのに、だらだら書いてしまいました。自分語りばっかりですみません。

でも、たまの、大変充実した休日でした。あぁ休日だ、という感じでした。
来週もがんばろう。
posted by 入潮 at 03:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月21日

荒井郁之助と開拓使

先週入手した資料の中に、「開拓使の組織と職員2 勅任官・奏任官の経歴」という文献がありました。北海道立文書館研究紀要収録、山田博司氏によるもの。1998年から3年、3回分に亘ってまとめられています。

素晴らしい資料です。拍手喝采してしまいました。
その名のとおり、開拓使所属の奏任官、勅任官の経歴がまとめられています。111人分。

勅任官は天皇陛下の勅旨により任命された大臣・長官レベルの人たちで、1〜3等。奏任官は大臣の奏上により任命される、4〜7等の官僚の方々。それより下の8等以下が判任官。勅任官と奏任官がいわゆる政府高官で、判任官が下級官僚という言い方もされます。
各階級によって、職責も給料も決められています。一等の違いはかなり大きいです。

この111人の高級官僚について、北海道立文書館の公文資料が総動員されています。文書館に所蔵されている開拓使関係文書で、簿書として納められている公文録、履歴書、履歴録、進退録、辞令留、明細牒、辞令原稿、赴任・係換・出張辞令、官員明細表、局員録など膨大な量の各公文を調査しています。そして、この111人の開拓使官僚の開拓使における履歴を、これでもかと詳細にまとめています。文書館の本領発揮という感じです。開拓使に限れば、この文献より詳しい111人の個々人の履歴はそうはないと思います。

ちなみに、開拓使には明治12年の設立当初に350名、廃止前の明治14年には約1600名程度所属していたとのことです。これに武官である屯田兵が加わります。

この記載の仕方が、また素晴らしい。
まず、その人物の履歴書があれば、それぞれそれを底本とする。履歴書が複数ある場合は、一番後年まで含まれているものを底本とする。この底本の元になった文書館の簿書番号を記載しています。そして他の辞令や公文、進退録などと比較照合する。底本の履歴書になく他史料にある記述、底本と他史料が矛盾なく一致する記述、底本にしか見出せない記述、そして底本と他史料に相違がある項目などを、それぞれ+、◎、○、△という記号で表す。

面白いのは、他史料と底本で一致しなかった記述については、他史料のほうを採用するという手法です。これは、後年作成された履歴書のほうが(本人が忘れていくからか)誤りが多いという経験則に基づくものなのだそうです。

ここまで追求して各人物の足跡がまとめられた精度の調査は、ほかに見たことがありません。

そして、111人が、奏任官、勅任官の全数調査であるということ。さらに、準奏任官とされた、多くが技術系の職員で開拓使で指導的な立場にあった方々もこれに含んだとのことです。


歴史はサンプリングである、といえると思います。

何かの社会調査をするとき、たとえば何万人、国全体だと何千万人もいる人間を、全部調査をかけるのは大変極まりありません(全数調査という)。なので、全体数に応じて、信憑性のあるデータを手に入れるためにが確率的にどのぐらいのサンプル数が必要か、だいたい決められています。たとえば、2万件の調査をしたいときは600ぐらいサンプルがあれば良い、30件なら25サンプル、100万件なら1000サンプル、などです。(数字はおおまかです)

たまに国勢調査などで全数調査が行われますが。それだけで公共事業の雇用創出になるぐらい、すさまじい時間とコストがかかります。

一方、歴史では、その時代、その地方でわざわざ統計調査を行った例は限られている。ある時期の農民がどんな材質の鍬を使っていたか。それを調べるのに、ほんの1件2件の発掘調査で出てきたものの結果が、「事実」として認定される。何万のうちたまたまひとつが出てくれば、それが事実とされる。もうひとつ同じものがでてくれば、それはもう揺るがない事実になる。確率的に、たまたま見つかったものがその時代の例外である、という可能性はあまりないので、とりあえずそれがまかり通っている。

これがまぁ、鍬の質なら多少間違っても困る人は余りいないですが。いや、当時にどんな金属が用いられていたかは学術的にはとても大切なことですが。
たとえば、○藩の△部隊が、戦闘中に村に火をつけたりする。それがある史料から1件見つかったとする。それだけで、「○藩の兵は村に火をつけて回った」ともっともらしく事実として書かれると、○藩の他の隊の兵の子孫からすれば困るわけです。うちのひいひいじーさんはそんなことやっとらんわい、と不愉快になります。
一方、そうした事項がさまざまな資料で見つかり、サンプルが10件も20件もあり、△隊も□隊も◎隊も、みんな火をつけて回ったという記述が確認できると、「○藩の兵はみな村に火をつけて回った」という記述は、面白くはないけれども納得はできる。

また、ある人物が別人の日記で「温厚」と書かれていると、それがその人物像になる。一方で短気な面もあるかもしれない。書かれていない側面のほうが、人間は圧倒的に多い。

一つや二つ書かれているけれども、確率的に確たるものであるといえることは、案外少ない。けれども、その一つ二つのサンプルにすがるしかないのが、歴史という分野の性ではないかと。なぜなら、事実を検証するために過去にさかのぼってデータを新しく集めるということはできないから。過去の人間は死んでいるので、残された記録を参照するしかない。確率的に確かでなくても、一つ二つ記録に書かれたものを根拠にするしかない。

ただ、いくつもの史料で比較対照して、なにが一番もっともらしいかということは、同じ時期同じ場所について書かれた史料が何点も幸いにしてあれば、これが事実だ、なんとなくわかってくる。けれども、この作業はものすごく大変で、手間も時間もかかる。まず、自分の知りたいと思う分野に何点も同時代同じ場所の史料があるということが、幸運。だから、歴史は、サンプルに頼るしかないのが大部分だと思います。

そもそも、歴史人物を取り上げること自体が、サンプリングです。
その時代を生きた人はごまんといたけれども、歴史に取り上げられるのはほんの一握りの人物のみ。記録された人物というのは記録されるだけ、歴史において重要な役割を果たしたということになあるから、それはそれで良いのですが。実際は、記録されなかった人物、記録されない日常というのがほとんどであるわけで。記録にないから事実ではない、ということは言えない。ただ、記録にないと誰もそれが事実かどうかわからない。だから、歴史学は、たまたま記録されたというサンプルに頼り、そのサンプルの他を切り捨てる作業であるといえます。

とまぁ、前書きが長くなりました。
歴史は、事実のほんの一部分である。切り捨てられたものの上に成り立っている。そして事実を細部まで突き詰めようとすると、何が事実かを拾い上げるのが、本当に大変だな、ということを言いたかったのでした。

その歴史という分野において、全数調査に近い手間をかけ、限りなく精度を高めたのが、この論文ではないかと思います。
なにせ、北海道文書館にある開拓使の記録を、参照できるだけ参照し、比較対照して、各人物の履歴を作っている。素晴らしい仕事です。そこにかけられた労力に、思わず背筋を正しました。

なにせ111人という人数ですので、さまざまな方が含まれています。知られていない方も多いです。旧幕臣や旧佐幕藩士も多く見られます。開拓使は薩摩の牙城だった、ということがよく言われていますが、実際の実務者は、旧幕・佐幕藩士も多かったことが示されます。

それで、特に荒井さん。開拓使の経歴が事細かに記されていたので、一例としてご紹介します。カタカナ→ひらがな としています。


氏名: 荒井郁之助
底本:簿書571
生年月日: 天保7年4月29日
出身権・族籍:東京府士族
別名:郁

以前の略歴: 嘉永2年に昌平黌に入る。安政4年に軍艦教授所に出入り。文久2年軍艦操練所頭取、元治元年講武所取締、慶応元年歩兵差図役頭取、同3年歩兵頭並を経、明治元年1月軍艦頭となる。同年8月江戸湾を脱走、10月蝦夷地に上陸、2年5月新政府に投降、東京に護送され獄中生活を送り、5年1月出獄。

履歴:
5年1月12日 御用係、申付候事/但、当分之内日勤不及候事
5年1月 月給百両、被下候事 (底本は12日、文言に相違あり)
5年2月23日 開拓使5等出仕、被仰付事
5年3月17日 東京詰、申付被事
5年4月18日 当分運漕掛兼務/但、諸船乗組人取極並雇船等取扱
5年7月24日 御用に付、横浜出張
5年9月25日 御用に付、横浜出張
6年1月17日 開拓使6等出仕、被仰付候事
6年3月17日 北海道測量専務、ワッソン同行、可有之事
7年1月 本務を以、物産課事務兼管、可有之事/但、鉱山の事務はライマン氏商議の上、可取扱事
7年2月8日 補、開拓使5等出仕
7年4月8日 物産課事務兼管、相免候事
7年4月10日 玄武丸台湾航海に付、船中事務総轄、可有之事
7年4月15日 玄武丸乗組、相免候
7年4月20日 北海道測量として出張、可有之事
7年10月27日 北海道より帰京
8年1月29日 御用有之、横須賀出張、被仰付候事
8年2月13日 札幌在勤、被仰付候事
8年2月13日 測量事務管理、被仰付候事
8年3月13日 補、開拓使4等出仕
8年5月15日 叙、従5位
8年5月16日 札幌へ赴任のため、東京発
9年4月27日 札幌方面為測量、巡回被仰付候事
9年6月19日 同年七月一日拝受/依願、免出仕
9年8月29日 金五百円 月報弐カ月分/右、満四年勤続に付、被下候事

以後の経歴:
明治10年「中外工業新報」を発刊、同年8月内務省出仕、12月地理局測量課長、19年3月地理局次長、23年中央気象台長、24年3月退官、29年浦賀船渠会社監査役、35年退社、42年7月19日没


…と、開拓使の履歴が非常に詳しいです。開拓使履歴以前、以後の経歴は、著者の方の別の文献調査に拠っているようです。

荒井さんの開拓使の動向で、知らなかったこと色々わかりました。

まず、履歴書では、東京府士族になっています。息子の陸男さんが、荒井さんは平民で通したとおっしゃっていましたが。一時期は士族で登録して、その後平民に変更したのかと思います。なお、榎本さんも大鳥さんも、静岡県士族になっています。荒井さんが静岡ではなく東京で登録したのはなぜだろう。家族が東京にいたからかしら。

明治5年4月の運漕掛というのも面白い。札幌と横浜を行き来する船の水夫や雇船の事務総轄を行っていたようです。このあたりは海軍経歴の知識が重宝されたのでしょう。

明治6年1月に、5等から6等に降格を食らっていました。これ、前から気になっていました。何かの間違いかと思っていたのですが。論文では、他資料と比較対照を行い確認ができたという◎印までついています。荒井さん、横浜でなにかやらかしたのでしょうか。翌年7年2月、大鳥帰国の前に5等に戻っていますけれども。さらに8年3月には4等に昇進しています。

それから、明治7年4月の玄武丸の台湾航海。これは時期柄、台湾出兵に関係したのかと思います。台湾出兵は、1874年4月に企図されされ、事務局が設置されました。長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命されました。谷干城らが実際に現地を制圧したのは5月・6月ですので、台湾出兵準備に何らかの形で短期間、荒井さんが関わったのかと思います。ただ、5日で職務を免じられているので、玄武丸が派遣される船に含まれる予定で、それが外れたのかもしれない。荒井さんも、二度と軍には足を踏み入れなかった人ですが。もしかするとそのあたりも関係するのかもしれません。
なお、玄武丸は、大鳥さんが北海道に赴いた際にも乗船していた船です。普段は横浜箱館間の定期便になっているのだろうか。

荒井さんはしばらく東京で働き、北海道にいたのは、明治6年3月からと、明治7年4月から10月、それから明治8年2月からと5月から、さらに明治9年4月からと、毎年赴いています。すべて測量がらみ。冬も含まれる。北海道の冬の測量は大変でしょう。
なお、明治7年は、大鳥さんも炭鉱調査などで7月から10月まで赴いています。時期が重なっているので、札幌や函館で、二人は存分に久闊を叙したことだと思います。

なお、明治7年1月から4月まで荒井さんが担当した物産課事務ですが、これは榎本さんが担当していたもの。さらに大鳥が米国から帰ってきてから、同じ職務についています。つまりこの「物産課事務」は、榎本さんが最初に担当、榎本さんが海軍中将となりロシアに赴くにあたって7年1月に荒井さんがしばらく引き受け、さらに大鳥が帰朝して7年3月に大鳥が引き継いだという、職務です。物産課の担当分野にどこまで含まれていたのかは分かりませんが、北海道の産業を担当し、鉱山、炭鉱、資源なども主要な項目として含まれていたことは確かです。

そして、荒井さんは明治9年に自主退職。このときに勤続4年につき、500円の報償(退職金?)をもらっています。結構な額です。
退職の理由は不明。荒井さんの伝記では、測量に対する方針が開拓使と対立した(予算が下りなかった)と推測されています。なお、測量を共にしたお雇い外国人のディは、荒井さんを「その働き実に賞賛するに堪えたり」「余が行わんとする策を助け、これを施すなど全て甘心誠実をもってし、わが事業を賛成せり」と大絶賛しています。


…と、開拓使という一省庁だけではありますが、これを基本に他史料と照らし合わせることによって、一人の人物の人生が詳細に追うことが可能になるかと思います。

他の人物も、この調子で履歴が詳細にまとめられています。
稲田邦植、うちの洲本の殿様もおった…。殿、洲本から静内に新天地を求める家臣と共に来たのは小説でも映画でも描かれていましたが。屯田兵の準少尉になっていました。開拓使が解体してからも静内で書記官を務めていました。すぐに淡路に帰ったと思っていたので、ちょっと感動しました。あと、殿に付き従った洲本家中の荒城重雄さんが、明治10年に中尉で、殿の上官になっているとか、面白い。このあたりの洲本関係人物もまたじっくり追ってみたいです。

あと、伝習隊関係でもう一人ご紹介したい人がいます。

そんな感じで。この論文に費やされた仕事量を思うだに、気が遠くなりそうです。著者の方は本当にいい仕事をしてくださったと思います。
根性の無い自分としては、こうした先人の研究成果にただ乗っからせていただくのであります。
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2008年03月22日

縁の下の力持ちの歴史

いつかいただきたきもの。
山吹色のお菓子

いやぁ、久しぶりに大笑いしました。
あらゆる記述の中にきらきら光る、このセンスは素晴らしい。

「玉虫色の回答」はもちろんのこと、「領収書について」「熨斗紙について」「豆知識」も、目が離せません。

ジョークも本気でやると、一流の本物になるのだなぁ。


さて、昨日ご紹介した文献ですが。昨日書ききれなかった、心に残る一文があったので、ご紹介させてください。
開拓使という機関の、高級官僚に限定されているとはいえ、111人の履歴をある限り細かく記した方ならではの言葉です。

「彼等の経歴を見ていると、時代が時代名だけに、興味深い人物が数多くいる。

幕末において過激派として知られた公卿がおり、生野の乱や天狗党の挙兵に参加した者、禁門の変に遭遇した者、あるいは鳥羽伏見の戦い以降箱館戦争にいたる一連の戦争に参加した尊皇・倒幕の人がおり、その一方で同じ戦争に佐幕の立場で参加した旧幕臣や東北諸藩出身の人々がいる。幕府最後の箱館奉行を務め新政府の役人に事務を引き継いだ者と引き継がれた者。開拓使に在職中に病没した者やにわかに出張先で自殺した者。開拓史を離れて移行の経歴ではいわゆる不平士族の反乱に加わり、佐賀の乱に梟首されて散った者、西南戦争に反乱軍将校として参加し営中に自決したものがいるかと思えば、同じ戦争に屯田兵を率いて反乱軍鎮圧に向かった開拓使の準陸軍武官たち。炉傍に野たれ死に同様な末路をたどった者や、喜寿を過ぎて後船上か投身自殺するなど非業の最期を送った者もいれば、各省大臣や総理大臣に昇進し、あるいは各府県知事や政府高官を歴任し、子爵・男爵に叙せられ、貴族院議員に勅撰された顕官たち、晩年大正天皇に漢学を御進講し80歳近くになって文学博士の学位を得た人物、等など。

彼らの経歴は、実にその時代の日本史の動きを如実に物語っているのである」


まさに、しらみつぶしに人々の人生を追った方ならではの言葉だと思います。

戦争は一人二人のヒーローにより行われるものではないし、世の中も数人の政治家によって作られるものではない。
名もなき人たち、それぞれの人生の積み重ねによって、世の中が作られてきた。
人がうらやむ成功した人もいれば、失意の内に非業の死を遂げた人もいる。
あらゆる人生の坩堝の果てに、今の世がある。

こうした姿を見ると、明治は薩長政府に牛耳られた、敗者は虐げられ差別され辛酸を舐めた、というような紋切り型の歴史観は、いかに的を得てないことかと思います。

歴史は政治史で、その時々に政治のトップに立った数人をクローズアップすることにより語られることが多いですが。実際は、政治家が何らかの意思決定をするまでに、その下支えとなる調査、情報収集、分析、判断を行った人たちがいる。数え切れない数の縁の下の力持ちがいる。
そしてもちろん、世の中の下支えとなった、日々生業に精を出す人たちがいる。

そうした方々に光を当てることは、とりもなおさず、今の我々一人一人がまた、縁の下の力持ちなのだということを思い出させてくれます。

こうした研究に感謝すると同時に、縁の下人間その一として、何ができるかを考える。そうすると、とりあえず山積した目の前の仕事を片付けようと、やる気というか、やらねばならいなぁというあきらめが生まれてきます。

今週も週末休みなし。
まじめに真剣に縁の下の力持ちになった人たちにより、歴史は作られる。
一方、自分は、山吹色のお菓子をささげてでも、要領よく乗り切れるものなら乗り切りたいと思う、非力人間です。
タグ:開拓使
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2008年03月27日

熾烈な戦い

今朝、三分咲きぐらいかなぁ、と思っていた千鳥ヶ淵のソメイヨシノが、帰宅する時にはほぼ満開になっていました。びっくりした。
今日の暖かさで、一気に開花したようです。
誰もいないところで、豪華な夜桜が堪能できました。得した気分。

…という良いことばかりだといいのですが。

そんなうららかさとは離れたところで。
いろんなものと戦いを強いられています。
生きるとは戦うことだと、言ったのは誰でしたっけ。

締め切りと戦っています。
インド人と戦っています。
円高と戦っています。というか、敗れました。
今年、ボーナスは出ないんだそうです。今月1日休んだだけ。連日2時3時まで働いているのに、その仕打ちか。

そして、我が家のネズミとの戦いは、日々熾烈になっています。
超音波発生装置を設置しまして、数は減ったように思い、勝ったかと思ったのですが。
先日は、使い終わったマヨネーズの容器まで食ってました。ポリ容器を食いちぎり散らかしていました。容器を台所に置いていたら、油断した。

さらに、更なる手強い敵が、出現しました。

猫です。

帰宅すると、暗闇の部屋の中でドタバタして、一階に逃げていきます。どうも、一階の倉庫から入ってきているようでした。

ねずみを食ってくれるなら大歓迎だ、御猫様だ、と思って、そのままにしていました。
たまに食パンを食い破られていても、ハンターのご褒美だと思って、微笑ましく思っていました。

ところが、昨日、奴はとんでもないことをしてやがりました。

しっこしてました。

しかも、ベッドの下の畳に。

涙。

臭くて眠れやしませんでした。

せめて3時間でも我が家で睡眠を取ろうと、疲れ果てて明け方帰ってきた家主に、なんという仕打ちをしやがる。

この間はネズミの屍体で、今度はコレか。

猫のおしっこの臭いは、強烈です。拭いたぐらいでは取れやしません
臭いを思い出すだけで、今日家に帰るのが、憂鬱でした。


一方、臭いの一番の原因はアンモニア。
そうすると、次亜塩素酸と結合させりゃいい。

NH3+HClO → NH2Cl+H2O

となるはずだ。

生成するクロロアミンは消毒薬になるから、ちょうどいい。
次亜塩素酸を含むもの。よし、ハイターだ。

ということで、今日会社からの帰りに、コンビニで、ハイターを買いました。

コンビニのおにいさんが、一瞬、びっくりしたように硬直しました。

手には妙なグローブ。顔にはサングラス。真夜中1時半に、漂白剤だけを買う女。

(ハードコンタクトをしているので、自転車のときは国道のトラックの塵避けに、夜でもサングラスをしてます)

「怪しい者ではありません」と言うべきかどうか迷いました。
言うと余計に怪しいと思ったので、言いませんでした。

幸い、普通に売ってくれました。

コンビニから出ると、サイレンの音。
一瞬、通報されたかと思いました。

普通の救急車でした。

心臓が破れるかと思った。


それで、帰宅後、しっこされた場所に、ハイターを試しました。
臭いは何とか消えたのですが。

今度は、部屋中が、塩素臭くなった。

当たり前です。
クロロアミンの化学式を思い出す前に、なんでこういう当たり前のことが思い浮かばなかったのだ。

塩素の臭いで、頭が痛い。

どうしてこう、天は安らかな休息すら許してくれないのだろう。


他に臭い対策法は何かなかったのかと思ってネットをあさったら。
恐ろしい事実発見。

猫のおしっこは、縄張りのマーキングの意味もある。
一度しっこしたら、そこに何度もするものらしい。

うちの寝部屋は障子で、いくら締めていても、倉庫から進入した猫は障子を開けて入ってきてしまうのです。

ちなみに、中には、バイクのシートやヘルメットに粗相されてしまった人もいるらしい。それは悲惨だ。

そういうわけで、今度は猫と戦わなければなりません。猫には、超音波も効かない。

しかも敵は、ネズミとは違って、法律の保護を受けています。
愛くるしい外見に魅せられて、惜しみない愛を注いでいる方も多いです。
下手に物理的に撃退でもしようものなら、被害者が加害者として罪を負いかねません。
基本的人権を侵害されているという事実は一切顧慮されず、世間様から極悪人人非人扱いをされます。

どうすればいいんだ。

とりあえず、マーキングされた場所には、先日チェーンを洗ってタールだらけになった真っ黒のタオルをおいておこうと思います。タール臭さは、あらゆる生き物が嫌いなはず。臭いをもって臭いを征す。
しかしながら家主も、タール臭さはご免です。

猫除け方法。
良いお知恵がありましたら、どうかご教示ください。

疲れたので、明日は30分早く起きて、皇居の桜に癒されようと思います。
posted by 入潮 at 03:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月31日

大鳥圭介公を語るフォーラム 終了

幸せな一日でした。
しとしと降る冷たい雨の一日ですが、熱気は寒さを補って余りありました。

上郡役場主催の大鳥圭介フォーラム

「資料が足りません。椅子が足りません」

開始前、上郡町役場の方が、走り回っておられました。

参加者は、想定150名に対して、350名以上だったそうです。

実は、果たして一体何人が来てくださるのか。関係者以外ほとんどいなかったらどうしようかと、心もとなかったです。

しかしながら、結果は、上郡中学校の体育館の椅子がいっぱいになり、役場の方が資料を増刷に走るという、うれしい悲鳴でした。
東京や名古屋、岡山や山口など遠方からご参加くださった方もいました。中には、北海道から展示用の書画を送って魂を乗せて参加してくださった方も。本当にありがとうございます。
懐かしい方にもお会いできて、良かったです。

「ダム日本」で連載されていた評伝を出版された高崎哲郎先生が基調講演を50分ほど、その後、パネリストとして、「われ徒死せず」「明治五年・六年 大鳥圭介の英・米産業視察日記」の著者福本龍先生、町史編纂にかかわり大鳥の郷土関連の書簡を解読してこられた竹本敬市赤松小学校長先生、そして、大鳥の生家のある石戸の自治会長かつ、最近立ち上げられた生家保存会会長でいらっしゃる小林登喜夫氏が、それぞれ講演されました。

自分は、パネリストに混ぜていただいていました。一人全く場違いなのが場を汚していて、何だあれは、と思われていたと思います。

印象深かった点は、以下の通りでした。

○ 高崎哲郎氏、基調講演

・大鳥は脱皮を繰り返した。漢学者から蘭学者、蘭学者から洋学者、洋学者から実戦指揮官、幕臣から新政府役人、etc. そして、遅れてきた途上国の日本を近代国家に脱皮させた。脱皮の人大鳥。

・大鳥は人を育てる人である。人の和を重んじる人である。弟子の黒田清隆に救われたのも、ただ冷たい学者先生だったからではなく、弟子を愛する人だったからである。

・「『才能が炸裂する男』…といったら言いすぎですが」

・高崎氏が大鳥に興味を持った最初のきっかけは、今市におられた御婆様ご先祖様から聞いたという思い出話。今市の戦いの際、大鳥は民衆に危害を与えなかった。迷惑をかけることになるけれども了承してほしいと打診していたという、今で言うヒューマニティを持っていた。一方、今市の戦いで、大谷川が血で真っ赤に染まり、一ヶ月近くその色が取れなかった。その思い出話を幼い頃に聞いていたとのこと。

高崎先生は、飽きさせない楽しい話し方で、プレゼンターとしても、とても参考になりました。

○ 福本龍先生

・「父直輔の死の知らせに対する返事」、「フォンタネージ送別記念写真」(産業視察日記の裏表紙の写真はこれのアップ)、「清国公使大鳥圭介より福本伝之助への手紙」、「清国李鴻章より大鳥公使への書簡」など、福本先生の家系に伝わる遺品、その足で歩き全国から収集した資料の紹介。本物の迫力。誰よりも大鳥を深く研究し続けてきた方ならではの、詳細で深い見方と説得力を呈してくださいました。
(「時間です」と遮らなければならなかったことがどれほど無念だったことでしょう)

○ 竹本敬市先生

「大鳥圭介の郷土上郡への関わりについて」というテーマ。大鳥の、故郷上郡に関連する書簡の画像、内容の詳細についてご説明くださいました。「災害救済について」「上郡駅の設置について」「千種川筋の鉄道敷設について」「地域産業の奨励について」。推進の拠点となる上郡と大鳥の位置づけを明確にしてくださいました。

○ 小林登喜夫氏

生家のご近所で、生家保存会を立ち上げられた方。小林さんこそが、今回のフォーラムが実施に至った一番の功労者だと思います。
やさしげな口調で語りかけるように、生家についてのご紹介と、保存会についてのご紹介をしてくださいました。もっとお伺いしたかったのですが、時間が迫っていたために、他にご準備されていた内容をご遠慮されてしまったとか。募る想いもあったことでしょうのに、申し訳なかったです。


コーディネータは神戸新聞社の三好正文氏でした。みな大鳥さんが大好きで、好きなだけ話してしまうので、タイムキープにとても苦労されたこと思います。(すみませんでした)
今回は始まりということで、今後の継続に向けた示唆として、とても良い形で纏めてくださったと思います。

参加者の方には、記念品として、製本された「けいすけじゃ」が配られる予定でした。実は最初に配ろうとしたけれども、みんな読んでしまって話を聞かなくなってしまうだろうからやめた、とのことでした。そして、参加者の方が思いのほか多かったので、アンケートに答えて下さった方にお配りするという方針になったそうです。みなさん、一生懸命アンケートを書いてくださっていました。良いやり方だと思いました。

そのアンケートですが、話が難しかった、という声も多かったとのことでした。たしかに、大鳥圭介とは何ぞや?ということは、ゲストの議員さんの方々が熱っぽくお話してくださっていたのですが、パネルでは突っ込んだ話が主体でした。時間があれば、もっと落ち着いてお話できればよかったです。時間のせいにしてはいけないのですけれども。

参加者の方は、地元の年配の方々と、歴史ファンの若い方々の二種類に分かれていたようでした。遠方から来られた方は、ほぼ後者かと思います。ファンの方には需要が多いであろう箱館戦争の話はほとんどなかったので、その点は遠方から来られた方々に申し訳なかったと感じています。


それから、生家見学会。
上郡町さんのバスで移動され、生家の見学会が行われました。雨の中、石戸の自治会の有志の方々が案内してくださいました。4月に本宅の取り壊しが始まるとのことで、今回の見学会が、事実上生家を見れる最後ではないかと思います。納屋はもう既に取り壊されています。冷たい雨の中でしたが、6〜70名の方が見に来られました。

石戸の皆様が振舞ってくださったコーヒー、紅茶の温かさは、単なる温度のぬくもりだけではありませんでした。強い結束力と暖かな心で、見学者の方々をおもてなし下さっていました。コミュニティの理想的なあり方を見た思いです。
本当にありがとうございました。


ここまで成功裏に終わったのは、綿密な計画、準備をされてきた上郡町役場の方々のご尽力があったからこそだと思います。事前から、様々な関係者の間を走り回って調整され、当日も朝7時から、日曜日というのに課の方が集合して準備に精を出して下さっていました。見えないところでの主役の方々です。

大鳥圭介は、正直、マイナーです。新選組や会津のように、すでにネームバリューのある、その名前で観光資源になるような有名な存在ではありません。まして、言葉が悪いですが、それを餌にすれば収入になる、というものでは決してありません。
その状況で、最初の周知の立ち上げをするのは、限られた予算の中での役場の中でも理解を得るのは大変だったことと思います。意義を見出し、実施にこぎつけるまでに、相当なご苦労があったことと思います。本当に感謝です。


そして、フォーラム実施に至るのに、誰よりも実質的な仕事をされ、縁の下の力持ちだったのは、「おらが村」さんと、小林登喜夫氏です。
お二方の、すさまじい労力ときめ細かな配慮、組織力があったからこそ、大盛況に終わったのだと思います。

おらが村さんは、今回まったく表には出てこられませんでしたが、フォーラムの周知活動、幟やデコレーション、公民館でのおもてなし、そして生家保存会の組織に、私費を投入して並々ならない力を注いでくださいました。

小林さんたちが本気で大鳥の紹介と生家の保存に取り組み、石戸自治会、生家保存会の活動をされたからこそ、上郡役場の方々の心が動かされ、今回のフォーラムの開催に至ったのだと思います。影の最大功労者です。感謝の気持ちでいっぱいです。

思ったのは、本気は本気を呼ぶ、ということでした。
誰かが本気で熱意を持って行動しているから、周囲も動かされる。願望や希望や考えを述べるのは簡単だけれども、実際に行動に移すのが難しい。

できない理由を述べるのは、簡単なことです。時間やらお金やら家族やら仕事やらを理由にすれば、いかにももっともらしくなります。できない理由は、山ほど作れます。

その、できない理由を排して「できる」という状態にするために投入するもの。金であり時間であり手間であり人間関係の調整であり、そういったものをクリアするだけの労力と、「やりたい」という気持ちを秤にかけたときに、「やりたい」というほうに天秤が傾くことが、本気ということだと思います。もちろん条件が厳しくなればなるほど、労力のほうが大きくなり、天秤はそちらに傾く。

つまり、本気とは、できない理由を言わず、金と時間と手間を割いて、行動をして、結果を出すことだと思います。
そして、誰かがその本気でなければ、何も実現しない。

主体的にその「誰か」になるというのは一番難しいことです。その大変な役どころを果たしてくださっているのが、小林さんとおらが村さんだと思います。

フォーラムが終わった時に、「あたし幸せやったわ!」と満面の笑顔で迎えてくださった、おらが村さんが忘れられません。

そして、小林さんのお言葉が、とても印象的でした。

「これだけ来て貰ったら、もう逃げられへんなぁ」

維持し、管理し、運営し、継続していくことは、立ち上げることよりも、ずっと難しいことです。

自治会の方も、「一回ドーンと花火を揚げたけど、それで終わったらあかん。大変なのはこれからや」とおっしゃっていました。何が大変かを知り、それに向かう覚悟がある。心打たれました。

住民の自治会を運営されるのも、現実的で、ポリシーを持ち、細心の心を砕いておられて、本当に勉強させていただきました。自分の仕事でも住民組織、コミュニティ開発というのは重要な項目になるのですが、とても参考になりました。

これだけ主体性を持ち、滅私で取り組まれているのには頭が下がります。
小林さんも、どこか大鳥さんに似ていると思いました。


最後に、福本先生の奥様のお言葉。

「若い女の子も来ててびっくりした。上郡の駅で、ポスターの写真撮っとったで。すごいことやなぁ」

すみません。私も撮ってしまいました。
もとい。心当たりの方は、気合を入れて今日の感想を書いてくださることと思います(笑)


町役場の担当の方からOKをいただいたので、手前味噌で恐縮ですが、自分分の当日配布資料を置いておきます。数日で下げます。
それから、資料リスト
こちらは、お配りしたものに、「参考度」と「小説」の項目を加えています。正月からチクチク作業していたのですが、まだ未完成です。順次更新して、そのうちサイトのコンテンツに加えたいと思います。
(すみませんが、まさか需要があるとも思えませんが、上2点、いちおう禁無断転載という扱いでお願いします)

そういうわけで、幸せな一日でした。
ご来場くださった皆様、上郡役場の皆様、神戸新聞や上郡民報など新聞社の皆様、石戸自治会、生家保存会の皆様、本当にご苦労様でした。そして、ありがとうございました。
これからも、どうかよろしくお願いいたします。
タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 01:26| Comment(14) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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