2008年04月01日

大鳥圭介公を語るフォーラム 新聞記事

4月1日になりましたが、嘘ではありません。
嘘をついているヒマがないほど、現実は充実しております。

まだ興奮冷めやらぬ、「大鳥圭介公を語るフォーラム」ですが、大盛況だった理由の一つに、事前に新聞に掲載されていたことが挙げられると思います。
また、フォーラム自身についても、紹介してくださっていました。

神戸新聞 「大鳥圭介の業績顕彰へ 上郡の生家一部保存」
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0000842684.shtml
(今回コーディネータをされた三好正文氏の、2月19日の記事)

朝日新聞 2008年03月29日「生家が地域交流拠点に」
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000000803290002
(フォーラム前日の記事)

神戸新聞「郷土の偉人・大鳥圭介 初のフォーラムで業績紹介」
http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0000898606.shtml
(フォーラムの次の日の記事。昨日、参加者約350名と書いてしまいましたが、新聞によると450名だったようです)

なお、ネットで見つけることはできなかったのですが、2008年1月29日と2月5日の神戸新聞に、幕末研究の一坂太郎氏が、「兵庫幕末維新列伝 大鳥圭介の生涯」ということで、記事を掲載して下さっていました。

それから、やはりフォーラム前日の3月29日の神戸新聞地域ニュース西播磨版には、「幕末の風雲児 大鳥圭介の生涯 漫画本『けいすけじゃ』」ということで、「けいすけじゃ」が製本されてフォーラムで配布される旨の記事が掲載されていました。「特に若い人に読んでほしい」という、上郡町役場の方の意図があったそうです。

新聞の力が凄いというのはあると思いますが、やはり素晴らしいのは、新聞というメディアを取り込むよう、調整してこられた、上郡町役場さんとおらが村さんたちの見識だと思います。

新聞にせよポスターにせよ、人が集まってくださるよう、心を砕いて調整してくださった方々がいたからこその、盛り上がりだったと思います。

本当に、ありがとうございました。

睡眠不足が続いていたので、今日は寝ます。
目が覚めたらすべて夢でした、というオチだけは、勘弁してください。

(コメントありがとうございます。お返事は明日させてください)
タグ:大鳥圭介
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2008年04月12日

遅い桜と工部大学校阯

3月が終わりません。
この言葉に共感下さいます方、今度飲んでください。

花見どころではなく、連日朝帰りで、気が付いたら桜も散っていました。
世間様では今は歓迎会の季節なのでしょうけれども、うちは赤字で今年も新入社員なし。万年下っ端奴隷です。それでボヤくだけなのも鬱陶しいので、ここでだけでも華やかにやって、花見をした気分になろうと思います。

通勤路で撮った、皇居のお花。すでに10日以上も前です。潔さが愛される桜に対して、今頃になって写真を整理するこの往生際の悪さ。
華々しい散り際よりも、泥臭い生き汚さにこそ、私の美学はあるのです。そう開き直る。

えぇと、写真はすべて、クリックすると大きくなります。

まずは、地図から。Googleさんのものに、点線でルートを書き足ししています。

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最初は、平川の御門。

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ソメイヨシノと、塀の城さ、お濠の緑のコントラストが良かったです。
濠の水はだいぶ富栄養化しているっぽいのですけれども。
塀の色は、年季の感じさせる白さで、いつも惚れ惚れします。白いものを、加工しないままに汚さず白く保たせるのは、結構至難の業ではないかと思います。白く持たせようとすると、どうしても人工のけばけばしさが出るものですが。皇居の塀の白は、どっかりとした格のある絶妙な白さだと思います。

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こちらは枝垂桜。竹橋の手前にあります。
個人的に、樹総体で見ると、桜は枝垂桜が一番表情が豊かで、きれいだと思います。


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アップにすると、印象がぜんぜん違うのですな。花びらがはかない感じです。

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こちらは、寒緋桜。皇居周辺では真っ先に咲く桜です。3月中旬ごろからお目にかかれます。濃い桃色で、しっとりした感じです。
竹橋から北の丸に上がる、坂道の一番きついところに連なっているので、苦しさを忘れてくれる花です。

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続いて、駿河桜。すっきりハキハキした白さの桜です、。
ソメイヨシノと違って萼も緑色で、葉桜になっても緑と白が鮮やかです。
一番生命力を感じさせる桜で、好きです。

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さらにアップ。解剖図が描けそう。

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お次は国立公文書館前。まとまった桃色の桜です。たぶんヤマザクラかと思います。

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アップで撮ると、豪奢です。おしべの根元が赤くて映えます。

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たまには桜ではなく、青いものも。
北桔梗門の前、一番深くなっている乾濠の手前の松です。
ここのお濠も、どっしりしていて美しい。白い壁、青い松が絵になるなぁと思いながらいつも通っています。

北桔梗門は、以前間違えて乾門だと言ってしまいました。
皇居の門の名前と、お濠の名前は、微妙にずれている感じです。

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こちらは乾門前派出所。ここの勤務のお巡りさんは、都心にありながら日本有数の自然風景の中で仕事できるわけで、いいなぁと思います。
いえ、皇居ガードであるから、責任は重いのだと思います。

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首都高速代官町料金所。首都高速はここから地下に潜り、皇居の下を走ります。
しだれ桜が、降り注がんばかりです。

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再度、枝垂のアップ。つい撮ってしまいます。根元が赤かったり白かったり。熟すると赤くなっていくのでしょうか。

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解剖図その2。これだけ見ると何の花かわかりません。
すみません、単にマクロ性能を試したかっただけでした。

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このぐらいが良いです。再度、枝垂桜。スマートな花びらです。

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そして、乾門。満開のソメイヨシノに彩られています。
思わず背筋を正す威厳があります。

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北の丸の枝垂れ桜。遠くから見ても良いです。
この向こうに、科学技術館と吉田茂像、それから日本武道館があったりします。

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代官町通り。ゆるやかな登りが続きます。この道はランナーのメッカ。外人さんも多いです。ときどきぶつかりかけて、ヒヤッとする。
緑が多く、ディーゼルも規制されて、大都市の都心とは思えない空気の贅沢さです。

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ソメイヨシノの続く並木道です。
ポリスポストのお巡りさん、24時間、交代で立ち続けています。ご苦労様です。
写真を撮り忘れましたが、この道向かいに、国立近代美術館工芸館があります。赤レンガの明治洋風建築。晴れた日に青空に映えるのが、息を飲むほど素敵です。

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やっぱり、桜の主役はソメイヨシノです。

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そして、お花見のメッカ、千鳥ヶ淵公園。半蔵濠に沿って続いています。
朝から背広で場所取りしている人もいます。自分も若い頃はテントを持ち込んで前日夜からやっていました。結構寒いのです。意味のない馬鹿さが許されるのが、花見の良い所だと思います。

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黄色いのも混ぜてみる。半蔵濠沿いの土手には菜の花です。春だなぁ。

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こちらは英国大使館並びのソメイヨシノ。
皇居半蔵門を見渡す位置の大使館。良いところに建てたなぁ。当時は日本政府の土地供与だったのだろう。

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半蔵門。まっすぐ行くと国立劇場。
桜千本の道は伊達ではなく、これでもかというぐらいソメイヨシノが並んでおります。

皇居巡りはここまでです。


時は過ぎて、先週の日曜日。都立図書館に行ったので、その際の有栖川宮記念公園。

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付近の家族がお花見大会をしていました。
もうだいぶ葉桜になっていたのですが。盛り上がっていました。

そういえば、先輩が連れてきたカンボジアからの研修生が「日本人は桜の下で酒を飲む民族なのか!」と感動していたそうです。よそ様から見れば、ちょっとしたカルチャーショックであるようです。

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牡丹桜。八重桜とも言います。
八重桜はソメイヨシノよりも開花が遅いので、ちょうど今頃が見ごろではないかと思います。
ほわほわしていて、ソメイヨシノよりもお得感があったりする。


さて、桜ばかりも何ですので。移動しました。
行き先は、虎ノ門。

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ありましたー。
工部大学校阯。
一時的に撤去され東大に保管されていたという噂で、3月中旬ごろに戻ってきたと聞いて、ずっと確かめたいと思っていたのでした。

探すまでもない。桜田通りと外堀通りの交差点すぐ傍の、文部科学省の前の、大変目立つところにありました。

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平成6年に、千代田区が有形文化財に指定してくれていました。霞ヶ関R7プロジェクトの前で良かった…。文化財指定があれば、環境アセスメントでは必ず考慮されますから、撤去の心配はしなくてよかったのです。

工部大学校は「日本の工学発祥の地」として、しっかりとその位置づけを示して下さっています。
「千代田区内において、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を後世に語りかけてくれます」
と、千代田区教育委員会が説明文を詳しく付けてくれていました。

案内板には、碑文をすべて読み下して記されています。
なお、「はまだより」様の発祥の地コレクションが、フルテキストをアップしてくださっています。

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撰文には、曾禰君の名前がしっかりと。
曽禰達蔵は、工部大学校の貴重なエピソードを多々語り残してくれています。当時の日本がいかに国策として重きを置いて工部大学校におけるエンジニア要請に賭けていたかを語ってくれた方です。彼が残してくれた言葉があるからこそ、今の我々が工部大学校と技術者教育の価値と意義を噛み締めることができます。
石橋絢彦と共に、工部大学校の語り部であり、技術史の恩人です。

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「工部大学校阯」のアップ。関東大震災の震災で倒壊した建造物の煉瓦石材鋼材などを収集して素材としたということ。この震災で、工部大学校の建物も相当な被害を受けたので、もしかして工部大学校のレンガも使われているのではと思ったのですが。建てられたのは昭和14年なので、難しいかもしれません。煉瓦に何か乗り移っているのではないかと思うような存在感があります。

工部大学校出身者は「頗ル懐古ノ情ニ堪エサルモノアリ」としてここを「聖蹟」とした。彼らにとっては、工部大学校は単なる母校というだけではなく、人生の出発点であり、国の出発点だったのだという思いが伝わってきます。

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場所はこちら。すぐ傍の案内看板より。
虎ノ門5番出口から出ると近いです。

すぐ後ろに、原書という書店があります。官公庁のど真ん中だけあって、ビジネス・教養書が豊富です。歴史関係もどっさり。日本を背負うならこのぐらいは読め、といわんばかりの、洗練されたラインアップで、素晴らしいです。


という感じで。長々とやってしまいました。

仕事の合間と通勤で巡るだけで、これだけ見て回った充実感があるのですから、東京という町は奥深いです。

来年こそ、ゆっくり花見を楽しめるように、段取りしたいです。
東京を楽しめるよう、自分を持っていくのも、自分次第。せめて3月は3月で終わらそう。
こんな社会人にならないよう、新社会人の皆様、どうか要領よくお過ごしください。

タグ:工部大学校
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2008年04月14日

奥羽出張病院と戊辰戦争の病院事情

面白い資料があったので、一つご紹介させてください。

「『奥羽出張病院日記』の研究 戊辰戦中の一軍事病院の実態」

というもので、佐久間温巳氏が「医譚」という医学雑誌の70号・71号に寄稿された論文です。

「医譚」は、日本医史学会の関西支部が発行している、医学の日本史についての専門誌です。圭介の孫の大鳥蘭三郎氏が「医学者としてのヘボン」という題名でヘボンの日本における事跡を紹介したり。幕府奥詰医師、製薬局務を管轄して箱館病院を建設したり七重村に薬草園を開いたりした栗本鋤雲さんについての詳細な記事があったり。
幕末期についても、医学誌ならではの深い見方が記されています。医学は歴史がよく調べられている分野だと思います。

「奥羽出張病院日記」は、新政府軍の平潟口軍が運営した野戦病院の頭取、阿波藩医の関寛斉による、戦中の手記です。

筆者は軍医と病院管理者を兼任していた忙しい方。ですが、まれに見る筆まめな性格だったとのことで、戊辰戦争の野戦病院について、医療面、管理面の双方から詳しく記録をされているそうです。原本は北海道陸別町郷土室に保存されているとのこと。なぜ北海道にあるのか不思議ですが、これを読み解き、データとして纏めてくださった佐久間氏は素晴らしいお仕事をされたと思います。

平潟は、今の北茨城市にあります。新政府の奥羽戦争の拠点となった港町です。
新政府軍は、慶応4年5月15日上野戦争で彰義隊を壊滅させ、江戸を平定させました。そして6月に、陸前浜街道方面を平定するために、茨城の北の港、平潟に向けて、兵や物資の輸送を海路から行いました。
派遣された兵は、薩摩、大村、佐土原、鳥取、備前、広島、津、柳川、徴収、岩国、久留米、佐倉などの各藩から成ります。兵員数は6000以上。最も多いのは薩摩の876名で、鳥取17小隊約850名、津の830名、長州の四個中隊約800名もこれに匹敵する数です。

6月13日品川発、16日に平潟着。平潟は、この後、連戦の続く奥羽列藩同盟軍との戦闘の、上陸・補給拠点となります。

位置関係図。日付は戦闘の起きた日です。

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平潟口では、仙台藩を中心として、平、相馬、三春、福島など奥羽列藩同盟軍が抵抗しました。林忠崇や人見寧の遊撃隊や、中村・平藩、純義隊なども参加していました。
6月17日に関田、18日に植田、24日に八幡山と連戦。28日新田坂・泉館戦では、仙台藩が大江・長崎丸を出して、大隊を揚陸させています。

7月1日には、新政府軍は平城の攻略が始まり、激戦の末、7月13日に平城は落城。この平戦には、田島編成後の伝習第一大隊も参戦していましたが力及びませんでした。
新政府軍はその後三春へ向けて行軍。27日、戦闘もなく三春二入場。白河口の板垣軍と合流して、さらに相馬、浪江、黒木、駒ヶ嶺などで戦闘を繰り返します。

平潟口新政府軍は、平(磐城平)、新町、三春、二本松と進軍した山道軍と、四倉・広野と進んだ海道軍に分かれましたが、病院は主に海道軍を収容しました。
あくまで野戦病院ということで、重傷者は横浜におかれた軍陣病院である野毛町修文館まで、海路、船で輸送されました。

この奥羽出張病院について、戊辰戦争の病院や治療のあり方について、なるほど、と思うところがいろいろとありました。
論文で纏めてくださっている、興味深い点を列挙してみます。

・新政府軍は、参戦した各藩の藩医を寄せ集めて病院を作る予定だったが、実現しなかった。実際の医師は、寛斎が自分で門人や知人を集めたほか、現地徴用も多かった。笠間藩医、上小川の村医などが現地から参加した。

医師を差し出すことで恭順の意を示したという、地元の小藩もあったのではないかと思います。

・ 三春の竜隠院にも野戦病院がおかれた。頭取は佐藤進。

この方は佐倉藩医で、佐藤泰然の孫。堀田正睦の招きを受けた佐藤泰然が天保14年に創設した医学館である順天堂の三代目主。新政府で発行された第一号旅券を持って、6年間のドイツ留学で学んでいます。佐藤進は、テロに遭った大隈重信の切断手術をした方でもあります。当時の外科医学界の第一人者。大鳥の友人でみちさんの手当てをしていた池田謙斎とも親しい方です。
佐倉藩は平潟口にも250名ほど藩兵を派遣しています。佐倉は徳川譜代藩でしたが、江戸留守居役だった依田学海をはじめとした知識人が時勢を読み解き、新政府に付きました。
佐倉藩は、蘭癖藩主堀田正睦の勧めの元、相当な洋学者を排出していて、明治でも活躍した方が多いです。時勢を読み新政府に恭順し生き延びようとした典型的な藩だと思います。

一方、林董、大築尚志、荒井宗道など、大鳥の友人も佐倉には多いです。大鳥の家族、みちと子供たちの避難先も、この佐倉でした。大鳥の脱走にも佐倉藩士の木村隆吉が同行していますし、この木村は彰義隊に身を投じました。恭順したというのも藩が生き延びるためで、好んで旧幕府と対立したわけではない。


・ 野戦病院といっても、後年のように、戦闘第一線のすぐ後方にあり傷者を収容治療することはできなかった。人手不足で、医師から会計係まで奔走して負傷者収容にあたった。負傷や荷物を運搬する人、道具が足りず、横浜移送の船便も不足していた。英国船を雇って運送した場合、一人10ドルを支払った(1ドル=約1両)。後に相馬に野戦病院を新設した。

・ 海路横浜への移送は、船の不足のためか、7月25日を最後に打ち切られた。その後病院には重傷者が充満して動きが取れなくなった。白河口の兵士は、船便がなくなったために二本松から陸路で横浜に移送された。

このあたりは、最初の見立てが不足していたのか、戦闘が思ったより激しかったのか。
新政府もリソースが無尽蔵にあったわけでは無論なく、兵站には苦労しています。苦しいのはどちらも同じ。


・ 野戦病院では、戦傷以外の、伝染病や慢性病については「平病」と称して、重きを置かなかった。冷淡な取り扱いで、記録も見られないとのこと。東京に戻っても「平病人は東京にても一切御世話無之事」と指示されている。予算不足のほか、平病は武士の面目にもとるという考えがあることと、平病を理由に戦線離脱する兵士がいたから、ではないかと著者は推測している。一方、奮戦した戦傷者は丁重に扱った。

当時、戦傷こそが武人の証であり丁重に扱われたけれども、戦病人は補償もなく打ち捨てられた。一方、連日雨の今市に駐屯した土佐兵などは、悪天候で病人続出だったといいますが。故郷から離れた劣悪な環境で病気になれば戦線から離れたいでしょうし。戦は、戦場以外の場所でも戦いだったと思うのですけれども。このあたりは武士とは何ぞやという考えが出ていて面白いです。


・入院した戦傷者数は、一番多いのが薩摩で、参戦876名に対して90名と1割以上。ついで鳥取58名。一方、長州は約800名に対して入院者15名。

各戦記でプレゼンスの高い薩摩、鳥取の奮闘の様子が、入院者数からも伺えます。戦争は、損害が一割を超えると大被害といいますが。その一割を数字に出している当たりが、薩摩らしい感じがしました。


・戦傷の原因は、判明している戦傷者数276名に対し、銃砲による者が227名で82%。一方、刀傷は25名で、9%にすぎない。また、負傷者に対する死者の割合は、銃砲傷は227名中24名と一割を超えているのに対し、刀傷の死者は25名中1名のみ。

これを見ても、いかに戊辰戦争が、刀ではなく銃砲が主力であったかが伺えます。白兵戦も各戦記には見られるけれども、損害のほとんどは銃砲によるものだったといえます。


・医師の手当ては、支度金は関寛斎は100両、その他医師は15〜30両。月給は関寛斎が25両で、門人や現地徴用医は3〜5両。8月から御進軍心付という名で、危険地手当てのようなものが支給されている。3〜5両。

伝習隊一般兵士の給料はたしか3両程度。箱館では1〜1.5両。新政府側はすぐには出てこないのですが、似たようなものではないかと。医師は、命を懸けて戦う兵士よりは待遇が良い。江戸時代は医師の社会的地位は高くなかったといいますが、この待遇面では、医業がそれなりの専門技術として評価されていたといえるかと思います。

・病院経営のための必要経費支給のために、関寛斎は大変な努力を要した模様。寛斎自らが金策に飛び回っていた。資金が払底したために、患者以外の食事は、朝昼は香の物一点、晩に一汁香の物のみ、と切り詰めた。患者の費用は一人一日一両と決められていた。

資金不足はいつの時代も運営者の悩みの種。患者の費用を切り詰めなかったのが偉いです。

・奥羽出張病院の総支給額は、6月から11月の約半年で8340両、総支出は8329両。

今の感覚で大雑把に言ってしまうと、約1億円ぐらいが、平潟口6000名の兵の医療費だけで支出されたことになります。現在価値の円の感覚で強引に算出すると、兵頭数一人当たりで約17,000円、戦傷者一人当たりだと約36万円が費やされたといえるかと思います。これを妥当とみるか高いと見るか。今の保険の戦争危険特約保険で3ヶ月で20万円強ぐらいかかるから、安いといえばそうかもしれない。


などなど、戦地の病院における財政状況もよくわかりました。
後方支援がしっかりしている官軍にしてからがこの状態だったので、奥羽列藩同盟や、まして流浪の軍たる大鳥軍の状態は、推して知るべしかと思います。

宇都宮戦争の後で、伝習隊には望月元有という医師しかおらず、200名に上る負傷者の手当てが仕切れず、天候が悪いのもあいまって、傷は腐敗糜爛して酷い有様だったと浅田君は記述していました。なお、日光で、松平太郎さんが小林文周と青木文岱という医師をつれてきてくれたので、だいぶ治療が進んで助かったという一件もありました。

箱館戦争はその点、箱館という拠点があり、院長高松凌雲以下、分院もあり優秀なスタッフがいました。また、各連隊に病院掛があったり数名の医師が配置されていたりで、物資もあり、諸兵は、安心して戦えた、まで言うと言いすぎかもしれませんが、野州戦に比べると、かなり状況は良かったのではないかと思います。

こうした戦争においても、単に政治や戦闘に焦点が当てられるのではなく、戦争の背景にあった各分野研究が進んでいるのは、より立体的に眺めることができて、ありがたい限りです。

戦争は、一つの完結した社会であると言います。軍組織の中で、インフラも兵糧から輸送から、医療や、休養や、兵士の年金まで、社会で必要なことはすべて賄わなければならない。単に優秀な指揮官がいれば勝てるわけではない。戦いを成し遂げるまでには、膨大なインプットを必要とする。隊の強さというのは、こうした後方支援の強さによるところが大きい。その意味で後方支援こそが重要な戦いであるといえるかと思います。逆に言えば、後方支援が成立していないなら、戦などやるべきではない。もちろん、いくら後方支援が優れていても、現場のトップが駄目だったら何にもなりませんが。

その後方支援確立のために、大鳥さんは飛び回って、会津がスポンサーになるようにして、徳川の遺産の軍を半ば傭兵化させて戦った。戦争を続けさせるということ自体が、大変なことです。弾薬糧食に事欠く中、仙台まで軍を率い続けたということが、指揮官としての大鳥の凄い点だと思います。

榎本さんも、徳川海軍を手中に脱走し蝦夷新天地を目指しましたが、凄いのは、そのために、徳川三千の兵士を養うだけの金と物資を揃えたことにこそあると思います。

戦争は、どの戦闘で誰が勝った負けた、という単純なものではなく、戦争を可能にする仕組みを一つ一つ捉えないと、本質はなかなか掴めないものだと思いました。
タグ:戊辰戦争
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2008年04月20日

土木学会付属図書館リソース

うわあ。
と、思わず歓声。

土木学会撰、戦前土木名著100書ですが。
なんと、全編PDFダウンロード可として、アップしてくださっていました。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/s100list.html

土木学会付属図書館のページ内です。素晴らしいです。
まさに、過去の尊い知的財産を現在に伝える行いだと思います。

大鳥圭介の堰堤築法新按も、もちろん全ページ入っています。

田邊朔郎については、かの日本人のみで作り上げた琵琶湖疎水のノウハウ集である「袖珍公式工師必携」ほか、「琵琶湖疏水工事図譜」「琵琶湖疏水工事図譜」、「とんねる」の4点が。

田邊朔郎の凄いところは、自らが苦悩し葛藤しながら率いた事業について、そのノウハウや知見を後の人間が活用できるように、惜しげなく労を惜しまず、きっちりと筆と図面を残してくれているところだと思います。

それから、西川正治郎氏の「田辺朔郎博士六十年史」、 故広井工学博士記念事業会編 の「工学博士広井勇伝」、故古市男爵記念事業会編 「古市公威」の、貴重な戦前の各伝記、さらには 土木学会編 「明治以前日本土木史」 さらには工学会の「明治工業史」など体系まで。

さらには、ファン・ドールンやデ・レーケの訳書まで含まれています。

国会図書館のデジタルライブラリとの重複もありますが、デジタルライブラリは大正の一部までしか含まれていないですし。昭和前期は紙が悪くて本が傷み、マイクロフィルムもまだ作成されていないので複写も禁止、という本が多いので、こうした集成のデジタル化は、大変ありがたいです。

なお、土木学会付属図書館のページですが、上の名著100撰のほかに、大正4年発刊の土木学会誌も、戦前の各記事がダウンロードできます。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/index.html

古市公威の公演が発刊号に。広井勇や田邊朔郎の論文は毎号のように。さらに「海中工事に於ける鉄筋混凝土」として石橋絢彦も寄稿しています。青山士や八田嘉明のように土木史にはおなじみな方々も。凄いです。まぶしいです。

土木学会付属図書館は、会員50円/枚、非会員100円/枚という複写料金高さに及び腰だったのですが。

ここまでやってくださると、足を向けて眠れません。
あたかも、日本全国民に、おのれが国土を造ってきた先人たちの労苦の結晶たる土木史にまず目を向けよと、檄を飛ばすかのような偉業です。


この間の早稲田大学図書館の古典籍データベースもそうでしたが。
手続きの煩雑さや所在の知れ渡らなさは、それだけで先人の遺産にふれるバリアになるのですが。それを排して万人の手に触れられるよう利便性を高めてくれるのは、本当にありがたい限りですし、国全体の知的教養の底上げに資することだと思います。

あとはそのリソースを使いこなせるよう、使用者たる自分の質を高めていきたいです。む。
posted by 入潮 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

戻れない人

「あぁこれで戻れない」

と嘆く方がいます。

ある趣味の分野でいろいろと買い揃え、散財をしてしまって、これでもう真人間には戻れない、というところでしょうか。

最近、オタク擁護派のメディアのおかげで、なんだかオタクという言葉が一般的になってきて、あまつさえ、オタクがちょっとカッコいい、という印象まで持たれるようになりました。

そのせいか、自分がある趣味の世界に足を踏み込んだことを、嘆きつつどこか自慢げに語る方をよく耳にする気がします。

たとえば釣り。

上司には釣り好きが多くて、飲むとよく釣りの話になります。
槍ヶ岳で渓流釣りのために川の中を10km歩いて足が靴の中に入った石で爛れたとか、モンゴルでイトーを釣って岩塩だけでたらふく食ったとか、ブータンで渓流釣りをしていたら(崖から落ちてきた)車のパーツが釣れたとか、そういう話は楽しいです。

釣り自体には興味はなくても、そうした話にはふんふんと聞き入ってしまうものです。

一方、ロッドとルアーを入手したとか、釣りの本を買ったとかいう話で「あぁこれでもう戻れないな」と嘆息する方もいます。

正直言いますと、そういう格好の話をされても、余り興味が持てません。

「それって要するにファッションですよね。中身の無い格好だけの段階なら、いつでも真人間に戻れるんじゃないですか」

という言葉が、咽元まで出かかります。ただ、それを言うと人間関係に支障を来たすので、中々言えません。

ルアーも本も、金さえ出せば誰にでも揃えられます。
一方、そのルアーを使った体験や知見といった中身は、金では買えない。その話は、本気で行動した人にしかできません。

ハマッたというのなら、その行動を行った中身や結果を語ってほしいなと思ったりします。
釣った魚を捌くために3万円出して通販でナイフを買ったら海魚と川魚は違うのか切れなくて困ったとか、あまった餌を車の中に忘れて腐らせてひどい臭いが車に染み付いたとか、そういう体験談には大いに関心があります。どうせなら、行動した自分にしかできない話を披露してほしいなぁと思います。

格好やモノを整えて外見を飾ったなんちゃってオタクの方は、せっかくの投資が無駄にならないよう、ぜひ中身まで進んで、自分にしか言えない体験や知見を語ってほしいなぁと思うのです。

歴史という趣味にもそんな感じを抱いています。

本や史料をコピーした、買った、という話なら、そうですか、という感じで終わってしまいます。

その資料を手に入れたのなら、やはり中身を語るほうがいいのではないかと思います。その資料から得られるものとして、既存の認識を深めるデータや、既存の考えについての異論や、登場する人物の特筆すべき行動や考え方など、語るこはたくさんあるはず。せっかく資料を手にするのなら、その資料を生かす行動にまで及ぶといいと思います。本気で読んだなら、それについて何か言いたくなってしまうものではありませんか。

また、一つの史料を読むと、それが本当なのか、書かれた内容が生じた時代背景はどうだったのか、同時代の同じ事件に遭遇したほかの人の見方はどうだったのか、といった、周辺事項にも興味がわきます。それを集め読んでいるうちに、同じ事柄に興味のある方とのネットワークも生まれてきます。

戻れない、と言う方は、すでにそうした行動をし、行動が行動を呼んでいる状態の方を言うのではないかと思います。

そうしたことは、日常の会話だけではなく、特にブログなどの日記おいても同様に感じます。せっかく記録として残ることですから、その人にしかできないこと、その人ならではの考えを語っていただけると、読んでいてとても楽しいです。
といいつつ、自分も、後から自分の記事を見て、なんでこんなに下らない自分語りを…とがっくり来てしまうことがよくあります。表面的な話は、なんだかんだ言って、楽なのでついやってしまうのであります。

そして、自分も、入手したということだけを言い中身を語らないで終わってしまうことが多いです。けれどもそれは結局、「その史料を持っているワタシ」を自慢したいファッションのように見えて、あとから恥ずかしい思いをしたりします。

一方、歴史ファンの方は、中身にあふれている方が多くて、ブログやサイトなど巡るたびに、感嘆します。それを収入源にしているわけではない、むしろ交通費やコピー代を費やし、テキストにする労力を注ぎ、ひとかたならぬ身銭を切っていて、それをおくびにもださずに、価値のある中身を語る。どこからそうしたモチベーションが現れてくるのか不思議になったりします。そして、史料の記述の中身から、小説や読本などから一般的になっている認識に、そうではないと斬り付けている方などは、拍手喝さいするほどの格好よさを感じます。

そもそも「戻れない人」は、戻るかどうかなど考えもせず、気がついたらいつの間にかその境地に達しているものなのでしょう。

どんな分野でも、中身のある「戻れない人」が、自分は好きです。
そうした方々の爪の垢を煎じて飲みたいと思いつつ。
まずはコピーしただけで満足し床に積みあがっている資料を、アクセサリーにせず、何とか実のあるものにしたいと思います。
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2008年04月24日

宇都宮農民たちの手紙その1

GWという単語を、良く見かけるようになりました。

何ですかそれ。

電力の単位ですか。
送電線の架空地線ですか。
モーモーさん模様のPCですか。
人材派遣会社ですか。
バイクのジャケットとグローブのメーカーですか。
男子寮の悪党の巣窟漫画ですか。
それとも五人組の男の子が出てくるニュータイプの物語ですか。
全部分かった方、お友達になってください。

こちとら出張予定です。また、笑顔に包まれた家族連れやカップルの間を掻き分けて、報告書の詰まったくそ重たいトランクを持って空港に行かねばなりません。
なんだか去年も似たようなことをのたまっていた気がするデジャブ。

しかも入札があり、出張までにそれを片付けていかねばなりませんので、4月まるまる休日出勤予定です。

世間様に向かってちゃぶ台を投げちゃっていいですか。


そんなくだらない手前愚痴で嘆いていても鬱陶しいだけなので、戊辰戦争ネタ。


芳賀町史史料編近現代に収録されている細川司郎家文書というのがあります。

細川司郎家には、戊辰戦争中にやり取りした手紙類がいくつかあり、小山、宇都宮、壬生などの戦争について、地元の学のある豪農たちがやり取りしたものが色々残されています。民草が戊辰戦争をどう受け止めていたのかが生々しく分かる資料です。

この中にある、慶応四年四月廿四日着「素亭より素真宛書状」。
日付は、宇都宮戦争の直後。官軍が宇都宮奪回し、脱走軍は日光へ向けて敗走している日です。

記述者の素亭さんは、本名大島半左衛門、宇都宮道場宿の問屋商人。受け取り主の素真さんは、本名綱川源次右衛門で、小惣代を勤める豪農だったとのことです。雅号で書簡のやり取りをするぐらいですから、郷土の一般人といえ結構な知識人の方々だったのでしょう。民衆もまた、こうした手紙のやり取りで情報交換をし、資産を隠したり避難するなどの必要な行動を決めていました。

その手紙の内容。壬生と宇都宮の戦闘についてです。読点を入れています。

「当月廿二日、官軍壬生へ先陣之分乗込候趣二付、宇城二屯之会勢凡弐千人位安塚辺へ操(繰)出し、雨中之厭も無之、同所之原二て勇戦御座候所、壬生ハ最初東軍へ降参之体二有之、空砲のミ東軍へ打出し候二付、東軍大二安気二心得候所、半頃二相成、例之唐人笛吹立候二付、東軍相集候所裏切と相変、俄二手詰之戦二相成、死人双方に数不知、雨中之珠之外成英戦之趣御座候、此間之御文通二ハ壬生城落城と申上候得共、只今二至り承り候処、左二之無、東軍少し敗軍二て其日宇都宮へ引込物わかれと相成候」

4月22日の安塚・壬生の戦い。
官軍の先陣が壬生へ乗り込んだところ、宇都宮に駐屯した会津勢約二千人が、安塚あたりへ繰り出し、雨中をものともせず、安塚の原で勇戦した。壬生は最初、東軍へ降参しようとしていて、空砲だけを東軍に打った。すると東軍は安心した。しかし例の唐人が笛を吹き立てたところ、東軍が集っていたところで裏切りとなり、俄かに手詰まりの戦となり、死人双方に数知れず。雨の中ことのほか英戦を行った。先の手紙で壬生は落城したと申したが、今になってそうではなく、東軍は少し敗れて宇都宮に引込んだことがわかった。

とのことですが。

地元の方は脱走軍を「東軍」と呼んでいたようです。
一方、第二大隊の人たちはみんな自分たちを「脱軍」とか「脱走兵」とか「浮浪軍」とか、実もフタも無い呼び方をしていました。

さて、大川が攻めた壬生城。
壬生城は兵がおらず空っぽで、かろうじて残って負傷者を手当てしていた壬生の藩兵が、かがり火を焚いたり空砲を打ちまくってたくさん兵がいるように見せかけていた。大川は、挟撃して襲撃してくるはずの会津も、安塚にいった隊も来ないので、多勢に無勢だし、城攻めやめた。雨の中、放火だけして退路につく。途中で土佐の一隊に出くわし、味方のフリをして油断させて、兵に狙撃させて首を上げた上、糧食を奪った、という件ですが。

何だそれ、と思う記述にあふれています。
「例の唐人」って何ですか。唐人が笛を吹いたら東軍で裏切りが出たとか、その後で雨の中壬生で英戦したとか、わけの分からない話になっています。
しかも先の手紙では、壬生は東軍により落城したと報じられていたらしい。この壬生の落城の誤報は、実は江戸の土佐藩の板垣や谷のところにも伝わっていて、彼らは急いで土佐藩の残った兵をかき集めて出陣したのですが。

大川の壬生放火、いろんなところで話が大きくなっています。

ちなみに、大川が壬生の帰りに土佐の一隊を襲って輜重を奪ったために、次の日土佐兵は飢えて、動く気力も無く、かろうじて付近の民家から米をもらったり因州の炊事番に飯を恵んでもらったりという有様で、空腹で宇都宮城攻めに参加できなかったという羽目に。

このときの土佐の輜重奉行は早崎兵庫。彼が、軍資金や食料、弾薬を抱えて遁走した上、壬生は落城したと思い込んで本藩に報告してしまった。そのために江戸に詰めていた土佐の板垣と谷干城が真っ青。ろくに荷造りもせず兵の宿代も持たずに大急ぎで江戸に残った土佐藩兵をかき集めて、宇都宮へ向かった。これはもちろん宇都宮奪回戦には間に合わず。谷は、「宇の城、進軍の期に後れたるも、兵食の不行き届きによるなり。進まんと欲すれども、食なければ能はず、戦はんと欲すれども、食なければ戦ふ能はず」と、東征私記で慟哭しています。

しかも、土佐藩は安塚には参戦したのですが、共に出撃した因州藩の河田佐久間が安塚戦の功績を独り占めにして報告してしまった。このあたりは各藩の戦功争いのせいですが。土佐は宇都宮戦でプレゼンスを全く示すことができなかった。

なお「流離譚」によると、輜重奉行の早崎は、壬生での責任を問われて土佐に送り返され、追放処分になってしまいました。
土佐と因州は、徹底的に仲が悪くなったとのことです。

大川正次郎。
図らずしも己の行いが、周囲をドタバタさせる。
トリックスターな人です。

ここで眠くて力尽きました。続きはまた明日。
posted by 入潮 at 03:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月25日

宇都宮農民の手紙 その2

細川司郎家文書 慶応四年四月廿四日着「素亭より素真宛書状」続きです。

4月23日の宇都宮奪還戦。

「昨日ハ昼四ツ頃より六道口より宇都宮、壬生を先陣といたし官軍せめ掛り候所、大二炮戦、当村までハ手二取様大炮之声相聞、近二てハ引切りなし大小之鉄砲豆煎之様二有之との儀二御座候、昼前官軍少し敗軍二て大炮六挺二玉薬箱共東軍へ分取、然ル所官軍勢いつれ二も大軍故更二勝敗無之、東軍二ハ城内へ三千五百人、明神之庭に五百人、東照大権現之旗空天二ひるがへし、血戦死人四百人二及候趣御座候、(略) 昨夜は大炮之声喧敷相聞候間、当村渡船場辺二も存候間、一同起上り心配仕候処、左二無之、地雷火ヲ東軍二て仕掛候て火之附き哉二申者も有之、又一説二は明神様之御飛ひなさん候音とも申し候」

昨日、午前10時ごろより、六道口から宇都宮と壬生を先陣にした官軍が攻め掛かりました。砲戦が盛んで、私の村まで手に取るように大きな砲声が聞こえてきました。近くではひっきりなしに大小の鉄砲の音が、豆を煎るような有様とのことでした。昼前に、官軍は少し敗れて、大砲六艇(門?)が弾薬ごと東軍に分捕られました。けれども官軍は大軍でしたので、まだ勝敗はつきません。東軍は城内に3500人ほど、明神山には500人立てこもり、東照大権現の旗を天空に翻して血戦しました。東軍の死者は400人に及んだと言います。昨夜は大砲声やかましく聞こえて、私の村の船渡場あたりにも及んでこないか一同心配していましたが、それはありませんでした。東軍は地雷をしかけて火をつけたという者もいます。また、明神さまがお飛びなさった音だという説もありました。

素真さんのいた村は、芳賀郡芳賀町給部で、宇都宮から西北西に20kmぐらい。

送り主の素亭さんは、宇都宮の西5kmにある宇都宮市道場宿町の方です。
「当村渡船場」とある通り、鬼怒川沿いの宿場町のようです。

5kmぐらいしか離れていないと、大砲の声も良く聞こえたことでしょう。

人数は、だいたい大げさに伝わるようです。城内3500、明神山500ということは4000もの大軍です。
ただ、場内にいたのは、市川結集時で2000、それから草風隊や会津砲兵隊が加わったとはいえ、せいぜい2500人ぐらいと思います。3000人には達していないでしょう。
死者400というのも多い。南柯紀行では70〜80、負傷者は約200ぐらい。

東軍が地雷をしかけて火をつけた、という話。東軍が本当にこの時期に地雷を製造をしていたかどうかは不明ですが、地雷がすでに庶民の間で有名な武器だったというのは驚きです。

砲弾が天を行きかう音ですが。明神さまがお飛びなさった音だという説も。このあたりは微笑ましい。
明神さまというのは、宇都宮二荒山神社を、明神山とも言いますので、ここのご神体かと思います。二荒山は城のすぐ北にあり庶民も戦見物をしていた、高台の要地です。

さすがに明神様は飛んでいなかったと思いますが、宇都宮の空にも、東照大権現は翻っていました。


そして最後。

「東軍御触二ハ、近在二おゐて人数之内、乱放(暴)金作等致二おゐてハ、打取候様之御沙汰、既に昨日柳原五郎右衛門方へ弐人相越候所、鉄炮二て壱人打ころし壱人迯去り候趣御座候、今泉二ても三人討ころし、又今日三人柳原二て討ころし之由、此上触二てハ不相叶候間、隣村々御組合村へも御談示之上、其辺へ落人罷越候節ハ、必討取之方専一二御座候」

東軍のお触書に、近辺にある兵員のうち、乱暴し金策する者においては、討ち取るようご沙汰があった。すでに昨日、柳原五郎五郎右衛門のところに二人ほどやってきたので、鉄砲にて一人撃ち殺し、一人は逃げ去りました。今泉でも三人撃ち殺し、今日また柳原で三人撃ち殺しました。これ以上はお触れで示されたこととして行うことはできないかもしれませんが、隣の村の組合村ともご相談の上、この辺りを落人がやってきた際には、必ず討ち取るようにせねばなりません。


東軍から、東軍の兵に地元民に乱暴を働き勝手に金策して金を奪う者がいたら、討ち取るよう触れが出ていました。

この触れを出した人。
宇都宮の治安悪化を放置していた秋月や土方であるとは考えにくい。
間違いなく、入城後、兵の狼藉に頭を悩ませ、自分で対処し、見せしめの斬首までさせた総督でしょう。

どこの世界の戦争に、

農民さん、ウチの兵士のオイタがすぎたら殺していいですよ。

などという触れをだす指揮官がおるか、と思います。
これは大鳥さんにしかできない、斬新な仕事だと思います。

大鳥が、兵に愛情を持っていなかったかというと、決してそんなことはないかと思います。
南柯紀行の戊辰戦争中には兵士の名前はほとんど出てこないですし、牢獄では兵士と同じ部屋にされたということをわざわざ記しているので、士官と兵士との間での区別意識は確かにあったかと思います。
ただ、士官、下士官、兵の序順は近代軍隊たるもの必須の階級構成ですし、そうした区別感覚はあって当然のものかと思います。

一方、己が組織し、徴募し、育ててきた兵たちですから、愛着はそれなりに大きかったのではないかとと思います。

大鳥は、兵が死んでも泣きませんが、兵が生きて帰ったら涙を流す人です。

また、散兵戦術では、兵一人一人の価値は高いです。散開してから自分で動ける、身体能力の高い、判断力のある、訓練された兵が必要です。命に貴賎はないというのはごもっともな倫理ですが。戦力だけ定量化すると、訓練と実戦で叩き上げられた伝習兵は、ろくに訓練を受けていない農兵の、5倍10倍の価値があります。あくまで戦力で言うとです。

感情を抜きにしても、大鳥にとって、兵は、大事です。

その兵に狼藉強盗されたら、農民に殺しても良いと、触れを出す。

それをするのが、大鳥圭介という人だと思います。


農民出身知識人の大鳥にとって、農民の生活が社会にとって大事というのは自明のこと。大鳥は、農民出身ならではの農民への親和性と、農民の生産が国を支えるという行政者的視点を、双方を併せ持っています。

なので、兵を管理統率し兵力を確保する総督としての責任と、領民・農民の保護の視点との板ばさみで、大鳥は心理的にも苦しかったことと思います。

(宇都宮の大鳥が安塚・壬生の戦闘に参戦できなかった「余不快にて出陣せず」ですが。単なる風邪と解釈されていることが多いですが、度重なる心理的負担が大きかったのではないかと思う)

それで、すでに、東軍の兵が柳原や今泉というところで、何人も、農民に撃ち殺されています。

手紙にも出ていますが、この時期、下野の農民は自警組織として、組合村というのを持っていました。大嶽浩良氏の「下野の戊辰戦争」でもこの手紙の状況を解説して下さっています。組合村は、寄場組合とも言われ、幕府の指導により関東の農村各地に設けられた治安維持のための組織です。文久三年には、この農民組織は鉄砲を拝借しており、竹槍による武装も認められていたそうです。天狗党の騒乱の際にも、ここから農兵が徴発されていました。

武装した我が身かわいい農民は、組織的行動をしていない単独の兵や落武者にとっては、結構恐ろしい存在です。
送り主の素亭さんも、落人がやってきたら、必ず討ち取るべし、と言っています。

その後、日光に至るまで、宇都宮の敗軍から脱走者が続出しています。
彼らは無事江戸に帰り着くことができたのか。負けて脱走して農民に殺されて家族の下にも帰ることができなかったというのでは、誠に悲惨です。

郷土史はいつも地元民に優しく戦争を起こした者に辛いですが、その地元民も兵には容赦がありませんでした。特に伝習兵は、食っていくために兵になった傭兵たち。家では、老いた父母や新妻や幼い子供が、腹をすかせて待っていたわけです。命惜しくて逃げても、農民に殺されるというのは辛い。

農民にしてももちろん、畑をあらされ貯蔵の食料を奪われ金を奪われるのは、真っ平ごめんです。
農民も兵も、みんな、自分の生活が大事。自分の身と生活は守りたい。

当たり前のことながら、やるせない感があります。


戦争とはいえ、歴史や人物のいろんな側面が浮き彫りになるので、郷土史料はありがたいものです。

posted by 入潮 at 12:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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