2008年07月05日

明治政府の幕臣たち

「明治7年ごろの明治政府の1/3が旧幕臣だった」

というのを何かの論文で見たことがあり、こちらでも何度か述べたことがありますが、根拠の論文がどれか忘れてしまいました。
明治に触れるのに重要な点であり、実際のところを数えてみたくなりましたので、「官員録」より集計してみました。

数千人いる全部を数えるのは時間的に無理なので、勅任官と奏任官のみを数えました。

勅任官:大臣・副大臣・長官クラス。天皇の勅命で任命される。一等から三等。
奏任官:寮(部)長、課長クラスの高級官僚。長官が天皇に奏上して推薦する中級官吏。

この下に判任官というのがあります。長官が任命する中級〜下級役人で、八等〜十五等。
勅任官が政策や予算の意思決定を行い、奏任官が現場の実働部隊のトップ、という感じかと思います。

大体、四等出仕ぐらいから、係累の方が墓を立派にして伝記を書いて顕彰が行われるようになる感じです。

結果は以下の通り。用いたのは明治八年官員録です。

表 明治政府の勅任官・奏任官人数
nos_meiji_officer.gif

「旧幕臣」と「薩長」の分け方についてですが。

「薩長」は、所属が「カゴシマ」「ヤマグチ」となっている人を含めました。サガ・コウチは含めていません。

「旧幕臣」のほうは、所属が「ハママツ」「シズオカ」となっているものは、沼津の徳川藩なので、全員が幕臣であると考えられるため、全部含めました。
また「トウケイ」となっているものも、旧幕臣が多いです。ただ、難しいのはこの「トウケイ」の勘定の仕方です。これは、以下のパターンがあるようです。

1) 公卿
2) 旧藩出身で幕臣ではないが、何故か登録を「トウケイ」としている人(例:トウケイ 北原雅長(会津))
3) 平民からの取立てで「トウケイ」としている人

また、「トウケイ」「ハママツ」「シズオカ」以外にも幕臣だった以下の場合があります。

4) 旧藩から幕臣に取り立てられたが官員登録は旧藩として行った人(例:ワカヤマ 宇都宮三郎)

1)は大体判別がつくので「旧幕臣」には含めていません。2)と3)、4)は、分かる限り幕臣に含めたり除外したりしましたが、多くはお手上げです。ただ、2)+3)と4)は数的に相殺し合うと思われます。よって、原則、「トウケイ」となっている方で出身が判名しない方は旧幕臣とみなしました。なので、多少の誤差はあると思いますが、これらは例外的で、全体のパーセンテージには大して響いてこないだろうと思います。

それで、結果ですが。

「七等出仕以上の高級官僚のうち、旧幕臣は三割以上、薩長は二割以下」

ということが言えます。

旧幕臣が全体で3割というのは、まず、妥当な結果でした。
官員全体で1/3、ということでしたが、七等出仕以上に限定しても、これが言えます。
ちなみに官僚全体では、5千人の幕臣が明治政府の役人となったとのことです。

なお、七等出仕で給料は100円/月。大工の親方で1日1万円あれば御の字の時代。今で言うと月100-150万円、年収1200-1800万円レベルです。所得税がどう入るのかは分かりませんが、七等出仕は十分に高給取りの政府高官であると言えます。

一方、勅任官、大臣クラスは、半分以上が薩長です。

これだけを見ると、明治政府は確かに薩長の藩閥に牛耳られた、という一般的な説が、もっともらしく見えます。ただ、旧幕臣も勅任官の10%を占めます。薩長に完全に支配されたというわけではなく、旧幕臣も確かな第三勢力としてあったということが言えると思います。

また、現代でも大臣はお茶の間ニュースにこそよく名前が挙がりますが、実際に仕事をして実務を担っているのは、各省庁の官僚達です。明治でも、奏任官たちが、予算をはじき、意見書を出し、開発方針を練り、事業を計画実施し、制度を整えて施行し、改革を進め、国を作っています。官僚達の主役であり、国づくりの責任を双肩に担うのが、奏任官です。

その奏任官の数は勅任官の10倍います。
奏任官で旧幕臣の数は33%。現場の主力のぴったり1/3が、旧幕臣です。数的には薩長の2倍以上です。

こうなると、明治政府は、実質的には旧幕臣を中心として運用された、と言っても過言ではないと思います。


以下は、明治八年官員録に掲載されている、幕末ファンの方にはおなじみの幕臣の方々です。


勝海舟 正院 参議・海軍卿
箕作麟祥 正院 権大内吏
塚本明毅 正院・内務省 小内吏・地理寮五等出仕
栗本貞二郎 正院 五等出仕
杉 亨二 正院 六等出仕
大給 恒 左院・式部寮 四等出仕
永井 尚志 左院 四等出仕
矢田掘 鴻 左院 七等出仕
塩田三郎 外務省 大丞
田邊太一 外務省 四等出仕
石橋政方 外務省 少丞
長田桂太郎 外務省 六等出仕
榎本武揚 外務省・海軍 特命全権公使・海軍中将
前島 密 内務省 大丞・駅逓頭
杉浦 譲 内務省 大丞・戸籍頭・地理頭
何 礼之 内務省 五等出仕
田中芳男 内務省 六等出仕
川路寛堂 大蔵省 七等出仕
吉田次郎 大蔵省 記録寮七等出仕
津田真道 陸軍省 四等出仕
西周 陸軍省 四等出仕
澤太郎左衛門 陸軍省 少丞
榎本道章 陸軍省 七等出仕
揖斐 章 陸軍省 歩兵科大佐
小菅智淵 陸軍省 兵学寮少教授(中佐相当)
大築 尚志 陸軍省 騎兵科大佐
武田成章 陸軍省 大佐兼兵学大教授
松本 順 陸軍省 軍医総監
緒方惟準 陸軍省 一等軍医正
赤松則良 海軍省 大丞・海軍少将
肥田濱五郎 海軍省 大丞・主船頭
大鳥圭介 工部省 静岡、四等出仕、正六位
林董 工部省 少丞(五等出仕)、正六位
長野桂太郎 工部省 鉱山寮七等出仕
小野友五郎 工部省 鉄道寮七等出仕
山内堤雲 開拓使 五等出仕
荒井郁之助 開拓使 五等出仕


もちろん、上記のほかにもたくさん旧幕臣の方はいらっしゃいます。

勅任官は、勝海舟(一等)、榎本武揚(二等)、赤松則良(三等)、松本順(三等)の4名です。

大丞・大佐は四等、少丞・中佐は五等です。矢田掘鴻や小野友五郎など、旧幕の中心的テクノクラートが七等出仕である一方、山内堤雲や林董ら、俊才事務官がこの時点で五等出仕と健闘しています。このあたり、技術者実務官よりも法令政策事務担当者のほうが上に上がりやすいという性質が、既に明治でも顕著だったと見れるかもしれません。

西周や揖斐章、武田成章、前島密ら恭順組の幕臣の出世具合は一目瞭然です。

一方で、林・山内(五等)のほか、おなじみ脱走組の榎本武揚(二等)、永井尚志(四等)、大鳥圭介(四等)、荒井郁之助(五等)、澤太郎左衛門(五等)、小菅智淵(七等)、長野桂太郎(七等)、吉田次郎(七等)らも、恭順組と比べてまったく遜色はありません。新選組ファンの方に人気のある松本順(良順)も勅任官です。

この人員を見る限り、脱走し賊軍となった経歴の有無は、明治8年に至っては、大して響いていないということができるかと思います。
昇進は、あくまで本人の才覚次第であったということが伺えます。

なお、これは旧幕臣だけではなく、会津やなど佐幕藩にも同様でしょう。会津や桑名など賊とされた藩でも、山川浩や立見尚文のように栄達した方がおられるのは言わずもがなかと思います。

(ちなみに、吉田次郎は、途中から吉田清成・大鳥らの洋行に合流した方ですが。脱走して箱館で丸毛利恒と一緒に七重浜夜襲に出た陸軍奉行添役の吉田次郎と同一人物であるということに、今始めて気がつきました…)

(↑と書いてしまいましたが、早とちりでした。別人であるとご教示いただき、官員録にて出身県が別であり別人であることを確認しました。ご指摘ありがとうございました。)

このあたり、藩閥政府の圧制をことさら強調して、旧幕臣や佐幕藩が不遇の扱いを受けたとする小説が多いですが。それらがいかに事実に即していないことかと思えて仕方ありません。

確かに、開拓使では薩摩が多いとか、工部省では長州が多いとかという、それなりの傾向はあります。コネ就職がある程度存在したいうことが否定できないでしょう。また、陸軍・海軍ともに、武官は薩摩長州の出身者が他省より多くを占めます。これは戊辰戦争の報償人事がまだ生きていたということではないかと思います。

それでも、それらの組織の中で、旧幕臣は常に2〜4割をキープしています。陸軍・海軍双方の尉官・左官、つまりは中堅士官たちに、旧幕臣出身者の数は多く見られます。特に兵学寮、砲兵科、工兵科、医官など専門技術が必要とされる部門には、旧幕臣は多いです。

薩長政府が勝者の横暴で、敗者の旧幕臣や佐幕藩を登用しなかったとか、昇進で差別したとかいう姿に描かれるのは、いわゆる「負け組」にシンパシーを感じる方々にとっては、受け入れやすいことかと思います。しかしながら、それは単なる偏見であり、官員録を見る限り、決して事実ではないことが伺えます。

こういうことを言うのは憚るべきことなのですが、薩長政府になど出仕できるかと我を張ったり、薩長の藩閥のために出世できないと恨み言をいったりするのは、単に、当人にその能力がなかったという、シンプルで残酷な理由によるものかと思います。自分が出世できなかった原因を薩長という存在に責任転嫁していることも多いかと思います。

もちろん、実業界に身を投じた渋沢栄一や益田孝、私塾経営と文筆活動で財をなした福澤諭吉など、民間において大きな活躍をした方も多いですが。彼らは実力があったから政府外でも活躍した。それだけのことかと思います。

廃藩置県前の明治2年ごろなら兎も角、明治も中盤に差し掛かってまで、藩閥がどうの薩長政府がこうのと理由をつけてうじうじしていても、社会と家族のお荷物になるだったでしょう。

時代は変わったと前を向いて、明治の国づくりに政府において中心的に邁進して誠実に職務に精励した、幕府という旧体制の方々があった事実は、しっかり強調したいと思います。

「旧幕臣と明治維新―沼津兵学校とその群像」の著者の樋口雄彦氏をはじめ、見るところを見ている研究者の方は確かにおられるのですが、そうした姿はあまり知られていないように思います。

歴史は、後世の人間の「こうであったはずだ」「こうであるほうが美しい」という思い込みがあり、その思い込みに都合のいい像ばかりが、一般人の目に触れる明るいところに出てきているような気がします。

たとえ多少現実と外れていてもドラマチックなほうが大衆受けするので、そちらが有名になって事実として広まっていくというのは、歴史という分野の、あまり科学的ではないところだと感じてしまったりします。派閥が違うと見方が全く異なったりすることもあるのではないかと思います。

などと、すみません、手前ごとき素人が何様だ、という感じではあります。
もちろん、科学として歴史を研究されている方はずっと多いです。ただ、その方々の研究の成果が、なかなか一般人の目にするドラマや小説や読本、評論などのメディアに繋がってきていないように感じます。一つの面だけではなく、いろんな方の見方を学ばねばならないなぁと、折りにつけ思います。

あと、明治15年ごろ、20年ごろの官員録も、集計してその変遷を見ると面白いだろうと思います。多分、藩閥の色は薄れていくのではないかと思うのですが。
地獄の肩こりのなかで、PDFの小さい字を数百ページ判別していく作業を、もう2回繰り返さねばならないかと思うと、事実を求めるのは大変なことだと尻込みする軟弱モノです。
posted by 入潮 at 22:31| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

思い込み損

今回は、自分語りになってしまいます。興味の無い方はスルーしてください。

関西に日帰り出張してきました。
とある学園都市にある研究所にお邪魔してきました。緑豊かでスペースもたっぷりとした環境の良い場所にあり、東京のコンクリートジャングルに押し潰されそうになりながら会社勤めする身としては、うらやましい限りでした。

そこで、あるエネルギーを生産する微生物の話をお伺いしてきました。

微生物は普通呼吸し、自分が増殖するためのエネルギーを得るために、多くの場合、酸素を必要とします。(酸素を呼吸に使うものを好気性菌と言います。一方、酸素ではなく硝酸など別の酸化物を呼吸に使う嫌気性菌というのもいます)

その研究所での新しい発見は、酸素のない条件では、微生物は増殖せず、同時にその微生物がもとの栄養分を使って別の物質を生み出す、代謝という作用のみを行うというものでした。代謝とは「食って出す」ことです。普通、微生物は自分が増殖して増えることが第一義なのですが。この研究の特徴は、酸素のない条件では、微生物が増殖にエネルギーや養分を使わずにすむのに、ただ増えなくても食って出す、という作業を淡々と続けることにあります。

この「食う」ものがゴミで、「出す」ものが有用な物質だとすると、このプロセスにはとても価値があります。

世の中、微生物が代謝して作る有用な物質はたくさんあります。酒とか、洗剤とか、薬とか。

普通、代謝するためには微生物は増殖しないといけないので、まずこの増殖のためにたくさんの栄養が必要になります。

それで、微生物が増殖のための栄養は使わず、有用な代謝物を生産するためだけに栄養を消費するとなると、大変効率が良くて、生産者は助かる、ということになります。効率が良いということは、お金がかからない、ということです。


さて、学生だった時の研究テーマが、石油を栄養源として使うことで石油を分解する微生物でした。

当時、日本海でロシアのタンカーが座礁し、大量の原油が海浜に流れ着く事件がありました。その際に、砂浜に残った砂と混じった原油ボールのサンプルを色々集めてきて、石油を分解できる微生物を単離して、試験をしながら良い微生物を探す、ということを行ったことがありました。

集めた微生物のうちの一つが、石油を分解して、界面活性物質を代謝するものでした。界面活性物質とは、水と油を混じりやすくするもので、要するに洗剤です。シャンプーとか化粧品にも入っています。

色々分析してみると、自分の拾ってきた微生物が作るのは、糖脂質系のバイオサーファクタント(生物の作る界面活物質)で、微生物が自分の細胞膜の材料のひとつとして代謝するものらしい、ということもわかってきました。

糖脂質のバイオサーファクタントは、生分解性があり、通常の石油系の界面活性剤よりも環境にやさしく、有用なものです。

それで、酸素や栄養の条件を変えて、どんな条件が一番バイオサーファクタントを生み出すか、色々環境を変えた瓶で実験を行ったのですが。

酸素濃度がごく低くほとんどゼロのものが、一番バイオサーファクタントの生成量が大きく、しかもありえないほど濃い、という結果が出たことがありました。

その頃、石油の微生物分解には、酸素は必須、というのが常識でした。

「石油は還元しきった、酸素の無い状態の物質であり、石油を分解して代謝に用いるためには酸素が必要」

という思い込みがありました。

それで、酸素が低いほうが、石油が分解されたということですから、「そんなはずねーや、操作のときに空気が入ってしまったんだな。エラーだエラー」ということで、その瓶は捨ててしまいました。

あの時、この、嫌気では微生物は増殖せず代謝のみ行う、ということが有り得るということを知っていれば、自分は結構な発見をしていたかもしれない。

上司にこの話をすると、「それに気づくかどうかが、発見を行える研究者と凡人で終わる人間の違いだ」と大笑いされました。

どうせ凡人だよちくしょう。

石油を分解するには酸素が必要だという思い込みのために、発見をしそこなった。
思い込みにより、目の前の結果を否定するのは、つまらないことだ、という話でした。


この思い込みによって目が曇る、というのは、いろんな分野にいえることかと思います。我々は、人生ありとあらゆる場面で、思い込みに基づいた行動をして、損をしているということはあると思います。

たとえば、ある人の悪いうわさを聞き、そのうわさを元に初対面の人を勝手に判断して友達になりそこなう。一方、そのうわさは嫉妬に基づいた根も歯もないことで、実はその人は自分にとってとても有用な趣味の情報をもっていた…ということは、ありそうなことではないかと思います。

これは歴史分野でもそうではないかと思います。
今の歴史像は、多くの部分、思い込みに基づいて枠作りされているのではないかと思うことがあります。

前回に触れた、旧幕臣や佐幕藩士の明治は不幸不遇でなければいけない、というのも、一つの思い込みかと思います。

また、現代人にとって、歴史への入り口は、学校の教科書でも研究書でもなく、ほとんどの場合は小説やゲーム、漫画、ドラマといったメディアであるかと思います。私もそうです。

幕末なら、司馬遼太郎や早乙女貢など作家の創作像に影響を受け、この人物はこうだ、という思い込みが生じる。それが、現在の坂本竜馬や新選組や会津の像に、多大な影響を与えている。

たとえば新選組なら、メディアへの情報供給者たる研究家や小説家たちが、そもそも司馬遼太郎の影響を受けているので、司馬遼太郎が最初に描いた像が、拡大再生産されて、市場に広まっている。

それで榎本とか大鳥とか黒田ら、新選組の「引き立て役」たちが、司馬遼太郎が描いた像そのままがあたかも実像であるかのように流布されてしまい、実際の像がないがしろにされてしまうという悲しいことが起きていました。今となってはそれももはや過去の話ですが。…過去の話ですよね?(笑)

実際の目の前の生データを信用すれば、面白い発見がたくさん出てきます。

榎本のあらゆる分野に深く卓越した見識と懐の深さとしゃれっ気ゆえに許せる俺様具合とか。
大鳥のひょうきんさとその裏の複雑な感性と器用貧乏具合と笑えるほどの合理性とか。
黒田の家庭に恵まれない不幸さと小動物のようないじましさ可愛らしさとか。

それらは、一つ一つ、本人達の記録や書簡、日記や公文、報告書などを見てきて、つなぎ合わせ重ね合わせて、明らかになることです。

もちろん、榎本武揚における加茂儀一氏のように、卓越した語り部がすでにいれば、そうした像が一般に流布されることはあります。しかしながらそうした幸運な例も、一度巨大メディアで別像がばら撒かれれば、かき消されて、実像とは異なる思い込みが広がることになります。

大鳥が当代一級の軍隊運用技術を有していて、難しい条件の戦いばかりで勝率は五割以上を上げていたことや、産業技術に卓越した見識を持って、明治日本の殖産工業の第一線で骨身を削って活躍したことなどは、新聞、本人の日記、書簡、講演録、報告書を見て初めて分かることで、「燃えよ剣」の大鳥像からはとても想像はつかなかったでしょう。

思い込みは、生データの持つ貴重な情報を捨て、価値を廃してしまいます。
酸素のない状態で生まれたバイオサーファクタントの瓶が捨てられたのも、それです。

目の前にあるものを、実直に噛み砕いて、信じていくこと。
それが、面白いこと、深いこと、理解すること、発見していくことに繋がるのではないかと思います。

もちろん、全ての史料が信頼に足るものではなく、他資料と矛盾するものは多いです。いわゆる史料批判は必要なものだと思います。ただ、その記述をするに至った当人がいたというのは事実であり、矛盾一つが起きるにしても、その矛盾が起きた理由、背景を考えるのは、意味があることだと思います。

といいつつ、見つけた記録に対して「嘘だありえない」と、脇においたままになっているのが、いくつか自分にもあります。たとえば、大鳥が、近藤勇を評価していたという記録がありまして。扱いに頭を悩ませていたりします。また後ほどご紹介したいと思います。

いずれにしても、見つかった事実に対して、思い込みにそぐわないから捨てる、のではなく、一つ一つの事実を大切にしていきたいと思います。

それにしても、あのバイオサーファクタントの発見があれば。もしかしたら今頃、民間企業で世知辛い競争社会のために奴隷のように使い潰され過労死寸前になったりせず、環境の良い学園都市でのんびりと研究生活を満喫できていたかもしれない、などと、ありもしない未来像を描いてしまったことです。

過ぎた過去にしがみ付くのは醜いですが。人間、妄想するのは自由です。
posted by 入潮 at 23:58| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

「日本洋学編年史」と洋学者たち

「日本洋学編年史」
1927年出版の大槻如電(大槻修二)著「新選洋学年表」を、1965年に佐藤栄七(1890-)が増補したもの。平成7年に復刻されているので、手に入りやすく、所有している図書館も多いと思います。

大槻如電は1845年生まれ、大槻玄沢の孫、大槻磐渓という蘭学者家系。「日本地名字引」、「日本地誌要略」、「新撰小学指南」、「無花果草紙」、「東洋分国史」などを明治に編纂された、明治の代表的な博物学の方です。ディレッタント(好事家)と称されることもあるようです。

この、日本洋学編年史ですが、とても面白いです。イミダスを眺めるような面白さがあります。
一方。その年にある洋学者の代表作が公表されたりすると、その洋学者の生い立ちや関連事項が紹介される。なので、時代の主流が分かるとともに、こういう人がこういう場面で表舞台に出てきたのだな、というタイミングが把握できる。
ちょっと特徴的な編年形式です。

また、明治に至ると、各省庁の変遷や人事、お雇い外国人の動向について纏められています。殖産興業の観点からもかなり有用です。


以下、自分が勝手に、へー、と思ったことのメモです。

● 蕃所取調所・洋書調所

安政三年。
勝海舟が、蕃書調所の翻訳方に雇うために、取調べして候補者を記したもの。「誰れも皆諸侯の臣籍者にして、何れも洋学の伝播普及に努め、泰西文明の移入に力を尽くしたる人々なり」ということで、安政の大地震の翌年、洋学の成長期の、江戸の実働部隊的な方々のリストがあります。

杉田 成卿 酒井修理大夫家来(小浜藩・福井)、下谷御徒町
箕作 阮甫 松平三河守家来(津山藩)、湯島
伊東 貫斎 玄朴養子、下谷和泉橋通
手塚 律蔵 佐倉の人、本郷御弓町
川本 幸民 松平大膳大夫家来(長州藩)、深川冬木町
牧 穆中 浪人、青山宮様後門前組屋敷
高畠 五郎 松平阿波守家来(徳島藩)、牛込御徒町
宇田川 興斎 天文方出役 御庸
市川 斎宮 松平越前守家来(福井藩) 天文方出役 御庸
箕作 秋坪 松平越前守家来、阮甫養子
高須 松亭 天文方出役 御庸
木村 軍太郎 堀田備中守家来(佐倉藩)、 天文方出役 御庸
柴田 収蔵 天文方出役 御庸
東條 英庵 松平大膳大夫
武田斐三郎 加藤於莵三郎家来、当時箱館
松木 弘庵 松平薩摩守家来、玄朴塾
石川 宗見 芝口三丁目
杉 純道 勝麟太郎塾 (後亨二)
池田 洞雲 松平備前守家来(岡山藩)
西川 洋作 松平備前守家来(岡山藩)、上屋敷
原田 敬策 池田内匠頭家来(若桜藩(因幡))、玄朴塾
八木 元逸 松平薩摩守家来、坪井信良塾
坪井 信友 信良義弟、後襲父名信道
矢田部慶雲 江川太郎左衛門方
布野 雲平 浪人、牛込御徒町
大島想左衛門 当時水戸
大鳥 圭甫 大木忠益塾頭(後、圭介)
鈴木 玄昌 伊東玄朴塾
津田真一郎 松平三河守家来
小山 杉渓 榊原式部少輔家来、上屋敷
本間郡兵衛 酒井左衛門尉家来、杉田玄端塾
佐波銀次郎 堀田備中守家来、手塚律蔵塾
川島 元成 松平近江守家来、大槻俊斎塾
藤田 圭甫 大村丹後守家来 坪井信良塾
間宮 繁之進 浪人、手塚律蔵塾
神田 孝平 竹中図書助家来、伊東玄朴塾
田辺 順輔 浪人、一色邦之輔方
藤田 柔太郎 松平伊賀守家来(信濃上田藩)、手塚律蔵塾
中山 洞春 堀田備中守家来、手塚律蔵塾
曽田 勇次 浪人
竹内 玄洞 有馬日向守家来、麹町三軒屋
大槻 俊斎 仙台、下谷練塀小路
林 洞海 両国薬研堀
片田 哲造 松平仲家来
田口 俊平 久世大和守家来
島 玄甫 竹内図書助家来、弁慶橋
金森 謙策 松平出羽守家来、上屋敷
下間 竜助 水戸家御出入
都甲 斧太郎 御馬方隠居、芝新網
安田 雷洲 御家人、銅版工、四谷新宿
平 紀一 下曽根金三郎方
高松 謙庵 岡部内膳正家来、天文方出役御庸
石川 平太郎 藤堂和泉守家来、下谷


以上53名。カッコ内の藩名は当方で勝手に加えたものです。

「『この年、江戸在住の蘭学者を勝海舟の手記したるものあり。其れに拠れば左の如し』(但し、身分・肩書・住所などは増訂者の加筆なり) 」との但し書きです。

増補者が記してくださった、所属がありがたいです。「天文方」というのは、既に幕府の雇いになっている蘭学者ですが。そのほかの方々は、多くが各藩の藩士や藩医だったことが伺えます。

「勝海舟が蕃書調所翻訳用にてと取り調べて手記したるもの」と但し書きがあるので、幕府洋学所の講師陣の候補者として、勝海舟が江戸の蘭学者を調査したものと思います。
既に勝海舟と交流があった方も多いでしょう。大鳥も挨拶ぐらいはしているのではないかと思います。

同年に幕府の洋学研究機関である洋学所が、蕃書取調所と改称され、組織変更が行われます。この際、上の洋学者たちの内、箕作阮甫、杉田成卿らが教授方に。教授手伝として川本幸民、松木弘安、高畠五郎、手塚律蔵、原田敬策、田辺順輔、東條英庵、村田蔵六、木村軍太郎、市川斎宮らが命じられました。また文久元年九月に「精錬局」がおかれます。このとき、「宇都宮三郎(鉱之進)は勝海舟の推挙にて精錬方出役となる」と、宇都宮さんも勝海舟伝での登用であることが示されています。

それら多くは各藩の藩士や浪人から幕臣への取立てです。
幕府は因循固陋で、迫りくる変化に何も対応していないから滅んだ、という言も時々見ますが。決してそうではなく、幕府は積極的に実力主義で人材登用と活用を行っていたことが、このことから伺えます。

大鳥さんは、この頃、大地震でも失うものは何も無いと瓦礫の中で酒を飲んでいた坪井塾の貧乏塾頭。名がようやく売れ始めたかという頃で、蕃書調所翻訳方候補者として挙げられたわけですが。江川塾から講師にスカウトされて、そちらに行ってしまったようです。まだ実績不足で選に漏れたのかもしれません。

さて、同年に、以下の記述があります。

「西洋は蛮夷なり、洋学を蛮学と称すべしとの説起り、又四書五経の内一書をも弁へざる者には、蛮学修行さす可からずとの漢学者流の論も亦行はる。遠藤少老は頗る内外の事情に通じ居れば、それ等の説を斥けずして洋学校をば建設したり。」

四書五経、漢学の一つもわきまえていない者は、西洋学を学ぶべきではない、という意見が幕府内で通ったとのこと。これは興味深いです。

山内堤雲は、「漢学の素養無きを以て、原文は解し得るも、之れを国語に反訳するに当たりて文を成さず」と、国語力がなくて原文が理解できても翻訳できない、ということを述べていたという例もありました。

現在も、国語をしっかり学んで無い人間が英語を学んでも仕方が無い、という意見が、ベストセラーの「国家の品格」以来、出るようになりました。その国の固有の学問と道徳をしっかりと身に着け自分の中の文化の土台を築いからでないと、外の国について学んでも単なる舶来礼賛になって中身のある人間にならない、というのは、頷けるところです。

こうした意見が既に出されて通用していたというのは、幕府は因循ではなく、むしろ先見の明があったといえるのではないかと思います。

蕃書取調所は、安政四年正月十一日開校式。このとき、入学資格は幕臣とその子弟に限られていました。生徒191名。そして、文久2年6月に規則改正。洋書調所と名が変わり、万石以下の陪臣にも入学許可が成されました。諸藩から優秀な人材が集まってくることになります。


● 大鳥圭介「築城典刑」と大鳥活字の材料

築城典刑で用いられた活字ついての紹介がされています。

「此の鉛製活字は最初、小銃弾を方形に鋳換へて、其の上面に文字を刻し組立て、バレン摺二三回すれば文字摩滅す。因つて夫より蘭書を詮索して、竟にアンチモンを加ふることを知り、更に造り替へて鉛製活字を創製して、本書を印行せりといふ。斯くて官板(版)として刊行せり。是れ鉛活字のはじめとなす」

これは大鳥圭介傳でも触れられていなかったエピソードです。最初は銃弾を溶かして鋳造した鉛を使っていたけれども、すぐに摩滅してしまった。それで蘭書を調べてアンチモンを加えたらうまくいった、と。

「本と活字の歴史事典」では、このことが更に詳しく検討されています。
大槻如電の記述はどこが出典か分からないこと。大鳥圭介傳には「亜鉛と錫とを入れて鋳物にしてそれを植えてやる」という記述があること。また、築城典刑の例言に「錫造活字新鋳未だ完備せず」という記述があることから、大鳥活字は、鉛・アンチモンではなく、亜鉛・錫の合金だった、という説を取り上げています。

ちなみに、アンチモン(Sb)は、金属には珍しく、凝固するとわずかに膨張する性質があるため、他の金属で問題になる合金の収縮を防ぐことができること、硬く鋭くなることで、活字には必須です。また、錫には鉛とアンチモンの融合を助けて合金を強靭にするので、これも有益です。

とりあえず、大鳥は獄中日誌にも、「蝦夷白先ランボッケ峠の奥にアンチモニーを出すと云う」と述べているので、アンチモンが大鳥活字に用いられているのは間違いないかと思います。

それで、大鳥活字は、鉛・アンチモンの二種類の金属の合金だったという説のほかに、鉛・錫・アンチモンの三合金だったのではないか、とも言われています。
しかしながら、大鳥自身が「亜鉛」と言っているのも、頭の痛いところです。

それで、大鳥活字の材料が結局何であったか、というのは、未だ決着がついてない模様です。

活字そのものが残っていれば、と思うのですが。
大鳥は、脱走のときに荷物は江川邸に送ったというので、江川文庫にまぎれていないかとか。
駿河台の大鳥の屋敷に残されてなかったのか、とか。
悪あがきとして思うのですが、未だにはっきりしません。

ちなみに、大鳥屋敷については、日本洋学編年史の明治五年のほうに、以下の通り出てきます。

「正月、露国の宣教師ニコライは、函館より東京に移り、神田駿河台の火消屋敷に『ニコライ塾』を開き、正則的に露西亜語の教授を始む。又、『日本はハリスト正教会をを設立せり』」

この「火消屋敷」の隣が大鳥屋敷です。ニコライ堂は、火消屋敷と大鳥屋敷の敷地に立っています。

あるいは、大鳥屋敷は明治初年に、宇都宮の戸田候の藩邸になっていました。戸田候が見つけて持って帰ったなんてことは。

江川邸か、ニコライ堂か、宇都宮か、あるいはみちさんが佐倉に持っていった、という可能性も。希望は広がります。

単に処分され捨てられた、というのが一番あり得るといってしまえばそうですが。


● 福澤諭吉の本

前に挙げたことの繰り返しになってしまって恐縮ですが。
強烈だったもので挙げさせてください。

慶応三年六月下旬「幕吏に従ひて、昨年十一月、米国に赴きたる福沢諭吉は帰国す」の件。

「福沢は是れにて三回目の洋行なり。彼は米国に於てウエヴスター辞書を初め、チリ、歴史、法律、経済、数学などに関する原書及び欧文の教科書を資力を尽くして購入し、特に仙台藩より鉄砲購入費として預れる二千五百両も竟に洋書代に変じ、其の数十二箱に満ちたりといふ。其の内、主なるものはウエヴスター辞書、カツケンボス及びチャンバーの物理学書、ウェーランドの倫理及び経済書、チーラーの万国史、ピンノツクの仏国史、カツケンボスの米国史、チャンバーの百科辞書、バーレーの万国史などにて、何れも慶応義塾の図書館に収まる。当時ウエヴスター辞書一部の価は二十四五両、カツケンボスの物理書は六七両の相場なりといふ」

…一見、今の平和主義時代の戦争反対が趣味な方なら、銃を買うお金を教育学問のために充てたとは、何と素晴らしいことなのでしょう、と褒め称えることかもしれないのですが。

おのれは、公費を使って、しかも仙台から依頼された武器購入依頼の金を横領しておいて、自分の私塾の肥やしにしたのかと。しかも現在価格で1冊10万〜50万円もするような価格の本を、十二箱も我が物にしたのか、と。

仙台藩がこの2500両で武備を揃えていれば。後装式施条銃一丁20両として125丁。三個小隊の小銃分。これで戦力が劇的にひっくり返るというほどでは無いですが、それでも十分大きいです。これがあれば平潟口方面ももう少し…などと思ったりする。

それにしても、何がすごいかって、これを善い事として自分で語り継いでいる福沢の図々しさです。

この前、文久三年。

「小栗上野助忠順、米国にて新聞紙を視て其の必要を感じ、帰来、福澤諭吉等と其の発刊を企つ。されど四囲の反対に遇ひて、竟に中止す」

とあります。「四囲の反対」の原因は触れられていないのですが。反対されて良かった、という気がします。


と、ダラダラ書いてしまいました。

おや?と首をかしげる箇所もいくつかあり、裏取りをする必要がある記述もありますが。
いつ何があったかということを整理するにはとても有用なツールだと思います。
手元に一冊、と思うのですが、古本でも最低25,000円というのは、なかなかハードルが高いです。
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2008年07月26日

神谷バーと宇都宮三郎と

家に帰ると暑くて何もやる気が出ず、作業が進みません。
炎天下での自転車20km通勤で体力が尽きているのもありますが。
気温が体温ほどある部屋でのクーラー無しの生活を、何の修行かと思う感じで続けていると、ダレて仕方がありません。

自分は他人の半分以下のエネルギーで生活しているのだ。そんな意味の無い貧乏エコ見栄っ張りを続けるために、生活の生産性が半分以下になっていたら、世話は無い感じです。クーラーの設定を1℃上げるごとに生産性が2%下がるとかいう、環境省に喧嘩を売るような調査結果もあるようです。どういう基準で数値を出したのかはよくわかりませんが。このご時世に天晴れだと思います。

夏は出張だ、もう少しでこの暑さとおさらばだと思っていたら、流れました。後1ヶ月半はこの暑い思いをせねばならんのか。

本気でエネルギー削減に取り組むのなら、世帯人数一人当たりの電気ガス水道などの使用量基準を決めて、CO2排出量換算して、基準以上だと罰金とするのはどうでしょう。算定と承認が面倒そうですが。
あるいは電気使用量だけでも、世帯人数に合わせて、たとえば単身ならひとり100kWh以下なら電気料金10%オフにするとか(ガス使用かどうかで要上下) その逆とか。すでにブロック制のkWh単価にはなっているとは思いますが。東電さんもどうせCO2クレジット購入料金を払うことになるのなら、kWhで節約した人に、その分のトンCO2額のkWh換算額の半額ぐらいをキックバックするとか。貧乏エセエコのモチベーションを高めて欲しいです。

…と、そのぐらいのせんのないことをぼやきでもしないと、この暑さは耐えがたい。

サボっている間にも色々楽しいことがありました。
先週、浅草で、三河の国から宇都宮三郎と近代化文化遺産研究の大家でいらっしゃるMOJOさんがお仕事でいらっしゃったので、喜び勇んで晩酌のお供をさせていただきました。

神谷バーで電気ブラン。

MOJOさんの宿泊先が浅草だったので、憧れていたこの響きを体験したいと言ってみたら。MOJOさんは宇都宮三郎と創業者の神谷伝兵衛繋がりで、店主の方とはすでに顔なじみのご様子でした。
そういえば神谷バーの創業は明治13年。創業者は三河鉄道の取締役・社長でもあり三河繋がり。宇都宮さんの旧姓は神谷。醸造工学は宇都宮さんの専門のその一。それは繋がりがあるはずです。ミーハーで恥ずかしかったです。

電気ブランですが。ブランデーベースで、薬草やワインキュラソーがブレンドされたもの。30度ほど。「電気」という言葉が、当時はものめずらしい、新規なものに対して用いられてちやほやされていたというのが、興味深かったです。
今はあって当たり前というか、給電が1分でも滞りでもしたら電力会社は社会に害悪を為す破壊者のような扱いを受けてしまうので、因果なものです。この暑さでクーラーの電力供給が途切れたら、暴動がおきかねません。

神谷バーの客層も面白かったです。周囲は和服か膝上ミニのモダンな御姉様がたくさんで。タキシードの紳士もいらっしゃいましたし。
その割に食券制で、お値段も居酒屋と変わらない感じ。庶民感覚とハイソサイエティ感覚が良い具合に混ざり合っている感じでした。
自転車で汗だくになったシャツで、しかも時間に遅れて焦ったあまりに場違いな格好ではありましたが。もっと余裕をもって、それなりの格好で楽しみたいと思いました。

そして、場所以上に会話が濃く楽しかったです。
MOJOさんの宇都宮三郎関連知識は、もはや手に入りうる現存する資料を徹底的に調べ尽されたものですので、ある種、行き着くところまで行った方の達観があります。「こいつはいつもそうなんですよー」と、長年の親友を語るような感じで、いつ隣にひょっこり宇都宮が現れてもおかしくない感じでした。

それでMOJOさんは「一次史料に餓えています」と仰るのですから、知識への欲求は留まるところがないものだとしみじみ思いました。
深みある人を本当に理解しようと思うと、その対象と同じぐらいの人物の器が必要なのだと思いました。

人を理解するというのは、社会、仕事、関係者、コミュニティ、専門性といった、その人にまつわる様々なネットワークを理解するということ。奥行きは広がりに付随して生まれるものなのだと思いました。

それを様々な形で公の文書にしておられるMOJOさんですから、それを本業にすることならではの言葉の確かさがあります。一つ一つの事実を裏づけをしていった作業には、重みがあります。

自分は所詮Webベースでしか活動しておらず、オーソライズが無いままに不確かなまま情報を流していってしまっているのですが。このままでは薄っぺらい活動しかできずに終わってしまうなぁと思いました。個人ベースのWebは手っ取り早いけれども、確かさは提供できないのだという、その限界を感じます。

それ以上に刺激を受けたのは、社会作り。地元コミュニティの文化の維持継承発展についての話題。まちづくりにおける姿勢や文化保存の観点、奇麗事と現実をどう摺り合わせ繋げていくかなどの課題は、途上国開発でも共通するところがあり、考えさせられました。

史料との会話も良いですが、やはり生きた方との対話は最高のモチベーションになります。

悔やまれるといったら、電気ブランに脳みそが痺れたのか、後半の記憶が飛んでいること。もったいない。どうやって家に帰ったのだろう。わきまえて飲めばよかった。人物の深さ云々を言う前に、己の行動の浅はかさを何とかしたいものです。
ラベル:宇都宮三郎
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2008年07月30日

全生庵と石坂周造

座ってきました。
もとい、「座る」ということは、大変なことなのだと思い知ってきました。

「座禅を組む」ことを「座る」と言うそうです。

都内に、いくつか一般人に座禅を組ませていただけるお寺があります。
雑念にまみれた生活なので、多少なりとも濯がれはしないかと、軽い気持ちで行ってまいりました。

場所は、谷中霊園に程近い全生庵。
生を全うする。良い名前です。

和尚さんの法話と、2回の読経。30分程度の座禅を2回繰り返します。合計で2時間程度。
初心者には、30分程度の座禅の初歩の講座を行ってくださいます。

この講座が良かったです。
自分の普段の姿勢がいかに悪く、良い姿勢というのを勘違いしていたのが良くわかりました。

耳と背と腰が一直線に垂直にあるのが良い姿勢であるということなのですが。これが結構難しいです。自分が思うよりも、胸をそらせ、肩甲骨に力を入れて、腰を突き出すような、少しオーバーなぐらいでちょうど良かったようです。

姿勢が良い人は美しい。
そう講師の方が仰っていました。それは真理だと思います。
地面に対してしっかりと垂直に背筋が伸びていると、それだけで見とれるなにかがあります。

座禅は、一般人の方50名ほどが参加しておられました。リピーターの方も結構たくさんいるようです。
それで、座禅中、斜め前あたりにガテン系の良い肉付きをした方が座っていました。その姿勢が、見とれるほどきれいでした。姿勢を崩した瞬間に、その辺のコンビニにたむろしているにーちゃんたちと変わらない印象になるのですが。座っている時は、観音様のように見えました。

姿勢がよければダイエットしなくてもいいとか肌ガサガサでもいいとか、そういうわけではないですが。
姿勢の良さから醸し出される存在の確かさは、ファッションとは別次元の美しさがあると思います。

そんな感じでマンウォッチングをして、座禅中も雑念にあふれていたわけですので、世話のない感じです。

座っている最中は、仕事や日常や妄想のことは忘れて、頭を空っぽにして、周囲の鳥や虫の声などと一体化するような静謐な様になるのが良いのですが。これがやろうとしてもなかなかできません。


あと、警策というのがあります。
座禅中に、和尚さんが長く平たい薄い坊で、片を撃って下さいます。これが、スパァァン。と良い音で、これに撃たれるのはかなり爽快です。肩こりに良いかもなどと思いましたが。精神がクリアになる感じです。これをいただくと、確かに頭が真っ白になります。
用具の形状や材質にせよ、警策は洗練された実用的な儀式と思います。

座禅を組む、座るその姿勢を見るだけで、その人の生き方がわかるそうです。
生き方がだらしないと、きちんと座るということができない。

「そんな性根で座れるか」

ということを修行中には言われるそうです。
「座る」というのは、単に膝を折り曲げて腰を下ろすという動作だけではなく、そこに在る在り方まで問う、深い言葉だと思いました。


また、和尚さんの法話に、印象深い言葉がありました。

「諦めろ」

というものです。

諦めるというのは、ギブアップすることではありません。今時分の置かれている状況を受け入れること。嘆かず、否定せず、あるがままとして受け止めること。

「何でこんな苦労をせねばらないのだろう」
「何で自分ばかり貧乏くじなのだろう」

そした懊悩があるから辛い。嘆いても状況は変わらない。自分ごときが泣こうがわめこうが、世界は変わらない。それならば状況はそういうものだと割り切って開き直る。そうすると、じゃあその状況では何をするのがよいのか。とにかくやってみよう、やってみて初めて何が良いのかというのがわかる。

多くは、やりたいことと違う、こんなことやりたくない、という拒否感が大きいのかと思います。ではやりたいこととは何ぞや?

元々人間、やりたいことがあるほど偉いものではないし、人間ができてもいない。やりたいことというのは、やらねばならない状況に追い込まれて色々とやっているうちに、経験を積んで、勝手がわかって来て、道理を理解してきて、その中から徐々に生まれていくもので。社会の苦渋も舐めないうちから、やりたいことがあると思う方がおこがましい。それよりまず、まず目の前にあることを諦めて受け入れてやることだ。

「自分探し」という言葉がありますが。そもそも、自分というもの、自我というものが確固としてあれると思うほうが、おかしい。何億年重ねてきた世界、何億人がひしめく社会で、一人の意識など浮薄で果敢ないものだ。誰も自分に関心なんぞ持ってくれない。それを認めてしまって、浮薄なりにできること、満たされるちっぽけなことを求めるほうがいい。

「諦める」ということも、座禅と同じで、そこにあるあり方を強めるものだと思いました。

六方沢での大鳥を思い出しました。
疲弊困憊、飢え、恨み、敗北。あれだけの苦難にあっても、野州花は容赦無く美しい。自分がいかに惨めでも、世界は厳然としてそこにある。ならば自分の苦しみなど、いかほどのものか、自分などちっぽけなものだ、という諦観が生まれる。

この自分の無力さを受け入れてはじめて、それからどうして行くか、行いを形にしていくことができる。
六方沢を越えてから、大鳥のぼやきの質は、少し達観した方向に変わったと思います。



さて、全生庵は、山岡鉄舟の菩提寺でもあります。
石坂周造の墓もこちらにあるということで、一緒にお参りしてきました。

山岡さんは、新政府軍の江戸接取に際する西郷隆盛との謁見などで有名な幕臣の方。明治4年に茨城県参事として出仕、明治5年に明治天皇侍従となって以来、宮内省に出仕を続けます。明治20年に子爵となっています。この爵位は榎本武揚と同じ。幕臣としては何本かの指に入る栄達組ですが、それで何か言われることは見たことがありません。剣法と禅道の蘊奥を極めたということで、俗世から離れた清廉な印象があるせいでしょうか。実際は彼もまた、新政府の行政を担った旧幕臣でした。

その山岡さんと関係の深かったのが、日本の石油事業開拓者・石坂周造。石坂は農家出身ながら養子縁組により幕臣に。山岡と姻戚関係だったようです。

とにかくやってみようと、大名華族から投機的な資金をかき集めて、外国から機械を買い込み、技術的な知見は乏しいながら民間の自分の身一つで石油事業に乗り出した方です。官の身から、技術的知見に則り石油開発を進めた大鳥とは対照的です。

石坂は、石油開発のために、「長野石炭油会社」から改め「石油会社」を株式会社として設立します。山岡もこの石坂の石油会社に出資しています。

石坂は、長野の善光寺近辺の油井に、1台1万円もの大金を費やし、中古のスチームエンジン付き洋式作井機械を据えつけました。また、彼は石油事業を聞きつけてやってきた米国人技術者ダン(開拓使のダンとは別人)を、年俸1万円という巨額(工部省のライマンに匹敵)で雇用しています。

このダンは、確たる技術知識もなく、地層にあわせた作井の錐の種類や鉄管の配慮もしないという有様。長野では失敗続きとなりました。石坂はダンを半年で解雇するよう意を決します。これをダンは不服とし、訴訟沙汰になりました。石坂はダンの落ち度を機械技術知見から検証するために、自ら渡米します。これが明治7年。

この渡米は、石油事業の知見を深めるには有益でした。石坂は8年3月に帰国しましたが、裁判ではダンの給料2万5千円は払うべしとされてしまいました。石坂は、この裁判費用や機械代の借金のための、会社の増資に走り回ります。この手当てをするために、石坂が岩倉具視に陳情したり、山岡が動いて借金を融通したりしています。

岩倉や山岡の協力で一時的に資金は集まり裁判費用は賄ったものの、石油会社は投資回収が見込めなくなり、株主から不信任を招きます。その上社員からも石坂排斥の声が上げられました。
そうした状況で、石坂はもはや社長の座には留まるわけにはいかなくなりました。明治12年、石坂は、石油会社から身を引き、かつて長野ともに事業を行っていた静岡の相良に移り住みます。

そもそも石油会社は、六ヵ年の終始で毎年二倍半の躍進を遂げるという、無謀な事業計画の元にはじまったものでした。この事業計画をもとに石坂は石油会社の増資をプロモートして回りました。これに、秩禄処分により禄券を手にしてにわか資産家になった大名華族が飛びついて投資していました。

当然、事業の失敗により利を失った大名華族が騒ぎます。新聞は沸き立ち、社会にこの「石油会社」の名前が浸透しました。それまで「石炭油」「山油」「くそうず」という様々な名前で呼ばれていた石油ですが、「石油」という名前が定着したのは、この石坂の会社の事業失敗により「石油会社」の名が有名になったことによります。皮肉な所以です。

なお、山岡を介した多額の借金が焦げ付いたため、宮内省から支給される山岡の月給350円中250円が差し押さえられる羽目になりました。妻に責められた山岡は、これについて「これも修行のためと思えば案外楽しみなものだ」と答えたといいます。山岡の浮世っぷりは、大人物です。


さて、大鳥は、信越の産業と地質調査を行った際、長野の石坂の事業を視察しています。石坂が経営していた石油会社の精錬所を視察し、「信越羽巡歴報告」として報告しています。工部省工学頭兼製作頭兼内務省勧業寮四等出仕という、本人以外誰も覚えられなさそうな肩書きの頃です。この報告書は、詳細なスケッチとともに、早稲田大学図書館のウェブで閲覧可能です。

大鳥は、石坂の事業について、以下の通り述べています。

「善光寺の西二里許なり、ここに米人ダン氏の西洋器械を以て穿し井戸あり。一時錐を落し且出油なきより全く之を廃止、今は其後砂礫に埋れて僅に痕跡を遺すのみ。其邊、河側等を捜索すれ共、更に石層を見ず、或云、此河の水際より少く油の浸出しありしを以て此に器械を据しなりと。いやしくも地質学の一蘊を窺知るものなりせば、唯それのみに由て地を定るが如き迂闊の業を為すべきに非ず、然れども其れ果して何に拠れるや理解し難し」

ろくに地質調査もせずに、ただ川に油が染み出ていたからといって器械を設置して掘って、油が出ないといって廃止した。地質学を少しでも知っていればそんな迂闊なことは行わないだろうに、何故こんなことになったのか、と呆れながら書いています。

さらに後年、明治18年の日本鉱業雑誌の緒言でも、大鳥は以下のように述べています。

「地方私立のものは、大抵冒険投機者流のところ企にて、計画疎漏、永遠の利を図るものなし。所謂、山師の名に負ざさるものは、十中八九に居る」

この「山師」の最たる方が石坂周造だろうことは推測に難くありません。

そういうことを偉そうに仰った技術知見豊かなプランナーの大鳥圭介氏ですが。彼の石油開発計画も、官業で収益を上げることはできず、不況の松方財政の予算削減の波に飲まれ、事業はやっぱり停止させられます。
当代一の石油技術通の方が官の側から計画的に綿密に行っても、挫折したのでした。


あらゆる事業に技術的検討は必要です。技術者が設計して経費を積算し、経済専門家が経済性を評価し、事業者が金を集めて事業を漕ぎ出す。その中で、技術者は設計という最も土台の部分を担っていて、うまく行くもいかないもその技術に関わるわけなので、技術者は得てして保守的です。一方、事業者は、投資家に魅力的なように事業をプロモートして金を出させて物事を前に進めないとならないので、どうしても都合よく楽観的な像を求めます。この当たりの見地の違いから、技術者と事業家が喧々諤々になることはよくあります。こうした議論を積み重ね、いろんな代替案をひねり出して検討しながら、事業は前に進むものです。

石坂の失敗要因としては、現実離れした事業計画、資金繰りの杜撰さ、そして、技術力の欠如が、挙げられます。

しかしながら、民間がほとんど育っておらず、事業家もようやく成功する人が一握り、ビジネスのノウハウもなく、技術の蓄積もなく、士族の商法は軒並み失敗していく中で、新しいことを行うのにどれほどの勇気と根気が必要か。民間事業は、税金の後ろ盾のある官の事業とは別次元の重圧があります。
民間事業家の苦労。事業を成功させて出資者たちに配当を支払わねばならないという使命感と責任といったら、すさまじいストレスのはずです。

それに正面から立ち向かった石坂のタフネスと、人に数倍する行動力は、仰ぎ見るところです。

たとえ技術的なバックグラウンドはなくても、そうした起業家マインドはいつの時代でも社会を牽引します。現在でも、新技術を普及させ、社会を発展させて生活を豊かにするキープレーヤーは、民間事業家です。政府は制度面でその後押しをする、サポート役的な存在です。明治の初年こそ、民間が育っていなかったので政府が中心的に事業を行っていましたが、発展の主役はあくまで民間です。

また、失敗、挫折といって幕を閉じるのは簡単ですが。彼らが、国家の動脈たる石油の開発について、最も難しく摩擦の大きい最初の漕ぎ出しの部分を担ったことは確かです。官民、彼らと共に事業を行い知見を身に着けた人々が、次の石油事業への道を切り開いていきました。

大鳥の技術的知見と石坂のビジネス精神が合致すれば、日本の石油開発のスピードは相当加速していたのではないかと思います。

残念ながら、石坂と大鳥が手を組んで事業を推進していたというような形跡は見られません。

当代の貴重な石油事業推進者たちですから、伝がなかったとも思えないのですが。
お互いウマが合わなさそう、というのは、感じなくもないです。

「頭の固い官僚が!」「考え無しの山師が!」というような感じだったのでしょうか。

優秀な技術者は、事業の妥当性や採算性が見えるので、地に足の着いていない事業は「ありゃダメだ」と見放して、自分の領域が巻き込まれないように同業者と距離をとるという傾向もあったりします。

こうしたもったいない歯車のかみ合わなさは、探してみるとたくさんある気がします。

ちなみに、あまり関係ないですが、石坂に石油を勧めたのは宣教師のタムソンであり、彼はロシア司祭ニコライと同じ場所にすんでいたというので、大鳥の元屋敷にの場所に住んでいた人ということになります。妙な縁です。


石坂は、石油事業を拓くに当たって、以下のように詠んでいます。

「世人笑うなかれ 燃える水を製するを
誓って精神を尽くし国家を富ます」

民間にあれど、国を富ませたい精神はそこにありました。

石坂の度胸と行動力は、国の開発や事業の実施を志すに当たっても、とても魅力的に移ります。彼のような人物こそが、物事を絵に描いた餅ではなく、実現させるのに不可欠なのだと思います。

波乱に満ちた、というとあまりに陳腐ではありますが。宮内省で天皇陛下のお守役をしていた、言ってみれば無難な生き方をした山岡鉄舟とは対照的な、石坂の時代の生き抜き方だったと思います。

全生庵の山岡鉄舟の墓の脇に、まるで寄り添うように、石坂周三の墓があります。
子爵の威風堂々とした、子々孫々の名が連ねられる山岡鉄舟に比べると、つつましいお墓でした。石坂の名は、その生き方とは対照的に、ひっそりとそこにありました。

彼もまた、明治を切り開いた幕臣です。

ちなみに、妻の名が、あとから刻印されたらしく、隣にありました。お嫁様、さぞ苦労されたことでしょう…。

なお、全生庵には、石油国策論を説いた長谷川尚一の石碑もありました。
このお寺は、何気に石油著名人銀座かと思ってしまいました。
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2008年07月31日

佐々木京運「敗賊武士の謹慎日記一班」

「敗賊武士の謹慎日記一班」という、箱館戦争関連の記録があります。
著者は佐々木京運。仙台藩士で額兵隊所属。箱館では芳賀七郎という名でした。
明治三年七月、とあるので、記憶も新しい、生の記録かと思います。
引用されているのはあまり見ない史料なので、ご紹介をと思いました。

「隊士として白河口に転戦、遂に大鳥圭介の徒党となりて、會津より米澤に走り、福島に至り、再び仙台に来りて仙台額兵隊に身を投じ、徳川脱軍とともに蝦夷地に在り」

という方です。母成峠にいたのかどうかは分かりませんが、額兵隊参加前に大鳥とともに米沢への援軍要請、福島への落ち延びを経た方のようです。


「蝦夷錦」という記録の著者でもあります。同名の記録を同じ額兵隊の荒井宣行が記し、これは「箱館戦争史料集」に収録されています。荒井宜行とは別人です。この芳賀氏著の「蝦夷錦」は未入手。どこにあるのだろう。

敗戦後は津軽、秋田に身を預けられて流浪一年、その後仏門に入って住職として余生を過ごします。

降伏日誌ですが、遍歴をまとめると以下の通りです。

明治2年
・5月18日、函館称名寺
・5月29日、出帆、津軽三問屋
・6月1日、晩、突田領野代江に着船、秋田家預かりに
・6月2日、大川駅
・6月3日、秋田城外八橋の壽量院で謹慎
・9月9日、津軽青森濱に移る
・9月16日、青森蓮心寺で謹慎。「戦争談毎夜なり」
・10月25日、函館へ。弁天台場で謹慎。

明治3年
「同僚中には遥々面会に来る妻子あり。漁船に依頼せしなり。老母もあり、父もあり、面会したさの余り国を出て、皆な辛苦を重ね来たりしと云ふ、憐れなり」

・4月5日、徳川の幕臣・仙台藩士は赦免の知らせ。
・4月10日、受取人が静岡から派遣されて旧幕臣はにつくも、仙台藩からは誰も送られてこない。謹慎を続ける。
・4月15日、仙台藩から庄司宮喜内が忍んできて、見舞いに塩引き40本と金百両を持ってくる
・4月24日、大砲方の八弥世輔が忍び来て国許から妻子老母の書面十数通を渡す
・5月14日、ようやく仙台藩から受け取り人が来る
・5月24日、出船、しかし仙台に戻らず、仙台の開拓領である蝦夷の日高砂流郡平取へ。
・6月6日、平取の海岸より五里山奥で開拓。
・6月9日、「榎本釜次郎公より音信あり。大鳥公、荒井公、皆健在の由」
・7月8日、仙藩開拓領より星恂太郎宛手紙。仙台表へ引き上げるよう指示。
・7月9日、出立。勇払で宿。
・7月11日、室蘭に宿。
・7月12日、出帆
・7月13日、函館港着
・7月17日、津軽青森港着
・7月31日、親類遠藤定之進に引き取られる。

ということで、佐々木氏は、1年以上かかってようやく放免されて帰国しました。

そして、謹慎の記録の後、箱館戦争の様子についても、語って下さっています。

「奥州白河口は平凡なるも、蝦夷戦争は殊の外活気ありき。之れ味方の団結に硬軟ある故なり。蝦夷戦友大鳥公、戦争ある毎に榎本君又敗けたと打笑ひ、平然として後事を画す、戦友の士気を回復する常に公の御蔭なり、土方公は猛雄なり、榎本公は豪傑なり、荒井公、永井公共に戦略家にして大胆なり」

白河戦を平凡と言い切るとは、どういうことだろう。というのはおいておいて。
箱館戦争はことのほか活気があった。こういうと不謹慎かもしれませんが、楽しかったようです。
大鳥が最初に出てきて、戦友として好意的な記述です。大鳥圭介傳の安藤太郎の言そのままですが、士気を回復するのは常に大鳥の仕業によるとの事。これは佐々木氏が大鳥の率いた木古内を戦ったことによるかと思います。

そして、この後の記述。

「土方公は一本木にて、松平公の命にて下馬して進まんとせしに、飛丸に殪る」

おや、新説でしょうか。
土方歳三は、一本木で馬に乗って指揮をしていて銃弾を受けた、というのが通説だったかと思いますが。
松平太郎さんが土方に下馬するよう命じ、それで進もうとすると、流れ弾に当たった、との由。

ファンの方にとっては見逃せない記述ではないでしょうか。

それからもう一点。

「大鳥公は常に新選組長近藤勇の早死を嘆かれたり。関東流山を捨てて味方の大勢に加はれと、再三申付に従はざるか悲運なりと云ふ」

これは、本当なのか、首を傾げました。
大正あたりから各メディアで有名になった新選組と近藤勇ですが、当時は特に知られていたわけではなく、大鳥にとっては「どちらの近藤さんでしたっけ?」ぐらいの認識ではないかと思っていました。

大鳥が近藤を高く評価していたかというと、その裏づけはどうも思い当たりません。
京都では近藤の名は知られていたのかもしれませんが、大鳥は京都の情勢などは、幕軍の中枢の動きは兎も角、会津の外部組織の刀槍装備の隊については関心の外だったでしょう。近藤の幕臣登用の際に名前ぐらいは意識したかもしれません。一方、南柯紀行には近藤については一言も出てきません。

新選組についても、旧幕軍に属していても大鳥はほとんど記述していませんし回想にも現れません。南柯紀行で、市川結集でも田島編成でも新選組の名前は記していないので、独立したまとまった戦力というほどの認識ではなかったように思えます。新選組を指している記述もありますが、母成では「心元なく思い…撒布の法も宜しからず」、寒川では「番兵怠慢」とあります。高い評価ではないようです。

大鳥が欲しいと思う隊は、最低半年は洋式陸軍の散兵教練を受けたこと、後装式施条銃を装備していることの2点、ソフトウェア・ハードウェアの両面を満たしている隊かと思います。これは大鳥訳の「歩兵程式」に伺えます。新選組は自分は詳しくないのですが、流山の時点の新選組は、この条件は満たしてはいなかったでしょう。

実際大鳥は、市川の時点で、「小川町の大隊(伝習第二大隊)は格別、其外兵隊の脱走は予の強て知らざる事」といって総督就任も辞退しようとしたので、自分の育てた能力のしっかりした隊しか率いたくなかったというのが本音ではないかと思います。

なので、上の佐々木氏の記述には違和感があります。箱館で、何かの折りに近藤勇の話題になったときに、「彼は残念でしたな」といわれて「そうですねぇ」と相槌を打ったぐらいなのが、大仰に取られてしまったのではないかと思ったりします。


この記録の著者の佐々木京運氏は、「奥羽蝦夷戦乱史」に何度か名前が出てきます。

戦後に、佐々木氏が榎本、大鳥、人見寧らと会合して語っている様子など、ほかの史料には見られない、裏づけのありそうな逸話も描かれています。著者の佐藤浩敏は、佐々木氏からかなりの量の情報を得て、「奥羽蝦夷戦乱史」に盛り込んだのではないかと推測されます。

「奥羽蝦夷戦乱史」は、読み物としては楽しいですし、大鳥の評価も高いので嬉しいです。けれども、大鳥が福島攻めに参加していたり、土方が七重浜夜襲に加わっていて、「土方歳三は原ノ手の野戦に敗る」となっていたり(土方が七重浜夜襲に参加したという記録は外では見たことがない)、史料として扱うには、どうも首をかしげる記述が多いです。そうした記述が佐々木氏の言に拠るとは限りませんし、著者の思い違いも多いとは思いますが、身構えてしまう点ではあります。

「敗賊武士の謹慎日記一班」の書かれた明治3年7月という新しさからいっても、記憶にそんなに誤謬は無いでしょうし、一次史料であるとは思います。額兵隊の謹慎の様子などは詳細ですし、仙台の戊辰戦争史にとっても貴重な記述ではないかと思います。

ただ、全部を素直に受け取るにはハードルを感じます。史料に文句をつけるというのは、素人風情が何様だ、という感じで大変憚られることで、恐れ多いことなのですけれども。こうした悩ましさを感じるものもあるということで。

もちろん自分の認識も偏ったり間違ったりしていると思います。記述を裏づけするような情報がありましたら、ぜひご教示いただけますと嬉しいです。
posted by 入潮 at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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