2008年08月04日

市川行軍 その1

歩いてきました。

先週、座ってきました、ということの続き、ではないのですが。

法恩寺→竪川→市川→弘法寺

伝習隊の面々と合流してからの、南柯紀行の江戸脱走ルート1・2日目です。
(厳密に言うと2日目の4月12日は松戸に宿泊しているので、2日目全部には足りない)

お世話になっているOさんが、一度旧幕軍脱走ルートを歩いてみよう、と仰ったので、これ幸いと便乗させていただきました。

暑かった。
平地の14,5kmぐらいならけっこう余裕かと、高を括っていました。34℃の気温、高い湿度、直射日光とアスファルトの照り返しに、すっかりやられました。干上がるかと思いました。疲れた。

この日にしてくれといったのは自分です。考えてみれば、わざわざ各地でこの夏最高気温記録を続出した日に、歩かなくてもよかったかもしれません。

慶応4年の夏は記録的な冷夏で、雨続きでした。記録を読んでも、寒い、病気になる、との愚痴はあっても、暑いとぼやいている人はまずいない。大鳥らも、7月の最も暑いはずの時も、藤原の山中でせっかく夏服を江戸から補充してもらったのに寒いから冬服を着てすごしていた、と書いていたぐらいです。

それはともかく。
法恩時に着くまでの大鳥の脱出経路。

駿河台の屋敷(御茶ノ水)→昌平橋(秋葉原の東)→浅草葺屋町→東橋(吾妻橋)→向島小倉庵(小梅瓦町)、歩兵居眠り→報恩寺(法恩寺)、本多・大川ら伝習隊と合流

吾妻橋以降の位置図は以下の通り。(クリックで大きくなります) 「明治四年東京大絵図」より。脱走時から2年しか経っていないので、大体この配置から変わっていないと思います。

080803-0honhojimap.jpg

法恩寺で待ち合わせ。

前夜江戸を出るときは「薄暮に至る忽ち空砲一声合音を示す、兵隊直ちに土塀を毀ち郭を踰へ、憤気天を衝き往来に充満し、一声鬨歌を発し」と、うるさいほどに意気揚々だった伝習隊たち。法恩寺では「哨兵を配列し巡邏を厳かにし以て不時の侵略に備ふ」と用心していました。ここに、「大鳥圭助、衆を率ひ、三更陣営に入る」と、大鳥がやってきます。徹夜で軍議を行いました。(浅田 北戦日誌草稿)

080803-1hoonji.jpg

築城名人、江戸の築城で有名な太田道灌が開基となったお寺でもあります。日蓮宗。三重塔が美しいです。
ただ、大空襲で焼けているので、当時のまま残っているものはほとんどないのではないかと思います。

境内は余り大きくありませんが、蔵前橋通りから参道が延びているので、そのあたりにも兵は屯集していたのではないかと思います。

お寺は横川と蔵前橋通りの交点にあります。
横川は、江戸城から東を上に見たときに横に流れていることから「横川」と名づけられたそうです。横川には法恩寺橋が架っています。時代小説にも時々出てくる橋のようです。

080803-2hoonjihasi.jpg


「翌十二日早天、兵隊を整頓し、報恩寺を出て竪川通りを経て葛西の渡を越え」

と、南柯紀行にあります。
ここで問題なのが、「葛西の渡し」。竪川から今の葛西橋まで、直線距離で南へ3kmほどあります。一方、市川は北東側です。市川へ向かうには、葛西を通ると約6kmもの遠回りになってしまいます。

これは少し不自然なように思います。
最短距離で市川を目指すなら、蔵前橋通りを東へ直進し、平井の渡し(今の平井大橋)で荒川を渡るのが最も早い。
また、竪川沿いの千葉街道を行くなら、小松川橋か渡しがあったと思います。

(明治初年に小松川橋があったかどうか分からないのですが、街道は竪川から千葉方面へ続いているので、なんらかの荒川を渡る手段があったのではないかと)

よって、葛西まで南に下る理由が無いなぁと思いました。
平井の渡しや小松川橋に検問があって通れなかったのかもしれません。
旧中川を船で南下して荒川に出た、というのもありかもしれませんが、それなら一言書いてもおかしくない。

というわけで、「葛西」の一字は、見なかったことにしました。
決して、このくそ暑い中、行程が6km増えるのを厭ったわけでは。そういうわけです。

横川を南へ。竪川に出ます。竪川沿いが、昔の千葉街道です。今の千葉街道は少し北にあります。

上の地図には、横川沿いに南へ出たと仮定して行路の線を引いていますが、これは定かではありません。もしかしたらもう一つ西の四ツ目通り辺りまで出てから竪川に出たかもしれません。

なお、竪川=縦川。横川と対比して、江戸城からみて縦に流れているから、「たてかわ」と名づけられたそうです。

080803-3tatekawa.jpg

今は上を、でーんと首都高速が走っています。
土地が無いからってあんまりだ。情緒も何も無い。

などと嘆かないでください。首都高速を毎日毎日走ってくるトラックが運んでくる物資に、東京人の生活は支えられているのです。首都高速がなければ東京の道など駐車場以上のぎゅうぎゅう詰めになり、とても物流はできなくなります。
そして、川の上ぐらいしかまともに直線を引ける土地は無い。

川べりにはカニが歩いていました。一時期に比べると、富栄養化も軽減され、ずいぶんときれいになったほうなのではないかと思います。

首都高小松川線を歩くのが一番当時の道に近いのですが、残念ながら高速道路は歩行者は歩けません。
竪川沿いの小道を東へ。大島まできたら若干北へ戻り、国道14号の現在の千葉街道に出ます。
これは千葉街道から日本橋方面を見た写真。

080803-4tibakaidou.jpg

小松川橋を渡って、巨大河川である荒川と中川を越えます。

080803-5arakawa.jpg

この橋がまた長くて暑かった。1kmぐらいあったのではないかと思います。
橋を渡り終わって、昼食休憩。

千葉街道が大鳥らのルートであると当たりをつけたのは、適当です。
当時、本所深川あたりから市川に向かう街道は、千葉街道か、せいぜい今の蔵前橋通りぐらい。一旦竪川まで下りたなら、千葉街道のほうが地理的に妥当、と見ただけでした。
国道14号は、市川へ伸びている旧道の千葉街道と新道の京葉道路に別れているので、旧道の街道が可能性が高いな、と思った程度です。
なお、千葉街道には、日本橋から四里ごとに置かれている一里塚があります。

千葉街道の交差点。

080803-6tibakaido2.jpg

ここから道は北東へまっすぐ伸び、小岩へ出て、市川橋で江戸川を渡ります。

080803-7edogawaitikawa.jpg

公共物に落書きされると、悲しいです。
もとい、立派な土手です。日本が連綿と行ってきた治水事業により、都市の生活は守られています。

そろそろ暑さも限界。
ここで「氷」の暖簾を出していた喫茶店に出会います。吸い寄せられるように入店。
クーラーがあんなにありがたいものだとは思わなかった。文明の利器万歳。
宇治氷の美味かったこと美味かったこと。冷たさが五臓六腑に染み渡る。天国の心地でした。

そして、涼しさの誘惑を振り切って、行軍再開。
この橋のすぐ北に、大鳥も渡った市川の渡しがあります。伝習隊第一大隊士官の小笠原新太郎が舟を浮かべて、市川駅に皆集まっているから早く渡ってきてくれと迎えにきて大鳥が驚いたところです。

江戸川を渡ってから松戸街道を川沿いに北へ。すぐに市川関所跡があります。

080803-8ichikawagate.jpg

案内板によると、江戸川は、江戸時代以前は太日川(ふといがわ)と呼ばれていたそうです。江戸時代を通じて、江戸川には一切橋は設けられなかったとのこと。江戸幕府は、江戸の守備のために関東の主な河川に舟の渡し場である「定船場」をおきました。古くから渡しがあり市場でもあった市川が、この「定船場」に選ばれたとのこと。市川の船渡しは、幕府公営だったようです。二、三艘の船を用意し、二十人前後の船頭・人夫が働いていたとのことでした。

江戸川に橋が架るのは、明治38年のことになります。


ちなみに、関所跡がありながら、度重なる護岸工事のために関所の正確な位置は分からなくなってしまっているとか。

下は、関所の案内板に掲載されている、江戸名所図会の、江戸川・関所の絵。
左下に関所の様子が描かれています。

080803-9zukai.jpg

書ききってしまいたかったのですが、力尽きました。
続きはまた明日。ばたんきゅう。
posted by 入潮 at 03:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

市川行軍 その2

鴻之台。現在の国府台。伝習第一大隊、幕府第七聯隊、桑名藩、土工兵ら脱走兵たちが集合していた場所です。

新人物往来社版南柯紀行には、「駅畔なる小寺院」とあるのみで、場所は特定されていません。この集合場所の寺院は、ものの本には「総寧寺」とあったり「国分寺」とあったり。新選組もいたようなので研究家の方々で意見が分かれているようです。総寧寺も国分寺も、市川周辺にあります。

一方、平凡社の山崎有信編南柯紀行には、「編者曰く、小寺院は市川町大字真間弘法寺末寺大林院なり」と注釈があります。

この記述は信頼できるのではないかと思います。

というのは、山崎氏は非常に真面目に、姿勢正しく、大鳥圭介傳編纂のための綿密な調査を行っておられました。その際のエピソードが、史談会速記録で語られています。愛娘が病気で亡くなる数日前にも大鳥の材料収集のために奔走していたということとか。それは自慢したらいかんと思います。

それはともかく、南柯紀行中に、大鳥がどこそこの地に滞在した、本陣に世話になった、ということは「何某と言て名が書いてありませぬ、こういふものは私がいちいち関係の県、若くは郡役所に照会しまして維新当時の人の名前を調べて大鳥圭介傳に抄録しました」と、山崎氏は不明点をいちいち明らかにしています。「同方会誌」や「維新史料」の異本と比較対照したり、詩は異字がないか詩の専門家に一々して正したりと、内容の正確性に非常に気を使っています。

ちなみに、その山崎さんが編集し昭和16年に出版された平凡社南柯紀行ですが、その表紙は野州花の墨絵。序文に大鳥の六方越の苦難と感動の詞を記した上で、野州花を「男爵が非常に愛せられたるものなるを以て高橋北修画伯に依頼して特に画きしものなり」として、野州花を画伯にわざわざ依頼して表紙にした。そのあたりの心遣いの細やかさからも、山崎氏の誠実さが伺えます。

そうした方の記すものですから、何かしらの誤謬があることには山崎氏自身が耐えられないだろう、と思うわけです。

ちなみに、総ルビが振られているので、地名人名も分かります。
注釈の情報も多いですし、入手可能であれば南柯紀行は新人物往来社版よりも平凡社版を参照するのが一番かと思います。新人物往来社版は今井信郎や小杉雅之進の記録が収録されているのでそれはそれで入手する価値はあると思いますが。(表紙に小杉の名が書かれていないのは残念だ)

そういうわけで、山崎氏の言を信じ、市川の結集場所は弘法寺の大林院とみなしました。
周辺地図。明治13年の測量による地形図です。

080803dairinin.gif


江戸川が南北に走っています。地図の赤いところが関所です。すぐ傍に、京成の国府台駅があります。実際の国府台はもう少し北になります。

市川駅は、現在のJRの駅より少し西にありました。図の小さい■が民家か建物なので、街道沿いと江戸川沿いに集落があり、その他はほとんど田圃か畑だったことがわかります。新田開発も行われたようです。

弘法寺は、国府台の南に位置し、ローカルの地名で言うと、「真間」という場所にあります。当時は真間村と呼ばれていました。
現在は、付近は住宅地になっています。
荒川に注ぐ真間川という小川沿いに東へ、途中から北へ折れます。

弘法寺の門。

080803-Aguhousigate.jpg

弘法寺は「ぐほうじ」と読みます。案内板によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した寺が始まりだったそうです。その後天台宗を経て日蓮宗に転じたとされます。江戸時代は、徳川家康より朱印地三十石を与えられました。紅葉の名所とされました。

この中の参道は、急な階段になっていました。

080803-Bkaidan.jpg

トレーニングに最適らしく、高校球児が身体を鍛えるために、泥だらけ汗だくになって上下していました。この暑い中、偉いです。根性です。若さって素晴らしい。

階段を上がったところに、門があります。両脇に立派な仁王像が立っています。普通の仁王像より目が大きくて愛嬌のある感じでした。

080803-Cnioumon.jpg

門をくぐると、立派な建物があります。
住職さんが、寺の略歴を教えてくださいました。
明治21年の火災で、西の朱雀門を除いて全て焼けてしまったとのことです。

末寺であったという大林院ですが。末寺というのは、以下の二通り。

・歴代のご隠居がすむ房
・周辺の小寺が吸収合併され、元の名を房や院として残ったもの

大林院もこの二つのうちどちらかだろうということでした。
残念ながら、それら末寺も全て火災で焼失したということでした。

手児奈寺のほうは、霊堂として石碑が残っていて、場所が確認できます。
一方、大林院は既に住宅地となっており、跡は確認できません。
場所は、上の地図から、弘法寺の南側にあります。参道の階段を下りてすぐ左側あたりかと思われます。

080803-Fdairinji.jpg

このあたり。

なお、この手児奈が万葉集にも詠まれ、さらに小林一茶や水原秋桜子の句碑があるように、このお寺は詩や俳句の縁があります。
「あなたも俳句をつくってみませんか」ということで、俳句ポストがありました。

080803-Dhaikupost.jpg

自分は詩心皆無なので、スルーしてしまいましたが。心ある方はチャレンジされるのも一興かと思います。


という感じで。
市川行軍はこれで終わりです。暑かった。脱水症状になるのではないかと思ったぐらいに、汗をかきました。あと、日差しも強く、サングラスをしていたら顔が日焼けでパンダになった。腕もまだら模様です。

単純に南柯紀行を後追いしようと思ったら、夜に歩くという手もありますし、無理をして夏の一番暑いときに、しかも昼間の日の高いときに歩かなくても良かったのですが。
普通の夏の日を満喫できました。オフィスや家の中でクーラーや扇風機に常に当たっていると、身体が甘えて自然な気候に耐えられなくなってしまいますので、たまにはこういうのも良いと思います。

ただ、今回、水分補給はしていましたが、塩分補給を失念していたので、ずいぶん疲れました。
汗をかくとミネラルが失われて、これが疲労の原因の大きなウェイトを占めたりします。

その後、市川駅前の居酒屋に突入。
ビールがあんなに美味いと思ったことはありませんでした。
疲れると、何もかもおいしいです。
夏バテ防止の一策は、とことん疲れてみることではないかと思います。

といいつつ、食べ物がおいしくて食べすぎ、歩いた分のカロリーを補充して有り余ってしまいました。メタボが怖いこの頃です。
posted by 入潮 at 03:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

深川江戸資料館

先日、というかすでに一ヶ月前になってしまったのですが、深川江戸資料館に行ってきました。
日曜日は休めそうだと前日に判明し、いきなりTさんに一緒に行きませんかと迫りました。

Tさんのネタ発見の視野の広さは感嘆もので、いつも「そこから見つけてくるか!」と驚かされます。自分が4人いても多分叶わない。一人だと同じものを見ても得られる認識は限られていますが、誰かと一緒だと発見の濃度が違います。

それで、深川江戸資料館ですが。なんとなく名前に惹かれて、何があるかもよくわからないまま行ってみたというだけの体たらくだったりするのですが。

江戸も終わりに近い、天保年間の頃。隅田川沿いの深川の一角の、町の庶民達の生活が復元されていました。参加型の展示です。一つ一つ、手作りでこだわりがあり、心の篭った展示でした。

深川のあたりは、元々河口で、開拓して住み着いた漁師(当時は猟師と書いた)たちの集落だったそうです。以来、材木置き場ができたり、永代橋が掛けられて江戸市中と端で繋がったり、埋め立てが行われたり、横川・仙台堀・油堀などの水路が整備されたりと、水運・交通の便が良くなり、町人の町として発展していきました。

展示の天保時代は、天保四年と七年の二回の大きな飢饉を経た辛い時期。黒船は来る、打ちこわしは横行する、水野忠邦の改革で厳しい倹約令が出される、株仲間は解散させられて幕府が物価統制をする、農村復興のために人返し令が出されて強制的に江戸の農民が帰村させられる、など、町民もまた右往左往した時代です。
大鳥さんや榎本さんらが生まれた時期でもあります。

こうした時代背景ながら、庶民の生活の根本的なところは変わらない。
展示は、住民一人一人、どこにでもいる人たちの生き方を設定したストーリーに基づいています。一方、人間は、絵でも写真でも直接は描かない。家屋や模型を用いて、住処と生活用品だけを再現しているのですが、人を描かないことによって、想像力をたくましくさせ、また閲覧者に自分達があたかもその住民となったかのような錯覚を催させます。

展示の町並みを上から見たところ。

080706-1Fukagawa1.jpg

七夕時期なので、季節の展示として短冊が笹に括りつけられていました。

長屋などは、瓦ではなく、トントン葺きという柿の木板の屋根だったようです。

町並みには、以下の建物があります。

・八百屋「八百新」

大根、小松菜、にんじんなどが、ざるに入れられて並べられている。昔の形の悪い堅くて辛そうな大根でした。一方、形が揃いすぎていると、Tさんからチェックが入った。

080706-2yasai.jpg

主人の才蔵さんは、悪いものは売らない、しなびかけたのに水をかけてごまかしたりはしない、ということに誇りをもっているそうです。

・舂米屋(つきごめや)

「舂く」はつくと読みます。米を臼で精米すること。特に玄米から精米することのようです。この漢字は初めてみました。面白い字です。
中には、唐臼という、足踏みの梃子のようなものがあります。端を足で踏んで、もう一方の端で玄米を付いて白米にします。もちろん、試せます。ぎこぎこ。
籾からではなく、玄米から白米に精米するというのが興味深い。江戸庶民は白いお米を食べていたということです。

帳場格子、長火鉢、行灯、屏風などが置かれ、台所にはへっつい、水がめ、手桶に荒神様まで。細かいです。すべてお触りOK。もちろん丁寧に扱います。

080706-3kagu.jpg

・船宿「相模屋」

目の前の川に猪牙船(ちょきぶね)が浮かんでいます。船頭が居て、荷物を運搬を請け負っている船宿です。宿では飲食も宿泊もできる、今で言うと運送屋と飲み屋と宿が一緒になったような便利な存在です。

女房のおけいさんは美人で、人気があるそうです。くらし向きがいいせいか、箪笥は上等で、へっついは銅製でした。

ポイントは押入れ。ただの物入れかと思ったら、中のこまごましたものまで再現されています。

Tさんが、ちょんまげ枕発掘。正式名称はわかりません。
「寝てもいいですか」と思わずトライしてみましたが。枕は高いし、頭を置く面積が少ないので、すぐに首が痛くなりそうです。それも慣れなのだろうか。
枕を外すととたんに眠くなります。
米屋さんもそうでしたが、古い畳の部屋の雰囲気といぐさの匂いがとても良くて、この上ないリラクゼーション効果があります。独特の誘眠電波が放たれています。
「東京おさぼりマップ」に「昼寝可能」と書かれていた理由が良く判りました。
気力を振り絞って立ち上がらなかったら、二人してそこで半日以上寝こけていたと思います。

あと、びっくりしたのが、台帳。
15センチはあろうかとう分厚さのものに、墨でびっちりと収入支出が書き込まれています。手で摺れてやわらかくなっているところまで再現されています。コピーには見えないし、あまりに精密だったので、もしやオリジナルかと慄きました。

080706-4tyoumen.jpg

未だに本物じゃないかと疑っています。

そのほか、そろばんや重箱など、うちのばあちゃんが持っていたなあ、というのがたくさんあり、江戸時代というのがそんなに昔ではないということに思い当たりました。すっかり工業製品に囲まれるようになったこの百年の変化が凄まじすぎたのだと思います。

・長屋

展示の中でもひときわ気合が入っています。長屋住みの住民達を、何パターンも取り入れて再現しています。
棒手振り(天秤で荷を売る単身の商人)の独身男、雇われ船頭、木挽き職人、三味線師匠など。

壁は木舞壁という、竹・わら・土を材料とした壁。竹を割り、わら縄を組み、壁土を塗っていく作り方だそうです。わらは乾燥したときのひび割れを防ぐそうです。防音効果は低かったので、隣の声はまる聞こえだったとか。プライバシーは無い生活。隣が新婚さんだと大変です。

ふんどしが並べて干してあるのが妙にリアルでした。カラフルなチェックや染め柄も。やはり白一色がいいと思いました。

ベスト・キャラクターは、三味線師匠の於志づ(おしづ)さんだと思いました。
齢三十六。読み書き、裁縫、手習いなどを付近の娘さんに教えているそうですが。
元は立派な店のおかみさんだったのが、急に店が左前になり、亭主もぽっくり。無一文になって長屋に移り住んできたとのこと。一人娘を女手一人で育てて、成長した娘は今は旗本のお屋敷に奉公に出ているとのこと。おしづさん、近所の方からは、立ち振る舞いや教養の深さから、お武家のお嬢さんだったのではないかとささやかれています。しかし三味線は一体、どこでおやりなすったのか。その過去にひとかたならぬ遍歴を伺わせて、涙を誘います。

おしづさんの部屋は、生徒さんが来るから単身者よりも大きい。鏡や貝に朱を入れた化粧用具など、小物にもこだわりがありました。

そのほか、稲荷(長屋共有スペース、井戸・便所・ゴミ溜め有)や土蔵、火の見櫓、油屋など、見所は多々あります。

なお、犬・猫まで居ます。特にこれ。町のいたるところから見えます。我々は、勝手に「みよちゃん」と名づけて鑑賞していました。

080706-5-1miyo.jpg

動きが、必要以上に生々しいのです。

080706-5miyo.jpg

暗闇で見ると、夏の夜の恐怖。


そんな感じで、生活がとてもリアルに感じられ、ノスタルジーと共に親しみのある、良い展示でした。朝・夕・夜と光源が変わるのもまた雰囲気が変わり、ニクイ感じです。何より、触って座って寝転んで確認できるのが良い。触覚で学べる新感覚。江戸が身近になります。



江戸庶民生活を満喫したあとは、資料館を出て、周辺のみやげ物屋さんを冷やかして、すぐ近くにある清澄庭園へ。

回遊式林泉庭園という、池とあずま屋、名石に彩られた巨大な庭園です。
紀伊国屋文左衛門の屋敷跡、その後下野の関宿城主久世大和守の下屋敷となり、さらに明治11年に岩崎弥太郎が三菱社員の慰安や貴賓招待所として造園されたものだそうです。
よくこの都心に、この巨大な庭園を残すことができたものだと、そっちのほうに感心しました。

080706-6kiyozumigarden.jpg

周辺のビル・マンション林からは隔絶された別世界です。

池の水は、昔は墨田川から引いていたけれども、現在は雨水だそうで。巨大な鯉が多数泳いでいて、それだけで一財産になりそうです。
また、無数の石が配置されています。伊豆、伊予、生駒、加茂、京都、讃岐、根府など全国各地から、岩崎家が自社の汽船で集めたものであるとの事。

アジサイが綺麗でした。季節によって、つつじ、花菖蒲、寒緋桜、楓など、様々な植物が楽しめると思います。

清澄庭園内には、涼亭という、数奇屋造りの建物があります。英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものだそうです。一般人も借りることができる。壁はガラス張りなので、庭園、あずま屋、石、そして池に映る涼亭自身の姿を眺めながらの情緒がある。ここを借り切って、歴史オタクの勉強会というか、お互いの資料を持ち寄って「歴史の真実、私は見た。ここが萌え所報告会」など題して催してみたいと思いました。いや、本当にやるとしたら、申し込み時に恥ずかしいので、タイトルはもう少し真面目にすると思います。

移動の間も、Tさんは色々と街中でネタを発見しておられました。張りぼての土産物屋前人形や、美を護るゴミ捨て場や、「嫁を変えるより部屋を変えよう」というマンションのカンバンや。清澄庭園で「おしづさんが幸せになりますように」と書かれた短冊を目ざとく見つけるとか。面白いものを見つけ出す目というのは、才能だと思います。
そしてそれだけのネタを提供する深川という町も凄いです。
短冊には、心優しい子もいるものよと、未来に希望が持てました。

その後、飲みに雪崩れ込む。
日曜日はほとんど飲み屋さんが閉まっていて、探すのに苦労して結局駅ビルで済ますという要領の悪さを晒してしまいました。

楽しかったです。見るところはも語ることも尽きないと思いました。
見るべきところを見て回れるように、休みを捻りださねばと思いました。
休みというのは、「ある」ものではない。勝ち取り奪い取るものなのだ。
と、休もうとすると前の日が大変でついついダラダラやってしまう自分をけしかけたいと思います。
posted by 入潮 at 03:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月11日

板室・三斗小屋記 その1

彷徨ってきました。
目を閉じると、まだ藪の中を道を迷っている気がします。

板室・三斗小屋に行って参りました。

会津中街道にできるだけ沿って歩いたつもりが、気がついたら道から外れ、藪を漕ぎ沢を渡り崖を伝うこと3時間。半ば本気で遭難を覚悟しました。己の方向感覚の欠如と、それに関わらず一人で挑んだ無謀さを怨みました。

結果的に、生きて帰ってこれて良かったです。
収穫は大きかったです。一週間ではまとめきれない感じです。


行程は以下の通り。

8月9日(土)
(バイク)
6:15 出発、首都高速→東北道
7:30 羽生Pにて休憩・朝食
8:45 矢板着、県道30号会津中街道沿いを北上。矢板→関谷→高林→戸田→百村→深山
9:30 深山湖、深山・沼原揚水発電所
10:00 塩沢・板室温泉着、公衆浴場グリーングリーン入浴
11:30 板室の戦い現地、阿久戸・油井、戊辰供養塔、小笠原新太郎戦死の地
12:00 沼原駐車場
(徒歩)
12:15 沼原登山道
12:30 麦飯坂、下り
13:00頃 藪の中さ迷う
16:00頃 元の道発見
16:15 三斗小屋宿
17:50 三斗小屋温泉大黒屋着
18:00 温泉・夕食
20:00-21:00 大黒屋従業員さん談話
22:00 就寝

8月10日(日)
(徒歩)
4:30 起床
4:30-5:00 朝風呂
6:30 朝食
7:00 出発、大峠へ
8:20 大峠着
10:00 大黒屋に戻る
10:00-11:00 大黒屋蔵「下野三斗小屋温泉誌」閲覧
11:00 三斗小屋温泉出発、牛ヶ首方面登山道
13:30 沼原駐車場帰着
(バイク)
14:30 塩原・大網温泉
15:00 那須発、渋滞、東北道
17:00 宇都宮、本丸・旧城内地域
19:00 食事
21:30 宇都宮発、壬生より北関東自動車道→東北道→首都高
23:20 なぜか道を間違え常磐道三郷
24:00 帰宅


麦飯坂と藪の中で、普段使わない筋肉を使いまくったせいで、太ももはガクガク、足の裏は水ぶくれ、手首や顔は傷だらけ。日ごろの運動不足が祟っている自業自得とはいえ、数日はまともに動けなさそうです。

今回のテーマは、会津中街道でした。

会津中街道は、栃木県の氏家から始まり、県境(会津国境)の大峠を越え、会津若松まで出るルートです。南から、矢板、石神、横林、高林、板室、三斗小屋宿、大峠、野分、松川、湯野上、桑原、小塩、会津若松というルートを経る、山越えの道です。

今市から藤原、五十里、山王峠、田島、大内宿を経て若松に至る会津西街道から見ると、東側にほぼ平行に、南北に伸びています。

以下、「三斗小屋温泉誌」(大黒屋、1989年)「三斗小屋誌」(下野史談会、1984年)を参考にまとめます。

会津から江戸への通行路は、白河道と会津西街道がありました。1662年(天和二年)の大地震、1684年の暴風雨により、山が崩落して男鹿川がせき止められ、五十里村が水没。会津西街道は通行不能になりました。すると会津から江戸への廻米11万俵が滞りがちとなります。東側の白河通の輸送能力は6-7万俵が限度であり、米の輸送路の新規開鑿が求めらました。よって中街道が、幕府の出資により整備されました。

1695年(元禄八年)2-3月に測量、8月工事開始。工事の指揮を執ったのは、幕府の代官である依田五兵衛です。
開通は同年の10月13日。2ヵ月半で開鑿したことになります。動員人数は述べ3万人。この時代に万人単位の人夫を動かす公共事業というのは、かなり大規模な部類かと思います。
中街道は、米が不足すると困る幕府の要望により、幕府が資金を出して急整備したということが伺えます。それだけ米どころ会津からの供給は重要だったということでしょう。

翌1696年(元禄9年)には、早速、当時の会津藩主松平正容が、参勤交代で中街道を通り江戸へ赴いています。宿となった三斗小屋宿は人家もまだ少なく、大名行列が休む場所も事欠いたとのことです。
中街道は合計4回、参勤交代に使用された由。

しかしながら、豪雪のために11月から4月までは道は断絶。また、板室から三斗小屋、大峠を越える道はとりわけ悪路で急坂が多く、荷駄も使えず、高価な馬を使わねばならなかったということです。しかも、平地なら馬一頭で運送できる物資を、二頭用いねばならず、運賃は八割り増しでした。

「一度来て 二度と行くまい 三斗小屋 カサを忘れて帰るうれしさ」
などと詠まれました。

補修工事にも多額の費用がかかります。この維持費用は会津が負うものでしたが、暴風雨などで土砂崩れが起きても予算不足で修復されないままだったりしました。
そして、1723年(享保八年)、会津西街道が復活すると、中街道は街道としては廃れ、以降は横道として細々と利用されるに留まります。

いずれにせよ、とんでもないところに街道を作ったものだと、実感してきました。

戊辰戦争では、板室、三斗小屋が戦場となり、至上まれにみる山岳戦が繰り広げられました。会津が大砲を担いで峠を越えたのは、心から誉めたいです。
凄いのは担いだ人夫ですが。

三斗小屋温泉は素晴らしかったです。古い木の匂いの居心地の良い宿で、山岳の秘湯情緒をたっぷり満喫してきました。
二度と行くまい、などと歌にはありますが。是非また行きたいです。

そんな感じで、本日は触りのみ。
疲れ果てました。目を瞑って開けると、また藪の中に戻っていそうで怖いです。
藪は単に自分が迷ったからであり、街道とは関係がないのですが。
しばらく、夢で魘されそうです。
posted by 入潮 at 01:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月15日

当たり前な靖国神社

お参りしてきました。

会社帰りに、靖国神社に行ってまいりました。

080815yasukuni.jpg

この国の為に尊い命をささげられた英霊にこの日に感謝を…というたいそうな気概でもないのですが。

うちの母方のばーちゃんの旦那が、あそこにいるようだ。
ということを、この間、戸籍を見ていて初めて知りました。
今まで通勤路にあるのに、挨拶もせず通り過ぎていたのが申し訳なくなりました。

ばーちゃんの旦那が、帰らぬ人となり、色々あって再婚して生まれたのがうちの母親なので、靖国にいる当人からすると血の繋がりのない人間に挨拶に来られても微妙かとも思ったのですが。

おかげさまでぬくぬくと今を過ごさせてもらっている現代人としては、頭を下げて手を合わせさせてもらいたいと思いました。
お盆ですし。


仕事帰りで既に夜も遅かったのですが。相変わらず、カップルや飲み屋帰りのお嬢さんたちが闊歩していました。周囲が靖国と聞いて想像するだろう客層とはかけ離れていまます。境内の入り口に設営されたテントには宴席が設けられ、盆も仕事なサラリーマンが寄り合って、酒臭い臭いを漂わせていました。

高校生の男の子達もいました。せっかくお盆なんだから、こんな時間まで出歩いていないで、早く家に帰ってじーちゃんやばーちゃんと過ごしてあげてください、と思いました。

開門は7時まででしたので、門前で手を合わせただけでしたが。
活気があってよかったです。


8月15日に、石原都知事に、靖国神社へ参拝に行くのは何故かとインタビューした記者への都知事の答え

「また(その質問)かね。あたりまえじゃないか、行くの。おれ、日本人なんだ」

いや素晴らしい。簡明にして快活。
当たり前のことを当たり前に言うのが何故ニュースになるのも変な話ですが。そのあたり前さに喜んでしまいました。
何かとメディアの話題になる発言ばかりしている方ですが。今回もまたやってくださいました。

それで、東京五輪の招致を控え中国をはじめとした国々の理解を得ることも必要なのに、今年参拝したらその影響はどうなるか、などとさらに記者が問いかけた。

「別に影響ないと思いますね。あたりまえのことですね、日本人として。私の家内の父親もあそこにおりますし、私の親しかったまたいとこも2人、海軍士官で戦死しておりますしね。その心情として、私が行くことが、誰がどう妨げることができるんですか。つまらん質問しない方がいいよ。会社の沽券にかかわるぞ、本当に。誰に言われたか知らんけど、バカな質問しない方がいいぞ、はずかしくねえか、本当に」

つまらん質問。バカな質問。そんな質問してはずかしくねえか。
本当にそうだと思います。

日本の国を守ってくださった方々がいたこと、先祖がいることを、普通にありがたく思い、普通に手を合わせて来る感覚で、いいのではないかと思います。
これを普通にやることが日本人としてのアイデンティティであるわけです。なんでそれを好き好んで政治に絡めて騒ぎたてようとするのか。

当たり前のことを当たり前にやっているだけですよ。当たり前のことに余計な意味を見出すほうが、変なんじゃないですか。
毎年この日が来るごとに、そういえばいいのにと思っていただけに、今回の慎太郎さんの言は、すかっとしたのでした。


帰り際に、上司に靖国に行くといったら「南方の方々によろしく」と言われました。それを機に「うちの大叔父が満州で」「うちの母方の父はフィリピンで」と盛り上がりました。皆さん、なにかしらバックグラウンドがあります。

会社に「にほんを愛でる会」という、有志の集まりがあります。そういう名前で日々飲んでいるだけなんですが。趣旨は、江戸に、明治に、大正に、昭和に、日本はこんなに凄い人がいた、こんなにすごいことをやっていた、ということをお互いネタを持ち寄って語りあうのですが。ゼロ戦サカイに熱を上げる方もいれば、フラダンスで行った地元振興を誇る方もいる。いやこれが楽しくって仕方が無い。

当たり前のことなのにわざわざ愛でないといけないところが、嘆かわしいです。
ブータンで仕事が一緒だったイギリス人など、食事ごとにひたすら、うちの国のセーフティガードは素晴らしいとか、皇太子の歩いた道のガーデニングが美しいとか、百年の斜陽は気にせず、どうでもいい御国自慢をし続けてくれました。日本人はそういうことは恥ずかしくってやらない。

日本人は、もうちょっと面の皮が厚いぐらいでいいのではないかと思います。
当たり前のことを当たり前にやっていきたいです。


あと、遊就館では、現在特別展として幕末維新展を開催中とのこと。12月まで開催。
東側の方々は靖国というと合祀者の関係で敬遠する方もいるのかもしれませんが。遊就館は普段からも榎本さんの軍服をはじめ、分け隔てなく展示を行っているのではないかと思います。
下岡蓮杖の箱館戦争図、銃隊式沿革図など、興味深いものもかなりありそうです。近いうちに行きたいです。
posted by 入潮 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月19日

板室・三斗小屋記その2 板室の戦い

先週は、筋肉痛と足裏の水ぶくれに苛まれ、ヨタヨタしていました。下り階段が辛かった。手足や首の生傷に汗が染みてひりひりしたり、虻に噛まれた後が痛痒かったり。久しぶりに満身創痍な感じでした。翌週定刻通りに出社した自分を誉めてやりたい。

そういう思いをして行った甲斐はありました。
三斗小屋温泉は、300箇所以上の温泉を回った学生の頃より、憧れの地でした。

いわゆる秘湯中の秘湯。宮城県湯ノ倉温泉、青森県青荷温泉と共に、日本に残された数少ない未電化地域のランプの宿です。しかも、三斗小屋温泉はこの二つと異なり、日帰り入浴は行っておらず宿泊せねばならないし、車でのアクセスもできない。最低2時間は登山コースを歩く必要がある。

温泉ファンにとっては、文字通り高みにある憧憬の地です。

会津中街道も魅力でした。現在の国道を初めとした道の数々は、多くが昔の街道に沿って開発してこられました。一方、会津中街道は、僻地ゆえ登山道としてしかアクセスできないパートがある。そして、有志の方々によりかろうじて保存されている苔むした史跡、灯篭やお墓が残され、当時の風情を留めている。

会津中街道は、地元の方を中心に丹念に追われている方々がおられます。やはり人々を惹きつける何かがあるのだと思います。検索するといくつかヒットしますが、相当な熱の入り具合です。

また、戊辰戦争においては、三斗小屋宿は閏四月に伝習第一大隊など旧幕軍が拠点とし、8月の新政府軍の進行時には新政府軍と会津藩士が戦った場所であること。さらに、三斗小屋宿でおきた住民惨殺の主体者が史料によって旧幕・会津側と新政府側に分かれている謎があることなどから、ずっと足を運びたいと思っていました。

年の半分は雪に閉ざされた地。山スキーで行くという猛者も居られますが、そんな特殊技能はない平凡人たる自分は、国内に居られるこの夏、今しかないと思い立ちました。

三斗小屋温泉の宿の衛星電話に予約を入れたのが出発2日前の木曜日。幸い部屋はあるとのことなので、行ってきました。


8月9日土曜日、朝6時出発。

首都高から東北道に入ろうとすると、いきなり渋滞。日付を思いやると、世間では日本民族大移動期たる盆休みの週に突入していたということに思い当たる。早組みの人たちはもう休みに入っているではないか。

恨んでも仕方が無い。幸い、東北道に出ると空いていたので、そのまま矢板インターまで走り抜けます。

会津中街道に最初から沿うとすると氏家町から始めるべきなのですが。氏家⇔矢板は奥州街道たる国道4号が走り、現代の動脈になっています。実際の街道は現在の4号からは少し外れ、一里塚や宿跡など確認できるらしいですが。今回の目的は車道から外れた山岳地なので、パスすることにしました。
なお、氏家町は喜連川町と平成17年に合併し、現在は「さくら市」となっています。

会津中街道の経路。(画像は全てクリックで大きくなります)

000nakakaido.gif

三斗小屋温泉のすぐ近くに栃木県が設置した案内板より。(公共物ということで、撮った写真を加工して利用させてもらいました)「三斗小屋温泉誌」に同様の図が掲載されています。

001yaita.jpg

高速を矢板で降り、南北に走る県道30号をどこどこ北上します。

青々した田圃に囲まれた、走り良い田舎道です。
途中に「ほっとぷらざ館の川」「城の湯」という温泉があります。心惹かれながらも時間の都合でスルー。

002sekiya.jpg

街道筋である関谷を越えます。

途中の道傍、高林付近に、寛政二年の供養塔がありました。

003kuyoutou.jpg

こうした古い石碑が何気なくあるのも、街道筋ならではでしょうか。

003paddyfield.jpg


周囲は、目にまぶしいぐらいの水田の緑でした。日本の田んぼ風景には、この上ない安らぎがあります。あぁ満たされる。

北上し、戸田で県道369号に入ります。2kmほど北へ行くと、百村・穴沢地域です。

003anazawa.jpg

那須の山々と、水力発電所からの送電線。

ここからさらに県道369号に添うと、中街道から少し外れることになります。


010nakagawahasi.jpg

那珂川に出ました。ここをはさんで、南側が油井、北側が阿久戸という地名になります
ここが、板室の戦いの起きた戦場となりました。

大鳥軍は、宇都宮の敗戦から日光を経て六方沢を越え、田島で軍を再編成しました。このとき、大鳥直下の伝習第二大隊は藤原から今市を狙います。一方、伝習第一大隊の約450名は、秋月登之助を主将として、東の三斗小屋方面に配備されます。

閏4月21日、大鳥らが今市の第一次戦を戦った日。伝習第一大隊もまた新政府軍と、塩野崎において矛を交えました。翌閏4月22日の板室の戦いの前哨戦です。

塩野崎は百村・穴沢から県道369号を南東の黒磯側に約5km、黒磯のから約5km西にあります。場所はこちら。国土地理院のうぉっ地図より。(見るたびに噴出しそうなネーミングです)

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=365716&l=1395950

大田原方面に進出してきた旧幕軍のために、大田原藩の家老大田原数馬は新政府軍に救援を求めました。これを受けて新政府側は、薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩それぞれ一小隊ずつを派遣。旧幕軍の駐屯する塩野崎方面に、雨の中泥道を駆けつけます。
午前10時ごろ、新政府軍は旧幕軍の斥候3人ないし4人を捕らえて切り殺す。そして本隊を待ち伏せ。旧幕軍がやってきたところ、ひきつけて銃撃を加えた。第一大隊は板室方面へ退却。旧幕軍側は戦死1名(屋代鍋吉?)+斥候死者、新政府側は負傷者2名。
新政府軍は追撃せず、塩野崎に宿営します。

そして翌閏4月22日。板室の戦いです。

板室村は、江戸時代は黒羽藩の領内。板室温泉、板室本村、阿久戸、三斗小屋など広い地域を占めました。

板室は中街道が開ける以前から板室村として集落があり、狩猟や農林業、白湯山信仰の拠点として生計を立てていました。板室の戦いの後、諸藩により略奪を受けた上、焼失の憂き目に遭っています。

那珂川をはさんで南側が油井村、北側が阿久戸です。那珂川は深い谷を削って、崖の底を東北に流れています。北岸の阿久戸側は60mの急崖で、崖の上は台地。阿久戸側に守備する旧幕軍側には天然の要害といえる絶好の地形です。

官軍側は変わらず薩摩・長州・大垣・忍。旧幕側は伝習第一大隊のほか、御料兵、回天隊が加わっていた模様。

配置図は以下の通り。(クリックで大きい画像で御覧下さい)

itamuro-location.gif

地形を確認される際は、うぉっ地図で。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?b=370251&l=1395642

(直接この地図上に書き込むのが一番便利なのですが。加工してはならぬとな)


官軍は22日午前10時ごろ、油井村東に達しました。

明治44年、田代音吉著「下野三斗小屋温泉誌」より。

「官軍は百村字穴沢において代々名主たりし屋号萬屋事月井源右衛門居宅を始め、他十六戸(戊辰戦役史では26戸)を焼き払ひ、直ちに進みて板室に向かふ。先づ黒羽藩士先隊となり、大垣勢二番隊、続きて薩州勢など勇敢振ふて攻撃せり。幕軍にありては総指揮隊長秋月昇之助、中隊長小笠原慶助等、専心防御に勤めたり。
始め幕軍の板室に在るや、其当時近辺の山中に民有の材木および板など沢山ありしを以て、其木材にて自由小屋を掛け、其他農家はもちろん、納屋に至るまで兵を以て充し二千以上の軍兵にて守備したりしが、折柄同日は配兵の都合上、僅に三百人前後の兵士なりし」


指揮官は伝習第一大隊隊長で脱藩会津藩士の秋月登之助。
中隊長は小笠原慶助=小笠原新太郎。市川の船渡しで、脱走してきた大鳥を船で迎えた方です。
旧幕軍は板室で豊富な木材を利用して小屋を作り、農家や納屋にまで兵を充たしていました。当日はなぜか配兵の都合上、兵は三百前後でした。伝習第一大隊の数が元々450だったので、これに会津兵を足しても、もともと二千いたかというのは少々疑問ですが。専心防御というからには、真剣に守る体制だった模様です。

「時恰も同日は幕兵皆言ひらく、先月の今日は宇都宮落城の当日なり。然れば官軍にして不吉の日なり。拠て攻め来るの患ひなしといえ、皆々何の備えもなさず、朝より湯を沸して警報すらなく、已に官軍は近くに寄せ来ると其言未だ終わらざるに南方油井村において砲声轟き、それよと言ふうち小銃の音、豆炒る如く飛び来る。弾は雨霰の如し」

先月のこの日は宇都宮城を落とした日なので、官軍にとっては不吉だから、攻撃してくる憂いは無い。なんら防備もせず、朝から湯に漬かって、見張りも立てなかったとな。

前日に前哨戦をやって退却していますし。ここは官軍は勢いに乗じて攻めてくるのが筋ではないかと思うので、さすがにそれは無いのでは、と思うのですが。
本当だったらどうしよう。

そして、官軍が近くに来た、という知らせが言い終わらない間に、南の油井から砲声。小銃の音が豆を炒る音のようで、弾は雨あられと振ってくる。

戊辰戦役史によると、旧幕軍は、阿久戸側の高地で崖端に陣地を構築していました。ここで抵抗します。旧幕軍には大砲が一門あった。なんと大峠から三斗小屋宿経由で、会津が運んできたものだったとのこと。運んだ街道人夫の苦労に涙です。

地形のため薩摩、長州、大垣、忍藩の新政府軍は前進攻撃ができない。そこで薩摩の川村純義と長州の楢崎頼三は、那珂川と大俣川の合流地点から兵を渡河させて、崖を登って旧幕軍の右側面から迂回攻撃させた。迂回部隊は染川彦兵衛・二階堂右八郎ら20名。官軍一部は谷底に下って囮となった。旧幕軍は谷底の官軍に攻撃したところ、迂回兵の旧射撃に側面を突かれてしまう。旧幕軍は混乱して乱れる。この隙に新政府軍本隊は那珂川を渡河。阿久戸の台地に上がって、阿久戸の北にあったと思われる旧幕軍本陣周辺で戦う。新政府軍に圧され、多数の死傷者を出し、旧幕軍は三斗小屋へ退却していきます。

なお、「谷口四郎兵衛日記」によると、百村にも兵が出ていたらしい。戦闘になり帰る道を失い、戦いながら板室に戻っています。

011nakagawadownstream.jpg

那珂川下流方向。

012yui.jpg

新政府軍の攻めてきた油井方面。

013akuto.jpg

旧幕軍の守っていた阿久戸の急坂。神社があります。


この戦闘で、伝習第一大隊中隊長、歩兵頭並の小笠原信太郎が死亡します。小笠原新太郎は代官小笠原助左衛門の息子。「下野三斗小屋温泉誌」に小笠原の最期が描かれています。

「幕軍における小笠原隊長命を下し、それそれ指揮号令を発するも、軍隊規律なく命令行われず。火薬大砲など沢名口方面に持ち行きて実戦上の効力なし。只、軍勢のみ宿尻に集合するのみ。小笠原隊長、大砲大砲と呼べども答へるものなく、時に官軍より飛び来る弾丸は雨霰の如し。隊長は軍兵の意気地なきを怒りて僅かの兵を従ひ、阿久戸坂上に進みて、指揮防御するや、程なく官軍の一隊は東方六斗地および東原より、一隊は西方程窪地方より、幕軍を裏切りに取り囲み、三方より大攻撃に、幕軍は終に支へ得ず、大敗し、過半は三斗小屋へ逃走せり。茲に於て板室は悉く官軍の占領する処となりたり。此戦に幕軍の隊長小笠原を始め、従者多く戦死したり。会津兵も隊長の死を惜み、一従卒其の首を取り、持ち去れりと言ふ。是れ我国武士の一魂、亦茲に見る哉」

小笠原中隊長。真に惜しい方を亡くしました。

小笠原の号令は、隊に規律が無く(おそらく風呂中の不意打ちに混乱したので)行き届かない。会津の大砲も効力がなかった。ただ軍勢のみ集まっているだけ。小笠原は「大砲、大砲」と叫ぶけれども答えは無い。そこに弾丸が雨あられと振ってくる。小笠原は軍の意気地が無いのを怒って、わずかの兵とともに阿久戸坂の上に進んで指揮する。しかし官軍は東の六斗地や西の窪地方から囲んできた。三方包囲されて、旧幕軍は壊滅。小笠原は、従者と共に戦死。従卒が小笠原の首を持ち帰ったそうだ。

なお、谷口日記によれば大砲は発射が難しく、釘を打ち捨てて村はずれに隠した模様。野奥戦争日記によればこの大砲は後で引取りに来て三斗小屋まで持っていったとのことです。

他、伝習隊は野村勝三郎が死亡。また、沖長三郎という方がこのとき負傷し、23日に関谷で亡くなっています。「幕末維新全殉難者名鑑」によると塩原の妙雲寺に墓がある模様。

伝習隊の士官は、高木銓之助や吉沢鎌五郎もそうですが、勇猛な人だからこそ前に出すぎて銃弾に殪れるというパターンがある。悲しい限りです。浅田もそれで負傷していますし。大川のように何ゆえ無傷でいられるのか不思議な人も居ますが。陣羽織に銃弾痕が空いて笑って帰って来る総督とかも居ますが。それも紙一重だったのだろうと思います。

それにしても板室の戦いは、どうも、伝習隊らしくない戦闘だったような気がします。ゲリラ戦が得意なはずの伝習隊、十八番の散開もろくにせずに固まって砲を当てにしていたようですし。地勢の優を確保しておきながら、三方包囲を食らったというのは、辛い。
官軍二百対旧幕三百で勢力も勝り、地理的優位さもあったのに、崩れたというのは、残念です。
谷口日記も「不意の大敗、軍に及止る不能」と不本意そうです。

同じ地の利を得て、前日の前哨戦で退却したという条件で、敵に備えて徹夜で陣地構築しなおして、翌日は山岳リソースを駆使して相手の大砲を無効化し、寡兵にして勝った藤原と、どうしても比べてしまいます。

迂回隊を派遣したり、地元民を案内として味方につけたりしたという新政府側が戦上手だったというのは確かにあるでしょう。
あと、宇都宮で後装式施条銃の弾薬を使い果たしていたので、会津からの補充のミニエー銃か下手をするとゲベールあたりを手にして戦っており、伝習隊の本来の力が発揮できなかったのかもしれません。なお薩摩はエンフィールド銃だった模様。(弾が現地で見つかっている)

一方、第一大隊の指揮官秋月氏は、宇都宮攻の無連絡・放火放置といい、安塚の引き際の見極め損ねといい、宇都宮攻防の松ヶ峰門の懲りない白兵戦といい、この板室の前日に前哨戦がありながら(もし本当なら)兵が風呂に入っていたという油断といい、地の利がありながら包囲されて敗北といい、結果だけ見ていると申し訳ないのですが、首を傾げたい気になってきます。無論、秋月さんだけの責では無いのでしょうし、様々な要因が絡み合った上でのことかとは思いますが。

この後、旧幕軍は三斗小屋に引き上げます。月末まで休養、温泉に漬かっています。そして5月2日、大田原城攻めに向かうことになります。

「三斗小屋温泉誌」(編集工房随想舎,1990)には、「供養塔から北へ50mほどの戻ると、右手に茅の生い茂る荒地荒地がある。ここを『小笠原畑』といい、旧幕府歩兵差図役頭取小笠原新太郎戦死の地である。また、供養塔から東へ200mほど松林の中を進むと、篠竹の密生する中にこんもりとした『歩兵塚』を見る。これは戊辰戦での戦死者を合同埋葬した塚である」とあります。

一方、「那須の戊辰戦争」には、戦いの後、村人達は近くの畑や山林に放置された戦死者を一箇所に葬り、そこを歩兵塚と呼んだ。この塚は阿久戸の坂上から300mほど東の山林内にあると言われているが、今は見当たらない。板室本村の南の能動を拡張した際に、頭蓋骨が一つ出てきたのが、戦死者のうちの一人だったとのことが記されています。


小笠原畑らしい場所。

018ogasawarahatake.jpg

一方、「那須の戊辰戦争」(下野新聞社, 1992)の平成2年ごろの写真では、「小笠原畑のあたり」としてちゃんとした耕地になってしましたので、この木があるところは少し外れているかもしれません。

あと、この看板。

019ogasawarabaiti.jpg

周辺は売りに出されているようです。
買って別荘を建てたら、夜に出てきて語って下さるでしょうか…。

なお、歩兵塚のほうは、探してみましたが、やはりよく分かりませんでした。

戊辰戦死供養塔。

016bosinhi.jpg

017bosinhi2.jpg

明治27年に、地元の有志の方々により、戦死者17名の供養塔が建てられました。

道しるべをかねて、「右ろくとち左いたむろ」と記されています。
供養塔に道しるべとは。結構当たり前の感覚なのでしょうか。

阿久戸の坂のヘアピンカーブを北へ上がる途中にあります。

この供養塔が見つからず、地元の方に聞いて回ってようやく見つけられました。
発電所の向かいの階段を上がると聞いたのですが。

015bosinhienter.jpg

この半ばツタに埋もれた入り口は、知っていなければ気づきませんでした。
ちょうど、ヘアピンカーブのショートカットの道になっています。
小笠原畑は、この供養塔の北すぐにあります。


「那須の戊辰戦争」によると、板室、阿久戸、穴沢、油井などの村々の家屋は、官軍に火を掛けられ、ほとんどが焼失しました。板室は二戸以外全戸、阿久戸にあった六戸、油井の四戸は共に全戸焼失とのこと。板室本村の村人達は、避難しながら、自分達の集落が燃えるのがよく見えたとのことです。

「村民の老幼男女の驚き叫び泣声天に響き、弱きを助け或は肩にし、或は手を引き難を免れんとする。其有様や甚だしき惨状なりしといふ」とは、「下野三斗小屋誌」の、戦闘中の村人の惨状です。

このうち、油井の集落を焼いたのは、新政府軍に命じられた塩野崎の地元の人たちだった。そのため、油井の人たちは長い間「塩野崎の人とは縁組するな」と言われていたとの由。再建に家を失った人々は、苦労を重ねました。

兵の無念、家を失った村人のやるかたなさ。
それらを思いながら、供養塔に手を合わせます。


さて、板室本村の分村が塩沢です。板室温泉はこの塩沢にあります。古くから「下野の薬湯」「塩沢の湯」ということで、中風、脚気、リュウマチに聞くとされていました。

板室温泉は三斗小屋温泉と共に、「那須七湯」の一つに数えられています。他の5つは那須湯元、北、大丸、弁天、高雄。源泉は三斗小屋方面から流れる湯川から湧き出しています。黒磯から板室温泉までは、1日に10本程度バスがあります。

「健康の湯グリーングリーン」という、公共の日帰り温泉施設があります。

007itamuroHS.jpg

後冷泉天皇の時代、1059年3月に、那須三郎重宗が鹿狩りのために山奥に入った際に、鹿や鳥が体を癒していたのを発見したと伝えられています。
昭和三十年ごろには共同浴場が5軒あり、湯治客でにぎわっていました。より多くの人が入れるように、浴槽は深くなっていて、湯治客は綱につかまりながら入浴をしたとか。

009itamuroold.jpg

案内板の写真より。凄い雰囲気だ。

今はもっとゆったりと入れます。内風呂は木造のロッジ風で温かみがあります。
露天風呂が爽快感があり、極楽極楽。

アルカリ性単純温泉。泉温は36.5℃と低め。若干加温しています。ミネラルが多いのか、湯の中で手を握るとギチギチした感じになります。アルカリ泉は美肌の湯というだけあり、肌の角質が取れる感じでツルツルになりました。

サウナもあり、手作り風の木造。80℃と高齢者向けに低めの温度設定でした。
お盆の始まり時期だったというのに、観光客は皆無。みな地元の方のようでした。
露天風呂はアブがいるよー、と声をかけてくださったり。居心地のよいところでした。

008itamuraroten.jpg

露天風呂満喫。
板室で亡くなった方々には申し訳ないと思いつつ。
官軍の砲撃の患いはもはや無い平和な現在。ゆっくりと湯を堪能させていただきました。


たらたら書いていたら、一週間かかってしまいました。
次はもう少し、サクサク行くつもりです。

posted by 入潮 at 04:00| Comment(2) | TrackBack(1) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月21日

板室・三斗小屋記 その3 深山湖と沼原湿原

先週土曜日に、国会図書館に行きました。正面カウンタの番号ディスプレイ前に、なんだか見たことのある二人組みの方がいらっしゃる。気のせいかなと思いながらじろじろ見てしまった後、複写カウンタの裏で資料を読んでいたら、先ほどの二人組が正面から。そらさんとまちさんでした。

以前に紹介した奥羽日日新聞の記事を実際に確かめようとして来られたとのことでした。
付け回したようで、気持ち悪がられてしまったかもしれない。

もとい、わざわざ図書館に足を運び、実物を確認しようとしてくださる方がいるのは、自分の情報を何らかの行動のきっかけとして下さったということで、嬉しいことです。
ところがこれが、自分の引用した年数が誤っていて、探すのに苦労をさせてしまったらしいです。大変申し訳ございませんでした…。

その後、これ幸いとお茶に加えていただきました。楽しかった。4時間近く騒いでしまった気がします。最近なにかと減り込んでいたのですが、お二方の高回転でアイデアを生み出す聡明さ、そして溌剌した対象への愛に、モリモリ元気をいただきました。いろんな企画も話に上がりまして、わくわくしています。感謝。


さて、続き。
今回、戊辰関係の話はほとんどありませんので、そちらお目当ての方はスルーしてください。

板室より、那珂川を遡ります。ここから会津中街道からはルートを外して、北西にある深山ダムへ向かいます。

途中、木の俣地蔵というのがありました。阿部貞任の守本尊といわれ、子育て地蔵として霊験あらかたなのだそうな。前九年の役に阿部貞任がここに陣したことによるというので、1060年ごろにはすでに周辺に人が住み道があったということかと。ちなみに、この地蔵を裸にして桂の樹の間においていたので、阿部氏は源頼義との戦に敗れたと伝えられているそうです。恥ずかしがりやなお地蔵さんです。光景を想像すると、これは萌え系になるのではなかろうかと。

さらに、「熊の碑」という、黒い立派な碑のがある。狩猟された熊が相当数に達したので、その霊を奉ったもの。昭和61年11月建立。代表の方の名前が戸田の月井芳雄氏。戊辰戦争で被害に遭われた代々の名主だった月井家に関係するのでしょうか。

深山隧道を潜り抜けると、深山ダムに到着。

005miyamako.jpg

緑の美しい湖です。
場所はこちら。

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=370517&l=1395409

深山ダムは、灌漑、上水道、発電を目的とした多目的ダムで、昭和48年に完成しました。
型式:アスファルト遮水壁型ロックフィルダム
堤高77.5m、
堤頂長:333.8 m
堤体体積:1.97 百万m3
天端標高: EL. 756.5m
満水位 : EL.753m
河川:那珂川
流域面積: 66.4 km2
総貯水量: 25.8百万 m3
有効貯水量: 20.9百万 m3
満水面積: 97.4 ha
施主:農林水産省、施工:大成建設
流入量:32万トン/日(3.7トン/秒)
灌漑面積:4331 ha
裨益住民:18万5千
工期:昭和44年12月〜昭和48年10月、 工費:83億円

発電については、以下の特徴を有している、珍しい例です。

1) 巨大な揚水発電(675MW)の下池である。
2) 上流の湯川から取水して発電を行っている。
3) さらに深山湖自身から取水し、下流の板室発電所で発電をしている

地図を見ながら、どうなっているのか構造を理解するのに時間がかかりました。

1)の揚水発電は、地下発電所になっています。昼は500m以上上にある上池の沼原調整池から水を落として発電し、夜は余剰電力を使って水を沼原に上げています。

2)、3)は、9つある栃木県営の発電所のうちの2つです。2)のほうは水路式の2.3MWの小水力。水車は横軸単輪二射ペルトン型。上流に取水堰がある模様。地図を見る限りヘッドは150mぐらいあります。

この発電した水を利用してさらに3)の板室発電所へ導水路で送るダム式。フランシス水車で16.1MW。板室発電所の下流にはさらに板室ダムがあり、灌漑と水道用水を調整しています。

元々明治18年に那須疎水が開鑿され、その後北那須総合開発計画が策定された旨、記念碑にはあります。自然の資源を生活に生かすために先人の叡智を集めた、効率の良い水利用システムだなぁと惚れ惚れしてしまいました。

これらの水を涵養する周辺の森は、案内板によると、七千山水源の森というそうです。ブナ、ミズナラ、ダケカンバなど広葉樹の天然林100%です。

006numapparaPS.jpg

深山湖の奥にある沼原発電所。電源開発の事業です。675MWという巨大な揚水発電。発電所は地下なので、屋外開閉所か何かの入り口かとおもいます。
1973年、電源開発により建設されました。沼原発電所展示館という、一般向けのPR館がありました。

一方、深山湖周辺の案内板や碑は、なぜか揚水発電については一切触れていませんでした。揚水があまり人気がないからでしょうか。

揚水発電は、原子力発電とセットで考えられることが多いです。電力需要は通常、昼間工場電力やクーラーなどで大きく、夜は小さい。一方、原子力は立ち上げ・下げに時間がかかり、簡単にオンオフができない。なので、揚水発電で夜間の電力を使って上池に水を上げて、昼間に発電し、夜間のあまった電力を昼間のピークに使えるようにするというものです。巨大な電池のようなものと言えます。揚水がないと、極端な話、昼のエアコンと日本製の工業製品を排した生活になるでしょう。

揚水は無駄、自然エネルギーで対応すべしという声も多いようなのですが。

・発電原価で考えると、2002年経済産業省資料では原子力は5.9円/kWh、(水力13.6円/kWh、石油火力10.2円/kWh)、シャープの資料によると太陽光は46円/kWh。(コストは低下するとずっと言われ続けているが、需要過多と原料コスト増で今のところあまり低下していない) なお、電気料金は一般で20-30円/kWh。太陽光でまかなう場合は、逆ザヤとなり、補助金を税金からつぎ込むか、あるいは、電気料金を今の3〜4倍払う必要がある。

・同資料より、CO2排出量は、製造・建設を含めたライフサイクルで考えると太陽光より原子力の方が少ない。

・太陽光・風力は出力変動が大きく、特に風力は系統の安定のためには全体の10%程度しか用いることはできない。太陽光も雨天曇天、夜間などは発電量が激減し、定格で発電できる時間はごく一部である。一方原子力はほぼ定格で高稼働率で運転できる。

・だれもが気になる安全性は、5人以上の死者を出した事故で、死亡者数はOECDではゼロ(水力で14人、石油で3789人)、OECD以外では原子力死者31人、石油で16500人、水力で約3万人。(例えばチェルノブイリやスリーマイル時代の旧ソ連やアメリカや、今の中国やインドなどの技術力と体制なら、自分も嫌だと思います。けれども、現在の日本人の技術力と倫理性(これ大事)は、自分は信用できると思っています)

色々考えると、今の生活レベルを維持したければ、原子力・揚水発電は外せないのではないかと思います。もちろん資源の無い日本、太陽光・風力・バイオマスは入れられるだけ入れるに越したことは無いのですけれども、高いコストと、系統の安定性を考えると、ある程度に留まらざるを得ないのが現実ではないかと思います。


話がだいぶ逸れました。
周辺には、のんびりとトンボが飛び交っていました。

006tonbo.jpg


それからバイクで北へ。沼原湿原に向かいます。
深山湖からも三斗小屋宿方面へ行く道がありますが、会津中街道は板室から沼原方面を通って三斗小屋宿へ続いていました。

深山湖のほうも、古くから人は住んでいましたし、地図で見る限りはこちらのほうが道もなだらかでずっと三斗小屋方面へのアクセスが良いように見えます。揚水発電所の落差が500mも取れるということは、それだけ沼原のほうが標高が上にあり、同じ三斗小屋に行くのに下っていく羽目になるということです。何故わざわざ当時の方が、沼原まで上がり、その後湯川まで急坂を下らねばならない麦飯坂経由に、中街道ルートを選んだのかが不思議です。

沼原への途中、2度ほどダート道に突入。2km弱ある、走りやすいダートです。カーブの外側など所々砂利が深くなっているので、オンタイヤは注意が必要です。後輪がずるずる滑る。

駐車場にバイクをとめ、ここからは徒歩となりました。

021-2numapparasign.jpg

街道の登山道に入る前に、沼原湿原を散策します。

020numapparadam.jpg

沼原調整池の看板です。
緑化された堤体が、調整池をぐるりと囲みます。調整池は自然にありえない形をしています。ダムとしての堤頂長1,597mは日本3位。これは通常のダムと違って提体が池を囲んだ形になっているから長くなったのかと思います。
Wikiに深山湖と沼原調整池の空中写真があります。

周辺は、高山植物の豊富な沼原湿原となっています。沼原調整池は元々牧場経営が行われていた模様。建設のために、貴重な湿原の面積が減ったということで、自然保護を唱える方々は良く思っていない模様です。

昔は沼原の南に那須ではまれなヤナギランがあったとのことですが、調整池建設のために姿を消した、ということが「三斗小屋温泉誌」に書かれています。調整池建設に伴った伐採の後にカラマツの植林が行われたとのことですが、地元に方にとってはもはや往時の面影は見る影もなくなってしまったとのことでした。

一方、林野庁が1968年に調整池建設に伴って沼原を復元し、周辺を奥那須国民の森と定め、伐採を禁止して自然休養林としました。開発に伴ってこそ、守られるものもあります。
現在ではこうした大規模な開発では必ず環境影響評価を実施して、専門家や有識者が加わって影響の軽減案や代替案を詳細に検討することになっています。この環境影響評価には数千万〜数億円のコストと1〜3年の時間がかかる。もはや開発者や投資家にとって環境配慮なしには事業は進みません。開発は、いつもコストと環境のせめぎ合いです。

021numapparaswamp.jpg

沼原湿原。

木道が設置されて、湿原を散策できるようになっています。沼原調整池の建設用アクセス道路ができて観光バスも入ることができるようになったからか、サンダル履きの観光客の方もたくさんいました。なお、公共の交通機関は板室までしかありません。

有名なニッコウキスゲはもうシーズンが終わっていましたが、数々の高山植物が咲き誇っていました。紫のエゾリンドウがきれいでした。

021-3ezorindou.jpg

目が癒されたところで、行軍開始です。

022-2numahara-santo.jpg

三斗小屋宿を目指し、ここから登山道に入ります。
昔の街道宿の跡である三斗小屋宿と、温泉のある三斗小屋温泉は別の場所にあります。宿場から温泉へは350mほどの標高差を登らねばなりません。

上の標識にあるとおり、沼原湿原から三斗小屋方面に向かうには、2つのルートがあります。
一つは、宿場を経由せず直接三斗小屋温泉に出る約6kmの道。こちらは、アップダウンは多少ありますが、だいたいなだらかで、整備された道です。

もう一つが、急峻な麦飯坂を約300m下に下り、湯川を渡って、三斗小屋宿に出てから、350mアップして、三斗小屋温泉に出るという、凶悪な下り登りの待つ道です。

足の萎えた怠け者現代人としては、もちろん簡単なルートのほうを行きたかったのですが。残念ながら会津中街道は麦飯坂を通っています。当時の人は何故そう好き好んで自分を苛めるのかと、地図を見ながら嘆きました。あきらめて、これから麦飯坂を経由して、三斗小屋宿に向かうことにします。

周辺地図。ルートをご確認くださる場合は、北側にドラッグしてください。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=370631&l=1395537

この、なまじ旧街道に沿いたいという身の程知らずな余計な野望が、間違いでした。

これで、まだ、1日目の午前中だったりします。
本番はこれからです。
posted by 入潮 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月25日

板室・三斗小屋記 その4 麦飯坂と藪の中

三斗小屋、続きです。沼原湿原から登山道に入ります。
今回の徒歩部分のルートマップです。

routemap-all.gif

ファイルサイズが大きいのはお許しください。
プリントアウトに耐えられるようにと思ったのですが。
これを参考に自分も三斗小屋へ行ってみようと思う方がおられると思うほうが間違っているというのは置いておきます。

なお、元にした画像は、カシミール3Dの入門付属CD-ROMの1/5万。戊辰の跡を辿るのに、かなり便利にさせてもらっています。
あと、10mメッシュの高密度標高データが凄い(大部分は50mメッシュからの派生データのようです)。この高密度メッシュをバードビューにした時の爽快さが。戦略・戦術で地勢的に地理を見られる方にとっては相当使い出があるのではないかと思います。勾配がどうであるかや見通しが利くか=射線が通るかなど。関心ある方も多いのではないかと思います。

というわけで行軍開始。
距離6.7km、累積標高(アップダウンする累積)970m。山道では、距離よりも体力の累積標高が限界に響きます。登りはもちろん、下りのほうが体重を支えないとならないだけ、筋肉に響く。山に強い方の中には3000mぐらい上り下りできる健脚の方もおられますが。ひ弱い自分の累積標高の限界は大体1000mなので、ほぼ体力一杯一杯のルートです。

山道、いきなりこういう看板がある。

022-3kumasign.jpg

実際、ハイカーが麦飯坂で親熊と仔熊の間に入ってしまい、親熊に襲われた事件もあったそうです。
那須山一帯が熊のテリトリーであり、最近の禁猟もあって熊の数も増えているので、いつ出くわしてもおかしくないとのこと。
熊鈴を持ってくればよかった。

沓打観音様。

022jizo.jpg

風化してしまっているのですが、この観音様の御顔がなんとも親しみがもてます。

「下野三斗小屋誌」によると以下の通り。

「會津通路の盛んなる時、駄馬の足沓を打替へたるより此の名あり。即ち、北方の道路石多く、是れより南方は石少なきを以て、ここにて馬の鞜を取り置き石多き険悪の道を通行するとき再び打ち付けて通行せしものなりと。傍らに観世音の石像あり」

ここより北は石の多い悪路、この南は石が少ないので、馬の鞜を履き替えたと。オンとオフでタイヤを履きかえるようなものでしょうか。

などと思いつつ。平坦な道を過ぎると、すぐに急勾配の下り坂に入ります。

麦飯坂。
これが苔むした、強烈にガレた下りでした。
「石多き険悪の道」とされる所以です。

直径数十センチの石が浮いていて、体重を乗せるごとに、滑る滑る。非常に歩きにくいです。神経を使います。苔がまた石の表面をツルツルにしていて、いやらしい。人の運動神経を試すかのようです。

沼原湿原から三斗小屋へ行くには、途中ロープウェイからの道と合流する東回りの道があり、そちらのほうが短く平坦です。なので、こちらのわざわざ急坂を降りて登る麦飯坂経由の道は、ほとんど使われていない模様でした。
苔だらけの倒木が、ところどころ道を塞いでいます。

023-2bakuhansaka2.jpg

滑りながら撮ったため、ブレています…。
誰一人としてすれ違いもしません。用いる人が少ないせいか、整備もほとんど入らないようです。

とにかく足がずるずる滑る。
ここで足を踏み外して捻挫や骨折でもしたら動けなくなるなと、怖くなって、慎重に下ります。
馬が鞜を履き替えるのも分かります。

今は下りですが、逆経路の登りは相当な急登となり、かなりきついと思います。
かつてこの道を、平和に住んでいたのにいきなりやってきた会津や旧幕の兵に徴用されて、とてつもなく重い大砲、火薬、弾丸を背負って登らされた住民の方々の苦難を、思います。

麦飯坂というのは、きっと、がれた岩に蹄を滑らせた駄馬がひっくり返って、その辺に荷の麦や米を散らかして、周りが麦米だらけだったからに違いない、と思いました。

一方、「下野三斗小屋誌」には、以下の通りあります。

「麦飯坂は、板室より三斗小屋に通ずる途中にあり。三斗小屋を去る南方約一里あり。これは、元三斗小屋の人、駄馬を牽きて板室に行き、帰りは遅くなるを以て、途中澤名と申す処にて小屋を掛け置き、ここに野宿し、翌日麦飯坂上に来り、これより一見眼下に三斗小屋を見得らるるを以て、家人に麦飯を煮るべしと命ぜしに、妻女家にありて、これを聞きつけ、直に麦を磨きこれを煮けるに、主人帰宅せしまでに良く麦飯できたりといふ。これより麦飯坂の名あり。これ、麦飯は他のものより煮るに時間を要するものなるに、所謂その坂上より眼下に見落とし得と雖も、巨(距)離なお遠くして時間を要するの意より出でしならんか」

麦飯坂から三斗小屋が見えて、三斗小屋にいる妻に「麦飯煮とけー」と命じる。家にいる妻が麦を磨いて煮るていると、麦飯が出来上がる頃に主人が帰ってくる、といこと。麦飯は煮るのに時間がかかるから、より距離が長くて時間がかかる、という意味から出来た名だろう、ということです。

実際は、頭の上をうっそうとした広葉樹が覆い隠していて、視界は全く利かず、三斗小屋に、「麦飯煮とけー」どころではなかったです。
すでに時間は午後。麦飯でなくても夕食にありつけるまでに三斗小屋温泉にたどり着けるか。

道はところどころ沢のように水が集まって流れています。

023bakuhansaka.jpg

途中、「増水につき、湯川を渡る橋が流されている可能性があります」という看板もありました。
ここの所、暑くて山のほうは土砂降りになっていたので、道にまで水がきているのもそのせいかと思いました。

沢が登山道に合流して流れていました。
後で思えば、ここが過ちの元だったのですが。

しばらく沢沿いに歩いていきます。
道は途切れ、沢を越えるようになっています。増水しているのか、渡しはなにもなく、苔むした石伝いに越えるのみ。結構な急流。
石を飛んで越えねばならない一方、ツルツル滑るので、これは危ない。
大事をとって、流れがなだらかなところを、靴を脱いで脛まで水に漬かりながら渡ることにしました。

沢の水が、ビリビリしびれるほどに冷たい。
これを飲むと、まさに咽を潤す心地よさでした。

024toka.jpg

渡河記念。
お見苦しいモノですみません。

そして、こんなものを撮って喜んでいる場合ではありませんでした。
先に進もうとしますが。

道がない。

念のため場所確認と思い、GPSを確認する。けれども、頭上を木と藪が完全に覆い隠しているので、まったくGPSが衛星をキャッチしてくれない。

このときは、自分がすでに道を踏み外している事に、気づいていませんでした。まだ自分は登山道の途上にあると信じていました。

きっと藪シダが茂って道を覆い隠しているのだろうと思い、道を求めて付近を捜索します。地図を見ると、沢沿いに崖になっているので、その崖を越えると元の道に至るはずと思い、藪の中、崖を登る。

登りきると、苔むした道がありました。
良かった、と思い、その道沿いに上る。これがまた急登、苔むしていてツルツルで、すぐに藪の中を何度もくぐる。一心不乱に数百メートル進み、気圧計で見て標高100mぐらいを登りました。ところが、藪は深くなる一方。もはや獣道以外なにものでもなく、それもすでに藪に覆われ、「道と念ずれば道になる!」という状態になります。

姥捨て山の故事を思い出しました。
担がれた婆さんが、自分を山奥に捨てる息子が戻り道が分かるように、枝を折って戻り道を示してあげたという話。
自分も枝や藪を折りながら歩いていたのですが。
藪が深すぎて、折った藪がどれか分からなくなり、戻り道を見失いました。

それでもこの道は違うと思い、先ほどの沢を目指して何とか戻ります。獣道までは戻れたのですが、そこからまた道を踏み外す。おかしいと思いもとの場所に戻っては、獣道に出るといったことを繰り返します。足元は相変わらずの苔むしたガレ石。

この急斜面にて、登ったり下ったりして流離った時間の長いこと。

なにせ枝と熊笹が頭上を完全に隠しているので、太陽の位置も分からず、よって方角も分からない。
沢の音は聞こえてくるけれども、地図にある沢とは逆方向。余計に方向感覚がわからなくなりました。疲労と焦りばかりが募ります。

藪を描き分け、弾力で跳ね返るごとに、歯が鋭利な刃物となって手首や咽を傷つけます。ありのままの自然は基本的に、人間を傷つける存在です。
藪にはまるほど、前に進めない。前進速度が、1分に3m程度にまで落ち込みます。あがいてあがいて、泥沼にはまる気分。

行っても戻っても、藪。藪。藪。さらに藪。

GPSは相変わらず、高度だけは分かるけれども位置情報は全く当てにならない。携帯電話なんてもちろん通じません。

通信が断絶されたことを実感してはじめて、山中に孤立した恐怖を感じました。

なまじ普段、ネットや電話やGPSに頼りっきりな生活なものだから、他との繋がりから隔絶されたことを自覚した途端に、歯が震えました。自分はこの山の中でまるで独りなんだと思いました。

上のほうから、「ガサガサガサッ」という音。

何かと思いました。
周囲は、熊笹。ここは獣道。
那須の山中は、禁猟でサルやら熊やらが激増しているらしい、という地元の方の話を思い出しました。さっきの、熊に注意の看板も、同じく脳裏に蘇ります。
「熊をからかわないように」…からかいません。そんな余裕ありません。

基本的に熊なら性質はおとなしく、こちらが音を立てれば近寄ってこない生き物です。なので熊除けの鈴などが効く。以前北米でハイイログマに遭遇したときは、共に居た女の子が大音声で泣きわめき、泣き声で撃退したということがありました。私は隣で唖然として見ていただけでしたが。

というわけで声を出す。別に歌でもお経でも何でも良いのですが、気合を込めるには数を数えるのが一番。

「ひとぉぉつ!ふたぁぁつ!みぃっっつぅぅ!…」

まさしく祈るように、気合を入れて声を張り上げながら後ずさるように歩く。
すると、獣らしきものは、どこかへ行ってくれました。

今思うと、猿か何かで、多分熊ではなかったとは思うのですが。
まったく怖い思いをしました。

こうして藪の中を流離う事、3時間弱。
とにかく、早くこの藪から抜け出したい、という思いは強まります。

とにかく沢まで戻ろう。戻ってもとの登山道、麦飯坂を見つけよう。
三斗小屋へ行く道を求めるのはあきらめて戻る決意をし、苔だらけの石を踏んで下ります。

ところが、下ろうとすると、ふくらはぎが痙攣して踏ん張りが利かず、肉離れを起こしました。右太もも激痛でうずくまる。
立ち上がれず、動けなくなりました。

落ち着いて考えると、肉離れごときで人間死にやしないですし、那須ごときの山で何を大げさなと、山に慣れた方からは鼻で笑われてしまいそうなのですが。

激痛に苛まれている時は、思考は最悪の方向に向かいます。

遭難を覚悟しました。

道から外れているので、見つけられるのにも時間がかかるだろう。下手すれば白骨になるまで誰も見つけてくれない。

孤独の圧力がのしかかってきます。
思わず、遺書の内容まで考えました。

お母さん、孫の顔を見せてやれなくてごめんなさい。
上司A、案件ほったらかしでごめんなさい。
同僚C、散々迷惑かけてごめんなさい。
Dさん、頂いた本のお礼できなくてごめんなさい。

何だ自分の人生、謝ることばかりじゃないか。
そう思うと、情けなくて泣けてきます。

今から考えると阿呆らしいこと限りなしなのですが。そのときは本当に惨めな気分でした。

藪の中でしくしくしていても、体力を使うだけだ。この足ではもうこれ以上前進は無理。そう踏ん切りをつけました。

骨折ではないので、痛みさえ治まればとりあえず歩ける。
麦飯坂まで戻れたとしても、あの坂を登るのは相当大変だけれども、最悪野営すれば何とかなるだろう。

ゴアのレインウェアとエマージェンシーブランケットがあるから、夜露はなんとか凌げる。持っている食料は、栄養機能食品が三袋。水は1.5リットルあるし沢の水もある。最悪2、3日は持つ。

そこまで考えると元気がでてきました。
マッサージしながら休憩していたら、肉離れは何とか立ち上がれるまで回復しました。
もとの道に戻れるかどうか自信はありませんでしたが。最悪、川沿いに歩いていけば、深山ダムのほうに出られるはず。そうすれば発電所に助けを求めることだって出来る。

そう考えてせせらぎの音を頼りに川に降り、川下に向かって進むと。

かすかに、車の音がします。

そんな馬鹿な。とうとう幻聴が聞こえるようになったのか。

などと思いつつ先に進むと、丸木橋が見えました。
人が作ったものだと、喜び勇んで行くと。

標識あり。
麦飯坂からの登山道本道でした。

本道に戻れた喜び。その場にへたり込みたいほどの、安堵感でした。
この、「道」を発見した嬉しさといったらもう。人が作ったものがそこにあり、人が通るという安心感は計り知れません。これで少なくとも遭難はなくなったと、心の底からホッとしました。

丸木橋を渡り、しばらく行くと、崩壊した鉄骨の橋があります。

025yukawabridge.jpg

鉄骨の橋の向こうには、ロープを渡してある丸木橋があります。

026yukawa2.jpg

これが看板で注意で出ていた丸木橋で、那珂川の源流、湯川をわたる橋でした。
川を渡ってしばらく上がると、分岐道に出ます。車の入れる林道です。

026-3car.jpg

さっき聞いた車の音は、ここから聞こえてきたのでした。

026-1miyamabranch.jpg

左へ行くと深山ダムに出ます。右へ行くと三斗小屋宿。
深山ダムから、立ち入り禁止にはなっていますが、物理的には車でここまでこれるのでした。

自然石に刻み込まれた寛政五年の道しるべ。

026-2migihayamamichi.jpg

「右ハやまみち 左ハ板室みち」とあります。

なお、川からこちらは、だいぶ旧街道から外れている区間があるようです。もはや旧街道そのままを歩くなどという気力はありません。

それにしても、車でアクセスできるところに、何が悲しくてこんな苦労をしてたどり着かねばならなかったのか。悪いのは道を外した自分だとは分かりつつ。
がっくり脱力しました。


この時点で、時間はすでに午後4時。西日です。山の行動時間としてはすでに終わっていなければならない時間です。宿の方にも、遅くとも4時にはチェックインしてくださいといわれていました。無論、ここでは連絡などとれません。

ここで、選択肢は以下の3点。

1) 深山ダムへ向かう。道は最も平坦。

2) 麦飯坂を戻り、沼原湿原へ。

3)前へ進み、当初の予定通り三斗小屋宿・三斗小屋温泉へ。

1)は、徒歩の道としては最も近く楽なのですが、その後の交通機関がなく大変。ヒッチハイクか、最悪歩いて板室まで戻る必要がある。さらにバイクを取りに、タクシーで沼原まで向かわねばならない。もちろん三斗小屋には行けない。後のことを考えると、かなり鬱。

2)は、あのツルツルの麦飯坂の急登を、累積標高350m以上を登って戻らねばならない。この場合も、三斗小屋はあきらめることになる。

3)は、やはり三斗小屋宿→三斗小屋温泉の急坂高低差350mを登ることになる。

行くも地獄なら帰るも地獄。同じ地獄というならば、前に向かって殪れるべし。

というわけで、前進を決めました。


それにしても流離っている時間の長かったこと。
たかが3時間ですが。永遠に等しい3時間でした。
もうあんな思いは御免です。
結果的に、三斗小屋宿を経て、三斗小屋温泉まで辿り着けたから良かったです。

久しぶりに死ぬかと思いました。今だから言えることですが、自分がどうあがいてもどうにもならない、存在を押しつぶすような恐怖と向かい会うのも、たまには良いことだと思います。自分がいかに無力な存在かを思い出して、謙虚になれます。

後で思うと、本当に怪我や病気などで生死の境をさ迷った方に比べると全く大したことではなかったのですが。
些細なことを重大なことのように思える器の小さい奴だと、お笑いください。

あと、藪の中を流離っている間に、気が付いたら、いろいろなものを無くしていました。

日光の「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」の面タオル。頭に巻いていたら、いつの間にか藪にさらわれて行方不明になっていました。大事な頂き物で、気合を入れるときはいつも頭に巻いていたのです。今度日光に行ったら自分で購入してきます。
それと、軍手代わりのバイクのグローブ、汗拭きのタオル。

後二つは大したことないです。
命とデジカメはなくさなくて良かったです。

さて、カシミールの高密度10mメッシュデータを利用してバードビューで描いた、麦飯坂。

Kashimir-bakuhan.jpg

こんなにキラキラしていません。もっと鬱蒼としていました。見通しもこんなすばらしくないです。まったく視界はありませんでした。
などと、無駄に文句を言ってみる。
でも、木々さえなければちゃんと三斗小屋宿方面は見えていたのだなと、感心しました。街道だったころはもっと植生は粗だったのかもしれません。

こういうことをしているから、なかなか進みません。
次はようやく、目的地の三斗小屋宿です。
posted by 入潮 at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月26日

息抜き。

盆は出ずっぱりだったので、休みを取って北へ走りに行こうと思っていたのですが。連日雨で、気力が萎えました。ウダウダと仕事しています。ものすごく損をした気分だ。

さて、「薄桜鬼」という新選組のゲームに大鳥さんがいるということなので、どういう風に扱われているのかと半ば怖いもの見たさで公式サイトを見ました。

ファッショナブルでゴージャス、世の女性の好みを一身に集めたような美麗極まりない新選組の面々がいて、頭がくらくらしました。わー綺麗綺麗と、年甲斐もなく見入ってしまいました。目の保養になりました。土方さんがまた、ファンのツボをつきまくった美形具合です。

こんなに麗しく高い技術で描かれるのだから、メジャーっていいなぁ。
下野戦にも焦点を当てて下さらないかしら。大音声で血管切れそうに叫ぶ河田左久馬とか、稚児を膝の上に乗せている耽美な板垣退助とか(有名な写真がある)、ポルカをバックミュージックにしたモテ系美形の米田桂次郎とか、どなたか描いてほしい。絵になると思うのだけれどもなぁ。

それで大鳥さんですが。びっくりしました。短身童顔断髪無髯と、メディアではありそうで無かった風体の大鳥さんでした。これが一番実際に近いと思うのですが、メディアではお目にかかったことがなかった。ファンアートではそのように描いて下さる方もいらっしゃいますが。この大鳥さんだったら、晩年はふよふよのヒゲになると思いました。あとは羅紗軍服+陣羽織にしてくれれば完璧でした。いや、贅沢は云いません。新鮮でした。今までは、余計な髷があったり髯があったりこんな感じだったりなので。(画像は「まんが栃木の歴史」より。これはこれで素敵です。結構お気に入りです。すみません、すぐに消します)

一方、生活に疲れきった中間管理職のような榎本さんはどうにかなりませんかと苦情を云いたい。せめてもう少し血色よくしてください。
大鳥さんはあきらめがついていますが、榎本さんが格好よくないと、私の評価は奈落急降下なのです。


新選組といえば、永倉新八の加わっていた靖共隊が、米田桂次郎の幕府第七聯隊の内の一小隊だったと、とある方が教えて下さいました。それで、米田さんのことが何か書かれていないかなーと、著者永倉新八・編者杉村義太郎の「新撰組顚末記」を当たってみました。

残念ながら、米田さんの記述はほとんど無かったのですが。
藤原で永倉さんたちが佐賀藩兵相手に暴れた様子が、勇ましく描かれていました。

一方、総督ですが。

「激戦がすんでから大鳥総督がいないのに気がつき百方さがしてもみあたらない。たぶん戦死したものであろうと思っていると、翌日山中からすましてでてきたので幕兵はおおいにいきどおり、『総督ともあろうものがけしからぬ、射ってしまえ』とさわぎたてたので、さすもの大鳥圭介も色をうしなって会津をさして逃げていった」


(T-T)

…なんというか、どう応じたものか分からなかったので、思わず何年かぶりに顔文字を使ってしまいました。

えぇと、高徳、鍋島とあるので、慶応4年の6月25-26日の藤原の戦いに間違いはないと思うのですが。

藤原の戦いの概要はこちらにて。

25日は大鳥不在のときに新政府軍に攻められて陣地崩壊しかかり、大原を奪われて、雨に救われた形なった。それで戻ってきた大鳥は徹夜で陣地構築を指揮。翌日は、本営に陣取って指揮を飛ばし、地形と陣地によるアームストロング砲無効化、猟師活用、山川隊の迂回渡河、そして縦横無尽の伝習隊・草風隊の活躍で、寡兵で圧勝。贔屓目に見なくても大鳥の戦術眼は評価されて良いと思うのですが。

「大鳥氏に謁し、兵隊をして捧銃を為さ令め、捷を祝し、酒肴を興へて戦労を慰む」と、伝習隊の浅田君たちは、先頭後に整列して総督に捧げ筒しているんですが。

「会津をさして逃げ」るどころか、この後も大鳥らは会津からお呼びがかかる7月21日まで招魂祭を催したり兵をなだめたりしながら天嶮の鉄壁の防御で新政府軍を寄せ付けず、新政府軍のほうがもはやトラウマで、大鳥が母成方面に転陣してからも新政府軍は富士見峠経由で大回りして藤原は回避するという様だったのですが。

また、この戦に功績のある者は、一人一人に、大鳥が自分で感状を与えているのですが。

どういう記憶違いから、「射ってしまえ」などとでてくるのだろうか。
永倉氏の息子の杉村義太郎氏は、この「新撰組顚末記」は「亡父が在世中、小樽新聞の一記者にしたしく物語れる実歴談」と、永倉氏の十三回忌で仰っているので、内容は永倉氏の語りから出たことではあるのでしょう。

味方の他チームや上を無能にすると、その状況でも活躍した自分が大変で有能だったことが示されますので、講談しているうちに止まらなくなってしまって、昔の人の談話よろしく、誇張や作り上げやこき下ろしがどんどん入ってしまったのでしょうか。過ぎ去りし自分を格好良く見せたいのは、誰にでもある、あたりまえのことです。卑下と自虐ばっかりの大鳥が異常なわけです。
いやもとい、永倉氏の言には「鍋島や土佐の兵が胸壁の上へ現れるところ」とある一方、土佐兵は明らかにその時いなかったので、時が経るにつれ、永倉さんもきっと記憶が混乱していたのではないかと思います。

あと、実際は、大鳥と新撰組の面々との距離は遠かった、というのもあるかと思います。新撰組本人の記録を除くと、大鳥の周辺の戊辰戦争関連史料からは、新撰組の描写が出てくることは、ほとんどありません。せいぜい名前の羅列程度です。なので、新撰組一人一人の側からも大鳥は身近ではない。遠くから見ただけで直接話もしたことのない社長を、飲み屋でこき下ろす社員、というような感じなのかなと思いました。

新撰組の関連は、「ききがき新撰組」をはじめとして、他の史料と矛盾するこうしたパターンがかなり多くて、いつも戸惑います。ただ、新撰組のファンの作家の方々も、まじめにこうした新撰組の資料を一次史料と信じて作品に適用されているのだと思います。司馬遼太郎氏をはじめとした方々も、けっして悪気や恨みがあって、でっちあげてきたわけではないのだと思います。名誉加害者だなどと好き好んで評されたい方がいるわけはない。一消費者としてはせめて復古記とぐらいは比較対照してほしいなどとは思ってしまいますが。作家や研究家の方々なりの真剣な取り組みの結果なのでしょう。


そういうわけで、新撰組のゲームに大鳥を美形キャラとして描いてくださっていてもやはり安心できず、はなはだ怖いのであります。
でももし万が一扱いが良かったら教えてください。
メディア革命だと、今度こそ喜び勇みます。

posted by 入潮 at 23:40| Comment(5) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

中外工業新報 その1

予定なら、今頃、宮古湾を走り回っているか、青荷温泉に漬かっているか、白神山地を彷徨っているかだったのですが。あまりに日本列島中が雨週間のため、止めました。
ぐずぐず仕事していましたが、それも空しいので、昨日はちゃんと休みを取って、今しかいけない所に行ってきました。

東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史科センター。
「明治新聞雑誌文庫」というと、ピンと来る方も多いかもしれません。目録集がその名前でよく図書館などに並んでいます。

平日のみ、9:00-12:00、13:00-16:30と、およそまともなサラリーマン生活をしていたらまずアクセス不可能な時間の閲覧です。

以前、所属機関付属図書館の紹介状が必要と利用規定あったので、足を踏み入れられなかったのですが。その条件がいつの間にかなくなっていたので、もしやと思って行ってみたら。研究テーマを書いて身分証明書を見せるだけでOKでした。これも独立行政法人化の賜物でしょうか。

それで、明治新聞雑誌文庫の場所は史料編纂所の脇の、小さな階段を下りたところにあります。史料編纂所の立派な入り口に目を奪われると、入り口がわからなくなります。

明治の雑誌の集積度といえば、国会図書館を凌駕する。ここ以上の蒐集を誇るところはない文庫だけに、見たいものは目白押しです。

今回、集中して当たったのは、これまでずっと手に取りたいと思っていた「中外工業新報」です。今まで何度かさわりだけ紹介させていただいていましたが、直接目にしたのは是が初めてでした。

大鳥圭介と荒井郁之助、金子精一、そして志田林三郎、高嶺譲吉ら工部大学校の生徒達との共同作業で、私的活動として殖産興業のために発刊していた雑誌です。
創刊は明治10年6月。隔週刊。社名「櫻水舍」は、当時の大鳥の住所が「西ノ久保櫻川町二番地」だったことから付けられたもの。ちなみに櫻水舍の住所は、「南鍋町二丁目拾二番地」となっています。
緒言は大鳥の価値観と百般の工業育成にかける思いが凝縮されています。

文庫には、明治16年までの発刊全てについて、年ごとの総集編として製本されたものが所蔵されていました。

中外工業新報は、これまで復刻もされていないですし、参考資料に掲げている文献もほとんど無い。いわば幻の雑誌のような存在だったのですが。

その理由がよく分かりました。

ほとんどの記事が、無記名なのです。
誰がどの記事を書いたのかわからない。
歴史研究は、大体、「誰が」が先ず来て、次に「何を」「どのように」とアプローチしてくるものかと思うのですが。一番最初に来るべき「誰が」で引っかからないから、アプローチしようがない。

特に、目次だけでは誰が何を書いたのかまったくわからない。雑誌本体を全てめくってみてはじめて、記名のある記事がときどきあるのが見つかるぐらい。

大鳥や荒井は偉い人なので、原稿を渡されると編集者が気を使って記名しているのだろうと思しき記事はあります。けれども、無記名ながら、明らかに大鳥や荒井が書いただろうと思われる記事も、多いです。

まず、緒言からして、誰が書いたのか分かりません。緒言は後に「今体名家文抄続」などに著者名付で収録されているので、大鳥が書いたものだというのは明らかなのですが。
ほか、「三実論」とか「勧業の弁」とか、無記名なのにどう考えても大鳥が書いたとしか思えない内容のものが、よくあります。

学生が海外の文献を翻訳したものなども含まれているので、そういった記事は単に学生が恥ずかしがって名前を載せなかったのかもしれない。

この時代の雑誌は他にあれど、みな誰が書いたのかは明らかにされています。
一方、中外工業新報は、誰が書いたのかはどうでもいい。ただ役に立てば云い。そんな名誉欲とは無縁な実質的なあり方が、内容からは感じられました。著作権などみみっちいことは、思いもよらなかったのでしょう。

記事の責任の所在は、編集者金子精一氏の名と会社の場所を奥付で明らかにしているので、それでカバーするというところでしょう。

一方、記名のある記事も時々あります。坪井信良や栗田万次郎、伊藤圭介、田中芳男など有名人の寄稿らしきものは名前が記されています。あと、後年になればなるほど、記名記事が増えてきます。杉山輯吉、曽禰達蔵、志田林三郎など。卒業して自分の名前で仕事をするエンジニアになったから、名前を現したということろでしょうか。

それから、雅号を使う方が多い。陳桂学人とか、東海逸士とか、棲碧山房主人とか、如楓とか。タイトルは技術系以外何者でもない合理的を追求した散文なのに、名前はえらく趣がある。
当時の方々は、文学も自然科学も社会科学も、同じ感覚で取り組んでいたのでしょうか。今でいうと、たとえば遺伝子組み換えやら電気二重層コンデンサやらの論文でこんな記名だったら、あまりに感覚が違いすぎてどうしようかと思ってしまいます。

内容は、およそ産業に結びつきそうなことなら何でも、という感じで。
砂糖、酪農、水車、氷、ガラス、レモネード、石炭、材木、塩、鉄、紅茶、石灰、牛肉、道路、鉄道、漂白粉、釣り魚、蝋、レンガ、削岩機、衛星、衣服、大理石、象牙、石綿、時期、瓦斯、インク、斥候、ポンプ、明礬、缶詰、寒暖計、肥料、毛髪、墨汁、膠、石鹸、電信機、避雷針、顕微鏡、酢、毛皮、シャワー、布団、アルコール、硫酸、ヨウ素、硝酸、硫黄、水銀、藍、綿、縫い針、鉛筆、靴、防腐法、めっき、合金、ゴム、でんぷん、ビール、昆布、等など、書ききれません。

対象はあちこちに飛びます。各々必要とされる、興味ある分野を好きに書いている感じです。

あと、さまざまな地方からの質問やリクエストに応じて記事を書いたというのも多いです。また、信州稲荷町の堀内新助という方が「蜜柑糖製法」という記事を投稿していたり。地方の独自の技術も役に立つものは吸い上げようという編集姿勢がうかがえます。これは、工部省中央だけではなくその知識を地方まで波及させよう、また地方の知識を収集しようという試みがあったということが示されるのではないかと思います。

大鳥の記名記事だけでも、これまでどこにも収録されていなかったのが多いです。
「氷の説」「油の説」「明礬の製法」「造化力の説」「発明と模擬との弁」「噴出井戸の掘方」「北海道開拓論」「日本美術」、などなど。
ほか、大鳥は自分の雑誌という特権でしょうか、一種独特な記事を投げ込んでいます。「日本人は故郷を慕う情切なりと云話」とか。題名をみて目を疑いました。他に、「竹筍の説 如楓」というのが、なんだかもう、という感じです。

荒井さんは「タイプライトル(ライター)の説」「回光器」といった記事を寄稿しています。「米国測量記事」というのも無記名ですが荒井さんの筆ではなかろうか。

それから、雑録がまた面白い。編集後記なのですが。その時々の編集者の日記です。工作局でこんなのを作りました。工部大学校生達はこんな実習しました。こんな質問があったので試してみました。前に紹介した削岩機を使ってみた人の感想をもらいました。そんな感じで。工作局の活動については、工部省沿革報告よりこの雑録のほうがきっと詳しい。

そして、なんというか、この編集者たち、ものすごく楽しそうです。私費を投入して、学生が慣れない化粧品売りをやったりして、続けようとするはずです。何で仕事でもないのにここまでやるのか、と普通思いますが。好きでやっているんだ!という声が伝わります。自分達が見つけて、役立ちそうだとかぎ分けて、文に起こして絵を描いて紹介したことが、実際に人々に使ってもらえて生計の助けになっていく。それは楽しいでしょう。いいなあ。自分もやりたい。ああもうかわいいなあこのおっさんども。

という感じで、内容を後々紹介していきたいです。
とりあえず今日は、さわりだけ。

この「中外工業新報」。きちんと触れようと思ったら、それだけでブログを3ヶ月毎日更新しても、触れきれません。盛りだくさん過ぎる。困ったものです。こんなお宝を今まで見過ごしていたとは。悔しいです。


さて、明日というか今日から週末、函館に行ってきます。
多分ほとんど観光せず、図書館に篭りきりになっていると思います。
コピー代だけで散財しつくしそうです。
posted by 入潮 at 03:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。