2008年09月01日

函館記 その1

いやぁ疲れた。まことに充実した3日間でした。
突発的に飛行機を取って、函館に行ってまいりました。
行程は以下の通り。

1日目、雨

07:25 羽田空港発
08:45 函館空港着
10:00 五稜郭公園
12:00 六花亭
13:00-20:00 函館市立図書館

2日目、曇

7:00 起床、資料整理
9:00 函館公園、函館市立博物館 榎本武揚展
12:00 碧血碑
13:00 谷地頭温泉
15:00 称名寺 ご住職表敬訪問
18:00 実業寺、高龍寺、高田屋嘉平像他
19:00 久美

3日目、曇→時々晴→雨

7:00 起床、荷物整理
8:00 五稜郭→函館駅前、レンタカー手続き
8:30 函館出発
9:00 七飯町 昆布館
10:00 森町
10:30-11:15 鷲ノ木榎本艦隊上陸の碑、箱館戦争戦没者碑、霊鷲院
12:00-13:00 川汲温泉
14:00 大川、桔梗野
15:00-17:45 函館市立図書館
18:30 函館空港発
21:05 羽田空港着


最初は函館市立図書館と博物館しか頭になかったのですが。結果的に色々と動き回ることになりました。特に3日目の鷲ノ木と川汲は完全に思いつきで、前日夜にインターネットから拾った情報をメモしただけでした。

1日目。

東京、朝は土砂降り。函館についてもやはり雨。
前日に色々作業していたので、徹夜明けで朝一番の飛行機となりました。疲れた体に北の雨。

ホテルに荷物だけ置いたあと、早速図書館に赴いてみると、館内整理日。一瞬がっくり来ましたが、午後1時から開館とのことで安心。
その間に五稜郭跡を見て回りました。

おなじみ、五稜郭入り口。

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さらに、撫でられすぎて頭がテカる斐三郎さん。

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(この銅版の五稜郭設計者の武田斐三郎の頭をなでると、頭がよくなるという俗説がある)

五稜郭内にあった函館博物館の分館は廃止されて、函館公園のほうに統合されていました。分館は今月解体された由。残念。
その代わりに、兵糧庫に、数は少ないながらも濃い展示がされていました。
兵糧庫は食料や物資を貯蔵するために造られた土蔵造の建造物。元治元年の五稜郭築城時当時からそこにありました。五稜郭の建物は焼失したり開拓使によって取り壊されたにしたのですが、兵糧庫は当時のまま残されました。老朽化が激しくなったので、今あるものは平成14年に復元されたものです。夏季特別公開中とのこと。6月4日〜9月30日まで。

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五稜郭の模型が良い感じでした。亀田川から五稜郭に水を引いていた樋、五稜郭から出土した弾丸や砲弾などもあり、見ごたえがあります。
雨宿りも兼ねて、こちらの館員さんと長々と話し込んでいました。

五稜郭の中心、箱館奉行所は、現在復元工事中です。2010年完成予定。篭城戦では焼失は免れましたが、明治4年に開拓使本庁が札幌に移転する際、その木材を利用するためということで解体されてしまいました。札幌は当時何もなく人足もろくにおらず、木材を調達するのも大変だったのだろうか、と思ったのですが。解体材は、大半が札幌行きではなく箱館の民間に払い下げられたと、工事の案内板にありました。そんなのありか。

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箱館奉行所の復元工事は、発注者箱館市。設計・施工監理は文化財保存計画協会
施工業者は、複数企業のJV(企業共同体)です。竹中工務店、加藤組土建株式会社、石井組、野辺工務店、名匠建工。

文化財保存計画協会さんは建設コンサルタント。城郭、土塁、櫓、門、神社、建物などの建造物の文化財に係る、修復保存計画を策定したり保存修理の設計・施工監理を行う技術者集団です。こちらの方と仕事の会合で知り合って、この案件をお伺いしたことがあったのですが。これが仕事でできることが羨ましくて仕方ありませんでした。

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完成予想図。奉行所再建建築現場の案内版より。完工は平成22年予定。
完成したら、またぜひ来たいです。

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五稜郭の南東の辺に、星型の堀の一辺だけ三角形の出っ張りの付いている部分。
ここがお気に入りだった人は、多いとみた。
大鳥さんも、設計上でこういう特色のあるこういう場所で考えこんだりするのは好きだったのではないかと思ったりします。

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函館市内は、水飲み場も案内板も五角形なのが素敵です。マンホールも五稜郭だった。
函館一番のアイドルは、榎本さんでも土方さんでもなく、五稜郭だと思う。

それから六花亭へ。帯広に本社がある北海道の洋菓子屋さん。五稜郭から図書館へ行く途中にあったので、飛びつきました。
ここのマルセイバターサンドが大好物です。世の中で美味い食べ物五本の指に入ると私は勝手に思っています。ただ、しつこいので1回1個が限度。カロリーもきっと高い。
雰囲気のよい喫茶店があり、コーヒーとお菓子でゆっくりと過ごせます。

そして、1時開館を待って、本命の函館市立図書館へ。

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2年前に新装されたばかりの、とても立派な図書館です。

もともと、函館市立図書館の貴重資料で、榎本武揚資料を中心に前回見きれなかったものを見てから、博物館で榎本武揚展を楽しむと、榎本づくしの予定でした。

そして、検索から作ったリストを手に、勇んで図書館2階の郷土史のカウンターに飛びついたわけですが。

「今、博物館で榎本展をやっているので、榎本の関係資料はほとんどそちらにあるんですよ」

との由。しまった。それは当たり前のことでした。少し考えてみれば分かることなのに、何故気づかなかったのだろう。

あと、貴重資料は原則利用不可で、マイクロフィルム、デジタル資料、複製資料などの二次資料での閲覧のみ。研究目的でどうしても原本が必要である場合は、1週間以上前に前もって申請を行い、図書館内部で決済を受けないとならないというシステムに変更されていました。
ルールは図書館の利用案内のページに書かれています。図書館で資料に当たられる方は隅々まで目を通したほうが良いと思います。自分は前回のままだと思ってろくに事前に読んでいなかったでした…。

前回は、閉架の閲覧申し込みをするだけで全て手に取れました。コピーこそできませんでしたが、全頁デジカメ撮影もOKという太っ腹でした。むしろそのほうが、貴重な史料原本に対してそんなに大判振る舞いで大丈夫なのかと恐れ多く思っていましたので、資料保存の観点からは、今のルールほうがずっと良いとは思います。不便なのは仕方が無い。涙を呑んであきらめます。

一方、現在、貴重史料のコピー作成やデジタル化を進めているとのこと。
大体の場合は、史料に何が書いてあるのか分かればそれでよいので、オリジナル史料を手に取る必要はない。

今もマイクロフィルムになっている史料もいくつかあるのですが、リーダーで見ていると酔うので長時間は集中して見れない。それに、リーダーからプリントしても薄墨のようになって非常に見づらいものが多い。

なので、デジタル化の取り組みは嬉しいです。時間はかかるとのことですが、そのうち、大川正次郎の函館戦記や鈴木金次郎の記録などもインターネットで見れる日が来るかもしれません。マイクロよりもデジタルのほうが、保存性も利便性もずっと良いので、できればマイクロの資料もデジタルにして欲しいと、勝手な一利用者は思ったりします。

なお、 戊辰・箱館戦争関係も、貴重資料の複製やデジタルはまだ作成中で、二次資料がまだないものも多く、結局アクセスできない資料が多かったでした。二次資料が作成されているかどうか自体がデータとしてはまだ整理されていないようです。一点一点、照会するのに職員さんがかなりの手間をかけてくださり、申し訳なかったです。

そんな感じで貴重資料については今回はほとんど手にはできなかったのですが、職員さんは親身に相談に乗って下さって、優先度の高いものについては担当の方が手段を講じてくださり、ありがたい限りでした。

なお、貴重資料は、当時の本人が直接書いたもの、あるいはその写本、という扱いのようです。一方、活字になっているものは、例えば明治中期のものでも貴重扱いではなく、普通の閉架資料として利用できるものもありました。閉架資料の利用は1回6点まで。コピーも可能。

こちらは、前回にデジカメ撮影のみだったのが、資料の状態が良いものはコピー可能になっているものもあったりしました。このあたりはケースバイケースだと思います。ただ古い資料をコピーをすると確実に資料が劣化するので、できるだけデジタル撮影のほうがよいかと思います。

それらの資料は、研究個室を申し込むと、個室で利用できます。こちらの研究個室は、大変落ち着きます。0.7畳ぐらいの部屋に机が置いてあり、PCが使用できるように電源が付いています。目の前はガラス張りで吹き抜け。この上なく良い環境です。作業がはかどる。自分の家に一室欲しい。調査や仕事をするには、トイレのように狭くて何も無い、机と筆記用具だけある狭い部屋が一番集中できて良いと思うのです。

今回は、前回の落穂拾いのような感じで、集めた資料の数は多くはなかったですが。面白いものも何点かありましたので、後ほどまとめてご紹介できればと思います。

とりあえず、山崎有信氏の調査と労力に脱帽。山崎氏は函館毎日新聞に、数百回にわたって収集された毎日箱館戦争記録を連載しておられたのですが、箱館戦争参加者なら箱館に来る前の、野州・平潟口・箱根・秋田などの記録も含んで掲載する、という方針だったようです。「直接箱館戦争に関係ないけれども戊辰の記録として価値大きいと信じる」という理由で。それで自分の手間が数倍に膨れ上がっているのを厭わない。素晴らしい方です。

というわけで、この8月、濃い1ヶ月でした。
なんだか、三斗小屋に行ったのが遠い昔のようです。
インプットが多すぎて、脳味噌がオーバーフローしています。
明日から会社に戻れる自信がありません。
タグ:箱館戦争
posted by 入潮 at 01:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月08日

板室・三斗小屋記 その5 三斗小屋宿

那須の山に戻ります。

湯川の橋を渡り、ゆるい登りを経て、三斗小屋宿です。

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キャタピラが入り、道路を補修していました。後から聞いたところによると、この奥に利水ダムが建設予定。その工事車両のアクセスのために道路を整備しているとのことです。

疲労は溜まっていましたが、これまでの藪の中がウソのような歩きやすさです。

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宿の入り口には、半ば朽ちたお地蔵様が迎えてくれます。
その奥は、墓地になっています。

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かつて宿場だったころから使われていた墓地で、寛政や天保期などの、古く苔むしたお墓が目立ちます。

この墓地を過ぎると馬頭観音があります。
そして、明治十三年に建てられた「戊辰戦死若干墓」と刻まれた碑があります。
「明治拾三年、戦死者拾三年の年忌に妻子、土地の有志者、高根澤亀蔵、大金平助の両氏発起となり、戊辰戦死者若干墓と彫刻したる碑を三斗小屋入り口西方の路傍に建つ」と、下野三斗小屋誌にはあります。


そして、三斗小屋宿跡。

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山間に開けたわずかな平らな台地が、かつての宿場町でした。

三斗小屋宿は、会津中街道の宿場として、また、白湯山信仰の業者で賑わい、一時は娼妓がいるほど栄えたそうです。しかしながら、戊辰戦争により火をつけられ、全村焼失。住民の何人かは虐殺されました。


明治元年8月23日、新政府軍黒羽藩・館林藩は、三斗小屋宿を攻めます。守っていたのは旧幕・会津藩兵。8月20日、新政府軍は会津への進軍を開始し、白河口総督府が黒羽・館林の隊に命令を下したのでした。

21日に母成峠は破れ、新政府軍は会津若松へ進撃。母成峠の大鳥ら伝習隊は散り散りになり、ある者は城へ篭城、ある者米沢方面へ逃れ。大鳥は秋元ヶ原を流離っています。
母成峠が落ちたことにより、新政府軍の会津への総攻撃が開始されました。残っていた各地を防衛していた会津藩士は拠点を放棄して若松へ終結。日光口に残っていた山川大蔵も城に引き返します。

このとき、塩原の全村が、撤退していく会津・旧幕軍により、焼き討ちの憂き目に遭っています。食料や家屋など敵に利用されないようにするためです。今まで散々、食料を収奪し家屋に駐屯させ人足としてこき使ってきた末の、民衆への仕打ちでした。

さらに「明治百年野州外史」によると、半俵村では、戦火に家を失った百姓達が、怒って、無事だった民家にまで火をかけた為に、五・六軒以外は全て焼けたとのこと。同じ農民に対してただ被害を免れたということに対する嫉妬で、農民が農民の家を焼いたという辛い出来事まで起きています。

「那須の戊辰戦争」によると、黒羽・館林藩は三手に分かれ、会津藩士の守る三斗小屋を挟み打ちにして攻撃します。

戦闘の位置図は以下の通り。単に前回の登山ルートを直したものです。

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ちょっとややこしいのですが、三斗小屋宿と三斗小屋温泉は、少し離れた別の場所にあります。温泉は、宿場より3kmほど東、急登を350mも上に登ったところにあります。

黒羽・館林の一隊は板室方面隊。板室から沼原、麦飯坂を下って三斗小屋宿を目指します。黒羽藩隊長益子四郎らと館林藩遊撃隊隊長高山彦四郎らが率います。計二個小隊ですが、なんと施錠砲を2門を携行。下り坂とはいえよく運んだ。

もう一つは、大丸方面隊。東の那須湯元の大丸温泉から茶臼岳の北・峠の茶屋・三斗小屋温泉を越えた隊です。こちらは黒羽藩早乙女三左衛門、二番隊(渡辺福之進)らと館林藩斎田源蔵ら。計四個小隊。臼砲3門を担いでの山間行軍です。
さらにもう一隊がその分隊として、牛ヶ首方面隊として三斗小屋を目指します。茶臼岳の南、牛が首の急坂を上り下りして越える部隊です。

いずれも、すでに数度の戦闘で銃火をあびた経験のある者ばかりで、黒羽・館林両藩ともに、羅紗にゴロフク、マントルにズボンにランドセルという洋式装備でした。とくに黒羽藩は、開明的な名藩主であり、幕府の初代陸軍奉行・海軍奉行を努めた大関増裕が在りました。その元で軍制の洋式改革が進められていました。その後黒羽は恭順し、その装備を以って旧幕と戦うのですから、皮肉なものです。

なお、「下野の戊辰戦争」によると黒羽藩の兵は、山道が険しすぎて荷駄方が兵糧が運べないので、餅をついて各自が携帯して飢餓を防いだり、途中に火山性のガスが発生して行く手を阻まれたりしたとのこと。また、弾薬は独り60発に限られました。

雪こそありませんでしたが、日本の戦史にもまれに見る山岳の難行軍でした。黒羽藩の佐藤勝次郎は「道なし、無類の難所、霧深くして先の人を知らず」と書いたとのこと。地図を見ると、大丸・牛ヶ首方面隊は、三斗小屋宿に至るまで、道なき道や、行者しか行かない険道を越えています。しかも、臼砲を担いで、雨の中、濡れ鼠、泥まみれの、難行極まりない行軍でした。

23日、横沢方面、高久の小谷村で前哨戦。板室方面軍が、会津軍一小隊と衝突。
会津兵は戦死者5名を出し逃走しましたが、黒羽藩も一番小隊長益子四郎が戦死します。このとき益子四郎は22歳。家老益子信将の第二子で、江戸で兵法砲術を学んだ藩の駿才でした。

「明治百年野州外史」によると、益子四郎は、本宮の戦いのときは、増水した濁流の那珂川を泳いで渡り、対岸の小船を奪って漕いで帰り、部隊を乗せて敵前渡河に成功。新政府軍を勝利に導いています。彼は陣中にて、五月女隊長に戦記を残すことを進言。これは前線の将兵が書くと戦死したり捕虜になった際に機密が敵に漏れる恐れがあるから本営で記録すべしとの意見でした。これによって記録されたのが「五月女三左衛門日記」で、これは自分はまだ未見なのですが「黒羽藩戊辰戦史資料」に収録されているようです。

この板室方面隊は沼原で夜を迎えて野営します。小隊長益子四郎を失ったこの隊は、この日と翌日の三斗小屋宿の戦いに間に合わず、参加することはできませんでした。

「那須の戊辰戦争」に「湯元隊(牛ヶ首方面)はまず那須湯元に至り、ここで望月行蔵率いる会津軍の前哨隊と出くわした。望月らは銃撃を受けて三斗小屋宿まで退却した」とあります。

前哨隊とありますが、これは三斗小屋温泉でのことではないかと思います。
この望月行蔵は、幕臣の旗本望月忠幸のこと。江戸を脱走して若松へ達した後、会津の依頼を受けて、青龍隊と共に三斗小屋に布陣していました。このとき48歳。元神奈川奉行所代官常役元締で、衝鋒隊の古屋作久左衛門や内田庄司、今井信郎らの知己の方です。秋月登之助や菰田元治らと共に太田原城を攻めたり、関谷の戦いの後の死体の臭いの中で宿営したりしています。この方も戊辰の苦難を道を経ています。そして、三斗小屋の戦いを、非常に詳細に描いて下さっています。

望月氏は、治療中の土方歳三に隊に加われと言われ、断ったら、土方に枕を投げられた方、という点で有名でしょうか。そのエピソードだけで語られているのはあまりに勿体無い方です。「夢乃うわ言」という情感たっぷりの記録を遺しています。文官扱いされていますが、とてもそうではない、言動はどこからみても武官です。敵側の黒羽藩の史料にも望月さんの名前は出てくるので、それなりに重要な働きをしていたのではないかと思います。いずれこの記録もじっくりご紹介したいです。

望月さんは、藤原以上の三斗小屋の僻地具合を綴っています。

「連日の陰雨未だ晴れず。三斗小屋の地勢たるや、山間の僻邑、民居僅かに平地を占む、四面高嶺に囲まれ常に雲の中にあり。夏候と雖も冷気肌を徹す。宿営数日、陰鬱に堪えず」

ここで若松より教練の先生を雇って号令に従い兵を鍛えていました。食べ物が乏しくて、犬も食っていたとのこと。一方。

「近傍温泉に浴遊するあり。隊長等は日夜飲酒に眈り猿楽を唄ひ、器物を鼓し舞を演じ、無礼講を行ひ遊蕩し、古郷の私信相往復す。余、此怠惰蘭慢見るに忍びず、憂忌すと雖も之を制する権なく、嘆じて止む」

と、飲酒と遊びにふける会津の隊長との間でため息をついて苦労していました。計略があっても費用の問題で実現できなかったり。それでも隊の兵に敵地を放火させたり、山に登って敵営を偵察したり、篝火を炊いて虚勢を示したり、やれることを行っています。
この日、望月さんは温泉の楼上にいたようです。

「余、朝飯を喫し楼上にあり。時に豆腐屋某なる者急報して云ふ、『敵兵目前に在り』と。余驚きて起ち、警邏の怠惰を憾み、障子を開き浴舎に臨み大に呼ばる。族(仲間)ら高声相語り居、耳に入らず。間髪を容れず敵兵五六輩、余を見て銃を連発す。事急に出るを以て、飯食半ば措き、銃を把て出んとす。族等三名、敵の銃声に驚喫し、裸体楼に駆登り、衣類兵器を抱き馳て屯所の後面に接する山に登り逃れんとす」

臨場感豊かな、この混乱模様。敵襲を豆腐屋から聞いて、障子を開けて浴室の仲間を呼ぶけれども、高声でしゃべっていてその声が届かない。敵は間髪入れず襲ってくる。仲間の3人はその銃声に驚いて裸のまま衣類と銃を抱いて、山に登って逃げていった。その中で望月さん。わらじを履く暇もなく、足袋のまま飛び出します。

「余草鞋を履く隙なく、足袋の儘跳り出、七発込を以て之に当り激へ戦ふ。敵辟易して引く。」「余、単身敵を支へる数分時間、蓋し余が銃、当時舶来少なく知る者稀也。故に敵軍、余が単身なるを悟らず、虚実を疑い躊躇、尚予するものならんや」

おぉ、望月さんスペンサー銃持ちでしたか。連発銃の発射密度で、単身だったにもかかわらず、敵に複数いると思わせて敵を退かせています。スペンサーは機構の故障が多かったようですが、望月さんはちゃんと整備していたようです。そして混乱の中でさらっと自分の銃の役立ち具合を自慢。気持ちは分かる。自分の持ち物の、ブランドではなく機能を自慢する人は好きです。

この後、望月さんは三斗小屋宿本営に急ごうと、煙雨の中四、五町も山を下りますが、すでに三斗小屋宿は、敵兵の手に落ちていました。

その後、望月さんは板室方面を流離いますが、この苦難は、南柯紀行と比べて遜色ありません。敵に挟まれて崖下に逃げ、水中に入って乱石の間に沈んで身を隠して敵兵をやり過ごす。その後、両岸絶壁で激しい水流の中進んで、岩石の頂を踏んで右に飛び左に跳ねて、岸壁をよじ登って逃げました。

朝飯途中に襲われたものだから、途中で空腹に耐えられなくなります。

側に一社あり。内に人無し。農民の貨物堆積す。入て食物を索め飢を凌がんとす。味噌あり之を嘗む。鹹(しおからい)甚く香悪く、舐るべからず。他を索む。玉蜀黍あり、取て之を試む。其香味、嘗て知る所の焼たるものと異り食ふに堪えず。然れども他に物なし。勉めて咽を下す。二三本、飢稍(やや)癒ゆ。

農民が社におそらく隠して置いていた荷を漁って、味噌がまずいとか玉蜀黍が食うに耐えないけれど他に食うものがないので勉めて飲み下してようやく飢えを凌いだとか。食い物のことが悲惨で事細かです。
その後、焼失した村の仮家で、老婆に黍団子の残りを請うて鍋の火辺で待っていると、敵が来たと叫ばれる。老婆は逃げる。望月さんはこの鍋を持って山林に逃げる。逃げてから鍋の生煮えの黍団子を食った。これが煮えてないから歯に張り付いて飲み込めない。けれどもさっきの玉蜀黍のまずさに比べればはるかに勝っている。これを数個食べて大に飢えを癒した、と。

その後、敵から逃げて山奥に入って、岩窟の中に入って雨を凌ぐ。日没になっても、敵に見つかるのを恐れて火は炊けない。軍服は濡れたまま。

「嶺上の林風、寒を送り、浸染の冷気膚を徹し、頗る困難、夜明遅しと俟つ。漸く鴉啼、明暁を告ぐ。(略)目的を定め其方位を便り岩窟を出、徐々山を下り見る。道無し。前面一条の川を帯ぶ。(略)水勢激しく、浅深量るべからず。身危く意阻む。命を天に任せ奮発し石を抛ち瀬を試み、枝を切り杖となし、実を杖に保ち水底を踏み浅底を探りつつ向岸達す。亦道無し

寒くて眠れない。夜明け遅しと待つ。ようやく岩窟からでると、道が無い。百村に出ようと方角を定めるけれども目の前は川。雨で増水して底が分からないほど深く勢いが激しい。運を天に任せてようやくの思いで水底を進む。向こう岸に達したら、また道がない。

わかる、わかるぞ望月さん、その気持ち!
そう、やっとの思いで川を渡ったら、その先に道がなかったという、目の前が真っ黒になるような絶望感。

もとい、このあたりはもう秀逸な人間性の描きっぷりです。悪いけれども笑ってしまった。旗本様が書くなよそんなことー。望月さん、大鳥さんと飲んだら話が合うと思います。
この後、老婆を見つけて百村まで案内してもらって、村長の家で味噌汁と粥をもらって「神気浩然、蘇生したる思い」をします。
ひとまず、逃げ延びられて良かったです。

この後、懲りずに百村の壮健な村人に三斗小屋の敵営を襲おうと持ちかけるけれども応じる者はなかった。案内を雇って栗生沢を越えて田島に出ます。途中で三斗小屋敗残兵で山中飢えに耐えかねて草を食べて腹を下していた会津の太田源助を助けたりしながら、田島へ出る。その後、雲井龍雄と行動を共にし、若松に篭城しようとしたり、米沢に援軍を求めたり、塩川で大鳥や古屋の兵と会ったりしながら、最終的に兵を挙げるのをあきらめて、信州の妻縁者の所に戻ります。

それにしても誰ですか、この方を単なる文官扱いしているのは、と。「夢乃うわ言」を読み進めるにつけ思います。土方さんの誘いを蹴ったのは、単に土方さんの第一印象が悪くてその下に付きたくなかったからであると伺える。望月さんが自分が文官だと言ったのは、土方を断わる方便に過ぎなかったでしょう。器の小ささを「セセラ笑し去り」と仰っているぐらいだし。そしてその後の会津からの布陣依頼は不承不承ながら受けたわけであるので。望月さんもまた、土方神話のためにないがしろにされてしまった被害者であるのではないかと思います。

話を三斗小屋宿に戻して。「下野三斗小屋温泉誌」より、会津側の守備。

「幕兵初めは千余の兵を以て三斗小屋関門を守り、有賀左司馬、原田津島、秋月登之助等之れが指揮者たりしが、配兵の都合ありて会津へ引き上げ、当時百余人にて守備し、有賀左司馬隊長として之を指揮したり。」

守っていた会津隊は、青龍隊足軽四番隊でした。秋月はこのとき会津へ引き上げていました。千人とは、流石に僻地でそんなに食料が持つわけがないようにも思いますが。当日は足軽四番隊隊長の有賀左司馬が指揮。有賀は三百石取りで齢は32才。一方原田津島は朱雀隊寄合組隊長の長原政之進ではないかと「三斗小屋討入」(長谷川伸)で推測されています。

「朝より小雨浸々として降り雲霧山山を包みて朦朧たり。午前八時頃、月山の中腹にて互いに衝突し、砲撃山霊を驚かし、突撃の勢い凄し。有賀隊長豪然として動かず温泉に入浴などし由々然と構ひたり」

この後に及んで、やはり隊長自身がご入浴中でしたか。望月さんでなくてもため息をつきたくなります。

この「月山」は、茶臼山の南にあります。南の牛ヶ首方面から進軍してきた黒羽・館林藩兵が一部三斗小屋温泉に登ってきて、望月さんらと衝突した際についてのことかと思います。

前哨戦では五人も死んでいて、本城が総攻撃を受けようとしているときに、なんでそんな暢気なんだろう。しかも防御拠点の三斗小屋宿ではなく、上の温泉場にいたとは。温泉場にいたのは望月さんも同じですが。温泉場から宿まで、走って降りてきても1時間はかかりますぞ、隊長殿。

なお、この牛ヶ首の黒羽・館林隊は、途中、白湯山信仰の総本山というべき、峻険極まりない行者の道を経たようです。

「障壁千尋、数箇所鉄鎖を連ね、わずかに道士の行経を通ず、飛雨面を僕つ、煙靄咫尺を弁ぜず、此嶺昇降五里」(秋元興朝家記)、「是行、山路絶険にして糧食運び難し、因りて餅をついて負担し、飢餓を防ぐ」(黒羽藩記)、「是行路、常に鉄鎖を設け、行人這いて通ずる険し路なり、ゆえに行軍甚だ困窮す。大丸越えの兵は無路絶険を冒し進むを以って大に後る」(黒羽藩戊辰戦史史料)と、前述の「三斗小屋討入り」に記されています。

…この路の辺り、もしかして私が迷って遭難手前になって泣きそうになりながら向かっていたところではないのか。多分そうだ。確かに数十年は使われていなさそうな廃道だった。
もしや人足の恨みに呼ばれて連れ込まれたのだったのか、と思ったりした。

それはともかくとして、那須湯元から進軍してきた隊と、三斗小屋宿にて戦闘開始です。

隊長らは山の上で風呂に入ったりしていましたが、三斗小屋宿の会津・旧幕軍側はちゃんと備えていました。

「幕兵、渓間に潜みて出没自在、防御するを以て官軍進む能わず」
と、その日は持ちこたえます。雨は酷く、白く煙って煙幕となり前が見えない。砲声を的として、彼打てば我打つという状態でした。

翌、24日。天気はなお、朦朧としています。三斗小屋宿にて激しい戦闘に入ります。苦戸川(湯川)を挟んで、会津軍が対峙します。この時に会津軍が作った胸壁が、「いくさ土手」という名前で、湯川の右岸側、西側台地の上にあるそうです。戦いは胸壁のある会津側が、地の利を得て有利。
以下の引用は引き続き「下野三斗小屋温泉誌」より。

「幕兵二河戸河(湯川)右岸に塁を築きて関門を守り、勇敢防御せしを以て官軍進む能わず。一時黒羽藩困難苦戦終に隊を乱して逃走」

とまで、会津は健闘します。しかし、黒羽・館林藩は精兵を会津軍の胸壁の後ろに回らせ、背面から攻撃します。

さらにここに、大丸方面からの、黒羽藩早乙女三左衛門・高橋鹿之助ら率いる隊が、銃声を聞いて急いで道なき道を踏み分けてきて到着しました。

「早乙女三左衛門・高橋鹿之助等最も勇敢に奮闘し時しも左翼隊より進軍攻撃、喇叭と共に各一時に大攻撃開始し、幕兵亦之れに応じ、百雷轟き、山震ふ火花散る修羅場となれり。去る程に官軍は益々兵を増し次第に勢力を得て幕兵の関門を占領し、益々追進して、国境を越え、悉く幕兵の要砦を略取せり。終に幕兵支ふる能わず、山伝へに会津へ遁走せり」

大丸方面隊の到着により、会津軍は破れます。三斗小屋を捨てて、山を伝って会津方面へ撤退しました。
黒羽・館林側の兵力は、三百。内板室方面の百は間に合わなかったので、兵力は二百対百の戦いでした。地の利は会津にとって有利でしたが、寡兵のために破れ、この1日の戦いで長々と駐屯していた三斗小屋を棄てることとなりました。

そして北の国境の大峠、その北の小峠(駒返し坂)と中峠で、26日にそれぞれ戦闘となり、会津は野際新田まで退却しました。23日に温泉に漬かっていた有賀隊長は、野際で指揮中、銃弾に貫かれて戦士します。従卒はその首を取って会津へ逃れました。
このとき、旗本の濱嶋雄も戦死しています。

こうして三斗小屋は戦の状態からようやく脱しました。

「三斗小屋には僅か二、三の兵士残りて番兵するのみ、去れば一旦戦場の巷となりし当地も今や戦地を脱し只一の通路たるに過ぎざりしなり。然るに番兵等番に倦みたるにや、九月十日、悉く民財を掠奪し民家に日を放ち全部を焼き払ひ、而して何れか出立したり」


と、ようやく三斗小屋宿には平和が戻ったかに見えました。しかしながらその後、9月10日。今度は黒羽藩の残留部隊の手によって、三斗小屋宿は全戸焼き討ちされてしまいました。
街道で開かれた平和な温泉の山村が、戦いに巻き込まれて、全戸焼失、衰微していくという目に遭ったのが、三斗小屋の戦いでした。

なお、黒羽藩は、論功行賞で、一万五千石の賞禄が与えられています。これは破格の評価でした。これは、黒羽藩が早くからの恭順選択を行い、三斗小屋の功績があり、洋式近代装備を備えていたこと、さらに那珂川を通した輸送の大役を買ったことなどから、評価されたことによります。藩としての選択と行動は正しかったと言えるかと思います。


三斗小屋宿の案内版。

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三斗小屋宿は、現在は完全に無人です。
街道宿だったころは、中街道が開通する際に、会津の田島から移住させて宿場としての体裁を整えたとも言われているけれども、定かではないとのこと。

旧道の用水路の後があります。垢離場というのもあります。白湯山をめざすのに、斎戒した行者が沐浴したとのこと。
地元のライオンズクラブにより、灯篭や碑が修復されて路沿いに並び、独特な雰囲気を醸していました。

白湯山信仰の灯篭。金灯篭と石灯篭があります。

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よく見ると、菊の紋が刻まれています。
がりつう様のブログでは、三斗小屋宿から大田原城を攻撃した会津藩兵が、菊花紋のあるお墓を見つけ、墓を壊して地中に埋めていった、という地元に伝わる話をご紹介してくださっています。三斗小屋の灯篭は無事だったのでしょうか。

なお、白湯山というのは、修験者の聖地のような感じで、茶臼山や剣ヶ嶺のような山を指すのではなく、温泉の源泉となっている地名です。茶臼山八合目の西側にあり、牛ヶ首から姥ヶ平らを経て三斗小屋宿にいたる途中にあります。2mほどの湯瀧になっているそうです。白湯山御宝前、御宝前の滝とも言います。この道はすでに廃されていますが、今もお地蔵様などが残っているようです。

大日如来像。

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戦死者の冥福を祈り宿に降りかかってきた厄禍を癒すように、ひっそりとそこにありました。

大日如来像の西側の広場に、小屋があります。建設か何かに用いられているものかと思います。
その小屋をさらに奥に行ったところに、鎮守の社があるそうです。明治の当時すでに「老樹森々として枝を垂れ幾百年を経たる苔むす岩に根を挟み、緑陰皓皓深くして、自ら心霊の尊きを覚ゆべし」という様でした。

そこが、月井源右衛門(源左衛門)氏が惨殺された、戊辰戦争時の惨劇の現場でした。
地元の方も、夜は絶対に歩けないと仰っていました。

一方、東の崖の上に、立派な鳥居が立っています。

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この鳥居は、去年再建されたものとのこと。もともと参道口として大鳥居が立っていたものです、戊辰の役で戦火に罹って壊れ、一部は湯川が消したに転落して埋もれていたと、復元の碑も刻まれていました。復元には三年を要したとのこと。

黄色い菜の花が目を労わってくれました。

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戊辰戦争以降の三斗小屋ですが。「三斗小屋温泉誌」によると、三斗小屋には銅山がありました。江戸時代には黒羽藩により銅の採掘が行われました。これは中断され、明治24年に再開、三斗小屋宿に精錬所があり、粗銅として出荷していたとのこと。鉱石の運搬は人力で、鉱夫は板室や三斗小屋の住民でした。明治44年時点の三斗小屋の人口44名のうち半分の21名が鉱山関係者だったとのことです。大正中期には再び廃れました。

人口の変遷は以下の通り。

明治元年:戸数14戸、人口63人、馬47頭
明治44年: 戸数10戸、人口44人(内6戸21人はは無戸籍)
昭和14年:戸数5戸、人口44人

これらは三斗小屋宿と温泉の合計ですが、時を経るにつれ、寂れていくのが分かります。
なお、昭和32年に、公的には、大金仁平氏の転出を最後に、三斗小屋宿は無人となっています。
ただ、温泉宿の方の話によると、昭和の終わりまで人は住んでいた模様です。


時すでに4時半。西日が指し、夕闇が迫っています。
しかも散々藪の急坂を流離った後なので、疲労も限界。
腰を下ろして水を飲み、栄養機能食品を口にして、そういえば朝からおにぎり1個しかまだ食べていなかったと気づきます。

時間との競争状態だったので、ゆっくりすることはできませんでした。戊辰戦士若干墓も鎮守の社も、場所が分からず時間をかけて探すことができず、パスしてしまいました。それが唯一の心残りです。

そして、三斗小屋温泉を目指します。
ここからまだ3km、上に350m登らねばなりません。
体力が果たしてもってくれるかと思い、途方に暮れる思いでしたが。

いや、激流の中を沈んで隠れ、岩を跳ねて逃げ惑った望月さんに比べれば、いかほどの苦労かというものです。
タグ:戊辰戦争
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2008年09月12日

中外工業新報その2 「日本人は故郷を慕う情切なりと云話」

「日本人は故郷を慕う情切なりと云話 大鳥圭介稿」

製油やら合金やら製塩やら明礬製法やら養蚕やら水雷やらの話が詰まっている工業新報で、いきなりこんな題名で出てきています。明治10年11月の記事。

大鳥さんにしては珍しく、情緒がらみの文化論でいくのかしらと思いきや。中身はやはり大鳥さんだ、という記事でした。

他の雑誌や体系などに収録されているのは見たことがないので、多分、収録されたのは工業新報だけだったかと思います。
大鳥さんの価値観が結構面白いので、全文抜き出してみます。

「余、會て亜米利加の一友人と間話の次、日本人の性質に論及せしとき、友人某曰、日本人は郷里を慕ふ念太深し、普天の下、故郷を憶ふは人の常情なれども、日本人は戀々の意特に切なり。其證は、欧米の人は遠行漫遊を好み日本人は之を欲せずと。予、之を聴きその時は格別の確言とも覚えざりしが、この頃不図之を思出し、熟考するに、其言一理あるに似たり」

以前にアメリカの友人と話していたときに、日本人の性質についての話になった。友人は、日本人は故郷を慕う念が甚だ深いという。故郷を思うのは当たり前の情なのだが、日本人は故郷を恋う心が特に大きい。その証拠に、欧米の人は遠路の旅行を好むけれども日本人はそれを望まない、という。自分はこれを聞いて、その時はさほど当たっているとは思わなかったが、このごろ図らずしもこれを思い出して、考えてみると、一理あると思うようになった。

そりゃ大鳥さんは、故郷を慕う念は、常人よりも薄いと思います。というか、いつも前を見て必要とされているところに向かって邁進しているから、故郷という後ろ向きの方面を振り返って恋うている暇なんて無いでしょう。
ところが、それが一理あると思うようになったのは、なぜかというと。

「それ人の旧を慕ひ故を温ぬるは、其の天賦に出て、親戚朋友に厚き五倫の道に外ならずと雖、国土の慣習に因て大に異同あるが如し。欧米人の昔時より、遠征遐遊を好み危険を冒して身を顧ざるものは、其の名利に汲々として人に先ち功業を建るの念、故郷を慕ふ情より隆なるに由るならむ。その『ワスコデガマ(ヴァスコ・ダ・ガマ)』の外洋を航して始て喜望峯を回り印度に達し、閣龍(コロンブス)の大西洋を渡りて新世界を発見せしは、已に四百年前にあり。其の他葡萄牙(ポルトガル)人是班牙(イスパニヤ)人、山海万里を跋渉して印度支那に通ぜしは皆非凡の偉業にて、無量の豪胆功名の熱心に発するのみ。」

人が昔を慕って故郷を暖かく思うのは元々の性質である。親戚や旧友に厚いのは、五倫の道である。が、国の慣習によって相違は大きい。欧米人は昔から遠征を好んで危険を顧みなかった。名声を求めて功を立てる欲求が、故郷を慕う情より大きいからだろう。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドに達し、コロンブスが大西洋を渡ってアメリカ大陸を発見したのは400年前のことである。ポルトガル・スペイン人が海を越え山を越えてインドシナに達したのは皆非凡の偉業だ。無限の豪胆さと功名心によるものだ。

「加之近頃水に蒸気船あり。蒸気車あり。四方随意に漫遊すべく其の旅行の容易にて駿速なるの便あるに由て、三月を経ずして全地球を一周せしむべし。而て年々各国の航客相競て遠く北海に航し、殆ど極下に達し、雪山氷岳を踏み、死して後に止むに至り、又車馬の助に乏しと雖、亜米利加州の大砂漠を渉り、山脈河系を捜り、野蛮人種の疆城に入り、敢て千辛万苦を甘するものは、学士物理研究の志深きに出づると雖、亦名を揚げ誉を取るの心術に根するのみ」

近頃は蒸気船も列車もある。東西南北、旅行も簡単で早く便利になった。三ヶ月で地球一週することもできる。年々、各国の旅行客は競うように遠くへ出かけ、ほとんど北極まで達した。雪山を踏んで死んで初めて止む。アメリカでも砂漠を渡って、山脈大河を探って、あえて千辛万苦を甘んじるのは、学究の志が深いというのもあるが、名を挙げたい心があるわけである。

この当たりは一般論なので、良いとして。

「而て、商估の徒、万里の波濤を凌ぎ、亜細亜亜米利加並に豪斯地利亞印度諸島の各埠頭に來往し、互市を為し、或は挙家移住して牧畜耕種するものは、近今平常の風習にして、亦偏に利を逐ひ、産を興す一機心に役せられて、未だ郷土を憶ひ、骨肉を慕ふの情を顧るに暇あらざるなり。何ぞ其進取の気盛なるや。是れ欧州の学術日進み、国財融通益昌なる所以なり」

商業の徒が波濤を越えて、アジア、アメリカ、オーストラリア、インド諸島の港を往来して、市場を作って、家を挙げて移住して、農業牧畜をするのは、今や普通の風習になった。産を興すのに一心になり、故郷を思ったり親戚を慕ったりする情を顧みる暇が無い。なんと進取の気が盛んなことであろう。これが欧州の学術が日々進み、国の財の流通も盛んな所以である。

大鳥さんが言いたいのは、欧州は、とにかく産を起こすのに民皆が気を上げているから国が盛んなのだというわけです。それに引き換えて日本はどうかというと。

「而て日本にては、中古外国に航し又は蝦夷北方の地に遊びし人無きにあらざれども、寥々僅に指を屈すべきのみ。是れ一には国禁ありて之を制し、又一には海陸舟車の不便に因ると雖、元来国人前途の規模卑浅小成に安し小康に慣れ、家園に戀々として異域を観るに意なく、崎嶇艱難を踏み以て大名利を博するの念薄きに出つるが如し。その奥羽の郊原蝦夷の山野共に膏腴にして菽(まめ)麥桑麻の播種に適し、更に牧畜漁獲の便益あり。其地價を問へば、中国九州に比し百分の一二に至らず、道程も東京以北僅かに三百里内外のみ。冬寒といえども、決して人の想像するが如く甚しからず。然り而て西南地方の耕すに田なく、樵るに山なきの土に慣住し、東北の沃野に移るもの寡く、天賜の良産、空しく棄て、走獣飛禽の叢となるものは抑何の故にや。是れ大業を十数年の後に期し、富貴を子孫に遺すの気力に乏く、唯微々碌々、屈縮して絶て一点の奮発心なきに由るが若し」

日本は古来から外国に航海して蝦夷北方に赴いた人が無いわけではないけれども、わずかに指を数えるぐらいだ。これは国禁があって制限されていたのと、陸海の交通の不便によるものがあった。それ以上に元来、日本人は前途の規模が浅く小さい安住に慣れて、家を恋うて異境を省みず、艱難を踏み越えて名を上げる念が乏しいことによる。奥羽の原野や蝦夷の山野は肥沃で、マメ・麦・桑・麻を植えるのに適し、さらに牧畜や漁業の便益がある。その地価は中国九州の1/100、2/100程度。東京からわずか三百里だ。冬は寒が人が想像するほどではない。西南地方の耕すのに田はなく、林業するのに山もない土地に慣れて住み、北の肥沃な土地に移住する者は少ない。天の与えた良き産物を空しく捨てて、獣や猛禽の草むらになっているだけのは何故だ。これは、大業を十数年後に期して、子孫に富を残すという気力が乏しく、ただ微々として縮こまって、少しも奮発の心が無いということによるものだ。

あ、熱いです。大鳥さん。

これは特に、士族に向けたメッセージかと思います。

この記事は明治10年11月。前年には、荻の乱、佐賀の乱、神風連の乱、そしてこの年2月に始まった西南戦争と、士族の反乱が相次ぎました。これらは、士族が禄を削られそれまでの既得権益を奪われ、戊辰の勝者なのに美味い汁も吸えず、生活に困窮していった不満がその原点にあります。

戊辰の戦が終わりようやく国を挙げて新しい国家づくりに邁進しようとしていたのに、戊辰以上の内乱でまた疲弊してしまった。大元にあったのは、生活不満。すでに人口を養えなくなった自分の故郷にすがり付いて、食っていけんと文句を言って戦火を広げる士族に、大鳥は「不平ばっかり言ってないで北を見よ!北へ行け!食っていけるところが北にあるぞ!」と叫ぼうとしたのではないか。

「欧米の人をして日本人と地を代へしめば奥羽の地は論なく、北海の群嶋、十年を出ずて、人煙稠密化して富饒極楽の新世界となる、復疑を容れず。嗚呼如是沃土佳境あり、而て如是智者壮士なし可歎哉」

欧米人が日本に住んでいれば、奥羽はもちろん、北海の群島の10年立たずに人間がみっしりと住んで、富饒極楽の新世界になるのは疑いない。ああ、この肥沃な佳境があって、智者壮士が居ないというのは、歎ずべきだ!

もういいよ、北海道いっちゃいなよ。
…と言ってしまいたい、大鳥さんの熱意です。

この後日の号で、「北海道開拓論」という連載が、数回に渡って工業新報に掲載されることになります。この「日本人は故郷を思う」では云い足りず、色々とさらに語りたいことが出てきたのでしょう。
この連載記事は無記名なのですが、「先年余が米国にありしとき」とアメリカの成功例をつぶさに述べていたりしますし、何より熱い現実性にあふれた論調なので、大鳥の記事に間違いないと思います。

大鳥は、北海道の富と開拓の必要性について、非常に熱く語っています。「嗚呼二百万の士族何ぞ蝦夷に趨(おもむき)て、子孫の謀をなさざるや」と、士族の移住が遅々として進まないことに、地団駄を踏んでいかねない勢いです。

このとき大鳥はすでに開拓使から離れて久しいですが、北海道開拓の想いは依然強かった。大鳥自身が、北海道の、石炭資源、海産物、酪農、農業のポテンシャルに魅せられ続けていた。そうしたことが伺えます。

この雑誌のメインの著書って、開拓使の人だっけ、と思うほど、一時期北海道の殖産をターゲットにした記事で埋め尽くされています。

そうした筆を見るにつけ、大鳥は、榎本らと共に見た武士による蝦夷地開拓の夢をずっと持ち続けて、明治になっても公にあり野にありながらずっと推進し続けていたのだと、しみじみ思いました。

工部省に移り、国全体の殖産興業政策に忙殺されていた人ですが。正直、大鳥がここまで、蝦夷地北海道に対して熱い思いを抱き続けていたとは思っていませんでした。

榎本武揚の、禄を失った旧幕武士による蝦夷地開拓の夢を、持ち続けている人がここにいるわけです。このとき榎本は外交官としてロシアに在りましたから、榎本不在の間、開拓使の(つまり黒田の)後押しに、蔭ながらなろうとしたのかもしれません。

開拓使も、移住政策、特に士族の移民を進めていますが、なかなか思ったようには進んでいません。政府で移民を募集して定住させるのに、移民には、米、費用、農具などを与えるという補助もつきましたが、それほど移民の人数の実績として現れませんでした。移民が定着化して増加するのは、屯田兵制を開始して以降のことになります。

榎本も自ら「北海道巡歴日記」に、明治6年に江別の対雁に土地を開拓しようと、十万坪の払い下げを開拓使に申請し、許可されています。
大鳥もまた、三万、四万、七万坪と、川沿いの土地を出願して、息子名義で土地を購入しています。

これらについて、自分の権益のために開拓使の地位を利用して土地を漁った、などと悪意のある書き方をしている方も見ますが。

実際は、遅々として士族の入植が進まないのに業を煮やして、榎本や大鳥自身が率先して乗り込んで模範となり、初期のいちばん難しい、風当たりの強いところに立とうとしたということです。

榎本は、ロシアから、「小樽、対雁等にある野生等開墾地は、其後詳報を得ず、蓋し北垣、松平官途にあり、あるいは他の見込み等により格別肩を入れざるかとの疑なきに能わず」と、山内堤雲に書き送っています。日本を離れても開墾地を気にしていました。松平太郎や北垣国道に後を任せたのだけれども、その後情報が来ない、と。

この対雁の開墾地跡は、今は榎本公園となり、榎本の銅像が立っています。草ぼうぼうで地図にも載っていない有様でしたが…。

大鳥のほうも忙しくて農園経営どころではなかったのか、結局「あの土地どーすんの?」と後から開拓使から問い合わせが来ていたようですが。まぁ、工部代学校長で、工作局長として工部省の官営工場全部を束ねて、しかも内国勧業博覧会で十何部門も審査部長をして、こんな雑誌を刊行していたら、農園経営どころではないです。手を上げる人がいたら、誰かに任せたかったでしょう。

そういう、お二方ともしまりが無い感じにはなってしまっていますが。二人とも中央政府の主力として、東京なり国外で忙殺されていたわけですから、仕方ないでしょう。むしろ、そうした状態だったからこそ、主体的に開拓を行うべき人々に言いたいことが溜まっていたのではないかと思います。

それが、大鳥のこの「日本人は故郷を慕う情切なりと云話」と、これに続く「北海道開拓論」に込められたのではないかと思います。

「北海道開拓論」のほうも、いずれ全文掲載してチクチク突っ込んでいきたいと思っています。少々フライングすると。

「独逸露西亜の如き徴兵の国律厳酷なれば、之を免れむが為に合衆国に遁逃遷徒する者頗る多し」と、ドイツやロシアのように徴兵制が厳しくて、徴兵逃れをするためにアメリカに逃げてくる連中も多い。なので、本邦でも北海道の開拓者は徴兵を免除とすれば開拓民が集まってきて良いじゃーん、なんてことも仰っています。

大鳥さん、それは現実的過ぎます。

士族という本来兵を生業とする者を主体とした開拓の動機が、兵役逃れ。そんなのジョークにもなりません。確かに有効でしょうけれども、それを「一大権謀」とか言ってしまうこの人が、本気なのか洒落なのか分からなくて、相変わらず面白すぎです。

この人、士族に対する責任感は大きいくせに、士族について全く夢見ていないです。何とかしなければという意識があるからこそ、問題を現実的に考えて手厳しくなるというか。あーもう、面白い人です。

というわけで、「日本人は故郷を慕う情切なりと云話」、長くは無いですが突っこむとまた書くところが尽きませんでした。

ただ、この論考、一つ文句を言うとすれば。
題名とテーマが一致していません。

誰だって、この題名を見れば、故郷を思う情が深い日本人の感性を愛でる文だと思うではないですか。この題名に「が、しかし」に続く文こそが、大鳥圭介の言いたいことだったでしょう。

士族ども。ダラダラ故郷にしがみついてブーブー不平ばかりタレているヒマがあったら、さっさと北へ開拓に行ってこい。

と、一行で云うとこういうことでしょう。あまり直接云うと、石を投げられそうですが。

こうした大鳥エッセンスを抽出するだけでも何ヶ月かかるかという勢いですが。
こういう見方をしなくても、「中外工業新報」は、工業という新しい分野に試行錯誤で突き進もうとした当時の官僚や学生が何を考え、何を見据えていたか。この上なく当時の空気そのままにたっぷりと伺えます。論文などで引用されているのを滅多に見ないのが残念です。それは無記名記事が多いということに寄るかと思うのですが。

だからこそ、どなたか大学生や研究者の方に腰をすえてじっくり研究対象にしていただけないかなーと願います。文庫の中で埃を被ったまま朽ちさせていくには、惜しすぎる資料であります。

自分でやりたいけれども、目の前の仕事が忙しすぎて手が回らない、あそこに手をつければつけるほど面白い宝物があるのに、うがー、というもどかしさは、榎本・大鳥がまさに感じていたことではないかと思ったりします。いや、スケールも目的意識も、次元が全く異なります。すみません。
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2008年09月13日

中外工業新報その3 稲田開拓民

「先祖を自慢するのは子孫がだらしない証拠だ」

と、中学生のときに読んだ某スペースオペラの提督が仰っていました。
いまだにその言葉は、事あるごとに頭に蘇ります。

流刑の島で先祖代々十一代も水呑み百姓を続けていた我が家系では、自慢できるものも無く、自分が先祖自慢の愚を冒すことはないだろうと思っておりました。
一方で、先祖自慢を声高になさる方は、まず自分が先祖より自慢できる人間になってからにしてくれよ、などと、ヒネた目で眺めておりました。

そんな心の狭い手前ではありますが。いざご先祖様が褒めてもらっているのを見ると、やはりとても嬉しくなってしまうものであります。

「日高国静内郡農業の略況なりとて、該地より報知のままを、左に記す」

明治11年5月の「中外工業新報」24号の編集後記にあります。

日高国は、北海道の今の沙流郡日高町。オグリキャップなどサラブレッドの産地として、牧場として有名なところです。

ここの静内という一地方に、瀬戸内海は淡路島の洲本という、暖かく恵まれた土地から、明治の初年に開拓のために移り住んできた一団がありました。

洲本の稲田家は、徳島阿波藩の家来でした。肥沃な土地を持ち徳島藩の1/3の石高を上げていたのに陪臣として差別されていたのがあり、徳島本藩との関係はよくありませんでした。戊辰戦争時は佐幕側だった徳島藩に対し、早くから尊王派で、薩長の側に与して幕府軍と戦いました。その功績があったにも拘らず、明治維新後、新政府からは陪臣の侍ということで、士族ではなく、平民の卒族とされました。

これを不満として、洲本の侍は自分達の士族編入と、ひいては洲本藩の分離独立を新政府に訴えました。これを生意気と怒った徳島本藩の過激藩士が、明治3年5月13日、洲本城下を襲撃。洲本侍の屋敷や学校などを焼き討ちし、殺傷しました。抵抗すれば私闘になってしまうとして洲本侍は無抵抗を貫きます。そして、即死15名、自決2名の死者を出します。(庚午事変)

この後、とても洲本を徳島の管轄にはできないと新政府は判断。(故に廃藩置県では淡路島は徳島県ではなく兵庫県の管轄となった) 洲本侍には、士族としての身分を与える代わりに、北海道への移住開拓を命じました。自分達の封土が持てるのならばと、洲本の侍たちは、温暖で肥沃な瀬戸内海の土地を去って、北の大地へ開拓に赴きます。彼らは、越冬のための資材を貯蔵した倉庫の焼失、家族と援助物資を載せた船の沈没など数々の苦難に襲われ、無一文の薄い羽織一枚で、絶望的な極寒と飢餓の中を生き抜くことになりました。

洲本の開拓民は、火種になることを鬱陶しがった薩長の政府に、藩にしてやる士族にしてやるといわば騙されて、北の不毛な大地に追い遣られた民だったわけです。

司馬遼太郎には「洲本の城は盗賊の子孫、小ずるい官僚ばかりで信用のおける奴はいない」などと描かれてしまった、稲田の家臣ですが。

これら洲本家臣の静内移住については、船山馨「お登勢」や、近年では映画「北の零年」で描かれたりして、家臣団の苦難の日々にも触れられやすくなっています。

そんな洲本稲田家の人々の、移住から7年後の姿ですが。
この工業新報の「雑録」という編集後記の中で、褒めてもらっていました。

「静内郡へ過る辛未年、稲田氏の家臣凡百五十余戸程移住し、染退川に沿ひて、川上へ五里の間、幕別、遠佛、目名、上下方、中下方、下下方の数村に分住むし、各力と農事に励し、一戸二町以上の畑地を開墾し、藍、麦、大小豆、その他の菜蔬をつくり、又、官より漁場を貸渡され、海産は鱈、鰊、鱒、鰯、昆布、鮭等を初め、年々多少の漁あり。尤、移民の内より四五名を撰び、海産所といふを取り設け、多く土人を庸ひ、移民は皆農業一途に従事す。先づ其耕作の模様一二をいへば、畑三尺隔に、麦を蒔き、その間に藍を植え、麦の熟して刈り取る頃には、藍も生長するゆへ、障害なく却て畝の広きに為に、藍の生茂も早く、収穫高は一反歩より麦一石斗乃至二石、藍四十貫目より乃至六十貫目位なり。

若し甲家にて人手の足らざるより畑の荒んとするとなれば、乙家より助力し相互に助け助けらるるゆへ、一般熟不熟の差なく、実に数村一家の如し。

士族は三の一なり。三ヵ年扶助の家禄を積金になし、その金員にて一商社を儲け、米酒其他の物品を低価に売買し、大に郡中の便益を為すといふ。而して今日に至ては各自独立の営業をなし、會て官の救助を仰がざるは、実に感ずるところなり。また、藍の能く当地に適するゆへに、若し之を各郡に及ぼさば、また当道一の産物なるべし云々」


静内に移住した稲田の家臣百五十戸は、数村に分住し、農業に精励した。一戸で二町以上の畑を開墾し、藍、麦、大豆、小豆やその他野菜を栽培。また、官から漁場を貸与されて、鱈、鰊、鱒、鰯、昆布、鮭等漁業を行い、海産所を設けて、アイヌ人を雇った。移民は皆農業に従事し、畑に麦を撒いて、間作で畝を広く取って藍を植えた。藍の生育も早く、麦は一反歩あたり一石五斗から二石(ha当たり2.5〜3トン)、藍は40〜60貫(150〜225kg)の収穫である。

もしある家で人手が足らず畑が荒れそうになれ場合は、他の家から助力して、相互に助け合っている。実に数村が一家のごとしである。

士族の数は1/3で、三年間補助金として支給された家禄は積立金として、商社を設けて米や酒を低価格で売買して、郡の便利となっている。今日に至っては、各自が独立した経営をしていて官の助力は仰いでいない。実に感じるべきところだ。また、藍は当地に適しているので、これを他の郡に及ぼしたら、北海道一の産物となるであろう。

洲本の移住民、淡路衆の、うまくいっている姿でした。

補助金に頼らず、独立する。これが難しい。他の移民は、開拓使の補助に頼りきっているところも多く、これが開拓使の財政を圧迫したりしていました。
補助を必要としなかったどころか、さらに藍の栽培では、他の地域のモデルとなるべき収穫を挙げていた。開拓者の工夫の証です。

今で言うと、政府の補助金をマイクロクレジットにして農民組合で貯蓄運用して、その資本を元手に商社を立ち上げて、政府や仲買人任せにせず自分たちで産物を売り、必要雑貨を購入している。
また、麦と藍の混栽で商品作物を供給している。
農民同士がお互いの相互扶助で、強固なネットワークを有している。

というところでしょうか。
こうした農民モデルは、今の途上国開発の小農組織にも応用できるものがあるのではないかと思います。

開拓という生活は、本当に大変です。すべてが既存例の無い、新しい事だらけで、試行錯誤しながら、知恵を振り絞って自然に挑まねばなりません。失敗しても当たり前で、だれも補償してくれない。先祖代々の土地に胡坐をかいて生計をたてるのとは別次元の苦労があります。

移住民のうち、士族は三分の一でした。彼らは、豊かで暖かい淡路の故郷を後にして、北の大地に自分達の土地を求めて、自分達で生活の糧を得ました。

「日本人は故郷を慕う情切なりと云話」「北海道開拓論」で、故郷にしがみついて禄が減らされて生計が立たず、その不満を新政府に対して爆発させて内戦を起こした士族たちを嘆いた大鳥さんにとっては、まさに見習ってほしいと示したい姿だったのでしょう。

それでこういうのも野暮なのですが、うちのばーちゃんのひいじーさんあたりも、一百姓として、洲本侍に従い、静内の大地に在りました。静内を開拓した、士族以外の2/3のうちの一人でした。

自分と静内の関係については、こちらのポストの中ほどあたりで触れたのですが。

いや、何と言うか自分の先祖を自慢するのは、まさに今の自分の至らない姿を曝しているわけで、恥ずべきものがあるわけなのですが。

名も無き学も無き一農民で、字も知らず記録も残せぬままに歴史の波に消えていったうちの先祖ですが。大鳥さんたちに褒めてもらっていたかと思うと、なんとも嬉しいというか、誇らしい気持ちになります。
それで先祖自慢の愚を行ってしまうわけです。

せめてご先祖様に「だらしない」と蹴っ飛ばされないように、自分も自分なりに、目の前の仕事を、一つ一つ大事に誠実にやっていきたいと思います。
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2008年09月24日

アイデンティティとかいうもの

新しい分野でひいこら言っています。出張前で葡語も詰め込まねばならないのですが、全然頭に入ってこない。でも新しい事に取り組むのは、毎回、わくわくします。世の中知らないことだらけだと思います。

先日、その分野の事業のパイオニアの方と打ち合わせする機会をいただきました。
現在アジアアフリカで広がっている事業で、同業者からは引っ張りだこな方。言葉は多くないけれども視点が非常に現実的でシンプルで的を得て、ものすごく勉強になりました。
著書もあり同種の講演会の講師にはよくお名前を目にし、一方で事業を進めるために現場を飛び回っておられ、傍目にも相当お忙しいであろう御仁。
それで、ご多忙の所ありがとうございましたと、型通りなお礼を言ってしまったのですが。

「いやそんなに忙しくないんですよ。社長が暇だと会社はマズイんですけどねー」

と、笑っておられました。
すごい度量の人だと思いました。

仕事が忙しい、休みが無いと、聞かれてないのに口に出して言う人は、「忙しい私」を他人に向かって演出したいだけと、何かに書かれていたのを思い出しました。

本当に価値ある事をしている人は、忙しいなど口にする暇はなく、成果を世に出すことで語っている。本当に忙しい人は、忙しくて当たり前だから、あえてアピールなどすることはない。

自分もしょっちゅう、忙しい、疲れた、と愚痴を書いてしまうので、ずいぶん痛いです。忙しい忙しいと口にしては、同情を引きたくなる、弱い人間なのです。以前も一杯一杯になっては、上司から「忙しい姿を人に見せるのは未熟な証」と叱られました。言われたときは「誰のせいで忙しいんじゃ!」と机をひっくり返したくなったりしましたが。後から未熟というのはまったくその通りだと恥じ入りました。

「忙しい私」というのは、一つのアイデンティティなのかな、と思います。

アイデンティティは、辞書では主体性とか自己同一性とか、ぴんとこない言葉で説明されています。私は「自分はこういう人間です!」と示したい姿、という感じだろうと理解しています。

このアイデンティティという言葉を、最近、人々の性格を説明するのに良く見かけるようになった気がします。

「オタクはすでに死んでいる」という、オタク評論家でおなじみの岡田斗司夫氏の新書がありました。題名はケンシロウの決め台詞に引っ掛けたのでしょうが。オタクの社会的地位を高めるのに多大な貢献をされたオタキングたる岡田氏が、何たることかと思いながら手にとってみました。

岡田氏が「オタクが死んだ」というのは、従来のオタクが持っていた共通意識が失われてきたからだ、と仰います。バベルの塔のように、かつて皆の言葉は一つだった。しかし塔を作ったら神様は怒り、塔は崩され、皆の言葉が通じなくなり、心がばらばらになった。自分の好きなジャンルの好きなキャラクター以外の話は興味がなくなってきた。それは皆が「萌え」という言葉を使い出したからだ、と仰るのです。

私はこれまで、「萌え」という感情は、武士の惻隠の情の変形の一つだと思っていました。小さきもの、かわいいもの、美しきもの、いじらしきもの、けなげなものを愛でたり、崇拝したり、称えたり、守りたいと思ったりする。騎士道にも似た高貴で奥ゆかしい感情だと思っていました。

これがどうも違うらしい。
萌えは、

「こんなものまで好きだといって盛り上がれる私って可愛い」

という、メタ的な視点を含むものなのだそうです。世間から変わり者扱いをされてもその変わり者である自分を含めて好きだといえる気持ちを指す言葉なのだそうです。そうすると、一種のナルシシズムとでもいえましょうか。

そしてこの「〜な私」というのは、アイデンティティです。
愛の対象が、対象ではなく、自分のアイデンティティの問題になっているから、他人の対象には興味が無い。

本来オタクには何かしら共同体的な仲間意識があり、オタクの教養として好き嫌いに関わらず、古典や有名なもので押さえるものは押さえていて、お互いの共通文化、共通言語を持って語っていた。
ところが最近は、この共通しているものを教養として押さえようという動きが無くなってきて、自分が好きなもの、萌えるものだけあればよい、という風潮になってきた。

これは、メディアが混在し、生まれたときから商品に囲まれるようになったことによるということです。ものすごく質の良い、面白くて理解しやすい作品が、テレビにもレンタルショップにもネットにも数えきれないほどあるようになったということによる。求道的に教養としてオタク文化身につけることも、オタクとは何かを熱く悩み語ることもない、純粋な消費者としての世代が現れるようになった。

岡田氏はSFを例にとって、オタクの性質の変遷を語っています。
SFファンは、千冊もSF小説を手にし時には原著を読む世界だったのが、ガンダムやスターウォーズなど映像メディアの出現で、分かりやすい楽なものが浸透して、人口が増えた。新しく若い人がやってきたらすごく歓迎した。
次の例が大変分かりやすいです。

「ガンダムを見た?SF好きになってくれたんだ。じゃ次はこれを読んでみたらどう?ロバート・A・ハインラインって知っている?」
ところが、新しい方々は分かり合わなくてはいけない、という価値観を持っていなかった。
「いや、私たちSF小説なんて読みませんよ。それより『スター・ウォーズ』の裏話を聞かせてください」
という調子でした。彼らはSFという共通文化をまったく尊重しようとしなかった。その結果、SF文化は廃れてしまったのです。


かなり極端化した例だろうとは思います。それゆえにすごく分かりやすい。

「大河を見た?歴史好きになってくれたんだ。じゃ次はこれを読んでみたらどう?南柯紀行って知っている?」

と、つい置き換えてしまって、悲しい感じになりました。
いやその、南柯紀行をハインラインに置き換えるのは無理があるというのは置いておいて。そもそも自分はこんな偉そうに先輩風を吹かせられるような立場では到底ないというのも置いておいて。

戊辰戦争サイトの大御所の方が、「新撰組の史実には興味が無い」と仰っていた人がいたことを嘆かれていたことを思い出しました。自分も似た経験があります。

新撰組の漫画も小説も私はエンターテイメントとして好きです。土方さんが美形で格好良く描かれているとやっぱり嬉しいです。でも、好きだからこそ、じゃあ本当のところはどうだったのだろう?と思います。

この「本当のところ」というのが、歴史ファンの共通言語であり、共通の文化であり、お互いに語りあうのに土台となるものだと思っていました。

ところが、本当のことなんてどうでもいい、と仰る人々がいる。
その時に提供された像さえ自分の好みに合致していればそれで良いようなのです。

それは、小説、漫画、ドラマにゲームと、捜し求めなくても、美しくて楽な像がメディアに溢れるようになったことによる。

趣味の共同体の共通言語や教養として、同じグループに属するものはとりあえずは読んでおこう、知っておこうという相互理解がなくなってきた。お互いわざわざ理解して仲間になろうとしなくても、メディアには分かりやすくて心地よい像はいくらでもある。その像に共感できる者同士が固まればよい。

これは何というか、かなり驚異的なことだと思います。

そこに求められているのは、実在の歴史人物という対象ではない。求めているのはキャラクター化された人物を通して投影される、自分のアイデンティティだということです。

大事なことは、自分の好みや自分の願望、つまりは「こんなキャラが好きな自分」というアイデンティティ。それに目の前のキャラクターが合致しているかどうか。
であるので、「本当のこと」なぞ煩わしいというわけです。本当に興味があるのは自分のことだけ。
多分に、刹那主義で、快楽主義的です。

それが悪いことだとは思いません。むしろ時にはそれは必要なことだと思います。世知辛い現実を忘れるための癒しになりますから。

現実は、きつくて辛いものです。競争しないとお金を稼げない、お金が無いと生きていけない。それは社会の厳然たる真実です。なので、世知辛い現実のほうが「主」です。癒しはあくまで「主」を乗り切るための「従」でなくてはならない。この主従が逆転し、「主」を避けて「従」にばかり逃げ込むと、なんだかおかしなことになる。

そして、「従」に耽溺していると、アイデンティティが希薄化するのではないかと思います。

アイデンティティというのは、妙なものだと思います。
自分のアイデンティティが希薄であり、自分に世知辛い世間を潜り抜けていく能力がないと無意識と分かっているほど、安易で手っ取り早いアイデンティティを求めるようになる気がします。

たとえば、香山リカ氏の新書の「『私はうつ』と言いたがる人たち」を読んで、色々と腑に落ちることがありました。「うつ病を自分のアイデンティティにしたがっている」人たちが増えているそうです、

「うつ」が心の風邪のようなものとして社会的に認知されるようになってきた。一方、うつといえば、病気であれば許され、同情してもらえ、やさしくされるようになった。「私、うつ病なんです」といえば、仕事のできが悪くても遅刻早退をしても「大変だね、必要なだけゆっくり休んでね」と言ってもらえる。それで、これまで「頑張りに頑張ってきたから労わられ癒されてしかるべき私」というアイデンティティが得られる。

もちろん、本当にうつな人は本当に大変であり、そうした層が増えるのに一番迷惑をしているのは本当に悩み苦しんでいる方々ですが。
そうではない、一種のファッションめいた感覚でうつを纏い、「うつな私」をアイデンティティにする人が増えている。

あるいは、ブログなどの日記に、「私なんてもう要らないですよね」「こんなサイトなんてあってもなくても同じですよね」と書く。

「そうじゃないよ、貴方は必要とされているよ」いう補償を誘う言葉です。自分も時々云いたくなる誘惑に駆られるのですが。それにより、「私を充たせ」という強要を読者は暗に感じるからか、こうした誘い言葉が鬱陶しいと感じるのは、誰もが同じであるようです。

「そんなことない、貴方は大切な人といってもらえる私」になりたい。
それも楽で安易なアイデンティティの補償手段です。

また、自分の一人称を「俺」「僕」という女の子が増えているそうです。こちらで記事になっていました。「自分は普通とは違うんだ」というアイデンティティを、漫画やアニメのキャラクターとの同一化によって成り立たせようとしているようです。

こうした事は、確かに一時は自分を充たしてはくれます。けれども、こうした安易さはなんだか子供っぽい。
所詮それは、目標を持って努力して身につけた自分というものではない。本当にそれで世の中を生きて渡っていくための個性や知識や能力が身に付いたわけではない。大人になったわけではない。それが若い人々には分かっていて、薄々とした不安が常にまとわりついているのではないかと思います。

メディアにエンターテイメントが溢れているから、自分の願望や好みが簡単に手に入り、どんどん自分が大事、関心の中心は自分、というようになり、アイデンティティが希薄になっていった。贅沢は人を駄目にする、と云いますが。皮肉な話だと思います。

これが自分だという姿に根本的な自信がないから、表面的に何かの目立つカッコいいラベルを自分につけて安心しようとする。けれどもそれはあくまで表面に過ぎないから、何か揺らぐことがあるとすぐに剥がれ落ちて消える。すると余計に不安になって、さらに安易なラベルを求める。

一見華やかだけれども表面的なものではなく、コンクリートにしっかりと根を穿つタンポポのように、外見はささやかだけれども根は強靭なアイデンティティこそが、必要なのではないかと思います。


岡田氏は「『一方的な損を引き受ける覚悟』を大人と言う。『一方的な得だけ要求する根性』を子供っぽいと言う」と最後に述べておられます。

この、「大人とは損を引き受ける覚悟」だ、というのには、しみじみと頷くところがありました。

平々凡々で報われない損をするばかりのところに、アイデンティティを形成する材料は転がっているのではないかと思います。

仕事だと、面白い仕事ばかりではない。やっていられないとトイレに駆け込んで泣いたり、重圧に押しつぶされそうになって吐いたりするのは茶飯事。それでもやらなければ会社の沽券に関わるから「私」を殺して会社のために、やる。
そうして得たものは、後から紛れもなく、「私」の自信になり、経験になり、語る言葉になる。

趣味の場合は、義務感や責任感がなくて良い分、より「私」に対してストイックになって動機を高める必要がある。それをやることによってどこかに喜んでくれる人がいてくれると信じて、それをモチベーションにする。それで、資料に囲まれ徹夜でこつこつ書きに書いて、今日も朝を迎えてしまったと凝った肩を回しながら太陽の光に目を細める。疲れたけれどもなんだか充たされた気分。

そうして生んだものは、紛れもなく、自分の血肉であり、財産になる。そしてそれを作り上げた自分自身に、「ここに私は在る」という確信が育つ。

アイデンティティはそうした泥臭いところから生まれ育って行くのではないかと思います。

逆説的ですが、「私」を求めれば求めるほど、安易になってアイデンティティは希薄化する。一方、私を他所に置いて全体とか共同体とか同好の士のために切磋琢磨するほど、アイデンティティは強くなる。

「こんなサイトあってもなくても同じ」と言う前に、一行でも一枚でも、作品を生むこと。「忙しい私」と口に出して言う暇があったら目の前の仕事を片付けること。

安易なアイデンティティへの欲望をきっぱりと切り捨てて、必要とされている地味で苦痛でやっていられないつまらない作業を、「私」以外のために粛々とやること。

これが一番の、アイデンティティ醸成の手段であるのではないかと思います。


と、くだらない考えをダラダラ垂れ流しつつ、目の前の葡語から逃避していては何にもなりません。人間、本質的に怠け者です。楽な手があればそれに飛びつきたい、弱い生き物です。どらえもーん、アンキパンおくれよー。

そんな感じで、おやすみなさい。
posted by 入潮 at 04:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月26日

空港より

現在、モザンビークへの途にあります。

バタバタしていて、まったく出発前に更新ができませんでした。
出張に出てしまうと頭の中がリセットされるので、函館も三斗小屋も纏めきってしまいたかったのですが。書きたかったことの2割も書けなかったです。
いただいたメールなどもお返事できず、申し訳ございません。

今回はほとんどだけ下見なので、すぐに帰ってきます。
その内、行き返りの移動だけで4日間の時間が取られます。
昔は2ヶ月も3ヶ月もかかっていたルートなので、文句はまったく言えませんけれども。短くても忙しいだけだから、せっかくなら長く居たいです。

月給の数倍の飛行機運賃を見ると、遠くへいくのだなぁと思います。

モザンビークは旧ポルトガル領。面積801,590km2、人口約2130万人
1975年の独立後、90年代まで内乱が続き開発が遅れ、貧困率も高いです。一方、ボーキサイド、石炭、天然ガスの採掘が始まり、資源の開発が期待される国でもあります。

カホーラバッサという巨大な水力発電所があり、この電力を直流送電線で大消費地である南アフリカや他国へ送っています。数字上ではエネルギー輸出国です。が、国内の電化率は6%です。つまり100軒に6軒しか、電気のある生活をしていません。
そして、ガソリン・軽油などの石油や電化製品、機械類はすべて輸入に頼っており、貿易赤字による富の流出は深刻です。

巨大な大地。蔓延るエイズとマラリア。国民一人当たりGNPは310ドル(2006)で世界193位のいわゆる最貧国。人口増加率1.8%、死亡率は20.29/1000人、識字率48%、平均寿命41歳。耕作可能地は国土の5.6%に過ぎない。(World Development Indicators, 2008, World Bank)

地球に残されたフロンティアといいますか。
まさに、これからの国です。

これからどんどん秋が深まり、夜長の季節になるかと思います。
皆様、おいしい旬のものに読書に行楽に、実りある秋をお過ごしください。

あとはこの季節、家の雨漏りが心配です。台風が来ませんように。
posted by 入潮 at 18:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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