2008年10月03日

白い壁の都より

モザンビークの首都マプトです。
成田→香港→ヨハネスブルグ→マプートというルートでした。長かった。

モザンビークは、南アフリカの北東に位置しています。他、南にスワジランド、西にジンバブエとザンビア、北にマラウィとタンザニアに接しています。東側は長々とインド洋に面していて、対岸にマダガスカルがあります。

資源開発の期待されているアフリカ南部で、港の出口を擁しています。つまり、地勢的に有利な位置を占めています。そして、物流の中心となる回廊国として注目されています。

ここマプトは、白い壁の家々と青い海、緑のココナツに囲まれています。一見どこのリゾートかと思うような穏やかな光景が広がっています。

食道楽ポルトガルの植民地だったおかげで、シーフードとワインが大変美味しいです。特にエビ料理がすばらしい。皿一杯腹一杯、香ばしいエビで満たされます。地元ビールも苦味が利いていて良いです。白い砂の見えるビーチ傍のホテルのパラソルの下で、着いてすぐ早速ビールを飲み、一体何をしにきたのだっけと思いました。

街中も、大通りは人で賑わい高層ビルもあり、明るい雰囲気です。官公庁や博物館などは白く塗られた地中海ヨーロッパを思わせる美しい建築で、目に麗しい町並みです。通りに面した明るいカフェでは白く泡立つカプチーノが楽しめます。「1908」という1908年建築の、植民地時代の様式を留めた優雅なレストランもあります。

貧困の蔓延るアフリカの都市というイメージで気負って乗り込んだので、正直、拍子抜けした感じでした。「寒郷なれば人家とてもなく、土人穴居し、我等上陸の後宿もあるまじと覚悟せしに、あに図らんや、本陣に着すれば主人袴を着けて迎え、家構も壮大にて、以前想像せしとは雲泥の違いなり」と正直に書いた大鳥さんと同じ感じでした。

以上が第一印象なのですが。
一方で、一人で街中を歩き、小さい通りに入ると、やはり一転してイメージが変わりました。

舗装は剥げてボコボコ、赤茶けた砂が露出し、道端はゴミで埋め尽くされ、悪臭が漂い、家々の塗装も廃れてひび割れて歩きにくく、砂埃のひどい状態です。

日本人中国人とみると、みやげ物売りがアミーゴアミーゴと押し寄せてきます。乞食も多い。車の間を縫って少年たちが窓に雑貨を売りつけたり物乞いの手を出してきたりする。

都市の周辺には、掘っ立て小屋トタン屋根のスラムが並びんでいます。人々が井戸の水に列をなして並んでいます。異臭が、漂い衛生状態の酷さをうかがわせます。

ほとんどが黒人で、南アフリカのように白人と黒人の間に瞭然とした階級があるわけではありませんが。同じ黒人の中でも、高そうな服と宝石で実を飾った層と貧困層が明らかに別れています。

外国投資が進んで民間企業で成功した人たちが現れ、これまでの貧困層の上に突如として少数の富裕層が現れた感じです。

同じ都市でも、表と裏の顔のギャップがありすぎます。

どこの国も同じだと言ってしまうと身も蓋も無い感じですが。これが、今のアフリカの諸国に共通する当たり前の姿でしょう。

コンサルティング会社のマーサーが、健康・公衆衛生の指数に基づき、「世界の汚れた都市トップ25」というのを発表しています。この23位にマプトが入っています。

なお、25の都市の大部分がアフリカにあります。アジスアベベ(エチオピア)やブラザウィル(チャド)、ンジャメナ(チャド)、ダルエスサラーム(タンザニア)、バンギ(中央アフリカ)、バマコ(マリ)、ポワントノワール(コンゴ共和国)、ロメ(トーゴ)、コナクリ(ギニア共和国)、ルアンダ(アンゴラ) など。

これに、石炭による大気汚染と酷い水質で有名な中国の都市が、トップ25にまだ含まれていないというのが、なんだかショックでした。ごみや廃棄物の処理の未整備、水の汚染、大気汚染による生活環境の悪化で、ろくな水も空気もないということですが。中国の都市よりさらに公害汚染は対策がなされておらず深刻だということです。

アフリカというと大地と草原と野生動物と、というイメージがありますが。
都市部の状況は、全く異なります。
野生動物は、車で何百キロも離れた国立公園内で、欧米人・日本人ツーリストの観光資源になっています。
そして、地方には産業がなく仕事がない。辛い農作業で安く買い叩かれる農業しかない。
それで人間の大部分は都市に流れていく。地方と都市のギャップは大きくなるばかり。


マプトの中心に、巨大なショッピングセンターがあります。スーパーの日用品は、ほとんどが輸入製品です。南アフリカの輸入が大部分です。旧宗主国のポルトガル製も多いですが、インドやタイ、UAEからの輸入物もあります。一方、意外と中国製がありません。

南アから製品をわざわざもってくるので、物価は高いです。スーパーの食料品は日本より高い。例えばポテトチップス200円、ヨーグルト500gで400円、コーラ1缶80円、クッキー200-400円、卵6個200円、といった具合。

国内で製品を生産していないからです。

国内に製造工場が無い。農産物の生産国として、原料のまま輸出される。そして外国で加工されて付加価値がついて、何倍〜何十倍の値段になって戻ってくる。

例えば木材の生産国でもあるのですが、木材を加工する向上も技術も無い。ベッドや机に加工するのにいったん輸出しなければならない。それで10倍の価格になった製品を、地元の人が買っている。

搾取の構図です。

モザンビークの地図すら、2000円以上。絵葉書は1枚300円もする。日本で買うほうが安い。自国で作れないからです。地図を外国で作って、それを輸入して持ってこなければならない。自国の地図なのに。

経済はほぼ完全に、南アフリカに依存しています。南アの通貨ランドも普通に流通している。タイに対するカンボジアやラオス、インドに対するブータンと状況は似ています。ほとんど南アの属国状態です。

この状態では、貧富の差を小さくしろというほうが無理な話です。

今回、こちらに来る前はしばらく日本にいたので、その間に、日本という壁に守られて温室にいる状態が当たり前になってしまっていました。

なので、今も国の表面の皮一枚を見たに過ぎないですが。
なんとも自分がもどかしくなってくる。

善良な人の仰る「何かしてあげたい」という感じとは違う。そうした自分の安全域が確保された前提での、上からの目線である感覚ではない。

別に自分が何か特別な苦難を乗り越えたわけではない。たまたま日本という、先人が苦労を重ねてくれたおかげで豊かな温室に生まれられただけだ。その自分の位置からこの国の現状を表面的にだけでも見ると、お前は一体何なんだと、その無力さは何なんだ、と無言で責められている感じがする。


正直、できればアフリカで仕事はしたくないと思っていました。

賄賂は多く何かあるごとに領収書の出ない袖の下を要求される。地元の人間は働かない。時間にはルーズ極まりない。何を買っても依頼してもボろうとする。役所は動かない。手続きは金と時間ばかりかかる。リスクは高い。忍耐ばかり要求される。強盗も置き引きも多い。強姦も誘拐も茶飯事。エイズもマラリアも肝炎も破傷風も多く、健康を維持するだけで大変。

そんな中で会社の金を管理して、宿と交通機関を確保し、役人とアポを取って、信頼できるデータも無い中で計画を作って、事業費を計算して、しかもその結果に自分の名前で責任を持たねばならない。うまくいかないと自分のせいにされる。とにかくさんざん振り回されて労力ばかり掛かって疲れることばかりで、得るものは少ないどころか下手すればマイナス、というのは、目に見えている。そんな思いを好んでしたいかと問われれば、嫌です。嫌に決まっている。

けれども、もう来てしまったからには仕方がない。開き直るしかない。これが楽しいと思うしかない。

自分が所詮豊かな国の人間に過ぎないという原罪感から逃げるためには、目の前の仕事を誠実にやって、何かしら役に立つかもしれないことをやって、それをエクスキューズにするしかない。


ただ、この国の場合、内戦が15年前に終わり、国が落ち着き成長への階段を今踏みしめているところだということも感じます。

デノミも行われましたが、ここのところはインフレも落ち着いています。経済成長率も年々国全体で8.0%、一人当たりでも5.7%と、数字になって現れています。

天然ガス田や農業などへの外国投資が入っている影響が大きいかと思います。

そして、内戦で荒廃した鉄道や道路などの復旧に、世界銀行や国際協力銀行など色々なドナーが手を上げています。
モザンビーク自体も、天然ガス、水力・石炭火力などに大きなポテンシャルを持っている。南アにも近隣国にもモノをいうことのできる、資源保有国になろうとしています。国力とは、資源力です。

そうした状況ですので、外国企業の投資が盛んに行われています。今まではエビや綿花ぐらいしか輸出項目が無かったのですが。まさに、地面の下に成長のマグマを抱えている感じです。

成長の主体が、ポルトガル人でも南ア人でもなく、今、モザンビーク人の手にあります。

その状況に、モザンビークの人々がやる気を出しています。

頼もしいと思うのは、政府も民間企業の上の人たちも、白人に牛耳られている南アと異なり、自国の人たちで真剣にモザンビークという国のことを考えていることです。少なくとも自分の会った方々は、真面目で、問題をしっかりと認識して、これから何をやらねばならないかを考えておられました。

これまでは経営もマネジメントも南アに依存していた部分が大きかったですが、外国企業が入り、自分たちで取り舵を握らねばならない責任を感じている人が居ます。
南アへの依存状態をもどかしく感じ、自分の国を自分の力でなんとかしたいと思っている人が居ます。

そうした主体性を持つ方が居ると、国が伸びます。

人材が、この国のいちばんの資源なのではないかと思います。

ただ、まだそうした人は、ほんの一部のエリートたちに過ぎないようです。この政府を取り舵していくにはまだまだ人手が足りず、何より資金が無く、援助や外国投資に頼りきりの面もあるかと思います。政策も場当たり的にならざるを得ない面もあると思います。

お金が無いのはどこも同じ。今はうまくドナーの資金を使って、自国の技術者や監理者をガンガン育てて、それで事業で収益を得て、きっちりお金を返す国になって欲しいです。

そして、もちろんこの国にも、良い人も悪い人も、調子のいい人も胸の悪くなるような人も、やさしい人も攻撃的な人も居ます。

資源のない日本は、こういう国の人たちと、対等に渡り合って、相手も自分も利益が得られるよう折衝する能力をつけないとならない。

ここの人を、かわいそうとか助けてあげたいとか、そういう善い人お偉い人な感覚で付き合うと、得られるものも得られなくなるかと思います。

怒って笑って、人対人で、体当たりしていくしかない。
実直に、かつ、したたかに付き合っていくことが一番だということは、何処の国でも同じです。

そんな感じで。短い過密スケジュールの中で走り回っています。
これから地方に行ってきます。
posted by 入潮 at 16:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月10日

郊外より

帰国しています。現地は36、7℃ありましたので、日本の秋の朝晩の涼しさが気持ちいいです。

ガザ州、イニャンバネ州という、マプトの北の州に行ってきました。モザンビークは縦長の国ですが、首都は南の端にあります。

地方に出ると、プランテーションのサトウキビ畑と、カシューナッツの木々、キャッサバ畑が広がっていました。

地方に出ても、物価は高いという印象です。地元産の製品があまり無いというのもありますが。地元のナッツなどもやはり高い。

誰と話をしても、食糧危機を話題にしない人はいない。食糧の価格の高騰に、まず苦しめられるのは貧困層です。

石油価格の高騰と温暖化対策のために、各国はこぞってバイオ燃料の導入を始めた。投機筋の資金がバイオ燃料に流れ込み、コーンや小麦、植物油などの価格が一気に上がった。実際は足りていないわけではない、むしろ在庫はだぶついている。けれども卸売りは出し惜しみをして、価格を吊り上げている。それでも売れる。パーム油など2年前の価格の3倍にまで上がった。

この食糧・植物油の国際価格の上昇の余波を受けているのが、産業のない原料生産国です。

農民が仲買人から買い上げられる農産物の価格は同じなのに、肥料も燃料も価格は上がる。輸入物、製品となって入ってくる日用雑貨や食料の価格も上がる。仲買人も輸送費など経費が上がっているから、買い上げ価格は抑えたい。

食料がないわけではないのに、金儲けをしたい投資家たちの思惑のために、農民の生活が厳しくなる。

アフリカの多くの国々にとって焦眉の課題は、食料の価格高騰です。この間横浜で開かれたTICAD IV(第4回アフリカ開発会議)や、洞爺湖サミットなどでも地球環境ばかり問題にしていた日本を、マスコミは槍玉に挙げていましたが。たしかに明日の地球環境よりもまず目先の食糧問題です。

我々にとっては、コンビニのチョコレートが100円から120円に変わったとか牛乳が1割高くなったとかぐらいのもので、それで生活がいきなり苦しくなるという程度ではない。お昼を弁当にするなり飲み会を一回我慢するなりで、十分吸収できる程度です。

けれども、こうした国の農民にとっては、死活問題です。

本来、こうした情勢の中では、生産者である農民の立場が強くならなければおかしい。
けれども、生産者として力があるのは、欧米や南アの資本で大規模に行っているプランテーションであり、小農は自分たちで価格を決定することができない。


車中から見えるプランテーションと小農の違いは一目瞭然です。

モザンビークは海岸の近くは降水量が多く、川も湿地もあり、水は豊かです。これはモザンビークの素晴らしいポテンシャルだと思います。

プランテーションには、しっかりと灌漑の水路が引かれ、農機が導入され、青々とした美しいサトウキビ畑が広大な土地に地平線まで広がっています。
サトウキビは、ガソリンの代替となるバイオエタノールの原料にも使われ、原材料価格が高騰しています。

一方、その隣に、細々としたキャッサバやメイズの農地があります。女性が一人で鍬を振り、土地を耕しています。彼方まで続く大地に対し、人間一人の力で耕せる面積はあまりに些少です。

労働は女性が担っています。乾いた農地に鍬を入れているのも、20リットルのポリタンクに水を入れて頭に載せて運んでいるのも、皆女性です。一方、商人や経営者、ドライバーなどは圧倒的に男性が多いですが。農村の男は何をしているのか良く分からない。単純労働は女性の仕事ということになっている印象です。

男が働かない国は伸びません。

モザンビークの豊かな土地資源に対し、巨大資本をつぎ込んで大規模栽培を行い利益を持っていく外国企業。そして、手作業でできることをやりマーケットへのアクセスが乏しいために仲買人に買い叩かれるしかない小農。その対比は鮮やかです。

自分もその外国企業の一人に過ぎないので、そうしたことを書き立てるのは憚られるものがあるのですが。
モザンビークの地は、モザンビークの人の手で耕し、モザンビークの人たちを豊かにして欲しいと、豊かボケした頭でも感じざるをえません。


農業にしても電力にしても交通にしても、これだけ資源があるのに、今まで発展が遅れていたのは、内戦の爪あとが大きかったからかと思います。

モザンビークは今、活気付いているといえます。すでにGNPは中国に匹敵するぐらいの成長率を維持しています。人によっては、奇跡の復興を遂げた、と見なしている人も居ます。

たとえば、モザールという巨大アルミニウムプロジェクトが20億ドルを投資。2003年に日本のアルミニウムの新地金の1/4に値する生産を開始。この25%のシェアを三菱商事が投資しました。モザールは国内一の企業になり、アルミは電力を抜いてモザンビーク最大の輸出品目に。2003年の経済成長率7%農地3%がモザールによると試算されているそうです。
経済規模の小さな国では、こうした事業のインパクトが非常に高く効果的。

ただそれでも、20年の内戦は長かったと思わざるを得ません。
内戦にあると、なにも投資が進みませんし、インフラも整備されないどころかそれまであったものが破壊される。農地も荒れ食料が流通しなくなる。物価は高騰してモノが手に入らなくなる。人はただ難民となって逃げ惑うしかない。

内戦は国を荒廃させるというのは当たり前に云われていることですが。
その「荒廃」の跡を見て、そうしたことをしみじみと思いました。

まず、鉄道。
せっかくあるのに、ほとんど使われていない。かろうじて隣国との首都を結ぶ鉄道が、不定期に週に1回程度通行できる程度。
あとの路線は廃線になってしまっています。レールも撤去されないまま、その上がすでに倉庫になっていたり家が建てられてしまっていたり。

鉄道は、大量の物資が輸送でき、輸送地方の産物を消費地に届けて地方にお金を落とすができる。輸送という点では車より効率が良いのに、使われないまま廃棄されているのは、まことに勿体ないです。

これを復旧するためには、まず地方に産業が育成されて、その物資を運ぶ便益が復旧のコストをカバーできるようになることなのですが。鉄道を復旧すると地方の産業が活発になるという、鶏が先か卵が先か、という話もあります。
すでに廃線の上が生活地域になってしまっているので、設備だけではなく、社会環境調査を行った上での移転費用も必要でしょう。

それから、電気。
前にも触れましたが、モザンビークには2000MWを超える巨大な水力発電所があります。一方、国内の需要は300MWかそこら。残りは、直流送電で大消費地南アに輸出送っています。というか、ほとんど南アのためのバッテリーです。

そして、国内、特に内陸部の多くは、電気の無い暗黒地帯です。
送電線はあっても、変電所と配電線がないので、国内に電気は行き渡っていません。首都マプトと海岸線では、一旦南アに送られた電気を再度輸入して使っているという状態です。
多くの人が、目の前の巨大な送電線のタワーを眺めつつ、電気なく生活しています。

それでその送電線も、内戦でタワーが倒され、電線が持っていかれたりして、復旧が大変だったそうです。

南ア在住の方によると、すでに南アの電力供給は逼迫していて、都市部では計画停電が行われているとか。そして、モザンビークから南アに流し込まれた安価で大量の電力が、金やプラチナなどの精錬に、つまりは南ア製品のために使われています。

こういうのは感傷かと思いますが。つい、ブータンと比べてしまいます。ブータンは、インドに輸出する電力があるのに国民が暗闇で暮らしているのは耐えられないと、2020年電化率100%を本気で目指しています。インドに売ったほうが国内に売るより国としては儲かるにも関わらず、です。


一方、道路は、地方には余り入り込んでいないので状態は分からないのですが、幹線は比較的よく機能しているようです。
マプトの周辺の道路の状態はとても良く、安全鋲まで打たれていました。力を入れて国づくりしているなぁと感心したら、ドライバーに「南アが作った」と言われてしまいました。穿った見方をすれば、南アもモザンビークに入り込んで好き勝手にやっているので、自分のための道路ということでしょうか。

地方の道路はやはり内戦で寸断されているそうです。ナカラやベイラという国際港があり、そこから隣国のザンビアやジンバブエなどから鉱物資源が輸出できればこの国の便益は大きい。ただ、そのための鉄道・道路が内戦で荒廃したまま。そこに、世界銀行やアフリカ開発銀行、そして日本国際協力銀行が、資金を提供して、復旧を始めています。


概して、一時期に日本でもかなり報道されたような絶対貧困では、もはやありません。
子供も比較的良いものを着ているし、労働は大変そうだけれども餓えまでは感じさせないところまできている。そして、これからだ、というエネルギーを感じます。
貧しいことは貧しいですが、絶望的な貧しさではない。これから良くなっていくだろうという希望を感じさせる状態です。

それでこの国で何かをやろうとすると、貧困削減、など大仰な言葉を使う必要はあまり無い気がします。もちろん、報告書には必ず書かねばいけないワードではありますが。

貧しいのはあんたらが悪い。嫌なら働け。

これをきっちりと言うべきこととして言って、働く機会を提供できる社会にするのが必要ではないかと思うのです。
もちろん相手の面子を潰さないようにする。これが難しいですが。

あんたらに仕事させるのが私の仕事だ。私に仕事をさせてくれ。あんたらが仕事してくれたら、あんたらは能力がつくし収入も増える、私は給料がもらえる。すると私もあんたもハッピーだ。

こういう正直まっすぐそのままに、お互い、ぶつかっていくこと。
これが一番有効なのではないかと思います。

肝心なのは、政府の人も、地元の人も、やる気に満ちて、アイデアを持って、働いていることではないかと思います。

相手は、農民であったり、地方政府の役人だったり、中央政府の技術者だったり、大臣だったりする。

そこまで言える関係になるまで、時間は掛かりますし、限られた時間だと言える相手も限定されますけれども。

今回のような短い調査では、ただ実態がなんとなく分かってくるだけで、そこまで言えるほど人と絡めない。それがちょっと残念だったりします。

モザンビーク人は、以外に穏やかで、人の心情や面子を気にします。そして、真面目です。時間には多少ルーズですが約束も守る。日本人に少し気質が似ている気がします。一方、厄介ごとからは逃げがちなけらいがある。

アフリカと一言で言っても、国や部族によっていろいろな性格があります。
この国とは、仲良くお付き合いさせてもらいたいなぁと、一日本人として感じます。

また来月に来る予定です。
今度はもう少し深いところまで見れればいいなと思います。
posted by 入潮 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

内戦と発展と

先日のモザンビークにて思ったこと。

内戦は悪いことなのだなぁ。

と。何をいまさら当たり前極まりない、という事を、改めてしみじみと感じ入ったのでした。

言うまでもないことですが、内戦は国を荒廃させ、発展を阻害し、そこに住む人の生活の場と財産を奪って貧困に叩き込みます。

農園やら工場やらを作ってもいつ破壊掠奪されるかわからない。せっかくのインフラは使えなくなる。リスクが高くて投資も進まない。物資が足りないからインフレが加速する。人のエネルギーは生産ではなく破壊に注がれる。そしてもう、人は自分の生まれ育った土地を棄てて逃げ惑い難民になるより他は無くなる。

そんな状況では、国のまともな生産活動ができなくなくなります。

モザンビークの場合、ポルトガルから独立闘争を行ったモザンビーク解放戦線(FRELIMO)が、経済を立て直すために社会主義国家を成立させました。これに、反政府のモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)が対立。RENAMOは、独立時にポルトガル軍に与した側で、反社会主義であり、隣に共産主義国ができることを恐れる南アの援助を受けました。このFRELIMOとRENAMOで内戦に突入。FRELIMOが社会主義を放棄し、1992年に国連の和平協定によって和平合意し、FRELIMOとRENAMOはそれぞれ政党として存続しています。

モザンビークの場合は喧嘩両成敗のような感じになりましたし、近代の内戦はどちらが善悪か付けることはむしろ珍しい。歴史に善悪を持ち込むと妙なことにもなるのですが。

国の発展と国民の幸福という方向性が「善」と考えるのであれば、その逆の方向性は「悪」です。その点で言うと、内乱を起こして勝てなかった側は、極悪非道の愚物です。いかに大義名分を掲げていようと、勝てず政権を握り返せなかった限り、平和と安定の敵という「悪」として、子々孫々石を投げられても仕方がない。だからこそ皆必死に戦う。

その点で、戊辰戦争の旧幕軍は、本当に「悪いこと」をしたのだと思いました。

もはや時代遅れになった勝手な主義主張のために、国の統一の邪魔となり、国の富を食いつぶして、国の黎明期の貴重なエネルギーと金をを余計な事に殺がせて、発展を妨害したわけですから。

旧幕府軍は、大政奉還の時点で政権は徳川から朝廷に公的に移っているので、朝廷側、新政府側に与するのがそもそもの道理です。であるから、幕府歩兵隊や伝習第三・第四大隊をはじめとして多くの隊は恭順したし、多くの幕臣は静岡への移封を受け入れ移住したのであるし、新政府の招きに従って出仕もしました。

たしかに、大鳥さんの場合も榎本さんの場合も、脱走は、天下の動静を見極めながら、いまだ定まっていなかった徳川の処遇のために新政府に恫喝することという目的はありました。箱館戦争では、最初は禄を失った旧徳川武士の生計の手段としての開拓をする目的がありました。その認可を新政府に求めたが受け入れられなかったが故の戦でした。

最初から戦う気満々だったわけではないというのはありますが。
その目的が成らなかった時点で降伏するのではなく、そのまま戦争に突入していったのは、平和への罪であるわけです。

もちろん、今も民族運動など、被搾取側が搾取する側に対して抗議運動を行うなど、正当化されうる場合もありますし、先進国が一方を支援して対立を煽って代理戦争のようになってしまった場合も多いですし、戊辰戦争もそうした流れと同様と見ることもできるかもしれませんが。

成立したばかりで猫の手も借りたい人手不足の国で、ブレインとなるべき人たちが内戦にうつつを抜かすかすというのは何事かという、多大なる国家の損失だったことは事実かと思います。戦争に労力を注ぐほど、それは罪を重ねる過程であったことは否めない。

彼らが、他の洋学者たちと同じく新政府とさっさと手を取り合っていたら、日本という新国家はもっと順調な滑り出しを果たして、予算と人手を生産的な事業に費やすことができたのは確かでしょう。

そして、この辺りのことは、自分のような後の世の平和ボケした暖衣飽食の勝手な人間などが言わなくても、当事者たちは、無言で噛み締めていたことではないかと思うのです。

大鳥の戦後について。大鳥圭介伝より。

「天朝に下ってからは、再び陸軍ということは口にしなかった。時の内閣あたりでも是非に陸軍のほうへ出仕するようにと勧めた者もあったが、頑として聞かず敗軍の将は兵を語らずとの態度で悠々文事に隠れていた」(安藤太郎)
「敗軍の将は兵を談ぜず。男爵の口より、百戦の決心事を聞くを得るべがざりし。」(横山健堂)


戊辰の戦について大鳥は自らの口で語ることはなかった。
大鳥は、技術者と工手(技能者)の関係を、軍の士官と下士官の関係に例えて語るなど、軍の仕組み的な話はしていたようですが。それはあくまでシステムの話であり、戦そのものについて語ることは無かった。

大鳥が、家族にすら請われても戊辰の戦の内容を語らなかったというのは、敗軍の将としては思い出したくも無い、よほど辛い思いをしたからであろうなとは思っていたのですが。

そうではなく、国を内戦で荒廃させた側に自分が在ったということを、罪悪として恥じていたからこそ、語れなかったのではないかと思いました。

単なる辛い思いなら、それは笑い話に昇華させていくらでも語る人です。

自分が国づくりをする者の立場になって、自分のもたらしたマイナス方向の影響をひしひしと感じた。であるからこそ、黙って、いくつも職を兼ねて過労死しそうなほど職務精励したのではないかと思いました。

そして、この「罪」については、大鳥は、脱走時にすでにある程度分かっていたのではないかと思いました。

大鳥は自伝草稿で、脱走前に、以下のように書いています。(日本医事新報865号昭和14年4月「祖父圭介の自伝について」)

「一日家に帰り、晩餐に臨み酒を令ず。妻之を聞きて驚くこと甚し。是れ余が三年来欧学勉励兵事鞅掌の為に飲を止めしに今食に臨み遽然酒を索めしに由てなり。余曰く余が年来酒を禁ぜしは学事体成して国を開き世に益せんが為なり、今や主家の将に滅びんとするに遭う、之に事ふるの道唯一死あるのみ、其期己に近し、安ぞ酒を禁ずることを為さん、酒を假り、鬱を遣り、悶を排し、且勇気を養わんのみ」

脱走前。連泊していた営舎から家に戻り、妻に酒を頼んだ所、妻は大変驚いた。大鳥は幕臣になって3年間、洋学や軍事のために忙しくて飲んでいなかったけれども、今に至って突然酒を求めたからである。今、徳川家が滅びようとしている。これに答えるには死あるのみ。その時はすでに近い。欝を払って、悶を排するために酒を飲む。

大鳥は酒好きでした。

「男の趣味と云ふは工業で酒は能く飲まれた」「氏の道楽は酒にあり」「酒を飲むも女を近づけず、酔へば漢詩を作りて幾回も朗吟し夜の更くるも知らざりし」(安藤太郎)、「深く酒も嗜まれた」(花房義質)「壮年時代は大酒家」(大鳥男爵薨去)

と、榎本と同じく大鳥の酒飲みも有名なことであり、羽目を外すようなこともなかったようです。

その大鳥が3年酒を絶ち、再び酒を口にしたのは、徳川のために命を賭けて戦うという普通なら興奮の極みにあろう時に、「欝を遣り悶を排す」ため。

この「欝」「悶」というのは、単に徳川が政権を返上して滅びようとしているその情勢に対してのことだろうと思っていたのですが。

それは、国を乱す立場にならざるを得ないということへの「欝」「悶」ではないだろうか、と思いました。

大鳥は、幕府末期について、以下のようにも語っています。(以下、大鳥圭介伝)

「速に日本全国の改革をせねば国勢は甚だ危く、外国に対しても国が持てぬ、…薩摩守は六十余州を一同に改革して行く積りであったに相違ない。私は夫れは薩摩守が長命であつたなら十分其考通りにできたらうと思ふ。然るに残念なことは、安政四年薩摩守が帰国されて、五年急病にて亡くなつた。若しさうでなく、再び江戸に出てきて、予て計画した事を、順序を逐ふてやられたならば、多分戦争なしに天下の一新は行わはれたらうと思ふ。朝廷のご威光を尊み、又幕府の力も殺がず、大諸侯が寄つて大政を協議して、国体を保つようになつたかも知れぬ。薩摩守の如き英傑が大将になつてやれば、成し遂げられたらふと思ふ。然るに不幸にして早世されて、深謀の水泡に帰したのは、返す返すも遺憾に堪へぬ」

島津斉彬が薩摩に帰ったときに亡くならずに生きて江戸に戻っていれば、公武合体が叶い、戦争無しに、維新が行われただろう。幕府の力も削がず、諸侯が協議して国政を行っただろう。斉彬候のような英傑ならそれができた。早世されたのは、返す返すも遺憾だと。
大鳥は、戦争を望んでいませんでした。戦争なしの一新を望んでいました。

また、大鳥の気心の知れた友人の多くは洋学者で、宇都宮三郎にしても大築尚志にしても前島密にしても藤沢次鎌にしても江川塾の面々にしても、みな恭順しています。
彼等との親密な付き合いは戦後も続いていました。

鳥羽伏見直後の慶応4年1月から江戸開城にいたる4月まで、情勢はめまぐるしく変化しました。

1月時点ではまだ主戦派というのは兵力差から考えても最もなことだったと思います。箱根の険を利用して海陸から挟撃というのは、大鳥に限らず誰もが考えたことでした。
しかしながら、徳川の恭順の立場は揺るがなくなった。江戸は開城の流れになった。すると、主家に尽くす為といっても、主家はすでに政権を降りて戦をする気がなくなったから、主家にとっては尽くされて戦われてもありがた迷惑でしかない。それは洋学者たちにとっては共通の見解だったでしょう。慶応4年1月と4月では、全く状況が違うように思います。

その中で大鳥が主戦派として脱走に踏み切ったのは、むしろそちらのほうが不思議です。

大鳥が脱走をした本当の理由は、はっきりとは、本人の口からは語られていません。
あるのは、以下の通り。

「私共が集めて募った兵は、江戸で悪徒の、博徒とか、その他大名の駕籠を掻く陸尺と称へる奴だとか、馬丁などでありました、夫れを募集して…教練して教はつた人に割付けて錬兵すると云ふことで、夫れは後年、私共の脱走の種となつたのです」

伝習隊は、各大隊ごとに、脱走か恭順かを多数決の籤で決めました。それで第三・第四大隊は恭順となり、第一・第二大隊は脱走となりました。

大鳥は、兵の頭として責任を取った、ということでしょう。
また、勝海舟の江戸武装解除策に乗ったというのも言われていますし、それはあっただろうなとは思うのですが、それを直接語る方は今のところ目にしていません。

そして、脱走後。

「脱走の主意は必ずしも戦争するという考にてもなく、府内を避けて暫く要処に拠り、此後天下の形勢を観て進退を定めんと議決した」

と、往生際悪く、戦するつもりはなかった旨、大鳥は述べています。

伝習隊の頭であるところの大鳥の、脱走はやむをえなかったという姿勢は、「欝」「悶」の言葉以外にも伺えます。

そして、結果的に大鳥は、箱館戦の最後まで、三十数戦を戦い抜く羽目になった。逆走というか、やるならとことんというか、破れかぶれというか、毒食らわば皿までというか。この当たりが大鳥が大鳥たる所以です。

前軍が宇都宮を落とさなかったら、大鳥らの戊辰戦争への関わり方はだいぶ変わっていたのではないかと思ったりもします。

いずれにしても、内乱は国を荒廃させる、その罪過を背負うということが分かった上での脱走だったのではないかというように思えたのでした。

「南柯紀行」世に出たのは、明治30年近くになってからのことでした。
大鳥にとっては、自分の罪と恥を、30年かかってようやく歴史として見つめられるようになったということなのではないかと思います。


「敗者の維新史」などをはじめとして声高に会津は朝敵にあらずと主張されている方々もおられるところに言うのも気がひけますが。会津も同様に賊です。勝っていたら別ですが。

政権が朝廷に返上された状態で、新政権に抗って、新政府の兵士と殺しあって、地元や他領の家や田畑を焼いて、住民に多大な迷惑をかけた。少なくとも2年はその地域の生産活動を停止させて経済的にも人的にも打撃を与え続けた。それはもう、まごう事なき、賊ではないかと思います。もちろん会津だけではなく、長岡なり仙台なりも同じですが。

自分が江戸の民だったら、脱走軍の活躍には喝采するでしょうが。自分が塩原や会津の民だったら、畑を潰され家を焼かれ、迷惑千万、憾みも極まりないと思います。

国を乱したらあかんだろう、と。その当たり前の、「あかん」ところが脇に押し寄せられて、先に敗者のシンパシーとセンチメタリズムが来ているというのは、メディアの変な構図だなぁと思います。
もちろん、文学的に捉えるのは意味があると思いますし、そこに情緒とロマンを求めるのは個人の好き好きだとは思います。ただ、そもそもの位置づけとして、悪かったことは悪かったのではないかということを再認識したのでした。

それはもう、内乱の首謀者は死刑になっても仕方がない。
そして彼らは裁きをきちんと受けて、釈放された。
公の裁決をうけて、赦された。公的にはその時点で彼らは償いをしたわけですが。本当の償いは、その後、内乱で与えた混乱と破壊の分、育成と創造とつぎ込む行動ではなかったかと思います。

国を乱すだけ乱し、住民に迷惑をかけるだけかけておいて、あとは世を去るなり世に背を向けて隠居するなりというのは、もちろん自分は無責任だなどとは云える立場ではありませんが。責任を取って生きた人たちは、ずっと色濃く頼もしく見えます。
内戦の後に、自らの罪をかみ締めて、自分たちが招いた厄災を補ってあまりある国つくり、ものつくり、人つくりを行った人たちを、自分は追いたいと思うのです。

こうした見方は、敗者の美学や散ることが美しいというような感性とは正反対ですし、多くの幕末ファンの方には受け入れがたい見方だろうなとは思います。
御反論、御批判はごもっともなことだと思います。

ただ、明治16年の木滝清類著「明治六雄八将伝」の「大鳥圭介公論」の項目には、以下の通りあることを、述べておきたいです。

「公(大鳥)、一たび反旗を翻へして王師に抗したれども、過ぎて即ち改むるに憚るなきは、眞の英雄の英雄たる所以、豪傑の豪傑たる所以なり。彼の君子の過ちを改むるは猶ほ月日の蝕のとしと雖も、此の英雄豪傑の過ちを改むるも亦猶日月の蝕の如し。公、前非を悔ひ、翻然志を改めて、明治政府の人と為り、以て之れに尽力せるは、実に月日の蝕の如くにして、公の英雄の英雄たる所以、豪傑の豪傑たる所以なり。既往は咎めず今日政府に尽くすところを以て其罪を贖ひたりと謂うべし」

大鳥らは、新政府に反旗を翻したけれども、過ぎて非を悔いて志をを改めて明治政府の人となってそれに尽力したのは、英雄の英雄たる所以、豪傑の豪傑たる所以だ。過去の罪状は咎めずに、今の政府に尽くしてその罪を贖ったのだ、と。

「此論、独り大鳥公の面目を存じたるのみならず、又兼て維新の際徳川氏の為に戦ひし者の面目を存じたりと謂ふ可し。此輩王師に抗したるの罪は固より軽からざる可きも、江藤、前原、西郷等に対照するべきは、其罪亦恐す可き所の者ありて存するや、既に記者のする所の如し論、嗚呼維新の際、東北軍の死する者、地下に在て大に謝するならん」

そして、こうした論は、大鳥ひとりの面目を保つだけではなく、かつて維新の際に徳川の為に戦った者達の面目を保つのである。朝廷に抗った罪は軽くは無いが、江藤新平の佐賀の乱や前原一誠の乱、西郷隆盛の西南戦争とは罪の在り方が違う。維新の際に、東北や函館で死んだ者達は、地下で大いに感謝するところであろう。

ひとたび政府に反しておきながらもその罪を償い国づくりに身を投じることで面目を果たしたのは、戊辰戦争の死者たちも感謝するところだろう。

旧体制に殉じるばかりが面目ではない。

明治の前半には、既にこういう見方が確かにあったのでした。
この論自体は、ちょっとヨイショが行き過ぎて怖いぐらいのものがあったりもしますが。

現代のメディアは、福澤諭吉の一方的な履き違えである「痩我慢の説」ばかりを引用したがりますが。福澤が公表するつもりもなかったのに部下が大衆受けするために呈した勝手な論よりも、こうした当時の論調のほうに、私はよほど共感します。

内戦後、そして大戦後。
貧しいままでいてたまるか。他国から踏みにじられてたまるか。
日本は、その意地を持っていて、過去を水に流して、かつての敵も味方も一緒くたになって、豊かになるために考えつくして働きぬいた。それは明治も大正も昭和も同じ。そうした日本人の懐の深さがあったからこそ、戊辰後の明治の成長、そして戦後のミラクル成長があり、今の状態になったと思います。

新しい話は何も無いのに、たらたら書いてしまいました。
いや、政府が安定していない国だと、政権が変わったり選挙があるごとに、政府の面々の首がすげ変わってしまって、説明やりなおし、下手すればプロジェクトがお蔵入り、ということに、何度も泣かされるものですから。

横須賀造船所なりフランス式陸軍なり、賊だろうが反乱軍だろうが、旧時代の遺産をしっかりと活用して発展した日本は、偉いもんだと思います。
よく言えば懐が深い。悪く言えば節操が無い。そんな日本が大好きです。
タグ:大鳥圭介
posted by 入潮 at 03:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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