2009年03月19日

ウィルスのネタ

うららかな春の日です。

皇居の桜の開花状態。一ツ橋から代官山通りと千鳥ヶ淵。

寒緋桜:満開、散り始め
大寒桜:ほぼ満開
駿河桜: 三分咲き
ヤマザクラ:三分咲き
ソメイヨシノ: ゼロ、ただしつぼみは膨らんでいる。
ぼたん桜:ゼロ

という感じです。
種類はこちらをご参照ください。
これから、良い季節です。

先週、帰国しました。40℃のラオスから戻ってくると、寒くてかないませんでした。
風邪を引かないの何とやらの類なので、自分はぴんぴんしていますが、PCがウィルスで酷いことになっていました。アンチウィルスソフトも、辺境で流行っているウィルスは認識してくれません。ウィルスファイルを捕まえては、定義ファイルに入れてもらえるよう、ソフト会社に送りっています。

病気も寄生虫もそうですが、PCのウィルスも、ローカルになればなるほど、そこにしかいない亜種が存在します。名前は同じですが、ネパール種とかベトナム種とか、いろいろいるようです。日本でマラリアの診断をしてくれるお医者さんがなかなかいないように、先進国のウィルス対策ソフトのメーカーはこうしたローカルウィルスには、なかなか対応してくれません。

一番酷かったというか、感心したのが、以下のヤツ。

・他のPCから感染したUSBメモリの、ドライブを開いた瞬間にそのPCに感染
・既存の通常フォルダが隠しフォルダに変更される
・↑のフォルダと同じ名前のEXEファイルが、フォルダのアイコンの外見で作られる
・レジストリを書き換えられ、勝手にフォルダオプションの「隠しファイルおよび隠しフォルダを表示しない」にチェックを入れられ、「保護されたOSファイルを表示しない」のチェックを外される。
・↑の設定および、それに関連するレジストリの修復をできなくする。

つまり、これまでに作ってきた作業フォルダの格好をしたウィルスの実行プログラムが、わさわさとPC内に量産され、作業フォルダ本体は隠しファイルにされ、アクセスできなくなってしまう。作業フォルダの名前を覚えていれば、フルパスを直接アドレスバーに入れることによって開けはするのですが。いちいち覚えていられません。

これによってできたウィルスの不正プログラムを実行した場合どうなるのかは、色々あるようです。セキュリティホールを作ったり、妙なサイトに勝手にアクセスして実行したりする犯罪的なものから、IEのタイトルバーを卑猥な言葉に書き換えるだけの微笑ましいものまで。

いずれにしても、PCを使う人間が脊髄反射的に行っている作業流れを、うまく裏をかいてくれます。

多くはUSBメモリスからの感染です。ホテルやネットカフェ、印刷屋のPCはウィルスの温床。一方、仕事をしていると、通信や印刷のために、メモリを用いてそれらの施設のPCを介さないわけにはいかない。

また、USBメモリだけではなく、デジカメやiPodなど、あらゆる記憶媒体で感染します。

こちらのAutorunを動かさない方法もありますが。今回のようにユーザーをだまくらかしてくれる型だと、自分でフォルダを開いて感染してしまう。

そこで、良い方法を教えてもらいました、

1) 感染したUSBメモリをPCに挿入し、フォルダは開かない。
2) メモ帳起動
3) ファイル→開く、ファイルの種類:全てのファイルとする。
4) USBメモリのドライブへ
5) 見覚えの無いAutorun.inf(実行させる不正なプログラムのリスト)やEXEファイルがあれば、削除

メモ帳からなので、間違って開いてしまってもプログラムのコードが表示されるだけで実行されることにはならないし。ドライブやフォルダを開かなくて良いので、ドライブ・フォルダを開いた瞬間に感染するタイプのウィルスを避けることができる。

これは、いちいちUSBのドライブごとウィルススキャンするより早いし確実。他のPCで用いたUSBメモリを自分のPCで開くときに、常に確認を行うよう、習慣付けておきたいです。

ただし、上リンクの自動再生を行わない設定にし、かつ全ての隠しファイルが見えるようにしている状態に保っておく必要はあります。

海外、特に途上国でデータのやり取りをされる場合、ご参考になりますと幸いです。

ちなみに、notepad(メモ帳実行ファイル)ならぬnetapedという名前のウィルスも入ってました。こいつも、ファイル表示のレジストリを書き換えるヤツです。「ファイル名を指定して実行」でnotepadを立ち上げているのですが。間違って入力するとコイツが実行されてしまいます。おちおち、タイプミスもできません。netaped。せっかくなのでネタにしてみました。

それにしても、ウィルスを作る人って、本当に頭が良いなぁと思います。プログラムを作成する論理能力もさることながら、 人間の行動科学的なことも考え抜いている。
愉快犯にしては、つぎ込むリソースが無駄すぎるように思います。その才覚を、もっと有為な方向に生かしていただけないのでしょうか。

つぎ込む時間も相当なものだと思います。ほとんどは営利に結びつかないはずです。ある意味、特殊技能ボランティアです。その能力と献身を必要としている場は、世界のいたるところにあるでしょう。
なのに、一見、彼らが行っているのは、単なるからかいや、ちょっとした迷惑。そのために、膨大なインプットをつぎ込む。彼らの動機って一体何なんでしょう。

ウィルスソフトメーカーのエンジニアは、その多くが元ウィルス製作者だという話も聞いたこともある。もしかして彼らのモチベーションは、就職?

そんなはた迷惑なリクルート活動、頼むからやめて、生産的なお仕事をしてください。

あるいは、ウィルスソフトメーカーが、自分たちの製品を売るために、その需要を自ら作り出しているのか。

……それは流石に、そこまで世の中を疑いたくないので、小説か何かのネタだけにしてほしいなぁと思いました。


posted by 入潮 at 03:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

アジ歴資料センターと工部美術学校資料

昨年末から、歴史にタッチできる余裕が無い体たらくのですが。
その間に、世界はめまぐるしく動いていました。思わず、年度末業務を放り投げたくなりました。

まず、アジア歴史資料センター。
所蔵公文書、全部、画像閲覧可能になっているではありませんか。

思わず躍り上がってしまいました。
素晴らしい。
以前から、一部の文書は閲覧可能でしたが。まさか本当に全部やってくれるとは思いませんでした。

この日本の、明治以降の、公文書館、外交史料館、および防衛研究所所蔵の、各省庁の公文が、報告書が、履歴書が、あるだけ、自宅に居ながらにして、拝めるようになりますとは。

しかも、ビューアのDjVUをインストールすれば、全頁、クリック一つで印刷が可能。ということは、AcrobatなどPDFを作成できるソフトがあれば、PDFに保存してPC内に置いておけるということ。

良いのですか、そんな太っ腹で。
だって、PCとネットさえあれば、手前のようなド素人が、日本の近代の公文書の数々に、濡れ手で粟状態で、浸り放題になってしまうのですよ。ひゃっほーい。

…と、思わず心配になってしまいました。

膨大という言葉も色をなして逃げそうな、莫大な文書をデジタル化。相当な事業だったと思います。税金を払っている甲斐がある、というものです。

あるいは、これは、もはや、行政から国民への挑戦ではないでしょうか。
国民どもよ。これだけの労力をつぎ込んで作り上げてやったのだから、きっちり活用しろよ、と。
そのようなメッセージが、半蔵門と皇居の代官山通りの坂の上から降り注いでくるかのようです。

というわけで早速。

「美術 自明治九年至十五年 工部省」

工部美術学校の沿革です。これは良い資料です。
これまで、工部美術学校のほうは、あまり腰を入れて調べておらず、孫引きばかりで済ましてしまっていたのですが。

工部美術学校の目的、学科分け、システム、生徒人数、お雇い教師雇い入れの推移など。基本的な情報が網羅されている、工部美術学校についての一級史料でした。工部美術学校についての記述のベースとなるものの一つかと思います。

工部美術学校については、学問のアルケオロジーのサイトが詳しいです。こちらでも本資料は参照されています。私も大いに参照させていただきます。

資料は、筆跡から、おそらく大鳥の自筆ではないかとも思います。工部省の公文用紙を使っていて、大鳥の敬称が省略されていますし。

細かい規定や出来事も記されています。
男女は別室だった旨、ナポレオンの彫刻を製作するモデルにするのに若い近衛兵の派遣を陸軍省に依頼したこと、生徒からの苦情によるイタリア教師の罷免(例のボイコット事件ですか…)、イタリアから石灰の購入、第二回内国勧業博覧会への出展、ラグーザに生徒が作った彫刻物の写真帳を贈与した旨、美術学校廃止後の諸事務など、など。興味深い事項の記述が多いです。

工部美術学校の生の姿に、より近づけた気がしました。
これがあれば、山下りんと大鳥ひな主演の工部大学校オムニバス番外編ドラマだって作れますよ。きっと。

以下、カタカナ→ひらがなの変更、句読点追加、常用漢字への変更有りで。

工部美術学校の開校は、明治9年11月6日でした。
まず、目的。

「本校は欧州近世の技術を以て我国旧来の職風を移し、百工の補助と為さんと欲す。而て、生徒の技術秘奥を解得るは、多年の後を期す。故に初め先ず専ら之を教授せんとす。是此校を設くる所以なり」

美術学校は、あくまで「百工の補助」として。工業育成の補助として、かかる西洋の技術導入したことが述べられています。

「教場を分て二区となす。第一区はすでに梢我国の技術に得る所あり、専ら実地修行を望む者、第二区は論理実地新たに修行を望む者。第一区は少なくも六ヵ年必ず就学せしむ。学科は分つて油画、彫刻の二種と為す」

すでに原理などにはある程度の素養があり、実地での技術習得を望む者は第一区、全く新たに習得を志す者は第二区と、効率的に行えるよう、習得状況に分けて、学年設定をしています。学科は、油絵を彫刻の二つ。

それで、入学試験を実施したところ。

「図画学志願者は数十名あり、頗る合格の者を得たり。彫刻学に至りては職工体の者僅かに数名のみ。此輩唯学則の一班を窺うのみ。自費就学は難かるべし」

画学志望者は数十人居て、合格に達する者がたくさんいたのだけれども、彫刻のほうは、職人風の者わずかに数名がいたのみという有様だった。学理はほんの少し知っているだけで、自費で授業料を払って就学するのは難しそうだった。

彫刻学科は、画学に比べて人気が無かったようです。そこで。

「抑我彫刻学の一科は率皆賎業にて、欧州各国の如く紳士の学にて以て身を立て名を顕さんとするの技術に非ず。固より怯むに足らず、因て此一科に限り官費支給生として凡そ四十名を募り、之を就業せしめば、必ず応ずる者あらん(生徒は皆通学たり。而て毎月金二円を納むるを規則とす、此支給生は其二円を収めざるを謂う) との議、本省の認可を得たり」

元から日本では彫刻は卑賤の職業で、欧州のように紳士の学業ではなく、名を成す技術ではない。しかしこれは怯むには足らない。彫刻科に限り官費支給として40名ほど募れば、必ず応じる者はあるだろう。これについて、工部省本省の認可は得た。

大鳥は、彫刻家の職としての本邦における地位の低さを憂いて、彫刻科を優遇して生徒を募集したことが窺えます。

上サイトによると、村垣淡路守範正が「遣米使日記」で、米国大統領官邸で見た歴代大統領の彫像を、打首獄門のように見ていた、という記述がある。当時、日本には、人間を彫像にして公共物、美術品としてみるような文化が、まず無かった。彫刻はまず、文化都市手の認識を作ることから始めなければならなかった。

なお、美術学校は、工部大学校の本体と異なり、皆自宅生で、授業料が月二円だった由。この二円免除が、彫刻科の優遇措置だったようです。これが有効的に働いたかどうかはわかりませんが。明治15年の廃止時点の生徒数は、画学17名に対して、彫刻科は20名いました。この優遇措置目当てで、画学から彫刻に移った生徒のいたとのことです。

なお、本科で毎日授業のある生徒は、明治11年1月時点で、画学26名。このほか、月水金の週三日間、午後半日だけの定時制の生徒が、男子七名、女子六名いました。彫刻科は毎日出席が26名、週3回が3名。

女子は画学の定時制のみだったようです。10歳以上25歳までという、広い範囲で募集されました。「教場を分け男女相往来するを禁ず」だそうです。…このとき、ひなちゃん16歳。校長先生、娘を若い男達から守ろうとしたわけではなく、それが当時の一般的な習慣だったのでしょう。多分。

十一年九月に、画学教師フォンネタージが病気で帰国。彼が推薦した同じイタリア人のフレッケ(フェレッチ)を雇ったところ。

「技術不足の為に生徒の意に厭かず。随て生徒の学業進歩を見ず」

という有様でした。この生徒の騒動はかなり大きかった模様で、校長先生も大困り。代理の教師を得るため、在イタリア大使館の公使に通信して、イタリアの外務大臣へ具申して、適当な器の教師を選定してもらうよう依頼しました。外務大臣も困って、最初三名を選定したけれどもそれでも不都合があり、その末に、サンジョバンニという先生がようやく決まったということでした。

ちなみに、上の学問のアルケオロジーによると、このボイコット騒動のためにカリキュラムが遅れてしまって、夜学が導入されたという話もあるそうです。
そして、サン・ジョヴァンニは大変厳しい指導を行った。生徒に描いた絵を破り捨てるように命じたこともあった。大野幸彦という生徒は、これを受けて刀で絵を斬ったそうな。それで、結局、彼の下からは、画家として名を成すような人が出なかった。一方、図画の教員としては優秀な人物を輩出した。これは、彼の予科の教育と専門でのきびしい指導があったからこそではないか、と指摘されています。

画学は、先生の交代のために、指導は山あり谷ありだったようです。

一方、彫刻科の先生、ラグーザは、6年間通して、契約を延長してまで、一貫して生徒達を指導しました。助手もいました。指導は丁寧だったようで、生徒の藤田文蔵が回想しています。一人一人手をとって、油土を固めた手本を作って、実際に生徒作品に手を下して教えてています。時には生徒の作ったものを壊して自分で作る。指導中にその作品の首がはずれてしまうことも。これが「お辞儀」や「獄門」と言われて生徒から恐れられたとのことです。想像すると、結構シュール。

生徒の指導の合間に、ラグーザは著名人の彫刻を作成し、忙しく日々を過ごしたようです。大鳥さんほか、大久保利通、伊藤博文、山尾庸三など。みちさんのデスマスクにも、この方が関わっているのでしょうか。

彫刻科の生徒は、白馬会に大鳥の銅像を出展した菊池鋳太郎はじめ、数々の彫刻家を輩出しています。靖国神社の大村益次郎像を作った方も、工部美術学校の出身でした。

十四年には第二回内国勧業博覧会に生徒の作品を出典。「図画彫刻数種を出す。大に賞賛を得たり」と嬉しそうに記されています。内国勧業博覧会の後も、大学校の博物場の中に展示して、世人の賞することになった物が少なくない、とのことでした。この展示物のリストも、本書に添付されています。

巻末に、生徒の進歩表が、画学・彫刻学ともに記されています。残念ながら男子生徒の名前ばかりで、山下りんも大鳥ひなも。女子生徒がみあたりません。大島久という人はいますが。多分違うでしょう。

残念ながら工部美術学校は、明治16年1月23日に廃止。工部省の事業縮小を受けてのことかと思います。建物、画材や作品の売却や譲渡などの後処理について、後は淡々と記されています。寂しい感じがします。

図画と彫刻が、当初志したとおり、実際に明治の百工の助けとなったのか。
外国人教師たちが、完全に文化的な美術分野の方々なので、工業との連携ということを考えての人材の養成は、あまり行われていなかったように感じます。むしろ、開拓使の画工の牧野数江のように、事業に必要な技能としての絵画師は、省庁で直接雇用されていたようです。

それでも、日本の黎明期の美術を育て、内国勧業博覧会や博物場を通じて広めていったことは事実。工部美術学校は、日本人の美術への認識を広め、文化的な面で日本の国力に寄与したものであると結んでよいのではないかと思います。


…と、一つの資料の紹介だけで、また長くなってしまいました。

アジア歴史センターのほかにも、見るべきものが目白押しな感じです。

公文書館では、展示会「旗本御家人−江戸を彩った異才たち−」とな。
「幕末の若き幕臣たちの中には、明治以降、各分野で活躍することになる人材もすくなくありません」と掲げてくださっているのですから、これは見ておきたいです。

4月11日2時から、「幕臣たちの二つの顔」という、江戸東京博物館館長さんの講演が。詳細不明ですが。なんだか心惹かれます。申し込んでみようかしら。その後でビール片手に皇居の花見もできるでしょうし。うむ。良い季節である。

国会図書館デジタルライブラリの資料あれこれも、「写真の中の明治大正」ということで、写真帳から膨大な数の写真がデータ化され閲覧できます。古写真データベースへのリンクも便利。

この年度末に、誘惑がいっぱいあって、まったく困ったものです。
posted by 入潮 at 23:20| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

日本タイ交流史と大鳥

大鳥圭介を評価してくださる方が、この分野にもいます。

「大鳥圭介の訪ねた1875(明治8)年頃のタイ」

という、日本タイ交流史のジャーナルの記事がありました。

2007年に、日タイ修好120周年ということで、日本とタイで、経済的・人的・文化的な交流が盛んに行われました。その際に、日タイの交流始まりということで、触れられています。

タイはASEANの中心的な国。日本にとって、貿易、投資、観光の重要なパートナーです。帝国主義時代、太平洋戦争中も、タイは緩衝地帯としてとはいえ独立を保っていた国です。今は経済発展を遂げて、東南アジアの中心的な国の一つとなっています。

現在、日本はタイにとって、最大の直接投資国(投資額164,323百万B)であり、最大の輸入国であり(輸入額:28,381百万US$)、そしてアメリカに次ぐ第二位の輸出相手です。(輸出額アメリカ:19,194百万US$、日本17,977百万US$)(数字は2007年、JETROより)

かつては日本からタイへのODAも盛んでした。送電線や橋梁、上水道、農業基盤をはじめとして、様々なインフラに日本のお金が投入されました。日本の資金で作られた第2メコン国際橋やシリキットタイ水力などは、切手にもなっています。

現在、タイの一人当たりGNPはUS$3,050で世界110位(GNP自体は30位)の上位中所得国(世界銀行2008)。既に無償援助の対象からは外れ、日本にとっては対等のパートナーです。外務省の国別援助方針基本方針にも、「タイは過去、アジア諸国のなかでは最も良好かつ安定的な関係を日本が維持してきた国であり、タイとの緊密な関係を今後も維持強化していくことは、大陸部東南アジアだけではなく、アジア地域の安定と発展にとってもきわめて重要な要素となる」とされ、「相互利益と合意形成にもとづく『新しい協力関係』と捉える」とあります。

現在も円借款が行われています。円借款とは、円を貨幣の単位としてローンと返済が行われる、市中銀行より金利の低い、公的な融資のことです。日本国際協力銀行(JBIC)が行っています(昨年10月にJICAに統合)。

タイの玄関口、バンコク新空港であるスワンナブーム国際空港。アジア諸国に行く際は、ハブとなる重要な空港ですが、この建設資金の約半額の総額2400億円をJBICが円借款として提供しました。また、昨年新たに、第1期限度額624億4200万円の、首都圏鉄道計画への円借款の交換文書が調印されました。

…と数字ばかり並べても仕方が無いのですが。それだけ、タイと日本の関係は深いということが言いたかったのです。

タイには自分も出張でしょっちゅうお世話になっており、訪れる度にその変貌に驚嘆しています。ITと建設と微笑みと仏像と米とマッサージと屋台とマンゴーの国、という、渾然とした印象を持っています。雑貨や軽工業品はほとんどメイドインタイランドで、生産力を伸ばしています。ブータンやラオスから出てくると、バンコクの林立する高層ビルとモールの煌びやかさに度肝を抜かされます。一方で、東北部山岳地帯はなお少数民族が昔ながらの生活を営んでいて、二面性に驚きます。

そのタイと日本の関係のうち、政府間の公的な交流を最初に行ったのが、大鳥圭介でした。例によって、ほとんど知られてはいませんが。改めて知ると、感慨深いです。この人の功績は、隠れているくせに、どこにでも現れる、という感じです。

大鳥の暹羅訪問は、もともと、訪日中だったオーストリア公使セッファーがタイを訪れるというので、これに同行させてもらったものでした。大蔵省七等川路寛堂、租税寮七等河野通猷、租税寮権大属北島兼弘らもそのメンバーでした。

そのタイ訪問の記録を、大鳥らは、「暹羅紀行」「暹羅紀略」としてまとめています。当時知られざる国のタイを、政治、文化、歴史、地理、貿易、制度、産業、宗教、言語、教育、軍事、風土といった幅広い分野で集約しています。当時のタイの総合ガイドブックとでも言うべきものです。また、滞在記や面会した人物との議事録も含められています。「暹羅紀行」が調査記録、「暹羅紀略」が事典、という特徴です。本文はデジタルライブラリで参照可。

特に大鳥は、貿易・港湾規則については、北島の功が大きいと特筆しています。成果を独り占めせず、他人の功績があればきっちりとそれを明言するのも、大鳥。

で、今回焦点を当てるのは、その暹羅紀行…ではありません。暹羅紀行そのものも、前々からご紹介したいと言い続けているのですが。その内容の盛りだくさん具合に、なかなかおいそれと手を付けられずにいます。いつもの大鳥の新しいモノをみたキラキラ具合への突っ込みどころには、際限がなく、時間がいくらあっても足りません。

今回ご紹介したいのは、上記の財団法人日本タイ協会の機関紙「タイ国情報」。その中で、理事長の吉田千之輔氏自らが、「暹羅紀行」を紐解き、読みどころと著者の大鳥についてご紹介くださっていました。

どうも、吉田氏、大鳥が公的日本タイ関係の嚆矢的な存在だったせいか、大鳥への評価が、嬉しくなるぐらいに高いです。
まず、大鳥の一般的紹介について、注釈で述べている文。簡潔にして的を得ています。

「出獄後、開拓次官黒田に聘され開拓史として出仕、釈放後一ヶ月あまりで、外債発行と開拓器械等研究のため、吉田清成に随行して欧米を視察。帰国後は開拓使として北海道開拓に従事、後工部省に転じ技術官僚として殖産興業を牽引した。五稜郭で降伏して以来僅か5年で、実に多忙且つ華麗な経歴である」

とした上で。

「その卓越した工学知識によって工作局長として多くの官営工場を総括し、工部技監となり技術官僚として最高峰を極めた。明治期の殖産興業の源流を作る人物」

としてくださっています。
…大鳥の明治の官僚人生について、嫌味でもなんでもなく素直な賞賛を以ってして「多忙かつ華麗な経歴」と評される方はめったにいないと思います。嬉しいです。
大鳥の親戚の河上徹太郎は、「圭介の仕事は明治2年5月18日で終わっているのだ」だとか「彼は五稜郭で死んでいるのだ」だとか、戯けたことをのたまっていましたが、そうしたことには、もはや、何を見て何を申すか、という感じで文句を言えてしまいます。私は、大鳥は明治が本道なのだと、口を大にして言い続けます。

そして、大鳥が「殖産興業を牽引」「殖産興業の源流を作る人物」。
このことが、一般的に語られるようになったのかと思うと、しみじみ嬉しいです。福本先生の著作のおかげだと思います。天に感謝。

そして、吉田氏は、「なぜ大鳥圭介が選ばれたのか」という点を疑問としてあげておられます。

そう。暹羅に縁もゆかりもなさそうな大鳥が。しかも、実務技術者に飢えていた工部省。そこには伊藤が手薬煉引いて待っていたはず。そこに陸軍から引き抜かれ、仕事は机の上に山積みになっていそうな大鳥が。何故にまた、このくそ忙しそうな時期に暹羅行きを許されたのか。

大鳥の前述の大鳥の経歴を掲げ、江川塾で培い欧米視察で磨きが掛かった語学力の能力が認められていたのだろう、ということのほか。

「欧米への産業視察で、当時の世界の最先端技術を見てきただけに、タイの国力の構成な評価にも適任であったのだろう」

と、吉田氏はその選定理由を推測しておられます。

大鳥は、幕臣になる前の阿波藩取立てだった頃の元治元年、暹羅へ行く11年前、幕府への建言の中で、タイに触れています。これは「甲子雑録」に収録されています。今まで鎖国していた国が開国した例として、トルコと共に挙げたのでした。

世間では攘夷の嵐が吹き荒れ、幕府内は欧米にばかり注視していた頃。そこに、世界に日本と同じ立場の国が多々ある、ということを指摘し、その国がどのように国を開いていったか、近代化を果たして国を守ったか、という例を挙げたわけです。

大鳥は、こうしたことから暹羅に関心は持っていたことでしょう。この話が来たのは、渡りに船だったと思います。

大鳥はタイへの途中であるマニラへの海上で、タイの再起の不穏な情勢を含めた大変詳しい手紙を伊藤に書き送っています。「伊藤博文書簡集」に収録されています。また、そこに「大隈大蔵卿へも本文の次第縷々申上置候也」と記しています。
よって、人選には伊藤博文や大隈重信も絡んでいたのではないかと思います。

その後更に無事バンコクに着いてからも、大鳥は伊藤に手紙を送付しています。安心したのか、しみじみと漢詩をしたためています。曰く。

千里逍遥絶海浜
緑葉紅花四時春
王女児不識両洋熱
雪夜団楽話遠人


絶海の浜まで、千里を逍遥してきた。
緑の葉、赤い花。常時、春のごとくである。
一方、女児たちは両洋の暑さを知らず、
遠い人として雪夜の団欒にある。

ロピカルな詩の前半に対して、後半のしんみりした様。
「両洋」とは、太平洋と支那海のことでしょうか。
あと、原文は「王女児」とありますが。この行だけ八文字あるので、多分最初の「王」は写植ミスか何かかと思います。

……伊藤にそんな詩を送っても、ひなちゃんゆきちゃんには届かないと思います。この不器用親父。

なお、家族についてですが。
戊辰戦争と投獄で5年ほったらかし、その後1ヶ月で欧米に行ったっきり2年間、帰ってきたと思ったらそのまま未開の北海道の原野へ。そしてようやく東京の工部省勤めになったかと思ったら、今度は暹羅などという聞いたことも無い国へ。みちさんもひなちゃんも物心ついてきた富士太郎君も、開いた口が塞がらなかっただろうことは、想像に難くない。
帰ってきたら、長男に「おっさん、誰?」と冷たい目で言われてもおかしくない、漂浪親父です。
家族が相手なら、大鳥さんはいくらでも三枚目になって良いと思います。

また、1897年に外務省委嘱によるタイ国政府法律顧問としてタイに渡った政尾藤吉が、1905年に慶応義塾で行った講演が、「慶応義塾学報第93号、明治38年8月『暹羅の話』」に収録されており、それを紹介してくださっています。これがまた面白い。

「陛下から直に勅命が下って大鳥氏に暹羅に往って来いと言ふ訳で、大鳥圭介氏は暹羅へ参った。(中略)大鳥氏の書物には其時分に暹羅の首府の磐谷府には陸に路が無く、至る処草茫々と生えて居て、何処へ行くにも船に乗って河に沿って往ったと言ふ。(中略)併し大鳥さんの本を読んで、さう云ふ野蛮な陸に道のない所へは家の娘を遣る訳には往かぬと云ふので、或る人31年に縁談に失敗したと云ふ事情も成る程と分かるわけです」

暹羅行きは明治天皇からの勅命だったというのは良いとして。
…大鳥さん、図らずしも、一組の夫婦の縁談を破談させてしまったようです。
なお、この「或る人」とはおそらく政尾藤吉氏本人のことだろうと、吉田氏は仰っています。
縁談がおシャカになっても、大鳥氏に重きを置いている政尾氏は、人格者だと思います。
なお、暹羅紀行だけではなく、上の伊藤への書簡にて大鳥は、

「流に沿ひ多く人家有之候へとも、大抵水上に竹を架し屋を構へ椰子樹の皮にて屋根を葺き、いかにも貧弱の姿に見受申候」「川の両岸にありて地形甚卑く陸上といへとも大抵沼沢の如くにて、住居の健康には甚害ありと被存候」

と書き送っているので、大鳥は、バンコクの住宅環境についての印象を、日本政府内で悪くしてしまったのかもしれません。

気持ちは分かりますが。ただでさえ常夏熱帯雨林。水の傍はいっそう蒸し暑いし、マラリアは蔓延しているし。クーラーも冷蔵庫も無い時代、食べ物はすぐに腐るし、汗は流れっぱなし。江戸時代から清潔好き日本人には大変でしょう。サバイバー体質の大鳥さんは全然大丈夫だったと思いますが、くだんの縁談の娘さんは止めて正解だったと思います。


そんなわけで、久しぶりの大鳥語りでハイテンションになっています。まだまだ長くなりそうなので、この当たりで、眠さに負けて一区切りします。

では、また明日。
posted by 入潮 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

日本タイ交流史と大鳥 その2

桜が咲きました。皇居の周りのソメイヨシノは、日当たりによって2割から満開、それぞれ開花具合が楽しめます。
晴れた千鳥が淵、あたかも極楽浄土の如し。嗚呼年度末残業さえなかりせば。

先週は、Tさんをお呼び立てして、西暦換算した大鳥さんの誕生日を祝ってきました。誕生日は、飲みたい口実ですが。楽しかった。Tさんのウィットに富んだ語り口から大鳥さんの名前が聞けると、それだけで幸せになり、テンションが上がります。

飲み屋ではなぜかレッドクリフ特集をやっていて、メニューにその関連の名前が付けられていました。おかげで話題の半分以上はそちらに掻っ攫われてしまった。便乗商売は、けしからんです。赤壁炎上うどんは美味しかったのも、けしからんです。ラベルではなく味で勝負してほしかったです。


…続きです。「大鳥圭介の訪ねた1875(明治8)年頃のタイ」

本稿は三回構成で、第二回・第三回で暹羅紀行の中身を掲載しているのですが。「暹羅紀行の構成、読みどころ、文体」として、本文に入る前に、暹羅紀行と大鳥圭介自身の紹介をしてくださっています。
この紹介文そのものが、私にとって、読みどころです。

「本の構成は、和本3巻、及び大鳥がタイで買い求めた地図から成る。日本人による初のタイ地理誌ないしはタイ事典といえよう」「タイに関しては他に類書がなく、出版された後明治期には相当読まれたことは、前出の政尾藤吉の公演の中にも出てくる。1922年『暹羅事情』、1929年『暹羅国情』など、大変に優れた同筋のタイ事典が出版されたが、項目の作り方など、本書の影響を受けていることが分かる」

まずは、当時における暹羅紀行の位置づけ。
日本人が書いた、初のタイの地誌・事典、という所に、まずはこの暹羅紀行の特色があります。そして、その後の紹介文献類の構成が、本書に影響されているとの由。

だいたい、報告書を作る際は、似たような調査の前例をテンプレートとして作ることが多いです。そして、その前例となるものを作る作業が、一番大変なのです。大鳥さんは、様々な分野で、いわば活性化エネルギーのように、最も力の注入が必要となる最初の反応を、担っていることが多いです。

それで、本当にこの暹羅紀行が、タイを紹介した最初の文献だったかどうかについてですが。

デジタルライブラリには、明治7年にウィルレム著、阿部弘国訳の「和訳地理全誌」の中に「暹羅国志」というのがありました。当時の世界の国々を紹介した本の訳文です。ただ、タイについて触れているのはほんの2,3ページで、伝聞を元に書いた導入というものでした。前知識としてあるだけ良いという感じものもです。

それより前、江戸末期の1860年には、「萬國綜覽」(万国総覧)という、諸国の位置、面積、首都、政治形態、人口、宗教、陸軍、軍艦数、商船数、産物、有名地などをまとめた一覧表が訳されています。その中に暹羅があります。
訳者は大鳥圭介。このとき、幕臣取立てより前の、阿波藩家臣時代。

いずれにしても、他国からの訳書であり、各国の羅列的なものでした。
本邦の人間によって調査し、本格的にタイを取り上げて紹介したものは、「暹羅紀行」が初めてであると言って良いかと思います。


そして「暹羅紀行の謎」として、著者は以下の疑問をあげておられます。

「大鳥自身、どういう理由で、何の目的で、何故彼が選ばれてタイを訪問したか、そしてどのような成果があったのか、政治向きの報告が本書にはいっさい書かれておらず、本書が一般人に読まれることを意識して書かれていることである」

「普通に考えると正式国交の無い国に、大鳥ほどの人物がオーストリア公使に随伴して、タイの国王に謁見し外務大臣などとも会食しているので、少なくとも事務レベルでは日本とタイとの条約締結について下話程度を交わしていても不思議は無く、それらを綴った文書があったと考えるべきであろう。不思議なことである」

なるほど…と、目から鱗。このあたりは、外交筋の方ならではの、ものの見方だと思います。

そもそも、大鳥らの出張は、それが官費で派遣されたからには、行政上の必要から行われたと見るのが自然。当時四等出仕なので、今で言うと局長クラスの高官ですから、単なる物見遊山ではありえない。ただ、メンバーは工部省の大鳥以外は大蔵省の方々なので、将来的な通商条約を結ぶための経済産業や制度にかかる情報収集が目的で、予備調査的なミッションだったのではないかと思います。制度は大蔵の方々、産業やハード面は大鳥が担当した、というところではないかと。外務省の方がいないので、条約はじめ外交云々の話は、オフィシャルに進めることはできず、議論されたとしても決定は持ち帰りだったのではないか。その辺りが、著者の方が疑問に思われているように、政治向きの報告が含まれていない理由ではないかと思います。

また、大鳥らの、若きラーマ5世との謁見記録に、著者は価値を置いています。

「ラーマ5世が2度目の即位式後、チャクリ改革に乗り出す前の微妙な時期の宮廷の状況を実に上手に捕らえている」

ラーマ5世ことチュラーロンコーン大王。国立大学の名前にもなっている、タイの名王です。即位後に中央集権国家を作り、官僚制・議会制度を導入、学校教育の開始、通信や列車の整備を行うなど、近代化を果たしたタイの名君です。フランスがカンボジア・ベトナムなどインドシナを片っ端から植民地化した際に、この王様が改革を遂げ、特に陸軍を近代化していたことがあり、列強の植民地化の魔の手を退けられた功績は大きい。

そのラーマ5世に大鳥らは謁見しています。

「当時のタイの政治状況を大変正確に把握して、そのうえで問答が記録されている。おそらくラーマ5世とのやりとりはもう少しあったのではないかと思われるが、実に上手に編集されている気がした。また、外務卿との会話内容の詳細は残されていないがどういうことが話されたのか知りたいものである」

謁見記録は議事録として、簡単に示されているのですが。詳しい内容を、私も大変知りたいです。ラーマ5世の改革は、明治政府の諸改革と似通った点が多いので、大鳥らにとっても大いに参照するところがあったでしょう。逆に、ラーマ5世も日本のことをかなり知っていた模様です。

この時の会話は、シンプルですが、とっても含蓄深くて良いものなので、別の機にご紹介したいと思います。

外務大臣との会話内容が残されていないというのは、大鳥らに外交を進める権限がなく、公にすると憚られるものがあったからではないかと思います。テクニカルな面は結構個人ベースででも話を進められるのですが。古今、外交マターは、できることできないことの縛りが大きい。こうしたほうが良いということも、個人の裁量ではできず、わざわざ本国指示を仰がねばならなかったり。決められた仕事項目以外の事をしてはならなかったりする。大変ややこしいです。

それで、著者は、タイ訪問ミッションの目的を、以下のように推測しておられます。

「タイの輸出品目と其の原価・税率、バンコクの入港と航行に関する規則などを詳細に調べて載せている…明治政府の関心ごとが、日本とほぼ同時期に開国したタイの貿易の状況と移民にあったことが明瞭に読み取れる」

政府の関心が移民にあった、という指摘は、一つのポイントかと思います。
明治政府はあまりにガバナンスがしっかりしているので、時々忘れかけるのですが。
この頃の日本は、貧しい発展途上国でした。
貧しい国ほど、移民は多い。豊かな国は、賃金が高く、職がある。アメリカは世界で最大の移民受入国です。2003年「国際開発と移民」(国連)によると、アメリカで3840万人、ロシアで1210万人、ドイツは1210万人が移民を受け入れています。
日本は、明治元年5月のハワイへの約150人に始まります(これは明治政府非公認)。

「海外殖民の事業は目下内外に対する一大急務なりとす。蓋し外に在ては国民の品位を改良し内に在ては社会の生計を補助するは、此事業を措て他に其比を見ざるが故なり」(「移民課設置意見」郵便報知明治24年8月5日)

と、殖民は一大急務とされました。この意見書を書いたのは、外務大臣となった榎本武揚。移民課を設置し、メキシコに、コーヒー園のための殖民を送る活動をしていました。コーヒーは当時から世界商品でした。内閣解散で大臣の職を解かれた後も、榎本は、1893年に「殖民協会」を結成して、私財を投じて支援していました。

移民、殖民は、海外における国の位を上げ、日本国内の生計の助けるための政策でした。榎本のブラジル殖民は、1897年3月に34名がメキシコのチアパス州を目指し品川港を出向。しかし、その産物となるコーヒーが、国際価格の暴落の憂き目に遭い、移民集団は数ヶ月で解散したという結果でした。これはタイミングが悪かったわけですが。再び1908年にブラジルへ向けてコーヒー栽培の移民が送られ、現在におけるブラジル日系人の祖になっています。

日本から他国への1950年代まで移民は続いていました。日本が逆に移民を受け入れるようになったのは、つい最近のことです。

移民による仕送りは、一つの国家財政を支えるほどの産業だったりします。例えば今でもフィリピンは、GNPの2割は出稼ぎ者による海外からの送金だという話もあります。

話は本筋から逸れましたが、移民という一つの政策との関連を見ても、暹羅紀行は、大鳥の、日本の産業の成り立たせゆく当事者としての活動の一つであったことが、窺えます。

ただ、公式にタイと国交が結ばれ日暹修好宣言が締結されたのは、1887年。大鳥らのタイ訪問から12年が経っています。何故これだけ時間がかかったか。大鳥らの訪問から直ぐに正式な外交団が派遣されなかったのか、という疑問もあります。

ぶっちゃけてしまえば、日本の外務省は不平等条約改正に躍起になっているころで、東南アジアの新しい国交の開拓は後回しされていたと、その辺りのシンプルな理由ではないかという気がしないでもないです。

あと、外交に直結しなかったのは、ミッションに外務省の生え抜きがいなかったので、継続して外交筋でフォローできる人がいなかったというのもあるかと思います。調査団の頭の大鳥さんはこの後、工学頭と製作寮と内務省勧業寮を兼ねるという激務に叩き込まれますし。

木戸孝允日記の明治八年四月十五日の記述に、「宮内省に至る、今日大鳥圭介召出、□□の風俗形情、同人見聞せし処を、一々於御前陳述せり」とありました。時期柄、この□□は、間違いなく暹羅でしょう。
出張は陛下の勅令でしたので、陛下へのご報告はしっかり行われたようです。

「大鳥訪タイ後の10年間は、両国とも縁の薄い関係にあったのが実態だろう」

「明治20年ごろまでの東南アジアへの日本人の進出の実態や、表舞台での外交の流れを大きく眺めてみると、1875年の大鳥の訪タイが実は飛びぬけて早い時期に行われた事が理解されよう」


最も必要とされる時期の20-30年前にやってしまって、しばらくその成果が宙ぶらりんになってしまい、先覚者先導者としての名声をいまいち築き切れないで終わってしまう。
これは活字や工業新報や石油にもいえることで、共通した大鳥のあり方のように思います。
だからといって価値が無いわけでは決して無い。むしろ、見えにくいけれども、最初の一番難しい、道なき道を歩いて、後続者に指し示すものを残した。その価値ある活動をしたのが、大鳥という人なのでしょう。

そして、暹羅紀行の本分が抜粋されているのですが。この抜き出し方、原文を大変尊重してくださっています。それに際する著者吉田氏のコメント。

「江戸のくずし字いろは仮名が使用されているので、慣れるには多少の時間を要するが、大鳥は、多くの書を残した分筆家でもあったので、簡潔、明瞭な文体で、慣れれば読みやすい」

「出来るだけ大鳥圭介の達意の文体を残すよう工夫した」


達意:自分の考えが十分相手に理解されるように表現すること

どれだけ名文であろうと、文法が異なる現代人が読むのですから、現代文に直すほうが読者は読みやすいのは確かです。当時の文体であるだけで、読者の8割9割は避けてしまうであろうことは予想が付きます。

そうであることは分かっているのに、原文をそのまま残したくなってしまう。
大鳥の文章には、不思議な魔力があると思います。
…思うのは勝手ですよね。

なお、本ブログにて頻出している「と思います」という表記は、多分に主観が入っているため、内容の真偽についてはお気をつけください。

マニラの状況についても詳細な記述があるけれども、本筋から外れるので「残念ながら省略する」としながらも。

「ただ、煙草工場見学のくだりは、大鳥の工場経営に関する見識の深さを十分に示すところで、実に面白いので以下に紹介する」

といいながら、タイ・日本関係とは関係のない、フィリピンのマニラの現況をそのまま原文を載せています。気持ちはとっても分かります。

以下、もう、口を差し挟みません。著作権上「引用」の範囲を超えてしまったらごめんなさい。でも、この大鳥評価の的の得ぐあいは、大鳥ファンたる者、そのまま上げずにいられません。

「帰国後の6月には本書が出版されている。帰途20日近い船旅を航路しても、僅か2ヶ月で収集した資料を整理し、大部の報告をまとめ、出版に至った関係者の能力の高さには敬服する」

「描写は実に淡々としていて冷静な書き振りである。このような観察眼が全編を通して読み取れる。当時の人々に広く読まれたゆえんであろう」

「1875年当時、およそタイの旅行案内など日本にほとんどない時代に、どうやって予備知識を仕込んでタイに向かったのか、またどのようにして情報を集め、詳細にメモを残したのか研究者として知りたいものである」

「写真が普及し、昔のタイを見ることが出来るのは20世紀になってからで、それ以前の写真などは本屋で探すのも大変で非常に少ない。そんな中で、大鳥の風景描写など読んでいるとイメージが沸いてくるから不思議である」

「19世紀後半のバンコクでの住民の生活ぶりが活写されていて実に面白い。我々日本人にしても、今日江戸末期から明治初期の庶民の暮らしぶりを殆ど忘れているように、おそらくタイ人にとってもセピア色の写真の世界に引き戻されることと思われる」

「19世紀後半のタイ国の産業・貿易構造を調べている研究者にとっては、超一級の資料である。」

「個々の輸出商品の原価、数量から各種通商法制に至るまで実に克明に記載されている。日本にとっては当時貿易先進国であったタイの通種尾の状況を詳しく知りたかったのであろう。少し加工すれば、何本かの論文がすぐに書けるほどスグレタ資料である」


…どうですか。
そう、そうでしょう、そうなんですよ、誰かに言って欲しかったんですよ。
と、机をばしばし叩いて悶えたくなりました。

大鳥の調査方法を、研究者として知りたい。まさにそうです。
「スグレタ資料」と、片仮名表記なところにまた、感情が篭められています。

今の調査なら、世界銀行やWHOやFAOやJICAなどの既存の国際機関のサイトを漁り、年鑑や各国統計資料、類似の調査報告書を網羅すれば、それなりに前知識はつき、なんとか、もっともらしい一般的なことは書けます。

けれども、当時はそんな便利なものはなかった。コピー機もFAXも無い。その中で資料を収集し、皆が必要とする情報を纏め上げるのに、どれほどの難度があることか。その手腕こそが、仰ぎ見るところだと思います。

「全体を通しての大鳥の旺盛な知識欲と正確な観察眼に、筆者はいたく感心した次第である」

本論文全体を通しての、著者の方の大鳥への旺盛な関心と正確な評価に、私はいたく感心した次第であります。

…すみません。
もちろん、著者の方にとっての重要な点は、日本とタイの交流の歴史を紐解くことであり、大鳥と暹羅紀行はその中での事象の一つに過ぎないわけですが。それだけいっそう、大鳥さんの紹介のされ方が嬉しかったのでした。

大鳥さんのように、客観的に冷静に淡々と書いたほうが説得力は出るとは弁えておるのですが。このように大鳥圭介氏が好きな方に出会えてしまうと、ついつい箍が外れてしまいます。困ったものです。

というわけで、この文を読んでしまうと、もう、暹羅紀行、一から読み尽くさずにはいられない。そんな気になってきませんか。きますよね。気のせいだなんで言わないで。興味をお持ちいただけましたら、デジタルライブラリへ一直線なのです。

それにしても、デジタルライブラリといいアジア歴史資料センターといい、ここまで公開されてしまうと、もはや資料は貴重、というものではなくなってしまった。もちろん、オリジナルの存在は貴重であり、一片たりとも損ねられてはならないものですが。

在所を知っていることや持っていることには、もはやたいした価値はない。肝要なのは、それを如何に読み解き、そこから何を掴んで自分の認識とするか、自分の口で語ることができるか。その、形は無いけれども実となる部分なのではないかと思います。

いつでも読める形になってしまうと、それを理由についついほったらかし、後回しになってしまったりするのですが。
そんなこっちゃいかんなぁと、天を仰ぎ見るのであります。

怠惰は楽ですが、集中には楽しさがあります。

…といいながら、土日を寝て過ごしてしまい、ポストが年度を跨ぎそうになりました。まずは言行不一致な手前を蹴り飛ばすところから始めておきます。
posted by 入潮 at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。