2009年06月08日

歴女ブーム

とあるサイトで「歴女とシャドーボクシング」というフレーズを見て、噴き出してしまいました。わが身が痛くて痒くて。

歴女は、こちらによると、「歴史好きの女子」という意味で、三国志や戦国や幕末などが好きな女性の方々ということです。マスコミで頻出するようになりました。「歴ドル」なんて言葉もあるようです。
この定義に沿うと、私も歴女になります。女子という年齢かどうかは、置いておいてください。女は、たとえ皺枯れて姥捨て寸前になっても、女子と呼ばれたい生き物なのです。

閑話休題。もっと言うと、ここで言う「歴史」は「歴史をモデルにしたゲーム・映画・ドラマ・漫画・小説などのエンターテイメント作品」のことであり、「歴女」はその女性視聴者・お客様たち、という感じかと思います。「時代屋」さんは、この不景気に時機を得たビジネスで、たいそう成功されていることと思います。

歴女が増えるということは、要は歴史エンターテイメントビジネスが増えたということでしょう。歴女は、それに裏打ちされたファッションの一つであると言えます。

一方、「シャドーボクシング」は、ネット上のスラングになりつつある言葉です。自分の意見や趣味や思想に対して、別に直接攻撃されてもいないのに、批難されていると仮定して、やや被害妄想気味にけんか腰で論じている姿を指します。それが、仮想敵と戦っているように見えることから生まれた言葉かと思います。あるいは、戦う相手は自分の影であり、敵と見なしている姿は結局自分自身だ、ということを強烈に皮肉っている場合もあるかと思います。

この「歴女」が、その言葉が生まれる前から歴史ファンである女性たちの顰蹙を買っている例が散見されます。
ゲームのキャラクターを実在の人物と混同したりアイドル化したりする姿勢が軽薄であり、史跡訪問やお墓参りのマナーのなっていない姿が、問題にされているようです。

心ある歴史ファンたるもの、そんな連中と一緒にされるのは嫌だ、ということのようです。

もちろん、すべての歴女の方がそうではないですし、中には真面目な関心と良識で行動されている方も多いと思いますが。

確かに、史跡で騒いで静謐を乱したり、落書きしたり、場所を弁えず記念撮影したりという場に居合わせると、私も面白くはありません。またエンターテイメントにつき物の、キャラクターのデフォルメやでっちあげにより、好きな人物の品位が貶められて、哀しい思いをしたことは幾度もあります。現実の記録はどうでもよく、ただ自分の好みの偶像を作ってその人物に押し付けているだけ、という姿勢も、寂しい限りです。

ただ、「シャドーボクシング」と揶揄されてしまうのは、「私は歴女とは違う!」 「歴女は勘弁!」と声を荒げて歴女を批難することそのものも、また、失笑されてしまう行いであることを示しているかと思います。

史実に詳しかろうが、長年活動していようが、温度が異なっていようが、マナーの面で違いはあろうが、本質は同じだ、という冷めた視線もまたある、ということでしょうか。

自分を歴女と区別されたがらなくても、地に足の着いた実質的な史料を元に、書く事を書く、言う事を言っていれば、周りは自然、分かってくれるのだろうと思います。


だからというわけではありませんが、私は、歴女の方々が増えること自体は、喜ばしいことと思っています。

産業の少ない地方にとっては、歴史産業の消費者層が増え、地方にお金が落ちるのは大歓迎かと思います。故人の遺産を利用できるのは、子孫地元の特権でしょう。もちろん、エンターテイメント方面を重視しすぎて会津のようになってしまうのは哀しいことですが。
そうしたお金が巡りめぐって、入場料や税金として、史跡保存や博物館、図書館の史料保存に用いられるのですから、どんどん増えれば良いと思います。
せっかく、我等が政府が血を流した定額給付金。ここにこそ注がれるといいなと思います。


数年前、新選組が大河ドラマになるという話が出たばかりの時のこと、それで大鳥ファンが生まれる可能性がどのぐらいあるかと、以下のような計算を行ったことがありました。

0) 日本人の人数:1億2千万人
1) 0)の内、新撰組大河ドラマを見る日本人の割合、α:視聴率10%
2) 1)の内、土方歳三興味を持つ方の割合 、β:割合1/3
3) 2)の内、小説・史料を漁る方が生まれる割合、γ:確率10%
4) 3)の内、大鳥を調べる方が出現する割合、δ:確率1%
5) 4)の内、コアな大鳥ファンとなる割合、ε:確率0.1%

ここに、大鳥ファン存在確率計算式を適用。

大鳥ファン出現人数 N = 120,000,000 x α x β x γ x δ x ε
= 3.00

(参考:ドレイクの方程式(宇宙人の存在確率計算式))

以上により、三人の大鳥ファンが現れると結論付けたことがあります。
結果、私の計算は、嬉しいことに、滅法外れました。εの値をかなり低く見積もっていたようです。

ええと、言いたいことは、大鳥ファンは宇宙人だということではなく。馬鹿を真面目にやるのは、たまなら楽しい、ということでもなく。

最初の母体人数αの数は、大きいに越したことはないということです。

エンターテイメントが増えれば、それだけ、虚構と事実は違う、ということに気付く方も増えるはずです。楽しい虚構が入り口となり、もっと楽しい事実に接する方が増える。そのための門戸が広がるのは、良いことだと思います。

創作会をやっておいて言うのも何ですが。創作のエンターテイメントよりも、大鳥さん自身の人生が濃く面白いのですから。自然にいやおうがなく史実好きになるでしょう。

そうした作用で、在野の研究が進み、新たな発見が行われるなど、反作用的に進めば、その進歩は大万歳だと思います。


ということで、私は、歴女ならぬ大鳥女が増えてくれればいいなと思います。
そして、生家保存のために、上郡町さんにと保存会の方々に募金をしてくださる方が増えれば良いと思います。これが言いたかった。


シャドーボクシングの戦いは不毛です。何も生みません。人類皆兄弟という言葉は非現実的ですが。不毛な戦いに力を費やすぐらいなら、「歴女のマナー」などまとめ発信されるなど、いかがでしょうか。
「歴女なんて!」と大上段から窘められるよりも、「私も歴女!」と言いながら「でもこうしたほうがいいよね、皆楽しいよね、持続的だよね」と行いを足元から持ち上げていくほうが、有益なんじゃないかと思います。

自発的なつつしみや心がけが広まれば、歴女と従来の歴史ファンも、良い仲間になることと思います。
そして、そうしたマナーは、私もわが身の心得としたく思います。

といいつつ、歴女。今年がすぎればもう死語になるんじゃねぇの? という声もあり、残念ながらそれは全く同感だったりもします。ファッションとはそういうものですし。

けれども、どうせなら、歴女というラベルを、我が身を飾るアクセサリーにするのではなく、血と肉にして己の価値観と感性を陶冶するところまで、のめり込んでもらえればなぁ、と思うのです。

そこで、歴女をシャドーボクシングの対象とするのではなく、新たな同志としてお迎えする度量が、歴史ジャンルの発展のためには求められているのではないでしょうか。虚構のエンターテイメントだけではなく、本当の人物の織り成した深みと複雑さと世知辛さとそれゆえの面白さを、語り、知っていただく。一人の歴史ファンの方が、一人の歴女をコアなファンとして育てて下されば、それで歴史ジャンル人口は倍増です。

もちろん、それは大変な労力です。わかってくれないことや、感覚の違いに涙することも多いでしょう。こちらで触れた、ガンダムとSFの例のようになってしまうことは、目に見えている気もします。

ただ、もともと歴史ジャンルはファッション性とは相反する性質があり、面子にも流動性があまりないという特質を持っています。新しい風は、どんなジャンルにも、存続のために必要です。
新しい方を歓迎し、より深い道にのめりこんでいただくための働きかけは、それもまた、ファンたるものの活動の一項目ではないかと思います。
私も、そうした先達の方々に、育てていただきました。
…育った結果がこれか、というのは置いておいてください。


歴女を歴女とみなして終わるのであれば、歴女は歴女のまま去っていくのみであるかと思います。

どんな形であれ、問題になるのは副作用のほうであり、本質は我等が国への愛着を育てる良きことなのですから。せっかくのブーム、大切にできればいいなぁと思います。

posted by 入潮 at 03:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

制限の無い時代

おかげさまで、如楓会は、6月8日のPDF冊子配布を以って、無事終了しました。

Jofukai_specimen.jpg

70頁を越す、ファンの方々の大鳥圭介への愛にあふれた素晴らしい一冊となりました。
どの頁を見ても、必ず大鳥圭介がいます。文字なり絵なり。青年、壮年、老人、死後までいます。適塾も江川塾も幕府も伝習隊も家族も英国も工部省も工部大学校も元老院も。ここまで広い時代にわたって一気に一冊に収まっているのも、すごかったです。

参加者の皆様、応援くださった方々、本当に、ありがとうございました。

各参加者様には、それぞれの作品をウェブページや同人誌などで積極的に発表してくださいますようお願いしました。もともと、一作品でも多く大鳥作品が世にあり、それを元に大鳥圭介への愛着と認識が深まれば良いなという想いからの企画でした。アンソロジーなどでは、それ以外に掲載しないことを以って献身を示す慣わしもあるようですが。企画者としては、作品が様々なサイトでお目にかかれるようになることを切に望んでいるのであります。

冊子自体は参加者の方への配布とさせていただきました。ただ、参加者の方がお友達に差し上げるなどは、私の関与する所ではありません(笑)。


いっそ、国会図書館に寄贈してみたくなりました。
国会図書館にひとたび登録されれば、国が半永久的に保存してくれます。
21世紀サブカルチャーの一つの形として、文化的にも意義があるのではないかと、私は結構本気で思っています。
NDLの検索で「大鳥圭介」と入れると、引っかかるようになり、閲覧申込みするとカウンターから出てくるのです。

さすがに、それは参加者様に嫌がられると思いますが。近江屋さんに打診した所、殴られそうになりました。よって、しぶしぶ自重します。

一方、デジタルライブラリに出てくる大鳥圭介は、もっとすごいのがあると思います。
こういうのとか。

koumeizouden.gif

「高名像伝」より。
大鳥さんが、どう見ても夜盗です。ムササビのように飛んでいきそうです。
こういうのも、ちゃんと100年後に残っているのですから。如楓会冊子も100年後に残されてみても良いと思います。

いや、時代それぞれに文化と創作の形があるなぁ、ということが言いたかったのです。


現在は、創作において、これまで存在していた、経済的な制限と、空間的な制限が取り払われた、とても面白い時代だと思います。

まず、経済的な制限、つまりは費用についてですが。例えば、今回の冊子は、元手はほとんどかかっていません。プリントのインクと当日のお菓子代ぐらいです。そして、労力という名の人件費は、趣味においてはむしろその労を費やすこと自体に価値があるので、仮に今回の収支を経済評価すると、人件費は費用ではなく便益にカウントしても良いぐらいです。

本来、出版は経費がかかるものでした。版を作り、紙に印刷するという作業だけで相当な投入が必要です。昔は、活字を組む職人が一つ一つの字を手で組んで版を作っていました。人一人が本を出版するというのは大変な作業です。一般に向けて何か考えを述べたり発表したりというのは、ほんの限られた人の特権でした。お金という対価があって初めて可能になることでした。かかる経費を回収して儲けにできる作品を作れる人か、或いはその経費を自分の懐から出す覚悟がある人にしか、出版はできませんでした。

これを、経費をかけずに出版を可能にしたしたのが、PDFです。プリントを、アナログの紙ではなくデジタルなファイルに行うPDFの概念は、かなり画期的なことだったと思います。そこから編集ができなくなるという意味で、PDF化の時点で原稿が最終化し、紙と同じ意味を持ちます。

紙の文書は、変わらず残るものだから価値があるし、事実の根拠としての力が生じます。
Webはいつでも更新可能だから、便利な反面、信頼性に欠けます。だから、例えばWikipediaなどは論文や報告書の根拠には使えません。
一方、最終化してオーソライズした形のPDFにすることにより、これが、事実の根拠として効力を発するものになります。現在、国連や各政府の文書や報告書も、PDF化が進んでいます。これにより、各機関のオーソライズを担保した上で発信し、コストをかけずに世界中と共有することが可能になります。

もちろん、今回は、そういう根拠としての変わらぬ価値うんぬんの、たいそうなことを考えながらやったわけでは全くなく、単にこういう形もありだなー、という思いつきに過ぎなかったのですが。
PDFは、確かに、変えられないから残したい、という方向性を与えるものではないかと思いました。

手前のように、どこにでもいる普通の一般人が、作品として後に残るものを作る力を持てるようになったというのが、面白いことだなぁと思った次第です。


そして、もう一つの空間的な制限について。

昔は、趣味をはじめるにしても一人で、仲間を見つけるまでが大変でした。私は昔からオタクで、星キチ+TRPGゲーマーという業の深い人種でした。それらを共有できる友人はなかなかおらず、雑誌のサークル募集を探しては少ない小遣いをはたいて、海を越えて渡って仲間を求めたわけでした。時間もお金もかかり、そうさいさいと遊ぶわけにはいかず、どこでもドアが心の底から欲しかったものでした。

ところが、ウェブが、同じ趣味を持つ仲間との繋がりを持つことを容易にし、ネットの繋がりによって物理的な距離をゼロにしました。つまりは空間的な制限が無くなりました。

一方、創作は、本来は自分と向かい合う、孤独で求道的なもので、自分の動機との戦いでもあります。やったところで金が稼げるわけでも、誰かの役に立つというものでもない。その時間を仕事に費やせば金になるにに、それをしない。それでも行うのは、ただやりたい、作りたい、という内的な動機がなせる業でしょう。そして、動機が枯渇するとそれでおしまい。

この動機を持続させるのが、その創作を喜んでくれる他者の存在かと思います。

創作物に対する読者・閲覧者からのコメントが、「お米」と呼ばれているそうです。お米は栄養(=創作のためのエネルギー)、かつ、生きていく(=創作を続ける)ために必要なもの。お米がないと、餓死する(=創作を止めたりサイトを閉じるたりする)ようになる。

非常に的を得た言い方だなぁと思います。

これまでは、同人誌と手紙というアナログな形で、限定的ながらもそうした趣味を共有し創作物を分け合える他者との繋がりはありました。ただ、手紙にしても時間がかかりますし、距離的空間的な制限は大きかったでした。

一方、PCが家電化して、インターネットがインフラ化して、誰も有して当たり前になった。同じ趣味を共有する方との繋がりが、空間的制限なしに得られて当たり前になった。
そして、メール、BBSやコメント、拍手などの機能により、感想を伝える手間が、手紙に比べて相当軽減された。お米を届けやすくなった。

余談ながら、それで価値が出すぎたのが、ネトゲかと。仕事そっちのけや育児放棄してまでのめりこみ、ネトゲ廃人という言葉が生まれるまで、人を惹きつける。それは何かというと。願望投影とコミュニケーション、つながりといったものに、人は時間というとてつもない対価を支払うという証かと思います。

そこまで行くと行き過ぎですが。それだけ、人と人のインタラクティブな作用は、人が時間と労力を注ごうという動機に対して、働きかける力が強いのだと思います。

趣味は、いくらひとたびは熱くなっても、一人ではいずれ飽きるもの、という性質は否定できません。同じ動機、同じ深さを持つ仲間というのは、持続性のためには不可欠でしょう。


そういう、経済的制限、空間的制限の二つが取り払われた今の時代だからこそ、如楓会ができたのだと思います。そうでなければ、如楓会どころか、とっくに自分は動機を失っていたことだと思います。本当にみなさまのお陰です。

こうした技術とインフラの恩恵で、今のサブカルチャーはものすごく発展したと思います。これは十分文化の変遷に値すると思いますし、100年後はこれが研究対象になるのではないかと思います。純粋な表現技術だけではなく、消費者心理やマーケティングや、コミュニケーションや発達についても。それから、ネットが役割を果たした近年の歴史回帰も、日本人の意識の変遷としては意味が大きいことかと思う。

そういう流れの影響を受けた一つの些細なものとして、如楓会冊子の国会図書館寄贈を思ってみたわけです。
もしここのコメント欄で誰からも反論がこなければ、本気でやってみましょう。

…という、暴力的恐喝的な誘い受けで、お米を奪い取ろうとする行いででした。はい。

勿論、それをやると来年の参加者が皆無になってしまうことは目に見えていますが。いや、「来年も参加してくれないと、寄贈しちゃうぞ」と言ってしまう手はありますな。

などと、世迷いごとをほざきながら、山に入ってきます。今回はブータンです。雨季だ。ヒルの季節だ。鬱だ。


___________________

(追記)

上の国会図書館寄贈は、あくまで、参加者様に大反対されるのが分かっている上で、それ故にこう言えばコメントをもらえるのではないかというスケベ心が為した、与太話です。
本気で寄贈する気は全くありません。ご不安をおかけしてしまいましたら、申し訳ございません。
posted by 入潮 at 02:03| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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