2009年07月19日

Drag me up!

毎日激しい雷雨の、ラオスです。
ブータンから、一瞬だけ東京に戻り、そのままこちらに来ました。

日中は干上がるぐらい熱い。暑いではなくて、熱い。雨季のムシムシした空気に40℃以上の気温が重なって、天然サウナです。そして積乱雲が発達して、夕方は激しい雨に襲われます。

夜も作業漬けなのと、ネットの接続状態があまり良くないことで、ずっとアクセスできずにいました。回線が細くて、ページを開けてもタイトルで読み込みが止まる。本日ようやく、状態のいいネットカフェに入り込めました。更新がなくて、すみません。

以下は、先月にブータンで書いたまま、放置していた分です。見苦しい泣き言がありますが、いちおうピンピンしています、ということで。

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雨季のブータンです。うきうきしません。

親父ですいません。

今回はスタートから、渡航便はエンジントラブルを起こしてキャンセルになるわ、荷物はロストするわで、踏んだり蹴ったりな感じでした。エンジントラブルを空中で起こされて飛行機が墜落するよりはずっとラッキーだったと思いますが。

代わりの便の手配に航空会社のお姉さんが走り回ってくれて奇跡的に代替便に間に合ったり。のんびりのブータン人が、荷物ロストの手配連絡を即入れてくれ、数日後には届いたり。いつものことですが、自分の手の及ばないトラブルになると、人のありがたさが身に染みます。

ブータンから離れていたのは1年半ですが。それなりに変化は大きかったでした。
韓国の店が増えました。Hundaiのショールームがあった。一昔前は、インドのTATAか、Suzuki、お金があればToyota、というのがこの国の車トレンドだったのですが。この辺境の地まで韓国勢が押し寄せて、日本を凌駕しようとしている現実を見るのは、大変ショックです。

一昨年の新国王の戴冠式と選挙で新しい政府ができて、ここ数年のブータンの変わり様はめまぐるしいです。日本の維新期に匹敵するか、それ以上の国の変遷で、それを経ている真っ最中だと思います。道路やホテルが整備され、新しい政府組織や政府企業が設立されました。それにつれて、初めて見る新しい建物も沢山。戴冠式に間に合わせるように、かなりの突貫工事を行ったらしく、未だに残作業がそこかしこで行われています。

さらに、Talaという1000MWを超える巨大水力が運転開始。このおかげで一人当たりがGNPが、非公式な試算で、いっきに1,900US$を超えたそうです。もやはLDC(後発開発途上国)脱出です。
(但し現在はグレースピリオド(借金の返済が始まっていない猶予期間)に当たるため、返済が始まるとまたガタンと一人当たりGNPは落ちるとか。国の規模が小さいので、一つの事業でも国の経済への影響がとてつもなく大きくなる)

2020年をターゲットにしていた100%の地方電化も、最初は誰も本当に実現するとは考えない政府お題目だと思っていたのですが。更に2013年に100%電化に前倒しされました。今、急ピッチで電化が進んでいます。皆本気です。行動意欲にあふれています。

こういう成長気運にある社会だと、人間もとても活き活きしています。自分の2年後、5年後、10年後を予想して、展望を持って動いている人が多い気がします。そういう話題によくなります。昼食時に「お前の人生のゴールは何だ」といきなり聞かれて、米を吹きそうになりました。「墓だ」と答えてやろうかと思いました。今は墓どころか、死んでも腐るまで誰にも発見されない孤独死になりそうですが。そんな自分には、将来のある彼らがなんだかまぶしいです。自分の行動が着実に社会を良い方向へ変えていっているという確信が、皮膚の裏からにじみ出ている気がします。右肩上がりの社会は良いです。明治の官僚たちも、みんなこんな感じだったのだろうなぁと思います。

一方で、色んな資金が流れ込んでいるせいか、バブルめいた雰囲気もあります。街中には、タイの不良のような若者が増えました。にわかな豊かさを目のあたりにしたせいか、購買意欲が増して、車とPCが買いあさられています。また政府系銀行が手軽な小規模ローンを提供したりしているので、なおさらです。機能の良い携帯電話も、飛ぶように売れている模様。

どこもそうですが、携帯電話の質がその所有者のステイタスを決めるという一般認識があります。高くて良い携帯を持っているほど、豊かで格好良く、その人の格が高いということ。だからみんな、家計に無理をかけても良いものを買います。仕事用に一番安い携帯しか持っていない自分は、タクシーの運ちゃんにすら、プッとせせら笑われています。

国民総幸福量の概念を打ち出して、物質的豊かさより精神的豊かさを求めることで有名なブータンですが。他国の例に漏れず、物質への欲求は、増大中です。

それが良いか悪いかは、所詮他国の人間の自分が言って良いことではないなぁと思います。ブータンの未来を決めるのはブータン人です。

国民総幸福量の概念を提唱して、物質的豊かさではなく国民の幸せを追求するモデルとなっている国ですが。その国民の幸福も、水力発電による巨額の国家収入があり財源があるからこそ、成り立つものです。先立つものは必要。最低限の財源があってはじめて、幸せという悠長なものを求めることができます。
行き過ぎた利益を求める必要はありませんが。妙な幻想をこの国に押し付けたり、資金無しでも発展できるという変な誤解を持ったりすることのないようにしたいものです。

そんな、少し浮ついた感じの首都ですが、一方で田舎や山岳地方は、以前とまったく変わった様子はありませんでした。これから少しずつ、地方都市へ風潮は広がっていくのだとは思います。今が一番、国の過渡期、変遷を感じられる、面白い時期だなぁと思います。


今回のプロジェクトは、手前単独です。
自分の行動に自分が全て責任を取らないとならない。出発前は、他人の世話をしなくて楽でいいやー、などと、戯けたことを思っていましたが。今はそんな自分を後ろから蹴り飛ばしてやりたい一杯です。

今回、行き着くところまで来たなぁ、という感じです。
対象地は、地上のシャングリラと呼ばれるブータンの、そのまた奥地の奥地。ブータン人でさえろくに近づかない、修行僧のみが出入りするような険阻な現場ばかりです。そこに、エネルギー利用の新しい技術を持ち込むことになってます。

他人がやっているのを聞いたら、すごいなぁと思うのですが。
当人はその辺にどこにでもいる、体脂肪率が気になるメタボ寸前運動不足人間です。
体力も知力も精神力も時の運も要求されますが、それどころか想像力すらなく、どうすんべー、と呆けて途方に暮れている感じです。

調達も設置も輸送も知識が無くて、本日も、あるエンジニアの方が手前の甘さを叩きのめしてくださいました。そして、ようやくどのぐらい大変か理解できました。まだ実感まではできていませんが。

何か作ろうとするにも、複雑に絡み合った項目を一つ一つ進める。構造物が建設され、機器が導入されていくにも、確実性を求められ、説明責任がある。手前の生涯年収の何倍もの資金を動かして目に見える成果を残す。そこに要求される作業は相当な労力です。どんな仕事も、大変ではない仕事なんて無い、当たり前のことなのですが。単独になって初めて、その大変さがようやく身に染みてきた気がします。これまでは、同じ会社の方が誰かいると、相談すればいいし、何かあったら助けてもらえるという安心感がありました。つくづく、甘えていたなぁと思います。

そして今、胃の痛い思いをしている最中です。ベッドの上で、本当に自分にできるのかどうか、不安にのた打ち回る感じです。

その中で、「コイツに任せて本当に大丈夫なのか」と周囲の方も不安がっているらしく、いろんな立場の方から、有益なアドバイスをいただいています。

いろんな人に育ててもらっている感じです。情報とアイデアと資料をもらい、一つ一つ、少しづつでありますが、必要な知見をいただいています。
本当に、周囲の方に恵まれているなぁと思います。

能力がない分、周りにすがりつくより仕方がない、情けない現状に変わりはないですが。「知らない」ということは胸を張って言っても、「やれない」ということは言ってはならんと思います。

でも、「やってみましたけどダメでした」は言うかもしれない。今からそれを言ったらいかんです。

今回、自分への激励に、ipodを買いました。聞く曲は「重き荷を負いて」。地上の3/4の山の国の薄い空気の中ぜーぜー言いながら坂道を登っていると、この曲が身に染みてなりません。団塊世代の親父向けの曲に、涙が出てます。谷間に叫んでいます。「頑張ってェから死にたいなァ〜!」 のサビが頭に何度もこだまする。記事のタイトルは「這い上がれ」という感じの言葉です。曲中に「這い上がれ這い上がれと自分を呼びながら」フレーズがあります。自分でちったぁ頑張ったと思えるようになるまでは、這いずってでも死ねません。

質の良い携帯電話は金さえあればすぐに買えますが。自分の質を高めるのは、金ではどうにもならない。自分の苦しみと不安と葛藤と足掻きで、這い上がって乗り越えていかないと、人間の質は高まらない。生半可ではないと、しみじみ感じます。

幕末明治に限らず、今我々が目にする名の方々は皆、手前などとは比べ物にならない責任と重圧を背負って、知力体力精神力の限界まで駆使して、世に尽くしぬいたのだと思います。それを思うと、あらゆる派閥に関わらず、結果がどうだからこうだ、というようなことは簡単には全く言えなくなります。

とか何とか、何を酔ってるんだ、という感じです。
…と、泣き言ばかりも何なので。

ブータンは松茸シーズンがはじまりました。
松茸料理に、舌鼓を打っています。松茸とアスパラの胡麻和え、松茸ごはん、松茸スパゲティ、松茸ホイル焼き、松茸炒め物…とフルコース。

永谷園の松茸の味のお吸い物を持ってきていたのですが。ブータンの松茸は香りが足らんということで、これをまつたけご飯の香り付けに用いました。
ちなみに、永谷園のお吸い物のまつたけは、ブータンから輸入されていると聞きました。日本に空輸して、メーカーで脱水乾燥された松茸を、わざわざまたブータンに持ってきて、ブータン産の生の松茸と一緒に炊く。世界の照葉樹林帯の西の果てから東の果てまで旅した松茸の、炊飯器の中での再会。なんだかドラマを感じませんか。単なる無駄だなんていわないでください。

ちなみに、前述のエンジニアの方が料理してくださいました。私は見て食べているだけでした。
この方、厳しい方なのに、大変家庭的で子煩悩な方でした。可憐な三人の超能力小学生が主人公の漫画に出てくる主任にそっくりな方です。
何から何まで、他人に寄生しまくっています。


そんな感じでして、今年はほぼ出張ドサ周り状態です。更新頻度は、せいぜい月一度程度という体たらくかと思います。
時折思い出したときにでも、という感じで覗いていただけますと幸いです。


ラベル:ブータン
posted by 入潮 at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

歴史の懐


ネットを見ていて「観光史学」という言葉にしばしば遭遇します。

観光史学は、観光収益のために調整された歴史ということで、その調整事項には史実に見られない空想や創作が多々含まれる。であるのにそれを、研究者という肩書きを名乗る方が、恰も事実であるかのように見せかけて行う様が、顰蹙を買っている。それが「史学」と皮肉が篭ったネットスラングとして、結構な印象の言葉になっている。

観光史学の弁護をする気はありませんが、地方が歴史を掲げて収益を求めるのは、基本的に良いことだと思います。歴史は、石油や鉱物と同じく、土地の特有資源だと思います。それを利用するのは、地元の特権です。資源を利用するには、発掘作業が必要です。地元の歴史小説作家は、石油会社みたいなモノかと。石油王ほど儲かっている人はいないと思いますが。発掘して先に一般に広めてしまったモノ勝ちのようなところがあります。

それで、歴史石油王たる作家の方について言いたいことは、私にもいくつかあります。石油の品質に嘘はつかないで欲しいとか。

事実とそうでないことさえ明確に区別してもらえれば、私はそれで満足です。ベースラインとして事実がどこにあるのかが分かっていれば、そこからいくら誇張や創作されても、その想像力は楽しみの元になります。エンターテイメントと割り切れば、事実であろうがなかろうが、関係ない、という方も多いのではないかと思います。

もちろん、変な貶めさえなければですが。いくら創作と明言されても、その時代を精一杯生きて我々の社会の土台になってくださった方々が、根拠なしに人格を損ねられたり悪事が捏造されたりしていたら、そりゃ不愉快です。

歴史と歴史学は全く別なのかなと思います。

「学」とはサイエンスです。サイエンスは、根拠、実例、法則に基づいて、導き出される答え、結論がある、論理的なものです。証明可能なものです。歴史学は社会科学、ソーシャルサイエンスです。恣意的な作り上げは入る余地がありません。観光史学は、もちろん、このカテゴリに入りません。

歴史という言葉は、様々な場面で使われています。
歴史小説、歴史ドラマ、歴史ゲーム、歴史アニメ。メディアの数だけ歴史と名が付くものがある気がします。多くは真実を求めることより、娯楽が目的化しています。

これはメディアの発達した今の時代特有の話ではないでしょう、神話の時代も平家物語も、「昔あった事」というのは、散々に脚色や誇大化や捏造されて伝えられてきました。歴史エンターテイメントは、人が言葉を持った時から、存在していたでしょう。

「歴史」という言葉は、そのなんとなく厳しい語幹に反して、もっと包容力のあるあいまいな用語なのではないかと思います。「昔実際にあった(ことが証明される)事」だけではなく、「昔あったっぽいと感じさせる事」まで含んでしまう言葉ではないかと思います。
「歴史学」は前者のみ、「歴史」は前者と後者両方、という点で違います。

それで両者を混同してしまう人は、心ある方から嫌われてしまうわけです。

また、歴史は、上のサイエンスの流れでの「結論」ありきなのかな、と思います。

一般向け歴史は、どちらか戦争で勝った、負けた、誰が正しい、悪い。そうした分かりやすい結論を元に、作られていることが多いように思います。
けれども実際、資料をいろいろ比較していくと、必ずしも勝敗や善悪は白黒つけられない。むしろ調べれば調べるほど、二元論的な答えは分からなくなります。旧幕軍と新政府軍、どちらが悪い、なんてことは全く言えません。個々の人、個々の国の事情や、その時代ならではの考え方が有り、皆それに基づいて最善を求めて行動し、利害がぶつかり合っています。こういう事情があった、という実例が重なるほど、例外も見つかり、結論は多様になりえます。研究者によって結論が異なることも多いでしょう。

もちろん、いろいろ資料を集め読み込めば、統計的に一定の答えは得られます。ただ、定量的なデータがあったり、多くのサンプルが得られるとは限らない。細かくなればなるほど、多数のサンプルを集めることは難しくなる。1つ2つの資料の実例のみから、結論を引き出そうとしていることも多い。統計的には当てにならない小数の例から論じていることも多い。

よって、歴史学は、自然科学のようにはっきりした答えがあるわけではない。グレーというか白黒つけられない曖昧模糊とした性質のものではないかと思います。

なので、そこから何を掴んで結論として手繰り寄せるかは、研究者の好みや性格や資質によるところが大きい。別にサイエンスは答えが一つしかないものに限っているわけではありません。複数の結論があってしかるべきとは思います。

そうした歴史学のグレーな性質と、作り上げや思い込み、誇張が混じりやすいのが、問題になるのではないかと思います。

そして、何かを有利にしたい、感情に訴えかけたい、というような恣意的な作為まで入り込みやすい。少なくともそれは学問においては避けるべきというのは、他のサイエンスの分野では明確なのですが、歴史はとかく、そうしたものが混ざりやすい性質がある。

そこで、根拠によらない結論めいたものが、流布しやすい。
歴史娯楽は、正義と悪、勝敗という「結論」から始まりやすいです。というか、だれかが決め付けた作者にとって都合いい結論を前提に、色々と作られる。実例から辿るよりも結論ありきのほうが人口に膾炙しやすい。なので、娯楽ビジネス的に多数を惹き付けるためにはそうせざるを得ないという事情もあるでしょう。

実例や実証を経ない結論が基点なので、事実の部分があいまいなまま放置されてしまう。むしろ結論に都合の悪い事実は、目を瞑られることも多い。また、本当にあったこととそうでないことを並べたときに、歴史娯楽ビジネスに都合が良いほうが採用されてしまう。そもそも歴史像の提供者が本当かどうかという判断すら行わず、ドラマチックな創作がもっともらしく入れ込まれてしまうこともかなり多い。
だから、「昔あったっぽい」というあやふやなものまで、「歴史」には含まれてしまうことになる。歴史は、懐の寛い言葉なのだと思います。

ただ、歴史娯楽の小説にしても、本人の発言や論考や日記など実際の記録から読み取れる、性格や行動に即した文章であればあるほど、私は嬉しいです。そこがベースになって培われる想像力には沸き立ちます。けれども、この誰かが勝手に作った「結論」を刷り込まれたままに、それを大して検証せず、作者の営利的都合で次々に作り上げられてしまうと、それはなんだかなぁと思います。観光史学は、こうした事実に拠らない作者の都合による作り上げを、研究者の名前で行っているところが、攻撃される所以かと思います。

実際、ほとんどの方は、歴史と歴史学は、ちゃんと区別しているのではないかと思います。問題になるのは、それを混同する場合かと思います。

例えば、大鳥が土方を暗殺したとかいうしょうもない妄想を、さも真実であるかのようにテレビで語る、なんてことをされると、私も怒り心頭です。不名誉で人格を否定するような見下げ果てた疑いを偉人に被せるなんて、私はその人の人格を疑います。ただ、空想妄想と明言してそれを行う分には、別に何も言いません。

歴史学の方が歴史娯楽を攻撃するのも、大人気ないこととして、あまり行われないです。ただ、娯楽で作り上げられて検証できない部分を、これが事実だ、根拠だ、と大上段に掲げられると、それは攻撃されて当たり前かと思います。

逆に、事実を求めている人が、創作も楽しんでみるということを、不快に感じる方もいるようです。妄想は妄想と線引きして垂れ流しているつもりの自分も、時々、お叱りの言葉をいただいてしまいます。

自分は空想も想像も妄想も大好きです。真面目くさった顔をしながら、いつの間にか話がどんどん妄想に転がっていくことも多いです。というよりそれがパターン化しています。事実を求めてこのサイトを見てくださっている方は、どうか記述の解釈にはお気をつけ下さい。真面目な方が心情を害されて怒ってしまわれても、到らなくてごめんなさいと頭を下げて謝るより他はありません。

開き直るわけではないですが、「歴女ブーム」のポストでも似たような事を書いてしまいましたが。事実派が娯楽派を攻撃してしまうのは、却って寂しいことだなぁ、と思います。自分は両方楽しんでいる蝙蝠人間です。でも、他人が勝手に頭の中で作った空想娯楽より、実際にあった事実のほうが、やっぱり面白いと思います。事実は空想妄想の良い材料ですし、逆に空想妄想が、根拠からの結論付けに対して良いインスピレーションを与えることもあります。そもそも事実は想像力の翼を得て広がっていくものです。そして、翼と本体を分けることは必要です。

うまく線引きをして、良い所取りをするのが、お互いにとっての利益になるのではないかと思います。

事実と良い関係になれる想像は、やはり、土台になる事実を基本として抑えていて、はじめて可能になるのではないかと思います。同じ事実の土台を共有している方に、ああ、ありそう!と共感してもらえる想像が、良質な想像なのではないかと思います。だいたい、突拍子も無い、ファンの怒りを買うような創作は、作者がこの土台を良く弁えていない所に起因することが多いでしょう。

であるので、娯楽歴史ビジネスの提供者には、できるだけ事実の土台のところを抑えて欲しいと感じます。それが、結果的に、有象無象のものとして消えていくのではなく、後に残り語り継がれる、成功する作品になるのではないかと思います。多少の労力の初期投資は必要ですが、それはかけるだけしっかり回収できるものなのではないかと思います。

余談ながら、歴史研究者ではない、片手間にちょっとやっている単なる一ファンとしては、「歴史学」とか「史学」とかという言葉は、重たい感じがします。単に、「昔は本当のところどうだったの、何があったの?」という事実への好奇心と、それを明らかにしてくれる信頼できる資料を求める作業なのですが。これに名前をつけるのにいい言葉は無いものかと、首をひねります。

歴史オタクとかは、居心地が良い言葉なのですが、オタクといえるほど広く精通しているわけでもないですし。大鳥マニアなら胸を張って名乗りますが、「何それ?」と一般の方は誰も理解してくださらないのが難点です。

posted by 入潮 at 15:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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