2009年09月04日

地元のぬくもり

おらが村 さん。(http://www5f.biglobe.ne.jp/~ootori/)
ご存知、生家保存会の主体として、地域の「いきいき交流館」として、大鳥圭介ミニ資料館の建設を、生家跡に実施してくださっております。

上のページの「交流ふれあい館(圭介ミニ資料館)正面」のリンクに、生家跡、外観が完成とのことで、写真を掲載して下さっています。

「畳の部屋(8畳)と土間の2間です。外回り、庭、トイレ等は、まだまだ予算と、にらめっこ中」とのことです。
まだ今後に向け、クリアする課題は様々あることと思います。

以前にも触れましたが、募金を募集しておられます。

募金要綱PDF
(おらが村さんに掲載されている物と同じPDFです)

もしご賛同くださる方がいらっしゃいましたら、応援をしてくださると嬉しく思います。金額云々は別にしても、全国に応援者がいてくださるということが示されることが、実施における大変な励みになることと思います。

他に、上郡町役場さんのページ(http://www.town.kamigori.hyogo.jp/)でも、ふるさと寄金ということで、募集しておられます。左メニューバーの「ふるさと寄附募集」をご参照ください。募金において、「大鳥圭介公生誕地保存のため」というのを明記すると、生誕地への募金として用いられるとの事です。なお、こちらは、お米など上郡特産品の記念品が進呈される由。

こうした地元のバックアップが継続して行われているのが、大変うれしいです。
大鳥は、一般人の間では、大して有名でもなんでもないのが、悲しいながら事実です。
未だに仕事相手と飲んで酔って語っても「何その漫才師」と袖にされるのが関の山。私は記憶を無くすまで酔っ払うと、誰彼構わず大鳥について語るという癖があるようです。大鳥は私の酔っ払いパラメータ。と、そんなことはどうでもいいです。

テレビで特集されたりドラマになったりなど、メディアに乗せられた地元おこしのアドバンテージがあるわけでもなんでもない。大鳥圭介をプロモートしたからって、上郡町さんの税収が増えるわけでも、観光客の落とすお金で地元が潤うわけでもありません。

その中で、故郷の偉人を顕彰するということで、吾が骨身を削ってくださり活動しておられる、おらが村さん、そして保存会の方々、上郡町役場のかたがた。活動の拠点として、柱として在ってくださることが、在り難くてなりません。

こうした熱意が、やがて、一般の方でも、大鳥圭介というと、「ああ、あの、幕末の、明治の」と正しい形で思い起こしてもらえる日が来ることに繋がると思います。


地元から嬉しい催しがもう一点。
「閑谷学校・史跡めぐり 上郡町に大鳥圭介の里を訪ねてみませんか」

ということで、閑谷学校が今週末に素敵な催しを開催して下さるようです。
9月6日日曜日。
締め切りは8月25日とのことで、すでに申し込みは締め切られています。
気付いたのが昨日でした。先にお知らせできなくてすみません。

以下のサイトに概要が掲載されています。

閑谷学校
http://shizutani.jp/hozonkai/index.htm
こちらの「イベント案内」

回覧広報あこう
http://www.city.ako.hyogo.jp/new/KAIRAN/index.html
こちらの7月号

閑谷学校集合(受付:午前8時30分、出発:9時) 貸切バスで移動します。
閑谷学校→八木山御幸碑→西有年驛蹕(えきひつ)の碑→願栄寺→上郡町役場→(昼食)→石戸公民館(講演:吉田實氏「圭介少年の故郷」)→石戸地区生家跡→皆坂滝往復(徒歩約2`、マムシ対策のため長靴が必要です)→石戸公民館→閑谷学校(帰着予定:午後4時30分)
参加費:3,500円(昼食代含む)

閑谷学校を通った、幼き圭介の歩いた後を、歩く。
圭介が山中途中に立ち寄って顔を洗った(と思われる)皆坂の滝を行く。
そして、石戸公民館では、吉田實氏が「圭介少年の故郷」をご公演くださる。

まことに、まことに素敵なイベントです。
閑谷学校、上郡町役場、そして生家の石戸地元の連携。こうした、地元の心があふれるような催しを、諸機関と連携し、継続して催してくださるのは、とてもありがたいです。

大河ドラマとかメディア化とか、華々しい話とは無縁かもしれませんが。こうした地に足のついた企画が継続して行われ、少しでも地元の方々の認識を高めようとする作用は、真に心が温まります。

といいつつ、暫くぶりにネットを漁っていたら、「薄桜鬼」の大鳥さんのコスプレをするうら若きお嬢さんがいらっしゃいました。しかもお一人ではありません。じ、時代は変わった。いやはや、メディアの凄さというか、若者向けエンターテイメントの影響力を、思い知らされました。願わくば、お嬢さま方、本物の大鳥圭介の魅力にも嵌ってくださらないかなぁ。大鳥圭介は、どんなメディアより、生身が一番濃くてネタに溢れて愛らしいです。何なら酒無しでも、一晩でも二晩でも語ります。私はいつも真剣です。
タグ:大鳥圭介
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2009年09月18日

山の寺

34.4%の人が「大型連休はいらない」なのだそうで。その理由に、「どうせ休めない」とあるのが、正直で良いです。こういう共感性豊かな記事は、いいですなぁ。

閑谷と上郡の祭典に行ってきまして。はい結局、我慢し切れなくて、突発的に行きました。後でアップします。
その直後からブータンです。休日何それ。高地に体を慣らす間もなく、いきなり山地の村に入っていました。運動不足でボロボロでした。

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ブータンの村。切り立った山上の山肌に、僅かな田畑を切り開いて住んでいます。何を好き好んで、そんな過酷な所に住むのかと、いつも疑問です。単に、そこ以外に住む所を知らないから、というのが大きいのではないかという気もします。

政府は、こうした僻地の村は遠すぎて、電気も水も水道ももたらすことができないので、村ごと移転しようという計画を持っている由。移転費用は全て政府持ち。幸福には、基本的なインフラが必要という認識からです。住みなれた山を離れて住み良い下界へ行くことを、村人が選択するのかどうか。興味深い所です。

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その山の上の、さらに孤立した地界の果てに、ぽつんと寺があります。ここまで極限を突き詰めなくても、もうちょっと他に修行する所もあっていいのではないかと思います。

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近寄るとこんな感じ。登り登り登り、さらに嫌になるまで登ると、ぽつねんと、お寺があります。

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お寺の中。

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寺の脇の家。
茶と果物をいただきました。疲れた体、乾いた喉に入れる茶の、美味い事美味い事。施しが、とてつもなくありがたかったです。

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寺のじーちゃん。いい顔で笑います。

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プナカの谷。棚田の稲が黄金に色づいてきて、まぶしいです。魂が抜かれそうなほどに綺麗です。


山好きの人には天国だと思いますが。運動音痴メタボ人間が身の程知らずに山に入ると、辛くてたまりません。作業量は一向に減らず、考えなければならないことが山積みで、肉体的にも精神的にも、根を上げたい。もっと楽に食っていく方法もあるだろうに、と思います。我が身の器の小ささを思い知るだに、自然、うつむいて地面ばかり見てしまいます。

それで、足元を見ると、石がきらきらしているのに気付く。ここの地質は石英を含む花崗岩だからか、石や岩肌が光を反射して瞬いている。これがまた、心に染みてくるぐらいにまぶしいです。

そうすると、何というか、お前が悩もうが苦しもうが、自然には良い物があって、それは変わらない。つべこべ言わずにやることやれ、とでも言われているようで、そうかいそれならやってやるわ、とやけっぱちなやる気が出てくる。

光る石は、一つ一つが、手に入らない宝石のようなものだと思えてきます。金で価値勘定すると、石材の材料ぐらいの価値しかないですが。そういう自分の中だけにしか通用しない宝石もあって良いんじゃないかと思います。そうとでも思わなければ、本物の宝石を手にできない貧乏人はやってられん。

それで、こうした地上から隔離された場所の数々に、暗闇の夜を照らす照明や携帯電話充電用の太陽光発電を入れようとしています。

太陽光発電は永久に自然のエネルギーが得られるという認識がありますが。実際は、バッテリーが2,3年でダメになってしまったり、コントローラがダメージを受けたりで、故障しえます。特に一般人が遠隔地で使う場合は、持続性が問題になっています。僻地のユーザーは、自分で機器を入れ替えるだけの貯蓄や伝がないので、壊れるとほとんどの場合、放っておかれるままになります。それで、途上国の僻地電化における太陽光のシステム自体が疑問視される場合もあり、ブータンも例外ではありません。それで、どうにかして長く使い続ける方法が模索されています。

そこに、太陽光機器の納入業者が頑張っています。照明をCFL(蛍光灯)からLEDに変えたり、バッテリーに代わる別の方法の情報があったら飛びついたり。政府よりも、実質的に真面目に考えているかもしれません。直接現地に機器を持っていって、設置するのが彼らだから、真剣にもなります。その業者の方の言葉。

「生半可な機器を入れて壊れたら、私にモンク(僧)が文句を言う。モンクに呪われると、死んだ後の私のカルマ(業)に影響するのだ。私の次生を健やかにするためにも、私には持続的な良い機器を設置する責任がある」

モンクの文句は、Monk complains を直訳しただけで、他意はないです。
えぇと。良い仕事をするモチベーションを持つのは、必要な事だと思います。日本人にはマネのできない義務感です。

輪廻と業が普通に道徳の柱としてあるのは、毎度吃驚します。常に死んだあとの次の生のことを考えて、善行を意識する。殺生はしまいと、蚊すら殺しません。見上げた姿勢です。でも、蚊取り線香は使うんです此人たち。自分の手で殺すのでなければ良いのか。

死といえば、ブータン人は、墓を作りません。火葬して、骨は粉にして川に流すのだそうです。輪廻転生を信じる仏教は本来こうであるのだと思います。
なお、骨は、もし利用可能なものが残されたら、プジャという楽器の材料にされてしまうのだそうです。なので、土葬をする宗教の方がブータンで亡くなると、困る。土葬をすると、どこからともなく人が墓を掘り返して、骨を持っていってしまうのだそうな。知人から聞いただけの話なので、本当なのかどうかは分かりませんが。

日本人がブータンで死んだら、墓も作ってもらえず、骨も流されて帰れないのか、と思いました。運動神経の無い奴が体力ぎりぎりで断崖絶壁の中踏査をしているのだから、それも結構、現実味を感じます。予め周囲に、自分が死んだら国に骨は帰してね、と言い置いておけばいいのでしょうが。なかなかそういうことは普段から言い出せることではありません。まぁ、自然に還り、骨まで廃物利用までしてもらい、残るものもないというのも、それはそれでいいものかもしれない。いや私は畳の上で孫曾孫に囲まれて真っ当に死ぬ予定です。小学生のときにそう決めました。孫どころかそれ以前に自分一人の生活も成り立たせてませんが。

現世には訪れるだけ、という刹那な観は結構好きです。人間、名や名誉を気にしますが、現世にしつこくこだわって、自分の名前やら家やらを良く評価されながら残すのに必死になるのは、余計に名を損ねている気もします。墓なぞないほうが、すっきり生きられるのかもしれません。墓で名を残さないといけないような生き方をしているわけでもなし。いや偉人を追う側にとっては、墓はあったほうが勿論ありがたいですが。

そんな感じで、色んな人に寄りかかりつつ、生きています。
トレーニングとかアドバイスとか偉そうなことを言いつつ、自分が精神的にも肉体的にも魂的にも、鍛えてもらっています、というか、ようやく人並みに近づけてもらっている感じです。
自分が寄与できるのは、この国の南京虫に吸わせる血ぐらいしかないなぁと思います。それにしてもどこで拾ってきたのか、体中が痒くて仕方がない。

タグ:ブータン
posted by 入潮 at 02:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月21日

「大鳥圭介の里を訪ねる」

9/4の記事を書いていたら、つい、行きたくなってしまいました。参加申し込み締め切り後でしたが、だめもとで、閑谷学校へ電話し参加可能かお伺いしてみました。許可くださいましたので、行ってきました。閑谷・上郡。

あまりに楽しく、それ以上に感動が大きかったです。出張直前にどうしようか相当迷いましたが。こういう無理は良いです。体にエネルギーが流れ込みました。チャージ完了!という感じです。

前夜に大阪入り。Tさんにお付き合いいただきました。「ジョン万次郎」という看板があったので、一も二もなく飛び込みました。

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これは、中浜万次郎本体ではなく、万次郎を拾った船長さんだと思えばいいのでしょうか…。
お料理と一緒に映っているCDラベルは、Tさんの力作。来年何かが起こります。


翌日。始発で岡山方面へ。閑谷は四年ぶりです。
車が無い場合の閑谷学校へのアクセスは、JR山陽本線吉永駅下車が一番近いです。吉永駅は姫路から岡山方面にJRで約50分。山陽本線の姫路―岡山間は本数が少ないので、時間は前もって要チェックです。

吉永駅からは約3.5km。歩けない距離ではありませんが、駅前にタクシーがあります。
吉永タクシーTEL0869-84-4000。車数は多くないので、帰りは予約すると良いかと思います。

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閑谷学校正門。
門の中からさらに向こうの門が見える、遠近感を工夫した設計です。

寛文八年(1668年)、岡山藩三代目藩主の池田光政(1609-1682)が、庶民のために領内に123箇所の郡中手習い所を設置しました。後この手習い所はかかる経費のために閉鎖されました。そして二年後の寛文十年に手習所が統合されてできたのが、閑谷学校です。池田光政は芳烈公として知られています。領民教育だけではなく、儒学における仁政の実現を目指し、飢民救済や新田開発などに力を尽くした、名藩主です。

この閑谷学校に、弘化二年(1845年)の春、14歳の大鳥圭介(幼名慶太郎)が入学しました。慶太郎は18まで、約5年をここで過ごします。通常、領外生は1年に限って就学を許されたので、5年も学んだというのは例外的だったのかもしれません。

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宿舎に向かう通路。
塀は上側が丸くなっていて、手の込んだ珍しいやり方になっています。

閑谷学校は、ハン(さんずいに半)池、石垣、鶴鳴門、公門、閑谷神社、聖廟、講堂、文庫、椿山、そして旧学房でかつて閑谷中学校学舎として用いられていた資料館から成ります。椿山は芳烈公の光政公の遺髪・髭・爪を納めたとされている場所で、近づくと、光政公の祟りがあるとか、打ち首になった藩士の幽霊が出るとか言われていました。若き慶太郎(が肝試しをして肝を鍛えた逸話が残っています。
また、学房は慶太郎が寝起きした場所。弘化四年三月、慶太郎がいたころに一度失火が起こり、焼け出されています。客舎、諸生部屋、有吉譲介(大鳥を北澤某と共に閑谷の二秀才と評した先生)の長屋などに延焼したことがありました。

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ハン池。濠を泳ぐ鴨。悠然たり。

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早朝から尺八や笛の練習会が行われていました。学校の部活か、朝早くから若い方の姿が見えます。閑谷は現在も、地域の文化交流場にもなっているのが伺えます。

閑谷学校を世界遺産に登録する運動が行われています。日本最古の庶民教育のための学校というのは、世界に於いても確かに意義が大きいとは思います。ただ、世界遺産化に反対するわけではありませんが、閑谷は、世界の他の世界遺産とは少し雰囲気が違うように思います。世界遺産化すると観光客が押し寄せ、見世物化され、維持管理はプログラムも複雑になり、多大な予算が必要になります。観光客の経済便益は大きいかもしれませんが、それで本来の意義がぼやけている史跡は、世界に数多くあります。日光も同様に思いました。閑谷は、「世界遺産だから」来るのではなく、「閑谷だから」来るような存在ではないかと思います。閑谷は、世界中で共有すべき物というよりは、日本固有の国の文化財として深閑の中にあり、地域の交流拠点としてあるほうがしっくりくるなぁというのが、一訪問者としての素直な気持ちでした。


さて本番。
受付で飛び入りのご迷惑を詫びると「東京から来るというから、しゃーないわぁ」と、引率の方が呆れておられました。大変申し訳ないです。どうか真似しないでください。

参加者は実は数人程度かと思っていたのですが。合計40人を超え、貸切の観光バス一台が一杯になる大所帯でした。

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本日の史跡巡りのために配布してくださった冊子表紙の一部。暖かい手作り感の篭った冊子です。
なお、旧閑谷学校顕彰保存会さんは、閑谷ゆかりの史跡巡りを毎年企画されています。今回の「大鳥圭介の里を訪ねる」はその内のひとつで、今回で九回目。

閑谷史跡めぐりは、郷土史の空気たっぷりのプログラムです。これまでには、たとえば閑谷学校設計者である津田永忠ゆかりの史跡を辿る、などがあったそうです。津田永忠は、日本三名園の一つである後楽園や岡山藩主池田宗家の菩提寺の曹源寺の造営、日本最古の運河閘門である倉安川吉井水門の水路整備などを行った方。
こうした、地元の方が地元を知り地元を好きになるような催しは、温かみがあって良いものです。
ただ、参加者の方々の平均年齢が手前の2倍は優に超えていた気がします。若い人にももっとこうしたことに興味を持ってもらえるといいなぁと思います。「大人の社会見学」なども増えてきていますし。

そして、付近に点在する大鳥圭介関連の碑を、2箇所見て回ります。

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碑その一。備前市八木山にあります。「御幸碑」と題字があります。明治18年、明治天皇による山陽道巡業が行われました。7月7日、八木山に天皇が少駐されたということで、記念碑が建てられたものです。現在山陽道は国道二号線で貫かれていますが、こうした碑が当時の山陽道の正確な場所を保存しているということで、面白いです。

碑文は「従六位 西毅一撰」とあります。この碑文に直接大鳥は関係ありませんが、この西毅一という方は、明治17年の閑谷学校の校長で、天保14年生。岡山藩家老池田隼人の家臣霜山徳右衛門の長男。大鳥の地元関係人物です。西は、圭介母お節の兄の子(つまり圭介いとこ)の陸軍一等軍曹丸山良次の墓の撰文を行ったりしているという、繋がりです。繋がりと言い切るのも少し憚られる薄ーい繋がりですが。この糸を手繰り寄せてくださるのが、地元史家の方の愛だと思います。

「(日清戦争で)閑谷三奇士を失っている十歳下の従六位西毅一と(大鳥の)、その組み合わせはむしろ痛々しいほどである」と冊子にあります。

朝鮮において日清開戦の工作をした大鳥と、日清戦争で失われた才を有した西のわだかまりが心配されていた模様。

ただ、大鳥を、日清戦争開戦の火蓋を切ったとして、その点ばかりが強調されるのには違和感が大きいです。大鳥は、日本における東アジアの理解を深めようと、文化、歴史、地理、商習慣、農業などの多くの分野で紹介し、公演や論述を行っていました。公使赴任前も「清国五人種」「支那東北諸国沿革考」などを論考して支那紹介をしています。公使の任を終えた帰国後も、「日清交際の将来」「支那語学を勧むるの説」「国民の外交」などで、日本人の清国への向かい方を説いています。大鳥は、清を文化を共有する日本の同胞であるとみなし、清国の各人物にも、敬意と礼節を持って接していました。李鴻章に誕生日に漢詩を送り「君独り詩あり」と喜ばれたのは、福本先生の研究を紹介した神戸新聞記事にもあります。また、天津条約の際に李鴻章から贈られたという臥竜梅が国府津の別荘に植えられていました。また、五十年間日中友好に尽くした船津辰一郎は、清国公使時代の大鳥の書生で、大鳥を尊敬していました。

確かに、日清戦争の大鳥の働きが、朝鮮での日清開戦工作に至ったのは事実ですが。大鳥は、現地と東京の日本政府の板ばさみになって、非常に苦しい思いをし、公務としての苦渋の活動を行っていたわけです。
そして、大鳥が日清友好に尽くし、両国の文化や科学技術の交流に寄与したのも、やはり事実です。大鳥が、日清関係において、その戦争の火付け役としてのみ語られるのは、あまりにも一面的であると感じざるをえません。

なので、もし圭介が、地元の西と、戦争面での心理的齟齬が本当にあったのなら、それは悲しいことだと思いました。

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碑その二。赤穂市西有年。「今上天皇驛ヒツ(馬へんに畢)之碑」
こちらは大鳥圭介の揮毫した字です。
「達筆なのかどうかよーわからんですが」と素直に仰った引率の先生に、同感です。大鳥は筆跡がいろいろあって惑わされますが、この碑の字は、正直、やる気のあるほうではないほうの字だと思います。

地元史家の先生は、「見るほどのものでもないんですが」という前置きをしながら、しっかりと詳しくご案内してくださりました。見るほどでもない物についても、冊子の記述にも熱を込めてくださった先生に、愛を感じます。…地元愛です。


えぇと、閑谷のおさらいを含めて書いていたら、長くなりました。
一旦切ります。
posted by 入潮 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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