2009年10月13日

「大鳥圭介の里を訪ねる」その2

間が開いてしまいました。「大鳥圭介のふるさと」の続きを参ります。

岡山方面から兵庫県側へ、国道二号線を北上。上郡方面にいく途中に、願栄寺があります。このお寺に、大鳥の書画が2点、収められています。

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大鳥の書画があるといえど、見たいといって来られても困る、ということで、これまで見学などは受け付けておられなかった由。上郡の方々には、こういうものがあるということは、伝わっていました。それを、今回見せてくださるということでした。もったいぶっているのではなく、単にこれまで大して関心が持たれていなかったので、見学されても説明できない、という感じでした。そんな切ない放置状態。
けれども今回をきっかけにということで、前和尚さんがいろいろと調べてくださり、参加者の方々へ、これまた手作りの冊子を作成して配布してくださいました。放置されていた大鳥関係品への関心を掘り起こす。閑谷学校企画様々です。

願栄寺は、浄土真宗大谷派のお寺で、高田という地名にあります。古代から赤穂の高田郷、あるいは山陽道高田駅と呼ばれ、馬二十匹を抱えていた記録がある由。現在は上郡町の一部です。建立は元弘元年(1331年)と非常に古いです。冊子は、大鳥の書だけではなく、ふるさと高田の成り立ちや遺跡などの紹介までされ、郷土史資料として中身の濃いものでした。高田は古くからの土地で、六ツ岩遺跡や神子田遺跡など、縄文弥生の遺跡まであるそうです。

そこに所蔵されている、大鳥書画二点。
内、一点目。

「水能浮舟水能覆舟」

こちらは、中国戦国時代の荀子の王政の中の詞「水能戴舟又覆舟」から大鳥が作成した言葉だろうとのことです。荀子は、前和尚様が漢和大辞典をひっくり返して調べてくださったとのことでした。

書画の画像や、地元古老の吉田氏が読解された意味は、生家地元である岩木のおらが村さんがまとめてくださっています。「水能」に、上の詞の画像を掲載して下さっています。

舟で水に浮かんでいられると思ったら、転覆されることもある。水を制したと思っても、なかなかそうはいかない。これは、土木技術がいかに発達しようと同じです。台風水害は何時になっても怖い。いかに資金と技術をつぎ込んでも、乗り越えられない限度がある。超えられないからこそ、その限度に近づこうとする。自然に逆らえない諦観、森羅を大いなるものと捉え、奢るなかれという自戒の念は、大鳥はいつも持っていたことが、詞や唄から窺えます。
水流を写し取ったかのような、流れのある字です。この字は好きです。

それから、二点目。

「四十艨艟来向東
逆之一戦決雌雄
水雷中鴰噴煙白
榴弾磨舷火焔紅
幾万敵兵葬魚腹
二班将帥入禽籠
空前大勝安天下
永使国民頌佛功

日本海々軍大勝
為矢田兄」

この「四十艨艟〜」も上の「四重」にご紹介下さっています。

この為書きに「矢田兄」とあるのは、矢田満丸氏で、当時の願栄寺住職の弟の方でした。第一次世界大戦中の大正三年十月、清国膠州湾外で封鎖哨戒中に軍艦高千穂と共に戦没したとのことです。この方が日露戦争にも参加されていた海軍軍人なので、大鳥がこのように戦勝を喜ぶ書画を贈ったということなのでしょうけれども。

「戦争に仏功とは何ごとじゃ。戦を喜ぶ仏様はおらん」

と、前和尚様は仰っていました。思わずうなずいてしまいました。

前和尚様に異を唱える気は全くないですし、それが現在は普通の捉え方だと思います。
ただ、後から考えてみると、当時の方々と我々の対外戦争観は徹底的に違うということは、酌量してもいいのかなと思います。常に植民地化の外圧の脅威に曝され弱肉強食国際社会で生き残らないと独立も危うい当時の方々。一方、敗戦の悲惨さから戦後に平和主義を徹底的に叩き込まれた現代日本人。この二つの戦争価値観は、同じ国の人間とは思えないほどに異なっていても、それが道理。日清日露戦争の勝利があってこそ日本の独立が保たれたのであるから、当時のリアルタイムで、日清日露の勝利を誇りに思わない日本人は居ません。もちろん肉親を失った方々の悲嘆は大きかったですし、時間がたてば、そこにつぎ込んだ金と労力と命ばかりが見直されて、感じ方も違ってきますが。

水や道路と同じように、国境の安定というものは、あって当たり前になってしまっている。だから、それを有難いものと感じようとしないのが現在です。「空前大勝安天下」との言葉はいがらっぽく感じられるかもしれません。しかし、安んじていない天下だったからこそ、戦争への考え方は、「天下安んじられた」今とは、異なってしかるべきなのだろうと思います。安んじられているというと異論も多々あるかと思いますが、少なくとも日本のように主権を持って在り続けた「後進国」は、世界のなかでは相当に珍しい例でした。福沢諭吉なども日清戦争の推進者ということが汚点のように論われていることがありますが。ある時点で戦争を賛美したからといって、その人の人間性に異を唱えるのは、あまり思慮深いことではない気がします


この後、上郡に向かいます。

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千種川。のどかな河畔です。
現在、防災のために河川工事中です。この工事で、上郡中学校が移転しました。移転する前の最後の記念行事として上郡中学校の体育館で行われたのが、2008年4月の「大鳥圭介公を語るフォーラム」でした。
この千種川沿いに、上郡町役場があります。役場には、大礼服姿の大鳥圭介像があります。日清戦争後、男爵位に封じられた際の姿かと思います。

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役場にて日曜出勤の役場職員の方々が、この大鳥圭介像のご説明をしてくださいました。町史編纂室の方によると、費用560万円、なんと3594名もの方からの募金が集められたそうです。


そして昼食後、生家のある石戸へ向かいます、
石戸の公民館。おらが村さんがこれまで収集してこられた資料や写真、年表などがが、所狭しと展示されています。本棚にも大鳥関係書籍がずらり。すでに大鳥圭介資料室状態です。

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中は、40数名の参加者で所狭しとなりました。まずは、生家保存会会長の小林氏が、本日のご挨拶をしてくださいました。

石戸は、上郡町岩木の谷の最奥で、20戸足らずである。岩木には7つの自治会があり、生誕地を守ろうと賛同して下さっている。備前市、赤穂市、上郡町の二市一町で観光や病院を共同して推進していく方向性があるが、大鳥圭介生家保存事業もその一環として行っていきたい。生き生き交流ふるさと館はそのうちの活動の一つである。現在メインの建造物の建築が終わっている。外観含めて来年3月をめどに完成させたい。

そうした旨の、今後の具体的な展望のある、力強いお言葉でした。

そして、本日のメインは、地元古老の吉田實氏の大鳥語りです。

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吉田氏は、現在91歳。百穂という雅号を持つ書道の先生で、地元に伝わる大鳥圭介の逸話をご存知であり、大鳥の漢詩や書画を解読してこられた方です。幼少のころは圭介の家の北に住み、圭介生家の前を通って毎日11年間上郡の町のほうへ通ったとのことです。その中で、大鳥圭介の地元の謂われを聞きながら大きくなったという方です。吉田氏が生まれたのは、圭介が亡くなってから7年経ってから。とはいえ、そのころは圭介の生前を知る方々は多く生きており、その方々の生の話を聞いて育ったという方です。

大鳥は郷土にたくさんの詩を残している、圭介の心根は詩や歌の中に残されている、そういうことで、これまで圭介の詩や歌を四百ほど訳してきた、圭介の心を訳すということを特に行ってきた、ということでした。

「ここが大鳥圭介の誕生地でございます。圭介が呱々の声上げて一番に空気を吸ったところでございます」

その第一声が、なんとも実在感を高めてくださって、じーんとしました。吉田氏の語りは、以下の通り。

東西北の山が非常に高い岩木の谷。両側の山が高いので朝は10時ごろまでなかなか日が昇らず、夜は3時には日が翳る。そのために、長日の植物である葱類は育たない。そういう土地では、太陽の光が非常に大きくありがたく感じるものである。その中で圭介は、太陽の恵みをこの上なく有難いものとして育った。

朝4時に起きて、5時前には家を発ち、山中の皆坂の滝、滝神社を越えて、20kmの距離を歩いて峠を越えて、閑谷へ通った。圭介は滝神社に信仰を持っていて、鳥居にはいつも手を合わせていた。後年、圭介は国府津に別荘を建てて住むが、そこにも滝を入れて滝の家と呼ばれたのにも関係あるだろう。

もし郷土力という言葉が許されるのならば、その郷土力が大鳥には確かにあった。
日本で一番古い学校である閑谷学校に通った。四書五経をはじめ、閑谷で学んだのにも、大きな郷土力をもらった。

「にしひがし 国はかわれどかわらぬは 人の心のまことなりけり」と大鳥は後に詠んだが、そのまことの心で清国の公使を9年間勤め、清と関係し続けた。

というように、郷土に培われた大鳥の心を強調される吉田氏ですが。数多い詩の中で、吉田氏が最高傑作として一番のお気に入りにしているのが、以下のものです。

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有年にある書画の写真。

「路遠 知處力 時久 見人心 如楓圭介」

知の力を処するに、路は遠し。人心を見るに、時は久し。

「處」は処方箋の処と同じ。医者の息子の圭介は、体の処方箋ではなく、世の中の処方箋を求めた。大鳥は我欲を捨て、世の中に尽くした。その世の中を処する力がいつまでも続くようにという願いが込められた詩であるとのことです。

知を力とするための路は遠い。人の心を見るようになれるまで、時は久しい。そうした、技術と人間、知と心を求めることの難しさと、難しいけれどもやりつづけなければならない、そうした思いも感じることができます。
大鳥の詩は、そうした自分の力の限界を知る謙虚さと、限界を言い訳にしない克己心が、あると思います。

こうした故郷に伝わる書画や詩は、たしかに大鳥の心を読み取っています。故郷上郡に育まれ培われた心を、あたかも還しているかのようです。
こうした故郷の詩は山崎有信の大鳥圭介伝などには収録されていません。それらを発掘し、読み解き、伝えてくださる吉田氏、そしてそれを一般の目に触れる形にしてくださっている「おらが村」さんの活動には、感謝してやみません。

地元の人の、愛着という言葉では片付けられない姿勢を感じて、エネルギーをいただきました。

上の写真の背後にあるのは、吉田百穂作、川柳で語る大鳥圭介の生涯。これがまた、大鳥の歩みがテンポよく語られて、それだけでとても濃い伝記なのです。また別途ご紹介させていただければと思います。

そして、吉田氏のお話の次に、「圭介塾」のご紹介が行われました。

県の地方活性事業の補助金を用いた関係で「いきいき交流館」という名称になっているわけですが。保存会の皆様は、圭介生家跡を圭介を顕彰する拠点の資料館としても用いたい意図でいらっしゃいます。

そして、「圭介資料館」よりも「圭介塾」という名前が格好いいということで、立ち上げられたのでした。そして、圭介を中心的に広めていく「塾長」として、猪尾塾長が任命され、ご紹介されました。

猪尾塾長は、定年されて時間があるということで引き受けたということでしたが。

3月のフォーラムのパンフレットやインターネットを見ると、圭介の研究をしている方がたくさんいる。地元小学校でも大鳥圭介の勉強会が始まった。年表を見ると、圭介の活動の半分は江戸時代、半分は明治である。また、学者、政治家、外交官、官僚、教育官と経歴が多岐に渡っている。26歳ごろからいろいろな本を出している。軍隊の教本は各藩が持っていた。明治では石炭や石油、膠の研究もしている。「学問の弁」で勉強の仕方そのものを説いていたりする。その活動の範囲の広さにまず驚いた。現在世の中の変わり目には圭介先生から学ぶことがたくさんある。まずは自分が、圭介から学ばせてもらいたい。

そんなご挨拶の言葉でした。
圭介塾塾長。ここにまた、大鳥圭介研究のコアが誕生しました。まことに嬉しいです。
この猪尾塾長、すでに度肝を抜かれることをされていましたが。その後紹介はまた後日にと、後に引かせてください。

長くなったので、また切ります。

posted by 入潮 at 01:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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