2010年01月09日

新年吉祥、千里同風

新年之吉祥、千里同風、芽出度申納奉候

新年の吉祥、千里の同風、めでたく申し納めたてまつり候。

大鳥さんが、義弟の福本譲平氏(福本龍先生の曽祖父様)に宛てた、新年のご挨拶の一文です。

年賀状の挨拶言葉で適当なものを流用させてもらおうと、大鳥さんの書簡を拝見していたのですが。

千里同風。千里は約4000km。極めて遠いということの代名詞。
千里の道も一歩から。千里の馬。そういった慣用句に代表されますが。

今仕事をしている場所が、日本から千里とちょっとの距離にあります。
地球1週4万km、地球から月までは38万km、自分のバイクの走行距離が累計10万km。

そう思うと、技術の恩恵により、千里も近くなってしまったのかなぁ、という感慨が沸きます。

もちろん4000kmを歩けといわれると、1年では1日11km。毎日歩かねばならない。それはきついですが。1日1.1kmで10年と考えると、結構ありえる距離です。千里は、そうした意外に身近な距離のように思います。

場所が違うと風も違うものですが。
千里同風は、「非常に遠いところにも同じ風が吹く」ということ。これより派生して、「世の中が太平に治まっていること」を意味するとのこと。

大鳥さんも、蝦夷に欧米に暹羅に中国朝鮮にと、千里を渡り歩いた方でした。所違えば様々に、問題や混乱の種があります。大鳥さんも、人生の多くの部分が、それらの只中にありました。

それでもひとまず、新年の今は、天下泰平を慶ぼう。
千里、等しく吉祥の風が吹いています、という大鳥さんの新年の祝詞に、ささくれ気味だった心も、安らいだのでありました。

なお、この大鳥→福本氏の書簡は、上郡町さんが平成10年に発刊された「大鳥圭介書簡集」に掲載されています。

本文は以下の通り。

新年之吉祥千里同風、芽出度申納奉候、先以尊家御揃、愈(いよいよ)、御安泰、御越歳被成候奉拝悦候、従て、弊屋皆々無事加齢仕候間、乍失敬御降念可被成候、右年甫之御祝詞申上度、恐惶謹白、
正月五日 大鳥圭介純彰
尚以、春寒甚敷御座候折角、御自愛第一二奉存候、御序之節、お勝へ茂宜御伝祥可被下候、拙荊よりも、可然御流声可被下様申出候、以上


新年のご挨拶一つをとっても、相手方のお家のご安泰を喜び、自分の家も無事年を取ったことをお伝えしています。まことに丁寧です。譲平氏の妻で、自分の妹であるお勝にも宜しく伝えてください、「拙荊」(妻のこと)よりもお声聞きたく思う旨、お伝えしています。

「御越歳被成候奉拝悦候」とか「御流声可被下様申出候」とか。
こういう、自然に相手を敬う言い方に、無限のバリエーションがあったというのは、いいものだなぁ、と思います。

ただ、自分の妻に「荊(いばら)」という字を用いるとは、みちさんが聞いたら怒りそうだな、とも思ってしまいましたが。漢語で、「荊妻」とか「荊婦」とか「賤荊」とか、 当たり前に用いられる語のようなので、大鳥さんとみちさんの仲を心配するには及ばない、古の中国のご夫婦の方々に物申すことでしょう。


さらに余談ながら、同じ福本譲平氏への書簡の「追伸」に、弟の鉄二郎の医術の修行についての記述があります。鉄次郎の医術鍛錬ができるよう、村上代三郎に見てもらってはどうか、両親へ相談してください、というお願いです。本題よりも追伸のほうが長いのが、いつもの大鳥さん仕様です。

村上代三郎は、適塾の塾生リストである「適々斎塾姓名録」の四番目に出てくる、適塾の重鎮先輩です。
大鳥が親の待つ上郡に背を向け江戸に出てくる際に、友人と道中共にし、江戸での貧乏生活でも一緒に裸で破れ布団を被っていたという逸話が、圭介伝に語られていますが。「名家談叢・実歴史談」で、「大坂を出発し、村上代三郎、三木芳策と同伴して、江戸に来たりし」と名前が明らかにされました。たいそうディープな付き合いの方です。裸の付き合いを経た仲間との縁は、そうそう切れないようです。

貧乏なとき、苦学のときに、同士であった仲間とは、こうして一生縁が切れず、付き合いが続いていくのだと思います。成功してからできた友人は、成功から転落するとどうなるか分かりませんが。そうしたどん底時代の仲間は、人生の財産です。
手前も、貧乏学生時代の仲間が懐かしくなりました。…と思い出したところで、気づきました。

そういえば、自宅に年賀状が届いていない。1枚も。
何ゆえか。

1) 郵便局員さんの配達ミス
2) 宛先不明で戻ってしまっている
3) 年賀くじ目当てに誰かがポストから抜いた
4) 手前の不徳により縁を切られてしまった

全て思い当たるだけに、悩ましいところです。

おかげで、全く正月気分がないまま、今に至ります。お正月は風邪と報告書書きで潰れました。

すみません。本当に申し訳ないのですが。もし手前に年賀状を下さったという心優しい方がいらっしゃいましたら、別途お知らせいただけませんでしょうか…。

そんな感じで、昨年の総括やら新年の抱負やら、年明けがましいことを全く行う余裕も無いままに、来週ブータン出発です。年賀状、結局、書けませんでした。申し訳ございません。
ラベル:大鳥圭介
posted by 入潮 at 20:52| Comment(5) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月23日

外交官大鳥圭介 その1

吉田清成書簡集。以前も何度か触れましたが、大鳥さんは吉田さんとは家族ぐるみのプライベートな付き合いなので、大鳥さんの隠れた素顔がたっぷり入っている、かなりディープな面白文書集です。

「一昨夜は難有、不相替大乱酔後海恕可被下候。扨昨夜中拝謁仕候御秘書原本翻訳分とも取揃返壁仕候」

という破壊力のある手紙もさらりと含まれています。夜の付き合いで相変わらず大乱酔ですか。借りた秘本って何ですか。読み返すごとに肩を震わせて笑えます。大鳥さんにご興味をもたれた方は、是非ご一読ください。

吉田さんへの結句は、だいたいが「早々拝復」か「頓首」か「以上」なのもポイントです。親しい人ほど略式になる。拝復が多いのは、吉田さんのほうからもたくさん書簡をいただいていたということでしょう。
大鳥の受け取った手紙が現在ほとんど残されていないのが、真に悔やまれることです。

この書簡集の中に、大鳥の外交官人生の始まりの鍵になる出来事ではないか、と思ったものがありました。

明治十五年(カ)十月十四日

拝啓 例之一条猶熟考仕候に、此後之処置は彼国之利害得失に関係ある事少からす、小生儀は兼て近来渡来せしものゝ内、趙秉嘉、洪英植、魚允中、又金宏集、金繻ウ等と申人とも幾回も面会、拙宅へも尋参り心底を打明物語致し候廉も有之候。

且従今彼国之頭目たる人を導き政路を改良せしむるには、必政略のみを用ゐず、誠意誠心を以てし、或は工業或は農事を教へて遍々に彼の心情之方向を変化せしめ、数々之事より徐々に暁し緩々の心服せしむる事、実に大切之ことかと被存候。其辺之事に至り候ては小生敢て他人に譲らずと、例之小天狗心を発し居申候。此等之事も御賛成之一助と可相成哉と心附候儘申上候。拝顔之上と存候得共、今日は早朝より他出いたし候間、以書中如此御座候也。拝具


例の一件を、なお熟考いたしましたところ、今後の措置は、かの国の利害得失に多大に関係あるでしょう。私は近頃来日された方々のうち、趙秉嘉、洪英植、魚允中、又金宏集、金繻ウらと何回も面会しました。彼等は拙宅にも尋ねていらして、心底を打ち上げ語りあったこともありました。
今、かの国の指導者の方々を導いて政を改良するためには、政略のみを用いるのではなく、誠意誠心を以ってすることが必要でしょう。工業や農業の技術を教えて、彼らの心情の方向を変化させ、数々の事から徐々に明るみにして、ゆるゆると心服させることが実に大切なことでしょう。その辺りのことは、私は他人に譲らないと、例の天狗心を発しております。これらの事も、ご賛成の一助となるかと思いまして、心に思ったまま申し上げました。拝顔した上でお伝えすべきかと思いましたが、今日は朝早くから外出しておりましたので、書面をもってこの通りといたします。

「例之一条」とは何か気になるところです。吉田さんから、朝鮮との利害について、何かしらの相談を受けた模様です。

来日された、趙秉嘉、魚允中、金宏集、金繻ウの面々。朝鮮の親日派、開化派の官僚たちです。洪英植は、近代郵便創を進め郵政局総監になるなど朝鮮の改革を行った方。金玉均と共に清国との宗属関係を断ち切って、国内の守旧派を排除し国王を中心に国を立て直そうとした方です。また、魚允中、金宏集は、清の近代化である洋務運動や文明開化を達成させた日本の維新を倣うべしと、行政機関、銀行、工場、鉄道などを調査する日本視察団として朝鮮から覇権された方々です。この後、日清戦争へ繋がる甲申政変クーデターにも関わる方々です。

彼らが、大鳥と何度も面会し、大鳥の家にも赴いて、心の底を打ち上げて語り合っていた、という由。明治15年。この頃は大鳥はまだ工部技監兼工作局長兼工部大学校長、バリバリの工部省技術官僚です。

後に大鳥は朝鮮国駐剳公使として外交官として任務を遂行することになるのですが。工部省官僚だった頃から、朝鮮のキーパーソンたちと交流を重ねていた。日本で始まったインフラ整備、鉄道や通信技術を、お隣の国の方に紹介した。それを通じて、工業や農業技術を教える。これは大鳥にうってつけ、右に出る者はないと言っても誰も異論はないお仕事でしょう。
そして、このことは、大鳥の外交官時代を見直すに当たって、注目すべき出来事かと思います。

それまで元老院他、学習院長、華族女学校校長として教育分野を歩んでいた大鳥が、唐突に明治22年に清国駐在特命全権公使に任命されたのが不思議でした。それまで全く関わりの無かった外交分野で、しかも出向の理事官などではなくいきなり全権公使なのですから、どうにも不可解な人事でした。

清国や他アジアについての論考を大鳥が学士会院などで公演していて、当地に理解が深いので、伊藤や榎本が大鳥を推薦した、という流れはあったでしょうけれども。

工部省時代に、日本の殖産興業を視察する朝鮮の方々を大鳥が案内し、技術を紹介した、その過程で、大鳥が徐々に日本ではなく隣国に目を向け始めたのが読み取れました。

日清戦争において、大鳥は、会戦のために外交工作を展開したというのが通説です。ただ、その内容は、人事、会計、裁判、軍事、教育など、今思うと至極まっとうな、一国が一国として主権を持って国際社会に出るのに必要とされる事項ばかりです。

こちらで内政改革案の内容を解説してくださっています。(こちらのブログの鋭すぎる記事の数々と、出典の正確かつ膨大な引用は、大変参考になります)

具体的には。
外国交渉を重んじて担当大臣を置くべしとか、売官の悪弊を停廃するとか、事務執行に必要な役人を残して冗長な人間を減らすべきとか、従前の格式を打破して広く人材を登用するとか、官吏収賄を禁じるとか、国家収入・支出を調査して会計出納を厳正にするとか、土地田畑の調査をして租税を改正するとか、不必要の支出を抑えるとか、税関に他国の干渉を入れないとか、鉄道や電信を開設して通信の便を開くとか、裁判法を改正して司法を公正にするとか、士官を養成して新式の兵を設置するとか、首都と地方の町に厳正な警察を置くとか、各地方に小学校を設置して教育を行うとか、更に中学・大学を設立するとか、優秀な人を外国に留学させるとか。

…国を作るのに、すさまじく当たり前のことばかりのように思います。
政治も外交も専門でもなんでもない自分は、当時の複雑な情勢をよく理解しておらず、短絡的な見方をしているだけかもしれません。確かに、清を宗主国とする朝鮮では非現実的で強引だったのかもしれませんが。それにしても、これらは、大鳥なりに朝鮮の独立のことを誠意を持って進めた証であると思います。

内政干渉といえば確かに内政干渉です。ただその内政そのものがメタメタで、列強との緩衝地である朝鮮がその有様だと日本が困るわけなので、日本としても干渉せざるを得なかったわけでしょう。そして、大鳥が清への従属関係を拒絶するように要求したのが、直接の開戦に繋がったのでしょうが。それは日本政府、伊藤や陸奥とのやり取りの中で進められたことです。

何故この至極真っ当な内容の改革を推進しながら、外交官としての大鳥が日清戦争で戦争の元凶として工作したようにしか語られていないのか、首をひねるより他はありません。

余談ながら、当時の旅行家イザベラ・バードは「朝鮮紀行」にて以下述べています。

「大鳥氏は官報を鮮明な活版印刷で発行するという有益な刷新を行った。そして翌年一月には漢字と『無知な文字』とされていた諺文(ハングル)の混合体が官報に用いられ、一般庶民にも読めるようになった」

大鳥が、それまで子供の文字と蔑まれていたハングルを政府文書である官報に採用し、そのために官報が庶民にも読めるようになったことを紹介しています。ハングルが韓国の国字として採用される諸端に、これがありました。自国の文字で高等な情報が得られることは、国民の知識度、民度の向上にダイレクトに影響します。そうでなければ、情報は一部の知識階級の特権所有物として限られてしまいます。明治期に日本がかくも成長できたのは、高等専門知識を幕末洋学者たちがこぞって日本語に翻訳し続けた蓄積があり、外国語を知らない庶民が日本語で知識を得られたことが大きいです。
こういうことは憚られるのですが、私は、朝鮮の方は、少しは大鳥に感謝するところがあってもいいのではないかと思います。
それにしても、活版印刷をはじめたあたりも、大鳥の金属活字のエピソードを思い起こします。

バードおばさんは、

「相ついで発布された(必ずしも施行はされなかったが)改革法令は日本公使が主導したもので、まもなく到着した日本人顧問が仔細に調整した。日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである」

とも述べているのです。
最初に大鳥をぱっとしない昼行灯爺い呼ばわりしてくれたおばさんですが。最後には、日本の大鳥公使が朝鮮に与えた影響について、しっかりと評価してくれていました。

さらに熱を込めて語りたいことがあります。長くなるので続きます。
posted by 入潮 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

外交官大鳥圭介 その2

続きです。

吉田清成への大鳥の書簡の記述で、思わず拍手した記述。

「工業或は農事を教へて遍々に彼の心情之方向を変化せしめ、数々之事より徐々に暁し緩々の心服せしめる」

まさにこれなり。
これが、日本のODAが現地で行っていることです。そして一番、効果が出ていることだと思います。

援助というと青年協力隊やNGOの活動がメジャーですが。ボランティアを派遣しても、個人レベルで仲良くはなりますしその村レベルでは助かるかもしれませんが、国レベルの影響にはなかなかなりません。その国の上向きの動力として直接働きかけられるのは、インフラであり、その建設を通じた技術援助です。

また、「政略のみを用ゐず」について。ネガティブな例にしてしまって申し訳ないですが、たとえばIMFは、民営化や通貨安定、その政略のみを押し付けて、余計にその国を混乱させることがあります。例えばアジア通貨危機は、IMFが融資に政府支出の削減と利子率の引き上げなど注文をつけて悪化させたことが大きく災いに影響しました。マクロ経済学に通じた偉い人たちが政略のみでその国を変えようとしても、必ずしもうまくいくわけではない。もちろん成功例も多いわけですが。

そうではなく、工業や農業という生産に結びつくことを教え、人材を育成する。実質的な経済の底支えになるハードウェアとシステムを構築する。これが大事。

たとえモノをあげても、消費したり壊れたりしたらそれで終わりです。富める者が貧しい者に施すのは当たり前といわんばかりに、援助を我が物顔で受け取ります。「援助させてやっているのだ」と大きな顔をされることすらあります。壊れたらその事に文句を言う人もいます。

モノを施しても感謝はその場で終わりです。モノが尽きれば感謝も尽きます。
そうではなく、生産する技術そのものを伝え、教える側が居なくなっても自分たちで生産できるようにすれば、生産が続いている限りは、感謝も共にある。それを経てはじめて、あの国には恩があるのだと長いスパンで思ってもらえる。

また、教える側も、自国の技術を伝えることで仕様を共有し製品のマーケットが得られる。お互いの流通が円滑になることで、伝える側も益します。自国のものが売れるというのは、特に資源のない日本にとっては重要なことです。

こうしたことが、真にその国と自国に益することです。
国と国、お互いの国益を相乗で上向かせるのは、まさにこの行為です。

それには、根気強いやり取りが必要です。もちろん衝突も利害の不一致もあります。お互い膝をつきあわせて喧々諤々やる中で、絆も生まれます。

日本のODAは感謝されていないと批判する人もいますが。現地に行けば、ちゃんと感謝されています。インドネシアもミャンマーもラオスもブータンも。日本の製品は良い、日本の作ったものは役に立っていると、そこの技術者たちは年を経た人ほど日本に親しみを持ってくれています。


一方、余談ながら、例えば携帯電話。もはや貧富関係なく皆が手にしている、世界に遍く通信インフラです。1日1US$以下の収入の人も持っています。収入ボトム層の人口が一番多いのは言わずもがな。巨大なマーケットです。今その世界で覇権を握っているメーカーは、Samsung, Nokia, Motorolaです。日本のメーカーはかなり遅れを取っている。通信技術や携帯電話の生産インフラで、日本はあそこまで優れた技術を持ちながら、何故、自国内にほとんど閉じてしまっているのか。限られた例を除いてこれを世界に展開できなかったのか。巨大なマーケットの機会損失を見ていて、残念に思います。日本の生産技術、通信技術を早いうちに援助で世界に展開できれば、また違っていたのではないかと思います。

いずれにしても、ODAは日本の外交の根幹の一つです。そして、日本の援助の特色は、技術移転と人材育成を重視しているところにあります。JICAのどの案件にも、技術移転は必須の要素として入っています。これが「〜してあげる」系の二国間援助とは一線を隔する点です。

当時、明治15年の日本です。とにかく植民地になってたまるかと、文明開化、殖産興業、百工開明を掲げて国が邁進している時期です。そこに大鳥は、お隣の朝鮮を見て、誠心誠意で接して工業や農業の技術を教えて、相手の心情を変化させ心服させるのが大切と仰った。ここに、日本が他国を援助する視点が生まれました。

日本が、国として他国に技術で援助する際の心構えを、まだ日本が西洋に追いつき追い越せの目処も付いていないこの時期に大鳥が述べた。これは刮目して注目すべき事ではないかと思います。

特に、誠心誠意。心がなければ技術移転は成り立ちません。相手の身になり、真心と敬意を持って接しなければ、伝わるものも伝わりません。可愛そうだから施してあげるというような上から目線は、大抵、自己満足に終わってうまくいきません。

大鳥のこの姿勢は日本のODA理念の草分け、殖産興業の紹介は日本の技術移転の草分けではないかと思うのです。

草分けというと大げさかもしれませんが。手前が、援助の現場で、で多分これが国と国との関係を良くする一番効率的な方法なのだろうと、ようやくなんとなく分かりかけていたことを、大鳥さんは100年以上前に、短い手紙の中で、すでにズバリと仰っていました。そのことに、なんだか打ちのめされた気分です。

工業や農業の技術を教えて、彼らの心情を変化させる。この事は「小生敢て他人に譲らずと、例之小天狗心を発し居申候」などと仰っています。例之小天狗心、という言い方。大鳥さんは何か技術を教えることについて吉田さんに熱く語って、小天狗だなんてからかわれることがあったのでしょうか。それもそれで微笑ましい。

普段はとても謙虚な大鳥さんが、自分の言葉で自慢にしているのは、このほかに活字印刷があります。大鳥さんが自慢するところは、技術の導入に掛かることばかりで、本当に自慢する甲斐があまりあるものだと思います。大天狗になっていいと思います。

一方、戦争や外交そのものについては、大鳥が自慢がましいことを言ったためしがありません。むしろ、「いつも負けてばかり」という「嘘」にあるように、謙遜以上の態度を取っています。日清前の外交についても大鳥は政府とのやり取り上のことだからと、自分ではほとんど語っていません。

大鳥は、自分が自慢にしていること、自分が誇りにしていることとは違った、むしろ忌避したい分野でばかり、歴史で取り上げられているように思います。

大鳥が自分の言葉で自慢しているその分野をこそ、しっかり取り上げさせてもらいたいと思います。

そして、ここに、大鳥がなぜいきなり外交官になったのか、という問いの答えが、見えてくる気がします。
ある意味、日本の産業土台はもう出来上がった。黎明期から発展期に移行した。その中で、未だに黎明期である国がすぐお隣にある。そこに大鳥は引き寄せられたのではないか。朝鮮の若者たちに日本の技術を伝え、心を開いた談話を通して、大鳥は次なる場を見出したのではないか。

物事の始まりの一番大変なところに、大鳥は引き寄せられる性質があります。好き好んで苦労を背負う、貧乏性といってしまえばそれまでですが。

そして、ある程度育って動き始めたら、他の人にあっさり渡す。なので、大鳥が草分けとなった分野は広いのに、大鳥が「〜の父」としてその分野の代名詞のようになることはありませんでした。

発展期を支える研究者技術者はもはや国内に育った。次に自分が力を注ぐのは、暗黒期にある朝鮮だ。
その思いが、この工部省官僚の後期、国内技術者養成の目処がある程度ついてきたこの時期に湧いてきたのでしょう。

大鳥が、外交官となったのはこれより7年後でした。大鳥にとっては、むしろ遅かった、待ち望んでいた任命だったのかもしれないと思いました。

日清開戦前ばかりが注目されてしまっている大鳥公使ですが。
平時の昼行灯状態にこそ、大鳥が本当にやりたかったことができていたのではないかと思います。
posted by 入潮 at 04:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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