昨年に炎暑のラオス、年が変わって氷点下のブータン、2月中旬に1日だけ東京、そして今に至ります。気温差40℃超。成田空港に荷物を預けて、空港で冬服と夏服を入れ替えました。夏までこんな感じです。夏以降は目処が立っていませんが、立てるのも怖い感じです。
ネットの状態も悪く、更新が止まっていてすみません。先週大きな現場作業がひと段落して、やっと一息つけました。
重い中のネットで、おっ、と思う記事がありました。
日経BPの記事。「リラックマ」がゆく、歴史の間違った学び方。
高校の日本史の試験でゼロ点を取ったという筆者の方の語る「歴史」。
短いエッセイですが、かなりウンウンと頷きながら読ませていただきました。近年の歴女ブームや大河ドラマについて感じていたことを、ズバリと言い当ててくださっている感じでした。
著者は、近頃流行している歴史エンターテイメントの奇妙な点について、端的に記述しておられます。
「歴史を題材にした人物伝や、歴史書に材をとった英雄物語や、史実を踏まえつつ踏み外したフィクションが、映画化され、テレビドラマ化され、舞台に上げられてロングランを繰り返すうちに、いつしか「事実」として認定されてしまう傾向は、われわれの暮らす一般社会に、厄介な波紋をもたらす」
「学校の教室から外に出たところにある「歴史」は、モロなエンターテインメントに流れる。へたをすると、駄法螺みたいなものに。事実より印象、事跡より石碑、下部構造より新聞記事、時代背景より人物、思潮より演説、貢献度より知名度、合理性よりドラマ性、史実よりスポンサーの意向が重視される。そのほうがわかりやすいから。 」
全くその通りだと思います。非常に的確に仰ってくださっています。
そして、「わかりやすい」歴史エンターテイメント像に大いに寄与されたのが、司馬遼太郎でしょう。
司馬氏に、無能でイヤミで卑小な人物に書かれてしまった大鳥圭介のファンであるところの自分は、彼のもたらした影響には大いに迷惑しています。
大鳥だけではなく、あらゆる人物は、ストーリー性のために、彼の筆でデフォルメされ、善悪分かりやすい人格と、能力のある無しに分けられてしまっています。良いほうは坂本龍馬に土方歳三に、かつてはそんなに有名ではなくても、国民的大英雄に仕立て上げられます。地元は観光客が押し寄せ、グッズやおみやげ物が売れ、万歳でしょう。
一方、彼に悪役として矢面が立てられてしまった人物はもう大変です。なにせ追従するライターや作家やドラマ企画者が、その通りに人物の評価を広めてくださり、一般人に嘲笑される羽目になるのですから。乃木希典など名を汚すなんて次元ではありません。ご遺族の方は名誉毀損で訴えてもいいのではないかと思ったりします。当の作家はもう地下にいらっしゃいますが。
先日も、ラオスに来た会社役員の方が「坂の上の雲」についてつらつら語って下さいました。異論を述べようにもつい上下関係を慮ってしまう卑小なヒラ社員の自分です。「司馬遼太郎の人物像はアニメキャラクターと同じですよ」などと言ってしまったら、場の空気が気まずくなって仕方がありません。どう言ったら場を荒立てないですむか困りました。司馬遼太郎を読んでいるということが、企業経営者や政治家など社会的に上位にある人間として格好いいことだという幻想は、どうにかならないものかなぁと思います。
「私の司馬デビューが遅かったことは、結果として、正解だったということだ。あれは、大人になってから読むべきものだ。自他の未分化な人間が読むと、傑物英雄たる主人公と読者としての自分が一緒くたになってしまう。と、ろくなことにはならない。日本を洗濯とか。何様のつもりだ?」
自分の美的感覚に適合するヒーローとの同一化は、子供の頃から誰もが行うことです。自分も幼稚園や小学生の頃は宇宙刑事のアシスタントになって闘うという夢想をしていました。今もその類の幼稚さは恥ずかしながら持ち続けています。それはストレスにあふれる現代人には当然のことで、現実との区別さえついていれば、悪いこととは全く思いません。
心を守る働きには「補償」というものがあります。劣等感から生まれる不満、不快を、何らかの方法で無意識に補うことです。その補償のひとつに、「同一化」というものがあります。優れた理想的な対象と自分と同一視し、その思考、態度、行動などを取り入れて真似たり、自分に置き換えて妄想したりすることで、いい気分になることです。
所詮、 自分なんぞは、世の中のどこにでもいる、掃いて捨てられる、代わりはいくらでもいる平々凡々な一般人です。同一化により、劣等感や不満が補償されるという癒しは、心の防衛に必要です。手前だけではなく、老若男女、誰にでもありえることでしょう。それゆえに、唯一無比のヒーローには、憧れるものです。自分が卑小で平凡という残酷な現実を無意識に知っているほど、その傾向は大きいでしょう。
ところが、アニメや漫画のキャラクターとの同一化となると、いい年して幼稚であり恥ずかしいことだと、世間様からは見られてしまいます。あまりおおっぴらに言えることではありません。
一方で、これがこと歴史人物になった場合、いきなり高尚めいた、大人の趣味として認識されるようなフシがあるようです。「坂本竜馬に習って自分も云々」というと、何もしていないのになんだか偉くなったように見てもらえるような錯覚が生まれます。
歴史が、歴史学と歴史エンターテイメントの境をはっきりさせないから故に生まれる錯覚なのでしょう。
だから、歴史人物が同一化行為に用いられやすい。
そして、司馬遼太郎のお眼鏡に適い、分かりやすく偉人化された人物は、この同一化に大変都合が良い像になる。自他が分化しているはずの大人でさえ。むしろ何故か司馬人物像との同一化作業が大人として素晴らしいことのように思える。それが、司馬氏の作品が大衆に受け入れられやすい一因ではないかと思います。
ただ、エンターテイメントとして憧れることができる像と、実際の現実で求められる人間性は、全く違います。
著者は述べます。
「経営陣が武将気分だったりする会社には、あんまり入りたくないぞ」
全く同感です。
あらゆる会社の方々は、皆それぞれの苦難困難の中でお仕事されていることでしょう。手前もマラリアや交通事故やテロでいつ死ぬ目にあうか分からない環境です。それなのに、本国の上司たちが戦国や幕末の武士気分で社員をコマ兵士扱いしてくれるなら、すぐにでも辞表出しておさらばしたいです。上層部には、本気で社員の安全と健康を考えてほしいです。社員が元気でこその会社の元気だと思います。
新選組なども組織運営のモデルとして取り上げられることがあります。司馬遼太郎は土方歳三を新選組の組織者運営者としてとても格好よく書いています。
ただ、架空の組織なら良いのですが、これが実際の組織となると、逃げたくなる面が節々にあります。様々な作品で「局中法度」という新選組の組織マイルールが語られています。(メンバーの談話に基づいた子母澤寛の創作だという話もあるようです)。これに背くと切腹だそうです。例えば「士道ニ背キ間敷事」。「士道」と言う言葉は、誰でもいかようにでも解釈できる概念です。これに背いたら切腹ということは、上の人間の匙加減で好きなように殺せるということです。そんなわけの分からないまま殺されるような組織に憧れる気にはなれません。あるいは、「局ヲ脱スルヲ不許」と辞表も出せないようです。辞めたいなら死ぬしかないなんて、ひどい話です。会計担当の河合耆三郎なんて、トップが女遊びするための金を処理できなかった為に切腹させられたといいます(いつもの「説がある」ですが)。割に合わないことこの上なしで、不条理極まりない話だと思います。こんな組織の為に働きたいとは、私なら全く思いません。自分の命は守りたいです。何かやらかして罰されてしまう時も、上司の勝手な恣意ではなく合理的な法に則って裁かれたいです。法治国家万歳です。
「魅力的なキャラクターを創造するのは、作家の想像力の由縁だ。筆力の証しでもある。その意味で、歴史上の人物としてはあんまり有名でなかった坂本龍馬にスポットを当て、その人物像に血肉を与え、チャーミングな人物像に仕立て上げた司馬遼太郎は偉大だったのだと思う。 でも、司馬遼太郎が描いた龍馬は、あれは、あくまでも小説中の登場人物であって、半ば架空のキャラクターだ。現実の龍馬とは違う」
司馬氏が偉大な「作家」であることは全く同感です。そして、龍馬がキャラクターだという点は、今更という感じではありますが、お茶の間で大河ドラマを見る方々もみんな承知して下さっていればいいなぁ、と思います。キャラクターはあくまでキャラクターであり、虚像と現実は区別するというのは当たり前のことなのですが、どうもこの当たり前のことがあまり一般的でないような気もしています。
それにしても、坂本龍馬氏や土方歳三氏は、近年のファンシーなキャラクター化を、地下で喜んでおられるのでしょうか。自分の人生を、子孫係累の方や地元が金儲けのために捻じ曲げて彩色して作り上げてしまっているという現状は、どちらかというと情けなく感じているのではないかという気がします。かの歴史家ヤン・ウェンリーは、「先祖を自慢するのは子孫がだらしない証拠だ」と仰っています。
ヤン提督は冗談ですが。本当にご先祖様や地元の方を誇りに思うなら、自分自身がその人物を超える気概を持ってはどうだろうか、と思います。その方が成したことよりも大きなことをやり遂げる志をもち、そのために学び訓練を受け能力をつけ仕事に打ち込み、成果を行動で示していく。偉人も、自分を超えてこそ、我が子孫、我が土地の者、とお喜びになるのではないでしょうか。
また、本当に故人を大切に思うなら、故人を利用してビジネスをすることばかり考えず、ありのままの故人の姿に愛着を持って、本当の姿を求めるものではないかなと思います。もちろん顕彰する為に必要な経費を稼ぐことは大切ですし、関係のない人が寄ってたかって偉人を飾りたくって商品にして知名度を上げるのも、地元収益に結びつくなら歓迎でしょう。
ただ、収入にはまず寄与しないだろうのに、大鳥圭介没後百年に向けて、残業したり身銭を切ったりして、資料館を設立し故郷の偉人見直し作業を行っておられる上郡さんや生家地元の方々のを見ていると、つい何かと余計なことを言いたくなってしまいます。
一方、エッセイに一点だけ異論をば。
「明治維新は、20代、30代の若者たちが年長者を追い払った革命だ。というよりもむしろ、年長者が自爆して、天井が外れたからこそ、若手に活躍の余地ができたというお話なのかもしれない」
ということですが。年長者は自爆したわけではありません。当時幕府は、限られた情報、知識、財源の中で、可能な限りの対策は講じていました。幕府側にも若者はたくさんいました。外国対応をはじめ押し寄せる難問に対処するために積極的に若く優秀な方々が、低い地位の幕臣や平民、陪臣から重要な地位に、多数登用されていました。勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介、渋沢栄一、前島密、宇都宮三郎、大築尚志、その名前を挙げればきりがありません。ただ、外から押し寄せる外患の波と、それによる経済の混乱、国内の疫病と飢饉や天災という内患が重なってしまい、行政処理能力を精一杯拡大してもをそれを超えてしまった、ということなのではないかと思います。
そして、革命は世の中のエネルギーさえ溜まっていればなるべくしてなるもので、たまたまその上にいた人が有名になる感じです。難しいのは、その後いかに国を作るか、です。歴史は、革命者には光を当てたがりますが、その後の本当に難しい仕事をした方々は、スルーしがちです。
明治は、江戸幕府という親が国の土台を築いていたからこそ、明治維新という近代国家作りが成し遂げられました。土台とは、教育であり、人材であり、ノウハウであり、技術です。
国づくりを成したのは、坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作など、知名度の高い一人の英雄ではありません。その時代を精一杯生きて職務精励した、一人一人の官僚たち、そして民間人たちです。
デフォルメされ好きなように解釈されまくった武将や偉人の言葉より、そうした名もない一人一人の生の言葉にこそ、私は学び、奮起させられるものがあるのではないかと思います。
明治人の記した日記や記録は、多数出版されています。司馬遼太郎の華々しいキャラクターよりも、肉声を残した人々のほうがよほどリアルで、厳しい現代を生き抜く示唆にあふれているのではないかと思います。
英雄視されてしまうと、どうもアニメキャラめいてしまって実在感が伴わない。けれども、偉人とされている方でも、一人一人日記や書簡を読むと、彼らも人間なんだと実感をもって思います。当たり前のことですが。苦しい思いして悩み、不安になり、迷いながら、弱音を噛み殺して責任を引き受けて、喧々諤々議論して、国に献身したのだということが分かります。みんな同じなんだ、と思います。
単年度予算の弊害に苦しめられて事業を細切れにしないとならない理不尽さとか。汗水垂らして作り上げている過程のものが、緊縮財政の予算減少で途中倒れになって無為に帰して、関係者に頭を下げて中止を謝り回らなければならなかった悔しさとか。大臣連中は一度現場に出て雨風の中測量機材を担いで野外天幕の中で一週間でも過ごしてみればいいんだというぼやきとか。
分かる分かるぞ。コブシを握り締めて、真に真に共感できます。…百年前から進歩していないということか。
もとい。彼らの背負った重圧に比べれば、手前の仕事など吹けば飛ぶようなものに過ぎません。だからこそ、自分ではどうにもならないような苦難の中で、悔しさや慙愧の念を噛み締め挫折しながらも、事業を進めた方々の思いや誠意こそに、学ぶものがあるのではないかと思います。
エッセイの著者の方は歴史キャラクターと歴史人物が別であることを、以下のように表現されています。
「リアルな熊とリラックマが別物であるのと同じ」
リラックマは可愛いし、見ているだけで癒されます。ただ、その可愛さは、人が商品価値を出すために人為的に作りあげたものです。可愛い以上のものではありません。一方、本当の熊は、生々しく容赦がない。熊は、鮭を取り獲物を追い大自然を生き抜く知恵と力を持っています。本当に学びたい、人間の器を大きくしたいと思ったら、見るべきものは、リラックマではなく、リアルな熊であるべしということなのではないかと思います。
本当に好きな人、尊敬する人なら、その人物を超えることこそが本懐というものでしょう。そのために、人物の成した実際の功績と、その裏にある苦難と苦痛を知り、乗り越える困難を思う。それは、同一化と一線を隔した人物の見詰め方ではないかと思います。
それで、自分が大鳥圭介を超えられるか。というなんとも恐れ多い空想をしてみるのですが。こりゃあ大変なことだと、がっくりと地面に膝をつく他はない、卑小なる手前であります。
ただ、その気概を持って仕事するほうが、良い仕事ができることに疑いはありません。さあ次だ次。