2010年04月15日

こんなブログは

「こんなブログは更新するな」
一見ギクッとする題名のブログで、痛さにダハダハ笑ってしまいました。
http://koushinsuruna.seesaa.net/
もう、手前に当てはまるところが多すぎて、のた打ち回りました。

すでに5年以上前、ブログがようやく大衆化し始めた頃の記述ですが。すさまじいほど今の状態を言い当ててしまっています。

一行で切れ良く、ぶっすりと容赦なく。
千枚通しでえぐられるたこ焼きの気持ちが分かりました。

人の心情を慮るばかりで、言いたいことも言えない世の中。そこにこの、真実を抉り出す至言の数々。マゾヒスト的快感がたまりません。
手前に覚えのあることを、勝手にご紹介させていただきたいと思います。


○ シロウトの日記なぞ読みたくないという根本的問題

早速ですが。それをいっちゃあ、元も子もないです。
素人の日常の記述は、正直、つまらんです。何を食べたか、体の調子がどうなのか、人間関係の愚痴、など。そんなことはどうでもいい。誰にでもありうることで、自分には関係がないから。その人の日常に興味のある人は、その人の家族が恋人でしょう。つまりはその人の日常を共有している人。
一方、ネットは違います。書き手と日常を共有している人は誰もいないと考えるのが無難です。

有名人でもアイドルでもない。一方的に不特定多数に知ってもらえてその口に上る存在ではない。その辺のどこにでもいる素人の手前の書くことに、なんで興味を持ってもらえるかといえば。それは、趣味や好きな対象が一致するから、ということではないかと。そこを共有すると、その部分の自分のアイデンティティを認めてもらったような気になれる。
よって、趣味の情報を提供し続けない限りは、やがて寂れる。
金の切れ目が縁の切れ目。趣味の切れ目も縁の切れ目。

例えば旅行記などでも如実かと思います。荷物が重いとか、かばんが壊れたとか、飛行機がトラブルを起こしたとか、宿が汚いとか、そんな誰にでも起こりうる個人的なことはことはどうでもいい。
読む人にとって価値が感じられるのは、旅行の対象地に何があり、どのような価値があり、人類にとってどのような意味があるのか、という、情報の部分。そして、それに対して書き手が何を学びどのような新しい認識を抱いたかという、発見の部分。つまりは、趣味として共有できる部分。それが大事なのではないかと思います。

○「駄文を垂れ流しています」が謙遜になってない

謙遜の方向は、難しいです。よくハキ違えてしまいます。
謙遜のつもりで事実を述べてしまうと、それは謙遜ではなく、単に痛いのだから、言わぬがマシ、ということなのでしょう。イタタタ。

○ 文末には必ず自己ツッコミ

他にツッコんでくださる心優しい人はいないことが分かっているから、自分でやるんです。寂しい心の現われなのです。

○ ただの思いつきや感想を「個人的には・・・」と書き出す馬鹿丸出し。「公」のない一般ペーポーに「個人的」もへったくれもない。

「個人的には」という修辞は便利なのでつい使ってしまいます。「世間様と意見や認識は異なっています、ということは自分はわきまえているつもりなので、変なことを言っても許してください」と暗に求めているユニアンスを込めているつもりでも。しかし実際、いちいち他人様はそんなことは気にしないのです。
また「個人的には」といいながら、どこかで誰かが言っていたこと、ニュースや週刊誌やワイドショーで言われていることと大差なければ、寒いです。
結局、私は他人とは違うのよ、というアピールに過ぎないということなのでしょう。
「個人的には」。つい使ってしまって卑小なる自意識を滲み出させてしまう、恐ろしい言葉です。


○ 「特定個人に向けた私信を記事にする、という熱いアピール」

特定個人がそのブログを見ているという自信があるからこそできる記述。好かれている私。本当にそうなら良いのですが。えてして、そうでないほど、見られている私、そんな私をもっと注目して、というオーラが垂れ流れてしまうもの。
……痛いです。というか、そろそろ私可愛そうな領域に入りそうです。


○ 読者は皆全ての記事を読んでいる、という前提で書かれている

まさにやってしまっています。どこの世界にこのログに目を通す暇人がいるのか、と知りつつ、つい、「前に書いたからいいや」と記述を省略してしまったり、過去の記述を前提にした話をしてしまう。
毎回、全ての、読んでくださる方は、今日初めてここを目にされる方なのだ、とわきまえるぐらいで丁度良いのだろうと思います。


○練りに練った長文記事にコメントがつかず、「今日ドラクエ買いました」の1行記事にはコメント殺到

私のリッカの宿は、持ち主の寂しさを示すように、いつまでも閑散としています。すれ違い通信なんて、夢のまた夢。もとい。

ずいぶん前に、工部大学校の博物場とそこの担当の奥田象三氏について、一発入魂の記事を書いたのですが。ついその最後にポロリと、お内裏様とお雛様の右と左はどちらだったか、という事を書きました。結果、コメントが延々お雛様談義一色になりました。私には、お雛様の位置より奥田氏とひなちゃんのロマンスのほうがよほど重要だったので、少し切ない思いでした。
しかしながら、お雛様がいなければ、その記事にコメントは付かなかったことは明らかです。それが当方のクオリティ。奥田さんのせいにしてはいけません。


○「マニアックになり過ぎてアクセス激減 」

マニアとは、ほめ言葉ですよね。これは負け惜しみ七割ですが。
アクセスの数が少ないのは、むしろマニア性を賞賛されていると見るべきだ。

そもそも面白く分かりやすい文章ならば、いくらマニア度が高くとも、むしろマニアックなほど読んでもらえるというものだというのは置いておいて。


○ 「○○さん」「××ちゃん」等、敬称含みのハンドルネームを名乗る何様感覚と、それに「さん」をつけて呼びかける愚行

たしかに色々考えこんでしまいます。例えば、「○くん」と名乗っている方は、多分この方は「くん」付けして呼ばれたいのだろうと思うのですが。そのものずばり「○くん」だと呼び捨てしているようでかえって失礼であるように思うし。かといって「○くん様」と付けると明らかにおかしいし本人の意図にも反しているだろう。しかしながら「○くんくん」では何か臭そうだ。
あえて文中で呼びかけないしかないのではないかと思います。


○ 盗作される恐れのないブログに限って著作権にうるさい

私も著作権にはうるさいです。日本版フェアユースの動向は目を皿にして注目しています。
そしてわざわざ、トップページに「コピーOK」マークを貼り付けて、著作権フリーを明言しておいてすら、だれも盗作なぞしてくれません。

実は私は、私の考えることが一番面白いと思っています。私にとって。
これは、あくまで「私にとって」であって、他の人にとってもそうなのかということになると、全く自信はありません。なので、コピペでも何でも、私の認識が世界に広まるのなら、大歓迎です。だれか盗作してくれないかなぁ、そうすればこういうことを考えているのは私だけではないと安心できるのに、と思います。

著作権を主張される方、c にマルのマークをつけておられる方って、自分の考えは自分だけ持っていればいいという、独立不羈、孤高の精神なんだろうか。あるいは、自分の記述は著作権で保護されいつか利益を生むという確信をお持ちなのだろうか。いずれにせよ、そこまで自分の書いたものに誇りを持つということは、すごいことだなぁと思います。

手前の文はどうでもいいのですが、作成したデータや引用した資料内容については、もし需要があったとしてですが、どうかコピペではなく御自分で正しさをご確認ください。間違えていて後から問題が生じても、私知りません。
あ、自分の言葉に責任を取りたくない逃げ道にも、著作権は使えるのですな。
ううむ、深い。

○ (笑)という逃げ道を作らなければ何も書けない
○ 文章の8割が顔文字


(笑)とか(汗)とかのカッコ文字、あるいは^-^とか ^^; とかいう顔文字は、大変便利であると思います。これはジョークなんですよー、汗かく思いで言っているんですよー、だから悪く思わないでね、攻撃しないでね、というような免罪符を突きつけている感じがします。自分もついつい使いたい誘惑に駆られ、打ち込んでは削除しています。

けれんみやネガティブな印象を与えたくなければ、文章そのものの中で表現に配慮して書くべし。笑わせたければ文章そのもので笑わせるべし。楽する勿れ。と、私は自己に課しています。
おかげで毎回、必要以上に長文になる。言い訳です。精進します。

ところで、母から来るメールが、この顔文字八割に該当します。「気持ち悪いからいい年こいて顔文字は使うな」とは、親には言えない心優しい娘です。どうも携帯の特殊フォント?を用いているらしく、PCに飛ばせば顔文字が化けてくれます。なので、毎回PCに自動転送して読んでいます。おかげで私の中では、母とは、宇宙人語の中に片言の日本語を込める存在です。ビジネスメールしか返さない娘にもめげず、母の宇宙人語割合は増加の一途です。どうでもいいことですみません。


○ 2ちゃんに晒されたのにアクセスが増えない

一番悲しいのは、どんな形であれ見てもらえたのに、リピーターになってはもらえないことです。

2ちゃんに晒されるのは二通りあるかと思います。指差しされてその痛さを笑われているという場合と、議論の根拠として或いは資料としての参照という場合です。

前者には、ムカつきはぐっとこらえ、痛い自分に気づかせて下さってありがとうございますと御礼を申すより他はありません。2ちゃんは世間の鏡です。

後者の場合、とっても嬉しいのですが。間違いをスレの中で指摘するなら、ついでに本人にも知らせて下さればいいのにと思います。何で私、ミニエーが丸弾だなんて初歩的なミスを書いたままにしていたのだろう。ズボンの尻が破れてパンツが見えているのに気づかず放置してて、電車の中で指指されてクスクス笑われているような恥ずかしさでした。頼むから教えてくれよ。


○ コメント欄で「自分語り」を始める常連にも懇切丁寧にレスを返す管理人の義務感

他人のブログや掲示板のコメントで自分語りする人って何なの、あんたに興味はないのよ、記事の中身について語ってよ。…という想いをされた事のある方は、ブログの書き手たるもの、皆々誰もにあることではないかと思います。
自分もそうですと言ってしまうと、友達を無くすと思います。
自分語りのコメントより、ゼロコメントのほうが良いとするまでの潔さと思い切りを持つ強さは、手前にはありません。
義務感、というよりは、コメントを書いてくれる人を繋ぎ止めておきたい切ない心理なのではないかと思います。


○「今日は私の○回目の誕生日です (*⌒ヮ⌒*)ゞ 」の記事にコメント0

手前はそういう記事を見ると、「誕生日を祝ってもらえる家庭にお育ちになって、うらやましいことですね…」などとコメントしたくなります。そんな粘着質なコメントをもらうよりは、ゼロのほうが良いのではないかと思ったりします。

なお、コメントがゼロなことなどは分かりきっているから、わざわざ手前の誕生日ごときはブログには記さないのが、正しき自己防衛というものです。

○ 30過ぎの管理人はプロフィール欄に具体的年齢を記載せず、「30代」等と無駄に曖昧な表現を使う

どうせなら、「私はきらきら星の住人で、29まで年をとったら今度は18まで若返る」とまで書けば、いっそ清清しいです。

最近、白髪が増えました。
己にやましいことがあるなら、そのような小細工はせず、そもそも、プロフィール自体をハナから作成しないのが、やはり正しい道であると確信します。

○「昨日は更新休んじゃって、すみません」という自意識過剰

「昨日は」を「今月は」とすると、真にその通りの自意識過剰なのです。
私には読者の方がいる。その方々に申し訳ないから更新しなきゃ!という強迫観念。求められているという錯覚が産む、快楽。
はたから見ればやはり痛いものと知りつつ、ついそうした意識を持ってしまいます。

この意識がゼロになるとブログが死ぬときだから、表にさえ出さなければ、それはそれで良いのではと思います。というか、そのぐらいは許してください。



こういうのを一つ一つ考えると、ブログを書く意味って何だろう、と思います。人それぞれではありますが、基本は、自分を見てほしいという自意識の発露であることに、異論はないでしょう。

そして、誰もにあるゆえにいっそう、それをダダ漏れにするのは、見苦しい、ということなのでしょう。自意識過剰にならぬようぐっとこらえ、しかしながら価値あるユニークなものを。
ブログの道は、深いです。


さて、ラオスからハノイ経由、ベトナム北部の山中に入っていました。
人とモノとインフラと。ベトナムの国の成長力に圧倒されてきました。いや伸びるはずだわ。

…という、手前が今どこか、という記述は、誰にも求められていないということは分かりつつ。これは、こういう状況なので更新できませんでした、という言い訳の意図が4割ぐらいです。そして、「更新できません」あるいは「生きています」という生存報告もまた、別に誰に求められているわけでもないのに余計なことを伝える自意識過剰なのであります。
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2010年04月20日

アジ歴に見る伝習隊士官

アジア歴史史料センター

またかなり、データベースの史料を追加してくださっていました。閲覧可能になっているものも多い。

大鳥圭介関係では、工部省時代の陸軍省・海軍省とのやり取りが結構追加されていて、目を見張るものがあります。これはまた後日。

特に陸軍省大日記関係が増えています。「陸軍省 開拓使」関係が、今年度公開予定ということで。大鳥が、開拓使から陸軍省参謀局に売り渡された経緯が明らかにならないかなと、今から期待しています。
あと、海軍省公文備考のデータベース追加も、嬉しいです。


お陰様で、元伝習隊士官についても、新たに判明した足取りがありました。

まず本多幸七郎こと本多忠直。

「明治七年七月十九日 式部頭代理 式部助五辻安仲 陸軍省御中 号外 本多忠直 任陸軍中尉 羽山@ 任陸軍少尉 右本日宣下相成候条此段及御達候也」

中尉任命報告。号外にあまり意味は無いのでしょうけれども、何か期待をしてしまう。


「忠直儀 集成隊附兼勤被仰付 右御請申上候也 明治十年十月二十日 陸軍中尉本多忠直 陸軍中将鳥尾小弥太殿 」


これは陸軍省大日誌の西南戦役陸軍事務所史料。「集成隊」を兼務するよう命じられ、陸軍中将の鳥尾小弥太に「お請けします」と本多さんが返事を書いているもの。

これ、「請書」として別途保管されているということは、普通、写本ではなくオリジナルだろう。それが本人から提出されている。ということはこの画像。
…本多さんの直筆、ナマ文字か!

honda.gif

すみません。思わず…。
実物はアジ歴のサイトでご確認下さい。

男らしい、無骨な手を思わせる文字でございます。
久しぶりに鼻血が出るかと思いました。

それで、西南戦争の「集成隊」とは何だろう。こう、精鋭を集めた切り札の隊、というような字面ではありませんか。

と思ったのですが。この1ヵ月前、明治10年9月に、すでに西郷さんら薩摩側指導者は自刃・討死し、西南戦争は収束したのでした。
とすると「集成隊」の任務は、もしや、残務処理なのか…。


あと、陸軍日誌明治八年第三十四号四月十六日 御沙汰書にて、従七位に叙されていました。

デジタルアーカイブのほうには、明治14年7月、「同本多忠直同上(歩兵大尉古賀鋭免官ノ件)」として免官の公文データがあります。


次。瀧川充太郎こと、瀧川具綏。データでは瀧川と滝川の双方の漢字が用いられています。

陸軍組織履歴。

明治八年一月四日 第一号 中尉滝川具綏 一等給下賜ノ事 東京鎮台ヘ

別紙には、「一月四日 御沙汰書 陸軍始総指揮官被 仰付 陸軍少将 東伏見嘉彰 達書 一等給下賜 陸軍大尉 白井胤良 同 同 井石公穀 同 陸軍中尉 滝川具綏」

ともあります。一等給をいただいて、東京鎮台に勤務。この時期瀧川は東京にいた模様。明治9年1月22日に、横浜仏蘭西陸軍伝習隊の同窓会を大鳥圭介、藤沢次鎌が催していましたが。瀧川も出席していたのでしょうか。

明治7年12月3日「筑摩県権令 嗣子徴兵志願之者申立徴兵使検査済の者に付伺書」

第二千二百六十五号 嗣子ニテ徴兵志願之旨申立徴兵使検査済之者之義ニ付伺写 当管下信濃国筋摩郡村井町村 清吉二男 手塚丑松 嘉永六年外兼二月十五日生 右之者去ル九月中徴兵志願之趣願出候得共嗣子タルヲ以テ御採用之度無御省ヘ相伺候所管之鎮台ヘ可申出旨同月二十八日附ヲ以御指令有之然ルニ右御指令致達以前徴兵使巡廻服役之者検査之際同月二十九日清吉二男之趣人別表相認徴兵署罷在志願之旨申立候ニ付検査之上常備歩兵会第六十二号之@号相更候義ニテ甚不都合之事ニ付入営之戦ハ見合置大@号ハ取消之上補充会之内ヲ以義差加ヘ可相成哉之旨其節之徴兵使滝川具接并其崎岡所ヘ打合候処無度滝川具綏日副使解職之今日ニ至リルテハ右等御取計差支候ニ付御省ヘ相伺候様報知不之候条無

ということ。徴兵に志願した信濃の清吉さんの次男は、跡継だということで採用はやめてくれと申し出た。それを確認して、入営して戦させるのは見合わせ、補充会から補充するようにと。瀧川と打ち合わせしたけれども、瀧川はもう徴兵副使の職には無いのだから、滝川が自分で処理したら差し支えもあろうということで、筑摩県権令永山盛輝が陸軍省にお伺いしている、ということの模様。

徴兵副使だったころは、年齢が達していない者を上官が徴兵し、瀧川がそれに同意したが為に謹慎10日を受けたということもありました。
それに懲りたというわけではないでしょうけれども、瀧川氏、慎重な姿勢です。

徴兵は結構厳格に行われて、かかるトラブルはこの頃からつき物だったようです。

後備歩兵第二大隊第四中隊長 陸軍大尉吉田諫三 同大隊第三中隊長心得 陸軍中尉滝川具綏 右者西南之役戦死致ノ旨陸軍少佐河野通行ヨリ届出ニ付此段上申仕候也 十一年一月十二日 旧別働第二旅団司令長官 陸軍少将山田顕義 陸軍卿山縣有朋殿

瀧川の戦死は5月31日。享年
この別第二旅団からの上申書は、山田顕義から出されています。箱館戦で戦った相手が部下で、その死を報告する。奇縁を感じずにいられません。

公文書は、記録以上のものを語りません。大鳥の書いた碑文草稿もとても散文的でした。


お次は、大川正次郎こと、大川矩文。
まずは、フルネームで出てきた4年の件名のみ並べてみます。


明治10年12月22日 大尉大川矩文始12名各昇進の義申出の件に付申進 四條少将
明治10年12月24日 士官の功績ある者等履歴書も半調製に付両3日中には送達 茨木中佐
明治10年12月30日 士官勲功調17名分進達 茨木中佐
明治11年5月20日 大尉大川矩文以下35名出征中昇進の義上申の件 旧征討総督


なんで昇進にかかる記録しか出てこないのかと、笑ってしまいました。

それぞれ見ていきますと。

明治10年12月22日 大尉大川矩文始12名各昇進の義申出の件に付申進 四條少
第八百五十六号陸軍大尉大川矩文始十二名別働第一旅団ニ付原出征中勤労有之ヲ以九月中各f進之義証討総督ヘ申キ之処揚柄賊徒平室ニ属シ遂ニ今日迄相進兼ノ然ルニ原室@申立ヨリニ右所長ヨリ其趣ヲ以更ニ申立ノ節ニ重通可@旨皮依相成ニ付而ハ別紙之通夫々至急陸軍@御申立相成ヲ様致度@申進候也 十二月十二日 旧別働第一旅団司令長官 高嶋陸軍少将 四条少将殿


ということです。大川始め十二名と、最初に名前が出されている。
薩摩出征中の9月、勤労したので陣中昇進させたかったが、賊徒がやってきたので手続きが進められなかった模様。早く昇進させてやってくれと、別働第一旅団の高嶋司令官が申し立てているようです。


12月24日 士官の功績ある者等履歴書も半調製に付両3日中には送達
大尉 大川矩文士官勲功調別去申十七名分進至仕間少然仕語議キ@@也 @テ第二旅団ヨリニ@以調的所シ付石日一@出シ@大尉以下六名ニ下友@@シ見入@シ産得展応包争進和向是文可然及的投@也 旧第一連隊長 十二月三十日 陸軍中佐茨木惟昭 以旅団総司令長官 陸軍少将@@助殿 勲功者列現 第一大隊 大尉大川矩文…


それで、別働第一旅団の残務往復書類として、茨城中佐から出されているもの。功績者17人に増えています。昇進者の履歴書を送ろうとしているけれども、まだできていないから二、三日中には送ります、という由。「勲功者列現」として大川の名前が最初に来ている。
その履歴書、ものすごくものすごく見たいのですが。それには間違いなく大川の年齢が書いてあると思うんですが。一体何処に提出され何処に保管されているのですか茨木中佐殿。

そう思って検索しまくりました。

「明治10年12月22日 別紙人名履歴書指出 大川大尉」
「明治11年2月2日 大川大尉 提出戦斗履歴書に追加一文の通知と処置依頼及び別紙」


とあったので、うぉっしゃぁぁ!と飛びついてみたら、
この方、「陸軍大尉大川清成」でした。この方、別働第二旅団所属で、沢山レターを作っている筆マメな方です。この方も優秀そうです。紛らわしいです。(大川矩文は、別動第一旅団第一連隊所属)

ちなみに、大川の所属と上司たちは以下の通り。

別働第一旅団司令長官 高嶋鞆之助陸軍少将
別働第一旅団第一連隊隊長 茨木惟昭陸軍中佐
別働第一旅団第一連隊第一大隊長古川陸軍少佐
別働第一旅団第一連隊第一大隊第二中隊長 大川矩文陸軍大尉

それで、別第一旅団の大川大尉を検索すると、たくさん出てきます。大川の西南戦争の動向は結構細部までつかめそうです。

「一串良屯在之沖原大尉持留中尉当隊屯在大崎周囲之賊ヲ今朝打払フ壬兵浜@遊撃之兵一持留屯在之斉藤大尉大川大尉各隊のニテ被方進撃ニ合撃@昇報相達ス」

「六月七日槻野ヨリ大川大尉斎藤者ヲ当本部ニ返ス出張ニ曰 本日午前八時頃若儘村出発槻野ハ者午後二時頃セ旧致ヒ@人賊有ヲ報ス」

「(3月24日)中尉ノ中隊ノ半部ヲ鏡口ニ出張セシメタルニ是又休戦ノ後チナルヲ以テ古川少佐大川大尉等ト共ニ宮ノ原ニ到ルノ報アリ」

「(3月27日)第一大隊第二中隊長大川大尉ノ一中隊ヲ古川少佐引率シテ鏡口ニ出張セシメタル」

「(4月10日)大川大尉中村中尉の各中隊宇土より隈ノ庄へ出張外」

「(5月26日)本日午前第二時三十分ヲ期シ第一大隊第二中隊大川大尉引率ノ隊一半隊ラ西田橋ヨリ本道賊塁ヲ距ル@大概二当米突ノ所ニ進マシ虚撃ニ供ス

「七月六日掛野ヨリ大川大尉斉藤者ヲ当本部ニ返ス出張ニ曰 本日午前八時頃若儘村出発掛野ハ者午後二時頃セ旧@ニ己人賊有ヲ報ス出張斥候隊ヲ出兵儘ニ開戦ス賊ニ大砲右ト云」

「(7月10日) 百引ニハ賊兵不居市成ニハ八十人程屯集スト百引ハ偵察ノ者実検セシ説ナリ市成ハ同地ヨリ来ルモノヘ説ヲ軍タル@乙听斬ヨリ又探偵ヲ出ス候也 七月一日 大川 茨木@ ニ次木@殿大川宛」

「七月十二日我第二中隊大ア攻撃中命ヲ受ケ斉藤大尉ノ隊ト持留村ヨリ進三中原村井ノ両中隊ハ串良道ヨリ進軍スルノ議定ナリ同日午前第四時我二中隊(大川斉藤)ハ持留村ヲ発シ岡ノ別府ニ小憇シ大アノ麓口ニ到ラントスルモ卒然賊ノ一部隊ヲ発見セリ(几六七十名)我カは我捜兵ハ直ニ散関シテ烈シク賊兵ヲ乱射ス賊潰走」

「(7月15日)島@大尉大川大尉当隊@当地ヨリ操上承用無之ニ付操留村屯@」

「(7月24日)七月二十四日都城ヲ目的トシテ午前二時岩川村ヲ発シ末吉ニ進軍ス此時第二大隊先鋒第一大隊ハ援隊ヨリ払暁ノ頃(略)阪上ノ賊軍ヲ衝ク第三及第四第一中隊モ陸続声援ヲ織ニシテ勇進ス賊支ユル能ワス死体及弾薬ヲ捨ヲ敗走ス此機ニ秉レテ大川石川之両大尉兵士ヲ励シ猛」


囮になったり、放火もしている模様。茨木連隊長から何度も活躍が注目されている。器用で有能な男、健在です。

あと、大川が作成し提出したものと断定してよいと思われるもの。

「7月1日 古川 百引には賊兵不居市成には80人程屯集すと偵察の者実検」

で、百引で、作成者大川、茨木少佐宛だから、ほぼ大川矩文の戦中自筆と思ってよいだろうと。

okawa1.gif

文句の付け様の無い字です。
自分の名前は苗字だけ適当に書き流しているのも、デキル男っぽい。

一方、瀧川中尉(滝川中尉)で検索しても、戦中の文書はほとんど出てきませんでした。大尉と中尉で記録されようがかくも異なるのか。単に隊の性格だったのか。

あと、戦後の最後に大川が出てくる記録。

明治11年 5月20日 大尉大川矩文以下35名出征中昇進の義上申の件 旧征討総督
第九百零三号 大尉大川@文等皋進儀上申 別紙陸軍大尉大川距文以下三十五名昨十年出征中勉励垰軍重ニ優等之者付脳書之通疾昇達致然申之者ニ然@各処ニ於ケ@員当佐不幸ニシテ帰ツ度養此或ハ集成隊ニ編伍人共他ノ事教二市為メニ備来帰順苦之何ニ在クト稚ヨリ遂ニ今日至于早達相返シ此ニ先般各梹団出此@今之趣ク同相成此段申進候也 旧出張別働第一旅団司令長官 明治十一年五月二十日 陸軍少将高嶋鞆之助 旧征討総督 陸軍大将有栖川@仁殿


昇進依頼は、さらに35人に増えました。高嶋司令官が出し、あて先は有栖川大将にまでなっています。「出征中勉励」「重二優」な人たち、「疾昇達致然」と、早く昇進させるべきと言っています。ただ、「不幸ニシテ帰」とか「帰順苦之」何か差し支えがあったのだろうか。上官が療養していたり、集成隊へ組み込まれてしまったり、ということがあって手続きが滞っていたということのように読み取れます。

ここで「集成隊」、上の本多さんが兼務していた隊の名前が出てきました。
集成隊、現地には出かけている模様ですが。やはり戦後処理班か。謎の隊です。

いずれにしても、大川。出世させたくて周りをやきもきさせた男。
相変わらずの有能っぷりに、惚れ惚れです。

それで大川、この西南戦争については「箱館の時は苦しかったが、今回は官費だから沐浴出来る位で、楽だった」などと林董に語っているのですよな。

それで、結局、大川大尉の少佐昇進は為されなかったのか。最終階位は大尉のまま。

履歴書は、見つけられませんでした。もし発見された方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報下さい。

まさか大川、履歴書を出さなかったから、佐官昇進は見送られた、なんてことは。無いとは言い切れないかもしれない。
出したくても出せない事情があったとか。実は大川、自分でも幕臣時代以前のことはよく分からなかったりするとか。妄想してしまうのはいたし方が無い事でしょう。
しっぽをつかませない男、大川。

日清を経て日露戦争まで生きていたら、将官にはなっていたのではないかと思います。金沢での病没が惜しまれます。


それから、山口朴郎こと、山口知重。

幼年生徒仏語学科7等出仕田中弘義以下各学科
理化学科 九等出仕上原六四隊 同小会殿二 十四等出仕山口知重


明治10年4月20日〜10月29日の陸軍事務所受領書綴より。
山口君、幼年学校の理化学科の先生になっていた模様。もともと、開成所の貝塚道次郎に化学を学んでいただけあって、化学は得意な人です。
明治4年に兵学寮で少尉に任官しているはずですが。十四等出仕にまで官位が下がりました。文官に転じると、キャリアが最初からスタートになってしまうのでしょう。本多さんも同じだった模様。

この後、士官学校で気球を製作することになります。


会議より山口知重越中島へ出張為致度伺
陸軍砲兵大佐 大築尚志 明治13年7月3日
陸軍省受領貮第一七八四号 砲会第参拾号 総木砲第六四五号 至急十三等出仕山口知重越中島江為致出張度儀ニ付伺東京砲兵工廠附十三等出仕山口重右兼而御達相成居候改正火薬製造漸次出来候ニ付近日越中島ニ於テ速力試験施行可致之節同所江本人為致出張度此段相伺候也 明治十三年六月二十日 砲兵会議副議長陸軍砲兵大佐大築尚志 陸軍卿大山巖殿 追而工廠江差閊之有無致照会候処差閊無之趣ニ付此段添申候也 伺之通 七月三日


火薬製造の改善ができたので、近日中に越中島で速力試験を十三等出仕の山口に行ってもらいたい旨、大築尚志大佐から陸軍大臣大山巌へ伺いが出されています。

この後も陸軍で教授職、明治32年に辞職した後、女学校や師範学校の先生に。

彼の人生は、堅実で地に足が着いていて、真面目な気性を伺わせます。
山口君を撤兵隊から引き抜いてきた大鳥さんですが、彼のそういうところが気に入っていたのではないかと思います。


というわけで。
気が付いたら朝です。国立公文書館の素晴らしい仕事ぶりに感謝です。
そして、22日までの「旗本御家人展II」。こちらもブラボーでした。感想はまた後ほど。

久しぶりにネットに耽溺すると、世の中が進んでいることを実感できて、得をした気分になれます。先日帰国し半月ほど日本にいられることになりました。嬉しい。寒いとか、雨ばかりとか、桜はもう散っていたとか、GWも仕事漬けだなんてのは、小さなことです。コタツで茶漬け食って玄米茶が飲めるだけで、幸せだ。

6月にももう一度戻れる予定で、タイミングよく川崎の御祭りも参加できそうです。アンソロの原稿は、孤独な間にほぼ終えました。
人間、今日を乗り切って生きる楽しみがあるのって、幸せだなぁ。

posted by 入潮 at 05:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月22日

雑誌「本」

国会図書館NDLで、大鳥さんの洋行中の事を書いたらしい論題があがっていました。

「明治国家をつくった人びと(21)幕臣大鳥圭介の再生--伊藤博文との出会い」
という、すばらしく心ときめくタイトル。
それで、この掲載雑誌の名前が、「本」。

雑誌名が「本」。なんのサブタイトルもない。

掲載が2010年4月であり、最新号は複写できないので、次の号がすでにもう出ているのかを確認したかったのでが。このタイトルだけで、複写ではなく雑誌そのものを購入する価値は十分以上にあるのですが。

「本」という名前の雑誌を、検索で探すことの、この難しさ。

ためしに「本」でぐぐると、「 約 1,330,000,000 件」という素敵な数字がでてきます。たとえ「月刊 AND 本」検索でも、「約 14,900,000 件」 です。


小一時間ほど費やし、なんとかたどり着きました。講談社の雑誌「本」。
http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/

かつて、これほど不親切な雑誌のタイトルがあったでしょうか。

これだけ情報を検索に頼る世の中。検索ワードのマッチングが、企業のモノ売り戦略に大きく関わる時代。消費者がモノを探す時代は終わった。「ほしい人へほしいものを」がキャッチフレーズ。YahooやGoogleのスポンサーリンクが大きく消費者動向を決定する時代なのですから。

もうちょっと何とかしてくれと思います。雑誌「本」。

いや、この時代だからこそあえて、アナログな文字に拘り、デジタル利便性は無視するのだという、それはそれで一本筋の通った講談社の主張なのかもしれない。

幸い、5月号は4月22日発売模様でした。よし。次の出張までに手に入るぞ。嬉しいなぁ。
ラベル:大鳥圭介
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2010年04月23日

大鳥圭介の渡航中借金

国立公文書館さんの展示感想を書き切りたいのですが、言いたいことが多すぎて、まとまりません。困ったものです。

その前に、アジ歴史料。これだけはご紹介させていただきたい。
というのを、先に、ひとつ上げておきます。

大鳥圭介、米英渡航中の、借金金額判明。

大隈大蔵卿 大鳥4等出仕官金借金の分返納処置の要請
作成者名称 大蔵卿大隈重信
資料作成年月日 明治7年11月20日

第五乙十一月二十二日 第五ヲ第百四十一号 青第二千六百八十二号 余貞第三百四十三号 御省四等出仕大鳥相成儀前大蔵少輔吉田清成浦英中於同国同人願リ官重之内ヨリ別紙之通拝借金有之ニ付右返納才当十一月分月給ヨリ連月半方宛取立返納御取計可有之此段及御掛合候也 明治七年十一月二十日 大蔵卿大隈重信 陸軍卿山縣有朋殿 大鳥圭介 一米金二百二十弗 此金二百二十円六十八銭四厘 一英金五十六磅十七シリンク 此金二百七十七円四十三銭 一米扎三十弗 但米金百弗ニ付米扎百十五弗十二ヒンハ半旨 此米金二十六弗五セント八此金二十六円十三銭九厘 一黒七館百三弗七十三セント 合 金五百二十四円十五銭三厘 @七@百三弗七十三セント


米ドルと英ポンド、合計して、借金総額、約524円。

大鳥が洋行中、外債発行理事官だった上司の大蔵少輔吉田清成に願い、大蔵省から借金した額です。
これを大鳥は、陸軍省、工部省において、給料の半額ずつ返済していました。陸軍省大日記を見ると、この返済について取りざたされている文書が多々あり、最初は何だこりゃと慄けます。少佐クラスの方も困っていました。異例のことだから、皆、どう処理していいかわからなかったのでしょう。

この手紙、大鳥が開拓使から陸軍へ移籍になった事に伴い、大蔵省から陸軍省に出されたものですが。大隈大蔵卿から山縣陸軍卿。他に重要な国家仕事がいくらでもある超大物同士が、人の借金の後処理に煩わされているのが、なんとも可笑しい。

そして、参謀局に配属になって、山縣に挨拶に行った大鳥が「大鳥君、君、大蔵に借金しているんだって?給料半分で本当にいいの?」と確認されて「いやそのすいません御手数おかけします」と山縣に謝る大鳥など、想像するとかなり楽しい。

このころの給料。明治7年官員録によると、大鳥さんは開拓使で五等出仕だったから、200円/月。陸軍省および工部省では、四等出仕で250円/月。
とすると、洋行時の借金総額524円は、給料2.5ヶ月分だったといえます。

当時の貨幣のやり取りがよくわからないのです。「金」と「扎」の違いは何だろう。「扎」のほうが価値が低いようですが。金は、メタルな金そのもののことで、「扎」は印刷されたお札のことか。あるいは、政府兌換券のようなものが何かあったのだろうか。

US$220 = 220.684円
£56+17/20 = £56.85 = 277.43 円

とすると当時のレートは、US$1=0.997円 1£= 4.88円。
1US$=1円と考えて良いのでしょうけれども。細かい端数は何だろう。当時の為替レートはどうやって決めていたのだろう。当時の金融市場がどう管理されていたのか。考えると不思議です。

ところで、合計すると524円25銭3厘になり、書類は524円15銭3厘だから、10銭ほど違っている気がするんですが、大隈卿。
大臣たるもの、細かいことは気にしなくていいのでしょう。

しかし、当時1円=今の1万円ぐらいの感覚なので、10銭≒1000円は、しみったれ圭介なら、何か言いそうだ。靴下の穴も縫って履きマッチ一本も無駄にしなかった人ですから。


さて、この借金ですが、大鳥の放蕩散財の末のことでは、もちろんありません。
北海道公文書館が所有している開拓使の公文記録にて。
明治6年11月17日の黒田→大鳥の緊急電報に、以下のものがあります。

「大鳥へ 速二太平洋ヨリ帰レ」

シンプルイズベスト、破壊力抜群の電報です。何度も上げてすみません。
外債発行任務を果たし、吉田清成が米国を出立したのが7月上旬で、帰朝が9月頃。しかしなぜかまだ圭介はアメリカにいる。いつまでたっても帰ってこない圭介。一方、開拓使では、黒田の両ブレインたるケプロンと榎本さんが、鉱山開発方針を巡って喧嘩していて、どうにもならん状況です。黒田としては猫の手も借りたい思い。業を煮やして、電信局に頼んで大鳥に出された電報なのであろうと推測されます。当時まだ、電信は始まったばかりで、よほど緊急でないと使わない、特殊な通信手段です。

そもそも、大鳥の出発前の6日前である2月12日に、黒田は吉田に書き送っていました(吉田清成書簡集)。

「大鳥圭介云々に付退て尚又熟考仕るに、小生全く御補助に依頼、他に易ふべき人物更に無御座、御気之毒ながら御断申上候。真に手足引抜るゝ同様にて、困却此事御座候。小生心事御憐察被下置御仁免奉合掌候」

大鳥には補佐を頼んでおり、他に代わりはいない。大鳥を連れて行かれると手足を引き抜かれるのと同様で、困却するとはこのことだ。気の毒だが断る。この心事を察してくれ。合掌して頼む。

と、大鳥を連れて行こうとする吉田に黒田が断固断っている様相でした。その後、榎本さんや荒井さんたちが開拓使に入ることになりましたし、山内君もいたから、黒田にとって他に人がいないということは無かったとは思いますが。その榎本さんが、ケプロンやライマンら御雇い外国人と戦闘モードに入ったので、黒田はまた困り果てたことでしょう。

この、早う帰って来て助けてたもせ、という悲鳴が聞こえてきそうな帰還命令に対する圭介の返答が、芸術的なまでに、すげない。

宿泊費、旅費、書籍・図面購入費など、出張経費〆て七千円。預かっているのは四千八百円で、二千二百円足らないから早く送ってくれ。それから、もう一回英国へ行って石炭、鉄鉱山、ビール工場調査をして、さらにロシアの皮の製法を調査する。よって「来戊年六月末迄に帰朝」「印度海帰路入用」つまり、帰りは来年6月ごろ、インド洋からになる。

詳しくはこちらにて。

なにせ、「開拓に係り候器械所等研究帰朝候様可致事」という命令(5年2月15日黒田→大鳥辞令)だけで、「一箇月半の間に百数十箇所を経暦し、大抵の諸工場は見尽くしたり」(日本科学技術史体系通史I)した男です。

すなわち、「(外債発行任務のついでに)開拓に関係する器械製作所等を研究して帰ってくること」という命令に対して「一ヶ月半で百数十箇所の、英国にあるほぼ全ての工場を見尽くした」という仕事を為した男です。

多分、この時点で、大鳥は、出費オーバーは覚悟していたのでしょう。
黒田としては、視察はもういいから、国内に戻って実務を助けてほしい。大鳥の要請に応じて金を送ったのかどうかは分かりません。命令違反なんだから、送らなかったのではないかと思います。

大鳥は、「速二帰レ」と、しかも緊急電報で言われているのに、さらに留まろうとした。いわば、上司命令違反です。

しかも、この黒田命令の後、6年12月になってからも、大鳥は「合衆国中遠地の製造局は一通り巡覧致し、両三日紐育(ニューヨーク)へ立帰り、冬中は此近辺にて処々検査之心得に御座候」と吉田に書簡で伝えています(吉田清成書簡集)。まだなお居座って調査する気は、満々です。しかも、クリスマス休暇で休んでいる工場ばかりということに不満を述べています、この人。稼動しているところを見つけてアタックするとのことですが。自分も休むという気すらない。

しかし先立つものが無ければ、滞在して更なる調査はできない。それで、大鳥は吉田に相談し、吉田が事情を理解して、大蔵省からの給料前貸しという形で、借金を手当てしたのではないかと、推測しました。
帰国三月、米国発2月としても、11〜2月の費用を賄うのに、500円は適当な額かな、と。

一方、ちょっと気になったのですが。岩倉視察団の留学生や面々が、利子目当てにジョイントナショナルバンクに日当を預けていたら、破産されて困った、という出来事がありました。大鳥も預けていたようですが。もしかして借金は、これで日当が無くなったことに対する補填の意味もあったのかもしれない。

ただ、借金は、英ポンドと米ドルと混ざっています。英国のジョイントバンクの損失補填だったら、英ポンドだけになるかと思います。また、「大鳥圭介の英米産業視察日記」によると大鳥は自分の日記で1行で、"Joint Bank Suspend之事"、と一行書いてあるだけのようです。もし日当が無くなって借金せねばならないほど困窮するほどの被害を蒙ったなら、もっと色々書いていてもいいかと思います。

あと、銀行破産と大鳥借金のタイミングもキーかと思います。ジョイントバンク破産は5年10月のことですが。
明治7年12月20日の熊谷大蔵大丞→陸軍省の公文によると。

「大鳥圭介拝借金返納方之儀ニ付当十一月分俸給渡方定日後ニ渉リ候ニ付今十二月分より相立返納御取計可有之旨致承知候一体拝借金之義者期限無之筈之処本文之分於海外昨六年四月頃より六月頃迄貸渡之廉ニ而如何ニ有之右等者帰朝之後速ニ何等云々一応可申立之処其侭打過居候分ニ而以後何時返納方相達候共差支無之様予メ其筋ヘ可申立置之処無其儀不都合之至ニ候」

上公文によると、返済は7年12月から開始。大鳥の借金は「期限無之筈」と無期限だった。そして借金申し入れは6年4〜6月であったとのこと。上のジョイントバンク破産は5年10月なので、やはり関係ないと思っていいでしょう。

なお、6年2月に外債発行は無事済んでいるので、外債公務は終わっています。それで、大鳥が金を借りた4〜6月というのは、まだ英国で、アトキンソンに化学を習ったり、ロンドン大学に通ったり、マルコムハドソン社と交渉したり、蜂須賀家を訪問したり、謎の△さんと会ったりしている頃。大蔵の任務が終了したので、あとは開拓使の工場視察業務だから、この先の渡航は開拓使が経費を出すことになる。一方、黒田がこれを支援しない限り、大鳥としては公費が使えない。大鳥はもっと残って調べたい。そこで吉田が手を尽くしてくれたのではないかと思います。

なお、上の公文では、大鳥が帰朝したら一応すぐ返済するということにはなっていたけれども、そのままになっていた。後々差し支えのないよう、いつ返納するかあらかじめその筋に連絡するように大鳥に言っていたが、大鳥からその連絡が無かった、ということらしい。

帰朝後、色々残務処理があった上に、すぐに北海道に飛ばされて、幌内の石炭調査に埋没していたから、おそらく、借金返済手続きどころではなく、無期限の御言葉に甘えていたのではないかと思います。この当たりはご愛嬌。

いずれにしても、大鳥が、吉田を通じて大蔵省から借金をしていたこと、上司命令に背いて滞在を延長していたことは、確実です。

途上国の人間にとって、先進国の物価の高さは、涙ものです。
洋行した人間は、風呂や衣服や食料の高さに皆驚きをもって記しています。
今でも、途上国から日本に視察にきた方々を工場や発電所へ案内する際、苦労します。彼らは現地滞在費として十分な日当を貰っているのですが、全くお金を使いたがりません。電車二駅三駅ぐらいなら歩こうとしますし、昼食は100円の食パンを四人で分けたりして、節約します。彼らの給料は、月給数千円、せいぜい1万円程度です。日本で1万円セーブできれば、彼らの国に持って帰ればそれが十万円の価値になります。だから、100円でも使いたがりません。日本人の税金で日本に研修に来ておいて、自分の日当を溜め込むのに必死で、大して研修の中身は真剣ではない。そんな研修生は腐るほどいます。
気持ちは分かります。それで、結局こちらが昼食代や電車代をおごる羽目になります。それはおいておいて。

そんな現状に日々接しているからこそ。

大鳥は、自分の借金を行いながらも、延長の渡航費用、視察費用を賄って調査断行した。

その、大鳥の滅私と、新技術を学ぶ姿勢に、打たれるのです。

当時、米英は、日本よりずっと物価の高い国です。1日の滞在費用で、日本だと1ヵ月も食っていけるような国です。
そんな国で、1日でも多くいて、ひとつでも多く学びたいが為に、今の感覚で言うと500万円を超える借金をした。

吉田さんも、大鳥のその意を汲んだからこそ、返済無期限で大蔵省から、という破格の条件で、関係者が手続きに戸惑うような借金を世話してくれたのではないかと思います。

それにしても、戊辰戦争で1年、投獄2年、シャバに出てきたら、借金だらけだった大鳥家の家計。新政府に御取立ていただいて、これで安心かと思ったら、釈放1月6日、洋行出発2月18日。一ヶ月しか家にいなかった上に、また借金を作って帰ってきやがった、この親父。しかも、船に乗る前に四児だった子は、あの短い間に種付けされて、今は五児の子です。みちさんもたまったものではありません。

一応大鳥は「留守宅の妻孥共無事の事と承知、猶此上御配慮奉願候」と、先に帰国した吉田さんに家族のことを頼んでいます。
まぁ、月給200円、半額になって100円でも、相当な高給取りに違いはないのだから、返済してもあまり困難はなかったでしょう。

下世話な大鳥家の家計詮索はさておきまして。
大鳥のこの、身銭を切った献身が、「石炭編」「山油編」をはじめとした視察報告になって国内産業に多くの示唆を与え、しらみつぶしの工場視察結果が、後の工部省工作局経営や元老院における諸制度協議、内国官業博覧会の審査に、大いに寄与したことは、疑いの余地がありません。


結局、大鳥の帰朝は、7年3月。6年11月の黒田の電報に答えた時点で、すでに金が足りていない状況でした。金が尽きた故の帰国だと思います。金さえあれば、この男は間違いなくもっと長居していたでしょう。

余談ながら、明治7年3月は、榎本武揚が海軍中将としてロシアに出発した月でもあります。大鳥は榎本さんの地位を引き継いで、開拓使物産局の局長になります。大鳥の帰朝は、タッチの差で、榎本さんの出発には残念ながら間に合わず、再会は叶いませんでした。会えれば、積もる話に花を咲かせたかったことだと思います。

帰ってきた大鳥に、黒田がどれだけ苦情を言ったのかは、知りません。

その後大鳥は、黒田を散々悩ませたお雇い外国人ライマンととても仲良くなり、マイ・ディア・ジェネラルなどと呼び慕われるようになります。
キリがないので、この辺りで。

posted by 入潮 at 03:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北戦日誌 山入村の戦い背景


Twitterで、母成峠の戦いの前日に行われた山入村の戦いについて触れました。戊辰戦争にて会津の国境が破れた致命的な敗戦であったとされる母成峠の戦いですが。その前日にあった戦闘はあまり注目されていない。そもそも、母成峠での伝習隊はまともに戦える状態ではなかった。それを示すのが山入村の戦いです。

山入村の戦いは、浅田惟季北戦日誌が最も詳しいです。北戦日誌にはいくつかの異本、写本があります。

以前、浅田惟季の「北戦日記抄」のこの戦いの記述部分をご紹介したことがありました。「北戦日記抄」は漢文調子で不明な字も多く、手前の能力不足で意味を理解しきれていない文も多かったでした。

一方、復古記の大本になったと思われる、内閣文庫「浅田惟季北戦日誌全」があります。ご係累の方のご好意で写しを入手させていただいたので、こちらより山入村の戦いパートをご紹介させていただきます。

以下、これまでに触れた関連のポストです。

山入村の戦いと大川正次郎「奥州南口戦争記」名簿の死者数
北戦日記抄と山入村写真、説明板
上説明板の地図、三十一人戦士墓位置など
母成峠の戦い背景
母成峠の戦い


北戦日誌原本より、カタカナ→ひらがな、句読点・濁点追加、傳→伝、國→国、營→営 など、各変更を行っています。

先ず背景から。

「八月三日、我軍三十余人猪苗代を発し、進て勝軍山下に抵る。大原小屋の二 邑に陣し、間諜をして敵情を窺ふ。
夫れ勝軍山は一名ホナイ峠と云方、今に至りて地名を改と云。

會城を距る凡十二里、二本松に抵る五里、四面涵みたる郊原にして、数里外一点の障碍物を見ず、唯山上の営を距る半里にして一要地有り、勝岩と云。然れ共、尚土湯越立沢の二道数千の兵隊をして守らずんば、一時も支ゆるに能わず。此、地盡く兵隊を排列する時は、八千の兵無んば叶ふ可からず。而て我兵挙て五百人に過ず。」


大鳥と同じく、浅田も母成の地形を、四方がなだらかな高原で、防戦に有利となる障碍物が無いとしている。勝岩という要地はある。しかし土湯・立沢の二街道に兵を配置しないと守れない。ことごとく防戦しようとすると八千は必要。一方自分たちはには五百も無い、との事。大鳥は「たとえ精兵でも二千人餘以下では覚束ない。しかもその五百人は多くが農兵で節制もない」とため息交じりに述べています。浅田はその4倍の八千必要とした。

「大鳥氏、必其破れん事を知り、檄を飛して、援兵を促す。此時、會津城四境へ出師、一人の戦士無く、答へずして止む。大鳥氏、晝(昼)夜痛心、先づ三箇所に砲台を築か令め、自身馬を馳て會城に至り、国力を盡て出師為んを乞ふ。」

大鳥は地形を見たときから破れることを知っていた。昼夜悩んで、三箇所に砲台を築いたり、自分で会津城に馬で走って援軍を求めるも、すでに会津で戦える者は出払っていて答える声はない。

「依て須川野邑に一砲台を築き、須川駅に陳したる伝習第一大隊二百人、新撰組五十人をして不日に趣き救は令んと云。既にして敵軍大挙進撃の報告有り。大鳥圭助曰く、敵衆既に乗じ大挙して薄る。其鋒鋭く當る可らず。然れ共、今吾兵此地を退く時は、會城忽ち囲みを受け、四境の守兵必ず瓦解せん。宜く死を決て守り力盡て殪れん耳。然りと雖、共坐て敵を待、謀に非ず。一と度敵を挫くに如ず。小を以て大を撃つ。殊に夜襲を善とす。依て第一大隊二百人新撰組五十人をして須川野の隘道を辿り、本宮駅の敵陣を襲は令む。

吾第二大隊二百三十人、仙台二本松の兵三百人をして山入邑に陣せ令め、敵兵の吾が背面を絶つに備ふ。八月十六日申の時、勝軍山の営を発し、夜既に四更ならんとする時、山入村に抵る。

既にして第一大隊の長土方歳造須川野に隘道を繞(めぐ)り、本宮駅の中央に突入し、火を四方に放つ。敵兵狼狽、戦はず兵器を捨て走り、二本松に退く。吾軍直ちに兵を収め、十七日午後、勝軍山に凱旋す」


大鳥はその中でも動きます。須川野に砲台を築く。須川の伝習第一大隊と新撰組を呼ぶ。そこに敵進撃の報あり。我らここを退くときは、すなわち会津城が包囲され、国境を守る兵も瓦解するのだ、死を決して守れ。座して敵を待つのではない。小を以て大を撃つのに、夜襲だ、と。誰よりも大鳥が状況を重大視しています。
そして、第一大隊200名と新撰組50名で本宮駅を襲撃させました。
一方、第二大隊は山入村に陣しています。

南柯紀行よりこのパート。

「第二大隊に二本松、会津の兵を合して二本松を夜襲せむと謀り、総人員四百人許りにて夕方石筵を起し二本松藩士を嚮導として向ひしが、山路に迷ひ、終夜山上に徘徊し、暁天に山入村へ着き、二本松まで是より今二里もある由なれば、時刻に及ばずと止むを得ず此村より引返せり。暁天に本宮駅焼失せり。前夜山上に徘徊し、終夜休息せざりしゆえ、一同暁天に暫時の間露宿し、翌朝又幾重の山岳を越帰り、兵士大疲弊に及びたり」

大鳥の認識では、第二大隊は、単に山道に迷って、疲弊して帰ってきただけ、ということでした。

浅田の言が勇ましく、大鳥の言葉が悩ましさに溢れているのは、いつもの事です。浅田惟季北戦日誌の登場人物大鳥圭助と、南柯紀行の作者の大鳥圭介は本当に同一人物なのか。状況はぴったり填まっていますが、キャラ設定が違いすぎる。これは、普段大鳥がいかに無理をして兵達の前で強がって心で泣いているかということを示す所作でしょう。

それはともかく、本宮の第一大隊・新撰組。
浅田君によると、伝習第一大隊、隊長の土方歳三(負傷した秋月登之助の代理)は、本宮中央に突入し、火を四方に放つ。敵は戦いもせず壁を棄てて逃げ、二本松に退いた。兵は17日に母成に凱旋したとの由。これだけ見ると華々しい勝利です。

しかし大鳥は「暁天に本宮駅焼失せり」の一言。

一方、敵側の記録。「山内豊範家記」では「八月十四日、黎明本宮駅、賊の為に放火せられる。存するところ十の一分而已、先是、本宮守兵を置かず。於是九十合隊を出して之を守らしむ」。三春藩記では「八月十四日暁、本宮宿にて賊徒放火いたし候に就き、高木村番ところ援兵として人数差出候処、最早賊徒、玉ノ井(山入)、熱海辺へ遁逃の由」。

これによると、第一大隊・新撰組は単に、敵兵不在の本宮を放火したのみ。敵守兵の九十合隊が手配され向かわされた所、彼らは山入へ逃げ帰ったとの由。浅田の記録と違う。放火して逃げ帰ったのと、「凱旋」とではえらく違う。

どちらにしても、大鳥の頭痛の種が増えたでしょう。大鳥は常日頃口を酸っぱくして「放火はするな」と戒めていた。放火を禁じる言は南柯紀行のあちこちにある。ある会津藩士が藤原の東、船生を焼き払ったとき、無辜の農民を虐げた咎でクビにしたことすらあった。

「本宮駅焼失せり」と、主語もなく一言で終わらせた所に、大鳥の辛さが感じられます。この後大鳥は母成戦の直前に、「勝岩の下の方にては第一大隊、新撰組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元なく思ひ、少し下りて之を見るに、人数も少なく撒布の法も宜しからず」と、第一大隊・新撰組に不安の念を記述していますが。この件で元々不信感はあったのではないかと推測されます。

さて、ここからが本題の山入戦。
本題に入る前に一度切ります…。

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2010年04月25日

国立公文書館「旗本御家人 U 幕臣たちの実像」

国立公文書館 平成22年春の特別展 4月3日〜4月22日。
「旗本御家人 U 幕臣たちの実像」

これのために帰国してきたと言ってもいいのですが、その甲斐はありました。
昨年の第1回に勝るとも劣らない。素晴らしかったです。

江戸幕府末期から明治にかけての対象人物で、Webの予告の時点で沸き立つものがあったのですが。期待を裏切らない、それ以上の内容でした。
素晴らしかったのが、地に足の付いた、一貫した主題でした。

幕臣の一生を跡付ける幕府公文書ということですが。生誕から死亡までの幕臣の人生で、節目節目でどのような文書が作成されていたのか、実際の文書から、その実像をストーリー付けて描くという流れでした。幕臣という響きは、いわば時代劇や史料の中の存在のような、別の世界の生き物という印象を与えていたのですが。実際に書かれた肉筆とその解説が、幕臣たちが、本当に生きた、我々と変わらない苦悩と喜びを経た人間だったのだ、という生々しい実感を、見る者に与えてくれました。

テーマもさることながら、特に江戸末期のその人選。

川路聖謨・川路寛堂の祖父・子、小野友五郎、中村正直、成島柳北、大鳥圭介。

特に明治期に活躍した幕臣からのセレクションですが。何ですか、このツボを貫く人選は。既存メディアでのメジャー度を全く省みない、実質派実力派揃いのラインアップに、まず悶えてしまいました。国立公文書館のわが道を行く姿勢の正しさを感じます。

テーマは、まず、「人生の節目」で幕臣の誕生、学問、運動、就職、結婚、仕事、退職、老衰、とそのありふれた行事や冠婚葬祭を描くことで、幕臣への親和性を増します。ありふれているものだけに、新鮮です。

次に、「異才の幕臣たち」で、幕臣の中で精励した人、変わりゆく時代の要求に難儀した人物を描きます。「異才の」と言いつつ、苦悩し、課題に誠実に当たり、公務の要求に答えた普通の幕臣の姿を紹介しています。

そして、「幕末から明治へ」で、幕府の官僚組織の中で培った技能や見識を、明治政府事業や民間事業に引き継いで発揮した方々と、その功績、その反面に滲み出る苦労を紹介します。

共通しているのは、皆、超人でも英雄でもなんでもない、ただ幕臣という一般公務員の姿です。それが、とても身近で、皆我々と同じ人間なのだ、という実感を与えてくれます。無論、旗本御家人という身分は、人口ピラミッドの底辺の平民に比べると確かに特権階級ですが。変わりゆく世に翻弄されながらもその時の最善と全力で生きる姿には、何かと厳しい今の世を生き抜く示唆と共感が与えられます。みんな大変だったんだなぁ、えらかったんだなぁ、と思います。

展示は、限りある1階の空間を最大限に使い切って、スペース余すところなく並べていました。多門櫓文書、紅葉山文書を擁する、いわば江戸文書の総本山とでもいうべき国立公文書館なので、展示物は厳選に厳選を重ねて絞り込んだものなのでしょう。ご担当の方は、相当取捨選択に頭を悩ませたのだろうと伺わせました。

なお、国立公文書館にある資料は、デジタルアーカイブで確認可能。また、収録数も画像閲覧可能数も、増えています。本当に良い仕事をしてくださっています。

パンフレットも毎回質が高い。簡潔明瞭にして意を得た表現で、短い文章の中に貴重な情報を余すことなく込めています。これ自体が活用性のある良い資料になっています。紹介資料の請求番号を書いてくださっているのもポイントが高い。更に関心があったら、本館で直接閲覧してくださいね、という心遣いを感じます。

あと、音声ガイドのテープ。前回もそうでしたが、単なる視聴補助のためのものかと思いきや。このテープは、パンフレットにも展示にも無い裏話を聞かせてくれます。全部聞いて、満喫する価値はあります。それをあらかじめ知らせてくれないのだけは、残念です。(あと、欲を言えば、できれば音声はもう少し落ち着いた女性の方か男性のほうが良かった)

展示は全て、食い入るようにしてみる価値がありました。
特に面白かった展示は、以下の通り。

●「誕生・出生届」「丈夫届」

届出される誕生日で、誕生日の月日や年が異なるのは当たり前。幕臣の届出はかなりいい加減で、数年遅れることもザラ。幕臣が結婚する際の「縁組願」を出してから日が経ってなかったから誕生届けを2ヶ月ずらした、という例が展示されていましたが。所謂授かり婚もあったのですか。

虚弱で無事に育つ見込みがなければ出生届がそもそも出されないことも多かったとの由。それでちゃんと育ったら「丈夫届」を出して、実は息子が居まして、育っていました、ということを認めてもらう。これは、出生届を出した男子が17歳までに没して跡目がいないと家が断絶するという決まりだったので、家の断絶を逃れる便法だった。しかも、「丈夫届」では家督相続する男子の年齢を高く申告することもあり、3,4歳は当たり前、中には十歳以上も高く届けられたことがあるとの由。

そういえば、本多さんも、明細短冊と丸毛の記録で年が異なり、一方で祖父から跡目を継いでいたから、実はもっと若かったのではないか疑惑がありました。
江川家の英武も、兄の英敏が早世してしまい、英武が相続したのはわずか齢九歳のことでしたが、書類上は十七歳として届け出していました。

英武のように代々記録が残っていればいいのですが。公的記録にすがるしかないとすると、追っかけする後世の者は困ります。
統計も取り辛いし、後世の人間が事実を知り辛くて困るではありませんか。
そもそも、家の断絶なんてを規定するから、そういった妙なことが生まれわけで、そちらの規則のほうをどうにかしたら良かったのではないか、という気がしないでもないです。

それで、届出した子が居ないまま当主が亡くなると、家は断絶。これではたまらんと、「急養子」というのが認められ、死の寸前でも養子を認めるという制度になりました。

幕府陸軍時代の大鳥の上司の桂川家の桂川主税が、藤沢当主が死没してその養子となって藤沢次謙となり、バタバタしていたのも、これですか。


● 結婚事情、持参金

幕臣の子女の再婚は当たり前。「二夫にまみえず」というのは現実まったく守られていなかった。バツが一つ二つついても問題なし。女性が再婚できた背景は、持参金があったことですが。この持参金は、離婚する際に嫁と共に返還されたらしいです。つまり、持参金は嫁側の財産のまま。幕臣は借金当たり前。結婚して持参金で借金を返済し、離縁されると、持参金返却のためにまた借金し、その借金返済のために再婚する必要があったとか。まさに人生自転車操業。逆に嫁の側は、金さえあればどこにでも嫁にいけた、と。いつでも離婚、結婚できるというのは、女性の大きな強みです。

ちなみに、荻生徂徠の「政談」というのが展示されていたのですが。持参金が無くて嫁にいけない娘や、希望通りの持参金もちの嫁が無くて結婚できない息子が増えて、問題になっていた。ここで「縁組を司る役人」と、公的結婚相談所の設立を提案したものらしいです。

自由恋愛結婚が主流になり、低ランク女として置き去りにされ結婚できずに孤独に老いていく身としては、結婚の沙汰も金次第、という事実は、なんだか清清しいですな。

● 高橋景保

「異才の幕臣たち」ということで、二万数千人の旗本御家人の中から、彼等が公務として残した文書がピックアップされています。その中で彼の「満文強解」が展示されていました。これは、1804年にロシアのレザーノフが長崎奉行に提出した文書に満州語が書かれていた。これを、当時の天文方だった高橋が翻訳を命じられたもの。レザーノフは日本でも満語が通じると思っていたとのこと。

満語は、モンゴル古語でした。今のモンゴルでもたまに、古い建物で見かけることがあります。モンゴル人はもう学者で無い限りは読めないと言っていましたが、パソコンのフォントはあるらしい。

その満語翻訳を、天文方に頼む幕府首脳もどうかと思いますが。それに答えた高橋もすごい。清・満語の辞書のみを片手に翻訳を完成させた。この仕事振りがとても丁寧で、漢訳と満語読み方を朱で記し、意味が分からないものについては推測として分けて記している。その誠実な人柄が窺えます。その上、「亜欧語鼎」という和・漢・満・蘭語辞典まで作ってしまった。そこまでやりこむか、という感じでした。

● 蛮蕪子

そんなに職務精励された高橋さんですが。オランダ医師シーボルトに日本の地図など持出禁の資料を体要したために、逮捕されてしまいました。高橋さんは獄中で病死、死体は塩漬け保存されたのですが。その様子を詳しく書いた物が、この「蛮蕪子」。

音声ガイドによると、高橋さんは1829年に死罪が確定しながら、その前に病死。非人頭の車善七が、塩漬けの死体を保管した瓶を管理する。
この「ばんぶし」ですが、高橋→竹→「ばんぶー」(竹の蘭語) から来ているそうです。
塩漬け保存死体の作り方が書いています。さすがに現代語訳に詳しい解説はしてなかったですが。塩を内臓に到達させる方法がえぐい。塩は、「増塩」として定期的に補充されます。見回りの際に死体をチェックするのですが、瓶の塩を取り除いて「頭現われて髪も黒々と見ゆる」という様を確認したとのこと。見回らせられる側も、たまった物ではありません。
こういう資料も分け隔てなく展示するところに、国立公文書館さんの度量を感じます。


● 川路 寛堂

川路聖謨の孫。小姓組を経て慶応2年に歩兵頭並、23歳のときに、幕府英国留学生の取締として、中村正直、林董、外山正一、箕作大六らとともに渡航しています。その後、渋沢栄一の推挙で、三等書記官として岩倉使節団に随行。

個人的にものすごく共感したのが、この岩倉使節団随行時の寛堂さんのオランダの堤防調査報告の展示。

河川堤防を視察し、治水建築についてハーグで専門家の意見を徴収して調査する予定だった。ところが、岩倉使節団の会計事務が繁忙を極めていて会計係に任命されてしまったので、やむを得ずオランダを去って使節団に合流した。

…この無念。非常に、非常にわかります。

誰にでもできる、煩雑なだけで、何かあったときに身銭を切るか責任とるかせねばならない会計係なんぞ、誰もやりたくありません。
だいたい、海外滞在時の、視察団調査団の会計ほど、わずらわしい物は無い。自分の出費の管理だけならいいのですが。団員の出費、公費して清算するならこれが面倒極まりない。証憑は必ず取れ、サインは絶対必要、日付が入っていることを確認、費目は予算に合うように、出費の内容と目的を証憑に鉛筆書きで記入…と細々指示せねばならない。いくら団員に頼んでも、守ってくれず、不完全な領収書を押し付けられてお仕舞い。中にはとても公費で処理できんだろうが、というのもある。そして、他人の出費なのにそれを清算可能になるように、自分で走り回らなければならない。団員が酒かっ食らって騒いで寝ている間に、独り涙目で、ホテルの暗い部屋で目を擦りながら読めない手書きの領収書の辻褄合わせをせねばならない。たとえ10円の領収書でも会計簿とズレれば確認しなおし。それを為替レートを管理しながら複数の通貨で行わねばならない。それは、やって当たり前、合って当たり前、合わないと「ずさんな管理」「金にだらしない」と攻められる。それをやっても次のキャリアに結びつく経験にはならず、単なる雑用扱い。しかし誰かがきちんとやらねばならない。
他に見たいこと、やりたいこと、調べたいこと、実になることは山ほどあるのに、単に団で「一番年下だから」というだけの理由で、この下らない、無益な、ストレスで気が狂いそうになる作業を、問答無用で押し付けられる。割に合わないこと甚だしい。この虚しさ。せっかく本邦に役立つこと明らかな堤防技術を、学びたいのに。せっかくのこの機会なのに。

… わかる、わかるぞ、寛堂さん。と、この文書の前で、思わず、血涙流す思いで、拳を握って、感情移入してしまいました。
偉人の苦難にかこつけて、手前の愚痴を流してはいけませんな。

なお、寛堂さんは、明治8年、工部省に入ったばかりの大鳥さんと共に暹羅へ行っています。この時寛堂さんは大蔵省七等出仕。暹羅でも会計係でなかったことを祈ります。大鳥さん、人使いが荒らそうです。自分使いはもっと荒いので、人にも悪気無く同じことを要求する。

そして、自分にとってメインのお目当てある、川路聖謨、小野友五郎、成島柳北、大鳥圭介に行きたいのですが。述べたいことが多すぎて、とても1回で書ききれません。一旦〆めます。この人選だけで、私が何を言いたいのか、汲んでください。

何より感動したのは、パンフレットの国立公文書館担当者様によるはしがき。

「地味でささやかな展示会ではありますが、多彩な展示資料を通じて歴史に接する喜びを感じれいただくと同時に、この展示会が、古くからの記録を国民共有の財産として保存し公開する国立公文書館の役割について、皆様のご理解を深める機会になれば幸いです」

なんと謙虚で、職務への気概に溢れた文章でしょうか。

この、幕末エンターテイメントや大河バブルの世に。あっちを向いてもこっちを見ても新選組や坂本竜馬が跋扈している世の中に。国民というと、バラエティとワイドショーと大河ドラマしか見ていない、とりあえずメジャーな人物を挙げれば受けるだろう、という姿勢が透けて見える、博物館や放送局や出版社の企画も多い中で。

何が国民の知性教養に資するか、生活の示唆や教訓を与えるか。実質的なテーマを貫き、確たる記録事実に拘って、展示を纏め上げた姿勢は、清清しく、凛々しかったです。

こうした展示会を無料で開催して下さることはもとより、先日お伝えしたデジタルアーカイブやアジア歴史史料センターの資料整備とデジタル公開が日々着々と進められていることからも、国立公文書館の素晴らしさが伝わります。

生の史料、当時を生き抜いた方々の貴重な字と記録に触れられるというのは、大感動です。それが自宅に居ながらにして無料で見られるという事実が、いかに多くの興奮と更なる深みへの扉を提供するか。国民の知的活動への貢献への度は計り知れない。

国立公文書館の皆様に、惜しみない感謝を捧げたいです。

切り詰めて生活する中で、給与明細を見るたびに思う税金の多さ。それが子供手当て目当てに養子を組む外国人に行くと思うと腹立たしいこと限りないですが。その内の少しは国立公文書館に行っているのだと思うと、耐えてみようという気にもなります。

一つ、文句をつけるとしたら、このラインアップでなぜ「暹羅紀行」が無かったのか、と言うことです。

大鳥さんと寛堂さんが一緒にタイに行った際の、All About Thailandとでもいうべき、産業、貿易、軍事、政治、王政、歴史、地理、宗教などなど包括的報告書であり、日本初のタイへの公的渡航で、かつ日本タイ関係の嚆矢とも言うべきこの公文書が。なぜ、何ゆえに、展示から外されてしまったのか。謎だ。悩ましい。

…単に、担当者様の目を引くようなものではなかった、ということは、たとえ事実だったとしても、指摘はしないでください。



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2010年04月27日

工部大学校時事ネタ

久しぶりに工部大学校ネタ、行きます。

工部大学校 虎ノ門新築落成
明治11年3月8日 読売新聞

虎ノ門の工部大学校の見つきは立派に出来上がり、三階が生徒の教授場となり、二階その外とも未だ十分ではありませんが荒まし整い、また生徒博物館へは絵図を写す電信の器械、甲鉄艦の雛形、大鳥君の細工をされた長崎ドックの雛形や、種々の石類そのほか西洋と日本の品を比較したのが並べてあり、門も今度は西洋作りになり、開校式の日はまだ極(ママ)まりませんが、当日は主上がおいでになり、またこの博物館は主上のおいでが済むと、毎日二、三度ずつは誰にでもみせられると聞きました。



工部大学校の新校舎落成前の記事です。その工部大学校には博物場という、所器械や図面を展示する場がありました。担当は奥田象三氏。後に大鳥の長女ひなが、この方に嫁いでいます。

博物場は、第1回内国勧業博覧会の展示品なども飾られ、ちょっとした博物館の様相でした。最初に天皇陛下が御出でになり、その後一般に官報された由。大鳥の工部省の仕事の特徴としては、工部省事業を一般に公開して、技術普及を図っていたことがあります。工業新報の発刊はいわずもがな。工業新報に工作局所轄の工場の宣伝を載せ、見学を受け入れをした上、民間の事業者の技術的相談にも乗っていました。

そんな工作局長は忙しいので、一つ一つの展示には関わっていないだろうと思いきや。

大鳥圭介は、モデラーでした。長崎ドックの雛形を作っていました。
プラモはさすがにまだ無かったと思いますが。木材とセメントでちまちま作っていたのでしょうか。見てみたいです。奇跡的に廃棄さえれず東大工学部の倉庫に転がっていたりしないでしょうか。

頬髭を蓄えた小さなおっさんが、質素なバラック立ての工作局で、パーツと接着剤と格闘しながら時間を忘れて模型作りしているのを想像すると、微笑ましくて仕方がありません。
あと、甲鉄艦の雛形まで飾るとは。木古内や矢不来、五稜郭で、トラウマになるほどの艦砲射撃で散々自分たちの陣営を痛めつけた敵艦を飾るとは。
この当たり、自分の経験や恨みより、役に立つ力を持ったものを見せて残したいという実利が勝ったのか。大鳥の感覚はよく分かりません。

ふと思いました。この記事の前の月、明治11年2月、妻みち死去。
…この模型作成が、妻のいない家に帰りたくない、寂しさを紛らわせるための作業であったとしたらと思うと、目を閉じて涙するより他はありません。


次、記事二つ。

「洋食をやめ日本食に」
明治13年7月12日 東京日日新聞

工部大学校の生徒はこれまで常に洋食なりしが、節倹のため本月より日本食に代えられたれしよし。

「各省の予算削減で、大学が非常の改革」
明治13年11月14日 中立政党政談
今度各省の生金銀支用の額を減ぜられしうち、工部省の減じ方がもっとも多きゆえ、大変革を行わるる中にも、これまで工部大学の支用高最一なるを以って、まず大学より非常の改革を行わるるという。



前年、明治12年11月に第一期生23名が華々しく卒業。…と思いきや、工部省予算削減のために、苦しい改革を強いられます。西南戦争後のデフレで、政府はどの省も予算を削られました。
工部省は各省の間で最も削減幅が大きく、その工部省の最も大きな予算がつぎ込まれていた工部大学校。ここに手をつけられてしまいます。

あおりを受けたのは生徒でした。洋食から和食へのチェンジはまあ仕方がないかと思うのですが。これまで全て官費生だったのが、一部の優秀な生徒を除いて私費になってしまいました。かの田辺朔郎なども授業料に苦しみました。

財政削減であおりを受けるのが、こうした技術分野です。
工部大学校も、特に一期生、二期生は、多々の分野の先駆けとなる非常に優秀な人材を輩出しました。どの時期も白眉の人物がいますが、特に一期生、二期生は綺羅星が多い。

一期生の曾禰達蔵が語り残すところによると、この頃、工部大生は、授業料だけではなく、衣食住、官費で全てまかなわれていた。ノートや筆記用具、製図道具まで申請するだけ手配してもらえる。昼はビフテキやシチューが出てくる洋食で、夜は当時高価だった毛布を二枚もかけ、トイレの便器まで英国からの輸入品。館内もバイブラジエータを導入した蒸気暖房方法で部屋を暖めていたとのこと。夏期2ヶ月の休暇の時には、下宿料を与えて郊外で自由に生活させ、工場や鉱山、鉄道などにも官費で出張させた「恰も、手を執り体を押して、愛児を歩ますに似たる態度」と、回顧しています。

これも工部省に予算があったからできたことですが。その結果育ったエリートたちは、国への感謝を忘れず、生涯を誠心国に尽くし、電気、機械、鉄鋼、造船、鉱山、建築他、日本のあらゆる工業分野の殖産興業で、中心的役割を果たし、明治後期の日本経済産業の成長に大きく寄与ました。日本が、東洋の一途上国から、ミラクルと言われる先進国にまでなったのは、この工部省の人材への投資があってこそではないかと思います。

いかに貧し鈍していても、決して切り捨ててはならない分野があります。

今も事業仕分けで、JAXAをはじめとした公的科学機関にメスが入っています。
たしかにどう役に立つか分からない研究者の自己満足にすぎない研究も中にはあるでしょう。けれども、技術の何たるを心得ない無知な人間が、玉石混合一まとめにひっくるめて否定してしまう愚行だけは避けてほしいです。

工部大学校の卒業者の一人、ノーベル賞級化学者の高峰譲吉が設立者となった理化学研究所が、独立行政法人として、事業仕分けの対象になっています。その所属施設に、上郡のSpring-8、マスコットガール・エイトちゃんにもなっている、日本が世界に誇る大型放射光設備があります。NatureやScienceに発表された貴重な材料研究や犯罪捜査にまで用いられている、超高感度超精密施設ですが、ここも、事業仕分けの前に危機に瀕しています。予算が半分〜2/3に減らされる措置が取られるのだそうです。この予算枠では、年間維持費が捻出できず、施設の活動が全く出来なくなる。すなわち、予算をケチったが為に、施設の価値がゼロになってしまうとのことです。

目先の財源確保と票確保のために、百年の資産をドブに捨てるのは、阿呆も極まります。

JICAにしても理化学研究所にしても、随意契約を槍玉に挙げ、無理やり競争入札させようとしています。技術は、安かろう悪かろうです。価格を下げれば技術者のモチベーションも下がり、品質もスペックも、仕様書に書かれた最低限を満たすものになります。仕様書はいくら書き込んでも完全には規定できません。いい物を作るというのは、技術者の良心にかかっています。国の公共物なのに安く買い叩くことばかりに執心されると、それを作る技術者をサービス残業で疲弊させ、リストラで貴重な経験を持ったシニアエンジニアが失われ、技術者離れが進み、国の技術力低下が進む一方です。何でもかんでも入札すれば良いというものではない。随意契約によって守られる信頼性があります。そうした技術のレベルを保つために税金を注がずしてどうするのだと思います。

技術立国、もの作り日本で、今後も競争していかねば、10年先に待っているのは、市場縮小、雇用不安、失業率上昇、貧困率上昇です。科学技術軽視は間違いなく国の衰退を招きます。

仕分けは、必要なものと不要なものを見分ける知識見識を十分に有し、技術の価値が判断できる方に行ってほしい。科学知識のない、国民の票稼ぎすることしか頭にない短視野な政治家の方が口出ししても、国力が削がれるだけに感じます。頼むから、日本と世界の便益を真剣に考えて行っている研究開発の価値を正当に評価することなく、要らないモノ扱いしないで欲しいと思います。要らないのは、国民に媚を売るしか考えてないのかと疑う浅ましい政治家と、無知な仕分人です。彼らの存在こそ仕分けされてくれ、と思います。

…と、政治の話は無粋ですし、タブーにしたほうが良いとわきまえてはいるのですが。不条理な予算削減には、大鳥さんもたいそう苦しんだであろうと思うと、つい出してしまいました。

古今、実務者の悩みは変わらない感じです。

posted by 入潮 at 03:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

伝習隊の軍装とシャスポー銃

アンソロにかまけて絵を描こうとしたりしたのですが。
絵に起してみると、細かい疑問点が山ほど出てきます。
文章表現は細かい点はごまかせるから、その点は楽であるということがよくわかりました。
絵描きの皆様のご苦労を思い知ります。

そこで、新紀元社の「武器と防具 幕末編」は必携かと思います。武器、銃砲、衣服のほか、胴乱やランドセル、指揮棒、雷管盒といった細かいパーツまで、見易い絵で示されていて、とても有難い。しかも、幕府陸軍、各藩兵が、それぞれ歩兵と士官に分けて、その軍装を示しています。装備だけではなく、各藩の軍事力が当時どの程度まで達していたか、制度や人数や、装備も定量的に分析を加えていて、大変利用度の高い書籍です。よくここまで資料を集めたものだと驚嘆です。巻末の参考資料も圧巻です。かなりのお役立ち。
著者は複数ですが、かの幕府陸軍研究の権威、浅川道夫氏が筆頭におられます。
これで1900円というお手ごろ価格ですので、未入手の方で幕末軍事にご興味のある方は、ぜひ。

「仏式伝習隊」の項目も、もちろんあります。伝習隊の軍装の記述をまとめると、以下の通り。

伝習隊歩兵: 濃紺絨もしくは黒絨の縦襟一行ボタンの上衣にズボン、白い目覆と垂布のついたケピ型軍帽を被り、軍靴を履く。胴乱や銃剣は黒革バンドに通して腰につける。革バンドは葵紋入りの真鍮バックル付き。仏式背嚢、歩兵用短小銃、ヤタガン型銃剣を装備。歩兵刀は装備していなかった。

伝習隊士官:山形袖線入りの、一行ボタンの膝取りマンテル、ジブスケ袴と呼ばれた側線入りの仏式軍袴(ズボン)、無限結び飾線の付いたケピ型軍帽、日本刀ではなく輸入サーベルを腰に刺す。

honda-2.jpg

いやその、図をスキャンすると著作権的によろしくなさそうなので。
勝手に背嚢を足しましたが。描いてから士官はランドセルを持っていたのだろうかと疑問になった。まあ、いいや。
小山で馬が逃げ出して無くしてしまい後から雨の中で雨具もなく難儀したという人も多い、伝説の背嚢です。

伝習隊士官服の上着の袖は、側線ではなく、山形の階級章です。
陣中昇進した浅田君などは、自分で縫って階級章の筋を付け足していたのだろうか。
歩兵は、袖もズボンも、側線です。

「武器と防具」の図は白黒ですが、カラーの「日本の軍装」(大日本絵画)によると、士官の袖の山形は黄色、ズボンの側線は赤らしい。歩兵は袖・ズボンの側線とも、白です。

この士官服の上に陣羽織を着ている人も多かったのでしょうか。
大鳥さんは少なくとも着ていました。そして陣羽織だけを弾丸が貫いて穴が空いていたという。一歩というか、一寸間違えていたら死んでいました。どこまでも悪運が強い人です。

帽子はケピ型軍帽。大鳥さんは、鳥羽伏見で伝習隊が敗れたのを聞いたときに、韮山帽を地面に投げつけた、と「明治豪傑譚」にありましたが。ケピ帽ではなく韮山帽だったのかもしれません。

大鳥は、メディアでは何故か洋装の一般服で描かれることが多いようです。開拓使時代の写真の印象からでしょうか。戊辰戦争中に大鳥が洋装一般服を着ていたという資料は今のところ自分は見たことはありません。錦絵などもほとんど陣羽織ですし(和装もある)。あのしみったれが、貧乏陸軍で、わざわざ自分のために私服洋服をしつらえるとも思いにくい感じがします。そんな金と暇があったら、みちさんに送るか、五稜郭の未完成の石垣を少しでも増強したいだろう。なので、いつまでも幕府陸軍時代の擦り切れた士官服のままうろうろしていたのではないかという気がします。

そして、ほつれていたら自分で休憩時間に縫う。「陸軍奉行ともあろう人がやめてください」とある士官に嫌がられる。「じゃお前縫って」と頼んだら、さらに嫌がられる。そんな御奉行を想像します。

あと、目下の疑問はシャスポー銃です。
伝習隊→仏式部隊→ナポレオンから贈与の仏式シャスポー銃、ということで、伝習隊とボルトアクション式後装式施条銃シャスポー銃は、切って切り離せない感じになっていますが。

これに疑問を唱える研究者の方もいる。

「武器と防具」でも、淺川氏は「当時後装銃段階の仏式教本の訳本が未整備で、仏式伝習に際してシャスポー銃を使った訓練は行われなかったと思われる」と指摘しておられます。

自分もこれがずっと気になっていました。実際、大鳥も浅田君も大川も、伝習隊関係者が残した記録で、「シャスポー」と名を記している人は居ないのです。自分が見た限りですが。

伝習隊は本当にシャスポー銃を使っていたのか?

これは、結構前から疑問でした。

一方、藤原滞陣中に、大鳥は、横地秀次郎が江戸から「元込銃(後装式)及び小銃を持ち来たり」で、「大に安心せり」と南柯紀行に「記しています。つまり、後装式銃は元から使っていた可能性は高いと見ていいでしょう。この横地が持ち出してきたのが、江戸の蔵にあったシャスポーだった可能性は、ゼロではありません。
いずれにせよ、この後の藤原の戦いは、兵力は圧倒的少数であったにもかかわらず、佐賀藩相手に圧勝しています。これは、伝習隊が再び後装式銃を手に出来たことが大きいでしょう。

今市にて、伝習隊の力がイマイチだったのは、地名のせいではなく。大鳥が会津に兵糧を頼っていたから会津の意思決定を優先させざるを得なかったというのもあるでしょうが。何より伝習隊が宇都宮・安塚で後装式銃弾を使い果たしていて、会津より補充された前装式ミニエーぐらいしか使えなかったというのがあると思います。

あと、大鳥圭介が訳し伝習隊の錬兵に使用した「仏蘭西歩兵程式」について、終わって上梓して印刷された前半分は、確かに前装式の銃使用が前提だったでした。一方、「歩兵程式」は後半の後装式パートがあります。後半部はすでに大鳥は手で訳していた可能性もあります。活字化・教本印刷は間に合わなかったけれども、錬兵には用いていた、ということはありえるのではないかと思います。大鳥は、昼は教練、夜は翻訳、という生活を江戸でも続けていました。進めていた訳書を脱走時に家においてきて、それらは紛失されただろうと、投獄された際の糾問で述べています。それに、歩兵程式の後装式パートが含まれていた可能性もあるでしょう。

小山の戦いの、官軍と旧幕軍の発射速度の違いは、記録を見ていても伝わってきますし。脱走時点では、伝習隊は前装式ではなく後装式銃をすでに有していたとみて、まず間違いはないのではないかと思います。

この後装式銃が、シャスポー銃であったと考えられないことはないでしょう。他の後装式銃だった可能性も無論ありますが。

あと、水に弱い紙薬莢のシャスポーなら、土砂降りの安塚戦で難儀したのは道理。発射できなかった人も多いでしょう。

このあたりは、詳しくは、こちらと、こちらと、こちらにて。

故に、今のところ、伝習隊がシャスポー銃を使っていたということを証明できる状態ではない。一方で、シャスポー銃を使っていなかった、ということも同時に証明できるわけではない。という、なんとも居心地の悪い状態であったりします。

大鳥が屋敷に残していった原稿が、出てこないもんですかなあ。しかし戸田侯(大鳥の屋敷を明治初年に拝領した、旧幕軍に城を焼かれ糧米を放出された宇都宮藩主)に見つかったら、その瞬間に破り焼き捨ててしまわれたとしても、大層理解できるところではあります。

北関東会津における伝習隊への銃砲弾薬の補給を示す資料などありましたら、ご教示いただけると大変嬉しいです。
ちなみに、記録上のシャスポーの表記は、「シヤスホール」とか「シヤスボー」とか「シアスポー」とか、様々なようです。

それにしても、Wikiのシャスポー銃の項目がすさまじく詳細に充実していて、びっくりしました。紙薬莢の寸法図まである。すごい。どちらの研究者でいらっしゃるのか存じませんが、このような貴重かつ膨大な情報をボランティアでまとめてくださるとは、真に有難いです。ものすごく勉強になりました。

あと、シャスポー紙薬莢の作り方。凄い。今の時代にこうした作業をして、これをWebに載せているというところに、シャスポーという銃に対するフランス人の愛着が伝わります。 問題はその紙薬莢であるだけで、金属薬莢にすれば第二次世界大戦までも用いられた、優れた銃だったわけです。


なお、秋葉原の武器屋さんに、伝習隊制服他が売られています。こちらだと袖階級章の色は赤です。それにしても、胴乱やミニエー弾はおろか、葵の御門入りボタンまで売られているとは。マニア垂涎だ。しかし、地下足袋や襦袢やサラシまであるのに、何故、ふんどしが無いのだろう。一番需要はありそうなのに。

ラベル:大鳥圭介 伝習隊
posted by 入潮 at 04:54| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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