2010年05月03日

五稜郭降伏と旧幕同窓会

新聞記事から一つ。

5月18日、箱館戦争終結。
その際の様子を伝えていました。

上下粛然とし帰順の日に望む
明治2年6月15日中外新聞

脱走兵ことごとく降伏の後、官軍亀田の五稜郭に入り、大小砲の布置、弾薬兵糧の貯処、湟(ほり)の掘方等を一々巡見せしに、その構成の巧なる事実に感嘆に堪えたり。さすがに榎本、大鳥を始め、西洋学術に達せしを見るに足れりと、或る隊長の話なり。
戦争中は死力を尽して相挑みしが、帰順の日に至りては上下粛然として謹慎の誠を表し、少しも騒擾の事これなき由。
官軍の死傷二百余人、脱兵の方は余程おびただしき死亡なるべし。怪我人は追々東京の病院へ来るべし。
脱兵の内少々対州を指して再び脱走せしものあり。これは長州の兵隊速やかに追討に向いし由。


城塞砲の配置、弾薬の管理、堀の建設などはまさに大鳥さんが行っている領域でしょう。ここでも官軍を感嘆させています。兵の指揮だけが戦ではない。
もちろん大鳥だけではなく、吉沢勇四郎や小菅辰之助など優秀な工兵がいて、その方々の仕事でもあったかと思います。地雷水雷や土木など、箱館軍の旧幕工兵技術の高さは随一だったでしょう。

こうしたロジスティックスこそが、軍の強さを決めるのであります。結果は負けでしたが。誰もがパッと見て分かる単なる勝敗ではなく、こうした実質的な中身の部分が評価されているのを見るのは、嬉しいものです。

そして、降伏の日。将も士官も兵士も皆粛然とし、少しも騒がしいところが無かったとの由。これは榎本さんの統率力だと思います。
規律と精神性の高さも、軍の強さです。結果はやはり負けでしたが。
開始時点で、所詮辺境反乱軍であるならば、中央政府に勝てる道理はないわけで。それは西南戦争も佐賀の乱も同じ。
戦ったという事実を作ったそのことに意味があったのだろうと思う。

それで、この「或る隊長」とは一体誰だろう。記者さん、せっかくならお名前まで書いていただきたかった。


あと、記事の官軍の死傷者数は、箱館戦争のみのカウントかと思います。
北関東から仙台までの伝習第二大隊分は大川正次郎が死者名を記録しているのと、箱館戦争部分は宮氏岩太郎の「函館脱走海陸軍忽人名」で或る程度追跡可能ですし、「幕末維新全殉難者名鑑」など死者の名前を可能な限り連ねた良い資料もあります。

ただ、実際にでは死者数はいくらだったのか。という疑問を抱いたときに、概数、推測しか見たことがない。きちんと数えられたことはなかったのだろうか。

それで、旧幕側の死者数の統計ですが。

戊辰戦争全体では、修史局編纂の「明治史要」によると、多い順に、会津2557名(女性194名を含む)、仙台831名、長岡312名(内58人失踪)、二本松334名、桑名93名、そして旧幕府脱走兵は「未詳」とあります。
合計数がよくわかりません。

一方、官軍側は、出兵兵員数は、「およそ」とか「余り」とか「未詳」「二小隊」とか適当な数字が多いのですが、死者数と怪我人はしっかりと正確に記録されています。

官軍合計参加兵員数:9大隊3小隊と114,739、他に400
死者:3,331、他に219
傷 総計: 3,845

となっています。
死者数が正確なのは、各藩の所属がはっきりしていることと、死者数をもって各藩の戊辰戦争への寄与度が評価され、報典に結び付けられたから、という理由かと思います。

なお、この「明治史要」は明治9年編纂の統計資料。ここまで調査されていることにびっくりする、かなりお役立ちの資料です。修史局は明治2年に設立された明治政府の正史編纂事業。財政難で明治10年に廃され、機能は後の修史館に引き継がれました。修史館、臨時編年史編纂掛は、かの「大日本編年史」や「復古記」を完成させています。

それでその国家事業の手を以ってしても、旧幕脱走兵の全体の死者数は不明だった。

以下の理由で、旧幕側の全体の死者数は掴みにくいのかと思います。

1) 脱走者が多く出て、誰が死者で誰がそうでないのかわからない。

2) 秋月指揮下の伝習第一大隊や、七連隊や工兵隊、撤兵隊など他の旧幕隊が各地に分散し、各藩のように死傷者の報告を受け管理する母体組織が無かったため、死者数を掴めず、個人の記録に頼るしかない。賊軍ゆえに管理機構そのものの存在が難しかった。

3) 旧幕脱走兵には、平民歩兵が多かった。藩士の侍は各藩で記録されたが、徴用された名字の無い農民や町民は記録されなかった。

中でも、3)の理由が一番大きかったのではなかろうかと思います。上の会津などの藩も、修史局がどの資料から数字を出したのかはわかりませんが、記録は士分だけで、農兵などは抜けが多かったのではないかと思います。

報告義務もないのに、死者数を記録し続けた大鳥さんは、一種特殊だったかと思いますが、その大鳥さんにしても、歩兵の名前までは記録していません。南柯紀行はリアルタイムな記録ではなく、後からまとめられたものなので、名前まで記憶してなければ仕方のないところではあります。なお、大川の死傷者記録には歩兵も記されています。これはリアルタイムで記録をとっていたものなのでしょう。


さて、新聞記事をもう一本。この五稜郭の降伏者たちが、四半世紀を経て、一同に会しています。

五稜郭の残将四百人、春季総会に集まる
明治28年4月16日、毎日新聞の記事。

「五稜郭の残将一堂に会す。十三、四の両日、上野東照宮事務所に於いて、旧幕臣旧交会春季大総会あり。前日会長榎本子爵には、当日午前八時四十分、新橋着汽車にて帰京、未だ着替えもなさず直ちに臨席せしに、あたかも大鳥圭介(箱館の陸軍奉行)、荒井郁之助(同海軍奉行)、沢太郎左衛門(開陽丸の副艦長開拓奉行)等の諸氏会合、ほとんど四百余名の出席員あり。これらの諸氏はいずれも五稜郭当年の重役諸氏にして、杯酒徴逐、東台の花に対して今昔を話すに、豈に滄桑の感ならんや。大鳥氏席上一詩あり

旧友尋盟争騁車
団欒上野寺辺家
春風和気洋々裏
仰見将軍廟畔花

当会は創会後十年期に当たりしかば、普通料理のほか、五本骨の扇に葵の徽章を金にて描きたる盃を配り、楽隊等の余興あり。また従軍諸氏の家族をも招待し、盛んなる景況なり。


ちょうど今ぐらいの季節です。
車を争って戦友が集ってきた。それで雁首揃えて行うことが、将軍廟の花を見る、というのが、勇ましくなくていい感じです。

五稜郭に篭った方々は、旧幕臣のほんの一部。また、もちろんほかに仙台藩、会津藩、南部藩、越後高田藩、岡崎藩などの方々も五稜郭におられました。そして、すでに、世を去った方、東京にいない方も多いでしょう。ここに集った方々は、箱館戦争参加者のごく一部なのでしょうけれども。「箱館帰り」は一種格別の連帯感があったでしょう。

旧幕旧交会総会、ということですが。旧幕府の集まりは、江戸会、同方会、旧幕府雑誌など、いろいろとあったようです。旧幕臣という、互助組織というか、同窓会というか。
旧幕臣の連系は明治の後期になっても盛んに行われていたようです。

よく、明治における旧幕が敗者として薩長政府を批判するために、新聞や私立学校など組織したというように述べている論文など、見かけます。たとえば、育英黌や工手学校、東京医学専門学校などの教育機関教師が、旧幕臣派閥とでもいうべき人たちで占められていることで、教育を用いて薩長政府に対抗している、という感じです。

旧幕派閥とかいうものは、こうした新聞記事にあるような、単なる同窓会、OB的な人脈の繋がりではないかという気がします。廃藩置県が終わったらみな喜んで藩の境なく天朝に仕えたわけですし。明治のこの時期になっても愚図愚図と負け犬意識で動いていた人は、あまりいないのではないかなぁと思います。

西南戦争以降は、明治における旧幕臣と薩長政府を線引きして対立構造にすることに、あまり意味は無いのではないかと思っています。もはや国意識が醸成され、一緒に日本を作る同じ日本人ですから。その時期になってまだ薩長云々言う人は、自分の不満の原因がなにかあって、そこに転嫁させているだけなのではないかなという気がします。


さて。
5月4日、上郡の岩木にて、圭介祭りです。
行ってきます。1日16時間労働を続けても3月提出の作業がまだ終わってない体たらくですが。かなりまずい状態ですが。せっかく日本にいられるのだから。気合入れて行ってきます。うし。

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2010年05月07日

圭介まつりと上郡 その1

上郡石戸の圭介まつり、行ってきました。

今回はTさんも無理やりお誘いしました。

素晴らしかった!の一言です。まだ余韻の覚めやらぬ思いです。
参加者は600名を超えたとか。大盛況でした。
石戸に設定された駐車場だけではとても足りず、手前の大避神社に臨時の駐車場を設けて、シャトルバスが運行されていました。

上郡町役場の方々も、スタッフの腕章をして会場整備を手伝いされ、シャトルバスの運転手をしておられました。

地元集落、自治体、住民の方々、上郡役場と、地域の一体感のある、土地に根付いた素晴らしいお祭りでした。地元の方はもちろん、参加者の方々には、GWで帰省してきた方もいらっしゃるでしょう。ふるさとの良い思い出になったのではないかと思います。とっても楽しませていただきました。


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本題に入る前に、まずは基本。役場の圭介像。
この像の裏にある顕彰の言葉が、また大鳥さんを顕すのに練りに練った、格調高くも本質を突いています。よい言葉です。訪れた方は、ぜひ裏もご覧下さい。

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役場の生垣の看板。生誕地まで、あと6km。
役場前は千種川の河川改修で、随分と様相が変わっていました。駐車場が裏側になり、圭介像が直ぐ道路に面することになっていました。


そして、石戸の開催地。

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まずは目にあざやかな鯉のぼり。

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公民館の前に特設舞台が設けられ、この壇上で演技が繰り広げられていました。

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催し物はこちら。獅子舞に三味線、太極拳、詩吟、エイサーなど。けいすけじゃマスコットが迎えてくれます。

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公民館の前は、参加者の方々と屋台テントでごった返し。
テントの名前も様々で、地域からかき集めてきたという感じでした。

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おなじみの圭介弁当です。岩木の奥様たちが腕を振るわれたのでしょう。

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獅子舞は、地元の子供たちと中高生、若者。
若い人たちがこうした伝統祭事を継承しておられるのは、喜ばしい。

圭介慶太郎少年は獅子舞祭りが何より好きでした。弟鉄次郎誕生の際は子供が生まれる家は縁起が悪いから今年は獅子舞は無しといわれたときに「弟なんぞ生まんでいい」とふくれたというエピソードがあるぐらいです。大鳥さんも地下で喜びながらご覧になったことでしょう。

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エイサーの踊り。役場の方も混じっていたりする。女の子が一生懸命笑顔で踊っていたのが、見ていてこちらも嬉しくなるぐらいでした。

圭介まつりは昨年も催されていましたが、特設舞台も獅子舞も、今年が始めてだそうです。毎年進化する、圭介まつりです。


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岩木の谷川。
新緑が瑞々しく、清清しい。

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裸足になって水遊びをする子供たち。なんだか無性に懐かしいです。

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そして、ふれあい喫茶・大鳥圭介ミニ資料館にまいります。

生家跡の建設されたもので、柱や梁はもとの生家のものが使用されています。
入り口の看板。

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ここまでの道は、長かったことと思います。
所有権の問題を解決され、生家整備に乗りだし、老朽化し危険だった旧家を取り壊し、県民交流広場事業助成金を申請され、地鎮祭を執り行い、いきいきふるさと館としてミニ資料館を建設された。

そこにたどり着くまでの、岩木の方々、地元の皆様、上郡町役場の方々のご苦労は、大変なものがあったと思います。

助成金はあくまで半額の補助金で、残りは寄付金で賄わねばならない。そこで、地域から募金を集め、地元の名士を動かし、資金を集められた。
いつも、何かの事業を行う時、問題になってのしかかるのは資金です。そこを解決された関係者の皆様の東奔西走を思うだに、頭が上がりません。
(こちらを見て募金してくださった方もおられた由、本当に感謝です)

建設後も、ふれあい喫茶の開店、地元小学生や関連機関の各種学習会、大鳥圭介生誕地ウォークイベントのご開催、そして、3月28日の竣工式と、数々の催しが開催されました。その度に、おらが村さんたち石戸の方々は、ボランティアで多大な労力を注いでこられました。

ここまで来るのに、石戸の皆様、上郡町役場の方々には、本当に大変だったことと存じます。何もしていない私が言うのも憚られますが、感無量の思いがあります。

資料館は、決して大きくも煌びやかなものでもありません。トイレを付けるのも予算が無く、四苦八苦されていたぐらいです。しかしながら、地域ぐるみの大鳥さんへの愛着にあふれる、ここにしかない手作りの心づくしがあります。


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「ちちははの 影こそ見えね 末永く 庭もせに咲く 撫子の花」

大鳥さんが、故郷にて亡き父母を思い和歌に詠んだ、なでしこを植える。
この辺りの心配りも、心にくいばかりです。

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こちらは大鳥さんの、適塾入塾の際の直筆名簿から写し取ったもの。「赤穂郡細念村」とあるものをこのようなモニュメントにするところも、微笑ましい。
資料館のほうでは、特別展として、大鳥の係累である山田家から近年発見された史料が展示されていました。

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大鳥の祖先に、寛永年間、四方田政綱という鉄砲の名人の方がいて、鉄砲打方秘伝書が伝わっていると「大鳥圭介伝」にあります。この四方田政綱の文書が発見されたということで、展示されていました。すごい。
他、大鳥家の医療鞄、弁当箱、矢立、和歌の短冊など。
こちらから、大鳥さんの若い頃の書簡が新たに見つかっています。


そして、何より凄かったのは、ミニ資料館をベースとする大鳥圭介塾の猪尾塾長のハマり込み様です。
その偉業を書き出してみます。

・大鳥関係人物百数十の似顔絵 (もっと沢山ある)

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・神戸又新日報の「吾県の精華」筑川氏記事全て書き出し。和紙に清書し和綴りで綴じた、圧巻の全十七巻。どれだけ時間を掛けたのか。凄すぎる。

・大鳥と関係人物十数名の対比年表の作成。各人物、いつどこで誰が大鳥と関連があったかを書き出している。

・大鳥仕事の関連事項の想像図の数々。例えば下は、フランス式練兵。

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・単語カードに大鳥関連事項の年号と事象の書き出し。どこの受験生用ですか。こんな試験があったら受けてみたい。

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・箱館戦争終結後、箱館から江戸へ護送された、東北・関東のルート図。流落日記より。

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流落日記は、以前ご紹介してから、戊辰戦争研究家の方を通じて、榎本武揚の護送ルート判明として、秋田の論文に掲載されたことがありました。大鳥の記したものなのに、大鳥ではなく榎本の研究として発表されたことには、ありがたい反面、少し寂しい思いもありましたが。これを見るとそんな感傷も吹き飛ぶというものでした。

・大鳥圭介伝掲載の大鳥作成詩歌、全部の書き出し。

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全て、注釈、ふりがな、現代語訳付です。
この漢詩については、後から私、誠心誠意気合入れて語りますから、ひとまず突っ込まないようにお願いします。

そして、見よ、この量、この紙の厚さ。

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素晴らしすぎです。これにより大鳥が何を感じどういう想いを抱いているのか、いっそう多くのことが分かりました。


まだまだあります。とても書き出しできません。
塾長の作成された、すさまじい量のクリアファイルと作成資料に、仰天しました。

塾長のご精励には本当に驚嘆です。もう拍手するより他はありません。
大鳥さんの読み解かれた漢詩や、多数の人物との年号の符号で、大鳥さんの心の深さや人間関係を、さらに明らかにしてくださいました。

この為に毎日午前2時3時まで作業し、肩が凝り過ぎて歯が浮いてきたとか。
どこまでのめり込んでいるのですか、という感じです。塾長のご健康が本気で心配になるほどでした。
しかも妥協が無いのです。

「純平爺さんの絵は初めて見ました。これは想像ですか」
「わしは根拠の無い事はせん」

と「大鳥公使伝」の挿絵を取り出す猪尾塾長。
確かに、幼少時の圭介と共に純平の絵が描かれている。(作者が純平の顔を知っていたかどうかはともかくとして)
そして、似顔絵図に、戊辰戦争時の大鳥さんの似顔絵がある。

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「これは。戊辰期の大鳥さんの写真を発見されたのですか」
「それは想像や。無いもんは無い」

根拠の無いことはしないポリシーの塾長をして、つい想像で絵を描かせる大鳥。
塾長。素敵です。


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ミニ資料館前の、上郡町製看板。もはや申すことは何もありません。素晴らしいものを作ってくださいました。


やはりとても一回ではまとめ切れません。
続きます。

ラベル:大鳥圭介 上郡
posted by 入潮 at 04:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月08日

圭介まつりと上郡 その2

宴も酣。川でアマゴ掴みやビンゴゲームが催されている間。
Tさんと二人で、圭介両親と弟のお墓参りと、「皆坂の滝」に行ってきました。

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公民館の傍にある、付近の地図です。
石戸集落から、山の迫った渓流を北に上がり、メインの道路と合流したすぐ先に、圭介両親のお墓への入り口があります。小高い丘を少々登ります。

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お墓の一角です。
いつ来ても、ここにはフィトンチッドがあふれ返っている気がします。静謐な空気に満たされています。深呼吸をすると体中の血液が洗われていく感じで、新緑の木漏れ日が、心と体にとても優しい。
この丘は、明治の当時から全く変わっていないでしょう。
大鳥さんは、父母を弔われるのに、この上ない場所を選ばれたと思います。

「大鳥直輔府君於節孺人合葬墓」

とあります。父直輔・母お節のお墓です。笠つきの砂岩。没年や略歴が刻まれていますが、すでに風化していて多くの文字は読めません。しかし、山崎有信氏が大鳥圭介伝に収録して下さっているので、その内容は分かります。この刻まれた字のお陰で、お柳がわずか4つで天然痘で没したなど、大鳥の家族の様相が伝わります。

直輔は元治元年十二月、お節は明治二年九月の没です。直輔の死は、圭介が阿波藩出仕のときで、圭介が幕臣となったことを父が知ることはありませんでした。お節の死は圭介が獄中にあるとき。今度は圭介がお節の死を知らされないままに、母に手紙を書いています。
こちらにて。母に心配をかけまいとする様が痛々しい。

建立は明治9年、おそらく圭介が長崎の工作局分局への出張の途中に故郷に立ち寄り、建立したものではないかと思われます。それまで、戦、投獄、出仕、渡欧と、父母を弔う暇は無かったのでしょう。

その隣に、大鳥の弟鉄次郎のお墓があります。
そして、大鳥家係累代々のお墓。
個人のものですので、静かに手を合わせるのみです。

あと、この傍にもともと「男爵大鳥圭介誕生の地」の石碑がありました。この碑は今は移設されて、ミニ資料館の傍にあります。


次は、皆坂の滝へ。
皆坂の滝は、石戸の集落から自然歩道に沿って西へ。圭介が閑谷学校へ通った古道のはずれにある滝です。閑谷への道の途中、水を飲み、また暑い時は滝で水遊びしたという話が地元に伝わっている場所です。

旧旭日鉱山の労働者小屋が残っている道から、山に入ります。
旭日鉱山は大正二年に金・銀の鉱床が発見され、約70年にわたって採掘が行われていました。鉱山労働者のための集会所や映画館などもあったそうですが、今は無人です。

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入るための山道はいくつかあります。この先を進んだところから入ると近いです。しかし、案の定、迷ってTさんを引きずりまわす羽目になりました。山道の分岐点には案内板を設置してくださっているので、分かり易くなっているはずなのですが。おかしいなぁ。
登山道で、浮いた石も多いので、行かれる方はしっかりとした靴をご用意ください。

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途中にある竹林が、青々として素晴らしいのです。御伽噺に出てきそうな感じです。竹って本当に綺麗な植物だと思います。

そして、「閑谷への道」の立て札。

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ここから上にいくのは結構大変です。フルの山装備が必要になります。私もまだここを抜けたことはありません。この日、「けいすけじゃ」の著者の半沢裕人氏や「縁人全会(エンジンゼンカイ)」の方々が挑んで、閑谷学校までたどり着いておられました。20数kmはあるはずです。

「縁人全会」は、地元興しの有志の方々で、今は獣道となっている圭介が歩いた閑谷学校までの山道を整備しようと活動しておられます。

「縁人全会上郡は、縁ある人、全員参加で上郡から日本を良くしていこうと考えてネーミングしました」

とのことです。素晴らしいコンセプトです。
もともと上郡の再発見、地元振興が目的の方々ですが、岩木、石戸の自治会の圭介生家保全活動と連携し、組織間で広がりを見せています。部会に「大鳥圭介コミュニティー"けいすけじゃー!!"」があります。名刺にそう書かれていて、ひっくり返りそうになりました。代表の方は呉服店の旦那様です。

こうして、地元の違った立場の方々が、次々に別の形で関わりを見せる。そのような発展性があるところが、上郡の素晴らしいところだと思います。

そして、皆坂の滝。輝く緑と濡れた岩に迸る姿が、何とも美しい。

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皆坂の滝は神社のご神体でもあります。昔は修験者の修行の場だったとのことです。

慶太郎も触れ、顔を流し、汗を流した、滝の水かと思うと、感慨もひときわ深まります
ひょいひょいと、猿のように濡れた岩を登るTさんに、山猿慶太郎の姿を見ました。

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フィトンチッド大量放出場その二。
滝の直ぐ下にある、祠です。滝神社と呼ばれています。
やさしい陽光、瑞々しい緑、流水の音の静けさに、何もかも忘れて一日中ここに居着きたくなります。

清廉な空気に、自分の中に溜まった汚れたものが、全て漉し取られる感じです。自分が文明に汚れぬもう百年前の人間だったら、きっとこの大気の中に精霊を見ていただろう、とでも思えるような、本当に素晴らしい場です。ここの雰囲気も、140年前から変わらず在り続けているのだろうと思います。

大鳥さんが時折、諦観に満ちて森羅に全て委ねているところがあるのは、このえもいわれぬ緑と水と大気の中で育ったということも、寄与しているのだろうと思いました。


とか何とか言って、迷って時間がかかったために、役場の方が車で車道まで迎えに来てくださいました。ご迷惑おかけしてしまい、誠に申し訳ない。ただの参加者二人にここまでして下さる上郡役場様に感謝です。


そんな感じで資料館に戻ります。
そして、おらが村さんご夫婦や猪尾塾長、役場の方々や参加者の方々と歓談。
普段めったにできない大鳥さんの話を、ここほど思う存分できるところはありません。とても楽しく過ごさせていただきました。そして、皆様の真摯な姿に、さらなる探索への意欲をいただきました。何時来ても、おらが村さんたち、自治会の皆様、役場の皆様には、大きな元気をいただきます。

いつも上郡岩木に来るたびに感じるのは、地域の一体感のすごさです。

お祭りは、子供たちの参加も多かったでした。エイサー踊りや獅子舞に参加した彼等は、今日のことが故郷で過ごした思い出となり、記憶がアイデンティティの一柱となっていくことでしょう。三味線と唄を披露されていた若い女性の方が「ここが大好きで何時になっても離れることができません」と仰っていたのが、とても印象的でした。

もちろんこうした山間の地方は店も無く不便なことも多いでしょう。上郡の街中も、雇用の少なさや景気の変動を一気に受ける経済的脆弱性もあると思います。公共事業の削減で、上郡でもやはりかなりの数の工務店や建設業者が廃業を余儀なくされてるということも聞きました。 それでも、皆様が、この土地に愛着を持って過ごし、日々を善く生きようとしておられる姿には、大変和ませていただきました。

正直、ふるさと資料館の助成金を拠出した県民交流広場事業は、大鳥生誕地保存のために利用できるものを利用したのだったのだろうという穿った見方を、自分は最初はしていました。けれども、地元の方々は、本気で、そのスキームの本来の目的である地域交流と活性化を、ふるさと資料館を元に実現しておられます。

すでに、ミニ資料館の例をみて、県民交流広場事業に自分たちも申し込みたいとする自治会が複数あるとのことです。竣工式の祝電で「岩木、上郡の活動は全国自治体のモデルにもなる」と述べさせていただいたことがあったのですが、まさにその通りになりつつあります。

そこで、生誕地保存会会長の小林さんが、「自分たちは運が良い。地域振興にたまたま自分たちには大鳥さんがいた」と仰ったのですが。その言葉が、とても印象的でした。

偉人を当てに、他の地域からの観光客を呼び込んで観光収益を図るのではない。まずご自分たちの地域の振興を考え、地元の方が地元に愛着を持ちふるさとを大切に思う、自分たちがいきいきすることが大切。その媒体としての大鳥圭介がある。その考え方に、大変感銘を受けました。

よく大河ドラマや映画などメディアで、出身人物が脚光を浴びたのをきっかけに、それを元にして地域おこししようという動きが見られます。観光客誘致や関連グッズ、本、みやげ物の販売には、ファンには嬉しいものでしょうが、反面、どうも浅ましさを感じてしまいます。売れればいいのだから、虚構や誇張が入り込んでも気にしないなりふり構わなさがあり、子孫や地元に、嘘まみれの自分を商売の道具にされたら、偉人は情けなく思うだろう、というのもあるのですが。

何より、メディアで注目された偉人ありきの地域おこしに、持続性は無いと思います。たまたま偉人が脚光を浴びただけであり、それで地元に生産力などの力がついたわけではありません。にわかに観光客が来て消費は増えるでしょうが、一過性のものです。ブームが過ぎて飽きられたら終わり。少数の本気の人だけが、そのブームが去ったら寂しいをする羽目になります。浮かれた分、却って、落ち込みになりかねません。

そうではない、地域を大切に思う心、地元の為に何とかしたいと思う心がまずあり、行動と力に結びつける。地域の力を醸成する行動を起こすきっかけとして、偉人を利用する。コミュニティ結束の固着剤として、あるものは使う。それが良いと思うのです。それでこそ、現実主義者の大鳥さんも喜ぶと思います。エンパワーメントがそこにあるからです。

エンパワーメントという言葉は、自分たちの人生と生活の場で、行政や他人任せでは無く、自分たちでやる気を出して生活基盤を改善する力をつけること、という感じでしょうか。能力や生産力をつけ、問題解決し、変革の為に動き、「わたしたちはできる」という確信を共有する。地域振興、地域活性化の鍵になる概念ではないかと思います。

上郡石戸の方々は、まさにこのエンパワーメントを行っておられます。その核になる方々が、おらが村さんご夫婦であり、猪尾塾長であるのだと思います。まず中心になる方々の本気があり、周囲を巻き込んで本気が本気を呼ぶ。上郡町役場の行政の方々の本気も、自治会と相乗効果で高めあっている感じがします。

そうした姿には、地域の住民だけではなく、関連のある外部の人間も、おおいに影響を受けます。

「われ徒死せず」「大鳥圭介の米英産業視察日記」を記された故・福本龍先生の奥様もご家族で圭介まつりにお見えになっていたことも、とても嬉しかったでした。
福本先生は生前に、経済的にも精神的にも、多大なご支援を生家保存に対して行っておられました。
その福本先生が世を去られた後、奥様にとっては大鳥家は言ってみれば関係の無い他人の家になってしまうのですが。奥様は「今までずっと関わってきて良かったわ」と言っておられたとのことに、石戸の方は感激しておられました。これはまさしく、石戸の方々の本気の姿を奥様もご覧になってきたからこそではないかと思います。


大鳥さんは明治5・6年渡航時の日記の裏表紙に、以下の通り記していました。

" Nothing is so easy as the discovery of yesterday; Nothing is so difficult as the discovery of tomorrow"

直訳では「昨日の発見ほどたやすい物はなく、明日の発見ほど難しいものはない」という意味。意訳すると、「先人の過去の轍を踏むのは容易である。自ら明日の道を作ることこそが難しい」という感じになるでしょうか。

まさに、欧米で多くの有為のものを見て、それを取り入れながらわが国に適合する独自のものを開発していかねばならない人間の責任感を感じる言葉です。

同時に、岩木にて地元の方々の力をまとめ、資料館建立だけではなく、そこで新たに継続して企画催しを実施されていく関係者方々にも、共通する思いがあるのではないかと思います。

「立ち上げるのは簡単だ。大変なのはこれからである」と保存会会長の小林さんは仰います。
そこには、今後にわたって活動を継続していく意志と覚悟があります。

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記念写真。「おらが村さん」ご夫婦、猪尾塾長、「けいすけじゃ」作者の半沢祐人氏、「縁人全会」の方々、上郡役場の方々、そして次にご紹介する企画の関係の方々などでした。

いきいきふるさと資料館。訪れる方が、心づくしの暖かい展示に心安らぎ、あふれるエネルギーをいただくことになることに、疑いはありません。
他の訪問者の皆様も、この岩木、上郡町のファンになっていただけるのではないかなと思います。

今回、暖かく迎えて下さり心を尽してくださった岩木の方々、上郡役場の方々には本当に感謝でした。真に素敵な一日でした。

ラベル:大鳥圭介 上郡
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いきいきふるさと資料館と上郡町企画

大切な情報になりますので、ポストを新たにします。

まずは、大鳥圭介ミニ資料館こと、いきいきふるさと資料館。
概要は、以下の通りです。

_______________

● 開館時間: 毎月第1・第3日曜日、9時〜12時
○ 交通機関: 山陽本線JR上郡駅より8km
(タクシー20分、徒歩2時間)
________________

細かい場所は、JR上郡駅から出た左手に観光案内所があるので、そちらで地図をもらうか、看板で確認されると良いかと思います。

上郡駅からは県道236号を北に上郡役場へ向かい、ここで大鳥圭介銅像を見て、県道451号を千種川沿いに北上し、同じ県道のまま北西に進んでいけば、間違いないかと思います。
車で来られる方は、山陽自動車道播磨JCTから相生に出て、国道2号を有年・備前方面へ進み、有年から国道373号を北へ。それから上郡役場を目指されると良いかと思います。

開館時間は限られますが、これは、地元の方々がボランティアで当番で運営しておられるためかと思います。
猪尾塾長もできる限りいてくださるとのことです。

まだ訪れたことのない大鳥ファンの方、それだけではなく、地域振興をするのにモデルをお探しの方も、どうかぜひ一度、ご訪問してみてください。そして、登りや看板、説明書などの手作り感、一つ一つ手間暇掛けられた作業に、慄きながら、地域の方の生まれた場所と圭介への愛着を感じてきていただけますと幸いです。


そして、上郡町企画。

上郡町さんは、圭介没後100年に向けて、素晴らしい企画を進めて下さっています。
あまりに眩しすぎて、とてもここで私の口からお伝えできるものではありません。上郡町さんWPを、まずは直接ご覧ください。


上郡町総務課広報情報係おしらせ


実現するための道は遠いです。
この不景気蔓延時、一地方自治体が文化事業に対して投ぜる予算はごく少なく、職員の皆様は予算確保のために大変難儀しておられます。経済的にどこまで実現できるか、また企画のノウハウについても体当たりで、この先も大変だろう状態ではあります。が、その企画によりさまざまな関係者を巻き込んで、さらに地元大鳥圭介への関心の輪を広げておられます。

私がいくら駄文を垂れ流しても、読まれなければそれで終わりですが。これは、将に一般に衆に広めるに最良の企画であるに他なりません。

難題は多いですが、そのハードルをクリアするよう、上郡町役場と関係者の皆様は、本気です。
どうなるのか。今からどきどきしています。
心底、応援させていただきたいです。

というか、申し込み第一号はいただきました。
ちなみに、製作チームのお名前は、「○○製作伝習隊」なのです。


上郡やふるさと資料館の良いところは、参加者がただエンターテイメントを享受して終わるのではなく、関わりの中で「一緒に作る」という余地を提供して下さっているところです。予算不足、手作りゆえのことかもしれませんが。例えば、ふるさと資料館も、他県の他の大鳥ファンの方が収集され提供された資料を、存分に活用しておられました。参加者が主体的な役割を分担することで、より参加意識が高まり、身近に感じられ、当事者意識を共有できることと思います。

ここまで実は計算して行っておられるだなんてことは。無いことは無いかもしれない。

上記につき、参加されるのは地理的時間的理由から大変なこととは思いますが、心ある方、リンクなどで宣伝のご協力などでもいただけますと、とても嬉しいです。

ラベル:上郡
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2010年05月09日

童顔を訝しまれた人

これだけ言ってから、出ます。

大鳥の童顔は、本人公認でした。

大鳥の身長が小さいと言うことは、大鳥圭介伝の同時代人の談話に、「頑丈なる短躯、美しき白髯」(横山健堂談)とか「福羽美静(身長五尺足らず)と同じぐらい」ということが語られていました。また、身長が四尺九寸(148.5cm)ということは奥羽日日新聞「本邦朝野紳士の体重」(明治三十五年五月八日)の記事でしっかり公表されていました。
大鳥圭介が小さいことは、世間公認の事実でありました。

一方、童顔は本人公認でした。

大鳥圭介伝P422の和歌。
猪尾塾長が、読み解いてくださいました。圭介の似顔絵と共にです。
猪尾塾長の解読記録は、それそのものが一つの作品です。
実物は、先日のポストをご参照ください。



一談一笑幾孫兒
人訝童顔雪上髭
依舊飄蓬詩骨健
也添七十七年癡


依: そのまま、もとのまま
飄蓬: 風に吹かれて飛ぶヨモギ。行き先を定めぬ旅人にたとえる。
癡: おろか、物事に夢中になる事。


語ったり笑ったり。幾人の孫たちだろう。
ひとは、私の童顔に雪がのったようなヒゲのことを訝しがる。
昔どおり、風に吹かれて飛ぶヨモギ(私)には、
詩情を感じる力がまだ健やかに残っている。
それは、七十七歳におろかさを添えることかな。


猪尾塾長の読み解きより。
この「童顔」が圭介自身のことを指していることに、全く今まで気づきませんでした。
見事に訳してくださった猪尾塾長、ありがとうございました。

童顔に雪のような髭。
洋行から開拓使、工部省以降、ずっと圭介には髭がありましたが。お雇い外国人と常に付き合っている政府高官だから、それなりに年嵩に見せる必要があったのでしょう。
国レベルの仕事をする人間にとって、若い人が出てくると、軽んじられているような印象を与えてしまい、むしろ損をする事があります。
圭介の大仰な髭は、童顔をごまかすためだったのだろうなぁと、今まで漠然と思っていましたが。

計らずしも、大鳥さんは自分で認めたものを残して下さっていました。

こういう突っ込みどころを随所に持っているのが、大鳥さんだと思います。

童顔云々は置いておいても、大鳥さんの写真は、何時の時代のものも、顔は老いても、目が若いというか少年めいていると思います。

この詩自体も、とてもよい詩だと思います。

「飄蓬」もまた、大鳥さん自身のことである由。じゐさん、何時になっても旅人なのですな。

「癡」に、物事に夢中になる様という意味があることも知りませんでした。大鳥さんらしい言葉だと思います。

全身これ肝と謂われ、「談の大胆不敵にして李将軍の面影ある」「衆を統御する方には古今多く例を見ない」「独り謀を帷幕の中に廻らして敵を悩ますのみならず、勇猛果敢数十日の間官軍を苦しめた」「徳川氏の末路を輝かせし一俊傑」「高風清節敬慕すべき一人物」と同時代人に語られた方です。全て大鳥圭介伝より。

そんな人が、「人訝童顔」と言う。
当時の方々も、所謂、ギャップ萌えという心得が在ったに違いないように思われます。


そんなわけで、ベトナム経由ラオスに戻ります。
でも、川崎のイベントのためには帰ってきます。その予定だけは何が何でも死守する所存。

この半月、せっかく日本に居られるのだからと、公私かなり無謀な作業もしましたが。その甲斐あって、濃い日々が過ごせました。幸せでした。お付き合いくださった方、ありがとうございました。

それでは、雨の季節に、またお会いしましょう。

ラベル:大鳥圭介
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2010年05月17日

歴女と歴史オタクの交流


ゲーム薄桜鬼がアニメ化し、ファンの方も増えたようです。あの大鳥さんを見て、本物の大鳥さんはどんな方だったのだろうと興味を持つ方が増えてくれないかなぁと願っています。

さて、歴女の呼称が一般化してきたのは、結構便利です。つい酔っ払って仕事相手に大鳥語りを始めてしまっても、ああ歴女か、と相手が勝手に納得してくださり、変に訝しまられないですみます。

一方、歴史ファンの女性の方のブログ日記などでは、「私は歴女とは違う」「歴女と一緒にするな」ということを明言し、歴女と呼ばれることを忌避しておられる方が、少なくありません。

これは何ゆえか。

手前の愚考する、歴女と歴史オタクの違いを、以下に羅列します。

1) 歴女はメディアの享受者。オタクは自ら創作する。
2) 歴女は流行重視。オタクは不変と唯一性重視。
3) 歴女の根源はミーハー心。オタクの根源は萌え。
4) 歴女は自己評価が高い。オタクは自己評価が低い。
5) 歴女は自分が大切。オタクは対象が大切。

私はオタク寄りです。自画自賛はみっともないですが、オタクを正当化する論調を、つい行ってしまいます。それは偏狭な誤った見方であるという反論も、多々生じることと思います。
以下、愚生の偏見を正す異論反論は大歓迎であります。

1) 歴女はメディアの享受者。オタクは自ら創作する。

歴女は、テレビドラマや小説漫画映画など、メディアで注目されたものを対象とします。メディアや世間が注目しないものは、自分が注目する価値を見出しません。

一方、オタクは、エンターテイメントのメディアがあろうが無かろうが、世間が注目していようがそうでなかろうが、自ら良いものを発掘します。メディアはあれば嬉しいですが、それを受けて終りではありません。作品が少ないならば自分で作ります。自分の妄想や空想を作品という形にすることが喜びです。メディアから提供されるほど、それでは飽き足らず、自分で作ります。

歴女はエンターテイメントを享受するメディアの消費者ですが、オタクは自ら創作し、同人誌やウェブサイトで発信します。
両者は異なったベクトルを有しています。

2) 歴女は流行を重視。オタクは不変と唯一性を重視。

歴女は、流行になっているものに敏感です。世間が求めるものに同化することに意味があります。だから、流行が変化すれば、それにつれて移ります。
また、歴女という肩書きは、知的で和の印象を自分に付加できる、ファッション感覚です。歴女という言葉は、化粧品や衣服と同じ感覚です。もてカワとか愛されヘアとか、そういう自分を飾る流行用語です。

一方、オタクは、本質です。確かに興味の対象が変わりジャンルが移るということはよくありますが、それにファッションは関係ありません。アニメ化や映画化などによる人の流動はもちろんありますが、それでオタクという本質が変わるわけではありません。また、そうした移り変わりをせず対象に愛を注ぎ続ける人のほうが、より高次の存在と見なされます。ファッションは時代遅れになると避けられますが、オタクのジャンルが長い人は、それだけで古参と一目置かれます。無論、老害にしかならないこともありますが。オンリーワン(ロンリーワン)やマイナーという言葉は、人に流されない、自分を保つ、という点で、オタクにとってはむしろ褒め言葉、誇る言葉になります。

3) 歴女の根源はミーハー心。オタクの根源は萌え。

歴女は、対象が格好良い物である必要があります。格好よく、強く、善良で、能力が優れ、誰からも好かれる。その姿を堪能します。そうした存在との同化により、現実社会で満たされぬ自己を補償します。また、他に格好よい存在があれば、そこに移動します。何が格好いいのかを決めるのは、流行です。世間に認知され世間に評価が高いものを認める。世間の好きなものが自分も好き。世間と一体化する自己を肯定する。この姿勢には黄色い声が伴い、ミーハーという言葉が当てはまるでしょう。

一方、オタクの萌えは、こうした同一化による補償とは異なります。
萌えは、かわいいもの、ちいさなもの、はかないもの、けなげなもの、ユニークなもの、可笑しいものを、愛でたい、守りたい、慈しみたい。武士の惻隠の情にも通じる、日本人的感性です。世間ではなく、自らの内側から滲み出る情に忠実です。また、感情に留まらず、そこに想像力が入り、ストーリー化や視覚化が行われ、多くの場合、小説や漫画などの二次作品が作られます。創造的感性です。

萌えが及ぶのは人間だけではありません。物体を擬人化して、愛でます。日本人は「針供養」をする、針という小さな道具すらも魂あるものとして弔う民族です。これが萌えの根源にあります。たとえば、人工衛星はやぶさ。障害に遭遇しながら惑星間を旅するはやぶさは、小さな女の子が予想外の困難にボロボロになりながら「おつかい」をする様になぞらえられ、多くの人の心を掴んでいます。それで自分の体は大気圏突入で燃え尽きてしまい、大切なお使いの中身だけ我々に届けてくれるだなんて、だめだ、泣けてくる。はやぶさを可愛い少女として擬人化しイラストを描いて「はやぶさたん」萌えを表している方は、決して少なくありません。命無き物をも、心ある存在として愛するのです。

対象にためにはすさまじい労力と金を注ぎ込み、もはや一大消費者層として日本経済も無視できない。そのオタクを突き動かしているのは、この萌えの感情に他なりません。
オタクは、世間の流行ではなく、日本人の魂の根源、不変なる感性により、動機を得るのです。

4) 歴女は自己評価が高い。オタクは自己評価が低い。

歴女には歴ドルという発展形があリます。有象無象に乱立されるアイドル像の中で、歴史エンターテイメントブームに乗り、自らのアイデンティティ確立のために「歴史っぽいもの」を表現しているのが歴ドルです。武将の墓の前で「すっぴんでごめんなさい(ハートマーク)」と自分と墓のツーショットの写真を取り、ブログや雑誌に写真を掲載しておられます。また、史跡やバラエティ番組に歴史人物のコスプレで現れます。それで閲覧者・視聴者や、地元、墓の下の方も、喜んでいると思っておられる模様です。この自信は、ある意味仰ぎ見ます。彼女たちは自分たちが愛される存在であることを疑っていません。自己評価が非常に高いと見て良いでしょう。

歴ドルまでいかなくても、歴女には同様の傾向があります。史跡にお洒落して観光気分で出かけて地元の人が喜ぶと思っている性向は、似たようなものでしょう。実際、寂れた観光地の田舎に、お洒落をしたお姉さんたちが訪れ、みやげ物と食べ物で消費していくので、地元にとってはありがたい存在でしょう。
歴所は、流行を追い、勉強や旅行をしている自分が大好き。つまり、自己評価が高いです。

そう言うと異論もあるでしょう。歴史エンターテイメントを楽しみ、史料を買い、史跡めぐりをする様子をブログに語りながら、「こんなあたしでいいのかしら」「あたしなんかが○○を好きでいいのかしら」「ブログなんか書いちゃっていいのかしら」と、一見、自信のないことを仰る方も多くいます。

それは、謙虚に自己を振り返っているように見せていますが、根底にあるものは真逆です。卑下は、「そんなことないですよ、ぜひやってください、待っています!」と、いう声を周囲に求める無言の圧力です。私を慰めなさい。私を褒めなさい。私を求めなさい。満たされない自分を補償せよと、その卑下の裏で主張している。自分はちやほやされるべき存在であるはずなのに周囲からそうされず、満たされていないと、心のどこかで感じている。それは、自己評価が高いということでしょう。

非常に申し上げにくいことではありますが、オタクは、こうした補償要求行為を「誘い受け」と言い、忌避している方が多いです。自分も正直、あまり好ましくは感じていません。誘い受けは、自分が思うほど周囲から評価されていない欲求不満を漏らしているだけのように見えてしまうからです。オタクの中にも、この補償行為を行う人は、無論、沢山見られます。ただ、多くの閲覧者は、大抵は内心「誘い受けウゼェ」の一言で片付けているようです。

また、やはり明言するのは心苦しいことではありますが、関心の対象(歴史)の話ではなく、自分の日常の話や、家族や仕事の愚痴、「こんなに忙しい私」「こんなに必要とされている私」という話ばかりを延々とする人は、やはりあまり尊敬されません。「自分語りウゼェ」と、自分語りの量ほど人物評価を下げる冷徹な視点がある模様です。他人が聞いても興味のない日常などより、関心の対象(歴史)の話題や情報を提供し続けるほうが、オタクにとってはずっと価値が高いのです。

所詮一般大衆其の一たる存在の日常など、他人から興味はもたれません。自分に興味を示すのは、基本的に自分と家族とごく一部の友人だけであるというのは、悲しいながら事実です。アイドルでも著名人でもあるまいし。世界に開けた公的な場の閲覧者が、何もせず自分に興味を示してくれると思うのは、大した思い上がりだという視点があるようです。

もちろん、自分語りをするななどと申すわけでは、決してありません。手前も所詮、欲求不満だらけの弱い人間ですので、誘い受けや自分語りは、つい行いたくなってしまうものです。
日記はそもそも自分の日常を示すもので、自分史を書きたい人も多いでしょう。自分のサイトなのだから、自分が書きたいならば、書けばよいと思います。

日記ブログでも独特な視点と突っ込みの鋭さで、人気を縛しているブログは沢山あります。自慢や愚痴に終始しない、聞いて面白い自分語りもたしかに多いです。また、素晴らしい作品を産み、対象への愛を語り、そのジャンルで一際存在感を放ち、ファンも付くオタクとまでなれば、アイドルなどと同じくその日常に関心も寄せられます。自分も、研究者をも凌ぐ深い視点を以て語られる方や、心に響く二次作品を産む方を見ては、いったいこの方はどのような日常を過しておられるのだろうと興味が沸いて止まないこともあります。ただ、そうした方ほど、えてして、自分語りはせず、只管にジャンルの愛と情報を語り作品を生む、大人な姿勢を有している模様です。

心あるオタクは、誘い受けや日常や愚痴などは、たとえ言いたくとも下らぬものとして脇に置きます。対象の情報と愛と創作の信念を虚心坦懐に語る姿こそを、凛々しいとています。自分は必要とされているのだろうかなどという疑問を感じるような暇があれば、資料や原作のひとつでも探し捲り、あるいは作品を生んでいます。他人からどう思われるか、評価なんぞ、自分の行動から、後からどのようにでもついてくると言わんばかりです。

無論、人間、社会的認知欲求の強い生き物ですから、いい評価がもらえると嬉しいし、悪い評価だと落ち込みます。コメントや感想がいただけるとそれはとても嬉しいでしょう。その嬉しさが忘れられず、次々求めて、得られなければ落ち込み、モチベーションが枯渇する人も多い。しかし、それは本末転倒で、他人の反応によって自分の行動が左右されることはないというのが、オタクの理想的なありかたです。人の評価はどうであれ、己の内的衝動による行動は変わらないというのが、ノーブルなオタクです。

他人からの補償があろうがなかろうが、認められようがそうでなかろうが、資料を漁り、萌えにより不言実行で作品を生む。少なくとも、サイトを立ち上げ同人誌を作る方の最初はそうであったでしょう。そのうち贅沢になり、反応やコメントが無いことが寂しく感じられてくるのですが。初心は誰も、自らの衝動こそが動力だったはずです。

そうしたオタクというものは、世間から理解されません。世間に阿諛しないのだから当然です。それどころか、歴史創作サイトを持つ多くのオタクの方は、検索よけをして、一般人の目から隠れます。「所詮オタクですから」という後ろめたさを、格好ではなく、本気で感じています。自分の妄想から産まれた作品が、「事実と違う」「冒涜だ」と批判されてしまうことを、心から恐れています。そして嗜好を同じくする同好の士とのみ交流を行います。実名や所在地などプライバシーには非常に気を使います。自己評価の低い現われです。

オタクのコミュニティで注目されるのは、個人ではなく、対象であり作品です。その人の職業、所在地、年齢、実名すら知らないままに、延々と、対象について議論し、作品を交換しあい、中には朝まで萌え語りを繰り広げる方も多いです。一方、個人というものにさほどの価値を置きません。「私を見て!」という欲求をだだ漏れにする人ほど、敬遠されます。「ジャンルの切れ目が縁の切れ目」と、対象に興味がなくなれば人間関係まで一緒に終わる、ということも、往々にしてあります。自己評価の低い集団ゆえの現象です。


5) 歴女は自分が大切。オタクは対象が大切。

上の1)〜4)を結論付けると、こうなります。

この違いは、たとえばお墓の扱いにも現れます。歴女にとって、お墓は観光スポットです。一方オタクにとって、お墓は史跡です。
歴女は「墓に行った自分」が大事です。だからポーズを決めて、墓と一緒に写真を取ります。
一方、オタクは、墓に刻まれた文字、墓碑文を見て、生没年月日や家族構成など新しく得られた情報に燃え、メモを取ります。

どちらにしても、お墓は私有財産であり、運営維持費も個人の家が負っているものなのだから、ご子孫からすれば、来訪者は所詮赤の他人。最初は微笑ましくとも、増えれば段々と一緒くたに迷惑な存在になっていくことでしょう。線香を上げたり酒をかけたりというのは、赤の他人がやってもありがた迷惑というものです。手を合わせて故人の冥福を祈り存在に感謝し、何もせずに去るのみなのが、良い墓参りのあり方ではないかと思います。

お墓参りのマナーはともかくとして。
ブログなどで史跡めぐりのレポートを拝見しても、歴女とオタクには明確な違いがあるようです。

歴女にとって史跡めぐりは観光です。観光をする自分が大好きであり、大事なのは史跡ではなく自分の体験であるのです。よって、そのレポートの内容は、史跡ではなく自分が主役です。何を着て行ったか、どこで何を食べたか、何のスイーツが良かった、店員の態度がどうだった、お土産物になにを買った、歩いて疲れた、ホテルの内装がどうだ、そうした情報にもならない、他人にとってはどうでもいいことを、嬉々として語ります。そして、肝心の史跡の内容は、レポートの1割かせいぜい2割程度に過ぎなくなる傾向があります。

オタクの史跡めぐりは、この割合が逆になります。オタクにとって大事なのは、史跡そのものです。史跡の展示のされ方がその人物の特徴を捉えているか。パンフレットはどこまで正確に評価し表現しているか。案内説明版に各種史料からみられる事実と齟齬がないか。そうしたことをチェックしては、ネットに書き連ねます。しかも連中は、金をあまり消費しません。マスコット化された人物グッズや龍馬鍋コースなんてものには見向きもせず、コンビニおにぎりで済まそうとします。地元観光業者にとっては、
歴女のほうがよほどありがたい存在であると思います。

ただ、オタクは自らの金が、情報収集のためか、史跡保存に役立てられるなら、喜んで出費します。交通費や入場料、博物館代、書籍・資料代などは全くケチりません。

史料にしても、歴女は史料を持っている自分が好きであり、オタクは史料の中身が好き、という傾向があります。史料は、歴女にとって自分を飾るアクセサリーであり、オタクにとっては萌え材料です。
だから、歴女は史料を買ったということは良く書き連ねますが、その中身や史料批判を書くことはほとんどありません。書いてもニ、三行です。
一方、オタクは中身を語ってなんぼです。史料に書かれた情報と事実にこそ価値があるのです。


以上により、歴女と歴史オタクは、一見、まったく異質な存在であると思われます。オタクは、歴女を、マスコミやメディアの作り出す流行に流された風潮であり、浮薄なファッションであると看做しています。ストイックなオタクは、自分大好きな歴女とは相容れないものを感じるのでしょう。
一方、歴女にとって、オタクはどうでもいい存在です。

ここまで違いを書き連ねておいてから、申すのも何ですが。

私は、歴女と歴史オタクを分けることに、あまり意味は無いと思います。

歴女と歴史オタクが、その間に越えられない壁を作り、仲の悪い関係になってしまうのは、双方、何の利益にもならないのではないかと思います。
むしろ、お互いその長所の存在を認め合って、融合しあうのが理想ではないかと思います。

歴史オタクの世界は、風通しの悪さという、致命的な不治の病を抱えています。このメディアエンターテイメントにあふれた世の中。わざわざ面倒くさい歴史を趣味にする人はあまりいない。新しく入ってくる方はごく少ないです。
新陳代謝の無い集団は、いずれ腐り、廃れ、絶滅します。

新陳代謝という点では、歴女のほうがよほど活性に優れています。
歴女の利点は、流行への敏感性ゆえに大きな大衆性を有し、ジャンルの人口流動に大きく資することです。また、ムーブメントとして社会一般層を取り込む懐の広さがあるところです。

そして、一般人よりずっと、歴女は、歴史オタクに近い存在です。
歴女は、歴史オタクへの新しい風になる、もっともポテンシャルの高い存在ではないかと思うのです。

歴女とオタクの違いをわかりやすくするために、ひとまず上では極端に分けて書いてしまいましたが。実際、歴女と歴史オタクの境は、さほど大きくはないはずです。

歴史オタクにも、自分大好きファッション大好きな方は、たくさんいます。
歴史オタクを標榜している方の中にも、入り口が小説漫画やアニメ、ゲームだった人も多いでしょう。というか、ほとんどがそうだったはずです。私も、入り口はあの司馬遼太郎の「菜の花の沖」と「燃えよ剣」でした。古参といわれる歴史オタクの方の初期と、今の歴女の姿に、何の違いがありましょうか。

歴女と歴史オタクの境界線上にある人や、境界を越えて行ったり来たりしている人も沢山いるかと思います。むしろそうした方が大部分であり、気合の入ったエリートオタクは、ほんの一握りでしょう。

また、対象への関心ばかりが先立ち、自らの社会性を省みない人間は、全く好ましくありません。化粧もせず髪型や格好にも気を配らない女性は、社会性を疑われ敬遠されます。歴女の社会性は、オタクには見習うべき点が多いです。

思えば、歴史趣味の知人の中でも、この方は教養が深く話題も豊富で、社会性もある、人間としてバランスの取れている方だ、見習わせていただきたい、と思う方は、えてしてこの境界線上にある方だったりします。

私は、歴女と歴史オタクが交わり、歴女の方に歴史オタクの対象への関心と姿勢を有していただけたらとても良いと、本気で願っています。

実際、歴女からすっかり歴史オタク側に遷移してしまったようにみえる方もいます。
新選組の大河ドラマ続編であの大鳥に関心を持ち、調べている内にはまり込んで、南柯紀行の現代語訳を逐一行って下さっている方もおられます。真に喜ばしき事です。そうした方の存在無しには、ファンの存続は適わないでしょう。
大河続編は、あんな大鳥なら、松平さんや荒井さんと同じく、存在ごと無視してくれたほうがよほど良かった大鳥像だと思ったのですが。それに不平をぶつけた自分の狭量さを、大変恥ずかしく思いました。


歴史オタクの方に歴女を敵視している方はいますが、歴女はオタクをまったく歯牙にかけていないので、そんなことは虚しい一人相撲です。

そして、「私は歴女と違う!」と声を張り上げるオタクは、当の歴女よりもよほど冷笑を買っているという事実に、早く気づくべきでしょう。

歴史オタクは、歴女の方々を自らの土俵にお招きし、あるいは歴女の土俵にお邪魔し、自分好きだけではなく対象好きの性向も強めてもらえるような土台を提供できるよう、度量広く在るべしと思います。

そのためには、歴女の方をお見かけしたら、メディア像ではなく実物のすばらしさ、面白さ、奥深さを語り、時には資料を提供して、ひざを突き合わせて語らせていただく。その語りの内容も、オタクにしか理解できないディープなものではなく、浅くわかりやすい、しかし対象への興味を深められる。そうした材料を、踏み石、ステップとして用意させていただく。そうした細やかな心遣いと作業が必要でしょう。

その意味で、冒頭の、薄桜鬼好きの方にも、本物の大鳥圭介を知っていただければいいなというのが来るのです。
ゲームも楽しいですが、本物はとても魅力にあふれ、影響力があり、知的好奇心をそそられ、人生に示唆する所大きく、生きる志にも影響する、味わい深い存在です。関心をもっていただければいいなと心から思います。

オタクは内的動機が主体であるので、人に無理やり勧めることは「布教」と揶揄し、敬遠してしまうものです。ただ、あくまで入り口にある方を、もう少し深いところにお招きしたい、という意図ならば、個人の動機を強めるだけなので、差しさわりないかと思います。

そういうわけで、大鳥好き同好の方には、もし、本物の大鳥さんの話を聞きたいな、という方をお見かけされましたら、どうか本物の魅力を存分に語って差し上げていただきたいなと思うのです。

ここまでグダグダ書いてきたのは、できれば大鳥好きの仲間が増えてほしい。結局その一念なのであります。座敷童もろくろ首も、貞子がテレビから出てきても、大鳥好きになって下さるなら、私は大歓迎です。

当地は連日40℃超えで熱帯夜。暑いとろくなことを考えません。


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2010年05月22日

華族二係ル書類一 大鳥圭介建言その1


以前ご紹介しましたが、4月の国立公文書館「旗本御家人II 幕臣たちの実像」の特別展で、大鳥圭介が取り上げられていました。

展示されていた内容は、以下の通り。

・大鳥の明細短冊(幕臣履歴書)
・多聞櫓文書の「歩兵差図役頭取勤方被仰付度二付大鳥圭介大築保太郎身分之儀二付奉願候書付」大鳥の幕臣登用の際の陸軍奉行による上申書
・欧米の産業視察報告書である明治七年の開拓使報文「石炭編」「石油編」「阿膠編」「木酢編」
・岩倉具視関係文書華族二係ル書類一の大鳥圭介建言

語学堪能で専門知識に富んだ幕臣であり、新政府がその西洋の科学知識、能力を活用した例として挙げられたのが大鳥だった、という位置づけかと思います。

その中の岩倉具視関係文書の「大鳥圭介建言」。
これに目をつけてくださったのかと、驚きました。

これは、華族の資産を政府の鉱山開発資金に用いるための建策でした。大金を有しながら運用しないのは華族にとっても不利益だということで、華族に説明に来た際の議事録です。

この文書は、大鳥の事業開発における現実性と先見の明が込められているかと思います。長くはない文書なので、全文書き下してみます。
(カタカナ→ひらがな変更、句読点濁点追加、常用漢字に変更)


「明治九年五月十九日、大鳥圭助来館し、副長部長等各位に対し、談話の趣、概略尤に
天下漸く疲弊に赴き、大商豪農すら身代限となる者比々之あり。実に国家の為に憂ふべき事たり。然るに華族諸侯の大禄を食み大金を有しながら、手を袖にして之を救ふの策なきとは、華族の義務とも申す可からず。
世に金銭の貴き所以は、其融通をなすによれり。融通せざる金銭は丸石に均しきなり。故に天下の疲弊を救はんとせば、宜く貯蔵の金銭を運用し、大功業を興し、全国の富強を謀るべき事とす」


(明治9年5月19日に大鳥圭介が華族会館に来館し、副長、部長ら各位に対して談話した内容を以下に示す。
現在社会は疲弊し、大商人や豪農だった者ですら、自分一人食べていくのがやっとという者が多くなっている。国家のために憂うことである。そして、華族諸侯が高い給金を貰い大金を有していながら、手出しもせずこれを救う策も無いとは、華族の義務を果たしているとはとても言えないだろう。
世の中、金が尊いのは、それが流通しているからである。流通しない金銭は石ころに等しい。よって、社会の疲弊を救おうとするならば、貯蓄している金銭を運用し、大事業を起こして、全国を豊かにするよう計画すべきである。)

華族会館とは、家族の団結と研鑽を図るための集会所で、当時永田町にありました。華族は、版籍奉還で廃された公卿や大名が爵位を授けられたものです。

動かない金は石コロと同じ。実際、我々庶民の銀行貯金は、それを元手にして企業に貸し付けられ、事業の運営資金として用いられています。それが生産やサービスの元手になり、消費者により消費され、金が回り、社会が豊かになる。一方、箪笥貯金などの動かない金は、社会から見れば無いも同然です。キャッシュフローがあってこそ、家も会社も健全。

華族が貯金ばかりして金を動かさないなら、その金は社会にとってなんら益さない。華族のもつ大金によって事業を起こし、生産して、国を豊かにしてはじめて、華族が尊き地位を保つための義務を果たしているといえる。そんな感じかと思います。
この辺り、既得権益には義務がつき物という、大鳥さんの上を見るのに厳しい視点を感じます。


「況や、華族の禄たる、永久に存ずべしとは保証し難し。早より時勢を悟り各自永世の恒産を立るに如かず。
然るに、恒産を立るの道容易ならず。何となれば高貴の人は商業に習わず之を商人に委任せざるを得ず、その商人□(女+次)利を働くにより却て損失を拓くのみ。故に是迄華族の商売は皆損失となれり。其他何の社何の業とて組立るも皆瓦解せざるはなし。
畢竟、其の事を托すべき人を得るものあり。即、鉱山開採の官民合社法是なり。
鉱山は所謂不動産にして、金銀山を除く他は、万全必勝確乎不抜たる今更論を俟たず。而して、その官民合社とは、華族にても平民にても、資本ある者金を出して官府にて行う事業は成功せざるはなし。此れ官府に依托する所以なり。西洋各国にては官府と人民と會社を結ぶ等の事はなけれども、今日の日本にては当分然らざるを得ざるなり。
もちろん、官府は人民を誘導保護するの任なれば、鉱山にもせよ鉄道にもせよ、其他の凡百の工業可成丈の人民を導きて産業を授け、以て安全富勢を致さしむるなり。」


(言うまでも無く、華族の給金は、永遠に続くとは保障されないものである。早期に時勢を見極めて、各々が安定した収入を確保できる産業を持つことが必要である。しかし、産業を成り立たせるのは容易ではない。身分の高い人はは商業を勉強しないので商人に委託せざるを得ず、その商人が下手に自分の利益ばかり得ようとするので、却って損失を招くだけである。よって、これまで華族の商売は皆失敗した。会社を運営して事業経営しても、皆瓦解している。
しかし、事業を託すべき人材を有するものがある。鉱山開発を行う政府民間合弁会社がそれである。
鉱山はいわゆる不動産である。金銀鉱山を除けば、万全に成功する事業であることはいまさら論を待たない。そして、官民合社とは、華族も平民も、資本がある者は出資して、政府が事業を運営する。政府が行えば成功しないはずはない。これが、官民合社が官に事業を委託する理由である。
西洋各国には、政府と民間が合弁会社を設立する例はない。しかし今の日本においては当然あってしかるべきだろう。もちろん、政府には民間を誘導し、保護する責任がある。鉱山にせよ鉄道にせよその他の様々な工業にせよ、官は可能な限り民間を指導して産業を授け、安全に利益を生む体制を整えるべきである。)


華族の俸禄は、既得権益ですが、そんなものはいつまで続くか分からない。大鳥さんは、士族の禄廃止のための一時金の元手を、外債として調達しに欧米に行きました。なので、その事情はよくかみ締めておられたことでしょう。

ビジネスを知らない華族は、事業を商人に委託していたけれども、商人は自分の小手先の利だけを図るので、それが国家事業としては回らず、失敗した。

ここで大鳥、「官府にて行う事業は成功せざるはなし」などと大言しています。一見、自画自賛っぽくないでもないです。実際、失敗も沢山しています。例えば、大鳥はその後の石油事業で、三本の油井から油が出ず失敗という扱いをされてしまいました。これは、油井なんて10本掘って1本あたるかどうかなので、早々に失敗の烙印を押されたのが気の毒というものですが。また、官営工場の多くは結局赤字のまま払い下げられたので、それを失敗と見る人もいます。一方で、産業の導入期は民間でペイしないからこその政府事業で、黒字だったらそもそも政府で行う必要がないというものでもありました。

それは置いておいて。
明治9年当時、技術者や監理者はいまだ民間には育っておらず、専門知識を有する優秀な人材は政府にこそありました。とにかく当時、大事業は、規模が小さく資金がなく技術もない民間が行うより、政府が行ったほうがよほど現実性があったということは確かでしょう。

そして、鉱山にせよ鉄道にせよ、政府は国家事業を進めたいけれども、金がない。そこで大鳥は、半官半民の合弁会社を提案しています。

華族の貯金を出資させ、平民もお金があるなら一緒に出資し、合弁会社を作る。その合弁会社が政府に事業を委託する形で運営する、というシステムです。

ここで大鳥が提案したのは、一種のPPP(Public Private Partnership, 官民連携)と言って良いでしょう。

注目したいところは、大鳥は、西洋の真似をし、良いところを取り入れているだけではない。西洋にもない新しい体制まで考えて進めようとしていたという所です。

PPPは、そもそも金の無い政府が、インフラ整備などに民間の資金を活用しようと導入した制度です。公共サービスの民間事業者参入ともされます。イギリスのサッチャー政権で取り入れられました。日本ではPFI(Private Finance Initiative、民間資金主導)、民営化、独立行政法人の形で、各種事業が進んでいます。
大鳥の言は、資金源を華族とした半官半民の財団法人設立によるPPPと言って良いでしょう。縮小財政で金の無い政府という共通事情において、百年以上後にようやく英国で成立したシステムを、すでに大鳥はこのときに日本で提唱していた。それだけでも十分注目に値するのではないかと思います。

横文字を使って行政論など説かれなくても、明治の人は、維新から10年たってない段階で、すでにこういうことを考えていた。それはかなりすごいことではないかと思います。それだけ国づくりに真剣だったということなのでしょう。


…続きます。
そんなに長くない文書のはずなのに。
中身が濃すぎるんですよ大鳥さん。

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2010年05月23日

華族二係ル書類一 大鳥圭介建言その2


「此の官民合社の法は、大島鉱山権頭等と申談置たる事なれば、華族諸公、果して奮発せられば、鉱山寮にて現に着手せられたる最良の鉱山を望に任せ、御下渡あるべきなり。此場合に於て、宜く資本金高を預定すべし。其金高に應じて相当の山を択ふべし。
然れども、今圭介之を諸公に懇説するものは敢て自ら利する所にあるにあらず。偏に国家の為に公益の謀るなり。此意幸いに諒察を乞ふ」


(この官民合社の方法は、大島高任鉱山権頭(部長)と議論した上のことである。華族や諸侯が奮発するなら、鉱山寮ですでに着手している最良の鉱山を、申し込みに応じて下げ渡すであろう。この場合は、まず資本金の金額を算定してほしい。その金額に応じて相当する鉱山が選ばれることになる。
なお、自分がこれを皆様に依頼しているのは、自分の利益のためではない。国家公益のためである。この意をご了解いただけると幸いである)

大島鉱山寮権頭は、大島高任のこと。南部藩出身。父は藩医で、医学修行のために長崎に留学したところ、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬を学んでしまうという、誰かさんと似た経歴。嘉永年間に江戸へ。水戸藩の委嘱を受けてモルチール砲を鋳造する。砲の製造には鉄の増産が不可欠として、南部鉄を生産するため南部釜石在大橋で製鉄事業を行う。
明治になって岩倉使節団にも随行し、ドイツはヨーロッパ屈指の鉱山学を教えるフライベルク大学で学ぶ。その後も鉱山局長として、秋田阿仁、小坂、大葛など数々の鉱山を開発するなど、当時の日本の鉱山開発の最先端にありつづけた方です。

どちらかというと大島さんは鉄、銅、金銀など金属資源、大鳥さんは石油・石炭のエネルギー資源を得意分野としていた模様です。大島さんはその道を歩み続けてなるべくして鉱山頭になったという感じですが。大鳥さんが工部省に来て、いきなり工学頭と製作頭を兼務したというのは、そんなに工部省、人がいなかったのかと。もとい、よほど思い切った抜擢人事だったように思います。

華族への出資呼びかけは、この工部省の鉱山開発開発のトップである鉱山寮の大島高任が直接出向いても良かろうにとも思いましたが。大鳥が華族会館に来たのは、洋行時の接点などから華族に知り合いもあったことからでしょうか。

大鳥は、自身が平民出身である派閥の無さから、旧幕、薩長、華族、地方のハブ的役割を担っていた節があります。実際、薩摩長州幕府問わず、様々な陣営から重宝されていたいたわけです。便利な奴扱いだったといえばそれまでですが。

大島の、「いい鉱山が多数あり着手したいのだが、予算が無いから開発できぬ」という悩みに、大鳥が「ならば金のあるところから出させれば良いでしょう。華族に出させたらどうですか。連中は溜め込むだけで運用することを知らない。直接話してみましょうか」と申し出た、という感じではないかと思います。

当時の政府方針で外資は固辞していました。なら国内で何処に金があるのか。華族が金を持っているんだから、そこに出させろ。そんな感じでしょう。

大鳥にとっては官だろうが民だろうが華族だろうが、金を出してくれるなら何でもいい。誰の利益になろうが構わん。鉱山に金が入って、鉱山が開発され、国の産業となればそれでいい。その辺りのスタンスも、見え隠れしています。

それにおいても、ちゃんと華族の将来を心配し、投資したことによる華族のメリットを考えている。人を行動させるための建設的なロジックを踏まえている。この現実性も、大鳥らしいと思います。


大鳥がもしかしたら、自らこの、官民合社から鉱山運営を委託される政府側の当事者になろうとしたのかも、とも思いましたが。それは、工学権頭(工部大学校長)兼、製作頭(工部省官営工場総括)兼、内務省勧業寮四等出仕(石油開発事業担当)、かつ、長崎神戸に出張し、しかも内国勧業博覧会御用掛兼務で、ついでに工部美術学校も創設間際。ただでさえくそ忙しいこの時期に、更に何か背負い込もうとしたとは考えにくいと思います。というか、すでに過労死しないのが不思議なほどの掛け持ち具合の、44歳のおっさんです。


最後の「偏に国家の為に公益の謀る」は、余計なことかとも感じられますが。古今、資源関係は、投資額が大きく、利益も大きいので、何かと利害が生じやすいです。大鳥もそのことが分かっているからこそ、あえてわざわざ仰ったのでしょう。

公文書館は「華族は其の貯蓄を鉱山開発に投資すべきである。投資されない金銭は瓦礫に等しい。わが国の上流階級である華族諸氏がこの方面で資産運用すれば利潤が生まれるばかりではなくわが国の産業発展にも繋がる」という建言の趣旨を明確に説明して下さっていました。しかしやはり、展示を見て大鳥が岩倉個人に資源への投資を持ちかける営業を行った、というような早合点をしてしまわれた方もいたようでした。

大鳥の生涯を見ていて感じ入ることは、大鳥が自分の研究や調査や公務で得た物を自分の利益にしたことは、ただの一度も無いことです。印刷、写真、化学、製糖、製紙、セメントなど、あれだけ新規技術を導入し、産業技術の知見を有しながら、大鳥は、それで自分で商売をしようとしたことはありません。藩や幕府や政府といった雇い主から貰う給料がすべてでした。勿論給料はしっかり高かったからそうした姿勢であれたというのもありますが。

工業新報や堰堤築法新按を見ても、印刷物を出してそれで金稼ぎするどころか、経費も出せずにむしろ身銭を切っている節が、大鳥には多いです。進んだ所を狙いすぎて社会がついてきていないから売れなかったわけです。それも覚悟の上だったのでしょう。欧米渡航時の借金にしても、自分が学ぶことを国の富に還元するために、自分で借金したのでした。

動機は、社会の役に立つ。誰もが抱くごく平凡な動機ですが、その一点でしょう。自分の金儲けではない。これだけ誠実に官僚たる職務を果たし、しかもプライベートもその多くを公務を下支えする活動に裂く。

大鳥は、公益の人と言って良いと思います。

それは、林董が「其の人物品性に至りては、流石に成敗利鈍を以て、左右し得べきにあらず、高潔なる品性と凛乎なる気象とは世の滔々たる俗流と同じからず、当世に翩々たる俗政治家とは自から選を異にするものあり」(大鳥圭介伝)と述べた通りであるでしょう。

…あまりまともに褒めると、首筋が痒くていかん感じがするのもまた大鳥ですが。本人の言動が、いつもまともに褒めさせようとしていないのがいけない。

明治政府の偉いところは、役人の給料をしっかり高くし、「官員さん」の経済的社会的地位を高めたことだと思います。国の黎明期はとにかく中央集権で、能力のある者を中央に集めないとならない。今の途上国、ここのラオスもそうですが、一般公務員の月給は数十〜百数十ドルに過ぎません。これでは官に尽くし国に尽くすモチベーションが得られません。役人が国のためよりも自分のアルバイトのために精一杯になっているのでは、国の計画はいつまでたっても実現しない。役人が政府のために国のために献身するには、それだけの手当と見返りが必要です。

そして、実際、明治政府には大鳥だけではなく、滅私して国益のために尽くした方は多かったです。それが明治のすごいところだったと思いますし、今の日本を成り立たせた確固たる土台となったのではないかと思います。


なお、この大鳥圭介建言の文書は、解説書によると、もともと「岩倉公実記」の編纂に用いられた資料である「岩倉具視関係文書」全百二十二冊のうちの一冊、「華族二係ル書類一」に綴じられた文書、ということでした。

こうした散逸しがちな資料を、しっかりとまとめてデータベースに乗せ、展示品として用いてくださった国立公文書館に、大感謝なのであります。

そして、解説書の「主な参考文献」に、福本龍先生の「明治五年六年大鳥圭介の英・米産業視察日記」が挙げられていました。
どうしても戊辰戦争や日清戦争でばかり取り上げられてしまうことの多い大鳥ですが。他でもない、記録を国民共有の財産として管理する国立公文書館が、こうした実質的な展示で、大鳥の産業育成における明治の貢献を明らかにしてくださいました。

権威に阿るわけではありませんが。やはり国の仕事の名の下で再評価が行われたことは、一際嬉しかったでした。

これに気を得て、負けてばかりと自分で言っているとか、ここは一つ降伏としゃれ込もうと言ったらしいとか、自分の作った牢屋に自分が放り込まれたとか、そういう面白い逸話ばかりの人ではないということを、今後もしつこくねちっこく言わせていただく所存です。はい。


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2010年05月26日

途上国のPC自己防衛



手前のラップトップPCが立ち上がらなくなりました。BIOSから診断してみるとHDD障害と出ました。
バックアップはあるものの、ここ数日の作業ファイルがパーになったかと思うと、目の前が暗くなりました。

途上国現場で働く人間の仕事環境は、人にもPCにも過酷です。40℃を超す中で人もPCもオーバーヒート寸前フル稼働させている。よって、いつ壊れてもおかしくない状況ではあります。

しかしそれが日常化すると、気にも留めなくなってしまう。
そして、トラブルは、忘れたころにやってくる。

そうでなくとも、現場のモバイルPCは、常に脅威にさらされています。
2,3日ほうっておくと黒いPCが真っ白になる塵の多さによる電子機器への悪影響、気温の高さによるオーバーヒート、安定しない電圧、蔓延するウィルス、治安の悪さ。

ファンが壊れた、サージ電圧が来てアダプタが吹っ飛んだ、ウィルスでOSが動かなくなったなど、盗難に遭ったなど、対応を迫られて予定が狂うのは日常茶飯事です。

特にウィルス。宿やインターネットカフェ、コピー屋のPCなどでファイル送受信やプリントする場合、そのPCはウィルスに汚染されていないほうが珍しい。自分以外のPCにメモリスティックを挿した瞬間に、ウィルスは拾うものです。

ウィルスは、既存のアンチウィルスソフトは対応していないローカルものが多いです。対応していないから蔓延するのですが。ウィルス捕獲したので対応して下さいとソフト会社に連絡するのもしばしばです。各社のウィルス定義ファイルアップデートの中には、自分たちが捕まえてきたものも少なからず入っていると思います。わしら、体を張って未知なるPC風土病と戦いながら、PC疫学に貢献しているんじゃ、と思うこともあります。

問題がおきてPCショップに持ち込んでも、問答無用でデータを消されて再インストールされて、それで高い金を取られて終りです。何を以てしても代えがたい貴重なデータは、一切補償されない。

盗難の危険も高い。先日も、同じ政府のオフィスにいる日本人専門家の方が泥棒に入られて、PC一式盗まれていました。役所の奥部屋といえど、普通に物が盗まれます。他のプロジェクトでは、2分ほどトイレに行って事務所が無人になった隙にPCが盗まれたということもありました。まだ比較的治安が良いと思われていたラオスでも、これです。

PCに余り詳しくない専門家の方が同じチームにいてトラブルに遭うと、その方のサポートで1日が終わったりもする。手前はITのiの字も知らない所詮一般ピープルです。対応できる方が周囲にいないので、必然的に一番若いのが、ということで押し付けられるのは困った物です。大事なPCをこんな奴に診てもらわなければならない側も、とんだ不運です。

出張の多いサラリーマンは、自己防衛するより他はありません。座して動かない本社の人間は、事情はまったく理解してくれません。

PC本体よりも、それまで作業してきたデータのほうが価値はよほど大きいです。それが吹っ飛ぶと損害は計り知れません。データのリカバリや再作業のために作業遅延が発生したり、締切りを破ったり。それも誰も情状酌量してくれません。「PCが壊れて…」「盗まれて…」と言っても、上司やお客様に「何言い訳してやがるコイツ」と思われるだけ。残るのは、「遅れた」「できなかった」という事実だけです。酷い場合は、サボっていた言い分けに嘘をついていると思われて、御仕舞いです。

結局、環境に合わせた対策をしていないほうが悪い。データは無くなる物、盗難は遭うものと心得、普段から予防するしかないわけです。


すっかり愚痴になってしまいました。それでは建設的たるべく本題をば。

メールやマイドキュメントのバックアップのほか、出張者が普段から備えておければ良いのではないかなということを列挙してみます。国内作業でも十分有効かと思います。

というか、まずは自分がやれという、愚生への恫喝です。
ど素人の私が私なりにやるべきことということで羅列します。

○ ハードディスク:

PCのHDDデータ吸出しができる用意をする。ノート用2.5インチのHDDは、外付けのポータブルのものと同型。よって、OSが立ち上がらなくなったりシステムがウィルスにやられた場合、ノートPCから取り外して、ポータブルHDDのケースの中の物と差し替えられる。すると、外付けHDDとして、他のPCのUSBなどからデータを吸い出せる。ケースが外せない密封形の外付けHDDものも多いが、取り外しできるスクリュー止めの物も探せばある。HDDケースのみも、各社から販売されている。非常時に備えてこれを持っておく。HDD取り外し用の小型のドライバーもケースと共に常備しておく。(この作業を行う際は、バッテリーを外して数分置いてからにする。)
なお、バックアップ用HDDは、常にPCとは別の場所に、かつお菓子の袋にでも入れて置いておく。持ち運びの際も、ノートPCとは別の鞄またはトランクに入れる。HDD用の衝撃保護ケースに入れておくと、値打ち物と見られて盗難に遭う危険が大きい。

○OS:

OSのセットアップDVD/CDはどこへ出張するにも必需品として常備しておく。たまたま同じ機種を使用していたとかいう偶然でも無い限り、何かトラブルが起きてもこれが無いと周りはサポートのしようがない。

○ ソフトウェア:

元々のライセンスのあるCD/DVDを持っておくのが一番。普段使うソフトのインストールファイルは、一フォルダにまとめて外付けHDDに入れて持っておく。
しかし、CDは重なると重いし、HDD移しができないソフトも多い。
MicrosoftやAdobe、その他CADなど汎用業務ソフトは、CDを持ち歩くのも嵩で、つい忘れるが、無いと全く作業できなくなる。

よって、万が一に備えて、必要なライセンスのシリアルをテキストファイルにメモしておく。インストールされているソフトなら、ヘルプのバージョン情報を見れば大抵シリアルが記されている。

大抵の業務ソフトは、途上国では1US$ぐらいで海賊版が普通に売られている。無論、コンプライアンス上も人道上も、海賊版使用は許されない。しかし、ライセンスのシリアルはCDに固有ではなく、ソフトさえ同じなら違うCDにそのシリアルを入れればインストールはできる。自分がライセンスを有しているソフトのシリアルを海賊版入れるのが、法的にOKなのかは正直分からない。しかし、CDは単なる形であり、許諾条件を見ると大体ライセンスに対して購入費用を支払っている考えられるので、問題はないのではないか。グレーな領域かもしれない。(どなたがご存知な方、ご教示ください…)。もともと正規品を購入しているのなら、非常手段としては止むを得ないだろうと思う。

○ メモリ:

メモリも小型化し、USBに挿すと5mm程度しか頭が出ないメモリもある。8GBや16GBの小型メモリををPCに指しっぱなしにし、その日の作業ファイルを入れる習慣づけをすると良い。(PCごと盗難されるとどうしようもないが)
PCを持ったま車の川渡しのボートに乗った時、転覆しかけて、とっさにこのUSBだけ引き抜いて、これだけでも守ろうとしたこともありました。

○ ウィルス対策:

ウィルス感染の大部分はメモリスティックから。
まず、メモリのAutorunを切る。(方法はこちら。)
さらに、メモリスティックのドライブを開く前に、メモ帳などで「すべてのファイルを開く」で、メモリ内のファイルの中身を確認するのを習慣付ける。妙なファイルがあれば消せば良い。"Autorun.inf"や、覚えのあるファイル名に.exe拡張子がついていれば、間違いなくウィルス。フォルダ名+フォルダアイコンで.exe にされるものもある。フォルダオプションで拡張子表示を行うのは必須。

辞書:よくバックアップし忘れるのが辞書。無いと非常に困る。IME使用の場合、MSIME辞書ツールから、「ツール」→「一覧の出力」でMicrosoft IME形式のTextファイルで保存しておけば、OSが壊れたり他のPCで作業する際に読み込んで、普段と同じ辞書環境で作業できる。
あるいは、Xpの場合、
C:\Documents and Settings\(アカウント名)\Application Data\Microsoft\IMJP8
に辞書ファイルが入っているのでこれをバックアップしておく。

○ 雷

アジアは雨期になってきました。民生電気系統は雷に大変脆弱です。
やばいと思ったら、電源を抜き、バッテリーモードに移行。とにかくスコールが去るのを待つ。電気がちらついたら相当の電圧変動がある証。まだ大丈夫と思っても、後の祭りになる。


○ 電圧変動:

日本のように、プラグを指したら抜けない電源は、まず無い。電圧は安定しない。よってACアダプタが壊れやすい。雷や近所の工事による負荷変動で、サージ電圧が来てアダプタのコンデンサが吹っ飛ぶこともよくある。アダプタを探しにPCショップを駆けずり回り走る羽目になる。アダプタ故障は予防できるに超したことはない。

ノートPCでも、事務所では瞬停・電圧変動に対応しているUPSを入れる。UPSはピンきりだが、"noise and spike suppresion" "high voltage protection" などの表記のあるものを選ぶ。
UPSのない場所での一時使用の場合も多い。アダプタに付ける海外向けのサージプロテクタが、秋葉原の外人向けショップに売られている。どれほど効果があるのかは分からないが、とりあえずこれを使い初めてからはまだアダプタ吹っ飛びに遭遇したことはないので、結構有効ではないかと思う。

○ アダプタが吹っ飛んだ場合:

あれば勿論、新品を買う。ただ、タイやシンガポールなど供給地に近ければ手に入りやすいが、他国から輸入せねばならない、3ヶ月待てと言われる場合もある。待ってられん。そんな時は、電流と電圧の近い他の中古のノートPCのアダプタを調達し、元アダプタのジャックを切って、電線を剥いて別アダプタとつなぎ合わせて絶縁テープで止めて(+−に注意)、無理やり使う方法もある。

また、別のアダプタすらも手に入らない場合。要はPCのリチウムイオン電池が充電できればいい。電池は直流なので、3Aぐらいなら、アダプタを通さずに車のシガレットライターに繋いで直流12Vで充電するという手もある。現地ならどこでも携帯電話を車シガレットライターから充電するプラグが携帯屋で数百円で売られている。これにPCのジャックを繋ぐ。電圧は、リチウムイオン電池の充電電圧を超えていればそれで良し。

いずれにしても、ジャックを他電源と接続すると不安定なので、新品のアダプタを手に入れるまでの非常手段。

なお、こういう製品もあるようです。使ったことは無いですが。
http://www.thanko.jp/product/pc/carcharger.html/

上の方法を試される方はどうか自己責任でお願いいたします。


偉そうにも上のように並べ立ててしまいましたが。無知ゆえの我がトラブルとして遭遇してから、半泣きで対応せざるを得なかったことばかりです。供えがしっかりしていれば防げたことでした。痛い目に遭わないと学ばない奴です。


そして、わがPCですが。
HDDに物理的障害が出たら、もうあかんやろ。HDDだけ買うか新品を自己負担するかで悩んでいたのですが。翌朝もう一度立ち上げてみると、なぜかセーフモードから復旧できました。HDD障害は何だったんだ一体。単に熱ダレしただけだったのか。

毎日十数時間眺めているPCですが、未だに全く良く理解できません。
自分の家の庭一つでも、理解しようとしたら人生は短すぎるというライアル・ワトソン博士の言葉は、至言だと思います。

雷雨が酷くなってきました。ようやくそろそろ雨期です。この暑さが和らぐのは良いですが、PCは更に危険な環境に追いやられることになります。

出張先や過酷な現場にある皆様の、無難なるPCライフをお祈りいたします。

posted by 入潮 at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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