2010年08月11日

松葉杖で飛行機


やっとラオスに来れました。
盆の出国ラッシュには航空運賃が跳ね上がるので、その直前を狙った出張が年間行事になっています。

出るはずの出張に出られずにいたので、仕事量を考えるだけで気が遠くなる感じです。2ヶ月ぐらいは必要なのだけれども、会社が2週間しか許してくれませんでした。万が一の安全と体の負担を考えてくれての期間制限措置です。が、やる内容量は変わらない。ただ、実際、東京の通勤より現地生活のほうがずっと楽だったりします。

サラリーマンの皆様、連日猛暑の中の通勤お仕事、お疲れ様です。

さて、松葉杖で国際線飛行機は、あまり他でできない経験でした。
10年ほど前に国内線に乗った際は、松葉杖を持ったまま、空港内は車椅子で移動、機内に入ってから乗務員さんに杖を預けた覚えがあります。

以下、松葉杖の国際線飛行機の様子などをば。ノウハウでも何でもなく、一度乗ってしまえばなんてことはないですが。「松葉杖で国際線に乗っていいのか」という素朴な疑問を抱く手前のような人間もいますもので。

経路は成田第一ターミナル→バンコク→ビエンチャンの場合ですが。どこの空港もあまり変わらないのではないかと思います。

・空港内荷運び時:

カートに荷物と杖を乗せてしまえる。両手でカートに体重をかけてつかまり歩きできるので、歩行器状態とあまり変わらない。楽。

・チェックイン時:

松葉杖の場合、車椅子が必要かどうか尋ねてくれる。ここで車椅子を手配してもらうことも可能。

・ 所持品検査ゲート・セキュリティチェック:

最初、ゲートは杖無しでくぐらねばならないのかと思ったが、ゲート通過用の歩行杖もちゃんと常備されている。あるいは、

杖のままゲートをくぐる→金属探知機反応→ボディチェック→杖だけ戻してX線検査機を通す(その間ゲートの先で待っている)→コンベアから杖を受けとる

の流れで自分はOKでした。杖もしっかり検査されます。中に武器を隠し持つなどはできないようです。いえ、アルミパイプの松葉杖だと中に色々入れられそうだなどと考えもしませんが。そういえば、漫画で乳母車のパイプ内に武器を隠し入れていたテロリストの話がありました。

混んでいると時間がかかるので、もたつくと周りに迷惑になる。すいている乗務員用ゲートに案内してもらえる事もあります。

・入国審査:

特に普通。当たり前だが優先はない。立って待つべし。列が長いと辛いかも。

・搭乗時:

優先搭乗で、並んで待たなくても良いよう、ビジネスクラスのゲートから入れてくださいました。すいません。

・機内:

杖は座席まで持ち込めました(タイ航空の場合。航空会社によって異なるかも) 前のほうの座席、通路側に優先的に配置してくれるようです。が、杖を壁に立てかけて手元における分、窓側のほうが良いかも。つかまり立ちができれば、トイレも特に困ることは無し。

たまたま、完全介護が必要な方が隣でした乗務員さんが介護士をかねてました。乗客の状態に合わせたフォローもしっかりしてくださる。大変なお仕事です。

・トランジット時:

チェックイン時に頼めば、行き先の空港に連絡して、飛行機を出たところでの車椅子を手配してくれるそうです。また、空港内に電気カート車があり、頼めば空港内の移動に乗せてもらうことも可能。

以下はバンコクで乗り換えの場合のみということで、限られたケースですが。

バンコクのスワンナブーム空港の建物は、横に1000m以上あります。誰が設計して誰が認可したのか、利用者として怒り出したくなる構造です。

搭乗ゲートのABC側とEFG側で、逆側に配置されています。
乗り換え時にはゲートどちら側か、搭乗時間の何時間か前にならないとわからないという仕様です。なのでトランジット時間が長いと、次の便のゲートがわからない。ABC側とEFG側を間違えると大変です。しかも4Fの出発階は、免税品店アーケードで人がごった返している中を、延々1km歩くことになり、疲れます。

間違えた場合、一度、到着階の2階に降りると良いです。2階には動く歩道があって、4階と違って楽に移動できます。



以上のような感じで。

自分は、杖無しでも階段以外はあまり支障なく動ける状態だったのですが。片足荷重を掛けられなかったりする状態の方は、やはり大変かと思います。早々に車椅子に乗るのが良いかとも思います。実際、空港内は車椅子の方が目に付きました。後から思うと、杖だと却ってもたついて周りを待たせてしまうので、最初から素直に車椅子にしたほうが迷惑をあまり掛けなくてすんだかもしれません。

結果として、いろんな方に助けていただけたおかげで、通常時よりも、楽でした。その分、係員さんの手間を増やしたり、他の方に待っていただいたりしているわけなので、周囲への申し訳ない気持ちと感謝は忘れないようにしたいと思います。

飛行機は、障害者に優しい乗り物だと思います。配慮しよう、せねばならない、という意識を、係員さん、乗務員さんや、乗客の方々共有してくださっている感じがあります。バスや電車なら、優先席に座ろうとしたら「そこは俺の席だ」と突き飛ばしてくる爺さんがいたり、優先席で立っている怪我人をチラ見しながら寝たフリするOLがいたりしますが。皆、疲れているからなのでしょう。飛行機はその点、通勤電車やバスの戦場のようにギスギスした感じは無く、乗客にも余裕があります。

杖でも電車で通勤できる人なら、飛行機に乗って全く問題は無いと思います。

思えば、一ヶ月半前は病院のベッドで寝たきりでした。車椅子で病室からやっと出られた際に、世界はなんと広いのかと感動していました。人生、メリハリ有りが良いと思います。

一昔前なら、自分の村から出ることもままならなかっただろう奴、こうして数千km隔たった場所に簡単に出られるようになった。そうした社会インフラとシステムを整えてくださった先人の努力と苦闘に、感謝です。


そして、怪我人は、手前の分をわきまえることが、周囲への配慮への感謝ではないかと思います。

と、自分が言うのも、どの口が言うか、という感じですが。

手前は基本怠け者なので、怪我という怠ける口実があったら、ついそれに甘えてしまいます。できることすら後回しにしてしまう。

しかし、働く人間のほとんどが、責任とやらねばならぬことを背負い込み、負担過多状態なのが、現代日本の現状です。誰かが潰れると、他の誰かがその分カバーし、負担の雪崩れ込み状態になる。これは怪我も欝も同じ。

無理をしないで。お大事に。そういう言葉は決まり文句で、言えば終わりなのですが。無理せざるを得ない、大事にしている余裕もない。自分が楽をするとその分誰かが苦しむ。後回しにすればするほど、後から辛くなる。多くの方がそうした状況に追い込まれ、せざるを得ない。それが現実ではないかと思います。

何が本当に無理で、何が可能なのか。自分の体調と体力を把握して、リスクを勘案して、できることとできないことをしっかり腑分けして、できる行動から行って処理していくしかない感じです。

そいういわけで、飛行機での移動は「できる」ことに入れていいのではないかと思ったのでした。

現地の生活はまた、もちろん現地事情によりけりで、それこそ場所により事情は様々ですが。

昔は、海外のダムの施工管理現場にも、骨折して松葉杖をついた技術者を普通に送り込んでいたといいます。それに比べれば今は大分、安全管理を重視してくれるようになったのだと思います。何かあったときの会社の責任と補償が大変というのが大きいとも言う。

いずれにせよ、自分の身を守る責任は自分にあるのだということで、慎重にいきたいと思います。

posted by 入潮 at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月22日

ヒットポイントが。


かの会津作家、星亮一氏が、大鳥圭介の伝記を書いておられるようです。

来年没後百年ですし、どなたか注目してくださらないかしらと思ってはいましたが。その方面から来るとは意外でした。

とある方に見てくださいと言われ、氏の主宰の「戊辰戦争研究会」のウェブ掲示板をちらと拝見したら、その記述がありました。

余談ながら、会のメンバーが土方歳三や勝海舟や松平定敬など歴史人物の名を名乗りあい、互いにその名で呼び合っている方々の掲示板は、私のような卑小なる名も無き一平民には、確認するにも、いろんな意味でハードルが高すぎました。HPの値が小さくなります。

氏は、神戸又新日報の記事も入手されたようです。
神戸又新日報は、明治35年1月22日から、ほぼ毎日。50回に渡り、「吾県の精華 大鳥圭介」として、著者が愛をもって幼少期から生涯を活写した連載です。「大鳥圭介傳」や福本先生の著作と共に、大鳥研究必携の文献です。上郡岩木のいきいき資料館の大鳥塾長猪尾先生も、内容に感激され、あの読みにくいマイクロのこの膨大な記事を、一文一文手書きで写されてて、14冊の和本に纏めてくださいました。
星氏も、会津パートだけではなく隅々まで目を通し、著作に生かしてくださることと思います。

過去、戊辰戦争期の大鳥圭介は、会津の立場正当化のために、偏った創作で、人物像を不当に傷つけられてきたこともありました。

大鳥・伝習隊他旧幕府隊は、日光までは会津と連係し、日光以降は会津に兵糧を頼ったいわば傭兵として、会津と共に戦い続けました。藤原口で難攻不落の恐怖感を新政府に植え付け寡兵で2ヶ月以上も会津国境の防衛を続けた。山入村や母成峠では会津兵は先に逃げても殿で散り散りになるまで戦い続けた。若松城攻防の際も、西会津の木曾や小田村方面で、少ない兵数・武器弾薬に悩まされながら新政府を牽制して戦った。仙台に入った後も、松島の絶景を前に会津が気になって大鳥は詩も作れずにいた。

それなのに、母成で真っ先に逃げたとか、兵から後ろから撃ってやると言われたとか、根拠なく酷い描写がされている小説が多かったでした。

一方、星氏は、2005年の「仙台戊辰戦史」で、すでに大鳥を「会津に加担し旧幕府伝習歩兵を率いて、身を粉にして戦った」「大鳥もまた勇者の一人」と同情的に書いてくださったので、その点は安心できるのですが。

会津作家の大御所たるかの氏が、大鳥圭介をどのように再評価してくださるのか。


大衆性のある作品の数々を出版されている作家の方ですので、影響力もあることでしょう。大鳥の実直な姿を確固たる記録から見出し解説してくださることを、お祈りしたいと思います。

いずれにしても、ネットのおかげで、色々な史料の存在が世に広がり、これまで作家やライターの方々により一般に流布していた歴史像にも、修正が加えられることが多くなりました。

どんな方の手によるにせよ、想像ではなく記録に裏づけされる大鳥さんの等身大の姿がより一般に明らかになっていくなら、良い姿もそうでない姿も、私としては歓迎であります。

(追記)
posted by 入潮 at 11:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月25日

幕末の蒸気船物語


夜行で帰国したら、家が停電していました。疲れたので、そのまま寝ました。午後に脱水症状寸前で目が覚めました。ベッドに、検死体のように人体の形に汗がプリントされていました。40℃近い屋内は、空気が凶器です。
残暑厳しい折。皆様も水分はしっかり取り、熱中症にはどうかお気をつけ下さい。



さて、本題。

「幕末の蒸気船物語」
元綱数道 著 成山堂書店 2004年4月発行。

これは大変良い資料です。幕府海軍や当時の船のみならず、幕末使節団・留学生に関心のある方にとっても、必携と言っても良いかと思います。

当時の蒸気船について。蒸気船の形式、技術の変遷、艦載砲の概要、定期船と航路、建造と輸入など、緻密かつわかりやすく記されています。多くが図面入りです。すばらしいのは、蒸気機関のスペックの読み方から始まっているところです。歴史学者が避けている数値的説明を行い、読者が技術的にもしっかり理解できるように配慮した構成です。

歴史項目としては、ペリー艦隊、薩英戦争、下関戦争、幕府海軍、箱館海戦(宮古湾・箱館湾)など、各事象で用いられた、日本ほか、米国・英国・仏国艦隊の軍艦について。米国海軍や英国海軍の蒸気艦建造史について。幕府使節団や留学生が渡航に乗船した船や航路や日数や日程について。

すごい情報量が、簡潔に纏められています。そして当事者たちの記録の現代語訳を同時にちりばめている。技術的記述とのメリハリがあって面白いです。

参考文献の量と質もすばらしい。米英を含めた一次資料の羅列で、有名な史料から、こんなものがあったのかという驚きのものまで。
"Warships of the Imperial Japanese Navy", "Worships and Their Story", "Handbook of 19th Century Naval Warface" とか、題名を見ているだけで気になります。英文文献に貴重な19世紀史料がたくさんある。和文で活字で残された情報なんて、ほんの一部なのでした。
あ、川路太郎の「黒船記」は探してみたい。川路さんは船酔いに全くならない特異体質だったらしい。

箱館戦争海戦についても事細かで、各艦のスペックや絵図面が収録されています。特に開陽丸はヒーロー。沿革から詳しく述べられています。目玉は、ロッテルダムのプリンス・ヘンドリック海事博物館から開陽丸青少年センターが入手した関係書類一式による、主要要目。オランダ語の未公開要目が記載されています。抜き出していいのかためらわれるほどありがたいです。以下の通り。

造船所: ヒップス・エン・ゾーネン (Gips en Zonen)造船所(オランダ、ドルトレヒト市)
起工:1863年9月16日
進水:1865年11月2日
引渡し(貿易商社へ):1866年9月10日
試運転完了:1866年10月23日
艦種:木造3本マスト・シップ型フリゲート
排水量:2,590トン
上甲板長さ:72.08m
垂線間長:68.60m
型幅:13.04m
深さ: 7.2m (キール上面から砲甲板まで)
喫水: 前部 5.7m、後部6.4m
蒸気機関形式・数: 2シリンダ、横置、トランクピストン型1基(ピストン断面積1.958m2、ストローク0.838m)
出力: 400NHP
ボイラ形式・数:角型煙管式、4基、圧力:20psi (1.4kg・cm2)
試運転速力:1200IHPで約10Kts
石炭庫容積:400トン(全力で8日分)
帆の面積: 総計2,097.8m2
プロペラ 形式・数:タンデム式(昇降式)1基、翼数:2、直径:4.826m、毎分回転数:58
備砲(完成時):
18x16cm鋳鋼施条前装砲(クルップ製)
8x30ポンド鋳鉄滑腔前装砲
1x30ポンド鋳鉄カロナーデ
2x12cm青銅ホウイツアー
1x7cm青銅施条前装砲
2x5cm青銅施条前装砲
2x12cm青銅臼砲
合計34門
乗組員:429人


この細かさ。スペックの見方は、本書の1章にきちんと解説されています。

数字を見るだけで、色々発見があります。全力だと1日50トンも石炭を使うのか。釜炊きするのも大変です。帆の面積が2000m2超えているのもすごい。馬力は甲鉄艦と同じ1200IHPだった。完成時は青銅砲が現役で積まれているのがなんだか意外でした。多分帰国後に弄ってはいるのでしょう。

そして、馬力一つをとっても、文献地で350馬力と400馬力と2説ある一方、要目からピストン断面積とストロークから計算して、もっともらしい値を推定しています。このアプローチもすばらしい。

そんな感じで。ぱっと見は、無味乾燥な数字の羅列と記録の表記なのですが。そこかしこに、当時の「蒸気船」に対する、著者の方の膨大な関心と愛がちりばめられています。

いったい、どんな方がこれを纏められたのかと、著者略歴を見て、納得。

昭和29年に石川島播磨工業(株)に入社されて以来、基本設計室長、技術本部長等を経られて、同社専務取締役を歴任された方。商船設計や海洋工学の教科書も出版しておられます。戦後日本の造船を技術面を、民間にあって支え続けた方と言えるかと思います。
自ら船を造り続けた方ならではの視点が、そこかしこに込められています。著者の方は、纏めていて楽しくて仕方が無かったに違いない。

これで税別2,800円は、安いです。

一点、物申すことがあるとしたら、タイトルです。小説かなにかと誤解しそうになります。
これは「物語」ではない。極上の「資料」です、と。
でも、著者の方は、「物語」と名づけたかったのだろうと思います。
うん。なんだかわかる。

数字だけではなく、当時の船上生活をしのばせる味のある生きた記録も紹介されています。

暑い暑いと文句をたれていても、現代人はまだ扇風機もクーラーもありますが。当然ながら、昔はそんな便利な贅沢品はなく、特に船上は地獄の暑さでした。

陸上ならまだ打ち水をしたり風通しの良い木陰に移動したりもできますが。船上では、直射日光の下か、臭くて狭い船室しか居場所がない。
日本から欧米へ行く船は、どの航路でも必ず熱帯を通る。特に紅海は暑い。乗客は非常な暑さに耐えなければならない。

ちなみに、英国から日本へ行く航路では左舷側が日陰で涼しく、逆に英国へ向かう際には右舷側が涼しくなる。幕末に日本への定期航路を持っていたP&O社は、VIPには涼しい側の船室を割り当てるサービスをしたそうです。それでも、柴田使節団の柴田剛中などは暑さの苦しさを書き連ね「汗が流れ出て枕の上を漂っている」と悲惨な様を「仏英行」に記しているそうです。

村垣日記にも、一人一ガロン(一升)割り当てられていた水が半ガロンになった、水夫たちはコップ一杯しか水がもらえず、村垣さんたちが手洗いに使った水をもらって飲んでいると記されています。

そうした記録も参照できる、いい資料であります。

しかし、他人の暑さを見ていても、今の暑さは和らぎません。むしろもっと暑くなる。熱帯の船上で水夫や石炭焚き重労働をした人々よりはずっとマシなんだと思わねばなりませんが。暑いものは暑い。

posted by 入潮 at 02:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月28日

アジ暦の更新



8月26日のアジ暦更新。

更新履歴が、今回の更新項目である外交資料館の外務省記録や調書と陸軍省日記の羅列が延々と続いています。前回の更新の「非常勤職員の採用について」のお知らせが、下のほうに追いやられてしまっていました。

相変わらず精力的なすばらしい仕事をされます。

今回の更新で、大鳥圭介関係も増えていました。
まず羅列されているのが、陸軍・大蔵・工部の間の借金関連文書の面々で、つい笑ってしまうのですが。大鳥の工部省時代の仕事の様子の伺えるコレポンが増えていて、嬉しかったです。

新しいものを以下、ご紹介。

明治八年一月十五日 伊藤博文→山縣有朋

四等出仕大鳥圭介儀採用の義に付掛合
「御省四等出仕大鳥圭介御九十案儀之其正地ヘ上申当省官任扱仕候至急ケ被間ニ付此団及仕候也 一月十五日 伊藤工部卿 山縣陸軍卿殿」


伊藤工部卿が、山縣陸軍卿に、正院(おそらく)に上申している大鳥の工部省の任官について、至急取り計らいしてください、と依頼しています。
伊藤は、大鳥の任官手続きを急いていた模様。至急、というところが何だか気になります。薩摩の彼の邪魔が入ることを恐れたのか。早く詰みあがる事務を処理してほしかったのか。でも工部省に入って早々、大鳥は三ヶ月もタイに出てしまって留守にするのですよな。

ちなみに、大鳥の陸軍四等出仕(仮役職)から正式な参謀職の陸軍大佐就任が1月10日。その6日後の1月16日に、工部省四等出仕の正式辞令が出ています。
辞令は上の伊藤→山縣の「至急依頼」の次の日に出されたことになります。
で、タイ出発がその翌日の1月17日。

その一週間後。明治八年一月二十三日

工部より大鳥圭介履歴書入用
「第八拾号 壱第百二十七号 元御省四等出仕大鳥圭介履歴書入用有之候間乍御手数御謄写之上御廻有之度此段及御依頼候也」


元御省(陸軍省)の大鳥圭介の履歴書が入用となっております。お手数ですが謄写の上お送りくださいますよう、依頼申し上げます。

との事ですが。
普通、任官の先に履歴書を回して検討すると思うのですが。辞令が出た一週間後に履歴書を回して下さい、とは、工部省の人事はどうなっているのか。この流れだと、伊藤のトップ決めだった可能性が高いですな。洋行中、伊藤と工場見学をしていた時に、「あなたウチに来なさいよ大鳥さん」「ええ行けるものならそうしたいです」と、すでに同意できていたのかもしれませんが。

それにしては、中間の陸軍省経由が不明です。

もしや、大鳥を開拓使から引き剥がすための伊藤の画策だったのか。陸軍省のトップ山縣なら、話はすぐに通じるし。開拓使→工部省の移籍は難しいけれど、開拓使→陸軍なら、黒田も陸軍中将だし。屯田兵兵制関係などで大鳥の移籍も通りやすい。そして一端陸軍に入ったら、陸軍→工部省は、トップの長州たちで強引に人事を決めてしまえる。そんな感じだったのかもしれないと、憶測を立ててしまいました。
開拓使→陸軍は、大鳥の北海道幌内踏査中に黒田が勝手に決めてしまって、大鳥は不満たらたらだったのではないかと思っていたのですが。陸軍移籍があらかじめ一時的なもので工部省移籍のための踏み石だったのだとしたら、それはそれで面白いと思います。


明治十年三月十一日 主船局長 石川少書記官 → 海軍少将中牟田倉之助殿 伺之通

「工作局ヨリ唐津石炭請求越シ候義ニ付伺 唐津石炭凡十万斤程請求致度段別紙本第五十一号ノ通リ工作局ヨリ依頼越工候ニ付取調候処当海岸炭庫中ニ概略二十五万斤余ノ石炭格納有之右ハ三四年以前ヨリ貯置シ古炭ニテ艦船ニハ使用難仕ヨリ現今専ラ煖炉器而已ニ焚用イタシ居二十五万斤余ノ炭故容易消燼難致長ク差置キ候テハ粉炭ト可相成ニ付テハ此際右ノ内十万斤丈ケ工作局ヘ御譲渡相成候義ハ差支無之ニ付該局ノ需メニ応ズベクト存候条何分之御指揮被下度此段一応伺出候也」



工作局よりの、唐津石炭の請求の伺いについて。唐津石炭約十万斤(50トン)の請求が、別紙の通り工作局(大鳥)からありました。調べたところ、海岸の倉庫に約120トンほど石炭が格納されていました。これは3,4年前から貯蔵していた古炭で、艦船には使用が難しく、暖炉用に使っているものでした。120トンもあるので簡単には消費できず、粉炭となっています。この際、このうちの50トンほどだけを工作局に譲っても差し支えはなく、工作局の求めに応じようと思います。これに付き一応ご指示いただきたく、お伺いする次第です。

大鳥局長…。
海軍で、古くて蒸気船に使えず、粉炭になって暖房用燃料にするしかないような質の悪い燃料を、それでも欲しがる工作局。いや、工場には燃料動力が必要なのは分かりますが。辛すぎる。けち臭いというより、限られたリソースの中で何とかやりくりして少しでも最先端のいいものを作ろうという、はやぶさチームの心意気に通じる苦労を感じます。


明治十年五月二十三日、工作局長大鳥圭介→陸軍少将井田讓

「右五月二十六日回答済ニ本省ニ達 月第三百八十五号 青銅廃砲英斤凡五百斤程赤羽橋分局ニ於テ入用有之候間砲兵本廠貯蔵之分相当之代価ヲ以御譲受致度此段及御依頼候也 明治十年五月二十三日 耕作局長大鳥圭介 陸軍少将井田讓殿 追而砲兵本廠ヘハ打合相済居候条御含迄ニ此段モ申添候也」


赤羽分局の工場で使うので、貯蔵している青銅砲の廃砲を、五百英斤(約225kg)ほど譲っていただきたく。対価はお支払いしますので、お願い申し上げます。なお、砲兵本廠(砲兵工場)にはすでに打ち合わせ済みの旨、申し添えいたします。

何十トンも必要ならまだしも、200kgぐらいの青銅の材料にも事欠いているのですか、赤羽分局。

デフレで緊縮財政を強いられているのはわかりますが、工作局長。どこまで細かい予算削減をしているのですか。なんだかもう、身につまされて気の毒になります。金属材料のリサイクルにも余念がありません。工作局は誰に言われずとも身の必要から3R(リサイクル・リデュース・リユース)を徹底していた感じがします。


明治十三年一月十七日 大鳥圭介→海軍省

「工部大学校生徒 藤田金道 右学術為研究御省御備置之消防郷筒一覧為致度本人差出候条可然御取計有之度此段及御照会候也 十三年一月十七日 工作局長大島圭介 海軍省 御中」


藤田金道という方は、工部大学校の名簿に見つけられなかったです。二期生機械科の藤田重道のことかしら。
この藤田が、学術研究のため、海軍省が備えている消防郷筒?を一覧したいので、本人がが行きますから、宜しくお取り計らいお願いいたします。

という由。13年で二期生だとしたら、ちょうど卒論の頃です。一学生の見学実習の為にも、校長先生自ら海軍にお願い文を書いている。

そして、学生たちは舶来製品に囲まれ、暖房やトイレまで輸入のしゃれたハイカラ洋館で生活させ、自分は平屋のバラック小屋で仕事していた、工作局長・校長先生です。

あと、別の公文では、明治11年の工部大学校開校式(それまでは工学寮という名だった)において、伴幕備品を借用したいと陸軍にお願いしたり、楽隊を借受たいと海軍にお願いしていたり。

上の要らないものハイエナ状態もそうですが、大鳥校長、陸軍海軍のどこに何があるのか、内情に結構通じていたのではないかと思います。軍だろうが何だろうが、あるものは利用する。そんな現実性が伺えます。


あと、伝習隊士官たちについては、本多さんについて。

明治七年一月 「任陸軍中尉 教恩県士族兵学寮附被仰付本多忠直」

教恩県とは何だろう。本多さんは静岡県士族だったかと。

明治十三年七月二日 「 大野歩兵大尉外一名管轄替之儀ニ付申進 戸山学校教官 陸軍歩兵大尉大野忠光 大坂鎮台歩兵第九砲隊第一大隊中隊長ニ 同 陸軍歩兵大尉本多忠直 広嶋鎮台歩兵第十二砲隊第一大隊中隊長ニ 右ハ大坂広嶋両鎮台士官欠員ニ付脇書之通ヨリ仰付度此段申進候也」

戸山学校教官の陸軍歩兵大尉本多正直は、大野歩兵大尉と共に、士官欠員を埋めるために広島鎮台歩兵第十二砲隊第一大隊中隊長に任じられた由。


この頃になると、本当にそれぞれの人生を歩んでいる、という感じです。


計画通り、着々と整理更新し、貴重史料を画像閲覧可にして下さるアジア歴史センター。今後も見逃せません。


posted by 入潮 at 02:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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