2010年11月11日

ひのもとおにこ



尖閣での中国漁船衝突ビデオ流出で大騒ぎになっています。
普段あまりメディアに触れていないためか、何ゆえYoutubeでビデオが流出したことに皆大騒ぎしているのか、いまいち理解できずにいました。

そもそもビデオは、情報管理とか厳重管理とすべき対象だったのか。なぜ映像が公開されてはならないものだったのか。犯罪を記録した証拠の映像なのだから、領海を侵した犯人を裁く裁判になれば一般に公開されるべきものだろう。そして映像は、領海で何が起きたか、国民全てが知っておくべき情報ではなかったのだろうか。

と、自分の頭は疑問符だらけでした。ネットでは同じく、ビデオを何ゆえに隠匿していたのかと疑問の声はやはり大きかったでした。

その声に対して、現政権はまだ説明責任を果たしていない。

掲示板やブログのほとんどは、中国寄りの現政権が国民の反中国感情を煽ることなく、中国との外交を無難に治めたかった、弱腰外交の極み、という見方のようです。首相や官房長官は、中国に都合の悪い証拠を隠滅して、中国の機嫌を取るために、管理すべき情報にしたという意見です。

一方、法治国家たるもの、国家機密に指定された情報を漏らしたり、守秘義務に違反することは、断罪されるべきです。
しかし本件は、そもそも機密に属する情報なのか?というのが問題かと思います。

たとえば、国の開発計画策定業務では、守秘義務は重いです。調査の結果、例えば今後20年の電源・水資源・天然資源開発計画などには守秘義務が課されます。しかし、一般に公にすべき、公開したほうが民間投資家が現れて開発が進み国益にかなうと判断されれば、公開します。開発計画に資金を供与した世界銀行、アジア開発銀行、JICAなどの開発機関は、これら多くの調査案件の最終報告書のPDFファイルをインターネットで公開しています。

国家開発と軍事を同じにして考えるのはおかしいかもしれませんが。尖閣のビデオの公開は、日本人なら誰もが知って国防・領海意識を高める上で必要であり、国益にかなうとみなされるべき情報だったと考えるのが、妥当ではないかと思います。

特に日々、中国をはじめとした領海を侵す外国勢と戦っている海上保安官の方は、上のような売国ともみなされかねない弱腰政府の姿勢に憤懣やるかたない思いを抱いておられたとしてもまったくおかしくありません。映像を流出させた方を応援する声、拍手する声、無罪を願う声は大きいです。

ブログぼやきくっくり様が纏めて下さっている海上保安庁の政策アドバイザー青山繁晴氏の言葉が、事態をクリアに説明しておられました。まとめると以下の通り。

・なぜこれが国民の目に触れてはいけない情報なのか。ネット上の憶測に対応するためにも、政府の責任で、民主主義政府の責任として全面公開すべき。これが次の大きな関門。

・中国船船長を9月8日の未明に逮捕。那覇地検と上級官庁の福岡高検が正式に起訴した。しかし、「日中関係や国民生活に配慮して」釈放してしまった。

・ビデオは、日本の領海を守る海上保安官すべてが見るべき、知っておくべき映像として、編集されたもの。それだけじゃなくて、国民が見なきゃいけない映像だ。

・ビデオ流出は、国家公務員法100条(守秘義務)違反に該当せず、無罪になる可能性がある。 1.一般人が知らない事実、2.秘密として保護するべき、この2つの条件を満たす場合が、守秘義務の対象である。守秘対象について裁判になった際は、守秘の中身を調査し、本当に国のために秘密にする必要があると証明される必要がある。秘密にしている方が国益を損ねると思ったら、無罪になる。

・中国様が怒ってるとなったら、急に「機密」にして国民から隠してしまう、そんなことを平気でやる国が果たして「健全な国家」と言えるのか。

一方、この状況で、首相は「情報管理がずさんだった」とか的を外しまくった国会答弁をしています。公開したほうが良い情報の情報管理責任などどうでも良い。管理責任を押し付けあっている議員は、的外れです。日本人の現政権と中国への不信感は高まる一方かと思います。

流出経路やら犯人捜査に大騒ぎする余力があるのなら、さっさと国防、領海と国境安定に力を注いで欲しいです。

しかしながら、反中国に日本人の世論が突き進むのも、好ましいことではありません。

そもそも中国が盗人猛々しい態度で日本を四六時中挑発してくるから、このようなことになってしまうのですが。

その中国側に、かつてだれも思いつきもしなかった反撃手段を、日本のある層が呈しております。

萌リーベングイヅ。

中国人が日本人を罵る言葉に、「小日本鬼子(シャオリーベンクグイヅ)」があります。これは、イエローモンキーよりもよほどに侮蔑的な言葉です。中国語で「鬼」は、バケモノ、幽霊なの他、嫌なもの、ネガティブな存在全般に用いられます。バケモノ呼ばわりよりはまだサルのほうがマシな気がします。

中国の残留孤児の方などがこの言葉で凄まじく残酷ないじめに遭っていたことが、山崎豊子氏の「大地の子」などで描写されています。

しかし、この蔑称を、日本のオタクたちは、萌キャラ化した。

「中国人を鬼子ちゃんで萌え萌えにする」ことが目標。

ひのもとおにこちゃん。

濡羽色の黒髪に和服、愛嬌のあるツノ。キュートな顔に、手にした般若の面が、ギャップ萌を煽る。
各々の創作性によって色々パターンはあるようですが。いずれも日本人の心に訴え、外国人にはエキゾチックに可愛らしい感を抱かせる、すばらしい作品の数々が、オタクたちの手により生み出されています。

相手の戦意をくじくのに、自分側の蔑称を萌キャラ化する。
ある意味、別ベクトルの自虐といいますか。

そのような反撃方法を、かつて古今の歴史で思いついた者があっただろうか。

ブログ「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む様が、中国語検索サイト百度掲示板における中国側の反応が翻訳してくださっています。


「何かこういうの見てると、こっちの罵倒が通じているのかとても不安になる。小日本とか言っても、あいつら日本は小さいって普通に認めてるしよ…」

「なんかもうどうしようもねぇな。
こういうやり方で来られると返すのが難しい。」

「こっちは罵声を送っていたはずなのに返ってきたのは萌えキャラ……
なんかもう、無力感に苛まされる……」

「こんな手を打ってくるとは。
あの国はまずオタクから何とかした方がいいんじゃないか?」

「やべぇ……日本はやっぱりやべぇ国だよ。
ちょっと負けを認めるべきなのかもしれない。
あ、基本は黒髪ロングでお願いします。」

「正直こういった蔑称をスルーして萌えキャラ化できるってのは強いと思うわ。」

「やつら絶対萌えで世界征服する気だろ。」


…どうやら、攻撃は効いているようです。

すでに、百度Baiuで「日本鬼子」で検索すると、「“日本鬼子”被日本人萌化为可爱形象」「万物皆可萌日本鬼子萌化中」 と出てきます。Youtubeでもこれを紹介した中国語ニュースのビデオがアップされています。

中国の方もノリがいいですなぁ。まあ投稿されている中国ネットユーザー「網民」の方々は日本サブカル文化に興味がある方々ばかりでしょうから、さもありなんという感じではありますが。

確かに、いくら憎しみを込めて罵倒しても、それを「もっと言って!」と喜ばれたり、あまつさえ自文化に取り込まれてしまったりすると、脱力して憎しみも崩れる。もう相手にするのはやめようと思うかもしれない。「柔よく剛を制す」の一形態とでも言うべきでしょうか。

この攻勢が広まれば、ガンジーをも凌ぐ、古今世界史に残る一大偉業になるでしょう。
平成日本人は、恐るべきポテンシャルを秘めたエリート平和民族だと思います。
うまくいかなければただの阿呆扱いですが。
複雑な心境ながら、この動きを応援したいという心情は表明したいと思います。

Wikiのまとめサイトまで作ってくださっています。
見てると、自分も投稿してみたくなってきました。

いずれにしても、尖閣が日本の領有であることは明らかです。戦後の中国の教科書の地図や、19世紀に尖閣で座礁した中国人漁師を救った日本人への中国からの感謝状など、幾多もの歴史史料から証明可能な事実です。

いちいちまともに相手せず、斜め上を行く反応で、相手をおちょくりいなし、「ダメだこいつら」と脱力させる。それは、憎しみに反感を以って直接返すよりよほど、スマートで高次で文化的なやりかたでしょう。

私は中国を敵にすべきなどとは全く思いません。尖閣の件で日本人が中国人への不信感を募らせる現状は、改善されるべきと思います。

統計局の2008年データでは、
輸出: 中国12.9兆円、アメリカ14.2兆円
輸入:14.8兆円、アメリカ8兆円
日本の貿易相手として、中国は輸入第一位、輸出はアメリカに次ぐ第二位です。この先、中国と関係断絶などありえるはずがありません。

世界の工場として電化製品や衣料品が中国で生産され、しかも製品がコモディティ化してしまった。不買運動ももはや現実的ではありません。仕返しに日本製品が中国で売れなくなれば、超巨大マーケットを失って困るのは日本です。

中国とはうまく、見下されることなく、調子に乗られることなく、今後も付き合っていかねばならない。そして、あいつは怒らせたら怖いと、恐れられながら付き合うのが一番です。そのためには、中国が恐れるものを何か我々一人一人が持っている必要があると思います。

その意味で、百度掲示板の反応を見ても、中国人が日本のサブカルとオタク層を、ある意味羨みながら、楽しみながら、ある意味で恐れているのは明らかです。

ここに、政治にはできない草の根日中関係改善外交が展開されているといえます。

となれば政治にも、中国相手に例の外交原理、「あの国は敵にしてはいけないと相手に思わせ、恐れさせる」をやはり貫いてほしいものです。

小日本鬼子萌化は、少なくともこの原理に沿ったムーブメントだと思います。

「萌えは世界を救う…のか?
踊る阿呆に見る阿呆…それで平和ならまぁ、いいかもね」

上掲示板翻訳より。行き着くところは、まあそこでしょう。

日本国民の若者達が、日中関係改善のために、無償で献身的に知恵と職人的技術を振り絞って頑張っておられるのですから。政府もしっかりと真の国益を見据えて行動を起こして欲しいものです。

posted by 入潮 at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

九十九年目の上郡



「大鳥圭介の幼友達だった人の話」吉田實氏より

上郡地元の古老、御年九十三歳の吉田實氏が小学生の頃、大鳥圭介の幼馴染だったという横道勝太郎氏より聞いたという話を、手書きの文章にまとめて下さっていました。
以下が吉田氏によるその文章です。


この人は横道勝太郎さん。圭介は幼名を慶太郎と言ったが、お友達だったと言う。石戸の村の一番上の家、日用品の店をやっていた。慶ちゃんとは同じ年でよく遊びよく「ゴンタ」をした仲。あそび仲間は七、八人で年上も二人居たが慶ちゃんはいつも大将でいわゆる餓鬼大将だった。

話す人、勝太郎老人は店番をしていて、私(筆者=吉田氏)は大正の末に岩木小学校へ入学した。この店へ通学の帰途、日用品、父親が吸う煙草、アゲ、チウワ(ウチワ?)を買った。その都度、店主の老人、すんなりの長身の老人だった。日清日露の戦後に従軍、金鵄勲章をもらったことがこの人の自慢。この岩木谷では金鵄を持っている人は岩木の安則梅太郎さん、黒石の吉田百太郎、同吉田栄治さんと私で四人だけ、その中で私が一番上位の勲章を持っている。田舎の店のこととて客もまばら、老人はよく話を聞かせてくれた。

慶ちゃんは背は私よりちょっと低かったが、肉付が良く、いわゆるずんぐり型で角力(すもう)が強かった。産上のお宮、大避神社では毎年秋に子供角力が行われ、慶ちゃんがいつも勝っていた。ところが十の頃、倉尾の西山さんと角力して負けたことがあった。慶ちゃんは口惜しくてその夜は一睡もしなかったそうであった。その翌年には慶ちゃんが勝ったが…。

遊び仲間五、六人連れては村内でぐいび、びわ、すんめ、夏が来れば岩木川ヘ入ってジャコとり、秋には栗、柿等ようゴンタして廻った。石戸の村内にはこのような成り木は少く、皆坂(かいさか)道の両側に「成り木」が多かったので、人目も少かったから、よくゴンタしたものだ…。勝太郎さんは口に唾きして話を続けてくれた。ある日のこと、皆坂道の傍でゴンタ連れで栗の実を取っている所を村人に見つかって追えられた。この日は四五人だったがみんな逃げたが、慶ちゃんは石につまづいて転び、とうとう捕まってしまった。

慶ちゃんは地に手をついて謝って「もういたづらしませんからお許し下さい」と平謝りにあやまって許してもらったこともあった。その時も滝神社へ詣(まい)って、「神さま、もうしませんからどうぞお許し下さい」と両手を合せていた。

それからお宮の入り口の左の鳥居のいちばん天ぺんの平たな大きな横石の上へ小石をなげ上げて乗せる競争をした。この大石の上へ石を載せると、「よいお嫁さん」がもらえるという言い伝えがあってみんなで競争をした。私は一番背が高かったので二個載せて勝ったことを思い出す。

あれこれするうちに十二才の春が来て、慶ちゃんは閑谷の学校へ入学した。そして今度は素直に一生けん命勉強に励んだ。先生は「有吉譲助」先生。閑谷の学校に二人の優等生が居る。そのひとりが大鳥圭介だといわれるようになった。




神戸又新日報の築川氏の記述に、慶太郎こと圭介の幼少期の詳しい描写があります。それとも矛盾無く照らし合わされます。介護を受けながらも、数々の書画を読み解き、こうして記録を残してくださる吉田氏には、敬服と感謝の他はありません。

中身ですが。圭介少年は「慶ちゃん」と呼ばれていたそうです。ゴンタ具合と、いたずらがバレたときのしおらしさの対比が素敵です。皆坂の滝も、いたずらはもうしません祈願に用いられていましたとは。

そして、ずんぐり体型で相撲に強かったそうです。負けて一晩眠れず、次の年には勝ち返す大変な負けず嫌い。この負けず嫌いが、後年は、負けて平気な顔で笑って帰ってきては兵隊の士気を回復させた。そして心の底では「敗戦は実に実に辛いものだ」と感じていたわけですから、感慨も深いです。


というわけで、また上郡に行ってきました。

毎回行くたびに、心躍る発見があります。ふるさとミニ資料館を設立・運営して居られる小林さん、猪尾塾長、上郡役場の皆様、けいすけじゃアニメ制作スタッフの方々の熱意に、心打たれてきました。

今回の目的は以下の通りでした。

・ふれあい資料館で猪尾塾長の研究成果と講演録を拝見
・西光寺の大鳥圭介書画展訪問
・没後百年記念式典企画拝聴
・上郡町役場けいすけじゃアニメスタッフご訪問

結果につき、また順次触れさせていただきます。
先月ポストできず暹羅紀行も纏めくさしなまま、次々に書くことが積もっていく状態を、何とかします。


posted by 入潮 at 02:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月30日

薄桜鬼と大鳥


久しぶりに検索してみたら、大鳥圭介を含む記事がネット上に溢れかえっていて、何事かと思いました。女性人気の大きいゲームの「薄桜鬼」のアニメに、大鳥が出て来ているようです。嬉しいことです。

TVが家にない野蛮人ゆえアニメは未見なのにあれこれ言うのも気が引けるのですが、大鳥に興味を持ってくださる方が生まれるのは喜ばしいです。

キャラクターとしては「歳三往きてまた」や「北走新選組」などの女性作家・漫画家の描かれた姿に近いようです。その是非は別にして、「燃えよ剣」キャラのように、物語の都合で根拠なしに人物像を貶めたものではないというのは、誠に有り難いことです。福本龍先生や上郡の方々の活躍のおかげで、実在の大鳥圭介を大切にしている人間が世の中にいるという事実も、メディア側のクリエータの方々に認知され始めたのかなと思います。

もちろん、キャラクターと実在の大鳥圭介は別です。
「ちょっ、大鳥って本当にいたのかよ!」と驚かれたお嬢さんのブログなど拝見すると、とても微笑ましく感じます。

一方で、キャラクターとしか捉えられていないと、キャラ評は直感的で率直なだけに、容赦がありません。「何かうざい」とか「影薄いねこの人」などと言われてしまいますと、わかってはいますが、やはりほろりときます。

「薄桜鬼」アニメそのものは、とても出来の良い、ヒット作品として記憶に残るもののように見受けられます。「薄桜鬼」から、大鳥は実際はどんな人だったのだろうかと興味を持ってくださる方もいるようでした。中には「われ徒死せず」や「南柯紀行」を手にとって下さった方もいたようです。これは誠にありがたい限り。存分に生身の大鳥さんの魅力に浸って下さればと思います。

さて、アニメを楽しまれている方に対して、史実云々をのたまうのは、無粋極まりありません。それに、あまりやかましいことを行ってしまって、ファンの方に威圧感を与えてしまって、「大鳥マニアは怖い」という印象を与えるのは、全く好ましいことではありません。

作品のキャラクター像は、良いと思います。脇役として魅力あるキャラに描いて下さっていると思います。
ただ、いくつか感想を拝見してしまうと、アニメの姿と実物は違う、というか、「実物はもっと良いですよ!」と言ってしまいたい気持ちは、やはり沸き立ってしまいます。

しかし、実物そのままを描いてしまうと、大鳥が魅力的過ぎて、主役を食ってしまうことになると思います。自信を持ってそう思います。かわいそうな人を見る目で見られても、それこそ我が意なり。

実物の魅力を知られずにいるのは、やはり勿体無い。
アニメの是非を云々する気も、まして否定する気も、全くありません。ただ、実は実物はもっとこんなに味のある人だったのですよー、と言ってみたいがために、以下、まとめます。

○ 和魂洋才の人

「シェイクハンド」「ハンケチーフ」など、大鳥さんには舶来かぶれのイメージが付き物のようです。一方、実物の大鳥さんは、精神も技術も、とても和を大切にする人です。これは榎本総裁も同じ。

大鳥さんは、一般人に理解のない、不要なカタカナ外来語は用いません。日本人に理解してもらえる翻訳語に、大変苦労した人です。

南柯紀行でも、新人物往来社で同じく収録されている今井信郎の記録と比べると、カタカナ回数の少なさはすぐに感じられるのではないかと思います。武器の名前ですら、「元込銃」「先込銃」です。せいぜい人名と、ブリッキトゥースが1回出てきたぐらいですか。代表的な訳書の「築城典刑」を見ても、他の洋学者のように安易にカタカナを使っていません。「砦柵」「鹿柴」「狼穿」「水柵」「拒馬」「編柴」など、日本人に一目で理解されるよう、涙ぐましいほど訳語の苦労の跡が偲ばれます。これらは定着しなかったですが、「地雷」「覆道」など現代でも用いられる用語も見えます。だからこそ、敵味方の諸藩がこぞって大鳥の訳本をテキストにして戦争したのでしょう。

明治8年7月の工学寮(後工部大学校)の生徒謁見の際は、「いくら西洋の工業を習得しても自分の生まれた日本の事情をよく知らなければ現業はできない、わが国の事を怠らず勉励するように」と述べました。明治17年に特許制度を論じた際は、大鳥さんは「日本が外国に対抗して独自に持つ技術をこそ守る必要がある」と説きました。(万年会「本邦諸芸術の秘伝は容易に他人に洩すべからざる説」)

なお、「美術」もfine arts からの大鳥さんによる訳語です。地球儀用語も大鳥さんが作ったものが多いそうです。一般人にわかりやすい文書を、という適塾の洪庵先生の教えを生涯実践しています。

一方、吉田清成や伊藤博文への書簡など、相手も英語を知っているということを判った前提で、手紙で用いることはあります。カタカナを使うにも、TPOを弁えています。

あれだけ外国人と付き合いながら、大鳥さんは鹿鳴館に出入りした形跡もありません。一方で、クララの家でおかめ踊りを披露してました。それもどうかと思いますが。

様々な国を見て学び、視野を広くした人ほど、安易な舶来礼賛を避けます。真の国際人ほど、自国の良さを見出し、大切にします。

○ 嗜好・服装

嗜好も大鳥さんは和の人です。囲碁、謡曲を嗜み、和歌・漢詩が巧み。古書画を愛し、何百も書画を残しています。酒も、開陽に積んだワインはスルーでも、日光や会津の農家からもらった握り飯やどぶろくについては感動して事細かに日記に記した人です。
洋物でも、一般装飾品には大して関心は示さない。美的感覚も、「武士はいかん、船乗りの筋肉が実用的で最高」と、真面目に論じる人です。一方で実用品、写真機や望遠鏡は欲しがったり自慢したりしてそうですが。

なお、服装は、羅紗の黒又は紺の士官軍服だったと思われます。箱館では緋色の陣羽織を着ていたことが確認されます。(北関東〜会津で陣羽織を着ていたかどうかは不明)。コートやスカーフをひらひらさせながら、あの六方沢餓鬼道行軍や、磐梯山中で泥濘の中強行行軍を突破したと思うと、それはそれで萌えますが。藪の中で半日流離うと、スカーフはいつの間にか消え去ってしまうでしょう。勿体無い。


○ 戦い

以下、多くは大鳥の軍中記録である「南柯紀行」に拠ります。

・ 市川〜宇都宮〜日光

当時の新選組はそんなにネームバリューはなかったようです。大鳥は関東では独立した隊として新選組を記していないので、大鳥とっては独立した隊としての認識ではなかったか、知らなかったのではないかと思います。

まず、宇都宮の前に小山・武井村の三連戦を戦い、大鳥らは快勝。これは装備も兵力も経験も幕軍が優勢だった。一方、宇都宮を秋月・土方ら前軍が攻めた時戦った官軍側は、この三連戦でボロボロになった敗軍。しかも宇都宮は守りにくい城で、藩は一揆で疲弊し切っていた。攻め落としは容易だった。ただ、そもそも大鳥の目的地は日光だったので、前軍が宇都宮を落城させたのに驚いた。そして問題は攻めた後、守る方だった。総督府から薩摩・土佐など歴戦の主力が派遣されてきた。

宇都宮攻防では、朝から夕方まで戦ったのは大鳥で、殿まで率いた。町田老之丞は「只勇気不撓不屈は、大鳥圭介殿一人なり」と語った。なお土方は正午ごろに離脱。官軍薩摩の野津道貫「大鳥は実に戦上手だ。我々は負けても恥でない。なぜならば大鳥の反訳書で錬兵のことを習ったのだから、向こうはお師匠さんだもの」(「西郷隆盛詳伝」)と人に語った。のちにこの野津が、太ももに銃弾二つ穴を穿たれたことを後の日清の際に大鳥に文句を言ったが、大鳥は「気味の良いことよ」と言って笑って返したそうな。(野津元帥の面影)

大鳥の参謀は、土方ではなく、会津の柿沢。「士を愛すること赤子のごとく、死生ともに一なるべきを期する」とまで大鳥は柿沢を信頼した。宇都宮で柿沢は重傷。日光で、幕軍のこれからを思い苦悩の極みにあった時に、死に別れる。

日光は徳川の菩提寺で、いわば幕軍の心のよりどころだった。その日光の僧侶から篭城を拒否され、出て行けと言われる。これは堅牢な日光に篭られると困る土佐の板垣退助の企みもあった。大鳥は悩んだ末、会津の傭兵となり会津へ行く道を選ぶ。日光は今世界遺産で、板垣は日光の恩人と言われているが、これは実際、日光を戦火に晒さない決断をした大鳥の行動があって故のこと。

そして、敵を避けて会津入りするために、大鳥と幕軍は六方沢の険を越える。これが現在、自殺の名所ともなっている絶景の難所。食料もないまま、不安の極みで雨と泥濘の中歩き通し。餓鬼道とまで記された。飢餓と疲弊と極地で、泥の中で谷底で、闇の中絶望の思いで夜を明かす。そして、夜が明け、朝日の中の野州花の美しさに思わず詩を詠む人。さらにこの後、卵二個を兵からもらって、感動する大鳥総督。南柯紀行中、屈指の名文です。

なお、足指を負傷した土方は、直接会津に搬送されていたので、六方沢は経ていない。

・ 日光口、会津

土方が東山温泉で療養している間も、大鳥は、日光口を守り続ける。今市第一次、第二次戦では、土佐の板垣に敗れた。意思決定を、兵糧を提供していた会津にあったからで「後世、みだりに拙策と言うなかれ!」と伝習隊浅田は大鳥を激しく弁護している。その後、藤原の戦いでは300の寡兵で800の佐賀・宇都宮の官軍を撃退。日光口は難攻不落という恐怖を官軍に植え付けて、そこを2ヶ月以上守り抜く。なお、滞陣中、藤原は辺鄙もいいところで、女はおらず食事は粗末で、兵の不満が大きくなだめるのに大鳥は苦労。米味噌もろくに手に入らず、部下の浅田は蛇蛙を食っていたと記していたりする。あまりの待遇の悪さに、凌霜隊の兵から、あいつは敵と通じているのではないかと疑われた総督。苦労は重なる一方。

その後、会津から要請されて、母成峠へ向かう。農兵をかき集め800の兵で2000の官軍を守ることに。しかしその直前、大鳥を通さずに虎の子の伝習隊が勝手に山入村へ派遣されていた。山入村では、仙台・会津・旧幕の三部隊で戦ったが、会津・仙台は伝習隊を見捨ててさっさと退却してしまう。残った伝習隊が殿で包囲されて戦う羽目に。結果、伝習隊から三十九名もの死者を出した(これを星亮一氏は「会津藩三十数名が犠牲になった」と「会津落城」に記していましたが…)。 大鳥を補佐してきた浅田君は肘を打ち抜かれ重傷、右腕たる本多は、山中を流離って深夜にようやく帰陣できた羽目に。部下の無事を見て大鳥は泣く。会津・仙台の兵はもはや頼みにならないと、伝習兵の不信と不満は大爆発。

その、士気は崩壊、弾薬消耗、疲弊極まりない最悪の状況で迎えた、母成峠の戦いだった。
大鳥は、ここが敗れると会津が終わりになってしまうのだと、なんとか兵をなだめた。当時では斬新な縦深防御を編み出して、三線の陣地構築をして、考え抜いて最善を尽くした。それで実戦中、味方の会津藩兵がまたもや撤退してしまい、しかも勝手に陣地に火をつけてしまう。後方が大混乱。敵の大砲大量投入はまた的確で、陣が崩壊してしまった。この砲兵を率いたのは薩摩の大山弥助、大鳥の教え子。伝習隊はまたもや置き去りで、散り散りになりながら離脱。
大鳥はといえば、最後まで陣地で、直接弾丸を雨あられと降り注ぐ中にいる羽目になった。ここで死んでももはや甲斐はないと、会津の北原雅長らと話してようやく命からがら脱出した。
土方はこの戦いで何をしていたのか、実際参戦したのかかすら、記録が見当たらない。

母成峠の敗戦後、北の檜原・磐梯の道なき原野を、時に1日40km以上流離った。川に落ち、足を挫き「苦楚百端至らざるなし」という思いで、敗残兵を纏め上げた。はぐれた伝習隊と檜原で再会できたた。大鳥は兵から死んだと思われて、出会えて夢のようだと、兵と一緒に男泣きに泣いている。その喜びを伝習隊の大川も浅田も記録している。大鳥は兵が死んでも泣きはしないが、兵が生きて帰ってきたらその手をとって号泣する男だ。

その後、土方は配下の兵を大鳥に預けて庄内に援軍を呼びにいった。一方大鳥は、若松城攻防の最中も遊撃として城を援護し戦い続けた。西会津の木曾や小田村、泥浮方面の山中まで出向いて、少ない兵数・武器弾薬に悩まされながら新政府を牽制。古屋作久左衛門・今井信郎の衝鋒隊とも合流。もはや光明の無い泥沼の戦いだった。「万山千峰愁色を帯び、弾薬なく食料なく」の筆は、重厚な森羅の中、悲惨すぎて泣ける。

そして、背後の米沢が変心して官軍に降伏。このままでは退路を絶たれて全滅してしまう。ここに至って大鳥はようやく、犬死にするよりは仙台に行くしかないと、会津を離れる決断した。そして、仙台へ強行軍。ズボンが凍る寒さの中、暗夜険路、山を越え川を渡り、瀕死の思いで福島、仙台へたどり着いた。榎本と再会したときは、もはやボロボロ、ようやく生きた心地だった。

大鳥は、さっさと会津を捨てて兵を仙台に向かわせたのでは、決してない。

南柯紀行のここの記述を読むと幕軍の誰よりも会津を守ろうとしたのは大鳥ではないかと思います。あれだけ会津のコロコロ変わる藩論に泣かされ、我が子のような伝習隊を二度も置き去りにされ逃げられて大打撃を食らわされておきながらにも関わらず、です。
おそらく、参謀の柿沢や日光口で連携した山川大蔵ら、会津藩士との心の交流も大きかったのでしょう。
仙台に入った後も大鳥は会津が気になって、松島の絶景を前に詩も作れずにいました。

その大鳥を裏切り者や臆病者呼ばわりする作家もいますが、その神経は全く理解できません。

なお、土方のほうは、庄内の援軍を諦めて早々に仙台入りしていました。

・ 箱館

榎本海軍に合流して、蝦夷地を目指す。まず鷲ノ木に上陸して、大鳥・土方の二手に分かれて、風雪の中行軍して五稜郭へ向かう。土方の率いた川汲方面は出会い頭の打ち合いがあった程度。大鳥の率いた峠下方面は、膝まで埋まる雪の中の激戦だった。
五稜郭無血開城後、大鳥は五稜郭滞在。一方、松平・土方らが、松前城、江差を攻め落とす。これは敵の松前藩兵は旧装備で、士気も粗末な上、何より味方のほうは海軍の援護有りで、全く難しい戦ではなかった。

一方、榎本海軍希望の星の開陽丸が座礁で、海軍力は著しく低下。徳川による蝦夷地開拓の嘆願も新政府に受け入れらず。榎本軍は賊軍となり討伐対象となった。冬が過ぎて春が来て、箱館側は官軍と絶望的な戦いに突入。2月に宮古湾襲撃、甲鉄艦奪取の計画。この策定に当たっていたのは、フランス士官・下士官と荒井・甲賀。土方は計画では名前は出てこず、参加者の一員だった。「海軍奉行」が反対したとニコールが記録しているが、荒井は計画参画者なので、多分この反対者はそれまで陣地視察に出て1ヶ月以上留守だったのことではないかと。そしてブリュネにとりなされた。

なお大鳥は年明けから宮古湾直前まで、極寒氷雪の中、箱館〜松前の山中と海岸線の踏査をして陣地構築を考えていた。吹雪の中、馬が氷を踏み抜いて動けなくなり、馬を担ぎ、フランス人が凍傷でギブアップする中でも、調査を続けた。どこまでレンジャー魂なのだろう。この間、土方はずっと箱館の街中。

ちなみにこの人の健脚は、開拓使時代の幌内・層雲峡探査や、内務省の信越羽石油探査にまで後々発揮されます。お付きの人はたまったものではない。大鳥さんはインドア以上にすさまじいアウトドア人間です。南極でも愚痴りながら生きていけるでしょうこの人。


4月になって官軍が江刺・松前を落とす。箱館への道筋は、峠道の二股、海岸線の木古内・矢不来の二通り。土方隊は峠の二股、大鳥以下は海岸線を守る。

ここで司馬遼太郎が土方の二股防衛の活躍を華々しく英雄的に描き上げた。大鳥の海岸線は破れ、だらしなく負けた大鳥のせいで土方はやむなく二股を手放した、という書き方をした。これを後の作家がみな追従し、土方を賛美した。

実際は二股は、天嶮で防衛は容易な上、工兵隊の吉沢勇四郎が陣地を固めた。そして大鳥の両腕とも言える歴戦の伝習隊の大川と滝川、衝鋒隊の今井伸郎を、二股に投入した。司馬が描いた土方の活躍は、実は今井が描いた大川の姿だったりする。土方は「士卒の心を得た」と大野右仲は「函館戦記」に述べ、石井勇次郎も土方をほめていて、確かに新選組からは人望があったが、直接土方が前線に出て直接戦っていた記録は見られない。今井は記録で淡々と「土方歳三等を擁護して退却」とだけ記したのみ。大川に至っては名前を挙げただけだった。

大変だったのは、海岸線のほう。制海権を失った箱館。敵は艦砲。大鳥は、四月中旬の木古内第一次戦で、地形を三次元的に把握し、遮蔽を利用した臨機応変なゲリラ戦法と挟撃で、官軍をいったん撃退している。しかし、4月29日の茂辺地・木古内戦で甲鉄・春日艦などから、艦砲射撃が降り注ぎ、阿鼻叫喚の地獄だった。しかも、圧倒的兵力差の陸軍挟撃の三面攻撃を喰らう。大鳥は、降り注ぐ屍山血河の戦陣の只中で、せめて被害を減じるために、自ら馬で足で駆け、刀を振って撤退を指揮した。大鳥は、奮って玉砕しようとする自軍を撤退させ、防御に適した場所に固めさせるために、口を尽くして諸隊長を説諭している。七十名の死傷者を出したが、大鳥が指揮官でなければ、戦死者の数はいったいどうなっていたことか。
大鳥をふがいないと罵る作家やライターもいますが。一度艦砲の雨の中に自分で立ってみると良いと思います。

ちなみに、この艦砲には、大鳥の設計した大砲があったりもする。後年、遊就館に展示されているのを大鳥が見た由。洋学者時代に薩摩の下請け仕事を沢山請けていた。優秀な仕事の結果が、最悪の形で自分に返ってきた。

その後、何とか箱館に兵をまとめる。五月に入って連夜三連戦の夜襲。風雪と泥の中でゲリラ戦だったが、三戦目は榎本も出陣して大規模な戦闘になり、百名の死者を出した。大鳥と伝習隊は皆勤。土方はなぜかこの夜襲連戦に一度も名前は見当たらない。

五月十一日の箱館決戦。大鳥は、夜明け前から箱館の北側の桔梗野―大野―七重浜防衛ラインを走り回る。日が暮れ暗くなるまでひたずら戦場に居た。炎烟天に漲り、山海の色も変わる砲撃戦。隣で大川の馬が撃たれ、隊長も続々死傷する。大鳥も弾丸飛び交う最前線にいて、陣羽織に弾痕が空いた。弾丸が顔を掠めて耳がジーンとしびれた。しかし本人無事。「総督危険です、危険ですから下りなさい」と部下に叱られる。「死生の境」より「『ナーニ、おれに銃丸が命中るものか、銃丸の方が避けて行くぞッ』と大気焔を吐いて、尚も指揮しつつあると、部下の者は我輩の前に立ち塞がつて、銃丸避けになってくれる。それを突きのけて前に踏出すと、また立塞がる」 部下に庇われては、弾雨の前に出ようとする大鳥。部下もたまったものじゃない。

一方、官軍参謀、黒田清隆が、箱館南側の寒川から箱館山を陥落させ、箱館市街へ突入する。大鳥はこの箱館山からの攻撃を予期していて、兵を配備させていた。しかし霧で兵が敵を見逃し、気づいた時には山中に攻め入られていた。(大鳥は「番兵怠慢」と記したが、この「番兵」が新選組だと今井が暴露してた。大鳥は伏せたのに)

この段階になって、ようやく土方が五稜郭から箱館市街へ。その最中に流弾に当たり戦死。夜襲もそうだが、大鳥が自ら夜明け前から走り回っていたのに、土方はそれまで何をしていたのか、よくわからない。

土方はあれだけ評価されている割に、その根拠になる資料が見つからなくて、とても困ります。
「記録が見つからない」とのたまっているのは、もちろん私が知らない、見つけられないのに過ぎないの話でして、ずっと探しています。世には数多の史料があり、崩し字で眠っているものも多いでしょう。私ごときが手にし読み解けるものなど、ほんの一部です。上の疑問について、ご存知の方はどうかご教示下さいますよう、伏してお願いしたいです。また、反証や認識違いについてどうかご指摘下さい。

もしかして土方さんは大鳥さんをあまり敬ってなかったのかと思ってしまうような言動も無きにしも非ずで、辛いところです。

土方ら前軍の宇都宮攻めの際も放火にも、中後軍の大鳥に連絡がなかった。その際の略奪放火は放置されて火消しもされておらず、大鳥さんが自ら鎮火と慰撫に走り回っていた。本宮の土方らは、官軍不在のところを放火しただけとしか記録(復古記)では伺えないが、大鳥側に届いたのは戦勝という報だった(北戦日誌)。なお、大鳥は放火嫌いで、いつも戒めていた。母成峠では新選組の配置が妙だった。母成の後、庄内の援兵不備の際も土方から大鳥へは連絡は無かった。五稜郭攻めの時は約束していた狼煙を土方が上げてくれなくて大鳥さんは心配した。二股からも、海岸との連携のための連絡が土方からなくて榎本さんまで怒らせてしまった。

情報伝達は軍隊のみならず組織行動の基本です。ただ、近代戦初期で情報という言葉も成立してなかった時期ですし、これまで副長として連絡を受けるほうの立場だった土方なら仕方ないのかもしれません。ただ、これだけおろそかにされてしまったら、大鳥としては嫌われてたと思ってしまうところかもしれれない。大鳥を評価しないならそこまでの人だと思いますし、天然で連絡を失念したのだったらそれはそれで問題だし。苦しいところです。私も土方には優秀であってほしいですし、大鳥と土方は仲が良かったとするほうが嬉しいので、何か良い解釈は無いものかと悩んでいます。

前軍隊長の秋月の部下石黒は、土方を「夙に英明あり」にもかかわらず、秋月と争わず秋月をよく立てたため「一個の人傑」と高く評価しています。人間関係においては優秀な人ではあったと思います。だからいっそう、大鳥に対する上の点に首を傾げてしまう。

そして、大鳥のほうは土方を高くも低くも直接は評していません。土方の死に関して晩年「驍将として会津以来我輩と共に幾度か死生の間に出入した彼の土方歳三は遂に戦死を遂げた」(老雄懐旧談)と述べたので、少なくとも戦友としての連帯感はあったと思います。一方、「会津以来」ということは、市川や宇都宮の土方は大鳥の印象に残っていなかったのかという見方もできてしまって、あまりフォローにならない感じです。

○ 降伏まで

5月11日の土方死後も、大鳥は戦い続けた。12日〜15日、篭城戦指揮。古屋が砲撃で重傷、伊庭・春日、服毒死。貝塚道次郎らは自分の仕掛けた地雷で死傷。大鳥はその中で砲撃を指揮し戦った。そして、15日、中島親子が守る千代ヶ岱に突入。翌未明に大鳥は足を負傷した滝川と共に千代ヶ岱の包囲を突破し、中島親子の死に悲憤慷慨しながら、兵を引き剥がす思いで撤退させた。

16日も、榎本総裁には降伏する意思は全く無かった。土方が死んだら戦意喪失で終わり、という書き方をするフィクション多いが、そうではない。
降伏の勧告が官軍からあり、ここでようやく降伏議論となるが、榎本はじめだれも降伏しよう言う者は、幹部にはいなかった。みな「城を枕に討死にするの外はない、幕末の最後を汚す不忠不義の者になどなれぬ」と頑として降伏を拒む姿勢だった。(老雄懐旧談)
大鳥はこの会議の時、昼夜無い連戦で疲弊し、一室の押入れに閉じこもって前後不覚に熟睡していた。そして士官が探しに来て叩き起こされ連れてこられた。仕方なく目を擦りながら会議に出た。そして「士卒を殺すは極めて無意味、薩長ではなく朝廷の大命に従うのだ」と言って議論を降伏論にまとめた。(「ここは一つ降伏と洒落込もう」の言葉は有名だが、後世に作られた逸話ではないかと思う。大鳥や箱館戦参加者の言に、この言葉は見つからない)。 その夜、榎本が切腹しようとして、騒ぎで、大鳥はまた起された。その後、心配になって榎本の部屋を覗いてみると、榎本は高イビキかいてぐっすりと寝ていた。

さて、降伏先の敵将の一人もまた、江川塾時代の大鳥の教え子で「ゴロゴロしていた」という黒田清隆。その黒田が箱館山を落として官軍勝利をもたらした。黒田は、榎本・松平と行っていた降伏談義に大鳥も呼び出した。大鳥は衆の助命を乞う代わりに、首を差し出した。
その流れは、もはや文学的ですらあります。谷崎潤一郎的に。

その後、放り込まれた江戸城の牢獄は、自分が設計して作らせたものだったから、笑うしかない。
何故に、この人の人生は、ここまでオチにまみれているのか。関西人にもほどがある。


大鳥の戊辰戦争のまとめについては、資料引用含めてこちらでも書いてしまってますが。
総括すると、大鳥さんは、最終的に三十余の戦闘を経て、勝率は約5割。十戦程度の土方の少なくとも二倍以上の戦闘数。勝率も土方より高く、規模も大きく、様々な方の筆に出てきています。
土方は、敵が旧装備、地形の有利など、普通に勝てる戦闘で勝っている。大鳥は、普段は部下に任せ、兵少なく、装備の不利、武器なし弾薬なしという、劣勢極まりない困難な状況ほど出てきて、前線から殿まで居座る。そして負けを何とか収拾しては士気を回復させている。実際はそんな役どころです。

なお、安藤太郎が「大鳥さんが配下を派して戦はすと不思議に勝つ、自分が出ると必ず負ける」という証言を残したために、大鳥は戦下手との汚名を受けています。これは大鳥が、普通に有利で勝てる戦は部下に任せ、弾薬無く兵少なく不利極まりなく負けるしか無い困難な戦ほど大鳥が前線に出てくるからです。こ一面的な安藤の言ばかりを引用するのは不当でしょう。

なお、安藤の言が掲載されている「大鳥圭介伝」には、同時に「今日の陸軍の基礎を作って、そして夫れを進歩せしむべくした事に就ては至大の功労のある人」「小男の大鳥は満身是れ膽(きも)との評判」「幕末掉尾の歴史を飾る可き壮挙にして、男の名の世間に嘖々喧傳せられた」「大和魂の誇りとする武士道の好型たるに耻(は)ぢざる一英雄」等など、数々の評価が同時に記載されています。現在作家やライターたちがこれらの言を引用することがほとんどないのは、誠に残念です。

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上では、大鳥を持ち上げる一方、土方に優しくない書き方になってしまい、申し訳ございません。どうしても、フィクションで持ち上げられて過大評価されてしまっている方は、デフォルト値が高すぎなので、下方向の調整になってしまします。
資料から伺える土方氏については「戊辰物語」の紹介大河の感想にも疑問点を書きました。土方が嫌いなのでは決してありません。むしろ等身大の土方は、敵や上からの記述や評価はあまり無いですが、部下からはとても愛されていて魅力的な人だと思います。大鳥はそもそもが「燃えよ剣」などが人格を貶めたために過小評価なので、実物を描こうとすると持ち上げ方向にならざるを得ません。

実物の大鳥にはこんな味があるのです、ということを言いたかっただけでした。アニメに文句を付けようという意図は、全くございません。特に、顔。ええ。あの顔はすばらしい。服装は別として、外見のキャラクターデザインには感謝したい。大鳥さんのお顔は、けいすけじゃが一番ですが。童顔は本人も認めて歌に詠んでいるのは事実です。後年の髭は童顔隠しです。外国人に侮られないように頑張っているのです。

長くなりました。戊辰戦争を一回でまとめようとするのが間違いでした。
私がいくら稚拙な筆を尽くすより、南柯紀行を一度読んでいただくほうがよほど効果的です。一見古文ですが、慣れればとても読みやすいです。また、ブログで南柯紀行を現代語訳してくださっている方もいらっしゃいます。

このブログを見てくださっている方には、なんら新しいことはなく、すみません。一方で長くなり、見てほしいと思う文に限って、結局誰にも読んでもらえずに終わる。それはいつもの仕様です。はい。

posted by 入潮 at 07:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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