2010年12月06日

ラグーザの大鳥圭介像



桜吹雪ならぬ銀杏吹雪で、青空の下上野の公演は黄金色になっていました。
その上野の東京学芸大学美術館で「明治の彫塑 ラグーザと荻原碌山」が開催されていました。

ラグーザは工部美術学校のお雇い教師ですが、この方が大鳥圭介の石膏胸像を製作していました。ずいぶん前にその像の写真だけが辞書に掲載されていて、本物は何処にあるのか、と喚いたことがあったのですが。

12月5日までの、「ラグーザとその弟子たち」展に、展示されていました。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/ragusa/ragusa_ja.htm

普段は多摩美術大学美術館に所蔵されていて、未公開だったものです。今回始めて、公の形で展示されたのかと思います。

写真撮影は禁止だったので、図録より。


orotri-raguza_small.jpg
ラグーザ作大鳥圭介像。

「目、でか」と思いました。
展示ではガラスケースに入っていました。他の彫像はそのままだったのですが。保存状態があまり良くなかったのか結構痛んでいて、これ以上の破損を避けるためという意味合いが大きいのかと思いました。

広くなったおでこと立派な髭のおかげで、一見威厳があるのですが。よく見ると確かにやっぱり童顔だと思いました。

同じく展示されている山尾庸三と比べても、明らかです。山尾さんは肉の薄い苦労人らしい顔つきです。
工部大学校の生みの父にして工部卿山尾庸三は、石膏像のほか、ブロンズ像もありました。

yamao-sekkou_small.jpg yamao-bronze_small.jpg

三次元はやはり、当たり前ですが、立体感があります。写真や肖像の情報量も多いですが。人物の持つ実在感と迫力がよりいっそう伝わってきました。巨額の資金をつぎ込んでも作りたい残したいと思う方の気持ちが、良く分かりました。

上の写真は解像度を小さくしています。図録はこちらの芸大美術館のショップで通販で販売されています。価格は1500円。詳細をご確認される方は、ご購入いただければと思います。

この図録は素晴らしいです。かなりの入念な調査を元に作成された力作です。ラグーザの略歴のほか、工部美術学校彫刻学科の成り立ち、研究方法、授業のカリキュラム、技術指導方法、石膏像とブロンズ像の作成方法まで。工部美術学校や日本の彫刻史に関心ある方にとっては必携と言って良いと思います。

工部美術学校は「百工の補助」即ち、芸術のためというより、産業技術の補佐的な役割を担う、実学の一つとしての位置づけでした。しかし実際は、純粋な芸術家育成のための美術教育が行われました。これは、外交上フランスより文化的に優位に立って極東のイタリア文化伝播を行うために、来日したイタリア人教師たちがそのような教育方針としたと言われています。

図録中の吉田亮氏の「ラグーザと荻原碌山―彫刻における複製の問題を中心に」によると、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、1841年シチリア島パレルモ近郊生まれ、ガリバルディ義勇軍の一員としてイタリア統一戦争に参戦している。その後も国民軍の兵だったが23歳で除隊。その後美術学校で彫刻美術を学んだとの事。元兵士の彫刻家です。明治8年にイタリア政府が日本政府からの要請を受けて絵画と彫刻の教師を派遣することになり、その募集を行った。そこでラグーザが応募して、15人の応募者の中から選出されたとの事。この時34歳。なお、同じく工部美術学校に招聘されたフォンタネージは54歳でした。

上の山尾像のようなブロンズ像は、石膏像を元に鋳造して作成します。展示では、荻原碌山のブロンズ像の「女」をモデルとして、ブロンズ像鋳造方法を詳しく説明していました。そのブロンズ像鋳造は、工部美術学校において日本ではじめてノウハウが伝達されました。「日本の鋳造技術はアダム・イブ時代を去ること遠くない」と最初ラグーザは酷評していたとの事。そして、大熊氏廣がラグーザが自宅に設置した鋳造場で鋳造技術を学んでいます。その後大熊は、その後1881年に留学して鋳造技術を学びなおしています。そして、日本ではじめての大型ブロンズ像として大村益次郎像を作成しました。現在、靖国神社の入り口で鳩と盆踊りのアイドルとなっている、あの平和極まりない像です。

大熊は「人体解剖図筋肉之部」という、骨格図、筋肉の解剖図を描いています。彫刻には解剖学的素養が必須であるということが窺えます。あの人としてありえていいのかと思う大村益次郎像の三次元的な眉毛もまた、解剖学の素養の賜物なのだろうか、という素朴な疑問はさておき。


ラグーザの山尾庸三像を鋳造したのは、同じく工部美術学校生徒の菊池鋳太郎。この方は明治31年10月14日の毎日新聞の記事によると、「白馬会」に大鳥圭介の銅像を出展しているとのこと。図録からは確認されませんが、菊池さんは山尾だけではなく大鳥の像も鋳造した模様です。鋳造された大鳥胸像の銅像。どこにあるのかという疑問が、また増えました。もちろん、上郡町役場に日清時代あたりの大鳥像が全身像にあり、それはそれで素晴らしいのですが。明らかになっていないものがあると思うと、きになります。

さて、クララは日記でラグーザがみちさんの胸像も作ったと書いていました。もしや、名前の確認されない二つある「日本婦人」の像のどれか一つがみちさんだった可能性もあるなと思いました。内ひとつは乳出しで、大鳥さんは多分その像を作るのは許さないようにも思う。もう一つは島田髷で、未婚か花柳界の女性の結い方だから、これも可能性が低い。うーむ。これもまたどこにあるのか。

一つ疑問が解決されると、又一つ謎が生じてくるから、困ったものです。
posted by 入潮 at 01:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月12日

ヤンゴンとネピド


ミャンマーに来ています。ヤンゴンから新首都Nay Phy Daw ネピドに行ってました。

ミャンマーは約7年ぶり。初めて仕事で出張した国で思い入れがあるというのもありますが、とてもいい国です。人は素朴で親切で真面目で信心深い。仏教を軸にローカル社会はゆったり住み良く動いている。マスコミで見るのと全く違う姿に、一度来るとミャンマーにはまってしまう方は多いです。ラオスやミャンマーを気に入ってしまい、採算度外視で仕事をしてしまう方、中には私財を擲っても尽くしてしまう技術者もいます。それぞれラオ吉、ミャン吉(キチ=好き)と呼ばれ、ある意味、経営的には問題です。

ミャンマーは、7年たってもほとんど変わっていない印象です。ラオスは伝統スカートのシンを着る人も減り、タイの不良のような格好の人も増えたりしましたが。ヤンゴンは男女皆ロンジー(巻きスカート)のままで、街中も素朴な風情です。

一方、首都ネピドは、軍事政権が遷都した、外国人は入れない政治的首都です。そういう偏見から、監獄のような場所を想像していました。

これが、あにはからんや。
道路は片側三〜五車線の道路で広々と大陸的な直線仕様。ナイター付きのスタジアムあり、ゴルフコースは4,5箇所もあり、宝石ミュージアムがあり、大きなショッピングモールがあり、高級ホテルが十数も軒を連ね、それらがきらびやかな電飾で覆われている。

あたかも高級リゾート地のようでした。
ヤンゴンの高官や将軍の家でさえ24時間電気は無いというのに、それはどうかと思ってしまうほど、電気もふんだんに使っています。

ヤンゴンからネピドを結ぶ高速道路も建設され、400km程もある距離が、車で4,5時間で到達できます。通常、LDCでこれだけの規模の道路は、援助機関の資金でなければなかなか建設されないのですが。ミャンマーは自国資金で作ってしまった模様です。舗装はアスファルトではなくコンクリート。通常コンクリートのほうが高価ですが。石油は出ず製油所もないので、タールがなくアスファルトは輸入になる。一方、石灰岩はふんだんにあるので、セメントやコンクリートは自国内で製造可能、という理由かと思います。

いずれにせよ、いくら内貨とはいえ、何処にそんなお金があるのかと不思議でした。貧しい人々から搾取して、絢爛な首都を建築した軍事政権、というストーリーを描きたい方は多いかもしれません。自分も国民の負担はどれほどのものかと思いましたが。上で述べたように、民衆の生活は見た感じは相変わらずな感じです。物乞いもいるにはいますが、そんなに増えたという印象ではない。

一方、沿岸部ガス田からの天然ガスの輸出で、かなりの政府収入がある模様です。まだ統計は見ていないのですが、国庫収入は伸びているのでしょう。
モザンビークやアンゴラなどアフリカもそうですが。やはり資源のある国は一度開発が入ると一気にガラリと変わります。中国資本はここも例に漏れず。むしろ日本含む西側が軍事政権を嫌がるアメリカの顔色を伺って投資を遠慮している間に、中国が相当強く入り込んで、綿密に資源確保の網で囲い込んでいる印象です。日本人としては焦りを感じます。

ホテルやリゾート施設は民間投資によるそうです。ミャンマーにもそれだけの資本を担える投資家が増えてきたということでしょう。ヤンゴンの街中にもショッピングセンターやレストラン、スターバックスタイプのコーヒーショップも増えました。車は相変わらず中古車ばかりで、他国のように新車で溢れかえるというほどではないですが。市民の所得は確実に上がっている印象です。外から見ていると軍政で隔絶された国であり、一方で古き良き風情を色濃く残している面もありますが。悠久の国も、確かに周辺国の変化と共にあります。

インターネットは、以前よりは改善されました。なぜかne.jpドメインにアクセスできなかったり、POP3のメールが取れなかったりする。やはり政府の制限はかかっています。co.jpドメインは問題なし。MSNはサイトはOKなのにメールはなぜか駄目だったり。ミャンマーに来る前に、co.jpのフリーメールを取っておけばよかった。以前は11kbpsの電話回線でようやく繋ぎ、テキストメールしか受け取りできなかったりしました。それよりは格段に改善されたとえ言えます。なおも遅いですし、しょっちゅう不通になりますが、ネットカフェか、ホテルにWifiがあれば何とか、という感じです。通じているだけでも素晴らしい。

一方、ミャンマーの電力不足は深刻です。ヤンゴンでも計画停電していて、停電区画がある。そして日常的な停電もしょっちゅう。オフィスでもUPS(無停電電源装置)の音がピーピー鳴り響いています。

電力は、日本が戦後賠償で作ったバルーチャン発電所が、1980年代には国の8割の電力を担っていたということもありました。この発電所のポテンシャルを発見して調査し、ミャンマー政府に開発を進めたのは、政府ではなく、日本の一民間人の技術者、久保田豊氏でした。バルーチャンは川の名前ですが、地名であるロピタの名前でこの発電所を知らない人はいません。

この国の電力開発を担ってきて、今は政府顧問的な立場の爺様は、バルーチャン発電所の計画設計建設を通じて電力事業を学んだと仰っていました。日本人技術者が作ったバルーチャンの設計書や報告書は数十センチの分厚さに及ぶ。それが我々の先生だ、と爺様は仰いました。

我々日本人に対するリップサービスもあると思いますが。発電所そのものだけではなく、日本が作った発電所建設を通じて育った技術者達が、その後の国の開発を担っているという姿は、もう少し知られれば良いなと思います。

この国の方々は、技術に感謝し、それを自分のものとして学び取り込み、次の世代で自分たちで作れるようにする。その姿勢を有しています。技術移転の受け入れ側として理想的といえるでしょう。明治の技術者達の姿を彷彿とさせます。謙虚であり感謝する国ほど、伸びます。その意味で、この国は人のポテンシャルがとても高いです。それが政治的な理由で抑えられていて、それに関与しない中国が跳梁跋扈しているという状況は、やはり残念です。

現在は、中国資本で巨大な水力発電所が何箇所も作られています。最近運転開始したエイワ発電所のおかげで、電力不足も大分軽減されてはいるようです。一方、シュエリという600MW、ちょっとした原子力発電所ぐらいの規模のある大型水力が、中国への輸出のために開発されました。案の定、という感じです。そうした中国資本の水力は、例に漏れず環境影響評価もろくに行われていません。もっと日本には、軍政民主化云々と政治的に無粋なことは言わず、積極的に関わって欲しいと思います。

ミャンマーは、人は真面目だし資源はあるし、日本として開発に関与すれば、リターンも、貨幣換算できない点も、得るところは大変大きいと思います。日本は中国と違い、収奪ではなくミャンマー自体の持続性を考えた開発をしようという姿勢を有しています。少なくともガイドラインではそうなっています。政治的状況が上向いて、日本人もここで仕事しやすくなってくれることを、切に願います。

さて、前回来ていたときは、結婚もできず人生に諦めが付いたら、この国で出家して尼になろうと心に決めていました。今は、それが現実となる可能性が否応が無く増しています。
なので、この国の発展を願いつつ。今のままででいて欲しいという勝手な外国人のノスタルジーも、やはりあったりします。もはや、変わらないことが貴重である世の中です。

posted by 入潮 at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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