2011年05月14日

星亮一「大鳥圭介―幕府歩兵奉行 連戦連敗の勝者」感想


星亮一氏「大鳥圭介」(中公新書) の感想です。

結論:
読まなくて良いと思う。
「南柯紀行」「われ徒死せず」等を読了済の方は、読まないほうが良いと思う。

理由:
・資料の重ね合わせがなく、考察が一面的・浅い
・思い込みによる事実との齟齬、根拠のはっきりしない記述が多い
・時系列がおかしく誤解を招く
・焦点の合わない余計な記述が多い
・人物への敬意と誠意が感じられない

まず、本書で強調されている「連戦連敗」「戦下手」を否定したい。

帯・サブタイトル、前書き:「幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者 」「負けてなお」他、本文中でそこかしこに出てくる。

この二つは、小説などの作品では大鳥を修辞するのに都合がよく、必ずといって良いほど出てくる。新撰組や会津藩を持ち上げる必要のある創作なら仕方が無い。しかし、「大鳥圭介」を題名に挙げた事実を述べる新書で、しかもタイトルでこれを掲げられると、物申さざるを得ない。

大鳥は小山・武井村三連勝、藤原、木古内一次戦、七重浜等の戦闘でで勝利している。重要な戦闘で敗北しているが、複数の不利な条件が組み合わさった結果である。大鳥の判断ミスも中にはあったと見なせるが、敗因をはっきりと大鳥が「戦下手」である為としている評は、信頼できる当事者のものには無い。連戦連敗とタイトルで蔑まれる謂れはない。

なお、著者は大鳥圭介伝の安藤太郎の評を挙げ、文中にも頻出させている。安藤は大鳥と戦場で共に戦ったことは無い。戊辰戦争後戦に、戦について語りたくもない大鳥が、自分は連戦連敗だったと謙遜したことを、安藤が間に受けたものだろうと推測される。

実際、当時の記録には、以下の通りある。
「沈勇にして大度あり、且文武兼備の人なれば当時の豪傑」(もしほ草)
「構成の巧なる事実に感嘆に堪えたり」(中外新聞)
「大鳥の戦略神のごときを褒めぬものはない『大鳥は実に戦上手だ。我々は負けても恥でない』野津七左衛門」(西郷隆盛評伝)
「全戦闘を通じて、官軍の敵の中で一番すぐれた指揮者の一人であり、彼が指揮するところでは、どこでも、その名は大敵とみなされた。彼こそ他の誰よりも官軍の進軍を食い止めた。若松では勇敢な天才であることを示した」(ヤングジャパン)
「大鳥、韜略に通じ、機略群を抜く」(戊辰戦史)
「性正毅豪膽韜略に通じ、善く兵を用い、幕府八萬の旗下中、稀に見る處の人物なり」(会津史)
「作戦の巧妙愈神秘の極なり」「大鳥圭介、部下を指揮して部署堅く、頑強勇邁、列戦奮闘、砲銃弾の運用巧に妙を極め」(慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史)

大鳥の能力の高さについて記した史料は枚挙に暇がない。著者はこれらそれぞれの記述を勘案することなく、安藤太郎一人の言を自分の決めつけの根拠にしている。

P59「大鳥は余計な戦争をして多くの部下を失う結果になった」P71「大鳥の戦略は軽薄のそしりを免れなかった」

こう著者は記述しているが、それらは的外れな誹謗である。大鳥が常に戦を避けようとしていた。敵が攻めてくるから止むを得ず戦ったという事は、南柯紀行を追えば一目瞭然である。壬生を攻めを以て上の指摘を著者は行っているが、壬生攻撃の決定は、江川塾の知己だった壬生藩の大砲奉行友平自身が、官軍の本隊が到着するから壬生を攻めよと勧めてきた事に由来する。大鳥の参謀の柿沢が壬生攻めに反対したのは弾薬不足だからと述べられているが、これは違う。少なくともその根拠の「北戦日誌」にはそうは書かれていない。小山の戦いが終わった後に、著者は弾薬不足を何度も述べているが、弾薬不足が顕著なったのは壬生安塚戦の後、4月24日の宇都宮の防御戦以降だった。
また、脱走の元々の目的は日光に拠って天下の趨勢を見定めることだった。日光で拒絶されたのは、まず日光の食糧不足、それから土佐の工作、板倉侯の弱気など、様々原因がある。(なお、食糧不足は、この直前に会津藩士が駐留して食糧を消費してしまった為) 。日光に向かったことを軽薄と批難するのは筋違いだ。

また、今市戦についても、沼間との確執を上げて大鳥の指揮が悪いと印象付けている。この著者に対する反論は、著者が何度も引用している「北戦日誌」で、浅田が行っている。

「軍費及び糧餉輜重ことごとく会津より送る所にして、又幕人の指揮に耳及びがたき事あり。これ脱籍浪徒の真に歎する所なり。後世、みだりに拙策と云うなかれ」

この言は著者の目には入らなかったのだろうか。

上のような浮薄な言葉で大鳥を定義されるのは、迷惑に感じる。

次に、前書きから「大鳥流処世術」とやらをテーマとしていることに物申したい。

タイトルの「連戦連破の勝者」とは「(戦闘は)連戦連敗だったが(処世術においては人生の)勝者」という主旨なのであろう。

上郡の方からも「イヤミなタイトルですね」と不評だった。

P186「大鳥は使節団に同行を希望し」P188「大鳥は伊藤にぴったり寄り添い」P191「大鳥のしたたかな一面」「大鳥は岩倉使節団にしっかり自分を売り込み」P233「大鳥は伊藤に食い入る。その当たりは大鳥の得意技だった」

などと本文中にも随所に記されている。著者は、大鳥が伊藤の腰巾着のような描写で、大鳥の猟官行動がさもあったかのように作為的に描いている。しかし、これらに根拠は一切無い。少なくとも大鳥が伊藤に地位の周旋を頼んだような記録は、私の知る限りは無い。大鳥を世渡りの名人として、あること無いことを度々作り上げ書いている事には、怒りを覚える。

大鳥は自分から岩倉使節団に売り込みに行ったのではない。ワシントンで使節団から吉田・大鳥一行が電信で呼び出されたのだ。イギリスでは大鳥と宇都宮が一ヵ月半怒涛の工場見学百数十箇所を行っていたが、その内伊藤が18日間同行したことは確かであり、その経緯は「われ徒死せず」でまとめられている。しかし、伊藤にぴったり寄り添ったなど表現される根拠は各資料にも私は見たことがない。

大鳥は、公務以外に工業新報の出版など私的活動に精を出した。風邪を引き陸軍省の公務を休みながら「興国三策」を書き上げた。工部省官僚が内務省の範疇の領分を侵してでも、水利により民力を高めるために「堰堤築法新按」を翻訳し出版した。明治の大鳥の抱え込んでいた仕事量を見ても過労死寸前でもおかしくない。「大鳥は自分で仕事する男にて局長には不向き」と品川弥次郎が伊藤に書簡で記した通り、むしろ愚直に仕事をしている。
職務に精励し、各方面に必要とされた。出世はその結果に過ぎない。

上のような描写は、大鳥に対して失礼極まりないばかりか、的外れな教訓を読者に与えている。

人物に対する失礼さは、ある派閥を全て一括して決め付ける著者の書き方に顕著に現れる。例えば、P ii「幕臣はどれも意気地がなかった」。最後まで官軍に抗おうとした幕臣の隊には、幕府七連隊、草風隊、撤兵隊、彰義隊、衝鋒隊、陸軍隊等がある。恭順者には恭順者なりの覚悟があった。当代の幕臣たちをまとめて「意気地がない」などと罵れる根拠は一体何なのだろうか。

著者は人物に対して誠意を欠いていると感じざるを得ない。早乙女貢のようにあからさまな表記こそは少ないものの、とかく実在人物の功績を軽視しているのが目立つ。批判したいならしっかり根拠を示すべきだが、その根拠が見られなかったり、的外れな決め付けだったりする。

元々、この著者の著作は実在人物に対する礼を逸したものが多かった。過去作に比べれば本書は大分軽減されているとは言えるが、それでもその傾向は頻繁に目に付いた。

一方で、評価できる所もある。
あとがきではP231「大鳥が持つ東洋的な心」と、大鳥の漢文・詩文の素養の高さを挙げた。またP232「大鳥のように兵学を究めた司令官には、十分な兵員と装備の仲で戦わせたかった」「大鳥にはインテリの弱さがなく、決してぶれないことだった」、P188「大鳥は若い頃からなんでも真剣な態度で学び、徹底的に研究した。一回の学者が幕府歩兵奉行に選ばれたのも、他の人には真似のできない追求心の賜物だった」と記した点は、全くの同感だ。

しかしそれらの点も、他の部分のマイナス点が大きく、本書全体としては上のようなネガティブな評価になってしまった。

その他、上理由の根拠になる記述を何点か記してみます。
戊辰部分も、疑わしくソースは?と問いかけたい記述、時系列が変、根拠が無いまたは誤っている、誤解を招く記述などが多いですが。すでに多くの方が指摘されていると思います。
ここでは主に明治政府出仕後の七章・八章より抜き出します。


P182 「岩倉使節団のメンバーはひどいものだった。特に理事官が問題だった…専門知識は皆無だった」

公文書館の大使書類原本大使全書に「理事官」として明記されているのは、陸軍少将山田顕義、侍従長東久世通禧、司法大輔 佐々木高行、戸籍頭 田中光顕、文部大丞 田中不二麿、造船頭 肥田為良の六名。

長州の山田顕義は後、司法大臣、陸軍中将、日大・国学院大の学祖、伯爵。
土佐の田中光顕は後、陸軍少将、警視総監、伯爵。土佐の佐佐木高行は山尾の後を継いで工部卿、侯爵。田中不二麿は尾張出身で、後、司法卿・大臣、伊・仏の全権公使、子爵。肥田為良(浜五郎)は長崎海軍伝習所を出て江川塾の教官だった。後、工部大丞、海軍少将、横須賀造船所長。

錚々たる顔ぶれであろう。この理事官達を「ひどいもの」「問題」「専門知識皆無」と罵ることができる著者は、一体何者なのだろうか。この当たりを見直して同じことが言えるのだろうか。

使節団メンバーの随筆や記録から、随行者の面白おかしい失敗談だけを抜き出してこのように決め付けたのことも推測されるが、著者はこの前で「理事官」を定義している。
失礼ながら、こういうことを安易に決め付ける著者の専門知識こそが皆無ではないかと感じざるを得ない。

P184「吉田清成の『公債発行日記』に…」

吉田の日記名は「七分利付外国公債発行日記」。公債は通常内貨による。今回は外国公債、或いは外債と標記すべき。また、外債発行にも明治3年の九分利付と今回の七分利付があり、区別する必要がある。また、引用するなら、吉田の記録を収録している「明治前期財政経済史集成」をまず当たるべきだろう。

P185 「ニューヨーク・ワシントンでは吉田の交渉も難航した」

吉田一行が米国から英国に向かったのは、欧州に比して米国の利子が高かった為。米国で九分利子で発行しようとしたが、日本本国から許可されなかった。吉田の交渉が難航したからではない。人の能力のせいであると誤解を与えかねない表記は避けるべきだろう。

P181 「今回の仕事は海外市場で外国債券を募り、殖産興業についての財政資金を得ることだった」

明治6年外債発行の主目的は、歳入の1/3に及ぶ士族の秩禄処分。つまり、武士をリストラするための退職金調達のため。余剰金は鉄道鉱山資金にも適用される予定であり、実際は外債調達資金は家禄奉還者に対する産業資金としても交付されたので、殖産興業に関らないないこともないが。殖産興業のみを目的として表記するのは誤り。

P189「大鳥は開拓使の黒田清隆の配慮でアメリカに残って」P190「大鳥の勉強代は開拓使が負担していたのだった。黒田は実に面倒見のよい男だった」

著者が根拠にしているのは、大鳥から開拓使への経費支払い依頼の書簡だが、これ対する開拓使の返答はあっただろうか? 私は見つけていない。確かに滞在費の幾分かは開拓使から支給されたと見られる。しかし、一通の大鳥の依頼書簡のみで、特に米国戻り以降も開拓使から資金が全て拠出されたと断定するべきではない。

明治6年11月、黒田は「速二太平洋ヨリ帰レ」と大鳥に帰国を命令している。(北海道公文書館 米国滞留大鳥圭介帰朝二付電報ノ件)。大鳥は524円の借金をして滞在を延長した。後期は大鳥が自分で借金をして滞在費をまかなっている。この借金は大鳥が後の給料から返済している。開拓使の黒田がパトロンであり続けたかのような描き方は、実に不適当である。

P189「(吉田清成は)人当たりが良くないこともあってか閑職が長く、十分な才能を発揮することなく」

吉田に失礼だ。
吉田は米国特命全権公使として条約改正の土台を作り、農商務省次官、また理財家として力を尽くした。多忙を極める省の次官や外交官の頂点である米国全権公使を「閑職」などと決め付けられるとは驚きだ。著者は一体どれ程に偉大な役職を経られた方なのだろう。

P190「(本多晋証言)僕はなに降参したって殺されやしないと思っていたといわれた。大鳥様は大胆な人だった…」「大鳥のしたたかな一面が出ている証言である」

資料の重ね合わせをせず、一発言のみで人物の性格を決め付ける著者の書き方が顕著にここに現れている。
これが事実と異なることは、様々な根拠から断言できる。大鳥は死を覚悟していた。同じ「大鳥圭介伝」で、死を覚悟した三度のことの第一に、降伏の時を挙げたことが書かれている。「獄に下って以降も確かに極刑を期していた」と大鳥自身の南柯紀行の言葉がある。 降伏時「砲は裂け艦は摧け吾が事終る、幡然衆に代わってこの躬を殺す」他、いくつもの、死を覚悟する漢詩を詠んでいる。 「今よりは 世を捨つる身」と獄中でも身の終焉を和歌でも詠んだ。 「我々を誅戮して自余の脱走人を寛典に処したまえ」と獄吏に告げている。 「死生の境」では大鳥らは赦免の直前まで死罪か釈放か知らされておらず、今日首を取られるか明日斬罪になるか「血も枯れる思い」だったと述べた。
大鳥は本心を隠し、周囲を安心させる為に強がるパフォーマンスがいくつも見られる。負けて笑って帰って来たのも、「敗戦は実に実に辛い」と後年本心を語った。「殺されやしない」は、本多晋に対する強がりだろう。

P193「軍部は完全に薩長で占められており、旧幕臣の出る幕はなかった」

旧幕臣に失礼だ。
この明治八年時点でも、津田真道四等出仕、西周四等出仕、澤太郎左衛門少丞、榎本道章七等出仕、揖斐章歩兵科大佐、小菅智淵兵学寮少教授(中佐相当)、大築 尚志騎兵科大佐、武田成章大佐兼兵学大教授、松本順軍医総監、赤松則良海軍少将、肥田濱五郎主船頭など、軍部に居る旧幕臣は羅列可能。松本や赤松に至っては、省トップクラスの勅任官。これで「完全に薩長」で旧幕は「出る幕はない」という評価を行う著者の判断基準が、私には理解できない。彼らの活躍を蔑ろにしている。

P194 「明治八年十一月三十日、山尾の後任として工学頭に任命された」

大鳥は6月25日にすでに工学権頭兼製作頭に就任していた。

P195「山油は石油、阿膠は接着剤、木醋はタールである」

木醋とタールは違う。乾留して得られる抽出物のうち水蒸気が冷えて水状となった上澄み部分で酢酸を含むものが木酢。それを除いた黒いドロドロした油状の部分が木タールである。木醋編では、酢酸としての木醋の生成・利用方法が述べられている。また、阿膠も、大鳥は大工の使う木材の接着剤として以外にも他に用途を上げている。
全てデジタルライブラリで自宅に居ながらにして参照可能であるのに、著者は、自分が紹介する著作の確認もしていないのだろうか。

P197「石油と鉄鉱石は駄目だったが」

駄目と決め付けられる謂われは無い。
官業の石油開発事業は、明治政府財政の縮減のあおりで中止になったが、八橋油田など当時の油兆地から採掘は続けられ、今も年間86万kL、全体消費量の0.3%と小規模ながら採掘は継続されている。戦後も帝国石油(現INPEXに統合)が長野県中部から新潟県上越まで国内採掘を続け販売していた。
鉄鉱石は、釜石鉱山が古くから官営で操業。コスト高で払い下げ時の処理は大変だったが、1993年まで鉄鉱石産出を続けた。岡山の柵原鉱山も明治15年から採掘開始、八幡製鉄所に原料を供給して日露戦争を支えた。
これで駄目と断定できる根拠は一体何なのだろう。

P204「このときの大鳥の処理の仕方は、いささか問題だった。大鳥はもともと芸術家ではない」

教師フェレッチに生徒が抵抗した問題において。すぐにフェレッチをクビにできなかったことでそう断定するのはいかがなものか。大鳥が芸術家ではなかったから問題対処が遅れたというわけではない。指摘は的外れだろう。あえて言うなら、契約の前に面接を行って人物評価をしっかりと行っていなかったことを指摘すべきだとは思う。履歴書は幾らでも化粧できる。しかし、外国人相手の事前の直接インタビューは経費と時間を要し、可能としても現地領事館などに代行を頼むしかなかっただろう。大鳥の責に帰するのは不適当。また、外国人に対する雇用契約の効力がどれ程強いか。雇用契約の撤回と補償にどれほどの労力と時間を要するか。お雇い外国人との折衝記録を読まずとも、少し考えれば気づくと思う。

P209 「賊軍が学習院長というのも不思議な人選だった」

不思議とする感性が不思議だ。明治初期で既に明治政府の1/3を旧幕臣が占めていた。明治18年にもなって未だに賊に拘りつづける理由は無い。明治も中期に差し掛かって賊、賊と論われる理由は無い。

P212「大鳥は侍従武官の片岡某と口論し、果ては格闘して殴打」

著者が引用している「われ徒死せず」では、「暴露新聞の記事であるが」と但し書きがある。平民新聞の記事はゴシップ記事であり、真偽は疑いの余地がある。

P213「大鳥の清国公使へ抜擢は伊藤が決めた。旧幕臣は派閥とは無関係であり、伊藤からすればそのほうが使いやすかった」

大鳥を清国公使に決めたのは伊藤単独ではない。大鳥に決まったのも旧幕臣だからだったのではない。大鳥に打診したのは伊藤と大隈重信の二人。他にも候補者は何人かあった。榎本が大鳥の意見も伺うべきと大隈に述べ、大鳥は不肖ながら引き受けたいと答えたから、大鳥に決まった。これも「われ徒死せず」に経緯がまとめられている。大鳥が候補者だったのは旧幕臣だったからではない。清国や他アジアについての論考を大鳥が学士会院などで公演していて、当地に理解が深いからだ。

P228「『南柯紀行』は…明治四十四年に中田蕭村が編纂し、宝文館と誠文館から発行されたものである」

南柯紀行は中田蕭村が編纂したものなどではない。
「明治四十四年中田蕭村なるもの大鳥男爵家の承認を得ずして幕末実戦史の名称の下に、南柯紀行と衝鋒隊戦史とを併せ編纂して上梓したることあり、然に該書中文章は中田氏に於て随意に筆を加え、かつ誤謬脱落甚だ多く、しかのみならず、詩歌の如き文字相違のためほとんどその体をなさざるもの数多あり。これおいてか当時大鳥男爵家より出版関係者に対し、その不都合を咎め、談判の結果、漸く初版限り絶版の事にて交渉を終れり」と山崎有信氏が述べている。山崎氏が原本の写しと比較対照すると「訂正にあらずしてほとんど改悪せし箇所枚挙に暇あらず、かくの如きは実に故人に対し敬意を失するものと云うべし、故人の迷惑察するに余りあり」とまで述べている。

著者の承諾を得ず勝手に手を加えまくってタイトルを変えて出版し、あまりの誤謬の多さに大鳥家が絶版の要求をし、伝記を書いた方が「故人の迷惑察するにあまりある」としたような人間を「編纂者」と呼ぶべきではないだろう。

結論:「大鳥の魂を貫くのは、やはり幕府への義であったと思われる」
帯:「最後のサムライ」


大鳥を知る者が一目で変だと思う記述を、帯や結論に持ってこられても困惑するより他はない。
大鳥は、阿波藩→江川塾→幕府→左院→開拓使→工部省・内務省→元老院→外務省と、それぞれに尽くした。何故幕府のみへの義が結論になるのか理解不能。
「最後のサムライ」にしても、映画で有名になったフレーズで、当時の武士なら誰にでも通用するような汎用ラベルを大鳥にも貼って終わらせて、一体大鳥の何を見てきたのか、と思う。


以上、パラパラ捲っただけでもこれだけ出てきました。細部まで一々挙げていると、何日あっても足りません。

「連戦連敗」「戦下手」は、星亮一氏のみが論っていることではなく、過去幾多もの作家によってこの点が描かれてきました。良くも悪くも、大衆的な表記といえるでしょう。これについては、星氏のみを責めるわけにもいきません。

ただ、明治部分の大鳥の記述は薄いと感じざるを得ません。「われ徒死せず」や他者の著作のつまみ食いのような記述だったり、本質的ではない外国人の経歴を延々と述べたり、大鳥の言をそのまま何ページを抜き出してページ数稼ぎをしているようにしか見えない箇所が多いです。「大鳥圭介」と題する著作を出版するなら、少なくとも大鳥についての一次資料を自分の足で当たり、分析や考察を根拠と共に記すべきではないのかと思います。

あとがきでこの本を書くことができたのは「われ徒死せず」に出会ったことであると著者は述べておられます。しかし、上のように「われ徒死せず」をきちんと読みこんでいるとは思えない記述がどうにも多かったです。

戊辰戦争部分も、細かい所では時系列がおかしく、根拠が誤っていたり、誤解を招く表記が多いです。そして的外れな思い込みで人を批判しています。「大鳥圭介」と題するなら、大鳥の行動をメインに描くべきと思いますが、著者が良く知っている藩の内情に詳細に筆を振るって枚数を消費しています。結果、大鳥の行動の部分も浅いように感じられます。

繰り返しになりますが、評価できる点ももちろんあります。
母成峠陥落後の大鳥の会津における苦闘が記されたことや、「ここは降伏としゃれ込もう」の台詞が書かれなかった点は、良かったのではないかと思います。(この逸話は、大鳥はじめ当事者の誰の記録にも出てこない。明治の終わりになって偉人百話などをはじめとした逸話集で出たもので、創作性が高い。)

それに対しても、上の「理由」で挙げた点において、苛立ちと怒りを覚える記述が多く、相対的にマイナス点が大きくなります。大鳥ファンの方にとっては、精神衛生上好ましくないので、手に取らない方が宜しいかと思います。

上の記述では、著者に対して大変な失礼があったかと存じます。
書評においては感情的な表記や贔屓は抑えるべきですが。誤った根拠で故人を貶されると怒る人間がいるということを示すために、今回はあえてこのように記させていただきました。同じ段に落ちてはならないですが、故人への礼が感じられない著者に対する失礼は、止むを得ないと考えます。

その他、自分の無知・解釈間違い・読み違いによる失礼の段がありましたら、ご指摘いただけますと幸甚です。如何様にもお詫び申し上げます。

没後百年で、普通の本屋に流通し、一般人の手に届く形でこのような新書が出版されたことには思うことが多いですが。「大鳥圭介」という名前に興味を抱いてくれる方が増えるということは、素直に喜ばしいことではないかと思います。


posted by 入潮 at 06:20| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
星亮一ですからねぇ。この人、結構批判されてますから。
やれやれです。このお爺さんをここまで掻き立たせてるモノって何なんでしょうか?
理解に苦しむ所です。穏やかな老後を送ればいいのに。
Posted by ハマカーン at 2012年08月01日 17:20
個人のモチベーションは様々であり、誹謗は避けたく思いますが。これ以上、誤った根拠や単なる思い込みで人物の名誉が損なわれることのないよう、切に願うばかりです。
Posted by 入潮 at 2012年08月01日 19:29
 初めての投稿です。
 実は、はたと困ってしまい、ご助力願えないかと……藁にもすがる思いでメールしました。『山と蟻の間』は、以前から参考にさせていただいています。

 小説を書こうと思い、関連で母成峠の戦いを調査しています(現地で十数回、藪漕ぎしました)。
 が……土方歳三が、おかしい。いるのに、いない。母成での役職もはっきりしない。
 主だった陣賞将は、21日の夕方4時ころに最後尾で後退中に、大原で新政府軍の迂回部隊の攻撃を受けて裏磐梯に逃げ込んでます。この中に、土方がでてこないのです。
 ドラマでしたか、22日に出陣する白虎隊を見送って……が可能なのは、21日の夕方4時前に大原を通過し、猪苗代の町を馬で駆け抜けて、守らなければならない十六橋や滝沢峠を通過して、一目散に若松に……それ以外には不可能です。
 母成は激戦でした。伝習第一大隊所属の新撰組6人、たしか新撰組に配属されていた唐津藩士も6人戦死しています。他に二本松藩士8人、猪苗代隊36人。伝習隊は戦死者の数さえわかりません。
 土方が21日夜五つに、湖南の勢至堂峠の会津軍守備隊長に出したという『手紙』もおかしいのです。翌日には、受け取っていたらしいですが、その方が余計に変なのです。
 猪苗代湖の東岸の道は、幕末まで二本松領だったので、道の整備はよくないし、山道の連続でした。湖岸沿いの道ではないので、道を知らない新撰組の隊員が馬でひとっ走りなんでできません。
 西岸を使者が走るなら、十六橋を通るのです。若松城に急使するならわかりますが、そうせずに湖南まで駆け通す……。
 そもそも、どこで手紙を書いたのか。猪苗代城(またはその近辺)なら、高橋城代は帰城していたのですから、城代を無視して命令系統の違う会津軍に救援依頼をするはずがありません。
 大原で敵軍に遭遇して、裏磐梯方面に踏み込んだら、手紙を書いても、今度は送るすべがありません。
 いずれにしろ土方は、子飼いの部下を率いて、母成からまっすぐ米沢か仙台に向かい、袂を分かった斉藤一たちのグループは、若松に向かった……そうとしか思えません。「東武皇帝」輪王寺宮が白石にいるので、仙台に行くことは「正当」は理由になりますから。
 そう考えれば「手紙」が最後のはなむけ≠ニ思えます。どこで書き、どうやって届けたかは、別問題ですが。
 あれやこれや調べますと、流山も変ですね。「良心的な解釈」がたくさんありますが、人間としての筋が、合いません。それ以降、土方は会津で新撰組の指揮はとっていませんし……。

 長々と申し訳ありませんでした。
 星亮一氏にはある方の講演会で顔を合わせ、2、3会話を交わしました。
 私とは「生き方」が違う……ですね。
 
 福島県人として(生まれ、育ちは「官軍」の秋田です)、小説を書く手が進みません。
 私は知り得たことをそのままに、あったことの上に、人とは何か……それを書きたいだけです。
 会ったこともない人間が憎みあい、斬り合い、撃ちあい、殺し合う。なぜ……。父であり子である兵士が、西国から来て屍をさらす。東国の人々が、九州の地に屍をさらす……。なぜ……。

 先日、母成峠の慰霊祭にいってきました。墓前で、子供たちが白虎隊の剣舞をやっていました。涙が止まりませんでした。二本松の少年やら、白虎隊やら……死して藩を、家を、家禄を守る……必死な気持ちはわかる……だけどせめてガキは、戦にだすんじゃねえ! 

 駄文、申し訳ありませんでした。読者がほとんどいない小ですが、また書き始める気持ちが湧いてきました。

 福島県では、戊辰戦争に対して複雑な感情が入り混じっています。取材していて、思わずたじろいでいたようです。

 勇気……ですね。

 ここをお借りして書かせていただき、ありがとうございました。
 
 感謝。

 松渕秀夫(ペンネームは別です)

 
 

 
 


 

 









Posted by 松渕秀夫 at 2012年08月27日 15:46
松渕秀夫 様

せっかくコメントを頂きましたが、新選組については知る事はほとんどありませんので、お役に立てず申し訳ありません。

母成峠敗退後に土方が戸ノ口・十六橋に向かったと島田が記録していましたが、それ以外の母成の土方の動向は存じ上げません。探しても出てこないということは、つまりはそれほど他隊には認知されおらず、役割や責任も重いものではなかったという事ではないかと考えています。母成峠の新選組の配置は「心元なく思い…撒布の法も宜しからず」と大鳥が記しているように、仮に土方が指揮したものであっても、あまり評価できるものではなかったようです。

ご参照されているのは、石井郁家文書の土方書状でしょうか。「いよいよ以御大切と相成候、明朝迄には必猪苗代へ押来り可申候間、猪口兵隊不残御廻し相成候様致度候、さも無御座候はば、明日中に若松迄も押来り可申候間、此段奉申上候、以上 廿一日夜五つ 土方歳三」の内容は、どの敵兵がどれだけ来るから、猪苗代の兵を何処へ送るよう要請しているのかよくわからない、いくら急いでいるにしても不備な手紙という印象でした。手紙の宛先は湖南の内藤氏と御霊柩峠の小原氏ですが。担当箇所に常に隊長が張り付いているわけでもないでしょうし(大鳥も石莚と猪苗代を行ったりきたりしている)、別の場所の二人に送っていることから、単に母成峠から土湯街道を通って拠点の猪苗代亀ケ城に手紙を送ったのかと思いました。余談ながら土方は、宇都宮城攻めの連絡を中後軍にしなかったり、五稜郭攻めの際合図の狼煙をあげなかったり、二股でも連絡を欠いて榎本を怒らせたりと、何かと連絡不備が多いようです。

>せめてガキは、戦にだすんじゃねえ! 

誠に同感です。女子供を戦場に引きずり出して死なせるなど、何よりの恥とすべきことと感じます。それを会津の誇りなどとし、更には観光資源化する感性は、正直、気持ちの良いものではありません。福島県の、現在の戊辰戦争に対する感情は、後年になってメディアと作家により恣意的に作り上げられた要素が大きいのではないかという気がします。

いくつかの国で内戦の痕や復興計画を見ましたが、同じ国の人が殺し合うのは、畢竟、生産量が人口に足らないからと考えます。主義主張は、少ない土地食糧物資の奪い合いを正当化するためのツールでしょう。戊辰戦争は、疫病、不作、通貨混乱、物価上昇が背景にあり、西南戦争も元は失職して食えなくなった武士の不満でした。国豊かで恒産あれば、主義無くとも人は争わずに済む。それを戦後日本が証明したかと思います。

Posted by 入潮 at 2012年08月28日 12:26
お礼の返信が遅れて申仕訳ありませんでした。

メールをワードにコピーしたときに、メールを削除してしまいました。ブログ内を探して返信しようとしましたが、PC初心者のため、どうしてもできませんでした。

昨日、検索していたらここを見つけて、ほっとしました。

丁寧な御教授、ありがとうございました。
己のために、最後まで書ききろうと思います。
感謝。
Posted by 松渕秀夫 at 2012年11月20日 13:59

ご丁寧にありがとうございます。
娯楽メディアが提供してきた像に相反する記述を行なうのは、勇気の要ることと存じます。

力作の完成をお祈りしております。
Posted by 入潮 at 2012年11月21日 00:49
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