2011年09月04日

坪井塾と大鳥圭介


圭介の経歴で焦点が当てられるとしたら、適塾と江川塾が多いですが。坪井塾も濃厚で楽しいです。以下、坪井塾と大鳥圭介について、まとめます。

坪井家の関係者は以下の通り。

・ 坪井 信道(1795-1848)、蘭医坪井家筆頭。長州藩侍医。緒方洪庵の師匠

・ 坪井 信良 (1823-1904)、坪井家養子(信道娘「牧」婿)。越中高岡、代々の婦人科医佐渡家出身、1843年信道に師事、弘化元年(1844)養子に。1847年2〜9月、緒方洪庵に師事。後妻荒井ヨノ(荒井清兵衛娘、天保4〜明治41)

・坪井 信友(1832-1866) 信道実子。虚弱。嘉永五年(1852年)洪庵の適塾に入門、しかし遊蕩の末放逐。長州藩に任官。後に信道を襲名。1866年広島で病没。

・坪井 芳州=坪井為春=大木忠益 (1824-1886)、米沢出身。坪井家養子(信道娘幾(ヒサ)婿嘉永五年結婚)、坪井塾塾頭。薩摩藩斉彬公侍医。信道死亡時、診療は信良と代診が協力して行い、生徒教授は忠益が担った。安政二年頃から坪井家とは疎遠。大鳥圭介の坪井塾時代の師匠。

大鳥圭介が坪井塾(大木塾)にいたのは、安政元年(1854)〜安政四年(1857)頃です。大鳥が坪井塾に至った経緯としては、「名家談叢実歴史談」の圭介述懐が詳しい。

大阪を出発し、村上代三郎、三木芳作と同伴して江戸に来る。が、手便る人もなく世話をしてくれる人もなく一時困難した。一方、坪井信道の実子の信友は、適塾にかつて在籍しており、圭介の知人だった。(信良も短期間適塾にいたが、圭介の側に記録はない) 信友を訪問し、その紹介で大木忠益(坪井芳州)に寄宿することになった。


なお、適塾の洪庵の師匠が坪井信道。洪庵は天保二年、22歳の頃、当時の江戸の蘭学の大家、坪井信道に入門、四年間学んでいる。
信道の養子で後継ぎが信良。実子が信友。信良も信友も、洪庵の適塾でも学んでいる。

信道実子信友は虚弱で、明治になる前に病没している。信道が二人も優秀な養子を取っていることは、信友の心情を思うとやるせないものがある。適塾では「放蕩」だったとのことだが。塾内の悪友に何やらけしかけられたのかと心配になる。

また、もう一人の信道の養子が大木忠益(坪井芳洲=圭介の坪井塾の師)。忠益は適塾にはいなかったが、適塾のことはよく知っていた模様。忠益は薩摩藩侍医の仕事が忙しくて、適塾で鳴らした圭介が入ってきたのは、渡りに船だったのかもしれない。塾頭としての塾生の指導は、圭介に任せていた。

坪井信道は長州藩侍医。忠益が薩摩藩侍医、信良が幕府奥医師、という関係も面白い。

なお、信道は、学問は最初に漢学を、そのあとで蘭学修業を、という方針で。信良も信友も漢学を先に学んでいた。

坪井塾の場所は芝浜松町。当時書生は十人程度。
同期で塾にいたのは、加藤弘之、子安峻、安藤太郎、橋本網三郎など。橋本佐内も安政2年前頃はいたので、坪井塾で佐内と圭介は顔合わせしていたかもしれない。

また、漢学者で昌平黌の教授の中村敬宇が、寄宿はしていなかったが、余暇に度々、蘭学の研究に坪井塾に来ていた。加藤と大鳥と会議仲間だった。中村の蘭学習得は、儒者たち周囲から批判された模様。大鳥は中村より二歳下、加藤より三歳上。

安藤太郎や橋本網三郎はおなじみの通り。加藤弘之も、坪井塾時代塾頭の大鳥に世話になったと述べている。明治12年ごろに共に専攻学社を設立したり、東京学士院で数々の講演を共にしたりと、明治に至っても繋がりがある。

圭介の坪井塾時代の生活については、神戸又新日報の記述が生々しくて良い。
当時坪井塾塾生で、大鳥に世話になったという加藤弘之談。「衣服とても夏冬一枚づつと破れ袴、破れ羽織ぐらいもので、虱は遠慮なく繁殖して衣服の裏の縫い目の辺は虱の卵を以て充たされたり。洗濯するにも着替なき程のあり様、柳行李一個あれども中は殆ど空虚なれば、唯ガタガタするのみ。」
大鳥は塾長だから幅のきくほうで、幾分か手当があった。また能筆で他人の為に原書の謄写を行い、これからの収入があったので生活にはまだ困らなかったほう。
ただ質屋の厄介ぐらいは何とも思わなかったと思われる由。
塾生の布団の取り合いはいつものこと。寒気を防ぐに足る夜具は二三人に二三枚ぐらい。この夜具の中に寄り集まって雑魚寝する。真ん中はいいが端は寒い。夜具の取り合いが始まり果てしない。その中、圭介は黙って狸寝入りする。皆が眠ってしまうと、その時を見計らって一人で夜具を占領する。こういうことが度々あった。

塾の子弟の関係はすこぶる親密、情愛は掬すべきものだった。先生と生徒と一緒に酒を飲んで放歌高吟、芝居や相撲を見に行くことも。職業や婿入りの周旋さえなされた。

圭介は金杉橋のたもとの豚屋「葦づ張」に酒飲みによく出かけた。牛肉屋は当時多かったが豚屋は極めて少なかった。安いので書生に人気だった。ここで十分に飲食して、八時ごろ塾へ帰り、布団をかぶって二、三時間寝た。そのあと起きて勉強するのが、酒を飲んだ時の圭介の習慣だった。

圭介は坪井塾頭のころ、寺島宗則(松木弘安)、川本幸民、八木玄悦らとと交際していた。川本幸民は長州藩松平大膳大夫の家来(信道の妻クメの姉妹ヒデの婿が川本だったりする、つまり川本と信道は義兄弟。また川本自身信道の門下生)。八木 元逸は薩摩で、坪井信良塾の塾生。寺島と坪井塾の関係は不明だが、寺島は川本から蘭学を学んだこと、安政三年頃に蕃書調所教授手伝、また、忠益が薩摩藩侍医だから、いろいろと繋がりは見いだせる。
寺島らが圭介に手伝ってくれと依頼したことから、圭介の薩摩上屋敷への出入りが始まり、圭介が斉彬公に知られることになった。

安政二年十月二日の大地震も、坪井塾のころ。


坪井信良については、信良が実家の兄佐渡三良に宛てた「蘭医坪井信良家兄宛書簡集」の、宮地正人氏による解説が正確で詳細。家系図も素晴らしいです。

安政元年(1854)信良、蕃書調所教授補、外国方翻訳出役。松木弘安ら同僚。
安政二年(1855) 信良、この頃まで塾を運営、橋本佐内も塾生
安政四年(1857)年4月、坪井家の本家は前年八月の水害で床上三尺以上の浸水。坪井芳州は薩摩公斉彬の侍医として薩摩へ。信良夫妻は芝浜松町の芳州留守宅に二カ月ばかり世話になる。
安政五年(1858) 信良、蕃書調所教授補
文久二年(1862)信良、横井小楠のコレラを治した。
文久三年(1863)信良、医学所助教授職。類焼で義母焼け出される。
元治元年(1864)信良、7月禁門の変のあおりで陸軍所に虜囚、11月奥医師・判官に。12月、幕府医師荒井清兵衛の娘と再婚
慶応二年十二月から慶喜の侍医。
慶応四年(1868) 信良、鳥羽伏見戦の際、徳川慶喜に従い開陽丸で東帰。四月慶喜に従い水戸へ。後、静岡藩へ。12月、病院頭並。
明治七年(1864) 東京府病院院長


なお、安政元年頃、塾経営難のため、信良は不良塾生を一斉退塾させ、他国入塾生を断った。医書に関係しないものは一切読ませず、医者になる者以外は原則的に入塾させなかった。

圭介が入門したのは、そのまさに安政元年。医学はさっぱり勉強せず、他国の者である上、テクノロジーや兵書の翻訳ばかりやっていた圭介が、坪井塾で幅を利かせていられたのは不思議だ。

信良は塾経営は忠益に任せていたとの由。「大木塾」と「坪井信良塾」は全く同じ塾を指すのか。もしかしたら塾としては別という可能性も。


信良さんが慶応二年十一月に作った詩に噴き出しました。

身分雖美給金悪 僅是俳人中上場 法眼無銭従者少 禿頭有髷入毛長
非番売薬聊呑酒 折節喰饅漸養腸 三樹祇園全断念 沢庵朝漬日難忘

身分は美しいが給料悪くて、俳人よりちょっとマシな程度。法眼っつっても銭は無くて従者は少ない。はげ頭のはずが、髷が結えるまで毛が長くなっちまった。非番にゃ薬を売っていささか酒を呑んで、饅頭食って腸を満たすだけ。祇園なんざすべて断念。沢庵と浅漬けの日々は忘れ難いのさ。

これが医家の最高峰たる幕府法眼、将軍の侍医の作る詩なのか。

傍ら、駕籠と乗馬とどちらが安上がりなのか悩んでいたり。後妻と義母の関係に板挟みになって苦しんだり。なんとも生活感あふれた人。
なお、後妻よのは荒井清兵衛娘(天保4生)。義母は文久三年に家が類焼して家財道具すべて焼けだ出され、信良の家に厄介になっていた。

この後妻の父の荒井清兵衛は医者だったという。荒井郁之助父の、代官だった清兵衛とは別人?

なお、先妻牧との間の長男の坪井正五郎は人類学者・考古学者。正五郎の妻直は箕作秋坪の長女。

奥医師、法眼と医師として登りつめた信良だが、最も充実していたのは、静岡藩での病院創設事業に奔走していた時期ではなかろうか、と宮内氏が解説で述べておられるのも興味深い。東京府病院も在職時期は短かった模様。

坪井信良と圭介の関係は明治もあったようで、圭介が工部省時代に発刊した工業新報にも信良は寄稿していた。


と、坪井塾も、いろいろ見所があり、ネタが膨らみます。当時の洋学者の典型的な生活模様に溢れていることと思います。
スルーされてしまいがちですが、「けいすけじゃ」ではオリキャラの横田なども絡んで、しっかりと生き生き描かれているのが嬉しいです。


posted by 入潮 at 06:08| Comment(5) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お久しぶりです。
『後妻よのは荒井清兵衛娘』とある件で、家にある荒井さん家の家系図を見ますと。
郁之助さんの祖父清兵衛道貞の娘であり、郁之助さん父清兵衛顕道の妹の『とき(後に「よの」と改名』さんの説明に『奥医師坪井信良に嫁す。理博坪井正五郎の母』とありましたので、その方のことではないかと思います。

本の名前は『土木屋さんの史学散歩』楠善雄著です。

大木塾の圭介も楽しそうですね。
今後も圭介さんの話題を楽しみにしていますv
Posted by しの at 2011年09月17日 22:04
吉川弘文館人物叢書「荒井郁之助」(原田朗著)の巻末の系図にも同じ事が書いてありました。
この系図が何を参考にしているのかは直接には書いてありませんが、参考文献に「荒井氏の歴史」(荒井照治著 新人物往来社刊)という本が載ってました。

お仕事、お疲れ様でございます。
お体にお気を付けください、応援しています。



Posted by Q太郎 at 2011年09月18日 02:25

「荒井清兵衛は荒井郁之助父の、代官だった清兵衛とは別人?」という疑問につきましては、節の介様からTwitter で荒井清兵衛の娘の「與能子」「己巳子」の情報を頂きました。
www015.upp.so-net.ne.jp/reposit-horie/Somei-reien-ika-1.pdf、libir.josai.ac.jp/infolib/user_contents/pdf/JOS-KJ00000589158.pdf
ありがとうございました!

○ しの 様

ご教示ありがとうございます。手元に資料がほとんどない状態なので、助かりました。荒井郁之助の姉妹が坪井信良の妻ということで、間違いないことかと思います。

今は業務過多でネット環境も厳しく、以前の様にはなかなか参りませんが、できる範囲でポストは続けたいと思います


○ Q太郎 様

それをまさに参照したいと思っていたところだったでした。ありがとうございます。

個人的には、佐倉の荒井家との繋がりがあるのか単なる偶然なのかも気になっています。「荒井氏の歴史」は未見だったので、来年帰国したら当たりたいと思います。

お優しいお言葉も、ありがとうございます。体が第一の資本ということで、やって行きたいと思います。
Posted by 入潮 at 2011年09月19日 22:14
>荒井郁之助の姉妹が坪井信良の妻

あ、すいません、じゃあ間違えてました。
郁之助さんの姉妹だったんですね。
郁之助さんの叔母の『とき(よの)』さんだと書き込んでしまってました。
Posted by しの at 2011年09月19日 22:36
すみません。
「荒井郁之助の親戚が坪井信良の妻」の間違いでした。
しのさんのご説明によると荒井郁之助の叔母ですね。
Posted by 入潮 at 2011年09月20日 10:18
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