2011年09月18日

坪井塾と大鳥圭介 その2


大鳥の坪井塾時代に師事した大木忠益=坪井芳州=坪井為春。
坪井信道の第二女婿。薩摩藩奥医師。
この方については、斉藤祥男氏の「蘭医気坪井の系譜と芳治」に詳しいです。

同書から抜き出した年譜は以下の通り。


文政七年 十月十五日、米沢に生まれる。父は米沢郷医大木松翁。

天保十一年 坪井信道の塾に入門。後、塾頭

嘉永元年 坪井信道死去。塾生の教育に当たる。

嘉永五年 芝浜松町に開業。信道の二女 幾と結婚。

安政元年 薩摩藩奥医師に召され、坪井為春と改名。

安政六年 江戸に戻る

万延元年 蕃書調所教授

文久元年 西洋医学所教授

文久二年 二男二郎出生、妻幾と長男が死去

明治元年 鎮城府医学助教、後医学教授

明治二年 大学中博士

明治四年 文部省編集寮助

明治五年 文部省六等出仕

明治十一年 埼玉県立医学校長

明治十二年 埼玉県立病院長を兼ねる

明治十七年 東京大学御用係

明治十七年 三月三十日没


この方の伝記としては、東京医事新報新誌第四百三十三号、四百三十四号「坪井為春先生傳」があります。上書に掲載されています。

医事新報は、「新報」と言いながら蘭三郎氏が大鳥さんの自伝草稿を寄稿していたり、幕末洋学者の系譜に詳しかったり、良い史料が多く含まれています。医学史というのも一つの専門分野です。

その「坪井為春先生傳」が面白く、坪井芳州=大木忠益の基礎資料となるものだと思いますので、書き出してみます。
カタカナ→ひらがな、句読点追加、旧字→常用漢字への変更を、勝手に行っています。

先生初め大木忠益と称す。文政七年甲申十月十五日、出羽米沢某里に生る、家系を詳かにせず。世に米沢藩の郷医たり。父松翁門人某氏を養子となし、大木姓を譲与し、家族を携ふて都下に移り、下総松戸駅に寓し、先生(忠益)を米沢藩侍医堀内忠良に従学せしむ。此年十九。翌年堀内氏を介して先生を長藩侍医坪井信道の門に入る。この年二十。

在塾勉学すること六年、日習堂塾監となり、此年廿十、赤澤寛輔の後を受て塾頭となる。此年廿三。坪井翁病篤し。先生病床に侍して看護し、八月より十一月まで四月間寝食を廃して心を尽し、身を役す。その懇篤周悉なること、人見て感賞せざるものなし。蓋し中情の深切なるに出る所なり。既にし翁の病終に起たず、時に嗣子信友尚少なり。義子信良は家を監して病用に専任し、先生は塾務を担当し、三十余名の生徒を訓導し、両人協力同心し、家名を堕さざらんことを勉めたり。此時先生の名声書生中に高し。諸藩より之を聘せんとする者数家ありたれども、皆辞するに、学ぶ所尚ほ浅きを以てす。然るに同塾に安達楳榮なるものあり。薩の医員。百方先生に誘説し、之を藩侯に薦む。候見て大に嘉賞し、引て白金今里村植物園内に寓せしめ、兵書を翻譯せしむ。是に於て松戸より父母を迎へ侍養す。此年母病て没す。此年廿八。浜松町にト居す。松翁病舊なり。存生中媳(よめ)を一見したしとの懇請に依り、遂に坪井氏の二女を娶る。次て翁没す。此年廿九。

其薩藩に入るや坪井芳洲と改称す。抑も米沢は現時は小藩なれども、従来大藩たりし時の威風旧制の改めざるものありて、凡そ藩人は他籍に入るを許さず、其無禄なるものも此禁を犯ことを得ず。薩州には他国人を領内へ入れざるの厳禁あり。候の先生を寵寓するや之を領地に扈従せしめんとするの意あり。是に於て薩州家より屡照会ありて先生の籍を転せんことを求む。然れども上杉家にては国法犯すべからずとて是を肯せず。啻に両家の吏員商議するのみならず、終に殿中に於て、薩候此事を上杉候に面請するに至りたれども、尚ほ頑然祖先以来の国憲犯すべからずとて結了せず。薩候大に之を憂ふ。

偶々薩候の御用人に山崎某なるものあり。頗る方略あり。又威権あり。大に先生を庇蔭す。一策を案出せり。即ち、姓名を異にせば、両藩において共に制度に礙(さまたげ)なきなりと。依て薩藩にて坪井芳洲と称し、米沢藩にては依然大木忠益と称し、一身にて両名のものとなれり。蓋し芳洲とは其の号を取るにて、坪井と称する所以は次の如し。是より先に信道翁は屡薩州邸に出入し、薩候の信ずる篤きを以て、之を聘すんとの意を内報したることあり。然るに是より数日前に長州藩にて聘せんとするの内約を結びたるを以て此事止みたり。候大に之を憾めり。今や先生既に坪井翁の婿たり。即ち、兵父に代て婿を聘するの意を以て坪井と称するべしとの議に因なり。

此際に方てや先生の名倍高く、都下に震ふ。従学するもの頗る多し。長男俊太郎生る。此年三十二。候の駕に陪し、薩州に在勤す。此年三十四。一年を隔て薩州より帰る、此年三十六。蕃書調所教授手伝に任ず。医学書教授に転ず。
此年三十七。次男次郎生る。此年三十八。俊太郎坪井氏ともに麻疹に罹り没す。次て村井氏を娶る。此年三十九。

明治元年鎮守府医学助教に任ず。二年二等教授に転ず。三男謹三郎生る。三年大学少博士に任じ、正七位に叙す。四年中博士に進み従六位に叙す。五年文部中教授に任じ編輯助に転じ、又文部六等出仕に任ず。既に其の出仕を免じさらに六等出仕に再任す。七年免出仕、位記返上す。奉職七年。旧年埼玉県管内医学教頭聘せらる。県立医学校長兼県立病院長に任ず。奉職八年。十六年文部省御用掛り拝命す。奉職四年。

十九年三月三十日病没す。享年六十三、東京谷中天王寺に葬る、為春院義岳忠益居士と謚す。


大木忠益と坪井芳州の二つの名を持ち、大木塾=坪井塾であるなど、追いかける人間に二倍の記憶量を強いる理由がよくわかりました。

米沢藩は威風ある大藩だったので、その藩士は他の藩に籍を移すことは許されなかった。無禄であってもこれに逆らえなかった。また、薩摩は他国の人間を領内に入れることは厳禁だった。薩摩から上杉家に、忠益を転籍するよう求められたが、受け入れられなかった。

ここで出されたウルトラCが、姓名を変えて、一人があたかも二人いるように見せかければいいじゃないかと。一人は薩摩の坪井芳州。もう一人は米沢の大木忠益。ちょうど大木忠益が坪井信道の娘婿になって名字が変わるのと、芳州は号を取ったことから。

一人で二人存在しているフリ。そんなのありか、と思います。国家としての戸籍というものがなかった頃だからこその話かもしれない。

弘化3年(1847年)に日習堂(坪井信道の塾)の塾頭になるも、この年に信道は病に倒れる。忠益の献身的な全身全霊の看護も及ばず、信道は没する。信道の嫡子信友は虚弱で幼少だった。第一女婿の信良は大阪の適塾にいて不在だった。

信良が戻ってからは、信良が家の中を取り仕切り患者の診療を行った。塾生の指導は忠益担当。そして、名前の広まった忠益が薩摩の奥医師として士官したのが安政元年(1854)。日習堂の後事は坪井信良に託した。そして、芝浜松町に家を構えて蘭学を教えた。同じ年、信道の二女幾妻にしたのは正式には信道死後のことだった。この年から坪井為春として活動する。

ということで、日習堂(坪井信道塾)と大木塾は、繋がりは深いがやはり別ものとみるべきでしょうか。

そして、この年安政元年に大木塾に入塾したのが、大鳥圭介。キミ緒方の塾で鳴らしたんだから、できるでしょ?と言われ、忠益からいきなり塾頭に指名される。薩摩藩奥医師として多忙を極める忠益に変わり、大鳥は塾頭として塾生を指導しつつ、自分も筆耕し翻訳し、兵書研究に没頭する。

「門下生を含めた当時の交友関係について仲田一信博士が纏めたものが、同氏の著書に収録されている。それに加えて今回の遺品整理中に発見した方などの指名を追加させていただく」

として同書に38名の指名が羅列されています。その筆頭に大鳥圭介の名がある。他、伊藤裕亨、中村正直、金子精一、石黒忠悳、子安峻など興味深い名前が。

「大鳥圭介は、芳州坪井為春門下生の中では異色の人・・・芳州門下としては逸材といわれる。なお、詳しくは仲田一信著を参照せられたい」


坪井芳州門下生は皆医者繋がりが多いので、大鳥の進退が異色といえば確かに異色です。

この仲田氏の著作は「埼玉県医学校と日習堂蘭学塾 蘭医坪井信道と坪井為春」のことか。すぐにでも当たりたいが。海とヒマラヤの向こうではどうにもならぬ。

安政五年、芳州は島津斉彬候に従って薩摩に赴き、そのまま斉彬公は薩摩にて没します。この時斉彬候の病床に侍していたのは芳州ひとりだったとの由。この時芳州は斉彬候の死に際して、大変な思いをされたことでしょう。

同じ年、芳州の留守を守っていた大鳥は、師匠の米沢と薩摩のやり取りと似たような形で、尼崎から徳島藩に譲り渡されました。米沢と違って尼崎は「尼崎に過ぎたるもの三つあり、一に馬術、二に沓脱石、三に大鳥」として、あっさり徳島藩候の要請に答えて大鳥を譲渡したのでしたが。

本人の選択によらずに、上の必要と都合に応じて人事が決められていく。優秀な方ほどそうした傾向は強かったのかもしれません。

洋学者に限らずですが、同業者、同じ分野の方々は、親族関係、養子関係を通して先人の功績を受け継ぎ足場を固め、その分野の中で頭角を現していく。そして、新たに台頭した分野であるゆえにいっそう、洋学者同士の結びつきは強い。特に養子縁組は本人にとって大きな展望が開く。その分重圧もある。
一方、大木忠益は坪井家の女婿になる前に、すでに自分の実績で諸藩に力が認められた方でした。

大鳥もまた、そうした氏族・親族の後ろ盾無しに、個人の実力とキャラクターで他者との結びつきを深めながら頭角を現していった。その点でも、異色な存在ではないかと思います。


坪井塾には、当時の洋学者事情が色々と詰め込まれていて、楽しいです。

posted by 入潮 at 05:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
一月ほど前のことなのですが、HPの方をブログにリンクさせていただきました。
これからも頑張ってください。
Posted by Ikuya at 2011年10月11日 13:23
リンクお知らせに付き、ありがとうございました。
Posted by 入潮 at 2011年12月15日 12:46
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