2012年08月04日

大鳥圭介「清国論」

大鳥圭介「清国論」 明治十五年十月

大鳥の清国についての論考は、全権公使になる前から発表されていました。明治十六年「清国五人種」、明治十八年「支那東北諸国沿革考」などです。

これらは、大鳥が元老院、学習院学長など、殖産興業の第一線から離れ、人間離れした兼務も解消され、生活に若干の余裕ができたので、世論の高まりに応じて隣国に関心が向けられたものかと思われました。

一方、この「清国論」は明治十五年十月。書き始めたのはもっと前でしょう。工部省職歴の最中、工部技監兼少書記官兼工部大学校長という、工部省の技術担当トップ、事務担当の幹部、教育機関トップの全てを兼務しているという恐ろしい職務状態の只中です。その頃からすでに清国論考を始めていたのは驚きです。

清国事情など、工部省の職務対象からは全く外れたテーマですが。そこが今後の日本に喫緊に必要とみると、職制外だろうが何だろうが、早速調べて論考を書き、政府に提唱する。その大鳥圭介の在り方が伺えました。

余談ながら、この年の四月に、日本初ダム治水技術書「堰堤築法新按」の翻訳を出版していました。その頃技監になったばかりで工作局長も兼ねており、やはり超多忙だったことに変わりはないはず。さらに治水利水は工部省ではなく内務省の管轄だった。この男の二十四時間の行動時間構成は一体どうなっているのか。

大鳥を、清国公使として、日清戦争開戦の火付け役としての役割ばかりが強調されるのは、的を得ていないことと感じます。大鳥は、清国を「実に天下の盃友」と述べ、一方的敵にすれば「畏るべき一強敵」としています。独善的に友情を述べるのではなく、友になっても敵になっても両方対応できるようにすべし、と述べているのが現実的です。

なお、大鳥は日本における東アジアの理解を深めようと、文化、歴史、地理、商習慣、農業などの多くの分野で紹介し、公演や論述をしていました。上のほか、帰国後から晩年に渡って「日清交際の将来」「支那語学を勧むるの説」「国民の外交」などで、日本人と清国人の関係性を述べています。

大鳥が、李鴻章に誕生日に漢詩を送り「君独り詩あり」と喜ばれた例を見ても、清を文化を共有する日本の同胞であるとみなし、清国の各人物にも、敬意と礼節を持って接していました。その礼として、天津条約の際に李鴻章から大鳥に臥竜梅が送られ、大鳥の国府津の別荘に植えられていました。壮年の頃に書いたこの文書が、国府津の別荘の大鳥の遺品から出てきた。即ち、死の間際まで自宅(大鳥は晩年別荘に住んでいた)の身近に置いていた。その事実を省みても興味深いところです。

本文の中で、大鳥は、政府は欧米ばかり気にしているが、今後注目するべきは、隣国たる清国であると説いています。清国の物産、兵力、持続性、ポテンシャルを高く評価しています。中国の兵制についても筆を奮っているのが、かつての兵家らしいです。まだ旧制で侮られているが、いったん改革が進めば人材も組織も脅威になる。一方、それらを過小評価している政府の現状への懸念を強く訴えています。そして、今後清国を調査し、その為の情報機関の設立を内閣に提案しています。経費は数人の人件費と旅費だけだから、インプットに対して得るものはすこぶる大きいと、費用対効果まで説いているのが大鳥です。

以下、入力条件について。
原本は紐綴じの原稿用紙、ほぼ確実に自筆。小田原文書(別荘遺品)。
末尾に「明治十五年十月」と記入あり。
異なる原稿用紙に別バージョンあり。内容はほぼ同じなので、正・副の写しか清書を行ったものと思われる。
漢字はすべてママだが、入力者による読み間違いの可能性が高いものもあり。
(明らかな誤りはご指摘くださいますと助かります)
入力者によるカタカナ→ひらがな変更、濁点・句読点の追加、旧字→常用漢字への変更あり。

________________


近今我公国の外邦に対する交際に親睦を加へ、蓋平和を表し、相率ひて昔に前進するの気運に當り、我政府の注目請視すべきものは、隣邦清国の形勢なり。
地勢を以て論ずるときは、欧米各州は悠遠数千里の外にあり。清国は僅に一葦水を隔つるのみ。而て、維新は未だ遠方異域なる欧米の政度文物を忖度し、我国体を改良するに、孜々(しし)として近棲同父な清国の政略風俗を考求して、数千年来の情交を終むるに遅々たりし。介時勢の自ら然らしむる所なりと雖、実は遠きに親しみ近きに疎なる理にて、今より之を観れば、秩序を得たるものと謂ふべからず。

之を熟慮するに、本邦今日の交際上に於て、廟堂の深慮遠謀を要し全国の年月精神を注ぐべきものは、清国の盛衰治乱の一点にあるが如し。夫れ清国は坤興の巨封にて地面九十万方里、人口三億万余、租税に億万銀円、陸軍二十四旗兵丁八十万軍艦十隻、百般の物産に富み、都鄙富家商饒多く、一とて我邦の企及所に非ず。故に友として之と交るときは、我通商の利日を遂て増殖、実に天下の盃友なり。又敵としてこれに対するときは、兵馬衆多沃して軽侮すべからず。是畏るべき一強敵なり。

今是国体を審にするに、方ら我脳裏に銘記すべき要訣二点あり。曰く、治世の高方、曰く乱世の兵略是なり。該国全域の地理、近今の歴史、人種、人口、各港の地勢、出入の物貨、内地の風俗、各省の人情、農商の盛衰、工業の進歩、運輸の通塞、海陸両軍編制、外交の規則等、一々之を明にして以て政府の方略人身の向背を伺視し、友となりては治に処し、敵となりて乱に処するの業策を未然に定め、古を省み、今を視、更に将来を察する事、実に国家至上の急務なり。

元来我国人は清国人は立つに亜細亜の当方に生れ同人種なるべしと雖、其性大に同じからず。彼れは鈍、我は鋭、彼は重し、我は軽し。彼は傲慢、我は遜譲、彼は持久耐忍の性を有し、我は怜悧躁急の質を嗇く。

凡百年の事を為すに、我は明敏果断進むに快じ、而て倦む早ふて久に耐へず。因て事始めありて終なき患を免れず。之に及て、彼は遅征因循決行せず、而て一たび決すれば維持不撓の気力あり。因て事を行ふに、時に遅れ機を失ふの聲あり。

蓋し、両国の民風、勇惰軽重各長短あり。之を小にして各人の営生之を大にしては、両政府の経略一として之に由らざるなし。之を既往の事跡上に徴して歴々たり。今、局外より観るときは、誰れか優、未だ俄かに判決を下すべからざるべし。

然れども、後来我国人多くは彼を卑て頑陋と為し、惰弱と為す。是れ大なる誤見なり。安ぞ知らむ、其頑陋惰弱と為すもの、能く漸進し、他日事業晩成の功を挙げ、或は過日に軽佻子の上に超乗せむ事を。

近年、彼国自製の船舶数十隻あり。少年の才俊を撰し、出でて海外に遣わし、或は鑛山を開き、或いは電線を架し、風気徐々に開け、工商日々に進むの勢あり。其鉄道を布りも、亦太遠きに非ざるべし。後今十年の後、国運の進歩、果て如何ぞや。我有志者の目を刮て待つべきものなり。

又目を転じて、今日彼国の兵制を見るに、隊伍の編成古法に拘りて、未だ改正の道に就かず。統制の節制、柔惰にて、厳明の規律あるなし。是れ我国人の彼を蔑視して孱弱与みし易しと為す所為なり。然れども、若し一朝英主名将の出づるありて編制を正し、廊制を明にし、号令を厳にし、訓練を施すときは、強頸勇武となり、鹿を中原に逐ふに當て、勝算未だ必しも我にありと期すべからざるなり。

我兵素より勇敢善戦ふ事疑なしと雖、彼国人多く、財富み、殊に持臺の策に長ず。我が一旦の勝は必ず手に唾して収むべし。而て、□高の雉雄は容易に計るべからず。加之、我兵の多く疎開分散の軽戦に馴れて未だ結束聯合の進退に熟せず、蓋し廣野平原の運動は大に渓間山林の争戦と異なるものあり。是れ余が内外の兵勢を比較するとき毎に不安の憂を抱く所なり。

苟も、軽侮の念を生じ、彼与し易し、我勝利すべし等倨傲自居るは甚危し。夫の畏るべきを畏れ、戒むべきを戒め、之に備え之を待て、以て全局の勝を取るは、所謂彼を知り己をしるの古箴訓にて、兵家の奥義なり。

(欄外に「畢竟、兵数の多寡を以て論するときは、我彼に及ばず。故に我れ機を見て動き普計神算疾風迅雷奇襲…我長を伸し彼長を屈すは上策にて、平日彼の動静虚実を窺ふの須要なる所以なり」 と書かれているが、筆で消されている。→▼)

又近頃清国の外交も亦甚多事なり。西北の彊界(ウイグル?)喀什(カシュガル)葛甫にては、露国と争論再燃の気あり。安南の地方にては佛兵東京を襲ふの事あり。近日日韓の間に交り、忽然不審の挙動を為し、其裏情図るべからず。朝鮮の変大に人心を動かせしと雖、実は枝葉の小乱のみ。唯是之を憂慮する所以のものは、清国の連帯あるに由るのみ。

日清交際の将来とても猶不時の変なき能わず。平日地形の険易を暗知し、日夜民惰の虚実を窺ふ、 須臾も懈るべからず。故に廟堂にても、已然要点に注年あり。前年より清国の事情を捜索さるる事切なりと雖、竊かに思ふに、猶未尽所あるもの甚多きに似たり。

因て今般内閣又は参事院中に一局を置かれ、数名の委員を撰び、能く清国の状態を審にし、以て平時は国益の道を開き、変に應じては臨機の良策あらむ事を希ふのみ。


但し清国の政略内情は北京公使館に、亦た各地領事館の報告に由て報知あるべきものありと雖、彼国の事情は総て機密隠秘を専らとし、厳に其洩泄を警め、又書冊の徴すべきもの甚乏く、殊に各地の方言相通ぜず。故に公使領事等の職掌上にては、嫌疑を憚りて探偵蓋し難き事頗る多し。実に至近なる隣那の内情を悉すは、遠隔なる欧米各国の挙動を推考するよりも艱き事高々なり。

然らば如何して之を行はむか。曰く、其方便なきに非ず。先づ、爰に数名の委員を撰び、其人略漢文に通じ、兼て英佛の字に達するものを取り、一は彼地に泒出し、或は商估と為り、或い旅人に扮して内部に入り、耳聞の所解を細把し、又は各地在等の住外国人に交を結びて伝聞し、又一は彼国近今の書冊を集め、要点を采譯し、更に英佛著述の書籍を翻訳す。

(上2パラ、以下の別バージョンの原稿もあり
「但し清国の政略内情は北京公使館亦各地領事館の報告に由て知るべきもの少しとせず、然れども、彼国の事情は総て機密隠秘を専らにし、厳に洩泄を防ぎて、又書冊の徴すべきもの希にて、殊に各地の方言相通ぜず、故に公使領事等の職掌上にては、嫌疑を憚りて探偵蓋し難き事頗る多し。実に至近なる隣国の内情を悉くす、遠隔なる欧米各国の挙動を推考するよりも艱き事高々なり。
然らば如何して之を行はむか。曰く、其方便なきに非ず。先づ、爰に数名の委員を撰び、其人略漢文に適し、兼て(「英文」二重線で削除)佛の字に達する者を取り、一は彼地に泒出し、或は商估と為り旅人に扮し内部に入り、実情を探りて耳聞の所解悉く記録し、又一は各地在住外国人に交り従ひて習聞し、又一は彼国近今の書冊を集め、要を採択し、更に英佛」まで)

但し清国の書冊は、詩賦文章を先にする風にて、虚妄欺誕信を措き難きもの多し。而て、近頃欧米人の清国の事を記せし著書頗る多し。之を閲するに事実索引證明晰にて、以て信拠すべし。是れ、余が曽て暹羅国にありて国体を探りしとき実験して所知なり。右委員の一局は、最初先づ両三名を撰挙し、事務の順序緩急を議定し、従て時々彼国派遣し、実況に臨まして、且公使領事にも相謀りて、事務を探て務めて見聞を博し、其書冊は類を分て編輯し、以て不時の采、覧に便ならしむ。

但此一局の事務たるや、所費は僅に数名官吏の俸給旅費のみにて、而て国家に鴻益ある事決して尠少ならざるなり。

明治十五年十月

________________

以上。解読に力尽きたので、中身の解説は次の機会に行います。

なお、「▼」の部分は、後で別の原稿にまとめられているのがありました。別途入力します…。注釈を欄外に書こうとして、書ききれずに別途の論考が出来上がっている。この男はもう。

posted by 入潮 at 17:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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